■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Episode 14 侵食する世界

 抱えていた洗濯かごを床に下ろすと、マリナは閉めたばかりの窓を振り返った。
 建ち並ぶ家々の屋根。街をぐるりと取り囲む外壁。代わり映えのしない地上の景色とは裏腹に、上空では濁流のようにうごめく闇が、太陽も雲も何もかもを遮っている。
 タウンメリアから青空が失われて、はや三ヶ月。今ではこの光景すら見慣れて、半ば日常に溶け込んでしまっているようにも思える。
 当初は騒然としていた街の人々も、今ではすっかり落ち着きを取り戻し、以前と変わりない生活を送っている。なかなかどうして人間の適応力は大したものだとマリナは思う。
 とは言え、やはり心中は穏やかではないだろう。先行きに目を向ければ――不安にならざるを得ない。
 ファルガイアを襲う世界規模の変異。その影響は徐々に人々の日常にも及んできている。食糧不足とそれに伴う物価の高騰。河川や湖の汚染も進み、水不足も日ごと深刻になっているという。大地はますます荒廃の度を深め、街の外にはこれまでとは比べものにならないくらい凶暴な魔物が跋扈ばっこしている。
 このまま普通の空が、陽の光が戻らなければ。
 人間は……滅亡する。
 誰もが終末を予期し、不安を抱えたまま、それでもどうすることもできなくて。
 結局――いつも通りの生活を続けている。こんな訳のわからない脅威に対して、市井しせいの人々にできることなど何もないのだ。
 適応というより、諦めなのかもしれない。騒いだってわめいたって事態が好転するわけではない。ならばいっそ腹をくくって、穏やかな気持ちのまま滅んでやろうという――。
 いや、違う。
 自分も、街の人たちも、まだ諦めていない。
 その証拠に――。
 マリナは足許の籠に視線を落とし、目を細めた。
 取り込んだばかりの洗濯物。その中に久しぶりに男物のシャツやズボンが紛れている。
 帰ってきたんだ。彼が。アシュレーが。
 街の人たちも総出で迎えてくれた。門から店までの道に人垣ができ、さながら凱旋パレードのようだった。
 誰もが奇蹟の生還を祝福し、そして。
 希望を――託したのだ。
 みんな、まだ希望を捨てていなかった。だからあんなにアシュレーの帰還を喜んだのだろう。
 その期待がまた重荷になってしまう心配はあったけれど、今はそれ以上に。
 ――嬉しい。
 信じて、祈り続けた。それがやっと通じて、戻ってきてくれた。
 自分は彼のマリナになれたのだ。そのことが、たまらなく嬉しかった。
 彼はまた旅立ってしまった。でも、もう昔みたいに不安じゃない。
 船は港に帰るもの。それがようやくわかったから――。
「マリナ」
 階下から呼ばれた。セレナの声だ。
「お茶淹れたんだけど、飲むかい」
「あ、うん」
 籠を抱え直してマリナは一階へ降りた。調理場では叔母のセレナがポットの茶を器に注いでいる。
「今日も完売?」
「ああ。昼過ぎには全部はけちまったよ」
 こんな暗くちゃ昼も夜もあったもんじゃないけど、とセレナは湯気の立ったカップを差し出した。マリナは籠を片づけてからそれを受け取る。
「小麦粉はまだストックがあるから大丈夫だけど、ミルクやバターは調達が難しくなってる。馴染みに無理言って回してもらってるけど……それもぼちぼち厳しいかもね」
「そう……」
 背もたれのない丸椅子に腰を下ろして、カップに口をつける。セレナは脚立に寄りかかるようにして座っている。
「小麦粉と水だけじゃ、クレープくらいしか作れないねぇ。いっそクレープ屋に転業するか」
「具なしのクレープなんて誰が買うのよ」
 マリナが言うと、それもそうかとパン屋の女主人は豪快に笑った。深刻な話なのにちっとも深刻な感じがしない。
「こうなったらアシュレーたちに頑張ってもらわないとね。早いとここの空を何とかしてくれないと、三代続いた『Bakery Portoベーカリー ポルト』も廃業だ」
「そういう問題じゃないでしょ」
 相変わらずの呑気のんきな調子に、マリナも少し笑った。
 それからセレナの視線に気づく。茶をすすってから、こちらに向けて片目をつむってきた。
「戻ったみたいだね」
「うん……心配かけてごめん」
 この半年、剣の大聖堂に通うことを除いては普通に振る舞ってきたつもりだった。けれど、やはりどこかで無理は出ていたのだろう。とりわけ一番近くにいるセレナには感づかれていたに違いない。
「アシュレーもせっかく久々に帰ってきたんだから、もっとゆっくりしていけばいいのに。慌ただしいったらありゃしない」
「しょうがないよ。任務なんだし。それに」
 アシュレー自身も、一刻も早くこの世界を何とかしたいのだろう。
 仲間たちの、みんなの期待に応えるために――。
「もう、私たちだけのアシュレーじゃないもの」
「そうだねぇ。気がついたら」
 一丁前になっちまって、とセレナはカップを置いて、遠くに目をせる。
「あんたもアシュレーも、ちょっと前まで他愛ない子供だったのにねぇ。しょっちゅう喧嘩して、そのたんびに難儀したものだけど。大抵はあんたが機嫌損ねて、後からアシュレーが情けない顔で相談してきて」
「そんなこと――」
 抗議しようとしたが、彼女の表情が気になって思い止まる。
「もう少しくらいは、子供でいてほしかったものだけどねぇ。でないと」
 まだ、気持ちの整理が。
 そう呟いて、それからハッとマリナを見た。
「おばさん?」
 見返すと、視線を泳がせた。何か――迷っている?
 初めて見せたその表情に、マリナは妙な胸騒ぎを覚える。
「駄目だねぇ、こんなことじゃ」
 セレナは横を向いて、かぶりを振った。そしてため息混じりに続ける。
「ウインチェスターさんに顔向けできないよ」
 ――ウインチェスター。
 アシュレーと同じ姓。ということは。
 胸の鼓動が早くなる。
 そう。ずっと疑問には思っていたのだ。どうして血の繋がりのないアシュレーがうちにいるのか。一緒に暮らしているのか。
 幼い頃に何度か聞いてみたことはあった。けれどセレナにやんわりとはぐらかされ、困った顔をされて――いつしか口にするのをやめてしまった。
 聞いてはいけないことなんだと、子供心ながらに察したのだ。それに、その頃は別に知らなくていいことでもあった。
 きょうだいではないけれど、家族の一員。血は繋がってないけど、うちで暮らしている――他より少しだけ特別な、幼馴染み。小さなマリナには、それだけわかっていれば充分だった。
 でも、今は。
「話さないと……いけないんだろうねぇ」
 聞かないといけない。
 もう子供じゃない。それに、わたしは。
 知りたい。
 アシュレーのことを、全部――。
「聞かせて」
 マリナは言った。
「あんたにとって、いい話じゃないよ。――いや、はっきり言って辛い話だ。それでも」
 聞きたいかい――。
 そう念を押す叔母の顔は、既に辛そうだった。
 マリナは高鳴る鼓動をこらえつつ、うなずく。

 彼女のはらの底に小さなほのおが灯り、ちりちりと胸を焦がし始めた。

 なぜだ、と目の前の少年は奇妙な声色で言った。
何故なにゆえまだ肉体が残っておる。我らが囚われておる」
 突然の変貌にアシュレーは目をみはった。
 ガーディアンの聖域。その最奥さいおうにある祭壇で、ティムが見えない何かに触れた。その瞬間――彼の身体に異変が起きた。
 外見は何一つ変わっていないのだが……声も表情も仕草も、まるで別人だった。煌々こうこうとした輝きに包まれて近づくことすらはばかられた。
 ティムではない、とアシュレーは即座に悟った。別の存在が入り込み――入れ替わっている。あの降魔儀式で自分に起きたのと同じことが、彼の身にも起きたのだ。
「ティムの魂が拒絶したのダ」
 少年の横を浮遊する亜精霊が言う。
「『柱』が肉体の消滅を否定したまま、ガイアを受け容れたのダ。だから解放されずに肉体に留まっているのダ」
「……成る程」
 理解した、とティムの姿をした者はうつろな目を伏せた。ただでさえ色素の薄い肌が、光を帯びて透けそうなほど白く輝いている。
「プーカよ、お前はこのことを知っていたか」
「プーカは連れてきただけなのダ。知らないのダ」
 他意はないのだろうが、どこかとぼけているようにも感じた。
「ねえアシュレー、これって」
 リルカが横から突く。彼女も気づいたらしい。
「アシュレーと……同じ状態だよね。別のモノがティムに乗り移って」
「ああ」
 先程の会話から察するに、乗り移った側にとっては不本意な結果であったようだが。
 果たしてティムは無事だろうか。そして。
 ティムに憑依ひょういした、これは――。
「いいザマじゃの、ガイアよ」
 戸惑う人間たちを後目しりめに、マリアベルが進み出る。
「よもや人間ごときに――といったところか。かつてのうぬらであれば、そんな脆弱ぜいじゃくな肉体など喰い破っておったであろうに」
 飾り人形のような出で立ちの少女は、生気が失せてやはり人形めいた少年の前に立ち、対峙たいじした。
「汝らの弱体化が図らずも証明されたのう。『柱』の体ひとつ破れぬようでは、此度こたびの災厄など祓えるはずもない」
「相変わらず不遜ふそんな物言いですね、ノーブルレッドよ」
 唐突に口調が変わった。声色もやや女性寄りに変化している。
「ですが――認めざるを得ないようですね」
 そして、マリアベルの肩越しにこちらに目を配る。
「希望と絶望を宿した者――本来ならば貴方の処遇についても判じなければいけないのでしょうが――それどころではないようです」
「あ、あなたは」
 品定めするような視線にたじろぎつつも、アシュレーは話しかける。
 ここはガーディアンの聖域。守護獣と接触できる唯一の場所。ならばティムに憑依したのも――。
「ガーディアンの……代表ですね。それなら」
「代表とな?」
 続く質問を遮られた。今度は老人のようなしわがれた声だ。
「いかにも人間らしい心得こころえ違い。笑止笑止」
 見下すように呵々大笑かかたいしょうする。ティムの姿とのギャップにリルカが珍妙な顔をする。
「我らは個にあらず。ファルガイアを守護する気高き眷族けんぞくの総体である」
「個に……あらず?」
 意味がわからず、困ってマリアベルを見た。
「そうじゃのう、何とも説明が難しいが」
 古の種族の生き残りは、大儀そうに腕を組みながら応じる。
「ガーディアンは単体では意思を持っておらぬのだが――彼奴あやつらは同族間で緩く繋がり合っておる。その組織ネットワークの総称が……いや、違うな」
 説明に行き詰まり、首を捻る。
「総体――つまりガーディアン全体としての意思、ということか」
 カノンの見解に、まあ要はそうなんじゃがと答えてから。
「どう言えば良いかのう。個別には単純な意味しか持たぬモノが、結合することで複雑な意味を成すというか」
「ガーディアンが互いに接続リンクしながらそれぞれの原理に則って動くことで、一個体としての意識を疑似的に具現化している――そんなところか」
 ブラッドの解釈にマリアベルも腑に落ちたようで、それが一番近いのと首肯しゅこうする。
「あうう……余計にわかんないって」
 お手上げ、とリルカは本当に手を上げた。アシュレーも未だ漠然としか呑み込めていない。
「まあ、今は厳密に理解する必要はないかの。カノンの言う通り、ガーディアン全体の意思――その解釈で充分じゃ。その昔は大地を示す言葉で『ガイア』などとも呼ばれておった」
 ガイア――大地の意思。
 それを宿した少年は、なおも感情を伴わない瞳でこちらを見据えている。
「さて。それで――どうするのじゃガイアよ」
 マリアベルが問う。
「人間どもにファルガイアをゆだね、こやつらに協力するか。もっとも他に選択肢はないと思うが」
「図に乗るな、影の一族」
 また声色が変わった。若い男の声で鋭く一喝する。
「エルゥと言い貴様らと言い、かねてよりの傲慢ごうまんさ目に余る。我らの恩寵おんちょうないがしろにし、小賢こざかしい知恵を振りかざしてファルガイアを喰い散らかしたその所業しょぎょうを忘れたか」
「喰い散らかしたのはエルゥじゃ。ノーブルレッドは関与しておらぬ」
 それに、とマリアベルは真顔になって続ける。
「何もかも昔の話じゃ。エルゥは滅び、ノーブルレッドもわらわしか残っておらぬ。汝らを蔑ろにした――罰なのかもしれぬな」
「都合の良いことを――」
 言いながら、再びこちらに視軸を移す。
「人間ごときに祓えるものか。あのような――異形の世界を」
「異形の世界?」
 聞き返したアシュレーに、それが正体だとガイアが告げる。
「此度の災厄――ファルガイアを侵食しているのは、この世界とはことわりの異なる『世界』である」
「理の異なる……世界?」
 説明されてもやはり鸚鵡おうむ返ししかできなかった。理解が及ばず言葉が上滑うわすべりしている。
「世界が単独の存在であるなどと思い上がるのは、井中せいちゅうかわずごとし。形而けいじ上は世界は複層的かつ無数に存在している」
「そんなものは……ただの概念だろう」
「そう、概念である」
 カノンの言葉に、すかさず切り返す。
「我らが祓わねばならぬ敵。それは『異世界』という概念存在である」
 概念が――敵?
「そんなことが――」
 あり得るのかとブラッドが唸る。
常軌じょうきいっしている」
「だが、事実である」
 ガイアが断言する。そもそもバスカーの夢見に予言を視せたのは彼らなのだ。異変を的確に察知した彼らに疑義など挟むべくもない。
 だが――それでも。
 ファルガイアを襲っている異常現象。その原因が。
 ――異世界?
 特定されてもちっとも実感が湧かない。想像力の範疇はんちゅうを超えている。リルカもカノンも夢の中に迷い込んだような顔で困惑していた。アシュレーとて似たような顔をしているに違いない。
「なるほどのう」
 ただ一人冷静なマリアベルが、人間たちに代わって反応した。
「本来ならば干渉するはずのない世界同士が、何らかの異常によって接触してしまったか。原因はさしずめ……『焔の災厄』か」
 あれで随分パラダイムが乱れてしまったからのう、とあごに手を当てる。
「しかも接触してきた世界は、これまでの経過をかんがみるに――あまりタチの良くない類のようじゃな」
「左様。我らの世界とは相容れぬ存在である。ゆえにファルガイアはの世界の理の下に」
 創り換えられているのである――。
 動物が、魔物に。
 青空が、闇黒あんこくの被膜に。
 そして、いずれは人間たちも、この大地さえも――。
 ――そんな、ことは。
 自分たちの手の届く出来事ではない。神だの悪魔だの、そうしたモノの所業ではないか。
「判ったでしょう」
 老婆の声に変わったガイアが、ティムの姿で宣告する。
「この災厄は、貴方たち人間の手に負える代物ではないのです。対抗し得るのは同じように概念として存在している我ら――ガーディアンのみ。ですが――」
 そのガーディアンたちは今、『柱』の肉体に閉じ込められている。
 それにたとえ解放されたとしても、弱体化した彼らではそのような途方もない存在は祓えないだろう。本人たちの態度からしてもそれは瞭然りょうぜんだった。
「このまま呑まれるしかないのかもしれません。あの禍々しき世界に――」
「諦めるくらいなら賭けてみたらどうじゃ。人間どもに」
「無駄です」
 強情じゃのうと嘆息してから、マリアベルはなおも説得を試みる。
「汝らは人間を過小評価してはおらぬか。先の災厄でロードブレイザーを退けたのは人間じゃろうに」
「あれは――特殊な事例です。奇蹟のようなもの」
「そう、奇蹟じゃ」
 紅玉ルビーの瞳で、挑むように見据える。
「それこそが、わらわや汝らが持ち得ない人間の特性じゃ。無知ゆえに知を蓄え、愚かであるゆえに行いを改め、弱き存在であるゆえに強くなろうとする。そうしてまれに思いもよらぬ力を引き寄せ――奇蹟を起こす」
 それに、と彼女はまなじりに力を込めた。
「汝らは人間に借りがある」
「借り?」
 虚ろな表情に、初めて変化が生じた。
「そのようなもの、我らには」
「知らいでか。そもそもロードブレイザーは汝らガーディアンの不始末で誕生したのではないか」
 焔の災厄――ロードブレイザーは、火のガーディアンが落とした一翼から生まれ出たと伝えられている。マリアベルの指摘に否定せず黙したところを見るに、事実のようだ。
「その尻拭いをしたのは誰じゃ。そう――」
 エルゥもノーブルレッドも、親と言うべきガーディアンさえも凌駕りょうがしてしまった『災厄』に立ち向かい、封じたのは。
「人間じゃッ」
 アナスタシア・ルン・ヴァレリア。
 偶然にも聖剣を手にした、ただの人間――。
「汝らが虚仮こけにしていた人間が、汝らの不始末を収めたのじゃ。命を賭して――ファルガイアを救ったッ」
 なぜ死なねばならない――。
 友を失い嘆いた少女が、あのときと同じように感情をき出しにして、叫んだ。
「その犠牲を、その恩を知ってなお人間に協力できぬと言い張るか。それでも汝らは――ファルガイアの守護者かッ」
 汝らの所為せいで、アニーは。
 死んだのだ――。
 怒りが、内に秘めていた激情が、聖域に響き――吸い込まれた。
「……ノーブルレッドがそこまで人間に肩入れするとは」
 意外だな、と最初の声に戻ったガイアが言った。性別も年齢も判じがたい、不思議な声色だった。
「肩入れなどしておらぬ。間尺ましゃくに合わぬことが――許せぬだけじゃ」
「間尺、か」
 ふ、と口許を緩める。いつの間にか柔和な――普段のティムに近い表情に変わっていた。
「我らも認識を改めるべきか。いずれにせよ――」
 言いながら、体を揺らした。足許がふらついている。
「この肉体に囚われている限り、主導権は『柱』にある。従うより――ないようだ」
「何じゃ、抜け出すこともできんのか」
 情けないのう、とマリアベルは拍子抜けしたように肩をすくめる。
「思いのほか『柱』の意思が強固のようだ。取り込んだ力を手放すまいとすがりついてくる」
「ティムが……」
 見えないところで彼も戦っていたのだ。やるじゃんと珍しくリルカが褒めた。
「お前たちに何ができるか、未だ疑念はあるが――まあ良い。プーカよ」
「何なのダ?」
「我らは今しばらくこの肉体に留まり、行く末を見定める。お前は引き続き『柱』を助け、導くのだ」
「導く……」
 子犬のような亜精霊は、つぶらな目をしばたたかせて首を傾げる。
「プーカはもうガイアのところに導いたのダ。ここからどこに導けばいいのダ?」
「そんなことは」
 自分で考えよ――。
 その言葉を最後に、ティムの身体は糸が切れた人形のように崩れて、地面に横たわった。彼を包んでいた光も程なく失せた。
「けっきょく気絶してら」
 リルカが呆れたように言う。アシュレーは近づいて屈み込み、すっかり元に戻った少年の顔色を看る。
「また、重い『業』を背負わせてしまったようだな」
 ブラッドが呟く。
「ああ。でも」
 今のティムなら大丈夫だろう。無防備に眠るその横顔を見ていると、何となくそんな気がした。
「あれ、プーカ?」
 リルカが声を上げる。彼女はティムの傍らで座り込む亜精霊を見ていた。
「自分で、考える……のダ」
 そう呟く亜精霊の身体は――半透明になっていた。
「プーカは、自分で……考え、て」
 その姿がさらに薄らいで、やがて。
「消え、ちゃった……」
 忽然こつぜんと――消えてしまった。
 その出来事に全員が言葉を失い、立ちつくしていると。
「わッ」
 荷袋から呼び出し音が鳴った。すぐ近くにいたリルカが驚いて跳び退く。
〈状況は?〉
 呼び出したのは果たしてアーヴィングだった。アシュレーは先程までのやり取りを簡単に伝える。
〈そうか……〉
 一通り聞いた指揮官はそう応じて、それきり沈黙してしまった。
「どうしたんだ?」
 いつもと様子が違う。緊急事態ではなさそうだが――珍しく歯切れが悪い。
〈アシュレー、心して聞いてほしい〉
 いぶかっていると、やけに丁寧な声で告げてきた。
〈タウンメリアで誘拐事件が発生した〉
「誘拐?」
 思わずティムを見る。彼がバスカーに誘拐されたのは一年近く前だったか。
〈通報してきたのは、君が下宿しているパン屋『Bakery Portoベーカリー ポルト』の〉
 ――え?
〈主人の――セレナ・アイリントン。誘拐されたのは〉
 まさか。
〈――マリナ・アイリントン〉
 なぜ。どうして。
 一体、誰が――。
〈現場には脅迫状が落ちていた。犯人は〉
 元オデッサ幹部。コキュートスの。
 カイーナである――。

 アシュレーの内側で小さな焔がおこり、くすぶり始めた。

 セレナは後悔していた。
 やっぱり告げるべきではなかったのかもしれない。知らない方が――良かったのだ。
 でも。
 この先ずっと隠し通すことができるのか、セレナは自信がなくなっていた。もう子供の頃のように誤魔化すことはできないだろう。問い詰められれば結局、答えざるを得なくなる。それは彼女が何より恐れることだった。
 聞かれてから答えるよりは――自分から。それはずっと抱いてきた罪悪感に対する自己弁護のようなものなのかもしれないけれど。隠していたわけではない、時期が来れば話すつもりだったという――言い訳ができる。ただ、それだけのこと。
 親としての信頼を保ちたかったのだろう。このに及んで、自分は――あの子たちの親であり続けたかった。今までの関係を壊したくなかった。
 家族だったのだ。たとえ血は繋がっていなくても。その始まりがいびつなものであったとしても。
 あの子たちは私の子だ。それは胸を張って言い切れる。我が子と思って育て、慈しみ――愛してきた。だからもう過去のことなど知らせなくてもいいのではないか。そう思ったりもした。
 けれど。
 家族同然といっても、やはり本当の家族ではない。とりわけ子供たちにとっては複雑だっただろう。同い年の他人――それも異性と一つ屋根の下に暮らすということが二人にどれほどの戸惑いをもたらしたのか、想像に難くない。
 しかも、成長するにつれて二人の関係は――セレナが予想だにしない変化を見せた。
 迂闊うかつだった。ただの幼馴染みであればそのことを知っても――もちろんショックは受けるだろうが――関係が壊れるほどの衝撃にはならなかっただろう。実際セレナも二人が独り立ちして、互いに距離が離れた頃にでも告げるつもりだったのだ。
 それが、よりによってあの二人が。
 幼馴染み以上の仲に――なってしまうなんて。
 運命なんてこれっぽちも信じていないけれど、このときばかりは天の配剤を恨んだ。
 どうすれば傷つけずに事実を伝えることができるか。いっそ適当な嘘でも吐こうかとも考えたが……やはり駄目だ。彼女の親はその筋では有名なのだ。少し調べればすぐに露見する。
 悩んで、迷って、そうするうちにも二人の仲はさらに深まっていって。
 ついに――その時が至ってしまった。
 慎重に、言葉を選びながらも事実は曲げず、そのまま打ち明けた。時折顔色をうかがったが、みるみる青ざめていくのがはっきり見て取れた。
 全部話し終えても、何の返事も反応も示さなかった。不安になってセレナは最後につけ加えた。
 それでもあんたはあたしの子供だよ――。
 本心だったが、改めて思うと何の慰めにもなっていない。結局自分のことしか頭になかったのだ。彼女との関係を壊したくない――その一心だった。
 ――母親失格だね、これじゃ。
 太鼓腹に溜め込んだ息を一気に吐いて、それから両手で顔を覆う。ずっと暗いので定かではないが、既に夕飯時は過ぎているだろう。
 あれから彼女はずっと二階の自室にこもっている。気持ちの整理をつける時間は必要だろうが――このまま塞ぎ込んでしまわないかとセレナは心配になる。
 彼にも伝えるべきだろう。こうなれば当人たちで解決してくれるのを期待するしかない。情けないが自分にできることは、もう――。
 物音が天井から響いた。
 驚いて顔を上げた、次の瞬間。
 悲鳴。
 セレナは弾かれたように立ち上がり、階段を駆け上がる。短い廊下を抜けて、奥のドアを開け放つ。
 風がふわりと顔の横を吹き抜けた。窓が開いている。
「マ――」
 名前を呼ぼうとしたが、息が詰まった。
 部屋は乱れていた。無雑作に倒れた椅子、炎を灯したまま床に転がっているランプ。こぼれた油がベッドからずり落ちた掛け布に届きそうだったので、慌てて布を拾い上げる。
 彼女の姿はなかった。まさかと気色けしきばんで窓から下を覗いたが、杞憂きゆうだった。ひとまず胸を撫で下ろしたが。
 何が起きた。彼女は――どこに消えた。
 ランプを片づけてから再び部屋を見回すと、ドアの近くの床に何かが落ちているのに気づいた。
 掌大てのひらだいほどの紙……いや、カードか。拾ってみると表面には魔法陣らしき模様が描かれていた。魔法で用いる呪符――クレストグラフというやつだろうか。
 裏返すとそちらは白紙で、手書きの文字が殴り書かれてあった。
 アシュレー・ウインチェスターに告ぐ――。
「あ、ああ――」
 目の前が暗転する。気を失いそうになるがどうにか踏み止まり、くらくらする頭を巡らせた。
 ――報せないと。
 セレナは呪符を抱えたまま店を飛び出し、城へと駆けていった。