■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第三章 追憶と清算

1 ひとつの恋の物語(後編) ~クロス(3)~

 皮肉なことに、クロスの城下町はかつてない熱気に包まれていた。
 中央広場は人々で埋めつくされ、ろくに身動きもとれないほど。威勢よく商いの声をかける露天商の若者、ぺちゃくちゃと路上でお喋りしながら店の品物を見定めている婦人たち。人込みの中を器用に潜り抜けながら走り回る子供ら。皆すべてが活気に溢れ、忙しなく動き回っている。
 それもこれ、明日に控えたクロス王子とラクール王女の結婚式あってのこと。ふたつの大陸を統べる両王家のロイヤル・ウェディングは、人々を熱狂させるには充分すぎる出来事だった。婚儀が執り行われるクロス大聖堂の周りでは、儀式の準備に大童おおわらわの兵士や王室おつきの官吏らを取り囲むようにして、野次馬ついでに明日のイベントの舞台となる場所を見学しようと人集ひとだかりができている。
「いよいよ明日か……楽しみね」
「私は王子様の晴れ姿が拝めるだけで幸せよ♪」
「ロザリア様のウェディング姿もきれいだろうね。ああん、私も早くステキな殿方を見つけて、晴れの舞台に立ってみたいわ」
「……そんなこと言ってるから相手が見つからないのよ、あんたは」
 若い娘たちの会話に耳を奪われつつも、レナは聖堂の尖塔を見上げた。明かり取りのステンドグラス、さらにその上には真新しい銀色の鐘が真昼の陽光を反射して彼女の眼にしたたか飛び込んでくる。
 街はいたって平和だった。だが、それがレナには逆に大きなしこりとなって、彼女に何かしらの違和感をもたらしていた。未だこの眼に灼きついている、あの悪夢のような光景が、ほんとうにただの悪夢であったように思えてならない。
 いや、あれは実際に起こった出来事だ。信じたくはないけれど。


 ──地震。
 ──そして、すべてを呑み込んだ、あの津波。
 美しき水の都クリクは、瞬時にして大地から消滅した。家族を、友を、恋人を失った人々は嘆き、悲しみに暮れた。
 その中には、あの子供たち──ケティルとレヴィの姿もあった。
「みんなで、走ってたんだ。展望広場に、逃げようと……」
 レヴィがぽつりぽつりと、力なく話した。ケティルは目を真っ赤にして、嗚咽を上げている。
「そしたら、いきなり横の壁が崩れて……後ろを見たら、もう、ルチルたちは……」
「助け、ぇっ……られ、なかった……」
 泣き涸れた声で言うケティルを、レナは強く抱きしめた。せっかく仲良くなった友だち。それを失った悲しみは、計り知れない。レヴィも気丈に振る舞ってはいるが、同じ気持ちに違いない。
「レヴィ、ケティルを頼めるか?」
「……ああ、いいよ。そのかわり」
 クロードの顔を真っ直ぐ見つめて、レヴィ。
「クロスに行って、王様に伝えてきてよ。『早く助けに来やがれ』って」
 クロードはフッと表情を緩ませた。大丈夫。この子は本当にしっかりしている。

 そうして、彼らは急いでクロスへと戻り、王に事の次第を報告した。クロス王は即座に可能な限りの兵士と救援物資をクリクに送るよう命じた。レナたちもそれに随行するつもりだったが、王はそれを制した。
「どうやら事態は我らが考えている以上に深刻なようだ。この災害もソーサリーグローブによるものだとすれば、そなたらには一刻も早く彼の隕石の許に行ってもらわねばなるまい」
「しかし、クリクの港はもう使えません。どうやってエルに渡ればいいのでしょうか」
 王は口許に手を当て、しばらく考えてから。
「……仕方あるまい。ここは遠回りになるが、東のハーリーから一旦ラクールに渡るより外ないな。ラクールも我らと同様、ソーサリーグローブの脅威は感じているはず。事情を話せばエル行きの船も出して貰えるだろう」
「ラクール、ですか?」
「うむ。ハーリーから出ている定期便に乗れば、ラクールの港町ヒルトンに着く。長旅になるだろうから、準備は怠らぬようにな。今日のところはゆっくり休むといい。クリクから歩きづめで疲れただろう」
「はい。ありがとうございます」
 レナたちは礼をして、城を後にした。

 レイチェルのホテルで宿を取ると、各自解散となった。クロードは少し休むと告げて部屋に残り、セリーヌは欠伸をしながら広場に買い出しに行った。
 レナも疲れはあったが、ゆっくり休めるような気分ではなかった。気がつくと宿を出て、広場の隅を歩いていた。
 見渡す限りの、人・人・人。大人も子供も、婦人も男たちも、みんな楽しそうだ。
 ──誰も知らないんだな。ここにいるみんな。
 ──あの惨劇を。あの悲しみを。
 ──だからこんなに平和なんだ。
 目眩がして、レナはふらついた。足を止め、広場を仕切る木の柵に寄りかかる。やっぱり疲れているのかもしれない。
 ……宿に戻ろう。
「レナ」
 そのとき、背後から声がかかった。振り返るとセリーヌがぱんぱんに膨れた道具袋の紐を肩に掛けたまま、こちらに歩いてくるのが見えた。
「こんなところで何をやってるんですの?」
「別に……暇だったからちょっとその辺を散歩してたんですけど」
 そう言いつつ、レナはふと疑問に思った。中央広場で買い物をしてきたはずのセリーヌが何故こんな所に来たのか。
「セリーヌさんこそ、どうしてここに? ホテルは反対の方角ですよ」
「えっ? いや、その……」
 セリーヌは急に困ったような顔をしたが、すぐに思い出したように道具袋の中をあさりだす。
「そっ、そういえばレナに渡したいものがありましたの」
 そう言って道具袋から取りだしたのは、細身の短剣ショートソード。柄と鞘には濃紺色の布が張りつけてあり、両端には凝った意匠の細工が施されている。レナは剣を受け取ると、半分ほど鞘から抜いて刃を覗いてみた。鋭く研ぎ澄まされた刃は、その剣が見せかけだけの玩具ではなく、紛れもなく実戦用のそれであることを証明している。
「どうしたんです、これ?」
「露店で売ってましたのよ。あなたに似合うと思って」
「もらっちゃっていいんですか?」
「構いませんわよ。どうせクロス王からの餞別せんべつで買ったものですから」
 セリーヌは人差し指を突き立てて、悪戯っぽくうそぶく。
「これからは自分の身を守る術も覚えておいた方がいいですわよ。クロスの洞窟で実感したでしょう? 頼りない勇者さまに任せっきりよりも、自分でなんとかした方が得策の場合もあるってことを」
「ク……クロードは頼りなくなんかありません!」
「あら、そうやってムキになるってことは、やっぱり図星なんじゃありませんの?」
 からかうように笑いながら、セリーヌ。
「まあ、なんにしても武器は持っているに越したことはないですわ。外だけでなく、街の中でも危険な目に遭わないとも限りませんし。特にあなたのような年頃の女の子は、ね」
 そう言い残して、セリーヌは雑踏の中に消えていった。
「……どういう意味よ」
 レナはその場に立ちつくしたまま、膨れっ面で呟いた。そうして、おかしなことに気づく。
 今セリーヌが歩いていった先は、ホテルとは全く逆方向だった。寄り道にしては少々離れすぎていないか。それにこの剣にしても、ホテルで会ったときに渡せば済むことなのに。わざわざこんな所まで来て渡す必要があったのだろうか。
 ……やっぱり、怪しい。
 レナは少し躊躇したが、思い切って彼女の後を追いかけることにした。

 大聖堂の東の外れ、人通りもまったくない裏路地に、セリーヌはひとり佇んでいた。その姿を見つけたレナは慌てて建物の陰に身を隠す。そうして改めてセリーヌの様子を覗き込んでみた。
 彼女は路地の真ん中でしきりに辺りを見回している。なにかを捜しているようだ。なにを、いや、誰を?
 レナにはそんな人物を、ひとりしか思い当たらなかった。
(クリスさんと待ち合わせ? ……でも……)
 レナはどうにも腑に落ちない。待ち合わせをするのにどうしてこんな人気のない場所を選んだのだろう? 思わず変な考えが頭の中を駆け巡ったが、すぐにぶんぶんと頭を振って妄想を追い払う。
 それにしても、とレナは思った。こうして想いびとを待つセリーヌは、まるで別人のようだ。いつ何時も自信たっぷりで口さがない紋章術師の姿は、そこには微塵も感じられなかった。待ちびとの姿を求めて周囲を見回しては爪を噛む彼女に、レナの口許は次第に緩む。セリーヌさんでもあんな顔をすることがあるんだ。そう考えるとなんだか妙に安心できた。
 幾許いくばくかの時が流れた。陽も落ちかけ、足許には細長い影が伸びている。
 レナがそろそろ帰ろうか迷っていたとき、セリーヌはひとつ大きなため息をついた。そして、重い足取りで大聖堂の方へ引き返していった。
 結局、彼は現れなかった。
(どうしたんだろ、クリスさん)
 建物の陰から出て、とぼとぼと歩き去る彼女の背中を憮然と眺めるレナ。その姿が完全に消えると、レナも先ほどの彼女と同じようにため息をついた。
(……帰ろう)
 そのときだった。聖堂の方から誰かがこちらへ駆けてくる。セリーヌかと思ったが、違う。夕日に照らされた金髪が赤銅色に輝く彼は。
「クリスさん」
 絹のマントを靡かせて走ってきたクリスは、レナの前で立ち止まると、両手を膝に突き立てて息を切らせながら言う。
「はぁ、はぁ……セリーヌは……どうした?」
「帰っちゃいましたよ。たった今」
「そうか……」
 クリスは脱力したようにその場に座り込んでしまった。情けない顔をしながら息をつく彼に、レナは少し憤りを感じた。
「どうして時間通りに来てあげなかったんですか。セリーヌさん、ずっと待ってたんですよ」
 そう言うと、クリスはますます困ったような顔になって。
「仕方なかったんだ……なかなか抜け出せなくて」
「抜け出せない?」
 聞き慣れない言葉にレナが訊き返すと、クリスははっとしたようにレナを見つめた。彼の顔つきがみるみる変わる。逼迫ひっぱくした表情をして立ち上がり、いきなりレナの両腕をつかんで訴える。
「そうだ、君はセリーヌの友達だろう? お願いだ、僕を助けてくれ!」
「助けるって、なんのことですか? ……痛っ、放してください」
 クリスが握りしめていたレナの両腕を放すと、レナは安堵して続けた。
「それに、大事なことならセリーヌさんに言ったほうがいいと思いますよ」
「駄目だ! セリーヌには言えない……言うのが恐いんだ。僕の正体を知ってしまったら、彼女はますます僕を拒絶してしまうかもしれない」
「正体?」
 レナは訝しげに訊き返した。
「そうだ。クリスとは、その場限りのかりそめの名前。僕の本当の名は、クロウザー・T・クロス」
「クロウザー……クロス? クロスって……まさか」
 レナは息を呑んだ。
 そうだ。どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。クリスとクロードは似ている。そして、クロードも彼に似ていると、城の中で聞いていたというのに!
「クロス王国第一王子。そして明日、ラクールのロザリアと式を挙げることになっている花婿。それが僕だ」
 彼は物憂げに視線を逸らした。
「でも、明日お姫様と結婚するなら、セリーヌさんは……」
「ロザリアとの結婚は父が勝手に決めたこと。僕の本意ではないんだ。けれど、王子である僕には、口出しは許されない。……憂鬱だった。自分の運命が、自分の知らないところで勝手に決められていく。そのことに、僕は絶望した。ここは城なんかじゃない、監獄だ。僕は処刑を待つ罪人だ。人は僕のことを羨むが、僕はそんな普通の人々が羨ましかった。だから抜け出したんだ、城を。そうして……君たちと、セリーヌと出逢った」
 王子は片手で顔を覆った。苦悶の表情を隠すかのように。
「僕は彼女を愛してしまった。それは王子として決して許されることではない。けれど、それでも僕は、この想いを貫き通したい。僕は父に掛けあった。全てを話して、この想いをぶつければ、父もわかってくれるかもしれないと思って。だが、父はまったく取り合ってくれなかった。僕は城に軟禁され、監視をつけられた」
「それでさっき『抜け出せない』って言ったんですか」
 言いながら、レナは少し驚いていた。軟禁、監視……それは、あの優しいクロス王の印象イメージとはかけ離れたものだった。世間に見せる顔と、身内への顔はやはり別ということなのだろうか。
「ああ。ここに来るのにも随分苦労したよ。それでも明日までには彼女と話がしたくて、やっとのことで抜け出したというのに……」
 そこまで言うと、王子は急に顔を上げて、通りの向こうを見た。
「……どうやら、ここまでのようだな」
「え?」
 振り返ると、広場の方から兵士が数名、こちらに向かってきているのが見えた。王子を連れ戻しに来たのだろう。反対側は袋小路。逃げられない。
 レナは唇を噛んだ。このままでは、セリーヌがあまりにも可哀想だ。彼女は何も知らない。クリスが王子だということも、明日ロザリア王女と結ばれる身であるということも。せめて、せめてもう一度逢わせてやりたい。それには……。
「……明日、六時」
 レナの頭の中には、ひとつの思いつきがあった。こうなったらいちかばちか、やってみるしかない。
「明日の朝六時に、なんとかお城を抜け出して、この場所に来てください」
「え?」
「セリーヌさんと話がしたいのでしょう? だいじょうぶ。私に考えがあります」
 そうこうしている間に兵士がすぐ目の前まで迫ってきた。
「殿下! 陛下のご命令です。城にお戻りください」
「わかっている!」
 王子は一喝すると、レナの顔を見て。
「……彼女に逢わせてくれるんだね?」
 レナは神妙に頷いた。王子も頷き返すと、みずから城の方へと歩いていく。彼を取り囲むように兵士が後に続いた。
「さてと……忙しくなるわね」
 夕闇の中に消えていく王子の姿を見送りながら、レナは自分を叱咤して。
「いくぞっ、作戦開始!」
 ひとり拳を振り上げて、駆け出す。疲れは、いつの間にやら吹き飛んでいた。


「なんだい、話って?」
 夜もそろそろ更けようかという時間、レナはクロードの部屋を訪ねてきた。
「うん……あのね、実は、お願いがあるの」
「お、お願い?」
 彼の表情はこわばり、額にはうっすらと汗がにじんでいる。上目遣いで頼み事をするレナに、年頃の少年はあらぬ想像を膨らませてしまい、どぎまぎしている。
「クロードに、ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」
「な、なんでもオッケー。どんと来い」
 ここに、今回の犠牲者が誕生した。

「男ものの服?」
 カウンターで宿帳の整理をしていたレイチェルが、ペンを回しながら彼女を見た。
「ええ。明日一日だけ貸してほしいんですけど。ありませんか?」
「倉庫に行ってみればないこともないけど……借りてどうするの?」
「ちょっと……どうしても要るんです。お願いします」
 口ごもるレナにレイチェルは首を捻ったが。
「訳ありなんだね。まあいいわ、こっちに来て」
「ありがとうございます!」
 レナは笑顔でレイチェルの後についていく。

 そして、仕上げは。
「セリーヌさん、いますか?」
 レナがセリーヌの部屋をノックすると、ドアを開けて、眠そうに目を擦りながらセリーヌが顔を出した。
「なんですの? こんな夜遅くに」
「クリスさんからの伝言です」
 レナがそういうと、セリーヌは急に真顔になって。
「なんですって?」
「『明日の朝八時に、同じ場所で会いたい』だって。今日は用事で行けなかったって、謝ってましたよ」
「クリスに、会ったんですの?」
「じゃ、そういうことで」
 あっけらかんとするセリーヌにレナは片目を瞑ってみせて、ドアを閉めた。そうして、閉めたばかりのドアに背中をつけてもたれかかり、ふうっと息をつく。
「これで準備は完了、と。……明日は長い一日になりそうね」


 青く澄んだ空。明るい陽射しを受けた大聖堂は、天からの祝福のように輝いている。
 城門から大聖堂までの道の脇は、おびただしい群衆で埋めつくされ、異様なほどの熱気に包まれていた。今日これから催される一大イベントの主役たちを一目見ようと集まった者たちだ。父親に肩車してもらっている子供。ちゃっかり近くの家の屋根に上って高見の見物を決め込んでいる若者。聖堂により近い道に若い女性の姿が多く見受けられるのは、花嫁の花束ブーケが目当てだろうか。押し合いへし合い、ときにはその勢いで道の内側までなだれ込んでしまい、慌てて道沿いに並ぶ兵士に押し戻されるといった光景もしばしば見られた。
 やがて城門が開き、花婿と花嫁が幌のない馬車に乗ってやってくると、その場の熱気は最高潮に達した。しきりに王子や王女の名を呼ぶ者、野太いバリトンの声で国歌を歌い上げる男たち、屋根の上の若者が紙吹雪を撒き散らし、道の脇からは次々と花が投げ込まれた。
 だが、当のクロス王子殿下の表情は、どうもよろしくない。横のロザリア王女は淑やかな微笑を浮かべたまま、ときどき観衆に手なども振っているが、クロウザー王子はというと、硬直したように前を向いたっきり、ピクリとも動かない。顔は上気した、いや、むしろ青ざめていると言った方がいいだろう。あまり思わしくない王子の表情に気づいた何人かは、どうしたのかなと首を傾げたが、この一生の晴れ舞台で緊張しているのだろうと思い、それ以上は深く考えなかった。
 観衆も、兵士たちも、聖堂でふたりが到着するのを待っているクロス王も、そしてすぐ隣にいるロザリアさえも、誰ひとりとして、彼の正体について知るものはなかった。
 ──そう、彼はクロス王子、クロウザーではなかった。その正体は、レナの計らいで早朝に城を抜け出した彼と入れ替わった、クロードだった……!

 一方その頃。聖堂から離れた東の裏路地。
「本当に来てくれたんだね……」
 もうひとつの物語は、静かに進行していた。
「わからない……わからないの」
 レナがこしらえた服を着たクリスと、セリーヌ。ふたりは向き合い、見つめ合う。
「でも、わたくし、どうしてもあなたに言わなくてはならないことがあるような気がして……」
 そう言うと、クリスに背中を向ける。彼女の視線の先にある建物の陰に、青い髪がちらついていたが、セリーヌは気づかない。
「初めてだったわ、あんなにまっすぐな眼差しで見つめられたのは……」
「……セリーヌ」
 クリスが呼びかけると、セリーヌは振り返って。
「そして、あんなにまっすぐな言葉を言われたのも初めてだった。なにも着飾っていない、たったひとつの言葉……」
 クリスが一歩近づくと、セリーヌはよろめいたように後ろに下がる。
「セリーヌ?」
 彼女の態度に狼狽ろうばいしてクリスが訊くと、セリーヌは何度も首を横に振る。
「ああ。わたくし、どうしたのかしら。こんな気持ちは初めてですの……」
「逃げないでくれ、セリーヌ。僕は君を離したくない」
 セリーヌはクリスを見る。そこには真摯に自分を見つめ返す彼の姿があった。彼の真っ直ぐな、ひたむきな想いが、かたくなに拒み続けてきた彼女の心を解きほぐしていく。
 そこには、ひとりの少女がいた。少女は目の前の恋人に、そっと身を委ねる。
「お願い、私を助けて、クリス」
 クリスは純朴そうにセリーヌを抱きとめる。恋人たちはしばらく無言のままに抱き合った。言葉など要らない。愛するひとが、そこにいれば。
 からん、ころん。大聖堂の鐘が鳴る。クリスは顔を上げ、粛然とそれに聞き入った。
「あれは夢の終わりを告げる鐘。だが、夢は終わらない。今の僕らには時の流れなど何の意味も為さない。この瞬間こそが永遠、この夢こそがうつつなのだから……」
 クリスは再びセリーヌと向き合い、ゆっくりと、彼女の唇に唇を這わせた。聖堂の鐘が、あたかもふたりを祝福するように、鳴り続ける──。

「……汝、ロザリア・R・ラクールは、クロウザー・T・クロスを夫として、健やかなるときも、病めるときも、生涯を通じその愛を全うすることを誓いますか?」
 神父が朗々と謳い上げるように言った。だがクロード──そう、クロス王子に扮装した彼──は、まったくの上の空だった。あちこちに視線を移しては、落ち着かないように体重を右足から左足、そしてまた右足へとに乗せかえたりしている。喉は声を出せば噎せ返るほどにいがらっぽく、握りしめた掌は汗でぬるぬると滑った。
「はい。誓います」
 ロザリアが言った。次は自分の番ではないか。
「……では、汝、クロウザー・T・クロスは、ロザリア・R・ラクールを妻として、終生変わることなく愛することを誓いますか?」
 神父の声が頭にガンガン響いてくる。その痛みに気を取られ、彼の口は無意識に出すべき言葉を紡ぎだす。
「……誓います」
 言ってしまった。ひどい後悔と同時に、強烈な目眩が彼を襲う。意識が朦朧として、自分が今なにをしているのか、立っているのか座っているのか、喋っているのか黙っているのか、一切がわからなくなる。
 そもそも、この作戦自体が無茶なんだよ、とクロードは思った。ほんもののクロウザー王子がセリーヌさんと会っている間、僕が王子になりすまして時間稼ぎをしろだなんて。しかもそのあと僕はどうすればいいってレナに聞いたら、なんとか抜け出してきてくれ、だって。
「……では、指輪の交換を……」
 だいたい、結婚式なんだぜ? こんな人が大勢見ている中で、どうやって抜け出せばいいんだよ。それにもし僕が偽者だってバレたら、いったい僕はどうなるんだよ。
「だいじょうぶだって。まさかすぐさま首を刎ねられるなんてことはないから。たぶんね」
 レナが可愛い顔して平気でそんなことを言うのだから、余計に怖い。
 ああ、僕の人生もここで終わってしまうのか……なんて短い、なんてつまらない一生だったろう! せめて、この指輪を形見にでもして……指輪?
 はっとクロードは我に返る。いつの間にか彼の左手の指に、先ほどとは違う指輪が填め込まれていた。またもや無意識のうちに、指輪の交換を済ませてしまったのだ!
 と、なると、次は……。
「では、二人の愛の証を神の御前にて……」
 まさか……。
「誓いの口づけを……」
 やっぱり!
 困り果てたようにロザリアを見た。彼女はすでに瞳を閉じ、顎をわずかにしゃくって、ことが為されるのを待っている。薄紅色に色づけされた唇がすぐ目の前にあるようで、ひどく遠くにも感じられた。
 お姫様とキスするチャンスなんて滅多にないぜ、せっかくだからやっちまえよ。悪魔がクロードの頭の中で囁く。彼は唾をのみ込むと、王女の顔に顔を近づける。だが。
 もし、これで口づけまでしてしまって、後で偽者だとバレたりしたら、それこそただ事では済まないのではないか?
 …………。
 クロードの脳裏に、頭と体とが永遠に離ればなれになった自分の死体が城の地下水路にぷかぷか浮いている光景が浮かんだ。身体中の血の気がいっせいに引いていき、顔は死人のように真っ青になる。
 そうして、ついに彼は観念した。
「ごっ……ごめんなさいーーーーっ!」
 ロザリアの目の前でそう叫ぶと、聖堂の通路を全力で駆け出した。扉の前の兵士を払いのけ、両開きの扉を勢いよく開けて外に飛び出していく。ロザリアも神父も、出席していた貴族や兵士たちも一同、あまりのことに呆気にとられていたが。
「何をしている! 早く追わぬか!」
「はっ、はいっ!」
 王が命ずると、兵士たちがまろぶように聖堂を出て追いかけていく。
 クロス王は未だに茫然自失としているロザリア王女を見、それから開け放たれた扉の向こう側に目を遣って、苦々しそうに顔をしかめた。

 レナは途方に暮れていた。彼女の計画は、今や完全に狂ってしまった。
 王子がセリーヌと話がしたいと言ったのは、結婚する前に別れの言葉を告げるためだとばかり思っていた。彼女の計画では、そうしてきっちり話をつけた後で、すぐ身代わりに式に出ているクロードと入れ替わらせるつもりだったのだ。ところが。
 一体どうしたことか、クリスとセリーヌは目の前で抱き合ったままである。このまま放っておけば、ふたりで駆け落ちすらしてしまいかねない雰囲気だ。
(そんなことになったら、クロードは一体どうなるのよ……!)
 言い知れぬ不安がレナに襲いかかる。そして、自分の浅はかな計略にクロードを巻き込んでしまったことを心から悔やんだ。
(ん? あれは……)
 噂をすればなんとやら、大聖堂の方からそのクロードが走ってきた。うまく式を抜け出したのかと思いきや、いささか様子がおかしい。よく見てみると、彼の背後から砂煙をたてて、大勢の兵士たちが追いかけて来ているではないか!
「な……なにやってんのよ!」
 レナは抱き合うふたりにもお構いなしに建物の陰から飛び出して、クロードの許へ駆け寄った。クロードはレナの前で立ち止まると、肩で息をつきながら言う。
「駄目だレナ。これ以上は時間を稼げない!」
「そんなことより、どうして追いかけられてるの!?」
「式の途中で飛びだしてきたんだ。……だって、キスなんてしたら本当に殺されるって……くっ、首は、首だけは勘弁して……」
「なっ、何わけわかんないこと……あっ」
 足音に気づいてレナは正面を向く。兵士たちはクロードと、その背後に隠れるようにして立っている王子を認めると、目を丸くして狼狽ろうばいした。
「こ、これはどういうことだ! なぜ殿下が二人……」
「いや違う。こっちは偽者だ。本物のクロウザー様はあっちだ!」
「そうか、だから急に逃げ出したのか」
「そいつらを引っ捕らえろ! ……いや、それは後だ。ともかく殿下を連れ戻せ!」
 兵士たちの言葉に、セリーヌは唖然としてクリスを見る。
「殿下……?」
 クリスは俯き、肩を震わせている。
「どういうことですの? まさか、あなたが……」
「……隠すつもりは、なかった。ただ、どうしても言い出せなかったんだ。信じてくれ!」
 セリーヌは焦点の定まらない瞳で必死にクリスを見つめ、訴えかける。
「嘘……嘘でしょ、ねぇ、なにか言ってくださいな、クリス……」
「クリスではないっ! このお方はクロス王国第一王子、クロウザー・T・クロス様にあらせられるぞっ!」
「違う! クリスでいいんだ……僕は」
「殿下? 何をおっしゃっているのですか?」
「さあ聖堂の方へ参りましょう」
「ロザリア様も陛下もお待ちです」
 兵士たちはずけずけとふたりの間に割って入り、王子の腕をつかみ上げて、聖堂の方へと連れ去っていこうとする。
「信じてくれ、セリーヌ! 僕の想いは決して偽りではない。君を、君を愛しているんだ! セリーヌ!」
 兵士に引きずられながら、何度も彼女の名を叫ぶ。その声も次第に遠ざかり、やがて王子の姿は道の向こうへと消えた。
 セリーヌは脱力して、腰を抜かしたようにその場に座り込む。
「……ねぇ、セリーヌさん」
 レナは膝に手をついて、彼女を横から覗きこむ。
「クリスさん、連れていかれちゃったよ。追いかけなくていいの?」
 セリーヌは僅かに首を動かして彼女を見たが、表情は乏しかった。
「おい……かける? わたくしが?」
「そうよ。クリスさんのことが好きなんでしょう? だったらもう一度クリスさんのところへ行って……」
「嫌よ、そんなの!」
 憑き物でも憑いたように怯えながら、セリーヌが言う。
「恐い……恐いの。わたくし本当に恐いのよ! もう会いになんて行けないわ」
 普段の彼女からは考えられない取り乱しようだった。レナも表情を曇らせる。もう、これ以上は無理なのかもしれない。
 ──いや、まだだ。このまま終わらせちゃいけない。彼女のためにも、そして王子のためにも、このまま終わってしまっては駄目なんだ。
「……それで、セリーヌさんはいいんですか?」
 決意を込めて、レナは言った。
「このままクリスさんと会わずに終わって、それでセリーヌさんは納得できるんですか? ほんとうにそれで、後悔はしないんですか?」
「…………」
「それに、クリスさんだって、あなたが来るのを待っているはずです。このままだと、クリスさんも望まない結婚をさせられて、不幸になっちゃうんですよ」
 セリーヌの表情にわずかな変化がみられた。おもてを上げて、道の向こうの聖堂を見つめる。
 レナは最後に後押しするように、言った。
「勇気を出して、セリーヌさん。好きなひとのために、立ち上がって。セリーヌさんなら、きっとできます。想いは必ず通じます。……さあ!」
 セリーヌはカッと眼を見開いて立ち上がった。そうして広場に向かって駆け出し、猛然と群衆に突進していく。
 その場にとり残されたレナとクロードは、みるみる遠ざかる彼女の姿を見やりながら。
「あーあ、行っちゃったよ。もう、どうなっても知らないよ」
「だいじょうぶ。きっとうまくいくわ……。それにしても、ごめんなさいね、変なことに巻き込んじゃって」
「ああ、いいよ。終わったことだから。それに僕もいい経験になったし」
「え?」
「い、いや、なんでもない。こっちの話」
 赤面するクロードにレナは首を傾げたが、今は気にしている場合ではない。
「さあ、私たちも追いかけましょう。この作戦の最後の仕上げよ」

 大勢の観衆が騒然と見守る中、王子は兵士に連れられて聖堂の前まで来ていた。既に半ば観念したように大人しく歩いていたが。
「クリス!」
 背後から彼を呼ぶ声がかかった。振り向かなくたってわかる、誰よりも愛しい者の声。クリスははたと立ち止まる。声を聞いた途端に、抑えつけていたものが再び湧き上がる。彼は不意をついて兵士に肘鉄をかまして振りほどく。そして人込みをかきわけてこちらへ向かってくる彼女の許へ走った。
「セリーヌ、セリーヌっ!」
 彼女はクリスの胸倉に勢いよく飛び込んできた。
「クリス……ごめんなさい。信じるわ。何があっても、わたくしはあなたを信じますわ!」
 クリスはセリーヌを強く抱きしめる。
「ああ、セリーヌ。僕も今ここに誓おう。もう決して君を離さない。たとえ我が身をおとしめることになろうとも、僕らは一緒だ」
 抱き合う恋人たちに周囲の観衆は何がどうなっているのやら訳もわからず、ただ茫然と見つめるばかり。ところが。
 からん、ころん。不意に聖堂の鐘が鳴った。人々がいっせいに振り仰ぐと、なんと青い髪の少女──むろんレナである──が、横の神父の制止もきかずに銀色に輝く鐘を打ち鳴らしている。青空に響き渡る鐘の音を聴くうちに、観衆はもとの盛り上がりを取り戻し、やがてどっと騒ぎ立てて新たな恋人たちを祝福した。歓声が、拍手が、口笛が巻き起こり、盛大に紙吹雪が撒かれる。
 だが、聖堂の中からロザリアとクロス王が出てくると、歓喜の渦はピタリと止み、周囲に重苦しい沈黙が漂いだした。クリスとセリーヌもそれに気づいて、離れる。
「……説明して、くれますか、クロウザー様」
 ロザリアは感情を押し殺して、言った。
「すまない。でも、僕は君を愛することはできない。政略結婚という鎖で結ばれた君を、愛することなどできないということだ……!」
 王子は俯き、言葉を絞り出すようにして、続けた。
「どう言い繕っても、君は僕を許してはくれないだろう。それはわかっているつもりだ。この償いはいつか必ずする。だから、今だけは、どうか見逃してほしい」
「……そう……」
 ロザリアはゆっくりと歩き出し、王子とすれ違いざまに。
「さようなら、クリスさん」
 そう言うと、城門の方へと立ち去っていった。
 クロス王は側近の兵士に何事か言伝ことづてをしていたが、それが終わるとクリスの前に立った。親子は向き合い、同じようにまっすぐ見つめ合った。
「どうしてお前はそうそう、儂に逆ろうてくれる」
「私が陛下に逆らったのは、我が生涯においてもこれが初めてだと記憶しますが?」
 憮然とするクロス王を睨みつけて、王子が言う。
「いつか貴方は僕に言いましたね。王族として生を受けたからには、自身の欲を捨て、国のために尽くせと。僕はその戒めを守ってきた。国のため貴方に従い、不満があっても何も言わず我慢した。それが王族の務めだと信じて疑わずに。けれど、彼女と出逢い、新しい世界を見るうちに、わからなくなってきた。僕はいったい何なのか。あなたの傀儡くぐつか、分身か。そんなんじゃない。僕は王族である前に、王子である前に、ひとりの人間なんだ」
「愚かな……放蕩の果てに大儀すら忘れたか。そのような私情が王家の秩序を乱すことがわからんのか」
「秩序。そうですね。貴方は何よりもそれが大切なんだ。息子である僕よりも」
 絶句する王に、王子は皮肉めいた笑みを返した。
「僕は自分で選んだ道を行く。それで秩序が乱れるのだというならば、いっそ乱れてしまえばいい」
「それが施政者となるべき者の台詞か、クロウザー!」
 王が一喝した。周囲の空気が張り詰める。
「お前を後継と決めたのは儂だ。そのために帝王学も叩き込んだ。なのにこの体たらくとは……儂に恥をかかせるつもりか」
「そんなつもりはない。こうなった以上、僕には貴方を継ぐ資格はないと思っている。継承権は辞退します。それだけで収まらないというなら、どのような罰でもお与えください。覚悟はできています」
「莫迦な……そこまでして……」
「僕の望みはただひとつ。王族でも王位継承者でもなく、ひとりの人間として、自分で愛する者を決めたかった。ただそれだけなんだ」
 王子が言い切ると、クロス王は厳しい表情のままふと目を逸らし、きびすを返す。
「……勝手にするがよい。お前の継承権は、しばらく儂が預かる」
「え?」
 王子は目を丸くした。
「預かる……?」
「お前に三年の猶予を与える。せいぜい精進して、王に相応しい人間になることだな。さすれば三年後に継承権は返してやる。それまでの間は、好きにするが良い。何をしようが儂は知らぬ」
「父上……!」
 王の真意を理解して、王子は表情を明るくする。
「さあて、ラクールに此度の詫びの手紙を書かなくてはな。まったく、出来の悪い息子を持った親は大変だ……」
 背中を向けたままそう呟くと、王も城門に続く道を引き返していった。
 からん、ころん。再び鐘が鳴る。鳴らしているのはもちろんレナ。それを合図に観衆から怒濤のような歓声が湧き起こった。もはや兵士の制止もきかずに人々がつぎつぎと路上になだれ込む。
「おめでとう、おめでとう!」
「いや~、憎いねぇ、王子。久々にいいもん見せてもらったよ」
「ちょっとお、花嫁のブーケはどうなんのよ。狙ってたのにぃ」
「王子! 儂は今、モーレツに感動しておる! 儂も思えば五十年前、初めてばーさんに会ったときの胸のときめきを……ぜぇはぁ」
「じーさん、あんまり力むとそのままポックリ逝っちまうぜ」
「あんたもやるねぇ。王子を奪いとっちまうなんてさ。やっぱり今の女はそのぐらいでなきゃね」
「いやはや王子、ホントに格好良かったよ。陛下を前にして怯まずよく頑張った。スカッとしたねぇ」
「これでクロスもアンタイでしゅね~」
「……またこの子、変な言葉覚えて……」
「バンザーイ」
「バイザーイ」
 恋人たちの周囲を取り囲んで、口々に祝福の言葉を浴びせると、やがて誰からともなく主役のふたりを担ぎ上げて、胴上げを始めだした。宙に投げだされては沈むふたりの片手はしっかりと互いの手を握りしめ、その笑顔は幸福感に満ち溢れていた。
 晴れ渡る空の下、お祭り騒ぎはいつ果てるとも知れず続いた──。


「ラクール側からも了承が得られたそうだ」
 王城の一室、彼自身の部屋の中で、王子が言った。
「ラクールとの関係も今まで通りということで、なんとか理解してもらえたらしい。……こればかりは、父に感謝しないとな」
「よかったですね」
 レナが言うと、王子は彼女とクロードの前に歩み寄って。
「そういえば、君らにはすまなかったな。大変な思いをさせて」
「いえ、いいんですよ、私たちは。ふたりが幸せになってくれれば、それでいいですから」
「……僕はもうちょっと同情してほしいんだけどなぁ……」
 小声でクロードが言ったが、聞く者はいなかった。
「クリス……いや、クロウザー王子」
「クリスでいいよ」
 王子は穏やかな声で、セリーヌに言った。セリーヌも微笑を返す。
「さてと。おじゃま虫はそろそろ退散しましょうか……」
 それらしき気配を感じたレナは、クロードをつついて部屋の外へと出ていく。扉が閉まると、クリスはセリーヌと向き合った。
「セリーヌ……結婚しよう」
 セリーヌがまなこを見開いてクリスを見る。クリスは続ける。
「これが僕の、偽りなき想いだ。君の答えを……」
 セリーヌは項垂れたまま、黙ってしまった。
「嫌かい?」
 クリスが訊くと、セリーヌは慌てて首を横に振る。
「いいえ。でも……」
「でも?」
 彼女は一度扉を振り返り、それからまたクリスに向き直った。
「わたくし、あのふたりの旅に同行するって約束しましたの。それなのに、なにも終わっていない」
「……また、旅に出るのかい?」
「ごめんなさい。でも、何よりも、このままでは自分が納得できませんの。冒険者として、トレジャーハンターとして、きちんとけじめはつけておきたいの」
 そう言うと、セリーヌはクリスの手を取って、両者の胸の間に持ち上げた。
「ねえ……ひとつの答えを出してきてからで、いいかしら?」
「信じていいんだね」
「もちろんですわ」
 セリーヌが返事すると、クリスは彼女を包み込むように強く、そして優しく抱き留めた。

「いいの、セリーヌさん? 離ればなれになっちゃうのよ」
 城門を潜り、街道に出る途中の道で、レナがセリーヌに訊ねた。
「いいのよ。もう、苦しくないから」
 セリーヌは微かに笑顔をにじませて言う。
「たとえどんなに離れていても、わたくしたちの心は同じ場所にあるんだから」
「なんだか、羨ましいな」
「それにね」
 セリーヌは大きく背伸びをして、続ける。
「もしお姫様なんかになってしまったら、冒険なんてできなくなるでしょう? だから、もう少しの間だけ、ね」
「……あきれた」
 ひとつ嘆息すると、レナは空を振り仰いだ。一面の青とそこを流れる綿雲の白が、目の前にある大聖堂の尖塔によく映えている。
 ふと、尖塔に掛かっている銀色の鐘が目についた。それをかき鳴らしていた自分の姿に、レナは思わず瞳を細めて笑った。

2 すれ違う心とこころ ~マーズ~

 机の上には、鞘に収まった細身の剣が無雑作に置かれていた。彼は立ち上がり、それを手に取り腰に据え付ける。
 壁に掛かっていた外套マントを手慣れた所作で羽織ると、扉を開けて部屋を出る。狭い廊下を抜けて、きいきいと材木の軋む階段を降りていく。
「おや、お出かけですかぁ?」
 カウンターでうたた寝をしていたフロントの若者がその音に目を覚まし、いかにものんびりした口調で訊いてきた。
「夕方には戻る」
 男はそれだけ告げて、宿を出る。数歩進んだところで不意に立ち止まり、空を見上げた。上空には分厚い雲が村全体にのしかかるように、重く垂れ込めている。
 ──ひと雨くるか。
 心の中でそう呟いたとき、こちらに向かってくる足音に気づいて視線を落とした。
「あの、あなたを剣士さまと見込んで、折り入ってお話があるのですが……」
 女はおずおずと男に話しかけた。
「あ、申し遅れました。私は村の長老の孫でアルマナといいます。実は、その……この村で困ったことが起きまして……」
「何かあったのか?」
 男が押し殺した声で言うと、アルマナと名乗った女はひとつ頷いて。
「子供たちが、さらわれてしまったのです。相手は、おそらく山賊かと」
「山賊」
 今まで無表情だった男の眉がピクリと動いた。
「その、それでぜひとも剣士さまにご助力を願いたいと、おじいさま……長老が言われたので……」
 男はしばらく無言で考え込んでいるふうだったが、少しして口を開いた。
「詳しく話を聞こう」


 呪紋を唱えかけていた魔女マギウスを得意のプレスで押し潰すと、レナは背後からこちらへやってくるロバーアクスの気配に気づいて振り返った。クロードとセリーヌはコボルト二匹を相手にしている。いつもなら彼らがコボルトを片づけるまで、逃げ回るなり呪紋で牽制するなりするのだが。
 そのとき、彼女の腰にはセリーヌから貰った剣があった。
(そうだ、試してみよう)
 レナは笑みを含ませながら、剣を鞘から抜き放った。魔物と向き合い、そして駆け出す。
 ロバーアクスが体型の割にはやけに大きな斧を突きだしてくる。少女はそれを横っ飛びで避けると、反動をつけて相手に斬りかかった。振り上げ、思いきり振り下ろした剣はロバーアクスの右肩から腰までを斜めに斬りつけた。しかしいかんせん女の細腕、おまけにろくに剣の扱い方を知らないとくれば、いきなり致命傷を与えられるはずもなく、敵の強固な皮膚の薄皮一枚を傷つけるのが精一杯だった。
 そうしてすぐにロバーアクスが斧を繰り出してくる。あまりに近づきすぎたために逃げ遅れてしまった。三日月に反り返った刃がぎらりと光る。恐怖に、レナは立ちすくんだ。
 ロバーアクスが斧を振り下ろす。しかし、刃はレナの首筋のわずか手前でがくりと止まった。間一髪、彼女と魔物の間に滑り込んだクロードが剣で斧の柄を受け止めたのだ。
「な……にっ、やってんだよっ、レナ……」
 クロードは食いしばった歯の隙間から洩らすように言う。そして力ずくではこの斧を打ち返せないと判断したのか、不意をついてロバーアクスの鼻面を思いきり蹴飛ばした。突き飛ばされるロバーアクスに対し、クロードは高々と跳躍する。そして、相手が立ち上がったところの脳天を上空から力任せに叩き割った。ロバーアクスの頭は、身につけていた兜らしき頭飾りごと真っ二つになった。彼自身の力が落下の勢いで増幅され、想像以上の威力を伴ったらしい。
 終わったのか、とレナはほっと胸をなで下ろしたが。
「なんで立ち向かったりしたんだよ」
 見ると、クロードが厳しい顔をしてこちらを向いていた。
「僕がもうちょっと遅れていたら、やられるところだったじゃないか。どうして戦ったんだ?」
「だって……いつも逃げてばかりじゃ私だって嫌だもの。それに、剣もあったし……」
 拗ねたようにレナが言うと、クロードはますますかさにかかって。
「いいかい。これはお遊びじゃないんだ。軽はずみな行動は慎んでほしいな」
 つけあがるクロードにムッとするレナ。雲行きが怪しくなる。
「軽はずみなんかじゃないわ。私だってちゃんと考えて行動しているのよ」
「今のが軽はずみじゃないっていうなら何なんだい? 勝ち目がないのに立ち向かったりして」
「勝ち目がないなんて、戦ってみなきゃわからないじゃない」
「わからない? まったく、大した自信だね。今まで剣なんて使ったこともないくせに」
「なによっ」
「なんだよっ」
「ちょっと、ふたりとも!」
 コボルトを一掃したセリーヌが駆けつけてきた。
「こんなところで何を言い争ってるんですの? ほら、もう少しで宿なんだから、先に進みますわよ」
 セリーヌが場を諫めると、クロードは不貞腐れたように。
「……悪かったよ。言い過ぎた」
 そう言ったが、レナはぷんと顔を横に背けた。
 クロードは彼女のその態度に頬をひくつかせ、ああそうかいと口の形だけで呟くと、肩を怒らせて歩いていった。
「ちょっ……クロード、レナ……」
 困惑したセリーヌはふたりを交互に見ていたが、やがて諦めたように肩をすくめ、クロードの後についていく。かなり離れたところで、レナも歩き出す。
 三人の行く先には、重々しい暗雲が垂れ込めていた。

 彼らの目的地である港町ハーリーは、クロス大陸の東端に位置する。大陸中心部のクロスからは程遠く、徒歩であれば三日はかかる。旅人たちは、クロスを出て東の街道を行く。やがて日は沈み、一日目は野宿で過ごすことになる。
 そして二日目、そろそろ疲労が溜まってきたという頃に見えてくるのが、街道脇の森の入口に作られた集落、マーズである。数多の偉大な紋章術師を輩出し、彼らの修行場として名を馳せている村であるが、ハーリーへ向かう旅人の宿場としても利用されている。
 先程の喧嘩の空気が残ったまま、彼らは宿を取るためマーズに入った。すると。
「セリーヌじゃないの!」
 道を歩いていた娘が声を張り上げて駆け寄ってきた。
「アルマナ」
「誰ですか、セリーヌさん?」
 レナが訊ねる。
「わたくしの幼馴染みですわ」
「幼馴染み?」
「言わなかったかしら。ここは私の故郷ですのよ」
「ええ!? 聞いてないですよ」
 驚くレナに、そうだったかしら、と肩を竦めるセリーヌ。
「大変なのよ、セリーヌ!」
 アルマナは息を切らしながら言う。
「どうしたっていうのよ、そんなに慌てて」
「子供たちが、さらわれちゃって、それで、山賊が……!」
「はぁ?」
「ああもう、とにかく家に来てよ! あなたのご両親もみんな集まっているんだから」
 じれったいようにセリーヌの腕を引っ張る。仕方なくセリーヌたちはアルマナの家──長老の屋敷へと向かった。

 屋敷の広間では、数人が長机を囲んでいた。老人と、術師風の男女三人。それに、旅装束の若者がひとり。
「セリーヌ! あなた、いつ帰ったの?」
 彼らが広間に入ると、細身の婦人が席を立って言った。
「ついさっきですわ。お母様、これは一体どういうことですの?」
 セリーヌが母と呼んだ婦人は、自分の横の空席を示して。
「とにかく、こっちへ来て座りなさい。……あら、そちらは?」
 セリーヌの背後のふたりに気がついて言うと、彼女が簡単に紹介する。
「旅先で知り合ったんですの」
「はじめまして、レナです」
「クロードです」
「あらまぁ、そうだったの。ごめんなさいね、ちょっと今、立て込んでいて……。さあ、そこの席にどうぞ。セリーヌも早く座りなさい」
 セリーヌは母親の横に座った。クロードとレナも同じように席につく。
 椅子に座ろうとしたとき、レナの目に水色の長髪が留まった。長机の隅で腕を組んだまま佇んでいる、剣士らしき男。もしかしてあれは……。
「これは、マーズ始まって以来の大事件じゃ……」
 男の横で、老人が全員を見渡してから口を開いた。レナは視線をそちらに向ける。
 老人は子供のようにひどく小さく、そして年老いていた。額や口許には深い皺か刻まれ、灰色の顎髭は喉を完全に隠している。
「長老様」
 と、セリーヌ。
「わたくしはまだ事件のあらましを知らないんですの。詳しく教えてくださらないかしら」
「私が話そう」
 長老の代わりに声を発したのは、セリーヌの父親、エグラスだった。
「事の発端は昨日の夕方だ。その日、私は村の子供をすべて集めて紋章術の修練を行っていた。修練が終わり私は子供を解散させた。だが、どうやらその帰宅の最中を狙われてしまったようだ。子供たちはその夜、誰ひとりとして家に戻っていなかった。報せを受け、私たちが慌てて捜索を始めるのと同時に、彼が紋章の森から大変な伝言を持って帰ってきた」
 エグラスは隣のローブに身を包んだ男の方を向いた。フードを深々と被っているので、その表情はあまり見て取れなかったが、男はおもむろに顔を上げると、調子の低い声で話し始めた。
「私はそのとき、紋章の森で修行をしていました。すると突然、私の目の前に山賊が現れたのです。私は身構えましたが、相手はこう告げただけで消えてしまいました。『俺たちのボスが、お前らの子供を預かっている。返してほしくば、五十万フォルと密印の書を用意しろ』と……」
「『密印の書』とは何ですか?」
 クロードが訊くと、長老が答える。
「すべてを話すことはできぬが、わが村に伝わる門外不出の紋章術書の一冊じゃよ」
「我々にとって、それはにわかに信じがたいことだった」
 エグラスが続ける。
「かの森に山賊が侵入した例など、これまで一度もなかったのだ」
「紋章の森にはよこしまなものは入れないように、聖なる紋章が隠されて刻まれているのです」
 神妙な口調で、紋章術師の男が言った。
「その結界が破られたとなると、相手は相当の使い手だと考えなければなりません」
「それで、子供たちは無事なんですの?」
 セリーヌが父親に訊ねた。
「第二の使いによれば、山賊たちは紋章の森の奥地に子供たちと共にとどまり、こちらが要求を呑むまでは動く気がないという。それ以上のことはわからないのだ」
「紋章の森は、術師の修行場です」
 と、フードの男。
「使いようによっては天然の要塞ともなります」
「それでも、山賊程度の相手ならば、私たちが数人でかかればなんとか倒せるとは思うが……」
「じゃが」
 エグラスが言葉を詰まらせ、代わって長老が苦々しげに口を開く。
「子供たちの生命の危険を考えると、必要以上に手出しはできんのじゃよ。相手は山賊とはいえ、紋章の森の結界を破った強者。たとい儂らが勝利したとて、子供たちが無事でなければ意味がない」
「それじゃあ、手も足も出ないじゃないですの」
 焦れったいようにセリーヌが言った。
「しかし、私たちもいたずらに手をこまねいていたわけではない」
 毅然とした声で、エグラス。
「調査の結果、山賊どものアジトは突きとめた。あとはなんとか子供たちを救出するだけなのだが」
「それでは……」
 クロードが言うと、エグラスは静かに頷いて。
「うむ。しかし先ほども言ったように、我々だけではいささか心許ない。そこで、偶然この村を通りかかった剣士の方に、力添えをお願いしているのだが……」
 そこでエグラスは剣士の方を見た。レナも再び彼に目を向ける。そして、息を呑んだ。
「ディアス……!」
 水色の長髪は、彼だった。二年前、村を出ていったときとは比べものにならないほどたくましく、凛々りりしくなっていた。けれど、いやに女性めいた顔立ちだけは、しっかりと面影を残していた。
「レナ?」
 かの剣士を見つめたまま硬直しているレナに、クロードが怪訝そうに眉をひそめた。
「ほう。レナさんはディアス殿のことをご存じなのか」
 エグラスが言うと、レナは握りしめた左手を胸にあてがって。
「はい……同じ、村の出身なんです」
 答えながら、レナはチラリと横目でディアスを見る。彼はまったくこちらを向く気配がない。
「ディアスに頼むんですか?」
「ええ。剣豪ディアスの名は私たちも聞き及んでいます。彼に協力していただけるのなら、これほど心強いことはない」
 レナは少し面食らった。噂には聞いていたが、そこまで彼の名が知れ渡っているとは。
「ディアスなら、きっと大丈夫ですよ。ぜったい、そんなひとたち倒してくれます」
 なんだか嬉しくなって、思わず声を張り上げるレナ。隣で唇を噛んでいるクロードにも構わずに。
「それでお父様、ディアスさんはOKしてくれたのかしら?」
 セリーヌがエグラスに訊く。
「ラクール武具大会の腕ならしに丁度いいと言って、引き受けてくださったのだが……」
「私は反対しているんです」
 紋章術師が口を挟んだ。
「こんな素性の知れない者に頼むのならば、いっそのこと私たちだけで森に踏みこんだ方がいいのではないかと」
「そんなことありません! ディアスの身元も、剣の腕も私が保証します」
 レナが必死に訴えたが、術師は口許を微かに皮肉るように歪ませるばかりで。
「お嬢さんに保証されても、ね……」
「まあ、確かにこれは我々の村の問題である」
 と、エグラス。
「通りすがりの剣士殿に頼むのも無責任かもしれぬが……」
「あら。でしたらお父様、その悩みを解決する一番の方法がありましてよ」
 ここぞとばかりに、セリーヌが提言した。
「山賊を倒す役目を、わたくしたちに任せてはくださらないかしら」
「セリーヌ、本気か?」
 エグラスが眉間に皺をつくって訊き返すと、セリーヌは胸を張って。
「もちろんよ。わたくしの修行の成果、見せてあげますわ」
「……どうでもいいが」
 不意に、ディアスが席を立った。
「お払い箱だというのなら、俺はもう帰るぞ。ただし、その傲慢な女のおかげで失敗しても、俺は知らんからな」
「なんですの、この失礼な男は!」
 憤慨したようにセリーヌが声を荒げると、ディアスは冷たい眼光で彼女を見据えて。
「それはお互い様だろう。途中から入ってきて、勝手に依頼を横取りしてるのだからな。……俺は宿に戻る」
「お待ちください、ディアス殿!」
 扉に向かおうとするディアスを、エグラスが引き止めた。
「それなら、あなたもセリーヌたちに同行してはいただけませんか? あなたがついていただければ我々も安心できます。……あ、いや、別にセリーヌが信用ないというわけではないのだが……」
 途中でこちらを睨む娘の視線に気づき、慌てて言葉を濁すエグラス。
 ディアスは立ち止まったまま、口を開こうとはしない。長老も、エグラスも、レナも、その場にいる者すべてが彼の返答を待った。
「……断る」
 ディアスの口から発せられたのは、はっきりと、拒否であった。
「足手まといを連れて歩くほど、俺は物好きではないのでな。やるなら俺ひとりで行く。……適わないのなら、この話は無しだ」
「ちょっと待てよ」
 クロードが立ち上がって、ディアスに詰め寄った。
「足手まといってのは、誰のことだ?」
「さあな」
「僕たちのことを知りもしないで、よく言えるな」
 相手の息が顔に触れそうなほど近くで、ふたりは睨み合った。無言のまま、広間に刻が流れる。
 しばらくして、ディアスが背を向けた。
「まあ、せいぜい頑張ることだ。弱い犬ほどよく吼えるというが、負け犬にはならんようにな」
 肩越しに皮肉を浴びせて、広間を出ていこうとする。
「ディアス」
 レナが席を立ち、思いきって呼びかけた。ディアスは扉の前で再び立ち止まる。
「……久しぶりだな、レナ。見違えたぞ」
「あなたも……ディアス。あの、私……」
 言い終わらぬうちに、ディアスは扉を開けて、部屋を出ていってしまった。ゆっくりと閉まる扉を呆然と見送るレナ。
「まったく、一体なんなんですの、あの男は!」
 面白くなさそうにセリーヌが机を叩いた。
「親の顔が見てみたいわ!」
「それを言われると私も立つ瀬がないな……」
「なにか言いました、お父様?」
 ぎろりと物凄い流し目を受けて、エグラスは必死に首を横に振る。セリーヌはそのまま父親に向かって続けた。
「本当にあんな怪しげな剣士に頼むつもりですの? ちっぽけな山賊一味なんて、わたくしたちでひねりつぶしてやりますわ!」
「いや、そうは言うけどね、セリーヌ……」
 一風変わった親娘の会話をよそに、クロードは、未だ扉の方を向いたままのレナを見ていた。
「レナ……」
 軽く呼びかけてみるが、彼女はまったく反応しなかった。想いはすでに、彼のもとから遠く離れて。


 木製の階段は、一段ずつ足を乗せる度に悲鳴のような音を立てる。登りきると、レナは部屋の前に立って、ドアをノックした。
「開いている」
 部屋の中からぶっきらぼうに返事が聞こえてきた。レナはドアを開けて部屋に入る。
 ディアスは部屋の片隅に置かれたベッドで、片膝を立て両手を後頭部と枕の間に挟むようにして、仰向けになっていた。
「なにか用か、レナ」
 こちらを向かず、起き上がりもしないでそう言うディアスに、レナは軽く嘆息してから、取り澄ましたように言う。
「長老様からの伝言よ。『どうぞ子供たちを救い出してください』って」
 その言葉で初めて、ディアスはこちらを向いた。
「……あいつらは行かないのか?」
「行くわよ。ただ、いっしょに行動しないだけ」
「ふん、そういうことか」
 ようやく起き上がり、ベッドに腰掛けてレナを見る。彼女はなんとも複雑な表情でこちらを見つめていた。
「まだ何か言いたそうだな」
「お願いが、あるの」
 躊躇ためらいがちに、レナが口を開いた。
「私たちといっしょに戦ってほしいの」
「どういうことだ? あいつらが泣いて頼んできたとでもいうのか?」
 悪態をつくディアスにレナは言葉を失いかけたが、負けじと言い返す。
「ディアス、わかってほしいの。あなたが強いことはわかるわ。でも……」
「わかっているなら、共に戦う理由はないな」
「どうしてそんなに人を拒むの?」
 レナは自らの感情を必死に堪えて言う。
「いくらあなたが強くたって、そんなのほんとうの強さじゃないわ。他人を拒否するのは、他人を恐がってるからよ」
「久しぶりに会ったと思ったら、説教か」
 ディアスは苦笑すると、かぶりを振った。
「レナもずいぶん生意気を言うようになったものだな」
「小さかった頃の私とは違うわ」
「まだ二年しか経ってないがな」
「なによ」
 頬を膨らませるレナに、ディアスは口許をつり上げて笑った。
「まあ、もうひとりの『妹』の頼みだからな。一度くらいは聞いてやってもいいだろう」
「ほんとに!?」
 レナは目を輝かせた。
「ただし、あいつらが足手まといになるようなら、俺はその場で置いていくからな」
「……ありがとう」
 笑顔で言うと、レナは軽い足取りで部屋を出ていく。そしてドアを閉めるときに。
「セシルも『ありがとう』って言っているわ」
 ドアがぱたりと閉まる。ディアスは立ち上がり、窓から空を眺めて、眩しそうに瞳を細めた。
「……天国は少し遠いな。俺には聞こえなかったよ……」
 黒い雲の隙間からは、ヴェールのような光が射し込んでいた。

「遅かったですわね。あの男に何かされませんでした?」
 長老の屋敷の前で、セリーヌとクロードが待っていた。
「突然だけど、お願いがあるの」
 レナは一呼吸おいて、続ける。
「ディアスを仲間に入れてほしいの」
「それって、どういうことですの?」
 不思議そうにセリーヌが訊ねた。
「ディアスに頼んだの。そうしたら、いっしょに戦ってくれるって約束してくれたの」
「そりゃあね、可愛い彼女の頼みなら、聞かないこともないでしょうけど……」
「そんなんじゃないの!」
 レナは語気を強めて言う。
「剣の腕もほんとうに一流なのよ。私たちの大きな力になってくれるわ」
「そうは言っても……。どうします、クロード?」
 困りきったセリーヌは横のクロードに話を振った。クロードはうつむいたまま押し黙っているばかり。いつもの彼ならば、ここで渋々ながらも了承していたかもしれない。だが、その日はいささか状況が違った。
 ディアスの態度も気に食わなかったが、それ以上にクロードの脳裏には、村に来る前に起きたレナとのいさかいのことがあった。こちらが素直に謝ってやったのに、意地悪く顔を背ける彼女の姿が、焼きついて離れなかった。
 そうして、まるで仕返しでもするように、クロードは言い放った。
「彼はひとりでやれるって言った。だったら一緒に行く必要なんてないよ」
「ひどい!」
 レナは微かに瞳を潤ませた。
「どうしてそんなことを言うの?」
「僕は嘘は言ってないよ」
 面と向かいながらも、クロードはレナの顔を見ることができなかった。非難がましくこちらを見つめる彼女の視線と交わることはなく。
「それに僕たちだって、あの人がいる必要はないよ」
「そう」
 レナもあの一件が尾を引いているのか、やけにあっさりと説得を諦めた。
「じゃあ私が、ディアスと一緒に行くわ」
「ちょっ……レナ?」
 唖然とするセリーヌ。クロードはむっつりとした表情のまま、片方の眉をつり上げた。
「クロードには必要ないかもしれないけど、私にはディアスが必要だもの」
 熱くなる目頭を悟られまいと、レナは強気にそう言ってみせると、すぐに駆け出していった。
 離れていくレナ。立ちつくしたまま見送るクロード。ふたりのこころの隔たりは、それ以上に大きかった。

 絞り出すような階段の悲鳴が聞こえてきた。それが止むと、案の定、ドアが叩かれる。返事も待たずに戸を開けて、しずしずとレナが入ってきた。
 部屋の真ん中で、レナは下を向いたまま黙り込む。ディアスは窓から空を見上げたまま、言った。
「その様子だと、思ったようにいかなかったようだな」
「……こっち見てないじゃない」
 重い調子でレナが言うと、ディアスは振り返って。
「見なくても見えることはあるさ」
 レナの横を通り抜けて、机の上の剣を持ち出した。
「だから、私があなたといっしょに行くことにしたの」
 その言葉に、ディアスは剣を眺めていた視線を彼女に向ける。
「お前が?」
「足手まといになんかならないわ。私は治癒の力も持っているもの」
 レナの口調は、意固地な気迫が込められていた。
「……俺が駄目だと言っても、無理矢理ついてきそうな勢いだな」
 剣を鞘から抜いて、刃の様子を丹念に確かめながら、ディアスが。
「それなら、最初から了解しておいた方がいいだろう」
「ありがとう……」
 力のない声で、レナが言う。ディアスは剣を持つ腕を下ろした。
「今度のは元気がないな」
「ごめんなさいも、いっしょに言ったから」
 落ち込んだように目を伏せるレナに、ディアスは薄く微笑を浮かべる。そして剣を鞘に納めると、歩きざまに彼女の頭をポンと軽く叩いた。
「今日は早めに休んでおけ。明朝に出発するぞ」


 ……にい、ちゃ……。
 ……お兄ちゃん?
 お兄ちゃん、元気にしてる?
 ちゃんとレナお姉ちゃんと、仲良くやってる?
 あんまり無理しないでね。
 セシルはいつだって、お兄ちゃんのこと、見守っているから。
 でも……ちょっと淋しいかな。
 セシルも、そっちへ行きたいな……。


 早朝のマーズは、霧のような雨が降り続いていた。空を見ると、さほど雲は厚くない。土砂降りになることはなさそうだ。
「予定より少し遅れたか。行くぞ」
 ディアスが濡れた地面に足を踏み出した。レナも後に続く。
「まだ誰も起きてないのね」
 あたりを見回してレナが言うと、ディアスは歩きながら振り向いて。
「あいつらと同じ時間に行くことを考えていたのか?」
「そうじゃないけど……」
「この時間なら山賊も油断している。叩くなら今しかない」
「わかってるわ」
 レナは口許を引き締めて頷いた。
 ディアスは道具袋からひと揃いの靴を取りだして彼女に手渡した。紐も継ぎ目もなく、爪先から膝のあたりまでをすっぽりと覆うようになっている。
「森には沼がいくつかあるらしい。おまけにこの雨だ、地面もぬかるんでいるだろう。長老から泥靴をもらっておいた。持っておけ」
「……うん」
 受け取った靴は革靴だったが、レナの腕にはズシリと重くのしかかった。ひっきりなしに降る霧雨が身体にまとわりつくようで、ひどく不快だった。

3 非情の剣豪 ~紋章の森~

 雨は、森の中では霧に変わった。
 森の長寿を象徴する太い樹木の幹は、湿気に黒っぽく変色している。地面も同様に黒く柔らかな腐葉土で、歩くとくるぶしのあたりまで埋まった。視界はひどく悪かったが、道らしき空間が森の奥へと続いていることは確認できた。
 森というものをよく知っているレナには、この森はあまりにも奇妙だった。まず何よりも静かすぎる。いくら天気が悪いとはいえ、この時期なら百舌もず懸巣かけす椋鳥むくどりの鳴き声が聞こえてもいいはずなのに。そこの木の枝でドングリを抱えた栗鼠が走り去って枝を揺らす音が聞こえてもいいはずなのに。雨は降れども風はなく、空気は重く澱んでいた。そして、動物や虫たちの姿はまったく見あたらない。まるで、何かを避けているように。
「……瘴気しょうきが渦巻いているな」
 ディアスも別の意味でそれを感じ取ったらしい。
「森のものではない、何か邪悪な存在が入り込んだようだ。……それにしても結界が破られたとはいえ、この瘴気は何だ? たかが山賊風情の仕業とは思えないが……」
「どういう意味?」
「見ろ、これを」
 ディアスは立ち止まって、横の木の幹を見る。彼の胸の高さの部分に、黒く焦げたような痕があった。
「おそらくここに、結界の紋章が刻まれていたのだろう」
「山賊が消したってことかしら」
「おそらくな。だが」
 ディアスはさらに森の奥を指し示した。見ると、他の樹木にもいくつか、同じような焦げ痕がついていた。森全体となると、どのくらいの数になるだろうか。
「全ての結界をしらみつぶしに探して潰すことなど、果たしてただの山賊にできるだろうか。外部の人間では、十重二十重とえはたえに張り巡らされた結界を破るのは、まず不可能だ」
「つまり……この森をよく知っているひとに協力者がいるってこと?」
「さあな。だがこの焦げ痕も、術師が呪紋で灼いたと考えれば納得もいく」
「さすがに鋭いな」
 森の奥から野太い声がした。振り向くと、頭に灰色の布を巻きつけた男が蛮刀を手に、こちらへ歩み寄ってくる。
「だが残念ながら、俺たちに術師の仲間はいない」
「見張りの山賊か」
 ディアスは落ち着き払ったように言うと、相手は無精髭の口許をニッとつり上げた。
「子供たちは無事なの?」
 レナがディアスの背後から言う。
「教えたところで無駄だろう。お前らはここで死ぬのだからな」
「能書きはいい。来るならさっさとかかって来い」
「なにを」
「もしくは早々に立ち去るんだな。雑魚に用はない」
「こいつ、言わせておけば……」
 山賊は苦々しげに表情を歪ませながら、指を口に入れて口笛を鳴らす。すると木の上に潜んでいた他の山賊が数人、その男の周囲に降り立った。
「やっちまいな!」
 無精髭の男の合図で、山賊どもがそれぞれに蛮刀を抜き放つ。それでもディアスに動揺は微塵も見られない。
「すぐに終わる。下がっていろ」
 いつもと変わらぬ口調で、背後のレナに言う。
「でも……」
「お前がいるとろくに動けん。邪魔だ」
 ディアスの言葉にレナは拳を握りしめたが、この場は大人しく従うことにした。
 山賊どもがいっせいに襲いかかる。だがディアスは両腕をだらりと下げたまま、剣の柄を握ろうともしない。山賊がディアスに剣を繰り出したその刹那。
「空破斬!」
 ディアスの周囲に衝撃波が巻き起こった。もはや爆発に近いその衝撃に山賊どもは吹き飛ばされ、木の幹に身体を打ちつけて昏倒した。
「くだらんな」
 彼自身は何事もなかったかのように憮然と言った。剣も鞘に納まったままである。
「馬鹿な……なんだ、今のは……」
 無精髭の男は蛮刀を持つ手をおののかせた。間違いなくディアスは、あの一瞬の間に剣を抜いて、衝撃波を放ったはずである。だがその動作を確認することは、並の人間には到底適わなかった。
「さて、どうする。このまま消えるか」
「ぐぬぅ……」
 男は苦々しげに彼を睨みつけ、それから半ば自棄っぱちのように斬りかかった。縦一直線に叩き割るように振り下ろされた蛮刀はディアスのわずか横のくうを虚しく裂く。対して、留め具を外し素早く抜き放ったディアスの剣は相手の横腹を的確にえぐりとった。男が湿った地面にくずおれるのと同時に、ディアスは再び剣を鞘に納める。
「ディアス」
 木の陰に隠れて見ていたレナが歩み寄る。
「相手は人間なのよ。もう少し手加減したらどう」
 既に動かぬ骸と成り果てた山賊を後目に言うと、ディアスは視線だけをこちらに向けた。
「こんな下衆げすどもを、お前は人間というのか」
「…………」
 レナの胸は疼いた。冷酷な言葉の裏に隠れた真意を、その瞳の奥の深い淵に見出して。
(このひとの時間は、まだあのときのまま、止まっている)
(二年という月日も、このひとにとっては、なんの意味もなかったんだ)
「時間がない。先に進むぞ」
 外套マントを翻して森の奥へと歩き出すディアスを、レナは胸に当てた拳を握りしめながら、静かに見つめていた。

 その後も何度か山賊と遭遇することがあったが、いずれもディアスの一太刀にて破れ去っていった。あるときは敵を挑発し、あるときは黙って敵が襲ってくるのを待つ。そうして抜き放たれた彼の剣は、毛筋ほどの躊躇もなく相手の急所を確実に斬り裂く。人であるはずの(彼にとっては人ではない)山賊に一片の同情すら見せることなく、またこの殺戮を愉しむでもなく、ただひたすら冷酷に、無表情に相手を斬り捨てていく彼の姿は、他人の目からすれば悽愴せいそう以外のなにものでもなかっただろう。
 だが、レナは知っていた。彼のその行為の理由を。あのときのことを。そして、今の自分には何もできないことを。だから、ただただ、哀しかった。
 途中には泥のような沼が行く手を阻んでいたが、長老から借りた泥靴が役に立った。やっとのことで渡りきった先は森の奥深く、光もほとんど届かない暗闇だった。
「瘴気がさらに濃くなった。用心しろ」
 ディアスがレナに注意を促すが、当のレナは地面の一点を見つめたまま、立ちつくしていた。
「どうした、レナ?」
 彼の言葉でレナはハッと我に返り、顔を上げる。
「なんでもないわ。ただ、クロードとセリーヌさんは大丈夫かなって」
「心配なら戻ったらどうだ?」
 ディアスが言うと、彼女はすぐに首を横に振る。
「心配なんか、してないわ」
「そう強がるな」
「強がってなんか……っ!」
 思わず声を張り上げてしまい、慌てて自分で自分の口を塞ぐ。森の静寂だけがあとに残った。
 ディアスは軽く肩をそびやかすと、先に続く道をゆっくりと歩き始めた。レナは口を尖らせつつも、彼の後についていく。
 ふたりはしばらく黙々と歩いているばかりだったが。
「クロードったら、ひどいのよ」
 不意にレナが口を開いた。
「私が魔物と一対一で戦っただけで、『軽はずみな行動はするな』って。……私だって悪かったとは思うわよ。実際、クロードが助けてくれなきゃ危なかったし……でも、なにもあんなにムキになって怒ることないじゃない」
「いきなり何だ?」
 ディアスが立ち止まり、訝しげにレナを見て言う。
「なぜそんなことを俺に話す?」
「べっ、別になんでもないわよ。ただ、なんとなく……」
 レナは頬を赤くして弁解する。
 ディアスはしばらく幼馴染みの顔を何ともなしに見つめていたが、ふと目を逸らすと、ふたたび歩き出した。
「そいつがムキになって怒るということは、それだけお前が心配だってことだろう?」
「え?」
 レナは驚いたようにディアスの背中を見る。歩きながら、ディアスは続けた。
「本当にどうでもいい人間なら、いちいち構ったりしない。好きなようにやらせて、くたばったとしても何とも思わないさ。俺のようにな。そいつがお前のことを気遣っていることくらい、お前だってわかっているはずだ」
 レナは下を向いて、拗ねた子供のように頬を膨らませる。
「少しは成長したかと思っていたが、そういうところは変わらんな。昔もよく村の悪ガキと喧嘩してたな。勝てもしないくせに強がって、意地ばかり張って……」
「あのね」
 レナがいきなり走って、ディアスの前に回り込んだ。爪先と爪先がぶつかるくらい近くで向き合うと、人差し指を彼の顎の手前に突きだして、きっと睨みつける。
「意地っぱりの大将に言われたくないわよ」
 ディアスは面食らったように目を見開いたが、すぐに下を向いて、こらえきれずにくつくつと笑いだした。
「言ってくれるな」
「お互いさまよ」
 レナも腰に手を当てて、ふんぞり返ったような格好のまま、笑った。
 そのとき、横の茂みがガサガサと騒ついた。ディアスは素早く手を剣の柄にかけて身構えたが、出てきたのは彼の腰丈くらいの幼い少女だった。
 少女は二人の姿を認めると、震える声で訴える。
「たす、けて……」
「待ちやがれ、こんガキゃあ!」
 怒声を発しながら、少女の背後から山賊らしき男が追いかけてきた。男はレナとディアスに気づいて立ち止まる。
「ぬぬっ、なんだてめぇら。命が惜しけりゃ、そのガキをこっちによこしな」
 ディアスがレナに目で合図する。レナは少女を抱えて彼の背後に下がった。
「逆らう気か? 後悔するぜぇ」
 ニタニタと汚い歯を剥き出しにして笑みを浮かべる山賊の前に、ディアスは立ちはだかった。一見無防備なその構えに山賊は騙され、図に乗って襲いかかる。しかし次の瞬間、ディアスの剣が躍り上がるように抜き放たれ、あっさり相手の蛮刀を弾き飛ばす。手から離れた蛮刀は濃霧の森を高々と舞い上がり、樹木のこずえ付近の幹に突き刺さった。
「命が惜しければ……何だって?」
 抜き身の刃を突きつけながら、ディアスが圧するように言う。
「ひ、ひええっ!」
 山賊は情けない声を上げて後退りした。ディアスが剣に力を込める。レナは次に起こる光景を少女に見せぬよう、強く抱きしめ、自らも目を瞑る。
 ディアスの剣は容赦なく相手の腹を貫いた。剣を抜き、鞘に納めると、山賊は双眸に驚愕と恐怖の色を浮かべ、金魚のように口をパクつかせて、その場に倒れた。
 ディアスが背後を振り返ると、レナは少女を立たせて質問をしているところだった。
「あなた、マーズの子供よね?」
「うん」
「捕まっていたところから逃げてきたのか?」
 ディアスが訊くと、少女はこくりと頷いた。
「その場所まで、案内してくれないかな?」
 レナが言うと、少女の曇りのない瞳は爛々と輝きだす。
「みんなを助けてくれるの?」
「仕事だからな」
 ディアスが素っ気なく答えた。
「ありがとう。お兄ちゃん、お姉ちゃん」
 少女は愛らしい笑顔で言ったが、ディアスは明後日の方角を向いて、見向きもしない。
「仕事だと言ったろう」
「それでも、セシルはうれしいよ」
 ディアスの目の端がピクリと動いた。レナもそれに気づいて、少女に話しかける。
「あなた、セシルっていうの……」
「うん」
 レナはディアスを見た。ディアスは憮然と少女の顔を見つめていたが、レナの視線に気づくと背中を向ける。
「急いでいるんだ。早く案内しろ」
 わざとぶっきらぼうに言い放つ彼に、レナは軽く嘆息した。
「うん。こっちだよ」
 セシルは小走りに森のさらに奥深くへと向かう。ディアスとレナはその背中を追っていった。


 一方その頃。
 紋章の森の入り口で、エグラスは彼らの帰りを待っていた。腕を組み、霧深い森の奥の暗闇をじっと見つめたまま、立ちつくしている。
 エグラスは焦れた。待っている時間というものはひどく長いものだ。こんな思いをするくらいなら、いっそのこと私も行ったほうが良かったかもしれない。うちの蓮っ葉な娘が年寄りの冷や水だなんて言いさえしなければ……。
「エグラス殿」
 自分を呼ぶ声を聞いてエグラスは振り返った。そこには誘拐事件の一報を告げた、あの紋章術師が立っていた。
「いかがですかな。彼らからの連絡は?」
「いや、まだ何も……」
「そうですか」
 術師はエグラスの横に立った。
「……それにしても、妙だとは思いませんか?」
「何がですかな?」
「結界のことですよ」
 術師は相変わらずフードを深々と被っているので、その表情はわからない。
「あなたもあの結界がいかに強固なものであるかはご存じでしょう。森じゅうの木の幹に刻まれた紋章は全部で千二十四箇所。森全体での紋章の位置そのものが紋章を形取り、巨大な法陣結界となっているわけですが、あの紋章は単体でもかなりの威力を発揮します。つまり、邪なものが森に踏み込むためには、全ての紋章を潰さなくてはならないのですよ。……そんなことが、ただの山賊にできるとお思いで?」
「どういうことだ?」
 エグラスは怪訝そうに術師を見た。
「考えられるのは二通りです」
 術師はぼそぼそと抑揚に乏しい声で続ける。
「ひとつは術師の中に裏切り者がいるか。もうひとつは、山賊自身が術師に化けて森に入り込んでいたか」
「山賊が術師に? そんなことができるはずがない」
 エグラスが否定すると、術師の口許が三日月の形に歪んだ。
「ところが、できるんですよ。このようにね」
「!!」
 術師が掌をかざすと、人の頭ほどの火球がエグラスめがけて放たれた。至近距離で喰らったエグラスは吹き飛ばされ、背中から地面に倒れる。
「なんだと……まさかお前が!?」
 エグラスが上半身を起こして術師を見る。
「今頃気づいても、手遅れだよ」
 術師はフードの奥に潜むひとみを危険な色に光らせて言った。
「村の中で厄介な奴らは全員、森へ行った。あとはマーズ屈指の紋章術師と名高い貴様さえ倒せば、この村は墜ちたも同然」
「くそっ……謀ったな!」
「死ね!」
 術師はサンダーボルトを唱えた。エグラスの頭上から電撃がほとばしったが、間一髪、エグラスは跳び退いて避け、すぐに掌を前方に突きだす。
「アイスニードル!」
「ファイアボルト!」
 氷と炎がぶつかり、瞬時にして水蒸気となり消滅した。エグラスは立て続けにウインドブレイドを放つが、術師は手もなく躱すと、人差し指を突きだして唱える。
「ウーンズ!」
 エグラスの足許の影から闇が膨れ上がる。凝り固まり鋭利な刃となった闇に包み込まれ、無雑作に斬り刻まれた。片膝をつくエグラスのローブはズタズタに切り裂かれ、すぐに傷口から血が滲み出てきた。
「とどめだ!」
 術師は勝ち誇ったようにそう言うと、両手を天に向かって掲げた。
「させるか!」
 エグラスは力を振り絞ってグレイブを唱える。術師の足許から槍状の土の塊が突きだしてきた。
「うおっ!」
 術師は慌てて躯をけ反らせて避ける。土の塊はローブの裾を突き破っただけですぐに消滅した。
「惜しかったな。だが、詰めが甘い」
 術師は再び両腕を天に翳す。
「イラプション!」
 エグラスの周囲の地面が熱で溶け、そこから猛然と炎の渦が噴き出した。熱風に高々と舞い上げられたエグラスは、なすすべなく地面に叩きつけられる。
「へっ、ざまあねぇな、エグラスさんよ」
「くっ……」
 エグラスはなんとか立ち上がろうとするが、もはや身体が動かない。術師もそれを確認すると、エグラスに背を向けてその場を立ち去る。
「さて……アザムギルの様子を見に行くか……」
 彼の向かった先は、紋章の森だった。


 森のほぼ中心に当たる場所に、その小屋はあった。
「あそこにみんながいるの?」
 レナが訊ねると、前を歩いていたセシルが頷いた。樫の木のみで造られた小屋は見た目は質素だが、実用に耐えられるようにかなり丈夫な構造になっているようだ。
 不意に、セシルとレナの間を歩いていたディアスが立ち止まった。
「どうしたの?」
 レナも立ち止まって訊くと、ディアスはゆっくりと、まるで樹木の一本、木の葉一枚までもつぶさに観察するように周囲を見回した。
「なんだ、これは……」
「え?」
 小屋を睨んだまま呟くディアスに、聞き返すレナ。
「なぜこんなに警備が薄い? 子供を人質に取っているにしては、警戒心がなさ過ぎる」
「そういえば……森の中では何度か山賊に会ったけど、この小屋に見張りがいないってのは変ね」
 レナも辺りを見回す。人の気配は全くない。
「そもそも、事の起こりからして妙だった。あまりにも突拍子がなさ過ぎる」
 ディアスが言った。
「書物を奪うだけなら、もっと他にやり方があっただろう。村の子供を根こそぎ誘拐する必要がどこにある? 一夜にして結界の張られた森を占拠できるような手練れが、こんな馬鹿げた真似をするだろうか」
「それって、つまり……」
「誘拐事件の目的は、別のところにある」
「その通り」
 ふたりの背後で誰かが声を発した。振り返ると、大仰な甲冑を纏った男が槍を手にして、こちらへ近づいてきていた。
「ようやくそこに気づいたか。だがここは森の奥深く。引き返してももう遅い」
 男のその言葉にディアスは眉間に皺を作った。
「……森ではなく、村か」
「子供たちはいわばオマケよ。人買いには高く売れるからな」
「どういうこと?」
 レナが訊くと、ディアスは甲冑の男を鋭く睨めつけたまま答える。
「誘拐事件は囮だ。村全体をかき回し、優れた術師たちを疲弊させた上で、混乱の隙に宝を奪おうという作戦だ」
「紋章術師は金持ちだが、ちょいと手こずるのが悩みの種でな。ボスも困っていたところだったんだ」
「あなたがボスじゃないの?」
「そんなことはどうでもいい」
 男が槍を掲げると、周囲の森からいっせいに仲間の山賊が飛び出し、ふたりを取り囲んだ。数は軽く十人は越えそうだ。
「うそ、こんなにいたの!?」
「気配を殺して待ち伏せていたか。姑息な連中だ」
「逃げ場はなくなった。覚悟を決めな」
 笑みに絶対の自信を含ませて、甲冑の男が槍を突き出した。
「てめぇなど、ボスの手を煩わせるまでもない。このアザムギル様が地獄に送ってやるぜ!」
 言うが早いか、アザムギルは重装備の割には意外に速い身のこなしでディアスに襲いかかった。ディアスは剣を抜き、繰り出された槍を打ち払う。返し刀で相手の兜を狙ったが、アザムギルも槍の柄で剣を受け止める。そうして素早く背後に跳び退き、槍の長さを生かして遠い間合いから突きだしてきた。必殺の気合いが込められた槍の動きをディアスは読みとり、穂先が自分の胸に突き刺さるより一瞬速く、左手で槍の柄をつかみ、そのまま空中に跳び上がった。勢いづいたアザムギルはディアスの真下につんのめる。ディアスは空中で鳥のように両腕を広げた。外套が大きく翻る。そうして剣に気合いを込めて振り下ろした。
「ケイオスソード!」
 黒き衝撃波とともに振り下ろされた剣は相手の兜を砕き、脳天を叩き割った。アザムギルは頭から血を噴き出しながら、しばらくふらふらと蹌踉よろめいていたが、ディアスが剣を納めるのと同時にどうと倒れた。
「こっ、この野郎っ!」
 アザムギルがやられたのを見て、周囲の山賊たちが一気に雪崩れ込んできた。ディアスは空破斬で吹き飛ばそうと柄に手をかけたが、すぐ隣にレナがいるのに気づいた。ここで衝撃波を放てば、彼女まで巻き添えを喰ってしまう。
 ディアスは軽く舌打ちして、左腕でレナを抱え込むと、そのまま高々と跳躍した。空中で剣を抜き、瞳を見開いて右腕に力を注ぎこむ。そして地面で一所ひとところに固まっている山賊に向かって、刃を十文字に振るった。
「クロスウェイブ!」
 交差クロスした二本の衝撃波は地面にぶつかると、大地をえぐった。土や石や樹木の破片が飛散し、山賊は逃げる間もなく吹き飛ばされた。突風が吹き荒れ、衝撃に森が震撼する。
 ディアスが降り立った場所は、最初に跳び上がった地点よりも随分と下にあった。衝撃波によって地面が削られ、深い窪みができてしまったのだ。
 そして、そこに山賊の姿はなかった。レナが周囲を見渡すと、樹木の枝に引っかかっているものと、幹に叩きつけられたのだろうか、木の根元で倒れ込んでいるものが、辛うじて確認できた。大多数の行方はわからない。おそらく森のどこかで息絶えていることだろう。レナは、その圧倒的な破壊力に思わず身震いした。
「子供たちを助けるぞ」
 この場においても、ディアスは何事もなかったかのような口調で言い、小屋の方へと歩き出す。レナはもはや、唖然とそれを見送ることしかできなかった。

「これで全員なの?」
「うん」
 小屋から助け出した子供たちを確認すると、レナはディアスの方を向く。
「とりあえずは一安心だけど……。これからどうするの? 子供たちも村に帰さないといけないし……」
「まだ終わったわけではない。村がどうなっているかがわからないからな」
 ディアスは子供たちには目を合わせずに、言った。
「きっと大丈夫よ。クロードたちがいるわ」
「途中でくたばっていなければいいがな」
 その言葉に、彼女はなぜか悔しさを覚えた。関係ないはずなのに。
「クロードだって本気を出せば、あなたと同じぐらい強いのよ」
 自分でも不思議だった。どうして彼を庇うようなことを言ったのだろう?
「ならば一度、手合わせを願いたいものだな」
 皮肉を言うディアスの頬が、わずかに緩んだような気がした。
 そのとき、聞き覚えのある爆音が森に響き渡った。ここからそう遠くないところで。
「セリーヌさんの呪紋だわ!」
 レナはすぐさま駆けだしていった。

 最初に目の当たりにしたのは、血のように紅い皮膚をした「なにか」だった。地面にくずおれ、既に息絶えていたので一目ではわからなかった。その傍らには立ちつくすセリーヌと、頭と左腕から血を流してうずくまるクロードの姿があった。
「クロード!」
 レナはもはや悲鳴に近い声で、彼の名を呼んだ。駆け寄り、すぐに治療を始める。
「レナ……どうしてここに?」
 かなり衰弱しきっていたのか、クロードの声はひどく弱々しかった。
「子供たちが小屋に捕まっているところを、助け出していたの」
「本当かい?」
「うん。……ねぇ、これは……」
 治療が終わると、レナは深紅の怪物に目を遣った。
「マーズの村に、フードをかぶった紋章術師がいただろう? あいつの本当の姿さ」
 クロードがしっかりと立ち上がって、言った。
「あのひとが山賊のボスだったのね」
 レナは思い出した。ディアスの参加をしきりに拒んでいた術師の男。少し怪しいとは思っていたが、まさか山賊、それもこんな怪物だったとは。
 小屋の方から、ディアスもこちらへやってきた。彼は怪物の骸を見つけると、すぐ目の前まで歩み寄り、商人が品物を見定めるような所作で丹念に眺めていた。
「こいつは、お前が倒したのか?」
 納得のいくまで見てから、クロードに問う。クロードは彼を軽く睨みつけながら、答えた。
「ああ、そうだ。セリーヌさんと一緒に、だけどな」
 ディアスとクロード。ふたりの視線が交叉する。睨み合いは数秒ほどであったが、やけに長く感じた。
 しばらくして、ディアスが目を逸らした。そして背中を向ける。
「なるほど、レナの言っていたことも、あながち嘘ではないようだな」
「どういう意味だ?」
 ディアスの背中にクロードが言葉を投げかけたが、彼はそれには答えず。
「近いうち、お前と剣を交える日が来るかもしれない。楽しみにしていよう」
 そう言うと、森の入り口へと歩き出した。しかし途中で思い出したように、いったん足を止めて。
「昨日の無礼を詫びよう。お前はおそらく、足手まといにはなるまい」
 そうして、森の中へと消え去っていった。
「レナ、あいつはいったい何を言っているんだ?」
 わだかまる思いを吐き捨てるように、クロードが訊く。レナはただ、握りしめた左手を胸にあてがったまま、森の闇に消えた彼の姿を見つめていた。
「そう。こんなことをしている場合じゃないんですのよ」
 突然セリーヌが声を張り上げた。
「早く村へ戻らなくては」
「そうですね」
「待った!」
 歩き出そうとしたレナを、クロードが止めた。
「レナ、ペンダントが……」
 そう言われて自分の胸許を見ると、上着の内側からペンダントがぼんやりと輝きを放っていた。慌てて上着から飾り石を引っぱり出すと、確かに翡翠色に明滅している。
「まさか……」
 クロードは思い立って、深紅の怪物の横腹を蹴り上げて仰向けにさせる。すると、腰のあたりからポロリと拳大ほどの石が地面にこぼれ落ちた。石は、やはり同じように緑色に輝いている。
 クロードとレナは目を見合わせた。言いしれぬ不安と、予感に。

4 ザンドとユール(前編) ~ハーリー~

 港を一望できる崖の上で、彼は柔らかな草の生い茂る地面に寝転がると、顎が外れそうなほど大きな欠伸あくびをした。
 塩からい風が吹き抜け、ぼさぼさの藍色の髪をもてあそぶ。小麦色に日焼けした肌は陽の光を浴びてひときわ健康的に見えた。のんびり流れゆく綿雲を見つめるその瞳はくすんだ褐色だが、角度によっては驚くほど鮮やかな紅色に見えることもある。
 彼は上半身を起こし、近くに生えていた香草の茎を千切ると無雑作に口にくわえ、崖の下の港を大儀そうに見下ろした。
 港はいつものような大勢の船員たちの姿は見あたらず、閑散としていた。桟橋にかかっている船はヒルトン行きだろうか。出航するにしては積み荷が少ない。おおかたあの大雨の翌日だ、海がまだ荒れていると踏んだのだろう。この様子では二、三日は出航を見合わせるかもしれない。
「……うざってぇな。この天気なら時化なんて来ねぇよ」
 自分には関係ないことのはずなのに、彼は港に繋がれたままの帆船にもどかしさを覚え、知らずとそう口走った。
「よう、ユール」
 背後から声がかかった。振り向くと、真っ赤な髪をした男がこちらに近づいてくる。男は顔つきも身体も不自然なほど痩せこけており、上半身を左右に大きく揺らしながら歩くその姿も、ふらついているように見えた。
 その男の背後にも数人、いかにも柄の悪そうな者たちが控えていた。ユールと呼ばれた若者はおもむろに立ち上がり、口に銜えた香草をぺっと吐き出すと、男を鋭く睨めつけた。
「ザンドの腰巾着が、何か用か?」
「へっ、そういきがるなよ。早死にはしたくねぇだろ」
 男はへらへらと締まりのない笑い顔のまま、言った。
「てめぇにとっておきの知らせを持ってきたんだ」
「どうせろくでもないことだろ」
 そう言いながらユールの視線は、男たちの群れのさらに背後で様子を眺めていた金髪の男に釘づけになった。
 ……ザンド……!
 濃緑色のマントに身を包んだその男の姿を目にした瞬間、ユールは嫌な予感に眉を顰める。
「おカミさんが、死んだよ」
 彼の瞳は驚愕の色に見開かれた。
「可哀相になぁ、店番をしていたら、突然客に襲われたんだとよ。まったく、ひどい世の中になったもんだぜ、なぁ」
 男が話を振ると、背後の者たちはけらけらと笑いだした。
「……殺ったのか……」
 腹の奥から絞り出すような声で、ユール。
「おカミさんを……殺ったのか……?」
「あん? 俺たちじゃねぇよ。変な言いがかりをつけんじゃ……」
 言い終わらぬうちに、男はユールの右拳を顔面に受けて吹き飛んだ。
「俺が目障りならとっとと俺を殺ればいいだろ! どうしておカミさんにまで手を出した!?」
 ユールはえるように叫んだ。
「見せしめだよ」
 金髪のザンドが前に進み出た。男たちは首を竦め、道を作って彼を通す。
「あの女は外れ者のお前をなにかと可愛がっていたからな。これでお前にはもう、何も残っちゃいない」
「てめぇ……!」
 歯を軋ませ、血走った眼でこちらを睨むユールに、ザンドは蔑むような視線を返して。
「我らへの叛逆は、すなわち身の破滅を招く。これでわかっただろう。我らに楯突くことの愚かさを」
「ザンドぉッ!!」
 殴りかかろうとしたユールだが、さっと周囲の男たちがザンドの前に立ち、行く手を阻んだ。数人がかりで両腕を掴まれ、ユールは身動きがとれなくなる。なおも藻掻く彼の腹に男のひとりが膝蹴りを喰らわすと、脱力したようにぐったりとした。
「いかがいたしやす、ザンド様?」
「殺さない程度に痛めつけてやれ……いや、ここでは人目につくな。下の倉庫にでも連れ込んでからだ」
「ザンド様」
 横にいた手下のひとりが進言した。
「こいつは危険ですぜ、早いうちに始末した方がよろしいのでは……」
「いや、こいつは殺さない」
 整った容貌に冷たい微笑を浮かべて、ザンドが言った。
「こいつが俺の足許にひざまずき、ひれ伏す姿が見たい。そのためにはすべてを奪い、徹底的に追いつめる必要がある。抗う気力がなくなるまで、な。こいつが俺に屈服したその時こそ、我がザンド一味の力を知らしめる最高の機会ではないか」
「は、はぁ……」
「連れていけ。くれぐれも殺すなよ」
 ユールを連れて立ち去ろうとする手下たちにそう言ったあと、すぐに付け加えた。
「足の一本くらいは折ってもいいがな」


 かぁお、かぁお、かぁお。真っ青な空を数羽のカモメが飛び交っている。純白の翼を羽搏はばたかせ、滑空して、下降しては上昇する。活発に動き回るかれらとは対照的に、大きな帆船は桟橋に繋がれたまま、静かに佇んでいる。
 レナは桟橋近くの海岸の縁に腰掛けて、その光景を眺めていた。足のすぐ下で、港に入り緩やかになった波が整備された岸にぶつかって、たぷんと音を立てた。
「レナ」
 振り向くと、クロードがこちらに歩いてきている。
「やっぱり駄目だ。三日は待たないと出航できないみたいだ」
「そう……」
 レナは少し落胆したように応えた。そして、彼女がいないことに気づく。
「セリーヌさんは?」
「怒りながら街へ繰り出していっちゃったよ。あれで結構、楽しんでるんじゃないかなぁ」
「あはは」
 レナの隣に、クロードも座った。そして水面にゆらゆらと揺れる自分の顔を見つめながら。
「……あのさ、レナ」
「なに?」
「まだ、謝ってなかったよね」
 レナがクロードを見た。彼は膝の上に置いた拳に少し力を込めて、続ける。
「マーズに着く前の戦いで……僕もあんなに怒ることなかったんだ。大人げなかったよな……ごめん」
「そんな……私のほうこそ、ごめんなさい。むきになっちゃったりして」
「いや、いいんだ、レナは怒って当然だった。悪いのは僕の方だ」
 自嘲気味にそう話すクロードを、レナは静かに見つめていた。
「レナが魔物に襲われているのを見たとき、急に頭に血が上って、カッとなった。それでつい、君に八つ当たりしてしまったけど……本当は自分自身に怒ってたんだ。いつも大事なところで君を守りきれない自分が情けなかった。クロス洞穴のときだって僕は何もできなかった。傷ついた君を見て本当に悔しかった。だからもう絶対に、君をこんな目には遭わせないって誓ったんだ。それなのに……」
「……クロード」
 レナはクロードの手を取り、両手で優しく包み込むようにして。
「もういいわ。クロードがそうやって思ってくれるだけでじゅうぶんよ。……ありがとう」
 微笑を浮かべる彼女に、クロードも知らずと表情がほころぶ。
 そして、レナの手の中にあった右手を抜くと、代わりに左手に持っていた何かを差し入れる。
 レナが手を開いて見てみると、それは指輪だった。銀色の環と、複雑な紋様細工の施された枠の中に填め込まれている宝石はエメラルドだろうか。陽光に照らすといかにも鮮やかなみどり色に輝く。
「どうしたの、これ?」
「マーズの露店で売ってたんだ」
 照れくさそうに人差し指で頬を掻きながら、クロード。
「なにかの紋章が刻まれているとかで、特殊な効果があるらしいよ。お詫びのしるしってわけじゃないけど……レナにあげるよ」
「そんな、もらえないわ、こんな高そうなもの」
「いいんだ、どうせ僕が持っていても役に立たないんだし」
「そう……? じゃあ、もらっておくね。ありがと」
 さっそく指輪を填めようとして、ふとその手が止まる。
「……ねえ、これって……」
「どうしたの?」
 クロードがレナを見ると、彼女は下を向いたまま、頬を赤らめている。
「プレゼントに、指輪ってことは、さ……」
「気に入らなかったのかい?」
「そうじゃなくて……その……」
 みるみる顔が紅潮していくレナを、にぶちんクロードは不思議そうに見つめるばかり。
「もう、いいわよ! なんでもない!」
 急に立ち上がって──その際、ついでとばかりにクロードの背中をどんと押して──レナは早足で街の方へと歩いていった。
「ちょっ、レナ……うわっ!」
 レナに押されて体勢の崩れたクロードは、そのまま海へと見事に着水ダイビングした。
「なんなんだよ……いったい」
 水面からぬっと顔を出して、訳も解らず彼女の背中を見つめるクロード。金髪からこぼれ落ちた水滴が眼にしたたか入って、やけにみた。

 街の入り口近くの路地にさしかかったとき、突然なにかが壊れるような音が耳に飛び込んできた。
「なにかしら、今の……」
 レナはあたりを見渡す。横に扉が開いたままの小さな倉庫があった。慎重に近づき、中をそっと覗きこむ。
 建物の内部は薄暗く、はっきりとは判別できなかったが、奥の壁際でいくつかの人影がうごめいていることだけは確認できた。
「さて、どうしてやろうか……」
 男の低い声が聞こえた。レナは息を殺して耳を澄ます。
「しっかし、ザンド様も酔狂なこった。こんなクズ野郎、とっとと簀巻すまきにして海に放りこんじまえばいいのに」
「そこがザンド様の恐ろしいところよ。生かさず殺さず、とことん追いつめてボロボロにした挙句あげく、ついには足元にひれ伏させようって寸法だ」
「……っざけんな……」
 その声だけはひどく弱々しかった。まだ若い、少年のような声だ。
「あん? こいつ気がついていたのか」
「俺が、あんな野郎の腰巾着だなんて……ヘドが出るぜ……」
「これからフクロにされるってのに、口の減らねぇ奴だな」
「黙らせてやるか」
 再び破壊音。どうやらこれは壁際に積んである樽が砕ける音のようだ。
 レナは少し躊躇したが、このまま放っておくわけにもいかない。思い切って入り口に足を踏み入れて、叫んだ。
「何やってるの! 人を呼ぶわよ!」
 レナの声に、中にいた者たちがいっせいに振り返った。入口に立ってみて、初めてその者たちの姿をはっきりと見ることができた。数は四、五人ほど、いずれも人相の悪い男たちだ。
「ちっ、邪魔が入ったか」
 連中のひとりがそう言うと、足許に蹲っている誰かの頭を爪先で小突いて。
「運が良かったな。だが次はこうはいかないぜ」
 ぞろぞろと入口から出ていく男たち。レナの横を通りかかるときにこちらを睨んでくる者もいたが、彼女も負けじと強気の視線を返す。
 全員が出ていくのを見送ると、レナは倉庫の中で倒れたままの少年のところへ駆け寄った。近づいてみると、声で想像していたよりも幼くはなかった。
「大丈夫?」
 呼びかけると、若者はゆっくりと身体を起こす。額をはじめ、腕や足のいたるところに紫色のあざが浮き出ていた。周囲の床には壊れた樽の破片が散らばっている。
「ひどい怪我……さっきの人たちにやられたの?」
「うるっせぇな……放っとけよ……」
 突き放すような態度で言ったが、明らかに衰弱している。
「なによ、その言いかた」
「いいから俺に構うな……とっとと出ていけ」
「そうもいかないでしょ」
 レナは若者の前に屈んで手を翳すと、回復呪紋ヒールを唱えた。彼の身体が淡い光に包まれ、痣が消えていく。
「な……なんだこりゃ」
「終わったわ。もう動いてもだいじょうぶ」
 若者はすぐに立ち上がり、珍しいものでも見るかのように自分の身体をまじまじと眺める。
「こいつは驚いた。全部治ってやがる……お前、不思議な力を持ってるんだなぁ」
「え? うん……」
 レナは恥ずかしそうに俯く。
「まあいいや。俺はユールってんだ。いちおう礼を言っておくよ」
 藍色の髪の若者はそれだけ言うと、すぐに入口に向かって駆けだそうとした。
「ちょっと、どこへ行くのよ!」
 レナが呼び止めると、ユールは一度立ち止まって振り返る。そして先程とはうって変わり、真剣な表情で。
「悪い、急いでるんだ」
 そう言い置くと、再び走りだして倉庫を出ていってしまった。
「急いでるって……なんなのよ」
 腑に落ちないというふうに首を傾げながら、レナも倉庫を出た。すると。
「あら、レナ」
 声をかけてきたのはセリーヌ。肩に掛けた道具袋がいちだんと膨れあがっているところを見ると、また大量に買い込んだのだろう。
「何やってるんですの? こんなところで」
「いえ、ちょっと……あ、そうだ。さっきこの辺で男の子が走っているのを見ませんでしたか?」
「男? なに、もしかして逆ナンでもしてるの?」
「違いますってば! 真面目に答えてください!」
「はいはい。そうねぇ……ああ、そう言えば見かけた気もするわね」
 セリーヌは丘の上に鎮座する大きな屋敷があるあたりを指さした。
「たしか、向こうの高台の方へ走っていったと思うわ。……そうそう、高台といえばね」
「なんですか?」
「あの高台にある店の前で、人だかりができていたのよ。みんな深刻そうな顔してたけど、なんだったのかしらね、あれは」
「深刻そうな?」
 レナが真っ先に思い浮かべたのは、さっきの若者が最後に見せた表情。彼が向かっていった先もあそこなら、関係ないとは考えにくい。
「……すみません、ちょっと行ってきます」
 そう言うと、レナも高台に向かって駆けだした。どうしてこんなにあの若者のことが気になるのか、わからなかったけれど、とにかく走った。

 セリーヌの言った通り、高台の飲食店の前には大勢の人々が集まり、騒然としていた。
 はやる気持ちを抑えながら、レナは人の群れをかき分けて店へと足を踏み入れる。
 そこで目にしたのは、仰向けに倒れた恰幅のいい女性と、それを腕で抱きかかえる若者の姿。女性の身につけている純白のエプロンは紅に染まり、顎はのけ反り、開ききった瞳孔は天井のどこかを見つめたきり、動かない。
「ユール……」
 レナは若者の名を呼んだ。彼はこちらを振り向きもせず、女性の頭を抱いたまま、呟くように言う。
「……お前、傷を治せるんだろ」
「え?」
「俺のときみたいに、治してくれよ……おカミさんを……」
 ユールの声には感情が伴っていなかった。答えは、既にわかっていたのかもしれない。
「……ごめんなさい」
 彼の抱く女性の顔からは血の気が完全に失せ、唇も紫に変色している。そしてなによりも、床一面に広がった赤いもの──レナは、そう言うしかなった。
「なんだよ、なんで謝るんだよ……」
「ごめんなさい……」
 胸が詰まって、言葉がうまく出てこない。震える唇で、レナは繰り返しそう応ずるのが精一杯だった。
「治せねぇのかよ……」
「だって、その人は、もう……」
 涙で視界が歪む。もはや言葉すら出てこない。
「治せねぇのかよ……」
 ユールは項垂れて、目をギュッと瞑る。こぼれ落ちた雫が紅のエプロンに落ちて、染みこんでいく。
「ちきしょう……っっきしょおーーーッ!!」
 天井を見上げて、ユールは吼えた。レナもその場に立ちつくし、足許に視線を這わせたまま、肩を震わせた。


「親父は、俺が十の時に死んだ。お袋もな」
 昼間にクロードと話をしていた同じ場所で、レナはユールの話を聞いていた。
「親父はレグランドの手下だったんだ。……ああ、レグランドってのはザンドの父親だ。今のザンドよりは話のわかる奴だったけど……でも、親父は何かヘマをやらかして、奴に始末された」
「お母さんは?」
「お袋は、そのときのショックで寝込んじまったんだ。もともと体は丈夫なほうじゃなかったからな。それで、半年後に」
 言葉を途切らせて、ユールは水平線を見つめた。沈みかけた夕日を背中に浴びて、岸辺のふたりの長い影は波に揺れている。
「お袋が寝込んだ半年間、世話してくれたのがおカミさんだった」
 ユールが再び口を開く。
「隣近所で昔からお袋とも親しかった人なんだ。お袋が死んだあとも、身寄りのない俺を引き取って育ててくれた。……ま、俺はこんなだから、しょっちゅう殴られていたけどな」
「殴る?」
 レナが目を丸くして訊くと、ユールは吹きだすように軽く笑って。
「豪快な人なんだよ。俺が近所のガキと喧嘩して帰ってくるたびに、バチーンってひっぱたかれるんだよ。その威力といったら、凄まじいぜ。顔半分がタコみてぇに腫れて、丸一日痛くて何も食えやしねぇ」
 レナは笑った。ユールも笑ってはいるが、どこか淋しくも見えた。
「ほんとうに、強い人だった。レグランドが死に、ザンド一味が幅をきかせだしたときも、おカミさんは言いなりにはならなかった。奴らに目をつけられた俺を、守ってくれたんだ……最後まで」
「ユール……」
 心配そうに見つめるレナの視線に気づくと、ユールは顔を上げて、ニッと微笑わらってみせる。
「悪ぃな、辛気くさい話をしちまって」
「ううん。話が聞けてよかった」
 レナがそう言って微笑みかけたとき。
「おーっ、いいねぇ、夕暮れの港に語り合う若人たち。絵になるねぇ」
 いきなり大声で誰かが叫んだ。振り返ると、恐ろしく大柄な老人が、木製のパイプ片手に立ちはだかっている。短めの髪も、もじゃもじゃの顎髭もすべて真っ白だったが、その熊のような体格は年寄りめいた雰囲気を少しも感じさせなかった。
 老人はこちらを非難がましく見つめる若者と目が合うと、少し驚いたように。
「おーっ。誰かと思えばユールじゃねぇか。ハーリー屈指の問題児、悪ガキだとちまたで噂の」
「うるっせぇな」
「がはは。威勢だけはいい野郎だ」
 老人の声は普通に話していても怒鳴っているようで、いちいち腹に響く。
「聞いたぜぇ。お前ぇのカミさんがザンドに殺られたってな」
 ユールが片方の眉をつり上げると、老人はニヤニヤと笑いながら、パイプに火をつける。
「なんで知ってるのかって? 海の男の情報網を甘く見ちゃいけねぇよ」
「海の男?」
 レナが訊くと、老人は得意満面の表情を浮かべて。
「おうよ! 世界でただひとり世界一周航海を成し遂げた、『白鯨のバルト』ことバーソロミュー船長とは、俺のことだぁ!」
 ユールとレナが顔を見合わせる。
「知ってる?」
「いや、知らねぇ」
「な、なんだとぉ!?」
 失望のあまり開いた口から火のついたパイプが落ち、慌てて手で受け止めて、あちあちとお手玉する。
「まあ、世界一周したのは二十年も前だからな……仕方ないか。……ところで、だな」
 自分の名が知られていないのがよほどこたえたのか、やや声の調子を落として。
「ユール。お前ぇ、俺の船に来ねぇか?」
「え?」
「おカミが死んで、頼るところもないんだろう? おあつらえ向きに俺の船も人手不足だ。お前ぇは喧嘩っ早いが根性はありそうだからな。どうだ。この話、乗らねぇか?」
 船長の言葉にユールは目を伏せて、唇を噛む。
「……やめとけよ」
「あん? どうした、海の男は嫌いか?」
「俺に関わると、ザンドに狙われるぞ」
「がはは。これだからなにも知らねぇガキは困る」
 船長は嫌がるユールの首に無理やり腕を回し、羽交い締めにする。
「ザンドだって俺には一目置いてるんだぜ。今度奴らがお前ぇに手ェ出してみろ、天下のバルト様がぶちのめしてやるさ」
 相変わらずの大声でそこまで言うと、急に語りかけるような口調になって、続ける。
「それにな、あのおカミは俺もよく知っているんだ。店の常連だったからな。あいつのことを思うと、どうにもお前ぇが放っておけねぇんだよ」
「…………」
「俺の船に来いよ。立派な船乗りにしてやるぜ」
「けっ……くだらねぇ」
 悪態をつくが、瞳はじわりと潤んできていた。
「臭ェ腕だな。風呂入ってんのか」
 そう言って腕から抜け出し、船長に背を向けて涙を拭うと、振り返って言う。
「しょうがねぇから乗ってやる。けど、俺はてめぇを船長だなんて思わねぇからな」
「がははは。本当に威勢のいいガキだ」
「よかったね、ユール」
 レナが歩み寄って言うと、ユールはああ、と口を開いて。
「ありがとうな、レナ、励ましてくれて」
「そんな、私はなにも……」
「じゃ、旅、頑張ってな」
 先に歩き出した船長の後を追うユール。その姿が船の影に隠れて見えなくなるまで、レナは一心に眺めていた。


 ──その夜。
「……ユールは、バーソロミュー船長に引き取られたようです」
 屋敷の一室。艶々つやつやと輝くなめし革の椅子に腰掛け、事務用の机の上に足を乗せた格好で、ザンドは手下の報告を聞いていた。
「バーソロミュー……あの鯨ジジイか」
 忌々いまいましそうに鼻に皺をつくり、机を蹴飛ばした。大きな机はけたたましい音を立てて倒れ、載っていた書類やら万年筆やらが床に散らばる。
「い、いかが致しましょうか?」
 主人の立腹に肝を冷やしながら、手下のひとりが指示を仰ぐ。
「ユールのそばに、女がいると言ったな」
「はい」
「ならば、そいつを使ってユールを屋敷におびき寄せるんだ」
「か、かしこまりました」
 一礼してすぐに退室しようとした手下を、不意にザンドが呼び止めた。そして、ゆっくりと立ち上がり目の前に立つと、胸倉をつかみ上げて顔を近づけ、魂も凍りつくほどの形相で言った。
「くれぐれも、ヘマするなよ」
「はっ、は、はいぃっ!」
 情けない金切り声で返事をすると、逃げるようにして部屋を出ていく。
 ザンドはふと、足許に親指の先ほどの小さな石が転がっているのに気づいた。翡翠色に鈍く光を放つそれを拾い上げ、眼前に掲げて眺めると、満足そうにニッと笑った。

5 ザンドとユール(後編) ~ハーリー(2)~

 クロードたち一行がハーリーに着いてから三日が経った。ヒルトン行きの船は、今日の午後には出航できるという。
 高台にある道具屋『がめつき堂』で、レナは所狭しと並べられた土産物を熱心に眺めていた。
「どうだい嬢ちゃん、こんなのは」
 頭のてっぺんの少し寂しい店主が手に取って見せたのは、焦茶色の小さな人形。寄せ木ではなく、一本の木から造られているらしいそれは、目も鼻も口も髪もない頭と、申し訳程度に突き出た両手両足がくっついている胴体のみの、至極単純な造りをしていた。
「なに、それ?」
「リバースドールってんだ」
 店主が饒舌じょうぜつに説明を始めた。
「この中には復活の紋章が刻まれた札が封じ込められていてな、化物どもにやられちまっても、これを持っていればたちどころに復活できるという、すげぇお守りなんだぜ」
「へぇ」
「ただし、そのときにこいつも一緒に砕け散っちまうのが難点だけどな。それでも便利なアイテムに代わりはないぜ。どうだい、今ならなんと二千フォルで譲っちゃうよ!」
「うーん。でも、いいわ」
「どうして!? こんな珍しいアイテム、よそじゃ手に入らないよ」
「可愛くないもの」
「あ、そう……」
 店主が気の抜けたような返事をしたとき、店の入口の扉が開いた。入ってきたのは。
「ユール」
「よう、レナか」
 ユールは意外そうにレナを見て言う。
「まだこの街にいたんだな」
「今日の昼には出るわ。……ところで、あなたの方はどうなの」
「ああ、おかげさまでちゃんとやってるよ。まだ見習いだけどな」
 レナの横に立って、店の品物を選別しながら。
「心配しなくても、もう喧嘩は卒業したよ。おやっさんにも止められてる」
「おやっさん?」
「バルトの爺さんのことだよ。船長って呼ぶ気がないならこう呼べって」
「へぇ、おやっさんねぇ」
 レナはユールの顔を見て含み笑いを浮かべた。
「何がおかしいんだよ」
「案外、船長さんもあなたのこと、子供みたいに思っているのかもね」
「はぁ?」
「あなたもそうなんじゃないの。船長さんのことをお父さんみたいに……」
「けっ、よしてくれ。けったくそ悪い」
 ユールはそっぽを向いて悪態をつく。
「白鯨だか白熊だか知らねぇけど、あんなうすらでかいジジイを親だなんて思うわけねぇだろ」
「ふーん」
 レナはそう言うと、急に真面目な表情になってユールに近づき、すぐ目の前に立った。
「な、なんだよ」
 じっとこちらを見つめる彼女の視線にユールは少したじろぎ、一歩後ろに下がった。するとレナもすぐに一歩詰め寄る。また一歩下がり、一歩詰め寄る。そうしていくうちに、ついにユールは壁際に追いつめられた。
 レナは、なぜか額に汗しているユールの顔を食い入るように見ていたが、不意に右手を彼の眼前に出して──鼻の頭の剥けかけていた皮を人差し指と親指で、ぴっとつまみ上げた。
 ユールはしばらく呆気にとられていたが、レナが小麦色の皮を地面に落としたところで、目が覚めたように我に返る。
「いきなり何すんだよ!」
「さっきから気になってたのよ」
 レナはそう言うと、彼の横を抜けて扉を開け、その際に一度振り返り。
「じゃあね」
 笑顔を残して、店を出ていった。
 ユールは壁にもたれかかったまま、左手で鼻の頭を押さえる。
「なんだよ……期待させやがって……」
 小麦色の頬は、ほのかに薔薇色を帯びていた。


 人気のほとんどない街の入口で、レナはひとり、クロードたちが来るのを待っていた。太陽はまだそれほど高い位置には昇っていない。昼過ぎにここで集合することを決めたのは彼女自身だ。もう少し店を見て回ってきてもよかったかな、と少し後悔したりもした。
 門の柱に寄りかかり、退屈そうに視線を前に向ける。と、その目に妙なものが映った。
 数人の男たちが、こちらに向かって歩いてきている。レナは眉を顰めた。あれは確か、倉庫でユールに絡んでいた、ザンドの……。
 取り囲むようにして周りに散った男たちを、彼女は鋭く睨めつけて牽制する。
「なによ、あなたたち」
「貴様、ユールの女だな」
 真っ赤なたてがみめいた髪をした男がレナの前に立った。
「そんなんじゃないわ。ユールはただの友達よ」
「お前の気持ちなんかはどうでもいい」
 赤い髪の男は凄いような笑みをつくって言う。
「問題は、ユールがお前をどう想っているか……だ」
「……?」
 怪訝そうに首を傾げるレナ。そのとき。
「──っ!」
 背後に殺気を感じた。慌てて振り返ろうとしたが、一瞬早く後頭部に強い衝撃が走り、前のめりに倒れ込む。
(しまった、油断した──)
 遠のく意識。その中で脳裏を掠めたのは、藍色の髪の少年の姿──。


「……ぅ……ん……」
 彼女は、おもむろに目を開いた。視界には、見知らぬ場所が広がっていた。白い壁の、きれいな部屋。
 右の頬に、ごわごわした感触がある。毛織の絨毯の上で横になっていたらしい。
 すぐに立ち上がろうとして、尻餅をついた。手足が動かない。そこでようやく自分の状態に気づいた。見ると、両手は後ろ手にして縄で縛られており、両足も束ねて足首でぐるぐる巻きに縛ってある。力を込めてみたが、どちらも簡単には外れそうになかった。
 手足が不自由ながらも器用に立ち上がり、飛び跳ねてなんとか部屋の扉まで辿り着いたが、扉はやはり反対側から鍵がかけられているようだ。
(……なんか、前にもこんなコトがあったような……)
 意外なほど冷静にそんなことを考えつつも、とにかく落ち着いて状況を把握しようと、近くにあったベッドに腰掛けて、これまでのことを整理してみる。
 まず、自分はザンドの手下に殴られて、意識を失った。そして、おそらくここに連れ込んだのもあいつらだろう。……なんのために? それにここは一体どこだろう?
 レナは部屋をぐるりと見回してみる。広さはホテルの一個室ほどだろうか。自分が座っているベッド、それに机と椅子、内装の雰囲気などはやはりホテルのそれに似ているが、昨夜までレナたちが泊まっていた『オーシャン・ビュー』はこんな内装ではなかった。さらにこの街には『オーシャン・ビュー』以外にホテルはない。
 ふと、レナは窓の外に目を遣った。平原を突っ切る道の遙か先に、小さな村と森が見える。
 ──マーズの村と紋章の森……!
 このハーリーはマーズよりも標高の低い場所にある。現に、マーズからハーリーに向かう道はずっと緩やかな下りが続いていた。普通ならばこの街からマーズが見渡せるはずはない。見える場所があるならば、ただひとつ。
 高台。それも一番高いところに建っている……。
 そこで確信した。ここはあの、高台から街を見下ろすように建っていた、ザンドの屋敷だ。
 そう考えると自分をここに連れ込んだ理由も見えてきた。「問題は、ユールがお前をどう想っているか」あの男はそう言った。つまり、自分を囮にしてユールをおびき出そうというのだろう。
(……大変だわ、ユールが危ない)
 なんとかここから、と気は焦ったが、まずはこの縄を解かないことにはどうにもならない。
 ふと思い出して、レナは自分の腰を見た。そこにはセリーヌから貰った短剣が差したままになっていた。奴等は気づかなかったのか、それともただの玩具おもちゃだと思ったのか。ともかく活路を見出せたことに彼女は知らずと笑みが零れた。
 ベッドから立ち上がり、飛び跳ねて机の前まで行くと、机の角に短剣のつばをひっかけ、そのまま擦りつけるようにして少しずつ剣を鞘から抜いていき、終いに柄を口でくわえて完全に抜ききった。
 銜えた抜き身の短剣を床に落とすと、床に座って背中越しになんとか拾い上げる。左手で柄を握り、鍔からごく近い部分の刃で右手首の縄を削るように切っていく。縄は手首の肉に食い込んでおり、断ち切るためには自らの手をも傷つけずには為されなかった。痛みをこらえて歯を食いしばり、自分の手がどうなっているのか全く見えない中で、思わず力を緩めてしまいそうな左手を固く握り直し、冷たき刃を手首に擦りつけていく。
 そして、ついに縄は断ち切られた。
 すぐさま自由になった右手を前に出して見てみたレナは、一瞬顔をしかめる。手首から流れ出た血の跡は指先まで達して、手の甲を深紅に染め上げていた。後ろを振り返ると、灰色の絨毯に紅い染みがいくつもついている。思いのほか出血はひどかったようだ。
 レナは自分の手に回復呪紋ヒールをかけた後、足の縄も剣で切ってやると、扉の前に向かった。
(あとはこの扉ね……)
 取っ手をつかんで回してみる。やはり開かない、が、取っ手と扉の板との接合部分はかなり弱くなっているらしく、少し揺すると取っ手だけがぐらついた。もしかしたら、と力の限り取っ手を引っ張ってみたが、さすがにそう簡単には壊れないようだ。
(こうなったら……)
 レナは扉から少し離れて、しばしの間瞑目し、大きく深呼吸して心を落ち着かせる。そしてカッと眼を見開くと。
「でやあぁぁっ!」
 勇ましい掛け声とともに扉に体当たりした! どしんと肩からぶつかると、板の砕ける音とともに取っ手が弾け飛び、扉は勢いよく外側に開け放たれた。
「よしっ!」
 レナはすぐに部屋を出て廊下を駆け出す。そして、ふと思った。
(こんなところ、クロードには見せられないわね……)

 屋敷の一室で、ユールは冷笑を浮かべるザンドと睨み合っていた。ふたりを取り巻くように、ザンドの手下どもも部屋の周囲で見守っている。
「……レナはどこだ」
 押し殺した声でユールが言った。
「それを知ってどうするんだ」
 さげすむような、哀れむような視線で、ザンド。
「あいつは俺とは関係ないんだ。放してやれよ」
「ならば、どうしてお前はここに来たんだ?」
 悪魔的な微笑のまま、ザンドが言い放つ。
「関係ないなら見捨ててしまえば済むことだろう。なのに危険を冒してまでここに来たのは何故だ?」
「そっ、ンなことはどうでもいいだろ。早くレナを出せ!」
 声を荒げるユールに、ザンドは眉をそびやかして。
「まったく、礼儀というものを知らぬ奴だな」
「なんだと」
「人にものを頼むにしては、頭が高すぎやしないか?」
 右足の踵で自分の前の床を叩きながら、ザンドが言う。
「我が前にひれ伏せ。そして平身低頭こいねがうのだ。そうすれば聞いてやらんでもないぞ」
 ユールは歯軋りして、拳を震わせた。今にもザンドにつかみかからんとする心を必死に抑えて。殴れない。殴ってはいけない。手を出したら、俺は……。
「ほら、どうした。女を助けるんじゃなかったのか。だったら床に這いつくばって頼み込め」
 ユールは目を閉じた。暗闇の中には、青い髪の少女がいた。
 落ち込んでいた自分の話を真剣に聞いて、励ましてくれたレナ。
 俺が船長に引き取られることになったときも、自分のことのように喜んでくれた。
 ──じゃあね。
 道具屋で別れたときの明るい笑顔が、すぐ目の前にまで近づいた少女の顔が──。
 身体じゅうの力が抜けていくのをユールは感じた。そしてがくりと膝を地面につけ、両手をついて項垂れて、憔悴しょうすいしきったように言った。
「頼む……レナを、放してやってくれ……」
「まだ頭が高い」
 ザンドは白い革靴の底でユールの頭を踏みつけた。額が絨毯の床にめり込む。ザンドが足を退けても、ユールはなおも地面に頭をつけたまま、じっと堪えていた。
「ふふふ……いいぞ、最初からそうやって大人しくしていればいいんだ」
 ザンドはさも満足そうにユールを見下して。
「案ずるな。あの女は私がめとってやろう」
 ユールの双眸が大きく見開いた。ザンドはさらに続ける。
「まだガキだが、ややもすればいい女になるだろう。お前は何も心配することはない」
「……汚ェぞ……」
 痙攣するように全身を震わせて、ユールが言った。
「ザン……っ!」
 おもてを上げて叫びかけたところを、ザンドに顎を蹴り上げられて吹き飛んだ。手下の何人かが倒れ込んだユールを無理やり立たせて、主人の前に突きだす。
「お前はほんとうに目障りな奴だったよ……だが、すぐに消してしまってはこちらの気が収まらない。それに、あの女に言うことを聞かせるには、お前の存在が必要だからな」
 ユールは焦点の定まらない視線をどうにかザンドの顔に留めた。ザンドは続けて。
「どういうことかわかるか? お前は女のために、この俺に頭まで下げた。おそらくあの女も同様だろう。お前を殺すと脅しをかければ何だって言うことを聞く。いわば、互いに互いをかせにして生きていくようなものだな」
「んにゃろ……!」
 哄笑するザンドの前で、ユールはつかまれた腕を振り解こうと藻掻く。それを見かねた手下のひとりが拳でユールの腹を突いた。それでもまだ気は失わずに、霞む眼で憎々しげにザンドを睨みつける。
「なかなかにしぶといな。二度とその反抗的な目ができぬように、痛めつけてやるか」
「やめなさいっ!」
 部屋の入口で誰かが叫んだ。その場にいた者すべての視線を一身に浴びて、レナが立っていた。
「この女、どうやって逃げ出した!?」
 近くにいた手下の何人かがレナを捕らえようと駆け寄るが、レナはまだ血の跡が残る右手を天に掲げて、唱えた。
「光よ!」
 掌の上から瞬時にして数本の光線が放たれ、絨毯を焦がして床に突き刺さった。セリーヌに教わったばかりの光線呪紋レイは、彼女がクロス洞穴で見せたような凄まじい威力には程遠かったが、手下どもを威嚇するには充分だった。
「邪魔すると、怪我するわよ」
 かろうじて躱した手下どもを一瞥してそう言うと、レナはユールの許へ歩み寄った。彼女の気迫にユールを抱えていた男たちは思わず手を離して、周囲に逃げるように散っていく。
「大丈夫、ユール?」
 部屋の中央に放り出されたユールを抱き起こして呼びかけると、ユールは半開きの目を彼女に向けて、薄く笑った。
「よぉ、レナか」
「どうして私なんかのために……」
「へっ、勘違いすんな。俺はただ奴との決着がつけたかった、だけだ」
「ははは、よく言うよ。この俺に土下座までしていたくせに」
 嘲笑するザンドをレナは鋭く睨み返し、ゆっくりと立ち上がって向かい合う。
「あなたがザンドね」
「いかにも、麗しき少女よ」
 ザンドは気障きざに礼をした。
「どうしてこんなことを……あなたにユールの人生を邪魔する権利があるっていうの?」
「目障りなんだよ」
 髪を掻き上げ、飄々とした口調で、ザンド。
「この街で俺に楯突くのは、こいつとあの鯨ジジイくらいのものだ。それに手下も何度か可愛がってくれたしな。ただ消すだけでは飽きたらぬ。こいつの人生そのものまでもぶっ潰して、襤褸ぼろ雑巾のようにしてやるまでは気が済まないんだよ」
「……許さない……」
 レナは剣の柄に手をかけ、そして一気に抜き放った。
「あなただけは、絶対に許さないから!」
「おやおや、勇ましいことだ」
 言いながら、ザンドは右手を後方へと伸ばした。すると手下のひとりが壁に掛けてあった三角錐型のランスを持ち出して、その手に渡す。
「じゃじゃ馬は少々しつけをしないと、いうことを聞かないようだな」
 レナが剣を構えると、ザンドも槍を握って前方に突きだす。そうしてすぐに槍を繰り出したが、レナは剣を横に薙いで弾き飛ばし、返し刀で相手の肩から斜めに斬りつけた。寸前でザンドが背後に跳び退いたので、刃は彼の上着を斬り裂いたに過ぎなかったが。
 ばっさりと斜めに裂かれた自分の上着をまじまじと眺めて、ザンドが言う。
「なるほど。先程の呪紋といい、ただの田舎娘ではないようだな」
「いな……!」
 レナは柄を握りしめる腕にさらに力を込めた。
「言ったわね」
 気がつくと、ザンドの表情が変化している。服を斬られたことがかんに障ったのか、嫌らしい笑顔は消え、冷淡にレナを見つめるその表情は怒りすら感じられる。
 今度はレナが斬りかかった。ザンドが打ち払うように槍を振るうと、彼女は身軽に跳躍して避け、空中で剣を振るう。躯を大きく仰け反らせてそれを躱すと、ザンドは地面に着地したレナにお返しとばかりに槍を繰り出した。レナも素早くそれに反応し、後方に跳び退ずさる。追い討ちをかけるようにザンドは執拗に槍を繰ってレナに襲いかかる。相手が大きく振りかぶった隙をついて、レナはザンドの左足を斬りつけた。体勢の崩れかけたザンドはそれでも、振り上げた槍を叩きつけるように振り下ろしたが、既にその場にはレナの姿はなかった。
 レナはザンドの横にいた。頭に血の上ったザンドはそれを見つけるやいなや、すぐに襲いかかる。レナは再び繰り出された槍を打ち払うと、今度は相手の左腕を斬り、やはりすぐさまその場を離れる。
「この女、戦い慣れてる……?」
 ザンドの呟きに、彼女はニッと笑ってみせた。
 相手が攻撃してくるのを待ち、それを受け流して隙が出たところを反撃して、また退く。この剣法は、実はディアスのものだった。紋章の森でレナはディアスの戦い方を見ていて、力任せに敵に向かって剣を振り回すクロードの剣法(と実際に言えるものなのかどうかは定かでないが)よりも、素早さを生かして敵に隙を作らせるディアスの剣法の方が、自分には向いていると考えたのだ。もちろんそれは畢竟ひっきょう、真似ごとに過ぎない。しかし、今こうしてザンドと互角に渡り合っていることを考えると、レナの剣術もまんざら使えないというわけでもないようだ。そもそも彼女は、素早さに関しては自信がある。
 だが。
 何度か刃を交えた後、レナとザンドは再び部屋の中央で対峙した。レナが苦しそうに息を切らしているのに対し、ザンドは口許をつり上げて冷笑を浮かべた。
「ふっ、どうした。もう終わりか? 俺はまだまだやれるぞ」
 ザンドの言葉にレナは自分を叱咤し、剣をしっかり構え直す。すぐにザンドが槍を繰り出す。もはや払いのける力はない。横っ跳びに躱すが、ザンドもそれを読んでいた。突きだした槍をそのまま横に振るうと、その場所にちょうどレナが飛び込んできた格好になってしまった。槍の柄で横腹を打ちつけ、突き飛ばされる。
 打ち所が悪かったのか、壁際で両膝と両手をついてごほごほと噎せ返るレナの前に、すみやかに槍が突きつけられる。
「いい加減に飽きたな。そろそろ宴も終わりにしよう」
 感情の伴わない声で、ザンドが言った。
「……ンの野郎ッ!!」
 突然、部屋の隅にいたユールが立ち上がり、ザンドの背中に駆け出していった。拳を振り上げ、相手の後頭部を殴ろうと勢いづいたそのとき……右手の槍を構えたままザンドが振り返った!
 前方に突き出された槍の先端は、ユールの腹をいともあっさり貫いた。
「丸腰で飛び込んでくるとは……莫迦ばかか、お前は」
「ち……くしょう……」
 ザンドが槍を抜くと、ユールは口から血を吐いて、前のめりに倒れた。
「ユール!」
「おっと、動くな」
 立ち上がろうとしたレナに、ザンドは再び槍を突きつける。
「心配しなくても、すぐに後を追わせてやる」
 そう言うと、ザンドは左手をうずくまる彼女の上にかざして、唱えた。
「ディープフリーズ」
 レナの身体を強烈な冷気が包み込んだ。急激に体温が下がり、手足が痺れてくる。
「な、に、こ……れ?」
 あまりの寒さに呂律が回らない。衣服は凍りつき、髪は霜がびっしりとこびりついて老人のように白くなった。まぶたが重くなり、手足の感覚はいよいよなくなってくる。
「うら若き女性を刺し殺すほど俺は悪趣味ではないのでな。そのまま眠りにつくがいい。美しき少女の姿のまま、永遠とわの眠りへと……」
 ザンドの声が遙か彼方から聞こえた。眠ってはいけない。頭ではわかっていても、もはや身体は彼女の思い通りには動かない。瞼がゆっくりと閉じられていく。腕の力が抜け、床に横たわる。
〈こんなところで、死んでしまうの?〉
 誰かの声が聞こえたような気がした。いや、今のは自分の声?
〈起きなさいっ! 目を開けて、横を見るのよ〉
 まただ。自分が自分に話しかけている? ともかく今の声で少しは意識が戻った。声の言うとおり、微かに目を開け、動かない首をなんとか動かして、横を見てみる。
 そこには仰向けに倒れたユールがいた。腹から大量の血を流して、もはや生きては……いや、今、わずかに身体が動かなかったか?
 ……まだ、生きている?
〈そうよ、ユールはまだ生きているわ〉
 別の自分が再び語りかけてきた。
〈そして、彼を救えるのはあなただけ。あの傷はあなたにしか癒せないわ〉
 嘘よ。私はあんなに深い傷は、治せない。
〈そうかしら? 試してごらんなさいよ〉
 ……試す?
〈こころを落ち着かせて、頭の中をゆっくりと光で満たしていくの。焦らずに、ゆっくり、ゆっくりと……そう。それから、頭の中が光でいっぱいになったら、こう唱えて〉
 ……キュアライト……。
 彼女が心の中でそう念じた瞬間、暖かな光が彼女の身体に降り注いだ。手足に感覚が戻り、髪についた霜は溶けてかき消え、意識も完全に取り戻した。
「……けない」
 そう呟いたのを聞きとめて、背中を向けていたザンドは目を丸くして背後を振り返る。
「なに?」
「負けない……あなたなんかに、絶対負けないから!」
 跳びはねるようにして素早く立ち上がり、右手の剣を握り直してザンドの許に駆け出していった。虚をつかれたザンドは慌てて槍を突き出すが、レナが力強く剣で打ち払うと槍は手からすっぽ抜けて部屋の中央に転がった。
 レナはそのままザンドの胸に体当たりするように突っ込んで、壁際まで追いつめる。そして剣を両手で持って大きく振りかざすと、ザンドの胸……ではなく、脇腹と右腕の間の壁に、彼のマントを留めるようなかたちで突き刺した。
 剣から手を放して彼との距離をおくと、レナは右手を突き出して呪紋を唱え始めた。
「なっ、何をする気だ!」
 ザンドはその場から逃げようとするが、マントが壁に固定されていて身動きがとれない。マントごと脱ぎ捨てようと胸元の留め具に手をかけたときには、すでにレナは詠唱を終えていた。
「グラビティプレス!」
 ザンドの頭上に煙のような暗雲が生じ、そこから巨大な鉄の塊が雨霰と降り出してきた。マントを外して自由になったザンドは右へ左へ駆けずり回ってなんとかそれを躱していく。鉄塊は振動音をたてて地面に落ちるとすぐにかき消えた。ようやく鉄塊の雨が止み、ぜぃぜぃと息を切らして立ち止まったそのとき、忘れていたかのように特大の一個が頭上にぱっと出現し、落下した。
 ガンッ。
 ザンドはそれを脳天で受け止めた。鉄塊が消えてからも、しばらく何事もなかったかのように屹立していたが、程なくして白目をむいて倒れる。
「ひぇっ、ざ、ザンド様が!」
 周囲にいた手下どもは、こちらを睨むレナの視線に気づくと震え上がり、我先にと入口に殺到して逃げ出していった。
「ユール、ユール!」
「う……」
 レナが呼びかけると、ユールは表情を歪めてそれに応じた。よかった、まだ生きている。
 レナはうつろになっている腹に手を翳して、先程と同じようにキュアライトと唱えた。掌から放たれた光はユールの身体に触れるといっそう輝きを増し、それが消えた頃にはもう傷は完全に塞がっていた。
 すぐに起きあがろうとするユールを、レナが制する。
「傷は治ったけど、出ていった血までは戻らないの。もうしばらく横になってた方がいいわ」
 ユールは何か言おうとしたが、諦めてレナの言うとおり横になった。そして部屋の隅でうつぶせになって倒れているザンドを見て。
「おい……奴は……」
「気絶しているだけだと思うわ。そのうち目を覚ますでしょ」
 レナが言うと、ユールは軽く笑いながら、目許に手を当てて。
「ったく。なんだよ、レナったら無茶苦茶強いじゃねェか……。これなら俺が助けに来なくてもよかったな」
「それだけ減らず口が叩ければ、もう大丈夫ね」
 わざと突っ放してそう言い、立ち上がった。そのとき、廊下から間の抜けた悲鳴が聞こえた。
「なにかしら、今の……?」
 レナが入口に視線を移すと、そこからぬっと巨体がくぐるようにして部屋に入ってきた。
「よぉ、無事だったか、ふたりとも」
「船長さん」
 バーソロミュー船長は、仰向けのまま首だけをこちらに向けているユールを見ると、豪快に笑った。
「がはは、こっぴどくやられたようだな」
「うるっせぇよ」
「船長さん、ユールは……」
「わかってるさ」
 レナが慌てて言いかけたところを船長が制して。
「俺は確かに喧嘩をやめろと言った。けどな、もしこいつがそのために助けに行かなかったら、間違いなく俺は船から追い出していただろう。惚れた女ひとり守ろうとしない腰抜けは、海の男には要らねぇ」
「え?」
「ば、バカっ! 余計なこと言うんじゃねぇ!」
「がはは。まだまだ血の気が残っているじゃねぇか。もう少し抜いたらどうだ?」
 ふとレナは先程の悲鳴が気になって、開け放たれた扉から廊下を覗いてみた。そこには逃げ出したザンドの手下どもが折り重なるように倒れていた。どうやら船長の仕業らしい。
「う……ちくしょう……」
 頭をさすりながら、ザンドが起きあがった。そして目の前の巨体を見つけると。
「げっ、鯨ジジイ!」
「おーっ、誰がジジイだって?」
 戦慄するザンドを船長は猫でも扱うかのように首根っこをつかんで、自分の目の前に突き出した。
「こうして会うのは三年ぶりになるかぁ、ん?」
「そそそ、そうですね、おかげさまでっ」
 ザンドの顔は青ざめ、声はどもり、引きつった笑いを浮かべている。
「俺んところの船乗りが世話になったらしいな」
「ひっ、す、すみません! もう手出しはしませんからっ!」
「おー、そうかい。そーいう心意気ならもう何も言うねぇ。その言葉忘れんなよ」
 船長が手を放すとザンドは尻餅をついて、腰を抜かしたのか、そのままずるずると床を引きずるようにして後退りしていく。
 ザンドのあまりの変容ぶりに、レナとユールは互いに目を見合わせて、首を傾げた。
 三年前、船長とザンドの間でいったい何があったのだろう?
「嬢ちゃん」
 船長がレナに話しかけた。
「お仲間が船着き場の方で待ってるぜ。早く行ってやりな」
「あっ、いけない!」
 レナはすぐに走り出そうとしたが、不意に立ち止まり、ユールの方を振り返る。
「ユール……」
 目を伏せて、それからユールに視線をやると、彼は静かにこちらを見つめていた。
「……レナ」
 重たげな口を開いて、彼は一言だけ、言った。
「ありがと、な」
 潤みかけた瞳を誤魔化して、レナはにっこり笑って応えると、思いきるようにさっと振り返って駆けだし、部屋を出ていった。
「……行っちまったぜ」
 腰を屈めて、船長がユールに言う。
「いいのか、これで?」
「へっ、俺に何ができるって言うんだよ」
 ユールは上半身を起こすと、額に手を載せて苦笑した。
「それにな……あいつは、俺なんかには勿体もったいねぇんだよ」


 船が岸から離れた。桟橋が、港が、ハーリーの街並みが、どんどん遠ざかっていく。陽に照らされて眩いほど真っ白に輝く帆は、穏やかな潮風を受けてピンと張りつめる。
 レナは甲板の船縁に立って、離れゆく街を眺めていた。正面からの風が彼女の青い髪をさらい、涼しげに靡かせる。
 さようなら、ユール。彼女は心の中でそう言った。
 いつかまた、会えるといいね。……ううん、きっと会いに行く。この旅が終わったら、必ず。
「あら。ねぇ、レナ」
 声がして振り返ると、セリーヌが不思議そうにこちらを向いていた。
「その指輪、どうしましたの?」
「ああ、これですか」
 レナは人差し指に填めていた指輪を示して。
「クロードにもらったんです」
「クロード? ……あら、ひょっとして」
 セリーヌはしばらく指輪を見つめていたが、不意にニヤリと意味深な笑いを浮かべて言った。
「レナって、誕生日はいつだったかしら?」
「え? 五月十三日ですけど……」
「やっぱりね」
「どういうことです?」
 レナが訊くと、セリーヌは急に小声になって。
「エメラルドって、五月の誕生石なんですのよ」
「ええっ!?」
 レナは指輪を見た。紛れもなく、そこに填め込まれているのはエメラルド。
「でっ、でも、どうしてクロードが私の誕生日を……」
「さぁねぇ。まぁ、あのズボラなクロードがそんな気の利いたことをするとも思えませんし、ただの偶然だとは思いますけどぉ」
 セリーヌははぐらかすようにそれだけ言うと、笑いながら船室へと歩いていった。
 その間、レナは真剣に考え込んでいた。これまで自分の誕生日をクロードに話したことがあったっけ? いや、ないはずだ。なかったと思う。……あれ? そういえば、誰かに話したことがあったような覚えもある。クロードではなかった。確かあれは……。
「……まさか。ちょっと、セリーヌさん!」
 彼女を追って、レナは船室に駆け込んでいった。
 船は風を受けて、大海原を突き進む。次なる大陸、ラクールへと。