■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Mission 6 力の意思

 半ば森に融け込むようにして、その集落はあった。
 人の住処すみかであることを示す囲いはなく、無雑作に並び立つ木々の合間に小ぶりな家屋や畑が点在している。木洩れ日を浴びた作物は手入れされた形跡もなく伸び放題で、その横に木の枝で組まれた物干し台には、紐でくくられた芋らしきものが鈴なりに吊り下がっていた。
 人の手によるものと、自然のもの──両者の境界が、この里は総じて曖昧であった。それは、人間も所詮は自然の一部なのだという彼らの観念が体現された結果なのかもしれない。
「ホントに住んでるんだ……こんなトコに」
 感心するようにリルカが呟く。その後ろにはブラッドと、どうしてもついて行くと聞かなかったトニーとスコットがいる。ここまでの道中で文句のひとつも言わなかったのは立派ではあるが。
「バスカーは古来より外部との関わりを断って暮らしてきた一族だ。正式に存在が確認されたのは比較的最近のことで、未だ謎も多い」
「そうだよねぇ。こんなへんぴな森の中に人が住んでるんなんて、普通思わないよ」
 ブラッドとリルカの会話を聞きながら、アシュレーは再び集落に目を向ける。
 バスカーの隠れ里、と一般的には呼称されているらしいが、実際こうして見渡すと、里と呼べるほどの規模はなさそうだ。家の数から推察するに、住民は二十人にも満たないだろう。
 おかげで集落の場所を特定する際にも、彼らはかなり難儀をした。修理の完了したシャトーで森の上空まで乗りつけたはいいが、肝心の集落がなかなか見つけられず、ARMSの全隊員を動員して小一時間樹海を眺める羽目になってしまった。
 最終的にはエイミーが枝葉の僅かな合間に建物の影を見つけて、ようやく特定に至った。怪獣好きのテレパスメイジは視力も怪獣並みなんだと得意気だったが、そもそも怪獣の視力が良いのかは不明である。
 その彼女が発見したと思しき建物も、奥の方にあった。平屋だが石を積んで造られた、この集落では最も大きな屋敷だ。訪ねるとすれば、まずはあの家だろうが──。
 どうする、と仲間に意見を求めようとしたとき、リルカが悲鳴を上げた。
 アシュレーは振り向き、息を呑む。
 いつの間にか──囲まれていた。
 五、六人の、いずれも大柄の男たちだ。繁みや幹の後ろから姿を現し、斧やなたをこちらに差し向ける。
「何用だ、余所者よそもの
 男の一人が、くぐもった声でただした。アシュレーは腕を上げて敵意がないことを示しつつ、油断なく見返す。
「特殊部隊ARMSだ。メリアブールの依頼を受けて、誘拐事件の捜査をしている」
 男たちは顔を見合わせた。動揺している。
 アシュレーはさらに揺さぶりをかける。
「ここを治めている方に事情を伺いたい。お目通り願えるかな」
「断る」
「なぜ」
「何故にも。ここは守護獣様のしもべたるバスカーの聖地。余所者が立ち入ることまかりならぬ」
 アシュレーは嘆息する。
 脅すような真似は、なるべくしたくなかった。けれど。
「拒否されるなら、力ずく……ということになってしまうが」
 固く閉ざされた箱をこじ開けるには。
 多少強引な手も──使うしかないか。
「できることなら話し合って解決したいと、僕たちは考えている。お互いのためにも……穏便に済ませたい」
 どうかご協力を、と最後に念を押した。
 男たちは視線を動かしてこちらを窺う。力量を測っているのだろう。とりわけアシュレーの銃剣とブラッドの体躯たいくを見て、顔をしかめた。
 双方で睨み合いが続いたが、しばらくして。
「……わかった」
 彼らの背後に控えていた男が口を開いた。この男だけは帽子を被っておらず、武器も携えていない。
「長の所に案内する。……来い」
 憮然とする他の男たちを無視して、集落に向かう。
「だ、だいじょうぶなの?」
 リルカがアシュレーの袖を引っ張って聞く。トニーたちも不安そうにこちらを見ている。
「心配ない。行こう」
 閉鎖的な集団ではあるが、悪党ではない。相手を害すような行動さえしなければ……大丈夫だろう。
 アシュレーは男の後を追って歩き出す。リルカが慌てて彼の横につき、トニーとスコットも続いた。ブラッドはまだ武器を構える男たちを牽制しながら最後尾を歩く。
 彼らが向かったのは案の定、あの大きな建物だった。
 男が入口に近づいたとき、扉が勢いよく開け放たれた。
 出てきたのは少女だった。三つ編みに束ねた金髪が耳の横で揺れている。目の前の男にびくりと肩を震わせ、こちらに気づいてさらに驚く。
 立ちつくしたまま見開いた、その目は──なぜか涙で潤んでいた。
 少女はそれを隠すように顔を背けると、男の横を抜けて走り去っていった。
 ……何だったのだろう。
「この村の子かな。ちょっとティムに似てたかも」
 木陰に消えた背中を目で追ってから、リルカが言う。そういえば背格好はティムと同じくらいだったかもしれない。
「長がお待ちだ。入れ」
 少女と入れ替わるようにして屋敷に入った男が、再び顔を出した。
 促されて、アシュレーは扉を潜る。
 中には──。
「よう来たの、お客人」
 小柄な老人が、机の向こうに佇んでいた。

 とりとめない思考の隘路あいろに、ティムは迷い込んでいた。
 横にはなっていたが、ちっとも眠くならない。外部を拒絶するように掛け布を頭まで被り、身体を丸める。
 外は怖い。他人は怖い。
 自分以外のすべてが怖い。
 ──いや。自分自身さえも……怖い。
 どうすればいいのか。どこにいればいいのか。誰を信じていいのか。
 何もかもが、わからない。
 わからないから──怖くなる。
 もう、何もしたくない。どこにも行きたくない。
 ここから一歩も外に出ず、自分の中に籠もっていたい。
 だって、外に出たら、ボクは。
 ──死ぬ。
 死んでしまう。
 死んだら、どうなるのだろう。
 ボクという存在が、この世界から消える。そうしたらボクは、こうして考えているボクのココロは、どこに行くのだろう。
 やっぱり一緒に消えてしまうのだろうか。だったら。
 ……ああ、怖い。
 怖いよ。
 消えたくない。なくなりたくない。
 でも、もうじきボクは、世界の『柱』として捧げられて。
 ──死ぬんだ──。
 また涙が溢れてきた。背中を震わせて、嗚咽おえつを上げる。
 掛け布の向こうで扉が軋んだ。
 頭を半分だけ出して、部屋の入口を覗く。
 コレットが立っていた。食事の皿らしき木の器を抱えている。こちらを気にかけながらも無言で歩み寄り、手前の棚の上に器を置いた。
「……知っていたの」
 小声で言うと、コレットははっとこちらを見て、それからすぐ背を向けた。動揺しているのが背中からも伝わってくる。
 この少女も『柱』の候補だった。ティムが見つからなければ、彼女が継ぐことになっていたという。
 自分が『柱』となることで──彼女は命拾いをしたのだ。
「『柱』の本当の意味を……知ってたんだよね。知っていて、きみはボクに」
 非難するつもりはなかった。けれど口をついて出たのは咎めるような言葉で。
 コレットはしばらく肩を震わせて立ちつくし、それから走って部屋を出ていった。
 顔は見えなかったが、泣いていたのかもしれない。
 女の子を──泣かせてしまった。
 最低だ。
 自分への嫌悪と罪悪感が積み重なり、ティムは再び布を被って膝を抱える。
 たとえ彼女が隠していたのだとしても、決めたのは自分だ。
 英雄になれるという甘言かんげんに乗せられて──軽い気持ちで受けてしまった。
 こんな自分が、英雄になんてなれるわけないのに。
 バカだ。
 バカで、意気地いくじなしで、女の子まで泣かせて。
 こんな奴が英雄なわけがない。
 だから、もう全部投げ出して。
 帰りたい。
 帰って、普通の子供に戻って、あの丘でみんなと一緒に──。

 勢いよく扉が開かれた。
 小柄な少年が、部屋の入口に立っていた。

「どうして……ですか」
 声を押し殺して、アシュレーは問い質す。
 唖然とした。それから、沸々ふつふつと憤った。
 ティムを連れ戻した目的。母親から彼に受け継がれた能力ちからの秘密。そして『柱』としての宿命──。
 里長だという老人から、全てを聞いたアシュレーは。
「どうしてティムが死ななければならないんだッ」
 固めた拳で机を叩いた。
 叩いてから、一昨日のトニーと同じことをしていることに気づく。
 そのトニーは今、ティムのいる隣の部屋にスコットと共に残っている。
 再会したティムは──ひどく怯えていた。
 先程アシュレーも面会したが、少年はこちらに気づいてもほとんど反応を示さず、掛け布にくるまったまま起き上がろうともしない。れたトニーが布を引き剥がそうとしたものの、ティムも手負いの獣さながらに必死な形相ぎょうそうで抵抗した。
 やむなく連れ出すことは一旦諦め、先に里長から事情を聞いて──その理由が判明した。
 これから自分が生け贄として捧げられる。そんなことを告げられれば、十二の少年にはえられないだろう。しかもティムは人より繊細な子だ。激しい恐怖と恐慌の末に、心を閉ざしてしまったのだろう。
「全ては守護獣様の、お導きだ」
 里長は淡々と述べる。
「我らバスカーは、いにしえより定められし掟に従うことで、この地に棲まうことを許された。守護獣様の庇護ひごの許で暮らす我々は、その務めを果たす義務がある」
 感情を伴わない返答に、アシュレーは奥歯を噛みしめる。
「貴方たちは、それで……いいんですか」
 言わずにはいられなかった。
「ティムが不義の子だから? 外で育った子だから犠牲にしたって構わないと? 余所者だから何の呵責かしゃくもないというのかッ」
「口を慎め余所者」
 帽子を被っていない男が言う。
「これは良し悪しの問題ではない。我らにとって掟は絶対である。それに逆らうことも、疑問を挟む余地もない」
 鼻梁びりょうに皺を寄せたまま、アシュレーは項垂うなだれる。
 アーヴィングの言った通りだった。家族──閉じられた集団というのは、特異な規則で内側を縛ることで、安定が保たれている。内側の人間にとっては、それに従うことが当然なのだ。
 やはり、壊すしか──ないのだろうか。
「あの、もうちょっと待ってもらうことは……できないんですか?」
 リルカがおずおずと手を挙げて発言する。
「いくらなんでも、話が早すぎると思うんです。ティムだってまだ子供なんだし……せめて、あの子がきちんと考えて決められるくらい大人になってからじゃ」
「それでは手遅れになる」
 里長は言う。
「夢見が予言した世界の異変は間もなく訪れる。『柱』の成長を待っている猶予は最早ないのだ」
「予言って……そんな迷信など」
「は、迷信とな。ならばティムが行使した『世界力』も迷信と申すのか」
 トニーたちが目撃したという、ティムの不思議な力。彼らはそれをガーディアンの力──世界力と称しているらしい。
 確かにそれは、魔法やロストテクノロジーとは異なるものであるようだ。ガーディアンが実在し、この地にその力が眠っているという彼らの『迷信』を信じない限り、説明のつかないことが実際に起きているのだ。
 しかし、それでも。
「……とにかく、ティムはこちらで保護します」
「ならぬ。あの子は既に『柱』となった。このまま守護獣様に捧げられる宿命なのだ」
「そんな宿命なんて認めないッ」
 アシュレーは憤然と立ち上がり、隣の部屋に向かう。
 もはや言葉は通じない。まずはティムを取り戻さなければ。
 男の一人が彼の肩を掴んで引き止めた。アシュレーはそれを振り払い、背中の銃剣に手をかける。
 一触即発の空気が張りつめた、そのとき。

 屋敷の扉が開かれた。
 銀髪をなびかせて、貴族の男が立っていた。

 トニーは苛立いらだっていた。
 丸太の椅子の上に胡座あぐらをかき、膨れっ面で目の前のベッドを見つめている。
 ベッドの上には、掛け布を被ったティムが身体を丸めて横たわっている。
 こちらを拒絶するように、背中を向けて。
 ──なんなんだよ。
 さんざん心配したっていうのに。
 いや、心配したのは自分の勝手だ。その感情を相手にぶつけるのは間違っている。わかってはいるけれども、だけど。
 この仕打ちは……ないだろ。
「おや」
 部屋の扉にもたれかかっていたスコットが声を上げた。木製のドアは建て付けが悪く、誰かが常に塞いでいないとひとりでに開いてしまう。
「どうやらアーヴィングさんがいらしたようです。声が聞こえます」
「そうかよ」
 生返事をして、再びベッドに目を向ける。
 ティムは相変わらず、布に包まれたまま横になっている。
 枕元には、なぜか髭の生えた子犬のようなぬいぐるみが置いてあった。その間の抜けた表情が、今のトニーには余計にかんさわった。
「なあ、ティム」
 トニーは声をかけた。
「お前、いつまでそんなミノムシみたいになってるつもりなんだよ」
 反応はない。構わずトニーは続ける。
「ショックなのはわかるよ。いきなりさらわれて、そんでもって生け贄になれなんて言われたら、そりゃショックだよな。ふざけんじゃねぇって話だ。怖くなって、そんなふうに閉じこもっちまう気持ちはわかるよ。けどさ」
 扉の方を見る。
 隣の部屋からは、里長とアーヴィングの会話が洩れ聞こえてくる。内容まではわからないが、恐らくティムを解放するよう説得してくれているのだろう。
「こうしてオレたちが助けに来たじゃねぇか。もう大丈夫……ってまだハッキリとは言えないけど、あんちゃんもARMSのみんなもいるんだ。きっと大丈夫だよ。だからさ、いい加減に出てこいよ。なんでオレたちまで拒否するんだよ」
 返事はない。トニーは深々と息を吐く。
「なんなんだよ。言いたいことあるならきちんと言えよ。お前、死ぬのがイヤなんだろ? だったらあいつらにもそう言えばいいじゃねぇか。それでもダメだったら逃げればいい。お前がその気なら、オレたちだって協力して……」
「……わからない」
 背を向けたまま、ティムが言い返してきた。
「トニーくんには……わからないよ。ボクの気持ちなんて……」
 そのねた言い草に。
 少年の苛立ちは──頂点に達した。
 トニーは立ち上がると、いきなり掛け布の端を掴んで引っ張った。不意を突かれたティムはベッドから転げ落ちて、布を剥がされる。
「ああ、そうだよ。わかんねぇよッ!」
 ようやく姿が見えたティムにトニーは詰め寄り、胸倉を掴んでベッドの縁に押しつけた。それでも顔を背けようとするティムを逃すまいと、顔を突き合わせる。
「だったらお前はオレの気持ちがわかんのかよッ。お前がいなくなって街じゅう捜し回って、あんちゃんに助けてくれって頭下げて、無理言ってここまでついてきた、オレの気持ちがわかんのかよ!」
 涙目で怯える少年に一瞬怯みそうになるが、歯を食い縛ってトニーは続ける。
「他人の気持ちなんて、誰だってわかりゃしねぇんだよ。でもな、それでもわかろうとするのが友達だろうが。家族だろうがよッ。自分だけが辛い思いをしてるんじゃねぇんだ。それをわかり合うのが友達なんじゃねぇのかよッ」
 ティムはぽろぽろ涙を零し、幼い子供のように首を振って藻掻いたが、それでもトニーは離さない。
 ショックで閉じこもったというのなら。
 もう一度、ショックを与えて──こじ開けてやる。
「オレより頭いいくせして、そんなこともわかんねぇのかよ。お前はいっつもそうだ。どうにもならねぇことばかり考えてクヨクヨしやがって。そんなムダな頭の使い方してるから、いつまでも弱いまんまなんだよッ。強くなりたいんならな、頭は──」
 顎を上げて、勢いをつけてから。
「こうやって使うんだよッ!」
 ティムの額に、頭突きを食らわせた。
 予想以上の痛みが返ってきて、その場に屈み込む。ティムも頭を抱えてベッドに突っ伏した。
「わたくしなりの結論といたしましては」
 いつものようにひとり傍観していたスコットが言う。
「トニー君、色々と無茶苦茶です」
「わかってるよ、んなコト」
 じんじんうずく額を手で押さえながら、トニーは言い返す。
 無茶苦茶だって構わない。こういうときは、理屈じゃないんだ。
 ただ、思いきり気持ちをぶつける。それが今のティムには必要なんだと思った。
 だから──。
「ん? どうしたティム」
 背中が震えている。
 泣いているのかと思って、顔を覗き込むと。
「……なんで笑ってんだよ」
 ティムは泣きながら──笑っていた。
「だ、だって……すごく痛かったから」
 痛かったから、笑う。
 意味はわからないが、気持ちはよくわかった。
「ああ、オレも痛かった」
 意外と石頭なんだな、とトニーも笑った。
 二人して頭を抱え、痛みを堪えながら笑い合う。
 何ひとつ解決していないけれども。
 これでいいんだ──とトニーは思った。

 扉がノックされた。
 スコットが振り返って開ける。
 青い髪の青年が、切迫した様子で立っていた。

「里をお騒がせしたこと、まずはお詫び申し上げます」
 銀髪の貴族はそう言って、ゆらりと屋敷の中に踏み入った。
 その横には彼の妹──アルテイシアが付き添っている。背後にはシャトーの操縦士エルウィンの姿もある。片足が不自由な彼のサポートとしてついて来たのだろう。
「アーヴィング、貴方は……」
 ──何をしに来た。
 予期せぬ来訪に、アシュレーは戸惑う。
 指揮官は茫然とする大男どもを素通りして、里長の許へ行く。異様な風貌の闖入者ちんにゅうしゃに彼らも困惑しているようだ。
「あんたは?」
「ARMS指揮官、アーヴィング・フォルド・ヴァレリアと申します。この度の捜査へのご協力、感謝致します」
 アーヴィングは流暢りゅうちょうに答える。
「指揮官とな。どうあってもティムを連れ戻す気か」
「おや、連れ戻したのはそちらの方では?」
 彼の指摘に、里長は喉に物がつかえたような顔をする。
「そ、そうじゃ。ティムは元々この里の者。我らが連れ戻したのだ。ゆえに渡すことはできぬ」
「そうですか。やはり一筋縄ではいかないようだ」
 アーヴィングは顎に手をやって考え込む仕草をする。普段よりも幾分芝居染みているようにアシュレーは感じた。
「そちらの事情は概ね承知しています。『柱』の継承者であるティム君を連れ戻し、ガーディアンへの生け贄として捧げる──それは全てバスカーの掟によって定められた宿命であると」
「左様。『柱』によって守護獣様の御力おちからを束ね、危機をはらう。それによって世界は救われるのだ」
「果たしてそうでしょうか」
 銀髪の男の言葉に、里長の皺深いまなじりがピクリと動いた。
「なに?」
「果たして現在のガーディアンに、世界の危機を祓う力があるのか──私はいささか疑問に思っているのですよ」
 アーヴィングは真っ直ぐ老人を見据える。
「な、何とばち当たりなことを──」
 刃物のような鋭い視線に、里長は目を剥いておののいた。
「ガーディアンは罰など当てませんよ。敬うべき存在ではあるが、不敬だからと言って怒るような狭量な存在ではない。違いますか?」
 そう言ってから、松葉杖をアルテイシアに預けて丸太の椅子に腰を下ろした。里長は何も返せず渋い顔をしている。
「ですが、その大いなる存在であるガーディアンも、残念ながら──衰えてしまった」
「馬鹿な。何を根拠に、そのような……」
「この豊かな森しか知らぬ貴方には判らないでしょう。ですが」
 アーヴィングは振り返り、所在なげに突っ立っていた里の男たちを見る。
「そちらの皆さんは、『柱』の行方を追って世界各地を回ったそうですね。ならば気がついたはずだ。この世界ファルガイアから、ガーディアンの恩恵が失われつつあることに」
 男たちはそれぞれに逡巡しゅんじゅんし、それから悔しそうに俯いた。
「そう。ファルガイアの荒野化──それこそが、ガーディアンの力が衰退した何よりの証拠です」
 指揮官は再び里長を見据える。
 もはや口を挟める者はいなかった。
「ガーディアンという超然的な存在については、過去より様々な解釈が為されてきました。人間たちの間では伝説の幻獣であったり神であったり、まあある種の象徴として敬われてきた訳ですが──一方で、かつて高度文明を築いたエルゥやノーブルレッド族では、もっと踏み込んだ考察がされていたそうです」
 アシュレーはノーブルレッド族の生き残り──マリアベルの姿を思い浮かべる。見た目からは全く想像できないが、彼女も人間には及びもつかない高度な知識と技術を有しているという。
「彼らの見解では、ガーディアンとはすなわち、ファルガイアを維持させる装置システムである──と」
「し……システム?」
 里長が珍しく甲高かんだかい声を上げた。
「ファルガイアをひとつの機械……いや生命体とした方が判りやすいか。例えば人体は、それぞれの臓器が特定の役割を果たすことで生命が保たれています。それと同様に、ガーディアンも各々が活動することによってファルガイアが保持されているのだと、彼らは考えた」
 ガーディアンが──臓器?
「な、そ、そのような冒涜ぼうとくを……」
「冒涜ですか。まあ、神から臓器ですから、そうお感じになるのも無理はない。しかし架空の絶対神とするよりは理にかなっている」
 貴族の饒舌じょうぜつに、老人は憎々しげに睨むことしかできなかった。
「そして数百年前、ファルガイアに大きな危機が訪れた。そう──『ほのおの災厄』です」
 言いながら、彼は横目でアシュレーを見る。
 その視線の意味に気づいて、アシュレーは顔を強張こわばらせる。
「僅かに残された記録によれば、かの災厄を境としてガーディアンたちは地上から姿を消したといいます。恐らく命は取り留めたものの、災厄からこうむったダメージによって活動が鈍化し、自力での具現化が不可能になってしまったのでしょう」
「臓器であるガーディアンの活動が鈍ったことで、本体のファルガイアも徐々に機能不全におちいった……その表出が荒野化か」
 ブラッドが言う。彼は今も里の男たちを鋭い眼光で牽制している。
「荒野化の原因については未だ特定できていないが、災厄以降にガーディアンが地上から消え、それと時を同じくして荒野化が始まったことをかんがみれば、関連性があると考えるのが自然だろうね」
 そもそも大多数の人間は、ガーディアンが実在することを信じていない。昔の人間が生み出した空想上の幻獣……せいぜいその程度の認識しか持っていないのだ。
 ──だから、原因もわからなかったか。
「だ、だが、守護獣様は確かに『柱』を遣わされた。これは、守護獣様おん自ら危機をお祓いになるという意思があればこそ、お送りになったはずで……」
「まだわかりませんか」
「な、何がだ」
 意固地いこじに抵抗する里長に、アーヴィングは止めとばかりに重い一撃を放った。
「ガーディアンに世界を救うなどという意思はありません。臓器に意思などない!」
 老人は雷に打たれたように固まり、それからへなへなと脱力した。
ガーディアンかれらにとって『柱』の派遣というのは、侵入してきた異物に対して抗体を出すのと同じ、単なる拒絶反応に過ぎないのですよ。臓器が正常に活動していれば抗体で異物は排除できるかもしれないが、著しく機能が低下している状態では、いくら抗体を出しても……無意味です。むしろその抗体によって本体が傷んでしまう恐れすらある」
 臓器。抗体。拒絶反応。
 バスカーの民がり所としてきた守護獣の神性が、一人の闖入者によって無残に剥奪はくだつされていく。
「貴方がたがかたくなに遵守じゅんしゅしてきた掟も、ガーディアン自らが定めたものではないでしょう。ガーディアンはただ現象を引き起こしただけだ。それを観察した人間が恣意しい的に解釈をして、その解釈に基づいて定めたもの──それが掟だ。つまり掟とは、過去の人間の意思の堆積たいせきに過ぎないのです。それをガーディアンの意思として絶対視するのは大きな誤謬ごびゅうです」
 そこまで聞いて、アシュレーはようやく彼の意図に気がついた。
 掟──規則の特異性を説いて理解させ、
 彼らを結束させていた規則くさりを無効化して、断ち切る──。
 そうか。この男は。
 この集落かぞくを壊しに来たのだ。
 物理的な力を用いることなく、言葉という目に見えぬ力によって──。
「かつては掟も有効に機能していたのでしょう。だがそれは守護獣の力が世界に漲っていた時代のもの。ガーディアンが弱体化した今となっては、もはや有効ではなくなってしまった。だからこそ、サブリナさんは──里を出奔したのです」
 サブリナ──ティムの母親。宿命に抗い、故郷を捨てた娘。
 その名を聞いた途端、里長の目に。
 涙が。
「サブ、リナ……」
 アーヴィングはその様子を一瞥いちべつしてから、続ける。
「『柱』としてガーディアンの力を感じることができた彼女は、そのことに薄々気づいていた。このまま掟に従ったところで、今のガーディアンに世界を救う力はないのではないかと──。それでは」
 一体、何のために『柱』は捧げられるのか。
 無駄死にではないか。
 掟に殺されるようなものではないか──。
「そう思ったからこそ」
 彼女は──里から、掟から逃げた。
「お……おお」
 里長は両手で顔を覆い、慟哭する。
「そうか。それで、サブリナ……お前は、あのとき」
「サブリナさんは」
 貴方の娘さんですね──とアーヴィングは静かに言った。
 アシュレーは驚く。
 それでは、ティムは──。
「そうじゃッ。サブリナは我が娘。ティムは儂の孫じゃッ」
 涙に濡れた顔を上げて、老人は突如乱れ出した。
「例え肉親であろうと、世界の為には『柱』を差し出さなければならぬ。それが守護獣様の僕たるバスカーの役目であると、そう信じて」
 自分の娘を。孫を。
「信じておったのじゃッ!」
 自らの立場を全て投げ出して、里長は──崩壊した。
「里を出る前に、サブリナさんは──貴方に直訴したのではないですか。このまま『柱』を捧げても無駄に命を捨てるだけだと──」
「ああ、そうじゃ。今はっきりと思い出した。我が子可愛さの世迷言と思うて、儂は聞きもしなかった。そうか、お前が」
 お前が正しかったのだなと、小さな老人はさめざめと泣いた。
「儂が……悪かった。すまなかった、サブリナ……」
 そこにいたのは、もはや威厳ある一族の長ではなく。
 娘を喪わせた後悔にむせび泣く、老いた父親であった。
 アシュレーは目を伏せる。

 ──箱は、壊れた。

「わッ」
 隣室から大きな物音がした。怒ったようなトニーの声も聞こえる。
「騒がしいなぁ……空気読めっての」
 注意しようとリルカが扉に近づいたとき、通信機の呼び出し音が部屋に響いた。
 アシュレーは咄嗟とっさに自分の荷物を見たが、音の出所はアーヴィングの背後──エルウィンの腰からだった。
 エルウィンが通信機を取り、応答する。そして。
「ま、マジっすか?」
 頓狂とんきょうな声を上げ、慌ててアーヴィングに通信機を渡した。
 相手はエイミーだろうか。スピーカー越しに報告を聞く指揮官の顔が、みるみる曇る。
「緊急事態だ」
 通信機を切ってから、アーヴィングは言った。
「シャトーに何者かが侵入した」
「侵入?」
 まさか。
 ヴァレリアシャトーは現在、森外れの丘に着陸させてある。このバスカーを除けば、人などいない陸の孤島だ。
「シャトーが監視されていたとしか思えないな。こちらの動きを察知して、後をつけていたか」
 飛空機械を監視して、後をつける。
 そんな芸当ができるのは──。
「オデッサか」
「は、早く戻らないとッ」
 浮き足だったリルカが入口に向かいかけたが、ふと立ち止まって振り返る。
「ティムは……どうするの?」
 アシュレーは里長と、すっかり腑抜ふぬけている里の男たちを見回した。
 もはや彼らにティムを引き止める気はないだろう。だが。
「今シャトーに連れて行くのは危険かもしれないな」
 アシュレーが言うと、そうだなとアーヴィングも応じた。
「長殿、もうしばらくティム君を預かって頂けますか?」
「あ、ああ」
 泣き濡れた顔のまま茫然としていた里長が頷く。
「トニーたち……こちらの子供も残しておくので、一緒にお願いします」
 言いながら、アシュレーは隣室の扉を叩く。
 扉が開かれ、スコットが顔を出す。
 その奥では、なぜか二人して額を腫らしたトニーとティムが座り込んでいた。

 ティムはベッドの端に座り直して、それから額に手をやった。
 少し腫れてはいるが、痛みはほとんど消えていた。
 そして、ついさっきまで自分を怯えさせていた、死への恐怖も。
 すっかり、消えてしまった。
 むしろ今では、どうしてあんなに怖かったのだろうと不思議なくらいだ。
 アーヴィングが来て、彼と里長との話し合いの結果、ひとまず生け贄にされるということはなくなった。里長も里の者たちも何だかすっかり消沈して、ティムを解放することを受け容れた。
 けれど、それで完全に解決したわけではない。自分が『柱』になったという事実は変わりないのだ。予言通りに世界に異変が起きたときには、また決断を迫られることになるかもしれない。
 それでも。
 もう、怖くはない。
 ボクは、生きたいから。
 この世界に、みんなと一緒に生き続けたい。
 そのことに気づくことができたから──。
「くそッ。なんでオレたち置いてけぼりにするかなぁ」
 窓を覗いていたトニーが、悔し紛れに壁を軽く蹴った。
「館にオデッサが侵入したとあれば、非常事態でしょう。我々が行ったところで足手まといになるだけかと」
 いつも通りに冷静なスコットは、さっきまでトニーが座っていた椅子に腰掛けている。
「わかってるよ。わかってるけどさぁ」
 悔しいなぁ、と膨れっ面で窓の外を眺めるトニー。
 どこまでも自分の気持ちに正直な友人を見て、ティムは羨ましく思う。
 自分もこんなふうに素直になれたら、あんな遠回りをすることもなかっただろう。
 余計なことで悩んだり、そのせいでみんなに迷惑をかけることもなかった。
 ──ああ、そうだ。
 傷つけてしまった。
 ボクのせいで、コレットが──。
「どうしてるかな……コレット」
 何気なく呟いた言葉だったが。
「コレット?」
 耳聡みみざといスコットに聞かれてしまった。
「誰ですか、それは」
「あ、いや、その……この里の女の子で……」
「女の子ぉ?」
 今度はトニーが反応して、肩を怒らせながら絡んできた。
「こんなときに何言ってんだよ。つうか、ケーシィの次は故郷の女の子かよ。いくら顔が良くてモテるからっていい加減にしろよ」
「そ、そうじゃないって。ていうかケーシィも違うし」
「トニー君、ヤキモチはみっともないですよ」
「ヤキモチじゃねぇッ!」
 スコットに怒鳴り返したトニーだったが、ふいにニヤリと不穏な笑みを浮かべた。
「そういやここに来るとき、泣きながら飛び出してきた女の子を見たなぁ。あの子がコレットか?」
「え、や、やっぱり泣いてたの?」
 ぎくりとするティムを見て、トニーはさらにつけ込んでくる。
「すっげー悲しそうだったぜ。ティムがいじめたんだろ。可哀想になぁ」
「そ、そんな……どうしよう」
「謝るしかないだろ。男なら潔くごめんなさいして来い」
「うん……って、い、今?」
 横に座ってニヤニヤしながら頷くトニーを見て、ようやくその笑みの理由に気づく。
「心配すんな。オレたちが見ててやるから、しっかり謝ってこい」
「そ、それがイヤなんだって……」
 ティムは助け船を求めてスコットを見るが。
「おもしろスイッチの入ってしまったトニー君は誰にも止められません。ご愁傷しゅうしょう様です」
 頼りがいのない友人は、わざとらしく両手を合わせて瞑目した。
「よーし、話は決まったな。そんじゃ今から……」
「逃げるのダッ!」
 突然枕元のプーカが飛び上がって、叫んだ。
 面食らったトニーが弾かれたようにベッドから転がり落ちる。
「ぬ、ぬいぐるみがしゃべった……」
「ぬいぐるみじゃないのダ。プーカなのダ」
 床に手をついて目を丸くするトニーにそう言ってから、ティムの方を向く。
「ティム、今すぐここから逃げた方がいいのダ」
「え、な、なんで?」
「危険が迫っているのダ。もう近くに」
 プーカの言葉をかき消すようにして。

 銃声が。
 そして、甲高い悲鳴が。

 ──コレット──!

 ティムは部屋を飛び出し、屋敷の外に出た。
 木洩れ日の射し込む岩場。その傍で、少女が地面に座り込んでいる。
 少女の横には倒れたままの里の男。そして、その向こうには。
「ああ、やっと着いた。ああ疲れた」
 丸眼鏡をかけた男が、木陰からぬっと姿を現した。

「思ったよりも早かったわね」
 敵に囲まれてなお、その女は余裕の笑みを浮かべていた。
 シャトー最上階のブリッジ、その奥手にある通信席の手前に、赤髪の侵入者は立っていた。
 足許には、細い糸で雁字搦がんじがらめにされたエイミーとケイトが転がっている。蜘蛛の巣にかかった虫のようになったまま、二人して情けない顔でこちらを見返す。
「お前は……」
 アシュレーは銃剣を構えつつ、侵入者を見た。
 燃え立つような紅の髪。愁いを帯びた瞳。どこか気品を感じさせる身形みなりと所作。そして。
「あら、もう忘れたのかしら」
 かざした手の指に絡みつく、金属の糸。
 忘れるはずがない。
 バルキサスを追って登ったポンポコ山の山腹。そこでアシュレーたちは、この不可思議な糸によって動きを封じられたのだ。
「オデッサの、特選隊……」
「アンテノーラよ」
 女はエイミーたちをまたいで、前に出る。
「動くなッ。大人しく投降しろ」
「あら、こちらには人質がいるんだけど?」
 女が張り詰めていた糸をピンと爪弾くと、それに繋がっていたエイミーがはうッと変な声を上げた。
「くッ……」
 アシュレーは歯軋りする。女はクスリと笑った。
「冗談よ。この子たちを傷つける気はない。騒がれたくなかったから拘束しただけ」
 余計は被害は出さない主義なの、と女はさらに一歩進んだ。
「指揮官はどこかしら?」
「それは……」
 アーヴィングはまだ森の中を移動中だ。妹やエルウィンの助けを借りても、到着まではもうしばらくかかるだろう。
 アシュレーが返事に窮していると、女はああ、と納得したような声を上げる。
「そういえば足を怪我していたわね。それならまだ戻れないか」
「なッ……どうして」
 どうして知っている。
 アーヴィングと面識はないはずだ。それなのに──。
「その程度は調べればわかること。ここに乗り込んだのも半分は情報収集が目的よ」
「……お前はオデッサの諜報役ということか」
 アシュレーが言うと、女は肩をそびやかす。
「半分と言ったでしょう。私の役目はそれだけではない。もう半分は──これよ」
 言いながら、アンテノーラは腕を振って糸の束を放出した。
 四方八方に飛んできた糸をアシュレーは回避しようとしたが、避けきれずに一本が銃剣の先に巻きつく。
「ヴィンスフェルト様は貴方たちを脅威と見做みなした。よってここで──始末する」
「ひえッ」
 隣のリルカが転んで背中から倒れた。脚には糸が絡みついている。ブラッドも腕を取られて身動きが取れなくなっている。
「くそッ。何なんだこの糸は」
 アシュレーは銃剣を引いたが、巻きついた糸は外れそうもない。まるで意思があるかのように銃口をぎりぎりと締め上げている。
「特殊鋼糸こうし『刹』。所有者の脳波を受信して意のままに操ることのできる暗殺凶器だ」
 ブラッドが言うと、アンテノーラの表情が一変した。
「それを扱えるということは、貴様は……」
「余計なことは言わないことね、ブラッド・エヴァンス」
 冷たく睨むと、ブラッドに繋がる糸を弾いた。
 浅黒い巨体がビクッとねて、それから倒れ込む。
「ブラッド!」
 床に這いつくばったブラッドは、激しく顔を歪めて呻く。
「ちょっとした電気ショックよ。心臓を止めるほどの威力はないけど、数時間は痺れが残るでしょうね」
 女はブラッドの前に立ち、さげすむように見下ろす。
「私も貴方に関してはひとつ疑問があるの。確証がないからまだ報告できるレベルではないけれど……答えてくれるかしら?」
 今度はブラッドの顔色が変わった。それを見たアンテノーラは口許を吊り上げる。
「そう。やっぱり貴方は本当の──」
 本当の。
 女の口が何かを告げようとしたとき、一陣の風が彼らの間を駆け抜けた。
 そして次の瞬間、アシュレーたちを縛っていた糸が──ぷつりと切れた。
「なにッ……!」
 糸が切れた反動でアンテノーラが蹌踉よろめく。
 何が起きた。
 アシュレーは、風が抜けた先を見る。
 ブリッジの大きな硝子窓の下。射し込む明かりを一身に浴び、こちらに背を向けて立っていたのは。
「私の館で……随分と勝手をしてくれたものだな」
 銀髪を揺らめかせて、振り返る。
「あ、アーヴィング……」
 アシュレーは刮目かつもくする。
 右手には松葉杖がなかった。代わりに細身の剣が握られ、その切先で地面を突いて身体を支えている。
 あの一瞬で、全ての糸を断ち切ったのか──。
「ARMS指揮官、アーヴィング・フォルド・ヴァレリア」
 アンテノーラが言うと、如何にもと指揮官は応じた。
「悪いけれど部屋を探らせてもらったわ。お陰で貴方の素性はほぼ把握できた」
「ほう。君のようなレディに丸裸にされるとは。光栄だな」
 面妖めんようなことを言ってアーヴィングは肩を竦める。女は動じていないが、代わりにリルカがあんぐり口を開けて呆れた。
「だけど、まだ判らないこともあるの。折角だから本人の口から直接聞きたいわね」
「大胆なことを言う。今度は何をしてくれるのかな」
 軽口で挑発を続ける貴族に、アンテノーラは鋼糸の束を放った。
 しかし。
 刹那に剣が閃き、糸は彼に届く前にことごとく寸断された。
 ──速い。
「手持ちの鋼糸が尽きるまで、やり合うつもりかな」
 再び剣先を地面に下ろして、アーヴィングは言う。彼はその場から一歩も動いていない。
 片足のままでの剣さばき。しかも彼は左利きのはずだ。それで──この速さか。
「……なるほど。腐っても英雄の末裔、といったところかしら」
 分が悪いと悟ったか、アンテノーラは糸を懐に収める。
「まあいいわ。収穫はあったし、時間も稼ぐことができた。そろそろ引き揚げる頃合いね」
「時間を稼ぐ?」
 聞き返すアシュレーに、女は不敵に笑った。
「どうして私が、わざわざこんな所まで来たのだと思って?」
「それは……」
 シャトーを監視して、留守の隙を狙って侵入する。
 ──いや、待て。
 彼女はバルキサスで乗りつけてきたわけではない。例えシャトーを見張っていたのだとしても、すぐにこんな辺境まで来られるはずがないのだ。
「まさか……」
 彼らが監視していたのは。
「ガーディアンの力を手に入れる。それが今回の本当の目的」
 私の方はただの陽動よ、とアンテノーラは明かす。
「ガーディアンについては私たちも以前から注目していたわ。『柱』も早い段階で特定をしていた。けれど覚醒する前に確保しても意味がないから、しばらく泳がせていたのよ」
 つまり、今オデッサが行動を起こしたのは。
 ティムが『柱』として覚醒したから──。
 ──まずい。
「バスカーにはジュデッカが行っているわ。もう到着しているでしょうね」
 ジュデッカ──あの丸眼鏡の拳銃使いか。
 あんな危険な奴が、バスカーの里に──!
「今頃戻っても手遅れよ。私もこれで任務完了」
 そう言ってアンテノーラは、正面に向けて腕を振った。
 小指に残っていた一本の鋼糸がアーヴィングの頭上を越え、硝子窓にぴたりと張りつく。
 アンテノーラが糸を弾くと、窓は瞬時にして粉砕された。
「あーッ! 直したばっかなのにぃッ!」
 エイミーが非難の声を上げる中、女は窓枠に巻きつけた糸を手繰って窓の縁まで跳躍した。
「それじゃあ失礼するわね。……ああ、それと」
 割れた窓から吹き込む風に赤髪を翻しつつ、アンテノーラは振り返る。
「ここの地下にお土産を置いておいたわ。可愛がってあげてね」
「お土産?」
 嫌な予感がした。
 アンテノーラは不吉な笑みを残してから、窓の外に躍り出る。アシュレーは窓に駆け寄り覗き込んだ。
 女は鋼糸を外壁や窓枠に引っかけて、巧みに壁を降りていく。アシュレーが咄嗟とっさに放った銃弾も寸前で躱され、地面で虚しく炸裂した。
 数秒も経たないうちに彼女は壁を降りきって、館の裏手へと消えていった。
 ──逃げられたか。
「すごいな~。クモみたい」
 隣ではリルカが素直に感心している。アシュレーもそれで気が緩みかけたが。
「そ、そうだ、バスカーに」
「大変だあッ!」
 再び慌てかけたところに、さらに慌てた声が飛び込んできた。
 ブリッジに入ってきたのは機関長のガバチョ。アーヴィングを見つけると立ち止まり、息を切らせながら報告する。
「旦那、き、機関室に、も、モンスターが」
「モンスター?」
 詰め寄るアシュレーに、ガバチョは両手で何かを抱えるような仕草をしながら。
「こ、こんぐらいの黒い玉が機関室に落ちてたんだ。見慣れねぇモンだと思って軽く突いたら、そっからいきなりモンスターが」
 黒い玉。
 ゴルゴダ刑場でアシュレーたちを苦しめたタラスクも、同じようなものから出現したことを思い出す。やはりモンスターの卵のようなものなのだろう。
「あの女の……置き土産か」
 計器にもたれて座り込んだブラッドが言う。痺れが残っているのか、まだ立ち上がることはできないようだ。
「総員に告ぐ。大至急、機関部のモンスターを排除せよ」
 アーヴィングが声を張り上げて指令を出した。
「ま、待ったアーヴィング。バスカーの方は」
 あちらにもオデッサの刺客が行っているのだ。早く行かないとティムが危ない。
「シャトーの動力を破壊されれば我らにとって致命的となる。優先順位を決めるのも指揮官の役目なのだよ」
「だ、だからと言って」
 言いながら、アシュレーは既視感を覚える。
 ──ああ、同じだ。
 銃士隊の──『枯れた遺跡』のときと──。
「ティムを見捨てるのかッ」
 かつての隊長の姿が、今の指揮官に重なる。
 だが。
「見捨ててはいない」
 隊長の幻影が消えた。
「ティム君なら大丈夫だ。『柱』として覚醒した今の彼なら──人間ごときに負けはしない」
 思いもよらない返答に、アシュレーは唖然とする。
「大丈夫って……あんな子供にオデッサと戦わせる気なのか?」
「子供かどうかは関係ないよ。彼とオデッサの刺客の力を比較すれば、勝算は充分にある。今はそれに賭けるべきだと判断したまでだ」
 アシュレーは指揮官を直視する。
 相変わらず底の見えない表情をしていたが──少なくとも偽っているようには感じない。
 ならば、本気なのだ。
 本気でティムが勝てると見込んで、それに賭けている。
「信じて……いいんだな」
「信じるべきは私ではないよ。ティム君の能力……いや、この場合はガーディアンの力かな」
 困ったときの守護獣かみ頼み、というからね──とアーヴィングはこの期に及んで笑ってみせた。
 アシュレーは呆れて、それから同じように笑う。
「了解ッ。これよりモンスターの排除に向かう」
 指揮官に告げると、昇降機リフトに向かって駆け出した。
 納得したわけではないが、今はこの男を信頼してもいい気がした。
 大慌てで乗り込んできたリルカを入れてから、昇降機のスイッチを押す。柵が閉まり、二人を乗せた箱は下へと降りていく。
「ブラッドは、まだ動けないか?」
「うん。魔法ヒールで治療はしてみたんだけど、あんまり効いてないみたいで」
 横に並んだリルカは、そう言って下を向く。
「モンスターか……ブラッドいなくて、大丈夫かな」
 不安そうに呟く少女を、アシュレーは無言で肩を叩いて励ました。
 いつも気丈に振る舞っている彼女だが、時折弱気になることにアシュレーは最近気がついた。言ってもまだ十四の女の子だ。何かと無理していることもあるだろう。
 ──今度、きちんと話を聞いてみようかな。
 そんなことを考えているうちに、昇降機は地下に到着した。
 開かれた扉を潜り、アシュレーたちは機関室の広大な空間に踏み入る。
 そこにいたのは──。
「……あれが」
 赤黒い背嚢はいのうを負った、巨大な蝦蟇がまがえるだった。

 ティムは腰を抜かして、地面にへたり込んだ。
 目の前には、同じように座り込んでいるコレット。そして、その傍らに横たわっている男は──。
 既に息絶えていた。撃ち抜かれた額を虚空に向けて、白目を剥いている。
「あ……あ」
 死んでいる。
 船の中で、かいを持っていた男だ。ティムとはほとんど言葉を交わすことはなかったけれども。
 ついさっきまで、生きていた。
 それが、今は──。
「ああ臭い。森ってのは、どうしてこんなに臭いんだ。青臭い。土臭い」
 臭い臭い臭い、とぶつぶつ文句を言いながら、丸眼鏡の男がこちらに近づいてきた。
「ん? 子供が増えてるな」
 ティムに気づき、眼鏡の奥の切れ長の目で凝視する。
 左手には、拳銃が握られている。
 ああ。
 このひとが──殺した。
 歯の根が合わず、口の中でかちかち鳴っている。
 逃げ出したい。けれど足に力が入らない。靴の裏ばかりが地面をから滑りして、立ち上がれない。
「なんという……ことじゃ」
 後ろの方では里長が立ちつくしてわなわな震えていた。トニーとスコットも近くで目を丸くしている。
「何だよ、いったい何人子供いるんだ。聞いてないぞ」
 銃床じゅうしょうかどで頭の後ろをボリボリ掻きながら、丸眼鏡は気怠けだるそうに言う。
「『柱』は子供だってことしか聞いてないんだけどなぁ。はい皆さん、アテンション。この中で自分が『柱』だという人、手ー挙げてー」
 銃を握った左手を上に挙げて、場違いな口調で挙手を促す。
 ティムの背筋が凍りつく。
『柱』を捜している。狙いは──自分だ。
 ああ、怖い。
 殺される。
「この、余所者がッ!」
 丸眼鏡の背後の茂みから、なたを持った里の男がいきなり飛び出して襲いかかった。
 だが丸眼鏡はそれを難なくかわすと、男の後頭部に銃口をかざす。
 二度目の銃声が森に響き、男は脳天から鮮血を噴いて倒れた。
「きみ、子供じゃないだろ。『柱』じゃない癖に出しゃばるなよ」
 既に死体となった男の腹を蹴りながら、丸眼鏡が言う。顔は返り血に染まり、顎から紅い雫がしきりに滴っている。
「お……おおぅ……!」
 里長は膝をつき、がたがた震える。
しまいじゃ……すべて、終いじゃ……」
「じーさん、しっかりしろよッ」
 トニーは里長を揺すり、それから丸眼鏡をきっと睨んで叫んだ。
「おい、てめぇ何モンだ。何しに来たッ」
「だから『柱』を捜しに来たんだって。それと僕はジュデッカ。ただのしがないテロリストだよ」
 返り血で汚れた眼鏡を外して拭いながら、ジュデッカは答えた。
「テロリスト……ってことは、オデッサかッ」
「ご名答。新たな戦力を確保しろっていう命令でね」
 ガーディアンってモンスターより強いらしいじゃない、と眼鏡をかけ直して言い放つ。
「ARMSも『柱』を狙っていたみたいだけどね。こっちのトラップにまんまと掛かってくれて助かったよ。おかげで仕事が楽だ」
「シャトーの侵入者は、ARMSの皆さんを引きつけるための陽動だった……わけですか」
 スコットが言う。冷静そうに見えるが、やはり幾分いくぶん青ざめて動揺している。
「それじゃあ、もう一度聞こうか。『柱』は──どの子供かな」
 ジュデッカは粘りつくような視線で里を見回した。緊張が走る。
「誰でもいいからさっさと答えてくれないかなぁ。モタモタしてると、一人ずつ殺しちゃうよ」
 そう言うと、屋敷の陰から遠巻きに見ていた住民たちに銃を向ける。
 ああ。
 早く名乗らないと、また誰か──死んでしまう。
 だけど。
〈名乗らない方がいいのダ〉
 背中にしがみついていたプーカがささやく。
〈たとえ何人殺されても、じっとしていた方がいいのダ。『柱』の命は何よりも大切なのダ〉
 なんて残酷な──言葉だろう。
 けれど、同時にその通りだと思ってしまう自分がいることにも気づく。
 だって、怖い。
 やっぱり怖い。
 黙っていてはいけないとわかってはいる。でも、それでも──。
「……わ、わた」
 コレットが、立ち上がった。
「わたし……です」
 ──そんな。
「……ふうん」
 ジュデッカは切れ長の目で少女を見る。
「まあいいや。こっちに来て」
 銃を住民に向けたまま、右手でコレットを手招きした。
 コレットは、強張った足で一歩ずつ、ジュデッカに近づく。
 どうして。
 どうして──そんなこと。
 ゆっくりと、けれど確実に、少女とテロリストの距離が縮まる。
 あんな酷いことを言って傷つけたのに。
 まだ謝ってもいないのに。
 こんな最低な奴を、どうして──かばうんだ。
 ティムは拳を握り締め、ギュッと目をつむる。
 まだ怖い。とても怖い。
 だけど、それ以上に。
 もう、弱虫のままでいたくない──!
「ダメだッ!」
 立ち上がって、叫んだ。
 背中に掴まっていたプーカが剥がれ落ち、地面に転がる。
 コレットが足を止めて振り返る。全ての視線が自分に注がれた。
 ティムは荒く息をつき、震える足で必死に踏ん張りながら、銃を握った男を睨みつける。
「……ふん。そっちか」
 ジュデッカはティムと、その足許でもぞもぞ動いて起き上がる亜精霊を認めて、鼻を鳴らした。
 そして、すぐ目の前まで来ていたコレットに視線を戻すと。
「嘘をくとは悪い子だな。お仕置きだ」
 銃口を──向けた。
「や」
 やめろ、と言う間もなく、銃声が鳴り響いた。
 少女が提げていた鞄が外れ、中身がぶちまけられる。
 地面に散乱したのは、小さな石版──ミーディアム。試練場から持ち出したものだろうか。
 そして、コレットは──。
 ジュデッカから少し離れたところに、倒れていた。両手を地面についたまま茫然としている。生きている。撃たれていない。
 その代わりに──。
「あ……」
 ジュデッカの足許で、男が血を流してうずくまっている。里長の世話役──ティムに母親の話をしてくれた──あの男だった。
 発砲の寸前にコレットを突き飛ばし、身替わりに──撃たれたのだ。
「ぐ……ぅ」
 男が顔を上げた。ティムと目が合う。
「……サブ、リナ……」
 口から血を噴きながら、母親の名を呼ぶ。ティムの姿に面影を見たか、それとも。
 本当に──彼女が見えているのか。
「すまなかった。俺は……俺たちは、お前に全部、押しつけ、て……」
 こちらに伸ばした腕が、一瞬固まり。
 そして、地面にくずおれた。
 もう二度と、動くことはなかった。
 ティムの頬に、一筋の涙が伝う。
 なぜだか無性に悲しくなった。
 自分の中にある、自分とは別の感情。それが激しく揺さぶられている。
 ──おかあさん?
 この涙は、自分の内側にいる──母が流させたのかもしれない──。
「ティム……くん……」
 コレットが隣に来て、ティムの手を取る。
 その掌に、そっと一枚の石版が載せられる。
 風の守護獣──フェンガロンのミーディアム。
「お願い……みんなを、守って……」
 目に涙をいっぱい溜めて、少女は少年にこいねがう。
 ──ああ。そうだ。
 ボクなら、守れるんだ。
 まもるための力を持っているんだ。
 ガーディアンには意思がない。それだけでは、単なるチカラの塊に過ぎない。
 強い意思を持つ者と同調することによって──初めてチカラは力として発揮できるのだ。
 ようやく、ようやくティムは理解した。
 どうして自分が『柱』となることができたのか。
 守護獣の力を行使できるのか。
 少年は、今までずっと守られて生きてきた。
 友人に。孤児院の人たちに。そして──母親に。
 守られてきたからこそ、守る者の強さを知ることができた。
 今度は、自分の番だ。
 ボクがみんなを守るんだ──!
「やっちまえ、ティム!」
 トニーが叫んだ。
「お前は強いんだ。そんな変態眼鏡野郎、ぶっ飛ばしちまえッ」
 友人の後押しに、しっかり頷き返す。
 恐怖は完全に消えていた。
 無心で石版に念じ、声ならぬ呪文を唱えて頭上に放った。
「プーカッ!」
「がってんなのダッ」
 亜精霊が飛び上がり、石版と融合する。
 強烈な閃光と共に地面に降り立ったのは──。
 長い爪とたてがみを持った──猛き白虎びゃっこの化身。
「おお……」
 里長が涙を流しながらひざまずく。里の者たちも、その威容を目の当たりにして次々と膝を折った。
 目の前に現れた風の白虎フェンガロンは、見上げるほどに大きい。試練場で初めて召喚したときとは比較にならないほどだった。
〈覚醒率がぐんと上昇したのダ。凄いのダ〉
 プーカが頭の中で言う。び出したティム自身も、その迫力に圧倒される。
「ふん……なかなかの化物じゃないか」
 ジュデッカの声がした。丸眼鏡の刺客は既に銃を構えていた。
「けど、見かけ倒しってこともあるからねぇ」
 挨拶代わりとばかりに、こちらに銃弾を放つ。
 ティムは身をすくめたが、弾は白虎の前に生じた旋風に巻き込まれ、急激に減速して足許に落ちた。
 それでもジュデッカは執拗しつように発砲を続ける。しかしことごとく風の障壁に阻まれ、こちらには一発も届くことはなかった。
「何だよ。これじゃあ勝負にもならないじゃないか」
 初めてジュデッカが感情をあらわにした。
「ここまで覚醒しているなんて聞いてないぞ。まったく、黒騎士といい『柱』といい、どうして僕のときばかり予定外のことが起きるんだ」
 いらついたようにわめきながら、銃を下ろした。
 ──が。
「ペースが狂ったから、もう帰るよ。でも──」
 再び、銃を向ける。
 銃口の先は──ティムから少し離れたところに立っていた、少女。
「やられっ放しというのも、しゃくだからね」
 ニヤリとわらいながら、引き金に指をかける。
 ティムは咄嗟とっさに叫んだ。
「ジュデッカッ!」
 少年の怒りに呼応して、白虎が吠える。
 前方の空気が震え、そこから凄まじい突風が起こった。空気の塊のような強烈な風を食らって、ジュデッカは一瞬のうちに上空に巻き上げられる。
 オデッサの刺客は、大量の枝葉や瓦礫と共に遙か彼方の空を飛んでいき──やがて視界から消えていった。
「場外ホームランだなぁ。きっと海まで飛んでったぜ、ありゃ」
 額に手をかざして、愉快そうにトニーが言う。
 ティムは視線を下ろし、横を向く。
 コレットが立っている。無事だ。
 大切な人を、ちゃんと守ることができた──。
「コレット」
 ティムは少女の前に歩み寄り、頭を下げる。
「その……さっきはひどいこと言って、ごめん」
 コレットはまだ潤んでいた目を丸くして、それからほころぶようにして笑った。
「わたしも、ごめん……ううん、ありがとう」
 そう言って、おずおずと手を握る。
 仲直りの握手は、お互いまだぎこちなかったけれども。
 ほのかに感じる温もりが、じんわりと──胸の内側へと染み込んでいった。
「おいこら、安くないなぁ、お前ら」
 その様子を見咎めたトニーが絡もうとした、そのとき。
「うわッ」
 上空に衝撃音が轟いた。
「か、雷か?」
「そんなわけないでしょう」
 空は雲ひとつない晴天だ。
「何かが爆発したようですね。あちら……でしょうか」
 スコットが指で示す。ジュデッカが飛ばされた方とは反対側の──上空。
「お、おい。あっちって」
「ヴァレリアシャトーのある方角ですね」
 飛空機械に改造したというヴァレリア公の館。現在は森の近くの丘に着陸させてあるらしいが。
 ──何かあったのか。
 トニーが近くの岩場に上って、そちらを眺める。フェンガロンの突風で周囲の樹木がぎ倒されていたため、上空の視界は開けていた。
 ティムも岩場の下で、同じように眺めていると。
 青空の中に──ひとつの影が。
「なんか……落ちてくるぞ」
 こちらへと、真っ逆さまに落下してくる。
 それは──。

「また、難儀なモノを持ち込んでくれたものじゃのう」
 通路の手摺てすりに身を乗り出したまま、お化けの着ぐるみ──マリアベルが言った。
 彼女の視線の先では、蝦蟇の姿をしたモンスターがもぞもぞと動き回っている。
「マリアベルさん……ここにいたんですか」
 アシュレーが声をかけると、ノーブルレッドの少女は着ぐるみの頭をこちらに向け、ようやく来おったかと返した。
はようアレを何とかせい、と言いたいところじゃが、アレは少々厄介かもしれぬのう」
「厄介って、そんなに強いんですか?」
 アシュレーが尋ねる。彼女はあのモンスターを知っているようだが。
「強くはない。ただ、迂闊うかつに攻撃すれば……ドカンじゃ」
「ドカン?」
 聞き返したとき、機関室の壁面スピーカーからケイトの声がした。
〈総員に通達。当該モンスターの体液より揮発性の高い成分が検出されました。交戦の際は充分に注意してください〉
 揮発性の高い──体液?
 その言葉には聞き憶えがあった。
 忘れもしない、銃士隊の初任務で遭遇した──。
「『枯れた遺跡』のモンスター……あいつと同じタイプということか」
 下手に傷をつけて体液を出してしまえば。
 ──爆発する。
「しかも奴は、危険を感じると背嚢から体液を噴出させて自爆するぞ」
「じ、自爆?」
 リルカが焦り出す。
「それじゃ、どうしようもないじゃない。攻撃どころか怒らせてもダメだなんて……」
 アシュレーは通路からモンスターを窺う。
 巨大な蝦蟇は、依然としてエマ・モーターの付近を緩慢な動きでうろついている。
 あんなところで爆発させてしまえば、シャトーの動力源は間違いなく木端微塵だ。燃料に引火すれば館そのものが壊滅する恐れすらある。
 どうにかしてモンスターを刺激することなく誘導して、シャトーから排除しなければ──。
 だが。
「こんな大きな身体じゃ、昇降機に乗せるのは……」
 ここは地下だ。出入りには昇降機を使うしかない。人間が数人乗っただけで一杯になるような昇降機では、どう頑張っても乗せることは不可能だ。
「出口なら他にもあるぞ」
 悩むアシュレーに、マリアベルが助け船を出した。
 彼女はモンスターのいる方に背中を向けて、壁際を指し示している。
「あれは……」
 壁に、金属の大きな扉がついていた。あの向こうは地中のはずだが、どうして……。
 ──いや。
 すっかり失念していた。この館は飛空機械なのだ。今は地下でも、浮上すればここも地上になる。
「小型艇を作ったときのために、あらかじめ出入口をしつらえておいたのじゃ。ほれ、そこに射出機カタパルトもあるじゃろう」
 見ると確かに、扉の手前の地面にレールが敷かれ、その先に射出台が設置されていた。小型艇をあの台に乗せて射出できるようになっているのだろう。
 ──これを使えば。
「シャトーを浮上させてから、あの台までモンスターを誘導すれば……」
 爆発させることなくシャトーから排除することができるかもしれない。
「で、でも、あの台に乗せたとしても……ジッとしててくれるかな?」
 リルカが言う。アシュレーは再びモンスターに目を向けた。
「そうだな……確実に射出させるには、台に固定しないといけないだろうし」
 ここから見る限り、幸い動きは鈍そうだが、それでも都合よく台上に留まってくれるとは思えない。
「それなら心配無用じゃ。わらわが提供したEMケイジで捕捉できる」
「EM……なに?」
 難しい顔をするリルカに、マリアベルはわらわが作ったのじゃと得意気に繰り返してから、説明する。
「任意の空間に電磁式の檻を出現させて侵入者を拘束するシステムじゃ。このシャトーにも配備済みのはずだが」
 お化けの頭をもたげて、機関室のスピーカーに叫ぶ。
「ブリッジの娘っ子ども、どうじゃ。使えそうか?」
 しばらくしてスピーカーから返答があった。
〈は、はい。EMケイジですね。使うのは初めてですが……大丈夫です〉
 ケイトの口振りが一抹の不安を抱かせるが、ひとまずは使用可能のようだ。
「アーヴィング、それでいいか?」
 アシュレーも声を張り上げて、ブリッジにいる館の主に確認を求めた。
〈了解した。これよりシャトーの浮上準備にかかる。諸君らの健闘を祈る〉
 指揮官の許可を得て、彼らはすぐに行動を開始した。
 まずは──モンスターを射出台まで誘導しなければ。
 アシュレーとリルカは通路から下に降り、わざと足音を立ててモンスターに接近した。
 蝦蟇がこちらに気づいた。のっそりとからだの向きを変えて、にじり寄る。
「あまり近づきすぎるでないぞ。長い舌でペロッと捕まえられたら、三秒後には蛙の腹の中じゃ」
「う、うそッ。そういうことは先に言ってよッ」
 リルカはアシュレーの背後に逃げ込み、早々に囮役から離脱した。
 アシュレーは一定の距離を保ちながら、慎重に射出台の方へとモンスターを誘い込む。
「ようし、機関部から離れたな。栗頭ども、仕事じゃ」
 マリアベルの指示で、昇降機の手前に控えていたガバチョ親子が忍び足で所定の位置につく。
「シャトー浮上開始ッ」
 エマ・モーターが唸りを上げ、シャトーが振動を始めた。
 上昇する際の重力を感じながら、アシュレーは引き続き魔物の誘導を行う。
 そして──。
「乗ったぞッ」
 巨体を完全に射出台に乗せたところで、アシュレーは叫んだ。
〈EMケイジ、展開します〉
 ケイトが応答する。程なく蝦蟇の四方に半透明の杭が出現した。唸りのような作動音と共に魔物の動きが止まる。
「今じゃッ、カタパルト起動!」
〈りょうかーい〉
 今度はエイミーの声がした。レールの先の金属扉が左右に開かれ、鮮碧せんぺきの空が眼前に広がる。
〈射出まで、あと十秒〉
 カウントダウンが始まる。ここまで来れば、とアシュレーも胸を撫で下ろしたが。
 突然、火花が爆ぜるような音を立てて、魔物を拘束していた四方の杭が吹き飛んだ。
「しまったッ」
 マリアベルが慌ててスピーカーに怒鳴る。
「ケイジ再展開しろッ」
〈は、はいッ。え、えっと……あれ?〉
〈ケイちゃん落ち着いてー。一度そっちをリセットしないと〉
 ブリッジが混乱している間に、モンスターが再び動き出す。大きく身震いすると赤黒い背嚢が割れ、どろどろした体液が噴き上がった。
「まずいッ」
 自爆する。
 しかも体液まみれの蝦蟇は、前肢を踏み出して台から降り始めた。
 ──どうする。
 考えている猶予はなかった。
 アシュレーは射出台に駆け上がり、体ごとぶつかって押し返した。
「何をしている馬鹿者ッ」
 マリアベルの怒声が聞こえた。アシュレーは両足を踏ん張り、なおも前進しようとするモンスターを食い止める。
 射出をやり直している時間はない。ならば──このまま。
「このまま射出しろッ!」
 ぐにゃぐにゃした胴体に半ば埋まりながら、叫んだ。
〈で、でもッ〉
「僕は大丈夫だッ」
 ブリッジで聞いているであろうアーヴィングに向けて、アシュレーは訴える。
 さっきは貴方を信じたんだ。
「必ず生きて戻る。だから」
 だから今度は、僕を。
 ──信じてくれ。
 タールのような体液を頭から浴びながら、返答を待つ。
〈……射出を続行する〉
 指揮官の決断に、アシュレーは口許を緩める。
 そして。
〈カウント、ゼロッ!〉
 台が作動する。モンスターとアシュレーは側壁に押しつけられ、そのまま猛然とレールを滑っていく。
「アシュレーーーー!」
 リルカの声が一瞬にして遠ざかる。凄まじい重力と風圧に胸が締めつけられた。
 息ができない。肺が潰れそうだ。
 苦しい。
 ──怖い。

 世界が暗転する。
 全身を激情が駆け巡る。
 恐怖が。苦痛が。絶望が。生への欲望が。
 内側に潜む『意思』たちをび醒まし。
 彼に再び──力をもたらす。

 空中に射出された瞬間、周囲の景色から色が失われた。
 自分以外のあらゆるものが、緩慢に動いている。周囲を流れる時間が沈滞している。
 彼は自分の姿を確かめ、黒騎士になったことを実感する。
 そして、目の前に漂う魔物の巨体を見る。
 背嚢が鈍く輝いている。爆発の前兆か。
 彼は空中で反転して、蛙の柔らかい腹を蹴り上げた。
 巨体はさらに上空に突き飛ばされ、そこで──爆発した。
 背後を振り返る。シャトーは無事だ。
 守ることができた──。

 安堵して、ふと気を緩めた、そのとき。
「うわッ」
 景色に色が戻る。時間の流れも戻った。
 アシュレーの変身も解除されている。
「え? ち、ちょっと、これって……」
 射出機によって空中に飛び出した彼の身体は、放物線を描き、重力に引かれて落下を始める。
 下を向くと森が見えた。近づいてくる。
 ──まずい。
 今の彼は黒騎士ではない。生身の肉体で、この高さから地面に叩きつけられれば、確実に──死ぬ。
「も、もう一度ナイトブレイザーに……ッ!」
 そう思って念じたものの、今まで意図して黒騎士になれた試しなどない。苦し紛れに頭を叩いたりもしてみたが、もちろんそんなことで変身できるはずもなく。
「だ、駄目だぁッ」
 結局頭を抱えて、途中で気を抜いてしまったことを激しく後悔した。
 このまま、死んでしまうのか。
 そう観念しかけた彼に──救いの風が吹いた。
 森の方から突き上げるような突風が起こり、落下速度が急激に落ちた。
 ──何だ?
 猛烈な風を受け、腕で顔を覆いながら下を見る。
 森の中に家がある。あそこは……バスカーか。
 そして、その中央で輝きを放っているのは。
 ──白い虎──?
 地面の近くまで来ると、さらに落下が緩くなる。水中に入ったような浮力を感じながら、アシュレーは足から地面に着地した。
 事なきを得て、今度こそ心底安堵して息を吐く。それから前を向いた。
 上空で見た白い虎が胸を張って屹立きつりつしている。見上げるほどに大きい。
「これは……」
「ガーディアンです」
 虎の後ろから、麦穂の髪を揺らした少年が歩いてくる。
「ティム……無事だったのか」
「アシュレーさんも」
 無事でよかったです、と笑みを綻ばせる。
 初めて見た少年の笑顔に、アシュレーは少し驚いた。
「上から落ちてきたとき、びっくりしました。うまく助けることができてよかった」
「助けるって、それじゃあ」
 再び白い虎を見る。
 風を司るガーディアン──フェンガロンか。この白虎の力によって、アシュレーは救われたのか。
 これが、『柱』の能力ちから──。
「アシュレーさん」
 ティムが声をかけた。
 しっかり前を向いて、こちらを見ている。
「ボクをARMSに入れてください」
「え?」
 聞き返すと、少年は顔を強張らせながらも、懸命に自分の意思を伝える。
「ボクも、みなさんと一緒に守りたいんです。世界を。そして……大切な人たちを」
 ガーディアンの生け贄──『柱』としてではなく。
 ひとりの人間──ティム・ライムレスとして。
「……護りたいんです」
 内気な少年が見せた、明確な意思。
 それは、とても眩く──力強さに満ちていた。
「……わかった」
 目を細めつつ、手を差し伸べる。
「ティム。君を隊員として迎え入れよう。歓迎するよ」
 少年が、その手を握り返す。
「はい。よろしくお願いしますッ」
 新たな隊員は快活に返事をした。
 ……が、すぐにへなへなと座り込む。
「どうした?」
「ちょっと……疲れが。まだガーディアンの力に慣れてなくて」
 ティムの顔からみるみる血の気が失せる。白虎もいつの間にか消え、代わりに子犬のような生物が転がっていた。
 大きな力を行使すれば、相応の負荷がかかる。それは『柱』も同様のようだ。
「実を言うと、僕も」
 限界なんだ、とアシュレーも腰から砕けて尻餅をつく。
 強大な力を宿した若者たちは、手を取り合ったまま同時に気を失った。