■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Mission 4 覚醒

 ヴィンスフェルト・ラダマンテュスは、瞑目めいもくしながら部下の報告に耳を傾けていた。
 機械と金属に囲まれた、薄暗い部屋である。光源は真上の天井に設置された電灯のみ。降り注ぐ人工の光を一身に浴び、革命集団の長はおごそかにたたずむ。
「バルキサスのテスト飛行ですが、概ね成功です。この結果であれば実戦投入も可能と思われます」
 彼の背後で報告を行うは、オデッサ特選隊『コキュートス』が一人──カイーナ。二十一の若輩にして側近入りを果たしたこの若者は、未熟な面を露呈させることはあるものの、魔術禁術の扱いに長け、主君への忠誠心もあつい。ヴィンスフェルトにとっては最も信頼の置ける右腕である。
「ただ……やはり旧型だけにエネルギーの消耗が激しいようです。一度の飛行にかかるコストを考慮すると、頻繁に使用することは難しいかと」
「その点についてはプラントが完成すれば解決する。そうだろう、トロメア」
 猛禽もうきんの眼を見開き、横に直立している隻眼せきがんの巨漢に話を向ける。
「いや、ま、そうなんですけどねえ」
 おどけるように肩をすくめたこの男──トロメアも、特選隊に属する戦士である。五年前の戦役では解放軍として参加しており、所属した部隊が壊滅した後も孤軍奮闘して政府軍を手こずらせたという。結局は捕虜となったが、その実績を買ったヴィンスフェルトが裏から手を回して引き入れ、部下としたのだった。
「現在の稼働率は六十パーセントが限度でして。予定通り施設を完成させてフル稼働に持っていくには、人手も資材も足りないんですわ」
 要するにコレの問題、とトロメアは親指と人差し指で円を作ってみせた。
「我らの当面の敵は、資金ということか」
 銀髪の首魁しゅかいけた頬を引きらせて、苦笑する。
「統一国家なんて大風呂敷を広げた割には、世知辛せちがらい話ですねぇ」
 けけ、と鳥のようにわらう丸眼鏡は、コキュートス筆頭格のARM使い──ジュデッカ。かつてはその筋で名を馳せた渡り鳥で実力は折り紙つきだが、その屈折した性格ゆえに扱いが難しい男でもある。
「控えよジュデッカ。閣下に失礼だ」
 カイーナがいさめると、ジュデッカははいはいと疎略そりゃくに返事してから指で眼鏡を押し上げた。
「バルキサスの黒き翼は、見る者を圧倒させる」
 ヴィンスフェルトは言った。
「我らの威を示すためにも、飛空機械は不可欠である。それに──こいつのこともある」
 それから貌を上げて、周囲を見渡す。
 薄闇の中を無数のパイプが走っている。それらは血脈のごとく壁や床を這い、機械の箱を通って束ねられ、最後には正面の巨大な装置へと結集していた。
 装置は今は沈黙し、奇怪な大樹のように彼の前にそびえている。
 早く、こいつを。
 起こしてやらなければな──。
「トロメア、エネルギーの増産を急げ。一刻も早くプラントを完成させるのだ」
「はあ。ですが」
「資金なら案ずるな。当てはある」
 その言葉にカイーナが反応した。
「それは、あの『ランドルフ』の件の……」
「うむ」
 振り向くと、若き部下は不安そうにこちらを窺っている。
「一体、何者なのでしょうか」
「お前が心配することではない」
 靴音を立てて歩を進め、カイーナの前に立った。長い前髪を指で払い退けると、髪に隠れていたみどりの瞳が露わになる。
 朝露を湛えた若草のようなその瞳は、どこまでも清澄で──恐ろしいまでに純粋であった。
「全て、私に任せておきなさい」
「は……」
 殊勝にかしこまる若者を見て、彼は口許を吊り上げる。
「遅れて申し訳ありません」
 奥の扉が開き、足早に女が入ってきた。
「報告を聞こうか、アンテノーラ」
 ヴィンスフェルトが向き直る。女は彼の前で一礼し、胸許に落ちた長い赤髪を振り払ってから、抱えていた資料に目を落とす。
「先日、我々と接触した一団ですが、正体が判明しました」
 一分いちぶたりとも表情を崩さずに話すこの女こそ、特選隊の最後の一人──アンテノーラである。情報収集及び諜報活動を担い、特殊鋼糸こうしを用いた暗殺術を得意としている。
 だが、そうした役割や能力以上に──彼女はヴィンスフェルトにとっては重要な存在であった。
「彼らは緊急任務遂行部隊……ARMSを名乗り、各地でテロの鎮圧を行っているようです」
「ARMSだって?」
 カイーナが声を上げた。
「でも、そいつらは降魔儀式の実験で潰したはずでは」
「そうね」
 アンテノーラはおもてを上げる。どこか愁いを帯びた双眸そうぼうは妖しく、そして美しい。
「メリアブールが編成したARMSは確かに壊滅しました。しかし──その後に何者かが権限のみを買い取って再編成したようです」
「私設の軍隊ってことか?」
 トロメアが聞くと、赤髪の女は首肯しゅこうした。
「まだ結成から日が浅いため、軍隊と呼べる規模には至っていないようですが。それでも隊員の中には、かの『英雄』ブラッド・エヴァンスの名も確認されています」
「ブラッド・エヴァンスだと?」
 ヴィンスフェルトはトロメアを見た。隻眼の巨漢はぽかんと呆けたような顔をして、それから頭の後ろを掻く。
「いや……俺は『英雄』の部隊とは別行動だったから、顔も何も知らないんですよ。そういややたらとゴツい熊みたいな野郎がいたが……あれがブラッド・エヴァンスだったのかな」
 弁解するトロメアを後目しりめに、かつての解放軍指導者は五年前の記憶をさかのぼる。
 彼にしても、ブラッド・エヴァンスに関する記憶はさほど多くない。あの男が『英雄』などと持てはやされるようになったのは、彼が解放軍を離れてからなのだ。それまでは単なる部下の一人に過ぎなかった。
 当時、彼には大勢の部下が取り巻いていた。あの中にいたのは──間違いないのだが。
 ──そうだ。あの男の頬には。
「頬に傷はあったか?」
「傷ですか? ……ああ、あったかもしれませんね。武器を取り上げるときチラッと見ただけですけど」
「ならば間違いない。ブラッド・エヴァンスだ」
 ヴィンスフェルトはトロメアを見切って、眉間に皺を寄せる。
 もはや表舞台に立つことはないだろうと、等閑とうかんに付していたが。
 ──やはり始末すべきだったか。
「まあ良い。『英雄』といえども過去の話だ。今となっては何もできまい」
 そう言うと、アンテノーラに続きを促す。
「現ARMSは、メリアブールの支援を多少なりは受けていますが、基本的には所属する国家を持たない独立部隊となっているようです。権利を買い取り指揮官となったのは、メリアブールの貴族であるとか」
「ふん、貴族か」
 ヴィンスフェルトは鼻を鳴らす。
 貴族というのは、本当に酔狂なものだな──。
「彼らは現在、シルヴァラントに向かっているようですが……いかが致しましょう」
「放っとけばいいんじゃないかぁ?」
 トロメアが脳天気な声で言う。
「前のアジトで見た感じじゃ、ありゃ素人に毛が生えたような連中だぜ。ブラッド・エヴァンス以外は子供とケツの青い若造だったしな」
「けれど、この前みたいにまた邪魔されるのも鬱陶うっとうしいな」
 カイーナが言う。
おそれながら、手間のかからないうちに潰しておくことが得策かと、自分は考えます」
「そうだな」
 若い部下の進言を承けて、ヴィンスフェルトは言った。
「だが、どうせなら──我らの利となる形で潰れてもらおうではないか」
 そして、薄闇に半ば溶け込んでいた丸眼鏡の男を見遣る。
「ジュデッカ」
「はい?」
「シルヴァラントに向かうのだ。お前のやり方で、奴らをもてなしてやるがいい」
 眼鏡の奥の切れ長の眼に──光が灯った。
「そりゃ嬉しいな。眼鏡がズリ落ちそうだ」
 指で眼鏡を押し上げて、ジュデッカは粘度の高い笑みを浮かべる。
「カイーナ、ジュデッカに玩具おもちゃを見繕ってやれ。何かの役には立つだろう」
「……御意」
 カイーナは呪文を詠じ、頭上の空間から巨大な鍵を取り出した。
 ──魔鍵『ランドルフ』──。
 銀髪の魔術師は、その鍵を前に突き出して、ひといきに回した。かちり、という解錠の音と同時に空間が凝結し、鍵に突かれた地点の周辺が──四角に切り取られた。若者は扉のようになった空間を開け放ち、その中に腕を差し入れる。
 混沌の海の中から取り出されたのは──人の頭ほどの大きさをした球体。タールと血液をり固めたような色をしている。
 カイーナはそれをジュデッカに向けて放り投げた。禍々まがまがしい球体は放物線を描き、丸眼鏡の男の手に収まる。
「ありがたーく、使わせてもらいますよ」
 ジュデッカはそう言い置くと、足取り軽やかに闇の彼方へ歩いていった。
「よろしいのですか、あの男で」
 カイーナが眉をひそめつつ、尋ねてくる。
「始末をするなら、この私が……」
「単なる始末なら、お前で良かったのだがな」
 ヴィンスフェルトは言う。
「ここはあの奇人に任せておくがよい。精々せいぜい愉快な趣向を凝らしてくれるであろう」
 我々に楯突く者の、哀れな末路を。
「──民草たみぐさどもに知らしめるのだ」

「うへぇ」
 行く手に広がるそれを目の当たりにして、リルカが口をひん曲げた。
「なによ、コレ……」
 アシュレーも返答に窮して、その異様な風景を茫然と眺める。
 真っすぐ延びた街道の両脇を、無数の巨大な草花が埋めつくしていた。
 しかも、ただの草ではない。いずれも毒々しい色をした肉厚の花弁を持ち、中心には歯のような鋭い棘がびっしり生えていた。茎から枝分かれした葉は鞭のように細長く、風もないのにゆらゆらと揺れている。
「わたし知ってる。こいつ、土管からニュッて出てきて、火の玉とか吐くんだよ」
「……どこの世界の知識なんだ、それは」
 アシュレーが突っ込むとと、リルカはどこだったかなととぼけた。
「火の玉はともかく、人間にとって危険であるのは確かだな」
 横に立ったブラッドが言う。
「人が近づくとあの葉で絡め取って窒息させ、息の根を止めてから『食う』のだと聞いている」
「人を、食う?」
 食虫ならぬ食人植物、ということか。
「こいつらも……魔物なのか」
「元はただの食虫植物だったのだろう。動物と同様に、何かの影響を受けて魔物化したのかもしれん」
 ブラッドは目を細めて、悪夢から出てきたような花畑を眺めている。
「植物にまで影響が出るなんて……」
 一体このファルガイアに、何が起きているのか。
「どうするの? このまま進んだら絶対捕まってナムアミダブツだよ」
「お陀仏な。そうだな……魔法頼めるかな、リルカ」
 植物ならば、炎の魔法で燃やしてしまうのが早いだろう。
「いいけど、この数はちょっと骨かなぁ。道の近くの奴だけにしても……」
「ああ、それなら」
 アシュレーは荷袋を下ろして、袋の中から火薬の入った油紙の包みを取り出した。前回の任務で使った際の余り物だ。
 包み紙ごと食人植物の群れに投げ入れ、それからリルカが炎魔法フレイムを放った。炎が火薬に移って爆風が生じ、周辺の花をたちまち焼きつくす。
 数分で炎は収まり、ひとまず通り抜けられる程度の道は開けた。
「よし、行こう」
 なるべく道の中央を、三人固まって進んだ。両脇からは生き残った食人植物たちが、こちらに向かってしきりに触手のような葉を伸ばしてくる。
「うえぇ……キモいなぁ……」
 届かないとわかりつつもやはり怖いのか、リルカはアシュレーの外套がいとうにしがみついて身を縮める。
「気をつけた方がいいぞ。これだけいたら、中には地面から抜け出して歩いてくる奴がいるかも」
「へ、ヘンなこと言わないでよッ。……ひッ、ね、ねえ、あっちの、ちょっと動いてない? ねえってばッ」
 気を紛らせようと放った冗談だったが、逆効果だったらしい。取り乱した彼女によって首元の赤いスカーフは散々引っ張られる羽目になった。
 結局へばりつくリルカをアシュレーが半ば抱えて、巨大植物の群れを無事に通過した。
 気色悪い花が見えないところまで来ると、リルカはようやく外套を離してホッと胸を撫で下ろす。解放されたアシュレーも乱れたスカーフを直した。
「それにしても、やっぱりこの辺は魔物が多いんだな」
 シルヴァラント城を発ち、街道を東に進むこと二時間あまり。この間、彼らは幾度となく魔物と遭遇していた。つい先程も鹿の角を持った怪鳥の群れに襲われたばかり。メリアブールでは街道で魔物に出くわすことなど滅多になかったものだが。
「むしろメリアブールの状況が特殊だと思うべきだな」
 アシュレーの意を汲んで、ブラッドが言う。
「どの地域でも街の外に出ればこんなものだ。メリアブールが平和すぎたんだ」
「ふ~ん。でも、どうしてメリアブールだけ魔物が少なかったのかな」
 リルカの疑問に、アシュレーは少し考える。
 理由として思い当たるのは──。
「剣の大聖堂……アガートラームか」
 ブラッドも首肯しゅこうする。
「あの聖剣が、文字通り魔除けになっていたのだろうな」
 ならば、これからはメリアブールも魔物が増えてしまうのかもしれない。
 聖剣は既にあの地にはない。忽然こつぜんと消えてしまった──ことになっているらしいが。
 本当は、僕が──。
「あれ?」
 隣でリルカが声を上げた。
「なんか建物があるけど……街じゃないよね。なんだろ」
 彼女は道の左側──北の方を眺めていた。アシュレーもそちらを見る。
 曇天どんてんの空の下に、古びた建物が鎮座していた。遠目ながらも重厚そうな石壁が窺えたが、城や貴族の館とはやや趣が異なる。巨大な箱を単純に積み上げたような無骨な造りで、しかも所々が崩れかけ、朽ちかけていた。
「ゴルゴダ刑場だ」
「刑場……って、罪人を処刑する場所の?」
 アシュレーが尋ねると、ブラッドは僅かに視線を逸らしながらそうだと答える。
「かつては唯一の重罪人収容所だったと聞いている。イルズベイル監獄ができてからはそちらに移管されたため、今ではただの廃墟だがな」
「『元』刑場ってことか」
 そう呟いてから再びリルカを見ると、彼女は建物を凝視したまま固まっていた。
「どうした?」
 声をかけると、彼女は建物を指さして。
「いま、あそこに……」
 と言いかけて、首を振った。
「……気のせいだよね。ごめん、なんでもない」
 少女は自分に言い聞かせるように呟くと、くるっと右に直って街道に戻っていく。
 少し気にかかったが、アシュレーもその背中を追って再び歩き始めた。
「んで、街まではまだあるの? ハルメッツ……だったけ」
 そのまま先頭を行くリルカが尋ねた。赤いマントの先についた飾り(彼女曰く、魔力を増幅させる器具らしい)が、歩くたびにゆらゆら揺れている。
「いや、このペースならあと一時間もかからないと思う」
 魔物に邪魔されなければ、という前提つきだが。
「たしかガキんちょどもの手紙の届け先も、そこだったよね。ちょうどよかったね」
「そう……だな」
 タウンメリアの少女がハルメッツにいる父に宛てた手紙。彼女がティムに託し、トニーを経由して、今はアシュレーの荷袋に入っている。
「でも、あの報告の通りなら、それどころじゃないかもしれないぞ」
「あ……そっか」
 無事だといいけど、とリルカは声色を落として呟く。
 アシュレーも、同じことを願った。

 ──ハルメッツにて、住民の集団失踪が発生──。

 その一報が飛び込んできたのは、彼らがシルヴァラント女王との謁見を終え、城内で返書を待っていたときであった。
 報告した兵士の証言によれば、異変に気づいたのは早朝街を訪れた行商だったという。

 ──とっくに日は昇っていたのに、表には誰ひとり姿がなく。
 ──家の中に人がいる気配もなくて。
 ──試しに近くの家の扉を叩いたが、返事がない。
 ──鍵は開いていたので中に入ってみた。けれど。
 ──家はもぬけの殻だった。他の家も確かめたが、どこも同じような具合だった。
 ──争いがあった形跡はなかった。まるで街から人だけがごっそり抜き取られたようで。
 ──ただ……唯一の痕跡といえば。
 ──多くの家では、台所に作りかけの鍋が置かれたままになっていた──。

 昨日まで街に滞在していたという渡り鳥の証言により、前日の昼までは異状がなかったことが確認されていた。つまり何かが起きたとすれば、昨日午後から今日の夜明け前まで──調理中の夕飯がそのままという状況から推察するならば、恐らく日没前後──ということになる。
 そこで一体何があったのか──。
 魔物の仕業か、あるいは人為的なテロなのか。そのことがはっきりしない以上、軍を派遣するわけにはいかなかった。まずは現地で調査を行い、住民の行方と事件の原因を特定する必要がある。
 だが、シルヴァラントにはこうした状況に対処できる体制は整っていなかった。小悪党や魔物を討伐する軍隊は備えてあるものの、今回のような不測の事態に対応できるような組織は持ち合わせていない。
 そこで、女王は決断を下した。
 たまさかその場に居合わせていた彼ら──緊急任務遂行部隊ARMSに、事件の捜査を依頼したのだ。

 街に到着した頃には、鉛色の空から小雨が降り出していた。この地方には雨期があり、今がちょうどその時期だという。
「ホントに……人がいないね」
 石畳が敷かれた道の真ん中に立って、リルカが言った。
「天気が悪いから……というわけでもなさそうだな」
 人の気配そのものが感じられない。聞いていた通り、街はゴーストタウンと化していた。
「とにかく手がかりを探そう。もしかしたら、どこかに人が隠れているかもしれない」
 手分けして街の中を調べることにした。アシュレーはひとまず近くにあった家屋をあらためてみる。
 ごく普通の民家だった。中は整然としており、争ったような形跡はない。台所には鍋や食材が放置されたままになっている。これも行商の証言通りだ。
 ……それにしても。
「これ、勝手に片づけたりしたら……駄目だよなぁ」
 一日近く経過した食材は、さすがに傷み始めて悪臭を放っていた。アシュレーは鼻をつまみつつ台所を後にする。
 居間をざっと調べたものの、失踪の手がかりになるものは発見できなかった。一階を諦めて、軋む階段を上がる。
 二階は寝室のようだった。ベッドに箪笥たんす、小さな机と椅子、そして出窓。やはり乱れた様子はなかったが。
「ん……?」
 ベッドに近づいたところで、シーツの隅に小さな染みを見つけた。
 ──これは。
「血痕、か」
 赤黒い、小指の先ほどの小さな、血の跡。それはまるで、日常の世界に空いた非日常への穴にも見えた。
 だが。
 果たしてこの血痕が、事件と関係があるのか。生活の中での怪我や鼻血という可能性もある以上、断定するのはまだ早いだろう。
 何か、他に痕跡は。
 そう思って、ふと窓に目を向けたとき。
 窓の外で破裂音が響いた。
 ──銃声。
 アシュレーは階段を駆け下り、家を飛び出した。
 ブラッドではない。彼のマイトグローブに仕込んであるARMは、あんな乾いた音はしない。
 だとすると──。
 石畳を駆けて、街の北側へ向かう。そちらはリルカが調べているはずだったが。
「ブラッド!」
 そこにいたのはブラッドだった。小さな広場のような場所で、上の方を向いたまま固まっている。
 アシュレーは止まり、同じように見上げた。
 教会と思しき聖堂の、屋根の上。立派な鐘楼しょうろうがあり、大きな銀の鐘が吊り下がっている。
 その鐘の横に──誰かが立っていた。
「このか~ね~を、鳴らすのは~、ぼ~く~」
 調子っぱずれに歌いながら、左手に持っていた拳銃で戯れに鐘を叩く。きんと甲高い音が湿った空に吸い込まれた。
「お、やっと来たね」
 待ってたよと、その男はくるりと振り向いた。
「お前は……」
 銃士風の出で立ち、細い眉と切れ長の目。そして──丸眼鏡。
「あのアジトにいた、特選隊の……」
「ご名答。『コキュートス』のジュデッカだよ。見知る必要はないけどね」
 アシュレーは肩に手をやる。すっかり治ってはいるが、この肩を撃ち抜いた男だ。
「おっと」
 銃剣を構えるアシュレーを見て、丸眼鏡の男──ジュデッカも銃をこちらに向ける。
「残念だけど、ここでドンパチやるつもりはないんだな。大人しくしててよ」
「何をッ」
「それに、下手に撃ったら、この子に当たっちゃうよ」
 そう言うと、足許から何かを持ち上げてこちらに見せた。
 ──あれは。
「り……リルカッ!」
 赤いワンピースと亜麻色の髪。少女は呼びかけに応じることなく、ぐったりと男の腕に抱えられている。
「まさか……」
 さっきの銃声は。
「大丈夫だよ。麻酔銃だって。ま、ちょっとは傷モノにしちゃったかもしれないけど」
 息巻くこちらとは対照的に、ジュデッカはあくまで暢気のんきな口調で返す。
 ──傷。
 アシュレーは先程の家で見つけた血痕を思い出す。
 もしかして、あの血痕も麻酔銃で──。
「ここの住民を襲ったのも貴様だな」
 同じことに気づいたか、ブラッドが重い声でただした。
「いやあ、大変だったよ。でも結構楽しめたかな。いかに気づかれずに全員オネンネさせるか、あれこれ工夫してさ」
「楽しめた?」
 遊戯に興じる子供のような言い草に、アシュレーは嫌悪を感じた。
「眠らせて、どこに連れて行った。何が目的だ」
 続けざま詰問きつもんするブラッドに、そう焦りなさんなとジュデッカは軽口を叩く。
「モノゴトには順序があるんだ。それを守らないと楽しめない」
「お前……ッ!」
 いきり立って銃を向けようとしたが、ブラッドに制される。
 屋根の上の男は、銃口をリルカの背中に押し当てていた。
「言っておくけど、これは麻酔銃じゃないよ」
「ぐ……」
 歯を食い縛りつつ、アシュレーは武器を下ろした。
「そうそう。それでいいんだ。えっと……」
 コホンとわざとらしく咳払いしてから、男は言った。
「今日の日没までにゴルゴダの処刑場に来ること。来ないとここの住民は──皆殺し」
「ゴルゴダの、処刑場?」
 ここに来る途中で見かけた、あの廃墟のことか。
「……あそこに連行していたのか」
 ブラッドが舌打ちする。先に気づいていれば、という後悔からだろう。
「くく……いいねぇ、こういうの。まるで悪党みたいじゃないか」
 ジュデッカは銃の先端で眼鏡を押し上げながら、ニタニタとわらっている。
「この……人でなしが」
 目で殺さんばかりに睨みつけながら、吐き捨てる。男はさらに哄笑こうしょうした。
「身に余る賛辞をありがとう。それじゃ、待ってるよ」
 リルカを脇に抱えたままきびすを返し、屋根から消えた。教会の裏手は──街の外。そちらに飛び降りて逃げたようだ。
「くそッ」
 アシュレーはかがみ込み、濡れた石畳を拳で叩いた。
「ゴルゴダ刑場か」
 ブラッドが呟く。
「十中八九、罠だろうな」
 だが、行かないわけにはいかない。
「何とか罠にかからないで救出できれば……」
 そう口走ったものの、方法など思いつくはずもない。人質はリルカと、ハルメッツの住民全員。あまりにも──多すぎる。
「策は……ないか?」
 すがるようにブラッドを見る。スレイハイムの戦士はしばらく沈黙し、それから絞り出すような声で言った。
「リルカだけなら何とかなるかもしれないが──」
 アシュレーはいぶかしむ。
「リルカだけ、って……」
「わかりやすく言えば『ハルメッツの住民を見捨ててもいいなら』ということだ」
「そ」
 そんなのは、駄目だ。
「みんなを救えなければ意味がない」
「ならば、お手上げだな」
 冷酷にブラッドが言い切る。アシュレーは肩を落とす。
「ともかく、このまま考え込んでいたら間に合わなくなる。ひとまずアーヴィングに報告して、すぐに出発だ。後は」
 運を天に任せるんだな──。
 似合わないことを言う、とアシュレーは思った。
「……わかった」
 力なく応じてから、空を仰いだ。
 雨はしばらく止みそうになかった。

 ゴルゴダ刑場は、囚人を収容する建物と、刑を執行する屋外の処刑場で構成されていた。
 建物の方は、街道から見えた印象以上に崩壊が進んでいた。入口は瓦礫がれきで塞がれ、床や天井は抜け落ち、破れた壁からは錆塗さびまみれの朽ちた鉄格子が監獄の名残とばかりに覗いている。下手に立ち入れば崩落して、命の危険すらあるだろう。
 その一方で、処刑場は外にあったのがむしろ幸いしたか、当時の面影を想起させる程度には原形を留めていた。擂鉢すりばち状に削った斜面に整然と敷かれた石段、底部の広場に残されたおぞましい処刑道具の数々。中でも中央の壇上に設置された大きな断頭台は、刃こそ取り外されていたものの、今なお強烈な威圧感を放っていた。
「あれは……ハルメッツの住民たちか」
 アシュレーの横で身を屈めていたブラッドが呟く。二人は処刑場の上部──擂鉢の縁で様子を窺っていた。
 アシュレーも反対側の斜面の石段に、その一団を見つける。二百人以上はいるだろうか。いずれも拘束されている様子はなかったが、雨の中でも身動みじろぎすることなく、まるで書き割りの観客のように処刑場の方を向いて並んでいる。
 彼らの視線を辿って、再び処刑場に視軸を移す。住民たちのいる石段と中央の断頭台の間に、無数の太い杭が突き立っていた。恐らくはりつけ刑に使われたものだろう。
「──あ」
 そこで、アシュレーは見つけた。
 杭に縄でくくりつけられた──赤い服の少女を。
「リルカッ!」
 アシュレーは叫んだ。少女は顔を上げてこちらを向く。表情はわからなかったが、ひとまず意識は取り戻したようだ。
 助けようと斜面を降りかけたとき、ブラッドに肩を掴まれた。軽率に飛び込むな──ということだろう。
 だがアシュレーはそれを振り切って、石段を一気に駆け下りた。
 どのみち策などないのだ。こうなればとことん罠に嵌まって──かき回してやる。
 処刑場の地面は、降り続く雨で緩くなっていた。靴底を泥で汚しながら中央の壇へと近づく。ブラッドも後から無言でついて来る。もはや止めるつもりはないらしい。
「はい、そこまで」
 果たして、断頭台の陰からぬっと男が現れる。アシュレーは足を止め、その姿をめつけた。
「……ジュデッカ」
 丸眼鏡のテロリストは、台の木枠に寄りかかりながら綽然しゃくぜんとこちらを見下ろす。拳銃の握られた左腕は、今はだらりと下に垂らして。
「ちゃんと約束を守ってくれて嬉しいよ。おかげでこの人たちの命は守られた」
 そう言うと、背後の住民たちを示した。彼らは一様に怯えた顔をしている。
 そして──リルカは。
「怪我はないか」
「だ、だいじょうぶ……でもないか。ごめん」
 リルカは悄気しょげた声で謝った。雨に濡れているせいか、普段より小さく見えた。
「それじゃあ役者も揃ったところで、ゲームを始めようか。……ああ、その前に」
 粘りつくような笑みを浮かべたまま、ジュデッカが言った。
「そこの二人、ARMを捨てて」
「なんだと?」
「聞こえなかったかな。武器を捨ててって言ってるんだけど」
 躊躇していると、突然銃声が上がった。
 男が杭に向けて発砲したのだ。銃弾は少女の頭の──僅か上に命中していた。
「リ──」
 心臓が弾け、息が詰まった。目を見開いて凍りつく彼女の額に、ツ……と赤い筋が流れ落ちる。
「頭の皮を軽く掠めた……ってとこかな」
 ジュデッカは銃口に息を吹きかけながら、アシュレーの方に流し目をくれる。
「人質だから殺しはしないよ。でも、言うこと聞かないと……次は耳が吹っ飛ぶかもね」
「く……ッ!」
 アシュレーは銃剣を肩から下ろし、泥の地面に叩きつけた。ブラッドもマイトグローブを外して背後に放り投げる。
「そうそう。やっぱりゲームはフェアに楽しまなきゃ。武器なんて使うのは反則だ」
 ジュデッカは満足そうにこちらを見下ろしている。その視線に堪えられず、アシュレーは顔を背けた。
「貴様の目的は俺たちの抹殺か」
 ブラッドが訊くと、まあねと男は肯定した。
「でも、ただ殺すんじゃ愉しくないじゃない。だからこんな素敵な舞台を用意して、ギャラリーも集めたんだよ」
 その言葉でアシュレーは理解した。
 つまり、これは公開処刑──なのだ。
 逆らう者を公の場で殺害して人々に見せつけることで、自らの力を誇示し、世間に畏怖の念を抱かせる。テロリストの常套じょうとう手段だ。
「それにしても、回りくどいな」
 続けてブラッドが言う。この男はこんな状況でも顔色ひとつ変えていない。
「街の住民を丸ごと連行したり、仲間リルカを人質に取ったり……もっと簡単なやり方があったと思うが」
「だから言ってるじゃない。それじゃ愉しくないんだよ」
 眼鏡を外し、ついた水滴を上着の内側で拭いながら、ジュデッカが答える。
「あっさり殺しちゃつまらないだろ。君たちにも少しはチャンスを与えて、たくさん足掻あがいてくれないと。そのために用意した舞台なんだから」
「ふざ……けるな……」
 ももの横で固めた拳を震わせて、アシュレーが言う。
「お前は、本当に楽しいのか。こんなことが……!」
「愉しいねえ。とても娯しい」
 楽しいよと繰り返しながら、男は拭き終わった眼鏡を掛ける。そして。
「あんまり楽しいから、眼鏡がズリ落ちちゃったよ」
 わざと鼻の先まで眼鏡をずらして、巫山戯ふざけてみせた。
「────ッ!」

 何だ、この男は。
 こんな屑みたいな人間が、どうして存在しているんだ。
 こんな奴は消えるべきだ。この世界にいてはいけない存在だ。
 あア。
 今すぐ、こいツヲ。

 殺シテヤリタイ──。

「ゲームだと言うなら、貴様も武器を捨てたらどうだ」
 ブラッドの声で、アシュレーは我に返る。
 雨音。断頭台。首筋に落ちる雨の冷たさ。自分がいる場所を、状況を思い出す。
 ──今のは、何だ。
 突然、どす黒い感情が頭の中に流れ込んで──。
「丸腰の俺たちが相手では、楽しくないだろう。ゲームは対等の条件でなければ成立しないのではないか」
 ブラッドが珍しく声を張り上げている。どうやらジュデッカを挑発しているようだ。奴の性格を逆手に取り、少しでもこちらの不利を挽回しようとしているのか。
「残念。君たちの相手は僕じゃないんだな」
 だが、狡猾こうかつな男はそれに乗ってこなかった。
「このゲームでの僕の役割は、ただの審判ジャッジだ。君たちの相手は」
 言いながら、断頭台の裏から何かを持ってくる。
「この子にしてもらうよ」
 男が掲げたのは、一抱えほどある黒い球体だった。
 いや、あれは。
 ──卵──?
「さーて、お目覚めの時間だ、タラスクちゃんッ!」
 ジュデッカはそれを地面に投げつけた。泥土にめり込んだ球体に亀裂が入り、そして。
 闇が──弾けた。
 立ちめる黒いもやの中から、姿を現したのは。
「こいつは……ッ」
 巨大な魔物──モンスターだった。
 大型の爬虫類を思わせる体躯たいく眼窩がんかの奥で危うく光る黄色い眼。二本足で立ち、鉱物の結晶が付着した青い殻を背負っている。頭は小さいが前肢は太く、手甲を填めたような両手の先からは鋼の鉤爪かぎづめが突き出ていた。
「ゲームのルールは至ってシンプル。このタラスクちゃんと武器なしで戦って、勝ったら人質は解放してあげる」
 いつの間にかジュデッカは断頭台の最上部に腰掛けて、文字通り高みの見物を決め込んでいた。
「君たちが負けてもギャラリーに手を出すつもりはないから、その点は安心していいよ。人質については……まあ、後でじっくり考えるかな」
「きさま……ッ!」
 ジュデッカを睨んでいると、魔物が背後から前肢を振り下ろしてきた。慌ててブラッドと共に散開する。
「ほらほら、もうゲームは始まってるよ。頑張ってね」
 頭の上からかんさわる声が降ってきた。アシュレーは歯軋りをしながら、タラスクと呼ばれたモンスターと対峙する。
 こんなのを、ARMなしで倒せだと──。
 ──無理だ。どう見ても勝ち目はない。
 絶望的な気分になりながら、じりじりと後退りする。魔物は後肢を地面にめり込ませながら歩いてくる。
 と、魔物のからだがぐらりと揺れた。反対側にいたブラッドが攻撃を仕掛けたらしい。隙を突いて背中の殻と躯の継ぎ目に潜り込み、内側から殻を剥がそうとしているのが見えた。
 タラスクは咆哮ほうこうを上げて暴れた。振り回されたブラッドは殻にしがみついてこらえていたが。
 次の瞬間、吹き飛ばされた。
 殻の表面に付着した結晶が──爆発したのだ。
「ブラッド!」
 地面に倒れ込んだブラッドは、肘をついて起き上がろうとしたが、すぐにまた突っ伏す。服は破れ、浅黒い肌は火傷と流血で紅く染まっていた。
「背中のソレは生体の爆弾だそうだよ。体の中で武器を作れるなんて、魔物って便利だねぇ」
 断頭台の上からジュデッカが解説しているが、聞いている余裕などない。タラスクは動けないブラッドから再びアシュレーに狙いを定める。
 ──駄目だ。やはり勝てない。
「あ……アシュ、レー……」
 リルカの声がした。
 振り向くと、少女は顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。頬を伝っているのが涙か雨かはよくわからなかったけれども。
「に、にげ……ッ!」
 逃げて、と言いたかったのだろう。だが、彼女は途中で口をつぐんだ。
 その言葉が意味することが、わかっていたから。
 アシュレーが逃げれば、人質じぶんは確実に殺される。
 ──そう。
 誰だって、死にたくなんてないんだ。
 生きていたいんだ。
 生きるのを諦めたくない。だから、言い切れなかった。
 当然のことだ。
 それでいいんだ──。
 アシュレーは少女に、笑顔を返した。その思いが伝わることを願いつつ。
 そして、魔物に向き直る。
 彼女のおかげで踏ん切りがついた。
 無心で──突撃する。
 繰り出される鉤爪を右に左に躱して、隙を窺う。
 太い腕や殻に覆われた胴体に比べて、頭は小さく無防備のように見えた。狙うならそこしかない。
 何度も避けていくうちに、魔物の方が焦れた。両腕を大きく振り上げ、思いきり振り下ろしてきた。
 ──今だッ。
 アシュレーはぎりぎりで腕を躱し、懐に潜り込んだ。そして頭にしがみつこうと跳躍した──が。
 頭まで、届かなかった。泥濘ぬかるんだ地面に足を取られたのだ。
 指先が空を切り、目の前の魔物が──こちらを向く。
 まずい、と思う間もなく、鋭い衝撃が走った。
 鉤爪が──腹を貫いていた。
「が……は、ッ……」
 急激に不快なものが込み上げて、嘔吐えずいた。それが血反吐ちへどだということに、後から気づいた。
 身体の内側が熔けそうなほど熱かった。そして頭の隅から、少しずつ痺れがやってくる。

 ああ、死ぬ。
 僕の世界が、終わってしまう。

 そう思った刹那せつな

〈お前の世界は、終わる〉

 声が。

〈あなたの世界は、まだ終わらない〉

 また別の声が。

〈絶望せよ〉
〈望みを捨てないで〉

 僕の世界に、二つの声が響いている。

〈否定せよ〉
〈肯定しなさい〉

 聞き覚えがあるようで。

すべてを壊せ〉
〈創るのよ〉

 初めて聞いた声にも思えた。

〈我と同化せよ〉
〈わたしの想いを受け継いで〉

 虚無の空間に、二つの声。二つのかたち。

〈今こそ覚醒の時〉
〈さあ、目覚めるのよ〉

 黒きほのおと、白き剣。
 その狭間はざまで、僕は──。

〈お前は〉
〈あなたは〉

 ひとつの願いを、口にする。

〈絶望だ〉
〈希望なのよ〉

 そして世界は──再構成され。

『──おかえり』

 ──ただいま。


 彼は泥土に膝をつき、うずくまっていた。
(う……)
 声を出したつもりが出なかった。声帯が失われている。
 ──これは。
 アシュレーは憶えていた。忘れるはずがない。
 また、あのときと同じ姿に──。
(……?)
 少し、違っていた。
 黒い脚。黒い身体。筋肉や骨格が剥き出しだった以前の姿とは異なり、全身が甲虫の殻のようなもので覆われている。黒い腕を伸ばして自分の顔に触れると、やはり堅い。頭部も同じだ。
 貫かれた腹に痛みはなく、傷痕も消えていた。立ち上がると外套のように長くなった赤いスカーフが翻った。
(僕は……どうなったんだ)
 前を見る。モンスターが悲鳴のような咆哮を上げていた。アシュレーを貫いたはずの片腕は跡形なく吹き飛ばされており、肩口からは黒い体液が零れ落ちている。
「なんだ今のは。なんだ、その姿はッ」
 頭上から狼狽ろうばいした声が降ってきた。
「そんなの聞いてないぞ。それは武器か。武器なのかッ。それなら──」
 振り返る。断頭台のジュデッカは銃を構えていた。銃身が狙う先は、杭に縛られた少女。
 引金が──引かれる。まずい。
 アシュレーは走った。断頭台の横を風のように駆け抜けて、少女の前に立ち塞がる。
 銃弾は彼の肩に当たって弾け飛んだ。衝撃は多少あったが、漆黒の甲冑には傷ひとつついていない。
 あの一瞬で、これだけの距離を移動できた。そしてARMの攻撃をも弾く──この鎧。
 自分でも信じられなかった。身体の変化と変貌に思考が追いついていない。これが自分の身体であるという確証が持てない。
 だが、確かなことは。
 この意識は間違いなく──自分のものだ。
 僕はアシュレー・ウインチェスター。そのことを忘れていなければ──今は大丈夫だ。
 アシュレーはリルカを拘束していた縄を引き千切る。解放された少女は、困惑と驚愕と……様々な感情がい交ぜになったような顔を、こちらに向けた。
「あ、アシュレー……だよ、ね?」
 少女の問いに頷いてみせてから、振り返る。
 ジュデッカが冷徹な表情でこちらを見下ろしていた。
「……ふん。お前のせいですっかり予定が狂ってしまった」
 興ざめだ、というふうに銃を収め、断頭台から飛び降りる。
「僕は自分のペースを乱されるのが嫌いなんだ。ゲームの続きは次回に持ち越すことにするよ」
 ジュデッカはこちらに背を向けてモンスターの足許に歩み寄った。タラスクちゃんよろしくねと太い脚を叩いてから、巨体の背後を通って立ち去ろうとする。
 アシュレーはそれを追いかけようとしたが、魔物が立ち塞がった。断頭台を土台ごと破壊して、こちらに向かってくる。
 彼の後ろには衰弱したリルカがいる。ブラッドも深手を負って起き上がれない。こいつを放置しておくわけにはいかなかった。
 既に擂鉢の斜面を登り切ろうとしていたジュデッカを諦め、アシュレーは半狂乱の魔物と対峙した。片腕の一撃を難なく躱して、高々と跳躍する。
 この身体ならば、相手の攻撃を避けるのは容易たやすい。後は。
(武器が──欲しい)
 そう思った瞬間、彼の掌に一条の光が宿った。光は凝固しながらみるみる形を変えて──ひとふりの長剣となる。
 黒き騎士は、空中で光の剣を掲げた。そして降下しながら、巨体めがけて──振り下ろす。
 一閃。そして絶叫。
 切り裂かれた背中の殻がぱっくり割れて、中から体液が噴水のように吹き上がる。モンスターはそのまま前にくずおれ、動かなくなった。
 ──終わった。
 ……いや。
 魔物の骸の前で、アシュレーも地面に膝を折り、倒れ込んだ。
 急激に力が抜けていく。全身が鉛のように重い。視界が霞み、意識が沈む。
「これ、が……」
 声は出るようになっていた。泥土の匂いを嗅ぎながら、最後に彼は呟く。
「はじまり、なの、か……」