■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Mission 1 儀式

「機は──熟した」
 断崖の上で、男は独語した。
「既に世界は歪み始めている。否、ほころび……と称すべきか」
 吹き荒ぶ風が、背中に下ろした銀髪を掠う。猛禽を思わせる鋭い双眸そうぼうは重たげな曇天どんてんを見つめたまま。
「古びた織布しょくふが隅から解れるが如く、この世界ファルガイアは緩々と滅びに向かっている。愚昧ぐまいなる民草たみぐさは何も気づかぬ。知った頃にはもう遅い。古き世界の崩壊は必然なのだ──」
 赤と黒の意匠が施された鎧のような上着に、豪奢ごうしゃな白のマント。だらりと垂らした右腕にはいびつな形状をした大剣が握られている。
「ゆえに我らは新たな世界を創る。穢土えどを一掃し、その上に浄土を築くのである」
 けた頬や目尻に浮いた皺は、男がさほど若くないことを物語る。一方で声色には張りがあり、小声にもかかわらずよく透った。
「果たして愚民どもは我に従い浄土の道を選ぶか、それとも滅びを選択するか。まあ──それは連中が決めることよ」
 男は歩を進め、断崖の端に立つと足許を見下ろした。そこには。
「我らは謂わば浄土の道へ誘う案内人である。故にここに最初の──」
 青い屋根と二つの尖塔を備えた──聖堂が。
「道標を立てる」
 す、と彼の背後に気配が生じた。
「カイーナか」
 一人の若者が立っていた。振り向きもせず男が言うと、カイーナと呼ばれた若者は片膝をついてこうべを垂れる。
「お待たせして申し訳ありません」
 青と白のローブめいた上着を羽織った若者は、華奢な体躯たいくを縮めて少年のような声で答えた。
「構わぬ。それよりも……『あれ』の準備は万全だろうな」
「はっ」
 カイーナは色白の細面ほそおもてを上げて、みどりの瞳で殊勝に男の背中を見つめる。伸ばした前髪を顔の右側に垂らしているため右眼は見えなかったが。
「難儀な代物でございましたが、どうにか制御コントロールできるまでには」
「そうか」
 男はマントの内側から腕を出し、握っていた大剣を突き出した。
「ならば予定通り……決行だ」
 歪な刃の切っ先は──崖下の聖堂に。
御心みこころのままに」
 カイーナは立ち上がり、胸許に手をかざす。身につけていた魔装具の中心、目玉の形をした飾り石がにわかに輝く。
秘されし鍵よ、我らに叡智を授け給えセクレタ・スロシオ・ドーヌ・ラ・サージョ・アル・ニー
 飾り石から一筋の光が迸り、彼らの頭上で見えない壁に衝突したように軽く爆ぜた。一瞬の閃光の後、その場に現れたのは──

 銀色の、巨大な鍵。

「それでは『儀式』を始めましょう」

 聖堂に入ったところで、アシュレーは背後から肩を叩かれた。
「よう、『英雄』さん」
 振り向くと、見慣れた顔があった。
「マルコ?」
 それは予備隊時代からの同期のマルコだった。銃士隊でも同僚となり、例の誘拐事件の際には共に捜索に駆り出された。
「君も選ばれたんだな」
「お陰様でな。『英雄』の供をしたのがポイント高かったらしい」
 横に並んで歩きながら軽口を叩く。アシュレーは苦笑した。
「足はもう大丈夫なのか?」
「昨日まで松葉杖だったよ。まだ完治してないが、今日は式典だけだから問題ないだろう」
 確かに今も片脚をかばうような歩き方をしている。アシュレーが肩を貸そうかと申し出たがやんわりと断られた。
「それにしても、どうして僕らみたいな新兵が選ばれたんだろう」
「さあな。ただ、何となく……察しはつくかな」
 廊下を抜けて礼拝堂に入ったところで、マルコが視線で前方を示した。
 礼拝堂には既に十数人の隊員が集まっていた。ざんばら髪を振り乱した野盗さながらの大男。妙に顔色が悪く、澱んだ目つきで放心したように虚空を見つめている痩せぎすな男。いかにも精鋭エリートといったたたずまいの者もいるにはいたが……ざっと見渡した限りでは、およそ兵隊には見えないなりをした者が大部分のようだ。
「どうやらここには、組織の枠に収まりきらない連中が集められている。傑出した才覚を持った者たち──と言えば聞こえはいいが、要は単なるはみ出し者だな」
 呆気あっけにとられているアシュレーに、マルコは戯けた笑みを返して。
「俺はこの通り協調性皆無だし、お前は命令無視で謹慎処分まで食らったふだ付きだ。ここに放り込まれるには充分な実績、ってとこかな」
「放り込まれるって……精鋭部隊なんだろ、ここは」
「精鋭だよ」
 真顔になってマルコは言った。
「ただしそれは『兵士』としての精鋭じゃない。戦う者……『戦士』としての精鋭、という意味だ。優秀な兵士は王の下に仕えるが、優秀な戦士は──より苛烈な戦場に送り込まれる。つまり、俺たちはな」
 ただの捨て駒から、より上等な捨て駒になったというだけのことさ。
「上等な、捨て駒……」
 アシュレーは譫言うわごとのようにマルコの言葉を繰り返す。
「ま、それでも扱いは騎士団と同格だからな。名誉と言えば名誉だ。ただそれも、騎士にしてやるから国のために死ねと強いられているみたいで、ぞっとしないね」
 ──ああ、そうか。
 それを聞きながら、アシュレーは思い出していた。
 辞令を受け取ったときのマリナの態度を。あの辛辣な言葉を。
 勘の鋭い彼女は、この部隊の実態を何となく察していたのかもしれない。元々マリナは軍隊や官憲といった組織を快く思っていないところがあった。そのため辞令の内容も額面通りに受け取らず、そこに潜む不穏をいち早く感じ取ったのだろう。
 だから彼女は、思わぬ出世に喜びを発散させたアシュレーに対して、あんな言葉を投げたのだ。死地へ赴くことがそんなに嬉しいのか、と──。
(ごめん、マリナ)
 心の中で、彼は幼馴染みに謝った。
 それから礼拝堂の奥を仰ぐ。
(けど、僕は……それでも)
 祭壇の背後の壁にはステンドグラスが填め込まれてあった。
 色とりどりの硝子をちりばめて描かれているのは──。
(『彼女』のようになりたいと、思っているんだ)

 大きな剣を高々と翳した、青い髪の──英雄。

 かつて、この世界を災厄が襲ったという。

 それは遙か昔、守護獣ガーディアンやエルゥといった伝説の存在がまだ実在していた、遠い過去のこと──。

 火のガーディアンから千切れた一翼より生まれたとされる「それ」は、突如としてファルガイアにあだ為す存在へと変異した。大地はたちまちほのおあかで覆いつくされ、そこに生きる多くのものが理不尽に命を奪われた。この未曾有の脅威に対し、ガーディアンとエルゥ、そして人間も含めた全ての種族が立ち上がり、まさしく世界の存亡を賭した戦いが巻き起こった。
 現在では『焔の災厄』という呼称で伝えられている「それ」は、一説によれば絶望を司るガーディアンであったという。傷つき倒れ、全てを喪い、嘆き悲しみ、絶望する──『焔の災厄』はそうした負の感情を糧として取り込む存在であった。『災厄』によって生じた絶望が『災厄』自身を増幅させ、さらなる絶望をもたらす。絶望の連鎖によって無尽蔵のエネルギーを得た『焔の災厄』は、この世のあらゆる存在を超越してしまったのである。
 もはや誰にも止めることは適わなかった。高度文明を誇ったエルゥ族は僅かな個体を残して壊滅し、世界の守護獣たるガーディアンたちさえも、その殆どが血肉を喪い精神体へと昇華した。最も弱い種族であり、それゆえ個体数の多かった人間たちにも為す術はなく、ただ怯えながら滅びの時を待つしかないと思われた。
 だが、その中から。
 弱き種族である人間の中から。
 希望は──生まれたのだった。
 ガーディアンの力を宿した聖剣『アガートラーム』を手にしたその娘は、欲望のガーディアンである魔狼まろうを従え、単身『焔の災厄』に立ち向かった。
 戦士ではない、ただの下級貴族の娘でしかなかったその者が、如何いかにして聖剣と魔狼を得たのかは定かではない。また聖剣の出自もつまびらかになっていない。一体どのようにしてガーディアンの力が剣に宿ったのか──全ては謎に包まれている。
 戦いは熾烈しれつを極め、七日七晩続いたという。
 そして、七日目の夜半過ぎ。朝陽が昇る少し前のこと。
 突如として大地が光に満ち溢れた。闇に属するものはことごとく光の奔流ほんりゅうに呑み込まれ、光に属する存在のみが残ったという。
 その光が彼女の為したものであるかは不明である。だが、それによって確かに『焔の災厄』はファルガイアから姿を消したのだ。
 こうして戦いは終結した。勝者は──いなかった。
 娘もまた、世界から消滅していたのだった。魔狼の行方もようとして知れず、聖剣のみが大地に突き立った状態で発見された。
 彼女は愛する人々を守り、世界を護るために、自らを犠牲にして仇敵きゅうてきを退けたのである──伝承はそう結んで、彼女の功績を讃えている。

 ──そう、全ては伝承である。真実は誰にも判らない。
 だが、伝承は時を経て伝説となり、いつしか信仰へと形を変えて、今もなお語り継がれている。救国の英雄は『剣の聖女』として神格化され、多くの人々に崇められるようになった。
 そして、そうした信仰の象徴として築かれた聖廟せいびょうこそが──。

 この『剣の大聖堂』である。

「近年、各地で魔物や魔獣の凶暴化が報告されている」
 祭壇に立ち、後ろ腰に手を組んでこちらを見下ろしながら、隊長が言葉を発した。
 まさか、あの隊長だとはな──とマルコが驚いていたが、確かにアシュレーにとってもそれは意外だった。
 彼らの前で結成の経緯を説明しているのは、この特殊部隊の長であり──先日の誘拐事件において指揮を取った、あの銃士隊の隊長であった。仁王立ちで身動ぎせず口だけを動かしている姿が、遺跡に向かう車両の中の彼と重なる。
「それに伴い世情も不安定となり、小規模ながらテロや暴動といった事件も頻発するようになった。魔物増加の原因については調査が進められているが、それが判明するまでは、発生する脅威を拡散させぬよう速やかに鎮圧することが第一義となる」
 隊員たちは横二列に整列して静聴している──ものの、緊張感はあまりなかった。欠伸をしたり、周囲をキョロキョロと見回したり、器用に立ちながら居眠りを決めている者もいる。最初からこんなことで大丈夫なのだろうかと、アシュレーはいささか不安になる。
「そこで陛下は、あらゆる事態にも柔軟に対応できる、より遊撃性の高い部隊の編成を命じられた。現時点ではメリアブール領内のみを対象としているが、いずれは国際規模での活動も視野に入れている」
 そこで隊長は言葉を切り、一同を見渡した。相変わらず射竦いすくめられるような視線だが、他の隊員にはあまり効果はないようだ。
「諸君らはこの部隊──『ARMS』の栄誉ある最初の隊員である。ARMSの名を世界に轟かせ、民の希望となれるよう、諸君らの活躍に期待している」
 ──ARMS。
 Awkward Rush & Mission Savers(緊急任務遂行部隊)の頭文字を取って、そう命名されたらしい。
 隊長が説明したように、この部隊は正規軍と異なり、メリアブール国王が直々に編成を指示して結成されたものである。つまりARMSとは軍隊ではなく、国王直属の……。
「では、これより叙任じょにんの儀を執り行う」
 祭壇の中央に立っていた隊長が横に退いた。彼の背後に鎮座していたそれが、顕現けんげんする。
 この『剣の大聖堂』の神体であり、かつて聖女が振るったとされる──。
「あれが、ガーディアンブレード……『アガートラーム』か」
 隣のマルコが呟いた。アシュレーは言葉を返すことも忘れて、壇上のそれに見入る。
 古びた大剣が、刃を下にして垂直に突き立っていた。
 長さはアシュレーの胸上ほどはあるだろうか。切っ先は土を固めた台座に刺さっている。幅広の刃に光沢はなく、一見すると石材のような質感だった。少なくとも普通の金属ではなさそうだ。長い歳月のせいか、それとも最初からなのかは定かでないが、全体的に色はくすんでおり、期待していたほどには神々しさは感じられない。それでも数百年前の剣が朽ちることなくそのままの形で残っているのだから、やはり何か特別な力が秘められているのかもしれない。
「マシュー・ベインズ。前へ」
 前列左端の隊員が呼ばれ、祭壇に上がる。聖女のステンドグラスを背にして、屹立きつりつする聖剣の前に立つ。
 隊員はつかを握って足を踏ん張り、剣を台座から引き抜こうとした……が、当然ながら抜くことはできない。すぐに諦めて手を放し、横に控えた隊長の所へ行って勲章を受け取る。
 これが、叙任の儀──すなわち騎士になるための一連の儀式である。ARMSは名目上は騎士団と同格であり、その隊員にも騎士の称号が与えられるのだ。
 ──僕が、騎士になる。
 ──そして、あの剣に触ることができる。
 アシュレーが感慨深く眺めている間にも隊員が順番に呼ばれ、同じように剣をつかんで引き抜こうと試みる。だが、誰も彼もが形ばかりの仕種で、本気で抜こうとはしていない。剣を抜いた者は『英雄』の再来として特別な待遇が約束されるらしいが……この儀式が行われるようになって数十年、ただの一人も抜いた者など出ていないのだ。
「台座にきっちり固定されてんだろうなぁ。どんな怪力でも抜けないってんだから、大した念の入れようだ」
 マルコが皮肉めかして言うように──この剣は最初から抜けないように固定されているのだと、ちまたでは言われている。聖女が『焔の災厄』を退けた当時のまま、突き刺さった地面の周囲をえぐってこの聖堂まで運んだとされているが、そんな話は誰一人として信じていない。剣に認められた者しか振るうことができないという伝承に真実味を持たせるために、わざわざそういう「設定」を作ったのだと、誰もがそう思っている。
 ──本当に、そうなのだろうか。
 地面に刺さったまま抜けない剣なんて、常識的にはあり得るはずがない。しかし、だからといって人々が言うような細工がされているとも、アシュレーには思えなかった。
(思いたくないだけなのかもしれないけど、な)
「アシュレー・ウインチェスター。前へ」
 そうこうするうちにアシュレーが呼ばれた。返事をして、祭壇へと歩いていく。
 実際に目の前に立つと、剣は思った以上に大きく見えた。存在感──というべきものか、外見以上の質量をそこに感じて、僅かながら圧倒される。
 アシュレーはつばを呑み込み、少し腰を落としてから、徐に剣の柄に手を伸ばす。その指が柄に触れようかというとき──

 剣が、消えた。

「え?」
 唖然として、それから──目を見開く。
 世界が暗転していた。剣だけでなく、赤絨毯の敷かれた床も、重厚な石造りの壁も、背後のステンドグラスも、何もかもが闇に呑まれ、消失していた。
「な、なんだ」
「何が起きて……」
 なぜか人間の姿だけは見えた。隊員たちは暗闇の中で狼狽している。すぐ脇にいた隊長も驚愕の表情で周囲を見回している。
「た、隊長、これは一体……うッ……」
 声を上げた隊員のひとりが突如うずくまった。みるみる顔が青褪あおざめ、口を開けてあえぎ始める。
「お、おい、大丈夫……ッ!?」
 別の隊員が詰め寄る、その目の前で──変化が起きた。
「グ……アァ……!」
 悶えていた隊員の頭が急激に膨れ上がり、皮膚がぷつりとはち切れた。同時に全身の血肉がどろどろに溶け出し、皮膚の裂け目から赤黒いうみとなって流れ落ちる。髪は抜け落ち、耳は千切れ、目玉は眼窩がんかの奥に落ち込んだ。口が裂けて剥き出しになった歯がみるみる伸びて、肉食獣のような牙へと変わっていく。
「ひいッ……な、なにが……あ、あァア……」
 悲鳴を上げて尻餅をついた隊員も、すぐに倒れ込んで苦しみ出す。見渡すと他の者たちも同様に呻き声を上げ、変貌を始めていた。
「こ……これ、は……」
 幻覚か。それとも悪い夢なのか──。
 びしゃり、びしゃりと、肉塊や内臓の落ちる音があちこちから聞こえてくる。すっかり肉が削げ落ちた隊員たちは……隊員であったものたちは。
 青緑色の肌をした──異形の魔物に──。
「ぐ……あッ……!」
 肚の底に強烈な不快感を覚えて、アシュレーもその場に膝をついた。
 何かが──体の中で蠢いている。臓腑を掻き回されているような感覚に、全身の汗が噴き出す。
「あ……な、なんで……」
 息切れして激しく呼吸したが、息苦しさが治まらない。肺が機能していないのか、それとも既に肺がなくなって──?
「あ、アぁア……」
 地面に横たわり、激しく痙攣けいれんする。
 もう──駄目だ。
 そう思った刹那せつな、視界の闇が濃くなった。あらゆる感覚が遠のいて、別の何かが近づいてくる。
 全てを手放す前に彼が思い出したのは──つい数刻前の光景。
「ご、ごめン……マリ、ナ……」
 ──ちゃんと帰ってきてね。
 ──約束、だ、よ──。
「約束……まモれ、なイ……」

 そして、彼の意識は弾け飛んだ。

 いつの間にか、闇が消えていた。
 地面も壁も、聖女のステンドグラスも、変わらぬカタチでそこにあった。変わらない光景。変わらない聖堂。
 夢だったのだ、と彼は思った。
 きっと剣に触るときに緊張して気を失っテしまったのだろう。情けないな。きっと後でからかわれるに違いない。
 それにしても、と彼は思う。
 礼拝堂の中は、やけに静かだった。隊長やマルコや他の隊員たちはどこへ行っタのだろう。
 探しに行こうと、足を踏み出した。一歩、また一歩。
 ……何かが、おかしかった。
 足はちゃんと動いているが、どこか違和感があった。まるで自分の足ではないみたいで──。
 下を見る。確かに足があった。白くて、骨があって、剥き出しの筋肉が捻れていて……。
 ──自分の、足?
 何かが違う、と彼は感じた。
 これは自分の足でハないという気がして仕方がない。けれども確かにこレは自分の足だ。わかっている。わからない。
 ああ、駄目だ。混乱シている。頭を振って、それから掌で顔を覆う。
 ──掌。自分の、手。
 ──これが?
 白い皮と筋と骨だけの手。こんなものが、自分の手だったか?
 わからない……何も、わかラない。
 急に不安になった。
 相変わらず覚束おぼつかない足を動かして、誰もいない礼拝堂を出る。どこかに鏡はないだろウか。自分の姿を確かめたかった。
 廊下を少し歩くと、左側に扉を見つけた。中に入ると寝室のような部屋があった。司祭が寝泊まりしている場所だろう。
 鏡はベッドの奥の壁にあった。けれど……先客がいた。
「グ……ゥ……」
 青緑色の魔物が、こちらを振り返った。髑髏どくろのような頭。骨と筋だけの身体。胸の内側は虚ろで、鈍く輝きを放つ何かが収まっている。
「ゥ……ガアァッ!」
 鋭い牙を剥いて威嚇していたそれが、襲いかかってきた。避けようと思ったが部屋が狭くて逃げ場がない。仕方なく、苦し紛れに腕を突き出したら──。
「ガッ……グオオオォッ!」
 ぬめりとした感触が、肘のあたりを包み込んだ。
 前に突き出した腕が魔物の胸を貫いていた。青黒い体液がしきりに零れている。自分の手の中にあるのは、胸の内側で光っていた何かの塊か。
 腕を抜くと、魔物は床にくずおれ、息絶えた。掴んでいた塊も今は輝きを失っている。
 むくろの上に塊を捨ててから、鏡のある壁の方に向かった。鏡の前に立ち、自分の姿を映してみる。
 そこにいたのは。
 たった今、殺したはずの──魔物だった。
 魔物と同じ姿だった。

 自分が、魔物になっていた。

 その事実が、じわじわと、布に垂らした水が染み込むようにして──実感されていく。
「ア……ァ……グ、ア……ッ!」
 言葉を発しようとするが、呻くような声しか出ない。魔物の声帯は、人間の声を出すようには作られていないのだ。
 ──コれは、なんだ。
 まだ、夢ヲ見ているのか。
 だったら、早く覚メてくれ──。
 しばらく床に蹲り、頭を抱えて呻きを洩らした。
 ──もう、戻れないノか。
 ミんな、この姿になってシまったのだろうか。
 ……いや、モしかしたら、誰かはマだ生き残っているかもしれない。
 隊長やマルコが変化する姿は見ていない。もし逃げ延びているのだとすれば、きっと自分も助けてもらえる。
 そうだ、とにカく……ここヲ出よう。
 帰ルんだ……あの街に、アの家に。
 起き上がって、部屋を出る。背中を丸め、足を引きずるようにして聖堂の出口へと向かう。
 前方に外の明かりが見えてくる。それに安堵しかけたとき──突然右側の扉が粉砕された。
 突き破った扉を潜って出てきたのは──。
「グ……ァ……」
 やはり、同じ姿の魔物だった。破れた扉の向こうを見ると、その部屋の中にも数体が蠢いている。床には無数の魔物の死骸が転がっており、中には死体を貪り食っているものもあった。
「ガアァッ!」
 その光景に戦慄していると、部屋から出てきた魔物に襲われた。
 今度は抵抗する間もなかった。殴られ、蹴り飛ばされ、出口とは反対の礼拝堂まで突き飛ばされた。
 赤絨毯の上で身体を起こす。体液が零れ、激痛が走った。だが、体のどの部分が痛んでいるかはわからない。感覚はあるのに、それが自分の感覚ではないような──。
「ア……グ、ァ……」
 彼を痛めつけた魔物が礼拝堂に入ってきた。止めを刺すつもりか、こちらに向かってのろのろと歩いてくる。
 そこで──気がついた。
 その魔物が、片脚を引きずるような歩き方をしていることに。
 怪我をしているようには見えない。無意識にそういう歩き方になっているのか。だとすれば、それは魔物になる前の……。
 ──まさか。
 ──マサカ。
「ア……シュ……レ……」
 魔物が、喉から絞り出すようにして声を発した。人間の言葉を。人の名前を。
 ──やはり、マルコなのか。
 あノ魔物がマルコだとイうのか──!
「ア……ア……」
 体液を零しながら、彼は後退りする。魔物は脚を引きずりながらも、近づいてくる。
 少しずつ、ふたりの差が縮まる。
 ──嫌ダ。
 どウして、こんナことになった。
〈殺せ〉
 ドうして、殺サなければなラない。
〈殺さなければ殺される〉
 あレはマルコなんだ。皮肉屋デいつもしゃに構えてテ、それでもさりゲなく仲間想いな奴ダった。大事な……友人だったンだ。
〈我らに危害を為す者は、排除せねばならない〉
 病気がちナ姉とふたリで暮らしてるっテ言ってた。姉ちゃんを楽ニさせてやりたイって……ソれで銃士隊に入っタのに。それなノに。
〈殺すのだ〉
 デきナイ。
〈殺せ〉
 イヤダ。
〈何もかも、殺してしまえ──〉

 魔物が飛びかかった。
 マルコであった、その魔物が──彼の胸許を狙って。
 ──腕を──。

「ゥワアアアアァァァッ!」

 どさり、と床に倒れ込む。
 彼は、のそりと起き上がる。
 右手には、まだ輝きを残している、塊が。
「ア……」
 虚ろな目玉を動かして、足許に転がる魔物を見る。
 動かない。
 死んでいる。
 自分が──殺したのだ。
〈それでいい〉
 誰かの声が耳の奥で響く。彼は右手に力を込めて、塊を握り潰す。
 オ前ノせイダ。
 いヤ──自分ノセイだ。
〈よくやった〉
 ダっテ、サっキかラ頭に響イテクる、コの声ハ。
 ジブンノ、コエ、ジャナイカ──。

「ア」
 彼は地面に膝をつく。
「アア」
 髑髏の頭を上げて、天井を仰ぐ。
「アアア」
 そして、聖堂の中心で世界を呪った──。

「アアアアァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァアアアアァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァ」

 ここは、どこだろう。

 僕は、どうしてしまったのだろう。

 何も見えない。聞こえない。感じない。
 ただひたすら、茫漠ぼうばくとした空間が広がっている。

 我らの意識だ、と誰かが言った。

 我ら……だって?
 お前は誰だ。

 我らは「私」である。
 そして「お前」でもある。

 意味が……わからない。

 判らなくていい。「お前」は間もなく「私」になるのだから。

 僕が……お前になる?

「お前」は現在の肉体を否定した。肉体なき意識は消えるが道理。

 ああ……そうだ。否定した。
 あんな魔物が僕の身体であるはずがない。

 案ずるな。「お前」は「私」の一部として、「私」の中にいればいい。

 お前の……中に?

「私」の中で嘆け。
「私」の中で恨め。
「私」の中で総てを呪うのだ。
 その感情が「私」を動かす糧となる。

 嫌だ。僕は……お前の中になんて、いたくないッ。

 もはや「お前」の意志など無用だ。
 さあ消えよ。意識の海に沈めてくれる。

 やめろ……ああ……やめてくれ。
 僕は、もうすぐ僕でなくなってしまうのか。
 永遠に、感情だけを吐き出すモノになってしまうのか。

 僕は魔物になんてなりたくない。
 だけど、これが僕の肉体であるというのなら──認めるしかない。

 僕は肯定する。
 これが、僕の身体なんだ。

 動け。
 僕は動くんだ。
 この身体を動かして、そして──。

 希望を──掴め──。

〈なんだと?〉

 手の中に、感触がある。

〈それは、まさか〉

 細長い、棒のようなもの。

〈くッ……だが、「私」はまだ消えぬ〉

 ああ、そうだ、ようやく掴むことができた。

〈心しておくがよい。「お前」の中には、常に「私」が──〉

 僕は、それを握って、力を込めて。

 ──引き抜くんだ──!

 静寂の礼拝堂に、音が響く。
 足音と……足音とは異なる音。

 古風な貴族の出で立ちをした男が、祭壇に向かって歩いていた。
 右脚を痛めているのか、松葉杖を突いている。美貌であったが顔色は悪く、どこか病的な雰囲気も漂わせていた。
 男は祭壇の手前で立ち止まり、けんのある視線を前に向けた。
 そこには、青い髪の青年が倒れていた。
 そして傍らには、『神体』が刺さっていたはずの台座だけが──。

「お前は、希望なのか」
 男は言った。

「それとも──絶望をもたらす者か」