■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第六章 ラクールの希望

1 守るための強さ ~ラクール前線基地~

 それは、よく晴れた日のことだった。
 赤い塗料のげた屋根。その奥に広がる深緑の森は、暖かな光を浴びて眩く輝いている。村の合間を縫う小道では、年端もいかぬ子供らが棒きれを振り回して無邪気に戯れる。小川は澄みやかに流れ、風は眠くなるほど緩やかに吹いていた。
 いつもと変わらない、村の風景。平和で、穏やかで、そして退屈な世界。……嫌気がさすほどに。
 森に守護された村は、外界とまったく隔絶され、独自の時の流れを漂っている。ここには全てがあった。しかし同時に、何もなかった。
 ──村という名の檻。その中で、何の刺激もなく一生を終えることに、俺はひどくおそれていた。ここを出るのはそう難しいことではない。自身もそれを望んでいる。だが……。
「お兄ちゃん、支度できたよぉ」
 窓から外を眺めていた俺に、セシルが呼びかけた。たったひとりの、かけがえのない妹。
「今行く」
 簡単に返事をして、机の上に置いてあった剣を取って腰に差した。森に出かける際は必ず身につけるようにしている。けれども、これまでただの一度も役に立ったことはない。せいぜい道を邪魔する枝を切り払うか、迷わぬよう木の幹に目印を刻むときに使うくらいか。
 アーリアの春は遅い。太陽の位置が最も高くなる時期にようやく雪解けが始まり、待ち侘びたように新芽が地面からいっせいに吹き出す。この季節に森へ山菜摘みに出かけるのが、家族の毎年の恒例行事になっている。セシルはこれを楽しみにしているようだったが、俺は別にどうでもよかった。ただ、家族が、セシルが行くというからついて行くだけで。
 樹木のアーチを潜るような山道を、父さんと母さん、それに俺が続いた。セシルは俺たちの周囲をしきりに駆け回って、やれ足許の土が柔らかくて気持ちいいだの、木の上にリスがいただの、珍しい鳥の声が聴こえただのと、はしゃいだ口調で騒ぎ立てる。
 そこまでは、いつもの光景だった。
 やがて道の反対側から、ひとりの男がやってきた。肌は艶々として白く、歩き方や仕種も変になよなよとしており、一見すると女のようでもあった。身なりは小綺麗に整えられ、およそ山歩きする風体とは思えない。
「やあ、おそろいでどこへ行かれるのですか?」
 媚びたような笑顔を作って、男が声をかけてきた。
「ちょっとそこまで、山菜でも摘みに行こうかと思いましてね」
 父さんも笑顔を返して応えた。すると男は大げさに手を開いて驚いたような仕種をする。
「おやおや、それなら私がいい場所を知っていますよ。いや、私も先ほど見つけたんですがね、そこへ行けばワラビもゼンマイもオケラもその籠いっぱいに採れますよ」
 饒舌な男に父さんと母さんは怪訝そうに顔を見合わせて、それから訊ねる。
「失礼ですが、あなたは?」
「これはしたり、ご紹介が遅れました。私はラクールアカデミーで地質学を研究しておりますメッサーというものです。今回はクロス南部の地質を調査しているところで」
「学者の方でいらっしゃいましたか」
「ええ。まあどうぞ、こちらへ。ここで出会ったのもなにかの縁ですから」
 男は俺たちを誘って森の奥へと歩き出す。語気にはどこか有無を言わさぬ鋭いものがあった。父さんと母さんは困ったような表情をしながらも、威圧されるように男の後をついていった。
 俺は男の言動にどこか芝居めいた装いを感じたが、父さんたちにそのことは言わなかった。自分の杞憂のせいで、山歩きを楽しんでいる家族にいらぬ心配をかけさせるのは心苦しかったし、もし何かあれば、俺がこの剣で皆を守ればいいだけの話である。その頃の俺は、実戦での経験は無きに等しいにも関わらず、根拠のない自信だけは募っていた。
 男は森の奥深くを無言で突き進んでいく。途中でセシルが疲れて、俺がおぶってやることになった。それでも男はこちらを振り向きもせず歩き続けるので、とうとう堪えかねた父さんが。
「あの、どこまで行くのでしょうか」
 そう訊くと、男は立ち止まり、こちらを振り向いて言う。
「ここですよ」
「え、でも……」
 その場はただの山道で、踏みしめられた黒い土と朽葉の他は苔ばかりで、山菜など影も形も見あたらない。
 嫌な気配を感じて男の顔を見ると、そこにはニタニタと薄気味悪い笑顔が張りついていた。
「そうら、お客さんだ。出迎えてやんな!」
 突如として男が叫んだ。すると周囲の茂みや樹木の陰から別の男が五、六人ほど現れて俺たちを囲む。屈強そうな体躯にさんばら髪、筋肉の盛り上がった腕には三日月形の蛮刀が握られている。やられた、山賊だ。
 母さんが抱えていた籠を落とす。その音でうとうとしていたセシルが目を覚ます。俺は妹を背中から降ろして、右手を剣の柄にかけた。
「おっと、妙な真似はするなよ。大人しくしてりゃ、悪いようにはしねぇよ」
 先程まで俺たちを案内していた男が、まるで別人のような口振りで言った。
「まずは有り金全部出してもらおうか」
 父さんが俺に目配せして、俺もそれに頷いた。いかんせん相手の人数が多い。今は逆らわずにいた方が得策だろう。
 臆病な自分に気づいたのはそのときだった。知らないうちに足が震えている。こんなことは初めてだった。どのような場においても俺は、俺だけは冷静に対処できると思っていた。それが今はどうだ。胸は苦しく、頭は絡まった糸のように混乱し、そして足は竦んで動かない。こんなにも俺は情けない奴だったのか? 今の自分を、俺は決して信じたくなかった。
 父さんが腰につけていた革袋を男に投げ渡す。男は袋の紐を緩めて中を確認すると、疑わしげに父さんを睨んだ。
「たったこれだけか?」
「山菜を摘みに来たんだ。そんなに多く持っているわけがないだろう」
「ちッ、しょうがねぇな」
 男は舌打ちをすると、次に俺の腰にしがみついているセシルを指さした。
「なら、そのガキを置いていきな。っ子はそこそこの値で売れるというからな」
 怯えたセシルが俺の背中に顔を埋める。もはや躊躇ためらう理由はなかった。妹を母さんたちに任せて、俺は剣を抜きはなつ。
「小僧、なんの真似だ。まさか俺たちとやり合おうってのか」
 嘲笑する山賊どもを俺は歯を食いしばって睨み返した。
「妹は渡さん」
 冷静に剣を構えたつもりだったが、既にそのときは頭に血が上っていたらしく、あとのことは断片的にしか覚えていない。ただ、がむしゃらに剣を振り回して二人ばかりを打ち倒したこと、それから木の上に潜んでいた山賊が弓を放って右肩を貫かれたこと、剣を取り落とした俺を背後から別の山賊が斬りつけたことは、頭の片隅に無意識のうちに刻み込まれていた。
 そうして、不覚にも俺は倒れた。黒土に顎をつけて前を向くとセシルの姿が見えた。俺の許へ駆けつけようとして母さんに止められる。お前を守る。そう心に誓ったのに。
 立ち上がろうとした俺の左脚を、誰かが容赦なく踏みつける。鈍い痛みに呻き声が洩れた。同じ所をもう一度踏みつけられると、今度は鋭い激痛が身体を伝って脳天に突き抜けた。目の前が奇妙に明るい。不快なしこりが胸を蝕んで、思わず嘔吐えずいた。
 三度目に踏みつけられたときは、もはや痛みと呼べるものではなかった。屈辱と絶望に涙を零しながら、俺は意識を失った。

 次に気がついたときは、地獄のごとき光景が広がっていた。いや、いっそのこと地獄に堕とされた方がどれだけ幸福であったろうか。
 傍らに父さんと母さんが折り重なって倒れていた。庇うように母さんを抱えて地面に伏した父さんの背中には、蛮刀が深々と突き刺さっている。仰向けの母さんの額は血に染まり、驚愕の表情のまま見開かれた双眸は虚空を見つめて動かない。
「いやっ! パパ、ママぁ、お兄ちゃん!」
 重い頭を動かして声のした方に視線を向けると、少し離れた道端で、賊に捕らえられたセシルが腕を振ってしきりに泣き叫んでいた。身体を起こしかけた俺を左脚の激痛が襲う。痛みなど関係ない。妹を守るんだ。顔を歪めて左脚に力を込める。動け。頼むから動いてくれ。念ずれど脚はもはや思うようには動いてくれない。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃあん!」
「うるせぇ!」
 山賊がセシルを蹴り上げた。妹の華奢な身体が木の幹に叩きつけられ、根元に転がり落ちる。
「おい、売り物なんだろ。傷つけたら値が下がるぜ」
「こんなやかましい奴を連れて歩けるか。勿体ねぇが、ここで始末する」
 そう言った男の手には、ああなんと! 俺の剣が握られていた。あの剣で妹を守ると、俺は誓ったではないか。
 身を固めて震える妹を前にして、男が剣を振り上げる。やめろ。こころの中では叫んだものの、喉がつかえて声は出ない。
 妹は、振り下ろされた俺の剣に貫かれた。
 それは果たして刹那の出来事であったのだろうか。俺にとってはそれまで生きてきた平穏な時間をいくら積み重ねても足りないほど、途方もなく長い瞬間だった。
 樹木の緑も、土の黒も、血の赤も、目に見えるものすべてが灰色に染まっていく。山賊どもが何やら喋っているが、俺の耳には届かない。セシルの身体に突き刺さった剣を抜くと、奴らは下卑げびた笑いを浮かべながら森の奥へと歩き去っていく。
 俺は地面を這ってセシルの許まで行った。矢に射抜かれた右肩、斜めに斬り裂かれた背中、踏みつけられて砕けた左脚、それ以上にこころが痛かった。左腕と右足だけを動かして蛞蝓なめくじのようにのろのろと進んでいく。あまりにも無様な、惨めな姿だった。
 うつぶせの妹を抱き起こして顔を覗きこむ。セシルはうっすらと目を開けてこちらを見た。紫色の唇をわずかに動かして、弱々しく呼吸をしている。
「お兄ちゃん、どうしたの。どこか痛いの?」
 セシルが放心したきりの俺に言った。蚊の鳴くような、小さな声だった。
「痛い、なら、レナお姉ちゃんに、なおしてもらわないと、ね」
 涙が溢れ、セシルの姿が歪む。ギュッと目を瞑ると、大粒の滴が血の気の失せた頬に落ちた。瞳を見開いてもう一度顔を見る。妹は安らかに微笑んでいた。
「セシル、なんだか、眠くなっちゃった」
「ああ。ゆっくりお休み」
 なぜかその言葉だけは滞りなく声に出た。他人が聞けば残酷と思われたかもしれない。だが、それが今の俺にできる精一杯の愛情だった。
「おやすみ、おにい、ちゃ」
 頭がこくりと沈んで、白い喉が目の前に突き出された。俺はおもむろに妹を地面に寝かしつけて、自らの涙に濡れた頬にそっと口づけをした。
 俺は哀しかったのだろうか。泣いていたのだろうか。視界は灰色からもはや暗闇となり、頭の中は霞や靄でもかかったかのように判然としなかった。ただ、守るべきものを守れなかったという事実だけが、目前に横たわっていた。
 奇妙な安堵が俺を襲って、全身の力が抜けていく。妹の胸に頭をもたれさせて、俺も横になった。妹の顔が、父さんや母さんの姿が、まわりのすべてのものが遠ざかっていく。このまま眠りにつき、できるなら妹と一緒になりたい。俺は心から切望して、意識を手放した。

 だが、俺は生き残った。
 その望みは叶わなかった。
 生きることが俺の犯した罪であり、罰であったからだ。


「違うわ」
 レナが言った。ディアスは驚いたように彼女を見る。
「誰があなたにそれを押しつけたの? 生きることが罪になるなんて、誰が決めたの? 自分自身じゃない。あなたは自分で自分を追いつめてるだけよ」
 厳しい口調のレナに視線を背けるディアス。ふたりが立つ断崖の向かい側には壁のように切り立った渓谷が続いており、眼下の川に流れ込む瀑布の音ばかりが響きわたる。
 ラクール前線基地。大陸の最北端に位置するラクール軍の最大にして最後の防衛拠点だ。このあたりは地理的に険しい崖や谷が多く、それが天然の要塞となっている。
 一行はラクール王の要請により、交戦中の魔物軍の侵攻を阻止するためこの地に駐留していた。ホフマン遺跡から採取したエナジーストーンを精製してラクールホープに組み込むには、まだかなりの時間を要する。彼らにおおせられたのはそれまでの時間稼ぎだ。
 そして、ディアスも偶然ここに来ていた。姿を見かけたレナはひとり、彼に会っていたのだった。
「ねえ、ディアス」
 再びレナが口を開いた。
「お願いだから、もう自分を責め続けるのはやめて。その力を自分を責めることだけに使うのはやめて。あなたが生きているのは罪じゃない。罰でもない。セシルがそう望んだからよ」
 ディアスの表情に変化はない。だが、妹の名を聞いたときに僅かに口のが動いたような気がした。
 レナはさらに続ける。
「もう忘れちゃった? あの子はお兄ちゃんのことが大好きだったのよ。どんなときだってあなたのことを慕っていたじゃない。大好きなお兄ちゃんだからこそ生きて、幸せになってほしい。あの子ならきっとそう願っているはずだわ。他人から、現実から逃げてばかりのあなたを、セシルはどんな思いで見ているか」
「逃げてばかり、か。確かにな」
 ディアスは自嘲気味に呟いた。
「俺は弱い人間だ。あいつのようにたくましくはなれん」
「あいつ?」
「お前の身近にいる誰かさんだ」
「……クロードが? どうして?」
 レナは首を傾げた。
「あいつは時々、ひどく孤独に見える。俺なんかよりも、ずっとな」
 ディアスは視線をもたげて流れゆく筋雲を眺めた。
「お前や俺の前では強がってみせているが、ふと気がつくと、誰よりもひとりぼっちのような表情をすることがある。今まで住んでいた家から引き離された子供みたいにな。レナもずっと一緒に行動してきたなら、身に覚えがあるはずだろう」
「うん……」
 ヒルトンの夜。あのときの彼の孤独は、いまだにレナの脳裡に焼きついて離れない。
「何故かはわからん。ただ、家族も身分も住む場所も、自分に関わるすべてのつながりが断ち切られて、ひとりきりでこの世界に放り出された。あいつを見ているとそんな気がしてならない」
 レナはその言葉に胸の詰まる思いがした。それはまさにディアスのことではないか。いつから彼は自分とクロードを重ね合わせるようになったのだろう。
「なのにあいつは、そんな素振りを見せることなく仲間のために戦っている。俺にはできん芸当だ」
 冷たい風がディアスの空色の髪をさらった。どうと唸りをあげて、風は谷間を抜けていく。
「俺なら仲間なんぞ放っておくがね。あいつは放っておけん性分なんだろう。他人が困っていれば、自分がどれだけ窮地に追い込まれていようとも助けようとする。お人好しもここまでくると立派なものだな」
 そこまで言うとディアスはレナの方を向いて。
「お前に対してだってそうだ。たとえ自分がどんなに傷つき、倒れるようなことがあっても、あいつはお前を守り続けるだろう。仲間のためには、信じるもののためには命すら投げ出せる。そういう男なんだ」
「そんな……」
 言いつつも、レナには思い当たる節があった。確かにクロードはこれまで命がけで戦ってきてくれた。だが、それはすべて、仲間のためだったのだろうか?
 私の、ため?
〈僕には、これが精一杯なんだ〉
 サルバ坑道で力なく笑ってみせたクロード。
〈どうして守りきれないんだ〉
 クロス洞穴では拳を叩きつけて悔しがった。
〈なんで立ち向かったりしたんだよ〉
 あのときの言葉も、彼女を想ってのこと。
 そして、武具大会。彼は決して自分のためなどには戦っていなかったではないか。傷つき倒れても何度も立ち上がって相手に立ち向かう。あのときも彼は信じるもののために戦っていたのだ。
 レナはようやく気づいた。彼が信じるもの、それはつまり。
「守るための強さ、か。俺はとうの昔に棄ててしまったがな」
 ひとり呟くディアスの瞳は、深い海の底のように冷たく、寂寥せきりょう感に充ちていた。
「そんなことはないわ」
 レナが言う。
「棄ててなんかいない。あなたはただ、守るために戦うのを恐がっているだけよ」
「俺に守るものがあるとでも言うのか?」
「それはあなた次第じゃない。守ることが恐いから、他のひととの関わりを避けているのよ。そんなんじゃ、いつまでたっても前に進まない」
「相も変わらず言ってくれるな」
 ディアスは苦笑した。
「では、前に進むために俺はどうしたらいいのかな」
「いっしょに戦いましょう」
 ディアスは目を見張る。それは彼にとっても意外な言葉だった。
「私たちと一緒にいれば、きっとあなたの守るものが見つかるわ」
「俺を仲間に引き入れるつもりか? クロードが許さないだろう」
「僕は構わないよ」
 声のした方を振り向くと、横の煉瓦造りの建物からクロードが出てきてこちらに歩み寄った。
「強い仲間はひとりでも多い方がいい。あなたさえよければ、みんなだって歓迎するさ」
 ディアスはしばらく無言でクロードの顔を見つめていたが。
「……表情が変わったな」
「え?」
「前はもっと思いつめたような顔をしていた。何があったかは知らんが、まあそういうことか」
 大きくかぶりを振ると、ディアスは背中を向けた。
「まいったな。俺は集団で動くのは嫌いなはずなんだが……」
「ディアス」
 期待を込めた視線を送るレナに、ディアスは少し気圧されるように見返す。そして言った。
「……ひとりがいいと思ったら、俺はいつでも抜けるからな。それから、がらでもないから仲間なんて呼び方はやめてくれ。あくまでお前らに同行するだけだ」
「ええ、それでもいいわ。ありがとう!」
 レナは満面の笑みを浮かべてクロードを見た。クロードも、少し困ったような表情をしながらも笑顔を返す。
 ディアスは空を振り仰いだ。筋雲はすっかり流れ去って、澄みきった青空に眩い太陽が浮かんでいる。
(セシルもこんな空が好きだったな)
 彼は瞳を細めて笑いかけた。空の向こうの、愛しきものに。


 翌日、前線基地は魔物軍の襲撃を受けた。
 堅固な砦を囲む外壁の上は見張り台になっていて、足場は意外に広い。彼らは軍の副司令官を伴ってそこに集まった。外壁の端の部分には巨大な砲台が据えつけられている。屹々きつきつとした砲身は、孤独に遙か彼方の空を向いたきり。あれこそがまさにラクールホープであった。もっとも、エナジーストーンを設置するまではただの飾りに過ぎないが。
 外壁で隔てた砦の反対側は荒涼とした平原が広がり、ラクール軍はそこで魔物軍と激しい戦闘を続けていた。数の上ではラクール軍が勝っているが、負傷者はこちらの方が圧倒的に多い。果たしていつまで持ちこたえられるか。
「どうして僕らは戦えないんですか?」
 クロードが詰め寄ると、副司令官は頭の軍帽を深々と被り直して渋い顔をした。
「なんの訓練もされていない戦士たちに勝手に行動されるのはまずいんだよ。総司令官と話し合って、各方面の隊長からも了承を得てからでないと」
「それじゃ、遅いんですのよ!」
 セリーヌが地団駄を踏む。
「俺たちは何のためにここに呼ばれたんだ? こうして兵士がやられていくのを指をくわえて眺めるのが、俺たちの役目なのか?」
 クロードの横からボーマンも言い寄った。
「だから、その、もう少し時間をくれ。そうすれば、戦場に出られるようになるから」
 副司令官はたじたじになって、苦し紛れに言葉を連ねるが。
「悠長なこと言ってる場合じゃないでしょう! 事態は一刻を争っているんですよ!」
 クロードに怒鳴りつけられて、完全に萎縮してしまった。
「副司令!」
 そこへ、見張りをしていた兵士の声が飛び込んできた。これ幸いと副司令官は兵士の方へと早足で歩いていく。
「北東の上空に魔物の群が。ものすごい速さでこちらへ向かっています」
 見ると、確かに翼をつけた魔物の影がいくつも空に浮かんでいた。下の平原で交戦中のラクール軍には目もくれず、まっすぐこの砦を目指している。
「弓を用意しろ! ありったけの矢を持ってくるんだ!」
 副司令官の命令を受けた兵士が慌ただしく砦へと降りていった。その間にも魔物は確実に近づいている。
 十数人の兵士が集められ、それぞれが弓を構えた頃には魔物の姿もはっきり見えるようになっていた。赤紫の翼をつけた大きな魔物が先頭に立ち、その周囲を緑色の蝙蝠こうもりのような魔物が埋めつくす。
 すぐ目前まで迫ったのを確認してから、副司令官が叫んだ。
「射てぇ!」
 合図とともに、いっせいに矢が放たれた。クヌギの矢柄に先端を尖らせただけの簡素な矢は緑の魔物をいくつか撃ち落としたが、多くの魔物は攻撃をものともせず突き進んでいく。
 不意に赤紫の魔物が身を翻してさらに上空へと昇っていく。そして空中でぴたりと止まり、翼をひとつ羽撃はばたかせた。たちまち凄まじい烈風が巻き起こり、外壁の上の彼らを襲う。弓を番えた兵士はことごとく吹き飛ばされ、副司令官も飛ばされかかるが、近くにいたエルネストが咄嗟に腕をつかんでどうにか一命を取り止めた。他の者たちは外壁の縁や床の段差にしがみついて難を逃れた。
 風が止んで立ち上がると、緑の魔物は既に彼らの周囲を飛び回っていた。赤紫の魔物がゆっくりと彼らの前に降りてくる。
「ほう、あの風に耐えたか。大人しく飛ばされていれば苦しまずにすんだものを」
 魔物の黄色い眸が怪しく光った。肌の色は黒ずんだ赤紫で、身体は鎧のような外殻に包まれている。長く伸びた手足には鋭利な刃物のごとき爪がぎらぎら輝く。
「私はシンという。魔物軍を統率する事実上の長といったところか」
「なんだって?」
 クロードは狼狽した。魔物軍の首領がわずかな配下のみを従えて、いきなり相手の本拠地に乗り込んでくるとは、一体誰が予想しただろうか。
「なあに、大した用ではない。退屈しのぎに遊びに来てやったまでだ」
 シンが右腕を掲げると、緑の魔物がその周囲に集まった。
「さあて、どれほど楽しませてくれるかな」
 首領の合図で配下の魔物どもはきいきい喚きながら彼らに襲いかかった。
 クロードは剣を抜いて急降下してくる一匹に向けて振るった。魔物は彼を欺くように切っ先すれすれで上昇して、次に背後のレナめがけて降下してきた。鋭い牙が彼女の喉元に届く寸前に、ディアスが疾風のごとく駆けてケイオスソードで魔物を叩き落とす。魔物は地面を大きく弾むと、何事もなかったように宙を飛び回った。
「思ったよりもタフだな……これは厄介だぞ」
 ディアスは辺りを見回した。ボーマン、オペラ、それにエルネストも別の魔物数匹に手こずっている。こちらの足場は限られているのに対して、敵は空中を自在に飛び回ることができる。不利な状況は否めない。
「クロード、みんな!」
 そのとき、セリーヌが叫んだ。
「わたくしに時間をちょうだい! 十数える間だけでいいから、なんとか持ちこたえて!」
「セリーヌさん?」
 言葉の意味を理解しかねたクロードが訊いた。
「あいつらに一泡吹かせてやるんですのよ。とっておきのをぶちかましますわ」
 そう言うセリーヌの頬は上気して赤く染まり、瞳は燃えるように熱く輝いていた。そのあまりの剣幕にクロードは戦慄すら覚えた。
「わ、わかりました。けど、程々にしてくださいよ。足場まで壊したら僕たちが」
 聞く耳持たぬといった様相で、言い終わらぬうちにセリーヌは瞑目して詠唱を始めてしまった。
「うわっ!」
 いきなりクロードの鼻先すれすれを先程の魔物が通り過ぎていった。馬鹿にするように上空でせせら笑う魔物に、クロードは歯軋りしつつ剣を構える。そして、頭の中で数を数え始めた。
「……一……」
 クロードは跳躍して魔物に斬りかかるが、あっさり避けられてしまう。
「二……三……」
 レナは腕を噛まれたボーマンを治療する。
「四……五」
 そのレナの背中をしきりに狙う魔物どもをディアスが振り払う。
「……六……七」
 エルネストは鞭を巧みに操って竜巻を作り出し、巻き込まれた魔物は宙に放り出される。
「……八……」
 オペラは魔物に向けて光の銃弾を放つが、相手の動きが素早くてなかなか当たらない。
「九……」
 傷の癒えたボーマンがさっそく襲いかかってきた一匹を籠手で殴り飛ばす。
「……十」
「みんな伏せろぉッ!」
 セリーヌを除く全員がいっせいに地面に伏せる。同時にセリーヌの双眸がカッと見開いた。
「サンダーストーム!」
 振り上げた杖の先から稲妻が迸った! それは空中で炸裂して瞬時に網の目のような細かい電撃となり、上空で様子を傍観していたシンもろとも魔物を焼き焦がした。周囲の空一面を青白い光の筋が埋めつくし、ばちばちと雷光の爆ぜる音ばかりが耳をつんざく。一匹、また一匹と黒焦げになった魔物の屍が地面に落ちていく。
 ようやく静かになって起きあがると、彼らの足許には黒い塊がいたるところに転がっていた。セリーヌの呪紋の威力にほとほと呆れ返りながら上を向いたクロードは……そこで息を呑んだ。
 緑の魔物はことごとく全滅したにも関わらず、シンのみが変わらぬ姿で上空に浮いていた。あの電撃から逃れたとはとても思えない。しかしかれの身体には傷ひとつ、焦げ痕ひとつ見あたらなかった。
「ふふん、楽しませてくれるではないか。なかなか良い余興だったぞ」
 シンは頬を引き攣らせて、凄まじい笑みを作る。
「お前たちと一戦交える日も近いだろう。楽しみにしているぞ」
 そうして、突風のごとく彼方へ飛び去っていった。
 彼らはその場に立ちつくしたまま、茫然と消えゆく魔物の姿を眺めていた。誰ひとりとして、口をきく者はなかった。
「副司令ー!」
 外壁の足場の隅で同様に立ちつくしていた副司令官に、ひとりの兵士が駆け込んできた。
「たった今、城から報告がありまして、先程エナジーストーンが完成したとのことです!」
 クロードが、レナが、その場にいた者たちが振り返って兵士を見た。
「なにぃ! そ、そうか。ならば我々も全力で防衛に臨まねばなっ!」
 急に鼻息が荒くなった副司令官は兵士を引き連れて砦へと降りていった。
「ラクールホープが、ついに完成する……」
 レナは外壁に設置された砲台に視線を向ける。重厚な砲身は前方の空を睨んだまま、静かに佇んでいた。

2 大いなる希望の下に ~ラクール(4)~

「よう、アラーク」
「レイモンドか。何しに来たんだ。お前の持ち場はここじゃないだろ」
「そう言うなよ。外壁の見張りは大変なんだ。……ふう、渓谷はいいよなぁ、なんだか空気まで違うぜ」
「そんなもんか? 見張りならどこだって同じだろう」
「ぜんぜん違うさ。向こうはやけにピリピリしていて、息が詰まりそうだ。おまけに冷たい風がびゅんびゅん吹いて、骨の芯まで冷えきってしまうよ」
「寒いのはこことて変わらんさ。早く戻れ、また隊長にどやされるぞ」
「それだよ。どうして隊長たちはあんなに機嫌が悪いんだ?」
「エナジーストーンが到着しないからだろう。完成したと報告が入ってから今日で六日目か。その間、魔物の襲撃もひっきりなしに続いて、味方の戦況は悪くなる一方だ。総司令も随分と頭を悩ませているらしい」
「へええ、あの総司令がねぇ。でも、ま、あの顔じゃ悩んでいてもいつもと変わらないけどな。シメられる前の豚みたいな顔してさ」
「おい……」
 うおっほんと咳払いをして、シメられる前の豚……ではなく、総司令官がすぐ横に立っていた。青ざめたレイモンド兵士は形ばかりの敬礼をすると、脱兎のごとくその場を逃げ出した。
 渓谷を一望できる崖の上で、レナはその一部始終を傍観していた。総司令官は残った兵士と少し話をして、それから彼女に気づくとこちらに歩み寄ってきた。
「君はアレかね、確か、例の戦士たちの仲間だったね」
「ええ、そうですけ……ど」
 間近で見るとなるほど総司令の容貌は醜い。先程の兵士の表現も言い得て妙だと思えてしまうぐらいだ。鼻は押しつけたように低く、両眼の窪みもまわりの肉にほとんど埋もれてしまっており、口許はどこかだらしなく緩んで、下顎の余分な肉が顎を覆うように垂れ下がっている。禿げ上がった頭は油を塗ったようにぎらぎらと照り輝き、突き出た腹を苔色の軍服がはちきれんばかりに締めつけていた。
「君たちの働きぶりには我々も感服の至りだ。次の襲撃のときも頼りにしているぞ」
「はあ……」
 レナは気乗りのしない返事をした。そのことが総司令官にありもせぬ懐疑をもたらしたらしく、さらに言葉を重ねる。
「案ずることはない。間もなくエナジーストーンが到着する。そうすればラクールホープも完成だ。こいつで憎き魔物どもを蹴散らして、我らに……」
 暑くもないのに総司令官の額には玉の汗がいくつも浮き出ていた。途中で言葉を切って手巾ハンカチで額を拭うと、レナの横を抜けて砦の奥へと歩き去ってしまった。
 総司令の口から勝利という言葉が出ることはなかった。
 風は崖上から渓谷を抜けていく。寒さにひとつ身震いすると、レナも砦の中へと入っていった。
 砦の中央に延びる通路は明かり取りの窓もろくになく、燭台は皿ばかりが壁に並んで灯される気配もない。薄暗い歩廊を歩くと、隅でうずくまる人々の呻きが否応なしに耳に届いてくる。救護室から溢れ出た兵士や戦士たちだ。
「熱い……熱いよぉ……」
「お願いだ……助けてくれ……」
「足は……俺の足はどうなったんだ?」
「苦しい……薬を、誰か……」
「頼む、妻と子供に、会わせてくれ……」
 レナは前を向き、なるべく彼らを見ないように通り抜ける。できれば耳も塞ぎたかった。いつもならばすぐに手を差し延べて治療していたことだろう。しかし今、彼女はこの前線基地の中で回復呪紋を大っぴらに使用することは禁じられていたのだ。
 それは、エルネストの危惧によるものだった。
「もし、レナがここに倒れているひとりを治療したらどうなる? そうすればここにいるすべての怪我人を治療してやらねばならなくなる。あとはもう芋蔓いもづる式だ。レナの噂が基地の隅々まで広まって、なん千人もの怪我人がいっせいにレナひとりの所へなだれ込んでくる。そうなってしまっては、お前の身体がもたんだろう」
「でも、時間をおいて、少しずつ治療していけば……」
「そんなに悠長な話だと思うか? あちらさんは生きるか死ぬかと切羽詰まっているんだ。レナが疲れていようがいまいが向こうは知ったこっちゃない。下手すればお前を脅してでも治療させようとするだろうな」
「そんな……」
「悲しいが、それが人間の本性なんだよ。追いつめられるとどんな手段を講じてでも助かろうとする。まったく、数ある生物の中でもヒトというのは最も愚昧な動物かもしれんな。……いいな、レナ。その力は決して人前で見せるんじゃないぞ。基地がパニックになるし、何よりお前の身に危険が及ぶかもしれないんだ」
 エルネストは強い口調で彼女にそう言い聞かせた。
 レナも一応は諒解したつもりだった。けれど、頭のどこかではどうしても納得できない。自分にはここにいるひとたちを助ける能力ちからがある。なのにそれを使ってはいけないという。仕方のないことだと割り切ろうとしても、これまで経験したことのないこころの痛みに、レナは堪えるのがひどく辛かった。この場所を通るたびにいつも、人々を欺いているような後ろめたさがつきまとう。床に伏して呻きをあげる負傷者たちの、怨恨の視線がすべて彼女に注がれているような気がする。自分の身はどうなっても構わないからと、道の途中で立ち止まってしばらく葛藤していたこともあった。
(こんな思いをするくらいなら、いっそ治癒の力なんて持たなければよかった!)
 自暴自棄になって、レナはそう思ってみたりもした。
 通路を抜けて、突き当たりを右に折れたところで、いきなり警鐘が鳴り響いた。
「北北東に魔物来襲! 繰り返す! 北北東に魔物来襲!」
 手前の部屋から兵士たちが慌ただしく飛び出して外へ出ていった。背後の通路の奥にある指揮官室からも、甲冑を身に纏った隊長たちが何事か叫びながらレナを追い抜かしていく。レナはひとりで外壁へと通じる道を駆けた。
 外壁には既に仲間たちが集まっていた。夕日はほとんど沈みかけて、地平線近くの雲を茜色に染め上げている。
「クロード、魔物は……」
 訊くまでもなく、前に広がる平原の先に無数の魔物の群れを視認することができた。
「あっちゃー、こりゃまた豪勢に来てくれたねぇ」
 おどけたようなボーマンの言葉も場を和ませることはなかった。
「こっちの状況は?」
 オペラが横にいた副司令に訊く。
「出撃できる兵士は六千五百ほど。傭兵を含めても一万には満たないだろう」
「絶対数が足りない……攻め込まれるのは時間の問題か」
 ディアスが魔物を静かに睨めつけながら呟いた。
「僕たちも下に降りて戦おう」
 クロードが提言すると、副司令官は色めき立って。
「それはいかん。君らは砦の最終防衛線なんだ。君らがいなければここは確実に落とされてしまう」
「でも、このまま何もせずに兵士がやられるのを見ているわけにもいきません」
 レナが副司令の前に進み出た。
「私はなんと言われようと行きます。これ以上、傷つく人を見るのは、嫌なんです」
 そう言って目を伏せるレナの肩を、エルネストは軽く叩いてやってから。
「そうだな。俺たちが行けばなんとか食い止められるかもしれん」
「仕方ありませんわね」
「行こう」
 決意を固めてクロードが言ったそのときだ。
「無駄な戦いは必要ないよ!」
 どこからか聞き覚えのある声がした。周囲を見回してみたが、それらしき人影はない。
「ここだよ、ここ」
 砦の西側には、外壁よりも高い断崖が隣接してそばだっている。その頂にひとりの少年が立っていた。
「レオン?」
 腕組みをして、大見得を切った表情でふんぞり返っているのは、ホフマン遺跡で共に鉱物を採取に行った、あのレオンだった。水色の髪と白衣を靡かせて、頭の上の一対の耳は存在を誇示するようにしっかりと突き出ている。
 少年は腕を解くと、弾みをつけて崖から外壁へ飛び降りた。ところが勢い余って体勢まで崩してしまい、レナたちの手前に尻から着地する羽目になった。
「どうしてあんな所にいたんだよ」
 クロードが訊くと、レオンは痛そうに尾骨のあたりをさすりながら立ち上がる。
「いたた……。真打ちは、高いところから登場するのがお約束なんだよっ……」
「ナントカと煙は高いところが好き、とも言うわな」
 軽口を叩くボーマンにきつい一瞥をくれてやってから、レオンは砦の出入り口に視線を向けた。そこから遅れて出てきたのは、大きな装置を抱えた別の研究者たち。
「ほら、急いで向こうに持っていって。もたもたしてると魔物が来ちゃうよ」
 レオンは甲高い声でしきりに命令を飛ばす。研究者たちは汗だくになって、装置を外壁の隅にあるラクールホープの砲身へと運んでいく。
 装置、と言ってもそれはおよそ単純なものであった。両側から押し潰したような球形の石──翡翠色に鈍く輝くそれは、彼らがホフマン遺跡で採取したエナジーストーンに相違なかった──と、石を囲むように取りつけられた円環、あとはそれらを支えるための台座が備えてあるばかり。金属の円環には細かく紋章が刻まれ、石を繋ぎ止めるように白い紐状のものがいくつも走っている。
 研究者たちは、エナジーストーンを砲身の横に慎重に置くと、急いで両者を接続する作業に取りかかる。レオンはその場にいた見張りや副指令、それにレナたちを一同に見据えて。
「さて、これからボクらがみなさんに素晴らしいショーをご覧にいれましょう。驚くなかれ」
 気取ったようにそう言ってから、今度はレナひとりに向かって手を振り、一転してあどけない笑顔をはじけさせた。
「レナお姉ちゃん、よっく見ててねー!」
「え? あ、うん……」
 いきなり名前を呼ばれたレナはびっくりして、それから周囲の視線がすべて自分に注がれているのに気づくと、ばつが悪くなって俯いた。
「レオン博士、接続完了しました」
 研究者のひとりがレオンに報告する。レオンはまた表情を引き締めて、ラクールホープの巨大な砲身に向き直った。
「術師の準備はできてる?」
「いつでもよろしゅうごさいます」
 エナジーストーンの手前には、白いローブに赤茶のフードを被った術師が既に待機していた。
「よし、起動!」
 レオンの命令で、研究者たちが慌ただしく動き始めた。
「抽出部の各機器とも異常ありません」
「紋章力の抽出開始」
 術師が掌をあてがって念を送ると、エナジーストーンの前面に炎のような模様が浮かび上がった。
「飽和状態になりしだい、砲身への装填開始だ。引き続き照準の指定を行う」
 レオンは地図らしき紙を広げて、前方の魔物軍と照合する。
「敵の予測中心地は座標二一八の六五。高度は、効果範囲から算出して……八三」
「二一八の六五の八三。設定しました」
「紋章力の抽出完了。砲身に装填します」
 エナジーストーンは鮮やかな翡翠色の光を一層強めた。研究者が砲身の前で一連の操作をすると、その光が白熱する紐状のものを伝って砲身の内部へと溜まっていく。
「装填完了まで、残り二十……十……五……一」
「……発射ぁっ!!」
 人差し指を突き出してレオンが叫ぶ。同時に砲口から光が洩れだして徐々に増していく。そして一瞬の間を置いたのち、勃然と光の塊が吐き出された。尾を曳きながら滔天とうてんの勢いで魔物の群れへと突っ込んでいくその姿は、さながら緑色の彗星であった。
 光の砲弾は魔物軍の上空で見えない壁にでもぶつかったように炸裂し、無数の閃光が火花のごとく周囲に飛散した。閃光は魔物の群れに降り注ぎ、それに触れた魔物は躯の内部から瞬時に爆発を起こし粉微塵になった。魔物の群れそのものが巨大な爆弾と化して、平原に凄まじい轟音と爆風が吹き荒れる。大地の鳴動は遠く離れた砦をも揺り動かした。
 大量の塵芥が巻き上がる平原を、城壁にいた者たちは茫然と眺めた。一万の兵をもってしても駆逐することは不可能と思われた魔物の群れは、その瞬間に一匹残らず消滅していた。
「……なんだ、今のは?」
「まさか……あれが」
 見張りの兵士たちが騒つきだした。レオンは彼らを振り返って、得意満面の口振りで言う。
「みなさん、いかがでした? これがラクールホープの威力ですっ」
 全員がいっせいにレオンを見た。
「……勝てる」
「我々の勝利だ!」
「ラクールホープがあれば勝てるぞ!」
 口々に賞賛の言葉を浴びせる兵士たちをよそに、レオンはまっしぐらにレナの許へ駆け寄った。
「お姉ちゃん、どうだった? すごいでしょ!」
「ええ、すごいわね……」
 レナの反応にレオンはなんとなく物足りなさを感じたのか、溢れる笑顔をわずかに凋衰ちょうすいさせた。
「あの武器はお前が作ったのか?」
 脇からディアスが口を挟むと、レオンは不満げに口を尖らせた。邪魔するなよ、というふうに。
「そうだよ。あれぐらいの武器なら二日もあれば作れちゃうけどね」
「なら、どうして完成にこんなに時間がかかったんですの?」
「そっ、それは、その……いろいろあったんだよっ。安全性チェックとか操作テストとか」
「レオン」
 砦の出入り口から白衣を着たふたりの男女がやってきた。マードックとフロリスだ。
「首尾はどうだ?」
「上々だよ。ほぼ期待通りの成果が得られた。数値測定は今あっちでやっているけど、多分もう十パーセントは出力を上げても平気だと思う」
「そうか。……ああ皆さん、ちょうどよかった」
 と、マードックはレナたちの方を見て。
「陛下が皆さんをお呼びです。至急ラクールに戻っていただきたい」
「何かあったんですか?」
「ラクールホープ完成を機に、いよいよエル大陸への侵攻を開始するようです。皆さんにもこの作戦に加わっていただきたいとのこと」
「なん……だって!?」


 数ヶ月前、激しく刃を交えた同じ場所に、ふたりは戻ってきた。しかし今ここにいるのは彼らだけではない。旅を続け、共に戦ってきた仲間たちも一様に胸を張り、それぞれの決意を内に秘めて立っている。
 あのときと同じように、コロシアムは大勢の人間で埋めつくされていた。だが、人々の表情にかつての活気はなかった。長きにわたる避難生活に身も心も疲れ果て、憔悴した者たちばかり。応援の掛け声や勝利を喜ぶ歓声のかわりに、赤ん坊の泣き声や悪酔いした男の無意味な叫声が虚しく余韻を残す。
 先代の肖像が見守る中、ラクール十四世がコロシアムの中心に設けられた演台の前に立つ。背後には護衛の兵士とおびただしい数の勲章をつけた将軍数名、左の脇にはレオンとマードック、フロリスの研究者親子が、そして右の脇にはクロードたち七人が揃って肩を並べた。
「……皆も承知の通り」
 王が話を始めると、場はしんと静まり返った。
「半年前、ひとつの隕石がエル大陸を直撃した。それにより我が盟友エル王国が多大な被害を受けることとなった。我らは救助の為に物資と人員を派遣した。しかし、彼らは帰ってこなかった」
 彫りの深い王の顔立ちは、目許とけた頬の陰影をより濃くしており、獅子奮迅たる老戦士の面影がどことなく見え隠れしていた。彼の代になってからは戦らしい戦もなく、自身は戦場に立ったこともないはずである。とすれば彼の表情に滲み出るこの風格は、先代の血というものが成せる業なのだろうか。
「これが所謂いわゆるソーサリーグローブと呼ばれる隕石による厄災の始まりであった。その後、どこからか凶悪な魔物どもが大挙して出現し、程なくエルは壊滅した」
 人々は口を閉ざし、頭を垂れて王の言葉を聞いている。
「やがてこのラクールにも厄災は降りかかってきた。ここ数ヶ月で魔物の数は格段に増加し、たびたび人間を襲うようになった。クロスでは地震と津波により楽園クリクが崩壊した。そして今、エルを壊滅せしめた魔物軍が我がラクールを急襲するまでに至った。もはや一刻の猶予も許されぬ。今こそ行動を起こすときなのだ。そして、このような状況の中で我らはついに希望を見いだした」
 依然として静寂の場内に王の声ばかりが響いていたが、「希望」という言葉を耳にしたとき、微かに空気が動いたような気がした。
「我が父である先代は、秘密裏に紋章力を利用した武器の研究を進めていた。父の没後はその研究も必要性を損ねて頓挫させたままであったが、今回のソーサリーグローブによる異変を機に私は研究を再開させた。そしてここにいる研究者たち(と、左手でマードック親子を示して)の弛まざる努力により、我々はひとつの武器を完成させたのだ。武器は我らの希望ラクールホープと命名され、その圧倒的な威力は先の前線基地でも実証された」
 ここに来て、コロシアムの中は騒然の装いを呈してきた。下を向いていた者たちもおもてを上げ、しっかり王の姿を見て言葉を待った。
「我らはこのラクールホープを切り札として、エル大陸への侵攻を開始する。その際のもうひとつの希望が……彼らだ」
 今度は右手でクロードたちを示しながら、続ける。
「見覚えのある者もいるだろう。先日催された武具大会の決勝で刃を交えた二人も含まれている。彼らはクロス王の命を受けてソーサリーグローブの調査を行っており、この度の侵攻作戦にも参加を快諾してくれた。実力のほどは皆が一番知っておろう」
 どよめきが歓声に変わるのに時間はかからなかった。あの壮絶を極めた一戦を記憶している者は、この上ない喜びにうち震えた。
「この作戦はラクールの、いや全ての人間の命運がかかっている。もし失敗するようなことがあれば、もはや我らに対抗する手段はない」
 歓声に負けじとしわがれた声を張り上げて、王は続ける。
「だが、我らは成功を確信している。これらの大いなる希望を前にして、どうして失敗を考えることができようか!」
 握りしめた拳を思いきり振り上げ、喉に太い筋が浮くほどありったけの声を振り絞って、王が叫んだ。
「我らに勝利を! 魔物に怯える日々からの解放を!!」
 歓声が爆発し、怒濤となってコロシアム全体を揺り動かしているようだった。男も女もすべての者に活気がみなぎり、諸手をあげてラクールの名を叫ぶ。武具大会をもしのぐ熱気と歓声を受けて、七人の「希望」たちは表情を引き締め、まなじりを決したようにしっかりと立っていた。

3 雫 ~エルリア海岸沖~

 左右の帆桁に登った船乗りたちの合図で、いっせいに帆が広げられた。風を受けて雄々しく張りつめた帆の中央には、ラクール王家の象徴である獅子の紋章が大きく刺繍されている。近くに停泊する船も同様に獅子の紋章をつけていた。ところが、そこから少し離れた沖側の一所には、十字架に南十字星座サザンクロスの刺繍をつけた船団が見受けられた。それは紛うことなきクロス王家の紋章。ラクール王はクロスにも協力を要請していたのだ。
(そういえば、ずっと前に手紙を届けたことがあったっけ)
 あの手紙こそがクロス王に助力を願う文書であったのだと、レナはこのときになってようやく気づいた。
 ヒルトンの港にはエル侵攻を控えた艦船がすべて集結していた。埠頭ふとうのあたりでは縦横に整列した兵士たちが、出撃のための最終説明を総司令官から受けていた。船の数にも圧倒されたが、兵士の数もこれまた半端でない。ラクール王はほんとうにこの戦で決めてしまうつもりなのだろう。
 やがて総司令の説明が終わり、兵士たちはいくつもの列に分かれて各々の船に乗り込む。と同時に、街に近い方の港の外れから勇壮な行進曲マーチが流れ出す。軍帽に制服を着込んだ者たちが手に手に楽器を持ち、同じ格好をした男の指揮のもとで盛んに演奏をしている。その傍らで小柄の青年が『協賛:海野楽器』と書かれたのぼりを抱えて立っていることから、どうやら楽器は店の借り物らしい。
「大袈裟な船出だな」
 埠頭に渡された板を踏み鳴らして船に乗り込む兵士を眺めながら、ディアスが呆れた。
 彼らも全員がこの港に集い、乗船の指示を待っていた。港の入口である門の下にレナとクロード、それにディアス。反対側の門柱に寄りかかり、腕を組んだまま船を漕いでいるのはボーマン。オペラとエルネストは波打ち際で何やら話をしており、セリーヌは道具の買い出しに行ったきり、まだ帰ってこない。
 埠頭の別の場所では、白衣の研究員たちがマードック親子を囲んで指示を仰いでいた。彼らの背後に横づけされた船の甲板には巨大な砲身がそびえている。前線基地に設置してあったラクールホープをそのまま持ってきたのだ。
「どう思う、この戦い?」
 ディアスがクロードに訊いた。
「……全船団をエルリア西海岸まで北上、予測される敵の先遣隊をラクールホープで撃破」
 クロードは力強く楽器を奏する軍奏隊に目を遣りながら、今回の作戦を復唱する。
「その後にこちらの先発隊が上陸、住民の安全確保と避難をすみやかに行い、最後に」
 三人は船上の砲台を振り向く。その周囲ではすでに研究員たちが作業を始めていた。
「ラクールホープでエルリアを破壊、か……」
 砲台の上空で飛び回っていた数羽のカモメが帆桁に並んで停まった。下にある装置がどれほどおぞましい威力を秘めているのか、かれらは知る由もない。
「作戦が単純すぎると思わないか?」
 ディアスの言葉にクロードも頷いた。
「確かにな。これじゃ、作戦なんてあってないようなものだ。……住民の避難にしたって、そう簡単に上手くいくとは限らない。これだけの戦力があるなら一箇所に集中させるより、別働隊を大陸の東側にでも派遣して、両側からことを進めた方がいいかもしれない」
「成程な。だが俺が気になるのは別のことだ」
 と、ディアスは兵士たちの横でふんぞり返る総司令官を顎で示した。
「連中、やたらとラクールホープに頼りすぎている」
 視線の先で総司令は船に乗り込む兵士を威圧的な目つきで見張っている。
「確かにラクールホープの威力は絶大だ。だが、今回の作戦はあまりにもそれに依拠しすぎている。言ってしまえば、たかが武器ひとつに全世界の命運を賭けているようなものだ。なのに軍の奴らはもう凱旋気分で、この騒ぎときた。ラクールホープがなければ形勢的にはこちらの方が不利なのをまるで忘れている」
「なければ?」
 レナは小首を傾げる。どうしてそんなことを危惧するのかわからなかった。
「ひとは自分の能力以上の武器は持たん方がいい。ろくな使い方をしないからな」
 ディアスははぐらかすようにそう言うばかり。
「僕らが確実に勝つにはどうしたらいい?」
 クロードが訊くと、ディアスは含み笑いを浮かべて。
「決まってるだろ。敵のボスを叩きのめし、二度と立ち上がれないようにすることだ」
 冗談なのか真剣なのか、彼はそう言い置いて埠頭の方へと歩き去ってしまった。
「……けむに巻かれたか」
「ディアスの方が一枚上手だったみたいね」
 ふたりはそろって苦笑した。
 カモメの飛び交う青空には、ちぎれ雲がもつれた糸のように絡まりながら流れている。
 そういえば、とレナは隣のクロードを見た。彼は門柱で立ったまま器用に居眠りするボーマンを眺めている。最近のクロードは空を見ることがほとんどなくなっていた。仲間が増え、ひとりでいることが少なくなったということもあるだろうが、それでも以前は意識的に視線を逸らしている向きがあった。
(ディアスも『表情が変わった』って言っていたっけ。昔はもっと思い詰めた顔をしていた、って)
 彼も、クロードのそうした変化に気づいたのかもしれない。
 クロードは変わった。そのことがレナにはやけに嬉しかった。
「……これで、人々を苦しめていた異変の原因がわかるのね」
 彼女が呟くと、クロードはゆっくりと首を前に傾けた。
「いろいろ遠回りはあったけど、やっとここまで来られたんだ。絶対に勝たないと」
「うん。……それからね」
 レナは下を向いたまま、そっと左手でクロードの右手の甲に触れた。彼から貰った翡翠色の指輪エメラルドリングが人差し指に輝く。
「ありがとね、クロード」
 クロードは不思議そうに彼女を見る。
「なんのことだい?」
「アーリアを出たときから、ううん、初めて会ったときからずっと、クロードは私を守ってくれたよね」
 手に手を重ねるようにして、掌全体で彼の手の大きさ、暖かさを感じる。
「守るだなんて……。僕の方は、情けなくてしょうがないのに。口ばっかりで、ちっとも君を守りきれなくて……」
 言いながらクロードは表情を曇らせる。
「そんなことない」
 レナは思いきって顔を上げ、クロードと向き合った。火照った頬を見られるのは恥ずかしかったが、必死に前を見て。
「私はすごく心強かった。いつも命がけで守ってくれるクロードが頼もしかった。それだけじゃないわ。クロードがそばにいるだけで、私はなんだか安心できるの。……だから」
 語気が弱くなり、レナは再び下を向いてしまう。頭の中はまったくの空白で、自分が何を喋っているのかまるでわからなかった。ただ、胸ばかりがほのかに熱い。苦しい、でも心地よい。知らぬうちに左手が彼の右手を握りしめている。そうして最後に、彼女は内に秘めた思いを言葉に紡ぎだした。
「これからも、ずっと……ずっと一緒にいてね」
 いつの間にか周囲の喧噪は鎮まっていた。軍楽隊も演奏を止め、遠くの海岸から打ち寄せる波の音ばかりがその場に流れる。
 沈黙がひとしきり続いて、レナはこわごわと頭を上げて上目遣いにクロードの顔を見る。目と目が合うと、茫然としていた彼のそこに優しい微笑が灯った。
「ああ。僕らは一緒だよ、これからもずっと……」
 クロードの右手がレナの手を握り返した、そのとき。
「レナお姉ちゃーん!」
 埠頭の方から聞き覚えのある声で呼びかけられて、レナは反射的にクロードの手を振り払ってしまった。勢いよくはじかれた彼の右手は、すぐ横にあった街の案内板の角にしたたか打ちつけられた。声ならぬ声をあげるクロード。
 長すぎる白衣を引きずって駆けてくるのはレオン。レナの前で立ち止まると、息を弾ませながら言う。
「お姉ちゃんたちは、ラクールホープの船に乗るんだよね?」
「え、ええ、そう聞いているけど」
 レナは隣のクロードを気にしながら答えた。
「じゃ、同じだ。ボクもその船に乗るんだ」
「レオンも行くの?」
「当然だよ。あの武器はボクが作ったんだ。他のひとなんかに任せられないよ」
 そう快活に言ってから、レオンは急に黙り込んでしまった。
「どうしたの?」
 しばらくしてレナが訊くと、少年は切ないような表情で何か言いかける。が、横で案内板を抱えるようにもたれかかり、痛そうに右手を振っているクロードが目につくと、むっとして口を閉ざしてしまった。口を尖らせたまま、つかつかとクロードの前に立つ。
「なにやってんだよ、お兄ちゃん。邪魔だからあっち行っててよ」
 案内板から無理矢理クロードを引っぺがし、背中を押して門の外へと追いやってしまった。それからすぐにレナの許へ戻ってくる。
「あのね、お姉ちゃん……」
「なあに?」
 レオンははにかんで、またうつむいてしまった。手持ちぶさたにへその下で交差させた両手の指先を擦りつけるようにしてもてあそんでいる。
 と、決意を固めたのか、いきなり頭を上げ、白衣のポケットに手を突っ込んで何かを取り出すとレナの前にずいと突き出した。握りしめた拳の指の隙間からは細い銀の鎖が覗いている。
「あげる。お姉ちゃんに」
 慳貪けんどんにそう言うも、どことなくわざとらしい。
 言われるままにレナが手を差し延べると、レオンは拳を開く。銀の帯を纏った一粒の雫がレナの掌にはらりと落ちた。よく見てみると、それは雫のかたちをした宝石だった。色は青というより紫に近い。尖った部分に金具がついており、環になった銀の鎖に繋がっている。
「これを、私に?」
 レオンはこくりと頷いた。
「昔の文献を見て、ボクが作ったんだ。月の魔力を持ったお守りなんだって」
「作ったの? あ、ねぇ、ちょっと……」
 レナが訊ねたときには、少年はもう埠頭の両親のいる方へと走り去っていた。
「なんだったのかしら……」
 レナは得心とくしんのいかない表情で鎖を指に引っかけ、雫を目の前に吊り下げてゆらゆらと揺らしてみた。
「あらあらあら、レナもなかなか隅に置けませんわね」
 そこへ入れ替わるようにしてやってきたのはセリーヌ。気味の悪い笑顔を浮かべてにじり寄ってくる。
「なんのことですか」
「そのプレゼント。レオンがどんな気持ちで貴女にあげたのか、わかりませんの?」
 この口振りだと、どうやら先程のレオンとのやりとりを見ていたらしい。レナは首を傾げる。
「んもう、相変わらず鈍いですわね」
 セリーヌはレナの鼻先を軽くつついて。
「初恋ですわよ。は・つ・こ・い」
「は!?」
 あまりに意外な言葉に思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
「初恋って、レオンがですか。私に?」
「間違いないですわね。こないだから怪しいとは思っていたんですのよ。なーんかレナにばかりアプローチしていたから」
「そんな、困ります!」
 真剣にそう叫んだレナにセリーヌは呆気にとられ、それから吹き出すように笑いだした。
「あなたも可愛い子ね。そんなの真に受けることはないんですのよ」
「でも……」
「初恋なんて実らないのが世の常ですもの。特にああいうマセた坊やは、一度苦い思いをさせた方が今後のためですわ。なんだったらそのプレゼント、海に投げ捨てたって構いませんのよ。その方があなたもスッキリするでしょう」
「そんなこと……せっかくレオンが作ってくれたのに」
 レナは紫の雫を握りしめる。銀の鎖が掌から零れ、流れ落ちる水のように垂れ下がった。
 セリーヌは肩を竦めて、去り間際にこう言った。
「優しさは時としてひとを傷つけるわ。気をつけなさい」
 膨らんだ道具袋を肩に提げて、埠頭へと歩いていく。
 レナはもう一度手を開いて、雫の宝石を見た。レオンはこれをお守りだと言った。守る、もの。あの小さなレオンが、私を守ろうとしている。そう考えると、少年の哀しいほどの健気さに胸が締めつけられるようだった。
(……やっぱり捨てられないわ。たとえそれがあの子を傷つけることになっても、私は私の優しさを大切にしたい)
 雫を固く握りしめると、砲身が伸びる船へと歩いていった。


 出航からエル大陸到着までの日程は六日。そのうち五日目までは何事もなく、船団は予定通りの航海を続けた。
 しかし、六日目の夜明けにそれは起こった。
 慌ただしい足音が階段を駆け降りる。薄暗い廊下を抜けて、船室の前まで来たところで、扉が勢いよく開け放たれた。
「おい、みんな起きろ! 敵のお出ましだ!」
 血相を変えて船室に駆け込んできたのはボーマン。眠っていた仲間たちもその声で飛び起きる。
 慌ただしく支度を済ませて、彼らは甲板に上がった。ひんやりとした空気が肌にみる。船の周囲には朝靄が微かに立ちこめており、一定の距離をおいて併走する他の船が白んで見えた。舳先の向く先には影のように暗々とした陸地が水平線に広がる。陸地の右端には太陽が、幾筋もの光の筋を放ちながら頭を出している。
 闇黒の大陸。あれこそが魔物の本拠地、エル大陸に相違ない。そして大陸の上空に広がる忌まわしき群影。その様態は場所から場所へ移動しては作物を食い荒らすイナゴの群を連想させた。闇の陸地から飛び立った害虫どもが餌食とするは無論、この船団だ。
「あんなのに来られたら、ひとたまりもないわね」
 陽の光に目を細め魔物の群を眺めながら、オペラが言った。
 船首楼では数人の兵士と禿頭の総司令官、それにこの船団を指揮する提督が集まり言葉を交わしていたが、あまり切迫した様子ではない。それもこれ、ラクールホープという切り札に絶対的な信頼を置いているからであろう。
「ラクールホープの準備は?」
「いつでも発射できます」
 砲台の手前では既にマードックたちが待機していた。レオンが研究員に照準の座標を指示している。
「予定よりはいくらか早いが、作戦通り発射を実行する」
 提督が皆に向かって決断を下した。上空の魔物群はその姿が視認できるほど近づいている。
「エネルギー装填完了」
「よーし、発射あっ!」
 はしゃぐようにレオンが人差し指を前方に突き出した。砲口に光が集まり、緑色に輝く塊が勢いよく飛び出した。光の塊は尾を曳きながら魔物が群れる上空へと突き進む。
 と、そのとき群れから一匹の魔物が飛び出して、陣風のごとく砲撃の進路へと向かっていった。緑色の砲弾は彗星さながらに、それでいて彗星とはまるきり逆に、空を駆け上っていく。魔物は進路に達したところで急停止すると、右手を前に掲げて身構えた。砲撃が迫る。数千もの魔物をたちどころに殲滅せんめつした一撃である。まともに喰らって無事でいられるはずがない。誰もがそう思った次の瞬間、人間たちは自らの目を疑った。
 砲撃は魔物の手前で止まった。薄い光の膜のようなものを掌の前に生じさせ、砲弾を遮っている。緑の塊は無数の光の粒を飛散させてその場でくすぶっていたが、程なくすっとかき消えた。
 そうして、魔物はわらった。遠目でその貌はよく見えなかったが、全身の気配がそう感じさせたのだ。
「ラクールホープが……効かない?」
 マードックは愕然として言った。総司令も提督も、そしてレナたちも同様に茫然と立ちつくすばかり。
「そん、な……」
 最も衝撃が大きかったのはレオンだった。腰が抜けたようにへたへたと座り込んで放心する。天才であるこの少年に、失敗などという文字は存在しなかった。常に完璧だったはずの理論が初めて覆されたとき、少年のうちにあったのは屈辱でも絶望でもなく、ただ、困惑であった。
「あの魔物……もしや前線基地に乗り込んできた奴か」
 ディアスが言うと、他の者も我に返り魔物を改めて凝視する。
「そうですわ。あの魔物、わたくしのサンダーストームにもビクともしなかった」
「魔物軍の首領……名前は」
 そうこうしているうちに、ついに魔物が船を襲い始めた。厄介なことに、飛来してきた魔物はすべて前線基地のときと同じ種類の、緑色の蝙蝠こうもりであった。船上の彼らを愚弄するように飛び回っては爪で引っ掻き、牙で噛みつこうとする。見る間に船団の上空は魔物で埋めつくされた。
 クロードが剣を抜き、仲間も各々の武器を手に戦いに臨んだ。しかし、魔物の動きの素早さは前線基地で証明されている。たった二匹が相手でもあれだけ苦戦していたのに、果たしてこれだけの数を撃破することはできるだろうか。
「それならそれで、やりようはあるわ!」
 オペラが銃口を敵に向けて引き金を引くと、口径よりも大きな光の玉が吐き出された。光弾はゆらゆらと甲板の上を漂っていたが、不意に急上昇して近くの魔物へ向かっていった。それに気づいた魔物は横に動いて逃げようとするが、光弾も反応して進路を曲げる。それはまるで生きているかのように、魔物を追撃している。しばらく魔物と光弾の追跡劇チェイスが繰り広げられたが、ついには光弾が魔物を捉え、緑色の躯は黒煙を上げて真っ逆さまに海へと落ちていった。
「よしっ、αアルファオンワン成功っ!」
 得意顔で親指を下に突き下ろすオペラ。
 ボーマンやエルネストも前回の戦いで相手の動きは把握しているので、かなり善戦できるようになっていた。ディアスに至っては襲いかかる敵を次から次へと斬り捨て、屠り去っている。
 勝てるかもしれない。そう思ったとき、セリーヌから悲鳴が上がった。
「きゃあっ!」
 呪紋を唱えようとしたところを背後から魔物に襲われたのだ。右肩を爪で裂かれて杖を取り落とす。
「セリーヌさん!」
 駆けつけようとするレナにも近くの一匹が狙いを定めて突っ込んでくる。それにいち早く気づいたクロードがレナと魔物の間に入って、迫り来る魔物を見切った。
「双破斬!」
 ふたつの斬撃は魔物の左右の翼を根元から切り落とした。青黒い血を噴き出して足許にくずおれる魔物に、剣を突き立てとどめを刺す。
「みんな散らばるな! 固まるんだ!」
 クロードが呼びかけると仲間たちもそれに応じ、レナとセリーヌを囲むようにして集まった。
「クロード、レオンが!」
 レナが背後から叫んだ。レオンはひとり、ラクールホープの横で座り込んだままだった。見るからに無防備で、今にも魔物に襲われそうだ。
「レオン、こっちへ来い!」
 レオンがゆっくりと振り向く。淋しさにも哀しさにも似た表情で、奇妙に笑っていた。
「も、だめだよ……ラクールホープが効かなかったんだ。勝てるわけないよ……」
 譫言うわごとのように呟くレオンに、クロードは剣を握る手に力を込める。
「諦めるなっ!」
 そして、気がつくと彼は怒鳴りつけていた。
「男なら、守るものがあるなら、最後まで戦え!」
 レオンは目を丸くしてクロードを見た。彼はそれ以上は何も言わずに、厳しい眼差しで見つめ返している。からだの底からなにかが沸き上がってくるのを少年は感じた。
「レオン、後ろ!」
 緑の魔物がレオンめがけて急降下してきた。レオンの瞳に力が戻る。片膝を床につけて身体を反転させ、ポケットから本を取り出しすかさずページを開く。そうして腕を突き出して、彼は唱えた。
「ブラックセイバー!」
 放たれた闇の刃は魔物を苦もなく切り裂き、首と胴体とが完全に離ればなれになった骸は海面へと落下していく。
 レオンはしっかりと立ち上がってクロードたちの方を向いた。それでいい、とクロードは頷く。背後のレナもにこやかにこちらを見つめていた。
「ふはは、大した悪あがきをしているな、虫けら諸君」
 突如、上空から不気味な声が轟いた。ラクールホープの砲撃を防いだ、あの魔物がゆっくりと降下してくる。船上の人間を襲っていた魔物どもも途端に攻撃の手を休め、船の中央に集まった。
「おや、またお前たちか。道理でこの船だけ攻めあぐねていたわけだ」
 魔物軍首領──シンはラクールホープの砲身の上に降り立った。
「まったく、この武器ごとおびき出されたとも知らずに、愚かなことよ」
「誘き出されただと?」
 総司令官が口を出すと、シンは凄まじい形相で彼を睨みつけ、腕を薙ぐように振るった。すると爪の先端の描く軌跡が白い鎌鼬となって放たれ、総司令の胴体を突き抜ける。遅れて太りすぎの腹から鮮血がほとばしって、驚愕と恐怖に顔を引きらせながら総司令官は倒れた。
下衆げすが。私に口を利くなど千年早い」
 シンは甲板に飛び降りて、ラクールホープの装置の前に立った。そしてひと思いに装置を叩き壊すと、中の翡翠色の石を取り出した。
「我々に必要なのはこれだけだ」
 控えていた手下の魔物二匹にそれを持たせる。
「行け」
 シンの命令ですみやかに魔物は飛び去っていった。闇黒の大陸へと。
「さて、ひとまずの用事は済んだが……お前たちにのこのこ上陸されても困るからな」
 殺気を感じてクロードたちは身構えた。
「少し遊んでやろう」
 言うが早いか、シンは再び鎌鼬を放った。彼らは四方に散開して躱す。三日月の白い刃は回転しながら甲板に突き刺さり、床板が粉々に砕け散る。
 仲間のうちで最初に標的とされたのはボーマン。低空飛行で猛然と突進してくる魔物に対してボーマンは拳を繰り出して闘気の塊を放った。だがシンはそれを片腕一本で弾き飛ばすと、そのままの勢いでボーマンを殴りつけた。吹き飛んだボーマンの身体は船縁の木材を突き破り、波立つ海へと落ちていった。
「エナジーアロー!」
 その間に詠唱の終わったセリーヌが杖をかざして唱えた。シンの周囲に、針のように細い光の矢がいくつも生じて襲いかかる。だが、その堅い鎧のような外殻に阻まれて、かすり傷ひとつ負わせられない。
「ふん、せこい呪紋だな」
 シンはそう嘲ると空の高いところへと上昇していった。
「呪紋とはこう使うんだ」
 帆柱マストの先も届かない高さまで上りつめるとそこで止まり、腕を掲げた。
「フェーン」
 シンが唱えると、船上に物凄い熱風が吹き荒れた。虚をつかれた提督やマードックたち、それに仲間の女性三人は暴風に巻き上げられて彼方の海へと飛ばされる。残った男たちは甲板の上で身を固めて風が過ぎるのを待つ。剥きだしの肌が火傷するほどに熱い。船の帆に火がついて、獅子の紋章が見る見るうちに焼け落ちていく。
 ようやく熱風は治まった。シンがゆっくりと降りてくる。
「ほう、あの風に耐えたのか。大したものだ……ん?」
 うずくまっていたエルネストがその場で鞭を振った。すると鞭の先から半分がふっと消える。そしてシンの頭の後ろの何もない空間に小さな黒い穴がぽっかりと空いて、そこから消えた鞭が飛び出してきた! 鞭はシンの首に巻きついて強く締めつける。
「ぐ……なんだ、これは」
「ディメンジョンウィップ。この鞭は特殊でな、紋章力との調和で空間すら超越できる」
 膝を立てて起きあがりながら、エルネストが言った。
「奴は捉えた。やるなら今だ!」
 その言葉に応じたクロードとディアスが、並んでシンの許へと駆け出す。しかし目前にと迫ったそのとき、苦しみに歪んでいたはずのシンの表情が血も凍る笑顔に変わった。首に巻きつく鞭をつかんで引きちぎると、斬りかかるふたりの剣を宙に浮いて躱し、そのまま左右の足でそれぞれひとりずつ蹴り飛ばした。ディアスは船縁を越えて海へと転落し、クロードは船尾楼の段差に身体を打ちつけて昏倒した。
 すぐにシンは残るエルネストの前に詰め寄り、先程のお返しとばかりに右手で首を締めつけ吊し上げた。顔から次第に血の気が失せていく。
「弱い……弱すぎるぞ、お前たち」
 シンは吐き捨てるように言うと、無雑作にエルネストを海へ放り投げた。それから船尾楼の下で倒れるクロードの前に降り立つ。
「海の藻屑か魚の餌か。虫けらにはそれが相応しかろう」
 クロードの身体をつかんで同じように放り投げる。海面に着水する音が虚しく響いた。
「さて、これで終わったか」
 そう呟いた刹那、シンの背後から無数の氷の矢が飛来してきた。慌てて振り返り腕で貌を覆って防ぐ。氷の矢は腕や身体にぶつかると砕けて地面に散らばった。
「まだ終わってないよ」
 腕を下ろしたシンが見たものは、全身水を被ってびしょ濡れになったレオン。水色の髪から水滴が滴り、床には水たまりが広がっている。
「小僧、フェーンで吹き飛ばされたのではなかったのか」
「体に冷気の膜を張って、それからこいつにしがみついたんだ」
 レオンの足許には、金具に結びつけられたもやい綱があった。船縁から下の海へと垂れ下がっている。
「綱をつかんだまま飛ばされて結局は海に落ちたんだけどね。ここまで登ってくるのに一苦労だったよ」
「ふん、おとなしく海に沈んでいればいいものを、わざわざ死にに戻ってくるとは」
「どうかな。悪いけど、ボクはそう簡単にはやられないよ」
「ぬかせ」
 シンが突っ込んできても、レオンは慌てる素振りもなく身構えている。繰り出された拳を身体を沈めて避けると、背後に跳んで退いた。
「アイスニードル!」
 すぐに追いかけようとしたシンに氷の矢を浴びせ、怯んだ隙にさらに間合いをとる。それから左手に持つ本の頁を捲って。
「ディープフリーズ!」
 突き出したレオンの指先から鋭く冷気が発せられ、シンの身体を包み込んだ。霜がこびりつき、動きが止まったかに見えたが、シンがひとつ気合いを込めると霜も冷気も吹き飛んでしまった。
 シンはなおもレオンを追いかけるが、レオンもなんとかやり過ごしては間合いをとって呪紋をぶつける。レオンの動きはシンにも決して引けを取っていなかった。
「この小僧、どうしてこんなに動ける?」
 何度目かの氷の矢を打ち払った後で、シンは憎々しげに言い放った。
「ヘイストって呪紋知ってる? なん倍もの速さで動けるようになるんだよ」
 レオンがしたり顔で説明した。
「そういうことか。だが、いつまで逃げおおせるかな」
 シンは鎌鼬を放った。レオンも対抗してブラックセイバーを唱える。白と黒の刃が交わると、その一点で何かが破裂して大きな衝撃波が生じた。シンは慌てて腕を前に出して光の膜で衝撃を遮断する。波が消えてすぐに向き直ったとき、そこに少年の姿はなかった。
「これで終わりだ」
 衝撃波を予期したレオンは遠く離れた舳先の前まで退避していた。開かれた本を左手に持ち、右手を振り上げて唱えた。
「シャドウフレア!」
 凝り固まった無数の闇が天から降り注いだ。闇の塊はシンに触れると青黒い業火と化して躯を灼きつくす。
「どんなもんだい」
 立ち上る黒焔こくえんに包まれたシンに、レオンは勝利を確信した。ところが。
 ほのおの中から突如として鎌鼬が飛び出してきた。油断のために一瞬、動作が遅れたがなんとか跳躍して躱す。すると今度はシン自身が焔をかい潜り突進してきて、組み合わせた両手で空中のレオンを殴り飛ばした。甲板に叩きつけられたレオンの身体は床板を突き破って材木の破片に埋もれる。
 シンが船の中心に降り立った。瓦礫の中から本を持った手を突き出して、レオンがむせびながら這い上がってきた。
「まさかあのような高等呪紋を操れるとはな。さすがに少しはこたえたぞ」
 笑いもせずにシンが言う。紫の肌は焔のために黒い斑点のようなものがいくつも浮き出ている。
 レオンはよろめきながら立ち上がった。右腕に激痛が奔る。床板の破片が刺さったのか、右肩から肘にかけて白衣が千切れて、そこからおびただしい血が流れ出ている。手を僅かに動かしただけで脳の随まで突き抜けるように痛んだ。
「私に傷を負わせた報いは受けてもらわねばな。その腕では呪紋も唱えられまい」
 シンが歩み寄ってくる。レオンは後退りする。かれの言うとおり、もはや攻めることも逃げることも不可能だった。
 ──いや、まだだ。諦めちゃダメだ。
 ──なにか、まだなにか、できることがあるはずだ。
 霞む目で魔物を睨みながら、考えた。そして。
 ──そうだ。
 ──まだ、ボクにできることが、あるじゃないか。
 ──どのみちこのままじゃ、こいつにやられてしまう。それなら──。
 レオンは決意した。十二の少年にとっては、あまりに残酷な決意だった。
 気づかれないよう腿の横で、持っている本の背表紙と見返しの間に親指をはさんでおく。そうしてから、少年は空を振り仰いだ。
「……つまらなかった」
 誰に言うでもなく、少年は感情を抑えた声で呟き始めた。
「気がついたらボクは、ひとりぼっちだった」
「なに?」
 その言葉を聞きとめたシンが怪訝そうに立ち止まる。レオンははなから渠のことなど眼中にない。
「まわりの人たちはみんな、ボクを違った目で見る。みんなと同じように見てくれない。だからボクだって、みんなが期待するように振る舞うしかないじゃないか」
 少年は仮面の中の素顔が傷つくのをおそれていた。自分から人と接する勇気を持たなかった。だから少年は仮面を被り、他人に気づかれぬように演技をし続け、結果としてまわりの人間との溝はますます深まっていった。
 でも。
「でも、レナお姉ちゃんは違った。お姉ちゃんだけは、ボクをまっすぐ見つめてくれた。ボクはひとりぼっちじゃないんだって、わかったんだ」
「ふっ、遺言でも残しているのか。殊勝なことだ」
 シンの足が再び動き出す。レオンの左手がぼんやり輝いていることも気づかない。
「レナお姉ちゃん、きっと無事でいるよね。お守り、あげたもんね」
 少年の瞳からひとすじの涙が零れた。目尻から頬を伝って顎に達すると、雫となって落ちていく。
「……さよなら」
 シンが目の前に立ったとき、レオンは本を高々と掲げて最後の頁を開いた。そこに描かれた紋章が光を放って頭上に浮かび上がった。そして、唱える。
「エクス……ティンクション」
 炸裂した。何かが。光と闇と、あらゆるものが。

 光の奔流が、甲板を突き破って噴き上がる。
 空気が爆発し、火の玉が降り注ぐ。
 空間が歪み、時間が崩壊し、ありとあらゆる秩序が悖乱はいらんされて、混沌のみがその場を支配した。
 物質は否定され、とどめるべき形態を持てずに融合と分裂を繰り返す。
 船などない、海などない、空などない、光などない。そこには無のみが──いや、無すら存在しなかった。

 すべてが無に帰すことはない。秩序は崩れ、そして秩序はあるべき姿へと戻るのだ。


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 少年は、仰向けになって海面に浮かんでいた。
 まわりには何もなく、果てない海が広がっている。ここはどこなのか、自分はどうなったのか、そんなことはどうでもよかった。ただ、このまま浮かんでいたかった。
 空が、青いな。彼は思った。
 青空がこんなに綺麗だとは知らなかった。どの研究書や論文にも書いてなかった。悔しいけど、ちょっと、嬉しい。
 そういえば、いつかレナお姉ちゃんが言ってたっけな。
 ──こんなにいい天気だと、お話ししたくなるじゃない?
 ──うん、そうだね。
 レオンはにっこりと笑った。