■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [クロード編]


『そこは、争いも、病気も、いやなことは何もないところです。おとなも子どももみんなが仲よく平和にくらしていました。ほかの国のひとたちともいっしょになって、すえながくさかえました。それが、ウチュウの楽園「ネーデ」なのです』
 ──言語学者キース・クラスナ博士の解読した古文書より抜粋

第八章 見知らぬ、大地

 暖かい。全身が宙に浮いているように軽く、手に握られたチョコレートのように今にも融けてしまいそう。でも、光はない。何もない。誰もいない。自分自身をすら見ることができない。
 ──ここはどこだろう?
 知ってしまうと面白くないような気がした。今このとき以上に気持ちのよいことがあるだろうか? 知る必要はない。ただ、ずっとこうしてこの暖かいものに包まれていたい。
 しかし、意に反して体が動いてしまった。その直前までは手と足の区別もなかったのに、今は明確に自分の体の形が感じられる。周りには何もなかったはずなのに、確かに何かに触れている。光が見える。音が聞こえる。
 ──いやだ。
 目が開いた。
「う……ん……」
 最初に飛び込んできたのは、茶色と緑色のものだった。地面とそこから生える背の低い草。穏やかな風に揺られている。草の中には小さな花をつけているものもある。それから、太い幹を持つ樹々。青い空。白い雲。
 ──寝ているみたいだな……。
 クロードは手触りのよい地面に手をついて起き上がった。軽い目眩を感じながら辺りを見渡すと、それは不思議な光景だった。森というには木の背丈が低すぎるし、一面の花畑というわけでもない。それらを足して二で割ったような、幻想的な世界。
「どこだろうここは……。天国……?」
 自然とその名前が出てきた。まさにその名をつけるに相応しい場所。とすると、自分は死んだのだろうか。だとしたらなぜ? 記憶をたどる。ここに来る前、自分は……?
 考えているところへ、左手から白い羽根を持つ蝶が飛んできた。ひらひらと舞いながら、ぽつんと置かれた岩の下に咲く花にとまる。
 クロードは思わず微笑んだ。難しいことは考えたくなかった。
 蝶は蜜の味が気に入らなかったのか、すぐに飛び立って別の場所へ降り立った。そこは青黝あおぐろい草原の中で一際まばゆく輝く黄金色の……。
 気付いたときにはクロードは駆け出していた。体が無意識に動いてクロードを岩陰へと運んだ。
「レナ!」
 うつ伏せに横たわっているレナを膝の上に抱き上げると、三日月型の髪飾りにとまっていた蝶は、驚いて逃げ出した。
「レナ、大丈夫か!」
「う……」
 僅かに口が動き、次いで瞳が開かれる。そうして、ゆっくりとクロードを見上げた。まだ目が光に慣れていないようだ。
「クロー……ド? ……わたし……?」
「大丈夫。起き上がれるかい?」
 クロードは手を差し伸べ、レナはそれをとって立ち上がった。足元がぐらついて倒れそうになり、クロードは咄嗟とっさに受け止めた。
「あ……ごめんなさい」
 自分を見るレナの目が、どこか今までの彼女とは違っているようにクロードは感じた。なぜだろう?
「あ~っ!! いたいた!!」
 突然、右手から甲高い声が響いてきた。振り向くと、輝くような茶髪を見事なポニーテールに結い上げた少女が、こちらを指差していた。
「みんな~! クロードとレナがいたよ~! 早く!」
 後ろを向いて大きな声で叫ぶ。やがて、プリシスだけでなくセリーヌ、アシュトン、レオンが姿を現した。みな、無事だ。
 クロードは、自分たちがついさっきまで何をしていたのかを思い出した。突然現れた強大な力の持ち主たちの一人と戦い、手も足も出なかった記憶。仲間たちの姿を見て、クロードは言った。
「よかった。みんな何事もなくて……」
「あら、何事もないだなんてよく言えますわね。ここがどこかも分からないっていいますのに」
 セリーヌは冗談めかしていったが、確かにそれが一番重要なことだった。一同は、そろって辺りに視線を走らせた。だが、やはり見たこともないような場所だ。美しいには違いないが、観光に来たわけじゃない。
「まさか天国、なんてこと、ないよね?」
 恐る恐るアシュトンが言うと、それを否定する声があがった。
「天国なんかじゃないわ」
 レナだった。だが、その目はアシュトンでも誰でもない方向を見ていた。そしてはっきりとした口調で言う。
「ここはネーデの『外壁楽園』と呼ばれる所よ」
「……え?」
 クロードには、レナの言葉が推測であるとは思えなかった。『ガイヘキラクエン』などというわけの分からない言葉を使って断言するからには、何か確固たる根拠があるはずだった。しかし、その根拠が分からず、現実味が感じられなかった。
「それって……どーゆーコト?」
 プリシスはレナの顔をのぞいて、その眉が戦慄わななき唇が震えているのが分かった。瞳はどことも知れない場所を見つめている。
「レナ?」
 プリシスが心配そうに首を傾げたのと同時に、レナは両手で頭を押さえ、膝を崩して地面に座り込んだ。
「くうっ……、いやっ……」
 レナはかすれそうな細い声でうめいた。クロードは膝をついてレナの肩に手を置いた。
「レナ、どうしたんだい?」
 しばらくの間レナは唇をかみ締めながら震えていたが、一度唾を飲み込むと今度は大きく息を吐いた。肩が大きく上下する。
「……大丈夫よ、平気」
「でも……」
 心配するクロードを横目に、レナは立ち上がって歩き出した。
「こっちよ」
「レナ、一体どうしたんだ?」
 立ち止まり、背中を向けたままレナは答えた。
「分からないの。ただ、こっちに行かなきゃ、ってことだけは分かる」
 クロードたちは顔を見合わせた。プリシスがふとあることを思い出す。
「やっぱ、それってレナがネーデジンとかだから分かるのかな?」
 クロードはどきっとする。対照的にレナの声は落ち着いていた。
「それもよく分からない……。でも、ここの空気に触れていると心が落ち着くの。今までの不安がみんな消えていく感じがする……。ちいさい頃から知っている……そんな気がするの」
 レナは振り返り、まっすぐに仲間を見る。
「だからここはきっと……ネーデなんだと思う」
 レナは笑ってこそいなかったが、この場にいることに安堵を感じているように見えた。クロードたちには何も言えなかった。ただ、レナの言葉を信じるしかない。
 アシュトンが何かに気付いた。
「そういえばクロード、君も『他の星の人』って言われてたよね?」
 クロードは頷いた。
「僕は……突発的な事故に遭遇して、他の星からエクスペルに飛ばされたんだ……」
 視線をアシュトンから青黝い髪の少女に移す。
「そして神護の森でレナと出会った……」
「……そう、だったんだ」
 レナはそれだけを言った。他人のことを考える余裕はあまりないのかもしれない。
 セリーヌ、アシュトン、プリシスの視線がクロードに注がれる。クロードは後ろめたさを感じた。今まで自分の素性を隠していた上に、それを他人の口から明らかにされてしまった。バレてしまったことよりも、自分から言えなかったことがより一層その気持ちを強くする。
「ボクは別に気にしないよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。今までと何も変わらないよ!」
 頬を紅潮させ、半ばむきになるような形でレオンは声をあげた。クロードはゆっくりと白衣の少年を見下ろし、微笑んだ。
「……ありがとう」
 レオンは笑顔を閃かせ、他の面々もそれぞれの顔に笑みを浮かべた。クロードは気恥ずかしくなって、頭をかいた。
「い、いつまでもここにいるわけにはいかないし、レナの言うほうへ行ってみようか」

 艶を抑えた黄色い砂利の敷き詰められた道。その両脇では色とりどりの草花が風に踊り、樹々が柔らかな緑色を放つ。そんな道を、クロードたちは歩いていた。エクスペルが崩壊し新たな敵が現れたことを思い出しても、心が躍るのを抑えるのは難しかった。樹々の間から小鳥たちが一斉に飛び立ち、青い空の向こうへ消えていく。
「そういえばさぁ、オヤジたちってどうしてるのかなぁ?」
 今にもスキップしそうな足取りでプリシスは言った。クロードは心が重くなるのを感じる。エクスペルはおそらく跡形もなく消えてしまっているはず。無事であるはずがない。
 ふと見たレナの顔は、若干ながら強張っているように見えた。レナにも分かるのだろうか。ここをネーデだと認識したのと同じように。
「大丈夫! きっと元気にしてる。みんな私たちの帰りを首を長くして待ってるはずよ」
「レナ……」
「きっとそうよ」
 レナは真っ直ぐ前を見たまま強い調子で言い、一歩ずつ自分の信じるほうへと歩いていった。

 角の丸い三角形の土台。その三つの頂点から柱が伸びて、同じく三角形をした屋根を支えている。淡い褐色の石でできたその建造物は、崖の淵にあった。その先にはもっと高いところから流れ落ちる滝があり、水が湖面に叩きつけられる音がはるか下のほうから聞こえてくる。どうやら、ここで行き止まりのようだ。
「これ以上は進めないようですけれど……?」
 腕を組んで、セリーヌは辺りを見回す。レナは構わず建造物のほうへ歩いていった。クロードたちも少々の不安を感じながら後に続く。
「これは?」
 レナに聞いてみたつもりだったが、彼女にも分からないようだ。ただ、じっとそれを見上げている。
 クロードは、それをよく観察してみた。表面は粗いが、これはもともとがそういう材質の石のようだ。ところどころに文字らしいものが刻まれているが、風化のためか見づらい部分が多い。ぱっと見た印象では何かの遺跡かとも思えたが、その割にはあまりにもしっかり建ちすぎていた。
『中にお入りください』
 突然、どこからともなく男の声が聞こえて、一同は身構え、姿を探した。だが、誰もいなかった。
『怪しい者ではありません。とにかく、そのトランスポートにお入りください。そうすれば全てが分かります』
 まるで、今の自分たちの行動を見ていたかのようなセリフ。これで怪しまずにはいられない。しかし、これが『トランスポート』だとするならば……、クロードにはその役割が分かる。
「そんな簡単に信用できないよ。おじさんは誰なの!?」
 レオンが空に向かって叫んだが、応答はなかった。
「……行ってみましょう」
 屋根を見上げながら、レナは言った。
「レナ?」
 ゆっくりと、レナの視線がクロードへと移っていく。
「大丈夫……。この声は信じてもいい。そんな気がするの……」
 クロードは、レナの深く澄んだ瞳を見た。まっすぐに自分を射抜いてくる。行きたい、ついてきて欲しい、と言っている。しかし、クロードには何も言えなかった。まるでレナがどこか別の世界にいるような気がした。
「レナがそう言うんだったら行ってみてもいいかな」
 プリシスが頭の後ろで両手を組みながら言った。それを聞いて、クロードは我に帰る。
「よし……、行ってみよう」
 レナは少しだけ微笑んで、三角形の台の上に乗った。クロード、プリシスも乗り、アシュトンが乗って、セリーヌとレオンは気が進まない、という顔で台に上がった。すると足元に光の点が現れ、それが軌跡を残しながらぐるぐると円を描き、その半径をだんだんと大きくしながらなおかつせり上がって、幾本もの細い光の柱がクロードたちを取り巻いた。
 視界が青白くぼやけていく。

 青白かった視界が徐々にはっきりとしてくる。
 光の柱はだんだんと低くなっていき、足元に消えた。
「ここは……どこ?」
 部屋の中であることに間違いはなかった。先程の遺跡のような建造物はなく、代わりにクロードたちはガラスの筒の中に入っていた。目の前のガラスが四角く切り取られたようになっていて、そこから階段に通じている。
「なんだかすごいところに来ちゃったみたいだね……」
 部屋の様子は、アーリアやマーズやヒルトンのものとは大きく違っていた。エクスペルの建物は大抵が木や石造りだが、この部屋には加工された金属が多く使われていた。クロードたちをここへ運んだこの装置も金属製だ。見慣れないものも幾つかある。だが、薄暗く、はっきりとは認識できなかった。
「とにかく、ここを出よう」
 装置から降り、金属の柵で囲われた通路を通って隣の部屋に入る。明るい光が目に染みた。
「お待ちしておりました」
 奥のほうから、男性の声がした。さっき聴いたばかりの声。
 見ると、額のやや広い、土色の長髪を持つ男性が立っていた。声と顔の皺からして五十歳から六十歳くらいだろうか。落ち着いた紫色のローブをまとい、穏やかな表情でクロードたちを見ている。
「あなたは、さっきの声の……」
 レナが言うと、男性は頷いた。
「はい。あなたたちをここへ招き入れたのは私です。私は、このセントラルシティの市長を務めておりますナールと申します」
「せんとらりしてぃ?」
 プリシスが素っ頓狂な声をあげる。市長の男性は一つ咳払いをして、
「セントラルシティ、です」
「ここは、ネー……デじゃないんですか?」
「ネーデですよ。セントラルシティは、ネーデにある都市の一つです」
 クロードたちは、互いに顔を見合わせた。やはり、というべきか。ここはネーデという場所のようだ。しかし、まだ実感がない。
「あなたがたがなぜネーデと呼ばれる場所に来てしまったか、お分かりですか?」
「いいえ……」
「僕たちはエルリアの塔で怪しい男たちと戦っていて……。それで、気が付いたらここにいたんです」
 ナール市長はゆっくりと頷いた。
「おそらく……あなたがたは、彼らがネーデへ飛ぶ際に巻き込まれる形で、ここに飛ばされたのです」
「その彼ら、っていうのは何者なんですの?」
 ナール市長はすぐには答えず、壁際に置かれた書棚の前に立った。
「彼らは、『神の十賢者』と呼ばれる者たちです。彼らのことを語るには、ネーデの過去の過ちを語らねばなりません……」
「過ち?」
 市長は分厚く大きな判の本を取り出すと、自分の椅子に腰掛けてそれを執務卓の上に置いた。近くに来るよう、クロードたちに目で促す。
「今から三十七億年前、ネーデは一つの惑星でした」
「でした……って今は惑星じゃないの?」
 レオンが訊ねる。
「今のネーデは天然の惑星ではないのですよ。高エネルギーのフィールドに覆われた人工の惑星、それが現在のネーデ、『エナジーネーデ』なのです」
 カルナスから見たあの高エネルギー体が、つまりはネーデだということだろうか。
 クロードたちが集まったことを確認すると、ナール市長は本を開いた。古びていて紙が脆くなっているが、文字はきちんと読めた。初めのページは、一つの太陽と惑星、そして瞬く星々の海。
「三十七億年前といえば、未だエクスペルは宇宙に存在していなかった時代です。その当時ネーデは、宇宙でも比類する星がないほど高度な魔法科学を持った惑星でした」
 文字だけのページを飛ばしていき、次の絵が現れる。王宮の会議室のような場所で一堂に集う人々。よく見ると、青い肌の人や、後頭部からトカゲの尻尾のようなものが生えている人もいる。
「そのため、銀河系のあらゆる惑星がネーデの統治下に集まることになりました。しかしそれは強制的なものではなく、お互いが共存し合うという、理想に近い形だったと聞いています。しかし、そのような世界でも、邪心を持つものは存在するのです……」
 市長は声の調子を落とし、ページを大きく飛ばした。見開き一杯の燃え盛る街の絵。
「それが、『神の十賢者』と名乗る者たちでした。彼らは惑星間の共存ではなく、銀河全体の支配を望んだのです」
 街の中を逃げ惑う人々の上空には、黒い人影が描かれている。これが十賢者というものなのだろうか。
「十人の恐るべき狂信者たちは、強大な力で、まずネーデそのものを手中に収めようとしました。彼らの攻撃を受け、ネーデの主要都市は次々と攻め落とされていきました」
 次のページには、やはり宙を舞う者と鎧兜を身に付けた戦士が対峙する場面が描かれていた。そして、無残に殺された人々の亡骸と赤い炎に包まれる家々。
「彼らは自分たちに従わない人々をすべて抹殺しました。そう……たとえ女子供であろうと無慈悲に殺戮したのです。ネーデ軍も総力を結集して対抗したのですが……。彼らの力は強大で、とても邪悪なものでした。結局はかなわず、撤退を余儀なくされたのです。しかし彼らの暴挙はそれ以上長くは続きませんでした……」
 市長は次のページを開いた。
「ネーデ軍は最後の力を振り絞り戦いました。そして何週間にも及ぶ死闘の末、ついに十賢者を打ち破ることに成功したのです」
 二人の男が天空に両手を掲げ、雲のようなものに十賢者らしき人間を追いやっている絵だった。
「ネーデの人々は彼らを処罰するために、エタニティースペースと呼ばれる一度入ったら二度と出ることができない特殊空間の牢に封じ込めました。戦いはネーデ軍が勝利したのです」
 次のページは青く輝く惑星だった。広大な海と白い雲を有する星。
「しかしこの戦いを経て、ネーデ人は自らの持つ絶大な力にようやく気付きました。たとえその気がなかったとしても、我々は全宇宙を支配するだけの科学力を身につけてしまったのです。もし、再び十賢者のような者が現れたとしたら……。再びネーデは戦乱の渦に巻き込まれてしまう。それは誰も望まないことでした。そこで長い会議の末、奇才であるランティス博士の提唱したある一つの結論に達しました」
 ナール市長はページをどんどん飛ばした。
「それは……自らの進化と、ネーデの力の封印です……」
 目的のページを開き、手の平でぎゅっと折り目をつける。そこには、先程の美しい惑星が今まさに破裂する瞬間が描かれていた。
「惑星ネーデは、ネーデ人自らの手で破壊されました。ネーデ人は全て、高エネルギー体の中に作られた居住区『エナジーネーデ』に移住することになりました。エナジーネーデを覆うエネルギー体は外界とネーデとの行き来を禁じるためのものです。そしてネーデは外の世界と断絶しました……」
 市長は本を閉じ、一呼吸おいてからクロードたちを見上げた。少し疲労の跡が見られる。
「後はみなさんのご覧になった通りです。エタニティースペースに封じ込め、銀河に放逐したはずの彼らがどのようにして脱出し、エクスペルに辿り着いたかは分かりません。しかし、事実として、彼らはエタニティースペースを抜け、再びネーデへと舞い戻りました。銀河の支配者として君臨するために……」
「神の十賢者、か……」
 クロードは深いため息をついた。三十七億年前、地球に原始生命が誕生したかしなかったかという頃に、地球連邦に似た全銀河レベルの共同体があったとは。途方もない話だった。
「はい。強大な力を持つガブリエルをリーダーとし、知略に長けたルシフェルが参謀を務めます。その下にはミカエル以下8人の配下が付き従っています。恐るべき狂信者たちです。詳しくは図書館にあるデータベースを参照していただければ……」
 市長は本を持って、書棚へと向かった。
「あなたたちは、その十賢者がここに戻ってくることに気付かなかったんですの?」
 セリーヌの問いに、市長は本をしまう動作を中断して目を伏せた。
「はい。エクスペルの公転軌道に異常が生じ始めた時には、もう全てが遅すぎたのです……」
 憮然とした表情で、セリーヌは腕を組みなおした。クロードが新しい疑問を提示する。
「それで、僕たちはなぜあなたに呼ばれたのですか?」
 本を元の場所に戻し、振り向いてクロードたちを見据える。
「あなたたちに、可能性があるからです」
 クロードは二、三度瞬きして、言われたことを頭の中で分析してみた。が、分からない。
「どういうことですか?」
「十賢者は今、このエナジーネーデで銀河支配のための準備を進めています。しかし、現在の我々の力は、かつて彼らを封じ込めた時ほどの力は残っていないのです」
「それって、ボクたちの力を貸して欲しいってこと?」
 レオンは首を傾げ、ナール市長は点頭した。
「そうです。それに……我々と十賢者の力は同質です。結局は強い方が勝ちます。必要なのは異質な力なのです」
 クロードたちは再び顔を見合わせた。
「異質な力……か。どうする?」
 レナは、ためらわず、力のこもった声で答えた。
「私たちがここにいる以上、やるしかない……と思う。それに十賢者の目的が銀河支配ならエクスペルも狙われるわけだし……」
「まあ、いいんじゃないんですの」
 セリーヌは声に出して言い、アシュトン、プリシス、レオンも頷いた。
「ありがとうございます」
 市長はそう言って執務卓に戻り、今度は地図を広げた。南北に長い、島か大陸の地図だ。
「早速ですが時間がありません。あなたがたには迅速に行動を起こしてもらいたいと思います」
「何をすればいいんですか?」
 そう質問しながら、レナの視線は地図の上にある。
「最初になすべきことは、ネーデ内での移動手段の確保です」
 クロードたちは、一斉に首を捻った。
「さっきのトランスポートとかってのを使えばいいんじゃないの?」
 プリシスがもっともな意見を述べる。
「いえ、あれは、主要施設に設置してあるだけです。通常の移動に際してはサイナードという飛行紋章生物を利用してもらいます」
「サイナード?」
 ナール市長は頷いて、地図の南端にある点を示した。
「ここが、今我々のいるセントラルシティです。ここを出て北に行くとノースシティという街があります。そこにはサイナードの飼育場『ホーム』があるのです。街の人に聞いていただければすぐに分かるでしょう。先程申した図書館もここにあります。ネーデの歴史や科学研究報告書など参考になる文献が豊富に収められています。十賢者たちの活動が始まるのも今日明日のことではないはず。じっくり研究しておくのも手だと思います」
「分かりました」
 クロードは、頭の中でするべきことをまとめた。
「じゃあ、早速ノースシティに行こう」
 クロードたちは新たな使命感のもとに退室しようとしたが、ナールは引き止めた。ある一人を。
「レナさん」
 今思い出したことに、クロードたちは市長の名前は知っていても自分たちの名前を告げてはいなかった。それなのに、彼はレナの名を呼んだのだ。
「どうして……私の名前を?」
 レナの声には驚きと同時に若干の恐怖感が混じっていた。
「あなただけにお話があります。少しだけ、残ってもらえないでしょうか?」

 レナ以外の面々は市長の部屋を出て、廊下で待っていた。よく磨かれた白と黒の市松模様の床。壁には木が使われている部分も見受けられる。市長の部屋もそうだったが、全てが全てトランスポートの部屋のように金属ばかりではないようだ。見ようによってはクロスの王国ホテルのようでもある。ただし、隅には自動販売機が置かれるなどクロードにとっては進んでいるのか遅れているのかよく分からない場所だった。他の仲間たちは初め、一部の見慣れないものに興味を示したが、やがて飽きてしまうと壁に寄りかかるなどしてレナが戻ってくるのをじっと待っていた。
「レナ、なにを話しているのかな」
 市長室の扉をちらちらと見ながら、アシュトンは言った。
「僕たちが考えることじゃないさ」
「そうかもしれないけどね……」
 クロードは壁から離れて、仲間たちのほうを見た。
「レナは今、本当の自分自身に立ち向かおうとしてるんだ。だからきっと、僕たちにできることはなにもないよ」
 そのとき、ドアの開く音がした。レナと市長が出てくる。
「すみません、お待たせしてしまったようで」
 市長の顔は穏やかだった。表情から会話の内容を推測することはできない。
「いえ、そんなことはありません」
「では、私はこれで」
 ナール市長が部屋に戻るのを確認すると、レナは改めて言った。
「ごめんね、待たせちゃって」
「あら、平気ですわよ。クロード以外は……」
 図星を指されてクロードは焦り、レナは不思議そうにクロードを見つめた。さっきのセリフを聞かれたかもしれないと思うと、恥ずかしくないはずがなかった。
「レナ、あのさ……」
 頭の後ろをかく。
「なぁに?」
「いや、その……」
 クロードはほんのりと頬を染めながら、視線を逸らした。レナはくすっと笑う。
「私は大丈夫よ」
 ゆっくりと、レナを見る。笑顔の底に固い決意が感じられた。
「進みましょう、答えに向かって」
「ああ」
 ……心配だった。何の前触れもなく突然他の星の人にされてしまった彼女が。しかし、レナは大きな転機を前にしてそれに飲み込まれもせず、一切拒絶するのでもなく、受け容れて新たな自分を探そうとしている。彼女の旅の目的は何だった? それを考えれば、むしろ状況は好転しているのかもしれない。その代償は大きかったけれど、それを無駄にしないためにも全力を尽くそう。君が悲しむのは見たくないから。

「げっ……」
 チサト・マディソンは思わず声を漏らした。他人に気付かれていないか、と周囲を見回したが、みなデスクに向かって懸命に自分の仕事をしていた。コンピュータ端末に記事を打ち込んだり、紙面のレイアウトを考えたり、支社と連絡をとったり……。ほっと胸を撫で下ろしたが、安心してばかりもいられない。何しろ一週間かけて追いかけてきた事件の記録が全て消えてしまったのだから。画面には『データは存在しません』という無情なメッセージが表示されている。
 ここは、セントラルシティの中枢セントラルホールの三階にあるネーデ新聞社。毎日のちょっとした出来事から何ヶ月にも渡る大事件までを、テレビにはない正確さを売りに全ネーデへ発信する。とはいえ三十七億年に渡ってほぼ平和に存続してきたこのエナジーネーデではさほど大きな事件は起きない。年に三度起きることはまずない。一件も起きない年だってある。平和の証ではあるが、記者たちにとっては物足りないところでもあるのだ。ところが一週間前、九ヵ月ぶりに事件と呼べる事件が発生した。政府のとある施設に何者かが侵入し、機密ファイルを盗み出したのだ。ネーデの警察は優秀だが動きが鈍く、事件は一向に解決の兆しを見せない。しかし、ネーデ新聞社一の敏腕記者(を自称する)チサト・マディソンは、たった一週間で事件の核心に迫っていた。それなのに、あともう少しで全貌が明らかになるというところでデータが吹っ飛んでしまった。もちろん概要は記憶しているが、記事にするにはやはり詳細なデータが必要だ。夢中になっていたのでバックアップもとっていない。編集長は、この久しぶりの大事件に対して明日の朝刊の一面を丸ごとくれたのだが、その締め切りまであと十二時間。先刻『神の十賢者』が舞い戻ったという報が入ったので一面はそちらにとられてしまうことになったが、チサトの記事にもそれなりに紙面を割いてくれるという。だが、一週間あちこち歩き回って警備の目をかい潜り必死の思いで手に入れた資料を今から集め直すのは、まず無理な話だった。
「どうしよう……」
 チサトはがっくりと肩を落とし、短めにカッとされた赤毛を揺らした。入社して二年、小さな仕事も精力的にこなしてようやく今回大きな記事を任されたというのに、締め切り直前になってダメにしてしまうとは。データが消えたのはコンピュータのせいだが、バックアップしておかなかったのは自分のせいだ。張り切っていただけに落胆の度合いも大きかった。
 みんなが十賢者の件で忙しくする中一人落ち込んでいると、別の記者が編集室に駆け込んできた。
「急報です! あの惑星から、十賢者と一緒にテレポートしてきた人たちが!!」
「なんだと? 他にも誰か来ていたというのか!?」
 老練な編集長を含め、編集者全員がざわめく。
「いま、ナール市長との会談を終えてシティホールを出て行ったとか!」
「オサトー君! 君の担当だぞ!」
 編集長が若い新人記者を指名する。
「はっ、はいっ!」
「それからチサト君、君の明日の記事は残念だが……」
 振り向いた先にあの鮮烈な赤毛のないことに気付いて、編集長は口をぽかんと開けて凍りついた。穏和な副編集長が苦笑混じりにつぶやく。
「あの熱血娘は、まったく……」

 ──やるのよ、チサト!
 シティホールの階段を駆け下りながら、チサトは心の中で自分を励ました。副編集長がこぼしたように、彼女は同僚の記者たちから『熱血娘』の異称を頂戴し、それを誇りにすら思っていた。危険を顧みず、場合によっては体を張って、真実を追究することに命を賭ける。ただ、ときに先走ったり、取材に夢中になるあまり不注意になることがあり、同僚たちが『熱血娘』と呼ぶのにはそういう意味も含まれていた。今回自分の仕事を放り出してまで異邦人を取材しに行った(と思われる)のも、そんな『熱血娘』魂の発露だと同僚たちは思った。
 もちろん、今日はそれだけではない。自分のミスは、自分の足で補う。
 ──そして、大スクープを手に入れるのよ!

「四階には『ネーデ出版社』、三階には『ネーデ新聞社』が入っております。シティホールは単なる役所ではなく、全ネーデの情報の中心地でもあるのです」
 クロードたちはシティホールの階段をのろりのろりと降りながら、ナール市長が案内人としてつけてくれた彼の秘書官から説明を受けていた。市長室のあった五階と比べて別段変わったところがあるわけでもなかったが、傷も凹みもない壁や埃一つ落ちていない上に今にも滑りそうなくらいに磨かれた床にはため息が出る。柱は円筒形で、これもまたよく磨かれている。所々に観葉植物が置かれ、壁には『外壁楽園』を描いたかのような美しい絵がいくつも飾られていた。それらは単なる飾り物ではなく、建物自体や他の装飾品と調和しており、整った、それでいて丸く穏やかな雰囲気が心を落ち着かせた。ちょっとした美術館のような趣もある。
 特別な設備もなく憩いの場のようになっている一階に降りてくると、秘書官は立ち止まり、振り向いた。透き通った若葉色の髪を持つ美しい女性だ。ふと、彼女の耳の先が尖っていることにクロードは気づいた。
「もうすぐ四時になるところですが、どうしましょうか。市長には宿に案内するよう言われているのですが、その前に街をご覧になりますか? お疲れのようならホテルへご案内しますが」
 クロードたちは顔を見合わせた。そういえば、不思議なことに全く疲労感がない。新しいことが次々に起こったせいで気分が昂揚しているためかもしれないが、それにしてももう少し疲れがあってもよさそうなものだ。なにしろあのエルリアタワーを命懸けで上ったのだから。
「あたしはもっといろいろ見てみたいな~」
 プリシスが今にも飛び跳ねそうな声で言うと、賛同の声があがった。
「ボクも!」
 セリーヌやアシュトンも頷いたが、レナは少し困ったような顔をしていた。
「どうしたんだい? レナ」
 クロードに問われて、レナはゆっくりと秘書官のほうを見た。
「その……、サイナードっていうのはまだ手に入れなくてもいいんですか?」
「そうですね、早いに越したことはありませんが急ぐこともないでしょう」
「そう……ですか」
 レナは納得していないようだったが、クロードとしても少し奇妙な気がした。恐ろしい敵が舞い戻ってきたというのに、このシティホールだけを見てもどこにもそういった雰囲気が感じられない。小競り合いながらも宇宙の戦場で緊張状態を体験したことのあるクロードとしては、変だと思わずにはいられない。
「では、それほどお見せするものもありませんが、参りましょう」
 秘書官は手押しの扉を開けて、にこやかに言った。

 歩いたらかなり疲れてしまった。セリーヌたちエクスペル出身者は目新しいものの数々に終始心を躍らせていたが、クロードにはそうでもなかった。街の概観は、彼には見慣れたものだった。建築様式としては十九世紀ごろのヨーロッパ辺りのものによく似ていて、今の地球にも似たような街はいくらでもある。一見古いように見えて実は高耐久の建材で造られハイテク機器で管理運用される、というシステムはどの文明でも共通の考えかたのようだ。ただ、清潔で無駄なく整然としているという点ではネーデのほうがよほど優れている。秘書官の話によると、エナジーネーデ建設の際に全てを一から設計し、それから三十七億年もの間ほとんど変化はないという。地球の場合は古い街並みをそのまま利用していることも多いから、不便なところもままあった。
 クロスやラクールのように人がごった返すという感じではなかったが、大勢の人が外を歩いていた。みな穏やかな表情で足取りも軽く、平和な雰囲気である。服装はエクスペルにもありそうなものから地球のものに似たものまで幅広い。美的感覚が似通っているというのは非常にあり難いことである。ただし、二点特筆すべき点があった。一つは髪の色。連邦やエクスペルのように種類は様々だが、青あるいは緑系統が圧倒的に多い。半数以上はこの色で、次に多いのは赤と茶系だろうか。クロードのような金髪はほとんどおらず、今日見た中では十人いたかどうか。二つ目は耳の形。秘書官がそうであったように、みな耳の先が尖っている。レナのように。髪が青く耳が尖っているのが典型的なネーデ人だとするのなら、やはりレナはネーデ人ということになるのだろうか……。
 ホテル『ブランディワイン』のベッドに横たわりながら、クロードは目を伏せた。
 気になるのはやはりレナのことだ。秘書官が街を案内しようかと言ったときもそうだったが、目を輝かせるプリシスやレオンとは対照的に、ずっと重苦しい表情だった。明るく振る舞おうとはしているようだったが、クロードにはそれがフリであることが分かる。セリーヌも感づいているように見えた。おそらく、ナール市長と二人だけで話していたその内容に原因があるのだろう。どんな話かは分からないが、レナの出生に関することであるのはたぶん間違いない。これから、うまくやっていけるだろうか?
 ──眠れない。
 疲れているのに気になることがあって眠れない、というのは辛い体験だ。悩み事を頭から追い出そうとすると、疲れが襲ってくる。もっと疲れさせて早く眠ろうとゴロゴロ転がってみても、余計に切なくなる。
 一つ大きくため息をついて起き上がると、クロードは上着を着て廊下へ出た。ランプの炎を模した照明が暖かい。窓を見ると、外はすっかり暗くなっていた。秘書官によると、昼夜は太陽によって起こるのではなく全惑星規模の巨大なシステムによるらしい。ネーデ中が一斉に夜になり朝を迎えるのだ。
 視線を階段のほうへ移すと、別の窓から空を眺めている者がいた。尖った耳、青黝い髪、金色の髪飾り。
「レナ……」

「はあっ……、はあっ……」
 チサトは両手を膝に当てながら、肩を大きく上下させていた。耳の先まで真っ赤になっている。
 なぜこんなに時間がかかってしまったのか。我ながら間が抜けていた。僅かな情報からまずはノースシティに直行したが、標的ターゲットはまだ到着しておらず、しばらく待ってみたものの一向に来る気配もなく、やむなくセントラルシティに引き返して聞き込みをするとすでに出て行ったと言い、もう一度ノースシティに行ったがそれは誤報で再びセントラルシティに戻って街の中をぐるぐる走り回った末、ようやくホテルに宿泊中であることを突き止めた。
「でも、まだ朝刊には間に合うわよね……」
 気を取り直してカメラのファインダーをのぞく。情報によると彼らは二階と三階に泊まっているらしい。端の窓から順に見ていく……。
 いない、いない、いない、……いた。ネーディアンの少女と、耳の丸い金髪の少年。いいムード……とは言えない。
「なにかしら、なんか浮かない顔してるわね~。こんな顔の写真じゃ面白くないじゃない」

 クロードはレナと並んで、人工の空を見上げていた。大きな月が二つ。エクスペルと同じだ。心地よい風が吹き込み、金と青黝の二つの髪が揺れた。
「……ちょっと、話してもいい?」
 星々を見つめたまま、レナは言った。
「なんだい?」
 レナは少しだけ口元を緩めたが、すぐに戻してしばらく黙っていた。躊躇しているのか言葉を整理しているのか、クロードには分からなかった。
「私が神護の森で拾われたことは前に話したわよね」
「ああ」
 クロードはアーリア出発前夜のことを思い出した。本当の母親を探したい、とレナが言った夜。
「やっぱり、私はこの星で生まれたんですって」
 ナール市長から聞いた話だろう。下を向いてしまったのは、自分で言うことに大きな勇気を必要としたからか。
「私はみんなとは違うのね。生まれた星も、持っている力も。あの十賢者たちと同じ」
 顔を上げたレナの目は、揺れる水面のように輝いていた。クロードは何を言っていいのか分からなかった。レナの言うことは事実なのだろうし、クロードには否定できる根拠がないうえ、レナが何を悩んでいるのか掴みかねていた。そんな自分がもどかしい。
 不意に、レナは笑った。クロードは戸惑う。レナの顔は、笑いながら悲痛になっていった。ついに、月光に輝く湖面から水が溢れ出す。
「私ね……、アーリアの村を出ようって決めた時、ホントは怖かったの。自分が何者であるのかを知ってしまうのが。……知らないほうが良かったって、後悔するかもしれない。そう考えたら、すごく不安になって……」
 目を伏せて、涙を拭く。
「気が付いたらあなたに会いに行ってた」
 クロードは居ても立ってもいられなくなって、口を開いた。
「レオンじゃないけどさ……、レナはレナだよ。その……、どこで生まれたんだとしても、レナはウェスタお母さんの娘で、ディアスの妹で、僕たちの仲間だ」
 レナは初めてクロードのほうを向いて、目元に赤みを帯びた表情でじっと見つめた。
「あ……その……」
 クロードは頭をかいた。自分の言ったことはレナが求めていた答えとは合致しないのだろうか。もともと理性ではなく感情から出た言葉だとはいえ。ただ、今のレナに一番知って欲しいことだった。
「私が……仲間?」
 クロードは頷く。
「こんな私でも、仲間だって言ってくれるの? 私はみんなとは違う星で生まれたのよ? ウチュウ人なのよ!?」
 レナはまくし立てるように言って顔を背けた。顔が火照っているのがよく分かる。クロードはにこっと笑うと、レナの両肩を掌で包んだ。突然の行動に、レナは驚いた顔を見せた。
「そんなこと言ったら、僕だって違う星で生まれたんだよ。ここにいる誰も知らない星でね。宇宙人同士が仲良くしたって、何の問題もないだろう?」
「そう……なのかな?」
 鼻をすすり、ゆっくりとクロードを見上げる。
「そうだよ。それに、ナールさんが昔はネーデの人たちもほかの星の人と仲良くしてたって言ってたじゃないか」
 レナはクロードの手がある自分の右肩に視線を移した。そうして左手をクロードの手に重ね、胸の前に持ってきて両手で包んで微笑んだ。心から安心した顔で。
「ありがとう、クロード」
 月の光が射し、レナを白く照らす。その中で、レナは笑っていた。
「あ、うん……」
 レナはもう一度笑顔を閃かせると、手を離し、軽やかな足取りで自分の部屋へ戻っていった。
 ──足が動かない……。
 なぜだかその場から動けなくなって、クロードは顔を赤く染めたまましばらくその場に突っ立っていた。

「盗聴器を持ってくるべきだったわ……」
 ホテルの前の木陰で、チサトは舌打ちした。とりあえず何枚かの『いいシーン』をカメラに収めたものの、話の内容がさっぱり分からない。最初は神妙な顔つきだったので、恋人同士の冷たい喧嘩か別れ話かと思った。その後、突然女の子が元気になって仲直りしたのかと思ったのに、手を握っただけで奥へ消えてしまった。男の子のほうは、どういうわけか一人で立ち尽くしている。
「とりあえず、次の作戦に移らなきゃね……」
 ──時間が無いんだから。
 チサトはホテルの裏口からこっそりと中へ入っていった。

 エナジーネーデというのは、よほど噂の回りが速いのだろうか。
 朝起きて窓の外を見ると、街の人々が大勢集まって自分のほうを見上げていた。廊下に出ると、従業員だけでなくほかの宿泊者たちまでもが部屋の前に集まっていて、『クロードさん、おはようございます』と朝の挨拶を名指しで受けた。どぎまぎしながら他の部屋に眼をやると、そこでも同じ光景が繰り広げられていた。みんなでびくびくしながらカフェテリアへ行き、朝食を注文すると、『アシュトン様はフレンチトーストと目玉焼き、レオン様はキャロットジュース、セリーヌ様は……』という具合にいちいち名前を呼んで確認をとったうえに、『ワカメのお味噌汁でございます、クロード様』と、これまた一人一人名前を言う。
 しかし、まあ昨日は街の中を歩き回ったから人々の注意を惹くのは当然だろうし、泊まる前にフロントで全員の名前を書いたから名前を知られているのも当たり前だ。いちいち名前を呼ぶのはネーデここの習慣かもしれない。そう思えば不思議ではないが、なんだか落ち着かないし、名前を呼ぶときにウェイターが妙ににこにこしていたのが不気味だ。
 そんな雰囲気に圧倒され、本当の理由を聞けないままにクロードたちはノースシティへと出立した。人々の熱い視線を背に受けて。

 ノースシティは文字通りセントラルシティの北に位置するが、街というよりは村と言ったほうがよい。セントラルシティがあからさまな人工物で溢れていたのに対し、ここではより自然に近い雰囲気がある。建物は大体が木製(少なくともそう見える材質)だし、配置もそれほど意図的ではなく、背も高くなく、数も少なく、代わりに木がたくさん生えていた。レナやセリーヌはエクスペルに戻ったようにも感じたのか、どことなく落ち着いた雰囲気だ。
「セントラルシティよりも、空気がよさそうな感じがするね」
 クロードは大きく伸びをして空気を思いっきり吸い込んだ。
「そう?」
 レナも真似をして空気を吸ってみたが、とくに変わりがあるようには思えなかった。
「そういえば、初めてアーリアに来たときに『空気がきれい』みたいなこと言ってたけど、チキュウにもセントラルシティみたいな街があるの?」
「う~ん、そういう街もあるね。見た目だけなら」
「見た目だけ?」
 クロードは頷いて話を続けようとしたが、二つの顔の間に割って入る者がいた。三角形の紫帽子が目に映る。
「お話もいいですけれど、せめて歩きながらにしませんこと?」
 セリーヌはそう言って、街の奥のほうを指差した。高台の上に塔のような高い建物と、倉庫のように大きな四角い建物があった。それぞれ、図書館とサイナードの飼育場なのだという。街の人から聞いたのだそうだ。
「図書館かぁ、行ってみたいなぁ」
 レオンは目を輝かせた。
「まあ、それもいいけど、先に、そのサイナードっていうのを手に入れなきゃな」
 クロードはそう言って歩き出すと、レナに地球の街について話し始めた。何も隠すことがない、というのは気持ちのいいものだ。そして、レナはそれを興味深そうに聞いていた。

 ──来た、来た、来た。
 標的たちは高台への階段を上ってくる。昨日は既にホテルに入った後だったから無理だったが、全員が一緒にいる写真を撮る絶好のチャンス! 今日の朝刊に載せた一連の写真が好評だったので、チサトは正式にクロードたちの記事の担当になった。だが、注意しないと気付かれてしまうかもしれない。ほかのメンバーはそうでもないが、あの藤色の髪の女だけは妙に勘が鋭くて、昨日隠し撮りをしたときにも彼女だけで一時間を費やしてしまった。だが、まあ誰も屋根の上にいるとは思うまい。何を隠そう、ここはチサトの実家の道具屋ショップなのだ。
 ──アシュトン、邪魔よ! レオン君が隠れちゃってるじゃないの!
 『アシュトン・アンカース、推定年齢二十歳。身長百八十センチ。龍の形をしたナニかを背につけている。寝相はよいが顔が少し頼りない』
 『レオン・D・S・ゲーステ、推定年齢十歳。身長百三十五センチ。猫のような耳を持つが、実際にこっそり触ってみたところ、本物のようだ。(注:要チェック)』
 アシュトンはどかなかったが、代わりにレオン君のほうが前に出てきてくれた。
 ──いいわよ~。はい、チーズ♪
 本日の作戦その一を完遂。その二は個人的な任務だ。
 ──もう少し体を前に出して、この特注望遠レンズで可愛いレ……。

 どすん、と何かが屋根の上から落ちてきた。クロードは反射的に身構え、レナは驚いてクロードに身を寄せ、セリーヌは冷静に視線を移し、プリシスは落ちてきたものよりも屋根の上を見、レオンは砂埃に巻かれてむせ返り、アシュトンは足を滑らせて階段の下まで転がっていった。
 落ちてきたのは、赤い髪の女性だった。上半身は黒いスーツのようだが、下半身は赤いハーフパンツとスポーツシューズ。手には長いレンズの付いたカメラを持ち、何者なのか容易に判断つけがたかった。だが、考える間もないまま、その女性は立ち上がり、あたふたと非常に焦った顔を赤くして愛想笑いを浮かべながら道具屋の裏へと走り去った。だが、完全に姿を消す前にすっころんで、『いたたっっ!』という声を残していった。
 クロードたちは、人が空から降ってきたこともさることながら、その人間が傷一つないかのように立ち上がり意味深な顔で逃げ出して転んで消えた、ということに唖然とし、落下地点を口を開けたまま見つめていた。

 倉庫のように大きな建物の中は床から天井までが吹き抜けになっていて、壁は明るく艶のある木の長板で詰められ、床には丹念に織り込まれた赤い絨毯が敷かれていた。カウンターを備えた受付や二階へと通じる大きな階段もある。およそ『飼育場』という雰囲気ではなかった。
「クロードさん」
 入った早々呼びかけられ、声の主を探す。受付のほうから、滑らかな茶色い髪の女性がにこやかに歩いてきた。どうやら、この人も名前を知っているようである。そういえば、先程セリーヌにこの場所を教えてくれた人も名前を知っていたという。何がどうなっているのやら。
「ようこそいらっしゃいました。館長がお待ちです。こちらへどうぞ」
 そう言うと、女性は何の確認もせずに左手奥の部屋へと歩いていってしまった。クロードたちは訝しげに首を傾げながら、ぞろぞろとついていった。
 通された部屋には、接客用のソファーとテーブル、それに大きな執務卓が置かれていた。内装は先刻の受付のある部屋と同じだが、天井は低い。ただ、それでも二階分はありそうだった。執務卓には白衣を着た原色の青としか言いようのない髪の男性が腰掛けており、クロードたちの入室と同時に立ち上がった。
「ようこそ、はじめまして。館長のアーティスです」
 妙に愛想のいい顔で、館長は積極的に握手をしてきた。
「話は聞いています。あなたがたのためのサイナードの作成は、彼が担当します」
 アーティス館長はソファに控えていた若い研究員を指す。濃い草色の髪のその研究員は、立ち上がって会釈をした。その表情にどこか翳りがあるように、クロードには思えた。
 研究員が何も言わないのでクロードは自分から挨拶してみたが、結局ぶすっとして何も答えてくれなかった。代わりにプリシスが質問をする。
「作成って、どーゆーコト? ここにはサイナードってのが一杯いるんじゃないの?」
 もっともな話だった。自分たちはサイナードの『飼育場』に来たはずなのに。館長は二、三度瞬きをしてからにっこりと笑い、説明した。
「サイナードは確かに生き物です。正確には紋章飛行生物と言いますがね。まあ、空を飛ぶので移動用に使うのには便利なのですが、扱いが難しい。そこで主人に従順にするために、最初に飼い主のデータを脳に刻み込んでしまうのです」
「刻み込むぅ? 頭を切るの?」
 アーティス館長は首を振る。
「違いますよ。電気的な刺激を与えることで、初めから主人の顔や匂いなどを覚えさせてしまうのです」
 プリシスは首をひねった。分かったような、分からないような、という顔だ。クロードにはもちろん理解できるが、あまり人道的な方法ではないなと思った。
「それって、可愛そうじゃありませんか?」
「確かに、そう言う人もいます。しかし、我々が飼育しているサイナード自体が既に人工的に交配され乗用に遺伝子設計されたものですから、そう間違ったことでもないでしょう」
 クロードは何か言い返そうと思ったが、やめておいた。星によって倫理観も違うし、第一自分たちにはサイナードが必要なのだ。
「さあ、あまり時間がありません。データの入力は成長期の最終段階、それも僅か数時間の間に行われる必要がありますから。あとは、彼の指示に従ってください」
 館長が言うと、研究員は一つため息をついてから、
「こちらへ」
 と、嫌そうに言って部屋を出て行った。館長の熱烈な歓迎ぶりとは正反対の応対に戸惑いつつ、クロードたちは入ったばかりの部屋から退出した。
「何か様子がおかしいですわね……」
 セリーヌは口に出していった。クロードは彼女が担当の研究員のことを言っているのかと思ったが、セリーヌの視線は資料や器具を運ぶ別の研究員たちに注がれていた。二階への階段を上っていく自分たちを、人によっては睨むような目で見ている。どうやら歓迎してくれているのは館長一人だけのようだ。
 二階に上がって通路を歩き、隣の部屋へと入っていく。
「なに、これ……」
 そこは三階分をぶち抜いた巨大な石造りの部屋で、二階の部分に渡り廊下が造られていた。クロードたちは、今そこに立ち尽くしている。下には大きな透明な筒のような装置三つあり、中にはそれぞれ得体の知れない青い生物が逆さ吊りに浮かんでいた。装置から低い振動音が聞こえてくる。
「もしかして、これがサイナード?」
 レオンは渡り廊下の柵にしがみつきながら、その生物を見た。
「そうです。しばらく準備がありますから、ここで待っていてください」
 研究員は無知な田舎者を馬鹿にするような口調で言い、奥の部屋へと消えていった。
「これでどうやって『飼育』しているのかしら」
 三つの装置には、大中小、それぞれの大きさのサイナードが入っていた。それぞれ別の成長段階にあるのだろう。となれば、自分たちが乗るのは必然的にこの一番大きなサイナードということになる。クロードも、身を乗り出してよく観察してみた。
「さあ……、どうやるんだろうね」
 青いと思ったが青いのは頭や足、それに腹の部分で、背中から後ろは朱色だった。非常に目立つ。皮膚は硬そうで、光をよく反射する。たぶん、昆虫のように外骨格なのだろう。背中の中ほどから羽根が生えていた。とはいっても鳥のような羽ではなく、かといって蝙蝠のようでもなく、ただ非常に薄い何かで出来ているようだった。顔は、下のほうにあるのでよく見えない。
「ギャウギャウ」
 ギョロが中くらいのサイナードのほうを見ながら吼えた。
「どうしたんだい?」
 アシュトンは訊ね、ウルルンは首を傾げた。
「ギャフ、ギャフ」
「へぇ~」
 アシュトンは一人で笑い、ウルルンは何か嫌そうな顔になった。が、他の誰にも何が起きているのかは分からない。
「ギョロは、なんて言ってるんですの?」
「うん、あのサイナードが気に入ったんだって」
 と、中くらいのサイナードを指す。他のサイナードと見比べてみるが、大きさ以外に何か違いがあるようには見えなかった。
「ねえクロード。私たちがエナジーネーデにいることをエクスペルの人に伝える方法ってないのかしら?」
「えっ?」
 突然の質問にクロードは困惑する。
「そうですわね。エクスペルから見たら、わたくしたちは消えてしまったことになるんですものね」
 みんな、クロードなら知っているかもしれない、という期待の目を向ける。クロードは、確かに知っていた。その手段の無いことを。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
 顔に出てしまったのだろうか。レオンが心配そうに見上げてきた。
「いや……」
「準備できました。どうぞ」
 面倒くさそうな声が割り込み、仲間たちの注意はそちらへと移った。クロードは心の中でため息をつく。自分がみんなに隠していることは、一つではなかったのだ。

 研究員が『入力室』と呼んだその部屋は非常に狭く、仲間六人と研究員二人がいるだけでとても窮屈に感じる。受付や館長室と同じ内装だが何か透明な仕切りで二つに分かれており、奥の部屋はもっと狭かった。ただ、よく見るとその透明なものはただの仕切りではなく、何かの文字や映像を映しており、一種のディスプレイであるようだった。クロードには馴染み深いものだが、レオンなどは何かが反射して映り込んでいるものと思って、その本体を探すためにきょろきょろと落ち着かない様子だった。
「では……、クロードさんのデータから始めます。そちらの奥に進んで下さい。痛いことはしませんから」
 館長から紹介されたのとは違う女性の研究員が、手に持ったリストを見ながら言った。クロードはその言葉に従って、透明ディスプレイの奥の部屋に入る。だが、そこには何もなかった。ディスプレイの向こうに仲間の姿が見えるだけである。
「いいと言うまでじっとしていてください。すぐに終わります」
 彼女もまた無愛想な声でいい、男性研究員に合図を送った。残念ながらクロードの位置からは姿を確認できないが、彼が『データの入力』というのをやるのだろう。地球の常識から言えばそう簡単に終わるものではないはずだが……。
「はい、もう結構です」
 クロードはきょとんとして女性研究員を見、自分の手足を見て、もう一度彼女を見た。
「もういいんですか?」
 女性研究員は無言で頷き、リストに視線を落とした。そして、少しだけ口元を緩める。
「次はレナさん、どうぞお入りください」
「は、はいっ」
 緊張した顔で前を通り過ぎるレナに、女性研究員は声をかけた。その調子は意外にも明るかった。
「あなたはネーデ人だから、安心してデータが入力できます」
 レナの次はセリーヌ、アシュトン、と順にデータの入力が行われていったが、その間どちらの研究員もむすっとしていた。ただ一度レナのときだけを除いて。
「それでは、全ての処理が終わるまでそちらで待っていてください」
 女性研究員は背後にあるソファを指差し、壁に埋め込まれた端末や透明ディスプレイに向かって男性研究員と一緒に何やら作業を始めた。クロードたちは言われたとおりのソファに腰掛けたが、それから十分間お茶一つ出てはこなかった。

「えーっと、ここがこうで、これがこうなって……」
 反射的に受け身を取ったので特に怪我は無かったが、右足首が少しだけ痛む。だが、今はそれよりもカメラの修理だ。時間的には、あと数分のうちに六人分のデータ入力が終わってしまう。急がなければサイナードに乗って空へと羽ばたく雄姿を撮り損ねることになる。たまたまここが実家だったから工具や手入れキットが揃っていたが、これが遥か遠くの地だったらと考えると恐ろしい。とはいえ、どこをどう間違えたのか屋根から落ちるときはカメラをしっかりと抱えていたはずなのに、中身はめちゃくちゃだ。割れたり傷がついたりしているわけではないが、あちこちの部品が外れてしまっている。どう考えても数分で直るようなものではない。
「あ~、もう……」
 チサトは唸った。そのとき外で爆発音がして、窓が音を立てて揺れた。思わず、窓の外を見る。すると、飼育場の方から煙が上がっているのが見えた。今手にしているカメラでは何も写すことが出来ない。
 ──スクープなのに!

 爆発音とともに入力室全体が激しく揺れ、ほぼ同時に爆風が吹き込んできた。入り口近くのパネルを操作していた女性研究員が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。クロードは立ち上がって、駆けつけた。息も脈もあるが、頭を打っていて額に赤い血が流れ出してくる。
「レナ!」
 呼ばれるまでもなくレナもやってきて、回復呪紋を施す。
「う、うわあぁぁぁぁぁ~!!」
 サイナードの部屋から悲鳴が上がった。男性研究員とアシュトンたちが駆け出していく。クロードとレナも、女性研究員の治療を終えてから後を追った。
「誰か! 麻酔銃を!」
 渡り廊下に出ると、一番大きなサイナードが装置から出て暴れていた。研究員たちが必死に逃げ回っている。装置からは煙が上がっており、屋根に空いた穴から外へと出ていた。
「麻酔銃、撃ちます!」
 受付のほうから走り込んできた研究員が腕の太さほどの銃を構え、発射した。だが、その瞬間にサイナードは薄い膜のような羽根を広げて飛び上がった。空気が煽られ近くにいた研究員は吹き飛び、麻酔弾はあらぬ方向へ飛んでいった。サイナードは天井に体当たりするが、穴は空くものの骨組みを壊すには至らず、急降下してきた。
「危ない!」
 サイナードは渡り廊下の丁度真ん中に落ちてきて、その重さで渡り廊下を真っ二つに折った。途端に渡り廊下は急勾配の坂となり、クロードたちは一階へと滑り落ちた。
「このままでは飼育場が壊されるぞ!」
「でも、麻酔銃はさっきの衝撃波で使えなくなってしまいました! 打つ手がありません!」
 研究員たちが叫んでいる間にも、サイナードは壁や天井を破壊していく。意図的に破壊している、というよりは単に暴れているだけのようだ。だが、それだけにやることに加減がない。
「どうやら、止める手は一つしかないようですわね」
 セリーヌが杖を肩に乗せながら言う。
「ああ」
 クロードとアシュトンは剣を抜き、プリシスもそれを見てターボザックを起動する。
「ちょっと待って」
 異論を唱えたのはレナだ。だが、誰も振り返らなかった。いつサイナードが襲ってこないとも限らない。気を抜くことは出来ないのだ。レナは構わず仲間たちの背中に語りかけた。
「むやみに傷つけないで。他にも方法はあるはずよ!」
「もちろん、いい方法があるならそっちに飛びつくさ。だけど、僕たちに出来るのはこれしかない!」
 言っているそばからサイナードが滑空してきて、クロードたちの頭の上を掠め、そして轟音とともに青い炎を吐いた。石の壁が溶け、崩れて研究員たちに降り注ぐ。
「うわあぁぁぁ!?」
「誰かなんとかしろぉ!」
「助けて!」
 たとえ相手がなんだろうとも、これだけの悲痛な声を耳にして黙っていることはできない。クロードは意を決した。
「アシュトン、援護頼む!」
 自分で溶かした壁に衝突したサイナードめがけて走る。サイナードは咆哮を上げ、体制を立て直すとクロードに向かって低空飛行で迫った。ぶつかる瞬間にクロードは床を蹴って右に逸れ、剣を突き出してサイナードの左肩から脇腹にかけて傷を負わせた。体液と緑色の血が迸る。うめき声を上げながらもサイナードはそのまま飛びつづけ、クロードの後ろに控えたアシュトンに向かっていく。
「ギョロ、ウルルン!」
 アシュトンが叫ぶと同時に二匹は後ろへ反り返って深く息を吸い、勢いよく吹き出した。炎と吹雪がサイナードに叩きつけられる。それを顔面に受け、サイナードは大気を揺るがすような叫び声を出して天井へと舞い上がった。その風圧でアシュトンが吹き飛ぶ。サイナードは天井にぶち当たると崩れた破片と一緒に再び落ちてきた。ものすごい勢いで床にめり込み後足をばたばたと動かして暴れる。どうやら抜け出せないようである。その様子に研究員たちが安堵するのが分かった。
 クロードはゆっくりと剣を構えながら近づいていくが、それとともにサイナードの動きが鈍くなっていった。最初は荒々しく動かしていた足も動かなくなり、呼吸のたびに大きく伸縮していた腹も停止した。クロードのつけた左脇腹の傷口からの出血だけが止まらず、緑色の池を作りつつあった。

「死因は大量出血ですが、床に埋まって呼吸が困難になったのも一因のようです」
 館長室で、研究員の一人が報告した。誰がどう見ても不愉快な顔だ。飼育場始まって以来の大事件であるため、クロードたちのほか研究員全員が集まっていた。どうにも、居づらい。よりにもよって、サイナードの『飼育場』でサイナードを殺してしまったのだから。
 アーティス館長は執務卓に置かれた報告書を取り上げた。
「まさか、こんな事態が起こるとは……」
「まさかですって? ネーデ人以外のデータを入力する時点で既に予測されていたことじゃないですか!」
 クロードたちのデータを入力した男性研究員が、拳で執務卓を叩いて怒鳴った。
「これで貴重なサイナードが一匹おじゃんになった! どうしてくれるんです!?」
 アーティス館長は目を瞑り腕を組んで黙ったまま、何も答えようとはしなかった。
「……研究費のアップ、望めるんでしょうね?」
 館長は目を開いて研究員を見上げた。だが何も言わず、しばらくにらめっこをした後、結局研究員のほうから退室していった。諦めた、というよりは見限ったという感じだった。
「あの……、すみません」
 クロードは弱々しく言った。だが、言われた本人は苦笑いしていた。
「いや、あなたがたのせいじゃありませんよ。データを受け付けないサイナードが悪いんです」
「でも、死ななくてもいい命を殺してしまったわ」
 レナの声も強くはなりえない。
「サイナードが暴れたのは、僕たちがネーデ人ではないからですよね?」
「そうです。もちろんレナさんは例外ですが、他のみなさんのデータを入力することはできないようですね」
 館長は首肯した。
「だとしたら、どうすればいいんですか? 僕たちはサイナードを手に入れることが出来ないってことですよね?」
 アーティス館長は深くため息をつき、しばらく考えてから顔を上げた。
「方法がないわけではありません……」
「どういうことですの?」
 館長は立ち上がった。
「ここでは言えません。続きは、あちらでどうぞ。おそらく、市長も了承するでしょう」
 そう言って指差した先は、暗い部屋だった。中の様子は窺い知れない。だが、問題はそれよりも館長の発言の中にあった。
「僕たちのすることは、マズイことなんですか?」
 アーティス館長は苦笑して、首を振った。
「世界を救うのだろう? だとしたら議論の余地はない」
 執務卓の上のパネルを操作する。
「ロックは解除した。行きなさい、サイナードを手に入れたいのなら」
 そう言う館長の目が、初めて真剣になったように見えた。サイナードを死なせてしまったことに責任を感じているのか、それともこれからクロードたちにさせようとしていることの重大さを思っているのか、このときのクロードたちには分からなかった。ただその言葉に押されるようにして隣の部屋へと行き、薄明かりの中のトランスポートに入るしかなかった。

「ちぇっ。もうちょっと早かったら、『乱心!? サイナード』とかってスクープになったのに……」
 二階の、半分壊れた渡り廊下からサイナードの死体を見下ろす。肝心なシーンは撮り逃がしたが、遺体処理の様子をカメラに収める。正直言って気分のよいものではないが、仕事は仕事だ。
 ──これじゃあ、頭のほうがよく見えないわねぇ……。
 ファインダーを覗きながら、少しずつ立ち位置を変えていく。
 ──う~ん、上よりも下から撮ったほうがい……!?
 瞬間、右足首に激痛が走った。屋根から落ちたときの後遺症か、それでもこんなには痛まなかったはずなのに……。痛みで飛び跳ねたチサトは、そのままサイナードの血の池へと落下した。べちゃ、という嫌な音がする。
 ──なんなのよ今日は……。
 立ち上がったチサトは緑色のスライムのようで、片づけをしていた研究員たちを絶句させるのに十分だった。

10

「どこだ? ここは……」
 転送先は、転送元である飼育場と同じく薄暗い部屋だった。トランスポートだけが置かれ、隣の部屋へと通路が延びている。
「とりあえず、行ってみるか……」
 仲間たちが頷くのを確認してから、クロードは先頭に立って光の差し込む隣の部屋へと向かった。だ
が、いざ踏み込むとなると勇気がいる。
「こんにちは……」
 そっと首を出してから、中の様子を確かめる。それほど広い部屋ではない。見たところ、誰もいないようだ。クロードは一度レナの顔を見てから、意を決して中に入った。
 部屋は木造のようで、トランスポートの部屋と対向する壁にはドアがあり、他の三面は窓だった。あまりよく磨かれているとはいえない床には、それを繕うためか様々な柄のマットや絨毯が敷かれていた。中でも一番大きいのは鷲のような鳥の頭部を刺繍したもので、窓から差し込む光に照らされて金色のくちばしが輝いている。他にあるものといえば、窓際に置かれたテーブルと椅子、ロフトの布団、箪笥、本棚、そして大量の本だ。他のものはきちっと整理されているのに、本だけはあちこちに散らかっていた。足元にある一冊を取り上げてみると、鳥の写真がいっぱい載っていて、『鳥とその生態〇一四五二-〇一四五三〇』というタイトルだった。別の本を見てみると今度はトカゲの写真ばかりで、『トカゲ遺伝子の変異記録二五四五八一-二五四六〇〇』と書いてあった。なにやらいちいち数字がついているのは、たぶんネーデの暦だろう。『西暦二二〇〇年』とか『宇宙暦三四六年』などというのはクロードにとって馴染み深いものだったが、『ネーデ暦二五四五八年』などというのはこれまでに読んだどんな未来小説でも見たことのない、途方もない数だった。ナール市長から、エナジーネーデに移住して三十七億年が経過していることを聞いてはいたものの、実際に数字を見てみると改めてその歴史の長さに驚かされる。見た目にさほど違いがなくとも、ここは明らかに地球よりも古い歴史を持つ場所なのだ。
「なんか、動物の写真ばっかだよ~?」
 クロードが手近な本を見ていたのと同じように、プリシスたちも辺りを物色しはじめていた。アーティス館長によればここに来れば何かが分かるということだったから、ここに何かがあるに違いない。プリシスは本に飽きると、まるで鬼ごっこの鬼のようにテーブルの下や布団の中を覗き込み、セリーヌは壁に掛けられた動物の絵や写真を鑑賞し、アシュトンは部屋の隅に置かれたタルに向かって何かをしているようで、レオンは黙々と本を読んでいた。
「とくになにかあるようにも思えないけどなぁ……」
 クロードは部屋中を見回しながら呟いた。確かに動物に関する本は沢山あるが、まさかこれを読んで研究しろと言うわけでもないだろう。どこか秘密の研究所か何かに転送されるのかと思っていたが、そういう雰囲気でもない。
 思い思いのことをしている仲間たちを背に考えていると、外で物音がした。はっとしてドアを見ると、金色のノブが回転し、軽い音を立てながら開いた。クロードは急に罪悪感のようなものに襲われて、どっと冷や汗をかく。
 入ってきた人物は若い男性で、初めクロードたちには気付かず、持っていたバケツとすきを部屋の隅に置き、軽く手をはたいてから部屋の中央に目を向けた。男性は特に驚いたようにも見えなかったが、突然の侵入者を細い目でしばらく観察してから、ゆっくりと口を開いた。
「……どうして君たちは僕の家にいるんだい?」
「あの、え~と……」
 クロードがなんと答えてよいか分からずまごついていると、この家の主らしき人物はにっこりと微笑んで言った。
「僕のほうからはじめまして、というのも変かな。君たちは無断で人の家に入り込んだんだものね」
 どちらかというと優しい口調ではあったが、あるいはわざと本心とは逆のことをしているのかもしれないと思うと到底落ち着けるものではない。もっと疑うのが普通だろうから。
「すみません。僕たちはアーティスさんに言われてここに来たんですけど」
 正直に言うと、家の主は髪と同じ木肌のような色の眉をひそませた。
「アーティスぅ?」
「はい。私たちはサイナードを手に入れるようにナールさんに言われたんです。それでアーティスさんのところに行ったんですが……」
「ああ、そうか。君たちがエナジーネーデの外からやってきたという人間か」
「知っているの?」
 レオンが訊ねると主は頷いて、テーブルの上にあった紙の束を持ってきて見せた。それは広げるとテーブルからはみ出してしまいそうな大きさで、初めのページには『ネーデ新聞』と書いてあった。市長室で見たのと同じような十賢者らしき人物の写真と、『十賢者、襲来!』、『フィーナル陥落!』などの文字が目立った。
「え~と、確かこのページに……」
 主は何ページ目かを開いて、クロードたちに見せた。
「え~っ!?」
「なんですの!? これは!」
 口々に驚きの声を発する。それもそのはず。そのページには、クロードたち全員の写真と名前、外見の特徴などが細かく記載されていたのだ。そして、その写真の大半はホテルの個室内での様子だった。レオンの場合は寝顔で、プリシスの場合は無人くんを修理しているところで、アシュトンは何をしたのかギョロとウルルンに髪を引っ張られているところで、セリーヌの場合はあろうことか着替え中だった。ホテルの廊下でレナがクロードの手を握っている写真もある。
「誰よ、こんなことするのは……」
 レナが赤面しながら言い、セリーヌは鋭い視線で家の主を見つめた。だが、大半の人間とは違って、主はこの目に全く動じなかった。
「僕じゃないよ。新聞社の人がやったんだから。好ましいこととは思えないけれど」
 怒りのやり場のないセリーヌはとりあえず新聞を鷲掴みにすると、くちゃくちゃに丸めてしまった。
「これを撮った人に会ったら、絶対にただでは済ませませんわ!」
 そうして指の先から火の玉を出して、それを燃やしてしまった。クロードはギョッとして部屋の主の顔を見たが、とくに表情に変化はなかった。もう全部読んでしまったから構わないのか、地球と同じように電子新聞もあるからなのか、よくは分からない。だいたい、この人の目は細すぎて閉じているのか開いているのかすらも判断しがたい。
 それにしても、どうも今朝から回りの人たちがしきりに名前を呼んでくると思ったら、こういう理由があったようだ。ともかく、一人怒りに打ち震えるセリーヌを何とか鎮めて、クロードたちは話の本筋に戻った。
「それで、さっき言ったようにアーティスさんのところに行ってサイナードに僕たちのデータを入れたんですが、それが原因でサイナードが暴走してしまって……」
「……まあ、そうだろうね。それで、僕のところに送られたというわけか。もっとも、そうでもなきゃここに来る理由なんてないけれど」
 主は、やれやれといった風に首を振ると、壁に掛けてあった枯れ葉色の上着を着込んだ。
「あの、あなたはもう何をするべきか分かっているんですか?」
 レナが問うと、主は目を一ミリほど見開いた。
「何だ、アーティスはここがどこなのかも説明しないで転送したっていうのかい?」
 どうも、この人は自分たちがが全てを承知した上で来ていると思ったみたいだな、とクロードは思った。もちろんそうではないから、クロードたちは一斉に首を傾げた。
「ここは希少動物保護地域だよ。僕は動物学者で管理者のノエル・チャンドラー」
「保護地域?」
「そう。惑星ネーデからエナジーネーデに移る際、多くの動物たちも連れてこられた。でも、新しい環境に上手く適合出来ずに絶滅してしまった種もいる。いろいろと研究が進められて大半の原因は取り除けたけれど、激減してしまった動物たちをすぐに元の数に戻すのは難しい。天敵というのもいるしね。だから、そうした数の減ってしまった動物たちをこの辺りに集めて、保護しているんだ」
 なるほど、とクロードは素直に頷いたが、エクスペル出身者には納得しがたい話のようだった。地球でも人間たちの手によって多くの種が絶滅を余儀なくされた時代があったし、今もあちこちの星で似たような問題が起きている。だが、エクスペルは自然が豊かで気候も穏やかであり、人間と自然が共存できる環境だった。そんなところで生まれ育った人間には、種が絶えるなどという話は考えにくいだろう。
 ノエル氏は、金色のドアノブに手を掛けた。
「どこに行くんですか?」
「君たちは、野生のサイナードが欲しいんだろう?」
「野生? 野生種ならデータを入れても大丈夫なんですか?」
 ノエル氏は首を振った。
「いいや。データを入れるのは、人間に便利なように改造した種だけ。サイナードは本来群れで行動する。その中で一番強い者に従う習性があるんだ。だから、野生のサイナードを手に入れたいのならそのサイナードと戦って勝たなくちゃならない」
「サイナードを倒すんですか?」
「簡単にい言えば。でも、そんなに簡単なことじゃあない。力だけでなく心も優れていなければならないんだ。だから、例え不意打ちのような形で勝ったとしてもなんにもならない。本当の意味で勝つのが難しいからこそ、人間は彼らを自分たちに都合のいいように改造したんだ。まあ、野生種が減ってしまったことも理由の一つだけれどね」
 クロードたちは、黙ってしまった。
「最後の一頭が最重要保護区域にいる。君たちがサイナードに勝つ自信があるのなら、出かけよう」
 ノエル氏は細い目でクロードたちを見つめた。かなり難しい課題だった。力で勝つことはできるかも知れないが、殺すわけにはいかないし、そのうえ心でも勝つ、というのは一体どうすればよいのか見当もつかない。とはいえ、自信の有無などに関わらずやらないわけにはいかない。ただし、一つ問題があった。
「その最後の一頭をもし間違って殺してしまったら、どうするんですか」
 ノエル氏は、壁に掛かった一枚の写真を見た。『アールヴ:三七八四五二年絶滅』と書いてある。ふわふわした感じの可愛らしい蝶のような動物だ。
「生きるっていうのは、生き抜くために戦うってことだ。その戦いに負ければ、死んでしまう。もしサイナードが滅びたとしても、ただそれだけのことだ」
 クロードたちの反応を待たないまま、ノエル氏は外へと出て行った。

11

 どうもここは好きになれない。もともと好きになる気があったわけじゃないけれど、もしもう一度ここへ来るようなことがあれば、それは重大スクープがあるときだけにしたかった。嫌な場所。どこかしら張り詰めている空気は生暖かく、そのくせ流動性に欠けていて一歩動いただけでも匂いと温度が変わる。谷間に漂うガスは時々何の前触れもなく吹き上がって、気配を消した敵が急襲してきたかのように錯覚させた。この洞窟の名の所以たる幾多もの紅水晶は、天井部に空いた無数の穴からの光によって妖しげにきらめく。何かの理由によって凶暴化した動物たちの低い唸り声を除けば何の音もしないはずなのに、そうした視覚的な音がチサトの精神を消耗させていった。
 ──まったく、冗談じゃないわよ……。
 調子に乗って追いかけてきたはいいものの、ここに来て彼らを見失ってしまった。この洞窟に来るという推理は間違っていないはずだが、彼らがトランスポートを使ったのに対してチサトは取材用のサイナードに乗ってきたので、今この瞬間に彼らがどこにいるのかは全く分からない。可能性としては低いが、既に野性のサイナードを手に入れてセントラルシティに戻っていたり、あるいはまだ洞窟には一歩も踏み入れてないということもありえた。
 ──今度こそ、サイナード入手の瞬間を撮ってやるんだから。
 そう意気込むチサトではあったが、精神的に参り始めているのは確かだった。免許皆伝の腕前を持つ体術によって、襲いくる動物たちを容易たやすく払いのけることはできたが、奥へと進む足取りが怪しくなってきていた。
「きゃっ!」
 本日の転倒回数、六回目。

 ノエル氏が案内してくれたのは、洞窟の入り口だった。『紅水晶の洞窟』と呼ばれているそうで、確かにその名の通り、大きいものでは数メートルはあろうかという紅い水晶が無数に生えていた。その光景に誰もが心躍らせたが、一人だけ冷静だったのは意外にもセリーヌだった。彼女は手近に所に転がっていた水晶を拾い上げ、それを光に当てたり取り出した虫眼鏡を通して見たり手袋越しに触ってみたりして、その質を確かめた。手袋のまま触って分かるものなのか、とクロードは不思議に思った。
「たいした石じゃありませんわね」
 水晶を投げ捨てたセリーヌ結論を下すと、ノエル氏は頷いた。
「ここの水晶はエナジーネーデでは珍しく後から自然に生えてきたものだけれど、不純物として含むここのガスにはいろいろな種類のものが混じっているから、均質なものは出来ないんだ」
「ガスぅ?」
 プリシスは鼻をくんくんとさせて匂いを嗅いでみる。
「こんな入り口じゃあたいして匂わないと思うけど、他の動物が入ってこないように、動物が嫌うようなガスが出るようになっているんだ。害は無いけれど……」
 説明するノエル氏の口調が、段々と慎重になっていくのが分かった。視線は、洞窟の奥を見ている。
「どうかしたんですか?」
 訊ねるアシュトンに返事は無かったが、ギョロとウルルンも何かを感じたらしく、険しい目を洞窟の
奥に向けていた。
「おかしい。僕がこの前来たときとは明らかに空気が違っている」
 そう言われてプリシスはもう一度匂いを嗅いでみたが、何も分からなかった。ノエル氏の顔は、どんどん強張っていく。
「そんな、まさか……。しかし、彼らには人間を襲う習性なんて……」
「なんなんです?」
 ノエル氏はしばらく沈黙してから、説明した。
「ここにいる動物たちから殺気がみなぎっている。こんなこと、今まで一度もなかったのに……」
「サイナードだけじゃなくて動物たちも暴走しているの?!」
「もちろん、これは君たちのせいじゃないよ。でも、誰かの意志が働いていることは確かみたいだね……」
 ノエル氏の目が向けられて、クロードははっとする。
「十賢者か!」
「うん、彼らならありえる。まさかこんなことまでするとは思わなかったけど……」
 ノエル氏の視線が洞窟の中へと移る。
「保護地域の動物たちは、普段この洞窟は入ってこないんですよね?」
「そう。さっきのガスもあるし、なによりサイナードの気配を感じ取って、近寄ることすらないはずなんだ。少なくとも一対一でなら、サイナードはこの辺りのどんな動物よりも強いからね」
 保護地域管理者は点頭した。クロードは考えを整理する。
「でも、今は凶暴化したたくさんの動物たちが入り込んでいる。サイナードがそんな動物たちに一気に襲われたら……?」
「かなり危険だ」
 ノエル氏の結論に、全員が頷く。
「急ごう」

「あれが野生のサイナードねっ!?」
 チサトは歓喜した。これまでの緊張や疲労も吹っ飛ぶ。早速カメラを取り出して撮影したいところだが、生憎とサイナードは谷を挟んで向こう側にいるうえ、谷底から噴き出すガスが邪魔しているからあまりいい写真は取れないだろう。それでも二、三枚をカメラに収めて、チサトは奥へと突っ走った。向こう岸に渡るための橋が、遠くに見える。

12

 奥へ奥へと進むうちに、だんだん妙な匂いがしてきた。先程説明を受けた例のガスの匂いだ。いろいろな動物に対処するためだけあって、実に様々な匂いがする。甘いのや酸っぱいの、苦いのとか何かが腐ったようなもの。中には鼻を突き刺すような凄まじいものもある。一歩歩くごとに匂いが変わり、慣れるのにはかなり時間がかかりそうだ。いや、慣れることができるかどうかは怪しい。管理者であるノエル氏と、いつの間に用意したのか自家製ガスマスクをつけるプリシスだけがすたすたと進んでいったが、クロードたちはそうもいかない。これが何もいない安全な洞窟ならばまだよいが、今は凶暴な動物たちで溢れかえっている。鼻を押さえつつ周囲を警戒しながら歩くのは容易ではない。しかも、戦闘とな
れば悠長に鼻などつまんでいられない。精神的にかなり疲れる場所だ。これまでに数々の洞窟に潜ってきた経験をもつセリーヌでさえ、苦しげに藤色の眉をひそめている。
「ギャフ!」
「ギャフ!」
 敵の接近を告げたのは、お馴染みの二匹だった。狭い通路で前と後ろからの奇襲だ。クロード、アシュトン、プリシスが凶暴化した動物たちと対峙し、レナ、セリーヌ、レオンは彼らに守られるようにして紋章術の出番を窺う。アシュトンはギョロとウルルンの力も借りられるため、こういう場面ではクロードとプリシスが組んで進行方向にいる敵に向かい、彼は反対方向の敵と戦う。しかし、今回はもう一人の戦士がアシュトンの隣に並んだ。
「ノエルさん?」
 希少動物保護地域管理者は右手に小さ目のナックルをつけ、飛びかかってきたヘルハウンドの腹に一撃を加えた。狼の姿を持つその動物は、高い声で痛みを訴えると後方に吹き飛んで動かなくなった。動物学者の思わぬ行動に、全員が驚く。
「僕は動物たちが好きだから動物学者になった。人間のせいで滅びかけている動物たちを守りたくて保護地域の管理者になった。でも、守るべきものは動物たちだけじゃない。もっと大きな存在を守るためならば、他の者を犠牲にしなければいけないことだってある」
 そう言うと、戦闘に対する真摯さとは異なる表情を持って、もう一匹のヘルハウンドに立ち向かっていった。相手にする動物たちの全てをほぼ確実に一撃で葬っていく様は、並んで戦うアシュトンを驚かせた。それが彼の強さによるものなのか、苦しまぬように配慮した動物学者ならではの業なのかは分からなかった。
 最初に出てきたのは五匹ほどだったのに、血の臭いでも嗅ぎつけたのか狂える動物たちの数は次々に増えていった。大きな風船のようなバング、硬い羽を持つ巨大な鳥ペリュトン、海のエイのような体で宙を飛び回るレイスティンガー。種類も様々だ。 
「アイスニードル!」
 レオンの掌から先の尖った氷柱が発せられバングの体に突き刺ささって破裂させる。
「やっぱり思った通りだ」
 得意げに鼻の下を撫でて、次の標的を狙う。
 高い位置からその長い尾で攻撃してくるレイスティンガーには、セリーヌとプリシスが対応した。
「エナジーアロー!」
 威力は小さいものの、狭い場所で動きを封じるのにはもってこいの呪紋だ。宙に浮いたまま苦しげに喘いでいるところを、プリシスがターボザックのアームを伸ばして攻撃する。
 クロードとアシュトンは、大型のペリュトンを相手にしていた。アシュトンは二本の剣と二頭の龍によって難なくこなしていたが、クロードの場合はそうもいかなかった。なにしろ硬い大きな羽で全身を守られると歯が立たないのだ。しかもその硬い羽は武器にもなる。その巨体のためか地面を歩くことが多いがいざとなると飛び上がり、鋭い爪やくちばしで攻撃してくる。
 その爪にクロードの剣は捉えられた。ペリュトンは羽を激しく羽ばたかせて剣をもぎ取ろうとしたが、相手がしぶといと判断すると今度は体重をかけて押しつぶす作戦に出た。クロードはそれを弾き返そうと腕に力を込めたが、かなり重い。それにペリュトンのほうは空いたくちばしで肩や頭を執拗に痛めつけてくる。額や腕から次々に血が流れ出す。重量と痛みでクロードは限界に達していた。
「クロード!!」
 見るに耐えかねたレナが走り寄る。そのとき、ペリュトンのくちばしはクロードの右上腕部に食いついた。
「うがあぁっ!!」
 クロードは思わず剣を手放してしまった。ペリュトンは剣を掴んだままクロードの背後へ落下する。
しかし、そこにレナが駆けつけた。
「きゃあぁぁぁっ!!」

 ……おかしい。いつまで経っても誰も来ない。たった一頭しかいないはずのサイナードは目の前でぐーすか眠っているのに、彼らは一向に捕まえに来ない。もういい加減写真は撮り尽くしてしまったし、野生種と改良種の違いも調べ終わった。することがない。
「ヒマねぇ……」
 こういうときは、ついあくびが出るものである。

 ほどなくして戦闘は終了した。当分は何者もやってくる気配はない。だが、事態は深刻だった。クロードの傷もさることながら、回復役たるレナ自身が激しく傷付いて意識を失っているのだ。頭部からはおびただしい量の鮮血が溢れ出していた。どうしたらいいのかと戸惑う一同に声を掛ける者がいた。
「大丈夫です。僕が治療しますから」
 ノエル氏は半分涙を流しているプリシスとレオンの間に割って入ると、片膝をついてレナの傷口に両手をかざした。
「キュアライト!!」
 淡い緑色の光がノエル氏の掌から放たれ、レナの傷口に吸い込まれていった。傷はみるみる塞がっていき、血も止まった。これまでレナ以外の人間には不可能だったはずのことを目の前で見せられて、クロードたちは感嘆の声を漏らした。
「あなたも回復呪紋が使えるんですの?」
「ええ。訓練すればネーデ人の多くが使えるようになります」
 ノエル氏は言いながら場所をクロードのそばに移し、彼の傷をも完璧に癒した。
「そっか……。そういえば、十賢者はレナが回復呪紋を使うのを見て『ネーデ人だ』と言っていたな」
 初めてレナ以外の人間に治療された腕を見ながら、クロードは言った。全員の視線が、仰向けに横たわるレナに注がれる。傷は治り表情も安らいでいるが、まだ意識はない。しばらくはここに留まるか誰かがお
ぶっていくかするしかない。
「あれぇ?」
 突然、プリシスが声を上げた。洞窟の奥のほうに何かを見つけたらしく、無人くんを連れて掛けていき、何かを拾ってまた戻って来た。
「なにを拾ったんだい?」
 アシュトンが訊ねると、プリシスはその長方形のカードのようなものをじっくりと見つめた。
「え~っとね、『ねーでシンブンヘンシュウブ ちさと・までぃそん』だって」
 読み上げると、それをアシュトンに渡した。
「ネーデ新聞……?」
 不審に思ったセリーヌが覗き込む。アシュトンは、名前だけでなく持ち主の写真も貼り付けてあることを発見した。
「名刺かな。でも、この人って……」
 赤毛の若い女性。その活力に満ちた目は、数時間前の出来事を思い出させた。
「ノースシティで屋根から落っこちてきたお姉ちゃんだよ!」
 レオンの言葉に、セリーヌははっとする。
「わたくしの写真が載っていたのがネーデ新聞、カメラを持って怪しい雰囲気だったこの方はネーデ新聞の人間。……、ということは私を隠し撮りしたのはこの女ってコトですわよね?」
 妙に落ち着き払った調子でノエル氏を見上げる。
「その可能性は高いけれど、記者は他にもいるから何とも言えないね」
 セリーヌは視線を名刺に戻してしばらく見つめた後、おもむろに口を開いた。
「アシュトン、それ、貸してくださる?」
「ああ、うん……」
 名刺を受け取るとセリーヌはそれを握り潰そうと手に力を込めたが、何でできているのかびくともしなかった。それでも構わず握り締めると急に鈍い音を立てて割れ、その破片が彼女の手に無数の傷を作った。
「セ、セリーヌ、大丈夫かい?」
 せっかくのアシュトンの声も耳に入らない。赤く染まってゆく手袋を見て、セリーヌは決意を新たにした。
「あの女、絶対に許しませんわ!!」

 そのころ『あの女』は、サイナードのよく見える岩場にて熟睡中であった。

13

「そこを曲がれば最重要保護区域。サイナードのいるところだよ」
 ノエル氏は言い、クロードたちは気持ちを引き締めた。これから、サイナードと戦わなければならない。しかも、ここまで凶暴化した動物たちを倒してきたのとは違って、自分たちの肉体と精神がサイナードより上回っていることを示すために戦うのだ。いったい心の優劣とは何をもって判断されるのか。確たる自信のないまま、クロードたちは進むべき道に進んだ。
「ああっ!?」
「サイナードが!!」
 そこに見えたものは予想とはまるで違う光景だった。一頭の大きなサイナードが、二匹の異形の徒に襲撃されていた。しかも、サイナードはただただ身を守るのみで攻撃しようとはせず、あちこちに付いた傷から体液が滲み出ていた。
「ノエルさん、あれは!?」
 サイナードを襲っている者たちが単に凶暴化した動物だとは思えなかった。蜘蛛のような胴体に人間の上半身が付いている。
「あれは保護地域の動物じゃない。たとえ保護地域でなくても、あんな動物がいるはずがない!」
「とにかく、サイナードを助けましょう!」
 レナが叫びクロードは剣を取った。多分あれは十賢者の放った魔物だ。エクスペルでも似たような魔物を見たことがある。
「双破斬!!」
 クロードは近いほうの魔物に襲いかかった。片手で持った剣で胴体を下から斬り上げ、両手に持ち替えて斬り下ろす。魔物は不快な声を上げるとクロードのほうを向いて両手をクロスさせ、勢いよく広げて衝撃波を放った。クロードはそれを剣で受け止めたが勢いに押されて後方に吹き飛んだ。代わりにプリシスが飛び出す。
「え~いっ!!」
 コントローラーを操作して強烈なパンチを繰り出す。魔物はそれを両手で受け止めようとしたが力及ばず、今度は自分が弾き飛ばされた。
「ブラックセイバー!!」
 レオンの暗黒の刃がもう一匹の魔物に襲い掛かる。魔物はそれを自分の衝撃波で相殺したがその隙をアシュトンが突いた。両の足を一本ずつ失い炎と吹雪の追加攻撃を受ける。耳をつんざくような奇声を上げると、魔物は溶けるようにして地面に潜り込んだ。
「ええっ!?」
「気を付けて! どこかから出てくるはずですわ!」
 注意を促して、セリーヌは呪紋の詠唱を始める。しかし、それよりも先に呪紋を唱える者があった。
「グレイブ!!」
 先刻は拳で動物たちを倒していたノエルが、今度は攻撃呪紋を唱えた。ドリルのような形になった土の塊が地中から突き出す。その先には地面に潜ったはずの魔物が突き刺さっていた。
「アシュトン君! 今だ!!」
 言われるまでもなく、アシュトンは目の前に現れた魔物の胴体に二本の剣を突き刺した。
「ツインスタッブ!!」
 ノエル氏の呪紋によって身動きの取れない魔物はなす術もなくただ悶えるだけだった。
 一方、クロードとプリシスが相手にしていた魔物はその素早い動きで攻撃をかわしていた。だが、避けるばかりで苦しい状態である。そこへ、セリーヌの炎の呪紋が届いた。
「イラプション!!」
 魔物は業火に包まれたが、すぐに地面に潜って炎の届かない場所へ顔を出した。しかし、そこでレナが詠唱を終える。
「ライトクロス!!」
 空中に無数の光点が発生して魔物を叩く。不意を突かれた魔物は耐えるのに精一杯になり、そこへクロードとプリシスの技が炸裂する。
「爆裂破!」
「ぽかぽかアタック!!」
 足元が破裂して無数の刃が生じ、脳天からプリシスハンマーの連打を受ける。上下からの攻撃に魔物
は昇天した。
「やったぁ~!!」
 プリシスは飛び上がって喜んだ。もう一匹の魔物もアシュトンによって倒されている。クロードもほっとため息をつくと、顔を引き締めた。
「レナ、早く治療を!」
 戦闘で誰かが負傷したわけではない。かすり傷程度なら負ったが、今は直ちに治療されるべき者が他にいた。レナは頷いてサイナードのもとに駆け寄り、回復呪紋をかけた。
「フェアリーヒール!」
 サイナードの頭上から淡い緑色の光が降り注ぎ、それが泡のように弾けてその度に傷口を塞いでいった。流れ出ていた体液が止まる。サイナードが大きな息を吐くと、その腹の下から何かが出てきた。
「これは……」
「そんな、まさか!!」
 ノエルは大声を上げた。それは、一頭しかいないはずのサイナードの子供だった。しかも二匹いる。大人とは違って腕に抱けるくらいの大きさだ。プリシスは既に一匹を抱え上げていた。
「可愛い~♪」
「そうか、子供を守っていたから戦うことができなかったんだ……」
 クロードは母親のサイナードを見た。プリシスとノエル氏に抱かれた子供を見ているようだったが、不思議と怒ってはいないようだ。 
「よく頑張ったわね……」
 レナは母親サイナードの大きな顔を、抱くようにして撫でた。サイナードは低い声を出して鳴く。クロードは決意して剣を収めた。
「みんな、帰ろう」
 呼びかけられて、みんながクロードに注目した。プリシスとノエルは子供サイナードを放してやる。子供サイナードは、母親に体を擦り付けるようにして甘えた。
「僕には幼い子供から母親を奪うことなんてできない。子供たちの前で母親を傷つけることも」
「クロード君……」
 静かに口を開いた動物学者に、クロードは言った。
「ノエルさんが家を出る前に言った言葉、動物たちとの戦いのときに言った言葉も分かるつもりです。でも、やっぱり僕にはできません。弱い人間だと言われるかもしれないけど……」
「いいや、そんなことはないよ」
 ノエルは首を振った。
「本当に弱い人間なら、大きな目的に心を奪われて、たった数匹の動物の命のことなんて考えられなくなる。強い人間とは言えないけれど、君のように小さな命の存在を思うことができるのは素晴らしいことだと思う。それに、僕だってこの子たちを守ってやりたい」
 クロードは頷き、仲間たちを見た。みな、それぞれの態度でクロードに賛成し、足を洞窟の出口に向け始めた。
「お別れね。強く生きて、子供たちを立派なサイナードにしてあげるのよ」
 そう言ってレナが離れると、サイナードは突然その薄膜をいたような翼を広げた。クロードたちは一瞬身構えたが、サイナードは巨体を百八十度回転させて背中を見せた。リズムよく振られる尾は、まるで手招きのようだった。
「まさか、これは……」
 ノエルはうめいた。その説明を受けるまでもなく、レナはサイナードに近づいてその硬い皮膚を撫でた。
「力を貸してくれるのね」
「言葉が分かるのかい?」
 クロードは問うた。
「思いが通じれば、どんな言葉も伝わるものよ」
 レナは微笑んで、サイナードの背中に乗った。サイナードが上を向いて高い声を上げると、子供たちも乗った。
「ほら、みんなもおいでって」
 サイナードと心を通わせるレナの声に導かれるようにして、クロードたちもその背中によじ登った。他の部分とは違って弾力があり、暖かい。
 全員が乗って、ノエルだけが下に残っていた。考え込んでいる彼に、声をかける。
「ノエルさん、ありがとうございました。僕たちはサイナードと一緒に、十賢者を倒しにいきます!」
「待って! 僕も一緒に連れて行ってくれ!」
「ノエルさん?」
 動物学者は力いっぱい声を上げた。
「十賢者のことは、全てネーデ人が犯した過ちだ。だとしたら、君たちだけに重荷を背負わせるわけにはいかない。それに、十賢者たちの力が動物たちの暮らしを乱すというのなら、僕は行かなければならない!」
 クロードたちは互いに顔を合わせてから、頷きあった。
「分かりました。一緒に行きましょう!」
 ノエル・チャンドラーは細い目で笑うと、サイナードに乗り込んだ。それを感じたサイナードは咆哮を上げると翼を動かし、地面から離れた。風に煽られて砂埃が舞う。
「さあ行こう! 目指すはセントラルシティだ!!」
 
 気持ちのよい風が吹き、チサトは目を覚ました。
「さあ行こう! 目指すはセントラルシティだ!!」
 誰かの声が聞こえる。
 ──え?
 がばっと起き上がって声の方向を見ると、すでにサイナードには彼らが乗り込んでおり、どんどん高度を上げていた。
 ──ちょっ、ちょっと、冗談でしょ!!? カメラ、カメラ、カメラはどこ!?
 その辺りの地面を探すが見当たらない。
「うひゃ~、すっご~い!」
 声は遥か頭上から聞こえてくる。
 ──待って! せめて一枚でも写真を!!
「れっつご~!!」
かけ声と同時に、サイナードは紅水晶の洞窟から離れていった。
 ネーデ新聞編集部チサト・マディソンが自分の首から下がっているカメラを発見したのは、それからすぐのことだった。