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小説 WILD ARMS 2nd IGNITION
第一章
Episode 2 英雄の末裔

 闇の帳が降りた荒野の上を、ひとつの影が滑るように疾走してゆく。
「い~ま~でも~まぶたを~、と~じ~れば~そ~こにぃ~」
 モーターの駆動音と、それに混じって聞こえる騒音──いや、調子っぱずれな歌声。金属で造られた二輪の乗り物に跨がり、砂煙を上げて颯爽と駆けているのは。
「お~さ~なき~ひぃ~びの~、き~お~くが~よ~ぎるぅ~」
 古風な出で立ちをした少女であった。蜜色の豊かな巻き毛を靡かせ、深窓の令嬢さながらのドレスを翻して、荒涼とした大地を二輪の車でひた走る。
「む?」
 何かに気づいて、速度を緩めた。車を停止させて降りると、目を覆っていたゴーグルを外す。
「あれは……」
 紅玉の瞳が見つめる先は頭上に広がる夜空。雲はなく、一面に星々が煌めいている。
 少女はその中に、やや大きな光を見つけていた。他の星よりは大きいが、月よりは小さい。青白い光は闇を切り裂くように尾を引いている。
「天を衝く帚星──よな」
 しばらく立ちつくし、その奇妙な星を眺めた。僅かに開いた口からは鋭い牙が見えている。
「彼奴の懸念がいよいよ現実味を帯びてきたのう……おっと」
 視線を下ろして地平線に目を向ける。徐々に空が白み始めていた。
「ぼちぼちこいつの出番じゃの。まったく、忌々しい陽光よな」
 ひとりごちながら、二輪車の後部に括りつけていたものを外す。布きれと綿で作った着ぐるみ──のようだった。胴体には服が着せられ、顔には愛くるしい目鼻が描かれ、頭には麦藁帽子まで被せてある。
 いそいそと着ぐるみを身に纏うと、少女は再び車に跨がり発進させる。
「急がねばなるまいか。じゃが、果たしてあんなモノに太刀打ちできるのか……それにしても」
 子供が描いたお化けのような着ぐるみの中で、少女は歯軋りをし、そして叫んだ。
「何故わらわのファルガイアは、こうも不逞の輩に狙われるのじゃッ!」
 灰色の砂漠を、彼は走っていた。
 
 一体どうしてこんなところにいるのか。
 いつからいるのか。
 ここは何なのか。
 そうした疑問はなぜか浮かぶことはなく──ただひたすら絶望的な焦燥感に苛まれていた。
 
 逃げなくてはならない。
 何から?
 とても大きな──恐ろしいモノから。
 
 背後を振り返っても、そいつの姿はない。しかし追われているという感覚はあった。
 何かの意思が視線となり、見えざる手となって、この体を捕らえようとしている。
 
 逃げなくてはならない。
 必死に足を動かし、茫漠の地平線を見据えて走る。
 灰色の砂が堆積した地面はひどく歩きづらい。一歩ごとに臑まで埋まってしまう。足を抜くたび砂埃が舞い、視界が煙った。
 
 どれほど逃げただろうか。
 立ち止まり、息をつきながら周囲を窺う。
 視界を覆っていた砂塵が徐々に晴れ──その先に人影が浮かんだ。
 
 目を瞠った。
 それは、彼のよく知る赤毛の娘。
 とても、とても懐かしかった。
 
 足を動かし、手を伸ばす。
 その手がようやく届くかというとき──
 
 目の前に炎が上がった。
 凄まじい勢いで燃え盛り、人影を灼いた。
 紅蓮の内側で、人影は見る間に崩れ、炭と化し。
 
 灰色の砂となって、地面に降り積もった。
 
 彼は気づいた。
 
 この地面は、全部。
 ──灰だ。
 人が燃えた、なきがらだ。
 
 一面の灰。
 一面の人の死骸。
 無数の人間の「死」の上に、自分は立っているのだ。
 
〈オマエノ、セイダ〉
 誰だ。
〈オマエガ、ヤッタ〉
 違う、僕じゃない。
〈オマエハ、テキダ〉
 やめろ。僕は人間ダ、ニンゲンの味方デ……。
 
「──の」
 
 足許から、声がした。
 灰色の砂に浮かび上がった娘の顔が、こちらを見て──。
 
 蔑むように、嗤った。
 
「この──ばけもの」
 
 彼は絶叫した。
 
 
〈やがてお前は、我になる〉
 自室で目覚めたとき、アシュレーはぐっしょり寝汗をかいていた。
「う……」
 不快さに堪えられず、掛け布を剥いで身体を起こす。まだそれほど暑い季節でもないというのに、この汗は異常だ。
「何か夢を……夢?」
 急激な覚醒に思考が恐慌をきたしている。夢なのか、夢でないのか……境界がひどく曖昧で、判然としていない。
 深呼吸して、ベッドの端に座り直してから、朦朧とした記憶を遡る。
 ──そう、僕は。
 剣の大聖堂で行われた式典に出た。……それから。
 突然の暗転。
 同僚の変貌。
 そして、僕も──。
 はっとして自分の手を眼前に翳した。
 そこにあったのは、自分の──人間の手だった。
 安堵の息をついてから、再び記憶を辿る。けれども。
「……駄目だ」
 繋がった記憶として思い出せるのは、そこまでだった。その先は夢とも現実ともつかない断片的な光景しか浮かんでこない。
 ただ、その光景のひとつには──。
 扉が開いた。
「アシュレー……」
 部屋に入ってきたのはマリナだった。
「心配、したよ……ほんとうに」
 アシュレーの前に立って、震えた声で言う。顔は強張り、幾分青ざめていた。
「ああ、うん。ごめん」
 とりあえず謝った。それを聞いた彼女は横を向く。涙を零しそうになったのかもしれない。
「身体は、だいじょうぶ?」
 窓の外を見ながらマリナが尋ねる。アシュレーは肩を回し、脚を軽く動かしてみた。
「何ともない……みたいだ」
 今は気分も悪くない。むしろ普段の寝起きよりもすっきりしている。
「アシュレー、起きたのかい?」
 会話が聞こえたのか、セレナも部屋に入ってきた。
「はい。心配かけました」
 よかったよぉ、とセレナは胸を撫で下ろす。
「なにしろ聖堂から戻ってきたのは、あんただけだったからねぇ。あんたももう起きてこないんじゃないかと」
「僕だけ? それじゃあ……」
 あれは本当に──起きたことなのか。
 隊長もARMSの同僚たちも、みんな魔物の姿になって……。
 ──でも。
「どうして僕だけ助かったんだろう……」
 確かに自分も魔物に変貌していたはず。けれど今はすっかり元通りになって……。
「貴族の人が助けてくれたのよ」
 こちらに向き直ったマリナが言う。
「式典に呼ばれていたらしいけど、遅れて到着したから難を逃れたって。名前は、ヴァレリアさん……だったかな。あの人も怪我しているのに、わざわざここまで運んできてくださったのよ」
「ヴァレリア……」
 その名に何となく聞き憶えがある気がした。少し考えたが、結局思い出せなかった。
「そういや、目が覚めたら登城するようにって、お城の人に言付けされていたんだけど」
 セレナが言った。
「まだ安静にしていた方がいいよねぇ。お城に行くのは明日にしようか」
「いえ、大丈夫です。着替えたら行きます」
 窓の外を見ると、まだ日は高い。体調も悪くないし、あの出来事はすぐに報告しておくべきだろう。
 本当に大丈夫かい、とセレナはなおも心配そうだったが、アシュレーがしっかり頷いてみせると渋々部屋を出ていった。
「マリナ」
 セレナの後をついて退出しようとする幼馴染みを、彼は引き留めた。
「なに?」
「僕は何も……変わっていないよな?」
 その言葉に、彼女は少しだけ首を傾げ、眉を寄せた。
 そして、間を置いてから。
「変わってないよ。でも」
 僅かに笑みを湛えながら、言った。
「たとえ変わっても、アシュレーはアシュレーだよ」
 ……ああ。
 扉が閉じられ、彼は再び一人になった。
「その通り、だな」
 立ち上がり、窓越しに空を眺める。
 澄んだ青がとても──眩しかった。
其方そなたがウインチェスターか」
 玉座の肘掛けに頬杖をつきながら、王は言った。
 登城したアシュレーは事件についての取り調べを受け、その後すぐに謁見の間へと通された。役人に急き立てられるまま玉座の前に立ち、慌てて決まらない敬礼をしたところで、王が切り出す。
「何ともまぁ、災難であったなぁ」
「いえ。生きて帰ることができただけ、自分は幸運でした」
 アシュレーは緊張した面持ちで答える。王とは銃士隊の入隊式で一度拝謁しているが、面と向かって言葉を交わすのは初めてだった。
「そうよのう。しかし、なにゆえ其方だけ生き残ったのか……」
 髭を撫でながら、メリアブール王はしげしげとアシュレーを眺める。
 商業国メリアブールを統べる王は、自身も商人のような風貌をしていた。垂れ気味の細い目とふくよかな頬は施政者にしては威厳に乏しく、頭に戴く絢爛な宝冠もまるで似合っていない。貫禄を出すためか顎髭を喉許まで伸ばしていたが、それもあまり効果は感じられず、精々が怪しげな豪商、といった風情であった。
 品定めでもするような視線に、アシュレーは目を伏せた。それに気づいた王が、おお、と声を上げる。
「すまぬな。其方を疑っている訳ではないのだ。ただ、あの事件は何から何まで奇怪であったからのう」
 はい、と返事だけして彼は押し黙った。メリアブール王はまだ興味津々に眺めてくる。
「まあよい。事件に関しては引き続き調査が行われているが、恐らく不穏分子によるテロということで片づくであろう」
「テロ……ですか?」
 あれが?
 あんなおぞましい出来事が……テロだって?
「降魔儀式、という魔術があるそうだ」
 彼の心中を察したように、王が説明する。
「異世界の魔物を召喚して人間に憑依させる禁術……それを何者かが使ったのであろうと、あの男が申しておった」
 ──あの男?
「しかしそうなると、敵はかなりの力を持つ魔法使いということになるのう。果たして我らで対処できるものか……」
 王が渋面を作って考え込んでしまったので、聞き返すタイミングを失ってしまった。
「ああ、すまぬ。どうにも最近は憂い事が多すぎるな」
 いささか窶れた顔をしながら、王は姿勢を正してこちらに向き直った。
「何か其方から聞きたいことはあるか?」
「あ、はい……」
「あの男」のことも気になったが、それよりも。
「その、ARMSはどうなるのでしょうか」
「まあ、解散だな」
 王は言い切った。
 当然……か。
 自分以外誰も生き残っていないのでは、存続できるはずがない。
「──と、そのつもりではあったのだが」
 俯きかけたアシュレーの耳に、意外な言葉が飛び込んできた。
「あの男がARMSを買い取りたいと申し出てきてな。物好きなことよのう」
 ──また「あの男」だ。
「それは誰ですか?」
 今度はすぐさま尋ねた。
「其方を助けた男よ」
 大儀そうに王が答える。
「今までろくに登城せず隠棲していた癖に、ここにきて急に出張りおって。一体何を考えておるのか」
 アシュレーを助けた男。
 マリナによれば、ヴァレリアという名の貴族らしいが……。
「まあ、買うと言われても残っているのは『ARMS』という名と、其方だけなのだが。要は儂のお墨付きが欲しいのであろうな」
「いったい何者なんですか?」
 アシュレーの言葉に、王は意外そうに眉を吊り上げた。
「何だ、知らんのか。英雄の名も歳月には勝てんのだな」
 ──英雄?
「彼奴の名は、アーヴィング・フォルド・ヴァレリア」
 ──ああ。
 アシュレーはようやく思い出した。
 どうして忘れていたのだろう。それは自分にとって特別な名であったはずなのに。
「『剣の聖女』アナスタシア・ルン・ヴァレリアの──末裔だ」
 聖堂から回収された荷物を引き取るため、銃士隊の詰所に立ち寄った。
 顔見知りと他愛ない会話を交わしてから、隅にまとめて並べてあった荷物の前に行く。
 自分の荷袋はすぐに見つかった。アシュレーはそれを取ろうと手を伸ばしたが。
「……あ」
 横にあった別の荷物に、気がついた。
 見憶えのあるリュックと、水筒、そして……ナイフが三本。
 マルコの──荷物だ。
 真新しいリュックには黒ずんだ染みが付着していた。血糊か、それとも魔物の体液か。
 ──お前のせいで、わざわざ新調する羽目になったんだぜ。
 聖堂で再会したとき、冗談交じりにそう言われたのを不意に思い出した。今度酒でも奢るよとアシュレーが返すと、今度じゃない今夜だと彼は笑って──。
 その場に、膝をついた。
「……酒、奢りたかったのにな」
 彼の荷物に語りかけるように、アシュレーは呟いた。
 断片的に残る、事件の日の記憶。その中には、この手で彼を──。
「僕の……せいだな。確かに」
 なぜか、笑みが浮かんできた。
 悲しみと、後悔と、喪失感と──怒濤のように押し寄せてきた感情が通り過ぎた、その後には。
 乾いた笑いだけが──残ってしまった。
「君は確かに、この世界に生きた」
 この荷物が。この胸に残る記憶が、その証だ。
 アシュレーは並んでいたナイフを一本取って、前に翳した。
「君が『生きた』証を、できる限り、この世界に留めておこうと思う」
 それが自分にできる唯一の贖罪だと信じて──。
 
 青年は、再び立ち上がった。
 その手に握った友のナイフあかしとともに。
 城を出ると、既に空は茜色に染まっていた。
 人気のまばらな大通りを抜け、肌寒い風の抜ける広場を通って、アシュレーは店への帰り道を急ぐ。
「……ん?」
 店の入口の横に、見慣れない人影があった。
 日の陰った路地は薄暗かったので遠目にはわからなかったが、近づくとそれは少女だった。背中で二つに分けて束ねた亜麻色の髪と、裾に奇妙な金属の塊がぶら下がっている赤いマントが見えた。
 アシュレーが近づいても、少女は全く気づかない。ショーウインドウに両手と額と鼻の頭をべったりつけて、いかにも物欲しげに店内を見つめている。ぽかんと開いた口の端からは涎も垂れていた。
 アシュレーは彼女の横に立って、同じように店を覗いてみた。一心不乱に見つめる視線の先は……カウンターの横の棚。そこには売れ残っていた焼きそばパンがずらりと並んでいた。
 カウンターに目を遣ると、店番をしていたマリナと目が合った。マリナは怪訝な顔で肩を竦める。どうやら彼女も対処に困っていたらしい。
「あの……パン、欲しいのかな?」
 とりあえず声を掛けてみる。すると少女はようやくこちらを向いて、目を丸くした。
「へぇッ? あ、えっと、な、な、なんでもござらないです」
 妙な敬語で返事をする少女。明らかに動揺している。
「店ならまだ開いているけど……入りにくいなら、代わりに買ってこようか?」
「はうッ、いや、見ず知らずの人にそんなご無体なマネは……じゃなくて、あの、そのですね……」
 赤面した顔を下に向けて、両手の人差し指を擦り合わせながら、彼女は小声で言った。
「お金……なくて……」
 絶妙のタイミングで腹が鳴る。少女は観念したようにがくりと項垂れた。
 アシュレーは溜息をついて、それから店の扉を開けた。
「マリナ、それ売れ残りだよね」
 幼馴染みに確認してから、少女に言う。
「お代はいいから、どうぞ」
「ホントですかッ!?」
 いきなり顔を上げて腕に飛びつかれた。アシュレーは面食らいつつも頷く。こちらを見つめる両目は爛々と輝いて……少し血走ってもいた。
「それじゃ、お言葉に甘えてごちそうさまです。いただきます!」
 言うが早いか少女は店内に駆け込み、焼きそばパンの並ぶ棚へとまっしぐらに向かった。
「……犬みたいだな……」
 動物に喩えられているとも露知らず、少女はパンを手にして幸せそうにかぶりついていた。
「いや~もう、最ッ高の焼きそばパンでしたッ」
 残っていた五個全部をぺろりと平らげてから、少女は言った。
「学食の焼きそばパンもまあまあ美味しくて好きだったけど、やっぱり都会のパン屋さんは違いますね。本場の味をとくと味わいましたッ」
「別にうちは焼きそばパンの本場じゃないんだけどねぇ……」
 仕事を終えたセレナも出てきて、苦笑しながら呟いている。
「君は、街の人ではないよね。渡り鳥……でもなさそうだし、どこから来たのかな?」
 アシュレーが尋ねると、少女はあッと声を上げて、それから急に姿勢を正した。
「も、申し遅れてごめんなさい。わたし、リルカ・エレニアックといいますッ。シエルジェの魔法学校に通ってます」
「シエルジェの学生さんかい。そりゃまた、えらい遠いところから来たもんだねぇ。お腹も空くわけだ」
 感心するセレナに、リルカと名乗った少女は慌てて首と両手を振る。
「いえ、その、ホントはそんなに苦労しないんです。テレポートジェムっていう転移アイテムを使えば一瞬でポーンと着くはず……なんですけど、わたしはあんまり得意じゃなくて、あちこち変なところに飛ばされて、迷子になっちゃって……」
「それでお金も底をついて、腹ペコだったわけか」
 アシュレーが語を継ぐと、リルカはあう……と項垂れた。
「それで、本当はどこに行くつもりだったの?」
 店の片づけをしながらマリナが聞く。
「ヴァレリアさんっていう貴族の人のお屋敷です。ホントはお姉ちゃんの用事なんだけど……お姉ちゃんが行けなくなったからわたしが代わりに」
「ヴァレリアだって?」
 アシュレーとマリナは目を見合わせた。今日は頻繁にこの名前を聞く。
「お姉ちゃん、その貴族の人にスカウトされたみたいなんです。新しく作る部隊に君の協力が必要だ、って。お姉ちゃんは魔法学校でもダントツで優秀な生徒だったから」
「新しく作る部隊ってARMSのことか? でも、それは……」
 アシュレーが考え込んでいる間に、リルカはセレナに尋ねる。
「ここってタウンメリアですよね」
「ああ、そうだよ」
「だったらお屋敷も近いですねッ。えっと……」
 リルカは肩に掛けていたポーチから地図を取り出すと、カウンターの上に広げる。
「ヴァレリアさん家はこのへんって聞いてるんですけど、ここから歩いて行けますよね」
 彼女の指はタウンメリアから南西にある丘を示している。
「そうだねぇ……街道を道なりに行って、途中で右に折れて……一時間ちょっとというところかな」
 地図を見ながらセレナが答える。
「それなら行けますねッ。じゃあ今から……」
 すぐに地図をポーチに突っ込んで店を出ていこうとするが。
「……あの、道案内できる人いないですか? わたしだけだとまた迷いそうなんで……」
 振り返って、申し訳なさそうに言う。
「明日でいいなら、僕と一緒に行くかい?」
 アシュレーが提案すると、リルカはいいんですかッと大袈裟に驚いてみせた。
「僕もヴァレリアさんには用があるんだ。どのみち明日行こうと思っていたから」
 ARMSがヴァレリアに譲渡されるとなれば、その一員であるアシュレーも彼の管理下に置かれることになる。
 まずは彼奴に会い、話を聞いた上でARMSに残るか、それとも辞退するかを決めるがよい──メリアブール王は最後にそう言っていた。
「それじゃ、ぜひぜひお願いしますッ。えっと……」
「アシュレーだよ」
「はいッ。よろしくお願いしますアシュレーさん」
 アシュレーの手を両手で握りながら、リルカは無邪気な笑顔を振りまいた。
 ヴァレリアのシャトーは、小高い丘の頂に建っていた。
 背丈の倍ほどの石壁に囲われた建物は、邸宅というより城と形容した方が相応しい気がした。目にも鮮やかな白亜の壁に、天を衝く槍のように聳える幾つもの尖塔。壁に連なる窓は部屋の多さを物語る。正面の三階部分には広々としたバルコニーが設えてあるのも見えた。古風ではあるが古臭くなく、それでいて威厳も風格も備えている。
「ね、ねえ、わたしたち激しく場違いなんじゃ……」
 屋敷の門前まで来たところで、リルカが急に尻込みを始めた。館の威容に気圧されたらしい。
「そんなこと気にしても仕方ないよ。というか君は招待されているんだろ」
「招待されたのはお姉ちゃんなんだって。わたしは……あッ、待ってよ」
 アシュレーは鉄柵の門を開けて敷地に入った。リルカもおっかなびっくり後からついてくる。
 館の入り口は木製の大扉で閉じられていた。扉の中心についていた叩き金ノッカーを叩くと、すぐに扉が開いて若い男が顔を出した。
「どちらさまですかぁ?」
 鼠色の帽子を被り、同じ色をした作業着のようなものを着ていた。寝起きなのかしょぼついた目を擦りながら応対する。
「ARMS所属のアシュレー・ウインチェスターです。ヴァレリア公にお目通り願います」
 アシュレーが答えると、男は何度も瞬きしながら彼を見て、それから彼の背後に半ば隠れている少女に目を向けた。
「そちらは?」
「は、はいッ。招待してくれ……ご招待にあずからせていただきましたエレニアック……の妹です」
 最後の部分は聞き取れないくらい小声で言った。男は小首を傾げて少し考えてから。
「どうぞ。応接室にご案内します」
 扉を開け放って二人を招き入れた。
「よ、よかった~……その場で斬り捨て御免とかされるかと思った」
「……君は貴族を何か勘違いしてないか……」
 囁き合いながら二人は男に従ってホールを抜け、奥へと進む。
 邸内の雰囲気はやはり城と似ていたが、城よりも装飾は乏しく、実用性に重きを置いている感もあった。照明は燭台や篝火ではなく電灯で、部屋の其処此処には何かの装置らしきものが窺える。
 そして、彼らが向かった先にも。
昇降機リフトまであるのか……」
 男が鉄扉の横のスイッチを押すと、機械の駆動音とともに箱が降りてきた。自動で開いた扉を潜って箱に乗り、上階に向かう。
 三階で降りると、すぐ正面にある部屋に通された。男はこちらでお待ちください、と首を竦めるように一礼して、そそくさと退出していった。
 応接室と思しき部屋は、とりたてて目を引くような特徴はなかった。赤絨毯が敷かれ、中央に机とソファが一揃い置いてあり、壁には風景画が掛けられている。アシュレーとリルカはソファに並んで座り、主を待つ。
「ね、ねえ、アシュレーさん」
「アシュレーでいいよ」
 彼が言うとリルカは少し考えて、それじゃ、アシュレー……と言い直した。
「ヴァレリアさんって、どんな人かな」
「さあ。僕は助けてもらったみたいだけど、そのときは意識なかったからなぁ」
「助けてもらった? あ、そういや聖堂でひどい目に遭ったんだったけ」
 彼に会いに行く目的と経緯は昨日ざっと話してあった。リルカはようやく落ち着いたのか、ソファに深々と座り直してから、それにしても、と再び口を開く。
「降魔儀式、だっけ? みんな魔物になっちゃうなんて、すごい魔法があったもんだねぇ」
「凄い……って、君も魔法使いなんだろ」
「わたしなんて、まだぺーぺーだもん。使える魔法も今のところ三つだけ」
 少し拗ねたように、少女は言った。
「魔法学校でも、上のクラスになればいろいろとおっかない魔法も習うんだけどね。一歩間違えば使う人も無事じゃすまないような……」
「リルカ?」
 途中で俯いてしまったので、アシュレーは振り向いて声をかける。
「ん。なんでもない」
 リルカは顔を上げて、また元のように話し始める。
「でもさ、そんな魔物を召喚したりなんて魔法は聞いたこともないよ。あったとしても、そういうのは絶対厳重に封印されていたりするハズ。そんじょそこらのテロリストなんかじゃ持ち出せないって」
「じゃあ、一体犯人はどうやってあんな術を……」
 背後の扉が開いた。
「待たせて済まなかった」
 振り返ると──松葉杖をついた男が立っていた。
 白銀の長髪に、女性と見紛うほどの端正な顔立ち。浅葱色をした天鵞絨ベルベットのコートは前のボタンを留めておらず、内側から赤い上着チュニックを着込んだ細い腰回りが見えた。革のズボンを穿いた脚は左足のみが地面についており、右足は鉄製の松葉杖で支えている。
 この男がヴァレリア公──聖女の血を引きし者──。
 銀髪と臑までのコート、それに首許のスカーフを揺らしながら、彼は緩々と二人の座るソファを回り込み、向かいの一人掛けのソファに腰を下ろした。
「座りながらで失礼する。こういう状態なものでね」
 詫びを入れつつ、松葉杖をソファの脇に立てかける。
「君たちもそのままで結構。さて……」
 こちらを向いて、徐に切り出す。二人を鋭く見据える碧眼と、左眼の下にある黒子が目についた。
「承知のこととは思うが、私はアーヴィング・フォルド・ヴァレリア。国王陛下の任を受けてメリアブール中部を治めている」
「お目にかかれて光栄です。僕は……」
「旧ARMS隊員のアシュレー・ウインチェスター君、だね」
 先に言われてしまった。彼にとっては初対面ではないのだから、知っていて当然か。
「はい。あの……聖堂ではありがとうございました」
「礼には及ばない。しかし他の者達を救えなかったのが痛恨であったな。何しろ人間の姿だったのは君だけだったからね」
「え……?」
「何か?」
「い、いえ」
 魔物になっていたアシュレーを、知らない?
 ヴァレリア公が来たときには既に人間に戻っていた──ということか。
 だけど、それなら。
 一体どうやって僕は……戻ったんだ?
 ──剣。
 そう。あのとき僕は、剣を──抜いた?
「その……僕を助けたとき、剣はどうなっていましたか?」
「剣とは?」
「聖剣……アガートラームです。祭壇の上にあった……」
「ああ」
 青白い頬を僅かに吊り上げて、笑みを浮かべる。それがどういう意味の笑いかはわからなかったが。
「消えていたよ」
「え」
「台座だけが祭壇に残っていた。テロリストに持ち去られた可能性もあるため公にはされていないが」
 あの感触は──本物だったのか。
 僕は無意識のうちに剣を抜いて、その力で……元に戻った?
「まあ、国としては剣の行方どころではないのが実状なのだろう。私を痛めつけた代物だけに因縁を感じるところはあるが」
「痛めつけた?」
 アシュレーが聞き返すと、ヴァレリア公は左手を前に出して二人に見せた。
「抜こうとしたんだよ。本気でね」
 その手には、包帯が幾重にも巻かれていた。
「魔法まで使って台座を破壊しようとしたが、その結果がこの様だ」
「剣に……拒絶されて負傷を? その脚も……」
 やはり、あの剣は本物だったのだ。
 資格なき者が抜こうとすれば拒絶される。あれは本当に『英雄』にしか振るうことができない剣なのだ。
 けれど、それならどうして……僕に抜けたのだろう?
 自分が英雄などという自惚れは毛頭ない。だが、もし本当に自分が抜いたのだとしたら……。
「血筋だけでは『英雄』たり得ぬということだな。もっと早くそのことに気づくべきであったよ」
 そう言うと、英雄の末裔は再び皮肉めいた笑みを浮かべる。
 その行為は、血筋ゆえの義務感か。それとも。
 純粋に、英雄になりたかっただけなのか。
 僕と同じように──。
「そちらのお嬢さんは、エレニアック女史だね」
 ヴァレリア公はリルカに視線を向けた。
「はッ、あの、わたしは助手じゃなくて妹でして……」
「『助手』じゃなくて『女史』って言ったんだよ。女性の敬称」
 アシュレーが囁くと、彼女はひえッと悲鳴を上げる。
「わ、わたくしはリルカ・エレニアックといいまして、エレニアックなんですけどエレニアックの妹であってそれでもエレニアックではあるからして、それで、その……」
「……つまり、招待を受けたお姉さんの代理で来たそうです」
 とても伝わりそうにないのでアシュレーが代弁した。リルカは、そうなんです……と真っ赤になった顔を下に向ける。
「お姉さんは……『エレニアックの魔女っ子』は、来られないのかな?」
「お姉ちゃんは魔法の実験で事故に巻き込まれてしまって、それで……」
「そうか……」
 ヴァレリア公は眉間に皺を刻んで、顎を撫でた。常態からして蒼白な面相は、険しい表情になると一層怖くなる。
「あ、あの、わたしもいちおう魔法使いなんです」
 それでもリルカは顔を上げて、懸命にアピールを始める。
「お姉ちゃんに比べたらぜんぜんで、まだクチバシは黄色いし尻も青いですけど、そのぶん伸びしろは未知数だと思うし、根性だけは自信あるから……」
 表情を変えずに見つめてくる貴族の男に挫けたか、次第に調子が落ちてくる。
「その……わたしじゃ、お姉ちゃんの代わりには、なりません……よね……」
 結局、また俯いてしまった。
 ヴァレリア公は碧眼を彼女に向けたまま、しばらく押し黙っていたが。
「魔物と戦った経験は?」
 不意に、尋ねた。
「あ、はいッ。ついこないだ、村を困らせていたでっかいモンスターをやっつけました!」
 机に手をついて身を乗り出し、最後のチャンスとばかりに声を張る。
 それを見た彼は、ふ、と僅かに表情を緩め、
「合格だ。今日から君もARMSで働いてもらう」
 微笑を湛えながら、そう言った。
「ありがとうございますッ!」
 リルカは満面の笑みで立ち上がって、ぺこりとお辞儀をした。
「いいんですか? こんな子供を……」
 少し呆れつつアシュレーが口を挟むと、リルカは余計なこと言うなとばかりに肩を叩いてきた。
「我がARMSは実力重視だからね。年齢は問題ではないよ」
 それより、とヴァレリア公は再びアシュレーに目を向けた。
「君はどうするのかな。私としては是非とも欲しい人材なのだが、もちろん君の意思は尊重する。参加するか否かは君次第だ」
「……はい。その……」
 アシュレーは背筋を伸ばし、正面を向いて言った。
「あなたがARMSを買い取った目的を……お聞かせ願えますか」
「目的──か」
「はい。それを伺ってから、参加するかどうか決めたいと思います」
 ARMSは私人であるこの男の手に渡った。それはつまり国家のくびきから外されたことを意味する。国を護るという、これまでの大義名分は失われた。
 だからこそ、新しいARMSには明確な理念が必要なのだ。組織を纏めるのは人ではなく、大義や理念──そうしたものであると、アシュレーは思っている。
 この男がどういう理念でもってARMSを率いるのか──まずはそれを知らなければならない。
「そうだな──」
 ARMSの長は、少し首を擡げて目を細めた。
「世界の統一──かな」
「は?」
 突拍子のない言葉が出てきて、アシュレーは目を丸くした。
 しかし彼は表情を変えず、淡々と語った。
「昨今の魔物の急増や不安定な情勢に対処する……それが旧ARMSの設立目的であった。新ARMSも基本的な線は同じだ。だが、私はそこからさらに踏み込もうと思う」
「踏み込む、とは?」
「世界は動揺している。それは今回の『剣の大聖堂』のテロによって更に激しくなるだろう。最早一国の部隊が場当たり的に対処した程度では、この流れは止められない。今、必要なのは……国家を超えた存在なのだ」
 ──国家を超える?
「国家間の利害を調整し、妥結を図り、全人類の意思とも言うべき統一した理念を確立する。人類の敵に対抗するためには、それが必要だと私は考えている」
「人類の敵とは……テロリストのことですか?」
「目下ではそうなるね。魔物増加の原因が判明すれば、勿論それも対象だ」
 涼しい顔で言い放つ彼に、アシュレーは困惑した。
 ──ARMSを、国家を超えた機関にする?
「そんなことが……可能なのですか」
「理想というのは常に不可能としか思われないものだ。人の頭は既成概念というものに縛られているからね。しかし、そこから抜け出さなければ新たな概念は作れない」
 銀髪の貴族は、そう嘯く。
 この男。果たして。
 信用──できるのか?
 大きな疑念が湧いた。しかし、それと同時に……胸を熱くする何かも生じていた。
 そうだ、この男は。
 ──英雄の末裔──。
 剣には選ばれなかったが、彼は彼なりのやり方で『英雄』になろうとしている……ということか。
 ならば、僕たちは。
「……わかりました」
 僕たちは、同志だ。
 英雄を欲し、英雄を目指さんとする──。
「あなたのARMSに、僕も加わりましょう」
「活躍を期待しているよ」
 手袋を填めた右手が差し出される。アシュレーはそれをしっかりと握った。
「も、もしかしてわたし、安請け合いしちゃったのかな……」
 二人のやりとりを見ていたリルカが呟く。壮大な展望を聞いて怖じ気づいたらしい。
「なに、悪いようにはしないよ。君には君なりの役割を果たしてもらうから」
「ど、どんな役割ですかぁ~?」
 及び腰で尋ねる少女を、美形の貴族は顎を撫でつつ眺める。
「そうだな……そのあたりの話を先にしておこうか。私の部屋に来てくれるかな」
「部屋に……って、な、な、なにする気ですかッ!?」
「そんな警戒しなくても、子供相手に何もしないって……」
 アシュレーの言葉に、リルカはうるさいッと顔を真っ赤にして叩いてきた。
「私も一応魔法使いなものでね。シエルジェの学校にも通っていた」
「え、そうなんですか?」
「だから、君の魔法使いとしての能力を確認したいのだよ。それと、君のお姉さんに関する話も、ね」
「あ……はい、わかりました」
 姉という言葉を聞いた途端、リルカは萎れて、こくりと頷いた。
「申し訳ないが、アシュレー君はしばらくここで待っていてもらえるかな」
「はい、構いません」
 返事をすると、ヴァレリア公は松葉杖を取って立ち上がる。
「後から君も部屋に来てくれ。誰か呼びに行かせる」
「わかりました」
 リルカを伴って、彼は応接室を出ていく。
 最後にリルカと目が合った。彼女は痛いような笑顔を浮かべてから、そっと扉を閉めた。
 その表情が妙に印象に残って──アシュレーは首を傾げる。
 何か……あるのだろうか。
 普段は明るく賑やかにしている彼女だが、こと姉の話になると、その表情に翳が差すように見える。
 魔法実験の事故、というのはアシュレーも聞いていた。だがそれ以上は言及しようとしない。深く尋ねようとしても、すぐに話題を変えて躱されてしまう。
 来られない、という言い回しも引っかかっていた。亡くなったとは言っていないので、大きな怪我で動けない状態なのかとは漠然と思っているのだけれど……。
 ──何か、違う気がする。
 もしかして、彼女は姉の事故に……。
「……ふう」
 壁の風景画を眺めながらしばらく考えたが、大したことは思いつかなかった。
 所詮は全て推測に過ぎない。真意は彼女にしかわからないのだから。
 どのみち自分も彼女もARMSの一員になったのだ。一緒に行動して親しくなれば、そのうち打ち明けてくれる機会も出てくるだろう。
 思考を打ち切ってソファに座り直したとき、扉がノックされて開いた。
 アシュレーは振り返り──目を瞠る。
 まるでお伽噺の王女がそのまま出てきたような女性が、立っていた。
 金糸で模様が織り込まれた純白のドレス。蜜の川が流れているかのような美しい金髪。少し青醒めた顔立ちは、先ほど同じように立っていたヴァレリア公によく似ていた。
「あなたは……」
「アルテイシアと申します。兄の……アーヴィングの使いで参りました」
 鈴を転がしたような声色で挨拶する。
「あ、い、妹さんでしたか……」
 見蕩れていたアシュレーが慌てて取り繕う。髪の色と服装、そして性別を除けば、確かに彼女は兄と瓜二つだった。左目の下には彼と同じ黒子もある。
「アシュレーさん……でしたね。兄がお呼びです。お部屋は……ご案内しましょうか」
「は、はい、お願いします」
 アシュレーは立ち上がり、扉に向かおうとしたが、ソファの角に脚を引っかけて転びそうになる。
「すッ、すみません」
「いえ。大丈夫ですか」
 ころころと上品な笑いを浮かべてから、では参りましょうと廊下に出る。
 アシュレーは廊下を歩きながら、すぐ前でひらひら揺れる金髪とドレスを眺める。
 本当に──現実離れした女性ひとだ。身なりも仕種も、そして顔も……。
 ──そうか。
 ヴァレリア公の妹ということは、すなわち彼女も聖女の末裔なのだ。同じ性別であるがゆえに……兄以上に「聖女の血」が強く表出しているのかもしれない。
 伝説の存在でしかなかった女性。それが今、この前に──。
「驚いたでしょう」
 彼女が言った。アシュレーは慌てて返事をする。
「は、え、何が……ですか」
「この恰好。いくら貴族でも今時こんなドレスは着ないというのに。可笑しいでしょう?」
 アルテイシアは少し振り返り、目許だけで笑ってみせた。
「そ、そんなことないですよ。よく似合っています」
 どうにか言葉を返したが、褒め方がいかにもぎこちない。昔から彼は、幼馴染みのマリナを別にして、妙齢の女性と接するのが苦手だった。
「わたくし、ほとんどこの屋敷を出ることがありませんから……どうしても世間の空気から外れてしまうのです。なるべく合わせようと努力はしているのですけれど」
 最近はカレーなんていう料理も作っているのですよ……と、鷹揚とした口調で話をする。気の利いた返しが思いつかないアシュレーは、ただ、はあ、と相槌を打った。
「あら、お喋りが過ぎましたわね。申し訳ありません」
「い、いえ。全然」
 さっきまで横にいた女の子に比べたら無口もいいとこです……と思ったが、口にはしなかった。
 角を右に折れたところで、アルテイシアが立ち止まる。
「この先が兄の部屋です」
 アシュレーの脇に立ち、華奢な腕で先を示す。ふわりと花のような甘い香りが鼻を擽った。
「それでは、わたくしは失礼しますね」
「はい……どうも」
 その匂いに気を取られているうちに、彼女は来た道を引き返していった。
「……ああ、駄目だ」
 陶然とした頭を振り、気を取り直して部屋へと向かった。
 彼女が示した扉の前に立ち、二回ノックをする。しかし応答はなかった。首を捻りつつ、今度は強めに叩いてみたが、やはり反応はない。
「いない……のか?」
 ドアノブを掴んで試しに回してみる。かちゃりと音を立てて扉は開いた。隙間から覗き込むと、書棚と書き物机が見えた。人の姿はない。
 アシュレーは扉を開けて中に入る。やはり誰もいなかった。ひとしきり部屋を見回してから、嘆息をつく。
 まったく、人を呼んでおいてどこ行ったんだ──と引き返そうとしたとき。
「動くな」
 突然、声がした。
 首を回して再び振り向くと──書き物机の向こうに、帽子を被った男の頭があった。玄関で応対した男と格好は同じだが、初めて見る顔だった。
 そして、男の手許には。
「な……」
 ライフルの銃口が──こちらに向けられていた。
「大人しくしてもらおうか」
 書斎の奥のドアが開き、ヴァレリア公が姿を現した。背後にはリルカの姿もあった。
「こ、これは一体……あ、あなたまで……ッ!」
 彼の手にも銃が握られていた。包帯を巻いた左手で構えつつ、こちらへ歩み寄る。
「アシュレー・ウインチェスター」
 目の前に立ち、鳩尾に銃を突きつけながら、英雄の末裔は言った。
「陛下の勅命により、君の身柄を拘束させてもらう」