■ 小説 VALKYRIE PROFILE


3 ベリナス

 後悔ばかりの人生だった。
 理由も目的もなく、世情という至極不安定なものに右顧左眄うこさべんしてきた。
 何が正しくて、何が誤りなのか。その判断すらも、私は放棄していた。
 矮小なる存在よ、願わくば、その魂は不朽のものであらんことを。

 道端の花を、彼女は眺めていた。
 大通りへと続く小径だった。申し訳ばかりに敷かれた石畳は風雨と人の足によって磨り減り、砂埃にまみれている。その両脇には誰の手によるものでもない、完全自然の花畑が続く。
 私が立ち止まり、振り返ると、彼女ははにかんだような笑顔を私に向ける。
「きれいな花ですね、ベリナス様」
 一輪の花の前に屈んで、その花を摘み取ると、私に見せて云った。
「この花、なんていうか知ってます?」
 白い花弁が五枚、細い茎の先についている。私は花の名など知らぬ。彼女も答えを期待して訊いてきた訳ではないのだろう。
「阿沙加」
 私は彼女の名を呼んだ。
「そんなに行きたくないのか?」
 阿沙加は花を握ったまま俯いた。私は嘆息する。
「行くぞ」
 軽く云って歩き出す素振りを見せても、阿沙加はそこに座り込んで、花を見詰めている。
 次第に苛立ってきた私は、彼女の前につかつかと歩みより、手に持っていた花を奪った。
「返してください!」
 阿沙加は立ち上がり、私に縋りついて訴えた。無表情に見詰め返していると、慌てて離れ、力なく項垂れる。
「人の売り買い、好きじゃないです。見るのも嫌」
 か細い声で、云った。
「行きたくない」
 私は息をつき、それから彼女の肩に手を置いた。
「もう妻もマリアもいないんだ。お前一人で屋敷を切り盛りするのは大変だろう。だから……」
 だから、奴隷を買いに行く。
 そうはっきりと云えない己が、情けなかった。
「ベリナス様に買われる人は、幸せ。それはいいの。でも、他のみんなは可哀想」
 阿沙加は云った。
「わたし、見たくない」
「阿沙加に選んでほしいんだ。召使いといえども、これから共に暮らしていくことになる。だから、お前が気に入った子を……」
「それが嫌なんです! わたしの一言が、その人の一生を決めてしまうなんて……」
 私は吐息を洩らした。今日だけで一体何度溜息をついたことだろうか。最近はどうにも憂うべきことが多すぎる。
 不意に私は、阿沙加から奪った花をまだ握っていることを思い出した。……そうだ。
「花にも、運命がある」
「え?」
 不思議そうな顔をする阿沙加の前に花を翳してみせて、私は云った。
「お前はここにある草花の中からこの花だけを選び、摘み取った。召使いを選ぶのと、花を選ぶのとではどう違う?」
「あ……」
 阿沙加は理解したらしく、目を伏せた。
「この花はお前によって選ばれ、私の手に渡った。そして……」
 私は花を彼女の髪に挿した。白い花は、艶やかで豊かな黒髪によく映えた。
「これが、この花の運命だったのだ」
「うん、めい……」
 阿沙加は譫言のように呟いた。
「そう。神によって定められし運命。なにものも抗えず、変えることのできない――」
 定められし運命。
 最初にそう教わったのは、何時のことだったろうか。
 幼い頃の私は、それを何の疑問も持たずに信じていた。
 すべては神が決めること。我々は、ただそれに翻弄されて生き続けるしかない。
 満ち足り、満ち溢れていた時分には、それは栄光への約束のように思えた。
 しかし、年を経、一つ、また一つと失うものが増えるにつれ、その教えは逆に枷となって私を苦しめた。
 父や親しい友人らは、戦火に焼かれて皆死んだ。
 妻も急逝し、マリアも訳がわからぬまま死んだ。
 そして、私は阿沙加と出逢ってしまった。
 もし、これらが凡て、運命だというならば。
 私は斯様に定めた神を――心の底より憎むだろう。

 あれは、一体どれほど前のことだったろうか。
 過去の記憶は、砂浜に打ち晒された貝殻のように散在していて、どれがいつのものなのか、まるで判らなくなっていた。
 あの日、私は自室で本を読んでいた。自虐的な男の著による自虐的な男の物語だ。私はその本を頻繁に取り出しては読み耽っていた。誰の為でもなく、自らの保身がゆえに自身を滅ぼさずにはいられない男の悲痛な心の叫びは、当時の私にはひどく共感できたのだ。
 そのとき、階下で父の怒鳴り声が聞こえた。マリアの声も聞こえる。私は本を閉じ、部屋を出た。
 吹き抜けの廊下の手摺から身を乗り出して下を見ると、扉の前で父が仁王立ちになっている。その足元には蹲って怯えるマリアと……見慣れぬ少女がいる。マリアに抱かれて同じように怯える、風変わりな身なりの少女。あの子は誰だ?
「どういうつもりだ、マリア」
 父が先程の剣幕の余韻を残したまま、云った。
「儂はお前を信頼しているからこそ、家の金を全てお前に預けている。だのに、その金で頼んでもいない奴隷を買うとは何事だ!」
「申し訳ございません。申し訳ございません」
 女中のマリアは顔も上げられずに、ただ打ち震えて何度も謝っている。
「見ていて、あまりにも可哀想だったものですから……。しばらく給金はいりません。ですから、なにとぞ、なにとぞこの子を家に置いてやってくださいませ……」
「ならぬ。マリア、お前が責任もって返してこい」
「父さん」
 私は階段を降りて、その場に割って入った。
「いいじゃないか。小間使いとして雇ったとことにすれば。ちょうど人手も足りなかったことだし」
「しかし……」
「それとも、わざわざ買った奴隷を返して、世間に『あの家は奴隷一人買う金もないのか』と思われたいのですか?」
「む……」
 父は言葉を詰まらせた。世間。この言葉に父は弱いことを私は重々知っていた。
「……まあいい。給金はこれまで通りだ。その代わりそいつの面倒はお前がみるんだぞ」
 マリアにそう云い捨てると、扉を開けて出ていってしまった。
 父がいなくなると、ようやくマリアの震えも治まり、腕の中の少女を放した。
「マリアも無茶するねぇ。家の金を勝手に使うなんて、僕でもできないよ」
 私はからかい半分に云った。
「すみません、坊ちゃん」
「いや、いいよ。それより、この子の名前は?」
「それが、先程からずっと口を利いてくれなくて……恰好から、倭人であるとは思うのですが」
「倭人か」
 話には聞いていたが、見るのは初めてだった。黒髪に袷の羽織物。起伏の少ない顔立ち。確かに伝え聞いた通りだ。
 私は少女の前に屈み込んで、優しい声色で話しかけた。
「こんにちは」
 少女はほんの僅かばかり顔を上げ、腫れた目で私を見た。先程まで相当泣いていたのだろう。
「大丈夫。恐い人はもういないから……」
 小さな頭を撫でてやると、少女は強張っていた身体を少しだけ緩めた。
「きみ、名前は?」
「……阿沙加……」
 ようやく口を開いてくれたので、思わず私もマリアも破顔してしまった。
「アサカ、か。よし。ここは寒いだろう。こっちへおいで」
 私は立ち上がって、右手を差し伸べた。少女はおずおずと手を置く。その手は女の子のものとは思えないほど骨張り、あかぎれの赤い筋がいくつも走っていた。
 彼女の痛々しい手を見ながら、私は思った。
 この子は、故郷で一体どのような暮らしをしていたのだろうか。
 そして、この街に来るまでの間、どのような扱いを受けていたのだろうか。
 奴隷となった者の心の痛みを理解することはできないだろうが、痛みを分かち合うことはできる。まだ若い私はそう信じていた。だからこそ、私はこの子の痛みを少しでも受け止めてやろうと心に誓ったのだった。
 それが、そもそもの誤りだった。
 素直に奴隷は奴隷として、突き放して憐れむべきだったのだ。
 なまじ愛情を持って接しようと思ったばかりに、流れは濁り、私も阿沙加も間違った方向へと流されてしまった。
 神に問う。凡ては運命なりや?
 さりとても、我はそれを信じぬ。
 決して信じてなるものか――!

 結局、召使いにできそうな奴隷は見つからなかった。私達は無言のまま屋敷へと戻った。阿沙加は奴隷を選ばずに済んだことに内心安堵したようで、来た道を戻る足取りも幾分軽やかだった。
 私は自室に隠り、役人としての仕事に取りかかった。だが、どうにも筆を握る手が重い。仕事に気が入らない。しばらくすると書類も筆も投げ出し、席を立って背後の窓から外を見た。
 小径の脇、日溜まりの花畑で、子供たちが棒きれを手にじゃれ合っている。おそらくここいらの貴族の子息たちだろう。糊の利いたシャツにチョッキ。ひとつの皺もないズボン。それは彼らの幸福を象徴していた。そしてこれからも幸福な人生であることを、微塵も疑わないだろう。
 戦に赴き、死にゆく運命であると、誰が想像できようか。
 家が没落し、卑しき身分へと貶められる運命であると、誰が信じられるだろうか。
 そして、心を開ける友人や家族をことごとく失い、一人孤独に生きてゆく運命であると、誰が認めることができようか。
 かつて愛読していた本の一節が、不意に脳裏を過ぎった。

 ――過去とは、残酷のことだ。現在とは、地獄のことだ。未来とは、絶望のことだ。
 ――信頼は、裏切られる為にのみ存在する。云うなれば、慢性的な罪だ。
 ――周囲にいるのは人間ではない。狡猾なけものだ。老獪な化け物だ。その怖ろしさに、私はただがたがたと震えるしかない。
 ――人間らしい生を! そして、人間らしい死を!

 あの頃は漠然としか共感できなかった文章が、今では明瞭に実感を伴っている。何故だ。
 不幸。
 そうか。私は不幸なのだ。だからあの不幸な男の物語に既視感めいた感覚を覚えるのだ。
 自分が不幸であるなど思ったこともなかったが、確かに他人は、私のような境遇を「不幸」と称するのだろう。
「ベリナス様」
 ドアをノックして、阿沙加が部屋に入ってきた。
「お茶をお持ちしました」
「ああ。ありがとう」
 私は振り返って、云った。
「何を考えてらしたのですか?」
 阿沙加が机に白磁のカップを置きながら訊いた。
「うん。色々とな」
 私は生返事をした。阿沙加はこちらを見て軽く首を傾げたが、すぐに銀のトレイを抱えて扉へと振り返る。
「あら? なにか落ちてる」
 阿沙加が扉の手前で屈み込んで、何かを拾い上げた。
「綺麗な羽根……でも、どうしてこんなところに?」
「羽根だと?」
 私が怪訝そうに訊き返すと、阿沙加はそれを持って机の前に戻ってきた。
「ベリナス様、お心当たりあります?」
 私は羽根を受け取って、しげしげと眺めた。純白の羽根。その白さは圧倒的で、この世ならぬ清廉さすら感じさせた。
「いや……私もわからないが……」
 眩いばかりの白をその目に焼きつけさせておいてから、顔を上げて部屋を見渡すと、ほんの一瞬、闇の痼りのようなどす黒いものが壁や調度品にへばりついているのが見えた。
 錯覚か? 何度か目を瞬いてからもう一度部屋を見ると、そこは見慣れたいつもの自室だった。窓からの日射しが壁や書棚を明るく照らし出している。
「ベリナス様?」
「あ、ああ」
 見てはならぬものを見てしまったような気がして、すぐに私は羽根を机に放り投げた。
「大丈夫ですか? 顔色があまりすぐれないようですけど……」
「心配ない。このごろ色々あったせいで疲れているのだろう。少し休めばすぐに良くなる」
 阿沙加はまだ困ったような顔をして私を見ている。私は軽く息をつくと、彼女の前に立って、肩を撫でた。
「本当に何でもないよ。安心おし」
「ベリナス様……」
 それでも阿沙加は納得できなかったようで、いつもの控え目な口振りで云う。
「あの、あまりお気に病まれぬよう……わたしも、できることがあれば何でもしますから……」
 彼女にしてみれば何気ない言葉だったのだろう。だが、私には、それは何物にも代え難い至言のように思われた。確かにそのとき、私は病んでいたのかもしれない。
 私の寂寥を、孤独を理解してくれるのは、彼女だけだ。
 そして、病んだ私の心を癒してくれるのも、彼女だけだ。
 彼女の存在が、唯一の救いなのだ。
「阿沙加……!」
 知らずと私の手は彼女の背中に伸び、その華奢な身体を抱いていた。頭巾が外れ、黒髪が滝のように肩へと流れ落ちる。阿沙加も抗うことなく、私の胸に身体を預けている。
 この子は、私を慕ってくれている。
 なのに、私は彼女に何も言ってやれないでいる。
 たった一言でいい。その言葉を、私の本心からの言葉を――。
「阿沙加……私は……」
 だが、阿沙加も私の変化を察知したようで、押し止めるようにすっと離れて、俯いた。
「阿沙加」
「失礼します」
 そう云って、彼女は逃げ出すように部屋を出ていってしまった。
 私はしばらく茫然と扉を眺めていたが、やがて諦めたように頭を振り、机に戻った。
 彼女は私の言葉を避けている。それはひとえに私の責任だった。あの子は殊勝にも私の立場を気遣っているのだ。そんなもの、私は寸毫も気にしていないというのに。
 それでは、私はどうだろうか。話す機会はいくらでもあったはずだ。彼女の誤解も、立場の違いなど些細なことに過ぎぬことを説明してやれば、それで済む。なのに、何故私はそれをしない? 何を躊躇している?
 ――信頼は、裏切られる為にのみ存在する。
 そうだ。私は裏切りを怖れている。彼女に対する信頼が、私の一言によって瓦解することを怖れている。あの男と同じだ。信頼を罪と考え、それが崩れることばかり怖れている。人間的であろうとすればするほど、泥沼に填り、抜け出せなくなる。
 出口のない迷宮。そこに閉じ込められたような気分だった。どれだけ藻掻こうとも、凡ては閉じられ、完結している。運命なのだ。
 人間的な、生を。
 もしそれが叶わぬのなら――せめて。
 人間的な、死を。

 阿沙加が小間使いとして働くようになると、家の内部にも微妙な変化が見られた。
 妻と阿沙加の初対面は、さほど悪くはなかったようだ。妻はいつもマリアにしているのと同じように、阿沙加にも丁寧に接し、また阿沙加もその態度には好感を持っていたようだった。
 父は相変わらず阿沙加のことを好ましく思っていないようだった。だが、当時はヴィルノアとの領土を巡る戦が熾烈を極めており、ジェラベルンの将軍であった父は事ある毎に戦場へと赴いていたので、家に戻ることは殆どなかった。
 そして、マリアも私も、この異国の少女を殊の外可愛がった。マリアの溺愛振りもさることながら、私も主従の枠を超えて、今から思えば過剰なほど、彼女の庇護に躍起になっていた。
 そうして、表向きには幸福な日々が、しばらく続いた。だがその裏では、何か得体の知れないものが蠢き、蝕みつつあったのだった。
 その不穏なものを感じるきっかけとなったのは、父の死であった。
 父が国境付近の戦闘で戦死したとの報を受けると、屋敷の中は騒然となった。だが、感情を表に出して悲しんでいたのは、皮肉にもマリアただ一人だった。妻も、殆ど父との関わりのなかった阿沙加も、半ば他人事のような反応しか示さなかった。
 私は――どうだったろうか。悲しみよりも、むしろ虚無感の方が強かったのかもしれない。この世に生を受けてよりずっと、私の上に重くのし掛かっていた「父」という存在。恐ろしく感じたことはあれども、親しみを覚えたことなどただの一度もなかった。
 強大で、絶対であった父。私の世界を全て包括していた存在。それが失われたことが最初は信じられなく、やがて実感を伴ってきても、父の死という直截的な事実より、その恐ろしい存在から解放されたという奇妙な茫漠感、そして不安ばかりが取り憑いてきた。父は私にとっての「かせ」であった。それが外れた今、私は自由に動くことができる。しかし、長年束縛されていた身に行くあてなどあるはずもなく、畢竟ひっきょうそこに茫然と立ち尽くすしかないのだ。
 一週間待ったが、父の亡骸が帰ってくることはなかった。父が戦死した地は既にヴィルノアの領土となっていたので、たとえ将軍の遺体であろうとも、ジェラベルン側が引き取りに行くことは不可能だったのだ。
 私の判断で、ひとまず身内のみの簡単な葬儀を執り行うことにした。遺影のみが入った棺を墓に収め、花を添えた。
「すがすがしい天気ですわね」
 そのとき妻が放った一言に、私は愕然とした。
「なんだか気分が良くて仕方ありませんわ。あの人の顔をもう二度と見なくてもいいと思うと」
 信じられなかった。妻が何を言ったのか、しばらくの間理解できなかった。妻の顔を見ると、決して冗談めいた表情ではなく、本心からというように冷たい薄笑いを浮かべていた。
 そのあまりの衝撃の凄まじさに、私は何も言い返すことができなかった。正直に告白しよう。私はそのとき、父を失ったことより、妻のその言葉と表情に、完膚無きまでに打ちのめされていた。良家の妻という立場を貞淑に務めてきたそれまでの姿が仮初めであると知り、女という生き物が含有する残酷さを肌で感じた瞬間だった。
 葬儀を済ませ、自室に戻ると、私は頭を抱えて机の上に蹲った。もはや父のことなど頭になかった。あるのは、妻に対する猜疑心、そして畏怖心。これから互いに騙し合いながら暮らしてゆくことを考えると、胸底から不快なものが湧き上がってきて、必死に歯を食い縛った。
「あの……ベリナス様」
 ハッとして私は顔を上げた。扉の前で、阿沙加が心配そうな表情で立ち尽くしている。
「ノックをしたのですが……その」
「そう、か……すまなかったな」
 扉を叩く音すら聞こえないほど、私は気に病んでいたのか。そう思うと、自分が本当に重病人になってしまったような気がして、知らずと重い溜息が洩れた。
 阿沙加にいらぬ心配をかけさせまいと、私は立ち上がって窓を向き、無理に伸びをした。
「何か用があるんじゃないのか?」
「いえ……その」
 阿沙加はしずしずと歩み寄って、言った。
「ベリナス様……どうか、お元気出してください。悲しいこととは思いますが……」
 ああ。この子は父が死んだせいで私が塞ぎ込んでいると思っている。勘違いだ。愚かなる勘違いだ。そんなもの、妻のあの一言に比べれば些細な出来事に過ぎぬというのに。だが、今はその愚かしさがひどく愛おしく思えた。彼女の何も知らない、無垢な眸は、くたびれ果てた私の心を癒してくれる。
「ありがとう」
 私は言った。
「私はもう大丈夫だ……お前がいてくれれば」
 彼女の頭を抱きながら、私は思った。
 この子が、唯一の救いであると。
 そして、この子の存在なくして、もはや私は自分を保てなくなっているのだと。
 私は、阿沙加を愛してしまったのだ。
 誰も赦してはくれぬだろう。認めてはくれぬだろう。だが、それが赦されざるものであればある程、私の想いは強く、固くなってゆく。
 妻への後ろめたさは微塵も感じなかった。私の心は、もはや妻から離れつつあったのだ。
 成就せぬ愛。そして背徳。これを運命とするならば――なんと皮肉なことだろうか。

 父が死んで以後、私と妻との関係、また阿沙加と妻との関係も微妙に変化していった。
 表面上は妻も私も平生と変わらぬように日々を過ごしていたが、どこか互いに違和感を覚えずにはいられなかった。会話をしていても、行動を共にしていても、これまでと同様には上手く噛み合わない。次第に妻は私から離れ、私も無意識のうちに妻を遠ざけてしまっていた。
 そして、妻は阿沙加に対しても同じく、いやもっとあからさまに態度を硬化させた。叱責こそしないものの、阿沙加がどんなに甲斐甲斐しく世話をしても礼のひとつも言わず、一言も口を利こうとしない。まるで彼女の存在すら認めていないかのように、向こうが廊下で挨拶をしても目も合わせず、立ち止まりもしないでそのまま通り過ぎてゆく。
 そんな阿沙加を見るにつけ、私は彼女をそれまで以上に厚遇し、度々部屋に呼んだ。私も彼女を必要としていた。この途方もない虚無感を癒してくれる存在が、必要だったのだ。
 ある日の夜、夕食を終えた私たちは居間で寛いでいた。近頃腰の具合が優れないマリアは早々と退室し、阿沙加が一人で私たちの世話を焼いていた。
「お前ももういいよ。明日も早いのだろう。早めに休んでおいた方がいい」
「え……でも」
「年頃の女性があまり夜更かしするものじゃないよ。後のことは私がしておくから、心配せずにお休み」
 私がそう言って笑うと、阿沙加は申し訳なさそうに項垂れた。
「すみませんベリナス様。それじゃあこれで……」
「ああ。今日は冷えるから、暖かくして寝るんだよ」
 阿沙加は何度も頭を下げて、部屋を出ていった。
 彼女を見送った後、本を広げてそこに目を落とそうとすると、不意に隣の妻が立ち上がり、無言のまま扉に向かった。
 そして。
「私には、何も言ってくれないのね」
 そう言い残して、妻は居間から出ていった。扉の向こうに消えてゆく彼女の背中に言葉以上の凄まじさを感じて、私はその場に固まり、指一本動かすことさえできなかった。
 妻はその翌朝に死んでいた。図らずも、それが彼女の口から出た最後の言葉だったのだ。

 妻は喉をナイフでかっ切って自殺していた。
 阿沙加より報せを受けて彼女の部屋に駆け込むと、そこは死の匂いで充満していた。壁やベッドにには壮絶な血飛沫の痕があり、彼女が突っ伏している床の周囲には、既に固まりかけた血がどす黒い池を作っていた。
 入口の手前の廊下ではマリアが腰を抜かして座り込んでいた。顔面蒼白で、ひぃぃ、ひぃぃと譫言なのか息苦しさに喉が鳴っているだけなのか、しきりに声を洩らしている。瘧のように全身を震わせ、見開かれた両眸はもはや理性で制御できぬ感情を有り体に映していた。その様子を見て、私は不審に思った。確かにいきなりこの光景を目の当たりにすれば驚愕するだろうし、恐怖も覚えるだろう。だが、マリアの恐怖の仕方はそれを考慮しても尋常ならざるものがあった。まるで、妻が死んだという事実よりも、全く別のものを見て、怯えているかのように。
 彼女は、妻の自殺の前兆に気づいていたのではないだろうか。それとも、知っていたのかもしれない。自殺の真相を――。
 しかし、すぐにマリアを問い詰めることはできなかった。彼女は半狂乱といってもいい状態であったし、私も突然のことに些か混乱していた。ひとまずこの場では何も聞かずに、落ち着いたところでゆっくり話を聞くつもりだった。
 だが、結局それも叶わなかった。マリアはそのまま病床に伏し、間もないうちに妻の後を追うようにして死んでいったのだった。

 そうして、屋敷には私と阿沙加のみが残った。私たちは互いに気持ちの整理がつかぬまま、月日は流れ――現在に至る。
 すぐにでも阿沙加を妻として迎え入れれば良かったのだ。そうすれば今こうして思い悩むこともなかっただろう。
 だが……やはり、それは無理だった。妻をあのような形で失ってすぐに、また新たな妻を迎えられるほど、私は厚顔無恥ではなかった。阿沙加の方も妻に対するやましさから、しばらくは私を意識的に避けているような素振りを見せていた。
 懊悩する私の身に、月日は吹き荒ぶ風のように過ぎ去り、何一つ解決しないまま、死の記憶だけがゆっくりと薄れていった。
 やがて阿沙加も私も妻のことはさほど気にすることはなくなり、屋敷にも平穏な日常が戻りつつあった。けれども、このどうしようもない空虚感だけはいつまで経っても拭い去ることはできなかった。
 その結果、私はますます阿沙加を求めるようになっていた。広い屋敷に二人だけというのは些か寂しい気はしたが、それでも私たちは幸福だった。それだけに――その幸福が、私の一言によって無惨に破壊されることを畏れた。無理に契りを結ばずとも、このままでも私たちは安穏に暮らしてゆけるのではないかという浅薄な思いがあった。
 しかし……私はこの家の主であり、阿沙加は雇われの小間使いに過ぎない。身分の差は厳然としてそこに存在していた。これを崩さぬ限り、彼女は私を一人の男として愛してはくれない。
 告げなくてはならない。そう思いつつも、この静かな日常を壊したくない自分もいる。
 行き詰まりだ。袋小路だ。どう足掻こうとも、この迷宮を抜け出すことは不可能だった。
 もはや運命など信じられなくなっていた。それを信じるには、私はあまりにも疲れていた。

 奴隷市場から帰った日の夜、私はいつもより遅く床に入った。すぐには寝付けず、しばらくうとうとと微睡んでいるばかりだったが、眠気はゆっくりと訪れ、やがて深い眠りに堕ちていった。
 次に見たのは、妻の姿だった。闇黒の中にひとり佇んで、こちらを見据えている。あまりにも明瞭に映し出されていたので、それが夢なのだと気づくには時間を要した。
 ――何故、そのような目で見る? 私は問うた。
 ――汝を、断罪せんが為。妻は答えた。
 ――汝の罪は、悪辣極まる不義が故。因って私は、汚穢の源を断ち切らんとこいねがった。
 ――そして、それは達せられた。
「なんだと?」
 私が狼狽えると、妻は高らかに哄笑した。目を剥き、肩を怒らせて。生前の妻からは想像もつかない、壮絶な表情だった。
 嘘だ。
 これは妻ではない。妻の姿を騙った、悪魔だ。
 いや、それとも妻が悪魔になってしまったのか?
 悪魔に、魂を売ってしまったのか――!
「ああ……ああ……」
 私は頭を抱えて蹲った。私が妻を不幸にしてしまった。哀れな彼女は、嫉妬に狂いながら死んでいったのだ。阿沙加を呪い、私を呪い、この家に嫁いだ自分を呪った。そして……。
「やめてくれ……お願いだ」
 だが、全ては手遅れだった。もはやいくら嘆いたところで取り返しはつかない。妻の乾いた笑い声が頭を揺さぶり、吐き気を催す。首を振り、どれだけ懇願しようとも、妻は残酷に嗤い続けた。
 復讐。
 不意に、妻がそう口走ったような気がした。これは、復讐なのだと。
「何を……何をしたのだ?」
 もはやそこに立っているのが妻だという意識はなくなっていた。おぞましき悪魔の化身。私はそれに、心の底より畏怖した。
 これが復讐だというのなら、真っ先に狙われるのは。
 阿沙加。
 ああ、あの子は無事だろうか。行かなければ。あの子の許に行って、確かめなければ。
 ――行かせないよ?
 悪魔が嗤った。
 ――あんたはこの悪夢の迷宮の中で、一生彷徨うのさ。
 ――罪深き自分を、嘆きながらね。
 膝をつき、床に突っ伏して両手で耳を塞いでも、哄笑は頭に響いてくる。どうしようもない絶望の前では、私はただ無様に地面を舐めて震えるしかなかった。
 気が狂いそうだった。
 いや、いっそのこと、狂ってしまえば楽になるのかもしれない。
 何かが私の中でぷつりと千切れたような気がした。次の瞬間、私は顔を上げて獣のように醜い叫声を上げた。
 そこで、何かが起きた。
 ずっと闇にいたせいで、最初はそれが光なのだと認識できなかった。悪魔の背後に光の粒が舞い降り、そして弾けた。悪魔は絶叫を残して刹那のうちにかき消えた。
 眩ゆさのあまり目を逸らし、そして再び前を見ると、そこに悪魔の姿はなく、代わりに光に包まれた何者かが立っていた。
 鮮やかな蒼の鎧。光輝く白銀の髪。女性と呼ぶのも畏れ多いほどの神々しさを放つその者は、不可侵的な威厳を孕んだ眸で、こちらを静かに見つめている。
「貴女は……」
 ――女神。それも、運命を司る――。
 そう思った瞬間、突然視界が遮られ、意識が遡上していき……そして、気がつけば私は覚醒していた。
 先程までの光景を反芻している余裕はなかった。私は掛け布を撥ね除けて起き上がると、寝室を飛び出して阿沙加の部屋へと駆け込んだ。
「阿沙加!」
 彼女は、ベッドの横に俯せに倒れていた。
「阿沙加! 返事をしてくれ! 阿沙加!」
 抱き起こし、身体を揺すって名を呼んでも、彼女はぐったりと首を仰け反らせたまま、反応を示さない。顔は蝋人形のように白く、左腕で支える背中はひどく冷たい。人間を抱いているという感覚が、まるでなかった。私はそのとき初めて、人間も所詮は物体に過ぎぬことを知った。
 一縷の望みを託して、私は震える指をそっと首に当てて脈を計った。そこは残酷なほど冷たく、そして、静謐としていた。
 こんな別れ方が、あるだろうか。
 私の罪が妻を殺し、そして今、最愛の者をも殺してしまった。
 激しい後悔と絶望の果てに私が口にしたのは、止め処もない嘆きの言葉ばかりだった。
 もう、どうにもならない。
 運命は変えられない。
 本当にそうなのか?
 運命は、人間が侵してはならぬ領域なのか?
 私は、認められぬ。
 ――そうだ。
 不意に私が思い浮かべたのは、夢の中に出てきた、気高き者の姿。
「……運命の女神よ。ヴァルキュリアよ!」
 私は天に向かって彼の者の名を呼んだ。
「我が名においてここに懇望する。阿沙加を、この哀れな娘の魂を救いたまえ!」
 縋る思いで叫んだ願いを、聞き入れる声があった。
〈罪深き人間よ、敢えて運命に抗わんとするか〉
 平生の私であったなら、幻聴ではないのかと疑っただろう。だが、頼るよすがを失っていた私は、ごく自然にそれを受け容れた。
「ならば問う。汝らは何故、我らをこのような運命に陥れた?」
 私は言った。
「この無様な悲劇トラジェディの果てに、何を我に求めるのだ?」
 この子を救いたい。
 幸福にしてやりたい。
 私の願いは、ただそれだけだった。
「そんなものが運命だなど……私は信じぬ。決して――!」
 阿沙加を強く抱きしめて、私は云った。
〈代償は?〉
 声が訊ねた。
〈運命を変えるには、相応の代償が要る。魂を呼び戻すのならば、別の魂を失わねばならぬ〉
 別の魂。
 ああそうか。そういうことか。私は悟った。
 迷いは微塵もなかった。それで阿沙加が救われるというのなら、汚れしこの身など、いくらでも神に捧げよう。
「少しだけ……時間をくれ」
 私は阿沙加をベッドに寝かすと、ひとり部屋を出た。廊下は普段よりも寒々しく、そして淋しげに感じられた。
 妻の部屋の扉には幾重にも板が打ちつけられ、絵の具で魔除けの紋章が描かれてあった。私はあの惨事の直後、部屋に封印を施し、自分を含めた全ての者の立ち入りを禁じたのだった。
 私は板を力ずくで剥がして、扉を開けた。ひんやりとした空気が頬を撫で、黴臭さに混じって微かに血の匂いもした。壁や床にはタールのような色に変わってしまった血の跡が、くっきりと残っている。死の痕跡。もう二度と見たくなかった光景。だが、目を逸らしてはいけない。逃げてはいけない。
「すまなかったな」
 私は妻に語りかけた。
「お前には、ずっと寂しい思いをさせてしまったようだ。だが……どうか、これ以上あの子に危害を加えることはやめてくれ。全ての非は私にある。呪いたくば私を呪え。だが、あの子に罪はない」
 妻からのいらえはなかったが、納得してくれたのだと私は信じた。彼女は元来、性根の真っ直ぐな、素直な娘だったのだ。家筋という檻に閉ざされ、さらには嫉妬によって道を違えてしまった。それは一途な想いの持ち主であるが故に、その純粋さが逆に災いしてしまっただけのことなのだ。
「私はあの子にこの家を譲ろうと思う。彼女を幸せにしてやるには、それしか方法はないのだ。赦してくれとは云わない。だが、阿沙加だけは、あの子だけは見逃してやってくれ――」
 云い終えると、私は黒い床を踏みしめて、奥の衣装棚の方へと歩いていった。そっと棚を引くと、そこには見慣れた妻の衣装が整然と折り畳まれて収納されていた。私はその中で、あまり着古されていない一枚を、奥から取り出した。
 その時、服と服の間から垣間見えた棚の底に、黒い筋のような痕があるのに気づいた。怪訝に思った私は衣装を全て退かして棚を空にしてみた。
 するとそこには、見るからに禍々しい紋様が描かれていた。私は息を呑んだ。そして背後を振り返り、床を染め上げた血の色を見て、それからもう一度紋様を見た。同じだ。これは血で描かれている。
魔神ヴェリザの法陣〉
「なんだと?」
 彼の者の言葉に、私は耳を疑った。
「まさか……妻は、魔神ヴェリザと契約を結んだというのか?」
 応えはない。だが、その無言こそが答えなのだと私は悟った。
 妻は、私の想像以上に恐ろしい存在ものに手を染めていたのだ。それほどまでに彼女の嫉妬は激しかったということか。……いや、これはもはや嫉妬ではない。純粋な憎悪。それは常に純粋であろうとした彼女が選んだ、哀しき道だったのだろう。
「……戦乙女よ」
 私は呟いた。
「我が罪は果てなく深い。それを贖うことなど、できるのだろうか」
〈罪は人間ひとを永遠に繋ぎとめる鎖ではない〉
 彼の者は答えた。
〈それは解放への鍵と知れ。自らの罪を知り、贖わんと望んだ時、汝の新たなる道が開かれる〉

 阿沙加に妻の服を着せ終えると、再びベッドに横たわらせた。そして、懐から認めたばかりの遺書を取り出し、枕元に置いた。
「阿沙加」
 柔らかに黒髪を撫でながら、私は語りかけた。
「お前がこの家に来た時のことを覚えているか? ……楽しかったな、あの頃は」
 少々退屈ではあるけれど、ささやかな日常、変わらぬ生活。思えば、あれが幸福というものだったのかもしれない。
 私は薄紫に色の変わった唇に、そっと唇を落とした。誓いの証は、冷たく儚かった。
「これでお前はもう使用人ではなくなった。受け継いでくれ、この家を」
 これでいい。私は自らに言い聞かせるように、心の中で呟いた。阿沙加は私の妻として家を継ぐ。その先のことは、彼女自身が決めればいい。私のすべきことは、もう何もない。
「愛してるよ……阿沙、加――」
 彼女の手を握りながら云うと、漸う視界が光に包まれていく。我が身は間もなく神に捧げられる。ならばこれからは神のために尽くし、神のために戦おう。
 それが、贖罪の道だというのなら――。