■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Mission 15 あいのきせき

 虚しさを吐き出すように、アシュレーは深々と嘆息した。

 もうすぐ、戦いが始まる。
 本当ならば自分もそこにいて、皆を率いていなければいけないというのに。

 ――何をしているんだ、僕は。

 抱えていた頭を上げて、沈み込みそうな気持ちをどうにか振り切る。
 薄暗い石壁の部屋。鉄格子の向こうから、申し訳程度に明かりが差し込んでいる。
 シャトーの地下牢。一階と機関室の隙間に隠すように作られた、忌避きひすべき場所。アシュレーは自ら申し出て、この閉ざされた独房に入っている。
 作戦から外され、待機を命じられた。だが今の自分は自身を抑えきれる自信がなかった。戦場の渦中にある仲間を思うと、とても部屋で大人しくなんてしていられない。
 だから。
 ――僕を閉じ込めてほしい――。
 アーヴィングは怪訝けげんな顔を見せつつも、心情を汲んで望み通りの場所を用意してくれた。それが――この地下牢。石壁は分厚く、鉄格子も堅牢で容易には壊せないだろう。
 そうしてアシュレーはようやく落ち着くことができたのだが。
 落ち着いた後にやってきたのが――自己嫌悪だった。
 事態は逼迫ひっぱくしている。『核』の襲来という未曾有の危機に際し、国家の枠を超えて人類が総力を挙げて対抗しようとしている。
 そんな戦いに――よりによってこんなときに、参加できないなんて。
 不甲斐ふがいなさと、罪悪感に近い感情がアシュレーをさいなんだ。だから牢に入ることを望んだ……というわけではないけれども。
 氷のように冷たい床を叩いて気持ちを紛れさせ、仕方がないと心の中で言い聞かせる。今の自分が危険なのは、自身が一番よくわかっている。
 内側に巣食う『災厄』。その力が――増している。
 アナスタシアの言った通りだった。自分のなかで“奴”の存在が確実に大きくなっている。耳を澄ませるとその息遣いが聞こえてきそうなほどに。
 やはり、ロストガーデンでの一件が痛かった。変身と暴走による反動。そして。
 ――マリナ。
 この数日、ずっと悩んでいた。どうすればいい。何を言うべきなのか。感情が揺れ動くたびにくらこごりがおりのようにはらに溜まって、“奴”の養分となっている。このままではいけない、吹っ切らなければとわかってはいるけれども――。
 物心ついた頃から、二人はずっと一緒だった。長じてからは気持ちが通じにくいと感じる時期もあったけれど、それでも深いところでは通じ合っていると信じていた。そして実際に、二人を繋ぐ糸を手繰たぐってファルガイアに帰ってくることができたのだ。
 その繋がりこそが、今は互いを縛る鎖となって苦しめている。他の誰でもない、マリナだからこそ――こんなにも辛いのだ。
 彼女が自分を拒絶した原因。最初はナイトブレイザー――異形に変身した姿を見たからだと思っていた。
 だが、それだけではなかった。後にセレナから経緯を聞いて、愕然がくぜんとした。
 それは自分たちでは解決不能な問題だったのだ。既に終わったこと、済んだこと、そして直接的には関係していないこと。彼女が本当にそれを気に病んでいるのだとすれば――自分にできることは何もない。慰めも励ましも意味を為さない。なぜなら。
 彼女はアシュレーに対して、一方的に負い目を感じているのだ。加害者と被害者。そうしたくくりは好きではないけれども、ともかく彼女はそうした認識を抱いてしまったのだろう。その図式に囚われて、彼女の中で今までの関係性が崩れてしまった。
 アシュレーは自分を被害者などとは思っていない。セレナの話を聞いてからもその気持ちは変わらない。だが、それを伝えたところでもはやどうにもならないだろう。全ては――彼女の気持ちの問題なのだ。
 もし、立場が逆だったら。自分が加害者の側であったなら。
 やはり引け目を感じていただろうか。少なくとも何らかのわだかまりは生じていたかもしれない。気にしていない、自分たちには関係ないと言われたところで、果たしてそれを額面通りに受け取って変わりない関係を続けられたか――。
 床に押しつけたままの拳を、握り締める。
 このまま、こんな理不尽な形で僕たちは、終わってしまうのか。
 そんなのは――。
 外から地鳴りのような音がとどろいた。壁が震え、館が揺れる。
 ――始まった。
 現在シャトーは『核』との決戦の地――ギルドグラード上空に停泊している。最上階の艦橋ブリッジではアーヴィングが陣頭指揮をっているに違いない。彼が直接戦場に出向いて軍を率いるというのは極めて珍しい。
 ――僕がいないから。
 アシュレーは唇を噛む。
 本来ならそれは自分の役割だ。彼は自分を信頼して、現場のことを預けてくれていた。それなのに。
「……すまない」
 肩を落とし、力なく呟いた。
 一斉射撃と思われる轟音ごうおんは一分ほど続いた。館は大波を食らったように揺さぶられる。
 やがて音が止み、沈黙が訪れた。倒したかと気を緩めかけた、そのとき。
「――ッ!」
 落雷のような衝撃。鉄格子がびりびりと震える。
 反撃。やはりARMでは仕留めきれなかったか。
 被害状況は。前線の兵士たちは無事だろうか。もどかしさに歯を食い縛り、頭をかき回す。
 どくり。
 ――いけない。
 心臓とは異なる内側の鼓動に気づいて、アシュレーははっとする。呼吸を整え、思考を一旦手放す。
 抑えなければ。この状態ではあらゆる刺激が、動揺が引き金になりかねない。いま変身してしまったら。
 もう――戻れないかもしれない。
 内側の制御に集中しているうちに外は静かになった。敵の反撃は単発で終わったようだ。館はまだちていない。
 ならば、次は。
 ARMS本隊の――出番だ。
「頼む……みんな」
 項垂うなだれたまま、祈るように両手を組む。
 どうか『核』を止めてくれ。そして。
 リルカ、ブラッド、ティム、カノン、マリアベル。
 みんな、無事に戻ってきてくれ――。
 空気が引き裂かれるような音。それから少しして爆音が響いた。
 今度こそ……やったか。
 立ち上がり、鉄格子に近づいた、その瞬間。
 全てが吹き飛んだ。

 アルテイシアは、兄の背後から戦況を見つめていた。
 シャトー最上階のブリッジ。正面の硝子窓の向こうでは、核ドラゴン――グラウスヴァインに対する集中砲火が続いている。世界中からかき集められた大型ARMの威力は凄まじく、前線から数キロ離れたこの館にさえ衝撃が伝わり、波間の船さながらにあおられ続けている。
 砲撃が一旦止み、次は魔法攻撃が始まった。四方八方から魔法使いたちが様々な魔法をぶつけていく。それが終わると再充填じゅうてんしたARMが再び火を噴く。
「ブラッド、もういい。攻撃停止だ」
 通信機越しにアーヴィングが命じた。前線の指揮はブラッドに任せている。解放軍時代の経験に加え、スレイハイムの英雄という誰もが一目置く肩書きを見込んでの起用だという。
 程なくして攻撃がぴたりと止まった。さすがに統制が取れている。火薬と土埃つちぼこりで煙る視界の先を、全員が注視する。
「当該目標を確認」
 通信席のケイトが報告する。アルテイシアの位置からも、紅と黄金色の巨体が見えた。天に向かって広げられた両翼。大木の幹を思わせる両腕。
「攻撃によるダメージは軽微……いや」
 滅びの使者は、攻撃前と変わらぬ姿で地面に立っていた。
「ほとんど無傷だねぇ」
 落胆する相方の代わりにエイミーが場違いな口調で言った。
「いやはや参った」
「参ってないで、分析ッ」
 ほいほいとエイミーは頬をきながら手元の端末の操作にかかる。
 今回の相手は召喚された魔獣でもエルゥの怪獣兵器でもなく、未知の生命体――超獣ドラゴンである。通常の攻撃が通用しないことは想定内だ。だから。
 何が有効で何が有効でないのか、まずはそれを見定める必要がある。先程の攻撃はその分析を行うためのデータ収集という意味合いもあったのだ。いわば全世界の総戦力を捨て駒として使ったのである。
 指令台で身動みじろぎせず佇立ちょりつする背中をアルテイシアは見つめる。底の知れないこの双子の兄に、改めて羨望せんぼうと――畏怖いふを抱きながら。
分析アナライズ完了。出力します」
 端末に分析結果が表示される。アーヴィングも手前のモニターに目を落とす。
「光線兵器やレーザーの類は無効。遮断シールドのようなもので防いでいるようです。魔法も同様にほぼ効果なし。ミサイルやランチャーなどの物理的な打撃の方が有効なようですが――」
「やっぱり装甲ガッチガチだねぇ。今の調子で撃ち続けても破れるかどうか。朝までかかりそう」
 その前に核がドカーンでおしまいだねぇと、口の軽いテレパスメイジは物騒なことを言う。
「あれだけの巨体だ。どこかにほころびが――弱点になりそうな箇所かしょがあるはずだ」
 アーヴィングが言う。彼の部下たちはしばらくモニターを睨んで難しい顔をしていたが。
頸部けいぶの付け根……人体でいうなら鎖骨でしょうか。その付近は比較的装甲が薄いようです。中型ARMによるものと思われる軽度の凹みが視認できます」
「それと、頭も案外いけそうだよ。胴体ボディに比べれば攻撃が効いてるっぽい」
「頸部から頭部にかけて……か」
 二人の見解にアーヴィングは首肯しゅこうし、それから一点を見つめて固まった。恐らく猛烈に考えを巡らせている。
「ならば――」
「ちょっとッ」
 操縦席のエルウィンが突然声を上げた。
「あ、あれ、ヤバくないっすか」
 戦慄わななく指で窓の外を示す。アルテイシアもそちらに目を向ける。
 地上に屹立きつりつしたままの超獣。その胴体の中心が――青白く光っていた。
 ブリッジが色めき立つ。
「腹部に高出力の熱源反応! こ、こちらに」
「対消滅バリア!」
 アーヴィングが通信機に叫んだ。大隊の背後に控えていたゴーレム――アースガルズが動き出す。
 間一髪で間に合った。放出された光線はアースガルズの両腕から繰り出した防御壁によって消滅した。
「あ、あっぶなー。あとちょっと遅かったら」
 間違いなくシャトーは撃墜されていた。ここにいる全員、無事では済まなかっただろう。
指揮官サー、前線の部隊が……」
 ケイトが青ざめた顔で振り返る。前線では地面の其処此処そこここから煙が上がっていた。バリアに弾かれた光線の一部が周囲に乱反射したようだ。
「各々の部隊には魔法で防御壁プロテクトを張ってある。ある程度は防いでいるはずだが――」
「それでも若干の被害が確認されます。負傷者と……大型ARMもいくつか損壊したようです」
 主な被害は最前線に設置された兵器群で、人的被害が軽微だったのがせめてもの幸いか。
 だが。
「モタモタしてると、また次が来るっすよ。早いとこ――」
 次の手を打たなければ。
 アルテイシアは兄を見る。まだ焦りの色はうかがえない。再び通信機を取ってギルドグラードに繋ぐ。
頭領マスター工場集積帯コンビナートの状況は。蓄積エネルギーに変化は――」
〈みるみる目減りしておる。どうやっているのかは知らんが彼奴あやつが吸収しているのは間違いなかろう〉
 頭領の不愛想な声が艦橋に響く。
エネルギーえさは後どのくらい保ちますか」
〈このペースだと七、八分といったところか。だが……その前に『核』の起動が始まってしまうかも知れんぞ〉
 グラウスヴァインの腹の中にあるという核兵器。果たして発動にどの程度エネルギーが必要なのか、その情報が人間側にはない。それこそ次の瞬間に起動してしまうかもしれないのだ。
 いずれにしても、猶予はない。現状を把握したアーヴィングは礼を述べて通信を切った。
 そして、ケイトに言う。
「ARMS専用回線に切り替えてくれ」
「は、はいッ」
 シャトーの全隊員、それに地上で待機していた実働部隊に向けて、指揮官は宣言した。
「これより二次作戦を開始する。『プランC』の――準備を」

「プランC――か」
 指示を聞き終えたブラッドは、そう呟いて通信機を切った。
 そして、背後に向き直る。特殊部隊ARMSの隊員たちが立っている。一様に表情は硬い。
「やることは――判っているな」
「う、うん」
 不安そうにリルカが応じる。緊張をほぐしてやりたいところだが、口下手なブラッドには生憎あいにく上手い言葉が見つからなかった。
 ――やはり、向いていないな。
 自分にアシュレーの代役は務まらない。まだリルカの方が向いているのではないかと思う。この少女はなかなかどうして、見た目よりも随分しっかりしている。
「DやEだったら頭抱えてたトコだけど、Cなら……うん、何とかなると思う」
 リルカは自力で平静を取り戻して、何度もうなずいた。
 今回の二次作戦に際し、アーヴィングはあらかじめ複数のパターンを用意していた。Aが最も平易で、上位に行くに従って遂行が難しくなる。Eに関してはほぼ実行不可能ではないかと思われるレベルだったのだが――。
「まだ望みはある、ということじゃな」
 マリアベルが言う。ブラッドも同意した。
「だが――」
 カノンは横を気にしている。そこには。
 全身を委縮いしゅくさせたティムが立っていた。抱えた杖がなければ倒れそうなほど顔面蒼白だった。
 無理もない。この作戦の成否は彼にかかっていると言っても過言でない。十二、三歳の少年にはあまりに重い役割だろう。
 自分がそのくらいの歳には何をしていたかと如何どうでもいいことを考えながら、彼の前に歩み寄り、声をかける。
「大丈夫か」
「は、はいッ。……でも」
 怖いですと蚊の鳴くような声で、内気な少年は言った。
「そうか」
 素直に心情を吐露してくれたのが、少し嬉しかった。
「俺も怖い」
 そう返すと、ティムは意外そうに顔を上げた。
「本当に?」
「ああ。どれだけ場数を踏んでいようが戦場は怖い。こればかりは慣れるものではないからな」
 いつだって怖くて。逃げ出したくて。
「死にたくないって思いながら――ずっと戦ってきたよ」
「死にたく……ない」
 少年は噛み締めるようにその言葉を繰り返す。
 そう。それこそが本質だ。誰かのためとか世界のためとか、そんなものは所詮うわべだけの建前に過ぎない。
 死にたくない――生への渇望かつぼうこそが人間の根源であり、生き残るために真に必要なものなのだ。
「ボクも……死にたくないです」
「それでいい。その気持ちさえ忘れなければ――大丈夫だ」
 最後に頭を撫でてやってから、再び全員を見据えた。
「準備はいいな。――開始する」
 ブラッドの合図で全員が散開した。マリアベルが停めてあった滑空機に乗り込む。続けてカノンが後部に飛び乗った。彼女は金属の杭のような棒をたずさえている。
「行くぞッ!」
 二人を乗せた新型の滑空機は、エンジンをかけると土煙を上げて離陸した。
 核ドラゴン――グラウスヴァインが動き出した。腕を振り回し、接近してくる小さな飛行機を叩き落そうとする。マリアベルは巧みに機体を操ってそれを回避し、さらに上昇する。
 ブラッドはARMで加勢にかかる。足許に並べたロケット砲を次々に担いでは矢継やつばやに放って相手の気を引く。
 狙い通り、頭がこちらを向いた。その隙にマリアベルが頭上からグレネードランチャーを撃ち込んだ。至近距離で放たれた擲弾てきだんは側頭部に命中する。ドラゴンの頭が衝撃で横に傾いて。
 くびが――見えた。
 カノンがすかさず機上から飛び降りる。持っていた杭を振り上げ――頸部の付け根を突いた。鈍い金属音と共に火花が弾け、鋭利な先端が打ち込まれる。
 カノンは杭を残したまま退避する。超硬度の合金で作られた杭は装甲に穴を穿うがち、先端がかろうじて刺さっている。巨大な超獣にしてみればかすり傷にも満たない、取るに足らない傷なのだろうが。
 たとえわずかでも、装甲の内側に届いてさえいれば――。
「成功だ」
 ブラッドはリルカを見た。
 魔法使いは既に待機していた。視線で応じてから、持っていた呪符をパラソルのに接触させて魔力を転移させる。
「いっ……けぇーーーッ!」
 勢いをつけてから傘を高々と掲げ、魔力の素子を天に放つ。
 稲妻がほとばしった。青白い雷光が闇空を打ち破り、ドラゴンの頸に刺さっていた杭に――落ちた。
「や――」
 やった……か。ここまでは順調に行っている。
 リルカの放った電撃魔法ハイ・スパークは杭を伝って内側に通電したはずだ。内部の構造は未だ謎が多いが、機械の身体であるなら恐らく弱点も同様に――。
 ブラッドが、リルカが、戻ってきたマリアベルたちが固唾かたずを呑んで見守る中、ドラゴンは。
 ふしゅうと煙を口から吐き出して――直立したまま静止した。眼光が消滅し、恒星を思わせる全身の輝きも失われた。
「これで――」
 攻撃を防いでいたシールドは消えたはず。お膳立ては……整った。
「ティム」
 振り向く。全員の注目が、小さな少年に集まった。
「頭を狙え。後は頼んだ」
「はい――」
 目つきが変わっていた。吹っ切れたのか、それとも既にガーディアンの干渉が始まっているのか。
 ティムは杖を地面に突き立て、ひとつ深呼吸してから瞑目する。そして。
「――――」
 聞き取れない言葉を呟いた、その刹那せつな
 地面の下から突き上げられるような衝撃を感じた。リルカが面食らってたたらを踏む。
 少年は輝くもやのような霊気オーラを帯びていた。ゆったりした上衣の裾が、麦の色をした髪が、重力から解き放たれたようにゆらゆら浮遊している。
 虚ろな表情で杖を構え直し、おもむろに前にかざした。守護獣の鉤爪かぎづめかたどった飾りに光が集中する。耳鳴りのような音と共に、膨大な力がその一点に注がれ圧縮されていく。
 なんて――熱量だ。
 眩しさと熱さで直視できない。腕で顔をかばいながら、ブラッドは不意に故郷を滅ぼした『天使』のことを思い出していた。
 絶対たる、破壊の力。人間が決して持ってはいけない――。
 制御できるのか。こんな力を。こんな小さな、小さな少年が。
「――コズミックレイ」
 光の中から声がした。守護獣の――いや。
 それはティムの意思だ。ティム自身と、それから。
 ――術の名前は大事なのダ――。

 放たれた。

 その一撃に、ブリッジの誰もが目を奪われた。

 ティムの杖から放出された光の砲撃は、七色の尾をいてドラゴンの上半身に命中した。一次作戦の総攻撃をものともしなかった装甲が、光の奔流ほんりゅうの中でかれ、熔けていく。
「すげぇ……」
 エルウィンのぽかんと開けた口から感嘆が洩れた。アルテイシアも茫然と窓外の光景を眺める。
 これがガーディアンの……本領。人間たちでは決してかなうことのない、世界の守護者たる力――。
 砲撃は数秒ほどで止んだ。ドラゴンの頭部は。
 原形を留めていない。黒い煙を上げて完全に――溶解していた。
 倒した……のか。
 安堵していいはずなのに、逆に不安になった。
 なぜだろう。あまりにも呆気あっけなかったからか。いくら周到に練られた作戦といっても、相手は未知の生物――超獣である。こんなに完璧に、目論見もくろみ通りいくものだろうか。
 頭を失ったドラゴンを凝視する。地面に立ったまま、動かない。いや。
「当該目標、完全に――え?」
 ケイトが絶句する。
 重々しい唸りのような音を立てて。
 巨体が――再び動き出す。
「さ、再起動ッ!? なんで」
 エイミーが珍しく取り乱す。アーヴィングは。
「頭を潰しても、なお」
 生きているのか――。
 松葉杖を握る手に、力を込めた。
「我々はどうやら……見当違いの作戦を立ててしまったようだ」
「どういうことですッ」
 裏返った声でケイトが聞く。ブリッジはにわかに混乱の相を呈した。
「ドラゴンにとって頭部は、さほど重要な部分パーツではなかったのだろう。『脳』が頭部にあるものだという先入観が……判断のミスを招いた」
 生物なのだから、器官の位置も同じ。そう思い込んでしまったことが――間違いだった。
「頭部の装甲が薄いと判った時点で気づくべきだった。そんな場所に中枢器官を置いておく訳がない。合理的に考えるなら、『脳』は」
 最も装甲が厚い部分。
 ――胴体の方だ。
「機械なのだから、そんなことは」
 当然じゃないかと、アーヴィングはモニターの縁を叩いた。
 それは兄の言葉ではない。兄の態度じゃない。
 私にとって兄様は、いつだって――。
 居たたまれなくなってアルテイシアが近づこうとした、そのとき。
指揮官サー! ま、また攻撃が」
 ケイトが声を上げる。
 首無しドラゴンの腹部に、再び光が宿っている。
「アースガル……ッ!」
 今度は間に合わなかった。光線が上げかけたゴーレムの右腕を砕き、そのままこちらを襲った。
 閃光。爆音。ブリッジが激しく揺れ、片側に傾いた。あちこちで悲鳴が上がる。
「兄様ッ」
 アーヴィングが体勢を崩し、松葉杖の先端を滑らせて転倒した。すぐさま駆けつけようとしたが、アルテイシア自身も指令台の縁にしがみついてやり過ごすので精一杯だった。
 やや傾いたままでひとまず揺れは治まった。テレパスメイジたちは端末の横でうめいている。エルウィンは隅の方で昏倒こんとうしている。
「――被害状況は」
 アーヴィングが身体を起こした。アルテイシアは慌てて肩を貸す。
「シャトーの……動力が低下しています。機関部を損壊したようです」
 膝立ちのままケイトが端末を操作して、報告する。
「エマ・モーターの出力二十パーセントまで低下。こ、このままでは」
 がくん、と一度震動して、それから。
 浮遊感。滞空できなくなった館が――降下を始めた。
「墜落するぅッ」
 エイミーが両手を突き上げて喚き出した。
「やだやだ、こんなピッチピチのまんま死にたくないよッ」
「うるさいエイミー! どうにか……え?」
 再び衝撃を感じて、それから降下が止まった。
「あ……アースガルズが」
 ゴーレムの姿が見当たらない。シャトーの下に回り込んで受け止めてくれたようだ。マリアベルが咄嗟とっさに機転を利かせてくれたか。
「助かったぁ~」
 エイミーがへなへなと脱力した。
「だが――」
 指揮官は再び指令台に立ち、凶相で前を見据えた。
「これで奥の手まで……失ってしまった」
 マリアベルが召喚するゴーレム――アースガルズこそが最後の切り札だった。いざとなればドラゴンと相討ちさせる手筈てはずになっていたのだ。
「万事休す――か。嫌な言葉だな」
 そう言って、口許だけで笑った。
「当該目標、内部の熱量が急上昇しています」
 ケイトは震える声で言って、振り返る。
「エネルギー励起れいきが……始まったか」
 全員が、すがるように指揮官を見た。
 乱れた銀髪。やつれた面相。
 冥府へといざなう死神さながらに、世界の指揮官は口を切り結び、前を見続けた。
 諦めたのか。それとも。
 何かを待っている――?

 窓の外で、金色の光がきらめいた。

「なぜだッ」
 ブラッドが地面を殴って、吼えている。
「なぜまだ生きているッ。頭を吹っ飛ばしても、まだ」
 倒せないのか――。
 狼狽ろうばいするスレイハイムの英雄を、カノンは初めて目の当たりにした。
 作戦は確かに成功した。布石を敷き、打てる策は全て遂行した。だが。
 それはこちらの常識――ルールに則った上で組まれた作戦だったのだ。常識から外れた存在ものには通用しない。アーヴィングは――自分たちはそれを失念していた。
 頭が急所とは限らない。そのことを誰も気づかず、指摘できなかった。その代償が――。
 横を見る。ティムが膝と手を地面について激しく咳き込んでいた。隣でリルカが背中をさすって介抱している。
 地面には血の跡が飛び散っている。あの凄まじい術を放った直後に吐血したのだ。やはり膨大な力に肉体の方が耐え切れなかったか。
 そして、背後では。
 被弾したヴァレリアシャトーが、片腕を失ったアースガルズに担がれていた。墜落寸前でマリアベルがゴーレムを差し向けて受け止めたのだ。
「大丈夫か。あのまま――」
 片腕だけで支えきれるのだろうか。
「ふん。わらわのゴーレムをめてもらっては困る。当分は大丈夫じゃ。だが――」
 これで身動きが取れなくなってしまったのうと、ノーブルレッドの娘は口惜くちおしそうに頬をらせる。
 ティムの術と、ゴーレム。二枚の切り札を使い切った今、もはや打てる手は……ない。
「もう一回……やります」
 ティムが杖にしがみついて立ち上がる。食い縛った口の端からは大量の血が零れ落ちていた。
「そんなズタボロでなに言ってんの。ちょっとッ」
 リルカの制止を振り切り、血まみれのガーディアン使いは足を引きずって前に進み出る。
「死んじゃうよ。あんた、死にたくないんじゃなかったのッ」
 揉み合うリルカとティム。
 観念したように座り込むブラッド。
 忌々いまいましそうにドラゴンを睨むマリアベル。
 瓦解がかい寸前の部隊にカノンは唇を噛む。
 アーヴィングは何をやっている。あいつも諦めたのか。それとも既に――。
 れて、再びシャトーをかえりみる。被弾したのは下の機関部付近。最上階のブリッジは無事だ。ならば。
 ――待て。
 何かが……いや、誰かがいる。穴の開いた機関部の、上の方。
 カノンの機械まがいものの眼が、遠く離れたその場所に焦点を結ぶ。
 燃え立つ甲冑。金色に明滅する黒の騎士。あれは。
「アシュレー――」
「え?」
 全員が振り向く。その視線の先で、それは――動き出した。
 天高く跳躍し、そして。
 闇黒あんこくの空に煌めく一条の流星となって――。
 グラウスヴァインの上に、落ちた。
 衝撃はなかった。その姿が巨体に呑まれたきり、しばらく何も起きなかった。
 だが。
 黄金竜の周囲で火花が散った。あれは……電気か。放電は徐々に激しさを増し、遂には渦を巻く電撃となって――。
 爆発した。まるで自爆したかのように内側から破裂した。装甲も機械も区別がつかないほどに粉砕され、本体から剥がれ落ちていく。
 リルカもティムも、ブラッドやマリアベルすらもその場で固まり、茫然とそれを眺めている。目の前で何が起きているのか誰も認識できていない。それはカノンも同様だった。
 崩壊していくドラゴンの足許に、ごとりと金属の筒のようなものが落下した。核反応物質を格納した容器――超兵器の本体か。目視した限りでは外部への漏出は確認できない。発動には至っていなかったようだ。その容器も後から落ちてきた部品に埋もれ、見えなくなる。
 翼の破片が地面に突き刺さり、巨大な腕は丸ごと落ちてめり込み、胴体を覆っていた装甲は灰燼かいじんとなって乾いた風にさらわれた。つい先程まで人間たちを絶望の淵に追いやっていたドラゴン――グラウスヴァインは。
 文字通り粉微塵こなみじんとなって――荒野の一面に散乱した。
「あ……」
 リルカが息を呑む。
 瓦礫がれきの中から、歩いてくる。昆虫めいた脚を引きずり、ヘルムに覆われた頭を垂らして。
 足取りは重い。やがて力尽きたように膝を折り、両手をついてうずくまる。
「ガ……アアアァ、グ……」
 呻いている。身をじらせ、頭を何度も地面に叩きつけて。
 まさか。
「戻れない……の?」
 震える声で、リルカが言う。
「うそ。そんな、だって……アシュレー!」
 駆け寄ろうとしたリルカを、カノンは止めた。
「カノン、さん……」
 涙の浮いた目で見つめられ、刹那怯んだ。だが。
 首を横に振る。そして。
「私の……役目だ」
 ――僕を止めてくれ――。
 今が、その時だ。魔神が完全に覚醒してしまっては手遅れになる。
 非難めいた視線を背中に感じながら、カノンは懐の短刀を抜き、悶え苦しむ黒騎士の許に向かう。
「だめ……カノンさん、やめ、て……」
 心に鎧をまとわせて、哀願を受け流す。
「アシュレー、早く元に戻って! でないと」
「アシュレー……さんッ」
「アシュレー!」
 仲間たちが呼びかける。カノンも心の奥で願う。
 戻れ。早く人間の姿に。
 短刀を握る手に力を込める。
 この刃は先程の杭と同じ合金で作られている。いかに黒騎士の鎧といえど、カノンの力をもってすれば突き破るのは可能だろう。
 だから、早く――戻ってこい。
「ガアアァ……ッ、グゥ、ウ……!」
 ――駄目か。
 見切りをつけて、カノンは瞑目した。
 そして、跳躍する。
 見開いた眼が標的を捉える。腕を振り上げ、義手に渾身の力を注ぎ込んで。
 振り下ろ、
「やめて――ッ!!」
 止まった。意思とは別の何かによって――止められた。
 刃の切っ先は、首筋の表皮に――ちょうどドラゴンに突き立てた杭と同じ具合に――刺さっている。致命傷には至っていない。
 ぽたり、と義手の付け根から流れた血が肘から滴り地面に落ちた。無理な急制止によって接合部を傷めたのだろう。内側の神経がうずいて顔をしかめる。
〈愚かなり〉
「な」
 声がした。耳からではなく、直接――頭の内側に。
〈情にほだされたか。人間というモノはどこまでも愚かであるな。だが、その感情こそが――〉
 我のかてである。
 カノンは吹き飛んだ。受身を取る隙すらなかった。
 落ちかけた意識をどうにか維持し、身体を起こす。
 そこにいたのは――。
「憶えておる。忘れもせぬわッ、その気配――」
 対峙たいじするマリアベルの背中。その向こうに。
 煉獄の炎を宿した――。
「ロードブレイザーッ!」
 再度、衝撃に襲われ突っ伏した。攻撃の正体すら掴めなかった。
 痛い。全身がきしんでいる。しばらく感じることもなかった激痛に歯を食い縛りながら、乾いた地面に肘をついて顔を上げる。
 仲間たちも同様に倒れていた。地面に這いつくばる人間。その先に君臨する災厄の化身。次元が違う。人間ごときが敵う相手ではない。
〈絶望せよ、人間ども〉
 脳裏に声が響く。
〈強き心は、くじかれし際の反動もまた強い。貴様らの絶望こそが我の復活の――最後の鍵である〉
 絶望せよ。
 ゼツボウセヨ。
 ああ――。
 全部、自分のせいだ。自分が殺さなかったから。唯一の機会を棒に振ってしまった。
 どうして殺せなかった。
 だって、仲間じゃないか。ようやく見つけた居場所なんだ。生まれて初めて安らげる場所。それを……壊したくなかった。
 馬鹿だ。なんて身勝手な、卑小ひしょうな理由。そんな私情に囚われてしまったばかりに、取り返しのつかない事態になってしまった。
 やっぱり私は独りでいるべきだったのだ。仲間など、居場所など望んではいけなかった。ひとりぼっちで泥に塗れて、這いずり回って。
 あのとき、死ぬべきだったのだろう。
 ――アンテノーラ。
 今ならお前の気持ちも――。
 鼓膜が何かの音を捉えて脳髄に伝わった。くらがりに落ちかけた心が引き戻される。
 振り返る。大きな鳥がいた。いや、あれは……滑空機。不時着したような形で横に傾いて停まっている。
 操縦してきたと思しき子供が跳び降りる。その背後から続けて降りてきたのは――。

「アシュレー」
 しなやかな赤毛が、ひるがえった。

 部屋に入ると、思わぬ先客がいた。
「姫さ……アルテイシアさん」
 こちらを向いて目を丸くしたのは、トニー。後ろにはスコットもいた。
「どうしてこちらに?」
 珍しい顔ぶれに戸惑っていると、例によってこましゃくれた口調でスコットが尋ねてきた。それはこちらが聞きたいことだったのだが。
「マリナさんに、お話が……」
「あんちゃんのことだろ?」
 トニーが言う。
「オレたちも、あんちゃんが出ていったのを見て、急いで来たんだ」
「そう……なのですね」
 どうやら目的は同じのようだ。
 マリナ君のところに行ってほしい――。
 シャトーの地下から飛び出していく黒騎士――アシュレーを目撃した兄は、すぐさまアルテイシアにそう頼んできた。
 危険水域に達していたアシュレーが変身した。恐れていた事態が現実に起きてしまったのだ。このままでは彼の中にいる魔神が心を喰い尽くし――『焔の災厄』が復活してしまう。
 それだけは何としても食い止めなくてはならない。アシュレーをこちら側に引き戻さなくては。それができる可能性があるのは。
 ――彼女だけだ。
 アルテイシアはつばを呑む。
 もしかしたら、これが分水嶺ぶんすいれいになるのかもしれない。世界が再び絶望の業火に覆われるか。それとも……踏み留まるか。
「マリナさん」
 意を決して、アルテイシアは呼びかけた。
 赤毛の娘――マリナはベッドに腰かけ、うつむいている。彫像のように少しも動かない。反応がない。
「アシュレーさんが、戦っています」
 心を閉ざした娘。それでも届くことを願って言葉をつむいでいく。不慣れな役回りだが、やるしかない。
「外の敵……ドラゴンには勝てるかもしれません。でも……内側の敵には」
 彼が宿した魔神――ロードブレイザーには。
「負けてしまうかもしれません」
 ほんの少しだけ、こちらに視線を向けた。大丈夫。完全に閉ざしてはいない。
「どうかアシュレーさんを救ってください。貴女なら」
「私には」
 何もできませんと、マリナは言った。
「アシュレーはもう、私のことなんて」
 嫌いになった――と続けたかったのだろうか。
 どうしてそう思うのか問い詰めたかったが、恐らく答えは返ってこないだろう。それに今は、もはや原因を突き止めている段階ではない。
「マリナさんにアシュレーさんのことを語るのは、差し出がましいようですが――」
 負けじと声を張って続ける。
「あの方が人を嫌ったり避けたりしているのは、見たことがありませんわ。いつでも、誰にだって優しい――そんな方が、何より一番身近にいる貴女を嫌うなんて」
「でもッ」
 顔を上げた。何か言いたそうに口を開きかけたが、すぐにまた力なく下を向く。
「いいんです。もう……アシュレーのことは」
「なんだよそれ」
 横で見守っていたトニーが入ってきた。
「このままあんちゃんが死んでもいいって言うのかよ。マリナ姉ちゃん、そんな薄情な人だったのかよ」
「そうじゃ……ち、ちが」
「違わねぇッ!」
 溜まっていた鬱憤うっぷんを発散するようにトニーは怒鳴った。アルテイシアは止めようとしたが。
「何があったのか知らねぇけど、そんなあっさりあんちゃんのこと見捨てるなんて、やっぱりおかしいよ。そんな浅いつき合いだったのかよ。こないだまでさんざっぱらイチャついてたくせに」
「トニー君、また嫉妬が出ています」
 うるせぇと拳骨を突き出したが、スコットも慣れたものでひらりとかわした。
「どうなんだよ。姉ちゃんはもう、あんちゃんのこと嫌いになったのかよ」
「わ、わたし、は」
 表情に、変化が。
 ――これは。
「好きになる、資格なんて……」
「四角も三角もねえッ!」
 怒鳴られる度に、マリナの顔に生気が戻っていく。アルテイシアは制止するのも忘れて目をみはる。
「気持ちに変な理屈つけてんじゃねぇよ。好きは好きだし嫌いは嫌いだよッ。自分の気持ちは百パーセント自分のモノなんだから、勝手にすりゃいいじゃねぇかッ」
「勝手に……する……?」
 ――そうか。
 今の彼女に対して必要なのは、理解でも説得でもなかった。外側から感情をぶつけて、揺さぶって、彼女の本心を――たぶん本人すら見失っている気持ちを引き出すことだったのだろう。
 ならば。
「マリナさん」
 この好機を逃すわけにはいかない。
「けじめをつけに行きましょう」
「え?」
 自分らしい言葉ではないと、我ながら思った。マリナも、少年たちも目を丸くしている。
「マリナさんの中にある、マリナさんを惑わせたモノ。それを……アシュレーさんに伝えに行きましょう」
「で、でもッ」
「辛いことなのは判ります。けれど」
 このままでは。
「貴女が大切にしてきた想いが、死んでしまいます」
「想いが、死んで……?」
 そう。
 アシュレーとマリナ。二人は図らずも同じような状況に陥っていた。内側に巣食うモノに蝕まれ、互いにそれを隠してひとり悩み苦しんできた。
 このままでは二人とも、取り返しのつかないことになってしまう。だから。
「愛しているのでしょう。アシュレーさんを」
 もつれてしまった繋がりを、ほぐさなければ。
「わたし、は」
「違うのですか。貴女はアシュレーさんを――」
「好きですッ」
 マリナが叫んだ。
「決まってるじゃないですか。だから、こんなに」
 辛いんです――。
 それでいい。辛いなら辛いと思う。苦しいなら苦しいと思う。気持ちを無理に抑え込んだりするから判らなくなるのだ。
 せきを切ったように泣きじゃくる赤毛の娘を、アルテイシアはそっと抱き寄せる。
「通じなくてもいいのです。愛など所詮、独りよがりのもの。心のままに――伝えましょう」
 愛する彼を。そして、自分を――救うために。
 マリナは立ち上がった。
「行くんだよな。あんちゃんのところに」
 トニーが聞くと、彼女はしっかりと頷いた。もう泣いていない。
「よし、じゃあ行くぞッ」
「え?」
 なぜかトニーが先導しようとする。どこへ連れて行く気なのか。
「急いでるんだろ。オレが送ってやるよ」
「トニー君、まさか」
 眉をひそめるスコットに、へへんとやんちゃ少年の顔に戻って言う。
「乗ってみたかったんだよな、あの滑空機。新型は持ってかれちゃったけど古いのはまだ残ってる」
 地下の倉庫だッと叫んでから、マリナの手を引いて部屋を出ていった。
「わたくしなりの結論といたしましては」
 嵐が去ってから、スコットが呟いた。
「欲望のままに生きるトニー君が、時々羨ましくなります」
「……そうですわね」
 もしかしたら次にアガートラームに選ばれるのは彼かもしれないと、アルテイシアは思った。

 燃えている。
 鈍麻どんました感覚の中でアシュレーは、辛うじてそのことを感じた。

 視界が遠い。トンネルの中から出口を覗いているような。視界のみならず、全ての感覚が間接的に伝わってくる。
 曖昧な皮膚感覚がほのかに熱さを捉える。トンネルの向こうも炎で覆われている。
 何が燃えているのだろう。かすみがかった頭で少し考えて、思い至る。
 ――自分だ。これは自分の身体から発せられた炎だ。
(ああ)
 声が出ない。体も動かせない。なのに視界は勝手に動いている。炎の向こうは歪んだ空と枯れた荒野。それから。
 ブラッド。
 リルカ。
 ティム。
 カノン。
 マリアベル。
 倒れている。蹲っている。血を流して。傷ついて。
 助けたかった仲間たち。救いたかった世界。
 なのに、僕は――。
〈心地よいだろう〉
 そいつが言う。今まで内側から聞こえていた声。それが今は外から聞こえる。
〈そこは我のいた場所だ。痛みも苦しみもそこにはない。哀しいと思うことも、辛いと感じることもない〉
 確かに、不思議と感情が湧いてこない。後悔はない。自己嫌悪にも陥らない。その代わり。
 ただひたすら、漠然とした絶望ばかりが――泥のように意識の底に沈殿していた。
 それでも気分はそんなに悪くない。むしろ、そいつの言うように心地いいとさえ思った。
〈お前は充分に戦った〉
 そうだな。
〈やるべきことは尽くした。それで負けたのだ。ならば〉
 仕方ないか。
〈もう誰もお前を傷つけない。苦しませない。絶望という名の揺籠ゆりかごの中で、共に世界の終末を――見届けようではないか〉
 どうせ世界はいつか終わるのだ。千年後か、それとも明日か。その程度の違いしかない。
 ならば――。
「アシュレー」
 遠くで、声がした。
 トンネル越しの視界が動いてその姿を捉える。あれは。
(マリナ)
 ひどく懐かしい気がした。最後に会ったのはいつだったろうか。
「アシュレー、そこに……いるんだよね」
 近づいてくる。制止させようとするブラッドの声も聞こえたが、彼女は止まらない。
「アシュレー、私……あなたにちゃんと言ったことなかった。だから」
 いま、言うね。
 あなたが好きです。
 ――ああ。
 そういえば自分も言ってなかったな。近すぎたから。言わなくても伝わっていると思っていたから。
 言葉が気持ちを繋ぐのだって、離れてみて初めて――思い知った。
 返さなければ。言葉を。気持ちを伝える言葉を。だけど。
 いつの間にか感情が戻っている。
 出せ。ここから出て……伝えなければ、僕は。
〈目障りな娘だ〉
 体が動いた。自分の意思ではない。そいつが動かしている。
〈この娘こそ、お前をかき乱す元凶。それを〉
 排除してやろう。
 ――やめろ。
 やめろやめろやめろ――。
 力の限り暴れた。のたうち回り、喉を振り絞って絶叫した。だが届かない。視界は遠すぎて、感覚はどこまでも麻痺していた。
〈これが仕上げだ〉
 そいつは彼女の前に立ち、そして。
〈完全なる絶望に――沈め〉
 手刀で、胸を刺し貫いた。
 視界が血に染まる。炎の朱と、血の紅。世界の終焉は、残酷な赤色に彩られていた。
 救えなかった。うしなわれてしまった。
 何もかも失くした、こんな世界なんて――。
「アシュレー」
 すぐ近くで声がした。横を見る。
 マリナが立っていた。目の前で、柔らかな微笑を浮かべて。
 幻影なのか。そう思って肩に触れた。ケープの生地の感触。ちゃんとさわれる。幻じゃない。
 たまらなくなって、ひしと抱きしめた。いつもの温もり。息遣い。戻ってきてくれた。
「ごめんね、ひとりぼっちにさせて」
 耳許に、優しい声でささやく。
「私は、罰を受けた」
 だからここに来られたの。
「もう一度アシュレーに会うためには、私は罰を受けなきゃいけなかったの」
 ――罰だなんて。
 ――君は何もしていないじゃないか。
「私の両親は、あなたの両親を殺した」
 ――知ってる。
「お父さんとお母さんは、かつては名の知れた無法者一家だった」
 ――知ってるよ。おばさんから聞いた。
「船乗りだったあなたの両親をだまして、沖で船を奪って――」
 ――僕の両親は海に落とされて――帰らぬ人となった。
 マリナの両親も程なくして捕まり、処刑された。加害者と被害者の子供は同時に身寄りをなくし、何の因果か――共にセレナに引き取られた。
 アシュレーの両親はセレナのパン屋の常連客で、家族ぐるみの付き合いがあったという。そしてマリナの母親は彼女の妹。どっちも放っとけなかったんだと、セレナは辛そうに述懐じゅっかいしていた。
「私の親があなたの親を殺さなければ、私たちは出会うこともなかったの」
 ――そんな、そんなこと。
「認めたくないけど、それは事実。本当のこと。だから、私たちが出会ったのは」
 あなたを好きになってしまったのは。
「私の『罪』なの」
 ――罪?
 ――罪を犯したのは親だ。どうして君がそれを背負わなければいけないんだ。
「いいのよ。これは私が勝手に思ってしまったこと」
 勝手に罪を背負って、勝手に罰を受けた。
「それだけの――こと――」
 腕の中の身体がずるりと沈んだ。慌ててかがんで背中を支える。
 胸には虚ろに空いた穴。彼女の罪と罰――その証。
 ――こんな、こんな。
「マリナッ」
 声が出た。力の限り、その名を叫ぶ。
「僕も、君を」
 愛してる――。
 感情が溢れる。涙が止まらない。
「君を失いたくない。離れたくない」
 だから、どうか。
 死なないでくれ――!
「負けては駄目よ、アシュレー」
 あなたは希望なのだから。
 白い手が伸びて、泣き濡れた頬を撫でた。アシュレーはその手を掴む。
「絶望に負けないで。私はいつでも、あなたと一緒にいるから」
 どんなときでも。

「あなたは――ひとりじゃないよ」

 ああ、そうだ。僕たちは決して、世界にひとりぼっちなんかじゃない。
 両手でしっかりと、握りしめる。繋いだ手は、もう――離さない。
「ありがとう、アシュレー」
 私を好きになってくれて。
「これで、私も――」
 にこりと笑った顔に、ひびが入る。
「マリナッ!」
 壊れていく。崩れていく。顔が割れ、握った手が砕かれる。
 愛しい幼馴染みは腕の中でぼろぼろと崩れ落ちて、金色の真砂まさごとなってアシュレーの前に積み上がり。
 一陣の風に巻かれて――舞い上がった。
 きらきらと輝く砂が上空で集まり、形を結んでいく。
 ――あれは。
 金色の羽衣はごろもを纏いし美しき女神。
 ガーディアンロード――。
〈娘は死んだ〉
 声がした。女神の姿は既にない。それでも。
 アシュレーは立ち上がった。
〈これでお前は全てを失った。さあ、絶望に――〉
「残念だったな、ロードブレイザー」
 右手を胸の前に突き出す。握られた手の内には。
「僕は絶望なんてしていない」
 約束したんだ。絶望なんかに……負けてたまるか。
 手を開く。
 掌に載っていたのは、翡翠ひすい色の石。愛する人との大切な、絆の証。
〈馬鹿な。ここまでして堕ちぬというのか。お前は――一体〉
 理解できないか。当然だろう。
 なぜなら、僕は人間で。
 お前は人間ではないからだ。
「人の心はそんな単純じゃない。不安定で、曖昧で、矛盾していて――それで悩むことも多いけれど」
 だからこそ。
「人でないお前なんかに理解されてたまるかッ」
 石から閃光が迸る。輝きの中でそれは膨れ上がり、形を変えて。
 ひとふりの大剣となった。
 ――聖剣アガートラーム――。
 アシュレーはつかを握った。
〈よく頑張ったわね、アシュレーくん〉
 彼女の声。剣を通して伝わってくる。
〈後はわたしに任せて。君は〉
 君のいるべき場所へ。
〈――戻りなさい〉
 剣を構えて、振り上げる。

 闇が引き裂かれた。

 ――また、やられちゃったな。
 胸の底に残るほろ苦さを感じながら、リルカはその光景を見つめていた。

 未練が残っていることに気づいたのは、先週のこと。アシュレーが誘拐されたマリナを連れ戻して、二人の関係がこじれ出してから。
 このまま仲違なかたがいしてくれたら、まだチャンスが――と思ってしまったのだ。我ながら浅ましくて嫌になる。でも、思ってしまったんだからしょうがない。
 空間接続リンク魔法での救出に失敗して、彼は自力で彼女のところに帰ってきて――完敗を喫したあのとき、リルカはすっぱり諦めたつもりだった。なのに。
 諦めきれてなかった。ヒトの心はそんな単純じゃない、ってことか。
 わたしだって、本気でアシュレーが好きだったんだ。その気持ちは誰にも、彼女にだって負けてないと今でも思っている。
 だから。
 もし本当に、彼女の気持ちがアシュレーから離れたのなら、その隙間に入り込んで上手いことかっさらうことができるんじゃないかという、淡い期待――というか下心が、ここにきてムクムクと、夏の雲みたいに湧き上がってしまったのだ。
 それで結局、またもや完膚かんぷなきまで打ちのめされているのだから世話はない。天罰てきめん、インカの秘宝。下心を出した結果がこのザマだ。このバカチン。
 心の中でさんざん自分をののしってから、再び前を見る。
 血だまりの中で、アシュレーが横たわるマリナを抱いて、泣いている。
 マリナはついさっき息絶えた。『焔の災厄』が表に出て、誰もが諦めかけていたときに彼女は現れ――奇蹟を起こした。その命を犠牲にして、アシュレーを元に戻してしまった。
 ――かなわないよ、こんなの。反則だ。しかも死んじゃうなんて。
 周りを見る。みんな落ち込んでいる。悲しんでいる。当然だ。人がひとり死んだのだから。
 でも、わたしは。
 ――迷っている。
 このままわたしが何もしなければ、今度こそアシュレーを――性懲しょうこりもなく、そんなことが頭をよぎってしまって仕方ない。
 こめかみを小突いて、悪魔のささやきを追い払う。
 そんなのはダメだ。そんなことで彼を手に入れたって、絶対に後悔する。後ろめたさで辛くなるだけだ。
 これ以上、自分で自分を嫌いにならないためにも――。
 リルカは二人の許に歩み寄った。
「ちょっとどいて」
「え? リル……カ?」
 泣き顔のままぽかんとするアシュレーを押しのけて、血だまりに膝をつく。お気に入りのソックスが汚れてしまうけど、仕方ない。
「何を……? り、リル」
「いいから黙って見てるッ」
 一喝してから、ポーチを開けてクレストグラフを取り出す。ただでさえややこしい魔法なのだから、集中しなければ。
 呪符を、複雑な模様の描かれた面を上にして彼女の胸に置く。そのときチラッと顔も盗み見た。血の気は失せていたものの表情は穏やかで、眠っているのとまるで変わりなかった。血に染まった首から下を見なければ、死んでいるなんて思えないくらいに。
 ――まさか、あなたにこの魔法を使うことになるなんて。
 リルカは心の中でごちた。
 もし、運命の神様なんてものが、いるのだとしたら。
 覚えてろよ。わたしをこんなに役回りにしやがって。
天地に坐す御霊の御許に慎んで敬い白すミディーリ・ソレネ・サンタスピリト・エン・ナトゥロ――」
 呪符に指で触れながら、詠唱を始めた。
「――憐れ肉身を離れし魂は流転の果つる定めなりしもラ・アニモ・ディシージコルポ・エスタス・ソルトシャンジ・セド――」
 暗記した呪文を確実にこなしていく。発音、抑揚、アクセント、テンポ。一ヶ月かかって覚えた。何百回と練習した。
「――可惜別れし其の魂魄、九相を辿り露と消ゆるも猶憫しくラコルポ・ディスペツィギタス・ベドリンデ・エスタス・ラメンティンダ・マラペラド――」
 これも、全部。
 一瞬だけ、後ろを気にする。
 ――あなたのためだったんだよ――。
「――其の身を我が魄にて贖い、今一度無辜の魂に貴き慈悲を授け給えミデズィーリ・ヴィア・コンパテモ・デノーヴ・ペルミア・ヴィーヴォ
 唱え終わり、呪符から指を離す。
 ふ、と模様の上に光の球が生じた。呪符だけを引き抜くと、球は彼女の胸に落ち、吸い込まれて。
 全身が暖かな光に包まれた。暖炉を思わせる仄かな灯りの中で、刺し貫かれた傷口がみるみる癒えていく。
 リルカは彼女の首筋に触れる。
 とくん、と脈を感じた。――成功だ。
「もういいよ」
 寒気がする。やっぱりいくらか生命力を持ってかれたのかもしれない。ふうっと息を吐いて紛らせてからリルカは立ち上がり、その場を離れた。
「マ……マリナッ」
 背中の向こうでアシュレーが声を上げる。でも振り返らない。見たくない。
「リルカさん……すごい」
 呆気に取られているティムの横を素通りする。ブラッドもカノンも目を丸くしている。悪くない気分だけど視線が少しくすぐったい。
蘇生魔法リヴァイブ――か。そんな魔法ものをどうして……ああ」
 何かを察したらしいマリアベルに、口に指を立てて黙らせる。褒められるのも苦手だが、同情されるのはもっと嫌だ。
「はあ。ホントにもう……」
 くらくらしてきた。色々と限界らしい。その場にへたり込み、大の字に寝そべる。横になると猛烈な睡魔が襲ってきた。
「寝るッ」
 やけっぱち気味にそう宣言して、リルカは眠りに落ちた。
 ほんの十分くらい――というつもりで寝たのだけど、起きたら朝だった。
 天井がある。見慣れたシャトーの自室。左側は窓で、右側には。
 赤毛の――女の人。さっきまで死んでいたその顔が、重なって。
「――――ッ!」
 跳ね起きた。
 枕元に彼女がいる。驚いた顔をして……生きている。
 ――ああ。そういやわたしが生き返らせたんだっけ。
「リルカ、ちゃん――」
「わ、ちょっと」
 寝ぼけた頭の中を整理する前に、抱きつかれた。
「ありがとう、リルカちゃん。本当に――」
「マリナさん……」
 心地いいぬくもり。柔らかい感触。おまけにいい匂いまでする。なるほどアシュレーはこれにやられたわけだ。
「ごめんなさい、私なんかのために、あなたの――」
「……やめてください」
 離れて、間近で向き合う。きれいな瞳。まつげも長い。やっぱり美人だ。
「『私なんか』って、そんな言い方しないでください。必死こいて生き返らせたのが馬鹿みたいに思えちゃいます」
「あ……」
 少しくらい文句言う権利は、あると思う。しゅんとする彼女に続けて尋ねる。
「マリナさん、『代償』のこと――知ってるんですね」
「……ええ。ごめんなさい」
 教えたのはマリアベルか、それともアーヴィングか。蘇生魔法リヴァイブの代償――使用者の寿命が削られることを知っているのは、彼らくらいのものだろうから。
 まったく、余計なことを。
「気に病むくらいなら、これからちゃんと生きてください。わたしがあげた命を無駄にしないためにも」
「――うん」
 頷いて、そのまま顔を隠すように下を向いた。膝に置いた手に涙が落ちる。
「そんな気にしなくてもいいですって」
 泣かせてしまったみたいできまりが悪くなって、今度はフォローに回る。
「本人の前で言いづらいですけど、その……死んだ直後でわりとフレッシュな死体だったから、わたしの寿命もそんな縮んでないはずです。へいき、へっちゃらです」
「リルカちゃん……」
 おずおずと上げた顔は、まだ申し訳なさそうだった。
 ――ああもう。
 ずっとこんな負い目を感じたままいられたら、こっちも気まずくて仕方ない。どうしたら――。
 ――あ。
 思いついて、リルカは人差し指を立てて彼女に示した。
「焼きそばパン一年分」
「え?」
「それでチャラにしてあげます」
 マリナはきょとんとして、それから――泣きながら、笑った。
「わかった。いつでも店においで。ご馳走させていただきます」
「やたッ」

 これでよかったよね、お姉ちゃん。
 魔法でみんなを笑顔にする――それが、わたしが一番したいことだったから――。

「駄目じゃな、これは」
 ひとしきり眺めてから、開口一番にマリアベルは言った。
「手の施しようがない。修理なんぞできぬわ、こんなモノ」
 シャトー地下二階の、機関室。中央に鎮座するエマ・モーターは見るも無残な姿をさらしていた。
 巨大な鉄樽を思わせる本体は光線の熱によって半ば熔け、上から押し潰されたように大きくひしげている。繋がっている金属管も大半が折れて接合部から外れ、隣接する燃料タンクとのラインは完全に断たれていた。燃料漏れがなかったことだけが不幸中の幸いか。もし漏れていたら館の下半分が吹き飛んでいただろう。
「やっぱり」
 駄目ですかい、と隣にいた機関長のガバチョが肩を落とした。栗のような頭には包帯が巻かれ、右腕は首にかけた布で吊っている。攻撃を食らった際に負傷したのだという。
「一から作り直すしかないじゃろうな。だが――」
「このモーターだけで、半年かかっています」
 機関長の後ろに立っていたのは、同じ栗頭をした息子のエベチョチョ。彼は偶然にも機関室を外していたため無事だった。
「設計に二ヶ月。製作に四ヶ月。設計期間を除いても四ヶ月はかかります。どんなに急いだとしても」
 三ヶ月を切ることは不可能だろう。
「――間に合わぬか」
 マリアベルは奥歯を軋ませる。
 残された時間は、もはや多くはない。三月みつきも待っていては。
 ファルガイアが完全に――異世界に呑まれてしまう。
「参ったのう」
 飛空機械としてのヴァレリアシャトーは、ARMSの活動において欠かせない移動手段だった。これから異世界に対抗しようという段にそれを失うのは――大きな痛手だ。
「何か、代わりになる飛空機械があれば良いが――」
 ヘイムダル・ガッツォー。それにバルキサス。オデッサが利用していた二機は共に現存しない。どこかに別の機体が眠っている可能性もあるにはあるが――。
 そんなものを探している猶予などない。やはり、時間が足りない。
 手詰まりである。
「こうなりゃ、飛空機械の方から飛んできてくれるのを待つしかないですかねぇ。どっかから、こう、びゅーんって」
「父さん、こんなときに何を言って……」
 投げやりに冗談を飛ばす父を息子がたしなめようとしたとき。
〈き、き、緊急通信ッ〉
 機関室のスピーカーから、ケイトの裏返った声が流れた。
〈東方より謎の飛行物体を確認。こちら……いや、ギルドグラード方面に向かっていますッ〉
 ――飛行物体?
 マリアベルはガバチョを見る。まさか、本当に。
 ところが。
〈解析の結果、当該物体には生体反応がありました。データベースと照合するに当該物体は――機械生命体〉
 ドラゴンであると推測されます――。
「なッ」
 馬鹿な。どうして、また――そんなものが。
〈実働部隊は大至急ブリッジに集合――〉
 通信が終わる前にマリアベルは昇降機リフトへと駆け出した。
 何だ。一体どうなっている。何が起きている。
 どいつもこいつも――。
「支配者たるわらわを出し抜きおってからにッ!」