■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Mission 9 危地

 変わらない。変わっていない。
 踏みしめた床の感触も。華美さはないがよく調った、壁や窓枠や天井の意匠も。
 薄闇が張りついた回廊をアンテノーラは歩いていた。携えた角灯ランタンをあちこちに翳し、浮かび上がるものを一つ一つ確かめては、懐かしさに瞳を細める。
 何もかも、すっかり無くなっているとばかり思っていた。
 ──無くなっていても、よかったのに。
 彼女が最後にここを離れたのは、あの惨劇の四日前。『天使』が炸裂した瞬間は洋上で目撃した。大地を覆いつくす閃光を見た彼女は、愛する祖国──スレイハイムの終末を悟った。
 事実、彼の国は滅んだ。だが。
 五年ぶりに祖国の地を踏んだアンテノーラは、愕然がくぜんとした。
 塩の原野にただひとつ残されていたのは──黄昏たそがれのスレイハイム城。
 ほとんど崩れていない。壁材は外側が塩化しいくらか欠落していたものの、堅牢にして重厚なる古城はほぼ昔のまま、原形を留めていた。
 民と民の住む場所は、ことごとく失われたというのに。
 ──残ってしまった。
 角灯を持つ手が、小刻みに震える。
 ──てめェらが。
 てめェらが殺したんだ。
 深く刻まれた古傷が、疼き出す。
 ──俺たちの苦しみも知らねェで、乳母日傘おんばひがさで育ってきて。
 ──その上いけしゃあしゃあと生き延びようだなんて、虫が良すぎやしねェか。
 何も。何も知らなかった。それなのに。
 知らないことが罪だと──断罪された。
 ──死ね。
 ──俺たちが味わった苦痛をその身に刻んで、てめェの罪を悔いながら。
 ──ここで死にやがれ──。
 額に爪を立て、赤髪を乱して幾度も首を振る。
 そんな理不尽な罪があるだろうか。
 使用人に囲まれ、飢えも寒さも無縁だった娘が、民の困窮など理解できただろうか。労働の辛さを、戦争という地獄を想像できただろうか。
 聞いたこともない汚い言葉でののしられた。私刑にかこつけて甚振いたぶられ、陵辱された。
 どのくらいの間嬲られていたかは定かでない。途中からは意識が朦朧として、床の木目ばかりを数えていた。
 あと幾日もすれば、間違いなく死んでいただろう。
 だが、その前に彼女は救出された。
 あの男に──。
 乱れた息を整え、目を瞑る。
 何という皮肉だろう。
 敵だった。自分から全てを奪った、憎むべき相手だった。
 そんな男に助けられ、情けを掛けられ、そして。
 ──いや。
 目を開け、再び角灯を掲げて奥へと歩を進める。
 懊悩するだけ無駄だ。自分はもう、あの頃の私ではない。
 何も知らない、愚かで幸福な少女は、あのとき──死んだのだから。
 回廊を右に折れ、先にある破れた扉を潜る。
 そこは謁見の間だった。色褪せた絨毯の帯が足許あしもとから壇上の玉座まで続いている。
 玉座には果たして、気配があった。
「『凶祓まがばらい』は済んだのかしら」
 声を掛けると何かが飛んできた。片手で受け止め、確かめる。
 人間の頭蓋──髑髏どくろだった。
 そこでようやく、玉座の背後にうずたかく積まれたものに気づく。天井まで届かんほどの──人骨の山。
「大したものね。これだけの魔物を一人で」
 アンテノーラは歩み寄り、角灯を前へ翳す。玉座の中心に黒髪の女が浮かび上がった。腰掛けに片膝を立てて座り、研ぎ澄まされた刃のごときひとみでこちらを窺っている。
 凶祓まがばらいのカノン──仕事を依頼した渡り鳥である。
「魔物が憑いていたが──骨は本物だ」
 カノンが言う。
「その髑髏も、お前の見知った者かもしれんな」
 アンテノーラは頬を引きつらせたが、すぐに平静を装い、髑髏を後ろに放り投げた。
「確認しなくていいのか」
「悪いけど戯言につき合う気分じゃないの」
 この凶祓は、自分の素性を知っている。
 だがそれはお互い様だ。こちらもこの女のことは徹底的に調べ上げた。その上で依頼することを決めたのだから。
「こちらの依頼はこなしてくれたのかしら?」
「白々しい。どうせ監視していたのだろう」
 凶祓の言葉に、彼女は口許だけで笑った。
 そう。確かに見ていた。
 遮るものがない塩原で身を隠すのは骨が折れたが、隠密行動は元よりお手のもの。常に彼らの死角を取りながら、その一部始終を見届けた。
「奴を──仕留め損なった」
「想定内よ」
 アシュレー・ウインチェスターの殺害。これは最初から期待などしていなかった。並み居る魔獣モンスターを退けるほどの相手を、渡り鳥ごときが始末できるとは思っていない。
 この件に関しては、青年と因縁があるこの女に依頼を呑ませるための口実──という意味合いの方が強かったのである。
「それ以外はつつがなく遂行してくれた。充分よ」
 この凶祓に課した、実質的な依頼は二つ。
 一つはARMSを確実にプラントへと誘導すること。何もせずとも端末タブレットの地図から行き着いたのだろうが、万一にも『あちら』に感づかれることのないよう、念を押したのだ。
 そして、もう一つは。
「──報酬は」
「用意してあるわ」
 上着の内側から紙片を取り出し、カノンに渡した。
「ヴィクトールの唯一の弟子……実際は助手みたいな立場だったらしいけど、その男の居場所が書いてあるわ」
 そいつが貴女の身体を直せるかは判らないけど、とつけ加えた。
 今度は相手が頬をらせた。
 ──限界が近いのか。
 こんな不確かな存在にまですがるということは、それだけ切羽詰まっているのだろう。酷い痛みに呻く姿も、彼女は調査の際に目撃していた。
 ──外してしまえば楽になるというのに。
 そうしないのは、やはり──復讐のためか。
 ──くだらない。
「そろそろ止めたら?」
 女を見下ろしながら、アンテノーラは言った。
「貴女がこだわっているのは全部昔のこと。そんなものに縛られていたって辛いだけなのに」
 そう。辛い過去むかしのことなんて。
 全部捨ててしまえば──。
「私は──亡霊だ」
 凶祓はくらい目で見返した。
「亡霊?」
「過去という名の怨念によって、私は辛うじてこの世界に留まっている。過去を捨てたら、私は」
 ただの死人しびとになってしまう──。
 アンテノーラの心が揺らいだ。
 それなら。
 それなら過去おんねんを捨てた私は。
 既に死人だというのか──。
 奥歯を噛みしめ、それから緩める。
 そんな訳はない。自分は生きている。この女も。
「生きているじゃない」
 言葉に感情を込めたのは、久しぶりだった。
「痛みを感じて、必死に足掻あがいて生きようとしている。そんな亡霊はいないわ。貴女は」
 今の自分から目を背けているだけ──。
 吐き捨てるように言うと、きびすを返す。
「ならばお前は──過去から目を背けているのか」
 背後からの言葉に、ピクリと肩が震えた。
「過去は決して消えぬ。無理に奥へと押し込めても死にはしない。昔の自分を殺したと思っているなら、それは勘違いだ」
 過去は消えぬ、と凶祓は繰り返した。
 呪詛じゅそのような言葉を避けるようにして、彼女は謁見の間を立ち去った。
 ──だまれ。
 黙れ黙れ黙れ。
 回廊を早足で引き返しながら、心中で激昂げきこうした。
 そんなこと──判っている。
 だからこそ、私は。
 あの男を──。
 足を止める。
 ホールの先、開け放たれた城門の手前に──大きな影が立ち塞がっていた。
「首尾はどう?」
 近づきながら声をかけると、影は問題ないと重い声で返した。
「悪いけど、もう一働きしてもらうわ。それが終わったら」
 影を見上げて、アンテノーラは言った。
「──最後の仕掛けを」
 浅黒い肌をした影は、その三白眼を見開いて、頷いた。

 砂丘のふもとに、その入口はあった。
 鉄骨で支えたひさしの下に、城門さながらの鉄扉が立っている。大きな荷馬車も余裕で通れそうな入口だが。
「これじゃあ上から見つからないわけだ」
 日除けに差したパラソルを傾けて、リルカが上を仰いだ。
 庇の上部には砂が堆積し、砂塵も舞っている。確かにこれでは上空から特定できなかったのも無理はない。
「砂丘全体がプラントのようだな。この規模からすると二、三年で築けるような代物とは思えない」
「スレイハイム政府か解放軍か……どちらかの施設を流用したということか」
 アシュレーはそう言うと、ブラッドに視軸を移した。
「恐らく政府だろう」
 視線の意味を察したブラッドが答える。
「解放軍の全てを知っていたわけではないが、こんな施設のことは聞いていない」
「……そうか」
 納得したふうを装い、アシュレーは彼に背を向ける。
 ──結局、問い詰めることはできなかった。
 それとなく聞いてみることはできたはずなのに。あのとき会っていた女は何者なのか、こういう噂を聞いたけど実際はどうなのか──。
 けれど、もし……その答えが予感通り、最悪なものだったら。
 彼と自分たちの亀裂は決定的になる。間諜として拘束し取り調べるような事態になるかもしれない。これまで築いてきた関係が崩壊するのは必至だ。
 そして、逆に否定されて、杞憂だったと判明したとしても。
 出所の知れない風聞や自らの予断であらぬ疑いをかけてしまったという気まずさは残る。今まで通りの関係でいるのは──難しくなるかもしれない。
 どちらにしても、良い結果にはならない。だから──聞けなかった。
 どうせ聞けないなら、きっぱり仲間を信頼すべきなのだ。そうでないなら関係が壊れるのを覚悟で詰問きつもんするべきである。
 どちらにも振り切ることができず、結局今の今まで迷っている。自分の悪い癖だとわかってはいるが──それでも。
「行かないの、アシュレー?」
「あ、ああ」
 リルカにせっつかれて、扉に向かう。
 今は任務の最中だ。ひとまずはそちらに集中しなければ──。
「見張りは、いないみたいですね」
 最後尾からティムが頭を出して言った。丸一日休養させたのが効いたか、すっかり回復して顔色も戻っていた。
 両開きの扉には左右それぞれに把手とってがついていた。右側の把手をブラッドが掴んで半ばほど開け、その隙間にアシュレーが素早く滑り込んだ。
 中は予想以上に広かった。銃剣を構えつつ、周囲を窺う。
 全体としてはシャトーの地下──機関室に似ていた。彼らが立っている回廊は壁に沿って続き、鉄骨と鉄板で組まれた下り階段に繋がっている。
 ただし、階下に設置されていたのはモーターではなく、人ひとりが入れるほどの──円筒。床一面に整然と並んでいる。おびただしい数だ。
 円筒はいずれも硝子ガラス張りで、無色透明の液体で満たされていた。筒の下部からは樹木の根のようにパイプが延びて、縦横無尽に床を埋めつくしている。
 隅々まで見渡したが、人の気配はなかった。電灯は点いているものの機械音がしない。
 稼働していない──。
「空振りだったかもしれんな」
 背後で同じように様子を見ていたブラッドが言う。
「つい最近まで使われていた形跡はあるが、既に撤収した後のようだ」
「こちらの動きを察知して退避したか、それとも」
 用済みになって放棄したか──。
「設備はそのまま残っているみたいですね」
 ティムは回廊の柵から身を乗り出し、下を覗き込んでいる。
「バルキサスのときみたいに、ここから何か情報を引き出せないでしょうか」
「そうだな」
 少なくともここで何が作られていたのかは、確かめなくてはいけないだろう。
「ね、ねえ、アシュレー……」
 リルカが横から袖を引っ張ってきた。
「あの中に入ってるモノ、どことなく見憶えあるんだけど……」
 彼女が指さしているのは、柵の付近にある円筒の一つ。よく見ると、液体の中に人間の頭ほどの大きさの玉が浮遊している。
 漆黒の闇を凝り固めたような、あの玉は。
「タラスクが入っていたのと同じ……」
 ──モンスターの卵。
「ど、どういうコトなの? まさかここで作ってたのって……」
「いや、それは違う」
 あんな怪物を人工的に生み出すことはできない。いにしえの時代にはエルゥ族が試みていたらしいが、少なくとも現代の人間には不可能だろう。
 あれはオデッサの幹部──カイーナとかいう男が降魔儀式によって召喚した、異界の魔物なのだ。
「この場合は、むしろ逆かもしれないな」
 ブラッドが言う。
「逆?」
「つまりモンスターを材料として、何かを作っていた──」
 召喚した魔物を──材料に?
「うげ……そっちの方が気持ち悪いかも」
 吐き気をこらえるような顔をして、リルカが言った。
「やっぱり何を作っていたのかは調べるべきだな。それに」
 アシュレーはもう一度、円筒の中を漂う卵に目を向ける。
「これがかえって、施設から出てしまったら──」
 人や街を襲うかもしれない。やはり放置すべきではないだろう。
「内部を調べた後、予定通りプラントの破壊を行う。敵はいないみたいだけど油断はしないように」
 そう注意を促したアシュレーを先頭にして、彼らは潜入を開始した。
 階段から下に降り、両側に円筒が立ち並ぶ通路を歩く。上からでは判らなかったが、ほぼ全ての円筒にくだんの黒い玉が収まっている。
 目視できる限りでも、円筒の数は百は下らないだろう。つまり……百以上ものモンスターがこの場に眠っていることになる。
「こ、これ、いきなりいっせいにモンスターが出てきたりしないよね、ね」
 同じことを考えていたのか、怯えたリルカがしきりにアシュレーのスカーフを引っ張ってくる。
「材料として利用していたのだから、不用意に孵らない制御くらいはされてるだろう」
 そう返事はしたものの、心地いい場所でないことは確かだ。足早に通路を後にして正面の小部屋へと入る。
 そこは制御室と思しき部屋だった。壁際には操作盤のついた機器がずらりと並び、マクレガー研究室で見たのと同じような硝子板も填め込まれてあった。
「これは……」
 ブラッドは壁一面に描かれた略図らしきものを刮目かつもくしている。プラント内の装置の配置を示したものだろうか。一通り確認すると、操作盤に視線を落として隅のボタンを押す。
「電源はまだ生きているようだ」
 硝子板に何かの徽章きしょうが投影された。決起表明の場に飾られていた旗のマーク──オデッサのエンブレムだ。
「ご丁寧に書き換えたのか。あの男らしいな」
 ブラッドが口の端を吊り上げて苦笑する。アシュレーは無言でその横顔を眺めた。
 画面が切り替わり、今度は細かい文字が表示された。このたぐいの操作ができるのはブラッドだけなので、他の三人は黙って彼の手の動きと推移する画面を見守った。
「やはり……そうか」
 確信が持てるところまで辿り着いたのか、ブラッドは手を止めて言った。
「ここは魔導器を利用したエネルギープラントだ」
「エネルギー……つまり」
 ここで作っていたのは物ではなく、何かを動かすための力そのもの、ということか。
「どうやらモンスターが発する膨大な熱量をエネルギーに変換しているようだな。発掘した魔導器をベースにしてスレイハイム政府がプラントを築き、それをオデッサが拝借して応用した、といったところか」
「エネルギーって、でっかい兵器とか飛空機械を動かすためのモノだよね。てことは、やっぱりバルキサス用の施設だったのかな」
「いや」
 ブラッドは再び操作盤を叩く。
「この出力は……大規模なエネルギープラントに匹敵するものだ。これならバルキサスクラスの機体が百機は飛ばせる」
「あんな機械が百機も……ないですよね、さすがに」
 ティムが小首を傾げる。
「アーヴィングは、オデッサが他にも兵器や飛空機械を隠し持っている、みたいなことを言っていたけど……」
 これだけのエネルギーを生産していたということは、やはり彼の推察は当たっているのかもしれない。
「エネルギーが何に使われたのかは、わからないか?」
 アシュレーが尋ねると、ブラッドはひとしきり操作をして画面を推移させてから、答えた。
「少し……時間が欲しい。深いところまで探れば出てきそうだが」
「……わかった」
 逡巡しゅんじゅんの末に、アシュレーは決断した。
「それじゃあ僕らはもう少し奥に行ってみるよ。破壊に適当な場所を見つけたら戻るから、それまでに調べておいてくれ」
 了解したとブラッドは返事をして、すぐ操作を再開した。
 アシュレーはその様子をしばらく見つめていたが──思い切って背を向け、制御室を後にする。
 一人にして大丈夫だろうか。
 いや、ここは敢えて──。
「アシュレー何してんの? アーヴィングさんのマネ?」
 リルカに指摘され、慌てて手を下ろす。無意識に顎を撫でていたらしい。
「イケメンに憧れる気持ちはわかるけど、無理しない方がいいよ」
「大きなお世話だよ。それより」
 通路から再び周囲を見回す。
 この施設の中枢──機関部を探さなくては。
「上には……何もなさそうだな。となると」
 足許に視線を落とす。通路の脇に赤錆びた梯子はしごの突端が見えた。近づいて覗くと、張り巡らされたパイプの合間を縫うようにして下へと続いている。
 やはり、地下か。
「降りてみよう。踏み外さないよう気をつけて」
 後ろの二人にそう言ってから、アシュレーは梯子に手をかける。
 錆まみれの梯子は足を掛ける度に軋んで頼りなかったが、見た目よりは丈夫なようだ。地下には照明がないのか、徐々に視界が悪くなっていく。
 地面に到達したときには、前方に伸ばした手も見えないほどの暗闇になっていた。
「あ、ボクに任せてください」
 荷袋から角灯を出そうとしたアシュレーを、ティムが止めた。少年は自分の鞄からミーディアムを取り出し、それに向けて何かを呟く。
 石版の刻印から察するに、それは光の守護獣──ステア・ロウのミーディアムか。掌の上で仄かに明滅すると、その光がティムの杖に移った。
「はー、便利だねぇ、ガーディアンって」
 周囲を照らす光源となった杖を眺めながら、リルカが感心した。
「これくらい魔法でもできると思いますけど……」
 控えめに余計なことを口走った守護獣使いは、もれなく気分を害した魔法使いに小突かれた。
 杖の明かりを頼りに、地下の探索を始める。
 配線が剥き出しの機械が散乱する横を抜けると、前方に扉が見えた。錠らしきものはついておらず、把手を引くと問題なく開いた。
 扉の先は電灯が点っていた。廊下が真っ直ぐ続き、両側にはさらに扉が並んでいる。扉の小窓から覗くと、狭い部屋に二段ベッドだけが置かれてあるのが見えた。ここで働いていた者たちの寝床だろうか。
 ひとまず小部屋は素通りして、廊下をさらに奥へと進む。その先は左右に道が分かれていた。
 突き当たりに差しかかり、どちらを行こうかと見回した、そのとき。
 右の廊下の先に、動く人影が。
 ──あれは。
 慌てて手前に引き返し、曲がりかどに身を潜める。
「あ……わッ」
 声をかけようとしたリルカを、肩を掴んで引き寄せた。
「な、なに?」
 なぜか腕の中で取り乱しているリルカに静かにするよう促してから、壁を背にしてそっと頭を出し、再びそちらを窺う。
 微かな靴音を響かせて奥へと歩いていく後ろ姿は──紛れもなく。
 ──やはり。
 アシュレーは項垂うなだれ、握った拳を震わせた。
 制御室で端末を調べているはずの彼が、ここにいる。しかも不審な動きをしている。
 もはや疑うべくもないのか──。
「……後をつけよう」
「え? でも、あれって」
 戸惑う仲間たちに有無も言わせず、アシュレーは遠ざかる人影を追って右の廊下に踏み出した。
 白塗りの壁。一定間隔で設置された天井の電灯。息を潜め、見失わないぎりぎりの距離を取りつつ前方の影を尾行する。廊下は明るく見通しも良いので、振り返られればすぐ見つかってしまうのだが──視線の先の影にそのような素振りは微塵もなく。
 変だ。
 いくら距離を置いているとはいえ、あの彼が背後で動く気配を察知できないはずがない。
 違和感はあった。けれども。
 振り乱した黒髪。戦闘に特化して鍛え抜かれた肉体。そして──右手に填めた機械式手甲マイトグローブ
 間違いなく彼である。あんな特徴のある男は他にいない。
 とにかく、確かめなくては。
 唐突に影が消えた。一瞬焦ったが、どうやら廊下の先に下り階段があるようだ。踊り場で折り返し、さらに地下へと続いている。
 やや薄暗くなった、その先には。
 巨大な──金属の扉が。
 扉の左側の壁には操作盤が備えつけられていた。影はその前に立ち、指で操作を始める。この扉を開ける……パスワードか。
 ここは元政府軍の施設であり、現在はオデッサの施設。元解放軍で今はARMSである彼がパスワードを知っているはずがない。
 その事実が示すものは──つまり。
 振動音が響いた。
 扉が中央から割れ、左右に開かれていく。影は迷いもなくその中へと踏み入る。
 ──決定的な、証拠。
 口の中で食い縛った歯が軋む。たぎった血流が顳顬こめかみを通り、脳天へと流れ込むのを感じた。
 怒りか。悔しさか。
 ──どちらでもいい。
「行くぞ」
 アシュレーは駆け出し、閉まり始めていた扉を潜った。後ろの二人も遅れてついて来て、間一髪で滑り込む。
 完全に閉じた扉を一瞥いちべつしてから、辺りを窺う。
 天井の高い、倉庫のような部屋だった。鉄板を打ちつけた壁以外は何もない。
 その中心に。彼が。
 こちらに背を向けて──佇んでいた。
「ブラッド!」
 アシュレーが叫ぶ。発した声が拡散し、反響する。
「説明……してくれ」
 視線の先の背中は微動だにしない。
「どうしてここにいるのか。なぜ扉を開けるパスワードを知っているのか。昨日会っていた女は何者なのか。お前は──」
 視線を動かし、手甲を填めた右手を見る。
 ──スレイハイムの英雄は──。
「お前は一体、誰なんだ」
 問いかけが虚しく響いては、消える。答えはない。
「頼む……答えてくれ。でないと、僕は」
 銃剣に手をかける。後ろでリルカが、ティムが息を呑んだ。
 仲間だと信じてきた、その男に。
 アシュレーは。
 刃を向けて──構えた。
「答えろブラッドッ!」
 ゆっくりと、振り返る。
 三白眼でこちらを見据え、重い口が開かれる。
「俺、は……」
 そのとき。
 巨体が突然がくりと脱力した。両腕と頭を垂らしたまま、動力の落ちた機械のように静止している。
 唖然とするアシュレーが見守る中、それは再び動き出した。
 顔を上げ、肩をそびやかし。
 声を──発した。
「ザ・ン・ネ・ン・デ・シ・タ~」
 それは彼のものとは思えない、耳障りな声で。
 彼のものとは思えない、不気味な笑顔だった。
「な」
 理解が追いつかないアシュレーたちの前で、男はニタニタと笑い、カタカタと両手足を上下させている。
 まるで、意思を持たない操り人形のように。
 ──操り、人形。
 ハッとして、もう一度目を凝らして彼を見る。それでようやく気づいた。
 その太い腕に、脚に、首筋に、細い糸が絡みついている。
 それらは頭上で一束の糸となって。
 アシュレーたちの背後、天井近くの壁へと──。
「あ……」
 壁から離れて、見上げる。せり出した壁の一部に、横長の小窓が設えてあった。向こう側に監視部屋らしきものがあるようだ。
 その窓からこちらを見下ろし、両手で全ての糸を手繰っていたのは──。
「アンテノーラ……ッ!」
 アシュレーは、ようやく自らの不覚を悟った。
 罠だ。全部。
 嵌められた──!
「無様なものね、ARMS」
 赤髪のアンテノーラは、高らかに言い放つ。
「こんな人形遊びにまんまと騙されるなんて。世界の希望が聞いて呆れる」
「人形……遊び」
 アシュレーは振り返る。同じ動きを繰り返していた巨体ブラッドがピタリと止まり、直後に倒れた。アンテノーラが糸を収めたのだ。
「それは『ドッペルゲンガー』。対象の生体情報をインストールすることで対象そのものに変化へんげできる、魔界の玩具おもちゃよ」
 言いながら、女は指を突き出して再び鋼糸を繰り出す。糸の束が頭上を掠め、ブラッドの姿をした魔物の背中を貫く。みるみるうちに身体が収縮し、変化し、真っ黒な木偶でく人形のような姿となって地面に転がった。
 アシュレーは愕然とする。
 ──こんな、ものに。
「生体情報は貴方たちの根城に潜入したとき採取させてもらったわ。あれだけ時間があれば、髪の毛一本掠め取るくらい造作もない」
 ヴァレリアシャトーで対峙した際、この女は動きを封じたブラッドに詰め寄っていた。
 ──あのときか。
「インストール後は動作テストも兼ねてシエルジェに送り込んだ。目的はお察しの通りよ」
「シエルジェ……」
 アシュレーは肩を強張らせる。
 データ端末タブレットの盗難。あれも、こいつの仕業か。
「で、でもあの街は結界で」
「結界の解除法はカイーナに教えてもらった。あの子もシエルジェ出身なの」
「……待て」
 悔恨を押し殺しながら、アシュレーが問う。
「僕たちがシエルジェに行くことを、どうやって知った」
「それは秘密──と思ったけど、いいか。もう外されてしまったみたいだし」
 アンテノーラは組んだ腕を窓枠に乗せて、勝ち誇るように目を細めた。
「生体情報を採取したとき、ついでに盗聴器も仕込んでおいたのよ。ブラッド・エヴァンスの武器の中に」
 絶句するアシュレーたちに、仕掛人は綽々しゃくしゃくと種明かしをする。
「小型の盗聴器を銃口から内部に取りつけた。鋼糸を使ってね。おかげで武器の方には不具合が起きたみたいだけど」
 マイトグローブの調子が悪くてな──。
 ──原因は、それか。
「そんな訳で、貴方たちの行動は筒抜けだったの。ブラッドほんものと鉢合わせしないようにドッペルゲンガーにせものを動かすのにも役に立ったわ」
 偽物を──動かす。シエルジェ以外でも偽物のブラッドが紛れていたというのか。
「──まさか」
 あの、クアトリーの路地で見かけたブラッドも。
「そう、あれもドッペルゲンガー。不審な行動を貴方に見せて猜疑心さいぎしんをかき立てるのが目的だった。ちなみに相手の女は私」
 思った以上に動揺していたわね、とアンテノーラは鼻で笑った。
 ──ああ。
 アシュレーは膝から崩れ落ちた。
「貴方たちをここに誘い込むためには、ブラッド・エヴァンスにとことん不信を抱いてくれることが必要だった。だから色々と手を使わせてもらったわ。渡り鳥なんかも利用してね」
 渡り鳥──凶祓のカノン。彼女からの情報も、こちらを揺さぶるため。
 何もかも。まんまと引っかかって。
 目論見もくろみ通りに、僕は──。
「ARMSの結束も大したことなかったわね。この程度で我々に歯向かうなど片腹痛い。まあ」
 愉快な見世物くらいにはなったかしら、とアンテノーラは言い放つ。
 その彼女に、いきなり火の玉が撃ち込まれた。小窓の下の壁に当たり、すすをつける。
 火の玉の出所は、リルカだった。
「いい加減に……してよ」
 憔悴しきったアシュレーを横目で見て、それからきっと小窓を睨む。
「全部あなたのせいじゃない。さんざん嫌がらせしてブラッドを疑うように仕向けたのは、そっちじゃない」
「その通りよ。でもね」
 肩に掛かった赤髪を手で払ってから、アンテノーラは言った。
「罠を回避するチャンスはいくらでもあったのよ。敢えて逃げ道も用意してあげたのに、彼は自らそちらを選ばずに填まっていった」
 カノンの言葉に惑わされなければ。
 昨夜のクアトリーでのことを、問い質していれば。
 さっきの廊下で声を掛けていれば──。
「本当に仲間を信じていたなら」
 こんなことには。
「ならなかったのよ」
 アシュレーは虚空を仰ぎ、擦れた声であえぐ。
「そ、うだ……」
 裏切ってしまったのは。
 僕の方だ──。
「違うよアシュレー!」
 リルカが懸命に声を張り上げる。
「アシュレーは悪くない。悪いのはあのヒトだよッ。こんな卑怯な手で……」
 小窓の方に向き直り、パラソルを身構えた。
「ぜったいに……許さない」
 そして詠唱を始めようとしたが。
「リルカさんッ」
 ティムがリルカを突き飛ばした。一瞬前まで彼女のいた地面に鋼糸が突き刺さる。
「ひとつ教えてあげるわ、お嬢さん」
 手をついて起き上がるリルカに、アンテノーラは言った。
「戦場ではね、卑怯は褒め言葉なのよ」
「……そんなわけない」
 ゆらりと立ち上がり、目に涙を溜めながらリルカは言い返した。
「戦場だってどこだって、卑怯は卑怯だッ」
「……そう」
 足を踏ん張り、精一杯の挑発を見せる少女に、女は目を細めた。
「貴女は何も知らないままなのね。幸福で……愚かで」
 羨ましい、と最後に零すように呟く。
 その言葉にリルカが眉根を寄せた、そのとき。
 爆発音と──振動。
「な、なに?」
 リルカが屈み込んで辺りを見回す。この部屋には埃が舞っただけで何も起きていない。爆発は……上か。
「魔導器を破壊した」
「魔導器って……あ、あのモンスターが入ってた」
 魔物からエネルギーを抽出していた円筒。あれが壊れたということは──。
「制御が外れたモンスターはすぐに目覚めるわ」
 既に上は魔物だらけでしょうね、とアンテノーラは肩を竦める。
「ほとんどはエネルギーを吸い出した出涸らしだけど、未使用のまま封印されていたのも十数体は残っている。いくらスレイハイムの英雄でも厳しいんじゃないかしら」
 そう。制御室には本物のブラッドがいる。
 助けに行かなければ。
 だが──。
「アシュレー、しっかりしてよッ」
 リルカがしきりに腕を担いで起こそうとするが──動けない。
 我ながら驚くほどだった。身体を動かすのは心なのだと、そのとき初めて思い知った。
 折れてしまった心では──動かない。
「もうじきこちらにも押し寄せてくるわ。さて、どう切り抜ける」
 危ないから私は退散するわね、とアンテノーラは小窓から立ち去り、姿を消した。
 リルカはアシュレーを起こすのを諦め、隣に同じように座り込む。
「どうしよう……どうしたら……」
「リルカさん……」
 途方に暮れる二人を、アシュレーは無感動に眺める。何とかしなければと頭では思うが、やはり身体は動かない。
 もう、駄目かもしれない。
 諦めが脳裏を過ぎった、そのとき。
〈こちらは──制御室〉
 部屋に、重々しい男の声が響いた。
〈この放送が、仲間に届いていることを願う〉
 天井に埋め込まれたスピーカー。そこから発せられた声は。
「ブラッド……」
〈どうやら罠に掛かってしまったようだな。制御室の外にモンスターが徘徊していて動きが取れない〉
 非常時にもかかわらず、その声色は冷静で、いつもと変わりなく。
〈こちらのモニターで、先程地下の実験室のロックが外れたのを確認した。状況からして、お前たちはそこに閉じ込められているものと推察する〉
 ここは実験室だったようだ。鉄板の壁と監視部屋──モンスターからエネルギーを抽出する実験でも行っていたのかもしれない。
〈実験室のロックはパスワードを入力しなければ外れないが……こちらに手がかりはなかった。それに、既に地下にもモンスターが下りている。部屋から出たところでモンスターとの接触は避けられないだろう〉
 この数が相手では全員無事では済まない、とブラッドは断言した。
〈だから、お前たちは壁を破って脱出しろ〉
「え……?」
 アシュレーの背筋に、冷たいものが走った。
〈バイツァダストを使って奥の……扉と反対側の壁を破壊しろ。壁の向こうは外だ。砂地であれば地下でも何とか出られるかもしれない〉
 まさか。
 アシュレーは立ち上がり、ふらふらと扉に歩み寄る。
〈俺はこのモンスターどもを片づけてから合流する。野放しにしておく訳にはいかないからな〉
 うそだ。
「ブラッド……お前は」
 死ぬ気だ。
〈死ぬつもりはない〉
 アシュレーの心を見透かしたように、ブラッドは言う。
〈俺はまだ死ぬ訳にはいかない。やるべきことが残っているからな。だから〉
 少し、間を置いてから。
〈信じて──待っていてくれ〉
 そして、切れた。
 扉まで辿り着いたアシュレーは、中央の割れ目に指を立ててこじ開けようとする。
「ちょっと、無理だってば」
 リルカが止めるのも聞かず、取り憑かれたように扉を繰り返し引っ掻く。
 行かなければ。
 ここを開けて、ブラッドを助けなければ。
 自分のせいで──死んでしまう。
「ブラッドを……助けに……ッ」
「アシュレー!」
 リルカがアシュレーに掴みかかった。力ずくで扉から引き剥がし、押し倒して馬乗りになる。
 そしてスカーフを引いて顔を近づけ──怒鳴った。
「しっかりしてってばッ、リーダー!」
 面食らったアシュレーが見返すと、リルカはスカーフを放し、うつむく。
「お願いだから……これ以上、ガッカリさせないでよ……」
 アシュレーの襯衣シャツにぽとりと雫が落ちる。前髪で顔は見えないが、肩を震わせて──泣いている。
 ああ。
 僕はまた──裏切ろうとしていたのか。
 仲間の信頼を。そして──彼の言葉を。
 ──信じて待っていてくれ──。
 嘘じゃない。無理なんかじゃない。
 スレイハイムの英雄は、いつだって危地を切り抜けてきたのだ。今回だって、きっと。
 ──信じる。
 今度こそ、彼を──。
「……脱出しよう」
「……ん」
 鼻声で返事をしたリルカが横に退く。アシュレーは身体を起こし、荷袋の口を広げた。
 取り出したのは、バイツァダスト──昨夜マリアベルから受け取った魔導爆弾。施設の破壊のために預かったものだったが。
 アシュレーは扉に背を向け、奥の壁めがけて──それを投げた。
 衝撃はほとんどなかった。一瞬の閃光の後に闇色の膜が爆心を包み込み、熱も音も、壁の破片さえも、爆発で生じたあらゆるものを吸収した。
 膜が消失すると、大きく破れた壁から一気に砂が押し寄せてきた。
「外に出るぞッ」
 そう言って足を踏み出したが……流れ込む砂に足を取られて思うように進めない。そうするうちに部屋はみるみる砂で満たされていく。
「これじゃ出られないよッ」
 リルカが背後で音を上げた。既に腰まで砂に浸かっている。
 ──まずい。
 これでは脱出どころか、この部屋で──。
「生き埋めなのダッ」
 突然ティムの鞄からプーカが飛び出してきた。どうやら鞄の中に砂が入って苦しくなったようだ。
「びっくりしたのダ。危うくお陀仏だぶつになるところだったのダ」
「プーカ……あ、そうだッ」
 ティムは鞄を開けて中をまさぐる。そして取り出したのは。
「行くよ、プーカ!」
「がってん承知なのダッ」
 放り投げた石版にプーカが飛びつく。ミーディアムと合体コンバインした亜精霊は、輝きの中で膨れ上がり、変質し。
 鉱石の殻に覆われた蒼竜──大地の守護獣グルジエフへと姿を変えた。
 ガーディアンに地上まで運んでもらうつもりか。危険には違いないが、確かに他に手はなさそうだ。
「乗ってくださいッ」
「え? 乗るって……コレに?」
 リルカが変な顔をして躊躇する。竜の背中は無数の水晶が突き出ていて、上に乗れるような場所はない。
 ティムが水晶の後部に位置ポジションを見つけてよじ登る。アシュレーは尻尾の付け根にまたがった。文字通り乗り遅れたリルカは辛うじて尻尾に飛びつく。
「なんでもっと乗り心地いいのにしなかったのッ」
「地面の中なら大地のガーディアンが一番いいんですッ」
 文句を言うリルカにそう返してから、ティムはグルジエフを発進させた。
 大地の守護獣は流れる砂をものともせず、壁の穴を這って地中に出る。鉤爪で砂をかき分け、上へ上へと突き進む。
 アシュレーは目を瞑り、竜の背中の鉱石にしがみついて耐え凌いだ。頭上から流れてくる砂の圧力で何度も落ちそうになる。
「地上に出ますッ」
 ティムの声が聞こえた直後、急に視界が開けた。同時に不意の方向から揺さぶられ、手がすっぽ抜ける。
 空中に放り出されたアシュレーは、砂の地面に尻から着地した。横では同じように振り落とされたリルカが半ば砂に埋まっている。
「うえぇ……服の中に砂が……気持ち悪」
 手を貸して地面から抜け出したリルカは、犬のように身体を振って砂を落とす。ガーディアンとティムは少し離れたところに着地していた。
「ここは……」
 砂漠のどの辺りなのか。
 アシュレーが見回した、そのとき。
 凄まじい衝撃が──背後から。
 反射的にアシュレーたちはその場に伏せ、振り返る。
 火山の噴火──ではない。それと見紛うほどの爆発が起きていた。
 砂丘の頂上から凄まじい炎が噴き出ている。砂の山はみるみるうちに落ち込んで、彼らのいる地面よりも低くなり。
 後には──灼けた地面の広がる──広大な窪みが。
「な……」
 アシュレーは、現実感に乏しいその光景を眺める。
 ──そんな。
 まさか。
「ブラッ、ド……」
 震える腕を伸ばし、虚空を掴み。
 その拳を──砂の地面に叩きつけた。