■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第五章 探求

1 或る憧憬 ~リンガ~

 彼女は、キャンパスの中に立っていた。目の前に厳然と佇む建物に、瞳を爛々と輝かせて。
 藍鼠あいねずの壁を整飾するように一列に並んだ窓は、中心から外枠へ歪曲しながら三方に伸びる金属の格子が填め込まれている。屋根は目にも鮮やかなはなだ色で、それがあたかも蒼天に溶け込んでいく様にも映った。
 大陸唯一の大学、ラクールアカデミーの校舎を前にして、レナの胸は次第に熱くなっていた。校舎は一見すると古びて色褪せ、輪奐りんかんの美というものには程遠い。ともするとみすぼらしい印象を抱く者も少なくなかったろう。だが彼女にとっては、硝子窓のひび割れも、土壁の黒ずんだ染みも、屋根の縁の欠けたのさえも、この上なく愛おしいものに思えてならなかった。
 クロスから再度ラクールへ渡った一行は、城で報告を済ませると一路、南西のリンガへと向かった。王は未だ魔物側との睨み合いが続く前線基地に滞在したままで、数日は戻らないという。そこでセリーヌの提案により、先にクロス洞穴で見つけた古文書の解読を依頼することになったのだ。このラクールアカデミーが象徴するように、リンガは学者の街として知られている。
 ところが。
「先生は忙しいんです。お引き取りください」
 高名な言語学者だという人物を訪ねて家までやってきたが、この一言を前にしてあっさり追い返されてしまった。
 なんとか言語学者と面会を果たしたい一行は、ひとまず街で情報を集めることにした。もし彼の知人が見つかればそれをつてに接触を、という心算もあった。手分けして捜した方が早いだろうということで、四人はそれぞれ街に散ったのだった。
 そうして、レナはひとり、キャンパスの中に立っていた。行き交う学生たちは、道の真ん中に突っ立って一心に校舎を見つめる少女に面妖な眼差しを投げかけ、あるいは辟易へきえきして首を捻ったり、くすくすと笑いながら囁き合う集団もいたが、当の本人はまるで気づいていない。
 少女は、この建物の中で過ごす自分の姿を幾度となく想い描いてきた。自然の理、社会の成り立ちと仕組み、めくるめく数字のパズル、心躍らせる神話や伝承──その中にはもちろん光の勇者の話もあったが──幼い頃から何でも興味を示しては父や母に教えを請うた少女は、ものを知ること、学ぶことの楽しさを知っていた。そうして、いつしか父親から聞いた大学というものに憧れるようになる。もっといろんなことを知りたい。みんなと一緒にたくさんのことを学びたい。片田舎の村娘には畢竟ひっきょう叶わぬ徒夢あだゆめだと知ったときには、一晩を泣き明かしたものだった。
 自分は今、夢の舞台に立っている。とうの昔に諦め、忘れ果てたはずの。その思いが、彼女の胸を熱くしていた。
「ちょいと、そこの学生さん」
 横から呼びかける声がして、ようやく我に返った。
「え」
「学生さんでしょ?」
 レナに親しげに声をかけてきたのは、大きな鞄を肩に提げた商人風の男。筒型の帽子からはみ出た焦茶の髪はぼさぼさで、耳の下から顎までを覆う頬髯がいかにも怪しい。
「いい本があるんだけど買わない? 生物学に薬草学、精神学から文法論まで何でも揃ってるよ。これを読めば次の試験はバッチリ!」
「あ、いや、その……すみません」
 きまりが悪くなって、レナは商人の横を通り抜けてその場を離れた。
 向かった先には、大学の付属図書館があった。

 扉を開けると、目の前に窈然ようぜんとした空間が広がった。古木の梁を幾重にも渡した天井は見上げると身体がそり返るほど高く、反対側の壁も霞んで判別できない。明かりは奥の壁のステンドグラスから射し込む光のみで、広大な建物の光源としては不足していた。天井には城のものと見紛うほどのシャンデリアが釣り下がっていたが、最後に灯がともされたのはいつだったのやら、カットグラスの間には埃を被って太くなった蜘蛛の糸が垂れ下がっていた。
 レナが目を見張ったのは、壁という壁を埋めつくした浩瀚こうかんの書物。居丈高に並べられた棚は遙か天井を突き破らんとするほど。傍らにはこれまた長い梯子が立てかけてあり、高い段の書物はそれを登って取りに行くらしいが、足場の摩耗して痩せている様がいかにも心許なく、たとえ用があっても自分は登るまいと思った。
 机の上に高々と資料を積み上げた横で羽根ペンを走らせている黒縁眼鏡の研究生やら、目に隈をつくりながらも書物とにらめっこしてはぶつぶつと呟いている学生やらを、物珍しげに歩きながら見ていたレナだったが、ふと近くの書棚の前で立ち止まった。
 棚にはまだ真新しい装丁のものから黄ばんで色の抜け落ちたもの、中には厚手の表紙がまるごと消失したらしく、代わりに薄っぺらな紙を貼りつけて背表紙に書名を殴り書きしたものまでが雑然と並べられていた。手書きの題名タイトルは汚い字で読みづらかったが、「チクリー・ヤガッタ・ダーレガ著『種の根源』」と、かろうじて判読できた。
 背表紙に書かれた題名を順に目で追っていくレナ。そこに並んでいる本の大部分が、自分にはとうてい理解できる内容でないことはわかっていた。だが彼女は、こうして小難しい本の前で何かを探すという行為そのものを楽しんでいたのだ。かつて思い描いていた自分の姿を、そこに重ね合わせて。
 視線を下から上の段へ移すと、一冊の本の題名が目に留まった。
『希少動物の生態と習性3 バーニィ編』
 知っている言葉が出てきて思わずその本に手を伸ばしたが、棚が高すぎて届かなかった。ここまでして諦めるのもなんだか悔しかったので、爪先立ちして精一杯腕を伸ばしたが、本の置いてある底板に触れるのがやっとだった。
 そのとき、レナの背後から別の手が伸びて、目当ての本を取りだした。振り返ると、眼前に男の顔があった。
「この本でよかったのかな?」
 男は微かに笑みを浮かべながら本をレナに手渡す。レナは受け取ったあともしばらく呆気にとられていたが。
「あっ、はい……ありがとうございました」
 慌てて言うと、恥ずかしさに俯いてしまった。むきになって本を取ろうとしていたのを見られていたのだろう。
 男はそんな彼女に構いもせずに、訊ねる。
「君、見かけない顔だね。一年生かい?」
「あの、違うんです、私……」
「ここの学生じゃないの?」
 レナは地面を見つめたまま頷くと、しどろもどろに話し始めた。
「その、私はアーリアから旅をしてきて……大学に入るの、夢だったんです。もっともっとたくさんのことを勉強できたらいいなって、ずっと思ってたんです。今考えたら、ばかな夢ですけど……でも、ここに来たら、やっぱり昔の気持ちに戻っちゃって……」
「ふ……ん。大学が夢、ねぇ……」
 男は何と無しにレナを見たままおどけるように口をすぼめていたが、不意にニッと笑って本を彼女から素早く取り上げると、元の書棚へと戻した。
「あ、あの……」
「本なんて後でいくらでも読めるよ、お嬢さん……おっと失礼」
 急に格式張って、右手でレナの手を持ち上げると気障な口調で言う。
「挨拶が遅れた非礼をお詫びいたします。それがしはこの街のけちな薬屋ボーマン・ジーンと申すものでございます。この度はこのような見目麗しきご令嬢にお会いでき、まことに光栄感佩かんぱいこの上なく」
「……え?」
 狐につままれたような表情で見つめ返すレナに、男はがくりと肩を落として。
「やっぱり似合わねぇか。似合わねぇよなぁ……」
 手を下ろし、嘆息混じりに振り返って歩き出す。そのまま立ち去るのかと思いきや、不意に振り返ると、口許をつり上げて彼女にこう言った。
「ついて来な。大学を案内してやるよ」

 ボーマン・ジーンは一見すると風采の上がらない生男きおとこであった。
 褐色の短めの髪は寝癖で後頭部の左側の部分だけが乱れて逆立っていたし、深緑色のチョッキの下に着込んだ白いシャツは襟元を留めるボタンが外れており、ネクタイもだらしなく緩められて垂れ下がっていた。よれよれの白衣を靡かせて歩いていく彼に、通りかかった学生が「先生」と呼ぶのを聞いたときには、レナは思わず目を丸くして彼を見た。
「一応、ここの講師もやってるんだ。非常勤だけどな」
 彼女の表情に気づいて、ボーマンが説明した。それ以降、レナの彼を見る目が一転して敬慕の眼差しになったのは、素直というべきか単純というべきか。
 大学の廊下をふたりで並んで歩いた。長衣に身を包んだ学生が通りかかるたびにレナは気恥ずかしくなって、いちいち下を向いて通り過ぎるのを待っていた。
「ちょっと待ってな」
 とある教室の扉の前で立ち止まったボーマンが、扉を開けて中を覗き込む。そしてすぐに首を引っ込めると、レナに向けて手を振った。中に入れという合図らしい。
「え、でも……」
「静かにしてりゃ誰もなんも言やしないから、大丈夫だよ」
 そう言って、ボーマンはさっさと教室へ入ってしまう。仕方なくレナも畏まりつつ足を踏み入れる。
「……従って、錬金術の窮極の目的は金を創出せしめることではなく、賢者の石を得ることにある」
 教壇に立った教授の声が飛び込んできた。ずらりと並んだ長椅子の所々には講義を受ける学生の姿があったが、思っていたよりも人数は多くない。
 ボーマンとレナは一番後ろの席に座った。周囲を気にしながら腰を下ろすと椅子が軋んでいささか取り乱してしまったが、しばらく前を向いて静かにしていると、気分も落ち着いてきた。
「……では次に、賢者の石の具体的な作成方法について……」
「錬金術ですか?」
 レナが小声でボーマンに訊いた。
「そうだよ。詳しいのかい?」
「いえ、ちょっと話に聞いただけで……」
 また俯きかけてしまうレナを、ボーマンは無雑作に頭を掻きながら見ていた。
「……これの代表的なものが硫黄‐水銀理論であり、対立する二種の物質、いわゆる哲学的硫黄と哲学的水銀、それにこの両者の間に塩と呼ばれる中間物質が存在するという見解があるが、これは無視しても差し支えないだろう。すなわち……」
「あのう、全然わからないんですが……」
「だろうな。俺も全然わからねぇ」
 腕を組んだままあっさりと言い放った。
「でも、なんとなく雰囲気はつかめるだろ。大学で講義を受けるってことの、さ」
「はい」
「幻滅した?」
「いえ、やっぱりいいなって思いました」
 怪訝そうに眉をそびやかすボーマン。レナは目を細めて前方に向けた。
「うらやましいです。こんな難しい話もちゃんと聞き取って、理解できるひとたちが。私もこんなふうになれたらいいなって、思ったんです」
「……硫黄と水銀は現存する物質とは異なり、万物の原理とも言うべき存在である。然らば硫黄は土であり、火であり、男性であるのに対し、水銀は水であり、空気であり、女性ということになる……」
「そいつは、かいかぶりってやつだな」
 少しく間を置いて、ボーマンが口を開いた。
「よく見てみな。居眠りこいたりお喋りしたり、ぼーっと他事を考えているような学生があちこちにいるだろ。ここにいる奴らがみんな講義を聞いて理解しているわけじゃないってことさ。しょせん親のスネかじって大学に来ているような連中だ。純粋に知識を求めているような学生なんて、ほんの一握りのものなんだよ」
「そう……なんですか」
「……まずは、採取した第一原質を錬金炉アタノールへ……」
「それでも、大学へ行きたいと思うかい?」
「はい」
 あっけらかんと応えるレナに拍子抜けしたのか、ボーマンは目をぱちくりさせ、それから机に額をぶつけてくつくつと笑いだした。
「どうしたんですか?」
「ああ、なんでもないよ」
「……黒化ニグレドから白化アルベド、さらに赤化ルベドの過程を経て……」
「なぁ、レナ」
 ようやく笑いが治まり、ボーマンは頭を起こして腕組みをすると、言った。
「夢を叶えてみる気はないか」
「え?」
「学費の足りない分は俺が出す。通えないのだったらウチを下宿にすればいい。大学に入ってみなよ」
「そんな、いきなり……どうしたんですか。会ったばかりなのに……」
「そうさな、一言でいえば、惚れた」
 レナが火のついたように真っ赤になる。ボーマンはそれを可笑しいように眺め入りながら。
「君の可能性を試してみたくなった。俺はパトロンとしちゃ少々頼りないかもしれんが、コネクションだってないわけじゃない。君が本当に行きたいって言うのなら、いくらでも力を貸すよ。とにかく、気に入ったんだ」
「なんだ……惚れたって、そういうことですか」
「がっかりした?」
「安心しましたっ」
「つれないねぇ」
 ボーマンが笑った。
「……以上が、賢者の石の作成法の簡単な説明である。来週はさらに詳しく……」
「講義も終わりだな。そろそろおいとまするか」
「あ、いけない」
 と、レナが突然声をあげた。
「私、言語学者の知り合いを捜しているんだった。どうしよう、もうこんな時間だ……」
「言語学者?」
「ええ、キース・クラスナっていう」
「キースか。あいつに何の用なんだ?」
 レナは驚いてボーマンを見た。
「キースさんを知ってるんですか?」
 ボーマンは表情ひとつ変えずに、わずかに首を傾げた。


 薄暗い店内の棚には、粉や液体の詰まった瓶が雑然と並べられていた。奥の一角には乾燥させた薬草と茸が山ほど積まれている。街の薬屋というよりは、怪しいアイテムを売っている闇の道具屋といった雰囲気だ。
(あの茸、薬に使っているのかしら)
 やたらと毒々しい色を放つ茸を見て、レナは思った。
『ジーン・メディシン・ホーム』──通称ボーマン薬局に、一行は集まっていた。そこには店主ボーマンと、彼の妻ニーネの姿があった。
「……話は大体わかった」
 カウンターの前の椅子に腰掛けて脚を組んだまま、ボーマンが言った。
「では……」
 と、言いかけたセリーヌを制して。
「そう早まるな。まずはその古文書を見せてみろ」
 はぐらかされたセリーヌが、むっとしながらも道具袋から古びた書物を取り出し、カウンターに置いた。
 ボーマンはそれを手にとり、ぱらぱらとページをめくってみる。
「ふ~ん……なるほどねぇ」
「まさか、読めるんですの!?」
 気色けしきばんでカウンターに身を乗り出したセリーヌだったが。
「いーや、さっぱり読めねぇ」
 あからさまな返事にあえなく突っ伏した。
「まあ、いつもだったらすんなり紹介してやってもいいんだが……。あいにく奴は現在、国から押しつけられた研究とやらで、ひじょーに機嫌が悪い。そんなときにろくでもない依頼をしてあいつを怒らせたりしたら、俺もタダじゃ済みそうにないからな」
「わたくしたちを疑っているんですの?」
「そんなことはねぇよ。あんたがたはともかく、レナが言うんだから、たぶん本当のことなんだろう」
「なんであたしたちはともかく、なのよ」
 オペラが隣のクロードにだけ聞こえるように愚痴った。
「だが、証拠がほしい。これが本物だっていう、確実な証拠がな。……そこで」
 ボーマンが足許から何かを持ち上げて、カウンターの上にドサリと置いた。
 それは一冊の分厚い本だった。表紙に『薬草大全』とある。
「これを持って、リンガの聖地へ行くんだ」
 ボーマンが言った。
「そして、その本にない薬草を見つけてこい。そうしたらキースに会わせてやるよ」
「ちょっと待ちなさいな。薬草を見つけることがどうして証拠になるんですの?」
「クロス洞穴の奥地へ入ったのなら、あの聖地だって踏破できるはずだ。正しく言うなら、この古文書が本当にクロス洞穴から取ってきた証拠、ということになるがな」
「リンガの聖地とは?」
 クロードが訊いた。
「この街を出てすぐ東にある、薬剤師御用達の洞窟だ。あそこの鉱物が含む成分が様々な効用を持つ薬草を育てるんだ。ただ、奥地には昔っから凶暴な魔物が棲みついているから、まだ誰も最深部まで到達したことがない」
「そんな危険なところへ行けっていうの?」
「なにも一番奥まで行ってこいっていうわけじゃない。ただ、奥地には未発見レベルの薬草もあるだろうから、それを採ってくるだけでいいんだよ」
「もし、なかったら?」
「ん~? そのときはまた、そのとき考えるさ。ほら、さっさと行った行った」
「ああ、もう、わかりましたわよ! 行けばいいんでしょ!」
 ついにセリーヌが腹に据えかねて声を荒げた。カウンターの本を両手で抱えて扉へと歩き出したが、予想以上に重かったらしく、クロードの前を通ったときに抱えていたものを無理矢理彼に押しつける。そうして振り返って、突き刺すように人差し指をボーマンに向ける。
「見てらっしゃい。その目ん玉をひんむかせて、ひっくり返るようなものを持ってきてみせますわ」
「楽しみにしてるよ」
 ニヤニヤと笑うボーマンの言葉を背に受けて、セリーヌは店を颯爽と出ていった。
「仕方ないわね……」
 オペラが大儀そうに額に手をやりながら店を出る。レナも後に続いて扉へ向かった。それを見たボーマンが。
「レナも行くのか?」
「当たり前ですよ。仲間なんだから」
「そっか……そうだよな。……おい、そこの兄ちゃん」
 彼はクロードを呼んだ。
「レナを危険な目に遭わせたら、この俺が承知しねぇぞぉ」
「わかってますよ」
 ふざけた口調のボーマンにむっとした表情で応じると、クロードは身を翻して扉の向こうへと消えていく。
 店には、ボーマンとニーネのみが残された。
「あの女の子のこと、ずいぶん気にかけてらっしゃるのね」
 誰もいない扉を見つめながら含み笑いを浮かべる夫に、ニーネが訊いてきた。
「お、なんのことだ?」
 そうとぼけると、立ち上がって大きく伸びをする。
「私たちが出会ったのも、ちょうどあのくらいの年頃でしたね」
「それがどうしたってんだよ。なーんも関係ねぇよ」
 背中をぼりぼり掻きながら、逃げるように階段を上っていくボーマン。その姿を見てニーネが微笑む。彼女のしなやかな青い髪が、そっと揺れた。

2 想う ~リンガの聖地~

 前方からブラックハウンドが紅き弾丸となって飛びかかってきた。オペラはおもりのついた銃の先端で襲いかかる猛獣を殴りつけ突き飛ばす。そのうちに巨大な卵のような体形をしたキラーラビが、身軽に跳びはねてこちらへにじり寄ってくる。狙いを定めて銃を構えるオペラ。第三の目が大きく見開かれる。
「フレイムランチャー!」
 勢いよく放たれたほのおの帯はごうと音を立てて、起き上がろうとするブラックハウンドもろとも魔物どもを焼きつくした。
 残り火を上げる黒焦げの骸を眺めやると、大きく息をつく。そうして、背後を振り返った。
「ねえ、まだ見つからないの?」
 オペラの視線の先では、クロードとレナとセリーヌが道の脇にしゃがみ込んで分厚い薬草書を広げ、足許の草と照らし合わせている。
「これはどう?」
「ん? ああ、これはさっき調べた」
「『リンガウコギ』ウコギ科の一年草。葉は3~5片の掌状複葉。若葉は食用。根は薬用で、潰瘍や皮膚病の他、肥満にも効用がある。……へぇ」
「セリーヌさん、感心してないで他のも調べてくださいよ」
「これは? かなり珍しいと思うけど」
「うーん……あ、駄目だ。『シャドウフラウア』ここに載ってる」
 オペラは重ねて深々と吐息を洩らした。
 洞窟の内部は入り口からは想像もつかないほど広大で、奥へ進むに従ってさらに広まっていくように思えた。この風穴は完全に密閉されているわけではなく、天井や壁に積み重なる岩の隙間からは、陽の光が薄衣の幕のように射し込んでいた。このわずかな明かりを頼りにして、植物たちは細々と生きながらえているのだ。
 リンガの聖地は薬草のみならず、鉱物の宝庫でもあった。岩に含まれる多量の鉱石が洞内をさまざまな色彩で充たして、ある種神秘的な空間を作りあげていた。
 入口付近で目につくのは石灰岩で、その成分である方解石が鉄を多く含んでいるため、黄色がかった褐色をしていた。地面にまで伸びて天然の柱となった鍾乳石の間を通り抜けると、やがて鮮やかな緑色が目立つようになる。道端や壁にはぎっしりと緑鉛鉱の結晶が浮き出ていた。一部の壁にはくすんだ緋色の岩も見られたが、これは鉛が熱によって変質したものであった。さらに進むと再び鍾乳石の柱が現れ、道から少し外れた場所にはまた緑色が──しかしこれは鉱物ではなく、床一面に群生する叢草むらくさだった。丈は低く、遠目からは岩にこびりついた苔のようにも見えた。
 彼らはその場で薬草を片っ端から調べ上げているのだが、作業は遅々としてろくにはかどっていない。そもそも薬草にはまったくの素人四人組である。それらしい草を採ってきては薬草書の図と照らし合わせて、見つかればまた別の草を捜す。植物の系統や種類など判別できるはずもなく、ただひたすら図を頼りに調べていくより他ないのだ。
 ずぶの素人がいきなり新種を見つけてしまえるほど、世の中は甘くない。彼らはそれを身をもって思い知ることになった。
 結局彼らはその場を諦めて、もう少し奥へと進んでみることにした。鍾乳石の柱が続く道をしばらく歩いていくと、ある所から洞内の様相が一変した。
 急に通路が狭くなり、岩という岩が怪しげな紫色に発色している。彼らの顔や服もすべてが紫に染まり、互いの姿がまるで亡霊のように浮かび上がった。
「どうなってるの、ここ?」
 オペラがしきりに辺りを見回して気味悪がっている。その隣でセリーヌは興味津々に顔を岩に近づけていた。
「この色は……青金石ラピス‐ラズリではなさそうですわね。……ひょっとして、ガーネット?」
「ガーネットって宝石の、ですか?」
 レナが首を傾げた。
「お店で見たのは確か、赤色だったような……」
「宝石として出回っているのは赤ですけど、本当はいろんな色があるんですのよ。素晴らしいわ、こんなに綺麗な色のガーネットがあったなんて」
「ねぇみんな、向こうに」
 クロードが前方を指さした。
 先にはちょっとした部屋のような空間があり、道はそこで途切れていた。天井の岩盤には大きく亀裂が走り、そこから眩いばかりの光が射し込んでいる。その光を受けて、地面には多くの植物が自生していた。よく映える藍色の花が一面に咲き乱れる光景は、さながら藍と緑の絨毯であった。
「ここが、洞窟の一番奥なのかしら」
「そうみたいですわね」
 四人は絨毯の上に立った。
「全部同じ種類なのね、ここの草」
 レナが周囲を一望して言った。
「手間が省けて助かるよ」
 クロードはその場に座り込むと、薬草書を広げて照合を始める。
 そのとき、クロードの背後の岩陰から何かしらの物体がもぞもぞとうごめいて、彼に近づいていた。本人はおろか他の三人も、花を眺めたり横から本を覗いたりしていて気づかない。
 レナがふと草から目を逸らしてクロードの方を向いたときには、既に赤茶色の物体は彼の背中で大きく膨れ上がっていた。
「クロード!」
 レナが鋭い声で叫んで、ようやくクロードは背後を振り返った。目の前に見上げるばかりの、うつろな穴。それが何かの口であると理解したのは、そのあとだった。
「う……わあぁっ!」
 赤茶の大口は容赦なくクロードの上に覆いかぶさり、そのまま呑み込んでしまった。悲鳴の最後の方はその物体の中でこもって聞こえた。
「あ……」
「どうしたの?」
 その場を離れていたオペラもようやくそれに気づいた。人ひとり分だけ大きくなった物体は、臓物のごとき躯でのろのろと周囲を這いずりまわっている。
「大変、助けなきゃ」
「しょうがないわね……」
 オペラは銃口を物体に向けたが。
「ち、ちょっと待って!」
 レナが慌ててそれを制する。
「中にはクロードがいるんですよ。そんなもので吹き飛ばしちゃまずいですよ」
「なら、わたくしがイラプションで」
「蒸し焼きにする気ですか」
「それじゃあ、どうしようもないじゃない」
 三人は黙り込んでしまった。かの魔物は満腹で機嫌が良いのか、緑の絨毯の上を奔放に動き回っている。
「ああもう、早くしないと消化されちゃいますよ」
「そろそろ溶けかかっているんじゃないの」
「レナの剣で、うまく魔物だけを刺してみるってのは」
「『うまく』って、どうやるんですか」
「外から強い衝撃を与えてやれば、吐き出すんじゃないかしら」
「衝撃?」
「叩くなり蹴飛ばすなりして……でも、わたくしは嫌ですわよ。あんなゲテモノに触るなんて」
「あたしもちょっと遠慮したいわね」
「…………」
 再び沈黙。もはや手段を選んでいる暇はない。
「もうっ!」
 レナが意を決して駆け出していった。魔物の背後に回り込むと、思いきり尾の部分を蹴りつける。魔物は一瞬ビクッと全身を引きらせたが、すぐにまた何事もなかったように動き出す。そこでもう一度、二度と、続けざまに何度も蹴った。さしもの魔物も弱り始め、衝撃にも反応が見られなくなった頃、ようやくその大口から大量の胃液とともにクロードが吐き出された。
 レナは緑の絨毯に転がり込む金髪の若者を認めると、すかさず腰の剣を抜き放って、ひと思いに魔物を突き刺した。魔物は躯をよじらせ激しく痙攣していたが、やがて動かなくなる。
 剣から手を離して、脱力したように足を投げ出して座り込むと、レナはその様子を茫然と眺めていた。それから両手を背後の地面につけて上気した顔で天井を見上げ、苦しそうに息をきらす。
 視線の先では、岩盤の亀裂から射し込む光が眩しく彼女を照らしあげていた。あたかも舞台を演出する照明スポットライトのように。
 そう考えると、なぜだか急に可笑しくなってきた。上を向いて、岩の隙間から臨める青空を見ながら、堪えきれずに笑いだした。
「レナ……?」
 クロードが歩み寄って呼びかけると、レナもやっと気づいて立ち上がる。
「クロード、大丈夫だった?」
「うん、なんとか……まだ頭はクラクラするけど」
 胃液で汚れた上着を脱ぎながら、クロードが言った。そこへセリーヌとオペラもやってきて。
「クロード、お願いですから戻ったら、体洗ってくださいね」
「それにしても、すごい剣幕だったわねぇ、レナ。見直したわ」
 意地悪くそう言うオペラに、レナはしかめっ面をしてみせた。
「へ? なに、どうかしたの?」
 その様子を見ていたクロードが狼狽した。
「なんでもないの。それより、この草を調べなきゃ」
「そういえば、本はどこ?」
「クロードが持っていたんじゃありませんの?」
「いや、だから僕は、そこに置いて……」
 示した先には、例の魔物が横たわっていた。
「もしかして……」
「一緒に呑み込まれちゃった?」
「どうするのよ」
 四人は顔を見合わせて、それからまた魔物の方を向く。さすがにあの腹を割いて本を取り出そうと提言するものは、誰もいなかった。


「おぅ、無事に帰ってきたか」
 扉を開けて中に入ると、カウンターのボーマンが出迎えた。
「で、どうだった、首尾は?」
「あの、それが……」
 言い淀むクロードに、ボーマンは片方の眉をつり上げる。
「駄目だったのか?」
「いえ、薬草は採ってきました。けど……」
「本を、魔物に呑み込まれてしまいましたの。だから、この草が新種かどうかは調べていないんですのよ」
「ほう。まぁいいや、そいつを見せてみな」
 セリーヌは袋から藍色の花をつけた草を取りだして、ボーマンに手渡した。
「へぇ。こりゃクラリセージだな」
「と、いうことは……」
「新種じゃない。でも珍しいな。そう簡単には手に入らねぇぜ」
 言いながら、ボーマンは奥の階段へと歩いていく。
「おい、ニーネ」
 階段の下から妻を呼ぶと、ニーネがゆっくりと下りてきた。
「どうかしましたか」
「ちっと出かけてくるから、店番頼むわ」
「はいはい、行ってらっしゃいな」
「あの……」
 クロードがおずおずと声をかけた。ボーマンはこちらを振り返って。
「俺がキースの家へ行ってやるよ。ほれ、行こうぜ」
「いいんですか? 新種じゃなかったのに」
「別に構わねぇよ。はなから新種なんて期待しちゃいねぇさ。ま、見つかれば儲けモンだったがな」
「だったら最初からそう言いなさいよ」
 オペラが愚痴っぽく呟いた。結局のところ、この男に振り回されただけであった。そう思うと、他の者も徒労を隠せない。疲れがどっと涌いて出てきたようだった。

 黒檜くろべの扉をボーマンは無遠慮に押し開ける。すると床に積み上げてあった本が扉にぶつかり、崩れて周囲に散らばった。
「おい、そこ、散らかすな」
 部屋の奥から鋭い言葉が飛び込んできた。
「散らかすなって、お前、ドアの前に物を置いておくのが悪いんだろ」
「なんだ、ボーマンか」
 男は青白い顔をこちらに向けた。伸び放題の黒髪は掻きむしった後のように乱れ、目の下にはくっきりとくまが浮いていた。
「ここは俺の部屋だ。どこに何を置こうが俺の勝手だ」
「にしてもひどすぎるぜ。たまには部屋の片づけくらいしろよ」
 部屋一面を埋めつくす書物をまたぎながら、ボーマンはどうにか奥へと進んでいく。
「帰れ。お前のくだらん話につきあっている暇はない」
 キース・クラスナは、横に立ったボーマンを無視して再び机に向かった。
「そう言うなよ。お前さんに会いたがっている奴がいるんだ」
 ボーマンはここから急に小声になって。
「可愛い女の子がさ、どーしても会わせろって聞かないから、連れてきたんだよ」
「俺をからかっているのか」
 横目で睨みつけるキースにも構わず、ボーマンは入口の前で立ちつくしている四人を呼んだ。
 全員は入れそうになかったので、代表としてクロードが前に進み出た。キースの刃物のような視線が彼に注がれる。
「男じゃないか」
「後ろに女の子もいるだろ」
「なんでもいい。とっとと用件を言え」
 促されて、クロードは緊張した面持ちで話し始める。
「あの、実はクロス洞穴の最深部で発見した古文書の解読を依頼したいのですが」
「クロス洞穴」
「ええ、見つけたはいいのですけど、さっぱり読めませんのよ」
 クロードの背後からセリーヌが言った。
「言語学の権威たる貴方なら解読できるのではないかと思いまして」
「権威はやめてくれ。柄でもない。で、その古文書は?」
 クロードはセリーヌから古びた本を受け取り、さらにそれをキースに渡した。
 キースは本を開いて、しばらく厳しい表情でそれに目を通していたが。
「……クロス洞穴の奥と言ったな」
「ええ」
「古の一族が一般的に使っていたのは古代ラバヌ紋字だ。これはおそらくその類型だろうが、配置が大きく異なる。弁別素性べんべつそしょうに関してもいくらか違いがありそうだ。……こりゃ面白い。下手すりゃ歴史的発見だぜ」
「解読できそうですの?」
「……少し時間がかかりそうだな。しばらく預からせてくれないか」
「ええ、是非ともお願いしますわ」
「おいキース、国からの研究とやらはいいのかよ」
「ああ、あんなもの適当に結論をつけて送り返しておくさ。どのみちアテははずれだ。あの書物はソーサリーグローブと何の関係もない」
 そう言うキースの顔にはいくらか生気が戻っていた。爛々と輝く瞳でクロードを見返すその表情は、先程までの彼とはまるで別人だった。
「いや、色々すまなかったな。研究が思うようにはかどらなくて気が立っていたんだ。いいもんに出会えた。礼を言うよ」
 そこまで言うと、ボーマンが横から彼の肩をつついた。
「俺にもなんか言うことがあるんじゃないのかな」
「ああ、そうだな」
 と、キースは扉の前の床を指さして。
「散らかした本、ちゃんと元に戻しておけよ」
「……はーい」
 反省するように項垂れるボーマンに、クロードたちは思わず吹き出してしまった。


 窓枠の向こうに見える夜空には、卵のような月が浮かんで皓々こうこうと街を照らしていた。闇は地表に沈んで澱み、家々の輪郭だけが白くぼんやり浮かび上がっている。
 四人はボーマンの好意で彼の家へと招かれた。ニーネの心づくしの手料理が振る舞われ、今は店の二階にある居間でくつろいでいた。
 クロードの横で、レナは眠っている。ソファに頭を半ばうずめ、安らかに寝息を立てて。クロードは横目でチラリとその様子を覗き込んでみる。起きているときには見せることのない、あどけない表情に彼の胸は大きく揺さぶられた。
「こうしていると、やっぱりまだ子供ね」
 机をはさんで反対側に座っていたオペラも、レナの寝顔を見て言った。
「クロード、この子にいろいろ無理させてるんじゃない? なんだかんだ言っても女の子なんだから、大切にしてあげなきゃダメよ」
「……僕には、何もできませんよ」
 机の上の一点を見つめながら、クロードが言う。
「僕の方が助けてもらってばかりで……。レナが傷ついたり、困っていたり、落ち込んだりしていても、僕は何もできなかった。……情けないけど、僕にはどうすることもできない。無力ですよ」
「そんなことはありませんよ」
 振り向くと、ニーネが湯気の立つカップを載せた盆を持ってこちらへ歩いてきた。
「お茶、いかがです?」
「どうぞお構いなく。……あら、いい香り。ハーブティーですわね」
「ええ。薬屋だけにこういうのには欠きませんから」
 ニーネはカップを机に置きながら、クロードに言う。
「レナさんは、決してあなたをそんなふうには思っていないわ。心強く思うこそすれ、無力だなんて」
「どうして、そんなことがわかるんですか」
 決して責めるつもりで言ったわけではなかった。だが、焦りから知らずと苛立ちが口調に表れてしまう。
 ニーネはそんなクロードにも優しく微笑んで、それからレナに視線を移した。
「レナさんの今の顔が、なによりの証拠ですよ。あなたがそばにいるから、彼女も安心して眠ることができる。違いますか?」
 桜の花弁のごときまぶたを閉じて、レナは相変わらず眠っている。
 机の手前に立ったまま、ニーネが続けた。
「ひとはね、ひとりじゃとても弱い存在なの。互いに支えあってこそ、初めてひとは強くなれる。レナさんの強さはあなたの強さでもあるのよ。……じきにわかるときが来るわ。レナさんがあなたを支えているように、あなたも彼女を支えているんだってことが」
「ニーネさんたちも、そうだったんですか?」
 オペラが訊くと、ニーネはくすくすと笑って。
「ええ、そうね。ほら、あのひとってああいう性格でしょ。冗談は言うことがあっても、優しい言葉なんてなにひとつかけてくれない。でも、なんとなくわかるの。この人は私のことを想ってくれているんだなって。照れ屋だから、言葉や行動では表さないけど、想いは痛いほど伝わってきたわ」
「おぅ、ニーネ」
 と、噂のボーマンが階段を上ってやってきた。風呂上がりらしく、首にタオルを巻いている以外は見事に下着一丁だった。
「俺は先に寝るからな。あとは頼むよ」
「あなた、お客さんの前なんだから、なにか着けてくださいな」
「しょうがねぇだろ。別に顔出すつもりはなかったけど、風呂場から寝床へ行くにはここを通らにゃならんのだから。……お、それでは皆の衆、明日からよろしくな」
 そう言うと、さっさと階段を上っていってしまった。
 ボーマンは、先刻の夕食の席でクロードたちがソーサリーグローブを調査していることを知ってから、自分も同行すると言ってきかないのだ。
「ホントについてくる気なのかしら……」
「ニーネさん、いいんですか?」
「そうね、ちょっとは淋しいかな」
 ニーネは今は柔らかな微笑を浮かべている。彼女の表情から笑顔が消えることはほとんどなかった。
「でも、私が好きになったのは、あのひとのなにものにもとらわれない生き方だから。黙って見送ることが、あのひとのためであり、私のためでもあるの」
 そこまで言うと、ニーネは盆を持ってクロードの背後に回り込み、耳許に囁きかける。
「大切にするってことはね、なにも身をていして守ったり、励ましたりすることばかりじゃないの。そのひとのことを想ってみる。それだけでも相手は必ず気づいてくれるわ」
 身じろぎもせず黙ったままのクロードを残して、ニーネは階段を下りていった。
「さて、と、わたくしたちもそろそろ休みませんこと?」
 セリーヌがカップを置いて立ち上がった。
「レナ、風邪ひくわよ」
 オペラはレナの肩を揺すって起こそうとしたが、まったく目覚める気配がない。
「いいよ、僕が背負っていく」
 クロードはレナの身体を抱き起こして背中に担ぐと、階段へと歩いていった。
 セリーヌとオペラは初め、目を丸くしてその様子を眺めていたが、上下に揺れる黄金きんと青の髪がランプの明かりに照らし出される頃には、互いに口許を緩ませて笑っていた。


「あ~た~らし~い~あ~さがっきた♪ き~ぼ~おの~あ~さ~が♪ っと」
 店の前にニーネとレナたちが集まっているところへ、ボーマンがけたたましい歌声とともに二階の扉から出てきた。
「おぅ、諸君。準備はOKかい?」
「ボーマンさん、本当にいいんですか?」
 レナが念を押すように訊いた。
「旅に出たらしばらくは戻ってこられないし、危険な目に遭うかもしれないんですよ」
「そんなことはとっくに承知してるさ。これでも俺は体術には自信あるんだよ。信頼と実績二十七年のボーマン様に任せなさい」
 そこまで言うと、ボーマンはニーネに向き直る。
「すまないな。必ず戻ってくるから」
「あら、なにを謝っているの。あなたらしくもない」
 ニーネの言葉にボーマンは頭を掻きながら。
「いや、その、なんだ……まぁ、なんつーか、そういうことだ! 行ってくる」
「はいはい、気をつけてくださいね」
 ニーネは平然としたものだが、他の者は笑いをこらえるのに必死だった。
「ほれ、出発すっぞ!」
 照れくさいのを誤魔化すように、ボーマンはひとりで街の門に向かって歩き出した。
「じゃあ、僕たちも……」
「皆さん」
 歩きかけた四人をニーネが呼び止めた。
「主人を、よろしくお願いしますね」
 その言葉に対して、彼らはもはや笑顔で応えるしかなかった。

3 仮面の素顔(前編) ~ラクール(3)~

「君らは今、ラクールへ避難してきた者かね!?」
 城下町の門を潜ろうとすると、門番の兵士に怒鳴り声で呼び止められた。
「避難……?」
 クロードたちが立ちつくしていると、兵士は早口で説明する。
「知らないのか? エル王国が魔物軍に壊滅され、魔物の群れが現在ラクールに向かって進軍中なんだ!」
「ええっ!?」
 レナはクロードを見た。彼も動揺を隠せず、目を見張って鋼鉄の鎧兵士を見ている。
「もちろん魔物の群れなど前線基地で食い止めてしまうが、ラクール以北は戦場になる可能性があるから、住民たちには一時的に避難してもらっているんだ」
 どうやら事態は思ったよりも深刻のようだ。こうなれば黙っているわけにはいかない。
「あの……私たちも戦います!」
 せっかく覚悟を決めて言ったというのに。
「なに寝ぼけたこと言ってるんだ。足手まといになるだけだから、早いとこ避難してくれよ」
 兵士はまるで相手にしてくれなかった。
 五人は兵士から少し離れたところで寄り集まって、小声で相談を始める。面妖な眼差しでその風変わりな集団を注視する兵士。
「……で、どうする?」
 クロードが皆に訊いた。
「こんなところでじっとしていても仕方ありませんわ」
 小鼻を膨らませてぼやくセリーヌ。
「その、前線基地ってところへ行ってみない?」
 オペラが提案した。
「どこにあるんですか?」
 レナがボーマンに訊ねると。
「前線基地ならヒルトンからさらに北東だ。だが、いきなり行っても、民間人はどうせ入口で門前払いされるだけだろうな」
 ボーマンがすげなく答えた。
「そこでひと暴れしてわたくしたちの実力を見せつけてやればいいんですのよ」
 セリーヌが拳を振り上げたついでに隣のクロードの頭を小突く。
「セリーヌさん、お願いだから穏便に……ん?」
 頭を抱えたクロードが気づいたのは、北へ続く道から砂塵を巻き上げて駆けてくる馬と、それにまたがり手綱を握りしめている男。馬は見るからに逞しく、そして男は見るからに痩せ細り枯れ木のごとき体つきをしていたので、馬ばかり目立って遠目からでは空馬のようにも映った。
 男は城門近くまで来ると手綱を引いて、兵士の目前で止まると地面にひらりと降り立つ。右腕の袖には獅子の徽章が刺繍された布を留めつけている。
「国王陛下に至急、ご報告がございます」
「ご苦労。陛下は謁見の間におられると思うが、ご不在ならおそらく研究所だろう」
「かしこまりました」
 男は兵士の脇を抜けて城下町をひた走っていった。
 さて、そのやりとりを傍観していた一行は、さっそく会議を再開する。
「今のひとって、前線基地から来たのかしら?」
「たぶん、そうだろうね」
「研究所って、何のことかな」
「ラクールで研究所っていやあ、あそこしかないだろう」
「ボーマンさん、知ってるんですか?」
「まあな。でも今さら何の……」
 そこまで言ったとき、ボーマンの口許がにんまりとつり上がった。
「そうか、そういうことか。はっはぁ~、こりゃ面白くなりそうだ」
「ボーマンさん?」
 唖然とする四人を前に、彼は胸を張って宣言するのである。
「諸君、次の行く先が決定した」

 机の上は数多の書物と研究道具で埋めつくされていた。奥の壁に掛けられた黒板には何かの設計図が描かれた紙が貼りつけてある。いずれも薄暗くて細かなところまでは判別できない。
 無人の研究室をボーマンは逡巡しゅんじゅんすることなく進んでいった。他の四人はおっかなびっくり彼の後をついていく。
「こっちだ」
 ボーマンが頑丈そうな鉄扉の前で皆を呼んだ。そうして躊躇ためらいもなく扉を開け放つ。
 目の前に驚愕の表情でこちらを向く兵士の姿があった。
「な、なんだ、お前たちは!」
「悪いな、ちょっとどいてくんな」
 呆気にとられる兵士を押し退けてボーマンが、それからレナたちが身を竦めながら中へと足を踏み入れた。
 隣の研究室とは違い、その部屋は白色の明かりが充満して眩しいほどだった。壁も天井も青白い塗料が塗られ、冷たく輝く様は水中にいるような感覚すらあった。壁には金属のパイプが縦横に走り、辿っていくとそのすべてが隅に置かれた奇妙な装置に繋がっていた。
 その装置の周囲に、数人の白衣を着た者たちと、真紅に染まりし毛皮の外套マントを纏った老人が集まっている。
 老人はこちらに気づくと怪訝そうに双眸をすぼめて。
「ボーマンか?」
「ご無沙汰しております、陛下。この研究所も随分と変わりましたな」
 そう、老人はまさしくラクール国王陛下であった。象牙色の白髪頭に王冠こそ戴いてはいないが、まなじりに刻まれた皺の奥に宿る瞳は恐ろしいほどの威厳と気概に充ちていた。老いてもなお猛々しき獅子の風格をそこに見たような気がした。
「何をしに来た、ボーマン」
 王の横に立っていた男が厳しく問いただしたが、彼は相変わらず飄々とそちらを向いて口許をつり上げる。
「いよう、マードック。フロリスも一緒か。それと、そこにいるおチビさんはお前らのガキだな」
「お前にガキって呼ばれる筋合いはない」
 ふたりの研究者の間から、やはり白衣に身を包んだ少年が出てきて、ボーマンに詰め寄った。歳は十一、二歳くらいだろうか。頭の左右には猫とも鼠とも区別しがたい、獣めいた耳が水色の髪からピンと突き出ていた。
 フェルプールだ、とレナは思った。ひとの中にはごくまれに獣の特徴をそなえて生まれ出てくるものがある。尻尾が生えていたり、またはこの少年のように獣の耳を有したり、中には手足までが獣化してしまう例もあったという。この変化は親の特徴に関わらず突如として発生する現象であり、一説には人類の遠い祖先に何らかの形で獣の血が混じり、その血がより濃くなった場合において発生するのではないかと言われている。そして、このような特徴を有したものは多くの場合、常人よりも何かの才能に秀でている。
 少年は腕を組んだままボーマンを見上げて言う。
「ここの最高責任者はボクだ。たとえ陛下やパパたちと親しくても、話はボクを通してからにしてくれないか」
「最高、せきにん……!」
 セリーヌが思わず吹き出しそうになったところを自分で口を塞ぐ。目ざとくそれを見つけた少年が。
「なにがおかしい」
 セリーヌを睨みつけておいて、それから両手を後腰に組んで背中を向けた。
「紋章構成理論に基づく紋章科学も、ラクールホープにおけるエネルギー抽出法も、ぜんぶボクが考案したんだ。当然の地位だ」
「ほう、やはりラクールホープか」
 ボーマンが言うと、今度は少年が口を塞いだ。
「ラクール、ホープ?」
 レナがボーマンに訊き返した。
「紋章術を利用した紋章兵器だ。小さな島ひとつくらいは吹っ飛ばせるんじゃないか?」
「なんでおじさんがそんなこと知ってるんだよ!」
「おじさん……?」
 少年が狼狽して問いつめても、ボーマンは別のことで落ち込んでしまったらしく、肩を落として何やらぶつぶつ呟いている。
「レオン。彼はかつてこの研究所の薬学部門にいた者だ」
 代わりに少年の父親、マードックが説明する。
「半年しか在籍していなかったがな。彼がいなくなって間もなく、薬学部門も消滅した」
「へえ。じゃあ、パパが言うところの『負け犬』だね」
「レオン!」
 マードックが叱責しても少年は底意地の悪い笑顔をやめなかった。すると、ようやく気を取り戻したボーマンが。
「ああ、そうだよ。今ではただの街の薬屋だからね、ボウヤ」
「ボウヤって言うな!」
 レオンが上擦った声でまくし立てる。
「だいたいおじさん、薬学部門なんだろ? 同じ研究所でもラクールホープとは無関係じゃないか!」
「だから、おじさんってのは……」
 また落胆するボーマンに代わって、やはりマードックが。
「……彼が在籍していたのが九年前か。ラクールホープの研究はその頃始まったんだ。確かに薬学のボーマンは研究とは関係なかった。だが、こともあろうにこいつは、ラクールホープに関する機密資料を盗み出した」
「別に盗んだわけじゃねぇよ。どんなものか興味があったから、こっそり拝借して読ませてもらっただけだ」
「そういうのを盗んだというんだ。……で、彼はそれが理由で研究所を追い出された」
「『負け犬』の誕生ってわけさね」
「……なんだ、結局ただの泥棒じゃないか」
 ふざけた風に肩を竦めるボーマンに、レオンはあからさまに侮蔑の視線を送った。
「それでボーマン、今更戻ってきて、何をしようというのだ?」
 それまで沈黙を保っていた王が口を開いた。
「いや、それがですね」
 と、ボーマンは横に退いて背後の四人を紹介する。
「ソーサリーグローブを調査している一団の仲間に加わりまして、エルへ渡航する許可をいただこうとこの城に向かったら、避難民にされてしまったんですよ。それでふと、ラクールホープのことを思い出して、ここに来てみれば案の定、ってわけですよ」
「……そうか」
 王は身体を横に向けて、青白い天井を見上げた。
「使う気ですね、ラクールホープを」
「ああ、やむを得んだろう」
「他国牽制用の兵器が、むしろ他国をも救うことになるとは皮肉なもんですな。しかし、偽りであれ平和のために利用するのは悪いことではありませんよ」
 押し黙ったままの王にそう言ってから、レオンの方を向く。
「研究はどこまで進んだんだ? あのときは確か、紋章力の抽出精度が低くて難儀していたようだったが」
「そんなのとっくに解決済みだ! 紋章構成理論を応用してレベルの高い断片だけでより強力な紋章を再構成し、さらに個々の紋章に特殊な配列を加えることで相乗作用を起こさせ、これまでとは比較にならないほどのエネルギーを抽出することができる」
「さっきから気になっていたんですけど、紋章構成理論ってなんですの? マーズではそんなもの、聞いたこともありませんわよ」
 セリーヌが口を挟むと、レオンはあざけるように彼女を見て言う。
「ボクが証明したんだ。今までひとつの紋章と思われてきた図柄の断片それぞれにも意味がある。からだに紋章を刻んだ術師が特定の属性の呪紋しか唱えられないのは、その属性を示す紋章しか刻まれていないからだ。ボクはこの断片の意味をすべて解読して、それを再構成することによってまったく新しい紋章を作成することに成功した。まあ、昔っからの紋章をなにも考えずに受け継いでいるだけのマーズの連中には一生考えつかないだろうけどね」
 その言葉でセリーヌの表情が一転したので、嫌な予感を察知したクロードとオペラはあらかじめ彼女の腕を左右からつかまえておいた。
 レオンは相変わらずわめき散らすように喋り続ける。
「完成は目前なんだ! あとは莫大なエネルギー放出に耐えきれるだけの素材、エナジーストーンをホフマン遺跡から採ってくるだけだ!」
「エナジーストーン?」
「ホフマン遺跡って?」
 レナとクロードが同時に違うことを訊ねて、ん?と顔を見合わせた。
「エナジーストーンはホフマン遺跡の内部で発見された新種の鉱物だよ。それ自身が微量な紋章力を持っているために紋章力との親和性が高く、またそのエネルギーに対しての抵抗性にも優れているんだ。これを使えば放出されたエネルギーを減衰させることなく砲身に装填することができる」
「ホフマン遺跡ってのは、ここからずっと北に行ったところにある古の一族の遺構だ。未開の地にあるから、まだあんまり調査は進んでいない。山岳宮殿なんざとは比べものにならねぇくらいデカいって話だがな」
 レオンとボーマンがそれぞれ説明した。ボーマンはさらに前の少年に言う。
「あんな危険な所、誰が行くんだ?」
「ボクが行くさ! 一週間もあればちゃんと鉱石を採取して帰ってきてみせる」
 ボーマンはここで初めて真剣な表情でマードックを見据える。
「マードック、いくら出来のいい息子でも、できることとできんことがある」
「だが、ほとんどの兵士は前線基地にやってしまった。遺跡にまで兵士を回している余裕がないんだよ」
 マードックが言うと、ボーマンは困ったように頭を掻いて、それからレナの方を見た。
「どうする、レナ?」
「えっ?」
「このチビ助……じゃなかった、レオン博士どのに同行して、ホフマン遺跡に行ってみるってのは」
「本気か、ボーマン?」
 危惧する王に彼は綽然しゃくぜんとした笑顔で応える。
「もちろんですよ。こう見えても彼らは結構頼りになる。武具大会の準優勝者もいることですし。な、クロード」
「へえっ?」
 出し抜けに名を呼ばれて情けない返事をするクロード。当の本人がそのことをすっかり忘れていたらしい。
「ふうむ、それなら……」
「ボクはいやだよ」
 王の言葉を遮ってレオンがきっぱり言った。
 ボーマンは無表情のまま少年を見下ろして。
「では、レオン博士は自分ひとりで採りに行けるとお思いで?」
「行けるさ! ボクはなんだってひとりでできるんだ」
「魔物が巣くっているかもしれませんよ」
「倒せばいいだけさ。ボクの紋章術をバカにしないでよ。どっかの田舎の術師とは格が違うんだから」
 セリーヌの怒りがそろそろ心頭に達しようとしていたので、クロードとオペラはいよいよ彼女の腕を握る手に力を込める。
「レオン」
 彼の母親、フロリスが横から諫めた。
「強がりもいい加減になさい。せっかくのご好意なのに、どうして素直に受け取れないの?」
「だって、ボクは……」
 フロリスの厳しい視線に口をつぐみ、項垂れるレオン。
「やはりボーマンたちに同行させた方が良いかもしれぬな」
 と、ラクール王。
「レナたちもいいだろ?」
「ええ。ぜひ同行させてください」
(レナ?)
 彼女の返事に驚いたクロードが小声で囁きかけた。
(だって、あんな小さい子ひとりで行かせられないでしょ)
 レナが囁き返すと、彼も不承不承に頷いた。
「ならば、早速ヒルトンに船を手配しておこう。そなたらも準備が整い次第、ヒルトンへ向かってくれ」
「ヒルトンですね」
 顔を上げて王にそう確認してから、レオンはレナたち四人の横を早足で通り過ぎて研究室を出ていく。その間、彼らの方を振り向くことは一度もなかった。
 レナは部屋の出口を、じっと見つめていた。そこにあった少年の後ろ姿──その残像が、何故か頭から離れなかった。


 帆は風を受けて大きく膨らみ、鮮碧せんぺきの海を進んでいく。帆柱マストを見上げると、見張り台に座っていた船乗りが大口を開けて欠伸あくびをしていた。
 船室から出てきたレナも、穏やかな空と波を前にして伸びをする。ホフマン遺跡に向けての航海は順調すぎるほど順調だった。予定なら明日にも遺跡のある無人島に到着できるだろう。
 レオンは船尾楼の端に足を投げ出して腰掛け、一心になにかの本を読んでいた。レナはそれを見ると瞳を細め微笑して、少年の傍に歩み寄った。
 隣に座ってもレオンは横目で彼女をチラッと見ただけで、すぐに視線を本に戻してしまう。変な沈黙がひとしきり続いた。
「レオンって、本を読むのが好きなのね」
 ようやくレナが話しかけてみた。
「なにを読んでいるの?」
「『位相空間における紋章力の発生と運動の推移』」
 レオンは本から目を離さずにぼそりと応える。レナもそれきり何も言えなくなってしまった。
 なんとか会話を続けようと苦し紛れに。
「難しい本なのね」
「簡単だよ」
「そ、そう……」
 余計に状況が悪化してしまった。
 レオンはうるさそうにレナを見る。
「なんでそんなにボクに構うんだよ。放っといてよ」
「うん……。でも、こんなにいい天気だと、お話ししたくなるじゃない?」
「天気で感情が左右されるなんて、単純なんだね」
 吐き捨てるようにそう言うレオンに、レナはきょとんとした。
 少年は本を閉じると甲板に飛び降りて、船室へと歩いていった。船尾楼にひとり、取り残されたレナ。
「レナ」
 クロードが船縁からやってきて声をかけた。
「またレオンにふられたね」
「ふられたって、なによ、それ」
 レナも甲板に降り立つ。
「あいつには何を言っても無駄だよ。僕らのことはまるで相手にしない」
「わからない、クロード?」
 首を傾げるクロードに、レナは言う。
「あの子、すごく寂しい目をしているの」
 そうして、船室へと小走りに駆けていく。クロードはその背中を見遣ってから、そっとため息をついた。
 帆柱マストを見上げると、見張り台の船乗りが呑気に居眠りをしていた。雲の切れ目から強い日射しが甲板を照らしつける。いたって穏やかな、船旅だった。

4 仮面の素顔(後編) ~ホフマン遺跡~

 深遠な森の胎内に身を宿すその建物は、巨大な祭壇のようでもあった。
 台座に台座を重ねたような形状で土台が高々と積み上がり、その頂には一対の円塔を伴った鈍色にびいろの建物が鎮座する。地面から建物の入口までは石のきざはしがまっすぐ続いている。
 この建物も、かつては威光ともいうべき輝きを放っていたのであろう。しかし今や台座を取り巻く花崗岩の列柱は折れ欠け、階段も角が摩耗して丸くなっており、往年の絢爛たる装いは見る影もなかった。唯一、建物の屋根に使用された黄金だけが──もっとも、それすら永年の風雨によってくすんでしまっているのだが──時を経ても未だその輝きの片鱗を見せていた。
 階の手前、紋章が一面に描かれた床石の上に、彼らは立った。
「これが、ホフマン遺跡かぁ……」
 レナがぽかんと口を開けて建物を眺める。
「いったい古の一族ってのは何者なんだ? 大昔にこんなバカでかい建物を造っちまうなんて」
 誰に訊くでもなく、ボーマンが大声で言った。
「観光に来たんじゃないんだ。とっとと行くよ」
 レオンは既に階段を上り始めている。
「いちいちかんに障るガキですわね」
 セリーヌがそんなことを口走るから、隣のクロードは冷や汗で水を被ったようになっている。
「あれ、どうしたんですか、オペラさん?」
 ふと隣を見ると、オペラは建物とは別の方を向いていた。
「さっきそこに……」
 オペラは森の奥を指さしかけたが、途中でやめてかぶりを振る。
「……いや、なんでもないわ」
 そうして階段へ歩いていく彼女を、クロードはいぶかしげに見つめていた。

 建物の内部は外観よりも狭く感じられた。金属的な光沢をもつ材質で仕切られた通路は、ひたすら冷たく無機的であった。遺跡と名のつくものがもつ独特の埃っぽさや黴臭さは、ここでは全く感じられない。
 入口からしばらく進んでいくと、先頭を歩いていたレオンが大きな扉の前で立ち止まった。扉、と形容したものの取っ手はついておらず、両端に円形の突起物と、中央部分に亀裂のような溝が横に走っているばかりで、一目でそれとは認められないほど奇妙な扉であった。
 レオンは向かって左隅にある突起物の前に立った。
「これと、そっちにあるスイッチを同時に押すんだ。ほら、ぐずぐずしないで誰かそっちについてよ」
 周囲に押し出されるかたちで、訳もわからぬままクロードが右隅のスイッチの前に立った。
「せーのっ!」
 レオンの掛け声でスイッチを押す。たちまち唸るような音と共に地面が細かく振動を始めた。程なくして扉が亀裂からふたつに割れて、それぞれ天井と床へ吸い込まれるように滑っていった。後に残ったのは振動による足の裏の痺れと、扉の先に広がる通路のみ。
「消えちゃった……」
 レナは先程まで扉があった場所で不思議そうに天井を見つめている。レオンは構いなしに彼女の横をすり抜けて先の通路を歩いていった。
 通路は途中でいくつかに分岐していたが、少年は迷わず右の道を選んだ。すぐに小部屋に入り、奥には人ひとりが通れるくらいの門が構えてあった。その先は箱のような狭い部屋になっているようだ。
「これを使って下へ降りるんだ。早く乗ってよ」
 レオンが門を潜って箱の中で催促する。
「……降りる?」
 訊いてもレオンは応えてくれそうになかったので、疑念を胸に閉じこめつつ彼らも箱の中に入った。六人が入ると内部はぎゅうぎゅう詰めだった。
 レオンが門の横に据えつけてあるボタンを押すと、箱はがたんと大きく揺れて門の両側から扉が閉まり、それから先程と同じような唸り音と、奇妙な感覚が彼らを襲った。
「な、なんか気持ち悪いですわね」
「体の中が浮いているみたい……」
「下へ降りているんだ……これは昇降機リフトか?」
「さっきの扉といい、遺跡にこんな装置が……しかもまだ動力があるなんて」
「動力源は紋章力だよ。紋章科学を応用すればこんな装置なんて簡単に作れる」
 レオンがそう説明したとき、それまでとは逆に上から押されるような感覚がしたが、すぐに治まった。唸りも止んで、すみやかに扉が開かれる。
「着いたよ」
 箱から出ると一面の暗闇だった。靴音の響き具合からかなり広大な空間であることだけはわかった。
「セリーヌさん」
「わかってますわ」
 セリーヌは道具袋から角灯ランタンを取り出して、火を点けた。
 道の両脇に照らし出されたのは赤茶けた岩壁だった。要所は木材の柱や梁でそれなりに補強してあるものの、色は黒ずみ朽ちかけて、この広い岩窟を支えるにはいささか頼りない。壁際に壊れかけの樽が積まれ、先の地面には二本の金属の筋が、間隔をおいて敷かれた矩形さしがたの板の上で平行に続いている。なにかの線路だろうか。
「なんなんだ、ここは?」
 ここは、ここは、ここは……。ボーマンの声が反響して、岩窟の奥へと消えていく。
「採掘場だよ」
 レオンはもう奥へと歩き出していた。クロードたちも後からついていく。
「遺跡の屋根に使われた金を見たろ? 内部には他にもいろんな金属が使われている。それは全部ここから採掘したんだ」
 金属の筋に沿って歩いていくと、傍らに土砂を積んだトロッコが放置されていた。線路はどうやらこれのためのものらしい。
 進むうちに二股道、三叉路といくつも道が分かれていたが、レオンの足取りは遺跡の入口から変わることなく、確かな歩みを続けていた。
「この遺跡のこと、よく知っているのね。前に来たことがあるの?」
 そのことを疑問に思ったレナが訊いてみると。
「知らない場所はあらかじめ下調べしておくのが常識だろ」
 素っ気なく突き返されてしまった。
「なあ、これ、なんだと思う?」
 突然、背後のボーマンが声を発した。全員が立ち止まる。
 彼が示しているのは足許の小さな装置。赤錆の浮く鉄製の箱にレバーのような取っ手がついただけの簡単なものだった。
「線路の分岐器じゃありませんの?」
「いや、ここは単線だ。こんなところに分岐があるなんておかしい」
「起爆装置だよ。バカっ、触るな!」
 レバーに触れようとするボーマンをレオンが怒鳴りつける。
「坑道のあちこちに、採掘のときに使った火薬がまだ残っているんだ。むやみに動かしてドカンってなっても知らないよ」
 そのとき何かが風を切り、肩をすくめたボーマンの髪をかすめて背後の壁に当たった。一本の白塗りの矢が、硬いはずの岩壁に深々と突き刺さっている。
 矢が放たれた方を向くと、彼らが歩いてきた道から、その躯に釣り合わぬ大弓を携えた小悪魔ジャイアントボウが、斧の刃を旗のごとく掲げた竜人ドゥームアクスが、群をなしてこちらにやってくるのが見えた。
「ほら、もたもたしてるから魔物に見つかったじゃないか」
 愚痴をこぼすレオンをよそに、クロードたちは戦闘の準備にかかった。
 先陣をきってクロードが魔物の群れに突っ込んでいく。続けざまに放たれた矢を跳躍して躱し、手前に立っていたジャイアントボウの脳天を空中から叩き割った。着地したところをたちまちドゥームアクスに囲まれるが、籠手をつけたボーマンが背後から一匹を殴りつけて昏倒させ、さらにクロードも衝裂破で魔物を怯ませ突破口をつくった。
「そこ、邪魔だよ!」
 レオンは白衣のポケットから本を取りだして広げた。横からレナがそっと覗くと、そこには黒インクでひとつの紋章がページいっぱいに描かれていた。
「ブラックセイバー!」
 右手を前に翳して唱える。すると周囲の闇を凝り固めたような黒き刃が生じ、刹那のうちに魔物どもの間を突き抜けていった。刃に触れた魔物の胴体は切り裂かれ、血飛沫を上げて地面にくずおれる。
 クロード、ボーマン、それにオペラは生き残ったドゥームアクスと対峙していた。
 ひと思いに振り下ろされた斧の刃をクロードはぎりぎりのところで躱した。力任せの一撃を受け止めれば名匠ギャムジーの剣とて折れるかもしれない。素早く懐に潜り込んで拳を繰り出すつもりが、敵の斧が思いがけない速さで動いて、逆に柄の部分で打ち返されてしまった。突き飛ばされたクロードは地面を転がり、なにか固いものにぶつかって止まった。
 すぐに立ち上がろうと腕を突っ張ったとき、また何かが肘に当たってごとりと動いた。ふと背後を振り返り……青ざめる。
 彼の背中にはちょうど例の起爆装置があった。うっかりレバーを肘で動かしてしまったのだ!
 凄まじい轟音が坑内に鳴り響き、地面が大きく揺れ動いた。岩壁が砕け、割れ目から幾筋もの火柱が噴き上がる。
「な、なにが起こった!?」
「誰だよっ、起爆装置を動かしたのはっ!」
 ついに天井の岩盤にまで亀裂が走り、爆発の振動で一気に崩壊して彼らの頭上に降りかかってきた。
「みんな、戻れっ、引き返せ!」
 雨霰と落ちてくる大小の岩を避けながら、彼らは来た道を反対に駆けていく。
「レオン、早く!」
 レナが必死に少年を呼んだ。レオンは他の者たちよりも離れて立っていたため逃げ遅れたのだ。
「レ……!」
 レナはふと視線を上の方に移して、息を呑んだ。こちらに向かって走る少年の頭上に、ひときわ巨大な岩が天井から崩れて落下しようとしている。
 言葉よりも、頭よりも先に身体が動いた。岩の雨の中をレナは敢然と駆け出していく。無我夢中でレオンを抱きさらい、そのまま向こう側の地面へと身を投げる。
「レナぁっ!」
 喉も潰れんばかりに叫ぶクロード。返ってくるのは大岩が地面にぶつかる音ばかり。ふたりの姿もその岩に隠れて見えなくなる。さらに、無情にも上から岩が次々と積み重なり、ようやく落盤が治まった頃には両者を隔てる大きな壁と化してしまった。
「くそっ、セリーヌさん!」
 立ちつくすセリーヌから角灯をひったくると、できたばかりの壁の前に掲げる。赤茶色の岩は道を完全に塞いでいた。
「こんな岩……」
 角灯を置いて剣を振り上げたクロードの腕を、ボーマンが背後からつかんだ。
「何をする気だ」
「決まってるじゃないですか。レナたちが向こうにいるんですよ。これくらいなら突き破れます」
 セリーヌとオペラも集まってきた。
「よせ。地盤が緩んでいるんだ。このうえ岩を砕いたら、今度こそ俺たちも危ない」
「構うもんか。レナを助けるんだ!」
 ボーマンの手を振りきって、クロードは再び壁と向き合う。そこを横からオペラが胸倉をつかみ、掌で彼の頬を引っぱたいた。
「目が覚めた?」
 茫然とするクロードを彼女はみっつの眼で鋭く睨めつけた。それから彼を放して、叩いたときに痺れたのか右手をしきりに振りながら背中を向ける。
「あの子がレオンを抱いて向こう側に逃げたところは、あたしも見た。だから岩の下敷きにはなっていないはずよ」
「けど、どうする? 道を知っているレオンがいないんだ。闇雲に歩き回っても迷うだけだぜ」
「とりあえず少し戻って、この先の道とつながっている道を探すしかありませんわね。レナもたぶん、同じことを考えて動くわ」
「つながる道がなければアウトってわけか……。賭けるしかねぇな」
 ボーマンの横でクロードは地面を見つめて黙りこくっていた。
「おい、クロード」
「……僕の、せいだ……」
 そう呟いたクロードの唇は震え、顔面は蒼白だった。
 ボーマンは嘆息して彼の背中を軽く叩くと、慰めるように言う。
「そう自分を責めるな。今はふたりが無事でいることだけ考えろ」
 そうして、オペラたちとともに道を歩いていった。
 クロードは引きったようにままならぬ右腕をなんとか動かして、剣を鞘に収める。心の動揺はどうあっても治まりそうになかった。
 足許を見ると、土を被って埋もれかけた本が落ちていた。拾って土を払う。表紙の装丁に見覚えがあった。それはレオンのものだった。


 耳をつんざくばかりの爆鳴と破砕音のあとは、耳が痛くなるほどの静寂がおとずれた。そっと眼を開けて頭を起こすと、周囲は濃い闇が立ちこめていた。
「レオン……?」
 胸に抱いたレオンに呼びかけてみる。ギュッと瞑った少年の両目が大きく見開くのを見て、とりあえずは安堵した。
 ふたりは立ち上がって、あたりを見回した。暗くてほとんど何もわからなかったが、そのこと自体が、自分たちの置かれている状況を把握させることになった。手で探ってみると案の定、目の前に冷たい岩の感触があった。
「道が塞がっちゃったみたいね……」
「他のひとたちは?」
「たぶん、この向こう側に……」
「そんな、どうするんだよ!」
 レオンが悲鳴のような声をあげる。
「道がなくなったら、ボクたち帰れないじゃないか!」
「この先に、向こうの道とつながっている道はないの?」
「知らないよ! ボクはエナジーストーンの場所までの道すじしか教わってないんだから」
「じゃあ、とりあえず先に進みましょうよ。もしかしたらこの先でクロードたちと合流できるかもしれない」
「進む?」
 レオンは信じられないようにレナを見た。
「こんな真っ暗の中を、いつ魔物に襲われるかもしれないのに、ふたりだけで進むっていうの?」
「だって、他にどうしようもないじゃない」
「こんな岩ごとき、ボクが……」
 と、レオンは白衣のポケットに手をかけて、凍りついた。
「どうしたの?」
「……本がない」
「本?」
 訊きながらレナは思い出した。呪紋を唱えるときに彼が広げていた本のことだ。
「あれがどうかしたの?」
「……ボクはからだに紋章を刻んでないんだ。そのかわり、紋章の描かれた本を持つことで紋章力を引き出している。あれがないと、ボクは呪紋を唱えられない」
 放心して譫言うわごとのように呟くレオン。レナは彼の背中を撫でて、懸命に励ます。
「ほら、とにかく先に進もう、ね? きっとクロードたちがなんとかしてくれるから」
「…………」
 レオンは口を尖らせたまま、何も言わなかった。

 歩き続けてどのくらいになるだろうか。暗闇の中では時間すらも滞り、その活動を止めてしまうのではと思いさえする。
 右手を壁につけ、見えぬはずの前方を藻掻くように見つめて一歩一歩、地面を踏みしめていく。
 ──もし、この地面がなくなったら? 壁が消えてしまったら? そして、この暗闇から抜け出せなかったら?
 不安が黒い無形の悪魔となって彼女に執拗にまとわりつく。ややもすると自身がこの悪魔と同化して、闇のうちに霧散するのではないかと、とりとめもない疑心暗鬼に恐怖ばかりが募った。
 レナもレオンも歩き出してからずっと無言だった。ふたつの靴音だけが虚しく洞内にこだまする。
 しばらくして、ひとつの靴音が止まった。
「レオン?」
 レナも立ち止まって振り返る。レオンの水色の頭がずいぶん下の方にあったのは、かがんでいるからだろうか。
「もう歩けない」
 拗ねるように、レオンが言った。
「そんなこと言わないで。もうちょっとの辛抱だから、がんばって歩きましょうよ」
「なにが、もうちょっとだよ」
 膝を抱えて、下を向きながらわめき出す。
「これだけ歩いてなんにもなかったのに、まだそんなことを言ってるの? これ以上進んだって、明かりなんか見えてこないよ。なにもありゃしないんだ」
 少年は震えていた。目ではわからなかったが、肌に触れる空気がそう感じた。
「もうダメだよ……。ボクたちは、ここで死んじゃうんだ……」
 そうして、小刻みにしゃくり上げる。いつの間にか泣いていたのだ。
「レオン……」
 レナは目を伏せた。
 そう、闇への不安に怯えていたのは自分ばかりではなかった。彼女と同じように──いや、それ以上の恐怖を、少年はこの小さき身ひとつで負わねばならなかったのだ。
(どんなに頭がよくたって、まだ子供なんだ)
 ──ううん、違う。レナは思った。
 頭がいいからこそ、類希たぐいまれな才能を持っているからこそ、この子は子供のままなんだ。小さな頃から大人に混じり、もてはやされ、期待と羨望を一身に浴びることとなった少年。大人びた態度や言葉は、こうした環境の中で培われたものなんだろう。
 けれど、それが果たして彼のほんとうの姿なのだろうか。この闇の中で怯える少年は、ひどく小さく、寂しそうに見える。仮面の中に秘めた素顔を、彼女は闇を通して垣間見たような気がした。
(この子は、子供であることを隠して生きている)
(そうしないと、周囲に押し潰されてしまうから)
(甘えたいときにも甘えない。遊びたいときにも遊ばない。そうやってずっと『子供』の部分を閉じ込めてしまった)
(だからこの子は『子供』を中に隠したまま、それを引きずって生きているんだ)
 どうしようもなく居たたまれなくなって、レナはそっとレオンを抱き寄せた。レオンは初め驚いてあらがう素振りをみせたが、背中を優しく撫でているうちに、安心したのか彼女の胸に顔を埋める。
「だいじょうぶ。私たちは助かるわ。だから、あきらめないで……ね」
 レナが囁くと、少年は再び嗚咽を始める。泣きやむまでの間、レナはずっと腕に抱いて、小さな背中をさすってやった。

「もう大丈夫?」
「うん」
 レオンは腫れぼったい目をこすって、頷いた。
「じゃ、先に進もうか」
 レナがそう言って歩きかけると。
「待って」
 レオンの耳がピクリと動いた。
「どうしたの?」
「なにか、聞こえない?」
 レナが耳を澄ませてみると、確かに遠くから妙な音が聞こえてくる。
 ふしゅう……ふしゅう……。地中から蒸気が噴き出るときはこんな感じの音だろうか。しかもそれは断続的に、近づいてきている。気配を感じたのはそれからだった。
(なにか来るわ。隠れて)
 レオンを促して、ふたりは壁際の岩陰に身を潜める。
 ふしゅう……ふしゅう……。それは確実にこちらへと迫っている。鈍く地面を踏みしめる音も聞こえてきた。レナは悟られぬよう慎重に頭だけ出して、音のする方へと目を向けた。
 四つ足の魔物が、すぐそこまで来ていた。ぬらぬらと黒光りしているのは鱗だろうか。蒸気のような音は牙の隙間から洩れる息であった。
(サラマンダーだ)
 横で同じように覗いていたレオンが囁いた。
(火を吹く大トカゲの化物だよ。調査に行った兵士のなん人かがこいつにやられた)
 ふたりは岩陰に身を寄せ合って息を殺す。重々しい足音を響かせて、山のような魔物の躯が目の前を通り、過ぎていった。遠ざかる足音にホッと溜息を洩らしたのも束の間、不意に魔物の動きが止まった。においを探るように鼻を鳴らす音。そして、再びこちらへ近づいてくる。
(ダメだわ……気づかれた)
 もはや逡巡しゅんじゅんしている暇はなかった。
(レオン、逃げて)
(え?)
 レオンが驚いてレナを見た。
(私が魔物を引きつけている間に、向こうへ走るのよ)
(お姉ちゃんは?)
(私のことはいいから。いいわね、めいっぱい走るのよ)
 そうレオンに言い聞かせると、岩陰から飛び出して叫ぶ。
「こっちよ!」
 レナの姿を見つけたサラマンダーが咆哮をあげた。怒濤のような声が足許から響き、一瞬足が竦みかけたがすぐに気を取り直して、岩陰から離れるために駆け出した。できるだけ、レオンへの気を逸らさせなければ。
 サラマンダーはレナの手前までにじり寄って、前肢を彼女に叩きつける。その一撃は躱したものの、視界がきかない中では大きな動きはできない。レナはさらに魔物との距離をおいて、いちかばちか、詠唱を始めた。
「トラクター……」
 唱え終わらぬうちに目の前が赤く染まった。サラマンダーが炎を吐いたのだ。慌てて地面に転がり込んで避ける。橙色の炎が暗闇を打ち破って洞内を照らしあげた。
 その明かりで初めて気づいた。レオンがこちらへ向かってきている。
「レオン、来てはだめ! 早く逃げなさい!」
 叱りつけるように声を張り上げると、レオンは彼女と少しく距離を隔てたところで立ち止まった。
「いやだ!」
 足を突っ張って、少年は叫び返した。
 はっとして振り返ると、魔物の巨体が目前に迫っていた。とにかく魔物とレオンを引き離さねばと、わざと敵を威嚇するように鼻先すれすれで反対側へ跳躍した。サラマンダーの首がこちらに曲がる。うまくいったとほくそ笑んだが、すぐに息を呑む。
 振り向きかけた魔物の横から、レオンが石を投げだしたのだ。
「このやろぉ!」
 石はサラマンダーの堅緻けんちな鱗に当たって、こんと跳ねた。レナに向きかけていた魔物の首がゆっくりとレオンに向けられる。
「逃げて、レオン!」
 声を振り絞ってレナが叫んだ。少年に照準を合わせたサラマンダーが、巨体を揺すって動き始める。
 レオンは口を真一文字に閉じて歯を食いしばり、凛として魔物を睨みつけた。そして右腕を前に突き出して、ひとつの呪紋を紡ぎだす。
「ディープフリーズ!」
 彼の指先から鋭く冷気が発せられ、瞬く間に魔物の躯を覆った。いくらか動きは鈍くなったものの、サラマンダーはなおもレオンに向かって歩みを続ける。冷気が徐々に巨体を蝕み始める。鱗に霜がこびりつき、牙の間から舌がだらしなく垂れ下がった。ゆっくりと脚を持ち上げ、地面に下ろす。また持ち上げて……そこで、ようやく止まった。
 雪像のように白く凍りついた巨体の前で、レオンは脱力してその場に座り込んだ。そこへレナが駆け寄ってくる。
「レオン、呪紋は使えないんじゃ……?」
「だから、さっき描いたんだ」
 そう言って、憔悴しょうすいしきった笑顔を見せる。レナは怪訝そうに首を傾げたが。
「あっ……」
 視線を落とすと、少年の剥きだしの膝からおびただしい血が流れていた。これはどうしたのかと口を開きかけ、息を呑む。
 石の欠片かけらでも使って切りつけたのだろうか、右腿に無数の切り傷ができていた。そして、紅いものが滲み出た傷口は、紛うことなくある模様を描き出していた。
 紅の、紋章。
 レナはレオンの顔を見た。少年は屈託なく笑っている。そこに仮面はなかった。見栄も名分もなく、ただふたりの無事を喜んでいる、笑顔。それを見た途端、なぜだかわからないが涙が溢れて、ぼろぼろと目縁まぶちから零れた。
 今一度、彼女はレオンを抱き締める。互いの温もりを、絆を確かめ合うように。ふたりの間で、胸許のペンダントがほのかに翡翠色の光を放っていた。

 次第に闇の靄が薄れていく。地面や岩壁の輪郭もはっきりと映り始めた。不安と恐怖はいつの間にか失せ、安堵と期待とが取って代わった。励まし合うように繋いだ手を握りしめて、レナとレオンは光あふれる曲がり角を折れた。
 光源は奥で輝く翡翠色の鉱石と、地面に置かれたセリーヌの角灯ランタンだった。ところが、持ち主であるはずのセリーヌはその傍らで倒れている。
「セリーヌさん!」
 よく見ると、オペラとボーマンも近くに横たわっていた。焼け焦げた服や髪は、炎か電撃によるものだろうか。
「レナ!」
 クロードは奥にいた。山羊の頭を持った二匹の魔物と対峙している。
「無事だったんだな!」
 ふわふわと宙に浮いて隙を窺う魔物を後目に、クロードが叫ぶ。
「私は大丈夫。そっちこそ、なにがあったの?」
「みんな、こいつにやられたんだ。雷の呪紋で……くっ」
 正面と背後からの奇襲に対し、間一髪上に跳躍して躱して、着地と同時に爆裂破を放つ。だが魔物の周囲には四角錐の光の膜が張られ、無数の岩塊を余すところなく防いでしまった。
「あれじゃあ、きりがないわ……」
 戦いぶりを見ていたレナが焦れた。それを気にしたわけではないだろうが、クロードは再びレナの方を向き、それから隣のレオンを見つけて、思い出したように懐を探った。
「レオン!」
 取り出したものを、その場からレオンに思いきり放り投げた。放物線を描いてレオンの腕に飛び込んできたのは、彼の呪紋書だった。レオンの瞳に輝きが戻り、すかさず頁をめくって広げた。そして、右手を天に掲げて唱える。
「シャドウフレア!」
 光の届かぬ天井から、闇黒が数多の塊を成して山羊頭の魔物に降りかかった。闇の塊は光の膜をものともせず、魔物に触れると青黒い炎へとかたちを変え、叫喚のうちに躯を焼き尽くした。瞬く間に炭と化した骸は、地面にぶつかり粉々に砕け散った。
 レナは負傷した三人の手当をしていた。見た目よりも怪我は大したことない。動けないのは電撃による一時的な麻痺のためだろう。回復呪紋ヒールを唱えると、すぐに立ち上がれるようになった。
 ついに合流を果たした一行は、その先にある翡翠色の鉱物の前まで進んでいった。壁一面を埋めつくした鉱物が、脈動するように明滅を繰り返している。
「エナジーストーンだ」
 レオンが言った。
「どうにかここまで辿り着いたわね」
 オペラが大きく息をついた。
「さっきから気になってたんだけど、これってどこかで……」
 と、言いかけたクロードは振り返ってレナの胸許を指さす。
「それだ」
「え?」
 見ると、ペンダントが強く輝きだしていた。暗闇で彷徨さまよっていたときからずっと光を放っていたのは知っていたが、ここにきて一層光彩が増しているようだ。
「この鉱物って、アレンが持っていた石に似ていないか?」
「そういえば……確かにこんなふうに光っていたわね。ペンダントも反応しているし」
「さあ、ちゃっちゃと鉱物を採取して帰るよ」
 あれこれ思索を巡らすふたりをよそに、レオンはさっそく鉱物の見分を始める。
「うーん……これが、ちょうどいい大きさかな」
 彼が示したのは、ちょっとした樽ほどの大きさの石。
「こんなデカいの、どうやって運ぶんだよ」
 ボーマンが辟易へきえきして言った。
「そのために君たちを連れてきたんだから、そっちでなんとかしてよ」
「調子のいいやつだな……」
 クロードは頭を掻いてどうしたものかと視線を逸らした。そこに偶然、横転して土砂を吐き出したまま放置してあるトロッコが飛び込んできた。
「あれを使おう」

 歪んだ車輪ががたごと音を立てて線路を廻る。荷台には翡翠色の岩ひとつと、どういうわけかレナとレオンもちゃっかり同乗していた。セリーヌとオペラはその両脇を歩き、トロッコの連結部の金具に綱をつけて引いているのは、残る男ふたり。
「ほら、もっと踏ん張って」
「がんばれー」
 荷台から気のない声援が送られる。それなら降りてくれよと、愚痴が喉の先まで出かかったが、ぐっと呑み込んだ。
「ボーマンさん」
 代わりに、隣で同様に綱を肩にかけて引っ張っているボーマンに話しかけた。
「なんだ?」
「今のこの状況に、納得がいかないんですが……」
「深く考えるな。女にとって男なんて、所詮こんなもんなんだよ」
「勉強になります……」
 結局、昇降機のある場所まで、ふたりだけで運びきることになった。

 建物の外に出ると、今度は全員で岩を乗せたトロッコを階段から慎重に降ろしていく。ところがその最中に突然、オペラが手を放して駆け降りていくものだから、トロッコは斜めに大きく傾いた。
「……っ、とっ、と」
「わっ、ちょっと」
「逆だ逆。そっち誰か持て!」
「ああっ!」
 支えきれずに手放したトロッコと岩は、けたたましい音を立てながら、階段を跳ねるように落ちていった。
「あーあ……」
 幸いにも、地面にひっくり返ったトロッコと岩に損傷はないようだ。岩はともかく、意外にトロッコも丈夫にできている。
「ま、この方が手っ取り早かったか……」
 彼らも階を降りる。
 オペラは階下で、彼らに背を向けて立ちつくしていた。彼女の視線を追うと、先の木陰に誰かがいた。
「ねえ……あなた、エルでしょ?」
 オペラが呼びかけた。金髪の男がゆっくりと振り向く。額にはもうひとつの、目が。
「もしかして、そのひとがエルネストさんですか」
 レナがオペラに訊いたが、彼女の耳には届いていない。
 男は奇妙な薄笑いを浮かべて言う。
「やあ、オペラ、僕の後を追ってきてくれたのか」
「…………?」
 どこか腑に落ちないオペラは片方の眉をつり上げる。そこにいるのは確かにエルネストだった。引き締まった眉、無骨な顎を際立たせるような無精髭、少々痩せ気味の体躯、背中までの金髪に白のコート。間違えようもない。
 ただし、顔は死人のように蒼かった。
「どうしたんだい、せっかく会えたのに、嬉しくないのかい?」
「……違うわ」
 オペラは銃口を男に向ける。
「あなたはエルネストじゃない」
「なんだって? この僕がわからないのか」
「『僕』? 『僕』だって? ああいやだ!」
 吐き捨てるように、オペラが言った。
「出逢ってから五年間、あのひとは自分をそんなふうに呼んだことは一度もなかった。いったい誰なの。あたしを騙してどうしようというの?」
「オペラ、この姿が見えないのかい。信じてくれ」
 男は不敵に微笑んだまま、オペラに迫った。
「寄らないで! それ以上近づいたら、撃つわよ!」
 銃を前に突き出し、引き金に手をかけても、男は歩みをやめない。
「僕を撃てるのかい? この姿をした、僕を」
「いやあぁっ!」
 オペラが引き金を引く。光の銃弾は瞬時に男の脇腹を貫いた。
 それでも男は立っていた。深緑色の上着に紅い染みが広がり、口の端からは赤黒い血がひとすじ、顎に流れ落ちた。
 凄いような視線でこちらを見据える男に、オペラの背筋は凍りついた。
「あ、あたし……なにを?」
 息苦しくあえいでいると、男を立たせていた何かがぷつりと切れ、崩れるようにして倒れた。
「エル!」
「ちぇっ、もう動かなくなった。しょうがないなあ」
 男の身体から何かが抜け出て宙に揺蕩たゆたう。ひとの子供の姿はしているが、足はない。薄墨のように黒くぼんやりと浮かび上がっているのみ。それはまさに幽霊ゴーストだった。
「どうだい、僕の操り人形マリオネットは? もう使い物にならなくなっちゃったけどね」
 男の前で座り込み、項垂れていたオペラの瞳が大きく見開いた。
「お前が取り憑いていたのか」
 クロードがすらりと剣を抜き放つ。半透明のそれは、へらへら笑みを浮かべて宙を漂う。
「へえ、僕を退治しようっていうの? 面白いね」
 問答無用とばかりにクロードが斬りかかるが、幽霊は素早く飛び上がって空中でせせら笑う。
「無駄むだ、捕まえられるもんか」
 クロードは跳躍して剣を振った。今度は下に沈んで避けられる。ボーマンも加わり、ふたりでしばらく追いかけっこを展開したが、敵は身軽に四方八方を動き回り、まるでつかみどころがない。
「もう終わりかい? つまんないなあ」
 立ち止まって息を切らすふたりに、幽霊は綽々しゃくしゃくと言い放った。
 そこへ、白く輝く銃弾が飛び込んできた。手前で弾けて無数の光の糸となったそれは、刹那のうちに幽霊の躯を締め上げた。動きを封じられた幽霊は驚愕と苦痛に顔を歪ませる。
「幽霊が光に弱いっていうのは本当みたいね」
 オペラが幽霊を睨んで立っていた。冷静を装っているものの、言葉の端には凄まじい怒りが込められていた。そしてクロードに目で合図する。諒解したクロードは剣を下手したてに握って駆け出した。
「やっ、やめろお!」
「双破斬ッ!」
 戦慄する幽霊にクロードは容赦なく剣を振り上げ、振り下ろした。闘気の込められた刃が半透明の躯を二度引き裂き、幽霊は幾千万の霧の粒となって周囲に四散した。
 クロードは剣を収めて、オペラの方を向く。彼女はレナの治療を一心に見守っていた。
「う……」
 男は意識を取り戻した。
「エル! ああよかった!」
 オペラは上半身を起こしたエルネストの首っ玉にかじりつく。
「オペラ……? どうしてお前が」
「なに言ってるのよ。あなたが勝手に飛び出していっちゃうから、追いかけてきたんじゃないの」
「そうか……すまなかったな」
 エルネストはオペラを擁して立ち上がる。
「幽霊に取り憑かれたところまでは覚えている。その後は記憶がないが、どうせろくなことはしなかっただろう。迷惑かけたな」
 そこまで言うと、次に周囲の者たちに向けて。
「挨拶が遅れて申し訳ない。俺はエルネスト・レヴィード。こんななりだが一応は考古学者まがいのことをしている」
 寄り添っていたオペラを立たせて、それから遺跡の建物を振り仰いだ。
「今回は紋章術文明の遺跡調査に来たわけだが、少しばかりドジを踏んでしまったな」
「だけど、どうしよう」
 と、オペラが口を開いた。
「エルが見つかったからには、あたしはこれ以上旅を続けられないわ」
「え?」
 思いもよらぬ言葉にレナは驚いた。
「オペラさん、帰っちゃうんですか?」
「うん、そうね……そのつもりだったけど」
 言葉を濁したあと、出し抜けにエルネストの方を向く。
「そうだ。よかったらエルもつきあわない? あたしたちはソーサリーグローブの調査をしているの。あなたもずっとここに来ていたなら聞いているでしょ、ソーサリーグローブのこと」
「ああ。何やら物騒な話だな」
「面白いと思わない?」
 煽りたてるような彼女の言動に、エルネストは面食らった。
「どうしたんだ? 随分と熱心じゃないか。いつもなら早く帰りたいって駄々をこねるお前が」
「だって……なんだか、別れづらくなっちゃったんだもの」
 オペラは照れくさそうにうつむいた。
 エルネストは頬に手をあて考え込むような振りをしながら、そっとオペラの表情を盗み見して愉しんでいた。それからレナたちに訊ねる。
「そちらの皆さんはよろしいのかな?」
「もちろん、大歓迎ですよ」
 レナは笑顔で頷いた。
「そうか……。ならば、しばらく世話になるとしようか」
「エル」
 オペラは顔を上げて、晴れやかな表情を見せた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、以後よろしく」
 エルネストは革手袋を外すと、右手をレナの前に差しだした。レナがしっかりとその手を握る。
「じゃあ、さっそく」
 と、レオンが背後のトロッコと翡翠色の岩を指さして、言った。
「あれを海岸まで運んでもらおうかな」