■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [クロード編]


第九章 力と、心と

 優しく撫でるような風を受けながら、クロードたちはサイナードに乗ってセントラルシティへと向かっていた。目下に広がる海に点々と浮かぶ小島が次々と後方へ流れていく。かなりの速度があるようだが不思議と風は静かで、吹き飛ばされるようなこともない。サイナードの背中は適度な柔らかさと暖かさで揺れもなく、乗り心地は申し分なかった。ノエルによれば飼育場にいるような改良種はさらに人が乗りやすいようになっているらしいが、この野生種でも十分快適だ。魔法の絨毯に乗る、というのはこういう感じかもしれない。
「ノエルさん、あの遠くの空に赤く見えるのはなんですか?」
 アシュトンが問うと、ノエルは少しばかり眉をひそめた。それはある特定の方角にあるのではなく、全方位において見られた。ネーデの空も青く透き通ってはいるが、ところどころ、というよりは時々赤っぽく見えるところがあるのだ。
「あれは、十賢者たちが巡らせた一種のシールドなんだ。光の加減で見えたり見えなかったりするけれど、今は全てのネーデ人がその中に閉じ込められてしまっている」
「シールド? 何のために?」
 クロードは首を傾げた。
「もちろん僕たちを外へ出さないためだよ」
「『外へ』って、もともとエナジーネーデは外の世界とは隔てられているのではなかったんですの?」
 訝しげなセリーヌの目に、ノエルは頷いた。
「それはそうなんだけれど……」
 ノエルはしばらく考えてから、話し始めた。
 エナジーネーデは二つの部分に分かれている。外周部である外壁楽園と、内海に点在する都市郡。外壁楽園には、人工天体であるエナジーネーデを維持するための、重力や気象を調整する施設など、極めて重要なものがいくつも存在している。
「十賢者たちは、そうした重要区域へのネーデ人の立ち入りを阻んでいることになるね。いざとなれば惑星維持装置を破壊して彼らもろとも葬ってしまうこともできるから」
 しかしながら、トランスポートでの行き来が可能な場所も幾つかあるらしい。クロードたちが最初に外壁楽園から市長室に移動することができたのはそのためだ。
「でも、最大の理由はフィーナルへの進入を妨害するためだろうね」
「フィーナル?」
 どこかで聞いた名だ。
「それってたしか、ノエルさんの家で見せてもらったシンブンってのに書いてあったよね」
 レオンが自慢の記憶力を披露し、クロードは思い出した。
「フィーナル……、たしか『陥落』って書いてあったと思うけど……」
 ノエルはゆっくりと頷くと、ためらいがちに口を開いた。
「そうなんだ。十賢者はエナジーネーデに現れた直後、フィーナルの街を占拠した。それが、あれだ」
 進行方向左手を指差す。やや遠くのほうに、高い塔が建っているのが見えた。周りには何もなく、それが故に探す必要もないくらいに目立っている。
「あれが、フィーナル?」
「もともとは家や店が建ち並ぶ普通の街だった。けれど、十賢者がやってきたらあっという間にあんな風に姿を変えてしまったんだ。彼らはあの塔を拠点にしているようだね……」
 クロードたちは背筋に冷たいものが走るのを感じた。お互いに不安そうな視線を交わしながら、思いを確認する。エルリアと同じだ、と。
 そのとき、サイナードが緩やかに旋回しながら降下を始めた。セントラルシティの平和な街並みが眼下に見えていた。

 初老の市長は一連の出来事を聞くとクロードたちに無言でソファを勧め、自らもその端に腰掛けた。口を固く結び、目を伏せ腕を組んで考え込んでいるようだ。
 培養サイナードを無為に死なせたこと、その代わりとして最後の野生種を手に入れたこと。どちらも重大事である。クロードたちとて好きでやったことではないが、市長の眉間に寄った皺を見ると責任を感じずにはいられなかった。サイナードを手に入れる、という目的を達したことで昂揚していた雰囲気も自然と後退していく。
 そこへ、街の案内もしてくれた秘書の女性がお茶を運んできた。向かい合うソファの間に置かれたテーブルに、湯気を立てた白磁のカップが置かれてゆく。透き通った若葉色の髪の女性秘書は、その場の雰囲気を全く意に介さないかのように淡々と自分の仕事だけをこなし、最後にポットを置いて退室していった。
 しばらくの間は誰もカップに手をつけなかった。黙って、自分の手元なり足元なりを見ながらナール市長の言葉を待っている。市長の口は、なかなか開かなかった。
 その暗く重苦しい空気の中で、突然場違いな調子のセリフが生まれた。
「とりあえずお砂糖を五つ……っと。ホントはジャムのほうがよかったんだけどな」
 プリシスは一人陽気な顔でお茶をかき混ぜると、それを一気に半分ほど飲み干した。
「っは~。このお茶、すんごくおいしい♪ みんなも冷めないうちに飲んだほうがいいよ?」
 そう言ってもう半分を流し込むと、ポットから新しいお茶をなみなみと注いだ。始めは咎めるように見ていた仲間たちも幸せそうにお茶を飲む彼女を見るうち、張り詰めていた心が次第に解されていった。
「そうね、せっかくだから頂きましょう」
 レナの言葉を皮切りに、クロードたちはそれぞれのカップを手に取り、柔らかな香りと味を楽しんだ。そして、ナール市長もいつのまにかお茶をすすっていた。いよいよ話が始まると考えて、クロードたちは姿勢を正した。プリシスも、真剣な面持ちで腰掛けている。ナール市長はカップを戻して一つ小さな溜め息をつくと、顔を上げて口を開いた。
「ともかくサイナードを手に入れたのですから、よしとしましょう。飼育場のサイナードのことは、ネーデ人以外のデータを入れることの意味に気付かなかった私の責任です。もともとサイナードを手に入れるようお願いしたのは私のほうですし」
 市長の声からは、怒りや落胆は感じられなかった。クロードは安堵する。
「野生種については、ノエル博士が同行して下さるのなら問題はないでしょう。全て博士にお任せします。保護区域には誰か別の者を派遣するよう言っておきますから」
「すみません」
 ノエルは頭を下げた。
「いいえ、謝っていただくことはありません。それより、今後についてお話しましょう」
 室内がにわかに活気付いた。

 ネーデ新聞編集部チサト・マディソンは、がっくりと項垂れながら帰社した。あくせく働く同僚たちの間を影を引きずるような歩調で抜けて、自分のデスクに着く。ろくに活躍しなかったカメラを置き、それに覆い被さるようにして仮眠に入る。そのとき、横から何かが差し出された。鈍い動きでそれを受け取り、眠たい目で文面を確認する。
『ネーデ新聞編集部 チサト・マディソン』
「あら、私の名刺。落としちゃったのね。どこで拾ってくれたの?」
 ゆっくりと起き上がった視線の先には、紫色の三角帽子と服を着て、同系色の髪と眉を持つ女性が腕組みをしながら妙に愛想のよい顔で立っていた。
「紅水晶の洞窟ですわよ、チ・サ・トさん?」  
 眠気は吹き飛んだ。驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになる。
「あ、あなたは……!」
『セリーヌ・ジュレス、推定年齢二十四歳。奇抜な服装で何を考えているのか分からない割には妙に勘が鋭い』
 セリーヌは優しい笑顔を妖しげな笑みに変化させると、新聞の切り抜きを取り出した。彼女自身の着替え中の写真と、それに付随した短い記事。
「これは、どういうことですの!?」
 大きな音を立てて、セリーヌは記事を机に叩きつけた。もう顔は笑ってはいない。チサトは蛇に睨まれた蛙のように身動きできなくなった。
 この人は何に怒っているのだろう、とチサトは懸命に考えをめぐらした。写真と記事、一方かそれとも両方か。記事は確かに他のメンバーより短いのだけれど、じっくり観察しようと思っても鋭い勘で気付かれそうになってあまりできなかったし、写真だってあれが撮れた唯一のものだし、写真の中身だってただ帽子を脱ごうとしている瞬間で別に恥ずかしいようなものでは……。
「しっかりと説明してもらいますわよ!? わたくしのどこが『二十四歳』なんですの!」
「……はあ?」
 チサトは今度はあっけにとられて動けなくなった。口をぽかんと開けて、荒ぶる弾劾者を見つめた。その後ろから、呆れたような少年の声が聞こえる。
「セリーヌさん、もうやめましょうよ」
 ネーデ人にはほとんどいない金髪。
『クロード・C・ケニー、推定年齢十八歳。リーダー格の少年。耳も丸くネーデ人ではないが、他のエクスペル人とも異なった服装をしており、それはむしろネーデに共通するものがある。材質が各種の合成繊維であることから他の先進惑星の出身者か。髪は細く金色で触り心地もよく、珍しいので一度見てみることをおススメする』
「そりゃあ、若く見られたあなたたちは構わないかもしれませんけどね! わたくしだけが年上に見られているなんて侮辱ですわ!!」
 そう叫ぶと、セリーヌはチサトの襟元を掴んでぐいと引き寄せた。
「さあ、わたくしのどこが二十四に見えるのか言ってもらいましょうか?」
「い、いや……だって、あなた勘が鋭くてすぐに私に気付くんですもの。じっくり観察しようにもできなくて……」
 とんでもないことで責められたものだ、とチサトは思った。だが、相手の剣幕と勢いには逆らいがたい。下手に争わないほうがよさそうだ。
「それで腹いせに!?」
 チサトを吊るし上げる手に力がこもる。
「ち、違うわよ!」
 誰か何とかしてよと思ったが、みな近寄りがたそうに見ているだけだった。クロード少年も呆れた顔で首を振っている。しかし、セリーヌに同行してきたのはクロードだけではなかった。
「セリーヌさん、許してあげましょうよ。少ししか見られなかったのなら間違っても仕方ないし……」
『レナ・ランフォード、推定年齢十六歳。エクスペルから来たネーデ人。なぜエクスペルにいたのかは不明。耳は尖っており、髪も濃い藍色で典型的なネーデ人といえる。ただし服装はエクスペルのもののようで、エクスペルでの生活が長かったと考えられる』
 少女が二人の間に割って入り、セリーヌの手を放す。開放されたチサトはほっとして腰を下ろしたが、セリーヌの怒りが鎮まったわけではない。自分を押し戻そうとするレナの肩越しに、鮮烈な赤毛を指差す。
「だいたい、その、人を盗み撮ろうなんて神経がおかしいんですのよ!」
 耳元で大声を出されたレナは少し考えてから、チサトに向き直った。セリーヌは、その背後で腕を組み口を尖らせている。
「どうして、私たちを撮ったり書いたりするんですか?」
 当たり前のことを問われ、チサトは胸を張って即答した。
「もちろん、十賢者たちと戦う勇者一行の冒険を記事にするためよ。今やあなたたちは全エナジーネーデ人の注目の的なんだから!」
「そう……なんですか?」
 レナが首を捻ると、チサトは得意げに説明を始めた。
「そうよ。みんな、あなたたちのコトを知りたいと思ってる。だから私が記事にして紹介してるの」
「それで、紅水晶の洞窟まで追いかけてきたんですか?」
「そういうことね。ホントは気付かれないようにしたかったんだけど、まさか名刺を落としちゃうとはね」
「でも、魔物みたいに凶暴化した動物たちがいるところでよく平気でしたね」
 妙に感心したようにクロードが言いセリーヌはより一層眉をしかめたが、チサトは自信たっぷりに答えた。
「ま~ね。真実を追究するこの熱い魂の前には、魔物なんかなんの障害にもならないってことよ」
「そうなんですか?」
 真に受けたレナの顔がおかしくて、チサトは笑ってしまった。
「やあね、冗談に決まってるでしょ」
 唖然とした少女の前で、チサトは片腕を上げて力瘤を作るような動作を見せた。
「こう見えても私は神宮流体術の免許皆伝なのよ。腕には多少の自信ありってワケ」
「へえ。すごいですね」
 レナはまたも正直に感心しているようだ。根が素直な性格なのだろう、とチサトは思った。
「あなたたちの密着取材を続けるためには、それくらいの力がないとダメだからね。なにしろ、あの十賢者と戦うんだから」
 にこりと笑って片目を瞑ってみせる。
「え!? じゃあ、これからも僕たちの後をつけて来るんですか?」
「当然でしょ。最後までつき合わせてもらうわよ」
「そんな、危ないですよ!」
 心から心配するように、レナは止めた。優しい子なんだな、と思う。けれど、やめるつもりは毛頭ない。
「大丈夫よ。自分の体くらいなら、自分で守れるから」
 救いを求めるような目でレナはクロードを見る。少年はしばらく思案してから口を開いた。
「どうせなら、僕たちと一緒に来ませんか?」
「クロード!?」
 レナとセリーヌが異口同音に声を発する。後を続けたのはセリーヌだ。
「冗談じゃありませんわよ! こんな女と一緒に旅をするなんて!」
「まあ、落ち着いてください」
 クロードは考えを披露した。
「チサトさんの目的は、僕たちを取材することですよね。でも、このまま取材を続けようと思ったら隠し撮りをしたりするしかない。とは言っても、僕たちだって知られずに撮られるのは好きじゃない。それに、何もかも推測で書かれるのも困ります」
「う……」
 チサトは返す言葉がない。
「でもチサトさんが仲間に入れば本当のことを書いてもらえるし、写真を撮るのだって隠れたりしなくてすむし、僕たちだって誰かに覗かれてることを気にしなくてもいい。その代わり、一緒に戦ってもらいますけど」
「戦うのはいいけど……ホントにいいの?」
 チサトは大胆な提案に戸惑った。クロードの言うことはチサトにとっては利益になるが、にわかには信じ難い。
「レナはいいよね」
「ええ……」
 少し不安そうながらも頷き、セリーヌに視線を移す。
「セリーヌさんもちゃんと本当の歳を書いてもらえるし、書いて欲しくないことは言っておけばいいし、写真も綺麗に撮ってもらえますよ、きっと。ですよね、チサトさん」
「え!? ええ、もちろんよ。私の手にかかれば十歳でも二十歳でも若く写っちゃうんだから」
「そんなに若返らなくてもいいですわよ」
 面白くなさそうに言うセリーヌだったが、先刻ほどには怒っていないようだった。一つ溜め息をついて、チサトの、文字通り目と鼻の先に迫った。澄んだ赤葡萄色の瞳がチサトの空水色の目に映る。
「あまり羽目を外しすぎると、後悔しますわよ」
 チサトは強張った顔で小刻みに頷いた。それでもしばらく見つめられたままでようやくセリーヌが後ろへ下がると、チサトは一つ息を吐いてから立ち上がって編集長を呼んだ。
「編集長! 長期取材の許可をお願いします!」
 一部始終を見ていた白髪の編集長は、体ごと頷いた。
「分かった。好きなだけ取材してこい! ただし、毎日記事を送るのを忘れんようにな」
「大丈夫ですよ」
「お前の大丈夫は当てにならんからなぁ」
 しんとしていた編集部の面々はどっと笑い、チサトは顔を赤らめながら準備を始めた。

「へぇ……、これが野生のサイナードの乗り心地ね」
 翌日、新たな目的地へと向かうサイナードの上で、チサトは写真を撮りまくった。
「なんか、改良種とあんまり変わらないのね。もっと乗りにくいかと思ったわ」
「初めから乗り心地が悪いような動物をわざわざ乗用にしようとは思わないからね」
 乗り心地、野生サイナードの生態など、チサトはノエルから様々な話を聞いてメモしていた。薄型のパッドで、書いていくことが次々と読み取られて画面に表示される。そのまま編集部に送信することが可能だという。
「チサトさんは、四つの場について何か知っていますか?」
 一通り取材を終えたらしいと見て、クロードは訊ねた。
「さあねぇ、私も行くのは初めてだし。今も編集部総出で昔の文献を当たってるけど、詳しいことは分からないみたいね。ま、それでこそ私が行く価値があるんだけど」
 嬉しそうに言いながら、チサトはカメラの手入れを始めた。
 ナール市長の言うところでは、セントラルシティの東西南北には『四つの場』が存在する。それぞれ、『知の場』、『力の場』、『勇気の場』、『愛の場』と呼ばれ、様々な試練が待ち受けているらしい。それを乗り越えて、『ネーデの力の根源』を身に付けてほしいと言うのだ。具体的な試練の内容については受ける人間によって異なるらしく、市長自身も詳しいことは分からないという。しかし、その『ネーデの力の根源』と『クロードたちの中に眠る異質な力』を合わせる以外に十賢者を倒す術はないらしい。
 どうも抽象的な話で素直には受け容れ難いのだが、エルリアタワーで惨敗したように、今の状態で十賢者を相手にすることができないのも確かなことだった。結局、市長の言葉を信じてやってみるしかない。

「『知の場』かぁ……頭がよくなんのかな?」
 プリシスは首を傾げた。ナール市長は手始めに知の場に行くことを勧めたのだ。
「だとしたら、ボクは行く必要ないね」
 レオンは澄まして言う。他の仲間たちは笑ったが、プリシスはむすっとして、
「あんた、自分が頭いいとでも思ってんの?」
「そーだよ。ホントのコトだもん」
「ばぁっかじゃないの!?」
 半分ひっくり返ったような声で罵るがレオンは動じず、逆に鼻で笑った。
「知ってる? バカって言った人間のほうがバカなんだよ」
「自分で頭がいいなんて思ってるやつのほうがもっとバカだもん!」
「ほらほら、地の場が見えてきましたよ」
 ノエルが指差した先には小さな島があり、その中央に四角錐の建物が建っていた。みな、子供のケンカなど無視して最初の試練の場を上空から窺った。
 暗緑色のピラミッド。そこに何が待ち受けているのかはまだ誰も知らない。

 中は意外と狭かった。市長室とさほど変わらない広さだ。ただし、八角形をしており入り口を除く七面には大きな鏡が埋め込まれていた。
「これが知の場……か?」
 部屋中をきょろきょろと見回したが、これといって変わった物は無い。しかし、レナは何かに気付いたようだ。
「ねぇ、ここってなにか変じゃない?」
「なにかって?」
「分からないわ。けど、どこか不自然なところがあるような気がするの」
 クロードは首を傾げた。そんなことはないと思うのだが……。
「ねーねー、お兄ちゃん」
 ある鏡の前で、レオンが手招きした。
「どうした?」
「ちょっと来てよ」
 一枚の鏡の前に、プリシス以外の全員が集まった。
「あれ? この鏡……」
「そう、ボクたちの姿が映ってないんだよ」
 そこには七人の人間が立っているというのに、誰の姿も映っていなかった。よく見れば、床の模様も違う。
「コレも映らないよ?」
 隣の鏡の前でプリシスが言う。他の鏡をもう一度見てみると、プリシスが気付いた入り口真正面の鏡とその左右の合わせて三枚の鏡には全く異なる景色が映っていた。チサトがカメラに収めようとフラッシュを焚いたが、その光すら反射しない。しかし、どうしてもこれが鏡ではないとは信じられないのだった。
「なんだ、コレ?」
 考えていても仕方がない、とクロードは鏡らしきものに手を触れてみた。すると何かが光って、その光だけを鏡は反射した。
「今のは!?」
 辺りを見回すクロードのポケットの中に光源を発見して、アシュトンは指差した。そこには、ナール市長から貰った『ルーンコード』が入っていた。紫がかった透明の薄板。幾つかの紋章とそれらを繋ぐ幾何学的模様が刻み込まれているそれは、場の封印を解くためのものだと市長が言っていた。
「こいつが光ったのか……。この光だけを反射するようになっているのか?」
 そう言い終えた瞬間、クロードたちは白い光に包まれ、周りの景色が変わった。

「あれ? みんな?」
 プリシスは一人だった。目の前には鏡があるけれど、他の景色はまるで変わっていた。床は大きな空間の中に浮かんでいる一枚の板のようで、しかもひどく狭い。同じような床が周りにいくつも浮かんでいるけれど、他の場所は板と板がくっついてもっと広くなっている。ここは板一枚、一人しか乗れない。足を踏み外したらどうなるんだろうか。考えただけでもぞっとする。そして、周りには誰もいない。他の床が六枚と、その上に乗っている変なオブジェだけ。しかもただでさえ落ちてしまいそうなのに、床は半透明になっている。
「おぉ~い!」
 叫ぶ声は少しも響かず、それが一層恐怖心を煽った。
「みんな、どこに行っちゃったのさ……」
 プリシスは鏡にもたれるようにしてしゃがみ込み、仲間たちの名を呼んだ。
「クロードぉぉ! レナぁ~! セリーヌぅ! アシュト~ン! ……ノエルぅ! チサトぉ~!」
 自分の内側からしか聞こえてこない声は誰にも届かないように思えた。
 ──聞こえないんなら、呼んでもイミないもん……。

 ──まったく、バカはどっちだよ。
 口先を尖らせながら、レオンは周囲を見渡していた。あっちもこっちも宙に浮く黒い板でできている。浮かんでいるのは、たぶんこの床に刻まれている紋章のせいだろう。変わった描き方だが、間違いない。
 このブロックには、浮かぶ床と四枚の鏡以外には何も無いようだ。背後では、クロードたちがプリシスのことについて話し合っていた。
「たぶん、あの子だけ別の鏡の前に立っていたからですわ」
「ということは、どこか別の鏡の前に転送されたのかな」
「でも、この空間にある鏡の前にはいないみたいだけど」
「一度戻って、その鏡から移動してみましょうよ」
 レオンが振り向くと、レナが鏡に触れたところだった。だが、先程のように光ることはない。
「あら?」
「ルーンコードを持っていないとダメなのかもしれない」
 そう言ってクロードが代わりに手を当ててみるが、何も起こらない。
「困りましたわね」
「戻ることもできないのか……。でも、そうしたら僕たちはどうやって帰ればいいんだ?」
 このブロックには、鏡が一枚しかない。他のブロックには別の鏡があるが、飛び越えて渡るには少し離れすぎだ。
 レオンは、今いるブロックの中で唯一色の違う床の前に立っていた。この黄色い床に刻まれている紋章は、黒い床のものとは異なっていた。鏡から戻れないのであれば、方法はこれしかない。レオンは戸惑うことなくその床に乗った。

 左の遠くで何かが光ったので見てみると、そこには人間がいた。猫のような耳の生えた、人。そんな人間を、プリシスは一人しか知らなかった。
 ──げっ、どうしよう。
 これがクロードやレナだったら喜んで大声を出すところだが、相手が悪い。きっと馬鹿にされるに決まっている。とはいえ、隠れる場所もないし、自分から場所を知らせるか相手が見つけるのを待つかのどちらかしかない。
 考えあぐねた末、プリシスは右側を向いて待つことにした。

 レオンの思った通り、黄色い床は転送装置になっていた。すぐさまプリシスを探そうとしたが、既に自分が誰かに見られているのに気付いて、顔は動かさずに横目でそっと見てみた。すると、プリシスが異様に狭いブロックに一人ぽつんといるのが見えた。目を合わせたくなかったのでしばらく他の方向を見ているふりをして時間を潰し、彼女が反対側を向いたところでようやく彼女の状態を両の目で確認した。一枚しかない床の上で両膝を抱え、不自然なほどに首を曲げて向こうを向いている。
 さっきの鏡で戻ることができなくなっていてよかった、と思った。あんな狭いところにみんなで転送したら絶対に落ちてしまうし、プリシスだって当然無事ではすまない。しかし、どうやって助けたものか。
 ──なんだろう、コレは……?
 レオンの居るブロックには、妙なオブジェのようなものが置かれていた。木製の土台に金色の台座。どちらにも細かく複雑な装飾が施され、その上に水晶球のような物が乗っている。全体の高さは二メートル弱。球の中にはそれとほぼ同じ直径の薄い円盤が垂直に浮かんでいた。
 土台の部分に飛び乗って、球体に触れてみる。すると球は眩い光を放ち、中の円盤が垂直方向を軸にして高速で回転し始めた。

 後ろのほうで何かが光ったかと思うと、プリシスの乗っていた床の左右に新しい床ができていた。驚いて光源のほうを振り返る。レオンは慌てて背を向けたように見えた。それと同時に、奥のほうで別の光が生じてクロードたちが現れた。どうなってるんだろうと思いつつ、とりあえず呼んでみようと思ったがやめた。クロードたちの口が動いているのに、何も聞こえないからだ。こっちから何を言っても聞こえないだろう。
 でも、やっぱり呼んでみることにした。
「クロ~ド~!」
 すると、気付いたのかレナがクロードの肩を叩いてこちらを指差した。自分を発見してなにやら話しているようだが、やっぱり何も聞こえない。そのうち向こうでも何か叫びだしたが、もちろん聞こえない。
それに答えようとプリシスも叫ぶが、クロードたちは不思議そうな顔で首を捻っている。どうやら、レナが気付いたのは声ではなくてプリシスが叫んでいる姿だったようだ。
 何メートルも離れていないのに声も聞こえない。プリシスはさっき自分だけ一人になってしまったときよりも悲しくなって、目頭が熱くなるのを感じた。

「ということは、この水晶に触れていけばプリシスのいる床が広くなっていくわけか」
 クロードはレオンの話をまとめた。この空間には、他にも五つの水晶が置かれている。
「どうやら他には仕掛けもないみたいだし、あの床を広げるのが知の場の試練ってやつじゃないかな」
 アシュトンの意見に一同は頷き、黄色い床を見つけて飛び乗った。
 すると、最初にいた空間の別の場所に出てプリシスの姿は見えなくなったが、かまわず黄色い床を探してまたプリシスのいる空間に戻る。そこには別の水晶があった。それに触れると、またプリシスのいるブロックが広くなっていく。
 そうして全ての水晶に触れていくと、プリシスのいるブロックは綺麗な正方形になった。そして、中央にあの黄色い床が現れる。あとは、鏡を使ってプリシスのいるブロックに移動するだけだ。

「クロードぉ!」
 金髪の少年が現れるなり、プリシスは飛びついた。その拍子でクロードは仰向けに倒れ、背後にいたアシュトンがクッションになった。
「ぐわあぁぁぁ!」
 倒れた男二人は同時に奇声を上げた。プリシス自身は軽いに決まっているが、背負っている物の重量が半端ではない。
「重い! 重いからどいてくれ!!」
 もしもこれを言った相手がセリーヌだったら憤慨するどころでは済まなかったろうが、プリシスは自分の体重というものに大した関心がなく、すぐに何が重たいのかに気付いた。
「あ、ごめ~ん」
 笑いながら立ち上がり、プリシスは一歩下がった。その横で、レオンは上目づかいで彼女の顔を見ていた。
「無事に全員揃ったことだし、このいかにも怪しげ~な床に早く乗ってみない?」
 片膝をついてカメラを構えながら、チサトは中央の黄色い床を指差した。回復呪紋でクロードの痛みを和らげながら、レナは訊ねる。
「こんなところを撮るんですか?」
「もっちろんよ。『知の場最後の試練に突き進む勇者たち』ってね。ほら、早く、クロードくん」
「はあ……」
 まだ若干の痛みを残しながら、クロードは黄色い床を踏んづけた。
「ダメよ、もっとカッコよく……って、もう消えちゃったわね。はい、次はレナちゃん。できるだけ可愛くね。スカートの中を見せたらNGよ♪」

 床は赤い紋章の入った円盤だった。丸いピザを切るような感じの溝がいくつも入っていて、中央には円形の台がある。それにも溝が入っていた。さらにその上には光の円錐ができていて、その中にこれも赤い珠が浮いていた。壁は前方にのみあって、やや高い位置から何か不気味な形のものが飛び出していた。
「これって、機械かな?」
 クロードは真下に立って覗き込んだ。黄色と緑色に塗られた金属でできており、何かを掴むロボットアームのようだ。
「カッコいい~♪」
 プリシスは目をきらきらさせている。この機械は指が三本しかないので、その点からすればプリシスの五本指のパンチのほうが凄いようにも思えるが、そういうことは関係ないらしい。
『侵入者発見! 侵入者発見!』
 突如、けたたましい音が鳴り響いた。同時に、機械アームの各部に次々とランプが点いて駆動音が轟く。
『侵入者は強制的に排除します。ガードレベル1を発動します』
 閉じられていた三本の指が物凄い勢いで開き、手の平に当たる部分から球形の機械を幾つも吐き出した。そして真下で呆然としているクロードを間髪入れずに殴りつけた。二メートルほど吹っ飛んで、クロードはうめきを上げた。レナはすぐさま駆け寄ろうとしたが球形機械が吐き出すガラクタの塊のような飛び道具に阻害されて上手く近づけない。
「なによ、これ……!」
「どうやら、このガードロボットが最後の試練のようだね」
 ノエルは腕を伸ばし、両の親指と人差し指で三角形を作ると呪文の詠唱をはじめた。三角形の中央に、光の粒子が溜まってゆく。「マグナムトルネード!」
 機械たちの間に大きな竜巻が現れ、轟音とともにそれらを吸い込んだ。吹き上げられた機械たちは高くから落下したにもかかわらず無傷で中央に戻ろうとする。その一体にアシュトンが斬りかかった。レナは再び道が塞がれる前にクロードの元へ行こうとしたが、彼はすでに起き上がっていた。再度自分に襲い掛かろうとする巨大なアームを必死に交わしながら硬いボディに傷をつけてゆく。しかしこのままでは勝利は見込めない。弱点か何かをつければいいのだが……。
「クロード、どいて!」
 プリシスの声がかかって飛ぶようにして右手によけると、後ろからものすごい勢いで球形機械が飛んで来た。プリシスが自分のアームで投げたそれはアーム型ロボに激突して粉々に砕けた。しかし、すぐに新しい球形機械が吐き出され、プリシスを追いまわした。
「あの腕を壊さないとダメみたいだね」
 アシュトンがようやく一体を破壊したが、やはりアーム型ロボは新しい機械を吐き出した。
「『無限に小型ロボを吐き出すガーディアン相手に勇者たちは苦戦』と……」
 チサトは呑気に記事を書いていた。さすがに見咎めて、セリーヌは昨日と同様に彼女の襟元を掴んだ。
「ちょっと! こんな時になにしてるんですの!」
 昨日と違ってチサトはうろたえなかった。
「そんなに起こらないでよ。やるべきことはちゃんとやるわ。ほら、手を放して」
 そう言ってメモパッドをしまうと、チサトは足元ににじり寄ってきた小型ロボを持ち上げて別のロボットに投げつけて二つとも壊した。セリーヌは呆れる。
「壊したって無限に出てくるって、自分でも言ってたじゃ……」
 ところが、出てきたのは一体だけだった。チサトは得意げに言い放つ。
「やっぱりね。『知の場』だもの。頭を使わなくちゃ」
 そうして小型ロボ同士を次々と粉砕させていく。クロードたちもそれに気付いて、剣を収めて球体同士をぶつけていった。プリシスはターボザックのアームと無人くんを使って、二人分の仕事をこなした。
「よし、これで一つになったな」
 最後に吐き出された一体を見下ろす。小型ロボには攻撃してくるものとしてこないものがあって、後者のほうが圧倒的に多かった。これも、そのタイプらしい。
「でも、ここからが本番よ」
 チサトの言葉にクロードは頷く。球状の小型ロボのほうはある程度簡単に破壊できるのだが、このアーム型ロボは異様なまでに頑丈だ。壁にくっついているから少し離れれば安全なのだが。
「剣で攻撃するのは無理がありますよ、少し」
 クロードは自分の剣を抜いてみせる。刀身にはかなりの傷がついており、刃こぼれもひどかった。
「だったら、アタシの出番じゃん」
 言うなりプリシスは巨大ハンマーでアーム型ロボをぶっ叩いた。
「ほいっ!」
「そんなんで潰れるかしら」
 チサトは首を傾げたが、確かにアーム型ロボットは壁にめり込んでいた。アームの部分はめちゃめちゃに折れていて、もう伸びることはないだろう。ただし、小型ロボットを吐き出していた穴だけはしっかりとクロードたちのほうを向いていた。
『システムに異常が発生しました。ガードレベル2に移行します』
 その瞬間穴の奥に白い光が生じ、閃光が打ち出された。
「うひゃ~っ!」
 足元に一瞬で直径一メートルほどの窪みができ、プリシスは腰を抜かした。
「な、な、な、なにぃ~!?」
「これは……!?」
 クロードは目を見開いた。どう見ても何らかのビーム兵器だ。当たったら間違いなく即死。これが試練なのか。
「まずいよ、あんなのに当たったら死んじゃうよ!?」
 レオンは怯えた。確かに、とセリーヌも頷くがどうしていいものやら分からない。そのとき、ノエルが細い目で言った。
「そうだ、誰か雷の呪紋は使えないかな」
「雷?」
「うん、機械は普通雷に弱いんだ。構造にもよるけれど、試してみる価値はあると思う」
 セリーヌは頷き、杖を握り締めて一歩前に出た。まだクロードたちが気付いてないのを見て、レナが注意を促す。
「みんな! セリーヌさんが雷の呪紋を唱えるからどいて!」
 クロード、アシュトン、チサトは自分の足でその場から離れたが、腰を抜かしたプリシスはアームとハンマーを足代わりにしてなんとか逃げ出した。
「サンダーストーム!」
 杖の先から爆音とともに稲妻が走り、アーム型ロボに命中した。だがすぐには機能を停止せず、再び閃光を放つ。砲口が下を向いているので誰にも当たらない。
「そっか、その手があったわね」
 チサトはポケットから『電撃びりびり棒』なる物を取り出し、それをロボットに向けてスイッチを入れた。
「十万ボルトの電撃よ!」
 棒の先からアームロボ目掛けて閃光が迸り、セリーヌの呪紋と合わさって眩い光が炸裂した。目を開けられないほどの光と耳がおかしくなってしまうほどの轟音の中で、ガードシステムはプログラムどおりに作動していた。
『システムが九十五パーセント損傷しました。ガードレベル3、自爆シークエンスを実行します』
 その音声は誰にも聞こていなかった。

 一つの部屋。見覚えのある部屋を、クロードは見ていた。柔かな感触のソファ、年代物のガラステーブル、古びた本で一杯の書棚、すわり心地のよい椅子、操作パネルのついた机、隅に日付けだけが表示されたディスプレイ……。そして壁に掲げられた旗――太陽と地球、それを取り巻く星々を描き、前進と協調を表すデザイン。それを囲むようにして配された文字は、『UNITED FEDERATION of EARTH』。
 ──ここは……地球!? 間違いない。この部屋は地球連邦本部にある父さんの部屋だ。
 そうと認識した瞬間、閉ざされていたドアが開いて部屋の主が入室してきた。金色の装飾がついた抑え目の赤い制服と帽子。蓄えられた髭と髪は藍色。地球連邦宇宙艦隊提督、ロニキス・J・ケニー。
 ──と、父さん!?
 クロードは背筋に緊張が走るのを感じた。しかし、父親の方は気付かないようだ。
 ──……?
『まさか、レゾニア軍が協定を破って再侵攻してくるとはな……。至急艦隊の再編成を行わなければ』
 ロニキスは入り口を背に、拳を顎に当てて考え込んでいた。
『お父さん!』
 高い声とともに金髪の子供が満面の笑顔で入ってきた。振り返ってその姿を確認したロニキスは、驚いている、というよりは困惑しているように見えた。
『クロード!? どうしてここに?』
『だって、せっかくウチュウから戻ってきたのに、おしごとばっかりで全然おウチに帰ってきてくれないんだもん』
 ディスプレイの日付けを確認する。宇宙暦三五三年十月二四日。六歳だ。
 ──そうか、この日は一年ぶりに父さんが地球に帰って来たんだっけな。
 六歳のクロードは飛び上がるようにして父親に抱きついた。
『お父さん、早くおウチに帰ろ。お父さんと一緒にウチュウに行けるように、ボク一生懸命勉強したんだよ』
 ──そういえば、この頃は父さんが帰ってくる日をこんなに楽しみにしていたんだっけ……。
 ロニキスは幼いクロードの目の高さにまで腰を落として、頭に手を置いた。
『大きくなったな、クロード』
『うん、好き嫌いしないでいっぱい食べたんだよ』
『えらいな』
『うん! だから、早くおウチに帰ろう』
 ロニキスはしばらく黙ってから、立ち上がった。今のクロードに、その表情を見ることは、なぜか出来なかった。
『すまんな、クロード。父さんはやらなきゃならない仕事が出来たんだよ』
『どうして? 帰ってきたら、いっぱいご本を読んでくれるって約束したでしょ?』
 ロニキスは黙っていた。クロードは叫び立てる。
『お父さん、帰ってこないの? ご本も読んでくれないの? お母さんだってずっとずっと待ってるんだよ!?』
 ロニキスは、机の上に視線を移した。子供の頃は目の届かなかった場所。そこには、クロードが生まれたばかりの頃の家族の写真があった。
『母さんなら分かってくれるさ。クロードは家に帰ってこれからも母さんを守ってやってくれ』
 クロードは顔を真っ赤にして泣き叫んだ。
『お父さんのバカ! ウソつき! ウソつくお父さんなんて、大っきらいだあ~~っっ!』
 涙を流しながら、クロードは駆け出した。ロニキスは黙ってそれを見ていた。
「嘘つくお父さんなんて、大嫌い……か……」
 それが急に耳元で聞こえたような気がしてクロードははっとし、その瞬間、ロニキスは部屋ごと白い光の中に消えていった。
 ──父さん!?

 気が付くと、そこはガードロボットと戦った部屋だった。飛び散った機械の破片が散乱している。クロードは起き上がるとすぐに、倒れているレナを見つけた。
「レナ! 大丈夫かい!?」
 眠っているように見えたレナはクロードの腕の中でゆっくりと目を開けた。
「クロード……? わたし……夢を見ていたの?」
 おぼつかない様子で周囲を見渡す。他の仲間たちもあちこちに倒れていたが、徐々に起きあがってきた。レナもクロードに支えられながら立ち上がった。
「夢、か……。僕も見たよ」
「何が見えたの?」
 クロードは、見えたことを頭の中で反芻した。
「昔だよ……。ずっと昔。まだ何も知らなかった、子供の頃……」
「そう……。私も同じ……」
 セリーヌたちは、中央の台座に集まっていた。そこにあった円錐形の光はなく、浮いていたはずの珠も今は台座の上に置かれているだけだ。
「これが、ネーデの知の力……か?」
 そっと赤い珠を握る。それは不思議と暖かく、どこか懐かしい気持ちにさせるものだった。

 ──神の十賢者、か。
 形のいい鼻で笑うと、彼の細やかな銀髪が揺れた。目の前の空間に表示されていく文字は、エナジーネーデの様子を次々と報告する。歴史、人口、地理、政治、経済……。内容は多岐に渡り、しかも緻密である。その中に、『神の十賢者』という言葉が幾つか出てきた。
 誰がそう呼び始めたのかは知らないが、どうやら自分たちは歴史というよりは神話の世界の人物であるらしい。名前は知られていても、存在に実感が伴わない。実際、ここフィーナルがこのような変貌を遂げたというのに、住人たちの様子に大した動揺は見られないという。なんと愚かしいことか。かつてのネーデ人ならば、とうに報復に出ているはずだ。もっともこのような幻影の星に長く住んでいるのだから軟弱になるのも当然のことであろう。
「ルシフェル様」
 報告文書の左手に、紅く縁取られた緑色のフードを被った男の姿が浮かび上がった。
 男、という表現が適切かどうか。十賢者、とくにこのフード人間に性別は意味を持たない。顔を覗こうとしても、本来目鼻があるべき場所は闇の空間になっていて、唯一目のような光点が二つ淡い光を放っているだけだ。今は頭部しか映っていないが、この男には足もない。ただ青白くか細い両手だけが外界との接点になっているのだ。果たすべき任務以外のことにおいてはまるで役に立たないが、その任務の内容は他のどの賢者たちのものとも性質を異にし、かつ重要であるため、地味ではありながら彼の存在意義は大きい。
 名前を呼ばれて、ルシフェルは何かと訊ねた。
「ガブリエルが呼んでいます」
 いやなことを聞かされた、とルシフェルは目を細めた。同時に、ひとつの疑問が湧く。
「本当にガブリエルか?」
「その質問にお答えするには、『本当のガブリエル』の定義が必要です」
 それもそうか、とルシフェルは苦笑した。もはやあれはガブリエルであってガブリエルでない。『あの人間』の狂気によって生まれた、別の人格だ。新たに名前を付けるのも馬鹿馬鹿しいほどの不良品。ただしその欠陥のせいで、今は何者もかなうことのない絶大な力を持ってしまっている。厄介なことだ。
 ──おまけにこの私を呼び出そうとさえするとはな。
 エナジーネーデに来てから、ルシフェルは数時間おきにガブリエルに呼ばれていた。初めは『用があるなら自分で来い』と言ってやったのだが恐ろしく気分を害して暴走しかけたので、しかたなく行ってやることにした。そして『あの人間』の昔話を延々と聞かされ、以来それが何日も続いている。聞いても役に立たないし時間の無駄で、しかも毎回同じ話ときている。行かなかったり途中で立ち去ろうとするとまた暴れだすので、聞いてやるしかない。面倒なことだ。おかげで予定が遅れがちになっている。
「分かった。今行く」
 返事を確認すると、フードの男、ラファエルの映像は消えた。ルシフェルは表示されたままの報告書も消し、目を閉じて呪紋を唱えた。足元の床に青く光る筋が走り、それが五芒星を描いたとき、魔法陣は一段と輝いて術者を別の空間へと誘った。

 クロードたちはセントラルシティから北西にある街、ギヴァウェイに来ていた。知の場を攻略したものの、とくに強くなったとも思えず、頭が良くなったようでもなくまるで実感がなかったので、次はいかにも力が得られそうな『力の場』に行こうということに決まった。もっともこれはプリシスが勝手に考えた論理だが、他の仲間たちも特に反対しなかった。
 力の場は、セントラルシティから北西の方角にある。内海の西端で、そこには二つの南北に長い島があり、双方とも人工雪による白銀の大地になっている。南側の島の山中に力の場があり、北側の島にギヴァウェイの街がある。知の場から見ると南西にあたる。
 クロードたちは知の場での疲れを癒すため、丁度力の場への通り道にあるこの街に寄ることにしたのだが、思わぬ足止めを食らっていた。
「これも十賢者の仕業なのかしら?」
 レナが、窓から空を見上げて言った。現在、ギヴァウェイ一帯は猛吹雪に襲われている。街自体は緊急用シールドを展開して守られているが、その外は荒れ狂う氷の嵐で何も見えない。
「そうだろうね。エナジーネーデに異常気象は起きないから」
 ノエルが一階からお茶を運んできた。ここは、彼の実家の二階、彼自身の部屋だ。実家とはいえ両親は既になく、唯一の住人であるノエルも調査旅行や希少動物保護地域管理の仕事で忙しく、家にいる時間のほうが少ないそうである。その割には埃も溜まっていなくて綺麗だな、とクロードは思ったが、それもそのはず。彼の教え子であったケルメという女性が時折やってきては掃除などをしてくれるらしい。
 ケルメは今日も来ており、ノエルの後についてお茶とお菓子を持ってきた。深い海の色をした髪を三つ編みにしてまとめ、派手でない小奇麗な服装で、背はレナに少し負ける程度。強い印象を与える感じではないが、礼儀正しく、大人しそうな人だ。
 部屋の中央に置かれた木製のテーブルに集まり、温かいお茶を飲む。床も壁も椅子もほとんどが古く馴染んだ木でできており、暖炉では本物の火が静かに燃えている。保護地域の管理小屋と同様に、動物の絵や写真が数多く飾られていた。窓の外には人工の雪がふわふわと舞うように降っており、ゆったりとした雰囲気を醸し出している。
 しかし、落ち着いてばかりもいられない。十賢者たちの銀河征服計画は刻一刻と進んでいるはずであり、手遅れにならないうちに阻止しなければならない。
「ナールさんとの連絡はまだ取れませんの?」
 手作りビスケットを頬張りながら、セリーヌは少し苛立った様子で訊ねた。ノエルは首をひねる。
「もうすぐだ、とチサトさんたちは言っているけどね……」
 吹雪のせいなのか機械の故障か、もっと別の原因によるものか、セントラルシティとは通信が不可能になっている。一階にある通信機を、現在チサトとプリシス、レオンがいじくり回して試しているところだ。クロードも手伝おうとしたのだが、最初に失敗して危うく壊してしまうところだったので、追い払われた。
 それにしても、とクロードは自分の手の平を見つめた。『ネーデの力の根源』の一つ『ネーデの知の力』を手に入れたはずなのに、自分がどう変化したのか全く分からない。宝珠を手にしただけではダメなのだろうか。四つ揃えなければ効果がないのか。あそこで見た夢のような映像はなんだったのか。様々な疑問が浮かんでくる。回答が得られるかは分からないが、その辺りについてもナール市長に聞いてみたい。
 階段を駆け上がる音が聞こえ、熊のレリーフがついたドアが勢いよく開かれた。
「みんなっ! 通信ができたわよ!」

 通信機は壁に埋め込まれていて、ディスプレイと操作パネルがついている。今はパネルの部分が開けられており、そこにレオンが手を突っ込んでいた。奥から微かな緑色の光が漏れ出ている。
「どうやら通信に必要な紋章力が足りなかったみたいね」
 チサトは説明する。
「緊急用シールドを使っているせいでもともとパワーが不足してるんだけど、十賢者の妨害もあるみたい」
「で、ボクが足りない紋章力を直に供給してるんだよ」
 レオンが得意げに胸を張ると、プリシスは道具を片付けながらも負けじと声を張り上げた。
「原因を突き止めたのはあたしなんだかんね!」
「二人ともご苦労様。とにかく、通信をしてみようよ」
 アシュトンが丸くおさめ、チサトは頷いて半分外れているパネルを操作した。十秒と待たずに、市長の皺のある顔が画面に映った。表情はやや硬い。だが、通信相手の顔を見ると、少し和らいだようだ。
『おやおや、誰かと思えば……。他人の家から通信するとはいい度胸じゃないか』
「人聞きの悪いことを言わないでよ、おじ様。今はクロード君たちと行動してること、知ってるでしょ?」
 市長相手に妙に馴れ馴れしい口調なので、みな驚いて目を見張った。市長は気に留めた様子もなく話を続けた。
『ああ、分かっている。ただ、ギヴァウェイから通信ができたことには驚いているが……、今はその理由を聞いている場合ではないな』
 チサトは少しばかり神妙な顔になって頷くと、クロードに場所を譲った。市長の顔は深刻そうな表情に戻っていた。
『吹雪については存じています。現在調査中ですが、当面はギヴァウェイから出ることも入ることも難しい状況です』
「トランスポートは使えませんか?」
 市長は首を振る。
『いいえ。ギヴァウェイ大学内にトランスポートはありますが、あれは主要施設を結ぶだけですから』
「だったら、一度セントラルシティに戻ってから他の場に行けばいいんじゃないかしら」
 レナがこれは名案とばかりに言ったが、ナール市長は冷静に答えた。
『確かに。しかし、サイナードが無ければこの島からは出られませんし、トランスポートにサイナードは入りません』
 トランスポートのガラス容器は、人が十人詰め込めるかどうかの大きさだ。十人以上はゆうに乗れそうなサイナードが、入るはずがない。
「他に乗り物はないんですか?」
『無いことはありません。ですが、移動速度が非常に遅いので不便ですね』
「それは、今どこに?」
『ラクアといって、内海の東の端にある島です。ギヴァウェイとは丁度正反対の場所になりますし、どの場からも遠く離れています。一番効率の良い方法をとったとしても、次の場に行くまでには十日はかかるでしょう』
「そんなに……」
 それしか方法がないとなれば仕方ないが、それでも十日も何もできないと思うと素直には受け容れ難い。一日も早く、十賢者たちを倒したいのに。
 しかしそう考えて、クロードはふとその後はどうするんだろう、と思った。クロード自身は数日前にレナたちと生きることを決めたばかり。十賢者たちを倒してもエクスペルが戻らないことを知っている。だが、レナたちはエクスペルに戻るために、エクスペルの平和のために戦おうとしている。もう存在しないもののために。それを知ったとき、彼らはどうするのだろう?
 知らせなければならないとは思いつつも、家族のことを想う彼らの顔を見ると言い出せないのだった。
「そーだっ!」
 突然の発声はプリシスのもの。周囲から奇異の目が向けられるのもかまわず通信パネルの前に踊り出て、画面を覗き込む。
「ねえねえ、力の場は吹雪になってるの?」
 妙に明るい調子の態度に戸惑いながらも、ナール市長は明瞭な声で答えた。
『いえ。試練のために吹雪くこともあるようですが、十賢者の影響は受けていないようです』
「だったら、あたしがなんとかしたげる♪」
 仲間のほうを振り向き、腰に手を当て胸を張る。だが、クロードたちには当然わけが分からない。
「なんとかって……?」
 問われて、プリシスは白い歯を覗かせながら笑った。
「ヒミツ♪」
「おいおい、それはないだろ」
「だいじょぶだいじょぶ。あたしにド~ンと任せちゃってよ」
 何をするのか分からないのだが自身満々に言うので、クロードは判断つけかね、セリーヌとアシュトンを見た。
「どうする……?」
 彼女のことだから何かするとすれば機械関係のことだろうが、そうなるとエクスペル出身者には余計に判断できない。
「う~ん……」
「どのくらいかかるんですの?」
 セリーヌがもっともな質問をした。時間がかかるようでは意味がないのだ。プリシスはしばらく天井を見上げるようにして算段すると、少しばかり真面目な表情で答えた。
「う~んとね、早くて三日ぐらい。遅くても五日かなぁ」
「十日かかるよりはマシか……」
 クロードはレナやノエルたちの顔を見回す。積極的ではないものの、拒絶してはいない。
「分かった。プリシスに頼むよ」
「ありがと、クロード!」
 プリシスは満面の笑顔を見せると、ターボザックのアームを起動して傍らにいたレオンの後ろ襟をつまんだ。
「さっ、行くよ!」
「え、ええっ!?」
 赤面して動揺する様子を全く無視してレオンを玄関先まで引きずると、最後に元気に手を振り、プリシスは静かな雪の街への扉を開く。
「じゃ、みんな、またね~!」
 プリシスの手が離れて勝手に閉まったドアに、引きずられたままのレオンの片足が挟まった。
「うわあっ!?」
 痛みを訴えたにもかかわらず無理やり引っ張られ、レオンは消えていった。ドアに引っかかって脱げた靴を残して。
 クロードたちはしばらくぼうっとしていたが、あることに気づいて通信パネルを振り返った。
「すみません、こういうことになったんですが……」
 しかし、レオンがいなくなって紋章力の供給が絶たれたため、画面は灰色だった。声も聞こえてこない。
「あ~あ……。勝手に話を進められた上に通信切られたんじゃ、おじ様、きっと泣いてるわね……」
 さらりと言うチサトだったが、他の面々はそう軽い気持ちにはなれず、顔から血の気が引いていくのを感じたのだった。

10

 ギヴァウェイ大学。エナジーネーデ唯一の高等教育機関であるこの大学はエナジーネーデ創造と同時に開学し、ネーデの知恵と技術を今に伝えている。
 住宅や店舗の立ち並ぶ緩やかな斜面を登ったところに、それはあった。三十七億年の伝統と貫禄を感じさせる重厚な石造りの建物。曲線が多用され、一度の改築も補修も行われていないという。その表面の滑らかさと耐久性が、ネーデの技術力の高さを窺わせた。
 内部は若干暗めの照明で照らされ、床に敷かれた茶系の絨毯とも相まって、落ち着いた雰囲気を感じさせる。中に入ってすぐのところに、案内板が設置されていた。無色透明の板に見取り図が描かれ、説明書きが付いている。それは単なる板ではなくコンピュータパネルのようなもので、赤く光っている部屋は使用中、緑色は開放中、など、様々な情報を表示してくれる。クロードが探しているのは図書室だった。二階の東の端。緑色なので入室可だ。早速、目的の場所へ向かう。
 最低でも三日は大してすることがないので、クロードはこの機会にネーデについて知っておこうと思った。高度な紋章科学力を持ちながら、逆にその力を恐れて自ら外界との接触を絶ったネーデの人々。地球でも最近紋章科学が注目を浴びているが、さらに研究が進んで大きな力を手に入れたとき、やはりネーデと同じ道を辿ることになるのだろうか。もう地球には戻らないかもしれないが、それでも故郷のことが気になるのだった。それに、紋章科学の研究にはクロードの家族も関わっている。
 図書室に入って驚いたのは、壁一面が本で埋め尽くされていたことだ。図書室なのだからあたりまえではあるが、たとえば連邦士官アカデミーの図書室は、書架よりもライブラリーコンピュータの方が占める床面積において勝る。地球上のどこを探しても、紙の本しかないような図書室は皆無に等しい。だがこの大学の図書館は、隅のほうにアクセスパネルが一つ設置してあるだけで、あとは全て紙の本だった。数人の学生が本を探したり自習などしていたが、利用率はそれほど高くないようだ。微かなインクの匂いが漂う。
 紋章科学の棚を探し、クロードは手近なところにあった白い表紙の本を取り出した。エナジーネーデ創設直後に記されたもののようだ。『紋章力の遺伝学』というタイトルに目を通し、ページをめくっていく。飛ばし飛ばしに読んでいくうち、興味深い一文を発見した。
『紋章科学テクノロジーの世界において当時宇宙的権威を持っていたランティス博士は、我々ネーデ人の遺伝子配列が紋章力を行使することにおいて考えうる最高の並び方をしているため、これ以上の力を手にすることは理論上不可能であることを証明した』
 紋章力と遺伝子配列の関係については地球でも研究されており、連邦に所属する多くの人型種族を調査した結果、紋章術を使える種族と使えない種族があることが分かっている。地球人は使える分類に入るが、あくまでも可能であるというだけで、その程度については個人差があるらしい。クロードの父ロニキスは、地球人として最初に紋章術を習得した人物として知られている。かつてロークという未開惑星に行ったときに使えるようになったらしい。地球の紋章科学はそれがきっかけとなって研究が始まった。だが、なぜかロニキスは人前で術を使うことを嫌っており、クロードも見たことはなかった。母はその理由を知っているようだが、教えてはくれなかった。
 ともかくそういうわけで、クロードは父ほどではないにしろ紋章力を持っている。紋章術としては使えないが、剣技や格闘技と組み合わせることによって小さな力を増幅させている。これは、父と同じように地球人として初めて紋章術に出会った母から教わった方法だ。
 この本の示唆するところはつまり、ネーデ人以上の紋章力を持つ種族は存在しないということである。十賢者というのはその中でもとくに強力な力を持つ人間たちなのだから、並大抵のことでは倒せないというのは頷ける。
 クロードはその本を一通りめくってみてから書架に戻し、隣の赤い表紙の本を開いた。
『かつて、より強力な紋章力を秘めた人間を作るべく、実験が行われた時代があった。だが、その結果として生まれた人間たちは通常のネーデ人たちと何ら変わることはなかった』
 結局ネーデ人はネーデ人以上にはなり得なかったということだろう。もともとネーデ人の遺伝子配列が紋章力を使うのに最適なのだから当然のことともいえた。先のランティス博士という人物の研究結果はこのことを元にしていたのかもしれない。
 しばらくネーデの紋章科学について知識を深めた後、クロードは歴史の棚を探した。三十七億年前の人々が自ら殻の中に閉じこもらざるを得なかった理由、その結論に至るまでの過程を知りたかった。だが、その棚には先客がいた。鮮やかな赤毛にスーツとハーフパンツの特異な格好。
「あら、クロード君」
 チサトは近寄るクロードにすぐ気づいた。
「何してるんですか、チサトさん」
「何って本を読んでるに決まってるじゃない」
「それはそうですけど……」
 クロードは頭をかいた。チサトは構わずに、視線を本に戻す。普段は少々元気すぎる感がある彼女だが、今この瞬間だけは冷静に物事を判断する記者の目になっていた。
 気になって、クロードはチサトが読んでいる本のタイトルを覗いた。茶色い表紙に黒字で『ネーデ史第三四巻』とある。年代表記を見ると、丁度惑星ネーデからエナジーネーデへと移った時代だった。
「やっぱりね」
 ため息を吐きながら、チサトは本を閉じた。
「なにがですか?」
「ネーデの歴史よ」
 クロードは首を傾げ、チサトはしばらく思案してから口を開いた。
「昔のネーデ人たちがエナジーネーデに移った経緯は知ってるわよね」
「はい。ナールさんから聞きました」
「どんな風に?」
 クロードは少し考えてから答える。
「え~っと、昔のネーデ人は他の星々と共存する平和なところだったけど、そこに神の十賢者を名乗るやつらが現れて楽園を踏みにじった。でも、ネーデ人たちは力を合わせて十賢者たちを時間の進まない空間に追いやった……。こんなとこです」
「やっぱりそんなものよね……」
 少し残念そうに、チサトは言った。クロードはわけが分からない。それが一体どうしたというのだろうか。
「なんでそんなこと聞くんですか?」
 チサトはやや深刻そうな顔になってから、声を落として話し始めた。
「さっきから歴史の本を漁ってその時期のことについて調べていたんだけどね、どの本にも同じことしか書いてないのよ」
「それが何かおかしいんですか?」
 クロードは当たり前のように聞き返したが、チサトは少しばかり咎めるような目つきになった。しかし、すぐにもとの真剣な表情に戻る。
「物事は色々な方向から色々な人たちが見ているものでしょ。だから、一つの出来事に対しても複数の解釈が存在するのが普通なの。でも、この件についてだけはどの本もどの著者もみんな同じことしか書いてない。どれも、さっきクロード君が言ったような内容なの」
「そう言われれば、確かに変ですね」
 クロードは頷いた。
「付け加えて言うと、どんなに詳しい本でも、事件の細部に触れているものは無いのよ。十賢者一人一人の名前は分かっているけど、年齢や出身地については書かれていないし、十賢者に対抗したときの軍の指揮官とか、周りの星々の反応とか、そういうことはどこにも載っていないのよ。悪い十賢者と、苦しみながら対抗するネーデ人の二種類の人間しか出てこない」
「正義と悪の戦いみたいですね……」
「その通りよ。まるで童話みたいな内容しか伝えられていない」
「でも、どうして……?」
「問題はそこなのよ」
 チサトはいつのまにか自分の声が大きくなっているのに気づいて反射的に口をふさぎ、辺りを見回した。誰も聞いていないのを確認してから再び低めの声で話し始める。
「考えられるのは、この事件の真相は別にあるのにそれを隠すために誰かが故意に話をでっち上げたってコトね。しかもエナジーネーデへの移住と同時に、たぶんネーデ首脳が陣頭に立ってね」
 衝撃的な内容に、クロードは息を呑む。まさか、と言いたい所だが一理ある。
「じゃあ、ナールさんもそのことを知っているんでしょうか」
 もしそうであれば、ひどく裏切られたことになる。だが、チサトは首を横に振った。
「それは考えにくいわね。たぶん記録は三十七億年前に抹消されたんだろうし、もし歴代の市長やその周辺にだけ伝えられていたとしても、そんな長期間に渡って隠し通せるとも思えないわ。知っていても大した意味があるとも思えないしね」
 そうかもしれない。だが全ては推論だ。真実が別にあるということも、それがエナジーネーデ創設時に組織的に隠蔽されたということも、ナール市長がそれを知らないということも。どれか一つでも証拠を掴めれば幾分は明らかになるだろう。そして、その中には必ず十賢者の正体に関する情報が含まれているはずだ。それが分かれば戦いを有利に進められる可能性もあった。
「とにかく、これ以上こんな童話本の山に囲まれていても仕方ないわ。他を当たりましょ」
 チサトは抱えていた『ネーデ史第三十四巻』を書架へ戻すと、颯爽とした足取りで図書室を出て行った。

11

「他を当たるって、どこかあてがあるんですか?」
 二階の廊下を真っ直ぐ歩きながら、クロードは訊ねた。
「なくはないわね」
 チサトは胸のポケットから紙のメモを取り出して、それと建物の中を見比べていた。やがてメモをしまうと、
「あそこよ」
 廊下の突き当たり、図書室とは正反対の位置にある部屋を指差した。遠くてよく見えないせいか、なんだか暗い感じのする場所だ。あんなところに何があるというのだろう。
 クロードが部屋の外観に気を取られているうちに、チサトは歩くスピードを上げていた。慌てつつも静かに追いつく。途中、窓の下に大きな箱をターボザックで運ぶプリシスと、さらに巨大な箱を重たそうに引きずるレオンの姿が見えた。大学内で作業をしているようである。
 そして、クロードたちは目的の場所へたどり着いた。扉に書かれたプレートの文字を読む。
『ネーデ歴史研究室』
 なるほど確かに用がありそうな場所である。ただし、まばらに変色したドアや壁は外部の人間を寄せ付けまいとする意思を持っているかのようだった。チサトも少しばかり躊躇してから、ドアをノックした。
「はい、どうぞ」
 若い男性の声がして、二人は中へ入った。ドアが軋んでいやな音を立てる。室内は薄暗い照明で、統一感のない机や書棚が壁際に置かれていた。その机の一つで、一人の男性が何かの実験をしていた。クロードたちには背を向けて、二つのフラスコを小刻みに振っていた。歴史研究室のはずなのに何をしているのだろうと思いながら当たりを見回すと、さらに場違いなものを見つけた。トランスポートのガラス筒程に巨大な容器の中で、生物の胚を大きくしたようなものが液体に浸かっていた。
「レイファス室長は今ちょっと出てますから、待っててください」
 フラスコを持ったまま振り返った男性は、首を傾げた。クロードを見て、何かを思い出そうとしている。
「……あなたは?」
「僕は……えっと……」
「ネーデ新聞社の者よ」
 ああ、なるほど、と男性は頷き、
「それで思い出した。確か外の世界から来た人ですよね」
「ええ、まあ」
「で、なにか用ですか?」
 若者はフラスコを机に置いて訊ねた。よく見ると、目鼻立ちのはっきりした、およそこんな不清潔な場所には相応しくなさそうな人物だった。
「室長は出てるって言ったけど、いつ戻るのかしら?」
「ちょっと分かりませんねぇ……。学長に呼ばれたらしいんですが、なんの用かは知りませんし」
「そう……」
 ため息を吐いたものの、チサトは腕を組んで考え込んでいた。
 実験をしていた若者は、しばらくすると食事に行くと言って部屋からいなくなった。それから間もなく、再びドアが開かれた。
「まったく、もう少しでバレるところだった……。あのハゲ学長、最近勘が鋭くなってきたな……」
 入ってきたのは白衣を着て、いかにも教授といった感じの皺の多い初老の男だった。少し白髪の混ざった紫色の頭をかきながら、コンピュータ端末の前に座る。クロードたちには気付かないようだ。
「それって、政府の建物に侵入して機密ファイルを持ち出したことかしら?」
 背後からの突然の声に男は驚き、振り向いて身構えた。
「だ、誰だ、君は!?」
 明らかに動揺している。
「チサト・マディソン。ネーデ新聞社の者よ、レイファス教授」
 言いながら、チサトは名刺を差し出した。
「新聞社……?」
 レイファスは、名刺とチサトの顔を交互に見比べた。
「そうよ。実はね、先生、私あなたのコトを記事にしようと思ってたのよ。この間の事件のことでね」
 チサトは妙に愛想のいい顔で、少し毒を含んだ言い方をした。
「な、なんのことかね?」
「まあ、そんなに構えないで。いろいろ調べたけど、結局そのデータは飛んじゃったのよ。だから記事にはできない。でも、一つ協力して欲しいの」
 チサトが真面目な顔になってきたからか、教授は表面上の落ち着きを取り戻した。
「なにをかね」
「あなたは、この『ネーデ歴史研究室』の十七代目の室長。就任したのは六年前で、それ以前からエナジーネーデ創設時代のことを研究してた。いつもその端末を使ってノースシティの図書館から様々な情報を引き出して整理していたのに、先週から全くアクセスをしなくなった」
 チサトは椅子に腰掛ける教授をじっと見下ろしながら、淡々と話を続ける。
「その理由はなにか? 考えられるのは、研究を放棄したか、研究が終わったか」
「どっちだと思うのかね?」
 教授は質問する余裕を見せた。チサトは微笑して、
「十年以上も続けていた研究を途中で投げ出すとは考えにくいわ。捕まっていないとはいえ、犯罪まで犯すほど執着していたんですものね。だから、私は研究が終わったと見てる。でも、あなたはなんの発表もしない」
「その理由も分かっているのかね」
「推測だけど、発表することができない結論が導き出されたから。それも、ネーデ全体を混乱に陥れるようなね」
 レイファス教授は首を振りながら肩で笑った。
「降参だ。だが、結論はまだ出ていないよ」
「あら、そうなの?」
 教授は頷くと端末に向かい、それを操作しながら二人を呼び寄せた。黒地に白い文字が画面一杯に移っている。
「ノースシティの図書館のデータベースには、どうしても引き出せない情報があった。その存在は昔から知られてはいたんだが、何人もの専門家が挑んで結局どうにもならなかった。私も最初のうちは無理だと思って無視していたんだが、他の情報をいくら調べても納得のいく結論が得られなかった。それで、この通称『シークレットファイル』の解読を始めることにした」
 教授が端末を操作する度に、画面は目まぐるしく変化していく。
「ところが、やはり簡単には読むことができなかった。そこで私は別の方向から探ってみることにした。どこかにこのファイルに関する情報がないかとね。調べていくうちに、政府が保管している古いファイルに行きついた。問い合わせてみたが拒否されたので、仕方なく強硬手段に踏み切ったわけだ」
「それで?」
 チサトは少しイライラしているように、クロードには見えた。
「解読の手がかりはあった。だが、結局読み出せたのはこの二つだけだった」
 画面には、『企画立案書』、『研究報告書』の二つのファイル名が表示されていた。レイファスが一つ目の『企画立案書』を選択すると、その中身が表示された。

 企画立案書、ファイル1。
 『現在二十四の辺境惑星において、惑星ネーデに対する反乱が勃発。惑星ネーデのテクノロジーの幾つかが未開惑星軍に流出していることから考えて、反乱軍の中にはネーデ人の協力者がいると考えられる。これら反乱軍を鎮圧するための新兵器の開発が早急に望まれる』

 企画立案書、ファイル2。
 『ランティス博士の研究により、紋章科学テクノロジーを応用して人間のDNAに改良を加えることで、通常よりもはるかに強力な紋章力を持った生態兵器を開発することが可能であることが発見された』

 企画立案書、ファイル3。
 『軍の最高評議会において、先述の生態兵器を早急に実用化し、辺境惑星の防衛、及び管理に使用することが決定された。プロジェクト名は「第一次十賢者防衛計画」と決定。ランティス博士の指揮のもと、十体の生態兵器の作成が開始された。計画の成果によっては、第二次、第三次と、さらに開発が行われていく予定である』

「……なによ、これ」
 チサトは、それを言うのが精一杯だった。教授は、先程とは異なり無表情で端末を操作し、次の『研究報告書』の中身を表示させた。

 研究報告書、ファイル1。
 『近接戦闘兵器「ザフィケル」。遠隔射撃兵器「ジョフィエル」。拠点防衛用特殊兵器「メタトロン」の三体が完成。また、これら三体の統括用として戦術兵器「ミカエル」の開発に着手する』

 研究報告書、ファイル2。
 『情報収集用素体「サディケル」「カマエル」の二体が完成。先に完成していた情報分析用の素体「ラファエル」と共に、民衆統括用素体である「ハニエル」の配下に組み込む。また、十賢者監視用の素体「ルシフェル」も同時に完成する』

 研究報告書、ファイル3。
 『十賢者防衛計画に反対する反乱軍のテロに巻き込まれ、博士の唯一の身内である娘のフィリア嬢が犠牲となった。だが、軍は情報規制を行い、最終破壊兵器「ガブリエル」の完成までは、博士に対しこの事実を隠蔽する方針を決定した』

 ……ネーデ歴史研究室は、沈黙に支配された。平和で穏やかなはずのネーデ社会のかげの部分が、ごく少数の人々に知られ始めていた。

12

 雪。
 大気中の塵を核とする微小な氷の結晶。

 空を見上げると、無数の白い粉がゆっくりと落ちてくる。その向こうにあるのは、灰色を帯びた雲。風に乗って少しずつ移動していく。
 少なくとも、そう見えるようになっている。
 雪は本物だ。大気中の塵を核とする微小な氷の結晶。触れば冷たく感じられ、体温でたちまち解けて水になる。だが、雲はただの映像だ。本物のように形を変え位置を変えるが、触れることはできない。
 エナジーネーデに来たばかりのころに聞いた話だ。人工惑星ネーデ。その大地も、空気も、全ては人の手によって創られたもの。気候は、苦痛を与えず、かつ飽きないように制御される。地震もない。野生の動物たちも、増えすぎず減りすぎないように最大限の配慮がなされる。
 完璧でないとは言えない。

 今、ギヴァウェイでは普段通りに雪が降っていることになっている。暗い雲の映像が空に映し出され、物質合成装置によって大気中に生成された雪が、人工重力に引かれて落ちていく。温度調整装置によって気温差が生じ、緩やかな風が吹く。
 だが、一歩街の外へ出れば、そこは猛吹雪で十センチ先も見えない危険な世界だ。緊急用シールドが街全体を覆っているため、外の様子とは関係なく生活することができる。
 それ自体は悪いことではない。身を守るために工夫するのが人間だ。しかしクロードが気になるのは、人々が、街の中が安全であることに安心して外の異常に注意を払わないことだ。ここへ来て、十賢者の力によるこの異常現象を本気で心配している者を見たことがない。シールドの中の作られた平安に甘んじて、恐るべき真実には目もくれない。
 これがネーデ人の性質なのか、ここ三十七億年の間に培われた特性なのかは分からないが、惑星ネーデ崩壊と十賢者誕生の秘密に誰も気付かなかったその理由も分かるような気がした。大昔の人々が作った平和に慣れきって、隠された過ちには触れることもない。

 クロードは、ため息をついてからポケットに手を突っ込んで、冷えた風の這いずる道を歩き始めた。

13

 三日後の正午。クロードたちは大学構内の作業棟に呼び出された。床は広く、天井は高く、機械油が独特の臭いを放つ。部屋の中央に無人君が置かれている以外は、取り立てて見るような物も無い。無人君は、プリシスが書いたメッセージを持っていた。
『もちょっと待っててね♪』
 吹雪はいっこうに止む気配がなく、街から出て力の場に行くにはプリシスの発明に頼るしかない。レナやアシュトンはまだ見ぬその発明品に大いに期待している様子だったが、クロードやセリーヌは少なからず疑いを持っていた。その理由は同じではなかったが。
「まったく、いつまで待たせるつもりなんですの!?」
 セリーヌは腰に手を当てながら、落ち着きなく部屋中に視線を走らせる。だが、まだ五分も経っていない。彼女の短気はいつものことなので、誰も気に留めなかった。
 クロードはそれよりもチサトを見た。手にしたカメラに目を落としているが、見ているのはもっと別のもののようだった。レイファス教授の研究室で見たことを、チサトはまだ公表していない。伝承に疑いを抱いてはいたものの、想像を越えたその内容に彼女自身がショックを受けているようだった。毎晩遅くまで起きているようだし、いつもの元気がない。あの凄まじい力を持つ十賢者たちは、自分たちの先祖が生み出したものだったのだ。それに、惑星ネーデが他の星々と友好的に共存していたという話も嘘のようだ。なにしろ、ネーデは叛乱を起こされたのだから。そしてその鎮圧のために作られた人工生命体たちが、いま、創造者の子孫たちを脅かしている。
 一体、何がどうしてこうなったのか。これからどうなるのか。不安でいられないわけがない。
「クロード?」
 気が付くと、レナの顔が目の前にあった。心配そうな目を向けている。
「い、いや。なんでもないよ」
「……そう? でも、このごろなんだか変よ?」
「そ、そうかな」
 顔に出さないようにするのは難しい。
「うん……」
 心の底から心配していることを、透き通った青い目が語っていた。クロードは言葉に詰まる。今は話せない。どんなことがあっても。それが、辛かった。 
「なにか、聞こえませんか?」
 ノエルの声に、一同は耳をそばだてた。ギョロとウルルンは鋭い目で警戒している。よく聞いてみると、ずしん、ずしん、という低い音が遠くから聞こえてきた。それはだんだん近づいてくる。部屋の奥の扉の向こう。
 全員が扉に注目した瞬間、それは勢いよく左右に開け放たれた。そして、高さ二メートルはあろうかという白い機械が、大きな足音を立てて入ってきた。クロードたちは身構えたが、すぐにその必要のないことが判明した。その機械には、プリシスが乗っていたのだ。
「やっほ~」
 ターボザックのものと同じコントローラーを片手に、手を振りながらずしんずしんと近づいてくる。卵の上を少し切り取ったような丸いボディに、二つの目と四本の手足。その腕や腿の部分は細いが、右手はドリル、左手は人間のような手になっており、足の部分はその巨体を支えるのに十分な大きさを持つ。
 プリシスは部屋の真ん中まで来るとそれから飛び降りて、置かれていた無人君を拾い上げた。
「どう? 無人君二号だよ♪」
「に、二号?」
「そ。こいつが一号で、こっちが二号。ま~、ホントに無人だとまだ動かないけどね。そのうち一号みたいに動くようにするつもり」
 油に汚れた顔で笑いながら、抱えた一号を撫でる。それぞれお腹の部分に『1』、『2』と書いてある。
「これで吹雪の中を移動するって言うのか?」
 その外見に感心しながら、クロードが問う。
「そ~だよ。全員は乗れないけど、行ったり来たりすれば大丈夫」
「でも、これじゃあ雪をもろに被ってしまうじゃありませんの」
 セリーヌは二号の頭を指差した。何の覆いもないから、雪だろうが雨だろうが容赦なく吹き付ける。
「わかってるってば。あたし、そんなにバカじゃないもん」
 そう言って、プリシスは自分が入ってきた扉のほうを見た。クロードたちもそちらに視線を動かすと、そこには透明なドーム状のものを台車に載せて運んでくるレオンの姿があった。顔を真っ赤にしながら、全身全霊を込めているように見える。とてつもなく重いようだ。
「あの特製カバーをつければ、どんな場所でもオッケイだよ。吹雪でも海の中でも」
「海の中ぁ?」
 クロードが目を見開くと、プリシスは勢いよく頷いた。
「だって、力の場は隣の島だもん。あ、ちゃんとテストはしたから、だいじょぶ、だいじょぶ♪」
 絶句する一同を前に、プリシスは笑顔でVサインを作って見せた。レオンは途中で力尽きて倒れていた。

 もちろん疲れていたのはレオンだけではない。プリシスもノエルの家に戻るなり眠ってしまったので、出発は翌朝ということになった。彼らにとっては三日ぶりの休息だが、他の者にとっては海の中を行くという大きな不安要素に怯える時間が長くなっただけであった。意外なことにセリーヌが目に見えるほどにぶるぶる震えてしまって、ケルメの用意した睡眠薬でプリシスたちと一緒に眠っている。眠っている間に力の場まで運んでおくのがいいかもしれない。
 夜になりクロードたちが二階で眠りについた後、チサトは一階の通信機の前に腰掛けた。十賢者の妨害はあるが、改良が施されたので今は直に紋章力を供給する必要はない。通話先はセントラルシティ、シティホールの五階。市長室。
『おお、チサトか』
 小皺のある顔が微笑む。
「こんばんは、おじ様。まだお仕事?」
『ああ、まあな。だが、もうすぐ終わる』
「そう。市長も大変ね」
『これが私の仕事だからな……』
 そう言った顔は、誇りに満ちていた。
「そうね。……あの子は元気?」
『ああ。だが、今は私よりも忙しくしているよ。ゆっくり会っている時間もない』
 市長は苦笑する。
「私もよ。まあ、そのうちイヤでも会うことになるでしょうけど」
『そうだな……。で、何か用でも?』
 市長もチサトも顔を引き締めた。
「ええ。実はこの間プリシスが言ってたことだけど、彼女、吹雪の中でも移動できる機械を作ったのよ。それで力の場まで行けるらしいわ。だから、こっちに向かわせてる例の乗り物はいらなくなったの」
『作った?』
「ええ。まったく脱帽よね。思いもつかなかったわ。新しい乗り物を作る、なんてことは」
『そうだな……』
「与えられたものだけを使って生きていく……。私たちはそういう生活に慣れきって、自分たちで何かを生み出すということを忘れてしまっている……」
 言いながら、チサトはだんだんとうつむいていった。
『……どうかしたのか?』
「ちょっとだけね」
 無理矢理に笑顔を作る。
『そうか……。無理はしないようにな』
「ええ、ありがと。おやすみなさい」
『おやすみ……』
 画面は灰色になった。
 チサトは震えていた。決して見せないようにと思っていたのに、見せてしまった自分が情けなかった。やはり、ずっと自分の内だけに秘めておくのは無理だろうか。だが、容易に言い出せるものでもない。
 今日も、眠れない夜になりそうだった。

「じゃあ、目を覚まさないうちにセリーヌさんを運んでしまおう」
「オッケイ」
 翌朝、ノエルの家の前で作戦は開始された。プリシスが無人君二号を操作し、クロードがおぶっていたセリーヌをつまみ上げて運転席の後ろの狭いスペースに放り込んだ。
「あと一人乗れるけど?」
 一同は互いに顔を見合わせたが、誰も名乗り出なかった。一番最初に乗るのには勇気がいる。
「僕が乗ります」
 ノエルが宣誓し一歩前に出たが、それを制止する者がいた。レナだ。
「待って。力の場に着いたら、しばらくはセリーヌさんとノエルさんだけってコトになるのよね」
「そうだね」
「もし、また凶暴化した動物たちに襲われたら、二人では危険じゃない?」
「それもそうか……」
 レナの発言にクロードは頷き、全員が一人の男に注目した。二本の剣を持ち二匹の竜を背負った男。
「え……、僕?」
 アシュトンは逃げ腰になる。
「大勢を相手にするのにはもってこいだもんな」
「じゃ、決まり~!」
 プリシスは楽しそうに言うと、本当に逃げ出そうとするアシュトンを捕まえて、自分の後ろに放り込んだ。
「うわあぁぁっ!?」
 その瞬間を、すかさずチサトがカメラに収める。何があろうともシャッターチャンスを逃さない精神は見上げたものだ。
「そんじゃ、行ってくんね」
 手を振りながら、プリシスは特製カバーを取り付けた。その様子は、無人君二号が帽子を被るかのようだった。アシュトンはしきりに透明帽子を叩いて泣きながら助けを求めたが、クロードたちには叩く音も叫ぶ声も聞こえなかった。なるほど頑丈なようである。
 プリシス、アシュトン、セリーヌを乗せた無人君二号は、ずしんずしんと逞しい足音を鳴らしながら雪の街を出て行った。
「で、次は誰と誰が乗るの?」

14

 全員が力の場に辿り着いてから、一時間の休憩が必要だった。なにしろ無人君二号が歩く度に激しく上下に揺れるし、海の中では海流に飲み込まれてぐるぐる回るし、平気だったのは眠っていたセリーヌと運転したプリシスだけだった。セリーヌは、アシュトンと到着してから次にクロードとレナとレオンが来るまで、ずっと寝ていたのだ。よくもまあ、目が醒めなかったものだとクロードは思う。よほど神経が図太いか睡眠薬が強力だったかだろう。
 力の場は、ギヴァウェイと同じような雪の島にある。かつて鉱山であった険しい山に、ネーデの力が眠っている。今は晴れているが、吹雪になったりすれば危険だ。
「きゃっ!」
 山道の入り口に近づくと、クロードの持っていたルーンコードが光を放った。すると、心なしか道の奥から冷たい風が流れてくるように感じられた。封印が、まさに解かれたのだ。
「ノエルさん、ここに動物は?」
 クロードは訊ねた。知の場には何もいなかったが、紅水晶の洞窟でのことを考えると用心しておくべきだった。
「ギヴァウェイ周辺にはいろいろな動物たちがいるけど、ここは封印されていた場所だからね……。ちょっと分からないな」
「そうですか……」
 しかし、挑む者に対する試練として何らかの障害があるのは確かだろう。
「動物ならいるわよ」
 チサトはメモを取り出した。
「ここはエナジーネーデ創設時に惑星ネーデからまるごと移植された鉱山で、伝説では凶暴な雪男のせいで何人もの人が命を落としたそうよ」
「伝説、ですか……」
 一体何十億年前の話だろう。
「ユキオトコってな~に?」
 プリシスが無人君二号の上から疑問を投げかけ、アシュトンが答えた。
「雪男っていうのは、人里離れた雪山に棲んでいる大男のことだよ。動物や人間を捕まえて食べちゃうんだ」
 主人の言葉に合わせて、ギョロとウルルンが噛み付く動作を見せる。
「ふ~ん。でもさ、そんなのこの無人君二号で一発だよね」
「もちろんさ。期待しているよ」
「よ~し、じゃあ出発~!」
 左のアームをぐるぐる回すと、プリシスは自慢の愛機を勢いよく白銀の山に駆け上がらせた。雪が舞い上がり、たちまち姿が見えなくなる。
「アシュトン……」
 振り向くと、無人君の蹴った雪をもろに被ったセリーヌが拳を戦慄わななかせていた。

「ねえ、クロードは雪男って信じる?」
 緩やかな斜面を登りながら、レナは訊ねた。ちょっと間が抜けていたなと思うことに防寒着というものを用意してこなかったが、凍えるほど寒くもない。歩いていれば、体も温かくなる。
「そうだなあ……地球にもそういう話はあるけど、どんなに調べても結局なにもいなかった。でも、ここはずっと誰も入ったことのない場所だったわけだから、なにかいるかもしれないね」
 しばらく行くと、洞窟に入った。陽が当たらないのでさすがに寒い。外の様子からは分からないが、洞窟内にはかつて鉱山だった証が幾つも転がっていた。つるはし、スコップ、樽、何かを吊るしていたチェーン。あまり文明的とは言い難い。まだまともな機械も無かった時代のものだろう。そうなると、いよいよ何十億年も前ということになる。
「ギャフ!」
「ギャフ!」
 突然、ギョロとウルルンが声をあげ、鋭い視線で洞窟の奥を睨んだ。
「なにかいるの?」
 目を凝らしても暗くて何も見えない。
「お姉ちゃん、ライトつけてよ」
 レオンに言われて、プリシスは慌てて無人君を操作した。目の部分が光って、洞窟内を照らす。何かが奥で動いた。
「ねえ、あれって……」
 青白い肌に極度に盛りあがった筋肉、そしてそれを覆う紫色の毛。口は大きく、目は釣りあがっていた。ゴリラか何かのように見える。
「雪男……!?」
「いや、雪男っていうのはむしろこっちのことだと思うよ」
 レオンの声に振り返ると、後ろからは青い肌でより人に近い形の何者かが迫ってきていた。
「挟み撃ちか!?」
 だが、驚いている間にアシュトンが素早く剣を抜き青い雪男に斬りかかった。両の剣を勢いよく振り下ろす。雪男はそれを片腕で受け止めると軽々と撥ね退けた。アシュトンの体が宙を舞い壁に叩きつけられる。今度はチサトが立ちはだかり、手品師よろしく両手の指の間に沢山の名刺を挟んでそれを投げつけた。
「バーニングカーズ!」
 手を離れた名刺に次々と火が点いて、それは雪男の体に突き刺さった。雪男は燃え盛る名刺を払い落とそうともがき、その間に起き上がったアシュトンが復讐を試みた。左の剣を腹に刺して動きを止め、右の剣で心の臓を貫く。鮮血が溢れ、雪男は低い唸り声を上げながら倒れた。
 一方で、『雪ゴリラ』のほうは初めの場所から動こうとしなかった。ただ、じっと侵入者たちを見ている。
「なんですの、あれは」
「意味ありげでイヤだなぁ……」
「とにかく行ってみましょうよ」
 それぞれに武器を構えながら、用心して進む。雪ゴリラはまだ動こうとしない。ふと、クロードは雪ゴリラの傍の壁に巨大なレバーがついていることに気付いた。何かの装置を動かすためのものだろうか。しかし、それにしてはあまりに大きすぎた。柄の部分は両手に収まらないほどの太さがある。
 あと十メートルほどまで迫ったとき、不意に雪ゴリラが跳びあがった。クロードたちは咄嗟に身構えたが、雪ゴリラが狙っていたのはレバーのほうだった。その巨体でレバーにしがみつくと、それはゆっくりと下がった。そしてたちまち地面が揺れ始めた。
「何?」
「あっ! おさるが逃げてく~!」
 先ほどまで雪猿がいた場所の天井が崩れ、大量の岩が轟音とともに転がり落ちてきた。
「みんな逃げろ!」

「あ~あ、これは完全に塞がれちゃってるね」
 岩の山を叩きながら、レオンは言った。クロードがため息を吐く。
「別の道を探すしかないな」
「そうでもないよ」
 レオンはプリシスを見上げた。
「ボクが作った無人君スーパードリルなら、こんなの一発で通れるようになっちゃうよ」
「作ったのはあたしぃ!」
 ドリルを回転させながら、プリシスは叫んだ。背筋がぞっとするような、ものすごく嫌な音がする。レオンも負けじと声を張り上げた。
「お姉ちゃんはボクが用意した部品を組み立てただけじゃないか!」
「部品だけじゃ役に立たないんですよ~だ!」
 プリシスは舌を出して見せる。
「いいから、早くやってくれ」
「ふん、だ」
 お互いに顔を逸らすと、『無人君スーパードリル』が岩を掘り始めた。岩との摩擦で、先程よりも更に嫌な音がする。耳をつんざくような音とはまさにこれだろう。
「……!」
「……?」
 レナが耳を押さえながら何か言っているが、クロード自身も耳を塞いでいるので何も聞こえない。レナは声を出すのを諦めて洞窟の入り口のほうを指差し、走っていった。外へ出ていよう、と言いたいのだろう。クロードもアシュトンも駆け出し、プリシスとレオン以外は全員外へ出た。
「まったく、ものすごい音よね」
「まあ、そのおかげで通れるんだから仕方ないでしょう」
 ノエルは空を飛ぶ鳥を見上げた。
「本当にその通りになればいいですけれど。後になってやっぱりダメだった、では時間の無駄ですわ」
「それにしても、なんで二人はあの音に耐えられるんだろう?」

15

 照りつける太陽が一段と眩しく感じられる。純白の雪に反射して、目が痛くなる。風は冷気を運び、息が凍って輝く。クロードたちは、逃げた雪ゴリラを倒し、そのほか狂気をもって襲い掛かってくる雪男たちを次々に葬り去って、ようやく山頂に辿り着いた。
 そこには橋がかかっていた。木でできた原始的なものだ。どれだけ昔からあったものかは知らないが見るからにボロボロで、高所恐怖症でなくとも渡るのは拒まれた。
「向こう側に神殿みたいなものがあるわ」
 カメラのファインダーを覗くチサトが指差す。その方向を見ると、岩壁に埋まるような形で確かにそれらしいものがあった。
「あそこに、また珠があるのかな」
「多分ね。でも、その前にこれを渡らないとなぁ」
 クロードは谷底を見下ろした。渡るのと落ちるのとどちらが怖いかは明白だが、渡ろうとして落ちたのでは笑い話にもならない。
「まったく、揃いも揃って情けないですわね。ほら!」
「ええっ!?」
 背中から不意打ちを食らったアシュトンは怪しげな足取りで橋の上に進み出て、朽ちて空いた穴に引っかかってうつ伏せに倒れた。
「セリーヌさん……」
 レナが何か言いかけたとき、突然橋の上で目も眩むほどの光が生じた。
「うわあっ!?」
 瞬間、自分の目が開いているのか閉じているのかも分からなくなったが、すぐに視力は回復した。そして目の前にあるものを発見して仰天する。
「あれは!?」
「ほえっ!?」
 プリシスが驚いたのは、それが人型の機械であったからである。どこをとっても、無人君二号とは比べ物にならないほどに精巧にできている。とはいえ、完全なヒトではない。首もなく、少し腰を落とした感じで、巨体を構えるレスラーのようにも見える。
『よくぞここまで辿り着いた』
 腹に響くような低い声。
『私は、この力の場を護る者。今までのおまえたちの戦いぶりは全て見せてもらった。確かに、なかなかの素質を持っているようだな』
「なら、合格なんですの?」
『今のところは』
「今のところ?」
『そうだ。ここで、私自らの手で、おまえたちの力を試させてもらう』
「それが最後の試練ってコトか」
『その通りだ。言っておくが、小手先の魔法などで倒せるほど、私は弱くないぞ!』
 ロボットは猛々しい声で言い放ったが、クロードたちは首を傾げた。しかし、そうしている間にもロボットは近づいてくる。
「よ~し、ここはあたしに任せてっ」
 無人君二号に乗ったプリシスが前に出る。クロードは『ここ「も」』だろ、と思ったが、言わないことにした。
 無人君は左手で拳を作ると、突っ込んでくるロボットの脳天にそれを振り下ろした。金属同士が衝突しあう鈍い音と木製の橋が崩れ去る音が同時に聞こえ、ロボットは大きく開いた穴に落ちていった。しばらくしてから、爆音が響く。向こうの山では雪崩が起きたようだ。
「……ホントに脆い橋だな」
「これは多分本物の木だね。合成された建材とは違う」
 ノエルが飛び散った木屑を拾いながら言った。
「……で、これで試練は終わりなのかしら」
「さあ、どうだろ……」
 クロードたちは辺りを見回した。静かな雪の山。露出した岩が風を切る音と、鳥の鳴く声だけが聞こえる。
「なにも起きないわね」
「あのロボットをプログラムした人は、こんな展開は予想していなかったんでしょうね。橋が脆くなることも、異世界の住人が強力なロボットを使って登ってくることも」
 チサトが谷を見下ろしながら寂しげに言った。
「作られた通りにしか動かなかったってことかしら。あの人『魔法は通じない』なんて言ってましたけど、雪男はほとんどプリシスが薙ぎ倒してしまって、ここに来てから誰も紋章術なんて使ってませんのにね。それでいて『全て見ていた』なんて」
 確かに、そうかもしれない。人の手によって作られ、プログラムされた通りのセリフを吐いて、予定にない環境の変化には気付くこともなく谷の底へと落下していった。機械にこんな感情を抱くのもおかしいかもしれないが、哀れにも思えた。
「みんな、暗い! 暗いよ! ジャマモノは倒したんだから、とっとと神殿にゴーだよ!」
 プリシスが甲高い声を一段と張り上げて、駆け出した。無人君の巨体が橋を揺さぶる。
「ば、バカ! やめろっ!!」
 制止も虚しく橋は崩壊し、クロードたちは谷底へと落ちていった。

16

「艦長がお戻りです」
 白い制服の男を先頭に、ブリッジへと入る。柔らかい電子音と張り詰めた士官たちの顔。メインスクリーンには無数の星々が輝いている。
 ──ここは……。
 自分の左右には、士官候補生の服を着た少年が二人いた。白い制服の男が振り返り、星々の大海を背に野太い声をあげる。白髪だが肌には張りがあり、目は異様にぎらぎらしていた。
「どうだね、候補生諸君。初めて戦艦に乗った感想は?」
 ──そうか……これは、僕が初めて宇宙に出たときだな。
 宇宙暦三六三年の終わり。クロードは実習のために戦艦アロガンスに乗艦した。艦長はトーマス・ファラガット大佐。目の前の尊大な男である。
「どうした、もっと嬉しそうにしたらどうだ?」
 艦長は見下すような目で、クロードたちを見た。
「十分嬉しいです!」
 口が勝手に動いて言葉を発した。
 ──嘘だ! この時は別に嬉しくも何ともなかった。ただ、面倒臭いだけだった……。
「ふ~む、そうか」
「はい!」
 ──そうだ……。そうやって自分に嘘をついていた。あの頃はとにかく周りに愛想を振り撒いていただけのような気がする。
 艦長は面白くなさそうな顔で頷くと、腕を組んでクロードの顔を見た。
「しかし、まあ何と言っても君はあのロニキス提督のご子息だ。軍艦ふねに出るのは初めてじゃないのかもしれないがな」
 それは偏見だった。ロニキスは、なぜか自分の息子を艦に乗せることはなかった。クロードが士官になるまでは。
「さっすが、ロニキス提督の息子は違うね……」
 後ろのほうで士官たちが囁いているのが聞こえた。
「知ってるか? あいつまた主席だぜ」
「そりゃそうだよ。あいつの親父の機嫌を損ねるのが恐くて、教官たちが点数を水増ししてるんだぜ」
 両脇の候補生たちの冷たい視線が注がれる。
 ──やめろ!!! 僕を特別扱いするな!
 艦長はクロードの前に進み出て肩に手を置き、下から覗き込むようにして顔を近づけた。そして少し低めの声を発する。
「私はこんなところでくすぶっているような器じゃない。連邦艦隊の提督こそが相応しい男だ。本部うえの連中は私の才能を恐れているんだ。自分の地位をおびやかされるんじゃないかとね……。君のほうから、ロニキス提督によろしく言っておいてくれたまえよ……」
 最後に汚い歯を見せて笑うと、艦長も、候補生も、他の士官もブリッジも星々も消えた。

 ──僕がどこに行っても、何をするにしても、父さんの力が力がつきまとう。僕はそれがイヤだったんだ。それとも、あのころは単に子供だっただけなのか。一体僕は、いつからこうなってしまったのだろう……。

 戦艦アロガンスは翌宇宙暦三六四年、敵対勢力レゾニアとの交戦中、罠にはまって乗員もろとも爆散した。

17

 体の上に何かが乗っていた。温かいけれど、少し重たい。なんだろう。人がせっかく気持ちよく眠っているのに。
 ──あれ? 僕は眠っているんだっけ?
 目の前は真っ暗。いや、少しだけ明るい。でも、何も見えない。
 手を伸ばしてみた。さらさらの、髪の毛の感触。誰かの頭だ。
 ──……レナ?
 目を開けると、そこはどこかの部屋だった。窓から薄明かりが差し込んでいる。クロードは、ベッドの上にいた。そして、付き添いながら眠ってしまったのだろう、彼女は椅子に座りながら彼に被さるようにして寝息を立てていた。薄い紅茶色の髪をまとった小さな頭。
「プリシス……?」
 意識がはっきりしてきて、クロードは体を起こした。薄い草色の壁と天井、食事用の台がついたベッド。それを取り囲むためのカーテン。飾り気のない布団。
「病院……?」
 間違いなさそうだ。しかし、いったいいつ、どうやって運ばれたのだろうか。レナやレオンたちは? クロードはプリシスを起こさないようにそっとベッドから降りると、置かれていたスリッパを履き、秒刻みで明るくなっていく部屋を出た。

『話って、なに?』
『う、うん……あのね……』
『?』
『あ、あの……』
『なに? ヒマじゃないんだから早くしてよね』
『うん……その……ボク……』
『じれったいな~』
『あ、ボク、その、お、お姉ちゃんがスキなんだ!!』
『なっ……な……何の冗談?』
『冗談じゃないよっ! ボク、本気でお姉ちゃんのことがスキなんだ!!』
『…………ふ~ん』
『「ふ~ん」って……』
『ザンネンでした。あたしはあんたのことなんかなんとも思ってないしぃ、それに、もうクロードとらぶらぶだもんっ』
『そっ……そんなっ!! クロードお兄ちゃんはレナお姉ちゃんと……!』
『もう違うもんね~。悔しかったらあんたがレナと付き合えばぁ?』
『イヤだっ! ボクはプリシスお姉ちゃんがスキなんだっ!』
『うっさいな~。ね、クロード、こんなのほっといてあっちいこ♪』
『……』
『……クロード? あれ? クロード? どこいっちゃったの? ねぇ……?』
「クロードぉ……」

 朝日のよく見えるロビーでクロードはノエルを見つけ、ソファに腰掛けて事情を聞いていた。力の場の橋から転落したあと、無人くんに乗っていて一人無事だったプリシスが応援を呼んで助けてくれたらしい。そして、このギヴァウェイ大学附属病院に運ばれたのだ。
「つまり、もう三日も経っているんですか?」
「そのようだね。僕も昨日目覚めたばかりだからあまり実感はないけれど」
 クロードはため息をついた。
「とにかく、気が付いてよかった。これで残るは一人……レオン君だけだね」
「レオンはまだ?」
 ノエルは神妙な顔で頷く。
「外傷は全て紋章術で治療されたけれど、意識はまだ戻らないんだ。彼は体力のあるほうではないから仕方ないのかもしれないね。でも、回復は時間の問題だと医師たちも言っているし、大丈夫だと思うよ」
「そうですね……」
 ノエルによれば、大怪我をした者はいないという。橋から谷底までの深さは千メートル以上はあったというから、無傷だったのは奇跡に等しい。たぶん、あの幻覚のようなものを見せた不思議な力によるものだろう。
「そういえば、知の場では赤い宝珠を手に入れたけど、今回は神殿にすら到達できませんでしたよね。どうなっているんでしょう?」
「それは分からないけれど、たぶん守護者を打ち負かした時点でなんらかの仕掛けが作動していたのかもしれないね。あの守護者が単純なプログラムで動いていたように、場の力を手に入れるというのも思っていたより機械的な作業なのかもしれない。もともとエナジーネーデ自体が人間の作ったものだしね」
「そうかもしれませんね……」
 クロードは窓の外を見た。輝く人工の太陽が、ゆっくりと朝を作り出している。
「そうだ。僕たちが谷底に倒れていたときにプリシスさんが見つけた宝珠を、病院が保管してくれているから」
 クロードは振り向く。
「宝珠があったんですか?」
「君の手の中にあったそうだよ」
「そう、ですか……」
 自分の手の平を見ながら、クロードは幻覚で見たことを思い出した。常につきまとってきた父の力。それがいやでいやで、それでも逃げ出すことができずにいた自分。しかし、それは『逃げ出せなかった』なのか、『逃げ出さなかった』なのか。今思えば明らかに後者だろう。父親の力が嫌いだったはずなのに、周囲の誤解や偏見を取り除こうともせず、自分の力量をあやふやにしていた。
 一つには、自分の力に疑問を感じていたから。士官になることを熱烈に志望し、血もにじむような努力をしている人がいる一方で、なんとなく在学していたクロードのほうがよい成績をとれていた。彼の知る限り、教官による得点の水増しなどはない。ただ単にクロードの解答が模範解答と合致し、クロードの放った光線が的の中央を貫いただけのことだ。しかしその傍らで、どんなに頑張っても的から外れてしまう人がいた。だからこそ疑問を感じたのだ。大した努力もなしに思い通りのことができる自分の力は本物だろうか、と。いつか消えてなくなってしまうのではないか、と。
 自分の本当の力は、どこにあるのだろうか。

18

 レナはクロードよりも早く意識を回復していたが、体力のほうは十分でなかった。クロードは自分の着替えを済ませてから彼女の病室を訪ねた。ベッドは二つあり、レナは窓側で、廊下側には誰もいなかった。ちょうど朝食が運ばれてきたところだったので、クロードは自分の分も受け取ってからベッドの横の椅子に腰掛けた。
「ありがとう。クロードはもう平気なの?」
「うん。たくさん寝たからね」
 そう言って笑うと、レナも笑った。クロードは海藻のスープを一口すすって、少し真剣な目でレナを見つめた。
「レナは大丈夫?」
「ええ。明日には立てそうだ、って先生が」
「そっか。じゃあ安静にしていないとね」
 ハムの挟まったサンドイッチを頬張る。
「うん。でも、お話するぐらいなら大丈夫だから」
 言われてクロードは、飲み込みかけていたハムサンドを詰まらせてむせ返った。胸を叩きながらオレンジジュースをがぶ飲みする。
「だ、大丈夫?」
 なおも咳き込むクロードに、レナは自分のジュースを手渡し、背中をさすってやった。そこへ、彼女はやってきた。勢いよくドアを開けて。
「ねー、クロードはぁ?」
 プリシスだった。
 レナははっとしてクロードから手を離し、クロードも無理矢理咳を止めた。そんな不自然な二人をしばらく見つめた後、プリシスは明るい口調で言った。
「気にしなくていいってば。ちょっとターボザックと無人君を取りに来ただけだからさ」
 プリシスは隣のベッドの下からごそごそと荷物を取り出して、手を振って見せた。
「んじゃね~♪」

 病室を出ると、プリシスはドアに寄りかかったまま下を向いて震えていた。悔しかった。自分を見て慌てた二人も、らしくない行動をとってしまった自分も。
「どうかなさったんですの?」
 視界に、セリーヌの白いブーツが入ってきた。プリシスは顔も上げず、何も言わずに走り出すと、隣の隣の部屋に駆け込んだ。
 カーテンが閉められたままの薄暗く静かな室内で、小さな体が寝息を立てていた。プリシスはベッドの傍に寄り、ターボザックと無人くんを下ろすと椅子に乗っかってレオンの顔を覗き込んだ。表情はなく、呼吸する以外はぴくりとも動かない。まだ意識がないのだろう。もしこのまま目を覚まさなかったら……。
 ──あたしの、せい?
 みんなが谷底に落ちたのは、彼女が無人君二号の巨体をボロボロの橋の上で走らせたから。誰も何も言わないけど、心の中では自分を憎んでいるかもしれない。そのうえレオンが戻らなかったら……。
 目元から水滴がこぼれて、レオンのパジャマに染みを作った。
 こいつは、子供のクセに偉そうで憎たらしくてケンカばかりしたけど、壊れたターボザックを直してくれたり、二号を作るときも自分の言うことを理解し足りないところは補ってくれて、それでいてやっぱり子供で……。
 脳裏に先刻の夢が蘇った。そして、さっきのクロードとレナの姿も。涙は枯れることなく次々に溢れてくる。それを拭って、プリシスはレオンの顔をよく見つめた。
 ──あんたさ、ホントにあたしのこと好き?
 ──あたしはよく分かんないけど、今なら考えてもいいよ。
 ──だからさ、早く目を覚ましなよ。
 ──早くしないと、
 ──早くしないと、
 ──早くしないと、あたし一人になっちゃうよ……。
 流れる涙が、レオンの頬に落ちた。

19

 プリシスとレオン以外がレナの病室に集まって、作戦会議が開かれた。チサトが病院から借りてきたノート型の通信機を通して、ナール市長も参加する。
「明日は無理かもしれませんが、明後日には出発できると思います。ギヴァウェイの異常気象もすっかり止みましたし」
『そうですか。ですが、レオンさんはまだ意識が戻らないのでしょう?』
「ええ。しかし、あまり悠長に待ってもいられません。既に三日もロスしていますし。もしレオンの回復に時間がかかるようなら、今回は彼をおいてでも」
『いけません』
 市長の声が少しだけきつくなった。
『場の力は、その場にいたものだけが手に入れられるものです。もし一度でも参加しないことがあれば、彼には十賢者戦そのものを諦めてもらわなければなりません』
「でも、その『場の力』ってなんなんですの? 知の場と力の場は攻略しましたけれど、なにか変わったとはとても思えませんわよ?」
『そう、ですか?』
 ナールは意外そうな顔をした。
『文献にも詳しいことまでは載っていないので分かりませんが……変ですね。しかし、目には見えない部分でなんらかの成長があるのでしょう。今はそれを信じるしかありません』
「はあ……」
 クロードたちは互いに顔を見合わせた。実感が感じられず必要性にも疑問が生じれば、自ずと意欲は削がれる。しかし、このままではやはり十賢者に勝てそうにない。
「じゃあ、あの赤い珠はなんなのかな」
 アシュトンが思い出したように言うと、市長は首を傾げた。
『珠、ですか?』
 クロードは頷く。
「はい。赤くてリンゴよりちょっと大き目の、透明な珠です」
『知の場や力の場にあったのですか?』
「知の場では最深部で直接手に入れました。力の場では橋から落ちた後、僕の手の中にあるのをプリシスが拾ったそうです」
「たぶん、幻を見るのはその珠のせいだと思います」
 レナが付け加える。だが、市長は今ひとつ理解しがたいようだ。
『そんなものがあるとは全く知りませんでしたな……。急いで調べておきましょう。なにか重大な秘密があるかもしれません』
「なんだか頼りないわね。ホントに大丈夫なの?」
 チサトがやや深刻な顔つきで言う。市長は目を伏せてため息をついた。
『だが、ここで一時中断というわけにもいかない。それに、場の力を得ることに損はないはずだ』
「本当に力が手に入るのならね」
『……とにかく、今は当初の目的通りに進むしかないだろう。クロードさん、皆さん、なにもできずに申し訳ないが、よろしくお願いします』
「分かりました。次はどの場に行くのがいいでしょうか」
 残りは、勇気の場と愛の場だ。
『愛の場には強力なガーディアンがいるそうですから、先に勇気の場で経験を積まれるのがよろしいでしょう』
「分かりました。またなにかあれば連絡します」
 最後に軽く頷いて、ナールの映像は消えた。
 クロードは両腕を組んで窓の外を見た。
「問題はレオンか……早く回復するといいんだけどな……」
 差し込む太陽の光とは対照的に、室内は重い雰囲気に包まれた。もし、彼が回復しないようなことがあったら? 居ても立ってもいられないが、どうしようもない。
「クロード、お願いがあるんだけど」
 レナの声に、クロードは振り向いた。
「なんだい?」
「私をレオンの病室まで運んでくれる?」
 クロードだけでなく、一同の視線が集中した。
「どうして?」
「私が回復呪紋をかけてみるわ」
「でも、既に紋章医師が何時間もかけてくれているのよ?」
 チサトがそう言っても、レナはやめる様子がなかった。重大な決心をするような表情で、クロードの返事を待っている。
「分かった。できることがあるならやってみよう」
 クロードはベッドの上のレナを抱きかかえると、出入り口に足を向けた。ノエルがドアを開けてやろうとしたが、それは勝手に開いた。入ってきたのはくすんだ空色の髪に猫のような耳の生えた少年。
「レオン!?」
「みんな……」
 驚いて見つめる仲間たちを、パジャマ姿のレオンは珍しそうな顔で見渡した。
「意識が戻ったのか!」
「もう大丈夫なのかい?」
「お医者様はなんて?」
 仲間たちが喜んでくれたことが分かって、心配していてくれたことを感じて、レオンは嬉しくなった。
「うん、大丈夫だよ。まだ少しぼうっとするけど」
「でも歩けるなら問題はなさそうだな。今日はよく食べて力をつけておけよ」
「うん、そうするよ」
 妙に素直だな、とプリシスは思った。いつものコイツらしくない。フツーの子供みたいだ。
「そういえば、プリシスはどこだ?」
 クロードの声に、プリシスはどきっとする。逃げ出そうかと思ったが足が動かない。
「プリシスお姉ちゃんならここだよ?」
 そう言って、レオンはドアの陰に隠れていたプリシスを引っ張った。足がもつれそうになりながら、プリシスは部屋に入る。
「なんだ、プリシスが看病してやってたのか?」
「え……っと」
 下を向いて言葉を濁す彼女に構わず、レオンは思い切り肯定した。
「そうだよ。ずっと傍に居てくれたんだって」
「へぇ、プリシスは偉いんだね。僕たちは自分のことで精一杯だったのに」
「そうね、偉いわ」
 アシュトンが、レナが口々に誉め、みんなが頷きながら感心する。でも、プリシスはそんな言葉を聞きたくはなかった。
「やめてよっ!」
 顔を真っ赤にして叫ぶと、室内は静まり返った。プリシスが鼻をすする音だけが響く。
「みんな、分かってんの? あたしのせいで落ちたんだよ? あたしが無人くんで橋を壊したから落ちたんだよ? それなのに、なんで誰も責めないのさ?! 橋から落ちて死にかけたのはおまえのせいだって! なにが『偉いね』!? そーやって反対のコト言ってあたしをいじめてるんでしょ!?」
 握り締めた両の拳を震わせながら、プリシスは鼻を何度も何度もすすりながら叫んだ。そんな彼女の肩を、アシュトンの手は優しく包み込んだ。
「プリシス、誰も君をいじめてなんかいないよ。みんな助けてくれたことに感謝してるんだ。本当だよ。普通の人なら自分の責任を感じてなにもできなくなってしまったかもしれない。でも、君はちゃんとみんなの面倒を見てくれてる。それは責任を果たしてるってことだと思うよ」
「でも、あたしが……」
 プリシスの言葉を遮って、アシュトンは話を続けた。
「それに、全然迷惑をかけない人間なんかいないんだ。僕はいつも勘違いなことばかりしているし、チサトさんは新聞のために隠し撮りなんかしたし、レナも今は一人じゃ歩けない。クロードだって他の星の人だってコトを隠してたしね。これはちょっと違うかな。でも、他の人の欠点や失敗を許して補い合うのが仲間なんだ。だから誰も君を責めたりしないし、一人で背負い込むこともないんだよ」
 最後に、笑って見せる。
「ああ、そういえば昔いましたわね。竜に取り憑かれて、やれ責任をとれだのなんだの言ってわたくしたちを大陸中連れ回した挙句、結局情が移ってお祓いを取りやめ、その上一緒に連れていけと言ってきたのが」
「あら、それは初耳だわ」
 チサトはペンとメモを取り出し、セリーヌは尾ひれ背びれをつけながら面白おかしく語りはじめた。セリーヌが何か言う度に笑いが起こり、アシュトンは赤面しながら、クロードたちは腹を抱えながらそれを聞いていた。
 そんな雰囲気の中で、プリシスはこの人たちの仲間でよかったと思った。親子とも友達とも違う不思議なカンケイ。それがとても好きだった。それを自分からキライになろうとしたことが恥ずかしかった。明日からは、またいつもの自分に戻れそうな気がした。

20

 勇気の場はセントラルシティ南東の小島にあった。平坦な地面に後から取って付けたようなような岩山の洞窟。チサトによると、惑星ネーデ初期に造られた遺跡を移植したものらしい。科学技術が発達した時代になってもなお大きな影響力を持っていたという宗教に関係があるようだ。
「さあ、行くぞ」
 クロードが言うと、全員が目を手や腕で覆った。クロードは目を強く瞑り、ポケットからルーンコードを取り出してゆっくりと入り口に近づいた。そして三歩と半分進んだとき、ルーンコードは眩い光を放った。
「ふう、今回は目が眩まなくてすんだわね」
 チサトが言い、セリーヌが茶化す。
「あら、写真には撮らないんですの?」
「真っ白な光の写真なんて見ても面白くないじゃない」
「でも、意外と、なにか重要なモノが写るかもしれませんわよ?」
「まさか……」
 と言いながらも、チサトは手の中のカメラを真剣に見つめてしまった。
「愛の場ではちゃんと撮ることにするわ」
 そう言うと、チサトはすたすたと中に入っていった。

 内部は青っぽい岩でできていたが、よく見ると他の様々な色をした石の薄片が貼りついているように見えた。触ると、魚の鱗のように剥がれてしまう。壁にはほぼ同じ間隔で神殿の柱のような彫刻が施されており、ここが人の手によって造られたものであることを示していた。そして、青白い炎も各所に灯されている。
「ちょっと暗いけど、薄気味悪いって程ではないかな」
「でもさ、なんかゾクゾクってしない?」
 無人くん二号に乗ったまま、プリシスは寒さに震えるような仕草をした。すると、レオンが憎まれ口をたたく。
「この中で一番安全な乗り物に乗っておきながらよく言うよ」
「あっ、可愛くなーい」
「可愛くなくてもいいもん」
「病院で目が覚めたばっかのときは別人みたいに素直だったのに」
「待った!」
 突然、アシュトンが真剣な眼差しで制止した。立てた人差し指を口元に当てながら、辺りに視線を走らせている。ギョロとウルルンも、警戒しているようだ。クロードたちは武器を構えた。
「また動物たちが?」
「いや、この島に動物はいないはずだ」
「まさか十賢者じゃないでしょうね……」
「いた、あそこだ!」
 相手に気付かれないような声で、アシュトンは指差した。十メートルほど先の曲がり角。姿は見えないが、大きな影がのそりのそりと動いて近づいてきていた。息を呑む。
 その影が一瞬止まったかと思うと、猛烈な勢いで動き出し、本体が角を曲がって姿を現した。
「フェンリルビースト!?」
 チサトが驚きの声をあげた。滑らかな紫色の肌をしたその化け物はまるで地球のチーターのようにバネを効かせた走りで駆けてきて、アシュトンに飛びかかった。背中を天井に擦りつけながら、フェンリルビーストはその鋭い牙で噛み付こうとする。アシュトンは落下直前まで待ってから素早くかわし、着地した瞬間の前足に斬りかかった。足一本だけでも人間の胴体ほどの太さがある。アシュトンが負わせることのできた傷は、ほんの数センチだけだった。
「気をつけて! 肌がものすごく硬い!」
「そんじゃ、無人くんスーパードリルだぁ~」
 プリシスがドリルを唸らせると、フェンリルビーストは無人くん二号に襲い掛かった。飛びつかれて、無人くんはひっくり返る。
「うひゃ~!?」
 プリシスは特製透明カバーの中で無事だが、敵が近寄りすぎているので回転するドリルも意味をなさない。フェンリルビーストはかじることも引っかくこともできないと分かると、標的を傍にいたレオンに移した。しかしレオンは呪紋の詠唱中でそれに気付かない。クロードは左側面からフェンリルビーストの腹に剣を突き刺そうとしたが剣は刺さることなく皮膚の上を滑った。体制を崩したクロードに太い後足が蹴りを加え、その隙にレオンは詠唱を終えた。同時にフェンリルビーストの口が開かれる。
「ディープフリーズ!」
 レオンの掌から巻き起こった吹雪と、フェンリルビーストの吐き出す炎とがせめぎ合う。しかしすぐにフェンリルビーストは息を吐ききり、冷気と氷の結晶を顔面に受けた。一方で、アシュトンは別の生き物のように動く尻尾を斬り捨てた。
 二つの痛みに襲われたフェンリルビーストは我を失ったかのように暴れ、目に入ったものを次々に襲った。無人くん一号は弾き飛ばされ、セリーヌは杖で鋭い爪を受け止めたが杖ごと宙に放り投げられた。それを助けようとしたレナは後足で蹴飛ばされそうになり、かばったノエルもろとも壁に叩きつけられた。
「こうなったら、火には火を、よ」
 と、チサトは起き上がるのに四苦八苦している無人くん二号から火炎放射器を取り出した。
「ちょっと! あたしの無人くんに変なモノ乗せないでよ!」
 場違いな抗議を無視して、チサトは放射器を背負い、引き金を引いた。爆音とともに炎が通路一杯に広がり、チサトは反動で後方に吹き飛んだ。
「きゃっ!?」
 反射的に放射器を手放してしまい、チサトは急いで探した。しかし、既にフェンリルビーストは丸焦げになっていた。それにほっとしながら、見つけた放射器を拾い上げる。
「誰よ、いきなり設定を最大にしたのは!」
「自分でやったんじゃありませんの? まったく……」
 死体の焼ける臭いに鼻をつまみながら、セリーヌが奥から出てきた。どうやらフェンリルビーストが盾になったおかげで、通路の奥までは炎が届かなかったようだ。
「いったい、いつそんなものを持ち込んだんです?」
 クロードも臭いに耐えかねるような顔で出てきた。
「昨日、とあるところで買ったのよ。こいつで鋼鉄の守護者を溶かしてやろうかと思ったんだけど」
「でもチサトさんって、たしかナントカ流体術の免許皆伝だったんじゃあ……?」
 レナが新聞社での出来事を思い出す。
「う、うるさいわね! とにかく勝ったんだからいいじゃない。ね? これからもバンバンいくわよ~」
 そう言って、一人変に元気よく洞窟の奥へ進んでいった。

 敵の数は想像を超えていた。とにかく次から次へと襲い掛かってくる。下手をすると回復の暇もないほどだ。フェンリルビースト、ダーククルセイダー、オティフ、リキロ。チサトが言うにはこの遺跡に関係のあった宗教での架空の動物らしい。
「なんでそんな架空の動物が!?」
 食虫植物のような姿のオティフを叩き割りながら、クロードは訊ねる。
「さあね。遺跡に関連させて、大昔の人が作り出したのかも」
 敵味方入り組んだ戦闘なので、チサトは放射器を使わず、鎧を纏ったダーククルセイダーを本来の体術によってとどめを刺した。鎧にひびが入って、ダーククルセイダーはぐったりと倒れる。
「それにしても数が多すぎるよ~」
 プリシスはクラゲとテーブルを足して二で割ったようなリキロを無人くん二号で次々と潰していたが、減った数だけ増えるのできりがない。
「無限に出てくる敵に立ち向かう勇気を見せろってコトじゃないの?」
 レオンは小技を連発して敵に近寄られないようにしている。
「なるほどな。ようやく試練らしくなってきたぞ。……爆裂破!」
 剣で叩きつけた先の地面が隆起し、オティフたちはひっくり返った。

21

 やがて、少し雰囲気の違う場所に出た。魔物の気配もない。奥のほうが少しだけ明るくなっていて、そこは祭壇のようになっていた。円形の台の上に彫像のようなものが置かれている。
「ここが勇気の場の最深部か……?」
「でも、あれはどう見ても珠じゃないよね」
「それに守護者もいませんわよ」
 しかし、何か特別な場所であるのは間違いない。クロードは剣を収めると祭壇に登り、像に触れた。ざらざらとした、ただの石のようだ。人間の胸像であるらしいが、風化して表情はほとんど読めない。おそらくはこの遺跡と同時期に作られたものだろう。そんなものをわざわざ置いておくということは、何か意味があるに違いない。クロードは、慎重にその像を取り上げた。
「なにも起きないわね……」
 カメラを構えていたチサトはがっかりしたふうに言った。
「ということは、ここは最深部じゃないってコトだね」
「そうみたいだ。プリシス、悪いけどこれをしまっておいてくれるかい?」
 言われるとプリシスは少し嫌そうな顔をしたが、しぶしぶといった感じで承諾した。
「よし、じゃあ本当の最深部を探そう」
 それから約一時間に渡り、クロードたちは再び戦いの中に身を置いた。これまで、エクスペルでの戦闘も含めて、これほど激しい戦いはなかった。フェンリルビースト以外は大した脅威ではないが、数が多いので意外と手ごわい。しかし、なんとかそれらしい場所に到達できた。

 そこは行き止まりだったが、不思議な装置が置かれていた。筒状で人が一人入れるくらいの大きさ。おそらくは移動装置だろうということでクロード、ノエル、チサトの意見は一致した。
「じゃあ、僕から行くよ」
 クロードが装置に入ると体は浮き上がり、天井へと消えていった。
「次は僕が行きます」
 ノエルが入り、アシュトンが入って、次々と天井に消えていった。そうして、プリシスの番になる。彼女の後はチサトだけ。チサトは知の場のときと同じように、一人一人が瞬間移動する様子をカメラに収めているのだ。
「んじゃ入るね」
 と無人君二号を動かしてみたが、どうやっても装置に入れない。高さはぎりぎりだが胴体の幅がありすぎるのだ。
「そんなぁ~」
「諦めるしかないわね、今回は。ま、守護者なら私の火炎放射器でドロドロにしちゃうから安心しなさいって」
 そう言いながら諦めのつかない様子のプリシスを装置に押し込み、勝手に写真を撮った。

「なんか、最深部って感じね」
 レナが部屋中を見回しながら言う。そこは広間と呼ぶのが相応しい場所で、天井は高く奥には階段があって、その上に先刻と似たような円形の台が置かれていた。何も乗っていない。その脇に、手ですくった水をこぼしているかのような女性の坐像が二体あった。高さは三メートルほどだろうか。風化してはおらず、水のこぼれる先を見つめる優しい表情が印象的だ。そして両の壁伝いに二本ずつ計四本の高さのある豪華な燭台が置かれ、幾多もの蝋燭が青白い炎をつけていた。荘厳さに満ちた部屋。
「ここで何かするのか、それとも向こうから何かしてくるか……?」
 呟きながらクロードは祭壇に登った。しかし、何も起きない。台の上に赤い珠は現れず、女性像にも変化はない。
「ねえクロード、さっきの像をその台に乗せるんじゃないかしら?」
「なるほど。そうかもしれない。プリシス、像は持ってきてくれたかい?」
 置いてきた二号に未練たらたらの様子ながら、プリシスは頷き、ターボザックの工具入れから像を取り出した。
「よし、置くぞ……」
 像と台が触れ合った瞬間、轟音とともに地面と壁が揺れ始めた。
「地震か!?」
「違う! 何かが出てくるよ!」
 アシュトンが天井を指差す。ちょうどクロードの頭上だ。間もなくその場所にひびが入り、岩と土が降りかかってきた。クロードが慌てて逃げると、後ろでとても重たいものが落ちてきた音がした。
「出た!」
 振り返ると、力の場と同じ鋼鉄ロボットが立っていた。唸るような声で喋る。
『力なき勇気は、ただの無謀でしかない。我と戦い、己の勇気を証明するがいい!』
 言い放つと、守護者はいきなり飛び上がってクロードの頭上を越え、全員の背後へと着地した。そうして振り返ると両手を広げて突進し、クロードたちを祭壇の上へ追い詰めようと図った。そこへチサトが予告通りに火炎放射器をお見舞いする。しかし守護者のスピードは衰えず、チサトは寸でのところで体当たりをかわした。全員がなんとか交わして散開したとき、守護者は祭壇後ろの壁に激突していた。だがすぐに振り返って目標を定め、両腕をぐるぐる回してプリシスに襲い掛かった。
「え~い、二号がいなくたってあんたなんか吹っ飛ばしてやるんだからぁっ!」
 叫びながらターボザックのサンダーパンチを繰り出す。これは回転する守護者の右腕に命中して、見事それをはじき飛ばした。しかし左腕が彼女の足元を勢いよく殴りつけるとその周辺が陥没し、プリシスはバランスを崩して転んだ。
「くそっ!」
 クロードが背後から斬りかかる。鋼の鎧に剣が立たずとも、繋ぎ目を狙えばダメージは与えられる。その予測は的中した。右肩のパーツが完全に外れ、守護者は重量バランスが不安定になった。そこをつこうとチサトが詰め寄ったが、守護者は左腕を自ら切り離し、そのまま突進した。予想外の行動に驚いたチサトは不意を突かれて体当たりをまともに食らった。そして、呪紋が降り注ぐ。
「サンダーストーム!」
「マグナムトルネード!」
「シャドウフレア!」
「ライトクロス!」
 まったく異なる属性の呪紋に次から次へと襲われて、守護者の体は一気にボロボロになった。電撃で左足の間接がはじけ、竜巻に呑まれて右足がもげ、闇の力で胴体がつぶれ、強烈な光で視覚系統がオーバーロードを起こす。守護者は胸と頭だけになって、見えない目で標的を捜し求めた。
「よし、とどめは僕が……」
 とアシュトンが近づいた瞬間、守護者の目は強烈な光線を放った。狙った方向は見当違いだったが、光線の命中した壁は深く穿たれていた。そして、それは間断なくあらゆる方向に向けて発射されるビーム兵器だった。
「そんなことをしたってやってやるぞ……、リーフスラッシュ!!」
 アシュトンがその場で一回転したかと思うと姿は消え、瞬時に守護者の傍に移動した。そして、短い首を素早く断ち斬った。
『見事だ。そなたたちの勇気、確かに見せてもらった。資格を持つ者よ、勇気の力を受け取るがいい』

22

 ブリッジ。
 父が、入ってくる。
 オペレーターが、報告する。
『提督、例のセクターθの高エネルギー体は依然として謎の起動変更を繰り返しています。原因は相変わらず不明です』
 父が、応える。
『そうか……、ありがとう……』
 オペレーターが見る。
『提督……』
 士官が、話しかける。
『提督。ご子息のことは本当に残念でした。ですが、提督はベストを尽くされました。どうしようもなかったのです』
 父が、見つめる。
『ベストを尽くした……か。だが、それがなんだと言うんだ? その結果、私に残されたものは、息子が死んだという事実だけだ……』
 士官が、恥じ入る。
『すみません……提督』
 父が、首を振る。
『いや、君が謝る必要はないよ』
 父が、スクリーンを見る。
『クロードは、あんなに勇気のある子ではなかったんだがな。だから私も安心していたのに……。無闇に勇気なんてあっても、早死にするだけだ。私みたいに、臆病なくらいがちょうどいい』
 オペレーターが、驚く。
『なにをおっしゃるんですか、提督は決して臆病なんかではありません。これまで、常に勇気ある行動をとり続けてこられたじゃないですか』
 父が、首を振る。
『そんなことはない。私は、いつも怯えていたよ。世間に、妻に、そして息子に嫌われないかとね。だからこそ、あんなに無謀な行動をとり続けてこられた。そう、恐かったんだよ、私は……。息子に嫌われるのがな……』

「父さん……?」 

 だれも、いなくなる。

23

 彼は苛立っていた。計画の全てが、ことごとく奴のせいで遅れている。何が悲しくて壊れた機械の戯言なぞ聞かねばならぬのか。本当なら数時間のうちに済むようなことも、いちいち奴の呼び出しが入るために中断させられてしまう。呼び出しの回数は日に日に増え、また、話も長くなっている。ただのネーデ人と違って眠る必要がないからいいようなものの、それでも彼が自分自身のために使える時間は徐々に減っていた。分身でもいればもう少しはかどるのだが。
 少し考えてから、彼は思いつきを実行することにした。手間はかからない。空間に手をかざし、イメージを広げるだけ。それだけで、自分を作った者と同じことができる。何もなかった場所に魔物とも人ともつかないような、それでいてどこか言い知れぬ美しさをもった生物が現れ、うやうやしく彼にひざまずく。作り手に忠実なことを考えれば、奴よりもこちらのほうが優秀だろう。彼は形の良い口で皮肉げに微笑した。
「お前の仕事は、四つの宝珠とその制御に必要なルーンコードを手に入れることだ。間もなくその全てが愛の場に集まる。そこで一度に手に入れてくるのだ。よいな」
「はっ」
 使い魔は短く返答すると、跪いたまま姿を消した。これで多少は手間が省ける。ついでに目障りなエクスペルの人間どもも排除できれば言うことはない。彼にとっては生きていようが死んでいようが同じことだが。
『ルシフェル様』
 せっかく少しいい気分になったというのに、また邪魔が入った。まるで奴の手下であるかのごとく呼び出しを伝えるのは、いつもの緑のフードの男、ラファエル。
「何も言わなくていい。今行く」
 少しきつい口調で言って呪紋を唱えると、床に輝く五芒星が彼を別の空間へと誘っていった。

 十賢者監視用素体『ルシフェル』。彼は、全ての十賢者の行動を監視し、統制するために作られた。それが故に、体力、紋章力ともに他の十賢者とは比較にならないほどの強さを与えられている。それなのに、なぜ他人の呼び出しなど受けなければならないのか。たかが最終兵器に。考えるだけでも腹が立った。

24

 勇気の場からそう遠くないノースシティにあるチサトの実家に、クロードたちは一泊することにした。街は、四つの場の攻略を進める一行の再訪と野性サイナードの飛来に大いに沸いた。どうも、この街の人たちは好奇心が旺盛であるらしい。クロードたちは街に入ってから三時間ほど、質問攻め、握手攻め、記念撮影攻めに遭い、夕刻になってチサトの家に着いたときには全員がへとへとに疲れていた。
 チサトの母親ヒースは道具屋『ブルーフラスコ』を営んでおり、娘と同じ赤毛だった。女手一つで店を切り盛りしてきた気概溢れる女性で、とても活き活きしている。チサトさんの性格は母親譲りなんだな、とクロードは納得した。だが、それはチサトが二人いるのと同じであることを意味していた。
 クロードたちは、店舗のある一階から二階へと案内され、栄養満点の特製野菜ジュースを大量に飲まされた。ヒースは続けて『生涯最高の料理』と自負するテーブル一杯の食事を振る舞い、その合間に娘に記念写真を撮らせてサインをねだり、お土産と称して店の品物を山のように分け与えた。薬草やら楽器やらペンやら紙やら宝石やら変な色の液体が入ったフラスコやら機械の部品やら、まるで統一性がない。だいたい、こんなフラスコなんて何の役に立つんだろうか。できれば不要なものは置いていきたいが。
「あの、こんなに一杯……?」
「いいのよ。この様子を明日の新聞に載っけてもらえればいい宣伝になるわ」
 ヒースは嬉々として言い、チサトは丸太のような荷物袋を抱えたクロードをカメラに収めた。

 いろいろあって疲れたので、クロードたちはシャワーを浴びて早々に休むことにした。ここは道具屋であって宿屋ではないので、いくつかの来客用ベッドはあっても、とても全員分はない。もっとも全員が野宿に慣れているから一向に構わないのだが、チサトが作ったくじ引きの結果、クロードとレナが客室のベッドを使うことになった。決まった瞬間にチサトがにやりと笑ったので、その辺に作為的なものを感じないでもないが、当然悪い気もせず、恨めしそうに自分を見やる仲間たちを尻目に、クロードは遠慮がちに客室へと入った。レナは、チサトにシャワー室へと案内されていった。
 そこはやや広い感じのする部屋にベッドが二つ置いてあるだけの、特別変わりのない場所だった。ただし、やや高い天井には大きな窓がついていて、美しい星空が見えた。その眺めには感心したが、すぐに嫌な予感が脳裏に走った。最初にノースシティにやってきたとき、彼女はこの屋根の上からクロードたちを撮影しようとしていた。屋根の上に登れるなら、当然あの天窓から中の様子も覗ける。あまり疑いたくはないが、新聞には載せなくても趣味とか何らかの脅迫いたずらのために使うかもしれない。もっとも彼女の思い通りの状況にるはずもないが。
 しばらく星の観察をしてから、クロードは入り口付近の壁のパネルを触って灯りをつけた。光は天井からではなく、壁際やベッドの下から漏れてきた。薄明るいオレンジの、……ちょっといい雰囲気かもしれない。ますますチサトの笑みが怪しくなってきて、クロードはため息をつきながら首を振った。
 そこへ、シャワーを浴びたばかりのレナが入ってきた。彼女は自分からヒースを手伝って食事の後片付けをしていたので、シャワーを使うのは一番最後だった。濡れて夜の海のような色になった髪を丁寧に乾かしながら、レナは部屋の様子に顔を明るくした。落ち着いた照明に、天井一杯の星々。
「いい部屋ね」
 クロードに微笑みかけて、壁の窓から夜のノースシティを見下ろす。
「そ、そうだね……」
「こんな部屋を二人だけで使うなんて、ちょっぴりみんなに悪いわね」
「そ、そうだね……」
「でも、せっかくだし、今日はゆっくり休みましょう」
「そ、そうだね……」
 レナは振り返って、怪訝そうに眉をひそめた。濡れた青黝い髪が、つややかに輝いていた。
「どうかしたの? なにか変よ?」
「そ、そうだね……」
 自分でもどこかおかしいと思う。頭がくらくらして、体が熱くなって……、レナがとても……?
 クロードは一歩踏み出した。どうしてもレナの傍へ行かなければいけないような、いや、何が何でもレナをこの腕に抱いて、それから……。
 レナから見たクロードは、異様だった。熱が出たかのように顔が赤くなって、口は半開き。目の焦点は不安定で、おぼつかない足取りで自分のほうへと歩いてくる。いつものクロードじゃない。
「クロー……ド?」
 頭を拭いていたタオルを握り締めて、弱々しい声で呼びかける。
「レ……、レナ……」
 半分裏返った声で、一歩ずつ近づいてくる。レナは最悪の事態を想像した。クロードは何か変な病気に冒されてしまったのだ。きっとネーデの環境がチキュウジンには合わなかったのだ。そしてこの病は永久に治らず、彼は一生病院暮らし……。エクスペルに帰ったらいっぱいいっぱいしたいことがあったのに。レナは涙が出てくるのを抑えられなかった。
 が、怪しげな歩調のクロードは、床に置かれた『お土産』の袋に躓いてすっころんだ。レナはこのとき初めて動いて、倒れたクロードを抱き起こした。ゆっくりと、クロードは目を開けた。
「……あれ? 僕は……?」
 そこまで言うと、クロードは何かとてもよい香りがするのを感じ、慌ててレナから離れた。
「どうしたの!?」
 レナはわけが分からない、といった顔をしてクロードを見上げていたが、クロードは大体を悟った。落ち着いて、レナに訊ねる。
「レナ、チサトさんから香水か何かをもらわなかったかい?」
「……ううん。でも、シャワーを浴びる前にナントカそーぷと、ナントカしゃんぷーと、ナントカりんすっていうのをもらったわ。セッケンよりキレイになるからって」
 クロードはため息を吐いた。まったく、あの人ときたらやりすぎだ。
「それがどうかしたの?」
 レナは首を傾げた。いったい、なんと説明したらいいのだろう。素直に『チサトさんがそのシャンプーやらリンスやらに媚薬を仕込んだんだよ』と言えるものだろうか。ちょっと勇気がない。
 クロードは憮然として言った。
「とにかく、もう一度シャワーを浴びておいでよ。今度はみんなと同じものでね」
「どうして?」
「わけはあとで話すから」
 レナはなかなか承知せず、しばらくじっとクロードを見つめていたが、仕方ないという風に出て行った。クロードはほっと胸を撫で下ろし、次の行動を起こすべく家の外へ出た。

 屋根を見上げると、ちょうどチサトが客室の屋根に這い上がろうとしているところだった。登るためのロープまで用意してある。クロードは呆れながらチサトの後を追った。
 屋根に上がると、思った通り、チサトは天窓からクロードたちの客室にレンズを向けていた。
「あら、なんでいないのよ。今ごろは二人で……」
「綺麗な夜空ですね」
 もしカメラを首から下げていなかったら、持ち主の手を離れたそれはガラスを突き破って客室へと落下していただろう。だがチサトは何事もなかったように振り返り、屋根の上に腰掛けた。
「ええ、そうね」
 なかなかしぶといなと思いつつ、クロードはチサトの隣に座った。
「どうしてこんなところに来たのよ」
 少し咎めるような声。
「部屋の窓から見たらとても綺麗だったから、外で見たくなったんですよ。チサトさんこそ、どうしたんです?」
「わ、私は……、そう、夜空の写真でも撮ろうと思ったのよ」
「そうですか」
「そうよ」
 それからしばらく、沈黙が続いた。普段のチサトは一見軽い感じで振舞っているが、ギヴァウェイ大学の図書館で見せたような思慮深い面もある。未だに十賢者についての真実を公表しようとしないし、そのことで時々悩んでいる姿を見ることもある。今回の『いたずら』も単なる興味本位ではないだろう。そんなことをした理由が、クロードには大体分かっていた。
「ねえ、怒ってるの?」
 さっきとは違う力のない声で、チサトは言った。膝を抱えて、クロードとは反対の方を向く。
「いいえ」
「全部分かってるから来たんでしょ?」
「ええ、まあ」
 星が一つ流れた。
「じゃあどうして責めないのよ」
「責めて欲しいんですか」
「そうじゃないけど、だって、だって……」
 声の調子が不安定になるのを、クロードは感じた。
「気持ちは分かります。僕もいろんなことで悩んできましたから。忘れたいとき、逃げ出したいときもありますもんね」
「……そこまでお見通しなわけ、か。さすがリーダーは違うわね」
 チサトは鼻をすすりながら笑った。だが、すぐに暗い調子に戻ってしまう。
「私、どうしたらいいのかな」
「僕にはなにも言えません。僕はチサトさんじゃないし、ネーデ人でもない。自分で考えるしかないと思います」
「いやにはっきり言うわね」
 その声は少し怒ったように聞こえた。
「チサトさんには後悔してほしくないんです」
「どういうこと?」
 チサトは戸惑ったようだった。
「僕はネーデに来るまで、ずっと地球人だっていうことを、他の星の人間だっていうことを隠していたんです。いつ言えばいいか、ずっと隠しておくべきか、結論を出せないでいるところに十賢者が現れて、彼らの口から僕の正体が明らかになった。みんなは僕は僕だからって言ってくれるけど、それは問題じゃないんです。好かれようが嫌われようが、自分で言いたかった。それなのに、恐くて言い出せなかった」
 チサトはクロードの顔を見ようとしたが、彼は空を見上げていた。
「チサトさんの場合はまた違う問題だし、公開したほうがいいと言うつもりもありません。でも、どちらかと迷っている間に別の人間から真実が明らかになったら、きっと後悔すると思うんです」
「……そうかもね」
「どっちに決めても僕はチサトさんを支持します。レイファス教授がなんて言うかは分からないけど、知っているのは三人だけですから。たとえ反対されても、二対一でこっちの勝ちですよ」
 クロードは笑って、立ち上がった。星の位置が、だいぶ変わっていた。
「そうだ。レナにはもう一度シャワーを浴びるように言っておきましたから、なにも起こりませんよ。風邪を引かないうちに寝ておいたほうが得です」
 チサトに背を向け、屋根の端から垂れるロープを掴む。十分に注意しながら体を下ろし、壁に足をつけた。
「待って」
 チサトは座ったまま、呼び止めた。
「ありがとう」
 チサトの顔は、笑っているように、クロードには見えた。
「おやすみなさい」
 心から微笑んで、クロードは下へと降りた。

25

 翌朝、クロードたちは早くから出発した。真昼間に出ようとすれば、また人々の関心を引くに違いない。それでもヒースの用意した食事は朝から豪華で、平らげるのに多少手間取った。
 これからいよいよ最後の場へと向かうのだが、どうしても疑問が残る。自分たちは何のために四つの場を巡り歩くのか? 守護者や魔物たちとの戦闘を通して幾分かは力もついたろうが、到底十賢者たちに立ち向かえるものとは思えない。ネーデの力の根源とは何なのだろうか。それに、あの幻覚。クロードの場合、どれもこれも父親に関係するものばかりだったが、それが何だというのだろうか。新たな力を得るというよりも、嫌なことを思い出すだけのような気がする。それとも、過去を乗り越えることが試練だというのか。だとしたら、自分が乗り越えなければいけないものはなんだろう。父親か、艦隊の規則か、周囲の目か。そんな束縛からは離れて生きようと決めたのに?
 その答えが、次の場で出るだろうか。エナジーネーデの中心に浮遊する場、『愛の場』で。
「ほえ~っ、なんで浮いてんの~?」
 愛の場自体の大きさは地の場や勇気の場のような小島程度のものだが、それが空に浮かんでいるとなると驚異的だ。プリシスでなくとも驚くのは当然だろう。サイナードは浮遊島の上空を周回しながら、着地できそうな場所を探している。
「あれはね、巨大な反重力発生装置を内蔵しているのよ」
 チサトが得意げに言う。クロードは朝、彼女の目が赤いのを見てあの後もずっと起きていたのかと訊ねると、自分の部屋で愛の場の下調べをしていたのだと答えた。気持ちの切り替えの素早さは賞賛に値した。
「ハンジュウ……リョク?」
 プリシスは首をひねった。
「まあ、中心部分には重力を操る紋章が刻まれているんだけど、それを制御するためにとても大きな装置がついてるの」
「重力の紋章術なんてあるんですか?」
 レナが問う。
「ええ。厳密には星の属性なんだけど」
「私にも使えるかしら」
「使いたいの?」
 チサトは少し驚いたようだったが、レナは真剣に頷いた。
「そうですわね……。レナが使えるレイやライトクロスは光の属性ですけれど、星の属性は光の属性に近いですから」
 セリーヌは、旅の初期からレナの成長ぶりを見てきた。攻撃呪紋はあまり得意ではないようだが、レナの紋章力は確実にレベルアップしている。
「じゃあ、ボクにも使えるかな」
 レオンが身を乗り出す。
「さあ、どうですかしら。その呪紋が簡単なものならともかく、あなたは星の属性からは遠い呪紋のほうが得意なようですからね」
「じゃあダメかぁ」
「なにさ、それで諦めんの?」
 なぜか怒ったようなプリシスの声に、レオンは見下すようにして、
「何をどうしたって、水は油の代わりにはならないんだよ」
「あ、そ」
 そのとき、サイナードが急降下を始めた。

26

 愛の場の入り口は王城のような、灰色の石を積み上げて作られていた。ただし、門扉は木や鋼ではなく光るエネルギーフィールドだった。クロードはルーンコードを取り出し、片方の腕で目を覆いながらそれをかざした。強い光とともに、彼らは場の中へと瞬間移動した。
「わぁ~、なに、これ?」
 目を開けるなり、プリシスは胸をときめかせた。そこは確かに浮遊島の上だったが、地形は山岳地帯のように険しく、人工の橋や足場が作られていた。それらは、丁寧に磨かれ形の揃った様々な色の石を巧みに組み合わせたもので、クロードはおとぎ話で聞いた天空に浮かぶ城を思い出した。また、岩壁の所々からは幾つもの滝が滔々と流れ落ち、それが谷の底に溜まって太陽光を反射している。見方を変えれば、湖の上に造られた城とも言えた。
「きれいですねぇ」
「美しいですわね」
「綺麗ね……」
 口々に感想を漏らす。思わずため息が出てしまうほどに、愛の場の景観は優れていた。知の場のいかにも人工的に造ったという感じや、力の場の自然的脅威、勇気の場のおどろおどろしさといったものがここには無かった。
「せめて最後の場くらいはなにごともなく最後までたどり着きたいですわね」
 セリーヌが希望を述べる。それはあくまで希望だったが、この自然と人造物の見事な調和は、それを可能にするように思えた。

 ところが、セリーヌの希望は見事に叶えられてしまった。場の入り口から神殿の入り口まで、徒歩で三十分もかかっていない。その間、魔物は出てこなかったし、頭を使うような仕掛けもない。とても試練とは思えなかったが、ナール市長は愛の場には強力な守護者がいると言っていた。その守護者自身が試練なのかもしれない。あるいは、神殿のように見えるこの場所の先にもまだ何かあるのかも。
 クロードたちがそこを神殿だと思ったのは単にそれらしい門構えだったからだが、中に入ると行き止まりだった。ただし、そこは知の場の最奥部に似ていた。床は湖底から伸びる円筒の上端であり、切ったピザをずらして重ねたように、平坦ではない。中央の円形の台には初め何もなかったが、すぐに床が輝いて、一人の女性が現れた。濡れたように輝く薄布を一枚まとっている。
「よくぞ参られました。私がこの泉の精です。さあ、こちらへどうぞ」
 今までの場とはまるで違う様子にクロードたちは首を傾げつつ、それでも手を広げて迎える泉の精に近づいた。
 次の瞬間、優しく微笑んでいた泉の精の顔は一転し、鋭い牙を剥いて不気味な笑みを浮かべた。そして、どういうわけかセリーヌが彼女の腕に捕らえられてしまった。羽交い絞めにされ身動きできない。
「なっ!?」
「クククッ。まんまと引っかかったね。本物の守護者とやらはすでにこの私が殺してやったわ。我が名はラヴァー。十賢者が一人ルシフェル様の忠実なる従僕」
 クロードたちは武器に手をかけたが、すぐさまラヴァーの甲高くも重みのある声が飛んだ。
「おっと、動くなよ! 下手に動けば、コイツの命の保証はしない」
 そう言って、ラヴァーは先の尖った尻尾をセリーヌの首に突き立てた。いつの間にかラヴァーの服装さえ、黒い皮のようなものに変わっていた。
「単刀直入に言おう。貴様らが持っているルーンコードと三つの宝珠。それを渡してもらう」
「なに!」
「断るって言うんなら、それでも構わないよ。ただコイツが死ぬだけだ」
 尻尾の先がセリーヌの首に今にも突き刺さりそうになる。
「卑怯な!」
 抗議はしてみても、相手は全く意に介さない。ここは相手の言うとおりにして一発逆転を狙うか、それとも……。
「あ……あんな石ころを、わたくしの、代わりなんかにしたら、承知……しませんわよ!」
 セリーヌの苦しげな喘ぎに、ラヴァーは気分を害した。
「誰が余計なおしゃべりを許したんだ! 命が惜しかったら、これ以上喋るんじゃない!」
 ラヴァーは鞭のような黒い尻尾を首に巻いて締め付けた。
「あぁぁぁっ!」
 尻尾は一メートルほど伸びてセリーヌを高く吊り上げ、より強く締め上げた。手で解こうとしても、力が入らない。
「さて、話はこれぐらいにしておこうか。コイツを助けたいのなら、大人しくブツを渡すんだ」
 セリーヌの顔はどんどん赤くなっていく。それが紫色になるまで時間はかかるまい。クロードは決断を迫られた。後ろを振り返り、アシュトンに目配せをする。この場を切り抜けるには彼の力が必要だ。そして運のいいことに、彼は既に二本の剣を抜いていた。アシュトンは理解し、頷く代わりに手に力を込めた。
「分かった。ルーンコードと宝珠は渡す。けど、セリーヌさんの命は保証してくれるんだろうな」
 ラヴァーは抵抗する力すら失った紋章術師を見上げた。
「ああ。約束してやろう」
 クロードはプリシスから三つの宝珠を受け取ると、ポケットからルーンコードを取り出してラヴァーに近づいた。
「他の奴は後ろに下がれ! 愚かな考えは死を早めることになるよ!!」
 レナたちは用心深く一歩下がり、クロードはルーンコードと宝珠をゆっくりと差し出した。ラヴァーは、宝珠を一つ掴んで眺めた。
「これが宝珠か。じゃあ、ついでに貴様の命も貰っていくとしよう」
 瞬間、尻尾の先がさらに伸びて、クロードの目と鼻の先に迫った。
「なに!?」
「安心しな。お前を殺したあとで、約束通りコイツは解放してやるよ」
 と、ラヴァーが尻尾を振って見せたとき、セリーヌの身体は空中に飛んだ。
「っ……!?」
 驚いたのは、ラヴァーのほうだった。彼女のしなやかな尾は切断され、締め上げていたはずの人質は宙を舞う黒衣の男の腕の中にあった。アシュトンがリーフスラッシュによって瞬間移動し、セリーヌを助けたのだ。
 茫然自失とするラヴァーから宝珠を奪い返すと、クロードは彼女の腹に強烈なパンチをお見舞いした。不意打ちを食らったラヴァーはまともにダメージを受け、咳き込みながら地に膝をついた。そこへ無人君二号が突進する。ラヴァーの身体は人工の床から輝く湖へと落下していった。
 しかし、十賢者の従僕は守護者よりも手ごわい。ラヴァーは背中に尻尾と同じ漆黒の翼を生やすと急上昇し、クロードたちを見下ろした。
「ふんっ、所詮は人間の悪あがきよ! この私を弄んだ報い、とくと受けるがいい!」
 明らかに逆上した調子の声で叫ぶと、ラヴァーは大きく広げた腕を閉じ、素早く呪紋を唱えた。
「フェーン!」
 エクスペルで魔物軍の長シンが放ったものよりも数段烈しい熱風がクロードたちを襲った。皮膚が焼けるかのような風に耐えながら、クロードたちは反撃に出た。
 レオンがスターライトの光で敵の動きを封じ、ノエルが狙いをつけてソニックセイバーを放った。真空の刃は術者の意のままに突き進みラヴァーの翼を切り刻んだ。ラヴァーは落下しながらも翼を再生させ、翻った勢いでノエルに肉弾による一撃を見舞った。紋章力を解放した直後の攻撃にノエルはうろたえた。たがラヴァーの低空飛行はクロードたちに攻撃の機会を与えた。チサトは自らの身体を丸めて高速回転させ、ラヴァーの側面から体当たりした。安定を失って地面に転がったラヴァーを、無人君二号が取り押さえる。そこへ、クロードとアシュトンの三本の剣が突き立てられた。
 一瞬のことに自身が状況を把握できないまま、ラヴァーは息絶えた。もちろん、クロードたちは知る由もない。ラヴァーが誕生してからまだ一日と経っていないということを。しかし、知っていたとしても躊躇はしなかっただろう。
「みんな、無事か!?」
 亡骸から剣を引き抜くと、ラヴァーの身体はふっと消えてしまった。剣には血すらついていない。
「どういうことだ?」
「幻影?」
 その可能性もあったが、この魔物が十賢者のおそらくは直属の従僕であることに関係があるのかもしれない。だが、そんな詮索は後だ。
「レナ、セリーヌさんは?」
「怪我は無いわ。少し横になっていれば大丈夫」
 横たわるセリーヌの顔からは既に赤みが引いて、普段通りの顔色になっていた。
「ならよかった。ノエルさんは?」
「僕は大丈夫ですよ」
 言いながら、攻撃を受けた左の頬に自分で回復呪紋をかけている。他に外傷はなさそうだ。
「しかし……」
 クロードは周囲を見渡した。何もない。ラヴァーがここの守護者は倒したと言ったが、それは事実のようだ。それに、ここに来るまでに何の障害も無かったのも、おそらくはラヴァーが試練のための魔物を一掃してしまったからだろう。彼女は宝珠を狙っていたようだが、愛の場の宝珠は既に持ち去られてしまったのだろうか?
 不安を抱えながら考えていると、辺りが急に真っ暗になった。

27

「あれ? みんな?」
 クロードは辺りを見回した。しかし、目を凝らしても何も見えない。何も聞こえない。手探りで前に進もうとすると、いきなり足を踏み外した。
「うわあっ!?」
 真っ暗だが何かの上を滑るように、クロードは転がっていった。そして、何かの中に落ちた。水じゃない。油でもないが、何か嫌な感じのものだった。
 ──何だ、ここは……。不快な……どす黒いものがまとわりついてくる……。
 抜け出そうともがくと、その何かはどんどん固くなっていき、クロードの自由を奪った。
 ──冷たい……暗い……恐い……苦しい……気持ちが悪い……。もう、動けない……。
 クロードは目を閉じた。開いていても閉じていても何も見えないけれど、閉じていたほうが落ち着く。なんとなく死にかけているような気がするのに、なぜか心は落ち着いていた。
 ──まあ、いいか……。
 しばらくじっとしていると、目の前が光りだした。誰かが立っていて、その後ろから強烈な光が射していた。シルエットだけで、誰かは分からない。
「君は、誰?」
『私は、私よ』
 影の人物は、思ったよりも明確な声で答えた。そして、どこか懐かしい声。
「な……なにを言っているんだい?」
『恐がらないで……心を素直に開いて……』
「それは……どういう……?」
 クロードは混乱した。言われたことに、反論できない自分がいた。
『私にできるのはここまで。後はあなた自身の問題』
 影の人物は、光とともに消えていった。
「待ってくれ! 君はいったい……!?」
 辺りが、急に見えるようになった。

「父さんはいつもそうだ! 僕に考えを押しつけてるだけなんだ!」
 父さんの背中に向かって叫ぶ僕。
『そうなの?』

「僕は父さんの操り人形じゃない!」
 父さんの背中に向かって叫ぶ僕。
『本当にそうなの?』

「僕は父さんの引き立て役じゃないんだ! みんな、僕を見てくれ! 本当の僕を!」
 父さんの背中に向かって叫ぶ僕。
『今も、そうなの?』

「分からない……分からないんだ!」
 頭を抱えてうずくまる僕。
 ──はは……、なんだよ。なんで僕は泣いているんだ?
 そこは、地球にある自分の家の庭。芝生の上ではしゃぐ小さい頃の僕。うずくまる僕の周りを無邪気に笑いながら跳ねている。それを見ながら幸せそうに微笑む、父さんと母さん。
 ──なんだよ、なんだってこんなものを見せるんだよ……。ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! 畜生! チクショウ! 畜生! ちくしょうーーーーっ!!