■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第十二章 星の鎮魂歌レクイエム

1 大決戦 ~フィーナル(2)~

 荒野にそびえる巨大な塔は、以前に見たときよりも一層、忌まわしいもののように思われた。
 ラクアで一夜を過ごした彼らは、朝日が昇るより少し前にはヘラッシュに乗りこみ、こうして再び十賢者の根城へとやってきたのだった。あのときはナールとマリアナと、ネーデ軍と共に。そして今は、たった八人きりで。

「ナールさんは行かないんですか?」
 ラクアの港で、出発を前にした彼らはナールの指示によって集められた。
「私はまだ準備が残っているのです。それが片づき次第、そちらへ参ることにします」
「準備?」
 クロードが訊き返した。ここまで来て、いったい何の準備があるというのか。
「崩壊紋章のことはすでにご存じですね。その発動を食い止めるための準備、とでも申しておきましょうか。数日前からミラージュ博士とも協力して進めてきたのですが、どうにも仕上げが難航しまして」
 クロードが怪訝そうな視線で見つめていると、ナールは慌てて取り繕う。
「いえ。心配には及びません。必ず間に合わせますので。そろそろミラージュから連絡が入る頃でしょう。そうしたらすぐに私たちも後を追います」
「……はぁ」
 クロードは気のない返事をした。彼が不審に思っているのは、そんなことではなかった。
 ナールの物言いにはどこか重要なところを避けているようなふしがあった。崩壊紋章を防ぐための準備。それが一体どのようなものなのか、どういう効果を及ぼすものなのか、具体的な話が一切なかったのだ。しかし、それに気づいたのはヘラッシュに乗りこんだ後のことだったので、ナールをじかに問いつめることは結局かなわなかった。

 そうして、彼らは塔の前に立った。
 これが最後なんだと口では言っても、実際そんな気分にはなれなかった。不安な要素なら掃いて捨てるほどある。ナールのこともあるし、何より自分たちの力がこの先の十賢者に通用するのか、まったく自信が持てなかった。
 それでも、前に進まなくてはならない。
 唯一、希望があるとすれば、それは今この場に仲間と共にいられること。たった八人のちっぽけな人間ばかりでも、信じあうことでひとりでは絶対に出せない力を出すことができる。反物質の武器は確かに大きな力だけど、仲間の絆の強さにはかなわない。みんなと一緒に戦えるということが、何にも勝る力となるのだ。
「……行こう」
 クロードが言うと、彼らはおもむろに歩きだした。ちっぽけな八人が、あまりにも巨大な塔に立ち向かおうとしていた。

 入り口を潜ると、いきなり彼らは困惑する羽目になった。
 そこは、だだっ広い部屋になっていた。以前に乗り込んだときには、階段が延々と続いていただけだったのに。入る度に部屋の構造が変化する仕掛けになっているのか、それともこの二週間足らずの間に突貫工事で塔の内部をがらりと変えてしまったのか。どちらにしても、事はすんなり運びそうにないのは間違いなさそうだ。
 部屋は目立った装飾もなく、つるつるの床が荒削りの石壁に囲まれているだけの空虚な空間だった。光源は不明だが、明るさは充分にある。ただ、天井とおぼしき部分だけは不自然なほど濃い闇が立ちこめている。見上げているだけで吸い込まれてしまいそうな闇だ。
「おやおや。こんなに朝早くから、ご苦労なことです」
 その天井の辺りから、物腰の落ち着いた声が降り注いだ。
「早起きは三フォルの得、とも言うからの。良いことじゃて」
 同じ場所から今度はしわがれれた声が。
「愚かな……よほど早死にしたいのか」
 次にはくぐもった声が聞こえた。
「誰だ!」
 クロードが叫ぶと、呼応したように天井の闇が激しく動いた。まるで今にも生まれんとする胎児を宿した子宮のように。
「言われなくても出てきますよ。そら」
 闇が破れて、そこから何かが飛びだした。三人の、異形の人間たち。
「まずは自己紹介と洒落こみましょうか。自分はサディケルと申すものです」
 最初に降り立ったのは、まだ幼さの残る少年だった。紺色の短髪に細めの体つきはまさしく子供のそれだが、死人のような青白い肌と鋭くこちらを見据える双眸そうぼうは、彼の持つある種の冷たさを象徴しているようだった。だらりと下ろした右手には途中で二股に分かれた金属の棒を携えている。それは大きな音叉のようにも見えた。
「儂はカマエルじゃよ。ほっほっ」
 次に降りてきたのは、前の少年と対蹠的たいしょてきな老人。十賢者の中では小柄な体躯をしているが、それでも通常の人間の一回りほどはある。白い覆面をつけているので顔つきはわからないが、合間からときおりうかがえる目尻のあたりには深い皺が刻まれ、瞳も穏和な老人のものとたがわない。しかし、その外見とは裏腹に、小作りの躯からは桁違いに邪悪な気配が発せられていた。
「ラファエル……それが貴様たちの死神の名だ。覚えておけ」
 最後に床に立ったのは、草色のローブを纏った者。声は男のようだが、見かけで性別は判別できない。本来なら頭があるはずのフードの奥は暗黒に閉ざされ、ふたつの眼光ばかりがいかにも怪しい橙色に輝いている。ローブは前の部分にスリットが入り、そこから垣間見える躯も暗黒だった。動作も人間とは微妙に異なり、どこか人形めいていた。奇妙な黒い塊にローブを着せて、手袋と靴を然るべき位置に備えつけただけ、というふうにも見えた。全く不可解な存在だった。
「おいおい、聞いてねーぜ。十賢者がいきなり三人も出てくるなんてよ」
 ボーマンが弱音を吐いた。
「ゲームは終わりだということですよ」
 サディケルは音叉を持ち上げ、肩に担いでから言う。
「我々にとってあなたがたの存在は、暇つぶし程度のものでしかなかったのですよ。けれど残念ながら、あなたがたに構っている猶予は終わりました。そういうわけで、すみやかに消去させていただきます。悪く思わないでください」
「簡単に言ってくれるわね」
 ランチャーの挿入口スロットにエネルギーパックをセットしながら、オペラが。
「消去だなんて……あたしたちをプログラムみたいに言わないでほしいわね」
「何が違うというのじゃ?」
 と、カマエル。
「そなたらの身体とて、遺伝子の情報プログラムを元に作られたものに過ぎんのじゃぞ。むしろ半端な進化の過程であるそなたらの身体のほうが、なまじそこいらのプログラムよりももろいくらいじゃ」
「それは、作られたプログラムであるお前たちの優越感というやつかな」
 エルネストが皮肉めかして言うと、カマエルとサディケルはともに意外そうな顔をする。
「ほう。我らの真実を知っておるのか」
「これは驚きましたね」
「お前たちの目的はなんだ? 宇宙を支配することなのか、それとも破壊なのか」
 クロードの問いかけに、サディケルは肩をすくめる。
「我々はルシフェル様の意に応じて動いているにすぎないのですよ。あのかたは十賢者を統括すべく創られた存在ですからね。あのかたが何を考えて動いているのかなど、我々が詮索する余地はないのですよ」
「ルシフェル……またあいつか」
 ファンシティに現れた十賢者も、同じことを言っていた。どうやらガブリエルの他にも、あの銀髪の男が一枚噛んでいるようだ。
「さて、自己紹介も終わったことですし、そろそろ仕事にかからせてもらいますよ」
 サディケルが音叉を構え、ラファエルが宙に浮き上がり、カマエルの邪気がひときわ強くなった。
「そうはさせない……私たちは、ここで負けるわけにはいかないのよ!」
 レナが黒い玉石を取り出して、窪みにペンダントの飾り石を填めた。みどり色に輝く玉石にさらに紋章力を注ぐと、波動が発生して周囲の仲間たちの武器を包み込む。波動を吸収して反物質となった武器を手に、彼らは決戦の舞台へと上がっていった。
「バラバラに戦って入り乱れたりしたら、それこそ向こうの思うつぼだ。それぞれ標的とする相手を決めよう」
 クロードの言に仲間たちも諒解し、すぐに相手とする十賢者の許へと分かれていった。打ち合わせもないのに素早く対応できるのは、この旅の中で培われた信頼があってのこと。サディケルにはクロードとディアスが、ラファエルはオペラとエルネスト、それにボーマン、そしてカマエルにはレナ、セリーヌ、ノエルがそれぞれ挑んだ。
 ラファエルが空中から何の前触れもなしに衝撃波を放った。それが合図だったかのように、いっせいに口火が切られた。
 クロードとディアスが肩を並べて同時に斬りかかる。サディケルは猫のような身のこなしで軽く躱し、音叉を薙ぎ払うように振り抜いた。クロードはすかさず剣を差し出して受け止めようとしたが想像以上にその一撃は重く、弾かれるようにして突き飛ばされた。隙を狙ってディアスが跳躍し、剣を十文字に振るった。
「クロスウェイブ」
 衝撃波はサディケルのかざした音叉の手前でかき消された。何か見えない防御壁を作ったのか。地面に降りたディアスはすぐに間合いを取る。サディケルが攻撃にかかる。しかし、そこへ割りこむようにしてクロードが突進してくる。闘気を込めた拳の一撃は寸前で避けられ、サディケルは身を翻してその場を離れた。間を置かずにクロードとディアスが並んで彼の許に駆け出す。少年の青白い貌に不吉な笑みがこぼれた。
 まるで銃でも構えるように、サディケルは音叉の先端をふたりに向ける。二股に分かれた先端の間から何かが光り、爆ぜた。そして音叉を中心として光の輪がいくつも生じ、凄まじい熱風を伴ってひといきに放出される。
「なっ!」
 不意を衝かれたクロードとディアスは避ける間もなく真正面から熱風を食らい、吹き飛ばされて石壁に身体を叩きつけられた。床に落ちると、ふたりは全身の痛みに顔をしかめた。服はところどころ焼け焦げ、腕や顔には火傷の黒い斑点が浮いていた。
「ソニックバーナー。超音波で空気を振動させれば、この程度の熱はすぐに発生できるのですよ」
 小憎らしいほどの余裕をみせるサディケル。クロードは膝をつき、歯を食い縛って立ち上がる。ディアスは既にその隣で、敵を睨みつけて立っている。
「なるほど。未だ闘志は衰えず、といったところですか。しかし、次は火傷じゃ済まされませんよ」
「いいからかかってこいよ」
 固く握りしめた剣の切っ先を相手に突きつけて、クロードが挑発した。彼が敵に向かってそんなことを言うのは、これが初めてのことだった。
「ガキが玩具おもちゃ振り回して、いい気になるなよ」
「言ってくれますね」
 サディケルの目の色が変わった。
「ならば、これが玩具かどうか、もう一度確かめてごらんなさい!」
 音叉から再び熱風を繰り出す。ふたりはそれぞれ左右に避け、そこから地面を蹴って同時に斬りかかった。
 一方、ラファエルを相手にしていた三人は。
「ちくしょう。何なんだこいつは。ふざけやがって」
 ボーマンが悪態をつく。その間にもオペラがラファエルに向けて銃を連射していたが、相手はまるで風に舞う布切れのようにひらりひらりと躱していく。背後からエルネストが鞭を繰り出しても、正面からボーマンが殴りつけても、草色のローブのごわごわした感触以外に手応えは全くない。果たしてそのローブの内側に、そいつが存在しているのかどうかも疑わしかった。
 そうこうしているうちにラファエルが衝撃波を放つ。近くにいたボーマンとエルネストは撥ねつけられるように突き飛ばされ、オペラは頭を低くしてなんとかやり過ごした。
「これじゃ、ラチが明かないわ。あいつの身体がどうなってるのかわからないことには」
「だったら、俺が確かめてやる」
 そう言って、ボーマンがラファエルに向かっていった。足許に丸薬を投げつけて煙幕を張り、視界を奪ったところで一気に相手の懐に潜りこむ。そして、ローブのスリットをつかんでひと思いに引き剥がす。だが、その中身を目の前で見て、愕然とした。
「なんだ……これは」
 そこには人間のからだなどなかった。ただ、不可思議な空間がぽっかりと口を開けているのみ。黒と青と緑と赤が渾然一体となって混ざり合ったその空間は、この世に存在するいかなるものよりもおぞましく感じられた。悪夢の中で見る宇宙は、もしかしたらこのようなものかもしれない。
 その空間を眺めているうちに、ボーマンはそこに吸いこまれていくような錯覚に陥った。いや、これは錯覚ではない。実際に吸いこまれているのだ。気づいたときにはすでに下半身がすっぽり空間にはまりこんでいた。底なし沼と同じだ。もがけばもがくほど、ずるずると引き込まれる。
「ボーマン!」
 エルネストが駆け寄り、その腕をつかんだ。しかし、どれだけ腕を引いてもボーマンの身体はみるみる空間の中に沈んでいく。そのうちエルネストまでもが巻きこまれてしまい、最後にはふたりともおぞましい穴の中へと呑みこまれてしまった。あとには口を開けたままの空間が、何ひとつ変わらぬ状態でそこにあるのみ。
「自ら地獄への扉を開けるとは……愚かしい」
 ラファエルが低調な声色で呟いた。
「そんな……冗談でしょ」
 オペラはしばらく茫然としていたが、すぐに気を取り直して銃口をラファエルに向ける。
「ふたりを出しなさい。さもないと、その頭をぶち抜くわよ」
「無理だ。この超空間は我のものであり、また我のものではない。そこは秩序の存在しない世界。制御も統制も意味を為さない。一度そこに迷い込めば、永久に彷徨さまよい続けることになる」
「そんな禅問答みたいな理屈で諦めきれるわけないでしょ」
 自分に言い聞かせるように、言った。
「エルは戻ってくるわ。必ず。あのひとがこんなことで死ぬもんですか!」
 言いながら引き金を引いて光弾を放つ。ラファエルは空中に浮き上がってそれを避けた。そしてとどめとばかりに強烈な衝撃波を放った。充分な間合いを取っていたはずのオペラもこれには手もなく吹き飛ばされ、何度か床に身体を打ちつけながら、最後は地面に倒れこんだ。
「やはり他の二人同様、超空間に放り込むのがせめてもの情け……」
 そう言ってオペラの前に歩み寄ろうとしたとき、ラファエルに異変が起こった。
「……ぬ?」
 躯が動かない。金縛りにでも遭ったかのように硬直してしまっている。そして次の瞬間、空虚なはずのローブの内側から凄まじい衝撃がはしった。
「ぐ……ぐぉぉぉぉっ!」
 オペラは両手をついて起き上がり、その様子を信じられないように刮目かつもくした。悶え苦しむラファエルの躯に亀裂が生じている。草色のローブに網の目のようにひびが広がり、その溝から光が洩れだした。
「ぐわぁぁぁおぉぉぉぉっ!!」
 そして、恐ろしい絶叫とともにラファエルの躯がはじけ飛んだ。ローブの裾が、手袋が、フードやその内側にあった奇妙な空間が細かい破片となって砕け散る。それはちょうど硝子か陶器でできた人形を中から爆破したような感じだった。
 飛散した破片が降り注ぐ中に、オペラはふたつの影があるのを見つけた。彼女の表情に笑顔が戻る。
「エル! ボーマン!」
 オペラはまだ破片が降っているのにも構わず、体格のいいほうの身体に飛びついた。それは間違いなくエルネストだった。
「今の、あなたたちがやったんでしょう。どうやって抜け出したの?」
「ちょいと中で暴れてやっただけさ」
 ボーマンが親指を立ててニヒルに笑う。
「似合わないわねぇ、それ」
「うっせぇ」
 せっかく格好つけたのに、とボーマンは不貞腐れた。
「あの超空間こそが、やつの本体だったんだ」
 エルネストが説明する。
「俺たちが見ていたローブの男は、あの空間とこの世界とをつなぐゲートというだけの存在だった。超空間を司っていた『意識』こそがラファエルの本体だったんだ。だから俺たちはその中にあった『意識』の核を捜し出して、そいつを破壊した。後は見ての通りだ」
「でも、あいつは中に入ったら空間を彷徨うだけだって……」
「普通ならそうなったのだろうな。だが、俺にはこいつがある」
 そう言って、エルネストは握っていた鞭を前に示した。
「この鞭ならば異空間の中でも自在に操れる。元来空間を飛び超えて攻撃できる武器だからな。こいつを頼りにして、どうにか『意識』の核へと辿り着くことができたんだ」
「へぇ……」
 オペラが感心していたそのとき、別の場所から爆風が巻き起こった。
 そこでは、レナたちがカマエルを相手に戦っていた。
「ふぇふぇ。もう終わりか、小童こわっぱども」
 カマエルは先程放ったイラプションの残り火を掌に燻らせながら、綽然しゃくぜんと笑った。
「なにをっ……」
 セリーヌが憎々しげにカマエルを睨めつけ、そして杖を掲げた。
「ルナライト!」
「シャドウフレア」
 上空から舞い降りる光の帯は闇の焔にかき消された。
「エナジーアロー!」
「サンダーストーム」
 カマエルを包み込む光の矢は電撃に触れると一瞬のうちに消滅した。
「グラビティプレス!」
「トラクタービーム」
 無数の鉄の塊はカマエルの頭上で突然落下が止まり、逆に天井へとさかのぼっていった。
「それだけかの? ふぇっふぇっ。それでは、次は儂からいくかの」
 そう言って、カマエルは腕を振り上げた。
「サンダークラウド」
 天井から稲妻が迸り、レナたち三人を襲う。衝撃で目の前が真っ暗になる。頭のてっぺんがズキズキと疼き、そして眩暈めまいがした。気絶してはいけない。ここで倒れてはいけない。全身の痺れと痛みを必至に押しやって、レナは精神を集中させる。
「フェアリィ……ライト!」
 うまく動かない口をどうにか動かして、呪紋を唱えた。レナとその周囲に光の粒が降りそそぎ、三人の傷を癒していく。
「いたた……冗談じゃないですわ。あいつ、ほとんど詠唱してないじゃない」
 片手で頭を押さえながら、セリーヌが立ち上がった。
「半端な呪紋では確実に打ち消されますね。向こうが対抗できないだけの強力な呪紋ならば、あるいは倒せるかもしれません。レナさんのスターフレアか、それとも……」
 ノエルはセリーヌを見た。セリーヌもその言葉の意味を汲みとった。
「よろしいですわ。でも、これは詠唱に時間がかかりますわよ」
「私たちが時間を稼ぎます」
 レナが言い、ノエルもしっかりと頷いた。ふたりの決意に気圧されながらも、セリーヌは微笑を返した。
「期待してますわよ」
「セリーヌさんも」
 そして、彼女は目を閉じて詠唱を始めた。
 残ったレナとノエルは手当たり次第に呪紋をぶつけた。カマエルも最初のうちは相変わらずの余裕をみせながら呪紋を返していったが、やがてセリーヌが攻撃に加わっていないことに不穏を感じ始めた。
「ふむ……何を唱えようとしてるかは知らんが、怪しいの。まさかとは思うが、念のために潰しておくか」
 用心深い老人はセリーヌに向けてサンダーボルトを唱えた。
「だめっ!」
 レナはセリーヌの頭上に飛びこみ、身を挺して電撃を防いだ。またもや電撃を浴びたレナは着地もままならず、床に転がりこむ。
「邪魔は……させないから」
 それでもすぐに立ち上がり、未だ詠唱を続けているセリーヌの前に立ちふさがる。
「ふむ。みずから盾となって仲間を守るか。殊勝なことじゃ。だが、どこまでもつかの」
 カマエルは次にファイアボルトを放った。それはセリーヌがいつも唱えているものの数倍はあった。炎の尾を曳いて迫り来る火球に、レナは両足を踏ん張って、両腕を顔の前で組んで衝撃に備えた。
 しかし、火球は彼女の手前で弾かれた。腕を解いて前を見ると、そこにはノエルの後ろ姿があった。
「女性にばかりこんな目に遭わせるわけにはいきませんよ」
 ノエルは首だけ動かして背後のレナを見ると、力強く笑いかけた。両手の手袋は炎の球を受け止めたために焼け焦げている。
「レナさん、紋章力で防御壁を作るんです」
「え?」
 レナの隣に並んでから、ノエルは言った。
「この周囲に紋章力の膜を張るんです。そうすれば少しは呪紋の攻撃を和らげることができるはずです」
 自分にそんなことができるのかわからなかったが、とにかく今はノエルの言うとおりにやってみるしかない。レナは掌を頭上にかざして、慎重に紋章力を放出していく。これでどうやったら膜なんて作れるのか。途中で迷いも生じたが、慌てて首を振って無心に戻る。大事なのは理屈じゃない。感覚だ。瞳を閉じ、自分の中に流れる紋章力を感じて、それを自在に操る自分の姿を想像した。
 ある程度まで紋章力を放出して、彼女のまわりに無数の光の粒が煌めくようになると、レナは放出を止め、指先で粒の群れを撫でるように腕を動かした。すると光の粒は互いに寄り集まり、大きな光の塊へと変化し、さらに薄い膜となってレナたちを覆った。
「これで……いいの?」
「上出来です」
 ノエルは、まだ自信なげなレナを励ますように頷いてみせた。
 そこへカマエルの放ったシャドウフレアが降りそそぐ。光の防御壁によって多少は軽減できるとはいえ、膜を突き抜けた青黒いほのおは執拗にレナとノエルの身体にまとわりつく。服が焦げ、肌が灼けても、ふたりはセリーヌの前を離れようとはしなかった。
「なるほど。テコでもそこを動かぬ気か。面白い。先にそなたたちから片づけてくれよう」
 カマエルの怒濤どとうの攻撃が始まった。強烈な冷気が渦巻いたかと思うと、紅蓮の炎が防御壁を包み込む。真空の刃がふたりを切りつけ、雷撃が身を打つ。矢継ぎ早に繰り出される呪紋の数々にも、ふたりは必死に耐えしのいだ。セリーヌの詠唱が終わるまでは。それまでは何がなんでも彼女を守りきらなくてはならない。
 カマエルはもてあそぶように様々な呪紋を片っ端からぶつけてくる。レナは徐々に薄くなる光の膜に絶えず紋章力を送り続ける。そのため彼女はほとんど無防備だった。容赦なく鎌鼬が切りつけていき、腕や脚に血が滲んだ。ノエルもセリーヌに降りかかる炎や氷の矢や真空の刃を懸命に振り払っていく。
 そうして、ついにセリーヌが動いた。目を大きく見開き、杖を高々と掲げて。
「エクスプロード!」
 カマエルの眼前で、急速に大気が凝縮される。
「ぬおっ! これは」
 呪紋の威力を予期したカマエルがその場を離れようと一歩退いた刹那、それは一気に膨張を始めた。熱を帯びた空気が覆面の老人を呑みこみ、爆発を巻き起こす。
「伏せて!」
 セリーヌがレナの肩をつかんで地面に押し倒した。横にいたノエルも既に伏せている。爆発は彼らの頭上でも起こっていた。轟音と爆音、そしてかすかに聞こえる老人の断末魔。爆風が生暖かい突風となって背中を吹き抜けていくと、ようやく辺りは静かになった。
 レナがおそるおそる顔を上げて前を見る。そこに嫌らしく口許を歪ませた老人の姿はなかった。まさに塵ひとつ残さずに吹き飛んでしまったのだろう。
「前よりは随分おとなしい爆発でしたね」
 それでも、ノエルがそんなことを言うのだから、レナはその「前」がどのくらいとんでもない爆発だったのか、想像しようとしてすぐに嫌になった。
「今回は爆発の範囲を調整してみたんですのよ。おかげで詠唱にさらに時間がかかってしまいましたけど」
 セリーヌは立ち上がり、まだ床に座りこんで放心しているレナにも手を貸して立たせる。それから、軽く抱きとめて、彼女に囁きかけた。
「ありがとう、レナ。こんなになるまで頑張ってくれて」
 それで緊張の糸がほぐれたのか、レナの瞳に涙がにじんできた。何気ないはずのセリーヌの言葉が、本当に嬉しく感じられた。
「おや。あちらはまだ戦っているのか」
 ノエルの視線の先には、サディケルと激しく打ち合うクロードたちの姿があった。
 同時に振り下ろされたクロードとディアスの剣を、サディケルは巧みに音叉で受け止める。ディアスは切り返して相手の横腹を抉るように振るったが、サディケルは躯を反転させて背後に避けた。そこを狙って放たれたクロードの空破斬は手前であっさり防がれた。
「なかなかやりますねぇ。さすがにメタトロンたちを倒すだけのことはある」
 さしものサディケルも軽く息をきらせ、疲れを見せている。
「このままもつれて泥仕合になるのはお互い望まないことでしょう。そろそろ決着をつけようではないですか」
「いいだろう」
 クロードは汗で額に張りついた前髪を払ってから、それに応じた。彼にしてもディアスにしても、これ以上戦いを長引かせるつもりはなかった。
 サディケルが速攻を仕掛けた。迎え撃つクロードとディアスは左右に散って斜めから斬り込む。サディケルはわずかに速いディアスの剣を跳躍して躱し、クロードと斬り結ぶ。何度か打ち合ったあと、クロードの頭めがけて音叉を振り抜いた。クロードは背中から倒れこむようにして避け、ついでに足払いをかける。足許を取られて体勢を崩すサディケルにディアスの剣が振り下ろされる。かろうじて音叉を差し出すものの、打ち合った衝撃で地面に尻餅をつく。そこをさらにクロードが斬りかかったが、サディケルはその信じがたいほどのバネを生かして後方に跳び退いた。
 劣勢で間合いを取ろうとするサディケルに対し、クロードとディアスはここぞとばかりに攻めたててくる。ふたりが一列になってこちらに向かうのを見ると、サディケルは音叉を突き出して音波を放ち熱風を繰り出した。前を走っていたクロードは跳躍してそれを躱したが、後ろにいたディアスはそこに踏みとどまった。
「なに?」
 目を見張るサディケルをよそに、ディアスは両手で剣を振りかざす。刃に炎が宿った。
「朱雀衝撃破!」
 振り下ろされた剣から燃え盛る朱の鳥が飛び立ち、音波と熱風に真っ向からぶつかっていった。焔の鳥は熱風を呑みこみ、音波をものともせずに突き進んでいく。
「くっ!」
 熱風を吸収して倍に膨れ上がった焔の鳥がサディケルに襲いかかる。彼は横に逃げようとしたが、反応が遅れて炎を浴び、熱風に舞い上げられる。それでも空中で体勢を立て直し、片膝をつきながらもうまく着地した。立ち上がり、相手の方を睨みつけようとして──背筋が凍った。
 クロードが、彼の背後にぴったりと寄り添っていたのだ。剣の切っ先を、脊椎せきついのあたりに突き立てて。
「お前の負けだ」
 耳許でそう囁いて、クロードは腕に力を込める。刃が少年の幼い躯を貫いた。驚愕の色に見開かれた双眸が、みるみる光を失っていく。クロードが剣を抜くと、口から紅の華を咲かせて、サディケルは倒れた。
 十賢者の骸が音もなく消滅するのを見ると、クロードは剣を投げ出して、脱力したように座りこんだ。
「勝った……んだな」
 天を仰いで、自分で確かめるように呟いた。そこへ仲間たちも集まってくる。
「これで残るはあと四人ね」
「ああ。だが、まだ先は長い」
「気を引き締めてかかりませんと」
 クロードは剣を拾って鞘に収め、立ち上がってから言った。
「先を急ごう」


 八人は一丸となって塔を駆け抜けた。大きな広間があり、迷宮があり、ひたすらまっすぐ延びた長い通路があった。扉を潜り、トランスポートで移動するたびに、めまぐるしく部屋の様子が変化していった。石造りの部屋、木と紙でできた部屋、冷たい金属質の部屋──それはまるで、異なる世界のいろいろな場所にある建物の一部を切り取って、無雑作に塔の中に貼りつけたようだった。
 行く手には数多の魔物が待ち構え、彼らの前に立ちはだかった。大蜥蜴が炎を撒き散らし、胃袋のような気味の悪い生物が群れを成して押し寄せ、巨大な怪鳥が立ちふさがった。彼らはもはや躊躇ためらうことなく剣を振るい、呪紋をぶつけてそれらを退けていく。異形の塔の内部を八つの希望の星が疾風となって駆け抜けていったあとには、おびただしい数の魔物の屍が累々と積み重なった。鋼の怪物が無差別に放つ銃弾を躱し、中身のない甲冑が投げつける剣を弾き返す。刃が鞭が拳が唸り、瞬時にしてがらくたの山を築く。なにものも彼らの侵攻を止めることはできなかった。

 そうして、数えきれないくらいの部屋を通っていき、何度目かの扉を開けたとき、突如として茫漠とした空間が広がった。
「ここは……?」
 そこは、見渡す限り真っ白な空間だった。白い大地に、白い空。空と大地を分け隔てる地平線のあたりがわずかに灰色味を帯びている以外には、見事に白一色の世界だった。まだ何も描かれていないカンバスの中に閉じこめられてしまったような気分だった。
「誰かいるぜ」
 ボーマンが、その白い景色の中心にいた二人組を見つけた。そいつらは、同じように腕を組んで、ニタニタと下卑た笑いを浮かべながらこちらを見ていた。

2 最後の真実 ~フィーナル(3)~

「ハニエル、客だぜ」
「客のようだな、ミカエル」
 男たちは姿形がとてもよく似ていた。がっしりと筋張った体格。コートのようなゆったりとした服に、その上から肩当てや胸当てを身につけた出で立ち。彫りの深い容貌から頬のけ具合まで同じとくれば、このふたりを瞬間的に見分けるのは容易ではない。ただ、ミカエルと呼ばれたほうが燃え立つように逆立った赤い髪であるのに対し、ハニエルは鶏冠とさかのように刈り取られた青い髪をしていた。
「お前は……」
 クロードはその鶏冠頭に見覚えがあった。最初にフィーナルへ乗りこんだときに現れた十賢者のひとりだ。そういえば、あのとき彼が腕の装置で指示を送っていた相手の声は、このミカエルのものではなかったか。
「久しいな、小僧。性懲りもなく、また父親の仇討ちとやらに来たのか」
 揶揄するように言うハニエルに、クロードは拳を固める。
「落ち着くんだ、クロード」
 背後からエルネストがいさめた。
「わかってますよ」
 クロードは拳を下ろし、深呼吸をしてから、毅然とふたりを睨みつける。
「僕らが用があるのはルシフェルとガブリエルだけだ。けれど、邪魔をするというのなら容赦はしない」
「容赦はしない?」
 そう繰り返してから、ミカエルは突然声をあげて笑いだした。怒号のような笑い声だった。
「こいつは傑作だぜ。てめぇ、本気マジで言ってんのか?」
「なにをっ……!」
「泣きベソかきながら暴れてたボーヤがよく言うぜ。おとーちゃーんってな。がっはっはっは。てめぇはホントに笑かしてくれるぜ」
「なんだミカエル。お前もあのとき見てたのか」
「おうよ。モニタで見てたが、ありゃ爆笑モンだったな。今でも思い出しては……」
「黙れっ!」
 クロードが一喝して剣を抜き放った。
「おい、またキレたぜ」
「ったく。とことんさみー野郎だ」
 ミカエルはわざとらしく肩をすぼめ、寒そうに身体を震わせてハニエルとふざけ合う。
「あなたたちには、ひとの心がないの?」
 そこへ、レナがクロードの横から進み出た。
「いくら創られた人間だからって、心はちゃんとあるはずよ。なのに、どうしてクロードのこころの痛みをわかってあげられないの? どうしてそんなふうに笑い飛ばすことができるの?」
 その言葉に、ミカエルたちは急に静かになった。露骨な笑いは消え、居心地の悪そうに目配せをしている。
「……おい、ミカエル」
「ったく。どいつもこいつもさみー奴らだ。凍えちまわぁ」
 ミカエルはそこでまた、ニヤリと口許を曲げた。
「俺様があっためてやるよ」
 言うが早いか、ミカエルの周囲に炎が巻き起こり、彼はそれをまといながら天高くへと舞い上がった。炎の塊と化したミカエルは紅蓮の尾を曳きながらぐんぐん上昇していく。
「ふふ。ミカエルの灼熱のステージにようこそ。紅の華スピキュールをとくとご覧あれ」
 ハニエルが宙に浮いてクロードたちとの距離を取る。そうしている間にもミカエルは上昇を続け、ついには星ほどの大きさにまでなった。
「いったい何が始まるんだ?」
「見て。降りてくるわ!」
 白い空に輝く紅の星が急下降を始めた。空気との摩擦で巨大な隕石のように猛然と落下してくる。
「離れるんだっ!」
 八人がバラバラに散開しようとしたときには、既にミカエルは目前まで迫っていた。彼はそのまま白い床に衝突する。衝撃と轟音、そして炎の洪水。白い世界が一瞬にして真紅に染まった。ミカエルを中心として同心円状に炎の渦が広がっていく。それは、蕾から今まさに花弁を開こうとする紅の華を思わせた。炎と熱の激流に彼らは成す術もなく押し流され、その身を灼かれた。
 炎が収束し、中心にいたミカエルは膝と手をついた恰好で地面に蹲っていた。煙を上げる巨体をのそりと起こし、悠々と周囲を見渡す。
「あったまっただろ?」
 白い床に倒れていた人間たちもどうにか立ち上がろうと、腕をついて起き上がる。誰かが回復呪紋を唱え、光の粒が降り注いで彼らを癒していく。
「ちくしょう。とんでもねぇ技だ」
 焼け焦げて黒煙をあげる白衣を脱ぎ捨てながら、ボーマンが言った。
「今度はこっちからだ」
 先陣をきってミカエルに向かっていったのはクロード。それにディアスとエルネストも続いた。ミカエルは振り下ろされたクロードの剣を避けるでもなく、右の手甲で軽々と受け止め、振り払った。ディアスの太刀筋はあっさり見切って躱し、エルネストの鞭は先端をつかんで逆に相手を引き寄せ、殴りつけた。ボーマンが丸薬を投げつけ、オペラが光弾を放つ。
「しゃらくせぇ!」
 ミカエルが気合いを放つと丸薬も光弾もことごとく弾け飛んだ。執拗に斬りかかるディアスの頭を鷲掴わしづかみにして、鳩尾みぞおちに思いきり拳を叩き込んだ。クロードを蹴飛ばし、エルネストを放り投げて床に叩きつける。セリーヌが放った呪紋は涼風がごとく受けて微動だにしない。
「弱ぇ。弱ぇぞ、てめぇら。この程度で俺様とやり合おうなんざ、十億年早ぇんだよ!」
 ミカエルが嘲るように言った。ハニエルも空中で嫌らしい笑みを零したまま、戦況を眺めている。
「くそ……なんて強さだ」
 クロードは立ち上がって歯を軋ませた。たったひとりが相手でこんなに手こずっていては勝機は乏しい。
「けっ。くだらねぇ。とっとと始末をつけちまうか。……いいだろ、ハニエル?」
「好きにしろ」
 ミカエルが再び炎を纏って飛び上がった。あっという間に白い空の彼方へと上昇し、そして降下してくる。どこに落ちてくるか予測できない上に炎が広範囲に拡散するとあっては、どこへ逃げようともほとんど無駄なのだ。地面に衝突した炎の塊は灼熱の洪水を巻き起こし、彼らに襲いかかる。鮮やかな紅の華の中で人間たちはもがき苦しみ、そして倒れてゆく。
 ミカエルが先程と同じようにあたりを見回す。彼らはまだ力尽きてはいないものの、最初のようにすぐに起き上がることはできなかった。一度は呪紋で回復したとはいえ、二度も強烈な炎にさらされては、さしもの戦士たちも衰耗すいこうは否めない。
「あと一息ってとこか。悪ぃが一気にいかせてもらうぜ。……これで終わりだぁっ!」
 ミカエルが三度目の上昇を始めた。クロードがレナと支え合いながらどうにか立ち上がり、上空の赤い星を振り仰ぐ。万事休すだった。
「どうしたら……いいんだ」
 そう呟いて、ふと前を向くとそこにはノエルがいた。足を組んで床に座り、異国の僧侶のように目を伏せてぶつぶつと何かを唱えている。
「ノエルさん?」
 クロードが呼びかけても、彼はこちらを向こうともしない。左手をへその下に置き、右手を顔の前に突き立てて一心不乱に詠唱している。そうしている間にも上空の星はどんどん近づき、大きくなってゆく。しかも。
「……まずい。こっちに向かってきてる。ノエルさん、危ないから逃げてください。……ノエルさん!」
 だが、ノエルはいっこうに応じない。深手を負っている上にレナも連れている手前、彼のところに行くのは無理だ。至近距離であの炎を浴びれば、自分もレナも無事ではすまされない。炎の塊が間近に迫っているのを上目遣いで見ると、クロードはついにノエルを諦めて、レナを腕に抱いたままその場を離れた。
〈人は地にのっとり、地は天に法り、天は自然に法る〉
 そのとき、クロードの脳裏になぜかノエルの唱える言葉が直接響いてきた。
天籟てんらいを聞き、忘我の境地に達すれば、人は自然へと帰依きえする。我は世界を支える大地なり。我は世界を覆う天なり。我は絶えず流れ落つる水なり〉
 ミカエルが今まさにノエルの頭上に落ちようとしていた。クロードが最後の警告を発しようと声を張り上げかけたそのとき、ノエルの身体から強烈な光が放たれた。
〈──我は大地に座したる大岩なり〉
 あまりの眩しさに、クロードは思わず腕で顔を覆った。光は何度か明滅したのち、すぐに消滅する。閉ざされた視界の中でクロードは不思議に思った。ミカエルはもうとっくに地面に衝突しているはずなのに、いつまでたっても炎の渦はやってこない。それどころか衝突の音さえしない。腕を下ろして、そっと前方に目を遣る。そこには信じがたい光景が広がっていた。
 十賢者よりさらにふたまわり以上も大きな岩の塊が、ミカエルの体当たりを防いでいた。いや、それはただの岩ではない。人のかたちをした岩の人間ゴーレムだ。両手を突き出して、いまだ燻っているミカエルの躯を全身で受け止めている。
「あれは、いったい?」
 茫然と見つめるクロードに、ゴーレムはわずかに首を動かし、岩に穿うがたれたふたつの穴でこちらを見た。岩だけに表情は変わるはずもなかったが、その無表情さがかえって彼の正体を気づかせることとなった。
「まさか……ノエルさん?」
 ノエル・ゴーレムは力強く頷き返すと、ミカエルをむんずと掴みあげて放り投げた。投げ出されたミカエルは空中で体勢を立て直し、地面に着地した。
「てめぇ、お、俺様のスピキュールを受け止めただと?」
 憎々しげに睨みつけるミカエル。ノエルはのそりと岩の身体を動かし、ミカエルと向き合う。
「……ざけんじゃねぇぞぉッ!」
 すっかり頭に血がのぼったミカエルは猛然とノエルに突撃していく。かくして大男ふたりの大格闘劇が始まった。
 ミカエルは矢継ぎ早に重い拳を繰り出していったが、ちっぽけなクロードたちを相手にしていたときとは訳が違う。堅固な岩盤そのものである胸板はミカエルの攻撃にもビクともしない。ノエルは悪ふざけをする子供を戒めるようにして拳を受け止め、そのまま手首をひねって吊し上げた。無防備になった腹に膝蹴りを叩き込み、押し潰すように床に叩きつけた。
「むう。あれではミカエルも分が悪いか。……仕方ない。加勢してやろう」
 ハニエルが床に降り立ち、相棒のところへ向かおうとする。ところが、目の前をいくつもの光弾が横切り、進路を遮った。
「あんたの相手はあたしたちよ」
 ハニエルの横には、光弾を放ったオペラとボーマンが身構えていた。その背後ではディアスやエルネストたちがレナの治療を受けている。
「形勢逆転だな」
 ボーマンがニヤリと笑う。ハニエルは怒りの形相に顔を歪ませた。
「調子に乗るな、クズどもが!」
 右手を突き出すと、そこから恐ろしい光の砲撃が放たれた。オペラたちはすかさず避けて、鶏冠頭の大男に敢然と立ち向かっていった。
 一方、ノエルとミカエルの戦いは意外に早々と決着がつこうとしていた。ノエルは圧倒的な腕力で相手をねじ伏せ、全体重をかけて動きを封じる。そして彼の合図を受けてクロードが、まるで刑の執行人エクスキューショナーのように、ゆっくりとミカエルの前に歩み寄った。その手に握られたセイクリッドティアが燦然と煌めく。
「てっ、てめぇ……!」
 ゴーレムにのしかかられて身動きのとれないミカエルは、首だけ持ち上げてクロードを睨む。威嚇する虎のように目をぎらぎらさせ、歯をむき出しにしている彼を、クロードは無機的に見下ろした。怒りも憐れみも、一切の感情を表さずに。
「最期だ」
 一言そう呟いてから、剣を振るう。首筋から鮮血が噴き出し、ミカエルは絶命した。
 クロードが剣を収める。ゴーレムは、事切れたミカエルから巨体を動かして離れる。そのとき、岩の身体が急速に縮み、やがて元のノエルの姿へと戻っていった。ノエルは完全に自分の姿が戻ったことを確認すると、すぐに倒れこむようにして地面に伏した。
「ノエルさん、大丈夫ですか?」
「……ちょっと大丈夫とは言いがたいですね……」
 ノエルは仰向けになり、苦しそうに息を切らせた。顔は蒼白で、玉のような汗がいくつも浮いている。
「予想以上に精神力を使ってしまいました。もともと無理のある術ではあったんですが」
「けど、おかげで助かりました。あのままだったらどうなっていたか……」
 クロードは横を向いた。視線の先でミカエルの骸が霧散するように消えていく。
 ノエルも静かにクロードを見つめていた。消えゆく敵の様子をじっと見つめる青い瞳と、その奥に宿る大きな愁いを。ミカエルの首を斬るときに見せた非情な表情の、理由と決意はそこにあった。
 残るハニエルも戦士たちの集中攻撃を受けて、徐々に追い込まれていった。彼もミカエルに負けず劣らずの実力を誇っていたが、いかんせん相手の数が多すぎた。鋼の肉体も剣で切りつけられ、銃弾を浴びせられるうちに弱っていく。拳や蹴りや砲撃での応戦も追いつかなくなり、次第に疲弊し動きが鈍る。持久戦のような様相を呈してきた中で、ハニエルは最後の賭けに出た。
 周囲のディアスやボーマンを回し蹴りで牽制けんせいしておいてから、ハニエルは空中に躍り上がった。そして両手を足許に突き出し、戦士たちをまるごと呑み込んでしまうほどの砲撃を放った。それは砲撃というよりほとんど滝のようだった。光の滝は床に到達すると激しく飛沫をあげる。仕留めたと思って口の端をつり上げた刹那、背後に影が現れた。
「なにぃ!?」
 振り返るとそこにはディアスがいた。剣が振り下ろされ、ハニエルは背中を裂かれた。地面へと落下し、腰砕けのように着地する。そこへさらにボーマンが拳を固めて勇ましく突進してきた。ハニエルが慌てて繰り出した拳は肩を掠めて空をきる。
「桜花連撃ぃぃぃっ!」
 懐に潜ったボーマンは怒濤の勢いで分厚い胸板に拳を叩き込んでいく。胸当てが砕け、服が破れて引き締まった上半身がむきだしになる。その肉体をえぐるように続けざまに拳を打ち込むと、ハニエルの身体は衝撃で大きく揺さぶられる。そしてボーマンはとどめに渾身の力でボディブローを放った。籠手こてのはめられた拳が腹に突き刺さる。ハニエルの口から血の塊が吐き出された。
「ご……ごんだあずでば……げぼぉっ!」
 ボーマンが腕を抜いた。またひとしきり血を吐いて、ハニエルは前のめりに倒れる。地面に頭から突っ伏した直後、その身体はふっと消滅した。
 主がいなくなると、部屋の景観が一変した。白い世界は古くなったペンキのようにぼろぼろと剥がれ落ち、そこから荒削りの石壁が、つるつるの床が姿を現した。ちょうど最初に三人の十賢者と戦ったときと同じような部屋だ。向かいの壁には大きな扉が既に口を開けている。
 八人は部屋の中央に集まり、無事を喜び合った。だが、これから先に進もうとしたとき。
「僕はここに残ります」
 ノエルは言った。先程よりは顔にもいくらか血の気が戻っていたが、それでも無理な術を使った反動は大きいらしく、まだ歩くことさえ辛そうにしている。
「このまま一緒に行っても足手まといになるだけですから。申し訳ないけれど、少しだけ休ませてほしいんです」
「それは構わないけど……こんなところにひとりで残るなんて」
「心配ありませんよ。ここに来るまでに敵はあらかた片づけたし、市長も間もなく来る頃でしょう。僕は後から市長を連れて駆けつけます。必ず」
 ノエルは毅然とクロードたちを見返した。たとえ衰弱していても、その意志には一片の揺らぎもないようだった。
「わかりました」
 クロードが了承した。
「後で、待ってますから」
「ええ。必ず行きます」
 互いに言葉を交わすと、クロードは潔く背を向けて扉へと歩いていく。仲間たちも何度か振り返りつつ彼の後についていった。
 七人が扉の向こうに消えると、ノエルは急に脱力したように床に座りこみ、そのまま仰向けになった。そうしてゆっくりと目を閉じ、深い眠りについた。


 複雑な仕掛け扉をやっとのことで解除し、覚悟を決めてその部屋に入った。ノエルと別れてからここまで、一度も敵と遭遇しなかったのがかえって不気味だった。
 そこはまた趣の異なる空間だった。床には灰色の石畳が敷き詰められ、部屋の中央を真紅の絨毯がまっすぐ伸びている。壁もやはり灰色の煉瓦を積み上げたもので、ほのかに灯った燭台が等間隔に据え付けられている。絨毯の脇には頑丈そうな石柱が並んでいたが、支えるべき天井はやはり闇に包まれて見えない。振り返れば、彼らが今入ってきた扉もいかめしい鉄扉に変わっていた。どこかの王宮に迷い込んでしまったような気分だった。
「ようこそ、我が宮殿へ」
 絨毯の赤い帯の終点、燃え立つような色の緞帳を背景にして、豪奢な玉座があった。そこに大儀そうに腰掛けているのは。
「ルシフェルか」
「いかにも」
 金色こんじきの肘掛けに肘を立てて頬杖をつきながら、銀髪の男は応えた。その指を埋めつくさんほどに飾られた指輪が燭台の明かりを受けて、ぎらぎらと輝いている。
「今宵の私は機嫌がいい。宴でも開きたい気分だ。どうだ、お前たちも加わらないか?」
 ルシフェルが指を鳴らすと、目の前に矩形さしがたの卓が現れた。純白のテーブルクロスの上には数多の山海珍味や高級酒が所狭しと並べられている。スープの皿は盛んに湯気を立ちのぼらせ、肉料理の皿からは香ばしい薫りが漂ってきた。
 クロードたちが無言で立ちつくしていると、ルシフェルはどうした、食べないのかとしきりに料理を勧める。
「お前たちには本当に感謝しているのだよ。下の階の邪魔者を全て消してくれたのだからな」
「邪魔者ですって?」
 オペラが声を荒げて言う。
「あんたの仲間でしょう」
「仲間? ああ仲間か。そんな風に呼んでいたこともあったな」
 ルシフェルがまた指を鳴らすと、卓と料理は跡形もなく消滅した。湯気や匂いまでも。
「どうやら料理はお気に召さないようだ」
 そう言ってから立ち上がり、威圧するように彼らを睥睨へいげいする。
「ミカエルやハニエルや他の連中は、曲がりなりとも生みの親たるガブリエルを崇敬すうけいしていた。私があの欠陥品バグを殺せば奴らは叛逆と見なすだろう。だから先に消えてもらった」
「なんだって?」
 クロードは狼狽した。レナも驚いて口を挟む。
「あなただってラン……ガブリエルに創られたのでしょう。どうしてそのひとを殺すなんて……」
「お前たちには一生解るまい。奴という存在がいかに私にとって屈辱であるか。私は永きに渡ってその屈辱に堪えてきた。だかこれで終止符ピリオドだ。奴を殺し、私は真の意味で完璧なる存在となって宇宙に君臨するのだ」
「そんなこと……させないわ。絶対に!」
「絶対に?」
 ルシフェルの姿がふっと消え、すぐさまレナの目の前に現れた。逃げようとするレナの手首を掴み上げ、無理やり顔に顔を近づける。
「さて、どうやって阻止してくれる? 私に見せてくれ」
「やっ……!」
 レナは顔を背ける。腕に力を込めてなんとかその手を振りほどこうとするが、逆にあざができそうなほど締めつけられてしまう。
「この野郎っ!」
 クロードとボーマンが左右から攻撃を仕掛ける。その刹那、ルシフェルの周囲に烈風が巻き起こった。レナを除く六人は抵抗する間もなく吹き上げられ、渦巻く風の流れに巻き込まれる。
「永遠に宙を舞い続ける風地獄。それが亡びの風の動機モティーフだ。蒙昧もうまいたる貴様らには相応しかろう」
 竜巻の中心で、ルシフェルは高らかに言い放つ。その背には真紅の翼が生じていた。いや、それは翼というよりむしろはねに近い。蝶のような透明な翅に赤い筋が血脈のように幾重も巡っている。彼がその翼を動かすと、竜巻はさらに勢いを増し、部屋全体に吹き荒れる狂風と化した。人間たちは奔放な風に翻弄され、もみくちゃにされて、石柱や壁に激突し、それでも止まらずに空中を彷徨い続ける。この場を打開しようとなんとか石柱にしがみつく者もいたが、不定期に流れを変える強風に耐えきれず、あえなく吹き飛ばされた。
 風の渦の壁に囲まれて、レナは逃げ場を失った。ルシフェルは怯える少女をすくい上げるように抱きかかえ、するすると宙へと昇っていく。
「さて、ここからどうやって私を阻止するのだ? さあ、やって見せてくれ」
「いやっ……放して!」
 レナが罠にかけられた小鳥のように腕の中で激しくもがく。ルシフェルは冷たい微笑を浮かべたまましばらくそれを眺めていたが、不意に顔を近づけて、耳の下あたりの首筋に湿った舌を押しつけた。その瞬間、全身を電撃のような衝撃が駆け巡った。頭が痺れ、それから覆いかぶさるようにして陶酔が訪れる。彼女の中に、何かがせきを切ったように流れ込み、充たしていく。ひるのような舌先が執拗に首筋から鎖骨のあたりをなぞる。生暖かい感触に、レナの身体から力という力が抜けていった。目の前を火花のようなものがちかちかと行き交い、意識はどんどん遠ざかる。頭のどこかではまだ警句を発しているようだったが、怒濤のごとく打ち寄せる陶酔の波が彼女の意識をずっと奥のほうへと押しやる。首を仰け反らせ、腕と脚をだらりと下ろして、彼女は自らその身をルシフェルの腕に預けた。それが彼の能力であるとも知らずに。微睡まどろんだ瞳はぼんやりと暗黒の天井を見つめ、口はしどけなく薄く開けている。
「レナっ!」
 渦の外側からクロードが叫んだ。彼は石造りの壁に背中をぴったりとつけ、指と踵を漆喰の隙間に食い込ませて身体を固定させていた。
「きさま、レナに何をした!」
「まだ何もしていないさ。少しばかり人間の本能とやらに働きかけてやっただけだ。ククク……」
 ルシフェルは渦の向こうのクロードに、これ以上ないというほどの侮蔑ぶべつの視線を送る。
「これからが本番だ。大人しくそこで見ていろ。何もできぬ自分を呪いながらな」
 レナの身体を右腕一本で支え直し、左腕を自由にする。そして小指の先を自らの口に突き入れて、無雑作に噛んだ。鋭く尖った歯は指先の肉に食い込む。
「お前たちはラヴァーを知っているな? あれもかつては何の能力もない、ただの人間だったのだよ」
 小指を口から出してその先をまじまじと眺めながら、ルシフェルが語り始めた。
「そう……かれこれ三十七億年も前の話だ。本当に何の変哲もない娘だった。家族がいて、友がいて、幸福な日常があった。ところがある日、ひとりの男と出会ったことにより彼女の運命は大きく揺らいだ。ククク……。男は娘に自らの血を飲ませた。すると娘は一変した。男の命ずるままに親を殺し、友を殺し、そして世界を壊した。娘は男の忠実な下僕しもべとなったのだった」
 指先の傷口から赤黒い血が滲み出てくる。血。
「まさか……」
 それを見ていたクロードは戦慄した。これから起ころうとしていることの、あまりの恐ろしさに。
「勝利の美酒も独りではいささか味気ない。ラヴァーのいない今、新たな伴侶を求めていたのだが、どうやらこれで丸く収まりそうだ」
 ルシフェルは左手を広げてレナの鼻先に垂らした。レナは相変わらず恍惚こうこつと、目の前に出された掌を眺めている。小指の傷から赤いものがひとすじ流れて、爪の先で雫をつくる。
「やめろぉっ!!」
 クロードはたまらず壁を蹴って飛び上がった。だがやはり、たちまち風に流されてあらぬ方向へと飛んでいってしまう。それを見てルシフェルはふん、と鼻を鳴らす。
「大人しく見ていろと言ったのに、わからん奴だ。まあいい。後でじっくりと拝ませてやる。ついでに奴の始末もこいつにつけさせるか。愛する者に殺されるのならさぞや本望だろう。ハーーッハハハ!」
 哄笑こうしょうするルシフェルの指から、ついに血液が滴った。紅の雫はレナの薄桃色の唇に落ち、口の中へと流れ込む。さらに一滴、また一滴と、爪の先端から次々に落ちていき、唇はべにを差したように赤く染まった。ルシフェルは狂ったように笑い続けた。彼の興奮に呼応して、周囲の渦が一層激しくなる。どこかで石柱が砕け、壁が崩れる音がしたが、彼には関係のないことだった。
 ルシフェルの腕の中で、レナの意識は完全に消滅しようとしていた。ゆっくりと目が閉じられる。同時に、鼓動は速くなっていった。


 とくん……とくん……とくん……とくん……。
 暗闇の世界に、鼓動の音ばかりが響いている。静かな、穏やかな世界。でも今はそうではない。
 自分とはまったく異なる何かが浸食してくるのを、彼女はひしひしと感じていた。もうすぐ私の意識は呑み込まれ、私は私でなくなってしまう。もはや浸食は止められない。このままじっと消えてゆくのを待つしかないのだ。
 それでいいの?
 自分の声がした。でも声の主は彼女ではなかった。こんなことが、前にもなかったか?
 ほんとうに、あなたはそれでいいの?
 そうだ。思い出した。あれはハーリーでのことだった。ユールを助けるためにザンドと戦って……あのとき私に話しかけてきた、不思議な声。
 ……いいわけないじゃない。
 彼女は拗ねたように答えた。
 だったら、あいつをなんとかしなさいよ。
「あいつ」の示すものが何なのか少し戸惑ったが、たぶん、彼女の意識を浸食し、呑み込もうとしている「あいつ」なのだろう。
 なんとかできるんだったら、とっくにそうしてるわよ!
 彼女は怒ったように言った。ほとんど八つ当たりだったが、とにかく不安をどこかにぶちまけたかったのだ。
 だいじょうぶ。私が力を貸してあげる。だから、あなたも頑張って。
 力を貸す?
 そう。これまでも私はあなたを助けたことがあるのよ。何度もね。あなたは気づいてないかもしれないけど。
 そうだったの……ごめんなさい。
 身に覚えのある彼女は素直に謝った。
 いいのよ。これは私の償いみたいなものなのだから。あなたの成長をこの目で見届けられなかった私が、唯一あなたにしてあげられること……。
 ……え?
 さあ、時間がないわ。想いを繋げて。みんなの想いが、みんなへの想いが、あなたを元の世界へ連れていってくれるわ。……ほら、聞こえない? みんなの声が。あなたを呼ぶみんなの声が。
 彼女は耳をすませた。
 ……聞こえる。聞こえるわ。大好きなみんなの声が。大好きな、大好きなあのひとの声が。戻りたい。みんなのところへ。あのひとのところへ。
 還りなさい。あなたの場所へ!

 レナ!!!


 彼女の中で、何かが大きくはじけた。その衝撃の凄まじさに、レナは思わず絶叫した。
「あああああっ!!」
 朦朧としていた意識が急激に覚醒され、頭が割れそうなほど痛んだ。心臓が胸を突き破りそうなほど大きく跳ねあがり、腕や脚が締めつけられるように軋んだ。彼女を流れる血が逆流して身体のあちこちで暴れ回っているようだった。
「なに?」
 ルシフェルは突然の少女の異変に、初めて動揺をみせた。瞳を見開き身悶えして苦しむ彼女を神妙に眺める。すると、胸許に仕舞われていたペンダントの飾り石が、ひとりでに服から抜け出して浮き上がった。そしてそれは、ルシフェルの眼前でいきなり強烈な閃光を放った!
「ぐおおっ!」
 ルシフェルは呻いて片手で顔を覆った。狂風の渦がピタリと止む。この機を逃さずすぐに斬りかかったのは、ディアス。石柱を足場にして大きく跳躍し、気合一閃、赤い翼の片方を付け根から斬り落とした。ルシフェルはレナを手放し、あえなく落下する。ところがレナは落ちなかった。空中を浮遊したまま、留まっている。
 ようやく地面に降りることができたクロードたちは、あちこちぶつけられた痛みとさんざん振り回された後遺症の眩暈めまいとで、起き上がることすらままならなかった。それでも顔だけはどうにか上げて、レナの方を仰ぐ。
 翼を斬られたルシフェルも同様にレナを見上げる。先程の閃光にやられたのか、頬には血の涙の流れた跡があった。
「莫迦な。この私の傀儡くぐつ法が通じない? いったい何が起こったのだ?」
 レナは両腕を少し広げ、目を閉じたまま宙に立っている。ペンダントの石が白い霊気のようなものをしきりに放出して、彼女を護るように覆っている。
「あれはただのクォドラティック・キーではないか。どうしてあのような反応が……」
(「……紋章石から異質な紋章を抽出することに成功……」)
 その声は、彼女の内側から聞こえてきた。嫋々じょうじょうと、そして粛然と自身に秘められた大いなる真実を告げる。
(「……胎児の遺伝子に直接刻み込むことにより、効果の精度は無比に増幅され……」)
「レナ……あれは、レナなのか?」
 クロードは立ち上がり、光に包まれながらゆるゆると降りてくるレナを放心したように見つめる。
(「……防衛本能と結合し、決定的な危機の際に発動……」)
 レナが地面に降り立つ。飾り石の光が徐々に弱まり、彼女を包む霊気も薄くなっていく。
(「……これを、絶対守護紋章と称する」)
 光が完全に消え去り、レナは目を開けた。視界の中心には忌々しそうにこちらを見るルシフェルの姿があった。その奥には、クロードの姿も。
「お母さんが、護ってくれてる」
 レナはペンダントを握りしめて、それに囁きかけるように言った。
「私はずっとお母さんを捜してた。でもほんとうは、お母さんはどこにも行ってなかったのね。いつだって私のなかにいたんだね。ずっと気づかなくて、ごめんなさい。これからはいつも一緒よ。私を、見守っていてね」
 ペンダントを服の中に仕舞って、レナは前方のルシフェルをきっと睨んだ。ルシフェルは左手の拳を胸の前で震わせている。掌の内から赤い血が洩れて、地面に滴り落ちる。
「認めぬ……私は認めぬぞ! 我が術法は完璧だ。私は完璧な肉体と精神を兼備した至高なる存在なのだ。なのに……なぜだ。お前は私を超えるというのか?」
 言いながらルシフェルは、自分が怯えを感じていることに気づいた。こんな感情を抱いたことは、あのガブリエル以外では一度もなかった。あり得ないことだった。
「ずいぶん自分に自信のある奴なんだな」
 誰かがすぐ近くで言った。
「そういうのをナルシストって言うんですのよ」
 気がつくと、人間たちがルシフェルを取り囲んでいた。ルシフェルはぎょろぎょろと神経質そうに目玉を動かして彼らを見回す。もはや余裕などなかった。翼を斬られ、飛ぶことも風を起こすこともできない。だが、それでも。
「認めんぞっ!」
 高々と掲げたルシフェルの掌から電光が迸り、無数に枝分かれした稲妻が部屋を駆け巡る。彼の矜持きょうじと名誉とを賭した、最後の戦いの幕が開いた。
 仲間の何人かは電撃に打たれたが、何人かはうまくやり過ごして反撃に転じた。クロードが斬りかかり、オペラが光弾を放ったが、ルシフェルは瞬間的に消えては別の場所に現れて、なかなか捉えることができない。彼が四方八方に真空の刃を飛ばして抵抗すれば、セリーヌはイラプションを唱えて切り返す。空気を圧縮して放たれた砲撃はエルネストの鞭が作り上げた気流の壁によって打ち消される。あらん限りの力を振り絞って放たれた電撃は彼らの身を灼いたが、すぐさまレナの呪紋で癒される。
「私は……私は完璧だ。貴様らのような不完全な人間ごときに負けるはずがない。私は世界をあるべき姿に導き、その頂点へと君臨する使命を負った存在。選ばれし人間なのだ! それが、貴様らごときに……」
 取り逆上のぼせて無差別に攻撃しながら、彼は自分に言い聞かせるようにわめき散らす。瞋怒しんどのために歪んだその形相に絶世の美貌はもはや微塵も感じられず、血の涙はとめどなく流れている。
 ボーマンが背後から殴りつけ、エルネストが鞭で足許を薙ぎ払った。床に蹲るルシフェルを残して、彼らは部屋の隅へと避難する。その正面で並んで詠唱しているのは、レナとセリーヌ。
「スターフレア!」
「ルナライト!」
 ふたりが息を合わせて同時に唱えた。恒星の激しい光と月光が上空で絡まり合い、融合して、凄絶な光の柱となってルシフェルの頭上に落ちた。天地も砕けんばかりの絶叫が部屋に轟く。
 光の柱は、すぐに何事もなかったかのように消え失せる。ルシフェルはなおもそこに立っていた。全身から黒煙の細い筋が立ちのぼり、残る片方の翼も半ば溶けている。栄華を誇っていた男の惨めな姿に、彼らは憐れみすら感じた。
「まだ生きているのか?」
「そうみたいだけど……あっ」
 ディアスが無言のままに駆け出した。まっすぐ、ルシフェルの許へと。
「夢幻」
 すれ違い、ただ駆け抜けただけのように見えたが、次の瞬間、ルシフェルの胸から鮮血が噴き上がった。裂かれた胸から迸る紅の飛沫は地獄の噴水を思わせ、また同時にこの世ならぬ美しさもあった。
 ルシフェルの背中が地面に着く。それは彼が乗り越えてきた三十七億年という歳月が、一気に解放された瞬間でもあった。彼は自らの敗北を受け入れた。天に向けて見開かれた双眸が緩み、そして笑った。今まで見せた表情の中で、最も人間らしい笑顔だった。
「ふふふ……まさかこのような結末が訪れようとはな……。だが、これで宇宙の崩壊は決定的となった。私の存在なくしてガブリエルは止められん。崩壊紋章が作動し、全てが終わる」
「止めてみせるさ。そのために、僕らはここまで来たんだ」
 クロードが歩み寄って、言った。
「ふん、甘いな。貴様らは奴の恐怖を知らん。欠陥品バグであるが故の恐ろしさを。……ふっ。だが、それは私とて同じことであったな」
 ルシフェルは自嘲的に呟いた。
「惜しむらくは、私が企てたこの戦乱の結末を、この目で見ることができんことか。まあ……今となってはもはやどうでもいいことだ」
「お前が企てただって?」
 クロードは思わず声を上げた。
「この戦いの発端は、ランティス博士じゃないのか?」
「……ふふふ。貴様らには話してやるか。悠久の過去に起きたあの事件の、最後の真実を」
「最後の、真実……」
 レナが呟く。仲間たちも固唾を呑んで、次の言葉を待った。
「……三十七億年前の、あの日のことだ」
 たっぷりと間を置いてから、ルシフェルは話した。
「ランティスの一人娘がテロリストに誘拐された。奴らはフィリアの命と引き換えに、十賢者計画の中止を要求してきたのだ。ランティスは要求を呑むつもりだった。自らの地位も研究も財産も全て投げ出してでも、娘の命だけは守る、そんな男だったのだ。……だが、それでは私が困る。私の大いなる野望を、こんなところで潰すわけにはいかなかった。だから──私はラヴァーに命じた。『テロリストのアジトに潜入し、皆殺しにしろ、、、、、、』とな」
「ま……まさか……」
 クロードは戦慄した。笑みを浮かべたまま、ルシフェルは淡々と続ける。
「ラヴァーは忠実にそれを実行してくれたよ。アジトを見つけ、中にいた者をひとり残らず殺した。……無論、監禁されていた人質もな」
「なっ!」
 その場にいた全員が凍りついた。信じられない。信じたくない。だが。
「それじゃあ、フィリアさんを殺したのは……」
「私だよ」
 ルシフェルは言った。息絶える間際とは思えないほど、明瞭な声だった。
「フィリアが死ねば、ランティスは狂う。暴走したランティスは十賢者を使って復讐を始める。全ては私の予測通りに事が運んだ。……まあ、エタニティスペースに封印されることまでは予想外だったが……。それでも私は雌伏しふくして機会を待った。そして、ようやく我が至願が達せられるときが来たのだ。それを……貴様らは何もかもぶち壊してくれた。三十七億年も堪えてきたというのに、その結果が、このザマだ」
「……欠陥品バグは、お前の方だったのか」
 クロードが呟くと、ルシフェルは何か言おうと口を開いたが、途中でやめて、代わりに息を吐いた。
 創られし存在が抱いてしまった野望が、創り主の運命をも変えてしまった。それは、創造という人間が踏みこんではならぬ領域を侵してしまったことによる、神罰だったのかもしれない。しかし、あまりにも哀しすぎた。
 レナが突然、クロードの手に握られていた剣を奪って、ルシフェルの傍らに立った。すっかり青白くなったその顔を、じっと見つめながら。
「あなたはきっと、この世界に生まれてくるべきではなかったのね」
 冷厳れいげんとして、彼女は言った。
「……そうかもしれないな」
 ルシフェルは微笑を浮かべたまま、瞑目する。
「還りなさい、あなたの場所へ」
 そして、剣を胸に突き立てた。

3 星の鎮魂歌レクイエム ~フィーナル(4)~

 彼は、空を見上げていた。
 周囲のパネルがせわしく動き回る巨大な球体。その横で、乾いた風に赤毛を靡かせながら、厚い雲に覆われた上空を眺めている。下は一面の荒野。その向こうには枯れかけた山並み。何の面白味もない景観だ。
 彼は、渇望していた。
 かつて見た青い空を。ふんだんに浴びていた陽の光を。緑溢れる大地を。生に満ちていた風の香りを。そして、いつも自分に寄り添っていた少女の温もりを。
 けれど、もはやそれらは戻ってこない。永遠に。
 すべては手遅れだったのだ。私は私の愛するものを自ら失い、そして今、失わせようとしている。いったい何のために? 復讐? 怨恨? 憤怒? 悲嘆? 哀憐?
 ──絶望。
 そうだ。それが今の私だ。絶望こそが私のすべて。私に相応しい動機だ。
 生あるものは死す。生あるものを愛する。しかし、愛するものは死す。愛が深ければ死もまた深い。ならば愛など要らぬ。生も死も、私は望まぬ。自らの消滅こそが、私の本懐なのだ。
「フィリアよ。私が赦せぬか。私の愚行を認められぬか。ならば私はお前のそしりを、大いなる哀しみを甘んじて受けよう。それが私の為せる唯一無二の贖罪しょくざいなのだから」
 彼の左目から涙がこぼれ、頬を伝った。右目は何ひとつ変わることなく、空を見続けていた。


 延々と続く階段を、七人は無言で登っていった。最初にフィーナルへ乗り込んだときと同じ、不条理にまっすぐ延びた階段は、永遠にも近い時の流れを演出し、やがて唐突に終息する。
 赤黒い不吉な床に、異様な幾何学模様の描かれた壁。テラスめいた向こう側には、翡翠色の球体が台座の上に浮遊している。以前見たままの部屋が、彼らの前に広がった。ついに最深部に到達したのだ。
 球体を取り巻く無数のパネルは、前に見たときよりも激しく動き回っていた。ナールの言う通りあれが崩壊紋章ならば、発動が近い兆候なのだろうか。
 そして、それを見上げている背中がひとつ、部屋の中央にあった。闖入者ちんにゅうしゃに気づくと、灼熱の髪が揺れ、白いコートが靡く。
「……立ち去れ、呪われし魂よ。ここは貴様らが来るべき場所ではない」
 小声だったが、それは幾重にも反響して増幅され、彼らにもはっきりと伝わってきた。まるで部屋そのものが語っているように。
「ランティス博士」
 レナが進み出た。懐かしい名前で呼ばれ、ガブリエルは徐に振り返る。
「私は、フィリアさんに会いました」
 クロードたちが驚きの眼差しを向けた。レナは心を落ち着かせつつ、続ける。
「フィリアさんは私に言いました。『父を止めて。そのために、私を殺して』って。……フィリアさんは、あなたのことを哀しんでました。自分のせいで道を外してしまったあなたのことを哀しんでました。お願い、もうやめて。これ以上フィリアさんを哀しませないで。彼女が死んだのはあなたのせいじゃない。ルシフェルが計画にあなたを利用するために殺したのよ。だからもう一度、あなたの愛したフィリアさんのところに戻ってあげて。彼女の愛したあなたに戻って」
 最後は感情に任せて一気に口走ってしまった。少女が願ったのは、あまりにも憐れなこの父娘を救いたい、ただそれだけだった。
「……崩壊紋章は完成した」
 だが、ランティスであるところのガブリエルは、非情にもそのことを告げた。
「凡ては、遅すぎた。もはや何者も我を阻むことは叶わぬ。そう……たとえフィリアとても」
「ガブリエル」
 クロードが言った。超然とした決意を胸に秘めて。
「お前があくまで宇宙を崩壊させようというなら、僕らはすべてを賭けてそれを阻止してみせる。もう躊躇いはしない」
「クロード?」
 レナが困惑した顔をクロードに向ける。彼は、静かに首を横に振った。
「奴の言う通りだ。もう、手遅れなんだよ。僕らにできるのは、あいつの哀しみを全力で受け止めてやることしかない」
 そう言って剣を抜き、赤毛の男に切先を突きつける。
「行くぞガブリエル。これが本当の最後だ!」
 クロードの言葉で仲間たちも決意し、それぞれ身構えた。
「我に楯突くは天に唾するが如し。その愚かしさを身をもって知るがいい」
 ガブリエルの身体から神々しいほどの霊気が放たれた。足が地面を離れると同時に、彼の頭上に光が生じ、そこから何かが出現しようとしていた。後光が輪郭をなぞるは白い翼。ガブリエルをすっぽり覆ってしまうほど大きな双翼の持ち主は、星々のように煌めく光の粒を纏いながらゆっくりと降りていく。
〈聖ルチアの加護の下、ベアトリーチェは降臨せり〉
 重々しい声が部屋に響きわたった。その荘厳さに我知らず畏怖いふの念を抱いてしまうほど。目の前では翼を持った天使がガブリエルに舞い降りている。誰もかもが矮小わいしょうな自分を感じずにはいられなかった。
 光が薄まり、天使の姿が徐々にはっきりと見えてきた。衣を纏わぬその肢体は人間の女性が持ちうる姿を凌駕りょうがしており、まさに神懸かりともいうべき完璧さを具していた。
「……そんな……!」
 だが、レナは天使の貌を見るないなや、その事実に目を疑った。
 それはフィリアだった。赤くしなやかな髪を振り乱し、深い愁いを湛えた瞳を伏せて、彼女はガブリエルの背中を守護するように浮遊している。なぜ?
罪人つみびとたちよ。死出の扉は開かれた。私が冥界への案内人ヴィルジリオだ。誘ってやろう、死と破滅の旅へと」
 クロードがガブリエルの許に駆け出した。気後れしていた仲間たちを奮い立たせるように気勢を揚げる。それが、最後の戦いの始まりだった。
 気合を込めて振り下ろした剣は目に見えない力によって阻まれた。ガブリエルが手を前に突き出して光弾を放ち、それを食らったクロードは手もなく突き飛ばされる。続いてエルネストが、オペラがボーマンが間髪容れずに攻撃を仕掛けるが、相手はことごとく受け流して微動だにしない。手をこまねいているうちにガブリエルは衝撃波を放出し、周囲の人間をまとめて吹き飛ばす。その口が呪紋を紡ぐと背中の天使が腕を振り上げて、炎の渦を、氷柱の雨を、迸る電撃を巻き起こす。
「サザンクロス!」
 間隙をついてセリーヌが唱えた。虹色の流星が暗黒の天井からいくつも降り注ぐ。しかし天使が翼を悠然とはばたかせると流星は瞬時にして無数の砂粒となり、七色の光を残してさあっと消滅した。
「まさか」
 セリーヌは目を見開いて愕然とした。仲間たちの間にも戸惑いが生じた。やはり、こいつを倒すことはできないのではないか? 人間が神に敵わぬように。
 ところが、その呪紋の合間にディアスが背後に回りこんで、至近距離からクロスウェイブを放った。交叉した衝撃波はガブリエルの背中を襲ってコートの裾を破り、天使の翼を突き抜けて羽を何枚か落とした。ガブリエルは前によろめく。初めて攻撃が通じた瞬間だった。こいつも不死身ではないのだ。彼らの士気が再び揚がる。
 さらにクロードが跳躍して闘気を込めた剣を振り下ろし、炎の弾を叩きつけた。弾はやはり跳ね返されてしまったが、重い一撃にガブリエルと天使の身体は大きくぐらついた。いける。
 そう思ったとき、ガブリエルが再び何かの呪紋を唱えた。フィリアの貌をした天使が両腕を掲げると、掌の中間に針の先ほどの光が生じ、調律の狂った管楽器のような音を立てだした。セリーヌははっとした。同じ紋章術を操る者だからこそわかる、予感。
「みんな、逃げて!」
 セリーヌの言葉も空しく、それはひといきに炸裂した。光が激しい熱を伴い、熱は彼らの身を灼き焦がした。体内の水分を奪いつくしてしまいそうなほどの熱風。目が潰れんばかりの光の洪水。踊り狂う爆発の嵐に、腕がもげ、脚が潰れ、全身がバラバラになったのではないかと恐怖すら感じた。レナがあらかじめ全員にかけておいた防護呪紋アンチがなければ、まさしくそれは現実のものとなっていたに違いない。
 光と熱と爆発は突然収束し、治まった。少なくとも彼らにはそう思えた。
 ガブリエルは唱える前と変わらぬ姿で立っていた。人間たちは部屋のそこここで伏している。熱に浸された全身は感覚が麻痺して、指一本動かすこともできない。
「今、愚昧なる魂に鉄槌が下される」
 床に散らばる人間たちを睥睨へいげいしてから、再び呪紋を唱えようと口を開く。が、喉から声が出ない。喘ぐように口を大きく開け、喉の奥に力を込めても、呪紋の言葉だけはどうしても出てこない。
「おのれ……フィリアか」
 苦痛に顔を歪め、喉を掻きむしるガブリエル。そして、天に向かって狂人のごとくわめいた。
「邪魔をするなフィリアよ! ……よかろう。お前があくまで人間の味方をするというのなら、私が今すぐ引導を渡してくれるわ!」
〈ファイルオープン。解除プロセス開始〉
 激しく動揺しているためか、ガブリエルの内なる命令が外にも洩れ聞こえてきた。
〈プロセスは拒否されました〉
〈ファイル消去。自己プログラム起動。命令「リミッター解除」〉
〈解除不能。システムは人格パーソナリティ「フィリア」によってプロテクトされています〉
人格パーソナルコントロール起動。命令「フィリア消去」。解除コード「GksLCjkgnuFBhFSJj」〉
〈コードは認証されません。ガードプログラム作動。システムロック開始〉
破壊クラック破壊クラック破壊クラック……〉
 ガブリエルが自らの内部に集中しているうちに、クロードたちの痺れは回復し動けるようになった。奇妙な命令とそれに抵抗する命令とが交錯する中、彼らは怒りの形相のまま立ちつくすガブリエルを見た。
「どうしたんだ?」
「わからない……けど、これはチャンスかもしれない」
 クロードが目配せすると、仲間たちも頷いた。
「いくぞ!」
 セリーヌが詠唱を始め、クロードたちが再び武器を構える。またとない好機に、心臓が早鐘を打つ。彼らは待った。その瞬間を。
「エクスプロード!」
 セリーヌが唱えた。ガブリエルを中心に大気が凝縮され、一気に膨張する。爆発が華のように咲き乱れ、焔が男と天使の姿を覆い隠す。むろん、それで倒せるとは誰も思っていなかった。
 爆発がまだ治まりきらないうちにボーマンが駆け出した。ガブリエルの懐に潜りこみ、猛然と拳を叩きつけていく。最後の一撃を繰り出すと、すぐにその場を離れた。背後に控えるはオペラ。
 彼女はありったけのエネルギーを銃に注ぎ込んで砲撃を放った。さらにエルネストが鞭を振るい大気の渦を発生させてガブリエルにぶつける。渦は真空の刃となって男の身体を幾重にも切り刻む。
 ディアスが剣を掲げた。刃に炎が宿り、それを振り下ろすと炎は朱の鳥となってガブリエルに襲いかかった。そしてクロードが止めを刺しに走り出す。崩れゆく朱の鳥の向こうに赤毛の男の姿が見える。渾身の力を込めて彼は剣を振り下ろした。
 しかし、剣は途中で引っかかって止まった。反物質の刃は、ガブリエルの手に握られていた。信じられないようにそれを凝視するクロード。
「邪なる魂よ。どこまでも我を冒涜ぼうとくするか」
 ガブリエルは額から血を流しながら、言った。纏っていたコートも埃と血にまみれて汚れ、ほつれていたが、むしろその姿は凄絶な殉教者を思わせ、クロードはぞっとした。
 ガブリエルの指先に閃光が煌めく。と思う間もなくクロードは大きく弾き飛ばされた。剣が手から離れ、部屋の片隅に投げ出される。
〈悪しき者どもに相応しき地へ〉
 どぉん、と、なにか重いものが地面に落ちたような音がして、振動が起こった。ガブリエルを中心として、蜘蛛の巣状に亀裂が走る。程なくして地面が大きく揺さぶられ、亀裂が大きく口を開ける。
「うわあっ!」
 足場が急になくなり、奈落へと落ちかけたクロードは、咄嗟とっさに床にしがみついてどうにかやり過ごす。ホッとしたのも束の間、彼の背後で甲高い悲鳴が上がった。
「レナ!」
 彼女は足を滑らせて亀裂から落ちようとしていた。クロードは手前の亀裂を跳び越えてレナのところに駆けつける。赤いケープが地面の下へと沈んでいく。クロードは亀裂の縁に身を乗り出して手を伸ばした。その手がレナの手首をつかんだものの、彼女の重みでクロードも奈落へと引きずり込まれる。手首をつかんでいない方の手と両足で踏ん張って、腰から下はどうにか地面に残った。
「クロード!」
「待ってろ……すぐに……あっ!」
 レナの腕をしっかり握り直そうとしたとき、汗で滑って手首を掴み損ねてしまった。また落下しかけたところを慌てて掴んだのは、レナの四本の指先。これではレナも握り返すことはおろか、ろくに身体を動かすこともできない。
「クロード……」
 レナはクロードを見た。彼女はクロードの握った四本の指だけを頼みにして、そこにぶら下がっている。足許には暗黒の空間が、獲物を心待ちにした怪物の大口のように広がっていた。
「大丈夫。大丈夫だっ」
 自分にも言い聞かせるように、クロードはレナを励ました。歯を食い縛り、彼女の指先を必死に握りしめ、このまま引き上げようと腕に力を込める。だが、甲斐なくクロードの身体はさらに沈み、そのはずみで握っていた四本の指のうち、小指が外れた。
「くっ……くそっ」
「だめ。だめよ。あなたまで落ちちゃう」
 レナが青ざめた顔で言った。人差し指が外れる。
「もういいよ、クロード。手を離して」
「諦めるなあっ!!」
 クロードが顔を上げて叫んだ。その瞳から大粒の涙がこぼれて、レナの頬に落ちた。
「クロード……」
 レナは目を細め、うっすらと涙を滲ませた。そして、微笑みかける。
「ありがとう」
「レ……」
 二本の指が同時に外れた。少女のちいさな身体が闇の底へと吸い込まれていく。
 鮮やかな青い髪があっという間に暗黒の淵に沈んで、やがて消えた。
 クロードは上半身を床下に落としたまま、闇に突き出された自分の手と、その向こうに消えていった少女の幻影を、虚しい暗黒の空間の中に見出した。最後に見せたあの笑顔が、網膜に焼きついたまま離れない。凍えたようにガタガタと震えながら、彼は待った。ひたすら待って、時が経過して──どれだけ待っても、何も起こりはしない。しまいには自分が何を待っているのかもわからなくなった。僕はいったい、なにをしているんだ?
 衝撃が地面に伝わり、ぐらぐらと揺れた。誰かが戦っている。誰と? そう……ガブリエルと。
 クロードはレナの指を握った感覚がまだ残る手で、亀裂の縁に触れてみた。それは、今までとはまるで違う感覚がした。別の次元の別の世界のものを触っているようだった。両手をついて身体を起こし、傍らに落ちていた剣を拾い上げて、ゆっくりと、時間をかけて立ち上がった。そして顔を上げ、仲間を駆逐する天使を纏った男を見る。
 その途端、彼の中にあった凄まじいものが解放され、全身に流れ込んだ。カッと目を剥き、彼は理性をなくした獣のように吼えた。

 ガブリエル──────!!!

 クロードを中心として壮絶な闘気の渦が巻き起こる。ガブリエルと仲間たちはそれに気づいて振り向いた。
 そこで彼らは見た。両手で剣を掲げるクロードと、その頭上に現れた巨大な影を。猛々しく広げられた翼と、黒光りする鱗で覆われた胴体をもつ、黒き竜を。幻などではない。その竜は、確かにそこに存在していた。
「吼竜破が……昇華した?」
 ディアスは──そう、彼だけは、前兆を何度も目撃していた。クロードが吼竜破を放つ度に見た、黒い影。あの影が、クロードの手によって竜へと昇華したのだ。
 そして、この場の誰もが知らないことだった。かつて、ひとりの若き剣士が同じように黒き竜で敵を滅ぼしたことを。それは彼の遠き世界の友により、世代を越えて、ここに再び蘇ったのだ。
 ──戦いの記憶は、血によって受け継がれる。
 クロードの激情に呼応するように、黒き竜はあぎとを開いて咆哮をあげる。全身に電撃がみなぎり、火花がばちばちと爆ぜる。
「くらえいっ、黒竜天雷破あぁッ!!」
 クロードが剣を振り下ろすと、竜は漆黒の翼を翻し、稲妻を纏いながら赤毛の男と天使に襲いかかった。鋭い牙がガブリエルを捉える。轟音とともに物凄まじい電撃が炸裂し、光が部屋を鮮烈に満たす。黒竜はなおもガブリエルに食らいついて放さず、そのまま崩壊紋章の横まで引きずると、そこでようやく口を開いて放した。地面に落とされた瞬間、ガブリエルの背中から天使の姿がすうっと消えた。役目を終えた竜は上空に昇っていき、天井の闇にまぎれて消えていった。
 ガブリエルはうつぶせに倒れたまま、ぴくりとも動かない。黒竜が浴びせた電撃で髪も服も無残に焼き焦げ、そこから黒い煙が立ちのぼるばかり。それを確認するかしないかのうちに、クロードは膝をつき、両手をついて項垂うなだれた。
 すべては、終わった。でも、これじゃあ何にもならないじゃないか……!
 床を引っ掻くようにして拳を握りしめ、ギュッと目を瞑る。瞼から滴がひとつぶ落ちて、床に吸いこまれる。
「倒した……のか?」
 ボーマンが、セリーヌが、クロードの許へと集まる。彼はまだ膝と手をついて、地面を睨んでいた。
 戦いの終焉しゅうえんを誰もが確信したそのとき、それは勃然と起こった。
「!!」
 不意に食らった衝撃にクロードは一瞬にして壁に叩きつけられた。自分の身に起きたことを考えるひまもなかった。立とうとしても、身体が重くて思うようにいかない。まるで全身に鉛の枷をつけられたようだった。壁際で這いつくばり、どうにか顔だけ上げると、他の仲間たちも同じように壁の隅で身動きがとれないでいた。
 そして前に目を向けると、崩壊紋章の傍らに倒れていたガブリエルの身体から、おびただしい霊気が放出されていた。背中がピクリと動き、まるで糸で吊った人形のように頭が持ち上がる。そして両手をだらりと下ろしたまま、人間らしからぬ動きで身体を起こす。その両眼は身震いするほど鮮やかな紅色に輝いていた。
「そんな……まさか」
 死んでなかった? 天使は消えたというのに。
〈貴様が殺したのは、フィリアであった一部のみに過ぎぬ〉
 クロードの心の問いに答えるように、声は言った。
〈フィリアは我を制御するリミッターでもあった。それが消滅した今、我は内なる能力を凡て解放し、貴様らの魂をおぞましき煉獄へと導いてやろう〉
 突如として足許の床が崩れ落ちる。床だけではない。壁も崩壊紋章も向こうの空や山並みさえも、まるで何もかもが扁平へんぺいな硝子板であったように、幾千幾万もの破片となって消滅していく。なすすべもなくクロードは闇の中を落ちていく。いや、上昇しているのかもしれない。横に揺さぶられているのかもしれない。その世界は実感覚というものに乏しかった。
〈聴け、聖なる音色を。森厳たる歌を。そしてるがよい。必定ひつじょうにして絶対たる神の力を〉

 そこで意識は閉ざされ、彼らは闇に

 闇に呑まれ

 まれ

 れ


 た。



 彼の前に、巨大な門が建っていた。
 実際に「前」にあったかどうかはわからない。だが、不吉に口を開けた門の上部に刻まれた碑文は、まるでその一字一字が頭の奥深くに吸いつけられるように、はっきりと読みとることができた。
『我を通るものは苦悩の都市まちに至る
 我を通るものは久遠くおん苦患くげんに至る
 我を通るものは絶望の民の許に至る
 正義が崇高なる建造者を動かし
 我を神の権力と最高の叡智と
 そして至上の愛の象徴とした
 我より前に創造されたるものはなく
 我は永遠とわに存在するであろう
 我を入る者は一切の希望を捨てよ』

 門を潜ると、そこには対岸が見えないほど大きな河が流れていた。決して抗えぬ力に従うまま河を渡り、さらに進むと目の前に異形の怪物が現れた。
〈あらゆる罪状を吐露し、ミノスの裁きを受けよ〉
 怪物の尾が伸びて、彼の身体に何重にも巻きつく。恐ろしい力で締め上げられ、全身の骨が砕けるのを感じた。激痛と恐怖に堪えかねて、彼は悲鳴を上げた。

 彼は風に流されていた。そう、まるであのルシフェルの戦いのように。黒い風は絶えず流れを変えて彼を弄ぶ。
〈浮名を流したる輩は止む事なき風に流され、身体を苛む〉
 そこに痛みはなかった。だが、まったく別の苦痛があった。永久に流され、翻弄されることへの不安、焦燥、苛立ち……それが堪えきれないほど大きく膨れあがったとき、彼は自らの存在と運命を嘆くことになる。

 その地には、冷たいみぞれが降っていた。視線を感じて振り向くと、背後に巨大な獣が立ちはだかっている。
貪食どんしょくの罪人はケルベロスの餌食となる〉
 そいつは三つの頭と六つの目で彼を見下ろした。そして中央の一頭が大口を開けて彼の胴体に食いつくと、両端の二頭がそれぞれ頭と脚に噛みついた。牙が柔らかな腹や頸や腿を引き裂いて、大量の血が獣どもの喉を潤した。彼は喉を潰さんほどの絶叫を上げ、あえなく失神する。

吝嗇りんしょくと浪費は相対する罪なり。互いは互いを理解できぬまま、回り続ける〉
 彼は大きな袋を引きずりながら歩いていた。どこかへ通じているわけでもない、輪になった道をひたすら歩き続ける。袋の中身は知らないが、とても重かった。そのうちに別の誰かと正面からぶつかった。ふたりは同じようにして立ち止まると、それぞれくるりと向きを変えて今来た道を引き返していく。自分はあの者が到底理解できないし、向こうも自分のことは理解できない。だから道は譲れない。

〈憤怒を忘れぬ者は泥にまみれ淵より泡を吐く〉
 足許に澱んだ沼が広がった。彼は沼に落ち、汚い水を呑みながら底へと沈んでいく。肺に水が侵入し、意識が混濁する。暗く深い、沼の底へと彼は堕ちていった。

〈邪教を渇仰かつごうせし者は永遠とわの眠りを業火によって妨げられる〉
 彼は狭い石棺の底に横たわっていた。やっと安らかに眠れると安堵していたら、だんだんと棺の中が熱くなっていく。横の壁に触れると掌は一瞬で焦げてしまった。このままでは蒸し焼きにされてしまう。彼は慌てて起き上がり、内側から棺の蓋を押した。蓋はびくともしない。ならばと指を突き立て爪を食い込ませて、頭上を塞ぐ一枚岩を必死に退かそうとする。重い蓋が鈍い音を立てて動いた。しかしそれで喜んだのも束の間、蓋がずれて空いた隙間から怒濤のごとく炎が流れ込んできて、棺の中はあっという間に灼熱に満たされた。彼は自分の肉が焼け焦げ、熱に冒され骨まで溶けていくのを感じた。

〈暴力は並べて重き罪なり。自らが流した血に浸かり、その罪をあがなうがよい〉
 赤いどろどろとした水の中に、彼は落とされた。それは血だった。ぐつぐつと溶岩のように煮えたぎる血の池のただ中で、彼は藻掻いた。目の前に広がる、赤、赤、赤……それはもはや痛みを超越して、重く深い絶望ばかりが彼の意識を蝕んだ。

欺罔ぎもう者はそれぞれに相応しき責め苦を受ける〉
 そこではまるで彼をなぶり者にするかのように、次から次へと死よりも辛い苦痛が襲いかかった。怖ろしい悪魔に鞭で打たれ、汚物に漬けられ、火の雨を浴び、重荷を背負って引きずり回され、無数の毒蛇に噛まれ、剣で無残に斬りつけられる。彼はすっかり打ちひしがれ、自らが存在していることを激しく呪った。

 打ちひしがれた彼を、魂までも凍りつかせる吹雪が襲う。そこは世界の果て。世界の終わり。
〈叛逆は最大の罪なり。汝が堕ちる地は何処であるか。
 肉親を手にかけしカインによる第一円カイーナか。
 売国奴アンテノルによる第二円アンテノーラか。
 毒盛りの宴を開きしトロメオによる第三円トロメアか。
 偉大なる師に叛きしユダによる第四円ジュデッカか〉
 何も見えず、何も聞こえない場所で、身動きもとれず強烈な冷気にさらされて、彼の意識は遠のいていく。だが、そこに見るも険悪な化物が現れると、彼の目に再び恐怖が宿った。三つの顔と六つの翼を持った化物は、手に持った大金槌を振りかざし、氷の塊と化した彼に容赦なく打ち込んだ。身体は粉々に砕かれ────。



 ガブリエルは、大宇宙の中心に立っていた。周囲には数多の星や銀河や星雲が、闇の孤独を紛らすように輝いている。崩壊紋章は彼の背後で、翡翠色の光を放出しながら浮かんでいる。それは宇宙に蔓延はびこる奇妙な恒星のようでもあった。
 彼の周囲に、六人の人間が惨たらしい有様で倒れていた。息も絶え絶えに、あるいはほとんど息をしていない者さえある。顔は血に染まり、濁りきった瞳がうつろにどこかを見つめる。皮膚はただれ、あるいは凍傷に冒され、元の形状がわからないほど大きく膨れあがっていた。
 クロードの霞んだ両眼は、灰色の宇宙を映じていた。もはや指一本動かす力も残されていない。このまま、じっと最後の時を待つしかないのか。
 ──結局、何もできず、何も救うことはできなかった。
 仰向けになった彼の目尻から涙がこぼれ、蟀谷こめかみを伝って流れていく。
 あの地獄は、ガブリエルの「絶望」そのものだったのかもしれない。愛する娘を失くしてから、彼はずっと心に地獄を抱いたまま生きてきたのだ。そう思うと、クロードは初めて敵に憐憫れんびんの情を抱いた。愛するものを失い、同様の立場に立たされることによって、初めて彼のことが理解できた。そう、すべてはこの絶望から始まったのだ。
 陽が沈み、暗い夜がやってくるように、灰色の宇宙は意識の底に沈み、闇に溶け込まんとしていた。残酷なほどゆっくりと、黒い幕が降ろされていく。
 彼は、静かに死にゆこうとしていた。

 ────…………?

 風が最後のともしびを吹き消す寸前に、クロードは一条の光を見た。
 光は痛いほど瞼に突き刺さり、失いかけた意識がわずかながら押し戻される。広大な宇宙を漂う仄かな白い光。それは六つの塊に分かれて、それぞれ別の場所に散っていく。そのうちのひとつが、クロードの胸の上に降りてきた。
 光の塊は弾けるようにぱあっと飛散し、無数の煌めく粒となって降りそそいだ。その一粒一粒が、腕や脚や身体のあらゆる部位に触れると、そこから波紋のように光が広がり、クロードは、いや六人の人間は、月光のように皎々こうこうとした輝きに包まれた。重い火傷が、凍傷がみるみるうちに癒され、どれほど深い傷口であろうとも一瞬で塞がってしまった。流れ出た血さえも肌に吸収されるようにして消えていった。
「まだ、終わりじゃない。終わりにしてはいけない」
 彼らは立ち上がり、そして見た。彼方よりこちらへ降りてくるひときわ大きな光を。その中心に立つ、麗しき娘の姿を。
「…………!」
 クロードの瞳に訳もなく涙が溢れた。仲間たちも茫然と見蕩みとれている。それは紛れもなくレナだった。だが、それは彼らの知っている、いつも愛らしい笑顔を振りまいていた少女ではなかった。透き通った青い髪。光を受け輝いて見える白い肌。両の瞳は瑞々みずみずしく、微かに開いた唇は朝露に映える花のように艶やかで、かつ清澄さに満ちている。そう、それはまさに女神さながらの姿だった。
 神気を身に纏いながら地面ならぬ地面に降り立つと、レナは音では聞こえないことばを口走った。するとその横の宇宙が歪み、空間をこじ開けるようにして誰かが現れた。
「なんとか間に合ったようですね」
 汗を拭いながら現れたのは、ノエル。背後にはナールとミラージュの姿もあった。
「ッたく。何だよこの空間は。足元が落ち着かないったら」
 ミラージュは足の裏で見えない床を何度も叩いて、用心深く足場を確認している。
「みなさん、大丈夫ですか」
 ナールの呼びかけにクロードはひとつ頷き、そしてなによりも、レナの前に立った。
「レナ……」
「クロード」
 すっかり普通の少女に戻ったレナは、にっこりと笑った。
「なんだか、まだ信じられないけど……無事だったんだ」
「お母さんが、守ってくれたの」
 そう言って、胸許のペンダントを握りしめた。
「俺たちも驚いたよ。天井からいきなりレナが落ちてきたんだから」
 と、ミラージュ。他の者もその場に集まってきた。
「崩壊紋章の対策は、ちゃんとできたんですの?」
 セリーヌがナールに訊ねる。
「ええ。そちらは心配ありません。ですから、後は……」
 彼らの視線はガブリエルに向けられた。赤毛の男は首を落としたまま沈黙している。
「ガブリエルはリミッターを外した反動で、極端に力が落ちている」
 レナが神妙に言った。どうしてそんなことがわかるのか不思議だったが、それも彼女の秘めた能力によるものなのかもしれない。
「今は休息して力を回復させてるんだと思う。倒すのは今しかないわ」
「よし」
 クロードが仲間を見渡した。彼らも意を決してクロードを見返す。
「これで終わらせよう」
 壮大な星の海スターオーシャンを舞台にして、彼らは最後の敵に挑んだ。
 切り込み役のディアスが駆け出し、クロードが後に続く。それを察知したように、突然ガブリエルが顔をもたげ、眸が再び強い光を放った。
〈神罰を受けしもなお藻掻くか、罪人よ。ならば肉体のみならず魂をも砕き、未来永劫にも及ぶ重苦を与えてくれよう〉
 そうして周囲に強力な波動を繰り出す。赤紫に輝くそれは同心円状に広がり、クロードたちの攻撃を妨げる。セリーヌが離れた場所から呪紋を唱え、オペラが光弾を放った。人間たちはありとあらゆる攻撃を仕掛けるも、ガブリエルにはまるで通用しない。ディアスが相手の衝撃波の合間を縫って至近距離から放った鳳吼破も、片手一本でかき消されてしまった。一方、ガブリエルはほんの一言詠ずるだけでたちまち雷が落ち、炎の嵐が吹き荒れる。その恐るべき威力に星々は歪み、時空間が乱れて一帯に白いノイズが飛び交う。ボーマンがノエルがエルネストが持てる力のすべてを注いで反撃するが、いずれも空しく弾かれ、打ち消されて逆に手酷いしっぺ返しを見舞われてしまう。
 何度目かのガブリエルの衝撃波で突き飛ばされたクロードに、レナが駆け寄って治療を施す。立て続けに回復呪紋を唱えたせいで、彼女自身も辛そうに息を切らしていた。
「くそっ、攻撃が通じないんじゃ、どうしようもない」
 クロードは立ち上がって歯軋りした。人間たちは傷つきながらも執拗に攻撃を繰り返し、そして倒れてゆく。誰もかもが、限界ぎりぎりの線で戦っていた。
「みんな疲れてる。傷ついてる……。回復が追いつかない」
 レナも疲労を表情に滲ませながら、辺りを見回す。
「反物質が効かないんじゃ、もう打つ手はないよ」
 ミラージュも思案に暮れた。だが、その言葉でクロードはあることを思い出す。
「……いや、まだ手はある」
 そう言って、ミラージュの方を向いた。
「そうですよね。ミラージュさん」
「あんた、まさか……」
 ミラージュが眉根を寄せる。その反応でレナも感づいた。
 反物質の武器をクロードに渡したとき、製作者である彼女はあることを補足して伝えた。そう、あの剣には……。
「だめよ、クロード!」
 レナが声を張り上げた。あの剣には、刃を構成する反物質を全て解放させる装置が備わっているのだ。
「それだけは絶対にやってはいけないわ。どんな理由があっても、自分から命を捨てるなんて」
「まだ死ぬと決まったわけじゃないさ」
「でも……」
 レナは助け船を求めて視線を彷徨わせたが、ミラージュは腕を組んで素知らぬふりをしており、ナールはその隣で瞑目したきり口を閉ざしている。
「僕は死なないよ。必ず戻ってくる。だから……僕を信じて」
 クロードが言った。レナは凛然とした顔を見つめる。そして思った。
 ──ああ、やっぱりこのひとは勇者なんだ。
 物心ついたときから憧れていた光の勇者。アーリアではきっぱり否定したけれど、やっぱりクロードは私の大好きな、優しくて勇敢な勇者様だったんだ。
 レナは目を逸らすと、そっとペンダントを外し、背伸びをしてクロードの首にかけた。翡翠色の飾り石がクロードの胸許に落ちる。
「これは……?」
「お守りよ」
 レナはそれだけ言うと、あえて快活に笑ってみせた。
「今までだって、クロードは一度も約束を破ったことはないものね。ずっと一緒にいてくれたし、戻ってくるって言ったら必ず戻ってきてくれた。だから、私はクロードを信じる」
「……ありがとう」
 クロードは目を伏せる。そして、踵を返してガブリエルと向き合った。
「みんな、奴の動きを止めてくれ! ほんの一瞬でいい。僕が突撃する時間を作ってほしい」
 彼の言葉に、仲間たちは頼もしい笑顔で頷いた。彼らはクロードを信じた。クロードも、仲間を信じてその時を待った。
 人間たちは死力を尽くしてガブリエルを封じ込めにかかる。光弾を浴びせ、ありったけの火薬をぶちまけ、真空の刃を巻き起こしてどうにか相手の動きを止めようとする。全てはクロードの一撃のために。
 電光石火の早業でディアスがガブリエルの赤毛を数本切り落とす。そしてセリーヌを見た。長い詠唱を終えた彼女は燦然と杖を掲げる。そこに集中した凄まじい紋章力に、杖は耐えきれず呪紋の発動と同時に粉々になった。
「メテオスォーム!」
 宇宙空間の一角に大小さまざまな隕石群が出現し、まるで号令をかけたように一斉にガブリエルに降り注いだ。ガブリエルは障壁をつくって頭上に落ちる岩の雨を防いだが、その中でも最も大きい隕石が落ちたとき、僅かに身じろぎをして怯む様子を見せた。
 ──今だ!
 彼らはクロードを見た。クロードは既に駆け出していた。剣の柄についているスイッチに手をかけながら。ガブリエルはすかさず波動を放つ。ディアスが吹き飛ばされ、ボーマンたちも弾かれる。だが、クロードは耐えた。ジャケットが破れ、全身を切りつけられて血が噴き出そうとも足は止めることなく、ついに彼は力ずくで衝撃波を突き抜けた。
 紅の瞳を見開くガブリエルを前にして、クロードは剣を振り上げ、柄のスイッチを押しながら一気に振り下ろす。レナが両手を組んで目を瞑る。少女の祈りは強い想いとなってペンダントに伝わり、クロードの胸許で石が白熱する────。


 光が、爆発した。


 レナは顔を上げ、少しずつ目を開けてみた。
 そこにはクロードが放心したように立ちつくしていた。
 何も握られていない手を、ももの横に垂らして。
 彼の手前には、煙のように揺蕩たゆたう光が立ちこめている。

 と、星の輝きの合間から、別の光が降りてきた。
 光は清らかな娘の姿をしていた。
 娘は光の霧の上に舞い降りると、そこから光に向けてなにか囁きかける。
 それまで実体のなかった光がたちどころに凝縮され、初老の男の姿となった。
 男は娘の姿を認めると感極まったように涙を流し、娘にすがりついて泣きじゃくった。
 娘は慈しむような微笑を浮かべ、優しく抱きとめる。
 子供を慰撫する母親のような仕種で。
 ふたつの光は誘い合うようにして天空へと舞い上がり、宇宙の闇の中へと消えてゆく。
 どこまで行っても、決して離れることはなかった。

 クロードはそれを見届けると、振り返り、静かに歩き出した。
 レナのところには先に仲間たちが集まっていた。一同、笑顔でクロードを出迎える。
「ごめん、レナ。これ……」
 クロードが開口一番に言ったのは、ペンダントのことだった。彼が示した胸許に翡翠色の石は、ない。あの一撃のときに、跡形なく消滅してしまったのだ。
 レナはきょとんと目を丸くして、それからほころぶように笑った。
「なに言ってるのよ」
「でも、大事なものだったんだろ」
「それは昔の話。今はもう必要ないわ。お母さんは、いつも私のそばにいるんだってわかったから」
 そう言うと、クロードに近づき、その胸に額を押しあてる。
「おかえり、クロード」
「……ただいま」
 小さな背中に手を当てて、クロードは言った。
 そのとき不意に、轟音を立てて宇宙が揺れた。
「なんだぁ!? 宇宙の終わりか……ってッ」
 ボーマンがたたらを踏みながら叫んで、舌を噛んだ。
「この宇宙空間はガブリエルが創ったまがい物だよ。実際にはネーデが揺れているのさ」
 と、ミラージュ。
「それって……まさか」
 彼らは翡翠色の球体を見た。先程まで激しく動き回っていたパネルは、不気味に静止していた。
「崩壊紋章が発動したみたいだね」
 この状況に似つかわしくないほど冷静に、ミラージュが言った。
「たぶん、ガブリエルの死と同時に作動するようになっていたんだろう」
「落ち着いてる場合じゃないでしょ!」
 オペラが声を張り上げた。
「大丈夫です。私たちにお任せください」
 ナールはそう言うと、ミラージュを伴って崩壊紋章の前まで歩いていく。
「どうしようってんだ……」
 皆が見守る中、ナールとミラージュは両手を翳して呪紋を唱え始める。
 しばらくすると、ふたりの手の中間あたりに一枚の光のパネルが生じた。崩壊紋章に組み込まれているものとまったく同じだ。パネルは徐に浮かび上がり、球体の然るべき位置に填ると、全体が激しく明滅しだした。地面の揺れはますます激しくなっていく。
「どうした。失敗したのか?」
「いえ、成功です」
 崩壊紋章の下で、ナールが言った。
「崩壊紋章はこのエナジーネーデを崩壊させ、そして消滅します。宇宙は救われました」
「なっ……どういうことですか?」
 クロードが息巻いた。ネーデが崩壊?
「一度発動しちまった崩壊紋章を止めるのは不可能なんだよ」
 未だ両手を翳したまま、ミラージュが言う。
「できるのは、崩壊の対象をずらすことだけだ。だから俺たちは、紋章の命令を『宇宙の崩壊』から『ネーデの崩壊』に書き換えた」
「そんな……!」
 彼らは驚愕した。言葉をなくして、唖然としたまま立ちつくす。
「崩壊紋章はネーデが生み出した負の遺産です。その責任は我々が負わねばならないのですよ」
「だからって……」
「気にすることはないよ。ネーデはとっくに寿命が来ていたんだ。それこそ十賢者が現れた時代に滅ぶべきだったのかもしれない。これまで進化も退化もなく、ダラダラと停滞の歳月を費やしてきたけれど、そろそろ終止符を打つときが来た。それだけのことだよ」
 その言葉に、彼らは何も言い返すことはできなかった。それは悠久を生きた者たちだけが共有することのできる、感情なのかもしれない。
「お約束した通り、エクスペルは宝珠の力で復活させます。そして、あなたがたも一緒にエクスペルにお送りします。崩壊紋章の余りあるエネルギーを利用すれば時空間転移は可能ですので」
 ナールがそう言ったとき、レナははっとした。
「ネーデのひとたちは? ナールさんやミラージュさんはどうするんですか?」
「俺たちはこの通り、手が離せないんでね」
 ナールとミラージュは、崩壊紋章の下で支えるようにして両手を広げている。球体はふたりを威嚇するかのように明滅を繰り返す。
「本来ならすぐに発動してしまうところを、なんとかこうして食い止めて時間を稼いでいるのです。さあ、もう時間がありません。ノエル博士」
「……はい」
 クロードたちは驚いてノエルを見た。彼は既に四つの宝珠を腕に抱えていた。
「僕が時空転移シールドを張ります」
 そう言って、宝珠を地面に置いていく。
「ノエルさん。まさか、こうなることを……」
「ええ。わかってました」
 ノエルは淡々と、だが力のこもった声色で語った。
「僕だけじゃない。ネーデ人はみんな、こうなることをわかっていた。知っていて、あえて君たちを送り出したんだ。だから君たちのしたことは背信じゃない。背信は、むしろ僕らの方だった。……今まで黙っていて、すみません」
「どうして、教えてくれなかったんですか」
 レナが憮然としたように訊いた。
「教えたら、あんたたちはどうしてた?」
 ミラージュが反問する。
「『宇宙をぶっ壊さないためにはネーデを潰すしかない』って、あらかじめ知ってたら、あんたたちはきっとためらっただろう。下手すりゃ十賢者への戦意すら喪失しかねない。だから言うのはやめておいたのさ。……くっ」
 ミラージュが苦しそうに顔を歪めた。崩壊紋章はもはや直視できないほど強烈な光を放出し、それと連動して振動はますます大きくなる。
「おしゃべりはここまでだ。こちらもぼちぼち限界なんでな。さァ、とっととやっちまいな!」
 彼女に急かされて、ノエルはすみやかに宝珠の前に立ち、両手で印を結んだ。四つの宝珠がひとりでに浮かび上がり、互いに距離を置くようにして散っていく。三つの宝珠は彼らを取り囲むように、そして残るひとつは頭上の一地点に固定された。そうして、それぞれ他の宝珠に向けて赤い光線を放つ。すべての宝珠が線で結ばれると、その場にクロードたちを閉じこめた正四面体ができあがった。
「その中にいれば、崩壊紋章のエネルギーを宝珠が吸収して、同時に復活するエクスペルに転送されるはずです」
 四面体の外側で、ノエルが言った。
「では、発動させます」
 ノエルが再び印を結んで唱える。宝珠が細かく振動しだす。それを確認すると印を解き、肩の力を抜いて大きく息をついた。そして、クロードの顔を、レナの顔を、仲間たちの顔を見渡すと、口許を緩めた。
「お別れです」
「ノエルさん……」
 瞠然どうぜんとして、クロードが呟いた。
「みなさん、お元気で」
「じゃあな。あんたたちに会えて、俺も楽しかったよ」
 崩壊紋章の光に半ば呑まれながら、ナールとミラージュも言った。ふたりは微笑を浮かべたまま、球体を支えていた腕を降ろす。空間全体が光に包まれ、ついに発動が開始する。
 その間際、四面体の内側からさっと腕が伸びた。腕は外側に立っていたノエルの手首を掴むと、そのまま彼を四面体の中へと引きずりこむ。
「な、なにを!?」
 腕の主はクロードだった。動転するノエルに、悪戯っぽく笑いかける。
「放してください。僕は……」
「ノエルさんは」
 クロードは言った。
「僕らの仲間です」



 ネーデは消滅した。

 三十七億という歳月と、その間に生みだされた幾多の負の遺産とともに。