■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第十一章 告白 ―愛しき新生、哀しき神曲―

1 RENA PANIC! ~ファンシティ~

「遅いねェ。いったい何をグズグズしているんだか」
 業を煮やしたミラージュが口走った。ナールも、レナたちもずっと押し黙ったままだった。
 彼らはアームロックのミラージュの家に戻っていた。研究室の手前にあるがらくたの散乱する居間で、ミーネ洞窟に出かけた五人の帰りを待っているのだ。日はとうに暮れ、膝丈の高さしかない机に置かれたランプの灯りばかりが、もの寂しく部屋を照らしあげている。ソファに座ったミラージュは吸っていた煙草を灰皿に放り投げ、傍らにあったグラスの水をそこに注いだ。いくつものちびた煙草が灰皿の中で浮き上がる。汚い沼に漂う睡蓮すいれんのように。
「私、ちょっと見てきます」
 そう言って、レナは足早に家を出ていく。この場の重苦しい空気が、どうにも堪えがたかったのだ。
 夜の帳の降りたアームロックの上空は、どんより曇っていた。空を覆いつくす分厚い雲の白さばかりが、闇の中で見る白骨のように不気味に目立っている。今にも降りだしそうだ。けれど、家に戻る気はなかった。西の空に目を見張らせながら、人気のない大通りをひとり、歩いていく。
 風はいくらか湿気を含んでいた。道沿いにずっと続く街灯の明かりが人魂のように皎々こうこうと輝く。人家の窓から洩れる明かりも燐光ほどに弱々しい。
 亡霊の街みたいだ。レナは思った。死人のすみかにひとりだけ生きた人間が迷い込んでしまったようで、歩くうちにだんだん心細くなってきた。けれど、歩みはやめない。
 細かい雫が彼女の手の甲をかすめた。レナは空を仰ぐ。いよいよ雨が降りだしたのだ。それでも彼女は引き返そうとはしなかった。雨は次第にその勢いを増す。大粒の雫が髪に絡みつき、服を濡らし、靴に染みこんでいく。骨まで凍えそうなほど冷たい雨だったが、どこかで雨宿りしようという気もなく、むしろ甘んじて雨に打たれているような趣すらあった。
 幼い頃から、彼女は他人ほど雨というものを嫌っていなかった。雨に打たれて濡れることを不快とは思わなかった。どしゃ降りの日でも構わずに外で遊んで、泥だらけになって帰ったら、ウェスタにさんざん叱られたこともあった。けれど、それは子供としては当たり前のことではなかったか? 誰しも子供の頃は雨を嫌がったりはしなかったはずだ。それが、成長するにつれて、どうしてみんな雨を嫌いになってしまったのだろう。レナにはそちらのほうが理解できなかった。こどもからおとなへと成長する過程で、ひとはいろいろなものを失くしていくからだろうか。残酷なまでの純粋さも。無知からくる優しさも。そして、雨に打たれても平気だったことも。だとしたら、私はまだこどもだということなのだろうか?
 そんなことを考えながら歩いていると、不意に、西の空にひとつの影を見つけた。サイナードだ。降りしきる雨の中をこちらに向かって飛んできている。レナはすぐに、街の入口へと駆け出した。
 彼女が街の入口から外に出たときには、既に目の前にサイナードが降り立っていた。その背中からひょっこり顔を出したのは。
「ボーマンさん!」
「よう、レナか」
 ボーマンは憔悴しょうすいした笑顔で応えた。
「悪いが、ちょっくら手を貸してくれねぇか」
「え?」
 そこでようやく異変に気づいた。回り込んでサイナードの背中を覗くと、そこにはひどく傷ついた仲間たちがうずくまり、あるいはうつぶせに倒れていた。
「なにがあったんですか?」
「ごめんなさい。わたくしのミスですわ」
 大きな麻袋を抱えて降りてきたのは、セリーヌ。彼女は見た目ほどに傷は深くないようだ。
「呪紋の威力が大きすぎて、洞窟が落盤してしまいましたのよ。まったく、わたくしとしたことが迂闊うかつでしたわ……。外にいたサイナードが壁を壊して助けてくれなければ、今ごろ全員生き埋めになっていたわ」
 額に手を当ててうつむくセリーヌ。その表情は慚愧ざんきと後悔に満ちていた。
「それでも、ちっとは落盤に巻き込まれちまってな。エルネストはオペラを庇って片足を潰された。ノエルも落ちてきた岩に頭をぶつけて、気を失ったままだ。悪いがレナ、治療頼むよ」
 レナはすぐに頷いて、治療にかかった。オペラとふたりでエルネストをサイナードから降ろし、くるぶしから下が痛々しく変形してしまった足に手をかざして呪紋を唱える。それが終わると、今度はボーマンと協力してノエルを降ろした。彼の手首を取って脈拍を確かめ、岩をぶつけたという後頭部の具合も確かめた。
「ノエルさんは大丈夫です。ショックで気絶してるだけ。エルネストさんもひとまず応急処置はしましたけど、その怪我だと、これから何回かに分けて治療をしないといけません。……とにかく、ミラージュさんの家に戻りましょう」
「そうだな」
 ボーマンは天を仰いだ。こんな雨の中でたむろしていても仕方ないのだ。
「レナもずいぶん腰が据わってきたな。前は少し治療するだけでもドタバタしながらやってたのに」
「やめてくださいよ」
 レナの頬に赤みがさした。ボーマンはそんな彼女を見て笑みを洩らすと、ノエルを担いで街の入口へと向かっていった。
 レナも彼らに続いて街に戻ろうとしたが、ふと思い出して、サイナードの前に歩み寄る。
「ありがとうね。みんなを助けてくれて」
 立派な鼻面を撫でてやりながら、その手に少しだけ紋章力を送り込んだ。回復呪紋ヒールの淡い光が、雨風に冷えきったサイナードの躯を温かく包みこむ。回復呪紋はただ傷を癒すためのものじゃない。呪紋を施したものと心を通わせ、お互いにわかりあうこともできるのだ。そのことを知ったのは、そう、このサイナードと出会ったときだった。
 サイナードが首をもたげて、礼を言うようにひとつ鳴いた。レナはそれに笑顔を返してから、雨でぬかるんだ道を街に向かって走っていった。

「まァ、なんにせよ、レアメタルは手に入ったわけだ」
 研究室の大きな画面を背にして、ミラージュが言った。
「じゃ、さっそくだけど、あんたたちの武器を預かるよ」
 唐突な言葉に、ボーマンたちは面妖な表情でミラージュを見る。
「あれ? どうしたの?」
「ミラージュ。まだみなさんには説明していないはずだろう」
 ナールが言うと、ミラージュは首を傾け指でこめかみを押さえるようにして、考えるような素振りをした。
「そうだっけ? じゃ、説明するよ。つっても、そんなに大した話じゃないんだけど」
 相変わらず飄々ひょうひょうとした口調で、ミラージュは続ける。
「要するに、あんたたちの武器も反物質化してやろうということさ。『剣』に比べれば簡易的な措置に過ぎないのだけど、それでも反物質だからね。武器としての性能は格段に向上するよ。そのための『装置』もこのデータの中に設計図があった。ただし、それにはあんたたちの武器にもちょっとした細工を施す必要があってね。言うなれば、その『装置』が発する信号を受信する『アンテナ』のようなものを取りつけるんだ。『アンテナ』から受信した信号によって武器が反物質化するって仕組みだね。……わかったかい?」
 わかったようなわからないような。彼らは神妙な顔つきのまま、曖昧に頷いてみせた。
「まァ、そういうことだ。武器を俺に預けてくれ。一晩で返すから心配いらないよ」
 言われるまま、彼らはめいめいの武器をミラージュの足許に置いた。ボーマンはナックル、オペラはランチャー、そしてエルネストは鞭を。セリーヌの杖はそれ自体で敵を殴るわけではないので反物質化の必要はない。
「ようし。これで材料はすべて揃った。後は俺の仕事だ。みんなご苦労だったね。三人の武器は明日返すけど、『剣』と『装置』の完成は三日後だ。それまではゆっくり身体を休めて、十賢者との決戦に備えてくれ」
「え? ちょっと待ってください」
 と、クロード。
「身体を休めてって……三日後まで、僕らができることはないんですか?」
「ええ。特にありません」
 あっさりと、ナールが答えた。
「そんな。ここまできて休んでなんていられませんよ。やることがないと言うのなら、僕らで自主的に特訓でもします」
「特訓ですか……まあ、みなさんがそうしたいというならそれで構いませんが……」
「市長。どうせならあれ使わせたら? ほら、ファンシティの」
 そう言って、ミラージュはナールと小声で相談を始めた。
「なに話してるんだ?」
「ふたりでコソコソと、怪しいですわね」
 ボーマンとセリーヌが眉をひそめる。
「……では、そいつを使うとしようか」
 しばらくしてナールが頷き、こちらに向き直った。
「お待たせしました。みなさんには特訓にうってつけの場所を用意しますので、明日はファンシティにお越しください」
「ファンシティ?」
 オペラが訊き返すと、ミラージュがそれに答えた。
「ファンシティってのは……ああ、そこの三人はさっき行ったから知ってるだろうけど、ここから北に行ったところにある、娯楽施設ばかりが集まった街だ。要するにテーマパークだね」
「娯楽施設なんかで、特訓ができるんですの?」
「ええ。詳しいことは明日お話しします。いろいろと準備があるので、明日の夕方、ファンシティの闘技場に来てください。それまでは、街の中で休むなり遊ぶなりしていて構いませんので」
「遊ぶって……こんな切羽詰まったときに」
 クロードが口ごもる。
「いいんじゃないの。このところずっと戦い詰めだったろ? 決戦の前に気分転換ってのも悪くないと思うよ。……そら、これやるよ」
 ミラージュは懐から一枚のカードを出して、クロードに手渡した。見ると、その長方形のカードには大きな文字で『ファンシティ N.P.I.D.』と書かれている。その下には『一回の入場につき十名まで有効』と注意書きもされていた。
「何ですか、これ?」
「ファンシティのフリーパス券だよ。街に入るには入場料がいるんだけど、それがあればタダだ。明日一日、思いきり羽を伸ばしてくるんだね」
 ミラージュは悪戯っぽく笑ってみせた。背筋が寒くなるくらい、色気のある笑い方だった。



      あ~、あ~。
             マイクてーすっ。

                     ……いいかな。よし。

            ごほん。


 夢と希望と享楽の街、ファンシティにようこそ!
 ここはまさしくこの世の楽園、夢の国。日頃の嫌なことやムカつくことは全部忘れて、ストレスまとめて発散しちまおう! 上司に叱られたお父さんも、夫婦ゲンカをした奥さんも、かーちゃんに小遣いを減らされたおぼっちゃんも、息子の嫁にないがしろにされたオジイちゃんも、姑にいびられた若奥様も、ここに来ればみんなみんな、幸せハッピー全開さ。堅苦しいのは禁中御法度ノンノンノン。この街はすべてが娯楽、すべてがお遊び、すべてがジョークだ。だからみんなも、肩の力を抜いて思う存分楽しんでほしいのさ。
 ──けれど、だ。それによる弊害といっちゃなんだけど、ひとつだけ、みんなに注意してほしいことがある。よく聞いてくれ。
 ……え? 誰に言ってんのかって? そりゃ、キミだよ、キミ。そこで今、この小説を読んでいる、キ・ミ。
 いいかい。ここからのお話は他とはまったくノリが違う。言ってしまえばただのパロディー、もっと言えば悪ふざけだ。だから、そういうのが見たくないひとは、この先は読まない方がいい。物語の世界観を、あるいはキャラクターのイメージを壊されたくないなら、ここはさっさと読み飛ばして、すみやかに次の話へ進むことをおすすめする。ちなみに、このお話の中には物語の進行に関係するような事柄は一切出てこないから、その点は心配しなくていい。心置きなくすっ飛ばしてくれ。
 わかったね。それじゃ、選んでくれ。

■私はジョークに理解のある大人なので、この先に進む。
 はい  →そのまま次の段落へ
 いいえ →すっ飛ばして「2 仇敵」へ


 ……いいんだね?
 ……ほんとうに?

 ……オーケー。それじゃ、いってみようか。
 Let's walk in a parade !


PANIC1 家庭料理の勇者現る

 レナとクロード、それにボーマンの三人は、街の中心部から東に向かって歩いていた。
「あれ? みんなは?」
 レナがあたりを見回しながら言った。入場門を潜ったときには、確かに全員いたはずなのに。
「エルネストさんは、まだ足の具合が不安だからって、宿で休んでるよ。オペラさんも付き添ってね。ノエルさんは何かバーニィレース場に用事があるとかで、そっちに行った。ディアスとセリーヌさんも、いつの間にかいなくなってたな」
「そっか。まあ、街の中なんだから、みんないっしょに動くことはないよね」
 と、レナは背後のボーマンを見た。なんとなく。
「な、なんだ?」
 その視線にうろたえるボーマン。
「もしかして、邪魔なのか、俺?」
「別に、そういうわけじゃ、ないんですけど……」
 それでも、やはり残念そうだ。
 広々とした通りをずっと行くと、向こうに石造りの大きな建物が見えてきた。ラクールの城を思わせるような荘厳な建物だった。
「なんなのかしら、これ」
「『クッキングマスター』だってさ」
 クロードが三つ折りになっている紙を広げた。入場門でもらったこの街の案内図だ。今いる場所を確認して、そこの説明を読み上げる。
「『特定の食材をテーマにして、我がマスターが誇る【ゴールドシェフ】と料理で対決していただきます。制限時間は六十分。作品の審査は当マスターの主宰ヤーマが行います。料理に自信のある方ならどなたでも参加できます。参加料は千フォル』……変なアトラクションだな」
「料理かぁ。面白そうね」
「まさか、参加するの?」
「うん。せっかくだから、やってみたい」
「よし。行けっ、家庭料理の勇者よ!」
 ボーマンが後ろから威勢よく言ったが、ふたりは白けたように彼を見ただけで、すぐに何事もなかったように歩いていった。
「……やっぱり、俺、場違いな気がするんですが……」
 ボーマンはがっくりと肩を落としたまま、失業したサラリーマンのようにとぼとぼとふたりの後をついていった。


PANIC2 戦いが俺を呼んでいる

「ようこそ。ファンシティ闘技場へ。参加をご希望ですか?」
 ディアスが無言のまま頷く。
「バトルモードはどれになさいますか? デュエルバトルは一対一で四戦勝ち抜き。ブリーングバトルは複数敵相手に三戦勝ち抜き。チームバトルは……団体戦ですからお仲間もいっしょでないと参加できません。あとは、サバイバルバトルですか」
「それは何だ?」
「五十戦勝ち抜きですよ。最初のうちは弱い敵ですが、だんだんと強くなっていきます。かなり厳しいモードなので、これまで見事五十戦を戦い抜いた者はおりません」
「それにしよう」
 ディアスがさらりと決めてしまったので、受付の女性は目を瞬かせて彼を見た。
「本当によろしいのですか? 敵はヴァーチャルリアリティーですが、叩かれれば傷も負いますし、場合によっては大怪我するかもしれませんよ」
「のぞむところだ。実戦に近ければこちらも全力で戦えるからな」
 受付の女性はそう言うディアスに呆れたような顔をしながら、デスクの装置に彼の登録を始めた。
「ディアス様ですね。登録は完了しましたので、そちらのフィールド入口までお進みください」


PANIC3 ノエルの出張健康診断

「おや、ノエル先生」
「やあ。お久しぶりですね」
 ノエルはレース場の裏手にある関係者専用の通用口から入って、そこにいた若い男に挨拶をした。
「ちょうどよかった。また、お願いできませんかね?」
「ええ。僕もそろそろ時期かと思って、この街に来たついでに寄ってみたんです」
「そいつはありがたい。ささ、こちらへ」
 男に案内されて、ノエルは奥の部屋へと通された。
 そこはバーニィたちの厩舎となっていた。木の柵で仕切られた小部屋がずらりと並んで、その中に一匹ずつ、さまざまな大きさや色合いのバーニィが入れられていた。
「最後にノエルさんに診てもらったのが半年前ですからね。その間に調子が悪くなったり、具合のおかしくなったバーニィもちょくちょく出てきました。専属の獣医だけではどうにも対応しきれない面もありましてね。どうかよろしくお願いします」
「わかりました。それじゃあ、始めますか」
 ノエルは柵の隅に設けられた扉から、バーニィのいる小部屋へと入っていった。


PANIC4 JOFC-TV+『クッキングマスター』台本より

 BGMと同時に、主宰のナレーション開始。
「わたしの記憶が確かならば、今、このエナジーネーデは未曾有の危機に瀕している。三十七億年の時を経て、あの恐ろしい十賢者が再び舞い戻ってきたのだ。そして彼らはこのネーデだけでなく、全宇宙の脅威となりつつある。そんな彼らの野望を阻止すべく、わずか八人の勇敢な戦士たちが立ち上がったことは、皆もよく存じていることだろう。今回はなんと、その希望の戦士のひとりが挑戦者として名乗りを上げたのだ。
 それではご紹介しよう。戦士たちの食事を一手に引き受ける家庭料理のスペシャリスト、レナ・ランフォード!
 彼女が料理を始めたのはわずか四歳のとき。母親の手伝いで材料の下ごしらえをしたのがきっかけであった。それから長い下積みを経て、六年後にようやくひとりで台所に立つことができた。あのとき初めて作ったビーフシチューは、生涯忘れられない味になったという。そして十七歳で旅に出てからは、野宿の際の炊事をいつも任されていた。なけなしの材料でいかに旨く作るか。彼女の料理に対する追求は日増しに強くなっていったのである。
 さあ、レナ・ランフォードよ。戦士たちの腹を満たしてきたその素晴らしい料理を、大いに見せつけるがいい!」
 カメラ切り替え。マスタースタジアム全体から徐々にズームイン。カットバックには整然と並んだ食材。テーマ曲が流れる。
 主宰入場。壇上の中央で止まり、手前に山積みになっている食材から黄色のピーマンをつかんで、爽やかにかじる。そこでズームアウト。それをタイトルバックに『COOKING MASTER』のタイトル表示。
 BGMストップ。再びスタジアムを俯瞰ふかんする。実況席のマイクON。
「マスタースタジアムに、新たな挑戦者がやって参りました。希望の戦士は、果たしてここでも希望の風を吹かせてくれるのでしょうか。実況はわたくしフクイ。解説はおなじみのユキオーン・ハトリさんとお伝えして参ります」
「よろしくお願いします」
「さあ、それでは主宰の挨拶です」
 観客席の盛大な拍手に応えて、主宰が一礼。
「十賢者との激しいせめぎ合いも、いよいよ最終局面を迎えようとしているこの時勢。今回の挑戦者は、まさしくその渦中にいる人間でもあります。
 それでは皆さん、大きな拍手をもってお迎えください。打倒十賢者に燃える家庭料理のスペシャリスト、レナ・ランフォード!」
 拍手に出迎えられ、挑戦者入場。スタジアムの中央で主宰と握手する。
「ようこそお越しくださいました」
「あ、はい。ありがとうございます」
「自信のほどは」
「え、いや、ありませんよ。そんなすごい料理作れるわけじゃないのに……」
「その謙虚な姿勢での料理を、期待してます」
「はあ……がんばります」
「それでは、我がマスターが誇る料理人に登場してもらいましょう。
 蘇れ、ゴールドシェフ!」
 荘厳なBGM。壇の下からゴールドシェフがせり上がってくる。盛大にスモークとライトアップ。実況がシェフの紹介をする。
「ネーデの料理界を常にリードしてきた天才料理人、ヒロ・サクァーイ。芳醇で繊細な味と絵画のごとく色彩豊かな料理はまさに芸術作品。その流れるような包丁さばきで、今日はいったいどんな料理を我々に披露してくれるのでしょうか」
 ゴールドシェフ、挑戦者と並んでスタジアムの中央に立つ。主宰は壇上で二人を見下ろす。
「野宿のときにはいつも材料を集めるのに苦労するという、今日の挑戦者。おそらく、最も使い慣れている食材だと思います。
 それでは発表します。本日のテーマは、これです!」
 主宰が手前の棚にかかっていた布を華麗にめくる。所狭しとひしめく野菜。重々しいBGM。
「今日のテーマは、野菜」
 そこで数秒の間。余韻を残したまま画面フェードアウト。

 ────CM────

 CM明け。カメラはスタジアムを俯瞰。勇壮なBGM。実況のマイクON。
「全宇宙の命運を握っていると言っても過言ではない挑戦者。このマスタースタジアムでも、料理界の命運を賭けた戦いが今、始まろうとしています」
さあ料理を始めよアーレ・キュイジーヌ!」
 ゴングが低く鳴り響く。ゴールドシェフと挑戦者、材料選びのために中央の棚へと向かう。
「さあ、長くて短い六十分が始まりました。今回の挑戦者はいわゆるプロではないだけに、新鮮なものが期待できそうですね」
「そうですね。やはり家庭料理ということで、愛情たっぷりの料理を作ってほしいです」
「さて……挑戦者は何を取ったでしょうか。……ほう、ジャガイモですね」
「男爵イモですね」
「男爵イモと、人参、それにタケノコですね。一方のヒロは、キャベツと、トマトですか」
「ネギと白のアスパラガスも取りましたよ」
「さあ、両者とも、これでいったいどんな料理を作ろうというのか」
「フクイさん」
「はい。オウタさん。どうぞ」
「挑戦者にこの試合の意気込みを聞いたところ、照れくさそうに一言『一生懸命やるだけです』と話してくれました」
「今日も冷蔵庫前のリポートはオウタさんです。ハトリさん、挑戦者は相変わらず謙虚ですね」
「ですね。好感が持てます」
「おっと、挑戦者がジャガイモの皮をむき始めてます。やはり慣れた手つきです」
「これだけ包丁を自在に扱えるってのは、たいしたもんですよ」
「あっという間に皮をむき終えて、さて、これをいったい何に使おうというのか」
「フクイさん」
「オウタさん、どうぞ」
「一方のヒロなんですが、挑戦者について聞いてみたところ、『こっちはプロなんだから、貫禄ってやつをみせてやんないとね~。でも、油断はできないよ』と語ってくれました」
「ありがとうございました。そのヒロですが……鍋に火がつきましたね。入っているのは、これは、水だけですか?」
「おそらく、なにか茹でるんじゃないんですかね」
「そして、これが茹でるものになるのか。帆立を殻から取りだしてます。さらに、その横にはトマトが用意されてますね」
「見てくださいよ。挑戦者の炊飯器にスイッチが入ってますよ」
「おやおや、本当だ。これは入ってるのはご飯なのでしょうか」
「フクイさん」
「はい、どうぞ」
「この炊飯器の中身ですが、お米の他に、だし汁、醤油、それにタケノコが入っている模様です」
「ということは、炊き込みですね。挑戦者、竹の子ご飯を作ってきました」
「いいですね。炊き込みご飯ってのは家庭のアイデアが詰まった料理ですからね」
「一方のヒロですが、なかなか下ごしらえに時間がかかっていて、こちらからではまだ一品も形が見えてきませんが……ほう、フォアグラとトリュフが用意されてますよ」
「これは面白いですね。家庭料理に対して、あくまで高級志向で対抗する。見物ですよ」
〈十五分経過〉
「さあ、早くも十五分経過のアナウンスが流れました。……おおっと、ヒロは、フライパンで何をやってるんでしょうか」
「キノコですね。しめじに舞茸にシャンピニオン。スライスしたものをソテーしてます」
「その一方で、ヒロはアイスクリーマーの用意もしているようですね」
「これですよ、これ。湯むきしたトマトをフードプロセッサーにかけてます。これはなにか味つけしてあるのかな?」
「フクイさん」
「オウタさん、どうぞ」
「このフードプロセッサーの中身ですが、湯むきしたトマトに、シロップ、ウォッカ、レモン汁、タバスコが加わってます」
「ほら、やっぱり。ソルベですよ」
「それでは、トマトのソルベってことになるんでしょうか……。おや、挑戦者サイドですが、牛肉が出てきましたね。牛の薄切りです」
「読めましたよ。ジャガイモに人参、タマネギ、グリンピース、それに牛肉とくれば、間違いないでしょう」
「肉じゃがですか」
「その通りです。肉じゃがといえば家庭料理の代表格ですからね。狙ってますねぇ」
「さて……ヒロは何をしているんでしょうか? これは、キャベツですね」
「茹でたキャベツで、帆立とニラを巻いてます。あの黒いのは……塩昆布ですかね」
「フクイさん」
「はい。どうぞ」
「先程の『狙ってる』というハトリさんのコメントに対して、挑戦者は『そんな、狙ってませんよ。これしか作れないだけです』とのことです」
「ありがとうございました。これしか作れない、ですか」
「そんなことはないですよ。自信をもって作れるのがこれだってことでしょうね」
「なるほど。あくまで謙遜の姿勢を崩さないわけですね。……さあ、ヒロのキャベツで巻いたものがオーブンに入れられました。彼の方も少しずつではありますが、作品の輪郭が見えてきたようです」
〈三十分経過〉
「いよいよ後半戦へと突入しました。ここまでは両者ともに、それぞれの持ち味を出しきっているという感じですが」
「おやおや、挑戦者のほうでもアイスクリーマーが出てきましたよ」
「ほう、本当ですね。今、挑戦者がボウルでかき混ぜているものが入れられるのでしょうか」
「フクイさん」
「どうぞ」
「このボウルの中身ですが、ゆずの果汁、グラニュー糖、はちみつ、それにゆずの皮をすりおろしたものも入ってます」
「ということは、ゆずシャーベットということですか」
「そうですね。きっとあれでしょう、ヒロのほうがソルベを作ってるから、こっちでもデザートがいると思ったんじゃないでしょうか」
「なるほど、そのあたりは臨機応変に対応しているわけですね。……ヒロのソルベはすでにアイスクリーマーに入れられています」
「ヒロは、これ、さっきのキャベツ包みのソースですかねぇ」
「これは、何が入っているんでしょうね。赤というか、橙というか……」
「フクイさん」
「どうぞ。オウタさん」
「この、煮詰めている鍋の中身なんですが、エシャロット、にんにく、ノイリー酒、サフラン、ジュ・ド・ユキュヤージ、たかの爪、カイエンヌ、パプリカが入ってる模様です。今、人参のピューレも加わりました」
「はい。どうも。おそらくこれは、キャベツ包みのソースになるものと思われます」
「見てくださいよ。挑戦者の肉じゃが、いい具合に煮詰まってますよ」
「ああ、本当ですね。なんだか、見てるだけでよだれが出てきそうなぐらいです」
「フクイさん。この肉じゃがの中身の確認なんですが」
「はい。どうぞ」
「ジャガイモ、牛肉、タマネギ、人参、グリンピース、だし汁、砂糖、酒、醤油、それに生姜のみじん切りしたものが入ってます」
〈十五分前〉
「おっと、ここで十五分前のコールがかかった。この対決も、残すところあと四分の一足らずといったところまで来ました。さて……ヒロは、カップになにやら盛りつけているようですが」
「牛ですね。牛のローストです。下にはキノコとアスパラ、それにフォアグラのソテーも入ってるんじゃないですか」
「これはいったいどういう……ああ、スープですね。横にコンソメスープの鍋がありました」
「たぶん、このままテーブルに出して、直前で熱いコンソメを注ぐんですよ。いやいや、これは間違いなく旨いですよ」
「確かに、牛のローストに、フォアグラまで入ってるんですからね。これが不味いわけがないといった感じです。おお、今、トリュフも入りました」
「これでもかこれでもかって具合に高級品の応酬ですねぇ。これは面白いですよ」
「おや、ここで挑戦者側にアクシデントか? これは、アイスクリーマーだ。アイスクリーマーが動きません。ゆずのシャーベットは、果たしてどうなってしまうのか?」
「故障ですねぇ。これは不運だ……おお!?」
「動いた。直りました! 今、挑戦者が思いきり機械を蹴飛ばしたら、何事もなかったかのように、再び動き出しました」
「いやいや、今のはすごい場面でしたね。はっはっ」
〈五分前〉
「さあ、いよいよ大詰めです。両者ともに仕上げの段階へと入りました。ヒロのソルベは、もうカップに盛りつけてありますね」
「フクイさん」
「はい。オウタさん」
「先程の挑戦者がアイスクリーマーを直したことについて、ヒロは『あれはよく止まるんだよねぇ。俺も泣かされたよ。蹴りで動かしちゃうなんて、やるじゃない』と、別の方面で感心してました」
「そうですか。蹴りではヒロに認められた挑戦者。果たして料理のほうでもヒロを唸らせることができるのでしょうか」
「挑戦者、竹の子ご飯がでてきましたよ」
「おっと、本当だ。ほかほかの竹の子ご飯が、茶碗に盛りつけられております」
〈一分前〉
「ついに一分前です。ヒロのほうも動きが慌ただしくなった。キャベツ包みをオーブンから取りだして、皿に盛りつける。ここでソースがかかった」
「このソースが絶妙なんですよね」
「一方、挑戦者は最後に肉じゃかの盛りつけにかかった。これもおいしそうだ。湯気をたてて、ほくほくのジャガイモが器に転がりこむ」
〈十五秒前〉
「両者とも、ほぼできあがった模様です。ヒロはスープに、キャベツ包みに、トマトのソルベ。挑戦者は竹の子ご飯に肉じゃが、そしてなんとか間に合ったゆずシャーベット。さあ、まったく趣向の違う二人の料理。果たして軍配はどちらに上がるのでしょうか」
〈五秒前。三、二、一〉
 試合終了のゴング。調理の手を止める両者。観客席から拍手が湧き起こる。
 すぐにリポーターのインタビュー。まずは挑戦者から。
「いかがでしたか。六十分戦い終えて」
「短かったです。時間配分とかもよくわからなかったから、どんどん時間が過ぎていっちゃって。とりあえず、やれるだけのことはやりました」
「ゴールドシェフに勝てる自信は」
「そんな、勝つつもりなんてありませんから。勝ったら向こうに失礼です」
 続いて、ゴールドシェフ。
「いかがだったでしょう。今回は」
「いや、いつもどおりですよ。手加減したつもりはないし」
「料理の出来はどうでしょう」
「んー。まあまあじゃないかな。プロの意地ってやつだね」
「では、勝てると」
「やってみなきゃわかんないからね。こればっかりは」
 インタビュー終了。すぐに画面切り替え。作品の画面とともに、実況が料理の説明をする。
「挑戦者の料理はこの三品。竹の子ご飯は家庭の知恵が編み出した究極の一品。ほくほくしたご飯に竹の子の歯触り。アクセントに添えた三つ葉が絶妙です。挑戦者が自信をもって作り上げた肉じゃがは、素朴な『おふくろの味』を彷彿とさせます。煮汁が芯まで染みこんだジャガイモは、旨味が口の中でふわりと広がります。デザートは、ゴールドシェフに対抗して作ったという、ゆずのシャーベット。すりおろしたゆずの皮の粒が、上品な味に仕上げています。
 一方のゴールドシェフも同じく三品。新緑のスープはネギとアスパラのほか、牛ロースト、フォアグラ、さらにトリュフまで用いたまさに贅沢な一品。客席で熱々のコンソメスープを注いで完成です。帆立貝のキャベツ包み・新わかめ添えは、帆立とニラ、塩昆布をキャベツで巻いたもの。ヒロの真骨頂でもあるソースが絶品です。デザートには一風変わった、トマトのソルベをもってきました。サバイヨンソースをかけ、さらにグラッセして見た目にもこだわった、ヒロらしい一品です」
 その後別室で試食が始まるが、ここでは割愛。あしからず。

 ────CM────

 CM明け。審査を終えた主宰がスタジアムに戻ってくる。会場、大きな拍手。
「飽食のこの時代にあって、シンプルな家庭料理を見直すきっかけをもたらしてくれた、今日の挑戦者。私も、思わず故郷の母を思い出しました。……それでは発表します」
 緊迫したBGM。実況のマイクON。
「十賢者との戦いのさなか、このスタジアムに挑んできた挑戦者。ここで見事に勝利して、故郷に錦を飾ることができるのか。ゴールドシェフか。それとも、家庭料理の勇者か!」
 BGMストップ。一瞬の間。
「挑戦者、レナ・ランフォード!」
 驚いて、それから満面に笑みを浮かべる挑戦者。勝利をたたえるBGMが流れ、割れんばかりの拍手が起こる。中央で、ゴールドシェフと挑戦者が両手で握手を交わす。
「やりました。挑戦者です。家庭料理の勝利です。けっして着飾ることなく、純粋にうまさを追求した家庭料理が、ゴールドシェフを打ち破りました。ここに、ネーデ料理界においても新たな一ページが刻まれることでしょう!」


PANIC5 患者1:イエローバーニィ

「二ヶ月くらい前からですかねぇ。急に走りが悪くなったんですよ。出走してもすぐに息切れしてしまって。充分休養は取ってるはずなのに、なんだか疲れているみたいなんですよ」
「なるほど」
 ノエルはバーニィの前で、係員から説明を受けていた。
「それで、我々のほうでも調べてみたら、どうも、寝不足みたいなんですよ。夜に小屋をのぞいても、こいつだけずっと起きてるんです。不眠症ですかねぇ……」
「うーん。バーニィの不眠症ってのは、あんまり聞いたことないですねぇ。ほかに原因があるのかも……おや?」
 ノエルは、バーニィがちょっとだけ口をもごもごと動かしたのに気づいた。元からもごもごとしたような口なので、普通の人間では気づかないが、彼だけはその微妙な動きを察知したのだ。
「ちょっと、ごめんな。口を開けて」
 ノエルは嫌がるバーニィの口を無理やり開けさせた。その中を、じっと覗き込む。
「ああ、これは、虫歯ですねぇ」
「虫歯?」
 係員が驚いた。
「ええ。たぶん、こいつが痛むから、夜もなかなか寝られなかったんじゃないでしょうか。……あ~。もう神経までやられてますねぇ。抜くしかないでしょう」
 ノエルは係員に大きめのペンチを持ってこさせた。銀色のペンチを受け取り、ふたたび振り向くと、バーニィは目を潤ませてノエルに懇願している。
「ダメですよ。そんな顔しても。あなたのためでもあるんだから」
 ノエルが無表情ににじり寄る。バーニィは思った。この人、鬼だ。


PANIC6 生肩と生足

 クッキングマスターに勝利して、景品に山ほどの野菜をもらったレナは、意気揚々と会場を後にした。野菜は当然のごとく、男ふたりに持たせて。
「結局、こうなるんですね……」
「だから深く考えるなって……」
 クロードとボーマンがこそこそと囁き合う。
「ほら、早く歩きなさいよ。まだ時間はあるんだから、ほかのところへ……きゃっ!」
 後ろのふたりを振り返ったとき、誰かが正面から勢いよくぶつかってきた。突き飛ばされて尻餅をつくレナ。
「いったぁ~……あれ、セリーヌさん?」
「レナ?」
 そこにいたのは、セリーヌだった。狸のバイオリン演奏でも見るような顔つきで、そこに立ちつくしている。
「どうしたんですか?」
 レナが訊ねても、セリーヌはまるで彼女のことなど気にもとめずに、きょろきょろと辺りを見回し、そこで何かを見つけて、脱兎のごとく大通りを走っていってしまった。
「あ、ちょっと、セリーヌさ……!?」
 言いかけて、レナは口をつぐむ。横の狭い脇道から、蜂の巣をつついたように何人もの人がわんさか溢れ出てきたのだ。
「彼女はどこだ!?」
「いたぞ、向こうだ!」
「待ってくれ~」
「お姉ちゃ~ん」
「おらのこの愛、受け止めてくんろ~」
「いとしのマイエンジェル、今この僕が行くよ~」
「いや~ん、お姉さま~ん」
「バグってハニ~」
「スペランカー」
「ワシの後妻になってくれ~」
 若い男ばかりでなく、女性もいれば老人もいる。それぞれに歓声やら奇声やら意味不明な単語やらを発しながら、セリーヌを追っている。その様子は、まさに餌に群がる蟻の集団だ。
「……ネーデも、もう、ダメかもしれない……」
 狂乱の余韻が尾を引くなか、クロードがぼそりと呟いた。
「セリーヌの奴、いつの間にあんな熱狂的な追っかけがついたんだ?」
「そんなわけないでしょ」
 ボーマンに突っ込んでから、レナは走り出した。クロードが慌てて止める。
「ちょっと、どこ行くんだよ?」
「なにがあったのかは知らないけど、ほっとくわけにはいかないでしょ。後を追っかけるわ」
「僕らはどうすりゃいいんだよ」
「野菜を宿まで持っていって」
 それだけ言い置くと、さっさと駆け出していった。取り残された男ふたりは、茫然とそこに立ちつくす。
「……最近、悩みがあるんですが」
「なんだ?」
「レナは、本当に僕のことが必要なのかなって……」
「……まぁ、あれだ、その件に関しては後でゆっくり話し合おう。な?」
 落ち込むクロードの肩を、ボーマンは慰めるように叩いた。


PANIC7 歯ごたえがありそうだな

「さあディアス選手、ここまで二十九匹までを無難に退け、いよいよ三十匹目です。果たしてどこまで記録を伸ばせるのか?」
 フィールドの中央に、大蜥蜴の怪物がさっきからそこにいたような恰好で現れた。ディアスは身構え、すぐに斬りかかる。
 蜥蜴が炎を吐いた。ディアスは跳躍して躱すと、岩山のような背中に降りたってそこに剣を突き刺した。魔物はもがいてディアスを振りほどこうとする。ディアスが剣を抜いて相手の足許に着地したとき、突如として図太い尻尾が鞭のようにしなって襲いかかった。弾き飛ばされ、フィールドの壁に叩きつけられるディアス。さほどダメージは大きくなく、すぐに立ち上がることはできた。
 蜥蜴が再び炎を吐き出した。横っ跳びでそれを避けてから、ディアスはその場で空破斬を放つ。衝撃波が敵の腹下の地面を素通りする。それでいい。動きさえ止められれば。
 ディアスは柄を逆手に握り変え、下から上へ、弧を描くように剣を振るった。
「弧月閃」
 剣の軌跡がそのまま闘気の刃と化し、一瞬にして大蜥蜴の胴体を真っ二つにした。地面に転がった肉片はさあっと霧散するように消滅した。
 ディアスは大きく息をついた。さすがにここまで来ると、敵の強さも半端ではない。だが、相手が強ければ強いほど、自分の闘争心もおのずとかきたてられるのだ。目の前の敵を屠ることの喜びに、彼は酔いしれていた。
 まったく事務的に、次の敵がフィールドに出現する。恐ろしい怪鳥を相手に、ディアスの孤独な戦いはまだまだ続いた。


PANIC8 患者2:グリーンバーニィ

「この子はどうしたんですか?」
「耳が遠くなったみたいなんですよ」
 係員が説明する。
「レースのスタートの合図が、聴き取れないみたいなんです。みんながスタートしたのをみて、遅れて走り始めるといった具合で。おかげでどうしても出遅れて、なかなか順位が上がらないんですよ」
「へえ。耳が遠い、ですか。どれどれ」
 ノエルはバーニィの垂れ下がった耳をぺろっとめくって、その付け根に顔を近づけて呼びかけてみた。
「もしもーし」
 バーニィの反応はない。
「聞こえますかー」
 少し声を大きくしても、やはりバーニィは動じることなく、彫像のように佇んでいる。
「わっ!」
 ノエルはいきなり、おどかすように耳許で叫んだ。さすがのバーニィもこれには飛び上がって、野生の本能か、狭い小屋ということを忘れて一目散に逃げ出し、柵に激突してあえなく倒れた。
「うーん。ちょっと耳がただれてますねぇ。もしかしたら中耳炎かもしれません」
 ノエルはまったくお構いなしに、気絶したままのバーニィの耳を覗いている。
「僕では治療はできないから、獣医に頼んで詳しく診てもらってください」
「あ、あの、ノエル先生……」
「なんですか?」
「それより、この子、起きあがらないんですけど……」
「ああ、大丈夫ですよ。ショックで伸びてるだけですから。少しすれば目を覚まします」
 ノエルは平然とそう答えて、小屋を出ていってしまった。
 係員も思った。この人、やっぱり鬼なんじゃないかと。


PANIC9 ご乱心

「どこいったのかな……セリーヌさん」
 レナは闘技場の中をくまなく捜し回ったが、彼女の姿を見つけることはできなかった。道すがら、やはり彼女を追いかける謎の一団らしきものたちが周辺を必死に捜索していたが、同様に見つけられないでいるようだった。
 スタンドをぐるりと一周して、もうここにはいないのかと諦めて帰ろうとしたそのとき、受付のカウンター近くの部屋で、派手な藤色の髪がチラッと見えたような気がした。レナは怪訝に思いながらも、その部屋へと足を踏み入れる。
 そこは出場選手のための控え室だった。明かり取りは壁に小さなものがひとつきりで薄暗く、おまけになんとなく汗臭い。壁際には荷物を置いておくためのロッカーと、簡易的なものながらベッドもいくつか設えてある。レナは忍び足で、慎重に奥へと進んでいく。すると、突然二段ベッドの陰から細い手が伸び、レナの腕をつかんで部屋の隅へと引き寄せた。
「きゃ!」
「しーっ!」
 セリーヌは人差し指を口許に立てた。そう、それはセリーヌだった。
「セリーヌさん、こんなところでなにやってるんですか?」
 レナが小声で聞いた。
「決まってるじゃない。隠れてるんですのよ」
「いったい、なにがあったんですか? 外は大騒ぎですよ」
「あー、それはね……」
 セリーヌは面倒そうに頭を掻いて、そっぽを向く。
「ちょっと、薬の実験をしたのよ」
「薬?」
 レナは嫌な予感がした。
「そう。偶然こういう紙を拾いましてね。面白そうだから作ってみようと思って」
 レナは紙をセリーヌからひったくって、そこに書かれた内容を読んだ。
「『これであなたもモテモテ間違いなし! 効果バツグン【惚れ薬】の調合法』……惚れ薬!?」
「要するに、身体に塗るとそのひとの魅力が増幅するっていう薬ですわね」
「まさか、セリーヌさん、自分に使ったんですか?」
「そりゃ、使うとしたら自分以外にいないでしょ。でもまさかこんなに効き目が強いとはね。異性だけでなく、同性にまで好かれてしまうなんて」
「もう! のんきにしてる場合ですか。外は大変なことになってるんですよ。セリーヌさんを捜して大勢のひとが……」
「だから、ここに隠れているんですのよ。もう少ししたら効果は切れるはず……って、レナ?」
 気がつくと、レナの表情が変わっていた。とろんと微睡むような瞳で、セリーヌを見つめている。
 まさか。セリーヌの顔から血の気が引く。
 レナはいきなり彼女の両腕を捕まえ、猫撫で声で言った。
「お姉さま、かわいそう。でも、ここなら安心よね。誰にもじゃまされない。ずっとふたりっきり、ね?」
「お、お、おねえさま!?」
 あまりのことに、セリーヌの声が裏返る。身の危険を感じて逃げ場を探すが、どのみち腕をつかまれて身動きがとれない。陶然とこちらを見つめて迫る彼女に、じりじりと後退りする。
「どうして逃げるの? お姉さま、私のことが嫌いなの?」
 しおらしく瞳を潤ませるレナ。これが男に向けられた視線ならば、あっけなく悩殺されること間違いなしなのだが。
「き、嫌いとか、そんな問題じゃなくて、わたくしはそーいう趣味はございませ……あっ!」
 膝の裏になにか固いものが当たって、セリーヌは背中から倒れた。地面にぶつかると思っていた背中が、ずいぶん高いところで止まった。柔らかなマットレスの感触。そう、そこはなんと幸運、いや不運なことに、ベッドの上だったのだ。腕をつかんでいたレナも必然的に、彼女の上に折り重なるようにして倒れてきた。
 レナは、なんとか逃げようとしてもがくセリーヌを腕と脚で捕捉しておきながら、そっと囁きかける。彼女にこんな声が出せたのかと驚くほど、甘く切ない声色だった。
「あのね。お姉さま。私ね、ずっとお姉さまのことが」
「わーっ!! ダメダメ! それはもっと他に言うべきひとがいるでしょう! 健全な女の子が言っていい相手じゃありませんわ!」
「んもう。お姉さまの、いけずぅ」
「いけずって……きゃ、どこ触ってんのよ!」
 艶めかしく手が忍び寄ってきたかと思うと、今度は顔を近づけてきた。
「お姉さま。ここで愛の証を、ね?」
「ダメっ! それもダメ! ちょっと、聞いてるの!?」
 レナの顔が目の前まで近づく。セリーヌの表情がこわばる。何気に人生最大のピンチである。
 鼻先がかすめた。いよいよ禁断の瞬間が訪れようかという、その直前で、レナの動きが止まった。精気の戻った瞳をぱちくりさせて、セリーヌを見つめる。
「あれ……? 私、なにを……きゃあっ!」
 慌ててセリーヌから離れて、ベッドを飛び降りる。
「ち、ちょっと、セリーヌさん、なにやってたんですか?」
「あなたが言わないでよ」
 セリーヌも起きあがり、ベッドの縁に座りながら、大きくため息をついた。ぎりぎりのところで、薬の効果が切れてくれたらしい。
「はあ……なんとか一線は死守しましたわ」
「一線って……え? どういうことですか?」
 混乱するレナに、セリーヌは少しやつれ気味ながらも、いつもの調子でからかう。
「ま、あなたの意外な一面も見れたから、今回はよしとしますわ。クロードにも、それくらい大胆になれるといいわね」
 そう言って、彼女はそそくさと控え室を出ていった。レナは首を傾げて、その言葉を頭の中で繰り返してみた。
「クロードにも……? ちょっと、セリーヌさん、それ、どういう意味ですか!?」
 レナも後を追って駆け出す。控え室には、乱されたベッドばかりが、嵐の後のようにそこに佇んでいた。
「なんで逃げるんですか、セリーヌさん」
「あなたに追っかけられたら逃げるのが、癖になってしまったんですのよ」
「どうしてですか」
 無人の部屋に響く、ふたりの言い争う声はだんだんと小さくなり、やがて消えた。


PANIC10 神聖美少年ロマンセ

怪盗633B参上

 何やらここに蠱惑こわく的なエピソードが書かれていたようだが、この小説には相応しくないと判断した故、私がもれなく頂戴した。全国のショ……美少年愛好家の諸君は残念だったな。まあ、君らにこの内容はまだ早いということだ。精進したまえ。

 ちなみに、「あんた一体何者?」という疑問をお持ちの読者諸君は、以下のサイトの『少年探偵レオン』にて熟知されたし。子猫くんの活躍は私も眼福がんぷくの至りである。
 http://andante.halfmoon.jp/sonovel/

 さて、それでは参ろうか、子猫くん。ふふ、私の腕の中で眠っているのか。ういやつめ。今夜もたっぷりと可愛がってやるからな……。

(※彼が抱いているのは人形です。自作の等身大レオンきゅん人形。真性変態のやることですからご容赦ください)


PANIC11 患者3:ピンクバーニィ

「この子の症状はちょっと微妙でしてね」
 と、係員。
「ふだんは何ともないようなんですけど、どうかすると痛そうな顔をするんですよ。いちおう、傷とか腫れ物がないか一通り調べたんですが、特に見あたりませんでした」
「なるほど」
 ノエルもバーニィの身体のあちこちをしらみつぶしに点検していったが、やはり痛みの原因となるようなものは見あたらなかった。耳の中にも、口の中にも、とりたてて異常はない。
「確かに外傷はありませんね……とすると、胃や腸などの内臓か、もしくはアレルギー症状かもしれません。なにか、痛むときの状況で、気がついたことはありませんか?」
「うーん。そうですねぇ……ああ、そういえば、痛そうな顔をするのは食後が多いような気がしますね」
「食後?」
「ええ」
 ノエルには何か思い当たるふしがあったようで、バーニィの背中側に回って、足許から何かをのぞき込むような仕草をした。
「ああ、やっぱり」
「なんだったんですか?」
 係員が聞くと、ノエルはそのままの体勢で。
「これは、痔ですね」
「……痔ですか……」
 バーニィは両手で顔を覆って、ぽっと赤くなった。


PANIC12 セシル……かあ、さん。

 重そうな金属の腕がディアスの頭に振り下ろされる。ディアスは地面に這いつくばって避け、そのついでに剣で敵の脚を薙ぎ払った。バランスを崩す金属の塊に、ディアスはすかさず立ち上がってケイオスソードを叩きつける。金属片や何かの部品が飛散する。すぐに間合いを取ろうとその場を離れかけたディアスに、敵は腕を突き出して銃弾を乱射した。弾は頬をかすめ、腕や脚を撃ち抜いた。それでもディアスはその場に両足を踏ん張って立ちつくし、攻撃が止んだところをすかさず反撃に転じた。
「疾風突!」
 猛然と剣を突き出したまま、敵に体当たりを食らわした。突き飛ばされた敵はいびつなボールのように地面を転がり、ぐしゃりと鈍い音をたてて壁にぶつかった。あとには大きく変形した金属の塊が残っているのみ。それも、程なくしてすうっと消えた。
「なんと、ついにディアス選手、四十九匹目までも撃破しました! さあ、いよいよラストの五十匹目だ! 前人未踏の完全制覇はなるのか!?」
 ディアスは喘ぐように激しく息を切らした。撃ち抜かれた腕と脚がズキズキ痛む。意識が朦朧として、少しでも気を抜いたらそのまま倒れてしまいそうだ。しかし、ここで倒れるわけにはいかなかった。あの日から、俺は決して負けない、倒れないと誓ったのだ。こんなところで、誓いを破るわけにはいかない。
 最後の敵が前方に出現する。ディアスはおもてを上げ、敵をきっと睨んだところで、唖然とした。
 そこには、見上げるばかりの巨大な怪鳥が、フィールドを覆いつくすほど大きな翼を広げて浮かんでいた。それを目の当たりにした瞬間、ディアスは全身から力が抜けていくのを感じた。
「冗談じゃ……ない」
 そうして、ぷつりと糸が切れたように、戦わずして彼は倒れた。


 お楽しみいただけたかな?
 それじゃ、今回はこのへんでGOOD-BY! 引き続き本編を楽しんでくれ。
 ご静読ありがとう。

2 仇敵 ~アームロック~

 西日はとうにスタンドの向こうに沈んだ。後は空も暗くなるばかりだろう。
 ファンシティの古風な闘技場。ラクールのそれをしのばせるスタンドには人の気配はない。先程までの喧噪が、風に吹かれて翻る夢の裳裾もすその切れ端のように、無音の余韻をそこいらに響かせている。スタンドの外から、残っている客の喚声や笑い声や様々な会話が、雲の上から聴く潮騒のように耳をくすぐった。
 この闘技場に彼ら以外の人間がいないのは、何のことはない、ナール市長の命令で係員たちが客を追い払っただけのこと。ファンシティ自体は昼夜を問わず動いている。この時間だけ、闘技場の一切の施設は彼らの貸し切りということになったらしい。
 薄暗がりのフィールドがぱっと白色の光に照らされる。スタンドを取り囲む屋根に設置された照明が点灯したのだ。程なくして、ひとりの男がフィールドの入口から姿を現した。
「みなさんお揃いですか?」
 揃っている、とクロードが答えると、男は堅苦しく頷いた。
「私はこの闘技場の管理責任者です。ナール市長はご自分の業務が忙しくお越しできないとのことなので、私が代わりに説明いたします」
 言いながら、男は掌ぐらいの直方体の箱を取りだした。表面にいくつものボタンが整然と並んでいる。前にクロードが持っていたものと似ている、とレナは思った。
「すでにご存じかもしれませんが、この施設ではヴァーチャルリアリティーで擬似的に魔物を『生み出し』て、参加者に戦わせるというシステムになっております」
「それで、俺たちもここで仮想現実の敵を相手に特訓しろということか」
「ええ。しかし、ただの魔物相手では能率も悪いでしょう。……そこで」
 男が手に持っていた箱のボタンを押す。すると、背後のフィールドが強く光った。何事かと振り返って……彼らは肝を潰した。
 そこには、鮮やかな色の甲冑に身を包んだ大男が立っていた。いっさいの攻撃を弾き返す盾。一振りですべてを粉砕する大剣。見覚えのあるものたちは、無意識のうちに身構えた。そうだ、こいつはエルリアの塔で……。
「それも、ヴァーチャルリアリティーです」
 まったく抑揚のない、事務的な口調の男に、彼らは目を瞬いた。
「これが?」
「ええ。先ほど、みなさんがここで待っている間に、脳にスキャニングをかけさせていただきました。そいつは、あなたがたの記憶にある十賢者をデータにまとめ、実体化させたものです。外見だけでなく、戦闘能力も記憶の範囲で忠実に再現してあります」
「記憶の、十賢者……」
 レナは呟いた。
「みなさんには、これを相手に特訓をしていただきます」
 眉ひとつ動かさずに説明する男に、彼らは複雑な顔をした。
「……こりゃ、もう特訓なんてレベルじゃねぇな」
 と、ボーマンが苦笑する。
「気合い入れてかからないと、ただじゃすまねぇぜ」
「あんたがいちばん気をつけなきゃね」
「にゃにをう」
「それでは、プログラムを開始します」
 男はまるで無頓着に、箱のボタンを押した。甲冑の十賢者が、ゆっくりと動き出した。


 闇黒あんこくの廊下を、ルシフェルは一陣の旋風のように軽やかな足取りで歩いていく。笑みの洩れた顔は、絶対的な確信でみなぎっていた。
 それもそのはず、三十七億年も前から彼が周到に練り上げてきた計画は、ここまでほぼ思惑通りに進み、ついに最終段階へと到達しようとしていたのだから。こちらの手駒は忠実にその役目を果たし、向こうの手駒も予想以上に働いてくれた。睨み合い、小競り合いを続けてきた両者であったが、いよいよ真正面から衝突するときが来た。機は、熟した。
 ルシフェルの心は抑えようのない歓喜で満ち溢れていた。これが終われば、心おきなく『奴』を始末できる。奴こそが、この自分を縛りつけてきた忌まわしき鎖。永遠と思われた呪縛も、ついに解き放たれるときが来る。そして私は、この宇宙を統べるものとして永遠に君臨するのだ。
 野望などという陳腐なものではない。これは、いわば全宇宙の意志なのだ。
 このルシフェルこそが、神に選ばれし人間なのだ。
 高揚した気分は、知らぬうちにも綻ぶその表情が物語っていた。
 前方から、誰かがこちらに向かってくる。一歩、また一歩と足を引きずるようにして歩いているのは。
 ──ああ、そうだ。あれこそが私の呪縛だ。前触れなくうずきだす、目の上のこぶだ。あれが存在するうちは、自分とて檻に入れられた獣に過ぎない。何があっても、奴だけは消さねばならないのだ。
欠陥品バグが……貴様の阿呆面もこれが見納めだ)
 すれ違うときに、ルシフェルは自分の優越を確かめるように、心の中でけなした。ところが。
欠陥品バグはどちらだ?〉
 その声に、ルシフェルは電撃に打たれたように棒立ちになった。まるで両脚を鉛にされてしまったように。彼は耳を疑った。だが、次の瞬間には、もはやその言葉を、声の主を信じないわけにはいられなかった。
欠陥品バグはどちらだ? 創られし子よ〉
 声は、彼を得意の絶頂から奈落に突き落とすには充分すぎる破壊力を秘めていた。先程までの歓喜が、高揚が、優越感が、重々しい一撃のもとに手もなく粉砕される。鎖は、やはりまだそこにあり、自分を縛りつけている。そこから抜け出すことは、永遠に叶わないのだ。奴が存在する限り。
 動かない脚のかわりに、ルシフェルはおもむろに首を回して、背後を見た。奴が、にんまりと口を開けてわらっている。あざけっているのか。それとも、ののしっているのか。赤い前髪の奥に隠れた眼光は、あまりにも危険な色に輝いていた。狂気の塊のような嗤いにルシフェルは戦慄し……そして、目を覚ました。
 カッと見開いた瞳に映ったものは、闇の廊下でも、赤髪の男でもなかった。永久に尽きることのない風に吹かれる空間。そこは彼がこの世界で唯一、安息を得られる場所であった。風に属するものである彼にとって、地獄のように吹き荒れる暴風は心地よい音楽であり、柔らかな寝床でもあるのだ。
 ルシフェルは夢の中の光景を追い払うように頭を振り、そして、配下のものを呼んだ。
「ラファエル」
 空間の一部が乱れ、そこに濃緑色のローブに身を包んだものが現れた。ルシフェルはそのものの姿を見ることなく、ただ用事だけを告げた。
「ザフィケル、ジョフィエル、それにメタトロンを呼べ」
 緑のローブは終始無言で、その言葉を諒解できたのかもわからないまま、空間を乱して消えていった。
 急がねばなるまい。ルシフェルは焦っていた。手駒の中でたったひとつだけ、自分の意のままに動かぬものがあることを、彼は忘れていた。そいつのために、自分の計画が台無しにされてしまうわけにはいかない。すべてが手遅れになる前に、事を運んでおかなくては。
 そう考えたときに、ルシフェルはようやく気づいた。これは、自らの存在を賭けた戦いなのだということに。創られし子。そして、欠陥品バグ。それらの呪縛から逃れるために、自分は鎖の内で藻掻いているに過ぎないのだと。
 ルシフェルは歯を食い縛った。否定しきれないその事実に、必死に抗うように。


 甲冑の大男が剣を振りかぶり、叩きつける。彼らは四方に散開して攻撃の間合いから離れ、一斉に反撃にかかる。鞭が唸り、拳が炸裂する。呪紋で足止めしたところへクロードが斬りかかり、剣を交える。その一瞬、相手の死角を衝いてディアスが敵に向かって跳躍した。すれ違いざまに剣を振るって首筋をひと思いに裂く。兜の目庇を深々と降ろした首が、ごとりと鈍い音をたてて地面に落ちる。そこで、敵は消滅した。
「いいね、上等だよ」
 乾いた拍手の音が聞こえてきた。振り向くと、フィールドの出入り口の階段から、小柄なわりにやけに肉付きのいい人間が上がってきた。ミラージュだ。
「久しぶり……つっても、まだ二日しか経ってないか」
「ミラージュさん、まさか、その剣が……」
 鞘に収まった剣を携えているのに気づいたクロードが、訊いた。
「あァ、そうだよ。こいつが反物質の剣『セイクリッドティア』だ」
 ミラージュは剣を掲げて、彼らによく見えるようにした。金をちりばめた紫の布が巻かれた鞘が、青金石ラピスラズリのように輝く。柄は白銀色の不思議な金属で、鞘に閉ざされた刃の煌めきを洩らすように、鈍く光っている。刀身は長くもなく短くもなく、刃も鞘の大きさから推測すれば細い部類に入るだろう。
「そういえば、結局この剣はクロードとディアスのどちらが使うんですの? 決闘では相討ちだったって聞いてますけど」
「そうか、まだ言ってなかったね。あれが終わったときにはもう腹は決まってたんだけど。悪いね、焦らしてしまって」
「いや……ま、別にそんなに気にしてなかったんですけど」
 クロードのその言葉が本意かどうかは、レナにははかりかねた。
「こいつは、あんたのものだ」
 ミラージュが前に立って剣を差しだした相手は、クロード。彼はわずかばかり瞳に力を込めたが、それ以上に表情の変化はなかった。
「……僕でいいんですか?」
 クロードは慎重に、念を押した。するとミラージュは急に剣をひっこめて。
「なんだい、ずいぶん自信がないんだね。だったらいいよ。こいつはディアスにやるから」
「いや、ちょっと……」
「冗談だよ」
 ミラージュが珍しく愛嬌のある笑顔をみせた。
「剣の腕は互角だった。でも、聞けばちょっと前までは、ディアスに全然かなわなかったという話じゃないか。ディアスの剣技は基本的な部分は既に完成されてるから、技術は上がってもそこから先伸びることはない。ところがあんたは、まだ何ひとつ完成されてないんだ。いい意味でも悪い意味でもね。型にはまってない、と言った方がいいかな。そのぶん、こちらは未知の可能性を秘めている。多少リスキーな選択だが、俺はその可能性に賭けてみたいね。ほらよ」
 クロードはミラージュから剣を手渡されると、周囲の視線を気にしながら、おもむろに抜いてみた。鞘から姿を現した白銀の刃は、想像以上に磨きこまれている。いったんその輝きを目にしてしまうと、しばらくは視線を逸らすことができないほど、圧倒的な風格をもっていた。
「それからレナ、あんたにはこいつを渡しておくよ」
 ミラージュは右手に握っていたものをレナに渡した。
 それは、拳ほどの大きさをした玉石だった。色は夜の闇を閉じこめたような黒だが、光にかざしてみると驚くほど鮮やかなみどりに変化した。その色合いを他にすれば、それは四つの場で手に入れた宝珠に酷似していた。
「これは?」
「『ヴォイドマター』。前に言っただろ。みんなの武器を反物質化させる『装置』だよ」
「この石が?」
 オペラが意外そうに訊く。なにか別のものを予期していたのだろうか。
「こいつは中心部に紋章力を注ぎ込むことによって、特殊な波動を放つ。それを武器に取りつけた『アンテナ』が受信すると、その武器はそっくりそのまま、反物質となるんだ」
「紋章力を、注ぎ込む?」
「あァ。だからこそ、レナが持っている必要があるのさ」
 レナたちは首を傾げた。ミラージュの話はどうしていつも要点が抜けているのだろう。
「なんだい。みんな、狐につままれたような顔をして」
「いや、その、言ってる意味が……」
「じゃ、実際にやってみようか。レナ、クォドラティック・キーを出して」
「キーって……なんですか?」
「あんたの首からさげてる、ペンダントのことだよ」
「これが?」
 レナは、服の中に仕舞ってあった翡翠色の宝石を取り出した。
「そう。まさしくそれが発動のためのキーになっているんだ。そいつをヴォイドマターの窪みにセットしてくれ」
「窪み……あ」
 玉石を回してみると、一箇所だけ、小指の先程度の穴が開いているのを見つけた。ちょうど、ペンダントの飾りの型になっているのだ。レナはミラージュにペンダントを見せた覚えはない。なのに、どうしてここまで正確に形を知っているのだろうか?
「単純なことさ」
 そのことを訊ねてみると、ミラージュは淡々と答えてくれた。
「このヴォイドマターを開発したのはリーマ女史なんだ。彼女は発動のために作ったキーを首にさげて持ち歩いていた。それが、あの事故のときに娘の手に渡ったというわけさ。偶然にもね」
 ──偶然にも。
 そう、自分は多くの偶然によって、今、ここにいるのだ。このあまりにも数奇な邂逅かいこうを、レナは運命と呼びたくはなかった。
 言葉にはできない。うまく説明はできないけれど、これだけははっきりと言える。
 みんなと一緒の時間を過ごすことができて、ほんとうによかった。
 そっと、ペンダントの飾りを玉石に填め込んだ。玉石は翠色に明滅を始める。
「それで発動の準備は完了だ。あとはほんの少し、紋章力を注いでやれば波動が発生する」
「どうやるんですか?」
回復呪紋ヒールの要領だよ。手をかざして、包みこむように紋章力を送るんだ」
 レナはアームロックでのサイナードのことを思い出しながら、同じようにやってみた。玉石は光に包まれたかと思うと、いきなり目も眩むほど激しい閃光を放った。ディアスの剣が、ボーマンの籠手が、エルネストの鞭が、オペラのランチャーがその光を浴びると、それらはまるで共鳴するかのように輝きを放つ。一瞬のうちに起こった出来事は、一瞬のうちに収束した。
 目がまだ眩しさの影を残しているうちに、玉石と武器の発光は止まった。
「それで反物質化は終わり。みんなの武器も反物質になってるはずだよ。ちなみに、持続時間は武器によって個体差があるけど、せいぜい数時間程度ってとこだ。放っておくとただの武器に戻ってるから、それだけは気をつけるように」
 ミラージュがそう言うので、彼らはそれぞれの武器を丹念に眺めてみた。
「あんまり、変わったところはないようだが……」
「そうだろうね。なにせよくできたシステムだから。俺もこの技術には驚かされたよ」
 ミラージュはそこで大きく伸びをした。ようやく肩の荷が下りたといったふうに。
「さて、と。それじゃ、そろそろ俺は帰るよ。頑張ってな」
「え? もう帰っちゃうんですか?」
「こう見えても忙しい身なんでね。まァ、いろいろと楽しかったよ。またな」
 振り返り、フィールドの出入り口へと向かっていく。その背中を彼らは見送ったが……途中で足が止まる。
「あ、忘れてた」
 ミラージュは振り返った。
「セイクリッドティアだけど、ひとつだけ注意することがある」
「なんですか?」
「柄の先端に、スイッチがついてるだろ」
 クロードが確認すると、なるほど、柄の先に丸い突起物がついている。
「これは?」
「自爆装置だよ」
「へ?」
 クロードは笑おうとしたが、中途半端なところで顔がひきつってしまった。
「冗談ですよね?」
「いや、それが、当たらずとも遠からずなんだよ」
 と、ミラージュ。
「この前説明したように、刃の反物質は普段は磁場によって固定されてるから、威力もそこそこに制限されている。けれど、そのスイッチを押すと、磁場からすべての反物質を解放できるようになってる。つまり、剣を構成している反物質をまとめて相手にぶつけることができるんだ。これがどういう結果をもたらすかは、前に話したよな」
「……相手も、自分も、剣も、全てが吹き飛ぶ」
「そういうことだ。運がよけりゃ、使用者だけは生き延びるかもしれないが、あまり期待しないほうがいいね。いいかい、こいつは最後の最後、追いつめられたときの切り札だ。できるならこいつの出番がないことを祈るよ。……じゃあな」
 そう言い残して、ミラージュは立ち去った。今度こそ、本当に。

「クロード?」
 レナが呼びかけた。彼はぼうっと剣を眺めている。
「え……なに?」
 ようやく剣から視線を離して、こちらに向ける。
「ミラージュさんの言ったこと、考えてるの?」
 クロードは肯定も否定もせず、また剣に視線を戻してしまった。
「切り札、か……そこまで追いつめられるってのは、どんなときなんだろうな」
「クロード」
 レナが諫めるように、語気強く言った。目を丸くするクロード。
「ダメよ、クロード。そんなこと考えないで。どんなに追いつめられたって、絶対にそれは使っちゃいけないのよ。何が切り札よ。そんなもので勝手に死んじゃうなんて、許さないから。絶対に、ダメだからね」
「……レナ」
 クロードがそっと彼女の腕に手をかけようとしたとき、周囲のぎこちない視線に気づいてハッとする。ふたりを中心にして、いつの間にやら仲間たちが集まっていたのだ。弾かれるようにして背を向けあい、顔を赤くする。
「あー、ゴホン」
 ボーマンがわざとらしく咳払いをする。
「んで、これからどうするんだ? 市長のところに戻るか……」
「せっかくだから、ここで武器の威力を試してみたらどうかな。いきなり本番ってのも不安だろうし」
 まだ頬に赤みが残っているクロードだが、その提案には他の者も請け合った。
「そうね。あたしも試してみたいわ」
「よし。それじゃあ、お願いします」
 スタンドにいる係員に指示を送ると、彼は頷いて手持ちの箱で操作を始めた。すぐにフィールドの中央に強靱な筋肉を剥きだしにした男が現れる。大剣を携え、挑発的な瞳でこちらを見据えている。彼らもそれぞれに身構えて、攻撃のタイミングをはかっていた。
 そのとき、クロードは屋根の上で何かがキラリと光ったのに気づいた。陽光に反射された、刃の輝き。
「みんな離れろっ!」
 クロードが叫んだ。仲間たちが跳び退くのと、目の前の大男が爆発するのとは、ほぼ同時だった。地面に伏せたまま、もうもうと舞い上がる砂埃の先を見極めようとする。
「なに……?」
 そこには、大剣だけが地面に突き刺さっていた。記憶によって創られた十賢者は既に消滅している。彼らはそこで奇妙なことに気づく。なぜ大剣だけが消えずに残っているのだろう? ──いや、違う。この大剣は記憶が創りだしたものではなくて……。
 クロードは天井を睨んだ。太陽の光を背に受けて、剣の持ち主は屋根の上に立っていた。遠目からでもはっきりとわかる、鋼の肉体。しなやかな体躯が空中に躍り上がって、フィールドへと降りてくる。
「そんな……!」
 セリーヌが前方を指さして絶句した。
 ひとりだけではなかった。スタンドの階段を降りてくるのは、もはや見慣れてしまった甲冑の大男。むろん、こちらも仮想現実ではない。さらに空中からは、あのエルリアの塔で見たことのある細身の男が、背中に担いだ筒のような装置から光を噴出させながらゆっくりと降下してきた。
 ──十賢者──!
「面白いことをしているな、貴様ら」
 フィールドに降り立った大男──ザフィケルが、地面に突き刺さった剣を抜いて、片手で軽々と振るった。
「なんなら、この俺が直々に相手してやろうか?」
「お前たち、どうしてここに……」
 狼狽えるクロードに、甲冑の男が歩み寄って。
「全てはルシフェル様のご命令のまま。我らがその真意を知るすべもない」
「人間ハ残ラズ皆殺シ。ソレガ我々ノ目的ダ」
「なんだと?」
 いびつな声をした男は金属の擦れ合うような高笑いをしながら、背中の筒から勢いよく光を噴き出してスタンドの外へと飛んでいった。
「くそっ。待て!」
 クロードが追いかけようとフィールドの出入り口へ向かうが、ザフィケルに呼び止められる。
「貴様らの相手は俺だ。奴を追いたければこの俺を倒すことだな」
「くっ……」
 クロードは振り返り、ザフィケルを睨みつけた。
「ザフィケル、ここはお前に任せた」
 スタンドにいる甲冑の男が言う。
「あ? お前はどこへ行くんだ、メタトロン?」
「先程の女を追う。鼠も放っておけば猫を噛むこともあり得るからな」
 そう言うと、メタトロンは霞がかったように姿を眩ませ、そして消えてしまった。
「ふん。相変わらず神経質な奴だ。まあいい。俺は俺でこの戦いを楽しむまでよ」
 ザフィケルが剣を前に突き出す。その一挙一動が凄まじい威圧感となって、彼らをたじろがせる。早鐘のように鳴る鼓動を抑え、全神経を目の前の敵に集中させる。
「みんな、頼みがある」
 唐突に、クロードが言った。
「ここは僕に任せてほしい。みんなは、さっきの奴を追いかけてくれ」
 仲間たちは怪訝な顔をして、彼を見る。
「まさか、お前ひとりであいつとやり合うつもりか?」
「僕は大丈夫です。これ以上犠牲者を出さないためにも……お願いします」
「無茶だわ」
 オペラがいつになく感情を露わにして咎めた。
「あんた、自分の言ってることがわかってんの?」
「わかってます。けど、こいつは……こいつだけは、僕が倒さなきゃならない相手なんだ」
 構えた剣をザフィケルに向けたまま、クロードが言う。その表情には、彼がこれまで見せたこともないような、鬼気迫るものがあった。
 仲間たちは黙ってクロードを見つめる。説得しようと思えばできるかもしれない。だが、ここで話をこじらせて、意味のない時間を潰すわけにはいかなかった。
「……わかった」
 ボーマンがついに折れた。セリーヌやノエル、エルネストたちも心ならずも承諾した。
「クロード……」
 レナはどうしていいかわからずに、立ちつくしてクロードの背中を見つめた。不意にクロードが振り返って、微笑みかける。
「心配ないよ」
 そのとき、レナは武具大会のときのことを思い出した。ディアスと戦う前にも、彼は今と同じように笑いかけてくれた。安心できる、やさしい笑顔。でも、これは彼の揺るぎない決意の表れなんだということが、レナにもひしひしと感じられた。止めてはいけない。もう、止められない。
「……私はひとりじゃないって、前に、言ってくれたよね」
 レナは言った。
「でも、あなたもひとりじゃないのよ。今もあなたを想うひとがいるってこと、忘れないで」
「ああ。僕はひとりじゃない。君がいる。みんながいる。だから恐くはないし、絶対に死なない」
「約束して」
「約束する」
 そこで、レナも微笑した。そうして振り返ると、仲間たちとともにフィールドの出入り口へと駆けていった。
「まさか貴様が一騎打ちを望むとはな」
 ザフィケルが意外そうに言う。
「その勇気に敬意を表して、仲間は逃がしてやった。まあ、どのみちジョフィエルたちに始末されるのが関の山だろうが」
「どうかな。始末されるのは、もしかしたらお前たちのほうかもしれない」
「ぬかせ」
 ザフィケルが再度大剣を薙いだ。その威力は剣圧だけで周囲の地面が抉れてしまうほど。クロードも顎を引き、毅然と相手を睨みつけてから、両手で剣を握った。
 静寂は時として焦りを生む。だが、このときはむしろクロードの側に余裕があった。間合いを計り、充分に溜めをつくってから、一気に敵に向かって駆け出した。
 クロードが斬りかかる。ザフィケルが大剣を振ってはねつける。衝撃で背後に弾かれたクロードは地面を蹴って跳躍すると、空中から闘気の炎を叩きつけた。ザフィケルは腕で顔を覆って炎の塊を防いだが、予想以上の衝撃に僅かながらよろめいた。その様子を見たクロードは口許をつり上げた。いける。フィーナルでの歴然とした力の差は、ここでは感じられない。
 地面に降り立ったクロードはすぐさま剣を振り上げてザフィケルの許に駆けた。ザフィケルが身構える。しかしクロードは正面から打ち合おうとはせず、相手の目前で横っ跳びに退いて、そこから地面に剣を突き立てた。
「砕け散れッ!」
 ザフィケルの足許の地面が裂け、そこから鋭利な刃のような岩塊がいくつも突き出した。ザフィケルはその体躯のわりに軽い身のこなしで岩塊を躱していく。だが、クロードが地面に剣を残したまま、みずから岩塊の中心に突っ込んできたことには気づかなかった。
 ザフィケルがその気配を察知したときには、既にクロードは目の前まで迫っていた。握りしめた右拳を無防備な胸板めがけて繰り出す。
「流星掌!」
 クロードの小さな拳が、ザフィケルの巨体を突き飛ばす。尻から地面に着地したザフィケルはそのままうずくまった。
 クロードが岩塊から抜け出し、剣を再び握ると息をつく間もなく高々と跳躍した。真下のザフィケルを捕捉し、その頭めがけて振り下ろす。そのとき、ザフィケルの頭がいきなり持ちあがり、こちらを睨んだ! 右手の大剣が唸る。クロードは体勢を大きく崩しながらもどうにか剣を突き出して受け止める。が、二次的に繰り出された衝撃波が突風のようにクロードの身体を吹き飛ばし、彼は壁際に据え付けられた金網を突き破ってスタンドに転がりこんだ。
 膝と腕とを固い地面に突いてせ返る。全身が痺れるように痛んだ。だが、痛いと感じるのは、まだ意識がある証拠だ。剣を握り直し、大きく深呼吸してから立ち上がろうとして……そこで左脚に鈍い痛みが走り、がくりと膝をつく。そこだけ力が入らない。見ると、腿の脇のあたりに一筋の切り傷が生じていた。ザフィケルの一撃は完全に受け止めたつもりだったが、振り抜いたときに切っ先が掠めたのだろうか。かなり深い傷だ。骨にまでは達していないが、ぱっくりと裂けた切り口から桃色の肉も見えた気がする。見てはいけない。見たらますます力が入らなくなる。
 クロードは下に着込んでいた黒いシャツの裾を引き裂いて、包帯がわりにそれを腿に巻きつけ、固く縛った。そして、フィールドのザフィケルを睨めつけて、立ち上がる。
「馬鹿が。調子に乗りすぎだ」
 ザフィケルが嘲るように言う。
「ちょこまかと鬱陶しい奴だったが、その傷ではもはやろくに動くことはできまい。観念したらどうだ? 無駄な悪あがきはみっともないぞ」
「悪いけど、僕はそういう美徳は持ち合わせていないんでね」
 クロードがスタンドから降りながら、言った。
「たとえ悪あがきでも、無駄な抵抗だとしても、この身体が動かなくなるまでは剣を振り続ける。それが僕の戦いだ」
「面白い答えだ」
 ザフィケルは満足そうに口許を曲げた。
「よかろう。地獄の入口まではこの俺が案内人だ。悔いの残らぬよう存分に戦うがいい」
「僕は死なない。地獄に落ちるのはお前だ」
「口の減らぬ小僧だな」
 ザフィケルの目つきが変わる。そして、猛然と襲いかかってきた。
 まともに打ち合うのを避けて、クロードは壁づたいに横に退いた。そこで吼竜破をぶつけようと腕を振り上げたが、ザフィケルがもう目の前まで迫っている。脚の怪我を無意識に庇っていては、どうしても強く踏み込めない。そのせいで充分な間合いが取れなかったのだ。剣をひっこめて、容赦なく振り下ろされる大剣を受け止める。クロードは顔をしかめた。この桁外れのパワーと身体能力だ。まともにやり合って勝てる相手ではない。はたして手負いの状態でうまく間合いが取れるだろうか……いや、違う。間合いを取るのではなく、逆に……。
 勝算が見えて、クロードの表情に活力が戻った。すると不思議なことに脚の傷も気にならなくなった。右に左に襲いかかるザフィケルの大剣を受け流しながら、少しずつ間合いを詰めていく。肝心なのはタイミングだ。少しでも時機を誤ればただの自殺行為になってしまう。感づかれないように、じりじりと前に詰め寄る。
 ザフィケルが大きく剣を振り上げた。今だ。クロードは剣を横に寝かせて握ったまま、相手の懐に潜り込んだ。虚空をきる大剣。ザフィケルの動きが止まった。この一瞬に、クロードはすべての力を剣に注ぎ込んだ。呼応するように、セイクリッドティアが燦然ときらめく。
「鏡面刹ッ!」
 それはまさに刹那の剣技だった。無数の太刀筋が閃光のように迸り、分厚い胸板を、大きくくびれた腹を斬りつけ、抉り、裂いてゆく。噴き出した返り血が彼の金髪を染め上げる。最後に相手の肩口から斜めに袈裟けさ斬りを見舞い、そこで怒濤の攻撃は終息した。
 ザフィケルが血を吐いて背中から倒れる。それでも彼はなおも抵抗しようと、地面に転がった大剣に手を伸ばす。が、その手はクロードの足に踏みつけられ、阻まれた。そうして、剣の切っ先を喉元に突きつけられたところで、ようやく彼は敗北を悟った。
「なぜだ……なぜ、俺は敗れた」
「腕の長さと剣の大きさ。それがお前の特徴だった。僕はそれを逆手にとっただけさ」
 まだ激しく息を切らしながら、クロードが。
「リーチが長いということは、それだけ自分の手前がおろそかになる。だから僕は間合いを取るんじゃなくて、逆に懐に飛びこんだ。そこが唯一のお前の死角だったし、弱点だったからだ」
「……なるほど。貴様がそこまで機転をきかせることができようとはな」
 ザフィケルは笑った。実に愉快だといった笑い方だった。
「完敗だ。さあ。止めを刺すがいい」
 クロードは切っ先を喉元から左胸のあたりに動かした。ザフィケルは薄く目を開けたままこちらを見ている。柄を握る手に力を込める。このまま剣を突けば、すべてが終わるのだ。けれど──。
「どうした? この俺が憎いから、わざわざ一騎打ちをけしかけたんだろう。フィーナルでのこともあるしな。父親の仇とやらだったんだろ?」
「勘違いするな」
 クロードは言った。
「僕はもう、憎しみで剣を振るったりはしない。お前と戦ったのは、そんな自分にけじめをつけるため。僕の剣は、敵を倒すためにあるんじゃない。みんなを守るため。大切なみんなを守るために、僕は剣を振り続けるんだ」
「ふん……面白い答えだ」
 ザフィケルはそう言い残して、目を閉じる。クロードは剣を振り上げ、そして振り下ろした。


 眼光ばかりが真紅に輝く両の瞳。背中に担いだ二本の筒のような奇妙な装置。枯木のような全身を覆うのは、皮膚のように身体にぴったりと合った銀と水色の薄いスーツ。そいつはさながら異世界の悪魔だった。ファンシティが夢の楽園ならば、男は楽園に舞い降りたおぞましき悪夢──さしずめ、そんなところだろう。
 ジョフィエルは石畳の広場で殺戮さつりくを満喫していた。我先にと逃げ出す者の背をかたっぱしから光線で貫き、逃げきれずに命乞いをする者にも一片の同情も見せず、光弾で焼きつくす。彼にとって殺人は快楽だった。血と肉の焦げる匂いは甘美な陶酔をもたらし、人間どもの阿鼻叫喚は心地よい興奮を喚起させる旋律となるのだ。石畳が血に染まり、累々と屍が積み重なっていくのを見ては、彼はこの世のものとは思えない声色で哄笑こうしょうするのだった。
 入り乱れて逃げまどう人々の中、一組の母娘が、男に突き飛ばされて転倒した。不運にもそれがジョフィエルの目にとまった。地面に座りこんでがたがたと震える母娘の前に、さっと死神のごとく降り立つ。
「親ガ死ネバ子ガ悲シム。子ガ死ネバ親ガ悲シム。サテ、ドチラガヨリ悲劇的ナノカ……」
 どちらを先に殺すかで迷っていたジョフィエルに、母親が涙ながらに懇願した。この子だけは助けて。お願い。その腕に抱く子はようやく言葉を覚えたというくらいの幼さで、母もまだ少女と呼べそうなほどの歳だった。
「無理ナ相談ダナ。オレノ目ニ入ッタ人間ハ残ラズ抹殺スル。……ヨシ、決マッタ」
 ジョフィエルが掌から光弾を放った。それは母親の身体を包み込むと凄まじい高温となり、華奢な肉体は無残に灼かれた。服が瞬時に焼失し、皮膚が剥がれ、髪は黒いタールのようにどろどろに溶ける。絶叫を上げた口の中で白い歯が見る間にぼろぼろと抜け落ちる。血と焦げた肉とで赤黒く染まった顔は、もはや先程までの面影は微塵も残されていない。瞼もそげ落ち、むきだしになった眼球ばかりがカッと天に向かって見開かれている。
 得体の知れない肉の塊となってしまった母を、娘はきょとんとして見つめていた。何が起こったのかも理解できない。理解するにはその子は幼すぎた。さっきまで自分を抱いてくれていた母親が、ぶよぶよの赤黒い塊に変わってしまったことへの衝撃。そのあまりに大きく、突然すぎた衝撃に娘は感情すら逸してしまったのだった。
「人間ナンテ、一皮剥イテシマエバコンナモノヨ。ドウダ、コレガオマエノ母親ダ。醜イダロウ?」
 歩み寄るジョフィエルに、娘は笑いかけた。笑ったのだ。摘まれようとする一輪の花がみせる最後の美しさ、そして儚さのように。
「案ズルナ。オ前ハモットマトモナ死体ニシテヤル」
 ジョフィエルが娘の頭に手を置いた、そのとき。
「グェッ!」
 衝撃波がジョフィエルの横から炸裂した。突き飛ばされたジョフィエルは、すぐに起きあがってそちらを見る。衝撃波を放ったのは、水色の長髪を振り乱した男。ディアスだった。
 まだ茫然と地面に座りこんでいる娘を、レナが駆け寄って抱き上げた。セリーヌやボーマンたちも背後からやって来て、ジョフィエルを取り囲む。
「随分と派手にやらかしてくれたな」
 ディアスが言うと、ジョフィエルは口許だけを三日月のかたちに歪ませて、笑った。
「オ前ラ、オレノ楽シミノ邪魔ヲスル気カ?」
「楽しみだって……これが、楽しみだって……?」
 石畳に散乱する骸。立ちこめる死の匂い。レナの腕の中の娘は、まるで別の世界の出来事を見ているように、焦点のずれた瞳でその光景を眺めていた。怒りと深い哀しみに、レナは肩を震わせた。
「……許さない……ぜったい、許さない!」
 仮面に張りついたような笑いを浮かべるジョフィエル。彼らは散開した。
「うおらっ、行くぜ!」
 景気のいい声を発してボーマンが殴りかかった。だがジョフィエルは空中に浮かんであっさりと攻撃を躱した。そして頭上から光弾を叩きつける。慌てて避けるボーマン。光弾は彼が立っていたあたりの床にぶつかり、石畳が真っ赤に溶けて大きな窪みをつくった。
「ひえ……こりゃ、まともに食らったらアウトだな」
 蒸気をあげて黒く固まる地面を目の当たりにすると、ボーマンは背筋に寒いものが走った。
 ジョフィエルは下卑な笑い声を立てながら、空中から次々と光弾を投げつけてきた。彼らは必死になって地面の上を逃げ回る。光弾が地面を貫き、すでに黒焦げになった骸をもふたたび灼くと、あたりは異様な臭気と煙に包まれた。ジョフィエルはその光景を眺めては無碍むげに笑いだす。お気に入りの玩具で遊ぶ無邪気な子供のように。
「ケケケケ、イイゾ。モット苦シメ。ソシテ死ンデシマエ……ン?」
 ジョフィエルの頭上に影が落ちた。見上げると、白昼の陽光を遮って、ディアスが目前で剣を振り上げていた!
「グエェッ!」
 ディアスの剣はジョフィエルの細い右腕を付け根から斬り落とした。そのショックで落下しかかったが、どうにか持ち直して宙に踏みとどまる。そして地面に降り立ったディアスを憎々しげに見返す。
「グオオオォッ!」
 ジョフィエルは半ば逆上しながら光弾を投げつけた。ディアスはそれを躱そうとはせずに、渾身の気合いを込めたケイオスソードでそのまま弾き返してしまった。ジョフィエルは自らが放った光弾を腹に食らい、甲高い悲鳴を上げた。
「ク……クソ……フザケヤガッテ。コノオレヲコンナ目ニ……」
 ジョフィエルの鈍い光沢を放つスーツは高熱で溶けかけ、斬り落とされた腕の付け根からはどす黒い血が流れ出ていた。魔物以外でこのような色をした血を見たのは初めてだった。
 痛みと屈辱とで錯乱したジョフィエルは、手当たり次第に光線を撒き散らし始めた。鋭く放たれた光線は地面や周辺の建物の壁を砕いた。しかし狙いすましたわけではないので、それほど恐くはない。手近に来た光線を確実に避けていって、彼らは隙をうかがった。
 と、不意をついてエルネストが動いた。鞭を大きく振り上げると、その先端が空間に呑みこまれるようにフッと消えた。そして次には遠く離れたジョフィエルのすぐ背後に出現し、その胴体に幾重にも巻きついた。ジョフィエルは藻掻いたが、引きちぎろうとすればするほど鞭は細身の身体をきつく縛りつける。
 エルネストがもう一度鞭を振り上げる動作をした。連動してジョフィエルを縛っている鞭も躍り上がり、彼は空中に舞い上げられ、そして地面に思いきり叩きつけられた。二度、三度としつこく叩きつけているうちに鞭が緩んで、ジョフィエルはなんとか抜け出すことができた。ところが、次にはオペラが放った光弾に襲われる。弾はすぐ手前で破裂し無数の光の筋になると、蜘蛛の糸のようにジョフィエルにぴったりと張りつき、動きを封じた。
「悪いけど、もうちょっとだけ大人しくしてもらうわよ」
 オペラはそう言って、背後を見た。ボーマンも、エルネストも、そのほうを向いた。
 たった今、詠唱を終えたばかりのセリーヌが、そこに立っていた。
「汝を裁くは神聖にして崇高なる十字星座。汚れしその身を浄化するは必定の理」
 何事かわめき散らすジョフィエルに、セリーヌは凛然りんぜんと杖をかざした。杖の先についた紫の宝玉が激しく輝く。
「サザンクロス!」
 昼間の青空に十字星座が浮かび上がった。それはすぐに形状を崩し、流星となって地上に落ちてきた。七色の尾を曳きながら、まっしぐらにジョフィエルの頭上へと。もちろんそれは実際の隕石ではなかったのだが、想像以上の威力を予感して、彼らは慌ててその場を離れた。
 流星は地面を大きく抉った。土砂と隕石の破片と白い焔が一緒くたになって周囲に飛散する。大地を揺るがす鳴動。鼓膜を突き破りそうなほど物凄い轟音。衝撃の波動はその場を中心としてファンシティを呑みこみ、ネーデ全体をも震撼させた。
 ひとしきり流星が降り注いだ後には、地面に深い擂鉢すりばち状の窪みができていた。彼らは窪みの縁に歩み寄る。中心には、細身の男が横たわっていた。服は破れ、ところどころ黒い斑点のような焦げ痕が浮き出て、気味の悪い人形のように打ち捨てられている。息絶えたのかと思った矢先、その片方だけの腕が動いて、身体をのろのろと起こした。
「コンナ……コンナハズデハ……ナゼダ……理解不能……」
 ディアスが窪みの底へと降りていく。その姿を見つけたジョフィエルは、全身を痙攣けいれんさせておののいた。
「ヒッ……ク、来ルナ!」
 地面に座ったまま、ずるずると後退りするジョフィエル。その前に、ディアスが立った。
「案ずるな。お前はもっとまともな死体にしてやる」
「ヒイイイイィッ!」
 背を向けて逃げ出そうとするジョフィエルの首を、ディアスは無表情のまま斬り落とした。首は彼の足許にゴトリと落ちて、そして胴体とともに消滅した。
 ディアスが窪みから上がってくると、その場所では、レナがあの母親を殺された娘を前に立たせて、話しかけていた。
「ねえ、ママは?」
 娘がそう訊いてきたとき、レナは返す言葉を失った。
「あそこにいるの、ママでしょ。ねえ、どうしちゃったのかな、ママ」
 娘はすでに窪みができて、なくなってしまったはずの地面を指さして、言った。瞳に力はなく、どこか恍惚こうこつとしていて、ものを見ている感じではない。あまりにも惨たらしい事実を、娘の意識は受け入れられずに拒絶し、その結果、彼女は光を失ってしまったのだろうか。
 レナは娘を強く抱きしめた。それ以外に、この娘にいったい何がしてやれただろうか。ただひたすら、その小さな身体を抱きとめる。
「レナ……まだ、戦いは終わってない」
「……うん。わかってる」
 レナは娘を放し、立ち上がった。
「ひとまずこの子は、係員に預けてきましょう。……ほら、こっちだよ」
 ノエルは娘を抱えて、街の中央にある建物へと向かっていった。
 その姿を見送ってから、ふと視線を横に向けると、ディアスと目が合った。ほんの少しだけ愁いをにじませた表情が、そこにあった。彼がどんな気持ちであの娘を見ていたのか、レナにはよくわかった。
「みんな、無事か!」
 ちょうどそのとき、闘技場の建物からクロードが駆けつけてきた。
「クロード、あの十賢者は……」
 レナがおずおずと訊ねると、クロードはしっかりと頷き返した。
「ああ。倒したよ」
「よしっ、さすがは俺が見込んだ男だ!」
 ボーマンは興奮気味に拳を振り上げる。
「これでふたり片づけたわけだが……ところで、あとひとりはどこへ行ったんだ?」
「さあ?」
 彼らは耳をすませてみたが、ファンシティの街は不気味なほどに静まりかえっている。逃げきれたものはとっくに避難しており、逃げ遅れたものはこうして物言わぬ骸となり果てているのだから、当然といえば当然なのだが。
「この街にはもういないのか?」
「そういえば、『先程の女を追う』って言ってましたわね」
「女?」
 彼らは顔を見合わせた。女?
「……まさか、ミラージュさん?」
「え?」
 レナの言葉に、クロードは驚いた。仲間たちも怪訝な顔をしている。
「ミラージュさんって、女だったのか?」
「私もずっと男のひとだと思ってたのだけど、もしかしたら……」
「あれが、女?」
 ボーマンが半笑いのような複雑な表情をみせる。
「…………」
 不自然な沈黙がその場に流れた。けれども、今はそれどころではない。いち早く正気に返ったクロードが叫ぶ。
「とっ、とにかく、アームロックだ!」


 彼らはそこでまた、唖然とする羽目になった。宇宙が終わるか否かの瀬戸際には、何が起きても不思議ではなくなるのかもしれない。
 アームロックに着いた一行は、街の人々の目撃情報をもとに、半信半疑のまま、『やまとや』という喫茶店の扉を潜った。そこで、すこぶる珍妙な光景を目にすることになる。
 ミラージュが、十賢者を相手にくだを巻いているのだ。
「だいたいさァ、市長も人使いが荒いんだよ。俺は武器の製作のために二日も徹夜したってのに、礼金もなけりゃ、奴自身も姿を現さねェときたもんだ。いったいアレは何様のつもりだァ?」
 ミラージュは火照った顔を冷ますように水をごくごくと飲んで、グラスの底を机に叩きつけた。向かいの席にはメタトロンと呼ばれていた十賢者が、甲冑をつけたまま居心地の悪そうに座っている。膝丈スカートの女性店員たちは銀色の盆を抱えたまま、取り巻きにそれを眺める。
「う……うむ。よくわかった。ぬしもそれだけ喋れば悔いはないだろう。そろそろ始末させてもらう……」
「あーッ! わかってない! あんた、全然わかってねェよ。いいからそこに座んな」
 席を立ちかけたメタトロンを、ミラージュが無理やり座らせる。彼女の倍近くもある(それもいかめしい鎧兜をつけた)大男が、それに素直に従ってしまうのだから、滑稽を通り越して、気味が悪い。
「あんただって、そのルシフェルとかいう、いけ好かない上役がいるんだろ? だいたい俺たち下々の人間ってのはな、上の連中からすればせいぜい体のいい操り人形か、もしくはチェスの駒だ。その程度にしか思われてないんだよ。あんたもな、そのでっかいオツムに入ってるのが八丁味噌じゃないんなら、考えることはできるだろ。訳もわからないまま上司にこき使われて、それであんたは満足なのかい? ……おっと。何だ、あんたら来てたのか」
 そこでようやく、入口に突っ立っていたクロードたちを見つけた。
「ミラージュさん……何やってるんですか?」
「何やってるように見える?」
 ミラージュは不敵に微笑した。
「……すみません。僕らには理解できそうにもありません……」
 なんだかひどく疲れたように、クロードが言った。
「きっ、貴様ら、なぜここに」
 メタトロンは焦ってがたがたと席を立つ。何やら下手な猿芝居のようである。
「まさか、ザフィケルたちを倒してここまで来たというのか?」
「次はお前の番だ。覚悟しろ」
 クロードは剣を抜いてメタトロンに突きつける。……が、いまいち決まらない。切迫した場面であったはずなのに、ミラージュのおかげですっかり緊張感がなくなってしまった。
「ふっ。愚かな。思い上がりもはなはだしい。奴らを倒していい気になっているようだが、この私がその鼻っ柱をへし折ってやろう」
 メタトロンはそう言うと、窓際の壁に立てかけてあった剣と盾をいそいそと身につけ始める。思わず店員から失笑が洩れる。
「あ~、ちょっと待った」
 と、ミラージュが突然、口を挟んだ。
「ドンパチは表でやってくれよ。ここは俺も気に入ってる店なんだからさ。……いや、表もまずいな。どうせなら、街から出て何にもない場所でやってくんないかな。俺にも一応近所づきあいってのがあってね。『ミラージュさんの知り合いがうちを壊した』なんて訴えられた日にゃ、俺も荷物まとめてここを出ていかなきゃならんかもしれないわけよ」
「……は、はあ……」
 クロードはメタトロンを見た。兜の目庇まびさしのせいで表情は見てとれなかったが、たぶん、情けない顔をしているのだろう。
 宇宙でいちばん強いのは、もしかしたら、彼女かもしれない。

 アームロックから少し離れた見渡しのきく草原で、彼らはメタトロンと対峙した。結局、最後までミラージュの言いなりになってしまったのだから、メタトロンも立つ瀬がない。
「さて……茶番はここまでだ。相容れないものは始末するのみ」
 その茶番をさっきまで演じていたのは誰なんだ、とクロードは内心思った。あえて口にはしなかったが。
「ザフィケルやジョフィエルを倒したその実力、見せてもらおうか!」
 口火はディアスが切った。草原を一陣の疾風のように駆けて相手に斬りかかる。しかし、刃はメタトロンに届く手前で見えない壁に弾かれた。続いてクロードも攻撃を仕掛けたが、やはり壁に阻まれる。エルリアの塔での戦いとまったく同じだった。
「それだけか?」
 メタトロンは泰然とそこに立ったまま、剣を横に薙いだ。跳躍して躱すディアスとクロード。
「そんな。反物質が通用しない?」
 クロードはそこから空破斬をぶつけてみたが、やはり衝撃波はメタトロンの手前で消滅する。
 ノエルがマグナムトルネードを唱えた。メタトロンを中心として大気が渦を巻き、一気に天に向かって流れだした。だが、吹き荒れる暴風の中でも彼の身体はびくともしない。ボーマンが丸薬を投げつけ、オペラが銃を撃ちまくり、エルネストが鞭から電撃を放っても、結果は同じだった。
「それで終わりか?」
 メタトロンは涼しい声色で言った。
「では、次はこちらから行かせてもらうぞ」
 甲冑が動き出した。重装備のくせに動きは恐ろしく俊敏だった。クロードがそれに立ち向かう。片手で軽々と振り回す剣にクロードは翻弄され、受け流すのがやっと。そもそも、あの見えない壁が存在する限り、反撃は無意味なのだ。策もないまま、クロードは怒濤の攻撃を受け止め、躱し、どうにかやり過ごしていく。
「どうすればいいの……。やっぱり、あのひとを倒すことはできないの?」
「いや、そんなことはないね」
 背後から馴染みのある声がして、レナは驚いて振り返った。
「ミラージュさん、いつの間にそこにいたんですか?」
「俺がこんな面白い戦いを見逃すはずがないだろ。勘定を済ませてから、あんたらの後を追ったのさ」
 ミラージュはいつものように飄々と言った。先ほどの絡み口調ではなかったので、レナは少し安心した。
「あいつのガード機能にはタイムリミットがある。恐らくもうちょっとしたら消えるだろう。そこから再び『壁』を作り出すためには、わずかだけどチャージ時間がかかる。狙いどころはそこしかないだろうね」
「どうしてそんなこと知ってるんですか?」
「あいつから直接聞いたんだよ。さっきね」
 ニヤリと笑うミラージュに、レナは呆気にとられた。
「それより、問題なのはそこから先だ。たとえガードが解除キャンセルされても、チャージの時間に一気に畳みかけないと、またガードを張られてしまう。『壁』ほど万能じゃないにしても、あの重装備だ。そう簡単にはダメージを与えられないと思うよ」
「『壁』が消えてるわずかな間に、倒さなきゃならない……」
 仲間たちは戦いの渦中にいる。今それができるのは、自分しかいない。レナは決心した。
 彼女はまず、近くにいたディアスに呼びかける。
「ディアス。ぎりぎりまであのひとを引きつけておいて。お願い」
 レナがそんなふうに指示をすることなど初めてのことだったので、ディアスは眉をつり上げたが、すぐに詠唱にかかるレナを見ると、心の中で諒解してメタトロンの許へと駆けていった。
 クロードひとりを集中して標的にしていたメタトロンだったが、そこへ突如ディアスが加わって、動きはいよいよ激しくなった。防戦一方の彼らを翻弄するように剣を振り下ろし、叩きつけ、薙ぎ払う。彼らの攻撃はにべもなくはねつけられ、自分たちはこの『壁』を相手にしているのか、それとも向こうの甲冑の男を相手にしているのか、それすらもわからなくなりそうだった。
 しかしそのとき、ひゅうんと何かがしぼむような音が聞こえた。攻撃の手を休めて狼狽えるメタトロン。
「ぬうっ。しまった」
 ディアスはそれを『壁』が消えた音なのだといち早く理解した。受けの型に構えていた剣を翻して勢いよく振り下ろす。刃はメタトロンの大きな盾に阻まれた。それでも、初めて彼の身体に攻撃が当たったのだ。続けてクロードが頭を狙って剣を振る。メタトロンは剣でそれを打ち返し、ディアスも盾で押しのけてから、背後に退いた。
 ちょうどそのとき、レナの詠唱が終わった。右手を広げて天に向かって掲げる。掌に陽の光をめいっぱい浴びさせておいてから、それをグッと握りしめ、振り下ろした。
「スターフレア!」
 メタトロンの真上から、太陽がこぼした欠片かけらのような焔の塊がいくつも落ちてきた。その存在を知ることもなく、メタトロンは頭からその焔を浴びた。途端に地獄の業火を思わせる火柱が噴きあがる。絶叫ならぬ絶叫と、火柱の放つ唸りのような音が入り混じって、周囲に轟く。兜が外れ、焔の向こうでもはや顔立ちなど判別ができないほど焦げてしまった頭から、ぎょろりとした眼球がこぼれ落ちて、地面に落ちる前に蒸発した。甲冑が真っ赤に焼けている。その中に入っていたはずの身体はどろどろに溶かされ、眼球と同じように蒸発していく。臑当てが、腰当てが、大きな筒のような鎧が、まるで最初から中には誰も入っていなかったかのように、がらがらと地面に崩れ落ちていく。そこで、ようやく火柱は衰えをみせた。
「へええ。スターフレアかい。やるじゃない、あんた」
 ミラージュが言っても、レナは背を向けたまま、草原に膝をついてうなだれた。
「どうした、疲れたのか?」
「それも……ありますけど」
 レナは上目遣いに、まだ炎上している草原の一角を見た。甲冑も大きく変形して、鉄の塊と化している。これはすべて、自分のやったことなのだ。
「この呪紋は、できるなら使いたくなかったんです。いくら敵でも、あんな恐ろしいことにはしたくないから……」
「敵を殺すのにためらってどうする……って、言いたいとこだけど」
 肩を動かして深々と息をついてから、ミラージュが言った。
「たぶん、あんたはそうやってためらいながら強くなっていく、そういう人間なんだろうね」
 草原を涼しげな風が吹き抜ける。炎は名残惜しいように、鉄の塊をちりちりと焦がしていた。

3 背中あわせの少女たち ~ラクア~

 ──フィリアよ。もうすぐだ。間もなくすべてが終わる。我らは永遠の安息を得ることができるのだ。
 ──おとうさま。もはやわたしが何を言っても、あなたは耳を貸さないでしょう。でも、それでも、わたしはあなたを止めなければならない。

〈……余は我らの願望の目途もくとを胎内に宿し、また全ての崇高な喜悦の源の周囲をめぐる天使なり……〉

 ──何故だ? 何故にお前はそうまでしてこの世界を救おうとする? 罪なきお前の命を、灯火を消すがごとく奪い去った、あの忌々しき世界を。
 ──違うのです、おとうさま。わたしが救いたいのは、あなたのことなのです。かつてのあなたは、この世界をとても愛してくださったではないですか。世界を愛し、世界と共に生きていたおとうさま。わたしの大好きなおとうさま。それが、どうしてこのようなことになってしまったのでしょう。どうかもう一度、この世界と共に生きていたあなたに戻ってくださいまし。

〈……天の淑女よ、汝が御子の後を追って至高天エンピレオに入り、それをさらに聖化するまで余は汝が周囲を廻るであろう〉

 ──世界? お前のいない世界に、いったいどれほどの価値があるというのか? 私が愛したのはお前のいる世界。私の世界とは、フィリア、お前のことなのだ。それが叶わないのならば、世界など、そこらに漂う塵ほどの価値もない。消えてしまえばよいのだ。
 ──わたしはそのようなことは望んでおりません。これが最後のお願いです。どうか、わたしに免じておやめになって。

〈……かくも謙遜に余に請願し給う神聖なる妹よ。汝のかがやく愛もて余をかの美しき円環より解いたのだ……〉

 ──私は己がゆるせぬ。お前を奪ったこの世界と、それに無力だった私が赦せないのだ。傲岸不遜ごうがんふそんな世界に裁きを下し、その贖罪しょくざいを全うすることが今の私に課せられた使命なのだ。
 ──ああ、ああ。どうしてこのようなことになってしまったのでしょう。おとうさまの怒りは灼熱の溶岩よりも激しく、哀しみは海の底よりも深い。もはやわたしでは止めることはできません。だれか、だれか、おとうさまを止めて。このままでは、すべてが終わってしまう。

 お願い…………だれか────。


 賑やかな石畳の道を、レナは名残惜しいように、ゆっくりと歩いた。すれ違い、追い越してゆく人々は、いつもと何ひとつ変わらない表情をして、ふだんと変わらない日常の中で動いているように見えた。十賢者がこの星を支配しようと暗躍していることなど、まるで知らないように。
 いや。本当は知っているのかもしれない。ただ、今さら騒ぎ立てたところでどうしようもないと開き直っているだけで。そう考えてから見ると、人々の表情にはどことなく、諦めにも似た感情が潜んでいるような気もしてきた。
 岩を避けて流れる渓流のように、自分の周りを流れる人々をつぶさに観察していたら、通りがかった年嵩としかさの婦人に嫌な顔をされてしまった。レナは慌てて目を逸らして、横の衣料品店に視線を向ける。さほど大きくはないが、わりと見栄えのいい、小綺麗な感じの店だ。透明な硝子板の扉からそっと覗いてみると、明るい店内には所狭しとハンガーにかけられた上着やスーツやスカートが並べてあり、何人かの女性客が熱心にそれを選んでいた。彼女はその光景を、ちょっとだけ羨ましく思った。こないだ服を買ったのは、いったいいつのことだったろうか。一年前? それとも二年前? アーリアのゆったりと流れる時間の中で過ごしていた日々が、なんだかひどく遠い日のことのように思える。
 レナはこの場所に奇妙な違和感を覚えていた。なぜか、自分はここにいてはいけないような気がするのだ。人々が何気ない生活を送る空間。退屈すぎるほど平和な時間が流れる空間。そんなものから、ひどくかけ離れた存在に自分はなってしまったように思えてならない。この一年の間に、あまりにも色々なことがありすぎた。一生ぶん、いや百年ぶん、二百年ぶんの出来事をこの一年で経験してしまったようだった。
 だからかもしれない。こういう穏やかな日常にいた自分をうまく思い出すことができないのは。街中で自分と同じくらいの歳の娘を見かけるたびに、懐かしさを通り越してひどく哀しくなった。
 でも、それももうすぐ終わりだ。その終わりを、一体どのような形で迎えることになるのかは、誰にも予想のつかないことだったが。
 もし、この戦いが無事に終わったなら。レナは思った。私はアーリアに戻っているのだろうか。またあのゆったりとした時間の中で、平穏な生活を送っているのだろうか。
 けれど、そこにクロードは……。
 はっとして、レナは立ち止まった。誰かが自分を見ている。雑踏の向こうに、自分の知っている誰かがいる。姿が見えないのに、なぜか直感的にそれがわかったのだ。私はそのひとを知っている。ただ、それだけが。
 押し寄せる人の波の合間から、薄い絹のローブの裾が見えた。細く白い腕が、華奢な肩が、頭にかぶったフードが、人ごみを通して断片的に彼女の目に入ってきた。そして、ようやく人の波が途切れ、ふたりの間には何も遮るものはなくなった。レナとその女性は、正面から向き合った。
 女の顔は、フードをかぶっているためによくわからなかった。ただ、そのフードのついた薄紅色のローブには見覚えがあった。花のつぼみのような唇を見たとき、いつか、同じ口から語られた言葉をレナははっきりと思い起こすことができた。
『虚に包まれた幸福に身を埋めるか、寒風の中に肌をさらそうとも真実を求めるか』
 そうだ。あれはクリクでのことだった。街の壊滅を予言したあの女性。レナに奇妙な言葉を残したあの女性。それが、どうしてこんなところに?
 レナが茫然と見つめている間に、女はローブの裾を翻して、人垣の向こうへと歩き去ろうとする。
「待って!」
 レナはすぐに後を追って駆け出した。女は歩いている。走れば追いつけないはずはなかった。しかし、どれだけ人ごみをかき分けて走っても追いつくことはできなかった。女は一定の距離を保ちながら、まるで彼女を誘いだすように歩き続ける。雑踏の合間から見え隠れするフードを頼りに、レナは夢中で彼女を追った。
 そうして、気がついたら薄暗い路地に迷い込んでいた。人影のまったくない、うらぶれた小径だった。くしゃくしゃに丸められた新聞紙が、風に吹かれて横切る。道の真ん中でレナは立ち止まって、辺りを見回した。女性の姿はなかった。
 見失ってしまった。レナはため息をついて、今来た道を引き返そうと振り返り……息を呑んだ。
 彼女の背後に、いつの間にかローブの女がこちらを向いて立っていたのだ。
「あなたは……」
 レナは言葉を詰まらせた。女性はなにも言わずに、おもむろに右手でフードを払って頭から外した。血で染めたように濃い紅の髪がさらっと背中に落ちる。肌は透き通るように白い。薄手のローブを身につけているせいもあり、彼女の姿は消え入りそうなほどの透明感に充ちていた。
「レナさん、でしたね」
 桃色の蕾が開いて、彼女は鈴のような声色で言った。
「どうして私の名前を」
「あなたのことはずっと見ておりました。そう、ずっと前から……」
 そのとき、女の顔に微笑が洩れた。見ている方の息が詰まるほど美しく、完璧な微笑だった。
「わたしはフィリア。お察しの通り、クリクの街で崩壊を告げたのも私です」
「どうしてあんな予言を……いや、それよりも、クリクからどうやってここに来られたんですか」
 フィリアはそれには答えなかった。微笑が消え、僅かに瞳を伏せる。
「すべては父の仕業なのです。あの街の崩壊も、エクスペルの消滅も。そして今、父は全宇宙をも破滅に導こうとしています」
「宇宙の……破滅……?」
 どこかで聞いたことのある言葉だった。確か、ナールの説明の中で……。
「まさか……」
「崩壊紋章。あなたもその名は聞き及んでいるでしょう」
 レナは無意識に後退りをした。その紋章の存在を知っているのは、ナールに教えられた自分たちと十賢者だけのはずだ。つまり、このひとは……。
「あなたは……十賢者なの?」
 フィリアはやはり答えなかった。濃緑の瞳が小刻みに震えている。まるで、何かを堪えているように。
「……これだけは信じてほしいのです。わたしはあなたの敵ではないし、味方でもない。宿命さだめの名のもとに動き、それに振り回される愚かな存在に過ぎません。不幸なひとりの男を救ってほしいがために、こうしてあなたの前に姿を現しただけなのです」
「不幸な、男……。それが、あなたのお父さんなんですか?」
 レナが訊くと、フィリアは真摯に前を向く。
「今の父をつき動かしているのは純粋な憎悪、純粋な哀憐あいりん。あまりにも純粋すぎるがゆえに、それらは危険な方向へと父を導いてしまったのです。今や全宇宙の命運は父の手に委ねられていると言っても過言ではありません。彼の意志ひとつで崩壊紋章は作動し、世界は完全なる無へと帰すのです」
「あなたのお父さんって……」
「もはや時間がありません」
 差し迫ったようにフィリアが言うので、レナは口に出かかった質問を喉の奥に押しやった。
「父を止めるにはあなたの助けが必要なのです」
「どうすればいいんですか?」
「わたしを、殺してください」
 レナの表情が凍りついた。
「……え?」
「父とわたしは別々の意識を持ちながら、同一の存在でもあるのです。わたしが消えれば、半身を失った父も同時に消滅するはずです。彼を……父を止めるためには、もはやこれ以外に方法はないのです」
「でも、そんな……どうして私が」
「父に制御されている以上、わたしは自ら死を選ぶことはできません。誰かにやっていただく必要があるのです。あなたを選んだのは……」
 言葉の途中で、フィリアの顔が一瞬にして青ざめた。緑の瞳は大きく見開き、口は息苦しいように喘いでいる。
「フィリアさん?」
 レナが呼びかけても、フィリアは何の反応も示さない。小刻みに震える膝を動かし、二、三歩背後に下がり、け反るようにして天を仰いだ。
「お、とう、さま──!」
 呻くような声でそう言いながら、彼女の身体は少しずつ色を失っていく。薄紅色のローブも赤い髪も、緑の瞳や肌の色も桃色の唇も、彼女を構成していた色という色がことごとく褪色たいしょくし、白というひとつの色に同化していった。最後には、白い紙を人間のかたちに切り抜いたような姿になり、それもやがて、輝きとともに跡形なく消滅した。
 レナはその間、一歩も動くことができず、一言も口をきくことができなかった。フィリアが消えた後も、その場所を神妙に凝視している。そこからまた、誰かが出てくるのを待っているように。しかし、どれだけ待ってもそこからは、なにものも出現することはなかった。
 ……いったい、彼女は何者だったのだろうか。
 崩壊紋章と関係しているのなら、やはり十賢者の一味なのだろうか。それにしても様子がおかしい。
 殺してくれ、と彼女は言った。その言葉には、途方もなく深い哀しみばかりが秘められているようだった。しかし、緑の瞳はその真意を告げることなく消えてしまった。レナの胸の中には、おりのようなわだかまりばかりが残った。
 破滅を導こうとする父と、命を絶つことを願った娘。この父娘おやこを引き裂いた大いなる悲劇を、彼女は程なくして、知ることとなる。


 セントラルシティのホテル『ブランディワイン』の一階には、バーがある。その名にちなんで造られたのか、それともこのバーがそのままホテルの名前の由来になったのかは、誰も知るところではなかったが。
 ロビーの横にひっそりと構えるその店はさほど広くはないが、見た目にも趣向を凝らしてある。いくつかの木製の机と椅子、それにカウンター。そこに立ってせっせと年季ものの瓶を磨くマスターは、短めの髪を整髪剤で固め、鼻の下と顎の先だけ髭を生やしている。背後には様々な色をした瓶が、いろんなラベルを貼られて棚にずらりと並べてある。天井から吊り下がった灯りは、丸い磨り硝子のカバーの中で満月のように茫漠と店内を照らし上げる。床はホテルと同じワインレッドの絨毯。壁のクロスは少し黄ばんでいたが、豪邸の壁紙にでも使うような上品な模様が描かれているぶん、やはり上品に古めかしい印象を与えてくれた。
「珍しいわね。あんたがこんなとこに来るなんて」
 カウンターに肘をつきながら、オペラが隣に座ったディアスに言った。彼女の前には底の広いグラスが涼しげに汗をかいている。
「マスター、オンザロックひとつ。こっちの人にね」
「はいよ」
 ディアスが無表情のままオペラを見ると、彼女は悪戯っぽく笑って肩をすくめた。
「まさか、飲めないってクチじゃないわよね」
 マスターがディアスの前に氷の入ったグラスを置き、琥珀こはく色のウイスキーを注ぐ。ディアスは軽く嘆息して、グラスを手に取った。
「今日は一人なのか?」
「エルのこと? 彼なら、ノエルと一緒にギヴァウェイに行ったわ。クロードもね。でも、ひとりってわけじゃないのよ」
 そう言って、オペラは顎で背後のテーブル席を示した。そこに向かい合って座っていたのは、ボーマンとセリーヌ。ボーマンの前にはゴブレットが、セリーヌの前にはチェリーの浮いたカクテルグラスがそれぞれ置かれてあった。
「なんだ。いたのか」
「いたのかはないだろ。ったく」
 ボーマンは赤ら顔をこちらに向けて苦笑した。向かいのセリーヌは、両手で頬を受け止めるように肘をついて、呆れたようにそれを眺めている。
「なぜギヴァウェイに?」
 ディアスはオペラに向き直って訊ねた。
「あそこの大学に、レイファスっていう学者がいたでしょ。ノースシティの図書館をハックしてるっていう。そのひとから呼び出しがかかったのよ」
「何かわかったのか?」
「さあね。でも、多分そうじゃないかしら。まったく、こんなギリギリになって、やっと連絡してくるんだから」
 ディアスはグラスに口をつけて傾けた。そして、黙って彼女の話を聞く。
「今日の午後にはラクアに行って、明日が決戦だって言うのに、間に合うのかしら。あたしだってそれなりには気になってるんだから」
「興味ないな。奴らの正体が何であれ、俺はぶちのめすまでだ」
「あら、そう」
 オペラは冷ややかな微笑を浮かべたまま、言った。
「だったら、こういうことだったらどうする? 十賢者のうちのひとりには、妹がいたのよ。それをネーデ人に殺されてしまって、その恨みで復讐してるとしたら?」
 ディアスは眉間に皺をつくり、彼女を睨んだ。オペラはやれやれ、と深い溜息をつく。
「あんたのトラウマは相当なものらしいわね。冗談よ。悪かったわね」
 オペラは悪びれる様子もなく、グラスの残りのウイスキーを飲み干した。ディアスは無言のまま、視線を正面に向ける。
「あら、レナじゃありませんの」
 テーブル席から声が上がった。ロビーを歩いていたレナがこちらに気づき、扉を開けてバーに入ってきた。
「あなたもどう? 一杯くらいならおごりますわよ」
 しかし、レナはぼうっとつっ立ったまま、机の上のあらぬ一点を見つめている。たった今、夢から覚めたばかりというような表情をして。
「どうしたの?」
 セリーヌに顔を覗かれて、ようやく作り笑顔を返す。
「いえ。なんでも……ないんです」
 そのとき、バーの扉を勢いよく開けてくるものがあった。クロードだ。
「みんな、いるか!」
「どうした、クロード? そんなに慌てて」
 呑気にそう言うボーマンに構わず、クロードはその場に全員が揃っているのを確認してから、真剣な顔をして言った。
「ギヴァウェイに来てほしい」
「今すぐ?」
「ああ。とんでもないことがわかったんだ」
 セリーヌが眉をつり上げ、ボーマンの酔いが一気に醒める。オペラとディアスは互いに顔を見合わせ、レナの胸は風に揺れる大樹のようにざわついた。
「とにかく、ギヴァウェイに来てくれ」
 高ぶった感情を抑えるようにして、クロードは繰り返し言った。

「必死になってトラップを解除して、やっとデータを閲覧できたかと思えば……まさか、こんな真実が隠されていたとはな」
 研究室の一角で、レイファスは腕を組み、装置の画面を睨みつけながら言った。レナたちは黙って次の言葉を待つ。
「……すまないな。私もいささか困惑している。何から話していいものか……」
「十賢者というのは、いったい何者なんですか?」
 レナの脳裏には、先ほどのフィリアと名乗った女性のことが残っていた。十賢者とは、そして、彼女はいったい何者なのか?
「彼らはネーデ人ではない。むろん他の星の人間でもない。ネーデの遺伝子工学が生み出した、人工生命体だ」
「人間を、造ったってのか?」
 ボーマンが信じられないように言った。
「遺伝子情報さえ揃えば、生命体を生み出すことなど容易いことなのだよ。遺伝子というのは簡単に言えば、生命体の姿や形状、性質などを記録した設計図のようなものだな。解析ができれば、それを書き換えることもできる。彼ら十賢者の遺伝子は、人間が持ちうる最大限の能力を引き出せるようになっている。つまり、設計図を書き換えることによって最強の人間を生み出したということだ」
「なんのために?」
 オペラが訊くと、レイファスは操作盤を叩いて画面を切り替えた。そこには『第一次十賢者防衛計画 立案書』とあり、そのあとは細かい文字の羅列が画面の下の端まで続いていた。
「三十七億年前、ネーデはその比類なき文明を駆使して周辺の惑星を配下に従えていた。正史では友好的な関係を築いたことになっていたが、実際には武力を盾にして半強制的にその支配下に置いていったらしいな。だが、どのような時代においても、そのような支配がいつまでも続いたためしはない。周辺の星々のネーデに対する反感は次第に高まり、それはネーデにとっても脅威となった。そこで彼らは、より強力な兵器でもってそれを鎮圧することを考えた」
「兵器?」
「それが、十賢者なのだよ」
 レイファスは画面から目を離さずに、続ける。
「当時のネーデには、ランティスという天才的な科学者がいた。ネーデ軍は彼に十体の生体兵器の作成を命じたのだ。『第一次十賢者防衛計画』と銘打たれたその計画は、ランティス博士の主導の下、すぐに開始され、そして十賢者は誕生した」
「ネーデ人が十賢者を生み出した?」
「そんな……人間の兵器だなんて」
 嫌悪するセリーヌをよそに、レイファスはさらに続ける。
「計画は順調に進行した。次々と生体兵器は完成し、それらは予想を遙かに凌ぐ性能を持っていた。このまま無事に計画が完了すれば、彼らによってネーデの平和は保たれることは間違いなかっただろう。……しかし、そこで思わぬことが起こった。博士の一人娘がテロの犠牲になったのだ」
「娘?」
 レナは驚いて訊き返した。
「ああ。ランティスにはひとりきりの娘がいたのだ。名はフィリア。妻を病で亡くしてからは、この一人娘を溺愛していたらしいな。……どうかしたのかね?」
「い、いえ。なんでもないです」
 レナは慌てて首を振った。胸の鼓動はしばらく治まりそうもない。
「当時はネーデ人の中にも周辺の惑星と内通している者がかなりいたらしい。十賢者の計画を嗅ぎつけた彼らは、その妨害のためにフィリア嬢を誘拐した。計画の中心的存在であったランティス博士を脅し、生体兵器の開発から降ろすためにな。しかしその途中、手違いでフィリア嬢は死んでしまった」
「手違い?」
「データの中にも『手違い』としかなかった。それ以上のことはわからないがね。……ともかく、娘を失ったランティス博士は突如、研究所を封鎖した。誰も入れない研究所の中で、博士は九人まで完成していた十賢者に新たな任務を与え、そして世に解き放った。任務とは、すなわち『全宇宙の破壊』」
「どうしてそんな命令を」
「さあな。娘を殺され、もはや発狂していたのかもしれん。自らの研究が元で命を失ったのだからな。やり場のない復讐心……その矛先をどこかに向ける必要があったのだろう。しかし、不幸なことに彼は天才的な科学者でもあった。彼の感覚では、人ひとりや組織や軍隊ごときでは何の復讐にもならないのだよ。星ひとつでさえも彼にとっては復讐の対象にはならない。自分の研究と等価なものでなくては復讐は成立しないと考えたのだろう。そうして最終的に彼が下した命令が『全宇宙の破壊』だ。……まったく。この感覚は常人には到底理解できないがね」
 レナもクロードも、誰も何も言うことができなかった。思うはひとりの天才の悲劇か。それともひとりの愚者の暴挙か。
「九人の十賢者は忠実に任務を遂行した。鎮圧にかかったネーデ軍はわずか数日で全滅寸前にまで追い込まれた。このままではネーデはおろか、宇宙のあらゆる星は十賢者によって消されてしまうことは必至だった。ところがあるとき、何の前触れもなく十賢者は攻撃を止め、博士のいる研究室に戻っていったのだ。ネーデ軍は不審に思いながらも研究室に突入したが、中に十賢者の姿はなかった」
「博士はどうしたんですか?」
「自殺していた。短剣で喉を突いてね」
「…………」
 レナはうつむいて、苦しそうに胸に手をあてた。
「のちの軍の調査でわかったことだが、博士は自殺する直前に十賢者をエタニティースペースに封印したらしいのだ。エタニティースペースのことは知っているね。時間軸の存在しない特殊な空間だ。死刑制度のないネーデでは重罪人がここに放り込まれる。この空間は中からは絶対に破ることはできない。しかし実際には十賢者はスペースを抜け出し、こうしてネーデに舞い戻ってきた。スペースに何か抜け穴のようなものがあったのか、それとも外部に抜け出すためのキーを残しておいたのか……今となっては知りようもないがね。
 話を戻そう。博士が自殺し、十賢者がエタニティースペースに放り込まれたことで、事態は一応の終息を迎えた。ただ、ここにひとつの気になる報告がある」
 レイファスは画面に別の文章を表示させた。画面の上端には大きな文字で『事後報告書』とある。
「それによると、研究所のコンピュータに、ランティス博士とフィリア嬢のものと思われる思考ルーチンの残骸が残っていたのだという」
「思考ルーチン?」
「要するに、人間のもつ思考パターンをコンピュータ上に再現させたものだな。これによってロボットや人工生命体に人格を持たせることも可能になる」
「それがいったい、どうしたってんだ?」
 ボーマンが訊くと、レイファスは操作盤で画面を動かしてから答える。
「ネーデ軍はこういう仮説を立てている。十賢者は最後の一体が未完成だった。そして、その一体も研究所に踏み込んだときには消えていた。つまり、博士は自分と娘の思考ルーチンをそいつに組み込み、完成させてから他の十賢者と同じようにスペースに放り込んだのではないだろうか、と。未完成だった十賢者の名はガブリエル。通称『最終破壊兵器』だ」
「最終、破壊兵器……」
「これがただの偶然と思えるか? 宇宙の破壊を望んだ博士の思考ルーチンが、究極の破壊兵器に組み込まれてしまったというのだ。博士はやはり全宇宙を滅ぼすつもりだったのだよ。自らの手で復讐を遂げるために、自分の分身を送り込んだガブリエルにすべてを託したのだ」
「でも、どうしてフィリアさんの思考まで?」
「さあな。フィリアと一緒にいたいという思いがそうさせたのかもしれん。しかしね、ここからは私の仮説になるのだが……私は、フィリアの存在こそが、エタニティースペースを解除するキーだったのではないかと考えているのだよ」
「なんだって?」
 クロードが思わず声を上げた。
「私は以前、いつの時代のものだったかは忘れたが、複数の思考ルーチンを植えつけた人工生命体についての研究論文を読んだことがある。それによれば、複数の思考ルーチンを持った生命体は、何らかの状況や環境の変化によって、絶えず表層的な人格が入れ替わったという。ちょうど人間の多重人格のようにね。しかし、生命体と人間とでは、ある点において決定的に異なる特徴がみられた。すなわち人間の多重人格は、それぞれに別個の人格を持ってはいるが、それが『自我』という殻を破ることはできない。しかし人工生命体は違った。彼の人格──つまり思考ルーチンは、自我はおろか、時間や空間をも超越する能力を持っていたのだ」
「? どういうことですか?」
「たとえば、ある生命体にAとBという思考ルーチンを植えつけたとしよう。それぞれは不定期ながら、交代に生命体の表層意識として表れることになる。仮に、最初にAという意識が表れ、次にB、そしてまたAに戻ったとする。その過程を経たあと、彼にこう質問するのだ『Bの意識が表れていたとき、あなたはどこで何をしていたのか』とね。すると彼は、この部屋で自分を眺めていたと言う。同じようにBの意識のときにも質問してみる。それを何度か繰り返していくうちに、彼らは実にいろいろな場所に出かけていることがわかったのだ。街の大通り、山の頂上、海の上……場所だけではない。過去の出来事を見てきたと言えば、未来の出来事をずばり言い当てることもあった。片方の意識が自我に縛られている間は、もう片方の意識は時間的にも空間的にも自由な存在となっていたのだ」
「つまり、ガブリエルにフィリアの思考ルーチンも入れたのは、彼女の意識をエタニティースペースの外に出し、それを解除させるためだと?」
 エルネストが言うと、レイファスは頷いた。
「恐らくそういうことだろう。時間も空間も超越した存在ならば、エタニティースペースなど何の意味も為さないからな。ガブリエルという『自我』にランティスの意識が縛られている間に、もう片方の意識であるフィリアが、外からスペースを解除したのだろう」
「そこまでして……」
 レナはその後に続く言葉を口にすることができなかった。世界に対する復讐。自分に対する復讐。フィリアの哀しみの意味を、このときようやく理解することができた。
「それで」
 しばしの沈黙を破って、セリーヌ。
「ネーデはそのあと、どうなったんですの?」
「この事件を契機に、周辺の星々が一斉に蜂起を開始した。十賢者との衝突で大半の戦力を失ってしまったネーデ軍にこれを止める手だてはなかった。そこで……そう、ここで出てくるのが、エナジーネーデ移住なのだよ。長年ネーデの正史に疑問を抱いていた私としては、さもありなんという感じだな。自己の能力の封印だと? そんな綺麗事ばかりで自分たちの星を躊躇ちゅうちょなく壊せるものか」
 そう言って、レイファスは自嘲的じちょうてきに笑った。どうして笑いだしたのかは、彼らにはわからなかったが。
「エナジーネーデ移住は、いわば隠れみのだったのだよ。周囲をクラス9のエネルギーで覆った人工惑星ならば、外部からの侵入は完全にシャットアウトされる。他星の脅威に怯えることもないわけだ。提案はすみやかに可決され、そしてネーデは破壊された」
「それでも、彼らにしてみれば相当な覚悟だったろう。自らの星を永久に失うのだから」
「本当にそう思うかね?」
 レイファスはあざけるような笑みを残したまま、クロードたちを見渡した。
「彼らは我々が想像する以上に狡猾こうかつな人間のようだ。私にもその血が流れていると考えただけで虫酸が走るほどのね」
「狡猾……?」
「ネーデ破壊に際して、彼らはちゃんと『保険』を用意しておいたのだよ。……それが、四つの宝珠だ」
 クロードたちは息を呑んだ。
「宝珠って、僕らがそれぞれの場で取ってきた、あの宝珠のことですよね」
「あれには、やはり重大な意味が隠されていたのだよ。すなわち、時空転移シールドによる惑星ネーデの復活だ」
「なるほど……そういうことだったのね」
 オペラが唸った。
「星ひとつの時空間転移に必要なエネルギーを四つの宝珠に込めておいてから、彼らはネーデを破壊した。当時はまだ理論でしか証明されてなかった時空転移シールドが実用化されるまで……エナジーネーデはそれまでの期間を凌ぐための、かりそめの隠れ家に過ぎなかったのだ。シールドの実用化に成功した時点で、彼らは惑星ネーデを蘇らせ、再びそこへと戻っていくつもりだった。……しかし、彼らにとって誤算だったのは、シールドの実用化にはそれから三十億年もの歳月がかかってしまったことだ。悠久の年月がネーデ人の悲願を風化させ、宝珠の存在すら忘れ去られて、結局ネーデの復活はならなかった。皮肉なものだな。ネーデの悲願のために残した遺産が、今や君たちの希望となっているのだから」
 言い終えると、レイファスは疲れたように椅子の背にもたれかかり、顔をこちらに向けた。
「これで全部だ。ネーデの上層部は無用な混乱を避けるために情報管制を敷き、十賢者の件に関する資料はことごとく抹消された。そうしてできた歴史の空白部分を埋めるために偽の歴史をでっち上げ、それを正史と思い込ませたりもした。我々は今の今まですっかりそれに騙されていたというわけだな。唯一残されたこのシークレットファイルにしても、軍によって二重三重のプロテクトが施されていた。並大抵の警戒ではない」
「そうまでしても、知られたくなかったわけか……」
 うずたかく積み上がった歴史に押し潰された犠牲者。以前にレイファスはそう表現した。確かにそうかもしれない。十賢者こそ、歴史にないがしろにされた犠牲者なのだろう。
「……さて、次は君たちが決断するときだ」
 と、レイファス。
「この真実を知ってしまっても、まだ彼らに刃を向ける気概があるかね?」
 レナが、仲間たちがいっせいにクロードを見た。それぞれの想いを胸にして。
「戦いますよ」
 クロードは、きっぱりと言った。
「たとえ彼らがどんな存在であったとしても、僕らには僕らの信念があります。それは絶対に曲げられないし、曲げてはいけないんだと思います」
 それが、真実を知った後での彼の覚悟だった。


 ラクアに到着すると、八人はすぐに会議室へと向かった。
「お待ちしておりました」
 ナールは彼らを出迎え、それぞれ席に着かせた。
「十賢者のうち三人は、すでに倒したそうですね」
「ええ……」
 生返事をするクロードに、ナールは首を傾げた。
「どうしました? 何かあったのですか?」
「え、いえ、なんでもありません。少し疲れているだけです」
 ──十賢者の真実を、はたしてナールに話すべきだろうか。
 彼らは悩んだ。そして結局、何も話さない方がいいだろうということになったのだった。ずっと偽のネーデの歴史を信じてきた者にとっては、その事実は容易に受け入れられるものではない。事実を話し、納得してもらうには、あまりにも時間がなさ過ぎた。
「そうですか……。それでは、私の無駄話もそこそこにして、今日のところはゆっくり休んでいただきましょうか。フィーナルへの再突入は、明日の朝に決行します」
「明日、か……そこで、全ての決着がつくのね」
 誰に言うでもなく、オペラが呟いた。他の仲間も言葉にはしなかったものの、あるものは表情を引き締め、あるものは目を細めながら、これまでのこと、そしてこれからのことに想いを馳せているようだった。
「それでは、最後のラクアの夜を、どうぞゆるりとおくつろぎください」

 ナールにはそう言われたものの、実際、くつろげるはずがなかった。すっかり闇に包まれた部屋のベッドに潜り込んでから、レナは数えきれないくらい何度も寝返りを打った。殺してくれと懇願したあの女性のことを、怒りと哀しみに我を忘れ、破滅へと突き進もうとする父親のことを思うたびに、眠気はどんどん遠ざかる。寝返りを打つのにも疲れると、レナは仰向けになって窓から見える半月をぼんやりと眺めた。
 ざぁ……ん。ざざぁ……ん。寄せては返す波の音が、静寂の彼方から彼女を誘うように聞こえてくる。
 どうせここにいたって眠れないのだから。と、レナは掛け布を剥いで起きあがった。海を見に行こう。
 外に出ると、ひんやりした風が頬を掠めていった。昼間は汗ばむくらいに暖かかったのに、夜は随分と冷えこむようだ。強風でくしゃくしゃになった髪を押さえながら、海岸へと降りていく。
 海岸は、ラクアの建物の裏手にある。ごつごつした岩ばかりが続く道を抜けると、いきなり前方に砂浜が広がった。横手には濃紺の海。空を振り仰げば明るい月と、こちらを見つめているように瞬くたくさんの星。夜の海岸は、昼よりもずっと広く大きく、そして深かった。
 レナは靴を脱いで、裸足で乾いた砂浜を歩いた。くるぶしまで砂に埋まる感触が心地いい。しばらくざくざくと砂を踏みながら歩いていくと、少し先の砂浜にひとつの人影があるのに気づいた。月明かりに照らされた金髪が風に揺れる。膝を投げ出し、両手を砂の地面に突いて、一途に水平線の先を眺めているようだった。
 さらに近づくと、彼もこちらに気づいて振り返った。闇の中で、金髪がはっとするくらい鮮やかに輝いていた。
「やあ、レナ」
 クロードは特に驚いたふうでもなく、軽く声をかけてきた。
「眠れないの?」
「うん、ちょっとね……。クロードも?」
 レナが訊くと、クロードはわずかに首を傾けた。同意とも否定ともとれる仕草だった。
「どうなのかな? 眠れないというより、眠りたくないっていう感じかもしれない」
「なによ、それ」
 レナは彼の横に膝を抱えて座った。クロードはうっすらと笑みを浮かべながら、空を見上げる。
「なんだか、自分でもよくわからないんだ。夢から覚めたら、ここに座っていた、みたいな」
 星がひとつ流れた。半分だけの月は、周りの星に励まされるようにひっそりと世界を照らしている。この月も星もすべてつくりものだということはレナにもわかっていた。でも、そんなことはどうだっていい。自分が思えば月はそこにあるのだし、星は流れるのだ。
「明日のことを考えてるの?」
「ん? まあ、そりゃ、ちょっとは。最後だからね」
 最後。クロードの口からその言葉が出ると、レナは急に不安になった。
「ねえクロード。十賢者と戦うのって、やっぱり恐い?」
 気持ちを紛らすように、レナは思いついた質問をクロードにぶつけてみる。
「恐いよ」
 思いがけず真面目な答えが返ってきたので、レナはどきっとして彼の顔を見た。
「今度だけじゃない。僕はいつだって怯えながら戦ってきた。まだ旅を始めたばかりの頃に、セリーヌさんに怒られたことがあったよね。戦うことに後込しりごみしてどうする、って。今の僕だって、あのときと大して変わっちゃいないんだ。戦いに怯え、戦う自分に怯えてきた」
「でも、クロードは強くなったわ。そのことはみんなも認めてるはずよ。ディアスだって」
「それは、みんなのおかげだよ」
 クロードは言った。
「僕の力は、僕ひとりの力じゃない。みんながいたからこそ、僕は強くなれた。みんなが信じてくれたから、僕も信じることができた。きっと、僕ひとりでは何もできなかったと思うよ。ずっと暗闇で、がたがた震えて怯えていただけだったろうな」
「クロード……」
 レナが切ないような表情で見つめていると、不意にクロードがこちらを向いた。
「どうしてそんな顔してるの?」
「……え?」
 きょとんとするレナに、クロードは笑いかけた。
「昔はそうやってひとりで悩んでいた。でもね、この頃思うんだ。そういう『弱さ』もぜんぶ含めたのが、僕自身なんじゃないかって。昔は弱い自分を言い訳にして、逃げてばかりいた。けれど、今はもう、自分に嘘をつくことはやめた。僕は弱い人間だ。だからこそ、みんなと一緒に強くなれた。それが僕なんだ」
「私だって……みんなに、あなたにたくさん勇気をもらったよ」
 レナは自分の膝に視線を落とす。見つめられているうちに、顔が火照ってきたのだ。
「ひとりきりじゃ絶対にくじけていた旅も、みんなといっしょだからここまで来られた。ひとりきりじゃどうにもならないことも、みんながいたからできてしまった。ずっとひとりぼっちだった私には、それがとても嬉しかったの」
「君は決して、ひとりじゃないよ。そのペンダントがある限りね」
「うん……わかってる。あなたが教えてくれたんだよね」
 風がふたりの間を通り過ぎ、後ろの椰子の木を揺らした。レナは横からそっとクロードの身体に腕を回し、片側の頬でその胸のぬくもりを感じながら、囁きかける。
「ありがとう、クロード。あなたが私に勇気をくれた。お母さんの手がかりがなくて、ずっと心細かった私を、あなたは励ましてくれた。ううん、言葉だけじゃない。それよりももっともっと、あなたと私を結びつけてくれるもの……あなたの『想い』が、私をなにより勇気づけてくれた」
「……レナ」
 クロードの手がレナの青い髪に触れる。胸の奥がみるみる熱くなっていくのを彼女は感じた。もう、躊躇わなかった。
「今なら言える……。大好きよ、クロード」
 レナは顔を上げた。クロードの顔が間近にあった。その青く澄んだ瞳をしばらく見つめてから、彼女はゆっくりと目を閉じた。瞼に閉ざされた世界の中で、とくん、とくん、と自分の胸の鼓動ばかりが響いてくる。
 クロードの前髪が額にかかった。そして、唇に彼の感触が伝わる。温かく、優しい口づけだった。
 彼の顔が離れると、レナは目を開けて、もう一度静かに抱きしめた。頭の中はなんだかひどくぼうっとしていた。胸の熱さが頭に伝染してしまったのだろうか。こうして彼に抱かれているだけで、ひどく心地いい。このままいっしょにいたい。ずっとずっと、いつまでも……。
 背中に柔らかい砂の感触があっても、レナがそれに気づくことはなかった。こちらを見つめてくるクロードに微笑みを返し、そこでふたたび唇を交わした。


 波は、暗い海の向こうからいくつもやってくる。それは海岸にたどり着く前に崩れ、ただの塩からい水となって、白い泡とともに砂浜に打ち上げられる。やってきては、崩れて、またやってきては、崩れる。そんな無意味ともとれるような動きを、海は飽きることなく続けているのだ。
 海面に立つ小波さざなみは月の光を受けて、一面にきらめいている。小さな波が孕むその一粒ひとつぶの光は生命の誕生を思わせた。あのずっと沖にある波もだんだんと大きく膨れ上がり、いつしかこの海岸までやってくる。まるで抗えない運命のように。
 クロードとレナは海岸線に沿って歩いていた。クロードが先を歩いて、その背中をレナが追う。ふたりが歩いたあとには、二組の足跡が湿った地面に点々と残った。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
 レナが声をかける。クロードの歩みがわずかに緩んだ。
「なに?」
「その……この戦いが終わったらのことなんだけど」
 言いながら、レナは少し後悔していた。訊かないほうがよかったかもしれない。
「クロードは、やっぱり自分の星に帰っちゃうの?」
 クロードの足が止まる。しかし、返事はなかった。
「帰っちゃうのね?」
「…………」
 口を閉ざしたまま、下を向くクロード。
「私が引き止めても、いっしょにエクスペルで暮らそうって言っても、だめなの?」
 身じろぎひとつしない彼に、レナはだんだん焦ってきた。はちきれそうな感情を必死にこらえながら、幅の広い肩に手をかけて、額をその背中につける。
「お願い……行かないで。ずっといっしょにいて……」
 レナの声は震えていた。肩にかけた腕も、力なく落ちて何もない空をつかむ。
「……母さんを、ひとりにはしておけないんだ。だから……」
 そう呟いたきり、クロードは口をつぐんでしまった。
 波がふたりの足許を洗い、足跡も消していった。