■ 少年探偵レオン

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note 2. 潮風のトンバ [解決編]

 船長は、自分の船室に戻っていた。椅子に腰掛け、片手で机に頬杖をつき、もうひとつの手は、人差し指の爪でしきりに机を叩いていた。その様子は、なにか苛立っているようにも見える。
 扉がノックされる。
「お連れしました」
「ああ。入ってくれ」
 のろのろとそう返事すると、ふたりの船員が入ってきた。ひとりは扉を開け、もうひとりは両腕に誰かを抱えている。その船員が歩くと腕の中の茶色のポニーテールが揺れた。プリシスだ。
 船員は部屋の中央に置かれていたソファまで運ぶと、彼女をそこに寝かせた。クッションは固く、頭と足は無理やり木製の肘掛けの上に載せられた。ソファが小さいせいで、かなり窮屈な恰好になってしまった。
 プリシスは目をうっすらと開けている。意識は奇妙なほど鮮明だった。ただ、身体は鉛のように重く、指一本動かすこともできない。目はひたすら船室の天井を投影しているものの、眼球は動かせない。息苦しくて、胸を必死に上下させてどうにか呼吸しているという状態だった。
「動けないだろ?」
 船長がプリシスの傍らに立った。
「さっきの部屋にあった香は、吸ったものの運動神経を一時的に麻痺させるんだ。なあに、心配することはない。小一時間もすればすぐに動けるようになる」
 プリシスの瞳に力がこもる。睨んでいるつもりだったが、顔をしかめることすらままならないので、その変化はほとんどわからなかった。
「僕だってほんとうは、こんなことしたくないんだよ。でも、君は僕に取り返しのつかない傷をつけてくれた。僕としてもこの報いは受けてもらわないと気がすまない。……因果応報というやつだ」
「……くそっ……たれ」
 口を懸命に動かして、囁くような声がかろうじて洩れた。船長はそれでも毒々しい笑いをやめずに、プリシスの顔に顔を近づける。
「いいね。きかん気の強い子は好きだよ。悪態をついたその口が懇願の形へと変わるとき、言い知れないほどの快感が僕のからだを駆けめぐるんだ」
 指の腹で彼女のふくよかな頬を撫でながら、甘美な声色で語りかける。
「感じるだろ? 僕の指のぬくもりが。そう、あの香は感覚神経まで冒すことはない。五感はちゃんと生きているはずだ。意識だってはっきりしているだろ? 意識を奪うだけならもっと安い香でもすんだのだけどね。わざわざ貴重な香を使って運動神経だけを奪ったのは、君にも感じてほしいからだ。そうでないと、僕も楽しめないからね」
 プリシスの瞳が徐々に潤んでいく。どうすることもできない悔しさが、涙となって溢れてきたのだ。
 船長の手が細い首筋をたどり、いよいよ服にかかった、そのときだった。
「ぼ、ぼっちゃーん!」
 情けない声をあげて、船員のひとりが部屋に駆け込んできた。
「くそっ、これからってときに……邪魔をするな!」
「そ、それが……あの化け猫が」
「なに?」
 船長が怪訝そうに聞き返したとき、重々しい音が響いて、船を揺らした。
 どしん。
「お、おい、なんだこれは!?」
 どしん。どしん。音は船室の真上、甲板のほうから聞こえてくるようだった。あまりのことにきょとんとしたまま天井を見つめていると、そこの板が振動のたびにみしみしと軋んできた。そして。
 どっかぁん!
 天井を突き破って、黒っぽいなにかが板の破片とともに降りたった。四肢をしっかりと踏ん張り、黄金色の眼で船長を睨んでいるそれは、大猫トンバだった。
「な……ちょっ、待……!」
 船長は目の前の大猫に対して、手を前につきだしてそろそろと後ずさりを始める。トンバは威嚇の鳴き声をあげて、容赦なく船長に襲いかかった。てもなく船長は押し倒される。トンバの前脚が仰向けになった船長の肩を押さえつけ、威嚇の仕草に牙を剥いたまま、のそりと大きな顔を近づける。鋭い牙が研ぎたての刃のようにぎらりと光る。
「わかった! 僕が悪かった! 悪かったから、許してくれ!」
 上擦った声で船長がしきりに叫んだ。額は冷や汗でぐっしょり濡れて、目の焦点は統制を失ったようにまるで定まらない。トンバの口が船長の鼻先まで近づく。彼の小さな頭をまるごとガブリとやるには、充分すぎるほど大きな口だった。
「プリシス、無事か!」
 クロードが開け放たれた船室の扉から駆け込んできた。続いてレナ、ボーマン、そしてレオンも。
「トンバ、もういいわ。放してあげて」
 レナが言うと、トンバはまだ不平そうに鼻息を船長に吹きかけたが、やがてのそのそと動いてソファのほうへと歩いていった。あとに残された船長は茫然自失といったふうに、仰向けのまま動こうとしない。腰を抜かしているのかもしれない。
「だいじょうぶか?」
 クロードが呼びかけると、プリシスは口許をかすかに動かして笑った。
「どうってことないさ、こんくらい……」
「さんざん迷惑かけたくせに、よく言うよ」
 憎まれ口を叩くレオンに、プリシスはしかめっ面をしてみせる。身体も少しずつは動くようになってきたようだ。
 ボーマンは船長室の奥の壁に貼り付けてあった銅板を眺めていた。そこには船名と竣成年月日、それに初航海の日付が刻まれていた。
「『黒い鮫ブラックシャーク号』か。獰猛そうな名前のくせに、乗ってるやつはてんでだらしないんだな」
 船長はいまにも泣きだしそうなほど情けない顔をして、床に座りこんでいた。髪は乱れ、服ももみくちゃにされて肩からずり落ちている。
「けど、どうしてこの船だってわかったの?」
 レナが訊ねると、レオンは白衣のポケットから先程の手紙を取りだした。
「この手紙にある『GOLDKRAKEN』は暗号になっているんだ。これを解くカギは、もう一枚の紙にある」
「暗号?」
「そ。ここに書いてある『人生』ってのはアルファベットのこと。文章の最初で示してる通りに、26個のアルファベットを輪っかになるように並べるんだ。これが、暗号を解くための下地になる。
アルファベット  そのあとに続く、進むとか戻るとかいう指示は、GOLDKRAKENの一字一字にそれぞれ対応してるんだ。じゃ、順番にやってみようか。先頭の文字は『G』だね。これに対応する指示が『21歩進み』だ。これの言うとおりに、輪っかをGから出発して時計回りに進める。そうすると、21番目にある文字は『B』だね。おんなじようにして、二番目の文字『O』を『3歩戻り』に従って反時計回りに3つ動かすと『L』。どんどんやっていくよ。『L』は『11歩戻る』だから『A』。『D』は『25歩進む』で『C』。『K』は『立ち止まる』つまりそのまんまだから『K』。『R』は『1歩進む』で『S』。『A』は『19歩戻る』で『H』。『K』は『10歩戻る』から『A』。『E』は『13歩進む』から『R』。最後の『N』は『3歩戻る』で『K』。出てきた文字をつなげて読めば、『BLACKSHARK』。ほら、これが答えだ」
「なるほどなぁ……。これなら、手紙に書くニセの船名を毎回変えても融通がきくってことか。上手くできてるもんだ」
 ボーマンが呆れるやら感心するやら、そう言った。
 その間にプリシスの体調も回復してきて、ゆっくりと起きあがり、ソファに座りなおすこともできるようになっていた。その前にはトンバが従順そうに座って彼女の顔をのぞき込んでいる。
「トンバ、ありがとね。おまえのおかげだよ」
 プリシスが鼻面を撫でてやると、トンバはにゃお、と返事をした。
「さて」
「それじゃ」
「どうしようか」
「こいつは」
 四人が恐い顔をして船長に詰め寄る。船長はすっかり怯えきってしまって、ガタガタと震えながら四人を見上げる。そして、誰かいないかと部屋を見回すが、仲間はひとり残らず逃げ出していた。
「おまえさんの手下なら、俺たちがちょいと脅したら、自分たちから海に飛びこんでいったぜ。まあ、甲板にあった浮きをいくつか投げておいたから、うまくすりゃ、どこかの岸にはたどり着くだろうよ」
「さて……おまえはどうしてほしい? 手下といっしょに海に放りこまれたいか、それとも……」
「ごっ、ごめんなさい! すみません! もう女の子には手を出しません! 商売もやめますから、どうか、許して……」
 船長は地面に手をつき、壊れたからくり人形のように何度も頭を下げて謝る。
「信用できないわね」
「信用できないね」
 レナとレオンが意地悪く言うと、船長は床にうずくまって泣きだしてしまった。
 にゃお。不意にトンバがひとつ鳴いた。なにかを訴えているようだった。
「許してやれ、だってさ」
 プリシスが通訳すると、またトンバはひとつ鳴いた。そうだ、と言わんばかりに。
 四人はしばらく黙って、地面に伏して呻いている船長を眺めた。この構図は、なんだかよってたかって弱いものいじめでもしているような気がして、あまりいい感じはしない。そう思うと不思議なもので、だんだんと船長に憐れみすら感じてきたのだ。
「……まあ、いいか」
「トンバもああ言ってることだしね」
「今回は、許してやる」
 船長は顔をあげて、涙でぐしゃぐしゃになった顔をさらに歪めた。泣こうとしているのか笑おうとしているのか、それも判別がつかない。
「あ……ありがとうございますっ! これからは心を入れ替えて、まっとうな商売に励みます!」
「絶対だぞ」
「もし、また懲りずにこんなことしたら……」
「もうかたっぽのタマも、潰してやるかんね」
 プリシスが言うと、船長は慌てて両手で股間を隠した。

 翌日。ラクール大陸行きの船が出る直前まで、四人はプリシスを待っていた。
「遅っせーな。なにやってんだ、あいつは」
「それが、朝早くから宿を出てったきり、戻ってこないの」
「また、厄介事に巻きこまれてんじゃないだろうね……」
 不安そうに顔を曇らせる四人。そこへ、ようやくプリシスが大通りのほうから駆け込んできた。
「なにしてたんだ?」
 クロードが聞くと、プリシスは息をきらせ、切羽詰まったように言った。
「トンバがいないの!」
「え?」
「お別れを言おうと思ったのに、どこにもいないの。街じゅう捜したんだけど……人に聞いても、誰も見てないって言うし」
 クロードはレナと顔を見合わせた。そして、レナが前に進み出て、プリシスの肩に手を置く。
「トンバはね、旅に出たのよ。知らない港に行って、知らない海を探す旅に」
「どうしてさ。あたしになんも言わないで、どうしていなくなっちゃうんだよ」
「それは、また会えるって信じているからさ」
 クロードが言う。
「きっとまた会えるよ。ここじゃない、どこかの港で。きっとね」
 プリシスは下を向く。落ち込む彼女に、レオンはどうしていいかわからず、もじもじしていたが、ようやく口を開いて言葉を紡ぎだすことができた。
「元気だしなよ。……その、お姉ちゃんらしくないよ。お姉ちゃんがそんなんだと、ボクまで調子おかしくなっちゃうよ」
 言ってから急に恥ずかしくなって、レオンは逃げ込むように桟橋から渡し板を一気に駆けて、船へと乗りこんでいった。プリシスははじめ呆気にとられていたが、すぐにムッとして。
「……ガキにまで心配されちった。プリシス一生の不覚~」
 そうして、レオンを追って船へと走っていった。残されたレナとクロードが互いに肩をすくめて、それから笑った。
 プリシスは甲板に駆け込むと、そこで立ち止まってレオンの姿を捜した。見つけたらふん捕まえて、落ち込んでなんかいないことを主張するつもりだったのだが、見渡す限り、白衣と猫耳の少年はどこにも見あたらなかった。ひとつ息をついて、何気なしにそこから街を振り仰いでみた。小高い丘の草原に、黒と灰色の縞をした大きな猫が寝そべっている。彼女は目をこすって、もう一度よく丘を見た。そこには誰もいなかった。幻影だったのだろうか。
 ううん。そうじゃない。トンバはいつだって、そこにいるんだ。あたしの、こころの中にも。
 潮風がプリシスの髪をなびかせる。視線を街から遠ざけて、遙かに続く青い海に向けた。トンバもこうして、どこか別の海を眺めているに違いない。潮風に、吹かれながら。


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