■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Episode 15 焦燥と不安

 君はファルガイアを愛しているか――。

 兄にそう聞かれたのは、いつのことだったろうか。

 兄が答えにくい質問を投げかけてくることは、これまでも度々あった。その度にアルテイシアは返答に窮し、困惑しつつもどうにか取り繕うのが常であった。
 どうしてそんなことを聞くのか、などと聞き返したりはしない。彼は基本的に一人で考え、一人で答えを見出し、一人で問題を解決する。それが可能なだけの知識も経験も持っている。そんな彼が自分に何かを問いかけるというのは、よほどの事態なのだ。だからきちんと応じて、答えなければならない。
 彼が望む答えを。孤独な彼の心を慰める言葉を。
 このときも彼女は懸命に返答を模索した。一語ずつ咀嚼そしゃくするように頭の中で解きほぐし、理解に努める。
 ファルガイア――すなわち世界を愛する。世界に愛情など湧くものなのだろうか。家族、仲間、共同体、せいぜいが国家までだろう。それ以上となると漠然として、感情が及ぶ範囲ではない気がする。
 そもそも、世界とは概念である。在る、とか、居る、とか、そういう感覚が伴うような存在ではない。そもそも存在ですらないのだ。そんなものを果たして愛することができるとは到底思えない。
 それに。
 私はこの世界のことを……何も知らない。
 自分が知っているのは、このヴァレリアの館ひとつ。建物としては大きいが、それでもせいぜい数時間あれば隅々すみずみまで歩いて回ることができてしまう。
 館の外には数えるほどしか出たことがない。外で起きたことのほとんどは、兄から聞いて、兄によってもたらされたものだ。
 だから。
 私にとって世界とは――兄のことだ。兄が見たこと、兄が聞いたことを伝え聞いて、自分の中で「世界」を構築している。
 それなら。
 ――もちろん愛していますわ――。
 そう答えた。兄は満足そうに目を細めていたが。
 たぶん、貴方の思う「世界」とは違うでしょうけど――。
 その想いは、最後まで胸の奥底に仕舞っておいた。

「ファルガイアを護らなくてはならない」
 このときも兄は、愛する世界のことを考えていた。
「五十時間後には『核』が地上に到達する。それまでに準備を整えなければならないのだが――」
 現在ARMSは問題を抱えている、と特殊部隊の指揮官は眉間のしわを深くする。
「アシュレーさんと……マリナさん、ですね」
 そう言うと、意外そうにこちらに目を向けた。
「知っていたのか」
「ええ。昨晩――」
 日付が変わる少し前のこと。
 厨房の片づけを終え、自室に戻ろうとしていたアルテイシアが目にしたのは。
 ――僕が悪かった――。
 廊下の片隅で立ちつくす青い髪の青年――アシュレー・ウインチェスター。客間の扉に向かってしきりに何かを訴えていた。近づいてもこちらには目もくれず、謝罪めいた言葉を続ける。
 ――君を不安にさせたくなかったんだ。でも、やっぱり隠しておくべきじゃなかった。それでも――。
 僕は、と顔を上げたとき、奥から来た誰かに止められた。
 ――何時だと思ってんだい。こんな夜更けに大声出して。
 恰幅かっぷくのいい婦人だった。花柄の前掛けは粉で汚れている。アシュレーが下宿しているというパン屋の主人だろうか。
 ――話がある。こっちに来な。
 ――でも、マリナは。
 ――ここでわめいても届きゃしないよ。いいから。
 二人の背中が廊下の奥の闇に紛れる。言い合う声が遠ざかり、やがて消えた。
 突然の騒ぎに当てられたアルテイシアが、その場で茫然と佇んでいると。
 客間の扉が開いた。出てきたのは――赤毛の娘。半分だけ開けた扉の端に寄りかかり、二人が立ち去った方を向く。
 はかなげな娘だと、アルテイシアは思った。扉がなければそのまま倒れてしまうのではと思うほど、弱々しい姿だった。
 視線に気づいたのか、彼女がこちらを振り返った。目を丸くして――おそらくアルテイシアので立ちに驚いたのだろう――それからばつの悪そうに顔を背け、部屋の中へ戻っていった。
 アシュレーの幼馴染み――マリナ。オデッサの残党に拉致されて、先ほど無事に戻ってきたのだと聞いていたが。
 ――今の光景は。
 助けてくれたはずのアシュレーを、明らかに拒絶していた。アシュレーも必死に何かを謝っていた。事件が解決したにしては、二人とも様子がおかしい。
 ――何かあったのだ。救出の際に、あるいは救出後に。
 アルテイシアが目撃したことを告げると、兄はそうかとあごを撫でた。
「私も詳細は把握していない。事件をきっかけに何らかのトラブルが起きたことは想像に難くないが……いかんせん二人のプライベートに関わることだからね。二人が語りたがらない以上、部外者が立ち入るのはいささかはばかられる」
「心当たりはないのですか?」
「なくはないが――」
 救出前のミーティングでも、懸念はあったのだという。
 アシュレーは自らの内側に宿る魔神と聖剣の存在を彼女に隠していた。その事実を知らずに変身して、黒騎士に変貌した幼馴染を目の当たりにした場合、どのような反応があるか――ショックを受けるのではないかという指摘は、当初からあったらしい。
 現状をかんがみるに、その憂慮ゆうりょは的中してしまったということだろう。
 けれど。
「どうやら、それだけではないらしくてね」
「何か……他に問題が?」
 の悪いことに、と兄は軽く嘆息した。
「親代わりであるセレナさんにも事情をうかがったが、やはり明確な返答は得られなかった。二人の出自しゅつじに関わることらしいが、それ以上は」
 立ち入れない――ということか。
「アシュレーには当面の間、ARMSとしての活動から外れてもらうことにした。君が目撃したように、今の彼はひどく不安定な状態にある。この状態で戦いに参加させるのは――非常に危険だ」
 アシュレーの内側に宿る、焔の災厄ロードブレイザー。負の感情をかてとするかの魔神がこの機に乗じて力を強め、聖剣の制御が外れてしまったりすれば。
 もはや止められる者はいない。異世界の侵食を待たずしてファルガイアは滅びの道を突き進むことになるだろう。
 だが。
「彼はARMSの要であり、切り札でもある。ファルガイア最大の危機ともいうべきこの事態に彼を欠くというのは――」
 どうしたものかと机に肘をつき、てのひらで額を押さえる。悩んでいる。他人には決して見せない、兄の弱い姿。
 それを支えるのは――。
「わたくしが話してみましょうか」
 自分の役目だ。
「話す? アシュレーと?」
「いえ、マリナさんの方です」
 驚いたようにおもてを上げる兄に、アルテイシアは言う。
「アシュレーさんが悩んでいるのは、マリナさんのことなのでしょう。ならばまずは彼女の気持ちを聞かなければ」
「しかし、君は彼女と」
「初対面だからこそ話せることもあるかもしれませんわ」
 それに、アルテイシアは気になっていた。
 あの儚げな赤毛の娘――マリナという女性のことが。
 どこか自分と似ている。そう感じたのかもしれない。
「この短時間で仲直りは難しいかもしれないですけど……でも、少しは」
 兄の悩みが和らぐのであれば。
「役に立ちたいのです。わたくしも、ファルガイアを――」
 あなたが愛する、この世界を。
「――愛しておりますから」
 アルテイシアは包帯の巻かれた兄の手を取り、そっと唇を落とした。

 シャトーに戻ると、入口でヘタレがヘタレた顔で待ち構えていた。
「なんなの、もう」
 辛気しんきくさい。出迎えるなら景気よく出迎えろとリルカは思う。
 無視して素通りすると、ヘタレ――もといティムは後ろからおずおずとついてくる。迷子の子犬か。
「プーカ……帰ってこないです」
「そうだねぇ」
 空返事をする。もう何べん同じやり取りしただろう。
「やっぱり、もう消えちゃったんだよ。役目がなくなったからさ。最初からそういうモノだったんだよ」
 これ以上相手するのも面倒だったから、はっきり言ってやった。けど。
「そんな。プーカがいないと、ボクは……」
 心底うんざりして、リルカはため息をつく。
 ガーディアンの聖域で気を失い、そのまま眠り続けて五日あまり。その間に例の誘拐事件が発生して、ひとまず解決して、それでもまだ起きてこなかったのでリルカもさすがに心配になりかけたのだけど。
 つい二日前、普通に一眠りした後みたいにひょっこり目を覚ました。身体の方は何ともなさそうで、それはまあ良かったのだけど。
 いつもそばにいるはずの相棒がいないことに気づくと、たちまち色を失って――。
 それからずっと、この調子だ。プーカがいない帰ってこないどこに行ったと、辺りを探し回っては半ベソをかいて戻ってくる。リルカもさんざん泣きつかれた。どうしたらいい、どうすれば帰ってくるのかって、そんなこと部外者に聞かれても困る。そもそもリルカはアレが何なのかすらろくに理解できていないのだ。
 ティムにとってプーカは、大事なパートナーであり助言者であり、自分の半身みたいな存在だったという。それを失って不安になる気持ちはわかる。わかるけれども。
 もうちょっと、しゃんとしてほしい。いちいち泣くな。ウジウジするな。五つ六つのお子ちゃまじゃあるまいし。立つもんは立つし、出るもんは出る年頃だろうに。
 確かめてやろうか、ホントに。
 一瞬だけ浮かんだ悪い考えを、頭を振ってすぐに打ち消す。ダメだ。なんだかこっちまで調子が狂ってしまっている。
「へいきだって」
 仕切り直しがてら、そう言った。
「あんな亜精霊なんていなくたって、今のあんたなら大丈夫だよ」
「でも……プーカがいないと、戦えないです……」
「そんなことは――」
 ないだろう。
 プーカという媒体を失ったことで、ガーディアンの具現化――合体コンバインはできなくなった。防護膜を張ったり地下から脱出したりと便利だっただけに、あの能力が使えないのは確かに痛い。
 けれども。
「戦えるでしょ」
 わざと急に立ち止まり、くるりと反転して、ぶつかりそうになって慌てている少年と間近で向き合う。
 背丈は同じくらい。だけど身体つきは自分よりも全然細い。
 ――こんな、なよっちいナリのくせして。
「あんなとんでもないコトやらかしておいて戦えないなんて、どの口が言うか、ええ?」
「り、リルカさん……」
 ティムが怯えて後ずさる。絡み口調が怖かったらしい。
「悪かったわよ。でも」
 絡みたくもなるっての。
 昨日、このヘタレは。
 メリアブールの山ひとつ、消し飛ばしているんだから――。
 聖域で取り込んだガーディアンの意思。それによる影響を確かめるため、アーヴィングとマリアベルが昨日一日かけてティムの身体検査と能力チェックを行った。
 リルカも暇だったので見学していた。体の方は特に変化なし。アシュレーみたいに変身するようなことはなさそうだった。
 そのあと場所を移動して、館の外でいつものように術を使わせてみたのだけど。
 そこで――「とんでもないコト」が起きた。
 炎か光か、それとも無属性か。あまりに規模が大きすぎて何の術だったかもわからなかった。突き出したティムの杖から特大の何かの塊がすっ飛んで、次の瞬間。
 離れたところにあった山が、爆発した。
 噴火でもしたのかと思った。岩石が飛び散り、山脈が真ん中からぱっくり割れた。山のふもとにあった華麗な遺跡とかいう古い建物も――なんか違う気もするけど――地滑りに呑まれて完全に埋まってしまった。
 大型のARMだってここまでの威力は出せないだろう。もはや超兵器と比較した方が近いかもしれない。
 ガーディアンから直接力を引き出せるようになったことが原因だろうと、マリアベルは推察した。今までみたいなミーディアム経由ではなく、内側の「意思」そのものにアクセスしてガーディアンの力を行使しているのだという。情報記録媒体に過ぎないミーディアムとガーディアン本体とでは、当然ながら引き出せる力の質は段違いなわけで。
 こんな、ファルガイアの地形を変えてしまうくらいの術だって――使えるのだ。
 リルカは唇を噛む。
 ――また、離された。
 やっと追いついたと思ったのに。あんなに頑張って、苦労して強くなっても、けっきょく――。
「しっかりしてよ」
 モヤモヤしかけた頭の中を吹っ切りたくて、無理やり声を張った。唐突に励まされたティムは目を丸くする。
「明日はもう本番なんだよ。今回はあんたが切り札なんだから」
「は、はい。でも……」
 切り札の少年は俯いて、か細い声で言う。やる前からプレッシャーに負けている。
「自信、ないです……」
「みんな自信なんてないよ」
 今回は、特に。
 ブラッドもカノンもマリアベルも、あのアーヴィングさえも不安そうな顔を見せている。
 無理もないとは思う。何しろ相手は。
 ――超兵器。
 ギルドグラードが発掘し、オデッサが横取りし、キザイヤミが命と引き換えに解き放った、最凶最悪の置き土産――。
 しかもそれは、ただの兵器ではなく、機械の体をした生き物……ドラゴンなのだという。そう言われてもリルカはいまいちピンとこなかったけれども。
 ドラゴンなんて、ARMの材料として化石が使われていることくらいしか知らない。どういう姿をしているのか、どうして滅んでしまったのか、今回の奴はどうやって生き延びてこられたのか、疑問は山ほどあったけれど、話がさっさと対策に移ってしまったから結局聞きそびれてしまった。
 魔法の檻から解放された核ドラゴン――グラウスヴァインという名前らしい――は、衛星のようにファルガイアの周りを回りながらも重力に引かれて、少しずつ高度を下げているという。このまま行けば明日にでも地上に到達する。内蔵している核兵器が地表で発動すれば、世界の半分が消し炭になる。
 あれこれ考えている時間はなかった。兵器発動を阻止するための作戦がアーヴィングによって立案され、すみやかに準備が進められた。世界中の武器と兵器と兵士たちが、彼の号令を受けて今も続々と集結している。
 決戦の舞台は、ギルドグラード。街の西側の港で待ち構えるつもりだという。自分の国を戦場にするなんて、あの業突張ごうつくばりの頭領がゴネたりはしなかったのだろうか。核兵器についての情報提供にしても迎撃する部隊の派遣にしても、今回はやたら協力的だ。また何か裏でもあるのか、それともさすがに事態の責任を感じているのか――。
 ま、どっちでもいいけど。
 そのギルドグラードからもたらされた情報によれば、今のグラウスヴァインは長い休眠のうちにエネルギーを使い果たして、ほとんど動ける状態ではないのだという。だから、まずは充分にエネルギーが補給できる場所に降り立つものと推測されている。
 ところが、今のファルガイアは慢性的なエネルギー不足。火山にしてもレイポイントにしても、腹ぺこドラゴンを引きつけるほどのエネルギーはない。だから――。
 こちらで『餌』を用意してやる。エネルギーを意図的に発生させれば、ドラゴンを任意の場所に誘導できるのだ。そこでレイポイントに匹敵するエネルギーのある場所として挙がったのが――。
 ギルドグラード、というわけだ。ヒゲオヤジご自慢の工場集積帯コンビナートをフル稼働させて、そこに誘き寄せるのだという。まんまと餌につられたドラゴンを待ち受けるのは。
 ファルガイア連合軍――アーヴィングによって編成された、三大国家にシエルジェを加えた四大勢力による合同の軍隊――。
 ほんの一年前には、考えられないことだった。あんなにいがみ合い、バラバラだった国同士が、今は当然のように手を結んで共通の敵に立ち向かおうとしている。
 これこそが、ARMSの――自分たちがこの一年やってきたことの最大の成果だろう。それぞれの国から信頼を得て、間を取り持って、世界の国家を、人々をまとめ上げた。最初にアーヴィングが言っていたことが現実になったのだ。
 ――なんて人だろう。
 身びいきもあるかもしれないけど、それでもこんなことを実現できる人は他にいないだろうと思う。彼だからこそ成し遂げられたのだ。豊富な知識と、それに裏打ちされた知略。リルカには妬ましいほどの才能に恵まれ、血筋も一流でおまけに美形ときた。ややナルシストでシスコンなのが玉にきずだけど、それもまあ、ある種の魅力ではあるのかもしれない。
 そのアーヴィングですら、今回ばかりは表情が冴えない――というか、いつもはまったく表情に出ない彼が明らかに動揺して、不安な顔を見せている。そのことが何より事態の危うさを表している。ひとつ間違えれば世界が滅びかねない相手というのもあるし、その上――。
 今回は味方の方にも、誤算がある。
 ――アシュレー。
 精神的に戦えるコンディションにないと判断されて、作戦から外されたのだ。
 彼がいないという状況はこれまでもあった。ヘイムダル・ガッツォーで行方不明になったときも、みんなで力を合わせてどうにか乗り切った。でも。
 今は行方不明じゃない。アシュレーは帰ってきて、隊に復帰している。それなのに「いないコト」にしなければいけないというのは――やっぱり気持ちがうまく入らない。切り替えられない。
 みんなもたぶん同じような気持ちなんだと思う。ティムのいつにも増したヘタレっぷりも、こうした空気を感じ取ってのことなのかもしれない。
 今回みたいなときこそ、彼の力が必要なのだ。それなのに。
 アシュレーの心は今、大きく乱れている。原因は。
 あの人が――。
「……ん?」
 いる。目の前を横切り、廊下を歩いていく。
 背後のティムもそれに気づいて、不思議そうに目を瞬かせる。どうしてここに――ということだろう。
 リルカも詳しい事情は知らない。しばらく療養が必要だということで、タウンメリアに戻らず客室に寝泊まりしているということだけは聞いていた。
 どこへ行くのだろう。
 リルカもここで見るのは三日ぶり、つまりあの救出された日以来だ。少し乱れた赤毛。頼りなげにケープがひらひらなびく背中。
 首を伸ばしてさらに覗くと、赤毛の向こうに長い金髪が見えた。誰かが前を歩いている。
 彼女を伴って先導しているのは――。
「アルテイシアさん……?」
 奇妙な組み合わせに、リルカはこれ以上ないくらい不可解な顔をした。

 湯気の立つ白磁のカップを前にして、気後きおくれしたマリナはそっと肩をすぼめた。
 クロスの敷かれた丸テーブル。中心にはケーキスタンド。三段に連なった皿には軽食と小ぶりにカットされたケーキが載っている。
「どうぞ、遠慮なさらないで」
 見つめていたのを勘違いされたか、スタンドの料理を勧められてしまった。仕方なく下段のサンドイッチを取って口に運ぶ。
 具はローストビーフだった。肉は柔らかく美味しかったが、逆にパンは柔らかすぎて味気ない。店で出しているものの方が美味しいかもしれない。
 ここの料理人がパンも焼いているのだろうか。そう思って中段の皿に載っていたスコーンの焼き加減を気にして――この期に及んでそんなことを気にしている自分が滑稽こっけいに思えて、ひそかに嘆息たんそくした。
 ただ、おかげで気は紛れたかもしれない。
 館のテラスで開かれた二人きりの茶会は、ろくに会話も弾まないまま淡々と進んでいった。
 向かいの席では、この場に自分を誘った相手――アルテイシアがカップ片手に茶の香りを愉しんでいる。何気ない仕草ですらいちいち優雅に見えるのは、浮世離れした出で立ちのせいばかりではないだろう。
 やはり、生きてきた世界が違うのだ。僻目ひがめなのかもしれないが、表情にしても言動にしても育ちの良さが端々はしばしにじみ出ている。
 けがれを知らない、無垢むくな女性。対して自分は。
 ――なんて醜い。
 にわかに羞恥しゅうちを覚えて、マリナは唇を噛みしめた。
「御免なさいね、つき合わせてしまって」
 アルテイシアが言う。マリナはいえ、と小声で返す。
「以前は兄様とよく、こうしてお茶を楽しんでいたものでしたけれど、ARMSの活動が忙しくなってからは誘っても断られることが多くて」
 たまには息抜きをといつも申しておりますのに、と目を細める。
「息抜きは必要ですわ。どんなに平気に見えても――」
 言葉を途中で切って、カップに口をつける。
 それは彼女の兄――アーヴィングに向けた言葉なのだろうが、どことなく自分にも向けられているようにマリナは感じた。部屋にこもりきりだったのを見かねて気晴らしに――そういう気遣いだったのかもしれない。
「ごめんなさい」
 マリナが謝ると、驚いた顔をされた。
「どうしてマリナさんがお謝りになるの? 誘ったのはわたくしなのに」
「いえ、その――」
 気を遣わせた申し訳なさから出た言葉だったが、うまく説明できずに口ごもる。
 その様子を見ていたアルテイシアは、くすくすと笑った。
「……何か?」
 笑われたことに、今度は少し腹が立った。情緒が安定していない。自分でもわかってはいるのだけれど。
「あら、気を悪くされたかしら」
 ごめんなさいと口許を押さえて謝られた。何だか互いに謝ってばかりいる。
「ただ、マリナさんの仕草が、とてもよく似ていたものですから」
「似ていた?」
「ええ。アシュレーさんに――」
 ――自分が、アシュレーに――。
「似ている……?」
 そんなこと。
 否定しようと口を開いたが、言葉は出なかった。
「普段の癖とか話し方とか、一緒に暮らしていると似てくるものなのでしょうね。素敵なことだと思いますわ」
「素敵……ですか」
 思いがけず肯定されてしまい、半端な表情のまま言葉を濁す。
 ――似ている、か。
 言われてみれば確かにアシュレーも、よく困った顔をして口ごもっていた。優柔不断で煮え切らない態度に苛立いらだつこともあったけれども。
 ――私のせいじゃないか。
 彼はいつだって他人ひとの気持ちを優先する。自分が困ったことを言うから困っていたのだ。文句のひとつも返したいところをこらえて頭を掻き、眉尻を下げて、幼馴染みの我儘わがままを受け止めてくれて――。
 彼の優しさに、私は甘えてばかりいた。
 ――馬鹿だな、本当に。
 今さらそんなことに気づいたって――。
「何だかうらやましいですわ」
 アルテイシアが言う。顔を上げると、微笑をたたえたままこちらを見ていた。
「うらやま……しい?」
「ええ。わたくしも兄様と一緒に暮らしているのに、ちっとも似ないものですから」
 そうだろうか。髪の色と性別の違いはあるものの、傍目はためには瓜二つだ。
「外見だけは、ですわね。それは双子なのだから当然でしょうし――」
 わずかに首を傾け、遠い目をした。
「中身の方はさっぱりです。むしろ兄様に似たくて、同じような振る舞いをしていたときもありました。所詮は真似事なのですぐにボロが出てしまいましたけれど」
 若気の至りですわね――としとやかにはにかんでみせる。言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうだ。
 兄に似たい。
 そんなものなのだろうか。自分はアシュレーに似たいなんて思ったこともない。
 彼女の心の内が、マリナは何となく気になった。
「アルテイシアさんは、お兄様のこと……」
「愛しておりますわ」
 臆面おくめんもなく言われてしまった。出鼻をくじかれたマリナは続く言葉を見失う。
「他のきょうだいがどうなのか、世間知らずゆえに存じ上げないのですが、わたくしは兄様をこよなく愛しております」
「こよなく……愛して」
「ええ。兄様の全てが」
 わたくしには愛おしいのです――。
 恥じらいも、迷いも、後ろめたさもなく、彼女はそう言い切った。
 マリナの心はかき乱れる。
 全てが愛おしい。自分も少し前まではそうだった。何があっても一緒だと、通じているのだと信じていた。
 でも。
「疑問に……思うことはないんですか」
「疑問?」
 小首をかしげる彼女に、マリナは少し後悔しながらも続けた。
「あなたの気持ちが、その……お兄様には通じているのかって」
 どれだけ愛していようと、通じていなければ。
 それは独りよがりの、一方的な想いでしかない。そんな愛は……辛いだけではないか。
 だが。
「通じていないかもしれませんわね」
 笑みを残したまま、彼女は言った。
「それでも構いませんわ。大事なのは、自身の気持ちに素直であろうとすること」
「気持ちに……」
 素直に。
 全然、なれていない。自分は。
「愛とは見返りを求めてするものではないでしょう。自身の抑えきれない想いが発現したもの、それが愛です。相手は関係ありませんわ」
 通じなくても。見向きされなくても。
 たとえ――嫌われても。
「わたくしは兄様を愛し、兄様と共にあり、兄様を支えていきたい。それで充分なのです。わたくしは、兄様の傍にいるだけで」
 満ち足りておりますわ――。
 マリナは動揺する。
 そんな愛は――知らない。
 通じ合ってこそ、想い合ってこそ愛は成り立つものだと、思っていた。
 だけど、それは。
 本当は――。
「『愛されるためには、誰かを愛することから始めなさい』」
 アルテイシアは言う。
何方どなたかの著書の受け売りですが、わたくしもその通りだと思いますわ」
 そうでしょう、と彼女は優しく微笑する。
 マリナはそれを見て、何だか胸が苦しくなって。
 はらりと一筋の涙が頬を伝っていった。

 邪悪にゆがんだ空。
 奇怪に浮遊する白亜の館。
 地表に広がるくらい海原と、枯れ果てた荒野。
 陰鬱な抽象画のごとき景色を背にして、無機質な機械の群れは唸り轟音ごうおんを上げる。そこかしこで噴き上がる炎と蒸気で周囲は白くかすんでいた。
 ギルドグラード西側の海岸沿いに建ち並ぶ工場集積帯コンビナートは、早朝から休みなしに稼働を続けていた。
「正気の沙汰ではないな」
 口髭をもてあそびながらその光景を眺めていた頭領マスターは、苦々しく顔をしかめた。
「プラントの全ラインを同時に動かすなど、前代未聞だ」
「前代未聞の事態なのです」
 仕方ありませんでしょうと、隣にいた王子が諭す。
「加減をして誘導に失敗しては元も子もありません。ここは私たちも全力を尽くすべき時なのです」
「判っておる」
 頭領は腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
 核ドラゴン――グラウスヴァインに関する情報提供。工場のエネルギーを利用した誘導。今回の作戦はギルドグラード全面協力の下で行われている。
 それも、全ては。
「我らがいた災いの種だ。尻拭いは――」
 自らの手で。
 今回の責任の一端は自分にある。ここは挽回の好機なのだ。
「……何だ」
 横を見ると、王子が屈託くったくない笑顔でこちらを見ている。
「最近の父上は素直です。わたくしはそれが嬉しいのです」
「今のうちだけだ」
 渋面じゅうめんを作って返し、それから尋ねる。
「他の連中の準備は間に合ったのか」
「はい。先程リルカさんから連絡がありました。ほぼ予定通りに」
 整ったようです――。
 再び視線を馳せる。煙る工場群の、その向こう。
 陸にも海にも、色々なものがひしめいていた。
 整然と隊列を成す兵士たち。工場を取り囲むように設置された巨大な砲身。後方には杖や道具を携えた魔法使いたちが控えている。
 海上にも砲台を積んだ帆船が幾隻いくせきも停泊していた。帆柱マストの先端にひらめく旗は二りゅう。一つはメリアブール国旗。もう一つは。
 犬の頭にびょうつきの首輪――ARMS隊旗。
 陸上の隊列でも同じように所属する国旗と隊旗が掲げられ、ひるがえっている。
 メリアブール。
 シルヴァラント。
 ギルドグラード。
 そして、シエルジェ。
 人類の全戦力が――この地に結集した。
「――信じられんな」
 現実にこのような光景が見られるとは、一年前には夢想むそうだにしなかった。
「国家の枠を超え、人類が力を合わせて今まさに脅威に立ち向かおうとしているのです」
 夢のような光景です、と王子は目を輝かせた。
「ふん。能天気だなお前は」
 この夢が、数分後には悪夢に変わるかもしれないというのに。
「大丈夫です。我々はきっと勝ちます」
 勝たなければならないのです――。
 高揚したノエル王子が、そう呟いたとき。
「ARMSより通信ッ」
 兵士が駆け込む。
「二百八十秒後に攻撃開始、とのこと。当該目標は、す、既に」
 空を見上げる。
 ――来た。
 歪んだ空の下。恒星のごとき輝きを帯びながら降りてくる。
 真紅の翼。金属の外殻。蜥蜴とかげめいた小さな頭の下で、丸々と膨れた腹は鈍い光を放っている。
 ――あの腹の中に、核が――。
「父上ッ」
「あ、ああ」
 頭領は視線をもぎ離し、かろうじて長の威厳を保ちながら兵士に告げた。
「工員を直ちに避難させろッ。これより――」
 ファルガイアの存亡を賭けた戦いが、始まった。