■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [クロード編]


第十一章 輝く明日へ

 台座の上の小さなガラスドームを、ミラージュは見ていた。中には濡れたような青色をしたこぶし大の鉱石が一つ。
「一二・七七一パーセント、か。こんなに含有率の高いレアメタル鉱石は今までに見たことがないよ」
 ガラスのドームは中央に走る筋から左右に割れて、台座の中に消えていった。ミラージュは大きな目をさらに大きく開きながら、未だに信じられないといった様子で顔を上げ、クロードたちのほうを振り向いた。ネーデ科学史に残る快挙を成し遂げたというのに、彼らの顔には誇らしさも満足さも見出すことは出来なかった。異種族とはいえ、『目の前で死んだ知性体』の体なのだから。先程のミラージュの言葉も、相手が人間なら『こんなに美味そうな肉は見たことがないよ』と言っているようなものである。
「しかし、まあ」
 あまり余計なことは考えないようにしながら、ミラージュは研究室の隅に目をやった。高さ一メートル弱のレアメタル鉱石の山。
「よくも、こんなに持ってきたもんだねぇ……」
 予め持っていった袋や無人君二号によって運ばれたそれらは、もともといろいろな機材で一杯の研究室には収まりきらず、隣の居間兼書斎や家の外にまで小さな山脈を作っている。
 感心と呆れが入り混じった表情で、ミラージュは視線をクロードたちに戻した。話によれば、ミーネ洞窟奥部からの帰り道ではバーク人による攻撃はなかったらしい。ボスを失ったせいだろうというのが、同行した動物学者の意見だった。しかし、大量の荷物のせいでたっぷり三時間はかかったという。彼らにそこまでさせたのは、一人のネーデ人の想いだった。疲れ果てた顔の一同の中で一人真摯にミラージュを見つめてくる、青黝あおぐろい髪の少女。
「ミラージュさん、ここに持ってきたものを全部使って、いい武器を作ってください。そのために死んだわけじゃないけど、でもそれが彼の希望のぞみだと思うんです」
 『彼』の欠片を手にとって、少し不安定な声を絞り出す少女の青い瞳を、ミラージュは優しく見つめ返した。この少女が緊張しても、今はしかたがない。
「ああ、もちろんだよ。『ネーデ一の名工』の名に賭けて、最高の武器を作ってやるさ」
 肩に手を置いてやると、触れた瞬間には強張っていた筋肉が徐々に弛んでいくのが分かった。
「ところで、ナールさんはもういないんですか?」
 きょろきょろと辺りを見回すクロード。ミラージュは持っていたレアメタル鉱石を山の中に戻して、武器作製の準備を始めた。先刻分析したデータをもとに、コンピュータに最適な製錬方法を計算させる。
「市長ならファンシティに行ったよ。あんたたちにも来て欲しいと言ってた」
「ファンシティ……?」
「ここから北に行ったところにある街さ。街とは言っても、ほとんど遊園地みたいなところだけどね」
 笑いながら、作業台の下に付いた製錬装置に青色の鉱石をほいほいと放り込む。
 ある鉱石から金属だけを取り出す作業を製錬といい、古い時代には鉱石を高温で溶かして、固まる温度の違いなどを利用して取り出していた。現在では物体を分子レベルで分解する装置があるので、熱い思いをしなくてもよいし、不純物が混じる心配も無い。しかしどんなに便利な装置があっても、もともとの鉱石に含まれる金属の量が少なければ、必要な金属の量に対してその何十倍もの鉱石が必要になる。通常のバーク人のレアメタル含有率は一パーセント以下で、バーク人一人分のレアメタルを取り出すには何百体も倒さなければならない。倒すのにも製錬するにも時間がかかりすぎるし、だいいちバーク人の数はそんなに多くない。
「遊園地、ですか……?」
 クロードは耳を疑った。そんなところに何の用があるのだろうか。しかしミラージュは何やら楽しげな顔でコンピュータを操作していて、答えようとはしなかった。
「ユーエンチ? ユーエンチってな~に?」
 クロードを見上げて首を傾げるプリシスの言葉を、チサトは書き留める。
「あら、エクスペルには遊園地ってないの?」
「ないよ、そんなモノ。ねぇ、クロード、ユーエンチってなに? 楽しいところ?」
 何故か執拗に訊ねる少女を、アシュトンは諌めようと試みた。『兄』として言うべきことは言わねばなるまい。
「こんな時にナールさんが来て欲しいって言うんだから、楽しいってことはないと思うな」
 だが、それはクロードの言葉に重なって、プリシスの耳には届かなかった。
「ま、まあ、楽しいって言えば楽しいところだけど……」
「ホント!? やった~!」
 プリシスはくるりと回って飛び上がり、クロードやレナは何の用だろうかと首を傾げ、アシュトンは白く固まった。

『ファンシティへようこそ!』
 派手な色で飾られた巨大な看板が、クロードたちを出迎えた。黄色とピンクの縦縞模様の壁がファンシティ全体を丸く取り囲み、入場ゲートにはウサギやらネズミやらのマスコットキャラクター像が置かれている。想像に夢膨らませたいところだったが、ゲートには物々しい鉄格子が下りていて誰も居らず、その隙間から閑散とした中の様子が窺えた。
「変だなぁ……。遊園地って言ったら、こう、もっと悲鳴とかが聞こえてくるはずなのに……」
 クロードは巨大なウサギのマスコットを見上げながら、閉ざされたゲートに近づいた。壊そうと思えば壊せるだろうが、そんなことをして何になるだろう。
「悲鳴……? 楽しいところじゃないの?」
 心もち一歩退いたプリシスの姿に、チサトとノエルは口元を綻ばせた。
「違うのよ。なんて言えばいいのかしら……、楽しすぎて叫んじゃう、そんな感じの悲鳴よ。まあ、怖くて叫ぶのもあるんだけど」
 楽しいのと怖いのとどっちなんだろう、とプリシスはわけが分からなくなった。チサトはそれ以上の説明をせず、胸ポケットから情報端末を取り出してファンシティについて調べた。
「え~っと……『ファンシティは設備調整のため本日休園』?」
「お休みなんですの?」
「街がお休みって……どういうことかしら?」
 得体の知れない場所について、エクスペル出身者たちは揃って首を傾げた。
「ファンシティが休みとは珍しいですね……。たしか年中無休のはずなのに。ナールさんに呼ばれたこととなにか関係があるのかな」
 ノエルが呟くと、ファンシティの中から声があがった。
「その通りです」
 見ると、鉄格子の向こう側にナール市長が立っていた。市長がノエルたちからは見えないところにいる誰かに合図を送ると、ゲートを塞いでいた鉄格子が光の粒になり弾けるような音を立てて消えた。
「わぁっ!?」
「きゃっ!」
 思わず目を覆ったエクスペル人たちだったが、恐る恐る目を開くと既にクロードとチサトとノエルはゲートの中に入っていた。
「なに? 今の……」
 怯えるように言うレオンを見て、ナールは説明した。
「これはホログラムといいましてな。まあ、本物そっくりに映像を投影するものです。ですから、ぱっと現れたりぱっと消えたりします。みなさんも、フィーナルで宇宙の様子をご覧になったでしょう? あれと同じようなものです。とにかくお入りください。いろいろお話することがありますから」
 未開惑星の人々を残して、ナールたちはすたすたと奥へ進んでいった。

 案内されたのは、ファンシティ西地区にある闘技場だった。ラクールの闘技場と同じように、円形のバトルフィールドとそれを見下ろすように無数の観客席がある。クロードは少し時を遡ったような錯覚に襲われた。レナと喧嘩して、ディアスと戦ったあの日。
「まずはこれをご覧下さい」
 ナール市長が秘書官に合図し、秘書官は持っていたコントロール装置を操作した。すると、クロードたちの目の前に見覚えのある大男が現れた。身の丈ほどもある大剣を持ち、上半身は裸で鍛え上げられた筋肉を纏う銀髪の男。
「十賢者!?」
 エクスペル人たちは一斉に武器を構えた。フィーナルで大敗したとき、クロードやマリアナの剣を全く受け付けなかった、十賢者が一人ザフィケル。マリアナが一人残って引き受けたはずの敵が、ついにここまでやってきたというのだろうか!
 しかし、目の前のザフィケルは動かなかった。勇ましい銀色の眉を吊り上げ、きっとレナたちを睨みつけてはいるが、それだけで何をしようという気配も感じられない。
「それもホログラムだよ」
 クロードが苦笑しながら言ったが、レナたちは完全には信じられず、構えを解くことが出来なかった。
「これはフィーナル進攻時に集めたデータから作った、十賢者ザフィケルのホログラムです。少しですが戦闘パターンのデータも入っており、言わば練習用のホログラムなのです」
「つまり、これで特訓しろというわけですね」
 クロードが言うとナールは頷いた。
「しかしまあ、よく出来ているわね~」
 チサトはホログラムにペタペタと触りながら、写真を撮っている。それがエクスペル人たちに安心感を与え、ようやく彼らは緊張を解いた。
「こんな動かないお人形さんで役に立つんですの?」
 セリーヌは疑わしそうに市長とザフィケルを交互に見る。
「いえ、ちゃんと動きますよ。ただ、調整がまだ終わっていないので動かすのは危険なんです。明日には終わると思うのですが……」
「まだ使えないってことですか?」
「はい」
 レナに、市長は頷いた。
「まあそれは今は置いておくとして、今後の予定などお話しましょう」
 市長は秘書官からコントロール装置を受け取って、ザフィケルを消去した。代わりに椅子が四つついた四角いテーブルを二組出す。
「お座りください」
 何の前触れもなく現れた木製の椅子に、クロードやチサトたちはさも当然のように座って市長の話を待ったが、やはりというべきか、レナやセリーヌたちは戸惑っていた。市長は無理に勧めるのはやめて、話を始めた。
「ミラージュ博士が武器を完成させるまでの間、みなさんにはここでホログラムによる特訓を行っていただきます。武器が完成し次第、直ちにフィーナルに赴いていただきますので、少しでも多く、ただし消耗し過ぎないようにお願いします。訓練以外の時間は自由に過ごしてくださって構いませんが、できるだけ早く休んで、体力を補充してください」
「特訓かあ……」
 レオンは期待の眼差しで呟く。何かのために訓練するということをしたことのない少年は、胸を高鳴らせた。
「今日はミーネ洞窟でお疲れになったでしょう。ファンシティホテルに部屋を用意していますので、フィーナル突入の日まで、ご利用ください」
 ふと見上げた空が西の方からじわじわと茜色に染まっていく時間になっていた。

 身も心もさっぱりした気分で、クロードは浴室から出てきた。腰に一枚黄色いタオルケットを巻いて、首にかけた同色のタオルの端を両手で持つ。誰もいない部屋は空調が効いて涼しい。ゆっくりと流れる空気が優しくクロードの肌を撫で、浮気した顔は口笛を吹き始めた。
 『ファンシティホテル』は遊園地ファンシティの敷地内にあって、名前こそ単純だがため息が出るほどに居心地のよい空間だった。だだっ広い部屋にベッドが一つ、テーブルが一つ。天井は高く、この開放感がたまらなく気持ちよい。装飾品は至って普通のもので、きれいに磨かれてはいるものの、特別に目立つわけではなかった。外向きの壁と天井は総ガラス張りで、今はカーテンが下りているが、開ければ満天の星空を眺められるだろう。豪華と言うにはあまりにも何もない部屋だったが、広くて清潔でよく見えるというだけでも快適さが味わえるのである。
「オレンジエード」
 セミダブルのベッドの傍らに置かれた食料合成装置に指示を出すと、まるで何かを転送してきたかのように望みの物が現れる。クロードはオレンジ色の液体の入った冷たいグラスを手にとって、腰に手を当てながらごくごくと飲み干した。体の中から伝わる冷たさに快い刺激を感じながら、空になったコップを合成装置に戻す。すると、グラスは光を放ちながら消えていった。連邦でも日常的な装置である。
 クロードは髪が半分濡れたままで、ベッドに仰向けになった。目を閉じて、思いきり息を吸ってゆっくりと吐く。今だけは、宇宙のことも十賢者のことも家族のことも、レナのことさえ忘れて、こうして寝そべっていたいと思った。連邦の宇宙船でもさほど条件は変わらないはずなのに、どうしてここはこんなに気持ちがいいのだろう……。
 ピピピッ
 来客というのは、大抵の場合において突然発生するものである。クロードはドアチャイムの音を聞きながらもシーツの清潔感をもう少しだけ楽しんで、それから夢見心地で口を開いた。
「どうぞ~」
 入室してきた赤毛の女性新聞記者は、ベッドの上にほぼ全裸状態で転がる金髪の少年を発見した。

 年中無休ではあるが終日営業ではないので、ファンシティも夜中は静かになる。とはいえ、日付が変わる頃までは開園しているから、日が落ちて数時間と経たないこの時刻は普段ならまだ人も多く、アトラクションはライトアップされ、夜だけのイルミネーションショーなども行われている……らしい。
 『あとらくしょん』やら『いるみねーしょん』やら、意味は分からないけど楽しそうなそれらがどんなものなのか、プリシスは月夜に照らされるファンシティを見下ろしながら想像に胸を躍らせていた。明日は休みじゃなくなるのかな、人が一杯来るのかな。そうしたら、少しくらい遊んでもいいよね?
「はぁ~。そしたらゼッタイ、……クロードと一緒に回りたいな~」
 ──なんでクロードの名前言うのをタメラってるの、あたし……。
 なんだかムカついた。クロードのほうがいいに決まってるのに、その名前を口に出そうとしたら、別のヤツが頭の中に割り込んできた。
 ──なにさ、あんな生意気なヤツ……。
 子供っぽくて生意気で、生意気で、生意気で、生意気で……。でも、ギヴァウェイの病院で意識不明のアイツを見ていたときの気持ち、あれは……?
「そんなことないもんっ!」
 プリシスは一人で顔を真っ赤にして叫び、慌てて辺りを見回した。ホテル二階の廊下には誰も……いた。赤毛と金髪の二人組みが、かなり深刻そうな顔をして階段を下りていく。二回の客室は全て外壁に向かってついており、フロアの中央は吹き抜けになっている。向こう側の階段を下りていく二人の様子には、何かワケアリという感じがした。
 ──もしかして、クロードとチサトって……?
 プリシスは懸命に首を振った。下ろした薄い紅茶色の髪が揺れる。
 ──そんなことあるわけないじゃん! だって、だって、……だってクロードはレナのことばっか……。
 何を言ってるんだろう……。でも、それが本当のこと? プリシスは、悔しくなった。素直になれない自分のことが。
「はぁ~っ」
 肩の力を抜いて、プリシスは深くため息をついた。赤と金の二つの頭は、もうすぐロビーを抜けて外へ出て行こうとしている。たぶん、このジケンは自分が心配していることとは関係なさそうだと思ったものの、プリシスは逆に興味を引かれた。見たところ、クロードよりもチサトのほうが悩んだ顔をしているようだ。いつも元気なあの人に何があったんだろう? プリシスは無人君を抱えて大急ぎで二人の後をつけ始めた。

「え~っと……、『かつて、より強力な紋章力を秘めた人間を作るべく、実験が行われた時代があった。だが、その結果として生まれた人間たちは通常のネーデ人達と何ら変わることはなかった』……か」
 ノエルの客室で、レオンは分厚い本の一部分を朗読した。赤い表紙のそれは、ノエルがギヴァウェイから持ってきた幾つかのうちの一つだった。フィーナル撤退後、クロードやチサトが眠っている間に、レオンとノエルはノースシティとギヴァウェイの図書館に行っていた。十賢者について書かれた資料がないか探すためである。
「人間を作るってどういうことだろう……?」
 レオンが首を傾げると、ノエルは手にしていた小型端末をテーブルに置いた。
「たしか、それは惑星ネーデの晩年に行われた人体実験のことじゃなかったかな。そもそも紋章術が使えるかどうかとか、その力の大きさというのは遺伝子で決まるんだ。その配列を変えてより強い力を手に入れようとした人がいたんだよ」
「遺伝子?」
 ノエルは頷いて、別の端末機をテーブルの中央においてスイッチを入れる。ボタンを操作して現れたのは、絡まりあう二つの紐の絵だった。
「そう。分野によってその定義は異なるけれど、ここで言うのは別名『命の設計図』と呼ばれるもののことなんだ。それが、この二本の紐。この中に、体の設計図が入っているんだ。指は何本あるとか、髪の色は何色だとか。そして、紋章術が使えるかどうか、どんな属性の紋章に適しているか、どれだけの紋章力をもっているか、ということもね」
「これに書いてあるの?」
 レオンはテープルに乗り出して端末機の画面を覗いた。
「まあ、『書いてある』というのは正しい言い方じゃないかな。正確には紐を構成する部品の組み合わせで決まるんだけど、説明にはちょっと時間がかかるな。まあとにかく、この目に見えないほど小さい紐が体中にあって、僕たちの体を作っているんだ」
「見えないのかぁ……」
 少しがっかりしたように、レオンは椅子にかけなおした。
「ネーデ人というのは、紋章力を使う上では最高の遺伝子配列をもっているらしい、とこの本にはでている」
 ノエルは白い表紙の本をレオンに見せた。
「それじゃあ、もっと強い人間なんて作れないんじゃないの?」
「うん。そうだね。だから、さっきの本には結局なにも変わらなかったとあるだろう?」
 赤い表紙の本を、ノエルは指差す。
「そっか……。でもさ、十賢者だってネーデ人なんだから、他のネーデ人だって強い紋章術が使えるんじゃないの?」
 ノエルは少年の疑問に言葉を詰まらせた。彼自身も最近になってその点に気付いていた。長い年月のうちにネーデ人の紋章力が低下しているのは事実だったが、古い記録を調べても十賢者ほどの力を持ったネーデ人はどうもいないようであった。三十七億年前にたまたま最強のネーデ人が十人も結集したのか、それとも強力な一人の下に他の九人が集まっただけのか。どちらにせよ、自分たちの十億倍近くの人間を恐怖のどん底に叩き落した彼らの力は、並大抵のものではなかったはずである。どうして彼らだけが同じネーデ人の中で突出した能力を持っていたのだろうか。
 急に深刻な顔つきになった動物学者の顔をレオンが覗き込んだとき、ドアをノックする音が聞こえた。チャイムでなくノックしたということは、クロードやチサトではないだろう。
 部屋の主が考え込んで動かないので、レオンは椅子から下りてドアの前に行き、傍に埋め込まれたパネルを操作した。勝手にノブが回って、ドアは内側に開く。
「あら、レオンじゃありませんの」
 入ってきたのは、三角帽子のないセリーヌだった。
「こんなところでなにをしてるんですの?」
「なにって……、ちょっと調べ物をしてるんだよ」
 セリーヌは奥のテーブルに目をやった。分厚い本が山積みになっている。そうして、その視線に呼応するかのように、ノエルが頭を上げた。
「ああ、セリーヌさん。なにかご用ですか?」
「用と言うほどでもないんですけれど、クロードとプリシスがどこにいるか知りませんこと?」
 動物学博士と紋章学博士は同時に首を振り、セリーヌは残念そうに肩を落とした。
「おかしいですわねぇ……。せっかく夜食を作りましたのに……」
「……セリーヌさんが?」
 レオンはぎょっとした。まあ見た目は綺麗だけれど、どう考えてもこの女性にまともな味の料理ができるはずがない、と思っていた。実際に食べたことがあるわけでもないのに随分と失礼な考えだが、共に旅をしていると何となく分かるのである。
 だがこのとき、セリーヌはレオンの表情には気付かなかった。
「ええ、まあ、アシュトンと一緒に、ですけれど」
「ああ、アシュトンお兄ちゃんとか……」
 レオンはほっと胸を撫で下ろし、同時に期待した。この間初めて飲んだアシュトンのスープは絶品だった。『仕事』の都合上、レオンは王宮で食事することも多かったが、きっと城のシェフよりもいい腕をしているに違いなかった。なんとなく頼りない感じがしていたが、剣の腕も料理の腕も一流なアシュトンのことを、レオンは見直すようになった。
「とにかく、お二人の分を運びますわね」
 セリーヌが廊下の奥に向かって手招きをすると、まもなくエプロン姿のアシュトンが現れた。そういえば、なぜセリーヌさんはエプロンをしていないのだろう? レオンは不思議に思った。

 明かりを消した部屋で、椅子を窓際に移動させて、レナは夜空を見上げていた。エナジーネーデの星空は、惑星ネーデ時代の記録を元に再現して投影されているのだという。だからきっと、三十七億年前も七億年前も、今と同じ星座が見えていたんだろう。
 服の中から出されたペンダントが月の光に照らされて、淡い光を放っていた。

 ギヴァウェイの夜は一段と冷える。大学構内は暖房が効いているが、窓から見える月夜の銀世界は少しばかり肌寒さを感じさせた。暗い廊下に敷かれたワインレッドの絨毯の上を、二つの影が歩いている。
 クロードとチサトは、新聞社用のサイナードでギヴァウェイにやって来た。そしてセキュリティのかかった大学のゲートを堂々と潜り抜け、いま二階の廊下を西へ向かっていた。目指すはネーデ歴史研究室。廊下の突き当たりにある、レイファス教授の部屋だ。チサトのほうが半歩だけ早く、二人とも口元を引き締めて、クロードは何度も生唾を飲み込んだ。
『ネーデ歴史研究室』
 少しだけ開いたドアから漏れる光が、薄汚れた表札を照らしていた。中からは、コンピュータを操作する音が聞こえる。レイファス教授が、何かをしているのだろう。二人は顔を見合わせ同時に頷くと、半開きのドアを勢いよく開いた。
 急に目の前が明るくなって、二人は思わず目を覆い隠した。

 雪の降り積もる街の中を、少女と丸い物体が駆け抜けていく。
 ──もう~、二人ともどこ行ったのさ~っ!
 無人君二号と言えどもサイナードには追いつけないのでプリシスは野性サイナードに乗って来たが、見つからないように距離をとったのですっかり二人を見失ってしまった。一体こんな寒い街に何の用があるのだろう。
 手をこすり合わせながら、プリシスは震える体であてもなく走りつづけた。

 研究室にいたのは、レイファス教授を含む三人の男性だった。全員年齢も似通ったもので一人はクロードたちがよく知る人だった。半分禿げ上がった頭で、紫色のローブを纏った、エナジーネーデの統治者。
「おじ様……!?」
 チサトは胸のど真ん中に太い槍を突き刺されたような衝撃を覚えた。なぜ、この人がここに……?
「チサトか……。それにクロードさんも……」
 怒っているのか何なのか、険しい表情のナール市長に、クロードは冷や汗を流しながら一礼した。
「丁度いい、と言うべきですかな」
 椅子に座ってコンピュータを操作していた教授が振り向き、他の二人の顔を見た。やや太ったもう一人の男が低い声を発する。
「まあ、変に探られるよりはいいかもしれません」
 市長は無言で頷くと、コンピュータに向かって口を開いた。
「アクセスコード、三二四八-九九七六-二一六八-九九三四-BZQF」
『……アクセスコードを確認、ネーデ国防省機密ファイルへのアクセスが承認されました』
 コンピュータが淡白に喋ると、教授の前の小さなディスプレイには夥しい量の文字が流れ始めた。
「おじ様……、これはどういうことなの……?」
 胸の前で作った拳を握り締めながら、チサトは声を絞り出した。市長は冷静に赤毛の新聞記者を見下ろし、ゆっくりと話しはじめた。
「紋章兵器研究所でアクセスコードを手に入れ、データディスクを引き出すまでの過程で、私はどうにも不可解な現象を発見した。何者かが懸命に研究所のデータベースへアクセスしていたのだ。本来、紋章兵器研究所への外部からのアクセスはできないことになっている。情報を見たければ封印の扉を潜って、直にアクセスするしかない。不審に思った私は、セントラルシティに戻ってから市長の権限において研究所へのアクセスを監視した。そうして、この部屋にたどり着いた」
 市長は教授のほうを見た。理解不能な文字列の流れを眺めつつ、レイファス教授は語った。
「私は驚いたよ。なにしろ市長がいらしたのだからね。バレるはずがないと思っていたが、市長はすぐに不正アクセスの話を始めた。どうせ研究者生命は終わりだと自暴自棄になった私は、十賢者たちの話をしたのさ。決してやましいことをしていたのではないと訴えたかったのかもしれん」
 チサトはただただ聞いていた。
「それで、私はふと思い出した。ギヴァウェイからチサト、お前が通信してきた夜のことをな。私がお前の立場だったら、あんな顔をしたんだろうと思ったのだ。まあそれは置いておくとして、ともかく、私は法の如何によらず、この重大な発見を埋め戻すわけにはいかないと思った」
「とりあえず私はそれで安心することにしたのだが、そう思ったのも束の間、今度は学長が割り込んできた」
 レイファスは緊張感のない声で笑った。太った男が話を継ぐ。
「私は市長の場合とは逆に、レイファスの研究室から正体不明の相手に通信が行われていることを探知した。実はもう何日も前から分かっていたのだが、今日こそは、と思って踏み込んだらなんとそこに市長がいらしたというわけだ」
 三人の男たちは、低い声で和やかに笑った。その様子はやや不気味だった。チサトは混乱しているようで、目を見開いたまま瞬きさえほとんどしない。クロードは事態を整理しようとする。
「それで、今からなにが起きるんですか?」
「なに、例の情報の続きを見ようというわけだ。密かに研究を続けてきた私と、最高レベルのアクセス権を持つ市長と、代々伝えられた復号器デコーダを持つ学長、この三人が揃って初めて真実が明らかになるのだよ」
 レイファス教授は得意げにコンピュータパネルを叩いた。画面が真っ黒になり、中央に幾つかの単語が表示される。
『ネーデ国防省データベースへようこそ。ご覧になりたい資料の番号を入力してください』
 妙に明るい女性の声で、コンピュータは喋った。
「お、今度はうまくいったぞ。学長から貸していただいたデコーダのおかげで暗号が解けた」
 教授の声も、コンピュータに負けないくらい明るい調子だった。市長は冷静に画面を見詰める。
「一番は企画立案書、二番は研究報告書、三番は始末書で四番が事後報告、か……。一番と二番は既に見たものだな」
「では三番から見ますか」
 市長は頷いて、まだ若干困惑気味のクロードたちのほうを向いた。クロードはその意味を汲み取って、ディスプレイに近づこうとした。しかし、チサトが顔面蒼白のまま微動だにしないのを見捨ててはおけなかった。真正面から両の肩を掴んで、名前を呼びながら揺り動かす。
「チサトさん! しっかりしてください! 今見なきゃダメですよ! 記事にして、みんなに知らせるんでしょう!?」

 ──「クロード君、私、決めたわ」
 クロードの部屋にやってきたチサトは、告げた。
 ──「なにをですか?」
 ──「十賢者のこと、私、やっぱり記事にする」
 ──「そうですか……」
 ──「でもその前に、教授のところに行っておきたいの。彼が賛成するか反対するか分からないけど、真実を伝えるのが私の使命だから」
 ──「分かりました。僕も行きます」
 ──「ありがとう。……でも、ちゃんと着るもの着てよね」
 隠しきれない不安が残っているのを、クロードは彼女の瞳に見ていた……。

 ザフィケルの大剣は大地を割り、空を切り裂いた。なんとか剣で衝撃波を受け止めたが、剣は折れてしまい、クロードは吹き飛ばされたまま闘技場の壁に勢いよく頭をぶつける。
「反応が遅いよ! もっと敵をよく見て!」
 スポーツドリンクを飲みながら、アシュトンが声を張り上げる。ザフィケルとの一対一の練習を、彼はクロードより先に済ませていた。レナは攻撃を受けたクロードにちょっと目を向けただけで、汗を流すアシュトンの額を拭いた。
「アシュトンのほうがよっぽど強いですわよ~!」
 紅い宝石のついた杖を磨きながら、セリーヌが野次を飛ばした。
 誰もクロードのことを心配しないのは、この闘技場にはラクールの闘技場とは違って安全装置があるからである。クロードがぶつかった壁は、ぶつかる直前までは鋼のごとき強靭さを誇っていたが、ぶつかる瞬間にスポンジのように柔らかくなって衝撃を吸収したのだ。闘技場全体がホログラムでできているからこそ成せる技である。ちなみに、ホロ・ザフィケルが叩き割った地面もすっかり元に戻っている。
 それにしても、もう少し心配してくれてもいいんじゃないか、とクロードは思った。ホログラムと分かっていても、地球の人間だってもっと悲しそうな顔をするものだ。第一、練習に緊張感がない。セリーヌは自分の番が来るのを楽しみにしているし、レオンは観客席で本を読みふけっているし、プリシスはその横でぐーすか眠っている。プリシスは、昨晩レイファス研究室から出てきたクロードたちに、大学の廊下で眠っているところを発見された。
 エクスペル人は思っていたよりも呑気なのだろうか……。しかしレナも全然心配してくれないのは少しショックだった。でも、項垂れているクロードの顔を見てくすくすと笑っているようなので、たぶんそれは昨日チサトと二人で抜け出したことに関係あるのだろう。
 剣を突いて立ち上がりながら、クロードは客席最上段にある時計を見た。まもなく正午。ネーデ新聞社が号外を発行し、ネーデ市長が全ネーデ人に向けて重大発表を行う時刻だ。そのことを知っているのは、今この場に自分しかいなかった。その後どうなるのか考える余裕のないまま、ホロ・ザフィケルはクロードが立ち上がったのに反応して土を蹴った。
 反射的に受け止めた剣は空中に弾き飛ばされ、大剣の先がクロードの鼻をかすめる。ここで身を屈めてバーストナックルを放つこともできるが、十賢者に素手の攻撃は通じない。クロードはザフィケルの第二撃をわざと待ってからかわし、敵に隙のあるうちに剣が落ちたほうへ走った。だがザフィケルの足は速く、巨大な鉄の塊を持ったまま猛スピードでクロードに接近してクロードを叩き割ろうと剣を振りかぶる。
 地面から噴煙が巻き起こり、一瞬周囲からは二人の姿が見えなくなった。クロードは攻撃をジャンプで避けながら着地点で剣を拾い、性懲りもなく追いかけてくる大男の腹に、前方下部から剣を突き出した。立ち上がろうとするクロードと突進するザフィケルの勢いが合わさって、十賢者特有の防御シールドを貫いた。雷鳴のように鼓膜を揺るがす音が弾け、クロードの剣はザフィケルの胴体を貫通した。ホロ・ザフィケルは一瞬苦痛を顔に出して、ぱっと消えてしまった。
「やるじゃありませんの、クロード」
 セリーヌは立ち上がって白く輝く杖を振り上げた。クロードは頭をかきながら、レナのほうをそっと見上げる。彼女は、微笑んでいた。
「さ、次はわたくしの番ですわよ」
 杖をぶんぶん振り回しながら、やる気満々でセリーヌは客席から降りた。新しいホロ・ザフィケルが挑発するような目付きで現れ、剣を後ろに振りかぶって地面を蹴った。セリーヌはほとんど一瞬のうちに詠唱を済ませ、素早く呪紋を放った。小さな稲妻がセリーヌのほぼ正面に落ち、その時セリーヌはザフィケルの軌道から外れた場所に移動していた。砂が舞い上がり目くらましを食らったザフィケルは半瞬だが躊躇した。その僅かな時間でセリーヌは次の詠唱を済ませる。
「イラプション!」
 杖の先から火炎が吹きだし、瞬く間にザフィケルの周囲を覆い尽くした。高い火炎壁の中にザフィケルのシルエットだけが見える。だが急に、その影は消えてしまった。慌てて周囲に視線を走らせるセリーヌの目に入ったのは、燃えさかる火炎の中から現れた紫ローブの男の姿だった。同時に、場内に正午を知らせる鐘が響く。半分特訓を楽しんでいたようなレナたちの顔に、言い知れぬ不安と緊張の色が現れていた。クロードは一つ深呼吸をして、目を閉じた。
『エナジーネーデのみなさん、市長のナールです。今日はみなさんに大切なお話が……』
 全エナジーネーデのありとあらゆる映像受信装置が、強制的に市長の強張った顔を映しはじめた。

 ……その前の晩、レイファス研究室で明らかになったのは、いくつかの衝撃的な事実だった。しかしたった一つの古いファイルを見ただけで、三十七億年に渡って語り継がれてきたことをあっさりと否定しうるものではない。それでも、その場にいた五人はそれこそが真実であると直感したのである。

【始末書 ファイル1】
 ランティス博士が、突然、研究所内の全ての防衛機構を作動させ、研究所の内部を完全に閉鎖してしまった。どうやら、情報収集用素体『サディケル』『カマエル』の実験中にテロの事実を知ってしまった模様。研究所に立てこもり、十賢者の素体に何やら改良を加えているようである。軍の許可が下りしだい、研究所内に突入し、ランティス博士の身柄を拘束することになるであろう。

 ……チサトが指摘したように、十賢者に関する記録はどれも一様で、ともそればおとぎ話のようであった。遠い遠い、誰も知らない昔の話。ほとんど悠久ともいえる平和な時の中で、十賢者の物語が『有名なお話の一つ』程度にしか認識されなくなっていても、誰も不思議にも思わなかっただろう。もし、エナジーネーデが災害や重犯罪の多発する場所であれば、十賢者への恐怖感は代々受け継がれていったに違いない。そして、十賢者の物語に深刻な疑問を持つ者は、もっと早い時期に生まれていたかもしれなかった。

【始末書 ファイル2】
 研究所内部から姿を表した十賢者達が、周辺の施設に対し無差別に攻撃を開始し始めた。どうやらランティス博士が、彼らの最終目的を『辺境惑星の管理』から『全宇宙の破壊』に書き換えたようである。研究所内部に突入した、機動部隊一個中隊は壊滅。暴走を繰り返す十賢者達を破壊するために、惑星ネーデ駐留軍の出動を要請する。

 ……小さな疑問であれば、無意識のうちに脳裏に浮かんでいたかもしれない。しかし絶対的な安全のもとで、そのような無用の心配は意識と化す前に消し去られていたのだろう。

【始末書 ファイル3】
 激戦の末、十賢者達を研究所内部に追い込むことに成功。その後、研究所内部に突入するも、内部はもぬけの殻であった。どうやら博士は、十賢者達をエタニティースペースで囲い、宇宙空間に放った模様である。十賢者達を完全に破壊することは出来なかったが、エタニティースペースを解除する方法は、外部から解除用パスワードを打ち込む以外に存在しないので、さほど問題にはならないだろう。十賢者達は、このまま永遠に、宇宙空間をさまようことになる。

 ……これらのファイルを最初に見た五人が、とくにネーデ人である四人が頭の中ですんなり理解しえたのは、十賢者再来以来心の奥底で渦巻いていた疑問に明確な答えが与えられたからであろう。

【事後報告 ファイル1】
 研究所内で自殺していた人物が間違いなくランティス博士であることが確認された。ようやくこれで、事件は解決を迎えたことになる。ただ、研究所内のコンピューターにランティス博士とその娘であるフィリア嬢の思考ルーチンの残骸が残っていたことが気にかかる。もしやランティス博士は、自らの意識をプログラムと化して、未完成であったガブリエルに組み込んだのではないだろうか。

 ……他の四人のように、感情面ではどうあれ、頭の中ですんなり理解するネーデ人が何人いるだろうか。クロードはそれが不安だった。感情的に受け入れたくない人々が爆発して暴徒と化すのではないか、あるいは理解の範囲を超えてパニックを起こすのではないか……。

【事後報告 ファイル2】
 この十賢者計画による一連の事件によって全惑星ネーデ軍の八割が壊滅的な打撃を受けるに至った。この時を見計らったかのように、辺境の惑星が一斉に蜂起を開始。次第に、これらの反乱軍を抑圧することが困難になっていった。この事態を重くみた惑星ネーデの最高評議会は、全人口を人工惑星に移住させることを決定した。

 ……惑星ネーデが周辺惑星を武力支配のもとに置いていたこと、周辺惑星の反感を買うような統治を行っていたこと、十賢者たちが周辺惑星制圧のために作られたものであること、偉人とされてきたランティス博士が実は十賢者の製作者であったこと。この中に、伝承に一致する事柄はなかった。

【事後報告 ファイル3】
 人工惑星は『エナジーネーデ』と名付けられ、その周囲をクラス九の超エネルギー体で覆うことになった。これにより、ネーデ本星への反乱軍の進行は食い止められることであろう。しかしこのことにより、我々ネーデ人は今後一切、外界との干渉を断つことにもなる。我々のエナジーネーデへの移住と同時に、この一連の事件に情報規制が敷かれることが決定した。十賢者防衛計画に関係する全ての事実は、歴史上に存在しなかったことになるであろう。

 人気がないのは、朝早いせいだろうか。大小の石が敷き詰められた中央広場を、クロードはゆっくりと歩いていた。涼しい風と太陽の光が心地よい。ホテル『ブランディワイン』への階段を左手に見ながら円形ベンチの傍を通り過ぎ、シティホール前広場へと上って眼前にそびえ立つシティホールを見上げた。上りゆく太陽の光が外壁を西から東へと移動していき、窓に差し掛かるたびに眩い光を放つ。透き通った空にはいくつもの白い雲が流れて、クロードはその光景にしばし見とれた。
 昨日正午の重大発表の後、エナジーネーデの人々はそれまでの活力を失ったように見えた。その話が事実であるということを保証するものは何もないのに、もちろん小さな子供は除くとして、ほとんど全員が落胆したのか、恐怖に打ち震えたのか、それとも何か別の感情に支配されたのか、やはり今朝のセントラルシティが静かなのはそのせいなのかもしれない。
「クロードさん」
 はっと我に返って振り向くと、紫色のローブを着た初老の男性が中央広場からの階段を上ってくるところだった。若干顔色に艶がないように思われたが、無理のない笑顔で、ナール市長は片手を挙げた。お互いに朝の挨拶を交わすと、市長はクロードの隣に並んで朝日に輝くシティホールを見つめた。在任八年、それ以前からもそこは彼の職場であり、生きがいの場所だった。
 この日、シティホールを見上げた両者の心中にあるものは全く異なる感情であった。クロードは初めてこの街にきた日のことを思い出し、十賢者との再戦を改めて心に誓った。その正体が何であれ、このエナジーネーデと全宇宙を脅かし、クロードの大切な人を奪った奴等を放っておくことはできなかった。自分もなかなかどうして大それたことを考えるようになったものだと思いながら、クロードはそんな自分が少し嬉しかった。
 対してナール市長がシティホールを見上げる目には、まるで旧き友と語らうような懐かしさと優しさがあった。エナジーネーデで最も多忙な彼は昨晩の時点で既にこの人工惑星のたどる道を知っていたが、それを今クロードに語ることはできなかった。彼らには迷うことなく全力で十賢者と戦い、そして勝って宇宙を救ってもらわなければならない。全てはネーデ人の強欲さのせいだったというのに何とも情けないことではあったが、それが残された唯一の道であるからにはできうる限りのサポートをし尽くさねばならなかった。

 アームロックの朝も、今日は静かだった。起き抜けの髪を後ろでまとめながらも、ミラージュは夢の中にいるような錯覚を覚えた。いつもなら裏手の同業者が槌を打ち始めているはずなのに、今日は小鳥のさえずりだけしか聞こえなかったのだ。自作の天吊りベッドから鉄パイプの梯子を伝って研究室の床に降り、食料合成装置にいつもの朝食を注文する。あっさり厚切り食パン、完熟目玉焼きにレタスのサラダ。それぞれ別の皿に盛られたものをパンに挟んで喰らいつく。
 ──ん? 今日の卵には甘味が足りないな。プログラムを変更しておくか。
 などと考えつつフルーツ牛乳を飲み干す。その頃になってようやくいつもの槌の音が聞こえ出して、ミラージュはニッと笑った。自分も、気合を入れなければ。

「はっ、はっ、はっ、はあっ!」
 右の剣で一文字に斬り、左の剣を縦に振り下ろす。跳躍しながら左の剣を斬り上げ、着地の反動で右の剣を真正面に突く。静寂した闘技場の中で、引き締まった声と足が砂を蹴る音だけが響いた。アシュトンは額に滲んだ汗を拭いて息を吐き出す。二匹の龍が、まあまあだったと珍しく誉めた。
「朝から精が出ますわね」
 観客席最上段から、聞き慣れた声が城内に木霊した。もうどれくらいになるだろうか、彼女と出会ってから。そしてクロードたちに出会ってから。剣以外のことにはまるで自信のなかった自分が、今こうして故郷の星を離れ、全ての生きとし生けるものために戦おうとしている。もちろん自分一人ではない。クロード、レナ、セリーヌ、プリシス……。強い絆で結ばれた仲間たちと、恨めしくも憎めない双頭の龍。必ず生きて、またみんなで笑おう。
 朝日を背にセリーヌはヒールの音を響かせながら杖を振り上げて、武舞台への階段を駆け下りた。目をかっと開いて、口では呪紋を詠唱する。気迫を感じて、アシュトンは剣を構える。セリーヌは階段を蹴って空中に舞い上がり、自分の影をアシュトンに落としながら杖を振り下ろした。
「イラプション!」
 杖の先が燃え上がり、炎はアシュトン目掛けて急降下する。アシュトンは両手の剣を体の右側に構え、それを高速で振って真正面でかち合わせた。剣と剣が高い音を立てると同時に剣先から竜巻が起こった。紋章剣術ハリケーンスラッシュの応用によって風の紋章術が発動し、瞬く間にセリーヌの炎をかき消す。そして背後に着地したセリーヌに振り返ったとき、すでに彼女の第二撃が放たれていた。構える余裕はなく、しかしアシュトンは恐れなかった。ギョロの火炎が呪紋を打ち消し、ウルルンの吹雪がセリーヌの杖を氷付けにした。
 ずっしり重くなった杖をぎょっとしながら見つめると、セリーヌは緊張した息を吐き出して、アシュトンに向かって笑った。

 エナジーネーデに移住して以来三十七億年の間、ネーデ人は進化しないと言われてきた。それはほぼ事実であり、その期間に同一星系内でエクスペルという惑星が誕生して文明社会が生まれていることを考えれば、長期間に渡る『無進化』は奇跡でもあった。しかし、それだけの長い時間を生きてきたことに何の意味があったのだろうか。ただひたすらに殻に閉じこもり、作られた平和をさも当然のように受け入れ、何の疑問も持たず過去の検証を怠った。その結果として、蘇った十賢者たちにネーデの力を与え全宇宙を破滅に導こうとしている。もちろん、これまでの歴史やその中で生きてきた人々を否定するのではない。ただ、ネーデ人という種族が自らの過ちを償わないままのんびりと生きてきた結果、再び他の種族に危機をもたらしているのは事実である。これではまるで、悪性の病気が再発したかのようであり、結局ネーデ人というのは害にしかならないと思われてもしかたがなかった。
「進化しない生物……か」
 不意に耳に入った言葉に、レオンは頭を上げた。ノエルの視線は、窓からノースシティの町並みを見下ろしている。
「なにか言った?」
 ノエルはレオンの声によって初めて自分が何かを口に出したことに気付いて、慌てるふうに否定した。
「いや、なんでもないんだ」
 ノースシティ図書館『エンサイクロペディア』は、外観は五、六階建ての円柱のような建物で、内部は二階建てになっている。蔵書数はさほど多くないが、その代わりに膨大な量の情報を蓄積したコンピュータによって書物の全文を閲覧することができる。朝、プリシスがどうしても図書館に行くのだと言い、研究のためによくここを利用していたノエルを引っ張ってきたのである。レオンは求められたわけでもないのに平然とくっついていき、それについてプリシスは何も言わなかった。どうやら、昨日公開された惑星ネーデ末期の機密文書に関係あるらしいのだが、具体的なことはヒミツなのだと言って話さなかった。
「あった、あった、コレだよ、コレ!」
 静寂たるべき図書館の中で、飛び抜けて高い声が響いた。

 ホロ・ザフィケルを相手にアシュトンとセリーヌが特訓を開始してから、一時間ほどが経過していた。レナは観客席の最前列で二人を応援する。
「アシュトン、そこよ! セリーヌさん、後ろ!」
 あまりレナらしくないのは、大声を上げて腕をぶんぶん振り回していることだろうか。朝っぱらから、二人の勇者に熱狂的なまでの声援を送り、額に汗を滲ませている。応援しているだけなのに、レナのほうが先に疲れてしまうのではないかと思われた。
「頑張ってるわね、レナちゃん」
 はっと振り向いた瞬間、眼前のカメラのシャッターが下りた。カメラの陰から鮮烈な赤毛を戴いた顔があらわれ、Vサインを作って見せる。
「きょとんとする美少女の顔、いただきね」
「チ、チサトさん……」
 びっくりした自分を落ち着かせるように息を吐く。
「なんしてるんですか、こんなところで」
「あ~ら、その言い方はないんじゃないの? あたしだってみんなと一緒に戦うんだから。特訓に来たに決まってるでしょ。昨日は参加できなかったし。ま、休憩時間にはオシゴトのほうもやらせていただいちゃうけどね」
 そう言って、チサトは『十賢者と戦う勇者たち』の図をカメラに収めた。
 でも、本当はまだ辛いんだろうな、とレナは心の中で思った。幻──ホログラム──とはいえ、目の前にいるのは親友の仇のはず。そして、昨日の市長の発表にもチサトは大きく関わっているとクロードから聞いている。あの放送があった後のネーデ人たちは一様にショックを受けたように見えた。翌日の開園のために準備していたファンシティの従業員やホテルの従業員たちも少し疲れているようだった。 チサトさんだって同じはずなのに、この人はあくまでも明るく振舞おうとしている。
「アシュト~ン! このままだとヘンテコな写真しか残らないわよ!」
 いま手を差しのべることは、正しくないかもしれない。それに、差しのべてみても、自分には言えることがないような気がした。この人は弱いところを見せるのが嫌いだから、私自身のことに話題を変えてくるかもしれない。目に見えて落ち込んでいるのならともかく、自力で立ち直ろうとしているのなら、自分もそれを応援してあげなければいけないと思った。
 どんなときでも他人を気遣えることがレナの特質であり、その行為が、ときには彼女自身をも支えていた。

 一つ残念なのは、シミュレーションの相手がザフィケルだけであるという点だった。なにしろ、まともに戦闘データを取ることができたのはザフィケル一人だったから。単にホログラムとして投影するだけならガブリエルやルシフェルも使えるのだが、突っ立っていただけでは意味がない。とはいえ、ザフィケルに関するデータさえ非常に限られたものであることも事実だった。
 解読された惑星ネーデ時代のデータベースから十賢者の設計図を探す試みが行われたが、どうしても見つけることはできなかった。どうやら設計図を持っていたのは生みの親であるランティス博士のみで、しかも博士は十賢者たちをエタニティースペースに封印するときに設計図のデータを消し去ってしまったようなのだ。ただし、幸いというべきか、十賢者たちの容姿や特徴などを記した記録が旧ネーデ軍の資料に残っていた。しかし、それを元に戦闘シミュレーションプログラムを組むのは難しく、結局はザフィケル一人を相手にするしかないのだった。
 だが、ザフィケルは強い。持っている大剣の強度や切れ味、筋肉の発達度は正確に測定されているが、軽く剣を振っただけでも物凄い音を立てて空を裂き、大地を割る。力を込めれば、剣が地面に触れた瞬間にその部分の土が破裂するように飛び散る。素早く振り回せば、嵐のような風が巻き起こる。とてもまともに受け止められるものではない。どんなに頑丈な剣で受け止めたとしても、それを持つ腕のほうが耐えられないだろう。うまく受け流したり躱したりして、大きな動作の隙を狙うのが順当だ。初めは俊敏な動きについていくのがやっとで、とても攻撃を繰り出す余裕などなかったが、次第に隙を見つけて剣を振れるようになってきた。慣れてしまえば簡単なことで、敵が大きく振ったときに素早く回り込めれば、高確率で打撃を与えられる。また、高速な連続攻撃の場合は反撃せず守りに徹したほうが効率がよい。
 クロードたちは、少ない時間で、十賢者との戦い方を徹底的に身に染み込ませた。攻撃のタイミング、防御の仕方、紋章術の効果的な用法、新しい技……。もちろん十人の中のたった一人ではあるが、一人でも倒すことができればほかの十賢者をも倒しうるということになる。それに、十賢者たちに与える心理的影響というものもあるだろう。彼らに心があれば、の話であるが。
 剣を大きく振るホロ・ザフィケルに対して、クロードは後方に飛び退る。的を外して睨みつける敵の顔面に、レオンが氷塊をぶち当てる。そうして前方に注意を引き付けておきながら、アシュトンが背中を斬りつける。ホロ・ザフィケルの振り向きざまにノエルが竜巻を起こして体勢を崩し、チサトが流れるような動きで連続打撃を加えて敵の背後に抜けていく。一息つく間もなく改造無人君二号に乗ったプリシスが土中から現れてホロ・ザフィケルを突き上げ、レナとセリーヌが光の呪文を浴びせる。ボロボロになって落下してきたところをクロードが目にも留まらぬ速さで斬り刻み、シミュレーションは終了した。

 その一部始終を、はるか上空から観察している者たちがいた。紅く縁取られた緑色のローブに身を包んだ、年齢的に対照的な二人。一人は十賢者が一人、情報収集用素体『カマエル』。見た目は六十から七十代の老人。白い髪は頭の天辺にはなく、代わりに複数の目が浮かんでいる。額に大きな目を一つ持ち、本来瞳のあるべき部分は金属製の装置で覆い隠されている。もう一人は、同じく情報収集用素体『サディケル』。少年然とした顔立ちと体格で、年齢は十四、五歳というところであろうか。濡れたように輝くライトブルーの髪の間から、エメラルドグリーンの宝玉のようなものがついた白銀色の棒が二本、耳の位置にのぞいている。
「まぁ、随分とご苦労なことだて」
 本来の瞳を覆い隠すようについた装置を通して、カマエルは上空二万メートルの高さからクロードたちを見ていた。彼は、主に映像情報を収集するための素体である。人の目に見える可視光線に限らず、赤外線、紫外線、その他諸々の電磁波を特殊な装置で受信することできるのである。目の部分についた装置を主に使うが、額や手の平についた目もとくに可視光線受像において補助的な役割を担う。一方、サディケルは音声情報など空気の振動による信号を主に収集する。それは左右の耳に取り付けられた装置によって行うが、音の進む速度は遅いので、例えば今回のように二万キロメートルも離れた場所で聞く音は一分近くも前に発せられた音であり、効率が悪い。そこで、左手に持つ音叉型の装置が活躍する。これを用いると、離れた場所の音声をリアルタイムで聞くことができるのである。
 この二体は常に対になって行動し、遠方から観察したり街や建物の中に進入して諜報活動を行うために作られた素体である。そうして集めた情報は情報分析用素体『ラファエル』に送られ、十賢者たちの活動方針を決めるという重要な役割を持つ。ちなみに、カマエルは電磁波、サディケルは音波を使った攻撃を繰り出すことができるが、ザフィケルのような戦闘用素体に比べればその威力は弱い。
「きっと、苦労するのが好きな連中なんだよ」
「ふん。そうかもしれんな」
 つまらなそうに、カマエルは言う。
「さて、そろそろ時間じゃ。戻るとしよう」
 何者よりも速いスピードでフィーナル方面へ飛んでいく二体の人工生命体を見た者は、いなかった。

 この日、カマエルとサディケルが伝えた情報は、ルシフェルにとって何ら恐怖に値するものではなかった。たかがホログラム相手に経験を積んだところで、どうにもなるものではない。それに、連中が相手にしているザフィケルのホログラムが持つデータは実際のザフィケルが発揮できる能力の一部でしかない。しかし、やや気にかかる情報が昨日入ってきている。クロード一行のために反物質武器を作っている女がいるらしいのだ。反物質武器は十賢者の張るシールドを薄紙のように破り、肉体を傷つける。ある程度シールドを強化するのは容易だが、反物質武器を跳ね返すシールドを作るのは難しい。民衆統括用素体『ハニエル』は即刻その女を殺してしまうべきだと主張し、戦術兵器『ミカエル』は「武器と一緒に灰にしてやる」と意気込んだ。ルシフェルはしばらく考えた後、ミカエルの意見を採用した。心の内ではクロードたちに多少のハンディキャップをくれてやるつもりだった。いかに強力な武器とはいえ、攻撃を食らわなければ傷つくこともない。ならばせめて、連中に夢を見させてやろうではないか。この武器があれば何でもできる、という夢を。
 ラファエルの分析を通して送られた情報に一通り目を通すと、ルシフェルはフィーナル最上階へと赴いた。地上十階から、三階分の階段を一つ一つ上っていく。もちろん瞬間移動もできるが、この日は久々に歩いてみたい気分だった。ガブリエルからの呼び出しは最近減っているので、時間があるのだ。
 そろそろ屋上という頃になって、ルシフェルは先客がいることを知った。近づいていくと、その人物はゆっくりと振り返った。その顔が一瞬、ルシフェルには寂しげな少女のものに思えた。だがそれは瞬間的なことで、すぐに先客がガブリエルであることに気付く。しかし、いつもいつも彼を呼びつけていたガブリエルとは違った。
「久しぶりに会えたわね……」
 顔は違えど、ガブリエルの口から発せられた声は明らかに少女のものだった。透き通った声は哀しげで、しかし愛しい。
「それほどでもない。三日さ」
 ルシフェルはそっけなく答えて、フロアの中央へ歩み出た。そこには、直径四メートルの緑色に輝く球体──クォドラティック・スフィアが浮かぶ。その表面には、様々な紋章が掘り込まれた無数の球面状の石版が規則的に滑るように動いている。石版は定められた通りに動き、特定の石版同士が並ぶと新たな石版が一つ生まれる。それを何度も繰り返して、クォドラティック・スフィアの表面全てを石版が覆ったとき、究極の紋章、崩壊紋章は完成する。この紋章が発動すれば、エナジーネーデだけでなく全宇宙が滅ぶ。
「お父様は、どうしてこんなものを……?」
 ガブリエルの姿をした少女、フィリアは完成しつつある崩壊紋章を見上げた。彼女の言う『お父様』とは、他でもない、十賢者の生みの親ランティス博士である。旧ネーデ軍が予想した通り、ランティス博士は完成間近だったガブリエルの頭脳に自分の思考回路と記憶をインプットしていた。しかし、それと同時に死んだはずの一人娘フィリアの記憶もインプットしていたのである。二人がいつも共にいられるように。しかし同じ体の中にあって、その願いは叶えられなかった。一時に思考できる者は一人だけ。ランティス博士か、フィリアか、ガブリエルか。ただし、ガブリエルは未完成であったためにランティス博士の強力な意思によってほとんど封じ込められており、三人の思考の出現比率はランティス、フィリア、ガブリエルの順で7:2:1程度であった。ただし、ランティス博士なのかガブリエルなのか区別のつかないことが多い。
「君の父親は、君がこの世に存在することを知らない。知れば、考えを変えるかもしれないな」
「……あなたから伝えてはもらえないの?」
 少女は、頼りなげに腕を絡めてくる。その体がガブリエルのものでなければ、どれだけ幸せなことだろうか。
「教えようとはした。だが、もう暴走状態は止められない。ひたすら自分の思うがままに行動し、他人の言うことなど聞こうともせず、私の制御コードも受け付けない」
「じゃあ、このままお父様の暴走を止められなければ、宇宙は滅んでしまうの?」
「そういうことだ。だが、止める方法は一つしかない……」
 クォドラティック・スフィアは、新しい石版が生まれるたびに激しく輝く。紋章力の結晶であるクォドラティック・スフィアは、紋章術の威力を増幅する作用を持つ。その力は触媒クォドラティック・キーを用いたとき最大限に発揮され、崩壊紋章を発動すれば確実に全宇宙を飲み込む巨大ブラックホールを生み出す。いかなる者も立ちうつ術を持たず、決して逃げ切れない。何万光年の彼方に住んでいようとも、この紋章が発動した瞬間に生きる意味は失われるのだ。
 フィリアは、腕を解いた。ルシフェルの前に立ち、声を絞り出す。
「私を、殺して」
「なにを言うんだ……?」
 宥めようとするルシフェルの手を、彼女は振り払った。
「お父様の暴走を止めるには、このガブリエルの体を破壊するしかない。そうでしょう? お父様やガブリエルなら反抗するけれど、私なら無防備でいられる。だから、今のうちに……」
 ルシフェルは、興奮するフィリアの両腕を掴んだ。
「そんなことをしたら、君まで失ってしまう。そんなことはできない」
「でも……」
 フィリアの声は、今にも涙を零しそうだった。きっと、計画を知ってからずっと心に抱いていた気持ちなのだろう。ルシフェルは、そっと、彼女を抱きしめた。
「大丈夫。二人で生きる道はある……」
 腕の中で、フィリアは嗚咽を漏らした。そのとき確かに、フィリアはフィリアだったのだ。
「……ルシフェル様」
 ラファエルの声が、二人だけの空間を破壊した。

 『あるゆる生命体は、そのDNA配列に応じた紋章力を持っている。──地球連邦艦隊科学本部I・S・ケニー博士の論文より』

「吼竜破っ!」
 掲げられたクロードの左腕に紋章力が具象化した輝く竜が現れ、咆哮をあげながらホロ・ザフィケルに突進する。竜は敵の肩をがっしりと捕らえて頭から食らいついた。ホロ・ザフィケルは絶叫を上げ、そこでシミュレーションは終了する。
「おっ、やってるねぇ」
 額の汗を拭うクロードの視線の先に、大きな袋を下げた技術者が現れた。なにやら爽快な顔でバトルフィールドの中央に進み出て、どすんと袋を下ろす。クロードの特訓を見ながら観客席で昼食を摂っていたレナたちも集まってきた。
「ミラージュさん、なんですか、これは」
「おいおい、なんですかはないだろう? せっかくあんたたちの武器を作ってきてやったってのに」
 深い海色の髪の武器職人は八人の人間に囲まれながら、地面にしゃがみこんで袋の紐を解いた。
「もう出来たんですか!?」
「いやいや、もう三日も経ってるからね。その間に十賢者たちは計画を進めているだろうよ。さあ、これがあんたの武器だ」
 クロードの前に差し出されたその剣は、醒めるような青色に輝き、内部に紋章を刻んだ色とりどりの宝石が柄の部分を中心にして散りばめられていた。手に取ってみると相容れない物質で出来ているとは思えないほど手に馴染み、鞘から引き抜けば鋭く光る刀身に自分の顔が鮮明に映し出された。そして、何か言い知れぬ力が湧いてくるのを感じる。
「……すごいや」
 どこがどう凄いというのではなく、見た目と握った感触から漏れ出た言葉だった。
「本当に……。こんなに美しい剣は今まで見たことありませんわ」
 セリーヌが素直に感嘆するのは珍しく、それほどに優美さという点において人を圧倒するものがあった。
「それで、名前はなんていうのかしら?」
「名前?」
 ミラージュ博士は大きな目をさらに見開いた。そして期待に満ちた視線を浴びながら、咳払いの後に答えた。
「名前は……、あ~……、セイクリッドティア」
「セイクリッドティア……」
 クロードは命名されたばかりの剣を高く掲げた。陽光を浴びて、眩く輝いた。その様子をチサトが激写する。
「まぁ、それはさておき、残念ながら他のみんなに武器を作る余裕がなかった。で、代わりと言っちゃあなんだが、こんなものを用意してみたのさ」
 セイクリッドティアによって高まった雰囲気を、なぜか阻害するように、ミラージュは袋からペンダントのようなものを複数取り出した。セイクリッドティアと同じ青色の球に複雑な紋章が刻まれ、それに金色の鎖がついている。ミラージュは、それをクロードとレナ以外の一人一人に配った。
「そいつは、え~、……ヴォイドマター、だ。レアメタル百パーセントの珠に守りの紋章を刻んでおいた。それによって、体の周りに薄い反物質フィールドが作られる。平たく言えば十賢者たちのシールドの強化版だな。ただし、武器の回りも覆うから攻撃力も多少上がるだろう」
「こんなちっこいのでぇ?」
 手の平の上で転がしながら、プリシスが信じられないという様子で声をあげた。
「あんたのは一回り大きいんだよ。その……、ナントカ君にも対応できるようにね」
「無人君っ!」
 プリシスは口を尖らせた。
「ま、まあそういうわけだ。で、レナ。あんたにも特別なのを用意したよ」
「えっ……、私?」
 驚くレナの顔を嬉しそうに見ながら、ミラージュは袋の奥に手を突っ込んだ。再び注目を集めながら取り出されたのは、緩衝材に包まれた丸っこいものだった。手渡され、レナが包みを解くと、中からは一段と輝くナックルのようなものが姿を現した。一目でレアメタル製だと分かる青色の本体にクロードのものと同じような宝石が散りばめられ、手の甲に当たる部分には一際大きな紋章が描かれていた。
「そいつはファルンホープ。見た目は武器のようだが、実は紋章力を高め傷を癒す効果があるのさ。そしてもちろん、ヴォイドマター同様に守りの力もある。これはセイクリッドティアも同じだけどね。いざとなったら殴ることもできるし、一石二鳥なわけだね」
 ミラージュは高らかに笑った。
「ファルンホープ……」
 レナはそれを右手にはめた。その瞬間、散りばめられた宝石の中の紋章が光って、彼女は体をびくんと震わせた。セイクリッドティアを握ったときと同様の感覚にレナも襲われているんだな、とクロードは直感した。
「さて……」
 ミラージュは空になった袋を持ち上げると、それを肩にかけた。
「そろそろ行くよ。まだやることがあるからね」
「やること……?」
 博士はクロードの疑問にニッと笑っただけで、片手を振りながら闘技場を後にした。その姿を見送り、手にした武器をじっくりと眺めながら、クロードは礼を言い忘れたことに気が付いた。

「あの女、そのような研究までしておったとは……」
 剛直軍人型のハニエルは唸った。ラファエルが新たに分析した資料をもとに、フィーナルでは十賢者が勢ぞろいして会議が行われていた。しかし会議というのも所詮は名前だけのもの。最終的な決定権は彼らが首領にあり、その判断には誰も異論を挟むことはできないのである。誰の意見も反映されないこともあり、下っ端同士の雑談という趣もあった。それに、勢ぞろいとは言っても全員が同じ場所にいるわけではなく、思念とも言うべき情報を互いにやり取りして、各々の頭の中だけで行われているのだった。
「現代のネーデの民もなかなかやるようですね」
「さすがに経験だけは儂らに勝るようじゃの」
「どうする? 奪うか?」
 ミカエルの息は荒い。
「どうせ後からノコノコとやってくるのなら、その必要はないのでは?」
「しかし、時期がずれるとまずい。手遅れにならないうちに入手しておいたほうがよくはないか」
 しばらくして首領の指示が下り、会議は終了した。

 反物質武器を使った戦闘シミュレーションを一通り終えた後、クロードたちは休息をとっていた。バトルフィールドにピクニックシートを敷いて、食料合成装置からサンドイッチやらアイスクリームやらを取り出してくる。
「それにしても、セイクリッドティアの威力は凄いなあ」
 二つ目のフルーツサンドを手にとりながら、アシュトンはシートの上に置かれた青い剣に目を向けた。シミュレーション中にクロードの放った双破斬はホロ・ザフィケルの腕を切断し、観客席の一部を破壊した。
「本当。見違えるほどでしたわね」
 セリーヌはいついかなるときも純白の手袋を外さない。レオンはキャロットジュースをストローで飲む。
「あれだけの威力があるんだから、ホンモノの十賢者が相手だって負けないよね」
「それはどうかなぁ……。あくまでもホログラムだし」
 クロードは謙遜する。
「もっと自信を持っていいと思うよ。この三日で、君の戦闘技術は飛躍的に向上している。これは確かだ」
「……と、ノエル博士は述べた。マル……っと」
 チサトはメモから顔を上げ、少し考えてから、
「ま、クロード君も凄いけど、私としてはレナの紋章力の強化に視点を置きたいわね」
 これまで、レナは主に回復呪文担当として仲間たちをサポートしてきた。攻撃呪文も使うことはできるのだが、いかんせん威力が弱く、セリーヌやレオンの前に、あまり出番がなかったのである。しかしファルンホープを通してその威力は倍増し、ノエルを追い抜きセリーヌに匹敵するほどの力を持つに至った。
「でも、強くなったのはこれのおかげですから……」
 レナは外したファルンホープに触れる。アシュトンは詰まりかけた卵サンドをオレンジエードで流し込んだ。
「でもね、力のない人が強力な武器を持っても、武器の力に振り回されて結局使いこなせない。ファルンホープがレナの力に応じてちゃんと威力を発揮したのなら、レナにはそれだけの力があるってことだと思うよ」
「へぇ~、アシュトンもたまにはいいことを言うのね」
 チサトはメモをとりながら、何故かセリーヌが睨んでくるのを横目で確認していた。
「そういうものかしら」
 レナは表面に散りばめられた宝石を見た。内部に刻まれた紋章が淡い光を放っている。クロードも、セイクリッドティアに埋め込まれた同様の宝石に目を凝らした。その輝きは剣を握ると強まり、まるでクロードの力を感じとっているようだった。
「はふぇ……?」
 不意に、それまで貪るように食べていたプリシスがチョコクレープを咥えながら観客席を指差した。みなが一斉に緊張のまなざしを向ける。
「あれは……」
 巨大な盾を持ち、鉄仮面を被り、白銀の鎧で身を固めたその人物は、
「メタトロン……?」
 エクスペルで、エルリアタワーの最上階でクロードたちを打ちのめした十賢者が一人、拠点防衛用特殊兵器『メタトロン』だった。誰かがホログラムのスイッチを入れたのだろうか? しかし考える間もなくメタトロンはとてつもなく重たいはずの体をジャンプさせ、空中で一回転してバトルフィールドに降り立った。地面が響き、砂埃が舞う。
「あら、よくできていますのね……」
 そう言うセリーヌの顔には、既に笑うような余裕はなかった。メタトロンは、エクスペルでしかクロードたちの前に現れていない。それがホログラムとして出てくるはずもなく、そうなれば、その正体は明らかだった。クロードは背筋がぞっとするのを感じ、その間にメタトロンは猛スピードで地面をならしながら迫ってきた。
「避けろっ!」
 その一言を発するのがやっとだった。クロードが転がるようにしてピクニックシートから離れたとき、軽食が並べられていたはずの場所は跡形もなく消し去られていた。それでも半信半疑のまま、クロードたちは武器を構える。だが、腰が引けてしまっているのを自分でも感じた。
 本物が、本物の十賢者が、今、目の前に、平和であるべき街のど真ん中に現れたのだ。
「おおっと、メタトロン。そいつらは俺の獲物だぜ」
 闘技場全体に響き渡る声は、憎むべき近接戦闘兵器『ザフィケル』のものだった。何の前触れもなく客席に姿を表し、不敵に笑う。
「分かっている。少し遊んでみただけだ」
 メタトロンは剣を振り、刀身についた土埃を払った。
「だったら、とっととあの女のところへ行けよ」
「そうさせてもらおう」
 メタトロンは一瞬のうちに消え、その場所にザフィケルが降り立った。身の丈ほどもある大剣を片手で振り上げ、クロードたちを見渡す。
「さあ、三日間に渡る特訓の成果と新しい武器の威力、試させてもらうぜ」
「な……なんだと!?」
 クロードは声を張り上げた。
「ふん。おまえたちはこっそりやっていたつもりのようだが、全ては俺たちに筒抜けだったということさ。さぁ、かかって来いよ」
 ザフィケルが手招きするような仕草で挑発したとき、闘技場の外から悲鳴が上がった。恐怖に慄く人々の声。目まぐるしい状況の変化に焦るクロードたちを横目に、ザフィケルは鼻で笑った。
「どうやらアイツが暴れだしたようだな」
「アイツ? アイツって誰だ!」
 叫ぶクロードにザフィケルは肉食獣のような目つきでニヤつくと、剣を両手で構えて突進した。
「知りたきゃ自分で確かめろっ!」
 ホロ・ザフィケルを上回る速度の攻撃を躱し、クロードはセイクリッドティアを引き抜いた。振り返ろうとするザフィケルの顔面にチサトが鋭いパンチを食らわせる。
「マリアナの仇っ!」
 ザフィケルは一瞬よろめいたが、すぐに物凄い剣幕で剣を振り回した。チサトは怒りの表情で、しかし至極冷静にそれを躱した。場外から、さらに悲鳴が上がる。別の十賢者がいるのに違いない。
「こいつとは僕とチサトさんが戦う。みんなは外で暴れてる奴を頼む!」
 ノエル、アシュトン、セリーヌがすぐさま駆け出し、プリシスは少し迷ってから無人君に乗って飛び出した。レナとレオンは残る理由を聞くな、と言う表情をしている。しかし人数的には丁度良い。
 チサトはザフィケルの素早すぎる連続攻撃を躱しつづけたが、足が追いつかなくなって尻餅をついた。そこをすかさず狙われ、横に転がって躱す。その間にクロードが駆け寄って大剣を受け止め、チサトは体勢を立て直して、二人で襲い掛かった。チサトが剣を振りかぶるザフィケルに後ろから足払いをかけ、ふらついた隙にクロードが剣を突き出す。剣先はザフィケルの肉体に、刺さった。十賢者に対する最初のダメージだ。脇腹から鮮血が迸り、ザフィケルは文字通り目の色を変えた。引き抜かれつつあるセイクリッドティアを無理矢理手掴みにし客席に向かって放り投げる。呆気にとられるクロードの横っ腹に大剣の刀身をぶち当て、そのまま空中へと打ち上げた。
 クロードは全身に激痛が走るのを感じた。目の焦点が定まらなくなり、地面から遠ざかっているのか近づいているのかも分からない。急激に吐き気が遅い、目を瞑った。苦しい。
 何かが爆発するような音と共に、クロードは客席に墜落した。

「助けて……」
 アシュトンたちの視界に最初に飛び込んできたのは、表情が固まったままの女性だった。そのままうつ伏せに倒れ、二度と動かない。四人は、いささかもスピードを落とさずに観客席下の通路を駆け抜けた。一人一人に構っている暇はなかった。
「うわあぁぁぁぁっ!」
 声は闘技場の外から聞こえてくる。全速力で駆けつけた先には、死体の大量生産場があった。浮遊し自由に動き回る十賢者が、目と思しき部分から閃光を発する。それに触れた人々が次々に倒れていく。
「ちょっと! あなたの相手はわたくしたちでしてよっ」
 セリーヌが大声で叫ぶと、その十賢者、遠隔射撃兵器『ジョフィエル』はゾンビか何かのように力の抜けた格好で、しかし高速に近寄ってきた。
「ナンダ、ザフィケルカラ逃ゲテキタノカ? 臆病ナ奴ラメ」
 カッと目の奥が光ったのを感じて、四人は飛んで躱した。半瞬前まで立っていた場所に大きな穴が空く。それに対抗するかのようにギョロが炎を吐いたが効き目はなくジョフィエルは両手を天に掲げ、紋章力の塊を撃ち放った。セリーヌは躱しきれず、爆風に吹き飛ばされる。アシュトンは紋章力を帯びた剣で紋章弾を切り裂いて、プリシスはパンチで跳ね返した。しかしジョフィエルは手の先から強力な炎を噴射し、その反動で遥か後方へと逃げた。アシュトンとプリシスが追いかけるとジョフィエルは急に前進して二人の間を低空飛行する。その姿を目で追おうとした瞬間、二人は衝撃波に吹き飛ばされた。
 セリーヌは起き上がりながら、ジョフィエルが上方へ舞い上がり再び紋章弾を放とうとしているのを見て、それを阻止するため杖を天にかざそうとした。ところが右腕が持ち上がらない。見れば右の脇腹から肩にかけての部分が石のように堅くなって動かすことができなくなっていた。血が凍るような思いを味わいながら必死に声をあげようとしたが、既に顎が動かなくなっていた。何もできぬうちに、アシュトンたちに紋章弾が降り注ぐ。もう目を瞑ることもできない。
「ディスペル!」
 混濁と焦燥の中でノエルがかけた呪文は、まるで生き返るような心地をセリーヌに与えた。ほとんど瞬間的に、体が自分のものになる。
「その呪紋は……?」
「体の異状を治す呪文です。さぁ、それよりも早く二人を」
 ノエルはジョフィエルの真下に旋風を起こした。それはたちまち巨大な竜巻となってジョフィエルを巻き込む。ジョフィエルは風に弄ばれながらも手先からのロケット噴射で脱出した。しかしその足を無人君二号が捕らえ、そのまま地面に打ち付けた。起き上がりかけたところでアシュトンが首を踏みつけ腹部をめった刺しにする。反物質フィールドで覆われた剣はいとも簡単にジョフィエルの肉体を貫通した。それだけではジョフィエルは怯まず、アシュトンの足を払い除けて再び空中へ踊り出ようとする。だが片方の足は依然無人君の手の中にあり、勢いをつけて飛び出そうとしたジョフィエルはバランスを崩した。ギョロとウルルンがもう片方の足に食いつき、その根元をアシュトンは切断した。鮮血が飛び散り、ジョフィエルを包んでいた防御シールドが不安定になって不透明になる。
「……オノレ、オノレ、オノレオノレオノレオノレ!」
 不気味な口調でジョフィエルは連呼し、紋章弾を連発した。たちどころに地面に無数の穴ができる。プリシスはヴォイドマターの力で守られた無人君の中で耐え、アシュトンは飛び退いて躱した。ジョフィエルは自分の足を掴んで離さない無人君に攻撃を集中する。
 詠唱を終えたセリーヌが叫ぶ。
「プリシス!」
 爆撃の中で事態を察知したプリシスは、無人君のドリルを回してOKの合図を送った。
 光を蓄積した杖の先に手を添えて、セリーヌは呪文を放つ。その様子を見たジョフィエルは、死に物狂いで無差別に紋章弾を発射した。
「ハナセ、ハナセ、ハナセハナセハナセハナセェェェェッ!」
「エクスプロード!」
 杖の先から細い閃光が飛び、ジョフィエルの腹に刺さる。そこから白く眩いばかりの光点が生じ、それはみるみるうちに巨大化してジョフィエル全体を包んだ。不安定になっていたシールドが崩れ始め、セリーヌの呪文は内側に向かって破裂した。輝く光球の中で、紅く燃えさかる炎は渦を巻いてジョフィエルを食らう。次第に球は小さくなり、何事もなかったかのように消えてなくなった。

 チサトは懸命にザフィケルの攻撃を躱していた。だが、躱しているばかりで反撃ができない。シミュレーションでは幾度となく渾身の一撃を食らわせたというのに、このザフィケルには手も足も出ないのだ。ザフィケル自身のスピードが速いというより、その全身から湧き上がるような気迫がチサトの気を惑わせていた。
「シャドウフレア!」
 暗黒の炎がザフィケルの体に絡まるように襲い、一瞬ザフィケルは硬直した。その隙を逃さずチサトは顔面に肘鉄を入れ、そのままザフィケルを押し倒す。背後に抜けて振り返ったとき、既にザフィケルは立ち上がって剣を振り下ろそうとしていた。信じられぬほどの速さに身をすくめたチサトの前に、傷だらけのクロードが現れザフィケルの大剣を受け止める。
「早く避けて」
 チサトは目を疑いながらもクロードの背後から飛び退る。それを確認してクロードは力を緩めた。ザフィケルは寸分も遅れずに剣を引いて体勢を立て直す。
「なかなか立ち直りが早いな。だが、そんな体じゃ俺には勝てないぜ」
「やってみなけりゃ分からないさ」
 これは百パーセントの虚勢だった。上空へ飛ばされ全身を激しく打ったクロードは駆けつけたレナの回復呪文を受けたものの、なんとか立っているのがやっとだった。チサトを救うために飛び出したが、これ以上はきつい。とはいえ悠長に回復している時間もなかった。
 ザフィケルはチサトの肘鉄で小さく裂けた口元の血を指で拭い、両手で剣を構えた。地面を蹴ってクロードの眼前に迫る。
 レオンが呪紋を唱えた。
「ウーンズ!」
「なに!?」
 その呪紋はザフィケルの影から悪魔を召喚し、その足を力一杯引っ張った。ザフィケルは勢いよく転倒し、起き上がりかけたところへチサトの連続攻撃を腹、顎、胸に食らい、腕を捕まれ放り投げられる。剣を含めて数百キロにはなろうという巨体を投げたことはチサトの自信を取り戻させた。
「ただの人間が……図に乗るなよ」
 額から血を流しながら、ザフィケルは怒りを露にした。剣を両手に構えて飛び出したかと思うとその剣を地面に垂直に突き立てて空中で一回転し、着地と同時に背中で掴んで勢いよく振り下ろした。チサトは半瞬の差で躱したが地面は数メートルの深さに避け、割れ目はバトルフィールドから観客席にまで及んだ。ホログラムシステムの一部が破損して景色がブレる。その驚異的な威力に目を奪われた瞬間、チサトは腹部に灼熱感を覚えた。先刻のクロードと同様、空中に打ち放されてバトルフィールド上に落下する。
「チサトさん!」
 レナの治療を受けながらクロードが叫んだとき、ザフィケルの姿は彼の目の前にあった。
「他人の心配してる場合かよっ!」
 左上方から繰り出される一撃をクロードは受け流し、素早くザフィケルの背後に回った。同時にザフィケルの左腕を浅く斬りつける。レナから目を逸らさなければならない。ザフィケルは小さな傷など気にも留めずに反転してクロードに向かって剣を突き出した。ジャケットの左肩が裂けて血が滲む。しかしその間にクロードの剣先はザフィケルの胸を貫いていた。紅い血が吹きだす様は「ただの人間」と変わりない。
「なんだ……と?」
 クロードは、ザフィケルが振り返って攻撃してくるだろうことを予想した上で全体重をかけて剣を押し出していた。それ故に剣は深く突き刺さり、同時にザフィケルとの距離を縮めることで、大振りな攻撃が直接当たることを防いだのだ。
 無敵を誇った十賢者にとって、それは受け容れ難い状況であったに違いなかった。微動だにしないザフィケルを前に、クロードは渾身の力を込めて胸から腹へと切り裂いた。吹きだす赤黒いものがクロードの顔面を覆い尽くしたとき、ザフィケルはクロードに覆い被さるようにして倒れた。
「こんな……こんなバカな……。見事……だ」
 近接戦闘兵器『ザフィケル』は、絶命した。

 クロードと並んで回復呪文を受けながら、チサトは未だ苦しげな表情で喘いでいた。ザフィケルによって負わされた左脇腹の傷は、クロードのものより深かった。命に別状はないと思われるものの、ヴォイドマターによる反物質フィールドがなければどうなっていたか分からない。
「ザフィケルとジョフィエルは倒したけど……メタトロンはどこへ行ったんだろう?」
 闘技場の外から、アシュトンたちは戻ってきていた。セリーヌは首を捻って記憶を呼び起こす。
「たしか、『あの女』がどうとかって言ってませんでしたかしら?」
「『あの女』……?」
「十賢者が狙うとしたら、彼らの邪魔になるような人物だろうね……となると」
 ノエルの言葉に、全員が気付く。
「まさか、ミラージュさん!?」
 最年長の動物博士は頷く。クロードはザフィケルの言葉を思い出した。
「そういえば、奴らは反物質武器のことも知っていた……」
「じゃあ、すぐアームロックに行かなくちゃ」
 アシュトンは駆け出そうとするが、レナが止めた。
「ダメよ。チサトさんはまだ動けないし、クロードもまだ完全に治療できていないわ」
「でも、ここで待っているわけにはいかないよ」
 レオンが言うと、全員が頷いた。既にザフィケル戦とジョフィエル戦で時間を食ってしまっているのだ。
「レナはお二人の治療を続けてくださいな。アームロックへはわたくしたちだけで行きますから」
「でも……」
 渋るレナを横目に、クロードは体を起こした。
「セリーヌさん、僕も行きますよ」
「強がってないで寝てなさいな」
 杖の先でクロードの頭を押し返す。
「ちゃんと治して後からいらっしゃい」
 三人を残して、セリーヌたちはサイナードの元へ駆けていった。

10

「もう一度言う。研究データはどこだ?」
「ふん。言わなきゃ殺すってのかい? そんなことしたら一生見つからないよ」
 ミラージュは睨み返した。ファンシティから帰宅して遅い昼食をとっていたら、突然この金属の塊のような男が天井を突き破って研究室に振ってきたのである。十賢者であることは一目で分かったが、名前は忘れた。
「私は野蛮なことは好まない。貴様がこの街を破壊したいというのなら話は別だがな」
 金属男が剣を一振りすると、研究室の壁が裂けて破片が街路に飛び散った。悲鳴が上がり、ミラージュは息を飲む。
「なかなか紳士的なことだね。でも、それくらいで秘密を言うほどに俺の口は緩くないよ」
「ではもう少し派手にやらせてもらおうか」
 剣はミラージュの真横をかすめ、衝撃は居間兼書斎を荒らして隣の喫茶店の壁をも破壊した。身動き取れずにいると、金属男はミラージュの襟首を掴んで持ち上げた。
「さあ、言うんだ」
 これ以上暴れられると本当に街を破壊しかねないが、だからといって『あのデータ』を渡すわけにもいかなかった。
「やなこった」
「強情な女だな」
 金属男はそう言って、壁の裂け目からミラージュを放り投げた。

「ミラージュさんっ!!」
 裂けた壁からミラージュが飛び出してくるのを、アシュトンたちは見た。受け止めようとしたが間に合わず、ミラージュは石の路面に叩きつけられた。すぐさまノエルが治療する。ミラージュが何か言葉を発しようとしたとき、メタトロンが研究室の壁を突き破って現れた。
「ほう……。ザフィケルとジョフィエルを倒したか? それとも三人で戦っているのか? まあ、前者のほうが有力か。とはいえ無傷では済まなかったようだな」
 メタトロンは大きな盾を正面に据え、左手の剣を構えた。剣は身の丈に合った大きさだが、鋭い刃先は銀というよりほとんど白に輝いている。
「行くぞっ」
 その重量で一歩ごと足跡を残しながら、メタトロンは斬りかかってきた。アシュトンが両の剣で受け止めたが、硬直したところに足払いをかけられる。ひっくり返った紋章剣士が一刀両断されるのを、プリシスが体当たりで阻止した。ノエルが竜巻を起こしたが、鉄の塊であるメタトロンはびくともせずアシュトンに向き直った。今度はアシュトンから襲い掛かった。しかし、巨大な盾で受け止められた後、そのまま体当たりを食らって吹き飛ばされ、街路樹に背中をぶつけた。起き上がろうとしたところへメタトロンは追い討ちをかけた。素早く近づいて剣を振り下ろす。
「うわあぁぁっ!?」
 アシュトンがとっさに振り上げた右の剣を折って、メタトロンの白い剣はアシュトンの左肩に食い込んだ。
「アシュトン!」
 セリーヌは目を見開いたまま、口に両手を押し当てた。
「この~っ!」
 プリシスは今までに出したこともないような大声を上げながら、メタトロンの背中にドリルをつき立てた。しかしその瞬間にメタトロンの周囲に青い円筒形のフィールドが現れて、ドリルは弾かれた。メタトロンはゆっくりと振り返る。
「ふむ。さすがに反物質フィールドを切り裂くのは容易くはないようだ。それに、この男の剣は私の盾に簡単に傷をつけた。多少のハンデはあって当然だろうな」
 青い筒の中からメタトロンは剣を振るって、無人君ドリルのアームを折った。セリーヌのエクスプロードによってパンチのほうは溶けてしまっているので、無人君は体当たり以外の攻撃手段を失ってしまった。
「ああ~っ!」
 折られたドリルに気を取られているプリシスをよそに、メタトロンは青い筒ごと移動して無人君に体当たりした。無人君の顔面は盾の形に沿ってひしゃげ、プリシスはミラージュの家の中へと吹き飛んだ。
「く……そ……」
 ノエルの治療を受けながらアシュトンは立ち上がり、左の剣を右に持ち替えて再びメタトロンに斬りかかった。メタトロンは盾を使うことなく棒立ち状態だったが、アシュトンはメタトロンの体に触れることすらできなかった。メタトロンを囲む青いフィールドに剣が弾かれ、その円筒の内側に入ることができない。
「そんなバカな。ジョフィエルのときは足を一本斬ったというのに!」
「ほう。ではやはりジョフィエルは死んだのだな。情けないことだ。だがその分の礼は私がしてやろう」
 メタトロンが突き出した剣は、自らの青いフィールドを貫き、アシュトンの反物質フィールドを破って再び肉体を傷つけた。左の脇腹から血が迸る。
「がっ……」
「ふむ。どうしてもこれ以上は貫けんな。それなら数を増やすか」
 腹を抱えながら仰向けに倒れたアシュトンに、メタトロンは無慈悲に剣を幾度もつき立てた。ギョロとウルルンの必死の抵抗も効果を為さず、逆に二匹もダメージを受けている。それを、黙って見てはいられない。セリーヌは、杖で殴りかかった。しかし勢いよく振り回したそれは青いフィールドに当たって折れた。呆然とするセリーヌに、メタトロンは一瞥と一撃を同時に与えた。脇腹を一文字に斬られ、セリーヌはその場に倒れる。
 レオンは心臓が大きな音を立てて脈打っているのを感じていた。まるで耳の中で動いているかのように。そして体中から汗が噴きだしている。目の前で繰り広げられている光景に手が震え、足がすくみ、口を開くことさえ覚束ない。このままアシュトンが息絶えれば次は自分の番……。その瞬間、頭の中に浮かんだ恐怖を振り払うかのように、レオンは大声を張り上げた。
「異界の魔物よ、僕の声に応えろっ!」
 突然空が暗くなり、メタトロンの頭上数十メートルのところに黒い雲が立ち込めた。その闇の中から巨大な鉄の扉が現れ、何かがうめくような低い音が辺りに響いた。メタトロンもさすがに驚いて口を大きく開けた。
 レオンは、無意識に、叫んだ。
「デモンズゲート!」
 鉄扉が開き、中から、巨大な、髑髏顔の、まさに死神というべき者が姿を現して、その扉よりも大きな鎌でメタトロンを刈った。
「ぬうぅぅっ!?」
 鎌はメタトロンの青いフィールドをやすやすと通り抜けてメタトロンの腹に食い込み、そのまま空中へと放り投げた。
 死神は鉄扉の中に戻った。
 ほとんど垂直に放られたメタトロンはアームロックの広場に落下した。ほぼ同時に、レオンは事切れたかのように仰向けに倒れた。
「くっ……。なかなか高度な呪紋を操るな……。我がメタガードを破れるのはルシフェル様お一人と思っていたが……」
「もう一人いるわよっ」
 一際大きな声で叫んだのは、赤い髪の新聞記者だった。街の入り口から走って姿を現し、腰に手を当てて胸を張る。
「貴様か……。ザフィケル辺りにやられたかと思っていたが」
「私はこれでも記者ですからね。写真撮ったり取材したり忙しいのよ」
 チサトは神宮流体術の構えを取った。『メタガード』なるものに自分の技が通じないのは百も承知だが、動きを止めるだけで今は十分だ。
「面白いことを言う女だ。後から一人で来るとは勇敢なことだが、それだけで我がメタガードは破れぬぞっ!」
「能書きはいいからとっととかかってきなさいよ」
 チサトは、息を呑んだ。
 メタトロンは口元を引き締め、剣を掲げて突撃した。最初の一撃を、チサトは躱す。次の攻撃も躱す。その次の攻撃も躱して、チサトはじっとメタトロンの手元を観察していた。攻撃を仕掛けるのなら一瞬のタイミングを狙うしかない。メタトロンが剣を振るとき、わずかにメタガードの外に出る左腕を捉えるしかないのだ。
「どうした女。威勢がいいのは口だけか?」
 弱者を弄ぶ口調でメタトロンは剣を振り回してチサトを追いかけた。その動きが、段々とおおざっぱになっていく。そうして自分の背後に街路樹が来たとき、チサトは思い切り横にジャンプして路上に転がった。メタトロンの剣は、街路樹をばっさりと切り倒す。メタガードの外で一瞬硬直した腕を、チサトは掴んで渾身の力を込め背負って投げた。
「今よっ!」
 叫んだ瞬間、上空にサイナードが現れてそこからセイクリッドティアを握ったクロードが飛び降りた。
「だあぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
 立ち上がったものの方向感覚を掴みかねているメタトロンを、クロードはメタガードごと二つに切り裂いた。重みのある音を立てて、メタトロンの二つの体は地面に倒れた。

11

「まあまあな連携プレイでしたけど、どうやって考えましたの? わたくしたちの戦いを見ていたわけではないでしょうに」
 アームロックの宿屋有頂天のベッドでノエルの治療を受けながら、セリーヌは訊ねた。彼女は戦闘中も治療を受けていたので回復が早い。
「いえ、見てはいたんです。直接ではないですけど」
「どういうことですの?」
 セリーヌは訝しがる。
「これです」
 そう言ってクロードが見せたのは、チサトが持っている通信装置だった。ディスプレイにはアームロックの今の様子が映し出されている。メタトロンの死体を回収する学者や、通りの掃除をする街の人たち。
「これって……」
「街の防犯用カメラの映像さ」
 宿屋の一階にある酒場から、ミラージュが呑気な顔で上がって来た。
「ミラージュさん! どこに行ってたんですか!? 戦闘中に姿を消して……」
 ノエルが、心配しているのか怒っているのかよく分からない声をあげる。
「まあまあ、落ち着いて。俺は別にどこも怪我なんてしてなかったからね。戦いの場からはとっとと消えて、記者のお嬢ちゃんに街の様子を知らせてやったんだよ。ま、彼女が生きてるか死んでるかは誰も教えてくれなかったんで少し心配ではあったけどね」
「なんだか随分都合のいい話……」
 セリーヌは素直に受け入れようとしなかった。
 クロードは説明する。
「僕たちは新聞社のサイナードでこっちへ移動している最中に通信を受け取って、まあ、それから対策を立てたって訳です。待たせて悪かったですけど、これしか思いつかなかったんで」
「全く、悪かったでは済みませんわよ。全滅するかと思ったんですから」
 セリーヌは頬を膨らませてそっぽを向いた。
「はい。すみません」
 本気で怒っているのではないのは分かっているので、クロードは軽く返しておいた。そして、アシュトンのベッドに視線を移す。アシュトンは胸から腹にかけて十ヶ所を超える刺し傷を負っており、レナの治療で傷は塞がったものの精神的にかなり衰弱していた。
「様子は?」
「傷は大丈夫。体力もほとんど回復したけど、意識が……」
 レナの表情は暗い。なんとかならないものだろうか。十賢者との本格的な戦闘を前にしてアシュトンを失うのは戦力的にも辛いし、なにより仲間として一刻も早い回復を願わずにはいられない。何故かいつもは幸せそうな顔で眠っているアシュトンが、今はまるで死んだように横たわっている。
 レオンも眠ったまま起き上がらず、プリシスは治療の後深い眠りについた。いま新たな十賢者が襲ってきて、まともに戦えるかは疑わしかった。
「ああ、みなさん。こちらでしたか」
 妙に明るい声で階段を上がってきたのは、ネーデ防衛軍の一人だった。
「市長からの連絡です。決戦は明日。本日中にラクアへ来られたし。以上です。では」
 防衛隊員は一礼して去っていった。
 明日の決戦は、絶望的だった。

12

 晴れ渡る空に、白い雲が悠々と流れる。高度なホログラム技術によって映し出された空はいつもと変わらないはずなのに、今は重い灰色の霧が渦巻いているように思えた。どことなくべとつく感じのする空気をかき分けるようにして、クロードたちを乗せたサイナードはラクアへと急いでいた。
「奴らは確実に焦っている」
「焦っている?」
 ミラージュの言葉に、クロードは首を傾げた。
「ああ。あのメタトロンとか言う十賢者は、俺のところになにをしにきたと思う?」
「なにをって……、殺すためじゃありませんの?」
 ミラージュは十賢者たちを倒しうる武器を作ったのだから妥当な答えだとクロードは思ったのだが、女博士はは少しだけ口元を綻ばせ、ゆっくりと首を振った。
「まあ、それも一つの目的ではあったかもしれないが、奴の本当の狙いは結界紋章にある」
「結界紋章?」
 アシュトンにヒールをかけつづけながら、レナは興味を示した。
「そう。十賢者たちの崩壊紋章に対抗するための紋章さ。ギヴァウェイ大学を中心とした即席チームが急ピッチで研究しているんだが、俺も一枚噛んでいてね」
「十賢者はその紋章を奪おうとしたんですか」
「紋章そのものか、研究データか、あるいは両方か、だろうね。まあ、まだ紋章は完成していないんだが」
 ミラージュは何の気負いもなく言ったが、クロードはぎょっとした。
「完成していないって……。それってかなりマズいんじゃないですか?」
「そうよね。相手には研究してることがバレてるんだから、いざ完成して発動させようと思っても、その前に崩壊紋章を使われたら終わりだわ」
 チサトは冷静にクロードの声を代弁した。
「確かに、俺も一時はそう思った。だが、今のところ崩壊紋章が発動される気配は全くない。他の十賢者が現れたり、研究施設が襲われたりということもない」
「それって、別に焦っているとは言えないんじゃありませんの?」
「うん?」
 ミラージュは数秒ほど天を仰いでから、まばたきを繰り返した。
「言われてみればそうだな……。本気で結界紋章を奪ったり破壊したりしたいのなら、何度でも攻撃を繰り返してくるはずだ」
「つまり、結界紋章は大した脅威ではない、ということでしょうか……」
「または再攻撃するだけの戦力がない、とか。まぁ、それはないわよねぇ。あと七人もいるんだし」
 十賢者たちが宇宙を崩壊させようとしていると知ったときと同じように、結局彼らの目的や行動理由を推し量ることはできなかった。全く、十賢者というのは不可解な存在だった。

 十賢者が一人ルシフェルにとって、一連の出来事はほとんど計算通りだった。戦闘型素体三体の交戦をカマエルとサディケルに観察させ、反物質武器とやらのデータはおおよそ集めることができた。メタトロンの失敗だけは計算外だったものの、全体の流れから見れば些細なことだった。エクスペルの一行もラクアに向かったということだし、宇宙を手に入れるのも間近であろう。
 そう、全ては彼の思うが侭に。

13

 日が傾き始める頃になってクロードたちが訪れたラクアは、まるで別の場所のようだった。以前は前身たる水族館の名残を残し、観賞用の水槽やくつろぐためのソファなどが置かれていたのに、その全てが今は古びた書物の山と最新の機器群にすりかわっていた。ネーデ防衛軍の制服を着た若者、ギヴァウェイ大学の校章をつけた研究者、シティホールの職員やサイナード飼育所の所員まで、実に様々な種類の人が忙しなく行き交い、その声がホールにこだまする。
 クロードたちはその熱気に圧倒された。
「みなさん」
 人ごみの奥からナール市長が現れ、額に滲む汗を紫のローブの裾で拭う。その表情には、若干の後ろめたさが感じられた。
「十賢者たちの話は聞きました。とりあえず、ご無事でなにより。しかし我々の手際の悪さも認めざるを得ません。申し訳ない」
「それよりも、今後のことを考えるのが重要ではありませんか」
 市長に落ち込まれては困るので、クロードは務めて冷静に示唆した。市長は頷き、顔を引き締めてクロードたちを奥の部屋へと導く。アシュトン、プリシス、レオンらは救護室に預けられた。
「しかしまあ、随分大げさなことになったもんだね」
 『会議室』の札が下がった部屋に足を踏み入れながら、研究者たちの声を背にミラージュは呟いた。ナール市長は円卓の上座につきながら、仕草でクロードたちに席を勧める。
「まるで他人事のようだな。全てお前が言った通りの人数と装置を揃えたんだぞ」
「なにもこんなところに集めろなんていった覚えはないね」
 ミラージュは市長と反対の席にどすんと腰をおろし、円卓の上に足を放り出した。
「あの……」
 睨み合う二人の大人に挟まれながら、クロードは情けない声を出した。二つの首が同時に動き、四つの鋭い目がクロードを見つめる。
「話が全然わからないんですけど……。説明してもらえませんか」
「申し訳ありません」
 市長は姿勢を正してから落ち着いた口調で話し始めた。ミラージュは、頭の後ろで手を組みながら窓の外を眺めている。
「十賢者たちが本格的な攻撃を開始したことから考えると、我々に残された時間は少ない。したがって、みなさんには一刻も早く、彼らが崩壊紋章を発動させる前に全員を抹殺していただかねばなりません」
「それは分かります。でも、僕たちには戦力となる仲間が、今は欠けています。新しい武器を手に入れたとは言っても、このままフィーナルへ向かうのは難しいと思うのですが……」
 ナール市長はゆっくりと頷いた。
「確かに。しかし、アシュトンさん以外は軽傷と聞いています。もしも明日までに回復しなければ、それはまた検討しましょう。いつでも出撃できるよう準備するにこしたことはありません」
 それは正論であったが、床に臥せっている仲間を切り捨てているような感じがして、クロードは少し不快な気分になった。
「でも、その前に、私たちが十賢者を倒す前に崩壊紋章を発動させられてしまったら、どうするんですか?」
 その質問に、ナール市長はじっとレナの目を見つめ返した。
「手はありません。だからこそ、みなさんには一刻も早く十賢者たちを倒していただかなければならないのです」
「結界紋章とやらじゃ、ダメですの?」
 市長は首を振る。
「対象となる紋章、すなわち崩壊紋章が発動してからではなんの意味もありません。結界紋章は発動する前に使う必要があります」
 そこで言葉を止め、ミラージュに視線を移す。
「完成すれば、の話ですが」
 全員の視線が博士に集中したとき、彼女は円卓の上に放り出した足と椅子の後ろ足を使って体を揺らせながら、夕焼けに流れる雲を眺めていた。
「俺は知らないよ」
 ひょっとすると口笛さえ吹きかねない軽い口調で、ミラージュは応じた。
「俺が知ってるのは、分析できたのは、崩壊紋章の弱点だけだ。そいつをどう利用するかは俺が考えることじゃない。いま廊下をうろついてるやつらの仕事さ」
「廊下の……?」
 レナは首を傾げる。市長は一つ息を吐いて、頷いた。
「ええ。ここで結界紋章の研究を行っているのです」
「こんな、十賢者たちの間近で!?」
 クロードは思わず立ち上がりそうになった。その驚きとは対照的に市長の顔は穏やかな笑みを浮かべていた。
「この星とて、宇宙の広大さに比べれば塵のような大きさしかありません。相手が亀の軍隊ならともかく、十賢者達にとってはラクアでもギヴァウェイでも変わりはありますまい。それに、ここは水族館としての営業を停止してから用途がありませんでしたのでね。丁度よかったというわけです」
「分かったわ」
 チサトは自分のメモを見ながら話をまとめる。
「第一に、私たちの使命は十賢者たちを倒すこと。しかもできるだけ早く。第二に、結界紋章は今のところあてにならないということ」
 全員が覚悟を決めた顔で頷いた後、ノエルが質問を提示した。
「一つ聞いておきたいのですが、結界紋章はどのように使われるんですか? ラクアで使っても効果があるのでしょうか?」
「いいえ。最新の報告によれば、崩壊紋章の前まで行かなければならないようです。つまり、なんにせよ十賢者を全て倒してからでなければ使えないと思われます」
 そのとき、部屋のドアが左右に開いて二名のナースが現れた。その姿に、クロードは胸が締め付けられる思いがした。アシュトンたちに、何かあったのかと思ったからだ。しかし、そろって赤い巻き毛をしたそのナースたちが、彼女たちの肩の高さほどもない患者を二名連れているのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。眠そうな顔の発明少女と少し俯いた感じの少年博士が、ナースに背中を押されながら入ってくる。
「アシュトンは!?」
 最初に立ち上がって最初にそう声をあげたのは、セリーヌだった。レオンとプリシスの無事を歓ぼうとする仲間たちをよそに、鋭い目つきでナースたちを射抜く。二人の白衣の女性は同時に顔を見合わせ、同時に目を伏せ、同時に口を開いた。
「まだ意識が戻りません……」
 椅子に崩れるセリーヌは夕日を背にしていて、クロードは表情を窺うことができなかった。

 プリシスは単に眠っていただけだった。メタトロンとの戦いで出血し、体力を消耗したのだ。会議室で今までの経過とこれからの予定を聞くと彼女は突然駆け出し、すぐに戻ってきて尋ねた。
「無人君は!?」
 サイナードにくくりつけてきた無人君の居場所を知ると、プリシスはまた駆け出していった。それ以後、彼女は夕食そっちのけで半壊した無人君二号の修復にかかっている。『やることはすべてやった』と言うミラージュが暇だからと様子を見に行ったが、それ以来誰も二人の姿を見ていない。ただ、地下の倉庫からドリルやハンマーの音が響いてくるだけである。
 そんな調子で、プリシスには何の問題もなかった。問題は、レオンのほうである。新呪紋によってメタトロン撃破に一役買ったはずなのだが、それと同時に意識を失い、目覚めてからも元気がない様子だった。医師の話では異状はないということだったが、放っておくわけにもいかなかった。普段の倍近くの時間をかけながら、しかし半分ほども夕食を残して食堂から出たレオンを、クロードは静かに追っていった。
 夜の闇の中で一度見失い、防風林を越えた浜辺にその姿を発見したとき、クロードは一瞬息を呑んだ。レオンの足元から淡い緑色の光が放射され、吹き上がる風にくすんだ空色の髪をなびかせながら、レオンは手に余るほどの大きな本を片手に立っていた。震えるような高い音と低い音の二重奏が、背後から見守るクロードを緊張させる。
 光に慣れてくると、クロードはレオンに足元に円で囲まれた紋章が描かれていることを知った。何かの儀式だろうか? しかし、これまでに一度もこのような光景を見たことはなかった。落ち込んでいたことと関係があるのだろうか。
 不意に辺りの木々がざわめき立ち、クロードがはっとして我に返ったとき、レオンは片手を高く空に向かって掲げていた。その先にある月が、輝きを増したようにクロードには感じられた。月が映りこむ海面も何故か異常に波が立っているように見え、それなのに潮の満ち引きは完全に止まっていた。音と目と肌で感じる異様な風景に、クロードは不安をかき立てられた。大地さえ鳴動しているように感じられ、クロードは半分混乱していた。
 レオンを包む光が強く輝き雲を貫ぬくと同時に、少年は声を張り上げた。
「異界の魔物よ、僕の声に応えろっ!」
 瞬間、辺りに雷雲が立ち込め、街一つを飲み込むほどの大波が起き、幾本もの竜巻が咆哮をあげながら天へと昇り、海面に映った月が光り輝いた。耳が裂けるほどの雷鳴と暴風に耐えながら、クロードは必死で木にしがみついていた。それなのに、レオンは華奢な体で浜に立ち尽くしている。クロードは薄目を開けるのが精一杯で、危ないぞ、とも、何が起きたんだ、とも叫ぶことができなかった。
 眩しいほどに輝いた海面が突然はたくような音を立て、海の中から巨大な鉄扉が空中に踊り出た。それは紛れもなく、レオンがアームロックで使った呪紋だった。扉が重々しい音を立てて開くと、中から銀色の冠を被り鋭い鎌を持ち破れかけた暗色のローブを着た髑髏顔の異形が姿を現した。
「デモンズゲート!」
 レオンの叫びを合図とするかのように、死神は鎌を勢いよく振るった。すると、竜巻は砕け、大波は海面から切り取られ、雷雲は四散して何事もなかったかのようにもとの景色に戻った。紋章の光に包まれたレオンを死神は見下ろし、ゆっくりと扉の中に消えていった。レオンは神の姿を見たかのように満足げで自信に溢れた顔で、鉄扉が消えていくのを見届けた。深呼吸をして本を閉じ、安堵の息をつく。
「……レオン」
 突然の呼びかけに、少年は振り返りながらひっくり返った。そのリアクションに驚きながら、クロードは手を差し伸べてレオンを起こしてやった。
「びっくりしたぁ……。もしかして、今の、見てた?」
 白衣についた砂を払うレオンに、クロードは頭をかきつつバツが悪そうに頷いた。
「なんだ。見ちゃったのか……」
「見ちゃ悪かったかな……」
 レオンは少し考えてから、首を振った。
「ううん。いい……かな。お兄ちゃんなら」
「一体どうしたんだ? 目が覚めたときは元気がないみたいだったけど」
 レオンは照れくさそうに笑い、そうして手にした分厚い本に視線を落とした。
「今の呪紋ね、デモンズゲートっていうんだけど、本当は僕、使えなかったんだ」
 クロードは首を傾げざるを得ない。サイナードでアームロックに向かう際、確かにあの門と死神を遠くから見た。レオンはもう一度考えてから、説明を始めた。
「僕の紋章って、どこに描いてあるんだと思う?」
「紋章?」
「うん。エクスペルの人間は、体に紋章を描かないと紋章術を使えない……でしょ?」
「そうだなぁ、そういえばお前の紋章は見たことがないな……」
「ないんだよ」
 クロードはレオンを見つめ返した。
「僕の体には紋章なんか描いてないんだ」
「じゃあ、どうやって呪紋を……?」
 クロードは戸惑った。これまで特に気にもしなかったが、どこかには描いてあるのだろうと当然のように思っていた。そうでなければ紋章術が使えるはずはないのだから。
「これだよ」
 レオンは自分の足元を指差した。直径一メートルほどの円形の紋章。しかし、これまで呪紋を唱えるのに紋章を描いていた記憶はないのだが。
「僕はね、普通の人とは違うんだ」
「違う?」
「見て分かるでしょ? 耳がこんなだし」
 笑いながら、レオンはふさふさの毛で覆われた猫のような耳をぴくぴくと動かして見せた。
「パパから聞いたんだけど、パパのおじいちゃんのおじいちゃんもそうだったんだって。エル大陸にも同じような人がいて、時々普通のエクスペル人とは違う人が生まれるらしいんだ。レナお姉ちゃんみたいに回復呪紋が使えるほどには珍しくないから、耳のことを気にしてる人はあまりいないみたいなんだけど、僕みたいなのはフェルプールっていうんだって。それで、フェルプールの人は体に紋章を刻まなくても呪紋が使えるんだ。一度、さっきみたいに体に覚えこませればね」
 そういえば、とクロードは思い返す。二十年前に父と母が任務で向かった惑星の種族もたしかフェルプールといい、体に紋章を刻むことなく呪紋を操っていたという。連邦と紋章術の初めての接触だ。
「でも、メタトロンとの戦いで使えたんじゃなかったのか?」
 レオンは少しだけ表情を暗くする。
「うん……。実は前にもさっきみたいな儀式をやったことがあるんだ。でも、そのときは力が足りなくて……失敗しちゃったんだ」
 少しずつ波に侵蝕されていく紋章を見ながら、レオンは砂の上に座り込んだ。
「だから、メタトロンのときも使えるかどうか分からなかった。使えたとしても、そのあとどうなるのか分からなかったし。普通の人でもそうだけど、自分の力以上の呪紋を使うと、死んじゃったり大災害になったりすることがあるんだ。だから怖くて使えなかったんだ」
 膝を抱えるレオンの隣に、クロードも腰を降ろした。
「でも、みんながやられて、アシュトンお兄ちゃんが苦しんでいるのを見て、気持ち悪くなって、怖くなって、頭がちょっとおかしくなって……。気が付いたら叫んでたんだ」
 波が引いた跡に小さな穴が空いて、そこから指先ほどの大きさの二枚貝が姿を現した。それを、再び押し寄せる波がさらっていく。
「そうか……。お前も、結構苦労してるんだな」
 クロードは敢えて平凡な回答をするに留めた。決戦を前に、思い悩むのはよくない。レオンは恥ずかしいのか、はにかみながら頬を赤く染めた。
「ちょっとだけ、ね。でも、もう大丈夫だよ。今度は成功したし、使っても倒れたりしないから」
「ああ。期待してるぞ」
「うん!」
 レオンは立ち上がった。
「じゃあ、僕は部屋に戻るね。お腹空いちゃった」
「そりゃあそうだろうな。気をつけて行くんだぞ」
 クロードは苦笑した。思えば、レオンは目覚めてからずっとこのことを考えていたのだろう。強大な敵と倒れていく味方を前に臆してしまった自分を責めたり、恥ずかしく思ったかもしれない。しかし、それを克服したレオンは、今までで一番輝いているように見えた。そこには、『レオン博士』から完全に脱皮した一人の少年がいた。
「うん。じゃあね」
 防風林の中に消えていくレオンを見送って、クロードは浜辺に寝そべってみた。地球のものより二倍か三倍ほどに見える月と、満天の星々。ネーデから見る天の川は少し変わっている。天の川全体が一斉に東から昇り、一斉に南中して一斉に西に沈む。南北の線を貫いて流れているのである。地球やエクスペルなど多くの星では天の川は東西に横たわっているので、来たばかりの頃はどうも変な感じがしたものだ。しかし、ようやく見慣れてきたこの人工の夜空にも、今日でお別れだ。エクスペルに戻っても遊びに来ることはできるかもしれないが。
 それにしても十賢者を倒せたとして、一体自分はどうするのだろう。ネーデにだって残ることはできるだろうが、レナたちはエクスペルに戻るだろうし、自分も彼女たちと共にありたい。しかし、エクスペルで何をするのかということはほとんど考えていなかった。セリーヌやアシュトンと旅をしたり、プリシスやレオンと研究をするのもいい。そういえば、以前にもそんなことを考えたような気がする。 結局、一番大切なことは自分の心の中でさえ言葉にすることができないのだろうか?
「隣、いいかしら」
 はっと気が付くと、大きな月を背にした青黝あおぐろい髪の少女が自分を見下ろしていた。慌てて起き上がり、小刻みに頷く。
「も、もちろん。どうぞ」
「ありがとう」
 レナは優しく微笑んで腰を降ろしたが、クロードは何故か異常なまでに胸を高鳴らせていた。未だかつて、レナと二人きりになってこれほどに動揺したことはなかった。
「どうしてここが?」
「なんとなく、ね。部屋にはいないみたいだったし」
 ラクアの島は広くない。
「そ、そう……」
 海の方向に向かって、二人の影が伸びていた。月がやけに明るい。
 最初に、レナの影が動いた。
「ねぇ、クロードは……」

14

 病室は明るかった。二十床のベッドが入る部屋の一番隅で、セリーヌは窓の外の星々を見上げていた。
 エクスペルの伝承では、聖域──クロードたちが宇宙と呼ぶ場所──には創造神トライアたちがいて、この世の全てを司っているのだという。星も、山も、木々も、動物たちも、人の命までも。紋章術師の村であるマーズは特に神々への信仰が篤いことで知られ、神への祈りによって自分の紋章力が高まるのだと信じられていた。セリーヌも幼い頃からトライア神話を聞いて育ち、信じていた。あの時までは。
 その日、セリーヌは相棒とトレジャーハントのためにヒルトン付近の洞窟を探索していた。相棒の名前はアルマナ。同じマーズ生まれの幼馴染みで、一番の親友だ。そこは何十年か前の盗賊のアジトで、お宝がいっぱい眠っているはずだった。確かにお宝はあった。沢山の罠と共に。
『アルマナっ!』
 セリーヌが気付いたとき、先行していたアルマナの体は岩壁から突き出された一本の槍に貫かれていた。
 どうにかして街まで連れて行き、医者に診せ、昼夜を問わず祈りを捧げたのに、三日後に彼女は息を引き取った。
 その時から、セリーヌは神を信じなくなった。祈りも捧げなくなった。神が彼女を裏切ったから。それにも拘わらず、神が自分に力を与え続けてきたことを彼女は知っていた。その力は、彼女自身と仲間の命を救ってきた。だがその恵みに、セリーヌは応えようとしなかった。神が力を与えつづけるのはアルマナを失わせたことの代償であり、応えてしまえばそこで力が途絶えるのではないかと思った。それを、彼女は何よりも恐れていた。
 しかし今、彼女は胸の前で手を合わせ、神に祈っていた。今までの不徳を詫び、力を与えてくれたことに感謝し、そして一人の男の生還を願った。
 アシュトン・アンカース。普段は気弱でおっちょこちょいで鈍くて、それでいてどこか憎めなくて、そして戦いのときは最も勇敢な男。彼女はそう信じていた。誰にも言わないけれど。
 自分の力が消えたっていい。ただ、今死んだように横たわっているこの男に照れたような笑顔が戻るのならば。
 そのとき、足元の道具袋から淡い光を放つ四つの紅い珠が不思議な音を立てて現れた。

 あてがわれた部屋に上機嫌で戻ったレオンは、先に入室していた客人を見て嫌な予感がせずにはいられなかった。その客の顔はこすった油で黒くなっており、手には金属製の工具、そのほか服も靴も油まみれだった。ポニーテールの彼女は白い歯を見せてニタッと笑い、レオンの腕を掴むと無言で部屋から引きずり出した。一応抵抗はしてみたものの、無駄な努力をしても仕方がないと諦め、レオンは黙って地下の倉庫に連れられていった。

「ねぇ、クロードは……」
 波はレナの影を飲み込み、すぐに引き返す。
「クロードは、この戦いが終わったらどうするの?」
 口を開きかけて、クロードは何を言うべきか迷った。何しろ自分でも答えが分からなかったから。必死で答えを探しながら、彼は別のことを言った。
「レナは……、どうするんだい? ここに残るの? それとも……」
「分からないの」
 膝を抱えながら、レナは穏やかな海面を見つめていた。
「エクスペルには帰りたいわ。ウェスタお母さんにも会いたい。村のみんなにも。でもね、やっぱりこの星にいると落ち着くのよ。故郷なんだって感じがするの。まるで、星全部が神護の森になったみたいに」
 レナの声に迷いはあっても、不安や恐れはなかった。自分の感じるものがレナにはないのだと思うと、クロードは心がすくむ思いがした。
「エクスペルに戻ったとして、なにをするんだい?」
「……なにって?」
「だから、その……」
 クロードは口籠もった。クロードにとって復活したエクスペルでの暮らしは全く新しいものになるが、レナにとっては日常が戻ってくるだけの話だった。
「つまり……その、仲間や友達もできたし、いろんなところを旅して、これまでとは違った生活になるんじゃないかな」
「そう……ね。みんなと会ったり、他の大陸に旅行に行ったりするかもしれないわね……」
「だよね」
 自分は何を言っているんだ、とクロードは本気で悩み始めた。頭の中で答えは出ているはずなのに、どうしてもそれが口をついて出てこないのだ。見えない何者かが言うのを阻んでいるようだった。
 レナは自分の髪飾りを手にとり、見つめた。三日月型のそれが、月光を浴びて輝く。優美な曲線を描く縁を撫でながら、レナはゆっくりと口を開いた。
「やっぱり……、帰っちゃう……のかな」
「え?」
 クロードは臆病に聞き返した。
「地球に、帰っちゃうのかな。クロードは」
「僕が?」
 レナの顔は笑ってはいたが、どこか寂しげだった。
 クロードは首を振った。
「僕は帰らないよ。決めたんだ。もうずっと前にね」
 言いながら、クロードは何故か息切れしそうになっていた。体が熱い。
「ずっと前?」
 クロードは頷き、立ち上がった。両手をズボンのポケットに突っ込み、冷たい夜の空気を吸う。
「エルリアタワーでカルナスに転送されたとき、親しい人に手紙を書いてきたんだ。僕は、エクスペルで新しい生活を送るんだってね。みんなと一緒に。その時は、星ごと破壊されるなんて思ってもみなかったけど。でも、僕はエクスペルが好きなんだ。みんなのことも。全部大切なんだ。だから、エクスペルが崩壊すると知っても、僕は父さんを騙してまでエクスペルに戻った。……最後まで、一緒にいたかったから」
「……じゃあ、クロードはエクスペルに住むの? 地球じゃなくて」
 自分を見上げる少女に、クロードは大きく頷いて見せた。レナは一度顔を伏せてから立ち上がると、髪飾りを付け直し、微笑んだ。月明かりで、青い目が輝いて見える。
「なら、私もエクスペルに戻るわ。あなたと一緒にいたいから」
「レナ……」
 クロードが次の行動を決めかねているうちに、彼女は一言付け加えた。
「そのためにも、十賢者たちをやっつけなくちゃね」
 そこでクロードは初めて笑い、頷くと、ほとんど無意識に両腕を伸ばした。
 満天の星空の下、浜辺に映った二つの影が、一つに重なった。打ち寄せる波にかき消されることなく。