■ 少年探偵レオン

note 1.出題編 / 解決編note 2.出題編 / 解決編note 3.出題編 / 解決編note 4.出題編 / 解決編
note 5.出題編 / 解決編note 6.出題編 / 解決編note 7.出題編 / 解決編note 8.出題編 / 解決編
note 9.出題編 / 解決編特別篇出題編 / 解決編

note 4. 忍び寄る影 [出題編]

「本日は海野楽器主催、創業50周年記念コンサートにお集まりいただいて、誠にありがとうございます。
 我が社は開業以来、皆様に音楽の喜びと感動をお届けしたい一心に、これまで様々な楽器を作って参りました。皆様の暖かいご支援を賜り、エクスペルでも有数の企業として成長しましたが、今後も皆様に親しまれる会社として邁進して参りたいと思う次第にございます」
 レオンはテーブルに頬杖をついて、楽器屋の偉いひとがする長い話を聞くともなく聞いていた。純白のテーブルクロスの上には、大きな皿にケチみたいに盛りつけられた料理。なんだか最近こんなのばかりだ。レオンは思った。
「また、この度の公演は新ヒルトン・ミュージカル劇場のこけら落としでもあります。我が社ともども劇場の方もご愛顧いただければ幸いに存じます。……それでは、大変長らくお待たせしました。歌姫リコの登場でございます」
 大ホールに拍手が細波さざなみのように響きわたる。それに誘われるように、舞台の袖から赤いイブニングドレスに身を包んだ女性がしずしずと進み出てきた。拍手はいっそう大きくなる。どこかから口笛も飛んだ。レオンもためしに口をすぼめて口笛を吹こうとしたが、すうとかすれた音しか出なかった。
 彼女が中央で立ち止まって正面を向くと、拍手も口笛もピタリと止んで、ホールはしんとなった。
「リコ・クリスティーンの美声を心ゆくまでご堪能ください。オープニングを飾る一曲は『エバー・メモリーズ』」
 たっぷりと間を置いて、ピアノの伴奏が始まる。赤いドレスの歌姫は、切々と懐かしき恋を歌いあげる。

  ある春の夜の思い出を聞いて
  遠い昔に想いをはせる
  そこにはあたしの愛した人がいて
  あたしの愛した日々があった
  空に広がる星々を見上げ
  在りし日の心を知る

  どれほど時が進んでもきっと変わらぬ想いがあるはず
  今いちど時を越えてあの空の下へ帰りたい
  あの一瞬へのノスタルジア
  場所は変わっていないのに

  人が変わり時は進みいくつの季節がめぐっても
  もうめぐらない あの春の夜

  いつだって隣にあなたがいて
  遠い未来を語り合った
  ときにはつらい思いもしたけれど
  どんなときにも笑いあった
  空を舞う風に願いをたくし
  あの日がまた来るようにと

 ピアノの旋律が終わり、最後の一音が余韻を残して、やがて消えた。そこでまた盛大な拍手が湧き起こる。レオンの周りの席でも、まばらではあるが拍手をするものがあった。見ると、隣に座っているレナもさかんに手を打ち鳴らしている。
「素敵ねぇ、リコさんって」
 吐息のような声を洩らす彼女に、横のクロードは少し辟易しながらも、そうだね、と相槌を打つ。
「なんか、こないだ会ったときとはぜんぜん雰囲気が違うけど」
 レオンたちがいるのは、劇場の二階にある来賓用の観覧席。床にはふかふかの真新しい絨毯が敷かれ、劇場では見慣れない円形のテーブルと椅子がいくつも設置されている。その部屋だけでちょっとしたパーティ会場のようだった。下の一般者用の席とはまるで格が違う。テラスのようにせり出した二階からは、ホール全体が一望できるようになっている。
 舞台に立っていた歌姫リコは深々と礼をすると、出てきたほうとは反対の袖へと引き下がっていく。拍手はとうぶん鳴り止みそうにない。
「リコ・クリスティーン『エバー・メモリーズ』でした。それでは続きまして……」

 レオンたちが彼女と会ったのは、五日前のことだった。
「きゃーっ! かわいいっ!」
 研究室の扉を開けて入ってきたかと思うと、いきなりレオンに駆け寄って抱きついてきた。
「キミもここの研究者なの? マスコットとかじゃないよね。すごーい。でも、かわいいっ!」
「なっ、なんだなんだ。なんなんだよ!」
 レオンは目を白黒させて喚いたが、彼女はお構いなしに、まるでぬいぐるみにするようにぎゅっと抱きしめる。まわりにいたクロードやレナも呆気にとられたまま、それを見守る。
「こら、リコさん。ダメですよ、ご迷惑をかけちゃ」
 後から入ってきたのは中性的な顔立ちをした男。口調や仕種も変になよなよしている。
「ほら、はやくレオン博士を放しなさい」
「そっか。キミ、レオンっていうんだ」
 彼女は悪びれる様子もなく、腕を解いてレオンを放す。レオンはぐしゃぐしゃになった髪を手で撫でつけながら、不貞腐れたように彼女を睨んだ。
「ゴメンね。キミがあんまりかわいかったから、つい」
 なにがどう「つい」なんだか。レオンは思ったが、口にはしなかった。
「私はリコっていうの。ヒルトンで歌手をやっているんだ」
「歌手?」
 レナが聞くと、隣に立った男が代わりに答える。
「五日後に我が社の創業50周年記念コンサートがありましてね。今回はそのプロモーションのために城を訪ねたのですよ。……あ、申し遅れました。わたくし、海野楽器のロズウェルと申します」
 男は腰を屈めてレオンに名刺を手渡した。
「リコさんが歌うんですか?」
「ええ。そうよ。私はずっと酒場で歌っていたんだけど、半年前にそこのマネージャーにスカウトされて、専属契約を結んだの」
 彼女はそう言うと、男に向かって、アレ出して、と何かを要請した。マネージャーの男はしぶしぶ、持っていた黒鞄から数枚の紙切れを取りだして、リコに渡した。
「はい、これ」
 リコはさらにそれをレオンに手渡す。見ると、長方形の紙に大きく『海野楽器50周年コンサート 特別招待券』と印刷されていた。
「絶対聴きに来てね。お姉さんとの約束だよ」
「約束って……」
 レオンは迷惑そうに顔をしかめた。会ったばかりのひとに(それもかなり侮辱的な扱いをされて)約束だって言われても、素直に聞けるはずがない。
「……にしても、ホントに似てる……」
「え?」
 リコの呟きを、レオンは聞き取ることができなかった。
「ん。いや、なんでもないの。じゃ、ヒルトンでまた会おうね、レオンちゃん」
 彼女はそう言い置くと、マネージャーを伴って早足で研究室を出ていった。初対面からわずか五分で「ちゃん」づけされたレオンは怪訝そうに首を傾げ、それから握っていたチケットに視線を落とす。
 招待されたからって、約束だって言われたって、コンサートなんて聴きに行くつもりは、さらさらなかったのだ。

 けれど。
「本日のプログラムはこれにてすべて終了しました。皆様、ご静聴誠にありがとうございました」
 舞台上の偉いひとが終了を告げると、割れんばかりの拍手がホールに轟いた。二階の特別席も総立ちで今回のコンサートに惜しみない賞賛を贈っている。
 レオンだけが席に座ったまま、そっと溜息をついた。もともとここに来るつもりはなかったんだ。けど、レナお姉ちゃんがどうしても行きたいって言うから。
「だったら、お姉ちゃんたちだけで行きなよ」
 もらったばかりのチケットをレナの前に突き出して、レオンは言った。
「あら、ダメよ。招待されたのはレオンなんだから、あなたが行かなきゃ私たちも入れないわ」
 レオンは頭を掻いた。ボクはひとりで静かに研究していたいだけなのに、どうしていつもこうなってしまうんだろう。
 そもそも、レナお姉ちゃんがコンサートに行きたいなんて言いだしたのは、要するにクロードお兄ちゃんとデートがしたかっただけなんだ。ボクでもそのぐらいのことはわかる。だからこそ、よけいについて行きたくなかった。どうせボクは邪魔者になるのはわかっていたから。
「レオン、どうしたの?」
 レナが顔をのぞき込んできた。レオンはなんでもない、と首を横に振る。お姉ちゃんはいつもボクに気をつかってくれる。けれど、それは特別なことじゃない。お姉ちゃんは誰にだって優しいんだ。お姉ちゃんにとって特別なのは、ボクじゃなくて……。
「じゃあ、せっかくだからリコさんに挨拶しに行こうか」
 クロードが提案すると、レナも請け合った。
「そうね。楽屋に行ってみましょう。ね、レオン?」
「わかったよ。行けばいいんだろ」
 むすっとした表情のまま立ち上がる。我ながら嫌なヤツだと思う。でも、こうするしかないんだ。
 彼の心中を知ってか知らずか、レナとクロードはさっさと観覧席の出口へと歩きだしていた。レオンもずるずる白衣を引きずりながら、とぼとぼと後をついていった。

「きゃーっ、レオンちゃん!」
 楽屋に入ると、彼女は五日前とほとんど同じ反応をして抱きついてきた。
 歌姫はまだ赤いイブニングドレスのままで、その上からゆったりしたガウンを羽織っていた。みどりの鮮やかな髪は宝石の粒でもまぶしてあるのか、明かりを受けてきらきらと輝いていた。メイクはすでに落としたようだが、かえってその飾り気のない清楚な顔立ちのほうが、華やかな衣裳にはよく合っていた。
「来てくれたんだね。お姉さん嬉しいっ」
 リコはいつもするようにレオンを力いっぱい抱きしめる。
「こら、リコさん」
 マネージャーが諫めても、彼女はレオンを放そうとしない。いい加減腹に据えかねたレオンが、文句のひとつでも言ってやろうと顔を上げようとしたが、そのとき鼻先になにか柔らかいものが当たった。イブニングドレスは鎖骨から上を大胆に露出させてあるので、彼女の豊かな胸も上半分がほとんどむきだしになっている。目の前のものがそれとわかった瞬間、レオンは火のついたように赤くなり、それから急に暴れだす。
「放せよっ!」
「あら、照れちゃって。おませさんねぇ」
 それでもリコはレオンを放さない。むしろ腕の中で藻掻いたせいで、ますます顔がふくよかな胸許に埋没してしまった。
「……ちょっと、羨ましいかも……」
 クロードが呟いたのを聞きとがめて、レナが横から彼の手の甲をつねった。
「まったく、もう……」
 マネージャーが呆れたように吐息を洩らして、それからレナたちに向き直った。
「すみませんね。あの子は可愛い男の子を見かけると、いつもああなんですよ」
「それはちょっと危ないんじゃ……」
 レナが呟いた。
「まあ、本人も嬉しそうだからいいんじゃないんですか」
「まだ言うか、この男は」
 殺気を感じたクロードは、目を合わさずにレナから一歩遠ざかった。
「あ、そうそう。これはお近づきのしるしということで……」
 と、マネージャーは例の黒鞄から包装紙でラッピングされた小箱を取りだした。
「劇場の売店に置いてあるものと同じで恐縮ですが」
「お菓子ですか? へえ、おいしそうですね。ありがとうございます」
 礼を言って菓子包みを受け取るレナ。クロードはふと横を向いてレオンを見た。彼はまだ歌姫の束縛から抜け出せないでいた。
「やーん、かわいいお耳」
 リコは頭からピンと突き出た耳に頬ずりしている。レオンはもはや抗う気力もないのか、彼女のなすがままである。
「私ね、猫も大好きなの。猫とお話だってできちゃうんだから」
「わ、わかったから、いいかげん放してよ……」
 上擦った声で言うレオン。どうやら相当のぼせ上がっているようだ。
 その様子を苦笑しつつ眺めていたクロードは、ふと彼女が見慣れないものを握っているのに気づいた。ぎらりと光る鋭き刃。ナイフだ。少年をその胸に抱いたまま、彼女は刃をそっと生白い襟首のあたりにあてがう。
「危ない!」
 クロードは咄嗟に横の壁に立てかけてあった木製のモップをつかんで、柄のほうを大きく振るった。きぃんと甲高い音を立てて、ナイフは空中に躍り上がる。リコはレオンを抱いたまま倒れこんだ。
「え!?」
 レナとマネージャーが同時に振り返る。クロードがモップを持ったまま立ちつくしている。視線の先には尻餅をついて目を丸くするレオンと、その前で蹲って肩を震わせるリコ。壁には斜めに突き刺さったナイフ。その場は一瞬にして緊迫した空気が漲った。
「どういう……ことですか」
 クロードがリコを見下ろしながら、言った。
「いったいレオンに何をしようとしたんですか!」
 歌姫は床に突っ伏して、ワッと声を上げて泣きだした。

「弟が、誘拐されたの」
 しばらくして落ち着いたところで、彼女は話した。
「一週間前よ。朝起きたら隣のベッドで寝ていたはずの弟がいなくなっていて、代わりに紙切れが置いてあったの。紙には『弟を預かっているから港の倉庫まで来い』って」
「それで、言われたとおり行ったんですか? ひとりで?」
 レナが聞くと、リコは頷いた。
「だって、誰かに知らせたら弟の命はないって……。すぐに倉庫に行ったわ。そしたら、黒い服を着たひとが弟を連れて待ってた。……そのひとは取り引きしようと言った。ラクールのレオンという研究者の子供を始末すれば、弟は返してやる、って」
「レオンを、名指しで?」
 クロードが驚いて言った。そしてレオンに。
「お前、なんか恨まれるようなことしたのか?」
「知らないよっ。……それで、ボクをコンサートに招待して、隙を狙って殺そうとしたんだね」
「ごめんなさい……。私もすごく辛かったの。レオンちゃんに初めて会って、びっくりしたわ。ほんとうに弟にそっくりだったものだから。悩んだわ。誰かに打ち明けようと思ったこともあった。でも、そのたびに弟の顔が浮かんできて……もう、どうしようもなかったの」
 言葉は途切れ、再び嗚咽が楽屋に響いた。マネージャーが彼女の背中をそっと撫でてやる。
「さて。どうするんだ、レオン?」
 クロードが言った。レオンは無表情で彼女を見つめていたが。
「ボクを殺した後は、どこで落ち合うつもりだったの?」
「……この劇場よ。今夜の12時に、特別観覧席に座っていろって」
「特別観覧席っていうと、ボクたちがいたあの部屋のことだね」
「どうするつもりなの?」
 不安そうに聞くレナ。
「ボクを殺すのに失敗したことは、まだ犯人には知られてないはずだ。だからお姉ちゃんにはこのまま予定の場所に行ってもらって、犯人と接触してもらう。ボクたちは隠れて見張ってるから、犯人が来たところで取り押さえるよ」
「助けて、くれるの?」
 リコは顔を上げた。レオンはぷいとそっぽを向いて。
「別にお姉ちゃんたちを助けようってわけじゃない。これはボクの問題でもあるんだ。ボクの命を狙ったことへの仕返しをしてやらないと気が済まないからね」
「怖くないのか? また命を狙われるかもしれないんだぞ」
 クロードが言うと、レオンははあ、と大儀そうに息をつく。
「大したことじゃないだろ。こないだまでイヤというほど死にかけてたんだから」
「……それもそうか」
 クロードは苦笑した。
「きゃーっ! レオンちゃんありがとうっ!」
 先程のさめざめした様子はどこへやら、リコがいきなりレオンの首っ玉にかじりついた。どうやらレオンに対するこれまでの言動も、特に演技というわけではなかったようだ。

 午後11時30分。二階の観覧席にはまだ明かりがついていた。レオンたちはホールの舞台の袖からそっと顔を出して中を窺う。
「まだ誰かが残っているのか……?」
 レオンは目を凝らしたが、この場所からでは人影を確認することはできなかった。
「もしかしたらもう犯人が待機してるのかもしれない」
 クロードが小声で言った。
「どっちにしても、お姉ちゃんにはそろそろ行ってもらわないと」
 レオンが背後を振り返る。そこには顔を曇らせるリコがいた。
「行くの?」
「でなきゃ、犯人が現れないよ。それと、クロードお兄ちゃんは二階のあの部屋の……なんだろう、あの隣のちっこい部屋は」
「トイレよ」
「そっか。じゃ、お兄ちゃんはあそこで待機してて」
「ちょっと待て。待機って……」
「なにかあったときにすぐに駆けつけられるようにさ。ボクとレナお姉ちゃんはここで見張りを続ける。動きがあったらここから知らせるから、窓からこっちを見てて」
「……わかったよ」
 何を言っても無駄だと悟ったのか、クロードは不承不承、頷いた。
「それじゃ、リコさん、途中まで一緒に行きましょう」
「うん……じゃ」
 リコは力なく返事して、先に二階の階段を上がってゆくクロードの後をついていった。
「さて……こっからが本番だ」
 11時50分。ちょうどいい頃合いだ。リコが二階の観覧席に入ったようだ。隣の小部屋の窓からはクロードの金髪も見える。指定どおり、リコはこちらから見やすい手前のテーブルに座った。
 と、そこへ誰かがやって来て、リコに話しかけた。
(犯人?)
(しっ)
 レオンは頭の上の耳を澄ませたが、遠すぎて会話は聞き取れなかった。相手がいくらか話をして、リコがそれに答える。やりとりはしばらく続いたが、それが終わると相手はレオンの視界から消えた。まだ部屋にいるのかもしれないが、ここからでは部屋の隅々を見渡せるわけではないので、そこまではわからない。
 さっきの相手が犯人かどうか決めかねているうちに、また別の男がやってきて、リコに話しかけた。リコもやはり先程と同じように対応する。今度は二、三、言葉を交わしただけで終わった。男は視界から消える。
(どう思う、レオン?)
 レナがレオンに囁きかけた。
(わかんないよ。どっちも誘拐犯みたいな感じはしなかったけど。……また来た)
 今度は女だ。背は高く、すらっとした感じの。リコは彼女の話に応じて何度も頷いている。あのひとなのか? レオンは身を固くして目の前の光景に集中したが、女は意外にもあっさりとリコから離れていってしまった。
 12時10分。結局、あの三人以外に彼女とコンタクトを取るものは現れなかった。リコがしきりに周りを気にしている様子からすると、あの三人はまだ部屋に残っているのかもしれない。犯人はそのせいで現れることができないのか。それとも……。
(ねえ、レオン)
 不意に、レナが白衣の袖を引っ張った。
(あそこに、誰かいない?)
(え?)
 言われて、レオンは彼女の示すほうに目を向けた。
 そこは、ホールの一般観客席だった。舞台から見ると薄闇の観客席というのはひどく奇妙なものに思われた。まるで何列にも並んだ椅子のすべてがこちらを向いて、自分たちの一挙一動を監視しているようだった。
 今まで二階ばかりに気を取られて気づかなかったが、たしかに観客席の中央あたりに、誰かがいる。黒い服の、うしろ姿。ぴくりとも動かず二階を見上げている。
「誰だ!」
 レオンが舞台の袖から飛びだして叫んだ。そいつは、ゆっくりと振り返った。
「あ……!」
 レナが思わず声を洩らした。レオンも息を呑んだ。それは歌姫リコにいつもついて回っていた、あのマネージャーだったのだ。彼の手には、星のように煌めく何かが握られている。
 彼はニッと微笑むと、黒い外套を翻して出口へと駆け出した。
「待て!」
 レオンはすぐに追いかけようとしたが、はっと思い出して、二階に向かって叫んだ。
「お兄ちゃん、そこにいるひとたちを部屋から出さないで! あとで行くから!」
 そうして、舞台を降りて観客席の通路を走った。ホールを出て、通路を見回したが彼の姿はない。レナと手分けして通路をくまなく探したが、どこにも人影は見あたらなかった。そもそもこんなに暗くては、そこらの物陰に隠れていてもわかりっこない。
「どこにもいないわ。逃げられたみたいね」
 通路を一周してきたレナが戻ってきて、かぶりを振った。
「まあいいさ。もう片方をあたってみよう」
 そう言って、レオンは再びホールへと入っていく。
「もう片方、って?」
 レナが慌てて後からついてきた。歩きながらレオンが説明する。
「あのひとは、ここで合図を送っていたんだよ。二階にいた『仲間』に向けてね」
 早足で観客席を通り抜け、舞台へと上がる。
「あのマネージャーはボクを殺し損ねたことを知っている。だからそのことを『仲間』に知らせたんだ。作戦は失敗したから接触はするな、ってね」
「でも、どうやって?」
 階段を昇りかけたところでレナが聞いた。
「よく見えなかったけど、手にキラキラ光るものを持ってた。たぶん、あれで合図を送っていたんだよ」
 二階へ上がって通路をひた進む。そして、観覧席の扉の前に立った。
「あの位置で合図を読みとれるのは、この二階の部屋しかない。つまり、もうひとりの犯人はこの中にいる」
 扉を開け放って、レオンとレナは部屋に入った。中にいたクロードがふたりに気づいて歩み寄る。奥にはリコと、従業員らしき姿をしたものが三人、並んで立っていた。
「言われたとおり、誰も外には出さなかったよ」
 と、クロード。
「部屋にいたのは、この三人で間違いないんだね?」
 レオンがリコに確認すると、彼女はこくりと首を縦に振った。
「さてと。それじゃ、ちょっと話を聞かせてもらおうかな」
「ちょっと待てや。俺らが一体なにしたっていうねん」
 清掃員の帽子をかぶった者が言った。若くはないが、それほど老けているようにも見えない。きっちりと着込んだ作業服が、がっしりとした体格を余計に際立たせている。足許に水の入ったバケツを置き、楽屋にあったものと同じモップを持っていた。
「君たちの中に、お姉ちゃんの弟を誘拐した犯人がいるんだよ」
「誘拐だって?」
 正装をした給仕らしき男が声を上げた。歳は二十そこそこといったところか。背は高く、男にしては端整な容姿をしていた。紫色の派手な髪は整髪剤できっちり固められている。傍らにはスープの鍋や皿を載せたワゴンがあった。
「どうして僕らがそんなことを」
「そうですよ。私たちはこの部屋で仕事をしていただけじゃないですか」
 スーツを着込んだ女性が言い募る。恰好だけではなんの仕事なのかわからなかったが、その整った身なりからすると、劇場の事務職といったところだろうか。書類のような紙の束を大事そうに両手で抱えている。
 レオンは彼らの言い分を無視して、質問に取りかかる。
「ちょっと聞くけど、君たちはここでなんの仕事をしていたんだい?」
「俺は部屋の掃除をしてただけや」
「僕もテーブルの片づけをしていただけだよ」
「私は……明日の公演のために来賓席のチェックを。あ、顧客管理をやってるんです、私」
 三人がそれぞれに答えた。
「リコさんはこのひとたちとなんの話をしてたんですか?」
 レナが訊ねると、リコはんー、と少し考えてから。
「別に大した話じゃないわ。ここで何してるのか、とか、明日の公演のこととか」
「それ以外にはなにも?」
 クロードが念を押した。リコはやはり、なにもないわ、と答える。
「うーん……。そうだ。君たちはお互い面識はあるの?」
 レオンは別の切り口から探りを入れてみた。
「いきなりそないなこと言われても、わからへんな」
「少なくとも僕はどちらとも面識はないね」
「この劇場で働いてる人は多いですからね。同僚ならともかく、別の仕事をしている人までは把握してませんよ」
 三人のつれない回答に、レオンたちは落胆した。
「お手上げだな」
 クロードがレオンを見る。彼は唇を噛んだまま、三人を鋭く睨めつけていた。ほんとうに、これ以上手がかりはないのか。なにか、なにか見落としてはいないか?
「……ん?」
 レオンははっとして顔を上げた。そして会心の笑顔を浮かべる。
「なんだ、簡単じゃないか」
「え?」
 クロードが怪訝そうに首を傾げる。
「犯人がわかったのか?」
「うん。やっぱりこの中に共犯者がいるよ」
 人差し指を前に突き立てて、レオンは言った。
「事件解決だいっ」

----- ここからヒント -----

「三人の証言からでは犯人を絞りこむことはできないと思うけど……」
「証言は関係ないよ。もっとシンプルなことが、そのひとを犯人だって示してる」
「シンプル?」
「三人はこの部屋で仕事をしてるって言ったよね。でも、その姿じゃ絶対に仕事ができないひとが、ひとりだけいるんだ。きっとそれが変装した犯人だよ」
「変装が完璧じゃなかったってことか」
「そうだね。よっく考えてごらんよ。この部屋に合わないカッコをしたひとがいるから」
「……そうは思えないけどなぁ……」
「それじゃ、みんなもがんばってね」


note 1.出題編 / 解決編note 2.出題編 / 解決編note 3.出題編 / 解決編note 4.出題編 / 解決編
note 5.出題編 / 解決編note 6.出題編 / 解決編note 7.出題編 / 解決編note 8.出題編 / 解決編
note 9.出題編 / 解決編特別篇出題編 / 解決編