■ 少年探偵レオン

note 1.出題編 / 解決編note 2.出題編 / 解決編note 3.出題編 / 解決編note 4.出題編 / 解決編
note 5.出題編 / 解決編note 6.出題編 / 解決編note 7.出題編 / 解決編note 8.出題編 / 解決編
note 9.出題編 / 解決編特別篇出題編 / 解決編

note 3. 消えた足跡 [出題編]

 雨上がりのラクールは薄い霧が立ちこめていて、まるで蜃気楼の街のようだった。
 朝の日射しが露を湛えた街路樹をきらきらと輝かせ、石畳に残った水たまりは澄み渡った青空を閉じこめている。湿っぽい空気が頬に触れると、いくらか肌寒く感じられた。春と言っても、高地にあるこの国はそれほど気温は上がらない。
「雨が上がってよかったですね」
 レナが前を歩いていたマードックに言った。
「ははは。まあ、会食は城内のでやるのだから、天気はあまり関係ないけどね」
 レオンの父は寒そうに白衣のポケットに手を突っ込んだまま、言った。
「あら。せっかく王様にお呼ばれしたのだから、天気はいいに越したことはないわよね」
 レナに同調したのは、同じく彼の母親のフロリス。その横でレオンは不平そうに口を尖らせながら歩いていた。
「どうしたの、レオン? 久しぶりに王様に会えるのに、うれしくないの?」
「……なんでこんな朝っぱらに、お城に行かなくちゃいけないんだよ」
 ぶつぶつと、誰に言うでもなく文句をこぼしている。
「だいたい、王様に呼ばれたのはお兄ちゃんたちなんだよ。ボクらまでついていく必要はないじゃないか」
「そう言うなよ。すんごいご馳走がたくさんあるぞ」
 クロードに背中を叩かれると、ますます不機嫌になる。
「……エサでボクを釣ろうとしてるの?」
「いや、なにもそんなつもりじゃ……」
 言い訳するクロードを無視して、レオンは小さな水たまりを飛び越えてさっさと歩いていってしまう。
「すまないね、クロード君。どうにも素直になれない奴で」
 マードックが苦笑まじりに言うと、クロードも笑って返した。
「いいですよ。僕も慣れてますから」
 まだ朝も早いことあって、大通りにもかかわらず人通りはまばらだった。パン屋の横を通りかかると、焼きたてのパンのいい匂いが漂ってきた。店の名前が大きく書かれたひさしから、滴がしたたってレオンの頭の上に落ちた。脳天に突き刺さる冷たさにレオンはびっくりして、それからうるさい蠅でも追い払うように水色の髪についた滴を振り払う。
「慣れてる、か」
 マードックはそんな息子の姿を見ながら、言った。
「そうだな。ある意味、君たちのほうが私たちよりも、あいつに接している時間は長いのかもしれない」
 視線の先で、レオンは猫か兎のような身のこなしでリズミカルに水たまりを避けていく。
「これからいくらでも取り戻せますよ。失った時間は」
 クロードが言うと、マードックはああ、と呟いた。

「そなたらの顔を見るのも久方ぶりだな」
 会食の席で、ラクール王は瞳を細めて言った。
 王室特有の、とでも言うべきだろうか。ひたすら長い卓が部屋の中央にでんと鎮座し、そこにありとあらゆる料理が並べられていた。卓の端の席に王が座り、クロードたちはその近くにそれぞれ着席した。レオンだけはなぜか王と反対側の端をひとりで占めている。
「レオン、もっとこっちに来いよ」
「めんどくさいから、ここでいい」
 これぐらいの距離の移動で何がどうめんどくさいのか疑問だったが、両親も肩をすくめるばかりで何も言わないので、クロードはそれ以上干渉しないことにした。
「このエクスペルに降りかかった大いなる災いも、そなたらの働きによって見事退けることができた。我々ラクールの民は今の平和を歓迎し、喜んで享受している。この席は、平和をもたらしてくれたそなたらへのささやかな感謝の気持ちだ」
「ありがとうございます」
 レナが頭を下げて、恭しく言った。レオンは両手を机の上で重ねて、さらにその上に顎を載せながら、その様子をぼんやりと眺めていた。
 なんでみんな、王様が相手だとそんなにかしこまっちゃうんだろ。レオンは思った。
「それでは、ここに再会を祝して……乾杯」
 王がワインの入ったグラスを掲げ、皆もそれに倣った。レオンの前にもオレンジジュースの入ったグラスがあったが、手はつけなかった。
「他の仲間は達者にしておるか?」
「はい。みんな元気でやってます。ここに来るまでボーマンさんとプリシスと一緒でしたけど、ふたりとも相変わらずでした」
「それはなによりだな。ところで、どうかな、そなたらの旅の話を詳しく聞かせてはくれぬか?」
「ええ。構いませんけど……ちょっと信じられないかもしれませんよ」
 会話が弾み、雰囲気もなごんで食事も進んだ。しかし、レオンだけは机の隅でぽつんと座ったきり、ほとんど口をきかなかった。どうにもこういう場所は居心地が悪い。レナの家であったパーティのときもこんな感じだった。飲んで食べてバカみたいに騒いで、いったいなにが楽しいんだか。
 そんなことを考えながらつまらなそうに傍観していると、クロードがそれに気づき、会話の合間に席を立ってこちらに歩み寄ってきた。
「レオン、これうまいぞ。食べてみなよ」
 そう言って、鶏肉の揚げたものを空いた皿に取り分けて、レオンの前に置いた。レオンが表情ひとつ変えずにクロードの顔を見ていると。
「どうした? トリは嫌いか?」
「……肉はあんまり好きじゃない」
 ぼそりと呟く。
「だったら、これならいいだろ」
 同じ皿に、今度は人参のグラッセとポテトサラダが盛りつけられた。レオンはだんだん苛立ってきた。
「なんだよ。ボクのことなんていいから、あっち行ってなよ」
 鼻を膨らませて言うと、クロードはしばらく黙りこんだが、やがてそれを無視するように隣の席に座って、そこで黙々と料理を食べはじめる。
 ……あてつけか!
 レオンは机を叩いて席を立ち、扉に向かって歩きだした。
「おい、レオン」
 その背中をクロードが呼び止める。さっきとはうって変わって真面目な声だったので、思わず足を止めた。
「『水の嫌いな魚』って話、知ってるか?」
 互いに背中を向けあったまま、クロードが話し始める。
「あるところに、水の嫌いな魚がいました。水が体にちょっと触れただけでも気持ちが悪くて、いつもいやな気分になってしまうのです。そこでその魚は、どうにかして水から逃げようと考えて、思いきって岸から陸に上がってみました。しかし、水の中でしか生きられない魚は、それからすぐに死んでしまったのです」
「……それが、なんだってんだよ」
 レオンが言うと、クロードはフライドポテトをフォークで突き刺しながら。
「今のお前も、その魚と同じだってことさ。『水』を嫌がって、『水』から逃げようとしてる」
 レオンの瞳にじんわりと涙がにじんだ。自分のすべてを見透かされたようで、ひどく悔しかった。
 レオンは突然、火のついたように走り出す。ところが、ちょうどそのとき扉から入ってきた誰かの胸に思いきりぶつかって、尻餅をついた。
「あたっ……いや、その……ごめんなさい」
 あたふたしながら立ち上がるレオンを、そのやけに恰幅のいい人物はじっと見下ろしていたが。
「おや、どこの王子殿かと思えば、レオン博士ではござらぬか」
「え?」
 レオンが顔を上げる。そこに立っていたのは貴族風めいたいでたちをした初老の男。立襟の衣裳に豪奢なマントを羽織り、胸にはいくつもの勲章が誇らしげに輝いている。白髪まじりの黒髪は整髪剤できっちり固められ、そのせいで見た目はずいぶん若く感じられたが、よく見ると目尻や口許には小皺も浮いている。
「しばらく見ないうちに見違えましたな。ついこの間お目にかかったときはまだ可愛らしいお子だと思っておりましたが。いやはや、月日の経つのは早いもので」
「あ、あのう……」
 思い出せないで言い淀んでいると、老紳士は穏やかな口調で。
「このキュールをお忘れですかな? 屋敷に何度も遊びに来てくださったではありませんか」
「……あ……もしかして、キュールのおじさん?」
 レオンの脳裏におぼろげながら、大きな屋敷と熊のような男の優しい笑顔が浮かんできた。なにしろ六年も前の話なのだ。レオンにとっては人生の半分を遡ることになる。そうはっきりと思い出せるはずもない。
「おや。キュール卿ではないか」
 ラクール王が扉の前の老紳士に気づいて声をかけた。
「御機嫌麗しゅう、陛下」
 キュール卿は深々と一礼した。
「御食事のところ、申し訳ございませぬ」
「それは構わぬが……今日はいかなる用か?」
「は……実は、急ぎ陛下にご相談したい儀がございまして。しかし、御食事の邪魔をしてしまうのは本意ではございませぬ。しばしここにて待つことにいたしましょう」
「邪魔だなんて、そんなこと全然ないよ。急ぎの用なんでしょ。王様もすぐに話を聞いてあげようよ」
 レオンがしきりにキュール卿を促す。つまらない会食なんかより、このひとの話を聞くほうがよっぽどいい。
「ふむ……そなたらはいいのか?」
 王が聞くと、クロードたちも頷いた。
「ええ。構いませんよ」
「ならばキュールよ、こちらに来て詳しい話を聞かせてくれ」
「お心遣い感謝いたします、陛下。……それに」
 キュール卿はレオンにも同じように頭を下げる。
「レオン博士」
 レオンは照れくさそうに笑いかえした。もうひとつ思い出したことがあった。自分はこのおじさんが大好きだったんだっけ。

「今朝、屋敷の玄関にこのようなものが落ちていまして」
 キュール卿は一枚の紙切れを卓に置いて王に差し出した。レオンも興味津々、横からのぞき込む。
 そこには殴り書きで、

   今夜、「虹の瞳」を頂きに参る。

 とだけあった。
「虹の瞳?」
 レオンが訊ねた。
「我が一族に伝わる獅子像の片目に埋め込まれている宝玉のことです。元々はそれほど価値のあるものではないと思って倉庫の奥に仕舞ってあったのですが、先日ふとしたことで鑑定士に鑑定を依頼したところ、二千万フォルは下らないと」
「二千万の宝石」
 クロードが感心して言った。
「それぐらいの価値なら、狙われても不思議じゃないですね」
「でも、これって、ただのイタズラか何かなんじゃないですか?」
 と、レナ。
「だって、文も簡単すぎるし、名前も書いてないし。それにわざわざ予告してくるなんて、捕まえてくださいって言ってるようなものじゃない」
「普通ならば、私もそう思って相手にもしなかったでしょう。ところが……実は最近、屋敷内にて頻繁に物がなくなるということがありましてな。戸締まりには用心しておるつもりなのですが、なにぶん広い屋敷ですので、すべてを把握することは難しく、こちらも手をこまねいていたところだったのです」
「そこに飛びこんできたのが、この予告状か。そりゃ、信じないわけにはいかないよな」
「ええ。そこでこの度、王に兵士をいくらかお借りできないかと思って参上した次第であります。屋敷の者だけでは見張りにも限度があります。その上、二人いた小間使いはこの頃の紛失事件を気味悪がって、相次いで辞めてしまったのです。数人で構いませぬ。どうか我が屋敷へ派遣を許可していただけないでしょうか」
 王は腕を組んでしばらく考えていたが。
「ふむ……深刻な事態のようだな。旧知の間柄であるそなたのことでもあるし、協力してやりたいのは山々だが……あいにく今は、実地訓練のために兵士はあらかた前線基地のほうに出払っているのだよ。ここに残っているのは儂の側近と、城の警護に必要なだけの兵士だけだ」
「では……」
「うむ。残念だが……」
「だったらさ」
 と、いきなりレオンが口を挟んだ。
「ボクたちが行って、その泥棒を捕まえてあげるよ」
「レオン?」
 クロードが怪訝な顔をした。マードックたちは静観している。
「いいだろ? おじさん困ってるんだから、助けてあげようよ」
「しかしレオン博士。事はいささか剣呑ですぞ。もし御身に何かあったりしたら……」
「大丈夫だって。ボクは殺人未遂や誘拐事件も解決したことあるんだから。今度だってばっちり解決してみせるよ」
「殺人未遂……」
 レナがなんとも言えない表情をして呟いた。
「確かに、そなたらの強さは周知の通りだからな。そこらの兵士よりは適任かもしれん。……だが、本当にいいのか?」
 王がふたりに聞くと、クロードはすぐに頷いた。
「ええ。僕らでよければ協力します。レナもいいだろ?」
「うん」
「痛み入ります」
 キュール卿はその場でこうべを垂れた。
「じゃあ、さっそく見張る場所を決めよう」
 レオンにしてみれば、見張りを買って出たのは単に屋敷に遊びに行くための口実に過ぎなかったのである。だから。
「ボクは屋敷の中を見張るから、外の見張りはお兄ちゃんたちに任せたよ」
「なんだよ、それ……」
 あからさまだった。
「あいや。お待ちを」
 ところが、それに難色を示したのはキュール卿。
「実はこの件は、私のせがれや屋敷の者には知らせていないのです。話しても無用な心配をかけさせるだけだと思い、あえて黙っておくことにしたのです。なので、屋敷内での見張りはご遠慮願いたいと」
「でも、外だけじゃぜったい不用心だよ。屋敷の中がどうなってるかも見たいしさ」
「見張りじゃなくて、お客として屋敷に入りこむのはどうです?」
 クロードの提案にもキュール卿は難しい顔をした。
「それでは入ることはできても見張りはできなくなります。見知らぬ客が屋敷をうろついてたら、息子たちも怪しむでしょう」
「だったら、いーい方法がありますよ」
 だしぬけにレナが言い放った。含み笑いを浮かべるその顔がやや赤みを帯びているのは、さっきまで飲んでいたワインの酔いが回ってきているせいらしい。まっすぐこちらに向けられた笑顔に、レオンはなぜか悪寒を覚えた。

 キュール卿の屋敷は、賑やかな界隈から外れた郊外にあった。周囲には閑静な住宅街が広がっており、この屋敷だけが突出して大きな建物だった。白塗りの壁に瀟洒な木枠の格子窓を取りつけた豪邸は、道を挟んで向かい側に並ぶ家々とは比べようもないほど垢抜けしていた。敷地をクロードの背丈より頭ひとつぶんほど高い外壁でぐるりと囲み、屋敷の南側、つまり正面に頑丈そうな鉄柵の門が取りつけられている。
「はあ……立派なお屋敷ですね」
 門の前で、レナが額に手をあてて屋敷を見渡しながら言った。
「これも我が一族の遺産で、三百年前に造られたという話です。もっとも何度か改築はしておりますが」
 と、キュール卿。
「じゃあ、ぼちぼち始めましょうか。……レオン、準備は…………ッ!」
 クロードが彼のほうを振り向いて、同時に吹きだしてしまう。顔を真っ赤にしながら睨み返すレオン。その姿は……。
 メイドだった。
 これ見よがしにフリルのついたエプロンドレスに身を包んだ少年に、クロードは背を向けて肩を震わせている。どうやら笑いをこらえているらしい。
「ほら、もうそんな顔しないで。とっても可愛いわよ」
 レナはまんざらでもなさそうだったが、当人は口をへの字にして下を向いている。ほとんど涙目だった。
「小間使いに変装すれば屋敷の中だって自由に動けるでしょ。しっかりやるのよ」
 こんなことなら、屋敷の中の見張りをやりたいなんて言いだすんじゃなかった。レオンは心の底から後悔していた。
「それでは、私たちは先に入っております。外の見張りはよろしく頼みましたぞ」
「ええ。任せてください」
「ほら。お兄ちゃんもとっとと持ち場につきなって!」
 壁際で腹を抱えてうずくまっていたクロードの尻を思いきり蹴飛ばしてから、レオンは大股で屋敷の門を潜っていく。ヤケクソ気味に歩いていたら、途中で裾を踏んづけて転んでしまった。

 玄関の扉を開けると、裏側に取りつけられていたベルがちりんちりんと鳴った。程なくして奥の階段から茶色の髪をした男が降りてきた。
「父上。今日は早いお帰りですね」
「クライスか」
 男はキュール卿の横でうつむいている猫耳にエプロンドレスの少女(少なくとも向こうにはそう見えた)を見つけると、首を捻った。
「あれ、その子は?」
「ああ。見習いの小間使いでな。研修のため今日だけうちに置くことになった」
 男にそう説明してから、今度はレオンに男を紹介した。
「私の息子のクライスだ」
「……どうも」
 レオンはわずかに頭を下げて、小声で挨拶した。
「ははは。まだ緊張してるのかな。短い間だけどよろしく」
 そう言うキュール卿の息子をそっと顔を上げて見てみる。背はすらっとして高く、それでもさして細身というわけでもなく、肉付きはしっかりしていた。茶色の長い髪は肩甲骨のあたりで束ねられ、小さな丸眼鏡を鼻先近くまでずらして掛けている。その大きさや掛けかたからすると、どうも伊達眼鏡のようだ。
「ここの屋敷は大きいからね。なんだったら僕が案内しようか?」
「いや。案内は私がする。お前は来月の官吏試験に向けて勉強していればいい」
「やれやれ。わかりましたよ。一族の栄光とさらなる反映のために、ね」
 そう皮肉めかしながら、また階段を登っていった。
 彼と入れ替わるようにして廊下からやってきたのは、白いコック帽を頭に頂いた壮年の男。鼻の下に冗談みたいについた口髭が、少し抜けた顔立ちと妙に合っていた。
「旦那様。今夜のお料理はいかがなさいましょう」
「そうだな。なにか珍しいものは入ってるか?」
「今朝仕入れたばかりのカジキマグロがございますが」
「それはいい。早速出してくれ。料理の仕方はお前に任せる」
「承知いたしました」
 一礼すると、コックはまた廊下を引き返していった。
「では、獅子像の場所へご案内します」
 そう言って階段へと向かうキュール卿の後を、レオンは慌ててついていく。
「おや、旦那様」
 階段を登りきったところでキュール卿を呼び止めたのは、白黒のタキシードをきっちり着込んだ老人。雪でもかぶったかのような白髪のせいでずいぶん年寄りに見えたが、その挙動や背筋をピンと張った様からすると、それほど老けてはいないようだ。
「お帰りでしたか。お迎えに上がれなくて申し訳ございません。近ごろめっきり耳が遠くなってきたようで……」
「気にするな。出迎えなどしなくてもお前は有能な執事だ。耳が遠くなったなどと寂しいことは言わんでくれ」
「もったいなきお言葉。……おや、そちらは新しい小間使いですかな?」
「ああ。まだ見習いなので今日だけだがな。そういえば、屋敷の戸締まりは万全だろうな?」
「ええ。抜かりはございません」
「そうか。最近は物騒だからな。用心するに越したことはない」
「では、わたくしは坊ちゃんの官吏試験の手続きが残っておりますので」
「ああ。頼んだぞ」
 執事はしっかりとした足取りで三階へと上がっていった。キュール卿とレオンはそのまま二階の廊下を歩きだす。
 獅子像は二階の一室に安置されていた。広い部屋の中心で四肢を踏ん張って立ちつくしているそれは、別段これといってなんの特徴もない石像だった。ただひとつ、片目に埋め込まれた虹色の宝玉を除いては。
「これが『虹の瞳』かぁ……」
 レオンは獅子像の横から顔を近づけてまじまじと眺めている。
「宝石としての正式名は、レインボー・ガーネットというそうです」
 キュール卿が説明する。
柘榴石ガーネットのいくつかある種類の中でも珍しいもので、産出されるのは非常に稀だそうです。しかもこれだけの大きさのものは今まで類をみない、と鑑定士は語っておりました」
「不思議だよねぇ。なんでこんな石っころが七色に光ったりするんだろ」
 ふたりは窓の施錠や壁の具合などを点検して、どこにも漏れはないことを確認した。窓の外は庭に生えた木の枝葉が張りだしていて、その向こうの景色をなかば隠している。この部屋に獅子像があることを外から視認することはおそらく無理だろう。壁も分厚く、よほどの怪力でなければぶち破ることはできまい。
 ひととおり確認を終えると、キュール卿は懐から金の時計を取りだして時刻を見た。四時二十分。
「まだ夜までに時間がありますな。念のために一度、屋敷を見て回りましょうか」
 こんこん。そのとき、誰かがドアをノックした。キュール卿が返事をしても、扉は沈黙したままだ。
「なんだ?」
 何気なしにキュール卿は扉に歩み寄り、ノブを回して少しだけ開けた。するとその隙間から、突如としてなにかが振り下ろされた。
「ぐおっ!」
 重く固いものが頭を殴打して、キュール卿は倒れた。
「おじさん!」
 レオンが駆け寄ろうとしたとき、扉が弾かれるように大きく開かれて、誰かが勢いよく部屋に入りこんできた。黒装束に黒い覆面をつけた、黒ずくめの男。手には金槌を握っている。
 男は立ちつくすレオンにも構わず、獅子像の前に立ってもう一度金槌を振り下ろした。石像の頭が砕け、破片が飛散する。そして足許に転がった七色の石を拾い上げたところで、レオンは我に返った。
「くそっ!」
 レオンは手を前に突き出してアイスニードルを唱えた。男は身を屈めて氷の矢を避け、そのまま窓際へと向かった。三たび金槌を振るうと、窓ガラスは拍子抜けするほどあっけなく割れてしまった。
「待て!」
 レオンの制止もきかずに男は金槌を床に捨て、窓の手すりに足をかけて、そこから庭木に飛び移った。軽業師ばりの身のこなしでするすると幹を降りていき、地面に着くと塀を軽々と乗り越えて敷地の外に出た。
「お兄ちゃん、そいつが泥棒だ! 捕まえて!」
 レオンは破れた窓から身を乗り出して、外で見張りをしていたクロードに叫んだ。そうして自分も追いかけようと振り返ったとき、扉の前で倒れたままのキュール卿に気づいた。
「おじさん、しっかりして」
 レオンの呼びかけに呻きで応答する。意識はあるようだ。
「待ってて。すぐにレナお姉ちゃんを呼んでくるから」
 そう言い置くとすぐに部屋を飛びだして、邪魔なドレスの裾を両端からつまみ上げながら階段を降りていく。
「くそっ、走りにくいったらありゃしないっ」
 玄関から屋敷を出て門前まで一気に突っ走る。そこで都合よくレナに出くわした。
「レオン、犯人は?」
「今、お兄ちゃんが追っかけてる。それより……」
「何かあったんですか?」
 玄関の扉を開けて、ちょび髭のコックがやってきた。
「さっき、ガラスの割れる音がしましたが……」
「泥棒だよっ。『虹の瞳』を奪ってった」
「泥棒ですと?」
 続いて屋敷から出てきたのは、白髪の執事。
「それで犯人は?」
「だから今、お兄ちゃんが……ああ、そんなことより」
「どうした。騒々しいぞ!」
 そこへクライスまで加わってきて、もはや収拾がつかない。三人が早口に次々と質問を浴びせてくるので、レオンが口を挟む隙がない。いっせいに喋りだして会話がぐちゃぐちゃになり、事態はますます混乱していく。レオンの苛立ちが頂点に達して、ついに爆発した。
「ひとの話を聞けっ!!」
 それでようやく三人が黙った。はぁはぁと息を切らせてから、レオンは続ける。
「だから、キュールのおじさんが大変なんだってば!」
「父上が?」

「逃がしたんだ」
 レオンが言うと、クロードは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「屋敷の東側の道を走ってたところまでは見たんだ。けど、角を曲がったら影も形もなくて……」
「逃がしたんだね」
「……はい」
 言い訳むなしく、クロードはレオンの前でうなだれた。
「お姉ちゃん、そっちはどう?」
 レナはキュール卿を診ていた。打撲した頭を無理に動かすのは危険なので、頭の欠けた獅子像とその破片が散乱している部屋で治療が続けられた。
「命に別状はないわ。急所も外れてるし、このぐらいならすぐに回復すると思う。けど、ショックで記憶に障害が残ってるかも……ああ、そんなに揺らしちゃダメですよ」
「父上。父上っ」
 壁にもたれたまま瞑目する父親の肩を、クライスが懸命に揺すっている。
「おいたわしや、旦那様……」
 執事はその横でおろおろするばかり。
「くそっ。予告状の『今夜』ってのを鵜呑みにしたボクらがバカだったってことか」
 レオンは拳を背後の壁に叩きつけた。
「予告状はフェイントだったわけだな」
 クロードも失意したように言った。
「……クライス」
 そのとき、キュール卿がうっすらと目を開けた。
「父上っ」
「案ずるな。私は大丈夫だ」
 額を手で押さえながら言う。
「私としたことが、油断してしまったな。……それにしても、犯人はどこからこの屋敷に忍びこんだのだ?」
「それはわたくしも疑問に思っておりました」
 と、執事。
「窓も玄関の戸も、わたくしが責任をもって施錠したはずなのですが」
「大変です」
 そこへ、コックが飛びこんできた。
「食料庫が……」
「え?」

 一階の東側の隅にある部屋は食料貯蔵庫となっていた。穀類やジャガイモ、人参、レタスなどの野菜、それに小麦粉の袋が雑然と積まれ、天井からは肉の薫製がいくつもぶら下がっている。
 その部屋の窓が、割られていたのだ。床に残ったいくつかの足跡とともに、ガラスの破片が床に散乱している。
「これは……」
 レオンは破片を踏みしだいて窓に駆け寄り、そこから外をのぞいた。昨夜に降った雨のせいでぬかるんでいた庭の地面に、点々と足跡がついていた。それは外壁に沿ってずっと続き、今レオンがのぞき込んでいる窓の下で終わっている。手すりにも泥が付着していた。そして部屋に残った足跡。けれど、こちらのほうは途中で消えていた。乾いた床を歩くうちに靴の汚れが取れて、だんだんと足跡が薄くなっていくことはあるが、これは唐突に消えているのだ。
「ガラスは外から割られてるし、この足跡……どうやら犯人はここから侵入したみたいだな」
 クロードが得心顔で言う。
「ここなら屋敷の隅だから、物陰に隠れて見つかりにくい。入りこむにはうってつけの場所だ」
「違うね」
 レオンが鋭く否定した。そして、なぜかそのへんの食料をあさりはじめる。なにかを探しているようだ。
「どうしたんだ?」
 クロードが聞いても、レオンは無言のまま野菜の積まれた木箱の中をかき回している。そこにはないと諦めると、今度は小麦粉の袋をひとつずつのぞき込んでいった。
「あの、あんまり食料を荒らさないで……」
 コックが言いかけたとき。
「あったよ」
 レオンは抱えていた麻袋を逆さにした。袋の口からどさどさと小麦粉……ではなく、なにか黒いものが落ちてきた。
「これは?」
「犯人が着ていた服だよ。靴もある」
 泥のついたひと揃いの靴を拾い上げてクロードに見せた。
「どうしてこんな所に……」
「犯人はここから侵入したんじゃない。屋敷の中の人間なんだ。この脱ぎ捨てていった服と靴が証明してる」
「ええ!?」
 クロードが思わず声をあげた。あまりにも話が飛躍しすぎている。
「どういうことだよ?」
「うーん。ここじゃ説明しづらいな。他のひとの話も聞きたいし……とりあえず、みんなのところに戻ろう」
 レオンは黒い衣裳と靴を抱えて、さっさと食料庫を出ていってしまう。文字通り取り残されたクロードとコックは、互いに顔を見合わせた。

 獅子像の部屋に、再び全員が集められた。レオンの指示で机が運び込まれ、さらに執事が筒状に丸められた紙を持ってレオンのところにやってくる。
「屋敷の間取り図を持ってきましたが」
「ありがとう」
 レオンはそれを受け取って机に広げた。メイド姿のままの彼がその場を取り仕切っている光景は、なんだか珍妙だった。レオンも嫌がっていたわりにはすぐに着替えようとしない。推理に頭がいっぱいで、恰好のことなどすっかり忘れているのかもしれないが。
「さて、屋敷をぜんぶ調べたところ、窓の割れていた部屋はふたつ。ひとつはこの『虹の瞳』があった部屋。もうひとつは一階の食料庫だ」
 言いながら、間取り図のそれぞれの部屋に印をつけていく。
「これだけを見ると、犯人は食料庫から侵入して、階段を登って二階のこの部屋へ行って、『虹の瞳』を奪って窓から逃げていったと考えることができる。でも、実際はそうじゃない。犯人は最初から屋敷の中にいて、『虹の瞳』を奪ってそこの窓から外に逃げたあと、すぐに引き返して一階の食料庫からまた屋敷へと戻ってきたんだ」


「どうしてそんなことを……」
「簡単なことさ。屋敷の人間が犯人だからだよ」
 レオンが言い切ると、その場の空気がこわばった。
「証拠はあるのかい?」
 クライスが訊ねた。口調は穏やかだったが、どこか冷たい響きがあった。
「犯人が食料庫に置いていった、この服と靴がなによりの証拠だよ」
 洗濯物のように机の上に置かれた黒い服と泥で汚れた靴を示してから、レオンは説明する。
「食料庫の窓の下の地面は昨日の雨のせいでぬかるんでいた。だから靴に泥がついて、床にも足跡がくっきり残ってた。けど、それは部屋の中だけで、廊下に足跡はひとつもついてなかった。つまり犯人は食料庫で靴を履き替えたんだよ。ただの泥棒が屋敷を汚さないように靴を履き替えるってのも変な話だよね。犯人はそこで靴を履き替える必要があったんだ。なぜならそいつは屋敷の人間で、これからみんなの前に姿を見せないといけないから。そのとき泥で汚れた靴を履いてたら、とたんに怪しまれちゃうもんね」
「なるほどな。服を置いていったのも、そこで変装をといたのだと考えれば説明がつく。小麦粉の袋に入れておいて、あとから回収するつもりだったんだな」
 クロードが相槌を打つ。
「とすると犯人は、実際にそいつの姿を見たキュールさんとレオンを除いた屋敷の中の人間……つまり、この三人か」
「わ、私たちですか?」
 コックは狼狽えた。クライスの眼も鋭くなる。
「三人とも、事件が起きたときのことを詳しく話してくれないかな」
「冗談じゃない。犯人扱いだなんて」
 クライスが言った。
「わたくしも、心外でございますな」
 執事も同じ調子で言い募る。だがキュール卿は。
「お前たち、レオン博士の言うとおりにするんだ」
 語気強く諫めると、三人は押し黙った。
「わかりましたよ」
 渋々口を開いたのは、クライス。
「僕はあのときは、自分の部屋で机に向かってたよ。そうしたらなんだか外が騒がしかったから、窓を開けて見てみると、屋敷の前に人が集まってた。それで何かあったのかと思って部屋を出て下に降りた。それだけのことだよ」
「私は……二階の倉庫におりました」
 続いてコックが証言する。
「夕食に使う皿が足りなくなったので、倉庫に探しに行ってたんです。そのときに窓の割れる音がしたので慌てて外に出て、そこでお二人に会いました」
「あのときは執務室で坊ちゃんが受ける官吏試験の願書を書いておりまして」
 最後に執事がそう話す。
「やはり窓が割れる音を聞きまして、真っ先に駆けつけた次第にございます。なにしろ近ごろは物がなくなったりして屋敷も物騒でしたので、もしやと思ったわけです。虫の知らせというやつですな」
「これで全員か……いちおう、三人とも筋は通ってるみたいだけど……」
 クロードがそう言ってレオンを見ると、彼はにんまり笑っていた。
「レオン?」
「そんなことはないよ」
 レオンは面白いものでも見つけたような顔をして。
「誰かの証言には大きな矛盾がある。きっと、そいつが犯人だ」
「矛盾……?」
 クロードが腕を組んで考えこんでいるなか、レオンは自信たっぷりに言った。
「事件解決だいっ」

----- ここからヒント -----

「いったい何が矛盾してるって言うんだ?」
「うーん。そうだね。ヒントはあれだよ」
 レオンは破れた窓を指さした。
「窓ガラス?」
「うん。犯人があれを割ったときに気がついたんだけど、この屋敷の窓ガラスって、見た目ほどあんまり丈夫にできてないんだね。犯人が金槌で叩くとびっくりするぐらい簡単に割れちゃったんだ」
「それが?」
「あのときのことをもう一度思い返してごらんよ。ホントなら聞こえるはずの音がぜんぜん聞こえなかったでしょ。それとこの間取り図を照らし合わせてみれば、絶対にあり得ない証言をしてるひとがひとりだけいるんだ」
「???」
「みんなもじっくり考えてみてね」


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