■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第二章 破滅への序曲

1 謁見 ~クロス~

 手製の斧を携えた人型の蜥蜴──リザードアクスが、茂みの中からいきなり飛び出してきた。数は三匹。姿を見せるやいなや、こちらに突進してくる。
 クロードはすぐに剣を抜き、先陣をきって向かってくる一匹と対峙する。リザードアクスは斧を突き出すが、クロードはそれを躱し、背後に回りこんでその首筋を斬りつけた。魔物は盛大に血飛沫をあげて倒れる。
 その間に残りの二匹がレナに襲いかかる。だが彼女は軽い身のこなしで跳躍し、リザードアクスの頭を踏み台にしてさらに遠くまで跳んだ。地面に着地すると、呆気にとられるリザードアクスに悪戯っぽく舌を突きだす。
 すかさずクロードが残りの二匹に詰め寄った。向かってくる若者に気づいたリザードアクスは慌てて斧を差し向けるが、一瞬早くクロードの剣が魔物の下腹を貫いた。腹に突き刺さった剣を抜き、絶命する魔物を息をついて眺めるクロード。
 その背後に、ぬっと影が忍び寄る。最後の一匹が巨大な斧を振り上げて、今まさに目の前の少年を真っ二つに叩き割ろうとしていた。クロードは素早く反転して、振り下ろされた斧を剣で受け止めるが、その凄まじい衝撃で柄から手が離れ、剣を自らの足許に落としてしまった。リザードアクスはさらに返し刀で斧を斜め上に振り上げる。攻撃を避けきれなかったクロードは斧の柄の部分で左肩を強打し、腰から地面に落ちた。魔物は追い打ちをかけるように斧の刃を叩きつけるが、クロードも横に転がって必死に躱す。そして意表をついて敵の懐に潜り込むと、右拳に気合いを込めた。
「流星掌ッ!」
 闘気の宿った拳はリザードアクスの胸板に命中し、大きく吹き飛ばした。そして近くの岩に激突し、粉砕された岩の破片に埋もれた魔物は既に動かぬ骸と化していた。
「ふう。終わったか」
 クロードは大きく息をついてその場に座り込む。そこでようやく左肩の痛みに気づいて、顔をしかめる。
「大丈夫ですか、クロードさん」
 レナが駆け寄ってくる。
「肩を痛めたでしょう? いま治療しますね」
「ああ、いいよ。このくらいなんともない」
 クロードは痛みをこらえて笑ってみせるが、レナは急に厳しい顔になって。
「駄目です! 無理が一番いけないんです」
 有無を言わさず治療を始めてしまった。クロードはばつの悪そうに苦笑する。
 レナが呪紋を唱えると、痛みは完全に消えた。それどころか戦闘の疲れさえもどこかへ消えてしまった気がする。
「……と、これで大丈夫です」
 レナがそう言ってクロードを見ると、クロードは放心したまま、じっとレナを見つめている。
「ど、どうしたんですか?」
 あまりにも長い間見つめられていたので、少し頬を赤くしながらレナが訊いた。するとクロードは、我に返ったように慌てて立ち上がり。
「いや、なんでもないよ。……ありがとう」
 そう言うと落とした剣を拾いに向こうに歩いていく。レナは首を傾げてその姿を眺めていた。

 彼らが街に着いたのは、夕刻もとうに過ぎた頃だった。日は既に沈み、広場にも通りにも人影はほとんど見あたらず、街は静寂に包まれていた。夕闇の中を動くものは、シートの被せられた出店の並びをうろつくみすぼらしい野良犬と、巡回中の甲冑姿の兵士ばかり。くしゃくしゃになった紙袋が、微風に揺られて石畳の上で踊っている。
「思ったよりも遅くなっちゃいましたね……」
 人気のない中央広場を憮然としたように眺めながら、レナ。
「お城も閉まっているみたいだし……。今日は宿に泊まって、お城へ行くのは明日にしましょう」
「……そうだね」
 クロードの言葉には抑揚がない。なにか別のことを考えているふうにも見える。
「どうしたんですか、クロードさん?」
「え?」
「さっきからずっと、元気がないみたいですけど……どこか具合でも悪いんですか?」
「いや、そうじゃないんだ」
 クロードは続けて何か言おうとしたが、思いとどまったようにかぶりを振る。そして話題を逸らすように。
「宿に泊まるんだろ? どこか探さないと」
「あ。私、知っている宿があるんです。……ほら、そこの」
 レナが指さす先、ふたりが立っている街の入口から広場を挟んだ向こう側に、なるほど宿屋らしき大きな建物が見える。
「行きましょう」
 レナが先にすたすたと歩いていく。クロードは誰にも知れず溜息を洩らし、それからレナの後について歩きだした。

 外観は古風なものだったが、宿の中は意外なほど広くて明るく、そして綺麗だった。大きなシャンデリアが吊り下がったロビーの待合室には、旅人らしき者たちが幾人か、地図を広げてなにやら真剣に話し合っている。豪奢な絵柄が織り込まれている絨毯はまだ真新しく、歩いた感触がふわふわして心地よい。ロビーの奥にあるカウンターでは、糊をきかせた制服をきっちり着こなしたフロント係が三人、忙しなく動き回っている。
「あら、レナちゃんじゃないの」
 こちらに向かってくる青い髪の少女に気がついて、フロントの婦人が声をかけた。
「こんばんは、レイチェルおばさん」
 レナはフロントに立って挨拶した。この宿で働いている彼女はウェスタの姉、つまりレナの伯母にあたる。
「久しぶりねぇ。この前会ったのはいつだったかしら」
「お父さんの、お葬式のとき以来です」
「ああ、そうだったわね……早いものねぇ」
「おばさんも元気そうでなによりです」
「それがそうでもないのよ。最近はめっきり足腰が弱ってねぇ。いやだね、歳をとるってのは。……おや」
 しばらく身内の会話が続き、体裁の悪そうにしていたクロードをレイチェルが見て、にんまりと笑った。
「あらま、ウェスタも大変ね。彼氏?」
「ちっ……違います!」
 顔はおろか耳まで真っ赤にしてレナが答える。その声があまりにも大きかったので、同じロビーにいた旅人の一団が話を中断し、何事かとこちらを振り向く。
「そんなに力強く否定しなくてもなぁ……」
 クロードがぼやくように呟いたが、レナには聞こえていない。
「あ、ちょうどよかったわ」
 宿帳を見ながら、レイチェル。
「いい部屋がひとつだけ空いてるのよ。今晩だけ特別にタダで泊めてあげるわ」
「いいんですか?」
 レナが言うと、レイチェルは年甲斐もなくウインクして。
「可愛い姪の、ステキな一夜のためだものね」
「だから、全然そんなんじゃないんですって!」
 けらけらと笑いながらロビーを歩くレイチェルを、レナが追いかける。クロードはその後ろで、ひとり嘆息した。
「そういえば、レナちゃん」
 客室に繋がる途中の廊下で、先頭を歩いていたレイチェルが振り向いて言った。
「二週間くらい前だったかしら。この街にあの子が来たわ。ほら……フラックさんの息子の」
「ディアスが?」
「ええ。でもまたすぐに、行き先も告げないまま出ていっちゃったんだけどね」
「そう……」
 答えながらも、レナは知らず知らずと左手で胸のあたりを押さえていた。苦しいような仕種を、クロードは横で無言のまま見つめる。
 レイチェルは階段を上がり、二階の廊下を進む。そして206と書かれたプレートのついた扉の前で止まると、鍵を開けた。
「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとうございます、おばさん」
 レナはレイチェルに一礼してから部屋へと入った。正面に大きな窓、その手前にランプが置いてある小さな机、そして壁際にはベッドがふたつ並んでいる。横には狭いながらバスルームもあるようだ。繊細な刺繍の施されたレースのカーテン越しからは、街灯に照らされた中央広場が一望できる。
 レナは奥のベッドに腰をかけ、じっと考えこむようにうつむいた。そこへクロードが入ってくる。
「……レナ?」
 遠慮がちに呼びかける彼に、レナは顔を上げた。
「なんですか?」
「ちょっと気になったんだけど、フラックさんって誰だい?」
「ああ、ディアスのことですか?」
「さっき、その名前を聞いたから……」
 クロードが言うと、レナはまた腕を胸にあてがいながら答える。
「ディアス・フラックっていって、昔アーリアに住んでた人なんです。でもずっと前に、悲しい事件があって、村を出ていってしまって……」
 話すうちにレナの声は少しずつ衰えていき、最後にはほとんど聴こえなくなった。しばらくの間、どちらも何も言わなかった。
「……そっか」
 クロードが口を開いた。
「無理して話してくれなくてもいいよ。この話はこれでおしまいにしよう」
「すみません、クロードさん……」
 下を向いたまま言うレナを、金髪の少年は立ちつくしたまま見つめる。
「……あのさ」
「え?」
「ちょっと、僕からお願いがあるんだけど、いいかな?」
 唐突に、躊躇ためらいながらも口を開いた。顔を上げて見つめるレナに対し、照れくさいのか横を向くクロード。
「その……僕のことを、『さん』づけで呼ばないでほしいんだ」
 彼の言葉に、レナはきょとんと目を丸くした。
「えっと、だからさ、僕も……君のことを『レナ』って呼びたいから。お互いに」
 耳まで真っ赤になったその横顔に、レナは思わずぷっと吹きだした。
「な、なんだよ」
「だって、なにを言い出すのかと思ったら……」
 堪えるようにくすくす笑う彼女を、クロードは憮然と眺める。
 ひとしきり笑うと、レナは笑みを残した表情で彼に向き直って、言った。
「それじゃ、これからもよろしくね、クロード」
 今度はクロードが目を丸くする。レナはにっこりと笑顔を返す。
「これでいい?」
「う、うん」
 慌てて何度も頷くクロード。照れ臭さはとっくに失せたはずなのに、なぜか頬の赤みだけは消えずに残っていた。


 ──復讐という名の絶望。
 ──それはもはや、俺の生きる糧にすらならない。
 薄闇が支配する深き森の奥。そこに彼──ディアス・フラック──は、佇立ちょりつしていた。木の枝で焚き火を按配あんばいしながら、かつての自分に思いを馳せて。炎を見つめるその瞳は、鋭くもどこか虚ろで、そして悲愴感に満ちていた。
 ──何も知らぬ若造だった俺は、ひたすら強さを追い求めた。自分自身のための強さ、いや、それ以上に、守るための力を俺は欲した。
 ──だが、それは適わなかった。俺は、全てを喪った。
 ふくろうの鳴き声が森にこもる。凍えた風に吹かれて、まるで森そのものが動き出すかのように、ざわざわと葉擦れの音を立てる。焚き火もつられて軽く爆ぜた。
 ──この力は何の為だ? 誰かを守る? 今更守るべきものがどこにある? 家族を喪い、故郷も捨てた。世界は俺を見離した。俺も世界を見限った。忌まわしき記憶は今もこの身を灼く。それを抱えたまま、俺は世界を彷徨う。それが俺に課せられた罪業なのだ。
〈ディアス……〉
 炎から目を離して、周囲を見回す。聞き覚えのある声が自分を呼んだ気がしたが、そこには彼以外、人の姿も気配もない。
(空耳か? それとも──)
 ディアスは再び焚き火に目を遣る。その炎の先に映じたのは、ひとりの少女。
(お前が俺を呼んだのか)
 ディアスは不意に口許を緩めた。そして天を仰ぐ。
 ──そういえば、あの時もこんな冷たい風の吹く夜だったな、レナ──。

「ディアス!」
 村の門を抜けたところで、彼は呼び止められた。背後から幼馴染みの少女が、息を切らせて走ってくる。彼は振り向かない。
「どこへ……行くの?」
「……」
 ディアスは押し黙ったまま、ピクリとも動かなかった。
「なによ……なにか言ってよ!」
 そう叫ぶと、レナはもどかしそうに彼を睨む。
「レナ」
 ディアスはようやく口を開いた。その声は低くくぐもっていて、はっきりとは聞こえなかった。夜でなければ聞き取れなかっただろう。
「みんなの……墓を、頼む。特にセシルは、寂しがりだからな。お前が行ってやればあいつも喜ぶ」
「なに……言ってるの、ディアス?」
 彼はじっと、彫像のように立ちつくしたまま、動かない。肩から羽織った外套ばかりが風にはためいている。
「……俺はもう、ここにはいられない」
「どうして?」
 レナの問いにディアスは答えなかった。ふたりとも黙りこむと、辺りはしんと静まりかえった。
「……家族がいないから?」
 静寂に堪えかねて、レナが言う。
「家族がいないから、自分の居場所がないっていうの?」
「俺は、強くなる」
 ディアスは言った。
「誰よりも、どんな奴よりも強くなる。そのために、俺はここを離れなければならない」
 その言葉でレナは理解した。彼がいったい何を思っているのか。
「……強くならなくたって、いいよ」
 レナは歩み寄り、そっと彼の背に額を当てる。
「ああなったのは、あなたのせいじゃない。あなたは悪くない。だから、もう自分を責めないで。出ていくなんて言わないでよ……」
 レナの声は震えていた。目許から涙が溢れ、雑草の生えた地面に落ちていく。
「泣くな、レナ」
「悲しいときは、泣くんだよ」
 詰まりそうな声を励まして、レナは言う。
「泣いて、泣いて、うんと泣いて、悲しみも辛さもぜんぶ流しちゃえば、あとはもう悲しくなんてなくなるんだよ。……ねえ、ディアスも一緒に泣こう? こんな悲しいこと、ずっと胸の中に仕舞いこんじゃ、だめだよ……」
「……レナ」
 ディアスは初めて振り返り、彼女の青い髪を撫でた。
「たとえ俺がどんなに変わっても、お前は俺を『兄』だと思ってくれるだろうか」
「え?」
 ほんの一瞬だけ、彼はレナに微笑みかけた。そして再び背を向けると、街道を歩いてゆく。
「待っ……あっ」
 残されたレナは追いかけようとしたが、足がもつれてその場に転んだ。その間にも彼の背中はどんどん遠ざかる。
「や……行っちゃ……」
 その場に座り込んだまま、ぼろぼろと涙を零す。初めから、こうなることがわかっていたのかもしれない。どんなに強く引き止めたところで、しょせん自分にはどうすることもできないのだと、頭のどこかでは感じていたのかもしれない。でも、それでも。
「……の、ばかあぁっ!!」
 彼女はありったけの声を絞って叫ぶ。そして傍らに生えていた草をぶちぶちと千切って投げ、駄々をこねる子供のようにわめき散らした。
「この意地っぱり! 甲斐性なしのトンチキ頭! あんたなんか森のお化けに食べられて死んじゃえっ!」
 少女の声は夜の闇に響いて、虚しく消えた。
 ディアスは空を流れる黒い雲を見つめたまま、ひとり道を歩いていく。レナは顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、その後ろ姿を眺める。冷たい風は、ふたりを隔てるように、いつまでも吹き続けていた。


 窓からの眩い陽射しが、薄く開けた目に飛び込んでくる。無意識に手を伸ばして目のあたりを覆うと、そこは少し濡れていた。寝ている間に泣いていたらしい。
「やだ。どうしちゃったんだろ、私……」
 レナは掛け布キルトを引き剥がして起き上がり、素足を床につけてベッドに座った。
(そっか……夢を見てたんだ。……あの日の)
 そのとき、部屋の扉が開いた。レナは慌てて腕でごしごし目許を拭う。
 入ってきたのは、クロードだった。
「おはよう。よく眠ってたみたいだね」
「あ、ごめんなさい。寝坊しちゃったかしら」
「そんなことないさ。昨日の疲れもあるだろうし、もっと寝ていても構わないよ」
「ううん、いいの。もう起きるわ」
「そう? じゃあ、先に下のレストランに行ってるから、君も支度ができたら来るといい」
「レストラン?」
「うん、なんでもレイチェルさんが朝食をご馳走してくれるって……僕は断ったんだけど、どうしてもって言うから」
 クロードはそう言って、肩をすくめる。
「じゃ、下で待ってるよ」
 静かに扉を閉めて、クロードは部屋を出ていった。レナはベッドに座ったまま、ぼうっと扉を見つめている。起きたばかりで、まだうまく頭が働いてくれない。
(ディアス……どうしているのかな……)
 レナは立ち上がり、日射しを全身に浴びながら伸びをする。そうして、ふと窓から外を覗いてみた。そこに広がる光景に、たちまち目を奪われる。
「うわぁ……すごい」

 クロス城下町は、普段にもまして人々の熱気に包まれていた。
 所狭しと建ち並ぶ露店には、買い物に来た婦人や旅人でごった返している。威勢のいい声を上げて野菜やら果物やらを売る商人、軒に並べられた骨董品を厳しい眼差しで見定める壮年の男、売られている剣についてなにやら店の主人と口論している剣士風の若者、そしてその喧噪の中心である、クロス中央広場では掘り出し物のオークションが開かれているらしく、大勢の参加者で賑わっていた。
「鰯に秋刀魚に本マグロ! イカタコあわび鱈場蟹たらばがに! うちは何でもそろってるよ!」
「お客さん、通だね。それじゃあこんなのどうだ? 『珠の光“有機雄町”』こいつは滅多に手に入んないよ。……なに? ロマネコンチぃ!? んなのウチに置いてあるわけないだろっ!」
「体重を気にしているあなた、こんにゃくゼリーはいかが? おいしく食べて手軽にダイエット。アロエジャムは美容にもいいですよ」
「どーじん買ってくださーい。やおい本はありませーん。ショタ系はちょっとだけ……」
「どうだいこの剣。東方随一の鍛冶師の作だ。お安くしておくよ!」
「クロスの土産にシルバークロスはどうでぃ? 今なら裏にお客さんのイニシャルを彫ってあげるよ」
 周囲の熱気に気おされながらも、ふたりは出店の列に挟まれた通りを進んでいく。
「いろんなお店があるわねぇ。人もすごく多いし……。さすがクロスの城下町よね」
「こう言っちゃなんだけど、アーリアとは大違いだよな」
 中央広場のあたりを抜けると、辺りは次第に寂しくなる。人気もまばらになり、城壁の手前には鎧兜の衛兵がいかめしい目つきで立っているばかり。
「この通路を抜ければ、城門はすぐそこにあるわ」
「ふうん……そういえば、前にも来たことがあるって?」
「うん。5年も前のことだけど、お父さんと一緒に……」
 話に夢中になっていて、レナは向こうからやってくる男の姿に気がつかなかった。すれ違うとき、レナの肩が男の腕にぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
「いや。こちらこそ、失礼」
 男はよく通った声で言うと、すぐにまた前を向いて歩き去っていく。だがレナは、彼のうしろ姿をまるで信じられないものでも見たように、呆然と眺めた。
「どうしたの?」
 クロードが訊くと、振り向きもせずにレナが答える。
「今のひと……つ目だったわ」
「は?」
「間違いないわ。おでこにもうひとつ目があって、それが私のほうを見たもの!」
 そう言ったものの、内心はレナも確信が持てなかった。なにしろ三つ目である。いくらクロスが色々な人間の集まる場所だとはいえ、そんなお化けのような人間がいるはずもない。クロードも、きっと信じてくれないだろう。そう思って彼の言葉を待っていたのだが。
「三つ目、か……」
 意外にも、彼はそのことについて真剣に考え込んでいる。
「もしかすると……いや、まさかな。こんな所にいるわけないよな……」
「クロード?」
 レナに呼ばれて、慌てて振り向くクロード。
「あ、ごめん。何でもないんだ。それじゃ、行こうか」
 そう言って、早足で通路を歩き出す。レナは首を捻ったが、すぐに駆け足で後をついていった。

 かつて、このクロス大陸を十字架になぞらえていた一族があった。ダイヤモンド・オブ・ザ・クロス──十字架の中心に填め込まれた宝石になぞらえて、かれらはクロス城をそう呼んだ。この世で最も堅固でありながら、純粋にして清楚な輝きを放つ宝石。ダイヤモンドは、まさしくクロスの象徴であった。白を基調とした城壁。鮮やかな青空を閉じこめた窓の填め込み硝子。数多の尖塔ピークの先端に掲げられた十字架と南十字星座サザンクロスを重ね合わせたような国旗は、繁栄を約束する西風に吹かれて悠然と翻っている。美しく優雅でありながら、一国の要である城が本来持つべき厳粛さと堅牢さをも、この城は兼備していた。
 謁見の受付を済ませたレナとクロードは、順番待ちの間に城内を見学することを許された。探検気分で足の向くままあてもなく歩き回ってみたが、やはり城は広く複雑で、ふたりは程なく迷子になった。小間使いや貴族(恐そうな顔をした者もいたが、そういうのはなるべく避けて)に帰りの順路を聞いていると、噂好きな何人かからクロス王子についての話を聞くことができた。どうやら王子は名目上は領地で静養中となっているが、実際は勝手に城を抜け出したまま、行方不明になっているらしい。さらに、普段から王子の世話をしている女中によれば、クロードがクロス王子によく似ているとのこと。
「正装をして、もう少しシャキッとした感じになれば、まさに殿下に生き写しですよ」
「シャキッと、ねぇ……」
「クロードって、なんかダラッとしてるのよね。雰囲気が」
 レナが本人目の前にしてはばからずに言うと、クロードは苦い顔をした。
 そうしている間に、謁見の順番が回ってきた。どうにか時間までに入口まで戻ってくることができたふたりは、すぐに謁見の間へと向かう。
 長い階段を上り、重厚な扉が開けられる。赤絨毯の敷かれた広い部屋の奥に、翼竜の彫刻が施された玉座に腰掛けているクロス王がいた。王冠の下からわずかに見えるのは短めの白髪。髭は口髭のみが取ってつけたように上唇の辺りを覆うだけで、頬から顎にかけての女性めいた輪郭ははっきりと見て取ることができた。穏やかな瞳は疑うことを知らない子供めいて、爛々と輝きながらこちらを見つめてくる。肌の色は健康そうに赤みを帯び、老人らしからぬ髪型や口髭と相俟あいまって、妙に若々しく見えた。その豪華な天鵞絨ビロードのマントと衣装、それに金銀細工の王冠がなければ、近所にいる人のよさそうな、元気なお爺さんといったところか。
 レナは王の前に立つとまず、宮廷式に一礼した。それを見たクロードもそれらしく礼をする。
「王様、お目にかかれて光栄です」
「おお、レナではないか。見違えたぞ。レジスから聞き及んではいたが、これほどとは」
「王様もご健勝でなによりです」
「まあ堅苦しい挨拶は抜きにしよう。して、今日は何用だ?」
「はい」
 レナはクロードに目配せした。クロードが神妙に頷くのを確認すると、再びレナが続ける。
「私たちは、ソーサリーグローブについての調査を始めました。そこで、王様がお持ちのできる限りの情報を教えていただきたいと思い、ここに来ました」
「なんと、そなたらが?」
「はい。もちろん冗談や遊びで始めたわけではありません」
「そうか……しかし、残念ながらそなたの期待に応えてやることはできぬと思うぞ」
「どういうことです?」
 レナが訊くと、王は幾分表情を曇らせる。
「現在ソーサリーグローブに関して、一般に伝わっている情報はこんなものだろう。『エル大陸に巨大な隕石が落下し、そこから魔物が大量に生まれ、広まった。各地にも動物の凶暴化や異常気象などが続発している』」
「はい、私たちもそこまでは知っています」
「ところが、我々もそれ以上のことはわからないのだ」
「え?」
 思いもよらぬ返答に、レナは目を丸くした。
「知らない?」
「うむ……ソーサリーグローブ落下後、何度か調査隊もエル大陸に送ったが、その大部分が帰ってこなかった。ソーサリーグローブと各地の異常事態との関連性もラクールと共同で研究が進められているが、ろくに実地調査ができぬうちは推論に止まざるを得ない。エル大陸が現在どうなっているのか、そしてソーサリーグローブの正体や異常事態についても、我々は何ひとつ把握できていないのだ」
 そこまで言うと、クロス王は傍らに控えていた側近から水の入ったグラスを受け取り、喉を潤すと、続けて言った。
「要するに、我々がどれだけ手を尽くしても、ソーサリーグローブの正体に関しては、手がかりすらつかめていないというのが実情なのだ」
「そうだったんですか……」
 レナは目を伏せた。できるだけ表情には出さないよう気を遣ったが、やはり落胆の色は隠せない。
「そこで、我々はエルの調査を冒険者に依頼することにしたのだ。国中に触れを出し、手練れの者をこのクロスに集めている」
「街に冒険者が目立つのはそのためか……」
 クロードが納得顔に呟いた。
「しかしレナ、ソーサリーグローブの調査は想像以上に危険だぞ。これまで多くの者が命を落としておる。果たしてそなたの細腕に担えるかどうか……」
「大丈夫です。私にはクロードさんがいますから」
 レナが言うと、クロードはこちらを見つめる王の視線に気づき、慌ててシャキッと背筋を伸ばす。
「ん? そなたは……」
 王はしばらく、まじまじとクロードの顔を見つめた。
「あの……僕が何か?」
 居心地の悪そうにしていたクロードが訊くと、王はハッとして、それから首を横に振った。
「いや、すまぬ。他人の空似だったようだ」
「はあ……」
 もしかしたら、あのことかな。レナは思った。さっき女中から聞いた、ここの王子とクロードが似ているという話。
 けれど、もしそうだとしたら、肉親が見間違えるくらい、そのひととクロードはそっくりなんだろうか。──少し見てみたいかもしれない。
「まあ、そなたらの決意のほどはよく判った。しかし、長旅となるからには、それなりに先立つものが必要であろう。……ここに」
 王は側近を呼びつけて、なにやら言伝ことづてを始めた。長髪の側近は王に一礼してから部屋の袖に引き下がる。
「せっかく来てくれたのに、手ぶらで帰してはこちらとしても面目が立たぬ。役に立てなかった代わりと言ってはなんだが、支度金を受け取ってくれ」
「支度金?」
 そう訊いている間に側近が帰ってきて、クロードに持っていた赤い布の包みを渡す。クロードが何気なくその包みを開けてみると、中には金貨が十枚程度、それに通行証らしき札が一枚入っていた。
「王様!」
「なに、そなたらだからという訳ではない。調査を依頼した者には全員渡しておるのだよ。気にすることはない」
「……ありがとうございます」
 瞳を細めて好々爺こうこうやのような笑みを返す王に、レナは深々とお辞儀をした。
「礼には及ばぬ。その通行証はクロス大陸のどの港でも通用する。エルに渡るならクリクへ行くといい。臨時便が出ているはずだ」
「王様、本当にありがとうございました」
「うむ。そなたらも気をつけてな」
 レナは一礼して、クロードともども謁見の間を後にした。
 重々しい音を立てて閉められた扉を背に、ふたりは階段を下りていく。そこでようやく気が抜けたのか、レナは途中の踊り場のところで立ち止まり、ふうっと一息ついた。
「僕は全然、話をしていなかったな」
 後ろからクロードがばつの悪そうに言う。
「気にすることないわ。私もけっこう緊張していたし」
 そう言うと、レナは階段を一気に駆け下りて、それから振り返った。
「さて、次の目的地はクリクね。支度を整えたら出発しましょう」

 太陽が僅かばかり西に傾きかけた昼下がり、中央広場は朝と変わらぬ賑わいを見せていた。露店の並びは人でごった返し、商人たちの威勢の良い掛け声が、雑踏のあちこちからが聞こえてくる。
 ところが、その中で一部だけ、ぽっかり穴が開いたように人が避けて通っている場所があった。大通りの真ん中で睨み合うふたりを囲んで、人だかりができている。
「どうして? これはわたくしが手に入れたものでしょう?」
「なに言ってやがる! あれは誰が見たってサギ同然のやり方じゃねぇか!」
 どうやら輪の中心のふたりが激しく口論しているらしい。片方は焦茶色のローブを身に纏った、いかにも紋章術師らしき男。もうひとりは、先の尖った帽子と極端に覆うところが少ない服を着込んだ女。惜しげもなくさらされた太股の内側には、やはり術師の証である紋章が刻まれている。そして、見るからに無防備な彼女を保護するかのように、頭と胸のあたりにふたつ、黄金色の環がいかなる力によってか、ふわふわと彼女の周囲を取り巻きながら浮いている。
「まあ、わたくしがいつサギを働いたと言うんですの!?」
 女は育ちの良さそうな口調で反論する。そのたびに薄紫色の髪と、上半分がほとんど剥きだしになっている豊かな胸が揺すられ、見物の男たちの目を釘づけにする。実際、それが目当てで見物している者がほとんどのようだ。
「うるせぇ、殺すぞ、このアマ! 女のくせして逆らいやがって。そいつを今すぐ寄越しやがれ!」
「待ちなさいよっ!」
 突然、見物人の中から声があがった。人垣をかきわけて、小柄な青い髪の少女が両者の間に割って入る。
「女のくせに、ってなに? 女だからどうだっていうのよ。そういう言い方はないんじゃない?」
 少女はそう言って胸を張った。男は拍子抜けしたような顔をする。
「ああ? なんだぁ小僧?」
「だっ、誰が小僧よ! 私は女よ!」
 少女が憤慨して叫ぶと、男の紋章術師は視線を彼女の胸に落とした。そして、げらげら笑う。
「けっ、そんな貧相な胸じゃ、俺は女と認めないね」
「なっ……なっ!」
 みるみる少女の顔が赤くなり、そして今にも男につかみかかろうかというとき、背後から金髪の若者が慌てて両脇を抱えて制止させる。
「ちょっとクロード、放してよ!」
「待て待て! 気持ちはわかるけど、ここはひとつ穏便に……」
「あーいう礼儀知らずはね、誰かがヤキを入れて根性叩き直してやらないとダメなのよ!」
「だ、だから駄目だって……こんなところで暴力はいけませんッ」
 若者は必死に少女を取り押さえていたが、最後には彼女の肘鉄を顎に食らって昏倒した。
「ふん。図星だからってムキになんなよ」
 男紋章術師は嫌らしい笑みを浮かべたまま言い放つ。
「ま、せめてこの姉ちゃんくらいの胸にはなるように、せいぜい努力するんだな」
「それは光栄ですこと」
 女は言葉とは裏腹に、語気鋭く言い返した。
「でも、そこのお嬢さんを侮辱したのは許せませんわね。同じ女として」
「あぁん? やんのか、このアマが」
「いつでもよろしいわよ。かかってらっしゃい」
「んにゃろ!」
 紋章術師は背後に跳び退いて間合いを取ると、ぶつぶつと呪紋を詠唱し始めた。たちまち見物人が蟻の子を散らすように逃げていく。詠唱の終わった男はことさら大げさに腕を振り上げて叫ぶ。
「ファイヤぁー……ボル」
「ファイアボルト!」
 女が男よりも早く杖を突きだして唱えると、杖の先端についていた宝玉から人の頭ほどの火球が飛び出し、男の足元に命中した。ローブの裾に火がついて、たちまち炎上する。
「うわぁっちぃ!」
 炎を纏って踊るように走り回る男術師。彼にとっては一大事に違いないのだが、見ている側にはその姿は滑稽この上なく、人々の失笑を買った。さすがに誰かが見咎めたのか、どこからか水がかけられ、早期消火となりはしたが。
「あんなに詠唱に時間がかかっていては、スライム一匹倒せやしませんわよ」
 男は情けない顔でこちらを向く。全身ずぶ濡れの上、ローブは腰から下が焼け落ちて、自前のステテコパンツが丸見えになっている。取り巻きに見物していた者たちの笑いが洩れる。
 女は腰に手をあて、鼻で嘆息した。
「喧嘩をするなら相手を選ぶことですわ……もっとも、身に覚えのない喧嘩は迷惑ですけど」
「お、覚えてやがれっ!」
 すっかり物笑いの種になってしまった男術師は、お約束の捨て台詞を吐いて、その場から逃げていった。
「これで懲りたかしら」
 女は、その間抜けな後ろ姿を見送ってから、少女の方を向いた。
「驚いたわ。貴女のような人が止めに入るなんて」
「すみません……なんか騒ぎを大きくしちゃったみたいで」
「そんなことありませんわよ。貴女の勇気にはわたくし、いたく感動しましたわ。……あら」
 女は改めてじっと少女と若者の顔を見ると、もしかして、と口を開いた。
「貴方たち、さっき王様に謁見していた人たちかしら?」
「どうしてそれを?」
「わたくしもお城を見学していたんですけど、特例で順番を早めてもらっている二人がいると、城の兵士に聞いたものですから……」
「それだけですぐに私たちだとわかったんですか?」
「いいえ。実はちょっと気になったので、こっそり謁見の間で覗いていたんですの」
「それは趣味のいいことで」
 若者が皮肉まじりに言う。
「そう言わないで。実はおふたりに耳寄りな情報がありますの」
 女は腰につけた道具袋から古びた紙を取り出した。
「これは、とある宝の場所を示した地図ですの。先ほどのオークションで手に入れたものですけど」
「もしかして、さっきもめていたのはこの地図のことですか?」
「ええ。あの男ったら、わたくしがせっかく苦労して手に入れたものを横取りしようと……ああ、それはもういいですわね。で、用件というのは……」
 女はにこりと笑ってから言う。なんとなく不穏な笑みだ。
「よかったら、この地図の場所を一緒に探索しませんこと?」
「宝探し、ですか?」
「ええ。さすがに一人では辛いと思ってたところでしたの。王様に認められたあなたたちがいれば心強いわ」
「……僕たちは宝探しにつきあっているほど、暇じゃないんだけどなぁ……」
 クロードがぼやいた。
「あら。貴方たちの旅に関するヒントだって見つかるかもしれませんわよ」
「うーん……」
 ふたりは互いに顔を見合わせて、小声で話し合う。
「どうする?」
「どうするって言ってもなぁ。早いとこクリクへ行ったほうがいいんじゃないか」
「でも、ちょっとくらいはいいんじゃないの? あのひとも困っているみたいだし」
「……まあ、いきなりエル大陸ってのも少し抵抗があったしな。腕試しついでに行ってみようか」
「うん」
 意見がまとまると、青い髪の少女は女に向き直る。
「ぜひご一緒させてください」
「さすが。話が分かりますわね♪」
 女はとりわけ明るい声で言うと、さっとかしこまって。
「わたくしはセリーヌ・ジュレス。こう見えても一流のトレジャーハンターですわ」
「クロード・C・ケニーです」
「えっと、レナ・ランフォードです」
「さあ、準備ができたらすぐにでも出発しますわよ」
 ふたりの紹介を聞いたのか聞いてないのか、セリーヌは既に軽やかな足取りで歩き出していた。再び顔を見合わせるレナとクロード。
「ところで……宝ってどこにあるの?」
「さあ?」
「………!」
 慌ててセリーヌの後を追う二人。肝心なことを聞き忘れていたのだ。
「セリーヌさん、待ってー!」

2 古の遺産 ~クロス洞穴~

 堅い岩盤に穿うがたれた大きな穴。その先には茫漠とした闇が広がっている。岩が鈍く光を放っているのは、鉱物を多く含んでいるためか。入口付近は濃い靄がかかっており、微妙な空気の渦すらも見て取ることができる。頬をかすめる気流は湿っぽく、粘りつくようにも感じられた。
 クロス東に位置する天然風穴、一般にクロス洞穴と呼ばれている場所である。
 ここには、かつてクロス大陸を統べていた原住民──いわゆる『古の一族』が居住していた遺跡がある。原住民といえどもその実体は、紋章術を中心とした高度に発達した文明社会であったという。かれらを研究している考古学者の中には、現在までに伝えられている紋章術は全て彼らが起源であると提唱している者もいる。
 古の一族の遺跡は他にもクロス北の山岳宮殿、ラクール大陸北の辺境に位置するホフマン遺跡などがある。しかし、彼らが何故このような、人間が住むには到底相応しくない場所を好んで居住したのか、また山岳宮殿やホフマン遺跡に見られるような、精巧な建築物を造ることができたのかは、未だ解明されていない。古の一族に関する謎は多い。
「地図によれば、この洞窟の先に宝があるということですわ」
 セリーヌが地図を眺めながら言った。
「この洞窟、とっくに調べ尽くされたって聞いてましたけど……」
 レナは入口から穴を覗き込んでいる。
「最近になって新たに発見された地図ということですわ」
「ふうん……」
 なんとなく胡散うさんくさいものを感じたが、発言は控えておいた。
「中は暗いな。……明かりがないと」
角灯ランタンなら持っていますわよ」
 セリーヌは肩に担いでいた道具袋から小さめの角灯を取り出すと、慣れた素振りで指先から炎を生じさせて火をつけた。
「さ、中に入りましょう」
 セリーヌは率先して薄暗い穴の中へと入っていく。続いてクロード、レナの順で続いた。

 セリーヌの持つ角灯は小さいながらも存外明るく、狭い洞穴を照らすには充分すぎるほどだった。壁も天井も足場も露で濡れていたので、彼らは足を滑らせないよう慎重に歩を進めた。
 奥へ奥へと続く穴をしばらく行くと、急に道が拓けた。どこかに地下水があるのだろうか、微かに水の流れる音がする。セリーヌが角灯を前に掲げると、その先は道が二股に分かれているようだ。
「どっちへ行くんですか?」
 クロードが訊くと、セリーヌは角灯をレナに渡し、地図を取り出して広げる。
「ああ。この道は右……」
 そう言いかけたとき、クロードは彼女の頭上に何かが落ちてくるのを見た。
「セリーヌさん! 上!」
「え?」
 セリーヌが真上を仰ぐと、青い塊が天井から自分の眼前に迫っていた。彼女は反射的に首を低くして避ける。物体はぼとりと地面に張りつくように落ち、すぐにぶよぶよしたゼリー状のからだを隆起させて立ち上がっ(?)た。
「魔物か!」
 クロードは剣を抜きそいつに斬りかかるが、ぶよぶよスライムは身軽にぴょこんと跳ねて刃を躱すと、その半透明の躯に封じ込めていた石をクロードに向かって吐き出した。
「あだっ!」
 石は見事にクロードの顎に命中する。馬鹿にするように飛び跳ねるスライム。
「ちっ、くしょう!」
 再びクロードが斬りかかるも、また跳んで避けられ、今度はふたつに分裂して前後から石の弾丸を打ちつける。腹と後頭部に石をぶつけられてうずくまるクロード。
「いいようにされてますわね」
「…………」
 レナが見ていられないというふうに、掌で顔を覆う。
 スライム二匹はさらにしゃがみ込んだままのクロードに襲いかかる。が、突如クロードは跳躍し、地面に向かって剣を振るった。
「衝裂破!」
 クロードの周囲から発せられた衝撃波はスライム二匹を瞬時に消滅させた。ホッとするのも束の間、不恰好な甲冑と剣で武装したアームドナイトが三匹、この騒ぎを嗅ぎつけて向こうからやってきた。
「また来たわ!」
「くそっ!」
 クロードは中の一匹と剣を交えた。甲高い金属音が洞窟に響く。敵の剣を自分の剣で弾くように押し返すと、素早く斜めに斬りつけたが、相手の鎧は思った以上に強固でごうほども傷つけられない。
 その隙を狙って、別のアームドナイトがクロードの背後に回りこんで剣を投げつけてきた。回転しつつ向かってくる剣に気づいたクロードは慌てて横に跳び退いて、間一髪のところで躱す。
「危なかったな……そういう攻撃もありか」
 アームドナイト二匹はしつこくクロードに襲いかかる。しかし、そのうち一匹は、突然頭上に出現した鉄の塊に押し潰された。
「正々堂々と1対1で勝負しなさいっ」
 レナのプレスだった。鉄の塊がかき消えた後には、鎧ごとぺしゃんこに潰れた魔物の骸が横たわっていた。
 クロードが再び一匹と斬り結ぶ。右へ左へ繰り出される敵の剣をことごとく受け止めながら、彼は待った。そしてついにその瞬間がやってきた。一方的に攻めながらも止めを刺せないことに苛立ちを覚えた魔物は、この一撃で決めてやろうと、渾身の力を込めて大きく剣を振り上げた。クロードはその隙を見逃さなかった。すかさず剣を相手の喉元──そう、全身が鎧で覆われているアームドナイトの、唯一無防備な部分──に突きだした。喉仏を突かれた魔物は剣を振り上げた格好のまま、勢いよく鮮血を噴き出して倒れる。返り血をしたたか浴びて、クロードはまなこをカッと見開いたまま、絶命する敵の姿を見つめていた。
 最後の一匹はセリーヌに狙いを定めた。重そうな甲冑をがちゃがちゃと鳴らしながら、呪紋を詠唱している彼女の許へ向かっていく。そしてついに彼女を捉えようかというとき、セリーヌは杖を突きだして叫んだ。
「サンダーボルト!」
 アームドナイトの頭上、何もない一点から一筋の電光が生じ、敵の脳天から足元までを瞬時に貫いた。鎧の隙間からぶすぶすと黒い煙を上げて、魔物はその場に頽れる。
「この洞窟、いつの間にか魔物の巣窟になっているようですわね」
 たった今倒したばかりのアームドナイトの兜を足で小突きながら、セリーヌ。
「これからもこんな調子で出てくるのかしら。……クロード?」
 レナがクロードを見ると、クロードは目の前の魔物の骸を見つめたまま、放心したように立ちつくしていた。その顔は返り血で真っ赤に染まっている。
「やだ、クロード……ひどい顔」
 レナが懐からハンカチを取り出して差し出したが、クロードは振り向きもせずに。
「僕は……何をしているんだ」
「え?」
 クロードは力が抜けたように項垂れて言う。右手から剣がこぼれ落ち、からんと乾いた音を立てた。
「今までずっと必死だった。だから気づかなかった。……これは、殺し合いじゃないか。たとえ魔物でも、剣で斬れば血が出て、そして死んで……」
 途中で言葉を切り、自分の掌を見る。そこには先程倒した魔物の血糊がべっとりと付着していた。指が小刻みに震え、顔は生気を失ったように青ざめる。
「これが……こんなことが、僕のすべきことなのか?」
「甘っちょろい科白セリフですわね」
 見かねたセリーヌが、つかつかと歩み寄ってきた。
「戦うことがそんなに恐い?」
「違う。恐いんじゃない。ただ……」
「なにが違うの? ……そう、確かにこれは殺し合いですわよ。相手を傷つけ、自分も傷つき、そしてどちらかが命を落とす。でもね、戦わなければ先に進めませんのよ。この世界で生き残りたければ、そんな軟弱な考えは捨てることね」
「この世界? ああ、そうだね……ここは野蛮な世界だ」
 怯えを隠すかのように、クロードは言葉を吐き捨てた。
「僕はずっと平和な世界にいた。血の流れるいくさなんて滅多にない場所で、普通に暮らしていただけなんだ。それが、突然こんなひどい世界に放り込まれて、揚げ句には殺し合いまで……」
「不幸をひけらかす男は嫌われますわよ」
「あなたに僕のことなんかわからない」
「わかりませんわよ。けど、これだけは言わせて頂戴。どんな理由でここに来たのかは知らないけど、現に貴方は今、この世界にいるのよ。魔物のいる、野蛮な世界にね。現実から目を背けて、がたがた震えているだけでは何も解決しませんわよ」
 セリーヌは前髪を払いのけ、そっぽを向くようにしてため息をつく。
「まったく、そんな覚悟でソーサリーグローブの調査に行くだなんて、無謀にも程がありますわ。子供のお使いじゃあないんだから。……まあ、貴方はそれでいいかもしれないけど、振り回される彼女の身になってごらんなさいよ。せっかくあなたを信じてついてきているのに」
「…………」
 彼は横の少女を見た。少女は心配そうにこちらを見つめている。唇を噛む。
「クロード……」
「さあ、いつまでもこんな所でぐすぐずしてたら、また変なのがやってきますわよ。先を急ぎましょう」
 セリーヌはそう言うと、ひとりでさっさと歩いていった。
 悄然しょうぜんと立ちつくすクロードを、レナはしばらくの間、無言で見つめていた。そうして不意に表情を緩めると、手に持っていたハンカチで、血まみれのクロードの顔を拭い始める。
「優しすぎるのよ、クロードは」
 顔の汚れをゴシゴシとこすってやりながら、レナ。
「魔物だってひとつのいのちには変わりないものね。セリーヌさんに言わせれば、そんな考えは甘いのかもしれないけど……でも、それがクロードの優しさの証なんだと思う」
 クロードの瞳が僅かに潤んだような気がした。悟られまいと堪えているのかもしれない。レナはそれに気づかぬふりをして、微笑んだ。
「気にすることなんてないわ。クロードはクロードなんだから、あなたが思うように進めばいいのよ」
 顔を拭い終えると、レナは足元に転がっていた剣を拾って、彼の前に差し出した。
「さ、先に進みましょ。セリーヌさんも向こうで待っているわ」
 角灯ランタンの光が届かない暗がりで、誰かが盛大にくしゃみをした。

 その後もひっきりなしに魔物は彼らを襲った。だがそのほとんどは、レナやセリーヌの手を煩わせることなしに、クロードの一撃のもとに葬り去られていった。芋虫の化物ランドワームを躊躇なくほふり、歩行する植物アルラウネをみじん切りにし、スライムの集団を追い散らすその姿は、半ば自棄やけっぱちのようにもレナの目には映った。
 とにもかくにも、このクロードの快進撃のおかげで、思ったよりも早く目的地に到達することができた。
 だが。
「行き止まりですよ?」
 奇妙な琥珀こはく色に輝く巨大な岩の前で、クロードが周囲を見渡して言う。
「おかしいですわね」
 セリーヌが再び地図と睨めっこしながら。
「地図によれば、確かにこの先に、宝の部屋があるはずですのに……」
「もしかして……」
「ニセモノ?」
「そ、そんなはずは……」
 ふたりの視線を遮るように、セリーヌはことさら大げさに地図に顔を近づける。嫌な沈黙がひとしきり続いた。
「とっ、とにかく、もう少しこの辺を調べてみましょう」
「この辺、ですか?」
 レナが疑わしそうに。
「ええ。隠し扉とかあるかもしれませんわ」
「そういえばさ」
 輝く岩を見上げながら、クロード。
「この岩、なんか変じゃないかな?」
「そうね。光もないのにこんなに光って……」
「岩?」
 それを聞くとセリーヌは食いつくように地図を見て。
「そういえば、ここに『岩に念じよ』って書いてありますわ!」
「それですよ、たぶん」
「でも、なにを念じればいいの?」
「おそらく呪文のようなもの……どこかに書いてないかしら」
「それは、なんですか?」
 セリーヌの肩越しに地図を覗き込んだクロードが、地図の右下の方に刻まれた紋様のようなものを指さした。
「ああ、それは紋章言語ですわ」
「紋章言語?」
「ええ。紋章の示す意味を言語化させ、文字として表記させたものですの。呪紋の詠唱にはこの言語が使われていますわ」
「ふうん」
 レナも呪紋を使う際には詠唱しているが、それは口伝で教わったものだった。専用の文字があるなんて、考えたこともなかった。
「じゃあ、それを言えばいいんじゃないんですか?」
「えっ!?」
 セリーヌは急に困ったような顔になって、言う。
「これを、言うんですの?」
「読めないんですか?」
「読めることは読めますけど……こんなので開くのかしら」
「とりあえずやってみましょうよ。他に方法もないんだし」
「……まあ、ものは試し、ですわね……」
 セリーヌはあまり気が進まないといったふうに首を傾げながら、岩の前に立つ。そして、一息にその言葉を詠じた。
 彼女の口から不可思議な言葉が発音された途端、岩がそれに共鳴するかのように激しく明滅し始めた。同時に、唸るような振動音を伴って岩の裏側の壁に縦一本の亀裂が生じ、いかなる力によってか、ゆっくりと両側に開いていく。
 セリーヌの言葉が終わると振動も治まり、動いていた壁もピタリと止まった。隙間のできた壁の向こうから、溢れんばかりの光がこちらの闇を照らし出す。そして、あれほど色鮮やかに光っていた岩は、今はその輝きを失い、何の変哲もない黄土色の岩塊となり果てていた。
「やった!」
「開きましたよ、セリーヌさん!」
「ホントですわね。まさか、こんな言葉で……」
 まだ納得いかないといった様子のセリーヌに、レナが疑問に思って訊いてみる。
「さっきの言葉、どういう意味だったんですか?」
「……どうしても言わなきゃなりませんの?」
「え?」
 言葉を詰まらせるセリーヌに、レナは不思議そうに訊き返す。
「そんなに難しい言葉なんですか?」
 セリーヌははぁ、とひとつ息をつくと、諦めたように言う。
「『岩は常に黙して何も語らず。これすなわち【何もイワん】』って」
 三人の間を寒い風が吹き抜ける。
「ダジャレ……ですか」
「ひどい……あまりにもひどすぎる。クスリとも笑えない……」
「わたくしが考えたんじゃありませんわよ!」
 白けるふたりにセリーヌは憤慨する。
「さあ、とっととお宝を頂戴して帰りますわよ」
 そうして肩を怒らせ、奥の部屋へと歩きだす。ふたりは互いに顔を見合わせて、声を出さずに笑った。

 その部屋は眩いほどの光に満ちていた。壁という壁、天井という天井がすべて半透明の鉱物で構成されており、おそらくそれが外からの太陽光を通しているのだろう。
 中央には星を象った立体彫刻があり、その周囲にはいくつか真新しい宝箱が置いてある。だがセリーヌはそれらには目もくれず、奥の彫刻に隠されるようにちょこんと置いてあったひつを見つけると、迷うことなくそれを開けた。薄汚れた櫃に入っていたのは、一冊の書物。表紙は染みと垢と埃にまみれて、何が書いてあるのかほとんど識別できない。おまけにところどころ虫も食っているようだ。
「ついに見つけましたわよ」
 感慨深げにセリーヌが言うのをみると、どうやらこれが目的の宝らしい。しかし、ふたりにはそのいかにも古くさい書物がどれほど価値のあるものなのか、さっぱり理解できなかった。
「これ、ですか?」
「なんですか、この本」
「古文書ですわよ」
 口許に笑みを浮かべて、セリーヌが説明する。
「古の一族の遺跡は数多くあれど、書物が見つかった例は極めてまれですの。しかも、ここまで完全な形で残っているとなれば……世紀の大発見かもしれませんわよ」
「へえ……」
 こんなに虫食いだらけのボロボロでも「完全な形」なんだろうか。レナは思った。
「何が書いてあるんですか?」
 セリーヌは破らないよう慎重にページをめくってそこに書かれた文章(もっとも、ふたりには変わった模様の羅列にしか見えなかった)を眺めていたが、しばらくして首を横に振る。
「駄目ですわ……わたくしにもまったく読めない。マーズにいる長老なら解読できるかも……」
「マーズ?」
「わたくしの故郷ですわ。ここからもう少し東に行けばありますの」
「あるいは、学者にでも依頼するしかなさそうだな」
「そうですわね」
 セリーヌは古文書を大事そうに道具袋に入れると、部屋の入口の方を向く。
「さて、目的のものも手に入れたし、そろそろ戻ることにしましょう」
「え? この宝箱は開けないんですか?」
 レナがそう言って近くの宝箱に触れようとすると、セリーヌは急に血相を変えて叫ぶ。
「駄目! それに近づいちゃ」
 まるでそれが合図であったかのように、突如として宝箱の蓋を突き破ってなにかが飛び出した。
 それは、蝙蝠こうもりの羽根をもった青黒い小悪魔だった。威嚇の仕種に開かれた口からは研ぎ澄まされた牙が覗いている。周囲の宝箱からも次々と同じ姿の悪魔が飛び出し、いっせいにレナに襲いかかる。
「きゃぁっ!」
「レナ!」
 小悪魔の集団はレナを取り囲んで、腕といわず肩といわず咬みつき始めた。血に飢えた吸血蝙蝠は、レナひとりが振り解こうと藻掻いただけでは離れない。少女の柔らかな肉に牙を突き立て、眸を狂気の色にぎらぎらさせながら、娘の熱い血を美味そうに啜り上げる。
「ガーゴイル! 早く追い払わないと、血を吸われ尽くされてしまいますわ!」
「くそっ、離れろ!」
 クロードが剣を振り回してなんとか悪魔をレナから引き離したが、吸血悪魔ガーゴイルはまだふたりの周囲を牽制するように飛び回っている。クロードの腕の中で、レナはぐったりと気を失っている。魔物を後目にそっと顔色を窺うと、蒼白だった。いらぬ予感にクロードは背筋が凍る思いをした。
 執拗にまとわりつくガーゴイルどもを相手にクロードは必死に応戦するが、数が多い上に羽根をばたつかせて素早く飛び回られ、しかもこちらはレナを庇いながらとあってはまともに戦えるはずもない。味をしめた魔物が再びレナを狙って近づくのを剣で追い払うのがやっとのこと。そうしている間にクロードにも疲労の色が見え始める。万策窮まったかに思えた、そのとき。
「クロード、そこをどいて!」
 セリーヌの声が耳に入った。頭で考えるよりも早く、クロードはレナを抱えたまま床を蹴り、部屋の壁際に滑り込んだ。同時にセリーヌが唱える。
「レイ!」
 部屋の中央に取り残されたガーゴイルの頭上に光が生じ、そこから無数の光線が放射線状に放たれた。光線は吸血悪魔の羽根と躯を薄紙のごとく貫き、地面に突き刺さる。光の驟雨しゅううはひとしきり続くとピタリと止み、あとには硬い岩盤に穿たれたいくつもの穴と、襤褸布ぼろきれのように横たわった小悪魔どもの死骸があるのみ。
 魔物が全滅したのを確認すると、クロードはすぐにレナを仰向けに寝かした。身体の至るところに魔物に咬まれた傷口があり、そこから流れ出す血が服を紅に染め上げる。
「レナ、しっかりしろ!」
「……ん、っ……クロード……」
 レナがうっすらと目を開け、どうにか返事をしたので、クロードはひとまず安堵した。
「ごめんなさい……油断したわ」
「謝るのは僕の方だ」
 拳で地面を殴りつけると、肩を震わせて。
「どうしていつも守りきれないんだ……!」
「……クロード」
「はいはい。急いでいるのでごめんなさいね」
 ふたりの間にセリーヌが割って入ってきた。彼女は道具袋から赤紫の液体が入った瓶と器を取り出すと、瓶の中身を少量器に注ぎ込み、さらに水筒の水で薄めてレナに飲ませた。
「それは?」
「ローズヒップとラベンダーを調合して作ったスイートシロップ。止血効果もありますわよ」
 レナが全部飲み干したのを確認すると、セリーヌは嘆息して言う。
「あとは安静にしていれば、体調もじきに良くなるわ。……まったく、二人揃って世話が焼けますわね」
「すみません……」
「かたや戦いの最中に怖じ気づく。かたやトラップを見抜けずに引っかかる。なんというか、絶妙のコンビですわね」
 辛辣しんらつな言葉に、クロードは項垂れた。
「貴方たち、これからエル大陸に渡るのでしょう? こんな調子じゃ向こうの魔物にとり殺されるのがオチですわよ」
「…………」
「忠告するわ。エルへ行くのはやめておきなさい。命あってのモノダネ、勇気と無謀は別物ですわよ」
「それでも」
 クロードは顔を上げ、きっとセリーヌを見つめ返しながら。
「僕たちは行かなくちゃ、ならないんだ」
 言葉以上の気迫に押されて、セリーヌはやれやれ、と肩をすくめる。
「それなら、わたくしも一緒に行きますわよ」
「え?」
 まだ具合の悪いレナまでもが目を丸くしてセリーヌを見た。彼女は当然といったふうに、飄々と薄紫の髪を掻きあげる。
「こうして知り合ってしまった以上、貴方たちだけでは行かせられませんわ。勝手に死なれてのちのち化けて出てこられても困りますし。こうなったら一蓮托生、乗りかかったタイタニックですわ」
 唖然とするふたりに、セリーヌは妙に色気のある笑顔を作ってみせた。

3 ひとつの恋の物語(前編) ~クロス(2)~

 巨大な白き竜が、遙か上空を掠めるように飛んでいく。
 空一面にぎっしりと敷き詰められた鱗雲を振り仰いだレナは、思わずそんなふうに感じた。綿雲の翼を悠然とはためかせ、風に吹かれるまま呑気に飛んでゆく白竜を、憧憬と僅かな羨望も含ませつつ見送る。
 クロス城下町は相変わらずの賑わいをみせていた。だが、中央広場から少し西に外れた、酒場や食堂などが建ち並ぶあたりまで足を運ぶと、人通りは極端に少なくなる。酒場の前を通りかかったとき、何気なしに中を覗いてみたが、昼酒を決め込んだ大柄の男や、朝まで飲み明かしたのかカウンターで高鼾を上げて幸せそうに眠りこけている若者がいるのみだった。
「店の数のわりには、なんだか静かですね、ここ」
 レナが隣を歩いていたセリーヌに訊いてみた。
「まだ食事時ではありませんからね。日が沈む頃には広場の人間がこぞってこちらにやってきますわよ」
 レナは水色のドレスめいたワンピースに若草色のチュニックを着込んでいた。いつもの上着とスカート、それにケープはクロス洞穴のときに汚してしまい、今はレイチェルに洗濯してもらっている。この服もレイチェルからの借りものだ。ワンピースの裾はレナのすねの辺りまで覆っていて、今まで膝上いくらかの服しか着たことのない彼女にとっては、このヒラヒラの長い裾がどうにも鬱陶しかったが、街中を歩く分にはさほど支障はないので、仕方なく我慢している。
 お城のお姫様って、いつもこんなヒラヒラの服を着ているのかな。
 お姫様だけじゃない。周囲を見ると、若い女性は皆、今のレナと同じような身なりで街を闊歩かっぽしている。都では丈の短い服などは、幼い子供か水商売の女でもなければ誰も身につけないのだ。
 ──どうせ、私は山奥育ちの田舎娘ですよっ!
 訳も分からず膨れっ面をするレナを見てセリーヌは目を白黒させたが、ふと歩く先にあった店を見分けると、意気揚々とレナに話しかけた。
「ね、レナ。あそこの店でお茶でもしませんこと?」
「え?」
 セリーヌが指さす店は、小さなレストランだった。トリコロールのひさしが入口に取りつけられ、その上に掲げた看板には『ベーカリーレストラン フォルン』と達筆な崩し字で書かれている。店の外観は白を基調とするこざっぱりとした造りで、敷地を取り囲むようにして鉢植えの草花が所狭しと並んでいた。外観の印象としては、悪くない。
「いいですけど……なんかクロードに悪いわね」
 クロードは今ごろ別の場所で街を見学しているのだろう。女ふたりの買い物につきあわされるのが嫌で、朝からコソコソと逃げ出したのだった。
「構いませんわよ。ついてこなかった方が悪いんですから」
「……じゃ、ちょっと休憩していきましょうか」
 ふたりは店の中に入った。途端に怒声が耳に飛び込んでくる。
「ふざけんな、このガキ!」
 いくつもテーブルが置かれた店内の真ん中あたりで、コック帽を高々と頭に頂いたシェフらしき男が、目の前の若者をものすごい剣幕で怒鳴りつけている。
「だから、僕はここで金を払わなければいけないなんて、知らなかったんだ」
「あぁ? そんな言い訳が通用すると思ってるのか? 一体どこに金を払わなくていい店があるってんだ!」
 今にも若者に掴みかかりそうな剣幕のシェフ。それをはらはらと見守っていた給仕が、店の入口に立ちつくすふたりを見つけると、すぐに平静を装って歩み寄った。
「いらっしゃいませ。お客様は二名ですか?」
「二名はよろしいですけど、何なんですの、この騒ぎは?」
 セリーヌが訊くと、給仕は再び困ったような顔になって。
「は……申し訳ございません。あの客が食事の代金を払わずに店を出ていこうとしたので……」
「無銭飲食ってこと?」
「ええ、まあ。それで、私が店長をお呼びしたところ、あのような状況で……」
「まったく……」
 セリーヌは呆れたように呟いて、すっかり憔悴しょうすいしている若者に目を向ける。口論はまだ続いていた。
「さぁて、どうしてやろうか。このままクロスの王様の前に引っ立ててやるのもいいな」
 コック帽の店長がそう言うと、若者は急に青ざめ、店長に詰め寄って嘆願した。
「お願いだ、それだけはやめてくれ! それだけは……」
「あぁん? てめぇ、自分の立場がわかっているのか!」
 店長は若者の胸倉をつかみ上げる。
「大丈夫だよ、クロス王は優しいお方だ。食い逃げ程度じゃ大した罪にはならんだろうよ。だが、示しはつけねぇとな」
「お願いだ……城にだけは」
「往生際の悪い奴だな、大人しく観念しろってんだ。来い!」
 店長はそのまま若者を引きずって出ていこうとしたが。
「お待ちなさいな」
 セリーヌが店長を呼び止めた。店長はこちらを向くと、卑屈な半笑いの表情をして言う。
「すみませんね、お客さん。ちょっと今、立て込んでいて、お食事はまた今度にしていただけませんか」
「ええ、もちろんそのつもりですけど。さっきから見ていて、なんだかそちらのひとが可哀想になってきましてね」
「可哀想?」
 店長は眉をひそめてセリーヌを見た。
「お客さん、お言葉ですがね、同情してほしいのはこっちの方なんでさぁ。こういう連中を野放しにしておいちゃあ、ウチとしても商売あがったりなんですよ。私にゃ女房子供だっている。大事な家族を路頭に迷わせないためにも、ここはしっかりと示しをつけておかにゃならんのですよ」
 大げさな語り口で話す店長にセリーヌはほとほとんだ。
「お金さえもらえれば、文句はないんですわね?」
「は、はぁ、そりゃもちろんですが……」
 セリーヌは懐から硬貨を一枚取り出すと、それを指で弾いて飛ばした。硬貨は小気味いい金属音を響かせながら放物線を描き、慌てて前に出された店長の手の中に収まった。店長は受け取ったものを見て、目を丸くした。銀貨だったのだ。
「お客さん! これは……」
「それだけあれば足りるでしょう。彼を放してあげなさいな」
「足りるも何も……多すぎですよ」
「釣りはいりませんわ。その代わり、これ以上彼を咎めないでちょうだい」
「……わかりました」
 店長は未練がましく若者を睨みつけると、胸倉をつかんだ手を乱暴に振りほどいた。
「今回だけは許してやる。このお嬢さんがたに感謝するんだな」
 そう言うと、大股で奥の厨房へと戻っていく。
「大丈夫ですか」
 レナが話しかけると、若者は実直そうに下を向いて。
「すまない、君たち」
「どういたしまして」
 セリーヌは若者に軽くそう答えると、すぐにレナの方に向き直る。
「残念だけど、お茶は中止にした方がいいですわね」
「そうですね」
 セリーヌとレナは店を出ていく。取り残された若者は給仕たちの視線に気づくと、慌ててふたりの後を追った。
「セリーヌさん、すごくカッコ良かったです」
 店の外で、レナがはしゃいだように言った。
「そんなことないですわよ……でも」
「でも?」
「ちょっと銀貨は惜しかったわね。百フォル硬貨くらいにしておくべきでしたわ」
「あの」
 苦笑するレナの背後から声がかかる。さっきの若者だ。
「ありがとう、助かったよ……ええと」
「セリーヌよ。それから、こっちはレナ」
「そうか……ありがとう、セリーヌ、レナ」
 店長に散々絞られたのが効いたのか、若者の声は抑揚に乏しかったが、それでもなにかしら威厳と気品のようなものが感じられた。
 そういえば、とレナは思った。彼が着ている服も、よく見ると随分と高価なもののようだ。中でも目立つのは、つやつやと輝く絹のマント。旅人が身につけるそれとは明らかに異をなすものだった。
「ところで」
 と、セリーヌ。
「貴方の名前はなんておっしゃるのかしら」
「僕は……」
 若者は俯いてしばらく黙り込んでいたが、不意に顔を上げて。
「クリス……クリスと呼んでくれないか」
「クリスさん、ですか?」
 レナが言うと、若者はやけに嬉しそうに頷いた。
「これに懲りたら次からは気をつけなさいな、クリス」
「あ、いや。別にそういうつもりじゃなかったんだけど……」
「どういうつもりでも構いませんわよ。けど私たちも、二度も助けてあげるほどお人好しではありませんことよ」
「わかった、気をつけるよ。……ありがとう」
 クリスといった若者は繰り返し礼を言うと、きびすを返して早足に歩き去っていく。
「……なかなかいい男でしたわね」
「そうね……」
 だが、レナはなぜか、あの若者と初めて会ったようには思えなかった。その理由は首筋のあたりで切り揃えられた金髪を揺らして歩いていく、彼のうしろ姿を見てわかった。
「あ、そっか……。あのひと、クロードに似ているんだ」
「えぇ~?」
 セリーヌは露骨に嫌そうな顔をして。
「全然似てませんわよ。クロードはあんな清楚で気品のある顔はしてませんわ」
「はあ……」
 けれど、とレナは思った。そんな気品のある彼が、どうして無銭飲食なんてしたのだろう。そもそも正装をした人間がこの近辺をうろついているというのも、妙な感じがする。
「ねぇ、セリーヌ、さん……?」
 そのことについて訊こうとセリーヌを振り向く。だが、彼女はぼうっとあらぬ方を見つめているばかり。
「セリーヌさん?」
「えっ? なんですの?」
「なんか、顔赤いですよ」
「そっ、そんなことありませんわよ。……そうそう、夕日よ。夕日のせいでそう見えるだけですわ」
 そう言いつつ顔を背けるセリーヌに、レナは首を傾げた。
「さ、さあとっとと帰りますわよ」
「あっ、待ってくださいよ」
 早足で通りを歩いていくセリーヌ。レナは慌てて後を追った。西の地平線に沈みかけている夕陽が、空と街を紅に染め上げていた。

 翌朝、ホテルの部屋で目覚めたレナは、横で寝ていたはずのセリーヌがいないことに気づいた。洗ってもらったばかりの服に袖を通し、部屋を出てロビーへ行く。
 フロントでは、クロードがレイチェルと話をしていた。
「やあ、おはようレナ。体の具合はどうだい」
「もうぜんぜん平気よ。……あ、おばさん、服ありがとうございました」
「いえいえ、大したことじゃないわよ。染みついた血もきれいに取れてよかったわ。それにしても、夜遅くにレナちゃんが血まみれで帰ってきたときには驚いたねぇ」
「すみません……」
「クロードは悪くないわよ。私が不注意だっただけなんだから」
「あらあら、お互いに庇いあっちゃって。妬けるわね」
「また……」
「そういうことを……」
 脱力したついでに、クロードに訊きたかったことを思い出した。
「そういえば、セリーヌさんどこ行ったか知らない?」
「ああ。食料の買い出しに行ってもらってるよ」
「食料?」
「うん。明日クリクに向けて出発しようと思うんだ。セリーヌさんの話だと二日はかかるみたいだから、今日のうちに食料を買いだめしておかないとね」
「ふ……ん」
 話を聞きながら、レナは妙な胸騒ぎを覚えた。昨日のあの一件以来、どうもセリーヌの様子がおかしいことに、彼女はなんとなく気づいていたのだ。
「私もセリーヌさんの所へ行ってくるわ」
「そうかい? たぶん中央広場にいると思うけど……」
 クロードが言い終わる間もなく、レナは駆け出していった。

 中央広場をくまなく探したが、セリーヌの姿は見つからなかった。
 どこかですれ違ったのかもしれない。けれど、いくらこの人混みとはいえ、あの目立つ恰好ならひと目で気づくはずだ。人の流れに半ば押されるように歩いていくと、いつの間にか昨日の食堂やら酒場やらが建ち並ぶ通りに出ていた。ちょうど昼時だったので、この辺りも中央広場と変わらないほどの人でごった返している。花崗岩で敷き詰められた道を行ったり来たりして、通りすがる人々の顔を見ていったが、いかんせん数が多すぎる。いい加減諦めてホテルに戻ろうと思ったそのとき、視線の先に薄紫の髪が揺れた。セリーヌだ。
 レナは声をかけようとしたが、すぐに思い止まる。セリーヌの横を、誰かが一緒に歩いているのだ。
(え……えええっ!?)
 それは、あの無銭飲食のクリスだった。絹のマントに身を包み、クロードに似たブロンドの髪をなびかせて。
 セリーヌとクリスはなにやら話をしながら、近くの店の中へと入っていった。あんぐりと口を開けて、それを見送るレナ。
「もしかして……私、すごい場面を目撃しちゃったのかしら……」

 結局、セリーヌは夜まで帰ってこなかった。
 夜遅く、レナは扉の開く音で目を覚ました。寝返りを打つふりをして扉の方を向き、そっと目を開けて見ると、セリーヌは扉を静かに閉めて、その場で立ちつくたまま目を伏せている。暗くて表情は窺えなかった。なにか考え事でもあるのだろうか。しばらくして、吐息を洩らし熱でも計るように額に手をやり、せわしくかぶりを振ると、ようやく隣のベッドに倒れこむように横になった。
 セリーヌの中で、何かが揺れている。レナはこのときはっきりと感じ取った。そして、その原因がクリスにあることも、確信していた。
(どうするんだろう。明日は出発なのに……)

 そうして、朝がやってきた。ホテルを後にして、いよいよクリクに向けて出発しようかというとき、そこにセリーヌの姿はなかった。
「遅いな、セリーヌさん」
「そうね……」
 城下町の門の前で、クロードとレナは待ちぼうけを食っていた。
「すぐに戻るから、待っていてくださる?」
 彼女はホテルのロビーでそう言い残して、どこかへ出かけてしまったのだ。
「なにか急ぎの用でもあったのかな。レナは心当たりある?」
「うん……ないことはないけど……」
 セリーヌが何をしに行ったのか、漠然とはわかっていた。しかし、それを今ここでクロードに言うのは躊躇ためらわれた。
「もうちょっと待ってみましょうよ。じきに戻ってくるわ」
 はぐらかすように言うと、クロードは少し間を置いてから、頷いた。
「ああ……」

 中央広場の東、人気の全くない裏通りで、ひとつの恋物語は静かに、そして確実に進行していた。
「……もう、行かなくちゃ」
「どうしても、駄目なのかい?」
 クリスが訊くと、セリーヌは戸惑ったように下を向く。
「きのう一日、ずっと一緒にいてわかったんだ。僕には君のようなひとが必要だ。これからも一緒にいたい。同じ時を共にしたい。これが僕の願いだ」
「…………」
「セリーヌ」
 クリスが一歩前に進み出ると、彼女は怯えるように一瞬だけ全身を震わせた。クリスはゆっくりと、優しく包み込むように彼女を抱きしめる──。
「い……嫌ぁっ!」
 突然、セリーヌがクリスを突き飛ばすようにして離れた。愕然とセリーヌを見つめるクリスに対し、彼女は困惑と驚愕の入り混じったような表情のまま、凍りついていた。
「どうして、どうして受け止めてくれない? 僕の、この想いを……」
「違う……違うのよ!」
 セリーヌは首を横に振り、額に手を当てた。
「こんなの、初めてなの……苦しくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、もう、なにがなんだかわからない……自分の気持ちが、わからなくなってしまった……」
 吐き捨てるように言うと、セリーヌは急に夢から覚めたように平静になる。
「……ふたりが待っているわ、行かないと」
 そうしてクリスに背を向けて、歩き出した。
「僕も、待っているよ」
 クリスが言った。遠ざかる彼女の背を、まっすぐ真摯に見つめて。
「君が戻ってくるのを、僕はずっと待っているから」

4 破滅への序曲 ~クリク~

 うんと小さいころ、船乗りになりたかった。
 天にも届きそうな帆柱マストに張りめぐらされた帆は、潮風を受けてピンと張る。この道なん十年にもなる船長は、甲板の舵輪だりんの前で堂々と、確かな手つきで梶をとる。その船長の指示ひとつで、船員たちも忙しそうに船の上を動き回る。いつかあの、舵輪の前に立つことを夢見て。
 船はいろいろな想いを運んで大海原を駆けめぐる。ヒルトン、ハーリー、テヌー……港町に起こる出会いと別れをその目に焼きつけて、船はまたおかを離れ、果てしなく広がる碧の中に溶けこんでいく。きれいな碧、優しい蒼、そして時には恐ろしく、厳しい青にも。
 船乗りたちにとって最大の敵は吹きすさぶ嵐、荒れ狂う波──時化しけだ。彼らは力を合わせてあかを汲み、帆柱マストを安定させ、危機を乗り切ろうとする。けれどそれでも、万が一船が沈むようなことがあれば、彼らは船と運命を共にする。決して命を乞うようなことはしない。それが船乗りの掟であり、なにより彼らの誇りだからだ。
 ぼくはそんな船乗りにあこがれていた。ぼくだけじゃない、この街の男はみんな船乗りにあこがれるんだ。こどもだろうと大人だろうと、爺さんだって「儂がもう少し若ければのう……」と誰彼かまわずぐちをこぼすぐらいに。
 けど、ぼくにはそんな夢をもつことは許されない。
 ぼくのパパは、この街でいちばん大きな貿易会社の社長。つまり、船乗りたちを上であやつっているようなひとだ。いつかはぼくもパパのあとを継がなくちゃならないって、ママはいつもぼくに言いきかせてる。そうなったらぼくは、あこがれの船乗りたちを道具のようにこき使って、いばりくさって命令したりしなきゃいけない。
 ……そんなの、いやだ。まっぴらごめんだ。でも、そんなこと、誰にも言えやしない。パパにもママにも、家政婦のホーミィにだって。……ともだち? そんなものはぼくにはいない。
 昔はいたんだ、たくさんともだちが。レヴィもルチルもティックも、みんなぼくといっしょに遊んでくれた。ずっとともだちだよって言ってくれた。……でも、そのうちにぼくのまわりには誰もいなくなった。こっちから近づいていっても、みんな逃げていく。理由はわかってた。ぼくが金持ちのこどもだからだ。
 レヴィたちのパパやママが、口々に言うんだ。金持ちの子と遊ぶな、あんな子と一緒にいたらろくなことにならない、うちの子までダメになってしまう、って。おとなたちはこそこそささやき合ってる。だいたいどうしてあんな子がうちの子と遊びたがるのかしら、きっと親に言われてるのよ、今のうちに下々の人間の扱い方を学ぶようにって、いやあね、あんなかわいい顔をして……。
 ──ちがう。
 ちがう。
 そんなんじゃない!
 ぼくは、みんなと同じように遊びたかっただけなのに。
 見栄ばかり張ってえらそうにしてる社長よりも、ほんとうにりっぱな船乗りになりたいんだ。
 金持ちなんて……金持ちのこどもなんて……だいっきらいだ!


 ケルラ川の下流、海に流れ着く河口付近にその街はあった。
 十字状に広がるクロス大陸、その最北端に位置するクリクは、一年を通じて季節があまり変化しない地方でもある。温暖で雨の少ない気候はオリーブや月桂樹を育み、港町に特有の潮の香り以上に、その甘酸っぱいような芳香が街全体を満たしている。
 クリクは港町であること以外にも、芸術の街としての顔がある。道という道に敷きつめられた石畳は褐色がかった白で、無数の硝子の破片がちりばめられているため陽の光を受けると眩いばかりに輝く。建物や塀なども一様に明るい基調の色が用いられ、あたかも街そのものが光を帯びているかような、幻想的な趣もある。大通りの壁は洒落こんだモザイク状の壁画で彩られ、中心部の広場にある巨大な円形噴水の真ん中には、街に住まう芸術家・匠の者たちがその技と知恵と結集させて造り上げた天使像が、港を見下ろすように鎮座している。
 クリクは、街ひとつがまるごと『芸術』なのだ。訪れた旅人はその美しさに心を奪われずにはいられない。かつてはうら寂れた漁村でしかなかったクリクも、現在では『遠くて近い楽園』として大陸中に知れわたることとなった。
 クロード、レナ、セリーヌの三人は噴水広場へと続く道を歩いていた。
「きれいな街ですね」
 道の先に見え始めてきた噴水と天使像にレナは目を輝かせて。
「おそらく大陸一、いや、世界一美しい街かもしれませんわね」
 セリーヌはなぜか自分のことのように、得意気に言い放つ。
「なんか港町って感じがしないよな」
 噴水広場の賑わいに感心しながら、クロード。
「港へはどうやって行くのかな?」
「このまま広場を南につっきれば……あら?」
 広場を眺望していたセリーヌが途中で目を留めた。
「あれは何かしらね?」
 噴水の手前、天使像の裏側あたりに十数人ほどの人だかりができている。
「なんだろう?」
「気になりますわね……ちょっと行ってみませんこと?」
「セリーヌさん、ヤジ馬も程々にね」
「違いますわよ! トレジャーハンターとしての勘ってやつかしら」
 セリーヌはそう言うと早足で一群に向かっていく。
「この場合、トレジャーハンターは関係あるのかな……」
 クロードたちも仕方なくセリーヌの後を追った。

「みなさん、ただちにこの街から立ち去ってください」
 女は、周囲の冷ややかな視線に負けじと声高に叫んだ。
「近い将来、この街を破滅の嵐が吹き荒れます」
 寄り集まっていた群衆が、その言葉でせきを切ったようにざわつき始める。驚愕の、侮蔑の、憤怒の視線がいっせいに彼女に降り注がれる。
 女は薄紅色の絹のローブに身を包み、それについているフードを深々と被っていた。フードに隠れてかおははっきりとは見て取れない。ただ、その悲しみに満ちた──不安、焦燥、絶望……それらがすべて入り混じったような──眸だけが、人々を見据えて微かな光をたたえている。
「今ならまだ間に合います。急いで避難してください」
「……馬っ鹿じゃねぇの」
 誰かがそう言ったのを皮切りに、他の者も次々に言い募る。
「この街が滅びる? 誰がンなこと信じるかってんだ」
「冗談にしちゃ物騒な話だな。それとも新手の嫌がらせか」
「かわいそうに。頭の方がどうかなってしまったのね」
「こんなにのどかですのにのぅ、ばあさんや」
「そうですのぅ、じいさんや」
「おい、てめぇ、二度とそんな不吉なこと言うんじゃねぇぞ」
「聞くだけ時間の無駄でしたわ。行きましょダーリン」
 群衆は非難の声を浴びせるだけ浴びせて、わらわらと解散していった。とり残された形であとに残ったのは、三人の旅人らしき者たち。女は自然とそのうちのひとり、青い髪の少女と目が合う。
「あ、えーと……」
 少女は困ったようにぎこちない笑みを浮かべて言葉を探した。
「あの、さっきの話はほんとうですか? クリクが滅びるなんて……」
 苦し紛れにそう言う少女の姿を見て、女は思わず目を見張った。耳朶じだの薄い、先の尖ったその耳に見覚えがあったのだ。
「あなたは……」
「え、なんですか?」
 女はいぶかしげに少女の顔を見つめていたが、彼女の無邪気に問いかけるような視線に気づくと、わずかに口許を緩ませる。そして、すぐにきっと切り結んで。
「……虚に包まれた幸福に身を埋めるか、寒風の中に肌をさらそうとも真実を求めるか」
 感情を押し殺した声で、女は言った。
「あなたは選ばなくてはなりません。あなたが知ろうとしている真実は、自身にとって最も辛いことです。真実を恐れ、偽りの幸福に身をゆだねるならそれも良し。たとえどんなに非情な真実であろうとも、それを受け入れる覚悟があるのなら……進みなさい。あなたが信じる通りに進めば、おのずと道は拓かれるはずです」
 その曖昧な、あまりにも遠回しな物言いに少女は困惑したが、何を言わんとしているのかは漠然と理解できた。
「なにか……知っているんですか?」
 少女が緊迫したように訊くが、女はそれには答えず、彼女の横を通り過ぎて歩き去ろうとする。
「待って!」
 女は足を止めた。その背中に、少女は必死に叫びかけた。
「私……知りたいんです! 自分が誰なのか、どうしてひとと違う力を持っているのか、ほんとうのお母さんはどこにいるのか……。たとえどんなに辛いことでも、知りたいんです。教えてください!」
 女はやはり答えなかった。重苦しい沈黙の時だけが刻まれる。
 しばらくして、女は振り返らずに背後の少女に言う。
「あなたとはいずれ、また会うことになるでしょう……その時まで」
 急に目の前の景色が歪みだした。目眩でも起こしたかのように少女の視界は白熱し、闇に包まれ、上下左右に揺すられてぐるぐると回っている。
 なんとか前を見極めようと足を踏ん張って凝視したときには、既に女の姿はなかった。
「あのひとは……どこ?」
 まだちかちかする眼を手で押さえながら、少女が後ろのふたりに訊く。
「あのひとって?」
「何のことですの?」
 ふたりは揃ってきょとんと目を丸くした。
「さっきまでここに女のひとがいたじゃない。クリクが滅びるとか言ってた……」
「さっき? 僕らは今ここに来たばかりじゃないか」
「え?」
 少女はふたりを見た。冗談を言っているような顔ではない。それどころか、妙なことを言い出した彼女を心配そうに見つめてさえいる。
「さあ、こんなところで油を売っていても仕方ありませんわ。早いところ乗船の手続きをしませんと」
「う、うん」
 仲間たちの後を慌てて追いかける少女。歩きながら、先ほど彼女が見たはずの出来事に頭を巡らせた。
 白昼夢でも、見たのだろうか?
 ふと背後を振り返ってみる。女が消える直前に立っていたあたりの地面に、小さなつむじ風が起こっているのを、少女──レナは見た。

「船が出せない!?」
「どういうことですの?」
「そうは言ってないだろうが。せっかちな奴らだな」
 船長は手に持った帽子で顔を扇ぎながら、事情を説明した。もしゃもしゃの赤髭がいかにも暑苦しい。
「今は積み荷を乗せているところなんだ。クロスからの救援物資らしいがな。これがまた、えらく量が多いもんだから、全部積み終わるまでに……そうさな、あと三時間ってとこか。それまで街の中でも見学して待っていてくれや」
 仕方なく、三人は再び噴水広場へと戻っていった。
「まったく……三時間もどうしていろって言うんですの」
「まあ、そう言わずにゆっくり街を見学しましょう……」
 ぐるるるる。腹が鳴った。ふたりがレナを見る。レナは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「と、とりあえずどこかで腹ごしらえしようか?」
「……そうですわね」
 クロードとセリーヌが気まずいように請け合って、歩きだそうとしたそのときだ。
「きゃっ!」
 不意にレナは背後から突き飛ばされ、前のめりに倒れた。その横を小さな身体が通り過ぎ、走り去っていく。レナはうつ伏せのまま顔を上げてその姿を認める。子供だ。
 彼女が立ち上がったときにはすでに子供の姿は人混みに紛れ、見えなくなってしまった。
「ビックリしましたわ……。レナ、大丈夫ですの?」
「ええ。平気ですけど」
 レナは服についた埃を払いながら返事をした。それから足許に目をやると、腰にくくりつけていたはずの道具袋が地面に落ちていた。突き飛ばされたときに紐が解けてしまったようだ。
「まったく、最近の子供は謝りもせずに行っちゃうんだなぁ」
 憤慨したようにクロードが言った。と、横でレナが屈み込んだまま硬直している。
「どうしたの、レナ?」
 彼女は口の開いた道具袋を両手に抱えたまま、引きつった笑いを浮かべてこちらを向いた。顔は蒼白だった。
「……サイフがない」
「え?」
「なぁんですって!!」
 クロードよりもセリーヌの方が動揺したふうである。なにしろこのかた、金には人一倍うるさい。
「きっと、さっきの子供の仕業だ」
 クロードが言うと、レナは視線を落とした。
「わからない……どこかで落としたのかもしれないし」
「どうするんですのよ。先立つものがなければ旅なんて続けられませんわよ」
 三人はしばらく黙り込む。特にセリーヌは気が気でないといったふうに、しきりに爪を噛んでいる。
「とにかく、ですわ」
 沈黙を破ったのはやはりセリーヌ。
「さっきのボウヤが取ったのだとしたら、お仕置きしないといけませんわね」
「捜して確かめないと。……どんな子だったかな?」
 レナは最後に見た子供の姿を思い浮かべた。目撃したのは走り去るうしろ姿だけなので、顔はわからなかったが、確か。
「小柄の男の子で、髪は青かった気がする」
「確かに、そんな感じでしたわね」
「よし、すぐに捜しにいこう」
 クロードが軽く言ったが、事はそう簡単には運ばなかった。

 クリクの街はクロスなどに比べればそう広いとはいえないが、なにしろ大陸内外からやって来た観光客や旅人でごった返している。その中からひとりの子供を捜し出すのはまったく骨の折れる作業であった。
 地元の人に聞きまわって、その少年と思しき青い髪の子供が住んでいる家は突きとめたが、高台に建つひときわ大きな屋敷には、いかにも意地の悪そうな母親らしき婦人と家政婦がいるのみだった。
「えー? それっていつもひとりで遊んでいるケティルじゃないのー」
 港の桟橋の近くで遊んでいた子供たちから、ようやくそれらしい話を聞くことができた。
「その子、ケティルって言うの?」
「うん、ケティルはいつも酒だるのところで遊んでいることが多いのよ」
 利発そうな女の子が目をぱちくりさせて言う。
「酒だる?」
「酒場の名前さ。噴水広場から東の路地に入ったところにあるはずだよ。ケティルはいつも店の横の酒蔵にいるんだ。なにやってるのかは知らないけど」
 茶色の髪をした生意気盛りの少年が、両手を頭の後ろにあてながら言った。
「そう、ありがとう」
 三人は早足でその酒場へと急ぐ。

 高々と積まれた酒樽のてっぺんに座って、青い髪の少年──ケティルはつまらなさそうに足をぶらつかせている。
「やっと見つけたぞ……」
 クロードたち三人は酒蔵に隣接する武器屋の『良い武器を買うなら国際通商へ!』という立て看板の陰に隠れて、様子を窺っていた。
「どうするの? このまま近づいたら、また逃げられちゃうんじゃない?」
「まあ、ここは僕に任せてよ」
 クロードは意味ありげな微笑を浮かべると、看板の影から出て、さりげない足取りで少年に近づいていく。慌ててレナとセリーヌもあとについて歩きだす。
「参ったなぁ……どこに落としたんだろう」
 樽の上の少年に聞こえるぐらいの大声で、わざとらしくクロードが言った。ケティルはその声に一瞬ビクッとしてこちらを向いたが、すぐにそ知らぬふりをする。
「広場にないなら、あとはこの辺かな……あ、ねぇ、君」
 表面上はさりげなく、クロードはケティルに話しかけた。少年も内心穏やかではなかったが、平静を装ってこちらを向く。
「なに?」
「この辺りに、落とし物とかなかったかな?」
 クロードの演技は他人からすればまったくの大根だったが、それがかえってケティルに動揺をもたらしたらしい。
「し、知らないよ。サイフなんか」
「あれぇ?」
 ひっかかった、とクロードは心の中でほくそ笑んだ。
「どうして僕らがサイフを落としたことを知っているんだい?」
「だ、だって言ったじゃないか。落とし物って」
「落とし物はないかとは聞いたけど、それがサイフだとは一言も言ってないよ」
「う……」
「何か知っているんだね、教えてくれないか」
 クロードが言うと、ケティルは下を向いて黙り込んでしまった。見かねたレナが進み出て。
「私たちはね、大事な旅の途中なの。でもお金がないと旅を続けられないのよ。知ってるなら、教えてほしいんだ」
 優しくそう言うと、ケティルは思わず表情を崩して口を滑らせた。
「えっ、たったあれっぽっちで旅してるの?」
 言ってすぐ、自分の口を塞ぐ。
「あ……」
「やっぱりお前か!」
 クロードが演技をやめ、怒りをあらわにした。
「お前がサイフを盗んだんだなっ」
「あ、あう……」
「クロード」
 レナが横からいさめるように言う。
「だめよ、そんな恐い顔しちゃ」
 そして樽の上のケティルを仰いで。
「怒らないから教えて。お金を盗んでどうするつもりだったの?」
 青い髪の少年はしばらく口を尖らせて黙っているばかりだったが、不意に樽から降りて地面に着地し、二、三歩進んだところでぴたりと立ち止まる。
「欲しいものでもなにかあった?」
 レナがその背中に訊くと、ケティルはぼそりと。
「……ほしいものがあれば、なんでも買ってくれるよ」
「じゃあ、どうして?」
 繰り返しレナが訊ねた。ケティルはこちらに向き直り。
「みんなをビックリさせてやろうと思ったんだ」
「え?」
「みんながぼくのことを『お高くとまった金持ちの息子』だって、遊んでくれないから……」
「それで、僕らからサイフを盗んだのかい?」
 クロードが言うと、ケティルはこくりとひとつ頷いた。
「ぼくはなんにもできない金持ちの子供なんかじゃない。なんでもできる海の男だってことを、わからせてやろうと思ったんだ」
「なんでもできる、ってなぁ……。盗みができても自慢にはならないだろうに」
 呆れたように言うクロードを、レナはそっと睨みつけて。
「もっと他に言いようはないの」
「……えっと」
 頭を掻き掻き、言い直す。
「つまりだな。盗みをやらなきゃ認めてくれないような友達なんか、相手にすんなってことだ」
 ケティルはもう一度大きく頷く。
「それで」
 酒場の壁にもたれて、興味ないというふうにそっぽを向いていたセリーヌが、初めて口を開いた。
「この子の始末はどうしますの?」
「始末……」
「セリーヌさん、くれぐれも穏便にね」
 レナがクロードを見る。クロードは腕を組んでしばらく考えていたが。
「とりあえず、サイフは返してもらおうかな」
 ケティルはズボンのポケットから布製の財布を取りだして、クロードに手渡した。
「はい……ごめんなさい」
 受け取ったクロードは中身を確認すると、さらにレナに渡す。
「さて、どうしようか」
 そう言ったとき、ふと彼の頭に妙案が浮かんだ。
「そうだ。このことは黙っておいてあげるから、代わりに僕たちにクリクの街を案内してくれないか?」
「え?」
「知らない街は、そこに住んでいる人に案内してもらうのが一番だろ?」
「そうね! それがいいわ」
 クロードの意見にレナも喜んで請け合う。
「もう……ふたりとも甘いんですから」
 セリーヌはふくれっ面で呟いた。
「ぼくが、お姉ちゃんたちを案内するの?」
 ケティルが目を丸くして訊き返す。
「頼めないかな?」
「ううん、やらせてよ。やってみたい」
 表情を和らげるケティルに、レナも笑顔を返す。
「私はレナっていうの。あなたは確か……」
「ケティルだよ」
「僕はクロード。よろしくな、ケティル」
「セリーヌですわ」
「じゃ、ケティル君、街を案内してくれるかな?」
「うん、まかせて」
 ケティルは張り切って、広場の方へ駆け出していった。

「ここは噴水広場っていうんだよ」
 モザイク壁画の通りを抜けたあたりで、ケティルが舌足らずの口調で一生懸命に説明する。
「おっきな噴水と天使さまの像がここのシンボルさ。まわりにはレストランに服屋さん、占いの館、いろんなお店があるんだ。……それから、この道をまっすぐ行って、上にあがったところが展望広場。ここからの眺めは最高だよ。こっちの道を行けば港だね」
「ふーん」
 聞きながら、レナの目は知らず知らずと横のレストランの看板に向けられていた。その途端。
 ぐるるる。本日二度目のレナの腹時計だ。今度は人混みの喧噪に紛れて誰にも聞かれていないと思ったが、すぐ隣を歩いていたクロードの耳にはしっかりと入っていたらしく、目が合うと咄嗟にあらぬ方向を向いた。
「ね、ねぇみんな、ここのレストランで食事でもしないか? どうせ昼もまだだったし」
 レナにしてみれば白々しく、クロードが提案した。
「あら、いいですわね」
「ぼくもいいの?」
「もちろん。今日はとことんおごってやるから、好きなもの何でも食べていいぞ」
 と、いうわけで、一行はレストラン『オジャガ亭』に入ったわけだが。
「……なんだこりゃ」
 メニューに書いてあった料理がよくわからなかったので、マスターおすすめだという『定食ランチセット』とやらを注文してみたのだが、テーブルの上に並べられたのは、風変わりなうるし塗りの黒い器に盛られたいくつかの料理。おまけにフォークもスプーンもなく、『はし』という二本の木製の棒を使って食べるらしい。
「あの……これは何ですか?」
 レナが器のひとつを指さしてマスターに訊く。茶色っぽい色の豆がぎっしりと入っている。食べ物にはとても見えない。
「ああ、納豆ですよ。そこの醤油っていう調味料をかけて、かき混ぜたあと、ご飯にのせて召し上がってください。あ、でも通のかたなら先にかき混ぜてから醤油をかけますね。その方が粘り気が出て、味も良くなるんですよ」
「はあ……」
「では、ごゆっくり」
 細長い口髭を昆虫の触角のように喉元まで垂らしたマスターは、一礼して厨房へと戻っていった。
「じゃ、食べようか……」
 マスターに言われた通りにかき混ぜて、醤油をかける。不安だったので、ご飯にのせる前に少し味見してみた。
「なっ、なにこれ!? なんでこんなにねばねばしてるの?」
「まっず~い……」
 ケティルも口に入れて、すぐに吐き出した。
「そう? 結構いけるじゃないか」
 クロードはご飯に山ほどのせて平気で食べている。
「まったく、どうしてスプーンやフォークじゃ駄目ですの? こんな棒きれで食べるなんて、いったいどこの国の風習かしら?」
 言いながらも、セリーヌは二本の棒を巧みに操って焼き魚をむしっている。納豆にははなから手をつけない心積もりらしい。
「ケティルのお父さんは、何をしてるひとなの?」
 レナが隣の席で冷や奴と格闘しているケティルに訊いてみた。
「会社の社長だよ。クリク・トレーダーズっていう」
「クリクトレーダーズ?」
 魚の骨を抜き取りながら、セリーヌが声を上げる。
「知ってるんですか、セリーヌさん」
「知ってるもなにも、世界でも指折りの貿易会社ですわよ」
「じゃ、ケティルは大会社の御曹司ってこと?」
 レナが言うと、ケティルは山芋の煮物を突っついていた手を止める。
「……嫌いなんだ、そういうの」
「え?」
「御曹司とか、坊ちゃんとか、みんなそうやってぼくを特別扱いしようとする。そんなん関係ないじゃんか。……金持ちの子供になんか、ならなくたってよかった。ぼくはレヴィやルチルたちと遊べれば、それでいいのに」
「…………」
 下唇を突きだして焼き魚を見つめる少年を、レナは無言で見つめた。ところが向かいの席で突然、ずずずと味噌汁をすする音がして、気が抜けたように頭を落とす。
「クロード……空気読んでよ」
「え? あ、音大きかった?」
 おどけたような笑いを浮かべて、クロード。
「ま、それはともかく、ケティルはそのレヴィたちと遊びたいんだな?」
「え? うん、そうだけど……」
「なら話は早い」
 クロードはケティルにニッと笑ってみせる。わずかに見えたその歯には緑色のワカメが付着していた。

 港の倉庫が建ち並ぶ付近の埠頭では、数人の子供が集まっていた。クロードたちがケティルを引き連れてこちらへやってくるのに気づくと、中のひとり──彼らのリーダー的存在であるレヴィが進み出た。
「なんだよ、ケティル。なにか用かよ」
 レヴィが乱暴に言い放つと、クロードの背後に隠れるようにして相手を窺っていたケティルは、背を向けて逃げ出そうとする。
「ケティル!」
 クロードが呼び止める。ケティルは立ち止まり、恐る恐るレヴィのほうを向く。
「君たち、ケティルと遊んでやってくれないかな?」
「え~、ケティルと~?」
「お金持ちの家の子とは遊びたくないなぁ」
 遠巻きに様子を見ていた他の子供たちが不平を洩らした。
「そんなの理由になっていないじゃないか」
 クロードが言うと、中のちょっと太めの子供が。
「だって、うちの母ちゃんが言うんだよ。金持ちの子供と遊ぶんじゃないって」
「うん、うちのママも言っていた」
「……だ、そうだぜ」
 仲間の声を背中に受けて、レヴィは口許をつり上げ、大人びた仕種で言う。
「兄ちゃんたちがどうしてケティルといるのかは知らないけど、あんまりそいつと関わらないほうがいいぜ。なんたってそいつは金持ちのおぼっちゃんだ。おれたちとは住んでる世界が違うんだよ」
「それがどうした」
 知らぬうちにクロードはレヴィを睨みつけていた。
「おぼっちゃんなら遊んでやらないのか? 住んでいる世界が違うなら仲間に入れてやらないのか? ケティルの気持ちも知らないで、よくも言えたもんだ」
 子供相手にそんなにむきになってちょっと大人げないな、とレナは思ったが、クロードの気迫に圧されて口出しすることははばかられた。
「別に金持ちが嫌いなのは構わないさ。けどケティルは好きで金持ちの子供に生まれたわけじゃないんだ。ケティルだってみんなと一緒に遊びたいと思ってる。その気持ちの方が大切なんじゃないか」
 レナが感じた気迫を子供たちも感じ取ったのだろう、みんな下を向いたり空を見上げたりして、黙りこくってしまった。肝っ玉の据わったレヴィだけが怪訝そうにクロードを見つめる。
「……ケティル」
 そして、大きな瞳を困ったようにキョロキョロと動かしていたケティルに呼びかけた。
「ほんとうに、おれたちと遊びたいのか?」
 ケティルは下唇を突き出したまま、ひとつ頷いた。
「なら来いよ」
「え?」
「仲間に入れてやるよ。みんなもいいだろ?」
 レヴィが振り返って訊くと他の子供たちも。
「うん、いーよ」
「別にケティルが嫌いだったわけじゃないもの」
「おれも、母ちゃんが言うから遊ばなかっただけだし」
「来いよ、ケティル。いっしょに話しよーぜ」
 ケティルはクロードを見る。クロードは微笑して、行け、というふうに顎で向こうを示した。振り返り、遠慮がちに向こうへと歩いていくケティルも、いつしか子供たちの輪の中へ入っていった。
「兄ちゃん」
 ケティルの姿を見送っていたクロードに、レヴィが声をかけた。
「兄ちゃんも、金持ちの子供なんだね」
 クロードは目を見張った。レヴィはそれだけ言うとすぐに踵を返して仲間の輪に加わる。
「そうなの、クロード?」
 横で聞いていたレナが問いかけると、クロードは苦笑して。
「金持ちというか……まあ、そんなものかな」
 子供たちの中心で照れくさそうに話をしているケティルを、目を細めて眺めながら。
「親の七光りとはよく言ったものだけど……時にはそれが重荷になったりもする。他人の視線が気になって、気にしてるうちに怖くなって……自分に自信がない場合は、特にね。ケティルには、そうなってほしくないよな」
「クロード……」
「どうでもいいですけど」
 待ちかねたようにセリーヌが切り出した。
「そろそろ船の方へ行きませんこと? もう時間ですわよ」

「まだなんですか?」
「もうとっくに時間は過ぎてますのよ!」
「だから人の話を聞けっての」
 赤髭の船長がなだめるように言った。
「最後の荷物が届いてないんだ。あと十分もすれば届くはずだから、それまで船の中で……おっ?」
 船長がたたらを踏んだ。レナも足許がふらついて蹌踉よろける。また目眩かと思ったが、違う。地面の方が揺れているのだ。
「地震?」
 そう呟いたとき、まるで地面が波打つかのように大きく揺れだした。
「きゃっ!」
「ななな、なんですの、これは」
「まずい。この揺れだと津波が来るかもしれん。高い所……展望広場に逃げるんだ!」
 誰もがまともに立っていられないほどの振動だったが、とにかく船長の指示したとおり、展望広場へ避難しなくてはならない。
 しかし、それには大勢の人間が集まる噴水広場を抜ける必要があった。
「きゃぁぁっ! 誰か助けて!」
「ふがっ、ふが」
「ビリー! どこ行った、ビリー!」
「じいさん、じいさんや」
「終わりじゃ、この世の終わりじゃ!」
「パパーっ! ママー!」
「ひぃぃ、創造神トライアさま、お助けを!」
 逃げ惑う人々で噴水広場の混乱は頂点に達していた。屋根が剥がれ落ち、敷石が砕けて地面が裂ける。クロードたちは雨霰と降ってくる瓦礫をくぐり抜け、常軌を逸したかのように右往左往する人々の群をかき分ける。やっとのことで展望広場に辿り着いたときには、街のほとんどの家屋が倒壊していた。それでもなお、揺れはおさまらない。むしろ更にひどくなっている。
 噴水に亀裂が走り、水が周囲に流れ出す。天使像は地面に沈み込むように足許から崩れ落ちる。家屋も、店も、モザイクの壁画も、オリーブや月桂樹さえも、街のありとあらゆるものが潰され、倒れ、地面に呑み込まれていく。あまりにも他愛なく崩れ去った人間の街を弄ぶかのように地面は揺れ続け、そしてようやく治まった。
「こ……こんな……」
「街が、クリクが……ああ、なんてこった……」
 展望広場に避難して一命を取り留めた者たちは、茫然と眼下の街を眺める。そこには、まともな建物などただの一棟もなかった。崩れた煉瓦の壁、瓦礫の山、そして、逃げ遅れた人々。ある者は片足を引きずりながら彷徨い、ある者は頭を抱えて蹲り、またある者は何かを叫んで瓦礫をかき分けている。
「あ……助けなきゃ……」
「見ろ!」
 レナが下に降りようと足を踏み出したとき、誰かが海を指さして叫んだ。
「あ……ああ……」
「そんな……」
 その光景に、誰もが戦慄した。
 遙か沖合の海が急激に膨れ上がる。それはみるみる高さを増していき、やがて絶望の蒼い壁となった。
「つ、津波だあっ!」
「ひええええっ、逃げろ!」
 慌てふためく者たちに、赤髭の船長が一喝する。
「取り乱すんじゃねぇ! ここにいれば安全だ。じっとしていろ!」
「で、でも、街は……下の人は……」
 横の船員の言葉に、船長は俯き、おもむろに帽子を取った。
「……終わりだ。──畜生ッ!!」
 そう叫んで、帽子を地面に叩きつける。クロードもレナもセリーヌも、言葉を失ったまま海岸を見遣る。
 津波が、海岸線近くまで迫っていた。その高さは、街の上空に垂れ込めていた黒雲に届かんとするほど。レナはそこに怪物を見た。あまりにもおおきな、蒼き怪物。そいつは大口をぱっくり開けると、白い牙で潰された蛙のような街に容赦なく喰らいつく。たちまち怪物は形をなくし、その蒼い躯が瓦礫の街を駆け巡り、すべてを覆いつくした。

 クリク水没──その報せはのちに世界中を駆け巡り、人々を震撼させることになる。だがそれは、この世界に起ころうとしている破滅への、単なる序曲プレリュードに過ぎなかったのである。