■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第一章 星の邂逅

1 出会い ~神護の森~

 晩秋にしては暖かな日だった。去りゆく秋の精が、戯れにその裳裾の切れ端を残していったかのように、アーリアの村は穏やかな陽射しに充ちていた。
 村の中央、川沿いに建てられた一軒の家。その中から、ばたばたと慌ただしく階段を降りる音が響いてきた。少女の快活な声が聞こえ、そして扉が開け放たれる。
「じゃ、行ってきま~す」
 青い髪の少女──レナは、家を出てさっさと走っていこうとするが。
「こら、待ちなさい!」
 背後から呼び止められ、仕方なく立ち止まって振り返る。
「なあに、お母さん?」
「なあにじゃないでしょ。また神護の森へ行くつもり?」
「うん」
「……あなた、昨日もおとといも行ったじゃない」
 レナの母親、ウェスタは両手を腰にあてて、呆れたように言う。
「今日くらいはやめておきなさい。ソーサリーグローブが落ちてから、いろいろと不穏な噂も多いんだから。……だいたいね、あなた、母さんの手伝いもしないでいつもいつも……」
「行ってきま~す」
 説教が長引きそうな気配を感じ取ったレナは、逃げるように小径を走っていく。
「こら! 人の話を聞きなさい!」
 今度は母親の制止もきかなかった。川に架かる橋を渡り、遠ざかるレナの姿を、ウェスタは苦笑まじりに眺めて、それから目を細める。
「まったく……本当に、あの子は神護の森が好きなのね……」

 村の南側には、古い森が悠然と広がっている。数百年もの時を経た樹木は大地に太く荒々しい根を張りだし、まるで天を支える柱のように、空に向かって屹立している。その姿は人々に畏怖と畏敬の念を抱かせ、いつしか「神に護られし森」──神護の森、と呼ばれるようになったのである。村人たちは森を敬い、時にはその恵みを享受しつつ、この聖なる森と共存して暮らしてきた。
 そして、少女にとっても、ここは大切な場所だった。それは他の村人のような敬虔な気持ちとは少し違っていた。彼女はこの森を、自分を受け入れてくれる優しい場所だと感じていた。
 落ち葉の絨毯を踏みしだき、いつかの嵐で倒れた木の幹を身軽に乗り越える。赤いケープが靡き、短めのスカートが危なげに翻る。いつもと変わらない道を、レナは歩いていった。森の中は木洩れ日で意外なほどに明るく、幹にびっしりと生えている苔も、枝に止まって羽を休めている小鳥の姿も、落ち葉の陰でひっそりと暮らす小さな虫さえも、はっきりと見てとることができた。脇道の地面から螻蛄おけらがひょっこり顔を出したが、歩いてくるレナの姿を見るとすぐにまた地中に潜る。遠くから小刻みに幹をたたく音がするのは森の工事屋、啄木鳥きつつきの仕業だろう。
 まったく、どこが危ないっていうのかしら。お母さんったら、心配性にもほどがあるわ。
 レナはそう思ったが、実際、心配してくれるのは嬉しかった。何かと口うるさい母親だが、疎ましく思ったことは一度もない。レナは他の誰よりも、ウェスタが……母親が好きだった。
(でも……)
 思い出しかけて、慌ててかぶりを振った。あのことは考えないようにしているのだ。
 嫌な気分を振り払うかのように、レナはさらに森の奥へと歩を進めていく。この先にある、森の中でひときわ大きな樹の下で休むのが習慣になっているのだ。森の中で何をするでもなく、静かに耳を澄ませていると、木々のざわめき、小鳥の囀り、虫の鳴き声──それらが全て心地よい音楽となって聴こえてくる。レナにはそれが楽しみだった。
 だが、この日はいつもとは違った。背後に忍び寄る黒い影に、彼女はまだ気づいていない。
「危ない、うしろ!」
 突然、そう叫ぶ声が耳に飛び込んできた。あまりにも切迫した声だったので、声の主を探すより先に、とりあえず振り返ってみる。すると。
「────っ!」
 声にもならない悲鳴を上げて、レナはその場に尻餅をつく。そこには、樽のように寸胴な体型をした大猿の魔物が、今まさに彼女に襲いかかろうとしていた。
「逃げろ!!」
 先程と同じ声の主にそう言われたが、体が竦んでいうことをきかない。魔物は彼女と目が合うと大きな咆哮を上げて、その太い腕を彼女の華奢な身体めがけて繰り出した。しかし、魔物の腕がレナに届かんとする刹那、何者かが彼女を抱きさらって横ざまに跳んだ。鋭い爪が頭上を掠め、彼女の身につけていた三日月の髪飾りが弾け飛ぶ。抱きかかえられ、仰向けになったままのレナは、一瞬だけ、自分を助けてくれた者の顔を見た。
 それは少年だった。自分と同じくらい、いや、それより年上だろうか。額に赤い布を巻きつけ、木洩れ日に照らされた金髪は眩いばかりに輝く。
 若者は片膝を地面につけたまま、レナを庇うようにして魔物に向き直る。魔物は彼を認めると、再び咆哮を上げて襲いかかる。若者は素早く腰につけていた何かの武器を取りだし、相手に突きつけた。
「食らえッ!!」
 若者が気合いを放つと、その武器から青白い光が炸裂した! あまりの眩しさに、レナは思わず目をギュッと瞑る。頭に直接響くような甲高い音、何かが蒸発するような音、落ち葉の地面に重いものが落ちる音。それらが治まり静かになると、レナはゆっくりと目を開けた。
 そこには、上半身が完全に吹っ飛んでいる魔物の骸が横たわっていた。
「しまった……最大出力フルパワーだったのか。派手にやっちゃったな」
 その横で、例の武器を見つめながら呟く若者を、レナは茫然と見つめていた。若者がその視線に気づいて、歩み寄る。
「えっと……その、危ないところだったね」
 はにかむような笑みを浮かべて言うと、仰向けから上半身を起こしただけのレナの前に手を差し出した。
「大丈夫? 立てるかい?」
「あ……」
 その刹那、彼女は電撃に打たれたような衝撃を覚えた。彼が放った言葉にではなく、その前にさりげなく腰に仕舞った武器に、そして、先程の光景に。
「ひ、かり……の、けん?」
「え?」
 若者に間近で見つめられて、レナは全身を震わせた。肌がいっせいに粟立つ。恐怖とは違った、なにか別の大きな感情が、彼女の中を渦巻いていた。
 そして、気がつけばひとりで駆け出していた。立ちつくしたままの若者を残して。
 背後から呼び止めるような声が聞こえた気もしたが、レナは構わずに走った。走って、走って……森への入り口の手前でようやく立ち止まる。
(ビックリしたぁ……。なんなの、あのひと……それに、あの武器は……)
 荒く息をついて呼吸を整えているうちに、落ち着いてきた。そして、今の状況を思い返す。
(でも、私、あのひとに助けてもらったんだよね。それなのに……)
 レナは森の方を振り返ってみた。若者が来る気配はない。それでも、しばらく待ってみることにした。
(……来ないのかな)
 なかなかやって来ないので、こちらから探しに行こうかと思ったそのとき、森の向こうから金髪を揺らして若者がやってきた。
「よかった。待っていてくれたんだね」
 若者は心底安心したように言う。裏表のない、率直な言葉にレナは心を傷めた。
「すみません、逃げ出したりして……」
「は、はは。怖かったかな?」
 若者は笑った。妙にぎこちない笑顔だった。
「いえ、そうじゃないんです。突然のことでなんだかビックリしちゃって……。あの、本当にすみませんでした。助けていただいたのに」
「いや、いいんだよ。……あ、そうそう、これ」
 と、彼はポケットから何か取り出して、レナに手渡した。
「あっ……」
 それは、彼女の髪飾りだった。魔物に襲われたときに外れてしまったらしい。
「ちょっと見てみたけど、壊れてはいないみたいだね。そんなに傷もないし」
「ありがとうございます! あの、本当になんてお礼したらいいか……」
 レナは赤面して、若者に深々とお辞儀をする。
「いや、いいってば。お礼はもういいから、顔上げてよ、ね?」
「はい……」
 レナは顔を上げて、改めて若者と向き合った。そして初めて、きちんと彼の姿を眺めた。
 陽の光にちらちらと輝く金髪はうなじの辺りまで。額に巻かれた赤い布が長い前髪を真ん中で分けている。歳はやはり自分より上か。一見すると芯が細そうだが、体つきは意外にしっかりしている。黒いシャツの上から半袖の上着を羽織っているが、その薄緑の布地は絹とは違った、不可思議な光沢を放っていた。やたらとごつごつした靴といい、袖に奇妙な模様のついた上着といい、この村はおろか、北のサルバやクロス王国でも見たことのない格好だ。
(異国の服……やっぱり)
「どうかしたのかい?」
 若者に顔を覗きこまれて、はっと我に返るレナ。
「あ……申し遅れました。私はレナ。レナ・ランフォードっていいます」
「あ、僕はクロード……クロード・C・ケニー、です」
 慌ててそう応える若者──クロードは、なんだか変に緊張しているようで可笑しい。
「よろしくお願いしますね」
「あ、はい。こちらこそ」
 やはり返事が堅い。レナもいつしか彼の仕草に笑みが零れていた。
「あの……ところでさ。聞きたいことがあるのだけど」
 申し訳なさそうに、クロードが言った。
「はい。なんですか?」
「ここって……どこなのかな?」
「え?」
 レナが目を丸くしてクロードを見る。クロードは恥ずかしそうに頭を掻いているばかりだった。

2 伝説 ~アーリア~

「旅の方なんですか?」
「うん……まあ、そんな感じかな」
 クロードは曖昧に返事をした。
 二人は村へと続く小径を歩いていた。小さな橋を渡った先には、質素な造りの家並みが見えている。
「どこからいらっしゃったんですか?」
 レナがそう訊くと、クロードは少し困ったように言葉を詰まらせて。
「地球……から、なんだ」
「チキュウ? どこですか、そこ」
「そうだね。なんて言ったらいいのかな。……遠いところだよ。ここからは、多分、ものすごく……」
 クロードの言葉はどうにもはっきりしない。その口調は何かを隠しているようにレナは感じたが、これ以上は深く訊ねないことにした。
「遠いところ、ですか。大変ですね」
「あ、いや、そうでもないんだけど……」

 レナが『彼氏』を連れて歩いているという噂は、狭いアーリアに瞬く間に広まった。なにしろ、サルバの町長で鉱山主でもあるバーンズの一人息子アレン──容姿端麗ともっぱらの評判である──の求婚プロポーズを断り続けてきた彼女だ。どんな男があの面食い娘の心を射止めたのかと、村の若い女性たちはレナへの嫉妬も含めて、二人の冷やかしに我先へと急ぐ。おかげで、この小さな村ではちょっとした騒ぎにまでなってしまった。
「ちょっとぉ、あれがレナの彼氏?」
「なかなかいい男じゃない」
「そうかしら? なんだか頼りなさそうだけど」
「あれじゃあ、レナに尻に敷かれるのがオチね」
「アレン様の方がカッコイイよね~」
「あ~あ。どうしてレナばっかりモテるのかしら」
 周囲の妙な視線にクロードは生きた心地がしなかった。顔はおろか耳まで真っ赤で、視線は落ち着かずにほうぼうを彷徨う。レナも誤解とはいえ、あまりいい気持ちはしなかったので、足早に自分の家へと向かう。
「ちょっとぉ、家に行くみたいよ」
「親に紹介するのよ。『これでふたりはステディな関係ね』みたいな」
「今夜、家に泊めるのかしら? キャーッ! レナったら大胆」
 言わせたままにしておくのも腹が立つので、レナはその女性たちをキッと一睨みしてから、扉を開けて家へ入った。もっとも、それで誤解が解けるというわけでもないのだが。
 さて、レナに「家の中を片づけてくるので、少しの間、外で待っていてもらえますか?」と言われ、その通りに家の外で待つことになったクロード。彼だけはもうしばらく、彼女たちの冷やかしに耐えねばならなかった。

「ただいま」
 レナは家に入るとすぐにウェスタのところに駆け寄った。
「あら、早かったのね。どうしたの? そんなに慌てて」
「お母さん、大変なことが起きたの」
「何よ、大げさねぇ」
「大げさなんかじゃないのよ」
 レナは自分を落ち着かせるように少し間を置いてから、言った。
「現れたのよ、勇者様が!」
「え?」
 ウェスタはその言葉をうまく呑み込めずに、首を傾げる。もどかしいレナはさらに続ける。
「勇者様。伝説の勇者様よ! ついに私たちを救う勇者様が現れたの」
 興奮気味に話す娘を、ウェスタは怪訝な表情で見つめていたが。
「勇者って……あの、伝承の?」
「うん。見たことのない服を着ているし、『光の剣』も持ってた」
「光の剣?」
「神護の森で、不思議な光で助けてもらったの。あれは絶対に光の剣よ!」
 ウェスタはじっとレナを見た。冗談を言っているような顔ではない。そもそも、この子がそんな冗談を言う子ではないことは、彼女が一番よく知っていた。
「……で、その人はどこにいるの?」
「今、家の外に……」
 レナがそう言いかけたとき、家の扉を開けて誰かが入ってきた。
「あの~、すみません……」
 二人が振り向くと、照れくさそうに玄関に立ちつくしている金髪の若者──クロードの姿があった。
「クロードさん。どうしたんですか」
「いや、外で待っていても君がなかなか出てこないからさ……」
 言いながら、クロードはちらちらと外を窺っている。どうやら冷やかし隊に耐えかねて避難してきたようだ。
「あ、ごめんなさい。あと少しで終わるので、もうしばらく外で待っていてもらえませんか」
「え、っと……。それじゃあ、ちょっとその辺を散歩してきてもいいかな?」
「そうですね、ぜひそうしてください」
「うん。ありがとう」
 クロードはそう言うと再び外へ出ていく。扉が完全に閉まったのを確認すると、レナはほうっと大きく息をついた。
「レナ、今の人?」
 ウェスタが訊くと、レナは頷いた。
「ねえお母さん、どうしよう。やっぱり村長様に言ったほうがいいかな」
「そうね……。けど、確か村長様は朝からお出かけになっているはずだわ。夕方には戻られると思うけど……」
「じゃあ、それまでの間、家に来てもらってもいい?」
「家に?」
「うん。だって、ずっと外で待ってもらうわけにもいかないでしょ。疲れてるだろうし、どこかで休ませてあげないと」
 レナの言葉に、ウェスタは腕を組んで、しばらく考え込んでいたが。
「……うん、そうね。それがいいわ」
 不意に表情を緩めて、言った。
「レナ、あのひとを呼んできなさい。お母さんはおもてなしの準備をするから」
「おもてなし?」
「見てのお楽しみ。ほら、早く行った行った!」
 ポンと背中を叩いて、レナを玄関に追いやる。面食らったレナが振り返ると、ウェスタは優しい笑顔でこちらを見ていた。
「お母さん」
「ん?」
「ありがとう」
「何よ、あらたまっちゃって」
「だって、私の言うこと信じてくれたから」
 レナは下を向いた。頬にはほのかに赤みが差していた。
「当たり前じゃない。娘なんだから」
「……うん」
 嬉しそうにひとつ頷くと、扉を開けて家を出ていった。
 ウェスタは、誰もいなくなった玄関を見つめる。そして思った。
(あの子は、既に感づいているのかもしれない)
 だからといって、と彼女は続ける。どうしてあの子に本当のことが言えよう。あの子は自分を心から慕ってくれている。それは痛いほどよくわかる。けれども、慕われれば慕われるだけ、自分は本当のことが言えなくなる。言いづらくなる。真実を話すよりも、あの子を傷つけたくないという想いの方が強くなってしまう。
「ダレン……」
 ウェスタはその名を呟く。そして、長い沈黙が訪れた。

「どこ行ったのかしら……クロードさん」
 レナは道を歩きながらきょろきょろと辺りを見回す。先程まで騒いでいた冷やかし隊は、いい加減に二人をつけ回すのに飽きたのか、とっとと解散して家に戻ったようだ。しょせんは他人事なんだなと、レナはため息をついた。そして静かになった村の中を、捜して回る。
「おや、レナちゃん」
 橋の手前に差し掛かったところで、反対側からやって来た二人の男女に声をかけられた。ついこの間、式を挙げたばかりの新婚夫婦だ。その仲の良さは村でも評判になるほどである。
「おや、さっきの彼はどうしたんだい?」
 どうやら本当に村じゅうに知れ渡ってしまったらしい。レナの顔が赤くなる。
「あ……今捜しているところなんですけど」
「あらあら、もう逃げられちゃったの? 駄目ねぇ。ゲットしたらちゃんと繋ぎとめておかないと」
「だから、そんなんじゃないんですって!」
 むきになって怒るレナを、新婚夫婦は笑って受け流す。
「しかし、レナちゃんにもそんな浮いた話が出るようになったとは、やっぱり年頃になったんだねぇ。昔はディアス君一筋だったのに」
「フラックさんとこのディアス君かぁ……懐かしいわねぇ」
 その名前に、レナの胸は大きく弾んだ。
「無口だけど、なかなかハンサムだったもんね。レナちゃんとも仲良かったし。あの子が村を出ていってから、もうどのくらいになるのかしら……」
 新婚夫婦は勝手に話を進める。
「辛い事件だったねぇ、あれは。でも、だからって出ていくことはなかったと思うのに」
「あの子にはあの子の思いがあったのよ。誰も止めることなんてできなかったわ。レナちゃんだって……」
「……私、もう行きます」
 レナはそう言うとすぐに走り出した。これ以上、話を聞いているのが辛かった。走っていたら急に胸が苦しくなり、立ち止まる。息が荒い。そんなに走っていないはずなのに。膝に手をついて項垂うなだれたまま、レナは息をついた。
(ディアス……)
「どうしたんだい?」
 はっとして顔を上げると、目の前にクロードがいた。心配そうにレナの顔を覗きこんでいる。
「大丈夫かい? なんだか苦しそうだけど……」
「あ……平気です。すみません、ご心配かけて」
 レナは大きく深呼吸をすると、平静のように振る舞った。
「お待たせしました。どうぞ家へお越しください」
「いいのかい? お邪魔しちゃって」
「構いませんよ。助けていただいたお礼もしたいですし」
「そんな、お礼なんていいよ。大したことはしてないんだから」
 相変わらず腰の低いクロードを見て、レナはようやく落ち着いたようだ。
「ふふ。とにかく来てください。お母さんがおもてなしするって張り切ってますから」

「お母さん……なに、これ?」
 グラタン、オムレツ、大皿サラダ、ハーブチキン、バスケットに入った焼きたてのパン、コーンポタージュ、アップルパイ、そして極めつけの特大ケーキ。これだけの料理が全てひとつの机の上に乗っているのは、一種異様な光景でもあった。
「いつの間に、こんなに……」
「というか、この短時間にどうやって……」
 レナも、そして背後のクロードも、テーブルを眺めて唖然とする。もちろんこれが、ウェスタによる「おもてなし」の結果であることは、言うまでもない。
「おいしそうでしょ。母さん、腕によりをかけて作ったんだから」
「そうじゃなくて!」
「なに、食べないの? あなたを助けてもらったお礼にクロードさんに食べてもらおうと思ったのだけど」
 ウェスタは小首を傾げる。
「それはいいけど……多すぎない?」
「そう? 若いし、たくさん食べるかなと思って。クロードさん、お腹すいてますよね?」
「まあ、それなりに」
 クロードは少し困ったように言ったが、ウェスタがそれに気づくはずもない。得意気にふんぞり返って。
「ほら見なさい。男の子はこのぐらい食べるものなのよ。たくさん食べてくださいね、クロードさん」
「は、はい……」
「お母さん……」
 レナは額に手を当てて、ため息をついた。

 ──かくして時間は経過して。
「うぇっぷ……もう入らないや。ごちそうさま」
 二階の寝室で、クロードが苦しそうに椅子に腰かける。
「無理しないで残してもよかったんですよ」
「平気平気。僕の胃は丈夫だから……ぐふ」
 そう言うものの、レナには無理しているようにしか見えない。
「もう、お母さんたら作りすぎよね」
「でもすごく美味しかったよ。僕の母さんじゃ、こうはいかないな」
「ふふ。ありがとうございます」
 レナは軽く微笑んで言った。
「私は片づけをしてきますから、クロードさんはここで休んでいてください」
「ああ、わかったよ」
 クロードがそう返事をすると、レナは駆け足で階段を降りていく。
「お母さん」
「レナ、あの人は?」
 ウェスタが心配そうに訊いた。
「お腹いっぱいだって。今、二階で休んでもらってる」
「そう……。レナ、今のうちに村長様を呼んできなさい。ついさっき、サルバから帰ってみえたようなの」
「うん。わかった」
「もう暗いから、気をつけて行ってくるのよ」
 レナは玄関の扉を開けて外に出た。日はすでに山の向こうに落ちて、濃紺の空には星もちらほら見えてきている。
 村長レジスの屋敷は、レナの家から目と鼻の先にある。レナは屋敷の扉の前で立ち止まり、ひと呼吸置いてからノックをする。すぐに女中が扉を開けて顔を出した。
「あら、レナちゃん。どうしたの?」
「急な用事があるんです。村長様に会わせてもらえませんか?」
「ええ、構いませんよ。どうぞお入りになって」
 女中はレナを招き入れる。
 村長は居間の椅子に腰かけてくつろいでいるところだった。たくわえた髭も髪もほとんど真っ白で、皺深い目尻に埋もれるようにしてある眸は、部屋の中のどことも知れぬ場所を静かに見つめている。
「おや、レナか」
 レジスはレナに気づくと杖を持ってゆっくりと立ち上がった。
「どうしたんじゃ。そんなに慌てて」
「村長様、のんびりしている場合じゃないんです」
「いやはや、一体なにがあったというんじゃ?」
 レジスは少しおどけたように言ってみせたが、レナの差し迫った表情に、すぐに真面目な顔を取り繕う。
「ついに勇者様が現れたんです」
「なんじゃと?」
「間違いありません。あの人は絶対に勇者様です! 異国の服を着ているし、光の剣も持っていました!」
「光の、剣?」
 レジスはレナを刮目した。少女は真摯にこちらを見ている。偽りのない、まっすぐで純粋な瞳。そこには疑念を抱く余地すらなかった。しかし、もしそれが真実だとすれば……。
「して、その者をどこで見たのじゃ?」
「神護の森です。私が魔物に襲われそうになったところを、光の剣で助けてくれたんです。……今は、私の家にいます」
「うむ……光の勇者、か……」
 皺だらけの顔にさらに皺を寄せて考え込むレジス。
「そのひと、旅をしているなんて言っているけど、ここがどこかもわからないみたいなんです」
「それは妙じゃな。だがしかし……」
 レナの言葉に一応納得はしてみたものの、レジスにしてみれば、こんな偏狭の村で世界を救う勇者が現れたなど、とうてい信じられることではなかった。
「お前が嘘をつくような子でないことは、重々承知しておるが……」
「村長様……」
 レナが不安そうに見つめるのを見て、レジスはすぐにかぶりを振った。
「まあ、会ってみないことにはわからぬな。行くとしようか」
「はい!」
 レナは嬉しそうに返事をする。その表情にはいつもの明るい笑顔が戻っていた。

 家へ戻ってみると、ウェスタがレナに詰め寄ってきた。なにやらひどく動揺している。
「どっどど、どど」
「ど?」
「どどど、どーしよう、レナ」
「なによ、お母さん」
「だって」
 ウェスタは背後の階段とレナを交互に見ては、おろおろと手を揉んでいる。それに業を煮やしたレナが。
「だってじゃないでしょ、どうしたのって聞いてるの」
 語気を強めて問い詰めると、ウェスタはまるで内緒話でもするみたいに小さな声で言う。
「言っちゃった」
「……なにを?」
「『勇者様』って……」
「えーっ、言っちゃったの!?」
 レナは思わず大声を上げてしまい、慌てて自分で口を塞ぐ。そして声の調子を落として続けた。
「……それで、クロードさんは?」
「まだよくわかっていないみたいだけど……」
「まあ、ひとまず落ち着きなさい、ウェスタ」
 レジスが前に進み出て言う。
「彼もまだ状況をよく理解していないんじゃろ? ……おや」
 階段からクロードが降りてきた。レジスはさらに進み出て彼の前に立つ。
「貴方がクロードさんですな。私はこの村の長をしておりますレジスという者です」
「…………」
 クロードは無言のまま、きまりの悪そうに俯いた。

「神護の森でレナを助けていただいたそうで、本当に感謝しております」
「いえ、大したことではありませんが……」
 先程まで溢れんばかりの料理が並べられていた机に、レジス、クロード、そしてレナが座った。ウェスタはレナの背後に立っている。
「ところで、レナから聞いたのですが、旅の途中だそうですな」
「旅……。いえ、そんなに大げさなものでは……」
 相変わらずクロードの返答は覚束おぼつかなく、言葉は所在なげに発せられては消えてゆく。レナは微かに苛立いらだちを覚えた。
「これからどこへ行かれるおつもりです? クロス王国、それともラクール大陸ですかな?」
「それは……」
 何も返せずに黙ってしまった若者を見て、レジスが切り返す。
「ここがどこかもわからぬ上に、目的地もはっきりしないと。いやはや、妙な旅人でございますな」
「……どういう意味ですか?」
 クロードの表情に、僅かな怒りが見られた。何が言いたいんだ、というふうに。
「無礼を承知で申し上げます。クロードさん、貴方は嘘をついていますな」
 押し黙ったまま、じっとレジスを見るクロード。村長は続けて。
「貴方はただの旅人ではありますまい」
「それじゃあ、僕は一体何者なんでしょうか?」
 皮肉っぽい笑みを浮かべて、クロードは訊き返した。その挑戦的な視線に、レジスは豊かな髭を弄りながら、うむと唸った。
「我々の地方に、古来より語り継がれているひとつの伝承がありましてな。……どれ、レナ、吟じてみなさい」
 レナは頷き、そして鷹揚おうようと謳いあげた。
「『此の地エクスペル、魔の者に蹂躙じゅうりんせられ、民大いに苦しむ時、異国の服纏いし勇者現れん。彼の者、光の剣を以て魔を破り、我が民を救いたもう』」
「……え?」
 クロードの表情が引きつった。嫌な予感に。そしてそれは的中する。
「伝承の中にある『勇者』。それが貴方であると、我々は考えています」
「ち、ちょっと待ってください。どうしてそんな」
「『光の剣』のこともレナから聞き及んでいます。眩く輝く光を以てレナを助けてくださったと」
「え? 光……あ、いやそれは、あの、誤解ですって」
「うそ! じゃあ、その腰につけてるのは何なんですか? あのとき、それで魔物を吹き飛ばしたじゃないですか!」
「あ……」
 レナに指摘されて、クロードは無意識に腰の武器に触れた。そして項垂れる。
 しばらく誰も無言だった。重く澱んだ空気がひとしきり流れる。
「やはり、勇者ではないのでしょうか?」
 沈黙に堪えかねたように、ウェスタがレジスに訊ねる。
「そんなことない!」
 レナが叫んだ。レジスは皺深い顔にさらに皺を寄せて、考え込む。
「……光の剣に関してはわかります」
 クロードがようやく口を開いた。
「光の剣ではありませんが、確かにそういう武器を持っています。でも、だからといって、それで僕が勇者だと決めつけるのは、おかしくありませんか?」
「どうしてそんなこと言うんですか?」
 レナにしては珍しく、厳しい口調だった。だがクロードはこちらを向きもせず、ただ机の上の一点をじっと見つめているのみ。
「だって、本当に勇者じゃないんだ……。僕にそんな力はないよ。そもそも何が起きているのかもわからないし……」
「本当に知らないんですか? ソーサリーグローブのことも。異変のことも」
 クロードからの応えはない。代わりにレジスが。
「この村に起きているのではありません。世界全体に異変が生じているのです」
 そう言い直したが、やはりクロードは沈黙を保っている。
「……ならば、お話ししておかねばなりませんな」
 レジスは大きく息をつき、たっぷり間を置いてから、語り始めた。
「今から三ヶ月前のことです──」

 この世界「エクスペル」は、大別して三つの大陸から成り立っている。すなわち、十字状に広がるクロス大陸。その東から南東にかけて横臥おうがするラクール大陸、そして北西に位置するエル大陸。
 そして、各々の大陸にはその名を同じくした国家が存在する。
 豊かな土壌と自由貿易で栄えるクロス王国。
 強大な武力をもって他国を睥睨へいげいする軍事国家ラクール。
 両国に挟まれ常に諍いに巻き込まれてしまう哀れな小国エル。
 三つの王国はときに対立し、ときには友好関係を保ちながらも、それぞれが独自の歴史を歩んでいった。ここ数年の間、三国は大きな戦乱を起こすこともなく、平和と繁栄の時代を謳歌していた。しかし、そんな折に、厄災は突如として天から降ってきたのである。
 エル大陸の王都エルリアに、巨大な隕石が落下した。それによりエルリアは壊滅的な打撃を受け、死傷者は全人口の約半分にも上り、都市としての機能はほとんど失われた。
 クロス、ラクール両国は、隕石の調査と被災者の救助のため調査隊と救助隊、それに救援物資をエルリアに派遣することに決定した。ラクールはヒルトンから直接エルリアへ、クロスはクリクからエル大陸の港町テヌーを経由して、それぞれ派遣を開始する運びとなった。
 しかし、ここから誰もが予想し得なかった事態が生じた。
 クロス、ラクール両国から派遣された者たちが全て、一度の連絡も取れないまま消息を絶ってしまったのだ。次いで派遣された調査隊も同様に行方がわからなくなった。事態を重くみたクロス国王は、ごく少数の精鋭のみで構成された偵察隊をエル大陸に送り込んだ。帰還した彼らからの報告によれば、エル大陸の内部は奇怪な魔物たちで埋め尽くされていたという。彼らが最初に上陸するはずだったテヌーは既に跡形もなく消滅しており、彼ら自身もエルリアの調査へ向かう途中に魔物に襲われ、命からがら逃げ帰ってきたということだった。
 しかも、異変はそれだけにとどまらなかった。
 クロス、ラクール両大陸の内部でも、動物たちが突然狂暴化して人々や街を襲うようになり、さらに最近ではクロス大陸の各所で群発地震まで起こるようになった。クロス、ラクール両国はやむなくエル王国への救援を断念し、自国の防衛を優先せざるを得ない状況となった。
 これら一連の異変はすべて、あの隕石がエルリアに落ちたことに始まっている。全ての発端は隕石だ、あれがこの世界に厄災をもたらしているのだと、人々は口々に罵り、空を呪った。そして、いつしか彼らはあの隕石のことを、忌諱きいと畏怖の念を込めて、こう呼ぶようになった。
 魔の石ソーサリーグローブと……。

「ソーサリーグローブは、異質な存在です。我々には理解すること適わぬ、まさしく悪魔の石です」
 レジスは言った。
「そして、貴方も異質な力を持っておられる。異なるものであるあの石を打ち破ることができるのは、貴方しかいないと思っているのですが」
「そんな……」
 クロードは肩を落とし、俯いたまま。
「僕には……僕には、そんな力はないんです。厄災を引き起こすような隕石を相手にできるわけがない」
「それでは、あなたはどこから来て、これからどこへ行こうとしているのですか?」
「それは……うまく説明できません。説明しても、わかってもらえるかどうか……」
 膝に置いた手を、ぐっと握りしめるクロード。
「ただ、ひとつだけ言えるのは、僕は自分の意志でここに来たのではなく、事故によって飛ばされたということです。そして、なんとかして本来いた場所に戻りたい……それだけなんです」
 レジスは若者を刮目かつもくした。彼の表情は活力に乏しく、瞳は親とはぐれた迷い子のように、うつろだった。
「漠然としていて、わかりにくいですな」
「でも……そうとしか言えません」
 クロードは唇を噛んで、それきり何も言わなかった。頑なに机を見つめるその横顔は、確かに世界を救う勇者のものではないのかもしれない。
「そうですか……」
 レジスは大きく嘆息して、口を開いた。
「そこまではっきり否定なさるのならば、こちらとしても無理に祭り上げる気はありません。貴方は勇者様ではなく、ただの旅人であると。それでよろしいですな?」
「そんな……」
 レナは信じられないようにクロードを見る。そこには憧れの勇者ではなく、叱られた子供のように背中を丸めて佇む少年の姿しかなかった。こんな、こんなはずはない。あのときは、確かに。
「すみません、結果的に期待を裏切る形になってしまって……」
「いや、こちらが勝手に勘違いしただけです。貴方が気に病むことはありますまい」
「ごめんなさいね……」
 ──私を助けてくれたときは、確かに……ぜったいに、あれは勇者様だった!
 レナはすっと席を立つと、顔を背けたまま玄関へと歩いていく。
「レナ!」
 ウェスタの制止もきかず、彼女は扉を開けて外へと出ていった。
 外はほんのりと肌寒かった。この地方特有の早い冬が、すぐそこまで来ているのだ。
 レナはそばを流れる川のほとりに、膝を抱えるようにして座った。月の光が、川面に彼女の顔を映し出す。川の中の自分は、なんだかやけに寂しそうだ。
 勇者は、憧れだった。小さな頃から──そう、ソーサリーグローブが落ちるずっと前から、勇者は彼女にとっての『希望』だった。母親や神父が勇者の話をするたびに、目を輝かせて聞いていた。やがて大きくなると『聞く』側から『話す』側へと変わった。 村の子供たちに請われては繰り返し勇者の話をした。何度目かのアレンのプロポーズを断って、村の同世代の少女たちになじられたとき、「私は勇者様と結婚するの!」と本気で言ってみせたこともあった。
 勇者への憧憬は、ソーサリーグローブが落ちてからより一層強くなっていった。相次ぐ地震、可愛かった動物たちの狂暴化。長閑のどかなはずのこのアーリアでも、人々の間で暗い話題がささやかれ始めた。いつか必ず勇者様が現れて、前のような平和をもたらしてくれるに違いない。レナはそう固く信じていた。そして、それが今、自分の目の前で現実になる……はずだった。異国の服をまとい、光の剣を持つ勇者が現れ、厄災の根源ソーサリーグローブに立ち向かってくれるはずだった。それなのに。
(どうして……)
 水面に波紋が広がる。同時に月が薄雲に隠れた。まるで、そのときを見計らったかのように。

3 豹変 ~サルバ~

 朝起きるとすぐに、レナは神護の森へ向かった。今日ばかりはウェスタも咎めなかった。
 早朝ということもあって、外にはまだ誰の姿もなかった。あちこちの家の煙突から煙が出ているのを見ると、まだ朝食の準備の最中といったところか。レナは一気に村を駆け抜けて、森の中へと入っていく。
 森はまだ少し霧がかかっていて、昼間よりも薄暗い。道に降り積もった落ち葉や木の幹にこびりついている苔は朝露でちらちらとくすぶるように輝いている。小鳥や虫たちの鳴き声は昼にもまして一層盛んだ。彼女にはそれが自分を元気づけてくれているようにも感じた。
 森の奥、クロードに助けてもらった場所のさらに進んだところにある、いつもの大樹の前に立つ。
 ──私は……どうしたかったのかな。
 レナはその場に立ちすくんで、右手で目の前の幹に触れてみた。幹の表面は苔むして湿っぽく、ひんやりとした感触が指に伝わってきた。
 昨日はほんとうに、色々あった。けれど結局のところ、私は何がしたかったのだろう? 自分の身勝手な思い込みで一方的にクロードを勇者だと決めつけて、その結果、クロードを、そして自分自身をも傷つけてしまった。
 しかも彼女は、未だにクロードが勇者でないとは信じていない。自分を助けてくれたときの彼は紛れもなく、彼女が幼い頃から想い描いていた『勇者様』そのものだったのだ。
 だが、彼は否定した。
 勇者であることをかたくなに否定するクロードと、勇者だと信じ込んでしまったレナ。このすれ違いはどうして生じてしまったのだろうか。やりきれない思いがレナのうちを駆け巡る。
(お父さん……私、どうすればいいのかな……)
 落ち込んだときにはいつも父親の所へ行った。困ったときはいつも父親に相談した。村の意地悪な少年たちと喧嘩して、泣いて帰ってきたときにも慰めてくれた。優しかったお父さん。そばにいるとなぜか安心できた。けど、今はもういない。こんな自分を慰め、励ましてくれるたったひとりの父親は、すでに空の向こうへと旅立ってしまった。
 そういえば、あのときだった。私が本当のことを知ってしまったのは──。


 少女は泣いていた。自分の部屋の机に突っ伏して、声を出さずにひっそりと。机の上は涙でぐっしょりと濡れていた。時々しゃくり上げる音だけが部屋に響きわたる。
「では、私はどうすればいいんですか!」
「そんなに大声を出すでない。レナに聞かれたらどうするんじゃ」
 下の階で、母親が誰かと口論している。レナは頭を起こし袖で顔を拭うと、立ち上がって気づかれないよう静かに扉へと向かう。
「レナなら泣き疲れて上で寝ています! ああ、可哀想に。あの子も突然のことで、どうしたらいいかわからないんだわ」
「とにかく落ち着きなさい。母親のお前がしっかりしなければ、レナだって混乱してしまう」
 相手はどうやら村長のレジスのようだ。レナは扉を開け、廊下に出る。
「落ち着く? こんなときにどうやって落ち着けって言うんですか? あのひとが……ダレンが死んだんですよ! ああ、もう、どうしてこんな……」
「ウェスタ……」
 しばらくウェスタの啜り泣く声が続いた。レナは少しずつ階段に近づく。
「……私は……あのことをひとりで言わないといけなくなってしまった……」
レナの歩みが止まった。ちょうど階段の手前で。
「村長様、やっぱりあの子に告げなくてはならないのでしょうか。こんな、残酷なこと……! あの子にとっても、私にとっても、こんな酷いことを」
 ──酷いこと?
 レナの胸が早鐘をうつ。そして、次の言葉を待った。粘りつくような、長い時間だった。
「……言えない。そんなこと、絶対に。あの子は私たちの子供です! たとえ血が繋がっていなくたって、私たちは親子です! 昔も、今も、これからもずっと!」
 ウェスタの声が頭に響く。少女には、その意味がうまく呑み込めなかった。彼女の中にある何かが、無意識にそれを拒否している。
 血が、つながって、いない──?
「あんなペンダントなんて、さっさと棄ててしまえばよかった! なにが本当の親よ! あの子をほっぽり出して、辛い思いさせて……そんなの親なんかじゃない。ダレンが止めなければ、あんなこと言い出さなければ、あんなもの、とっくに棄てていたのに……」
 目眩がして、レナは背後によろめいた。背中が壁にぶつかると、膝ががくりと折れてその場にへたり込む。頭の中が真っ白になり、視線はぼうっと天井の一点に向けられている。もがくように左手を胸にあてると、そこには翡翠色の飾りがあった。常に身につけておくようにと、ダレンに言われていたペンダント。
 ──それは特別な『お守り』なんだ。
 父親の言葉が蘇る。けど、本当は──?
「……ウェスタや」
 階下から、レジスの声が聞こえた。
「覚えておるか、あの日のことを。……うむ、忘れるはずもないか」
 そして、蕩々と語り始める。
「お前とダレンが神護の森からあの子を連れてきたときは、ほんに驚いた。こんな辺境の村に子を捨てに来る親なんて、聞いたこともなかったからの。しかもあの子は既に歩けて、ことばも多少は話せた。レナという自分の名も言うことができた。これは捨て子ではない、何らかの事情で親から引き離されたのだと、儂らは確信した」
 胸の飾り石を握りしめたまま、レナは村長の話を聞いていた。天井を見つめていた瞳から、不意に、涙がひとつぶ零れた。
「お前さんは、この子を娘として育てたいと申し出た。儂も異存はなかった。じゃが、ダレンは迷っていた。あやつはレナの首に下がっていたペンダントを見つけて、言った。この子は深い親の愛情に包まれている、これがある限り、この子と親を引き離すことはできない、と。それならばと、お前はペンダントを外して棄てようとした。これが無くなれば自分が親になれる。お前さんはそう考えたんじゃな。だがダレンはそれを止めた。──ウェスタ、それはいけない。そんなことをしたら、この子と親の絆を冒涜することになる」

『ウェスタ、僕はこの子を育てようと思う。君と一緒にね。けど、ひとつだけ覚えておいてほしいことがある。それは、僕らは決して本当の親になることはできない、ということだ。……この石を握っているとね、感じるんだ。この子と親を結びつける、深く強い絆を。これは断ち切れない、断ち切ってはいけないものだ。いつかこの子が成長して、事実を受け止め、耐えられるような歳になったら、僕らは本当のことを話さなくてはならない。それはお互い、とても辛いことだ。でも、それでも、この子の親の想いに報いるために、そうしなくてはならない。それが、この子を育てようとする僕らの、大事な義務なんだ』

「……ダレンは、『その日』が来るのを覚悟していた。その覚悟を、今度はお前さんが継がなければならない。ダレンがどんな想いでレナを育てていたのか、お前は知っているじゃろう。それをふいにしないためにも……」
「……村長様」
 ウェスタが言う。いくぶん落ち着きを取り戻したようだ。
「私、恐いんです。あの子がいなくなってしまうのが。私があの子の『親』でなくなってしまうのが。事実を話したら、あの子は私を親と思わなくなるかもしれない。私を『お母さん』って呼んでくれなくなるかもしれない。そして、本当の親を捜しに、家を出ていってしまうかもしれない。そうなったら、私はひとりぼっちになってしまう。ダレンを失い、あの子まで失ったら、私は……」
「……それが、あの子の選んだ道ならば、受け入れなければならないじゃろう」
 押し殺した声で、レジスが言った。そして続ける。
「じゃがな、ウェスタ。あの子と親の絆が断ち切れないように、お前とレナの絆も、決して断ち切れるものではないのじゃよ。あの子は優しく、そして賢い。きっと正しい道を選んでくれるじゃろう。だから、儂らも……信じてみようではないか」
 ウェスタは嗚咽を上げる。レナも泣いていた。頬に伝った涙は顎の先で雫となって、胸元の飾り石に、ぽとりと落ちた。


 ──私は、いったい誰なの?
 ──どうして、この森にいたの?
 ──私はこれから、どうしたらいいの?
 ──教えて……お父さん……。

 落ち葉を踏みしだく足音を聞いて、レナは振り返った。黄金色の髪を揺らして、クロードが歩いてくる。
「あ……クロードさん」
「おはよう」
 彼は微笑まじりに言った。レナには、その笑顔も無理に作っているように見えた。
「おはようございます」
 レナはか細い声で挨拶する。あまりにも弱々しく、取り澄ました声色だったので、それが自分の声だとは思えなかった。クロードと向かい合ってはいるものの、その顔を見ることはできない。
「なんだか……元気ないね」
「そんなこと、ないですよ」
 空元気を出してそう応えたものの、やはり表情は冴えない。レナは所在なげに、再び下を向く。
「昨日はすみませんでした。勝手に大騒ぎしてしまって……」
「いいよ、気にしなくても。自分でも怪しい奴だとは思うし、話を聞いたら間違えられても仕方ないかなって思った」
 クロードは自嘲ぎみにそう話した。レナにはそれがかえって痛々しく感じてしまう。
 ──やっぱり、あなたは勇者様じゃないの?
 喉の奥までこみ上げてきた言葉を呑み込んだ。ついには堪えきれなくなって、彼に背を向ける。
「私、小さい頃からずっと、勇者様の話を聞いて育ったんです」
 レナは心の動揺を悟られまいと、懸命に言葉を繋いだ。
「困ったことがあるとすぐに駆けつけて、さっと解決して、またどこかへ去っていく、勇者様のものがたり。今思うと子供じみた話だったけど、それでも私はずっと信じてた。だから、ソーサリーグローブのせいでみんな困っている今こそ、絶対に勇者さまが現れるんだって、思ってたんです。そんなときに、クロードさんが現れたものだから……」
「……そう」
 クロードは力なく笑った。
「勇者じゃなくて、ごめんね」
「そんな、いいんです。私が勝手に勘違いしただけですから。こちらこそ気まずい思いをさせてしまって、すみませんでした」
 ぺこりと謝る少女に、クロードは首を横に振る。
「いや、もういいんだよ、そのことは。それより、僕はそろそろ村を発とうと思うんだ」
「え?」
 レナが目を丸くする。クロードはなぜか照れくさそうに俯いて。
「うん……。ずっとこの村にいても仕方ないからね。ここから北の、サルバ、だっけ? そこはわりと大きな街みたいだから、もしかしたら地球……元の場所に戻るための手がかりがあるかもしれない」
「あ……そっか。クロードさんは、ここに飛ばされてきたんでしたっけね」
「飛ばされたっていうか……うん、まあ、事故なんだけど……。まあいいや。とにかく僕はサルバに行こうと思う。けど、その前に君に会っておきたくてさ。君のお母さんに聞いたら、ここだっていうから」
「そう、ですか……」
 レナは瞳を細めて、クロードに微笑みかけた。痛々しいくらいに、健気な笑顔だった。
「早く帰れるといいですね。元の場所に」
「……うん」
 クロードはまだ何か言いたそうにレナを見つめていたが、諦めて、右手を上げる。
「それじゃ……」
「さよなら、クロードさん」
 クロードは背中を向けて、森の入口へと歩いていった。
(……ごめんなさい)
 樹の幹の向こうへと消えゆくその姿を見送りながら、レナは心の中で何度も謝った。
(ごめんなさい、クロードさん。でも……)
 私は、あなたが勇者であってほしかった。
 嘘でもいいから、自分は勇者であると言ってほしかった。
 乾いた風が森を吹き抜ける。気がつくと霧はとうに晴れて、青々と繁る木の葉の隙間からは陽の光が斜めに射し込んでいた。
(そろそろ帰ろう。お母さんも心配してるかもしれないし……)

 その男は、森の入口で彼女を待っていた。
「やあ、レナ、久しぶりだね」
 声を聞くまで誰だかわからなかった。黒い布で裏打ちした真っ赤なマント、おびただしい装飾品をつけた詰め襟の服。両手の指には大きな宝石のついた指輪がいくつも填められており、革のブーツは不気味にてらてらと黒光りしている。
「アレン……?」
 レナは訝しげに彼を見た。それはサルバのアレンだった。町長であり鉱山主でもあるバーンズ・タックス氏の一人息子。彼は数年前にレナを見初めて以来、こうして度々アーリアを訪ねてレナにプロポーズしては、彼女ににべもなく断られ続けているのだ。
 だが……。
「あなた、一体どうしたの?」
「どうしたって、何が?」
「なにがって……」
 レナは、こんな格好をしたアレンを見たことがなかった。以前、ここまで仰々しくはないにせよ、アレンが貴族のような正装で村に来たとき、レナはうっかり、そんな格好をしてくる人とはつき合えないと言ってしまったのだ。もちろんそれは求婚を断るための口実だったのだが、それ以来アレンはできるだけ簡素な衣装で村を訪れるようになった。
 それが、どうして急にこんな姿で来たのだろうか?
「どう、レナ、元気にしてたかい?」
 アレンはいつもの口調で訊いてくる。彼女の視線など、まるで気にする素振りもない。
「う、うん……」
 不安を隠しきれないレナ。対してアレンは口許をつり上げ、自信たっぷりに話しかける。服もそうだが、こんな表情をするアレンも初めて見る。
「そうか、それはよかった……フッ」
 アレンは漆黒の前髪を大儀そうに掻き上げる。その瞬間、彼の眼がわずかに緑色に光ったような気がした。
「今日は君に素晴らしいニュースがあるんだ。聞いてくれるね?」
「ニュース?」
「そうだ。喜んでくれ、ついに準備が整ったんだ」
 両手を横に広げ、まるで神の啓示でも受けるような仕種をして、彼は言った。
「レナ、君は僕と夫婦めおとの契りを交わす。僕らは結ばれるんだ」
「……は?」
 あまりにも唐突な言葉に、レナは驚きを通り越して、唖然とした。それから遅れて、怒りが沸々とわき上がってくる。
「婚儀はこちらで執り行う。そのための準備も全て整った。後は君を迎え入れるばかり……」
「ふざけないで! なにが婚儀よ。私はあなたとはつき合えないって、何度も言ってるでしょ!」
「つき合う? ハハ、何を言っているんだ」
 アレンは理解できないというふうに、首を何度も振った。
「そんな下らないステップは必要ない。そんなものなくたって、僕らは結ばれ、ひとつになれる。そうすることが君のためであり、僕の力を高めるためでもあるんだ。さあ、レナ……」
「いい加減にして! そんなに結婚がしたいなら、そのへんの馬でも相手にして勝手にやってなさい!」
 そう激高して立ち去ろうとするレナを、アレンは腕を掴んで引き止めた。
「待つんだ、レナ」
「放し……痛っ!」
 腕を振って振り解こうとしたが、予想外の力で締めつけられて、逆に悲鳴を上げる。
「痛い目に遭いたくなければ、大人しく来るんだ。僕も君を傷つけたくはない」
「ア、レン……?」
 レナは怯えた目で彼を見た。
「本気、なの?」
「ああ、本気だとも」
 このとき、レナは初めてアレンに恐怖を覚えた。そこには、素朴で気の弱い彼とはまるで別人の、邪悪に満ちた笑顔があった。背筋が凍りつき、膝が震えだす。
「いやあぁっ!」
 レナはアレンを突き飛ばすと、言うことのきかない足を叱咤して村へと駆けだした。村へ行けば誰かがいる。誰かに助けを求めれば……そう思った刹那、目の前にぬっと大きな人影が立ちはだかった。頭の禿げあがった、筋骨隆々の巨漢だ。自分を助けてくれそうな人間にはとても見えない。大男にたじろいでいると、背後からも男が数人駆け寄ってきて、レナを羽交い締めにする。
「傷物にはするなよ。大事な花嫁なんだからな」
「いやっ! 放して!」
 レナは必死に振り解こうともがくが、少女ひとりで屈強の男どもに抗えるはずもなかった。それでもなんとかアレンを見据えて、叫ぶ。
「一体どうしちゃったの、アレン!」
「大丈夫……心配しないで」
 アレンはそう言って、怯えきったレナの顔に顔を近づけた。そして指で彼女の顎をしゃくるように持ち上げ、いかにも満足そうに彼女を眺める。
 このとき、レナははっきりと見てとることができた。彼の双眸が、鈍く緑色に輝いているのを。そのあまりの凄まじさ、恐ろしさに彼女は戦慄した。
「じきに君は、僕なしではいられなくなる。石が、そう言っている」
 ──石?
「連れて行け」
 アレンの命令で、男たちはレナを抱え込んだまま村へと入っていく。彼女に、もはや抵抗する術は残されていなかった。

 村の門には、騒ぎを聞いて駆けつけたレジスとウェスタをはじめ、多くの村の者たちが集まっていた。アレンを先頭に、一行がこちらに歩いてくる。レジスとウェスタはその前に立ちはだかるように進み出た。アレンは立ち止まる。
「レジス村長に母君か。何か僕に用でも?」
 見下すように二人を睨みつけるアレン。背後には、男たちに囲まれるようにして囚われているレナの姿があった。
「レナ!」
 ウェスタは悲鳴のような声をあげた。
「アレン……これは一体、何の真似じゃ」
 レジスは杖の先をアレンに突きつけて、目を見開いた。
「レナが怖がっておるではないか。今すぐ放しなさい」
「それはできない相談だな。僕はレナを連れて行かなくてはならない。婚儀のためにね」
 微塵も表情を変えることもなく、アレンは言い放つ。
「さあ、通行の邪魔だ、そこを退け。貴方たちに用はない」
「アレン……何があった? ぬしはこんなことをしでかす男ではなかったはずじゃ」
 レジスの問いかけに、アレンは首を振って前髪を払いのけ、そしてフッと笑った。
「そう。以前の僕なら、こんなことはしなかっただろう。けど僕は変わった。気づいたんだよ。ちまちまと村を訪ねてアプローチしているだけでは、レナを手に入れることなど到底適わないってね。だから、こういう手段をとった」
「あなた、自分の言ってることがわかってるの?」
「失敬なことを仰るな、母君も。案ぜずとも貴女の娘は、僕が幸せにしますよ」
 その言葉に、ウェスタの顔色がみるみる変わる。そして突然、アレンに詰め寄った。
「レナを放しなさいっ!」
「!」
 アレンは縋りつく彼女を、まるで汚らわしいものを払うように突き飛ばした。ウェスタは地面に投げ出され、激しく噎せる。
「お母さん!」
 レナは母親の許へ駆け寄ろうとしたが、男たちに無言のまま押し戻される。
「もう一度言う。そこを退け。さもないと、取り返しのつかないことになるぞ」
 アレンは口を曲げ、悪魔的な笑みを浮かべた。
「こんなちっぽけな村、僕の力を以てすれば潰すのは訳ない。なんなら一夜で廃墟にしてやってもいいんだぞ。……フッ」
 村人たちは一瞬にして凍りつく。レジスは杖を持つ手を震わせ、ウェスタは青ざめた。
 レナは唇を噛んだ。みんな怯えている。当然だ。私も怖い。自分のことよりも、今この場で何をしでかすかわからない、アレンが。私のせいで、お母さんや村長様が、村のみんなが傷つくかもしれない。……ううん、きっと、それだけじゃ済まない。もっと酷い……もしかしたら、想像もしたくないような恐ろしいことが起きてしまうかもしれない。
 ──…………。
 レナは決意した。そして、震える声を精一杯励まして、言った。
「村長様、私は平気です。だから……行かせてください」
「ぬう……だがしかし……」
 苦渋の表情を浮かべたまま、立ちつくすレジス。
「駄目よ、レナ! アレンお願い、レナを返して……」
「お母さん」
 悲痛に訴える母親に、レナは首を横に振った。
「もういいよ、ありがとう。私のことなら心配しないで。必ず戻ってくるから」
 そう言って微笑む娘の姿に、ウェスタは堪えきれずに涙を零した。
「村長様。お願いします」
「……むう……」
 レナの固い意志に気押されるようにして、レジスは横に退いた。そして苦々しげにアレンを見つめる。
「ふん。最初から大人しくそうしていればいいんだ」
 アレンは村の者を一瞥すると、開けられた道を歩きだした。背後の男たち、そしてレナも後に続く。
「レナ……」
 背後でウェスタが呻くのが聞こえたが、振り返ることはしなかった。振り返ったら、気持ちがくじけてしまいそうだから。こみ上げてくるものを必死に堪えながら、レナは門を潜り、サルバへと続く道を歩いていった。

「入るんだ」
 アレンに乱暴に振り払われ、レナはよろめきながら部屋に入った。
 町長バーンズ・タックス氏の屋敷は、サルバ鉱山の麓、坑道の脇に建っている。レナはその屋敷の一室に通された。
 絹天の幕が張りめぐらされた豪奢なベッドが部屋の左半分を占め、その傍らには花瓶と水差しを置く台があるのみ。硝子窓には頑丈そうな鉄格子が縦横に填め込まれている。
「さて。僕はまだ少し、やることがある。それまでこの部屋で大人しくしているんだ」
 その妖しく輝く眼で、レナを見据えて言う。
「間違っても、逃げようなんて気を起こさないことだ。……まあ、無理だとは思うがな」
 アレンは扉を閉めて部屋を出てゆく。靴音が遠ざかり、やがて消えた。
 レナは若草模様のシーツが張ってあるベッドに腰かけ、ほうっと息をつく。
 その瞬間、不意に緊張の糸が緩んだのか、急に目許から涙が溢れてきた。慌てて天井を向いて、高ぶる感情を再び心の奥に追いやる。
(だめだ。まだ早い。こんなところで泣いている場合じゃないんだ)
 泣くな、泣くなと自分自身に繰り返し言い聞かせて、やっとのことで落ち着きを取り戻した。
(……よし。まずは、ここから逃げ出さないと……)
 レナは立ち上がり、扉の前へ歩み寄る。取っ手を掴んで回してみると、なんとドアが開いた。鍵をかけ忘れたのか、それともよほど逃げられない自信があるのか。
 ……バカにしないでよ!
 レナは意を決して扉を開け、周囲を窺おうと顔だけ外に出した。するといきなり目の前にぬっと人影が現れた。
「おや」
「きゃっ!」
 レナは思わず悲鳴を上げてその場に尻餅をつく。そして膝を引きずりながら慌てて部屋に戻ろうとしたが。
「ああ、大丈夫です。私は害をなす者ではありません」
「え?」
 振り返ってみると、その者は片手に湯気の立つカップを乗せたトレイを持っている。白髪まじりの髪を短くこざっぱりと切りそろえ、口髭もきっちり左右対称になるよう整えられている。
「レナ様に、お茶でもと思いまして」
「あ……あなたは」
「私は旦那様……バーンズ様の執事です」
 レナには見覚えがあった。ずっと前に一度だけ、アレンと一緒に村に来ていたことがあったから。

「申し訳ございません、レナ様。坊ちゃんがあのようなことを……」
 執事は深々と頭を下げる。
「執事さん……アレンは、どうしてあんなふうになってしまったんですか?」
 レナが訊くと、執事は面目ないというふうにかぶりを振った。
「私にもわかりません。ただ……思い当たる節も、なくはないのです。かれこれ二週間前になりますか、この家の庭に小さな隕石が落ちまして」
「隕石?」
「ええ。私もちらっと拝見しましたが、このくらいの大きさ(と、両手で大きさを示す)の、鈍く光る緑色の石でした。もしかしたら貴重なものかもしれないということで、留守の旦那様の代わりに坊ちゃんが保管することになったのですが……。今にして思えば、それからではないでしょうか。坊ちゃんが変わってしまわれたのは」
 ──鈍く光る? 緑色に?
 レナが真っ先に思い浮かべたのは、アレンのあの瞳。
 アレンの豹変には、その石が関係しているのだろうか?
「あの、この屋敷から抜け出すことはできますか?」
「申し訳ございません。逃がしてさしあげたいのは山々ですが、屋敷の鍵はすべて坊ちゃんが保管しているので、私ではどうにもできないのです」
「じゃあ、窓とか、他の出口は?」
「窓には全て格子が填め込まれているので、ガラスを割っても抜け出ることはできません。他の出口は、私の存ずる限りでは無かったと思います。……いや、そういえば」
 と、執事は顎に手をやって考え込む。
「なんですか?」
「いえ、坊ちゃんはこの頃、よく書斎にこもってらっしゃるのですが、それが半日近くも出てこないことが度々ありまして。内側から鍵がかかっているので中を覗いたことはないのですが、部屋の前を通りかかっても、どうも中に人のいる気配がしないのです」
「気配が、しない?」
「はい。一度ノックをしたこともありましたが、返事はありませんでした。眠ってらっしゃるのかなと思い、そのときはあまり気にも留めなかったのですが……あ、そうそう」
 執事はポンと手を打って、付け加える。
「これは屋敷の小間使いから聞いたのですが、書斎の掃除をする際、坊ちゃんに『部屋の隅にある銅像には触るな』と念入りに注意されたそうです。もしかしたら、これも何か関係があるのかもしれません」
 レナは考える。
 アレンは「婚儀の準備が整った」と言った。ということは、ここ数日は婚儀の「準備」をしていたということになる。けれど、執事によると、彼はここ数日書斎に隠りきりだったという。書斎の中だけで婚儀の準備ができるとは、到底考えられない。だとすると……。
「あの、ちょっと書斎を見てみたいんですけど、いいですか?」
「ええ、構いませんよ。私がご案内します」
「いえ、執事さんはここにいてください。私と一緒にいるのをアレンに見られたりしたら、執事さんもまずいでしょう? 私はひとりで大丈夫ですから」
「確かに、そうかもしれませんな……お心遣い痛み入ります。書斎は廊下をまっすぐ行って、突き当たりの部屋です」
「わかりました。……あ、お茶、ありがとうございました。美味しかったです」
「どういたしまして」
 執事に軽く会釈すると、レナは部屋を出て廊下を走った。アレンはいつ帰ってくるかわからない。とにかく急がなければ。
 突き当たりの扉を開けて、書斎の中へと足を踏み入れる。部屋は思ったほど広くなかった。天井までぎっしりと本の詰まった書棚ひとつに簡素な机と椅子、それに悪魔のような生き物をかたどった銅像。それが、その部屋のすべてだった。
「銅像って、これかしら」
 壁際にあった像に歩み寄り、禿げ上がった頭を念入りに撫でる。後頭部のあたりで手応えがあった。覗き込むと、うなじのやや上の部分に、スイッチのような突起を見つけた。
「これだわ!」
 レナはスイッチを押した。部屋全体が小刻みに震えだす。そして、地鳴りのような音とともに、横の書棚が壁に沿って動いていく。
「あ……」
 書棚の置いてあった位置の壁に、ぽっかり穴が空いている。人ひとりが入るには充分な大きさの穴だ。書棚の動きが完全に止まったのを確認すると、レナはそっと中を覗いてみた。足許はきれいに整備された下り階段が続き、その先は薄闇の地下道になっているようだ。
 ──隠し通路。
 思った通り、アレンはここから屋敷を抜け出していたのだ。そして、この先には……。
(……行くしかないよね)
 レナは躊躇ためらったが、他に逃げ道はない。ここはいちかばちか、この通路に賭けてみるより他はなかった。
(お父さん……私を、見守っていてね)
 胸のペンダントを強く握りしめると、覚悟を決めて暗い階段を降りていく。彼女の手の中で、ペンダントは微かに光を放っていた。

4 婚儀 ~サルバ坑道~

 行けども続く暗闇の通路を、レナは手探りで横壁を確かめながら歩いた。足場は固くざらざらした土と岩が剥きだしで、お世辞にも歩きやすい道とはいえない。足を引っかけて転ばないよう、一歩ずつ、確実に奥へと進んでゆく。
(……?)
 ようやく目も暗闇に慣れてきたというとき、前のほうで何かが動く気配を感じた。暗い上に岩陰が邪魔をしていたためすぐにはわからなかったが、神経を研ぎすませて刮目かつもくすると、彼女が立っている数歩先の岩壁に人がうずくまっているのが確認できた。レナは駆け寄り、その者の肩を揺すってみる。
「大丈夫ですか? ……あ、あなたは」
 ねじり鉢巻きに薄手の作業服、そして顔の無精髭。レナはその男をよく知っていた。
「ボスマンさん?」
 顔はやつれ服も汚れていたが、間違いなくそれは大工のボスマンだった。アーリアの家では二人の子供が彼の帰りを待っている。
「おや……レナちゃんか……」
 ボスマンは顔を上げ、うっすらと目を開けてレナを見た。そして立ち上がろうとしたが、痛みに顔を歪め、再びその場に座り込む。右膝にかなり深い傷を負っているようだ。出血もひどい。
「動かないでください。いま治しますから」
 レナが傷口に手をかざし、口からひとつの呪紋を紡ぎだした。淡い光とともに、みるみる傷が塞がっていく。まだ幼い頃、とある出来事がきっかけで使えるようになった、不思議な力。他のひとには決してない、自分だけが持っている力。
「ありがとう、おかげで楽になったよ」
 ボスマンは今度はしっかりと立ち上がった。
「しかし、どうしてレナちゃんがこんな所に?」
「アレンに連れてこられたんです」
「アレン君に?」
「はい。婚儀を行うからって、強引に……」
「婚儀……ああ、そうか。あれはそのための……」
「どうかしたんですか?」
 レナが訊くと、ボスマンはかぶりを振る。
「私はアレン君に頼まれて、この坑道の奥に祭壇を造っていたんだよ。正直、私も気味が悪かったんだが、前金を受け取ってしまった以上、断るわけにはいかなくてね」
「祭……壇?」
 レナは不吉な予感がした。
「まさかそれって……」
「ああ、おそらく君との婚儀に使うつもりなんだろうな。今のアレン君は危険だ。もはや狂気の沙汰としか思えない。私も祭壇を完成させた途端に、秘密を守るためだと言って襲われた。どうにか逃げ出して、ここまで辿り着くことはできたが……」
 そこまで言うと、ボスマンははっとして背後を振り返る。
「……そうだ。こんなところにいては危ない。そろそろアレン君がここにやって来るはずだ。早く逃げなさい」
「でも、どうしたら……」
「この道はサルバ坑道に続いている。左の道をずっと行けば、坑道の入口に辿り着くはずだ。そこを抜ければ、街に、出られる……」
「ボスマンさん?」
 見ると、ボスマンは再び蹲っている。額に手をあて、苦しそうに顔をしかめる。
「……すまない。少し貧血を起こしているようだ。傷は癒えても、流れた血まで戻るわけじゃないんだな」
「ごめんなさい……」
「いや、レナちゃんが悪いんじゃないよ。それより、君は早く行くんだ。私のことなら心配ない。落ち着いたら屋敷に逃げ込むから。さあ、急いで!」
「……わかりました。ボスマンさんも気をつけて」
 レナはボスマンに別れを告げると、ひとり先に進んだ。
 通路の先が、少しずつ明るくなっていく。壁に据え付けられたランプの灯だ。同時に空気が急に冷えてくる。どうやら坑道に入ったらしい。足許は相変わらずでこぼこしていたが、ランプが道を照らし出してくれるので、随分と歩きやすくはなった。それでも、近くにいるかもしれないアレンに気づかれないよう、慎重に歩を進める。
 ほどなく道はふたつに分かれた。ボスマンに言われた通り左の道を選ぶ。その先の分岐も左に折れる。すると、道の先に白い光が見えた。ランプの灯ではない。それは、陽の光だった。
 やっと出られた!
 レナは嬉しくなって、思わず駆け出してしまった。その姿は坑道内を見張っていた男の目にはっきりと捉えられ。
「おい、待て!」
 レナの心臓が跳ねた。立ち止まって振り返る。最後の分岐のさらに向こうから、アレンの用心棒──アーリアでレナの前に立ちはだかった禿頭の男だ──が、巨体を揺らしてこちらにやって来ている。
「女がいるぞ! 捕まえろ!」
 大男が叫ぶと、坑道の入口からも男たちが駆け寄ってきた。挟みうちだ。レナは咄嗟に横道へと逃げこむ。
「待ちやがれ、こら!」
 怒号を発して男たちも追いかけてくる。レナはがむしゃらに走った。息が切れ、足がもつれて転びそうになるのも構わずに、必死に走り続けた。そして走りながら、軽率な自分を心底恨んだ。
 途中までは気をつけて歩いていた。けれど、出口が見えた途端に浮かれて駆け出してしまった。もしあのときちょっとでも周りを確認していれば、男たちをやり過ごして、うまく逃げられたかもしれなかったのに──!
 どのくらい走ったのだろうか、気がつくと前方に明かりが見えてきた。陽の光とはまた違った、ほのかな橙色の光だ。考えている余裕などない。光の方向へと突き進み、思いきって光に飛び込んだ。
 明るさに目が慣れるのに、しばらく時間がかかった。瞳を細めてその場所を見渡す。かなり広大な空間のようだ。石積みの壁。ずらりと並んだ燈台。部屋そのものがゆらゆらと揺れているように感じるのは、橙色に燃えさかる蝋燭のせいだろうか。部屋の中央には赤い絨毯が真っすぐ道のように敷かれ、その両脇にいくつもの長椅子が整然と置かれている。絨毯の紅の帯を目線で辿っていくと、一段高くなっているところで途切れている。段差の上には奇妙な装飾が施された直方体の石が置いてある。石の棺か、それとも。
「祭壇……?」
「その通り」
 レナは息を呑んで振り返った。
「アレン!」
「さすがは我が花嫁。自ら婚儀の場に足を運ぶとはな」
 アレンがつかつかとレナの前に歩み寄る。レナはその横をすり抜けて逃げようとしたが、アレンに腕を掴まれる。そしてそのまま彼はレナを引きずるように祭壇へと向かっていった。
「いやっ!」
 レナはなんとか振り解こうと抗った。そんな彼女を煩わしく思ったのか、アレンは不意に彼女の腕をひねり上げ。
「騒がしい子猫だ」
 拳で鳩尾みぞおちを突いた。鋭い痛みが電撃のように脳天を貫き、たちまち意識が遠のく。ぐったりと倒れこむレナをアレンは両腕で抱きかかえ、祭壇へと登っていく。
「……ついにこの時が来た……」
 レナを祭壇に寝かせて、アレンは冷たく笑った。緑の瞳はいよいよ輝きを増していく。

 次にレナが気がついたのは、祭壇の上だった。ぼんやりと霞んだ視界のまま頭を動かす。仰向けに横たわる自分を前にして、アレンが立っている。レナははっとして祭壇から降りようとするが、手足がなにかに引っかかって動きがとれない。いつの間にか両手両足に鉄のかせが填められていたのだ。
「ようやく目覚めたか、花嫁よ」
「あ……」
 レナが喘いだ。もはや彼女は完全に無防備だった。
「大人しくしていろと言ったのに。まったく、聞き分けのないじゃじゃ馬だ」
 憮然とレナを見下ろすアレン。その視線には愛情の欠片かけらなど微塵もなかった。
 生贄だ。この目は、神に捧げる生贄を見る目だ。
(これが、こんなのが婚儀だっていうの?)
 レナの眼に、大粒の涙が溢れる。悔しいのか、悲しいのか、辛いのか、自分でもわからなかった。口許を歪めて必死に堪えようとするが、堰を切ったように涙は止まらず、蟀谷こめかみを伝って流れ落ちていく。
「怖いのか、レナ?」
 アレンは微笑んだ。だがその笑顔も、まるで吹雪のように冷たかった。
「心配ない。君もすぐにこの石の虜になる。それまでの辛抱だ」
 そう言って、懐から翠色の石を取り出す。そして祭壇の上にそっと掲げると、石は宙に浮いて、不気味な霊気のようなものを放ち始めた。
「お願い……アレン、もう、やめて……」
 レナが声を震わせて哀願する。アレンはそれを鼻で笑い、足許から黒光りする小さな木箱を取り出した。
「────!」
 箱を開けて中から取り出したのは、黄金色に輝く短剣。ぎらりと光る刃の輝きを目にした瞬間、レナの意識は遠のいていく。
(気絶しちゃうのかな、私)
 まだ微かに残る意識の片隅で、レナは思った。
(でも、その方が楽かもしれない。もう、これで苦しまなくて済むから──)
 くらき場所へと堕ちていく少女。そっと目を閉じ、眠りに就こうとしたその刹那、何かが脳裏をよぎった。
(……え?)
 それは若者。金色の髪を靡かせ、光の剣で少女を救った。彼女の言葉に照れくさそうに笑ってみせた、あの笑顔が目の前に蘇る。
 ──どうしてクロードさんが出てくるんだろう。
 ──もしかして助けに……ううん、来てくれるはずないじゃない。だってクロードさんは……。
 ──でも。
 でも。
 レナは、口ずさんでみた。幼い頃からずっと想い続けていた、その名を。

「勇者様」

 そのとき、光が炸裂した。

「なっ!」
 迸る一条の光を、アレンは身をかがめて躱した。光は背後の岩壁を灼き、溶かした。
「貴様は……」
 アレンは立ち上がり、その者を見た。部屋の中央、紅の絨毯の上に、彼は立っていた。両手で奇妙な武器を構え、油断なくアレンを睨んで。金髪は燈台の明かりに照らされ、まさに燃え立つ炎のごとく輝いている。
「……ああ……」
 レナも首を動かして、その姿を見た。まだ意識は朦朧としていたが、そのことははっきりと理解できた。瞳を細めて微笑む。やっと、やっと来てくれた。
「こんの、クソガキぃっ!」
 突然、部屋の入口からアレンの用心棒たちがなだれ込んできた。クロードは光の武器を仕舞うと、代わりに腰に帯びていた剣を抜いた。襲いかかる男どもに向き直り、そして構える。
「衝裂破!」
 気合いと共にクロードは剣で自分の周囲に弧を描くように振り抜いた。すると剣の軌跡がそのまま衝撃波となって、襲いかかってきた男たちを吹き飛ばした。壁に激しく身体を打ちつけられた男たちはあえなく昏倒する。
「そこで止まれ」
 こちらへ向かってきたクロードに、アレンは短剣をレナの首筋に突きつけながら言った。クロードは階段の手前で立ち止まる。
「お前がアレンか。レナを連れ去って、こんなことをして、いったい何のつもりだ。今すぐ放すんだ!」
「嫌だね」
 アレンは、レナに突きつけていた短剣をクロードの足元に投げつけた。儀式を邪魔され気分を害されたのか、いくらか苛立っているようにも見える。
「今は神聖な婚儀の最中だ。この期に及んで邪魔はしないでもらおう。これから僕らは契りを交わす。ひとつになるんだ」
「婚儀? これが婚儀だって?」
 クロードは顔をしかめた。
「ふざけるな。こんな婚儀があってたまるか。こんな一方的な、おぞましい儀式が……」
「一方的?」
 その言葉に、アレンは過敏に反応した。
「そんな馬鹿な。一方的なんかじゃない。僕らは愛し合っているんだ。……愛し、あって……?」
「…………?」
 アレンの様子に異変が見られた。身体は小刻みに震え、額には脂汗が浮いている。そして、その視線はクロードではなく、レナでもなく、彼女の胸の中心に向けられていた。レナは頭を持ち上げて胸許を見る。そこは仄かに輝いていた。服の中に仕舞いこんだペンダントの飾り石。それが光を放っている。
「愛して……アイ、シテ……アイ……」
 アレンは譫言うわごとのように呟く。ペンダントは明滅を繰り返し、それに共鳴するかのように、翠の石も浮遊しつつ光の波紋を生じさせる。
「ぐっ……があぁっ!」
 突如、アレンが猛獣めいた咆哮を上げた。同時に祭壇の上の石がカッと白熱する。そして石から迸った閃光がアレンの身体を貫き、壁際まで吹き飛ばした。
「レナ!」
「クロードさん!」
 アレンが倒れた隙に、クロードは祭壇に駆け寄り、レナの両手両足についていた枷を外す。ちょうどすべて外し終えたところで、空中の石が再び閃光を発した。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 飛び散る閃光の衝撃にふたりは弾かれ、床に投げだされる。クロードが片膝をついて祭壇に目を遣ると、そこには右手で顔を覆い、苦しそうに呻くアレンが立っていた。
「ぐ……ぐ……ぐおおぉぉぉぉっ!」
 咆哮が坑道に轟き、天井がびりびりと振動する。そして、それは起こった。
 細くしなやかだった彼の身体がみるみるうちに変色し巨大化していく。高価な服もマントもその大きさに耐えきれず引き裂かれ、そこから筋肉質の腕や肩を覗かせた。黒く隈の浮いた目は吊り上がり、口も耳のあたりまで裂け、まさに猛獣のそれに近い牙が口許から突き出ていた。
「そ……んな……まさか!」
「アレン……!?」
 醜悪な怪物となり果てたアレンは祭壇を乗り越え、二人の前に降り立った。
「レナ、下がっていて」
「クロードさん……」
 レナを背後に隠すように、クロードは怪物の前に進み出た。そして、身構える。
 怪物がクロードに襲いかかった。どっしりした体格のわりに動きは速い。クロードは横ざまに跳んで、充分な間合いを取ってから斬りかかった。怪物の繰り出した右拳は一瞬早く屈んで躱し、中腰のまま素早く懐に潜り込んで怪物の横腹を斬りつけた。そして再び間合いを空けようとしたが、怪物の左腕が思わぬ早さで襲いかかった。クロードは突き飛ばされ、長椅子をいくつか巻き込みながら吹っ飛んだ。
「クロードさん!」
 駆け寄ろうとする彼女を、怪物はぎょろりと睨みつけた。レナの足が竦む。怪物がこちらへと向かってくる。レナはきっと睨み返した。
 私だって……!
 両手を前に突きだして、彼女は唱えた。護身用に覚えた、ひとつの呪紋を。
「プレス!」
 怪物の頭上に巨大な鉄の塊が出現した。それは重力に従って落下し、鈍い音を立て怪物の脳天に命中すると、すぐに幻のようにかき消えた。首の骨がどうかなってしまったのか、怪物は首を横に傾げた状態のまま、ふらふらしている。レナはその隙にクロードの許へ走った。
 長椅子は激突により破砕され、木材の瓦礫と化している。彼はその中から自力で抜け出しているところだった。
「だいじょうぶですか」
「レナ……早く逃げた方がいい……くっ」
 クロードは蹌踉よろめきながらもどうにか立ち上がる。そして、左手で右腕を押さえて呻いた。
「腕、どうしたんですか?」
「大したことない。ちょっと擦りむいただけ……」
「いいから、見せてください」
 レナは無理矢理クロードの左手を引きはがして右腕を見る。そこは不自然なほどに赤く腫れ上がっていた。突き飛ばされたときに長椅子の脚にでも打ちつけたのだろうか。
「ひどい怪我じゃないですか。いま治します」
「え? 治すって……」
 怪訝な顔をするクロードにも構わず、レナは掌を彼の腫れ上がった右腕にかざし、囁きかけるように呪紋を唱えた。柔らかな光が右腕に伝わり、徐々に彼の身体全体を包み込む。気がつくと腫れはすっかり癒えて、打撲による全身の痛みも和らいでいた。
「これは……?」
「呪紋ですよ。治癒の」
 不思議そうに自分の身体を見回すクロードに、レナは答えた。
「治癒の呪紋……そんなものが、あるんだ」
「ええ。それよりクロードさん、どうして光の剣を使わないんですか?」
「え? ああ、こいつはもう、使えないんだ」
 不思議な顔をするレナに、クロードは頭を掻いた。
「使えない?」
「うん……なんて言えばいいかな。この武器にはエネルギー……力の源みたいなものが込められていて、それは使っていくと少しずつ減っていくんだ。さっきここで使ったので、その『源』はすっからかんになってしまった。だから、もうこれは武器として使えない」
 使えない。その事実が、レナを不安にさせた。光の剣がなくて、あんな怪物を倒せるのだろうか。
「とりあえず、この剣だけで何とかやってみるさ」
 クロードは瓦礫の下から剣を引っぱり出し、立ち上がった。首を自力で直した怪物が、こちらに向かってきている。
「クロードさん……無理はしないでください」
「ああ。ありがとう」
 レナはクロードから離れた。クロードは再び剣を構える。
 怪物が叫び狂いながら突進してきた。図太い腕を棍棒代わりに叩きつけるが、クロードは背後に跳躍して避ける。怪物の右腕は虚しく地面を砕く。長椅子の瓦礫がさらに粉砕され、あたりに飛び散った。
 怪物はクロードを執拗に追いかけ、拳を、足を、時には頭突きを繰り出したが、クロードもことごとく躱していく。しかしクロードにしても反撃の糸口がつかめない。間合いを取ろうにも怪物はすぐに詰め寄って攻撃を仕掛けてくる。一瞬でもいい、どうにかして相手の動きを止めさせなければ。
 そう考えたとき、クロードの背に何かがぶつかった。壁だ。いつの間にか壁際まで追いつめられていたのだ。だがクロードはこれを幸運とばかりに口許を歪め、背中を壁にぴたりとつけるようにして怪物と向き合った。怪物がクロードの顔面めがけて右拳を突き出す。待っていたとばかりにクロードが横に跳び退くと、怪物の右腕は深々と壁を砕いて突きささる。怪物はすぐ次の攻撃に移ろうとしたが、壁に填った右腕がなかなか抜けない。動きが止まった隙を狙ってクロードは剣を大きく振り上げ、その填り込んだ右腕めがけて振り下ろした。一刀両断、青黒い腕は真っ二つに斬り落とされ……るはずだった。しかし、その丸太のような腕は想像以上に堅かった。刃は僅かに皮膚の表面を傷つけたのみで止まってしまった。
 怪物は怒りの形相でクロードを睨む。そして放心する若者の腹に膝蹴りを喰らわすと、クロードは反吐へどを吐いてその場に倒れ込んだ。やっとのことで右腕を抜いた怪物は、地面にうずくまるクロードの頭をその大足で踏みつぶす。石畳が割れ、クロードの頭がめり込んでいく。
 この状況に、レナはすかさず呪紋を唱えようとしたが、すぐに思い止まる。今ここでプレスを唱えて鉄の塊を落とせば、その衝撃でクロードの頭をも潰しかねない。
「どうしよう……」
 それでも、どうにかしてクロードを助けなければ。レナは決意して傍らに落ちていた長椅子の脚の破片を拾うと、勇ましく怪物に打ちかかった。だが怪物はうるさい蠅でも振り払うように呆気なくレナを払い退ける。突き飛ばされたレナは背中で床を滑り、祭壇の段差の石に身体を打ちつけて気を失いかけた。
「レナ……!」
 クロードは必死に頭を上げようとするが、怪物も踏みつける足にいっそう力を込める。地面に半ば顔を埋めながら、クロードは声を振り絞って叫んだ。
「逃げろ、レナ! 君だけでも……」
 意識が遠のきかけていたレナは、その声で正気に返った。そして、ふと自分の胸許を見る。ペンダントの飾り石が再び光を放っている。鎖を引っ張って服の中からペンダントを取り出すと、翡翠色の小さな宝石は時の流れそのもののようにゆらゆらと明滅していた。
 この光……どこかで見たような……?
 レナははっとして上を見た。頭上にはアレンが持っていた翠の石があった。宙に浮かび、同じような明滅を繰り返す、あの石が。
 そのとき、レナの脳裏にあることが閃いた。
 ──アレンは、この石のせいでおかしくなった。
 ──もしかしたら、怪物になってしまったのも、この石のせいかもしれない。
 ──それなら……。
 レナは祭壇に両手をかけ、その上によじ登った。彼女の眼前には、まるでこの光景を眺めて悦に入るかのように輝く石がある。
(この石がなくなれば──!)
 意を決して、レナは石を掴んだ。その途端、奇妙な感覚が掌から彼女の身体を駆けめぐり、背筋を震わせる。それでも怯まずしっかり石を握りしめると、祭壇下の床に力いっぱい叩きつけた。少女の細腕では石を完全に砕くことは適わず、地面に激突した石はわずかに角の部分が欠けたに過ぎなかった。
「がっ……ぐわおぉぉぉぉっ!」
 だが、その瞬間、怪物は凄まじい呻き声を上げてその場に蹲った。そして祭壇で茫然とするレナをぎろりと睨むと、醜い顔をさらに憎悪に歪めて突進してくる。レナは祭壇を跳び降りて逃げ出す。しかし、怪物の狂気じみた双眸はしっかりとレナを捕捉し、呪紋を唱えさせる間も与えずに、彼女を祭壇の裏の壁に追い詰めた。
「……っ!」
 左腕の一撃は横に倒れこむようにして躱した。壁が抉られ、岩の破片が飛び散る。起き上がろうする彼女に、怪物は容赦なく拳を突きだした。レナは目を瞑り、身を固くしてすぐに来るだろう衝撃に備えた。
 だが、いつまで待っても衝撃は訪れなかった。そっと眼を開けてみると、目の前の怪物は拳を突きだした体勢のまま、悪趣味な石像のように固まっていた。そうしてすぐに、力という力が抜け落ちたように倒れこむ。怪物の巨体はみるみるうちに縮み、最後には人の姿……元のアレンの姿に戻っていた。
 レナはその場に座り込み、茫然と目の前の青年を眺めた。 ──いったい、何が起きたのだろう。
 気の抜けたように視線を周囲に向けると、祭壇の手前で同様に倒れ込むクロードを見つけた。そこでようやく理解できた。
 彼は剣を床に突き立て、その剣にすがりつくようにうつぶせになっている。そして突き立てた剣のまわりには、今は黒っぽく変色した翠の石の破片が散らばっていた。
 怪物がレナに襲いかかるより一瞬早く、クロードが剣で石を砕いたのだ。
 レナはすぐにクロードのところへ駆け寄り、仰向けにして治療を始めた。
「情けないよな、ほんとに」
 眩しいように薄く眼を開けて、クロードが言う。レナは治療を続けたまま。
「何とかするって大見得きったのに、このザマだ。君にも助けてもらっちゃって……情けないよ」
「…………」
 治療を終えると、レナは俯いた。
「これでわかったろ? 僕は勇者じゃない。こんな情けない奴が勇者なわけがない。僕には、これが精一杯なんだ」
「そんなことありません」
 膝に置いた手を握りしめて、レナは言った。
「情けなくなんかない。クロードさんは、私を助けてくれました。お話の中の勇者様みたいに」
「レナ……」
 クロードはレナを見た。前髪に隠れて表情はわからない。三日月の髪飾りばかりが、小刻みに揺れている。泣いているのかもしれない。
「私は信じてます。あなたは勇者様です。強くて、優しくって勇敢で……。誰もそう思わなくたって、私はずっと信じてます。それは絶対、ぜったいなんだから……」
 揺らめく炎が照らし出す小さな影を、クロードは無言で見つめていた。

5 星降る夜の決意 ~アーリア(2)~

 机の上で、ランプがほのかに輝いている。隅に置かれた調度品、壁の風景画、部屋の中のありとあらゆるものが、灯の明かりを受けて、光と闇の対比コントラストを織りなす。
 レナは、その灯をじっと見つめていた。まるで火の精がダンスしているみたいに、灯心は硝子の奥でじりじりと輝いては燻ぶり、また輝く。
 夜の帳と心地よい静寂は、人々を夢と幻想の世界へ誘う舞台でもある。少女はこの舞台の上で幾度となく想いを馳せ、憧れを抱き、そして密かに恋心をも抱いていた。誰にも言えない、まだ見ぬ者への、恋。
 少女は不安だった。事実を知ってしまったあの時から、少女は自らの存在を問いかけ続けてきた。自分はいったい誰なのか。決して答えの出ることのない自問は少女を苦しめ、怯えさせた。人前ではあくまで気丈な振る舞いをみせ、『元気な女の子』を演じていた彼女も、夜の静寂の舞台では憶病で敏感な少女となっていた。
 恋が芽ばえたのはそんな頃だった。自分の存在に不安を覚えた少女が、未だ存在していない『勇者』に恋をするのは、思えばごく自然なことだったのかもしれない。けれどそれは、夜の静寂が創り出す、幻想の舞台での恋物語。現実には決して起こり得ない『恋』のはずだった。
 だが──。
「どうしたの?」
 不意にクロードが声をかけてきた。レナは慌てて目線を上げて返事をする。
「え? なんですか?」
「いや……さっきからずっと、ぼうっとしてたみたいだから」
「あ、そうでしたか?」
「疲れているのなら、家へ帰って休んだ方がいいんじゃないか?」
「大丈夫です。すみません、心配かけて」
 レナは向かい側に座っている彼に軽く微笑してみせた。
 アレンの事件は奇妙な石を破壊することで、誰ひとり犠牲を出すことなく収束した。迷惑をかけた詫びをしたいと引き止めるアレンに、レナはお母さんが心配してるからと断り、クロードとふたりでアーリアへ戻った。ウェスタと無事を喜び合ったあと、ふたりは村長レジスの好意で屋敷に招かれた。夕食を済ませ、今はクロードが事の経緯をレジスに話しているところだった。
「改めてお礼を申し上げねばなりませんな」
 と、レジス。
「一度ならず二度までもレナを救っていただいて……」
「いえ。ともかくレナが無事で、よかったです」
 クロードは昨日に比べると表情も声も明るい。レナもそれには少し安心したようだった。
「しかし結局のところ、今回の事件は何だったのでしょうな」
 ふうっと息をついて、レジスは言った。
「アレンが持っていた奇妙な石。あれは一体何だったのか……」
「彼の話では」
 クロードが答える。
「石を手に入れてから元の姿に戻るまでの間のことを、まったく覚えていないそうです。石に操られていた……不思議な話ですが、本当にそうなのかもしれない」
「石で、魔物になる……」
 レナがおもむろに口を開いた。
「まるで、ソーサリーグローブみたい」
 レジスはレナを見た。彼女は相変わらず夢でも見ているかのように、ぼんやりと部屋のどこかを見つめているばかり。
「確かに……そうじゃな。もしかしたら何らかの関係があるのかもしれん」
「ソーサリーグローブ、か」
 そう呟くクロードに、レナは慌てて取り繕う。
「あ、あんまり気にしないでください。ちょっとそんな気がしただけですから」
 しばしの静寂。外では秋の終わりを惜しむ虫の声が部屋の中にまで響きわたる。
「……少し、考えたんです」
 クロードが沈黙を破って、言った。
「この村でも、サルバの街でもソーサリーグローブの噂をたくさん聞きました。そして思ったんです。これはもしかしたら、僕たちの世界に近い存在なんじゃないかって」
「クロードさんの世界では、こういうことがよくあるんですか」
「いや、僕の世界でも不思議なことには変わりないよ。ただ、そう考えることで、ある程度は説明のつく部分もあるんだ」
 クロードはランプを眺めながら、続ける。その表情は昨夜が嘘だったように、落ち着いていた。
「もし、僕が考えた通りだとすれば、元の世界に帰る手段も、そこにあるのかもしれない」
「それでは……」
 目を見開くレジスに、彼は頷いてみせた。
「ソーサリーグローブを、調査したいと思います。勇者としてではなく、僕自身の意思で」
 レナははっとした。彼の姿に、静かに燃える炎のようなものを感じたのは、決してランプの明かりのせいばかりではなかっただろう。
「……ふむ」
 レジスもそれを感じ取ったらしく、髭を弄りながら何度も頷いている。
「我々は大きな勘違いをしていたようじゃな」
「何がですか?」
 クロードが訊くと、レジスはニヤリとした。
「勇者は現れるものではなく、ここから生まれ出づるものだということに」
「え? いやだから、そうじゃ……」
「ふぉっふぉっふぉっ」
 声を上げて笑う老人に、クロードはため息をついた。
「まあ、そういうことであれば、我々も微力ながらお手伝いいたします。旅立ちは明日ですかな?」
「はい。明日の朝、出立しようと思います」
 机の上のランプが、ちりちりと音を立てて光を弱める。レジスは席を立ち、棚に仕舞ってある油の入った器を持ち出し、受け皿に油を注ぎ足した。ランプは再び強く光を放ち始める。
「あの……」
 そのとき、しばらく黙っていたレナが口を開いた。
「クロードさん、私も一緒に行っては、だめですか」
「え?」
 クロードが訊き返す。同時にレジスの顔が険しくなった。
「私もなにかお手伝いしたいんです。迷惑でなければ、ぜひ連れて行ってください」
「別に迷惑じゃないけど……。だいいち、君をそんな危険な目に遭わすわけにはいかないよ」
「それは覚悟してます。どんなに辛くても、決して弱音は吐きません。それに、私も少しなら戦えます。治癒の力もきっと役に立ちます。だから……お願いします」
「そうは言っても……」
 クロードは返答に窮して、助け船を求めてレジスに目を向ける。
「村長様も何か言ってやってください」
 レジスは腕を組んで瞑目したまま動かない。まさかこんなときに寝ているんじゃないかと、クロードがまじまじと顔を覗き込んだとき、ぱっと目が開いた。
「いや……レナの言う通り、連れて行ってはもらえませんか」
「村長様……」
「レナはきっと、あなたの旅の助けになるでしょう」
 頼みの綱のレジスにまで言われてしまい、困ったように頭を掻くクロード。そして、ふうっと嘆息して。
「……わかりました」
 ついに彼も折れた。
「でも、ちゃんとお母さんの了解を得てからだよ。そうでなければ連れて行けないからね」
「はい。ありがとうございます」
 レナは笑った。久しぶりに見せた、ほんとうの笑顔だった。

「最近は随分と冷え込むようになったわい」
 屋敷の扉の前で、レジスが肩をすぼめながら言う。
「レナ、気をつけて帰るんじゃぞ」
「大丈夫ですよ。私の家はすぐそこなんだから」
「ふむ。儂は先に家へ入っておるよ」
 レジスは扉を開けてそそくさと屋敷の中へ入っていく。その場にはクロードとレナだけが残された。
「やっぱり迷惑でしたか? 一緒に行くなんて言って」
 レナはクロードに背を向け、腰の後ろで手を組んだ。
「いや、そんなことはないよ……」
 クロードはその背中を見つめながら答えた。ふと、レナが振り向き、目と目が交錯した。冷たい木枯らしが吹き抜け、クロードの金髪を、レナの青い髪を揺らしていく。
「クロードさん……私……」
 レナが言いかけたとき、屋敷の扉が開き、レジスが顔を出した。
「なんじゃ、まだ帰っておらんかったのか。……ん?」
 咄嗟にお互いそっぽを向くふたりを見て、レジスは訳知り顔で。
「もしかして、お邪魔だったかの?」
「おやすみなさい」
 レナは早口にそう言い置いて、駆け足で家までの小径を走っていった。

「ただいま」
「ああ、おかえりなさい」
 ウェスタは台所で食器の後片づけをしていた。レナはしばらく玄関で躊躇ちゅうちょしていたが、覚悟を決めて、母親のところへ歩み寄る。
「お母さん」
「ん、なあに? 夕食なら村長様のところで済ませてきたのでしょう」
「ううん。そうじゃなくて。……あのね」
 一呼吸おいて、レナ。
「クロードさんが、ソーサリーグローブを調べに行ってくれるって」
「あら、そうなの?」
「うん。それでね……私も、一緒に行こうと思うの」
 ウェスタの食器を持つ手がピクッと反応した。眉尻を下げ、震える手で食器をかろうじて流しに置くと、そこにもたれ掛かって喘いだ。
「そんな、なんで……」
 レナは彼女の動揺の意味を理解していた。ウェスタが何を思っているのか、よくわかっていた。それでもレナは敢えて、明るく話しかけた。あたかも旅の予感に胸ときめく、夢見がちな少女のように。
「いくらクロードさんでも、たったひとりじゃ大変だと思うの。土地勘だってないんだし」
「でも、どうして……」
 ウェスタは首を何度も振り、手で顔を覆う。見るからに辛そうな母親の姿に、レナは演技をやめて、下を向いた。
「ごめんなさい、お母さん」
 そして決意を固めて、言った。
「私、私ね……ほんとうは」
 そのとき、玄関の扉が開いた。家に入ってきたのは村長レジス。杖をつき、腰をくの字に曲げてゆっくりと歩いてくる。
「夜分遅く済まない。ウェスタや、少しいいかのう……」
「…………」
 レナは、自分がここにいてはいけないような気がした。いや、ここにずっといれば自分にとっても辛いことになるに違いない。そう直感的に感じ取った。
「……私、外の空気吸ってきます」
 そう言うと、レナはウェスタに背を向け、レジスの横をすり抜けて、家の外へと出ていった。
 冷たい空気が彼女の頬をひんやり撫でる。晩秋のアーリアは、昼間はそれほどではないにせよ、夜になれば吐く息も白くなるくらいに寒くなる。レナは静かに村の小径を歩きだした。虫の声と、川のせせらぎと、そして自分の足音以外は何も聞こえない。
 レナはひとつの旋律を鼻歌で歌い始めた。静寂と不安に押し潰されそうになると、彼女はいつもこの旋律を口ずさむ。誰に教わったわけでもなく、身体が覚えていたメロディ。その神秘的で暖かな旋律は、まるで母の温もりのように感じた。もしかしたらこれは、本当の母親が幼い自分に歌ってくれた、子守唄だったのかもしれない。
 レナの鼻歌が止まった。川に架けられた石造りの橋に、誰かがいる。
「……だめだ、やっぱり距離が離れすぎているんだろうな……」
 それはクロードだった。手に持っている何かを口惜しそうに見つめながら、呟いている。レナが近づくと彼はそれに気づき、さっと手に持っていたものを懐に隠す。
「眠れないんですか?」
「え……うん、まあね。レナもかい?」
 レナはクロードの横に立つと、石橋の手すりに身を乗り出すように寄りかかる。
「私が行くって言ったら、お母さん、すごく驚いてました」
「だろうね。……ダメだって?」
「そうは言いませんでした。それで、そのあと村長様が来て……」
「……そうか」
 レナは空を見上げた。雲ひとつない、澄みきった星空。数多の宝玉を散りばめたように白や赤や黄色に輝く星々は、暗闇の中で美しく、そしてどこか淋しげに煌めいている。
「きれいですね」
「え?」
 レナに言われて、クロードも同じように星空を振り仰ぐ。
「まるで、星の海みたい……」
「……そうだね」
 アレンの事件のときもそうだった。こうして彼のそばにいると、なんだかすごく安心できる。クロードがいるだけで、クロードと話しているだけで、これまで背負ってきた不安がどこかに消えてしまい、偽りの自分を演じようとは思わなくなる。誰にも話したことのなかった、私のほんとうの気持ちを、クロードにだけは知ってもらいたい。そんな気がしてくるのだ。
「クロードさん、私があなたと一緒に行きたいのは、訳があるんです」
 だから、彼女は語った。自分の、本当の気持ちを。
「訳?」
 レナは視線を落とし、橋の下を流れる川に目を遣った。
「私のお母さん、ほんとうのお母さんじゃないんです」
 クロードは怪訝な表情でレナを見る。レナはさらに続けて。
「お母さんや村長様は私が知らないと思っているみたいですけど……前に、二人が話しているのを聞いたことがあるから……」
「そう……なんだ」
 クロードは肩を落とし、レナと同じように足許を流れる川を眺める。
「本当のお母さんを捜したいのかい?」
「できたら、そうしたいと思ってます。けど手がかりは、このペンダントだけですし……」
 レナは服の中から翡翠色のペンダントを取り出してみせた。アレンの石に反応するかのように光っていた飾り石は、今は微かな星の光にちらつく程度に輝いている。
「でも、このペンダントを持たせてくれたということは、少なくとも私を産んだひとは、私を愛してくれていたんだと思うんです」
「今のお母さんはどうなるんだい? 君を愛し、慈しみ、育ててきたウェスタお母さんの気持ちは……」
 クロードがそう言うと、レナは再び星空を見上げる。その表情には安らかな笑みも零れていた。
「私、お母さんのこと、大好き。私のお母さんはたったひとり、ウェスタお母さんだけです」
「だったら、どうして……」
 星は瞬く。冷たく、そして暖かく。レナは星の一群から離れたところで、ぽつりと弱々しく明滅するひとつの星を見つけた。今にも消えてしまいそうな光を絶やすまいと必死に放ち続けるその星に、彼女はどこか、哀しみを覚えた。
「私はいったい誰なのか。それが、知りたいんです」
 空に向かって。あの星に話しかけるように。
「どうして神護の森にいたのか。どうしてこんな耳をして、治癒の力を持っているのか。そして、私を産んでくれたひとは、どこで何をしているのか。それが知りたいんです」
 そこまで言うと、レナはクロードに面と向かって。
「私はあなたと行きます。ここを離れるためではなく、再び戻ってくるために」
 クロードは何も言わず、ただじっとこちらを見つめるばかり。レナはそんなクロードに気がつくと、少しはにかんで言う。
「もう夜も遅いですね。変な話をしてすみませんでした」
「……いや」
「おやすみなさい」
 恥ずかしさをごまかすように早口で言って、レナは家に続く道を走っていった。橋の上にひとり取り残されたクロードは、立ちつくしたままレナの姿を見送る。
 彼らの上で星は瞬く。冷たく、そして暖かく。一面の星空を横切って、星がひとつ、誰にも知られず流れ落ちた。

 翌朝、レジスとウェスタをはじめ、村の者たちが総出でふたりの出立を見送った。アレンの一件からようやく家へ帰ることができた大工のボスマンも、子供たちを引き連れて元気な姿をみせた。
「道中、気をつけるんじゃぞ」
「平気ですよ、クロードさんがいますから」
「ふむ。そうじゃな」
 レジスがクロードに目配せすると、彼は照れながらも頷いてみせた。レジスも満足そうに頷き返す。
「レナ……」
 ウェスタが娘の前に進み出る。
「心配しないで、お母さん。私は必ず戻ってくるから」
 レナはいつもの笑顔で言った。
「『ただいま』を言うために『行ってきます』を言うの」
「ええ、そうね。でも……」
 ウェスタはレナの頬を優しく撫でる。
「もう一度だけ、よく顔を見せて……」
「……お母さん」
 愛しそうに彼女の顔を眺めるウェスタに、レナは瞳を細めて、言った。
「だいじょうぶ。離れていても、お母さんはずっと、私のお母さんだよ。これからも、ずっと」
「……ああ、レナ……!」
 ウェスタはレナを強く抱きしめ、ぽろぽろと涙を零した。レナもそっと背中に腕を回し、そのぬくもりを身体全体で感じた。
「ウェスタ」
 レジスが呼びかけると、彼女はゆっくりとレナを放し、涙を拭った。
「早めにクロスに着いておきたいんじゃろ。もう出発しなくては」
「クロス城の王に会えばいいんですね」
 クロードがレジスに確認した。
「ええ。私の書状を見せれば信用してもらえるはずです。そこで多くの情報も手に入るでしょう」
「クロスの王様なら私も知ってます。優しい方だから、きっと協力してくださいますよ」
 レナは昔に一度だけ、父親に連れられてクロス城に行き、そのとき王にも会ったことがあるのだ。
「じゃあ、行こうか」
 クロードの言葉にレナは頷き、そしてウェスタに向かって。
「行ってきます、お母さん」
「行ってらっしゃい、レナ……」
「クロードさん、レナをよろしくお願いします」
「はい」
 クロードとレナは村人たちに背を向け、歩き出す。門を潜り抜け、村の外へと遠ざかっていくふたつの影を、ウェスタとレジスはいつまでも見つめていた。


 異国の少年と不思議な力を持つ少女は、星の運命さだめに導かれるまま、今ここに出会い、旅立った。
 そしてまた、運命の名のもとに集うべき者が、ここにいた。

 荒れ果てた岩肌の道を、男が黙々と歩いている。細身の体格、風に靡く水色の長い髪。男にしては、どことなく女性めいた風体でもあった。だが、その双眸は、獲物を求める飢えた獣のような鋭さと冷たさを孕んでいた。それだけが、彼が男であり、戦士である証拠であるかのごとく。
 男は周囲に殺気を感じ、立ち止まる。いつの間にか魔物の群れに囲まれていたのだ。斧を持つ大蜥蜴ロバーアクスが四匹、それに半獣人コボルトが三匹。男を牽制するようにじりじりと近づく魔物に対し、彼は顔色ひとつ変えずに言い放つ。
「失せろ。死にたくなければな」
 その言葉を理解したのかしないのか、魔物どもは一斉にいきり立って男に襲いかかる。ロバーアクスの斧が男に届く刹那、彼は真上に跳躍した。
 ──ケイオスソード。
 それはまさに一瞬の出来事だった。男が空中で剣を抜き、すぐさまそれを振り下ろしたかと思うと、魔物どもは剣から発せられた黒い衝撃波に吹き飛ばされた。地面に降りて剣を鞘に納めたときには、既に息をしているものはなかった。
 男は地面に横たわる骸を一瞥する。そして背後を振り返った。彼のいる山の中腹から、つい先程まで滞在していた城下町と城が一望できた。そしてその先には鉱山の街、さらに向こうには小さな村落がおぼろげながらも見える。
(結局、戻ってきてしまったのか)
 男はすぐに向き直り、山道をひとり、歩き始めた。