(序)
 
 静閑とした森の中を、濃い霧が立ちこめていた。
 苔むした樹木の幹は湿気を帯び露を湛えている。威風堂々たる風格で肥沃ひよくな大地に根を下ろし、おもいおもいに枝を伸ばし葉を繁らせる様は、まわりの木々と競い合うかのごとく。緑のヴェールの隙間から臨める空にはうっすらと煙のような雲がかかっている。陽の光は雲と緑とに遮られ、森の中にはほとんど届かない。
 枝の先で、縞栗鼠しまりすが葉を揺らした。そのはずみに一枚が枝から離れ、柔らかな地面に音もなく落ちる。樹木のいと高きところではつぐみが振り絞るように啼きしきり、幽寂の森に響き渡る。風はなく、空気は澱んでいた。
 霧が渦を巻いた。露けし落ち葉を素足で踏みしだいて、少女が歩いてくる。首から臑までを覆う衣服は黒橡くろつるばみで、髪は雪のような白銀だった。左右に分けた前髪の一束をそれぞれ腿のあたりまで伸ばし、後髪はうなじで切り揃えられている。透き通るような肌と淡紅色の唇は瑞々みずみずしく、ある種のあどけなさをも醸していたが、微睡まどろむようにうっすらと開けられた双眸は精彩を欠き、虚ろげに前方のなにかを幻視しているようだった。
 やがて、水の音が遠くから聞こえ、歩を進めるに従って近づいてくる。
 木々の間を抜けた先は、小さな川原だった。陽はまだ霧雲に覆われているものの、薄暗い森に比べればそこは明るい。川面に揺れる光の粒がしたたか飛び込んできて、少女は思わず目を細めた。奥には川幅の割に大きな滝があり、盛大に水飛沫を上げては轟音を響かせている。
 川の畔に蕭寥しょうりょうと佇む少女。ふと、視線の端に異な物が映った。滝のそばの、川岸に。
 歩み寄ると、そこには人が横たわっていた。上半身のみを岸辺に打ち上げて、腰より下は水に浸かったまま。白の上衣にズボン、それに深緑色のチョッキを身に纏っている。森の中を歩くにしては軽装だ。右頬を冷たい苔の地面につけて、眠るように瞑目するその貌には生気がまったく感じられなかった。黄金色の前髪から額にかけて、流れ落ちた血が紅の筋を描いている。
 少女は静かに、冷淡とも思える眼差しでその男を見つめていた。そして徐に背を向けると、何事もなかったかのように立ち去っていく。
「う……」
 滝の音に混じって、男が微かに声を洩らした。少女は立ち止まり、褐色の眸をみはって振り返った。
 
(一)
 
 夢を見ていたようだ。どんな夢だったかは思い出せない。ただ、あとに悲愴感ばかりが残っていた。
 堅そうな材木で組んである屋根の内側と梁とがぼんやり映った。二、三度眸を瞬かせるとようやく焦点が合ってくる。
 彼は部屋の一室で、仰向けになっていた。自分が横になっているベッドは薄いシーツとキルトのみの簡易なもので、躯を動かすと背中が擦れて痛んだ。天井は屋根裏が剥き出しだったが、四方の壁は丁寧に板を打ちつけて仕切られている。床もやはり矩形さしがたに切断した板が敷き詰められてあり、いずれも古びて少し黒ずんでいた。薄暗い部屋の闇を凝り固めて壁や床に張りつけたようでもあった。
 キルトを半分だけ引き剥がして上半身を起こしたとき、不意に額の上の方に鋭い痛みがはしった。小さく呻いて額に手をやると、指にざらりとした感触があった。布が巻きつけてあるようだ。
 部屋の向こう側から足音が近づき、扉が開け放たれる。痛みと眩暈めまいで不快にちかちかする視界を横に移すと、入ってきたのは婦人であった。ローブめいた白い衣裳を身に纏い、陶器の瓶と細長い布の束を両腕に抱えて。
「おや、気がついたのかい。……ああ、だめだよ。まだ横になっていなきゃ」
 婦人は歩み寄ると瓶と布を床に置いて、落ち着いた所作で彼を寝かしつける。背中が痛んでいるので、彼としてはもう少し身体を起こしていたかったのだが。
「あの……」
 発せられたのは錆の浮き出た声だった。慌てて咳払いをする間に、婦人が先んじて云う。
「ここは名もない森の集落だよ。あんたが倒れていた滝からちょっと西に行ったところだ」
 婦人の手が彼の頭に伸びる。布を取り外す仕種も手慣れた感があった。
「あの滝から落ちたのかい? ずいぶんと強く頭を打っていたけど。四日も寝たきりで、もう目が覚めないんじゃないかと思ったよ」
 それでようやく思い出した。確かに彼は、滝に落ちたのだ。だが。
「どうしてあんな所にいたんだい? ここいらは滅多によそものが迷い込むこともないのに」
 婦人が訊くと彼はしばらく躊躇して、それからありもせぬ作り事を、言葉を選びながらできるだけ饒舌に喋り始める。
「森を……散歩していたんです。そうしたら、帽子を川に落としてしまって、取ろうと水の中に入ったら、足を滑らせて、流されて……」
「ふぅん」
 婦人は何となく腑に落ちないといった表情で彼を眺めていたが、それ以上は訊かなかった。
「あなたが、助けてくださったのですか」
 沈黙に堪えかねて、彼が訊ねた。
「いや、私じゃないよ。私の……娘が。ほら、そこに」
 そう云うと、婦人は顎で窓の向こうを示した。彼は再び身体を起こして外に目を遣る。
 黒衣に包まれた少女が、洗い物を干していた。歳は十六、七くらいか。竿には鮮やかな白の衣服が風に吹かれて翻っている。足許の木桶から衣服を取り出しては皺を伸ばし竿に掛ける少女の横貌を、彼はよく見ようとして眸を細めた。
 不意に、少女がこちらを向いた。期せずして彼は、彼女の姿を正面から見ることになったのだ。
 それはひとつの絵画であった。風に揺れる白銀の髪と黒の衣裳、雪解けの氷のような肌、素足でしっかりと立ちながらもどこか恍惚とした眸――彼女のすべてが、ひとつの絵としての要素を完璧に充たしていた。かの少女の周囲を四角に切り取ってそのままカンバスに張りつけたならば、これまで名画と讃する数多の大作さえ陳腐な、見窄らしいものに思えたことだろう。
 先に貌を背けたのは少女の方だった。木桶を抱えると、彼が覗く窓とは反対の方角へと歩いていく。建物の陰に隠れて見えなくなるまで、彼はその姿を目で追っていた。
「ほら、無理すると身体に障るよ」
 婦人はその視線をもぎ離すように、もう一度彼を寝かしつける。やむを得ず彼は硬い枕に頭を埋めた。
「その怪我が治りきるまで、うちが面倒を見るよ。気兼ねしないでゆっくり養生しておくれ、……ええと」
「あ、僕は、リフといいます」
「リフさんね。それじゃ」
 婦人は古い包帯を抱えて、部屋を出ていった。
 リフは仰向けのまま、何の変哲もない天井を眺めた。耳に届くは窓からの葉擦れの音ばかり。
 生き延びてしまったのか、と彼は思った。この場にこうして横になっているということが、彼にとっては不本意でならなかった。だが、心のどこか深い部分では――表面は黒く冷めきった炭も叩き割ると中心が真っ赤に焼けていたように――この誤算を喜び、安堵する自分が確かに混在していた。それが自分の本性であり、また憎むべきエゴイズムによるものであるならば、なんと哀しい性であろうか。彼は天井の梁を睨んだ。
 不意に思い出して、右手でチョッキの内懐を弄ると、指先に冷たい感触が伝わる。つかんで取り出すと、それは真鍮の懐中時計だった。山に入るときに唯一もってきたもの。円形の文字盤の上を長針と短針、それに秒針が小刻みに廻っている。リフはその残酷とも思える動きに嘆息して、それから再び懐にしまった。
 首を動かしてぼんやり窓を眺めていると、風に揺れる木立の先に青空が見えた。その刹那、脳裡に黒衣の少女の姿が浮かび上がる。これを奇異と感じなかった自分が、また不思議であった。
 
 幾分、頭の傷も疼かなくなったので、リフはその日、家の者と夕食を共にした。
 婦人とその夫に勧められるままに、材木を荒々しく切断して繋ぎ合わせただけの無骨な椅子に腰掛けた。その間にも少女が卓の上に淡々と皿を並べる。
 食堂を兼ねた居間も、彼の寝ていた部屋とほぼ同じ造りをしていた。壁にじかに打ちつけた棚といい、冬に備え薪が山ほど積んである暖炉といい、どれも実用性のみが優先され、飾り気のあるものは一切見あたらなかった。
 婦人はルシファといい、夫はミシェルと名乗った。しかし、少女は自らを名乗ることはなかった。
 それどころか、彼女はその食事の間じゅう、一言だに発さなかったのである。リフが丁寧に自分を助けてくれた礼を云ったときも、その少女は僅かに頷いただけで、すぐ食事に戻ってしまった。たまたま貌が合っても、視線はいつも彼の頭をすり抜けてどこか遠くを見ているようだ。彼女はいつも、生気というものがすっかり抜け落ちた表情をしていた。
 そして、少女の両親であるふたりの態度も奇妙だった。ルシファはリフには気さくに話しかけ、ミシェルも寡黙ではあるが、たまに発せられる言葉の節々には彼に対する好意のようなものが感じられた。しかし、ふたりとも娘に話しかけるときだけは(それも、ほとんどが何かの用事で)決まって声の調子を落とし、沈鬱な貌をするのだ。そのあまりの豹変ぶりに、リフは度々目を瞬いた。
 彼はそれを見たとき、少女が唖者であることを疑った。でなければ、家に棲みついた亡霊か。後者はむろん戯れ言であったが、夫婦の態度は明らかに少女に対する嫌悪と畏怖、それにどこかしら哀憐の情も含んでいるように思われたからだ。何よりも彼女の表情は、人というよりはむしろ幽霊のそれに近い。
 そうは思ってみたものの、当然ながら彼自身は少女に嫌悪も畏怖も抱かなかった。おしであれ幽霊であれ、彼女の存在は彼に強烈な心象を喚起せられ、さらにはある種の共感のようなものすら感じさせたのだ。理由は解らない。が、彼はつい先刻まで生死の境を彷徨っていた。死という、この世から隔絶された世界に直面した者同士の共感ともいうべきか。彼は心の中で苦笑した。我ながら突飛な考えだと思ったのだ。いずれにせよ彼はこの件以来、少女を疎外するどころか、逆に興味をもつようになったのである。
 それが、悲劇の始まりであるとも知らずに。
 
(二)
 
 滝は、落ちれば到底助からないと思われた高さだった。頭の傷と背中の軽い打撲だけで済んだのは奇跡というより外無い。彼はつくづく自分の悪運を恨んだ。
 二日もすると体力も恢復し、ひとりで外へ出歩くこともできた。気分転換と弱った足腰の鍛錬を兼ねて、とルシファが外出を許してくれたからだ。
 村は森に護られるように、そこに存在した。木々の隙間を縫うようにして家が点在し、住人たちは緑の天蓋てんがいの下でつましい生活を営んでいる。迷わないように道筋だけはしっかり頭に入れておきながら、リフは足の向くまま村を散策してみた。
 村人たちは皆、一様に白の衣を身に纏っていた。そして、髪の色もやはり揃えたように黒色であった。斧を振りかざして薪を割る髭面の男も、家の脇の小さな菜園で水を撒いている女も、木陰で楽しげに立ち話をしている娘等も、押し並べてこの白と黒とに埋没していた。髪の色はともかく、日常の服まで画一してしまうとは、いかに結束力の強い村だとしてもすこぶる奇怪な話である。
 不意に、リフは自分を助けたという少女のことを思い起こし、このとき彼女の特異性に初めて気づいた。
 少女は村人達とはまったく対蹠たいしょ的な色合いをしていたのだ。黒の衣に白銀の髪。そういえばルシファやミシェルでさえ村人と同様に黒髪と白衣だった。こうして村を歩いてみるまで深く考えることもなかったのだが。
 そうなると再び彼女の存在に疑念が湧き起こってくる。この白い衣裳が村人としてのステータスを示しているのだとすれば、彼女は村から疎斥そせきされているのではないだろうか。何のために? そもそも黒髪の両親から果たして、あのように見事な白銀の髪の子は生まれ得るのだろうか。もとは村の子ではなく、何らかの理由でこの地にて育てなくてはならなかったのではないか? 疑問は募るばかりで、なかなか氷解しそうにはなかった。
 ところで、ともうひとつ思い直してみる。自分はどうしてこんなに少女のことを気にかけるのだろうか。自身の目から見ても少女が逸興いっきょうした存在であることは違いない。だが、ある程度の興味は持つこそすれ、こうまで自分以外の者について推察するなど、それまでの彼では有り得ないことだった。平生から彼は、他人の目は風に触れただけで痛む火傷のごとく敏感に反応するものの、他人の人格や行為そのものについては――風がどこから吹いてくるかなど考えもしないように――まったく考慮したことがなかったのである。それだけに、かの少女を想う自分が不思議で堪らなかった。
 初めて少女と相見えたあの晩、彼は確かに共感らしきものを覚えた。そのときは死に直面したことと関連させ、愚にもつかぬ憶測で帰結してしまったが、どうやらこの共感は、自分自身をそこに映じて見ていることからきているのではないかと、漠然と思い始めていた。
 僕と彼女は似ている? どこが?
 リフは思いを振り払うように細かく頭を震わせる。気がついたら歯を食いしばり、怨恨えんこんの形相で前を睨みつけていた。
 ……もう、止めよう。
 リフは村の中をさらに進んでいった。通り行く人々は、このあからさまに風体の異なる青年に怪訝な貌はするものの、咎める者はいなかった。彼もその視線にあまりいい気はしなかったが、闖入者ちんにゅうしゃは自分の方なのだからと思って諦めることにした。
 方角はあまり定かでないが、枝葉の隙間から覗かせる太陽の位置から推測すると、どうやら東に向かっているらしい。枯葉の降り積もる山道を歩いていくと、あるところで急に視界が開けた。
 目の前に広大な敷地が広がっていた。木々がすっぽり抜け落ちたように丈の短い草原が広がり、朗らかな陽の光を受けた藤色の花が鮮やかに咲き誇っている。敷地の中央には材木を組んだ土台が築かれていた――そう、そのときは単に家屋のための土台だと思ったのだ。板敷の床だけが張られて、これから壁と屋根を架けようというところを何かの理由で中断した――中央に直方体の石が置かれていなければ、いつまでもそう思って憚らなかったことだろう。
 彼は草を踏み分けて土台に近づいた。藤色の花は竜胆のようだ。五片の花弁が物欲しげに突き出された唇のようにも見えた。
 土台は彼の首丈までの高さだった。板敷の広さはやはり家一軒分程度だろうか。その上にぽつんと置かれた石の台が何とも不可解であった。どちらもまだ真新しく、雨風で破損したり煤けた様子もなかった。反対側へ廻ってみると、木製の階が竜胆の生い茂る地面から土台へと架けられていた。その場で暫く躊躇したが、結局上るのはやめておいた。
 リフは眺めながら考える。だが、この建造物がいったい何のためにここにあるのかどうしても思いつかなかった。何をおいても、板敷の中央に鎮座しているこの石塊が解らない。つと彼はそこに忌まわしいものを見るような感覚を得た。心の底を見透かされ、臓物を手づかみで抉られるような不快な気分に陥り、無意識に貌を背けた。
 足許に視線を落とすと、自分の影が随分と短くなっている。早朝に家を出て、もう昼が近くなっていたのだ。そろそろ戻ろうと思いして、リフは今来た道を引き返していった。ルシファが云う通りに外出はしても、心はいっこうに晴れなかった。
 
(三)
 
 意識を取り戻してから一週間が経とうとしていた。額の傷痕は痛々しく残ってしまったが、それ以外は特に後遺症もなく、経過は至って順調だ。本来ならそろそろ山を下りることを考えねばならないが、リフはとてもではないがそんな気になれなかった。この地はあらゆる面で浮世離れした趣があるので――不本意に現世に生き長らえてしまったにしても――その点では幸運だったといえる。だが、傷が癒え、体の調子も良くなるにつれて、彼は夢の中から厭わしい現実へと引き戻されようとするのをひしひしと感じていた。
 ちょうど今と同じような心持ちを、子供の頃にも感じたことがあった。ひどい発熱で三日を寝床で過ごし、学校も休んだ。四日目の朝に熱が治まり、母親に学校へ行くかと訊ねられたときの憂鬱感、あれと酷似しているようだ。結局まだ調子が悪いと応えてその日も休むことになったのだが、それは決して嘘ではなかった。ただ、悪いのは身体ではなく精神こころの方であっただけで。もっとも、休んだからといってそれが癒されるわけでもなかったのだが。明日のことを考えるとひどい虚脱感が襲ってきて、それまでの三日間と同様に、少年は日なが一日枕に頭を埋めて寝床に入ったきりであった。
 学校が嫌いだったわけではない。いや、嫌いだったのかもしれない。毎日通うことで嫌悪を頭の中へ押し込めていただけなのかもしれない。学校なんて行っても煩わしいだけじゃないか。同級生には気を遣い、先生にはさも優等生であるかのように振る舞う。決められた時間に無理矢理席に座らせて知りたくもないことを教え込まれる。家にいた方がどんなに気楽なことか。それでも毎日行っているうちには我慢できる。日常化して、習慣としてしまえば瑣末なことは何も考えずに通えるようになるからだ。ところが、ひとたびその習慣が途切れてしまうと、この時のように鬱な気分になる。どうして自分は今まであんな場所に行けたものかと不思議にすら思えてくる。僅かな勇気を振り絞ってひとたび学校に行きさえすれば、また元のように平気で通い出すようになるのだから、我ながら単純なものである。
 現在の状況は遠い記憶よりもさらに深刻だった。山を下りるには僅かどころか、気が遠くなるほどの勇気が必要になる。彼にはほとんど不可能であった。
 あの滝に、リフは自らの意志で身を投げたのだから。
 遺書は自分の部屋の机上に置いてきた。今更どの面下げて戻ることができようか。無情なる都でひとり生きていく自信もない。かといって再び身投げする気も起きない。一度しくじってしまった後では、どうして命を絶つことを思い立ったのかも解らなくなっていたのだ。
 
 玄関の扉を開けて外に出た。朝から村に立ちこめていた霧もすっかり晴れ、木洩れ日が光の帯となって辺りの地面や屋根に降り注ぐ。風は穏やかで、遠くから鳥の囀りと水の流れる音ばかりが響いている。
 並木のように樹木の連なる道を少し歩くと、中途で銀髪の少女が背を向けて立ち止まっていた。かかとのすぐ横に白い布が落ちている。振り返ってそれに視線を落とした少女の両腕は大きな木桶を抱えていた。片腕一本で桶の底を支えて布を拾おうとしているが、少しでも腰を屈めると桶が傾いて落ちそうになるので、なかなか上手くいかない。
 リフは近づいて、布を軽く拾うと桶の中に入れてやった。布は衣服で、桶には同じような服がいくつも無雑作に積み上がっていた。洗濯にでも行く途中だったのか。
「あ……」
 それが、リフが聞いた初めての声だった。
「どうも」
 自分でもかなり間の抜けた返事だと思ったが、他に言葉の返しようもない。
「これから洗い物かい。よければ手伝おうか?」
 この申し出に少女は少し困惑した様子だったが、暫くして軽く頷くと、背を向けて歩いていった。彼女が本当に諒解したのか解らないが、ひとまずリフも後をついていくことにした。
 木々の柱が立ち並ぶ天然の通路を抜けた先には、川原があった。山を流れる川にしては穏やかだ。水飛沫の音が微かに上流の方から聞こえてくることから、彼が身を投げた滝よりも下流にいるらしいことは解った。
 少女は丸い小石が敷き詰める川岸に腰を下ろし、木桶から衣服を取り出して水に浸した。リフも隣に屈んで同じことをしようとすると、少女が視線を流して彼を見た。
「いい……私が、やるから」
 川のせせらぎに今にも掻き消されてしまいそうな声だ。
「手伝わせてよ。僕もここに来て、ずっとぶらぶらしてばかりだから、退屈で死にそうなんだ」
 リフがそう云うと、少女は面を上げて、きょとんと彼を見た。
「……せっかく助かったのに、また死ぬの?」
 少女の言葉にリフは暫く唖然として彼女を見返していたが、やがてくつくつと笑いが込み上げてきて、最後には綿雲の浮く空を振り仰いで高らかに笑いだした。
 決して彼女の勘違いを嘲笑したのではない。まったく予期せぬところから、心のうちに秘めていた思いを突き詰めるような言葉が出てきて、そのあまりの意外さに、自嘲を込めてわらったのだ。助かったのにまた死ぬのか? それはまさに先程まで彼を思い煩わせていた自問そのもではないか。この問いかけを前にしては、彼はもはや閉口するより詮方ないのだ。
 怪訝そうにこちらの貌を覗き込む少女に気づいて、リフはああ、と自分を扇ぐように手を振った。
「なんでもないんだ、ごめん。……でも、君もちゃんと話せるんじゃないか。今まで一度も話すところを見なかったから」
 そう云うと、少女は慌てて彼から貌を背ける。雪解けの氷のように滑らかな頬に、僅かに赤みがさした。
「ああ、気にしないで、もっと君の話が聞きたい」
「……だめ」
 少女は泣き出しそうな小声で云った。
「ひとと、仲良くなっては、だめなの」
「どうして?」
 リフが訊くと、少女はまた黙って、それから困惑したように。
「……どうして? どうしてかしら……」
 視線を落として考え込む少女の横貌に、リフは嫋やかな白い霞草を見たような気がした。可憐、という言葉がふと脳裡に浮かぶ。この言葉に符合するような女性を、彼はそれまで架空の作り話の中でしか逢ったことがなかった。それだけに眼前の『可憐』な少女の存在は、彼にとってあまりに異質で、幻想的な雰囲気すら漂わせた。幻のごとく依稀いきとして、幻のごとく美しい。
「話、聞かせてよ。この村のこととかさ」
「……村?」
「うん。ここは、なんというか……すごく不思議なところだね」
「そうかしら」
 少女は木桶の底から陶器の瓶を取り出して、中身の液体を数滴、水に浸した布に落とす。乳色の液は白い布に吸い込まれるように消えた。
「私には、この村が、この森がすべてだから」
「山を下りたことは?」
「ないわ。私だけじゃない、みんなこの森を離れられない。そういう掟なの」
 掟。統一化された装束といい、どうやらこの村にはかなり厳格な掟が定められているらしい。
「どうしてそんなものが」
 少女が布を両手でゴシゴシ擦ると、布の表面に細かい泡が浮き出てきた。瓶の中身の液体は石鹸だったようだ。
「この山には、精霊さまが住んでいるの」
 泡立つ衣服に双眸を向けたまま、少女が云った。
「私たちは精霊さまのしもべ。従うより仕方がないの」
「精霊が掟を決めたっていうのかい?」
「ええ、そうよ」
 ばかばかしい、と思わず口から出かかったが、さすがに憚られた。しかしこれで疑問のいくつかが解けた。
 山に神や精霊が宿るというのは古来よりよくある話である。この山にどのような伝承があるかは知らないが、ともかくここにも人智を超えた精霊とやらが存在している。彼らはそれを信仰し、云い伝えられている掟を謹厳実直に守りながら暮らしている。おそらく、気の遠くなるほど遙か昔から。
 リフも手に取った衣服を水に浸し、瓶を拝借して液体を落とした。それから両手で布をつかんで擦り合わせる。出てくる泡は普通の石鹸よりもかなり細かい。
「これ……なんだか変わった石鹸だね」
「せっけん? ……それはただ、草をすりつぶして漉しただけよ」
 リフは目を瞬いた。草の汁でこんな泡が出てくるものなのか。そういえば石鹸草なる草があるというのをどこかで聞いたような気もする。
「不思議だよ、やっぱり」
 気がつくと、そんな言葉が出ていた。
「僕にとっては、ここにある何もかもが不思議だ。君も、この村も、この瓶の中身もね」
 陶器の瓶をつまみ上げて目の前に示すと、少女は綻ぶように微笑する。胸が締めつけられるような、笑顔だった。
 この出来事が少女と懇意になるきっかけだった。この日以来、リフは少女といくらか言葉を交わすようになる。しかしそれはふたりきりの場合に限られていた。彼以外の人間に対しては、少女は相変わらず唖のように口を閉ざしたままであった。
 水音を立てて流れる清流。岸辺に屈んで布を濯ぐふたり。背後の木陰で動く影を、知る由もなかった。
 
(四)
 
 翌日、リフは村の長老と呼ばれる三人の老人の訪問を受けた。
 朝には食事の皿が並べられていた机も綺麗に片づけられ、家の者が座っていた席には老人たちが腰を下ろした。ミシェルとルシファ、それに少女は部屋の壁際に立って傍観している。
 リフが名を告げると老人たちもそれぞれに名乗った。
「リゴライじゃ」
 リフと向き合っている老人は、椅子に腰掛けると床に足がつくかどうかと思われるほど小柄であった。項のあたりで束ねた長髪は艶の落ちた白髪で、口から顎下までを灰色の髭が覆っている。こちらを見据える双眸はいくらか濁ってはいるものの、闇夜に浮かぶ猫の眼のように光っている。
「シレント」
 リフの左側に座っているのは、対蹠的に大柄な老人だ。背丈はリフと同じくらい、加えて横幅が彼の二倍弱はある。白髪混じりの黒髪は短く切り揃えられ、髭も綺麗に剃ってある。口をきっと切り結んで、身じろぎもせず窓の外を眺める様は、眠れる獅子のごとき威圧感があった。
「クラジーじゃよ、ひゃっひゃっ」
 右側に腰掛けているのは、他のふたりとも全く異を為す痩身の老人。腕も脚も枯れ木のように細く、頸には喉仏のかたちがくっきりと浮き出ている。禿げ上がった頭は肝斑しみが付着しており、締まりのない口許に生える無精髭がなんとも汚らしい。欠け落ちた歯を剥きだして、へらへらと卑屈な笑いを浮かべている様子が、異国の話によく聞くハイエナを連想させた。
「いきなり押しかけておいて恐縮じゃが、君とはいくらか話しておきたいことがある」
 リゴライが話を切り出す。
「君のことはルシファから聞いている。滝から落ちたということじゃが」
「はい。あの、僕は都に住んでいた人間で……」
「あんたの素性なんざに興味はないね。ひぇっひぇ」
 リフの言葉を遮って、クラジーが。
「あんたは滝でヘマをやって、ここで看病してもらっている。それだけわかっていれば、いらんことは話さんでええ」
「我らは不変にして絶対なる精霊神に仕える一族。掟により外部との関わりは禁じられている」
 腹に響くような野太い声で、シレントが語った。
「だが、怪我をした者を放っておくほど我らも無慈悲ではない。今回だけは特別に村へ入れることを認めた」
「ありがとうございます」
 リフはひとまず胸を撫で下ろした。そう演技してみせただけなのかもしれないが。
 リゴライは相変わらず鋭い眼光でこちらの顔色を窺っている。
「……見たところ、身体の具合は良いようじゃが」
「ええ、お陰様で随分とよくなりました」
「ならば、一時も早くこの山を下りなされ」
 小柄の老人は厳しい声色で云った。
「ここに長居したところで君にはなんの益もあるまい。都へ帰って、本来の生活に戻るがいい」
 リフは言葉を返せずに、黙り込んで下を向いた。
 ……帰れるわけが、ないのだ。
「なんじゃ、浮かぬ顔をして。帰れぬ理由でもあるのか?」
 クラジーが嫌らしい笑顔を浮かべて皮肉る。このふざけた老人に心の底を見透かされたような気分になった。唇を噛み、視線は机の縁から離れなくなる。
「それとも、この村がそんなに気に入ったのか? ふむ、ならばこのまま村で過ごして、山の土となるのも悪くなかろうて。ひょっひょっ」
「……次の満月の日までに、山を下りることだ。月満ちて以後は、掟により二度と村を出ることは適わなくなる」
 シレント老の口から意外な言葉が発せられ、リフは貌を上げた。満月の日まで。それが何を意味するのか、そのときのリフには解りようもなかった。
「あの、満月の日、とは?」
 リフが訊くと、寡黙な老人は窓の外を向いたきり、それ以上は口を開こうとはしなかった。
「大したことではない。余計な詮索はせぬが身の為じゃ」
 リゴライがそうつけ加えて席を立つと、他のふたりもそれぞれに立ち上がる。
「まあ、せっかくだからもっとゆっくりなすってくださいな。今、お茶を用意いたしますから」
「いや、結構」
 ルシファの申し出に首を振ってから、リゴライは今一度リフを見て、忠告した。
「よいな、月満ちるまでに村を出るのじゃ。何が君をこの村に引き留めているかは知らぬが、それが君のためであり、我らのためでもあるのだから」
 リゴライを先頭に、シレント、クラジーと続いて玄関へと歩いていく。クラジーが最後に扉を閉めると、重苦しい部屋の空気もふっと抜けたようだった。
 リフは椅子に腰を降ろしたまま、先程までリゴライが座っていた椅子を茫然と眺めていた。
 突然の長老の来訪、そして彼を窮地へと追いやる忠言。あまりにも事が立て続けに起こって、リフは戸惑いを隠せなかった。
 長老たちの言い分はもっともである。闖入者である自分が好ましく思われないのは仕方がない。加えて、この村では精霊を信仰し、厳然たる掟を遵守じゅんしゅしながら暮らしている。疎ましい自分を一刻も早く追い出したい所願はあって然るべきだろう。ただ、彼らの言動は、どこか……その一念のみによるものではないような気がしてくるのだ。
 そう、月満ちるまで。この言葉に彼らの懼れるもうひとつの「意味」が隠されているのではないか。
 振り返ると、ミシェルもルシファも、そして少女も部屋から去っていた。彼らも「意味」について訊ねられるのを避けている。この様相では訊ねても明瞭な返答は得られないかもしれない。
 月満ちるその日、いったい何があるというのか。新たな疑念が、リフの脳裡を揺さぶった。
 
(五)
 
 薪割りなんて、それまでしたこともなかった。
 輪切りにした丸太の台に薪を立てる。斧を振り上げると刃が陽光を受けて鈍く輝いた。そうして腕に力を込め、直立した薪の中央を狙って振り下ろす。薪は小気味いい音を立てて真っ二つに割れた。最初のうちは上手く割れなくて難儀したものだったが、刃の入れ方と叩き込む位置さえつかめば意外と簡単に割れてくれるものだ。
 蟀谷こめかみから流れ出た汗が頬を伝って、下顎の先でぽたりと落ちる。リフは斧の柄を肘と脇腹の間に挟んでおいて、それから首に掛けた手拭いで顔を拭った。
 世話になった礼がしたいからと、家の仕事の手伝いを申し出たのはリフの方からだった。ミシェルやルシファはあまり気が進まないふうだったが、半ば強引に作業を手伝い始めると、やがて彼らからも色々と指示を受けるようになった。食料の調達から炊事、洗濯、掃除、そして薪割り。都ではまるで経験したことのない作業に戸惑いながらも、見様見真似でなんとかこなしていった。平生から要領はいい方だったので、二日もすればすっかり仕事ぶりが板につくようになった。危なっかしい彼の仕事ぶりにはらはらしながら見守っていたルシファたちも、最近では安心して任せるようになっていた。
「もう全部終わったか?」
 作業の手を休めていると、横からミシェルがやってきて訊ねた。
「いえ、まだちょっと残ってます」
 リフは残りの木材をざっと一瞥してから応える。
「ルシファが畑の水撒きを手伝ってほしいそうだ。後は私がやっておくから、君は畑へ」
「はい」
 斧をミシェルに手渡して、リフは畑のある家の裏手へと廻った。
 そこは畑というより菜園と呼ぶのが妥当であろうか。ちょうど隣接する家ほどの敷地に数種の野菜が区分して栽培されている。キャベツ、蕪、トマト、芋、それに小麦も多く植え込まれており、まっすぐ伸びた穂先が揃って天を指さしている。
「ああ、来てくれたのかい。すまないね」
 小麦の陰からルシファが貌を出した。屈んでいたのは雑草でも取っていたのだろう。
「ちょっと川へ行って水を汲んできてくれないかい。ほら、そこに桶があるから」
「わかりました」
 外壁の隅に置いてあった木桶の取っ手をつかむと、リフは川へと歩いていった。
 いくつか家を通り過ぎると、村の広場のような場所に出る。そこの中央にはひときわ大きな木が一本だけ立っていた。根を張り枝を伸ばして、暖かな日射しを独り占めするように緑の衣が包む様はいつ眺めても壮観だ。昼下がりにはいつもその木の下で若い娘たちが数人集まって、たわいないお喋りに花を咲かせている。このときも御多分にもれず、木陰で談笑する娘たちの姿があった。
 さて、リフがその横を通り過ぎる。すると娘たちはいっせいに彼の方を振り返り、それからすぐに金切り声ではしゃぐように騒ぎ出す。これもいつもの光景だ。
 都でも――決して自惚れではなく――彼の整った容姿は多くの女性を振り返らせた。その度に友人から羨望と、いくらかの嫉妬を込めて色男と冷やかされたものだが、彼自身は進んで女性と接したことはただの一度もなかった。いくら好感を持たれようが、彼にとって女というのはまったくもって不可解な生き物でしかなかったのだ。綺麗に着飾り、化粧をして外見だけを取り繕うとする。些細なことですぐに泣いたり笑ったり、感情の起伏を惜しげもなく外部に表顕させてしまう。内面から発散せられる騒々しさとでもいうべきか。そんな彼女たちに近づいて話しかけようなど正気の沙汰ではない。彼はこれまで母親以外の女性とは一定の距離を保ちながら過ごしてきた。数多の書物で陳べられ、賛辞されし愛の力さえも、彼にしてみれば愚劣以外の何物でもなかったのだ。その魔力の怖ろしさを充分に知っていた彼は、女性の姿をなるべく直視しないよう努めた。愛の魔力に取り憑かれ、それが自分自身を庸愚ようぐたる存在へと貶めてしまうことをひどく危惧したのだった。
 娘たちの声が遠ざかり、消え失せた頃には周囲に家もぱたりとなくなり、天然の柱廊ばかりが先へ続くようになる。リフの歩みは自然と速くなっていた。
 川辺にはいつものように洗い物をする銀髪の少女の姿があった。腰を屈め、せっせと作業をする少女の背中をリフはしばらく陶然と眺め入っていた。彼女の動きひとつひとつに呼応して揺れたり向きを変えたりする背中の、その意外なほどの小さきに青年の心は掻き乱された。
 徐に歩み寄り、少女の横に座り込むと、彼女も気づいてこちらを見た。
「どうしたの?」
「水を汲んでこいって、ルシファがね」
 リフは桶を横に寝かせ、それを枕として自分も仰向けになった。視界の先に霧のような雲が流れる。その隙間から臨める空の青がよく映えている。一面の青空でないところに興趣があるのだと彼は思った。
「……綺麗な空だ」
 我知らず呟きが洩れた。それを聞いた少女も、曇りがちな空をつまらなそうに見上げる。
「そうかしら」
「ああ。……思ってみたら、都でのんびり空を眺めたことなんてなかったな」
 風がひとつ流れる。木々の枝を揺らし、森全体が騒めく。都の雑踏に比べてこの森の喧噪というのはなんと心地よいことか。
「ねえ、あなた、都に戻らなくていいの?」
 うとうとしかけていたところで、少女に不意を突かれた。驚いたリフは反射的に身を起こす。
「もう身体の調子はいいんでしょう。そろそろ山を下りて、あなたの暮らしに戻ったらどうなの」
 少女の言葉に、打ち拉がれた子供のように膝を抱えて俯いた。返事に窮しているのを悟られまいと、少し間をおいてから、彼は次に出すべき言葉をこしらえて訊いてみた。
「君は、都がどんなところかわかるかい?」
 少女は首を捻った。
「さあ……ここよりも人がたくさん暮らしているってことくらいしか」
 リフは上着の懐から真鍮の懐中時計を取り出すと、掌に載せて少女に見せた。
「なに?」
 無機的に時を刻む秒針を、少女は不思議そうに貌を近づけて眺める。案の定、この村には時間という概念が存在しないらしい。いや、悠然たる時の流れはあるものの、固定観念としては意識されていないと云った方が正しいか。
「時計といってね、一日の時間を知らせてくれる機械だよ」
 機械と説明して果たして理解できるかどうか疑わしかったが、少女からも特に反応がなかったので続けた。
「都の人間はみんな、こいつに縛られている」
「……縛られる?」
 怪訝な貌をする少女にリフは慌てて首を横に振る。彼女には比喩が通じないことを忘れていた。
「いや、そうじゃなくて、僕らの生活は、こいつが示す数字を基準にして営まれているということさ。起きる時間も寝る時間も、食事時も仕事時間も全部この数字が決めているんだ」
「へえ……偉いのね、この子」
 やはりよく解っていないようだ。無理もないかと考え直し、それ以上の説明は諦めて話を進めることにした。
「都にいれば必ず、こいつに僕らが合わせなければならない。絶えず時間を気にして、せかせかと動きまわるんだ。そんな生活が、僕は大嫌いだった」
「だから戻りたくないの?」
 リフは応えずに、流れゆく水面を見つめたきり。少女は愛想をつかしたように彼から視線を離すと、水に晒していた衣服を取り出して両手で絞り始めた。
「私にはわからないわ」
 拗ねるように、少女が。
「あなたのいう、都の時間というのは、私たちの掟みたいなものなんでしょう」
「え? あ、まあ、そんなようなものかな」
 守らねばならないものという意味では、確かに同義であるかも知れない。叛き続ければ社会から疎外、さらには追放されるという点においても。
「私たちは掟があるのは当たり前だと思っているわ。どうしてあなたはそう思えないの?」
 胸の底から浮き上がるような感覚が彼を襲った。少女の口からまさかそのような言葉が飛び出してこようとは。
 そうなのだ。都の人間は時間による生活を当然のものとして受け入れている。それが都に暮らす者としてのあるべき姿なのだろう。しかし彼はどうしてもそれに馴染めなかった。時間の枠に填め込まれるのをひどく嫌悪していた。ひとがひととしてこの世に現れていられる時間はそれぞれに違う。ならば人に流れる時間というのも異なっていて然るべきではないだろうか。彼は自分の中を流れる時間に忠実に生きたいと主張した。だがそれは、世を拗ねる者の勝手な言い訳にしか過ぎないではないのか?
「どうして、だろう」
 対岸の林を見つめながら、リフは喘ぐように呟いた。
 
 桶いっぱいに汲んだ水が、歩く度にたぷたぷと波が立つ。右手で取っ手をしっかり握り、こぼさないよう慎重に歩を進めていく。
「だいじょうぶ?」
 隣に並んで歩く少女は、洗濯の終わった衣服の入った桶を抱えていた。
「そんなにたくさん入れるからよ」
「平気だよ」
 リフは少女と同じように桶を両腕で抱えるようにしてみた。片手で持つよりこの方が随分と楽だ。
 鬱閉とした森にどうやって入り込んだのか、樹木の幹の間を潜り抜けた風が少女の髪をさらう。風下にいたリフには彼女の髪の香がふわりと感じられた。仄かに甘く、またどこか懐かしい匂いだった。
「さっきはごめんなさい」
 横貌をそっと盗み見していると、出し抜けに少女が口を開いた。
「なにも知らないのに、勝手な口を聞いちゃって」
「いいんだよ。君のいうとおり、僕も都に戻るべきなんだ」
 自嘲を込めて、リフが云った。
「ただ、僕はこの村が好きなんだ。ちょっと変わったところもあるけど、ここでの生活はすごく気に入っている。……君らは迷惑かもしれないけど」
「そんなことないわ。ルシファもミシェルもあなたのことをよく思っている。けれど……」
 少女は言葉を切って、視線を床に落とした。
「月満ちる日」
 リフは思いきって訊いてみる。彼女が案じている事柄を、他には考えられなかった。
「その日に、いったい何があるんだい?」
 少女からの返答はなかった。
 視界の先に広場が見えてくる。大木の下では談笑たけなわの娘らの姿があった。ふたり並んでその横を過ぎると、娘らは会話をやめていっせいに振り返る。そこまでは先刻と変わりなかった。しかしその後、リフが離れていっても娘らは終始無言を保っていた。それは云うまでもなく隣を歩く少女が故なのだろうが、俗念的な嫉妬からくる無言とは様相が異なる。
 憐憫の、無言。
(やはり、この村の人は何かを隠している)
 リフは確信した。すべてはこの少女の因縁であると。
 
 少女とは家の前で別れて、リフはひとりでルシファの待つ裏手へと廻った。
「おや、ありがとう。助かったよ」
 畑からルシファが出てきて彼を迎える。
「ついでにもうひとつ頼まれてくれないかい」
 と、リフの前に柄杓ひしゃくを突き出した。
「水撒きですか」
「ああ、小麦の方はやらなくていいから。お願いするよ」
「わかりました」
 柄杓を受け取ると、左手に桶を提げてリフは畑の中へ入った。桶に溜まった水を掬って畑の野菜に撒き始める。柄杓が弧を描くと、器から躍り上がるように水が飛散し、緑の葉へと降りかかる。
 ルシファは黙々と水を撒くリフを畑の外から見つめていた。
「まったく、よくできた子だねぇ」
 眸を細めて呟いた。
「あんたみたいな子が、ほんとうに私らの子供だったら……」
 リフは視線を流してそっとルシファを見る。彼女の言葉に微妙なニュアンスの揺れを感じたのだ。
 ルシファは踵を返して家の表口へと歩み去っていった。その背に重ねて映ったのは、やはり憐憫であった。
 
(六)
 
 その日は特に言いつけられた用事もなかったので、久しぶりに散歩に出てみることにした。
 この頃になると村の人間にも顔が知れるようになり、異郷の恰好で徘徊しても驚かれることはほとんどなくなった。それどころか向こうから声をかけてきて挨拶を交わすこともしばしば起こった。どのような経緯で自分の噂が伝わったのかは解らないが、ともかく彼は村人に好意を持って受け入れられたようだ。
 取り立てて村人を観察していたわけではないが、彼らの暮らしぶりは一様で殆ど変わりがないものに見えた。簡素な木造の家屋に家族が揃って寝起きし、日課の仕事はすべて生活に直結している。一応は共同生活体を形成しているが基本単位は家族であるらしく、家の隣には必ず畑のための敷地が設けてあり、食糧の大部分はそこから収穫し、自給している。炊事にしろ洗濯にしろ、自分の家族以外のために作業をすることは滅多にない。村人たちを結びつけているのは唯ひとつ、同じ山の同じ精霊を信仰していることのみ。それがなければ、おそらくひとつの『村』としては成立し得ないだろう。
 ところがリフにはひとつ気にかかることがあった。彼がこの村に滞留してからただの一度も、村人が神に礼拝する姿を見たことがなかったのだ。通例であるならば、このようにひとつの神を厚く信奉するような集団は概していくつかの宗教的な儀礼を持つものである。しかしこの村は精霊神を信仰すると口では云っておきながら、その信心を行為に表すことをしていない。神が定めたという掟はあれども、その神を敬う儀式や儀礼の類がまったく存在しなかったのだ。リフには彼らの精霊神に対する態度が大きな矛盾を抱えているように思えてならなかった。
 果たして彼らの中に神は存在するのか?
 歩きながらとめどもない推論と仮定を繰り返しているうちに、いつの間にか、以前の散歩のときにも来た広大な敷地に辿り着いていた。リフははたと考えを止めてその場所に視線を巡らしてみる。
 まず彼が怪訝に思ったのは、敷地内を埋めつくしていたはずの竜胆が残らず刈り取られていたことだ。この前に来たときは膝丈まで藤色の花が咲き乱れていたのが、今では踝の高さに切られた茎が名残に突き出ているばかり。隅々まで見渡すと、竜胆に限らず敷地に自生していた草花がことごとく取り除かれているようだ。色とりどりの花が地面を鮮やかに彩る様は大いに眼を愉しませてくれただけに、リフは少し勿体ないような気がした。
 中央の台と石塊は以前と変わらぬ姿でそこにあった。裏手へ廻って、台に続く階段の前で立ち止まる。リフは妙にこの台の存在が気になっていた。彼が村で見てきた建物や道具はどれもが実用に供するものばかりであった。にもかかわらず眼前のこのものは、何の為に作られたのかさっぱり見当がつかない。村の中でこれだけがひどく非合理的で、無意味なものに思えてならないのだ。
 リフは台に上ってみようと足を上げた。しかしその足が階に届く手前で、無意識のうちに下ろされてしまった。台に上がることがどうしてこんなに躊躇われるのか。苛立ちを掻き消すように頭を大きく振ると、再度足を上げる。
「そこで何をしておる」
 遠くから声がかかって、リフはまた足を同じ場所に下ろしてしまった。そうして台から少し離れてみると、彼がやってきた方から小柄の老人が腰を丸めてゆっくり歩いてきていた。先日、家を訪ねてきた長老のひとり、リゴライだ。
「何をしておる」
 リゴライは突き刺すような視線で彼を見て、繰り返し問うた。
「いえ、僕はただ散歩をしていただけです」
「ならば」
 と、老人は重厚な口調で。
「すぐにここを離れられよ。この場はたとい村の者とて、みだりに入ることまかりならぬ」
「すみません」
 リフは貌を赤くして、台からさらに離れた。それから思いきって、内に秘めていた疑問をぶつけてみる。
「あの、この台はいったい何なんです?」
「これか? これは……祭壇じゃ」
 老人の応えにリフは意外な感じがした。同時に納得もした。これまで彼は村人の信心に少なからぬ不審を抱いていたが、まがりなりにも祭祀の用意はあるのだと知ってひとまずは安堵したのだ。だが。
「でも、それにしてはなんだか寂しくありませんか?」
「儀式を行う際にしか使わないからの」
 リゴライはうるさそうに貌を背けた。
「君はなにも知らなくていい。早く山を下りることじゃ」
 そう告げて立ち去りかけたが、不意に思い出したように振り返って。
「それから、君にひとつ忠告しておく」
 嗄れた声を一段と強めて、リゴライは云った。
「白の烏に近づくな」
 リフはこの老人が何を喋ったのか、咄嗟には判断できなかった。眉を顰めて立ちつくしていると、リゴライは口を閉ざしてそのまま歩み去ってしまった。茫然と小柄な背中を見つめた後、徐に祭壇に目を向ける。
 ……白の烏?
 勃然とした衝撃に停止した思考が、ここで再び働き出した。烏は普通、黒いものだろう。白い羽根をした烏など見たこともない。そこで、何かの譬えではないかと彼は推察してみる。
 白と聞いて真っ先に思い浮かべたのは、村人の着用する衣服。烏を象徴する黒の髪を持ちながら、白の衣で身を装う。なるほど白の烏と呼べなくもない。しかし村人たちに近づくなというのはいささか言葉に不自然さが生じる。老人は『白の烏』と言いきった。それは集団ではなく、むしろ特定の誰かを示しているのではないだろうか。黒い烏の群の中で、対蹠的な風姿をもつ烏とは。
 思い当たる人物は、ひとりしかいなかった。
 リフは板敷の台の上に置かれた直方形の石に目を遣る。画一化された村の中で殊に異質な存在がこの祭壇であり、またあの少女であった。脳裡でふたつの点がひとすじの線に結びついたとき、彼の肩は何故か細かく震え始めていた。
 
 家の方へ戻ってみると、表の物干し台の前で、少女が洗濯物を竿から外していた。
「あら、リフ」
 彼に気づいた少女の方から声をかけてきた。初対面のときの彼女からは想像もつかないほど、快活な声だった。
「ちょうどよかったわ。洗い物を取り込むのを手伝ってほしいの」
「ああ」
 譫言のような返事をひとつして、リフは横に立ち、竿に掛けられた衣服を足許の桶へ入れていく。時折に少女がたわいない話をしても、彼は言葉少なにありきたりの応答を繰り返すばかり。ふたりの様相は、以前の少女がリフに、リフが少女に入れ替わったようで、頗る奇妙であった。
「どうしたの?」
 そんな彼を見かねた少女が訊ねてきた。
「今日のあなたはなんだか変よ。何かあったの?」
「いや、なんでもないよ……」
 白の烏に近づくな。先刻の老人の忠言がどうしても頭から離れなかった。そして一度は口に出すことを決意した言葉が、いざ少女を前にしては出せないでいた。
 ついにはふたりとも黙り込んでしまい、乾いた衣服を竿から降ろしては足許の桶へと入れていく手ばかりが、しきりに動いた。
「私ね、今までひとを感じたことがなかったの」
 桶に白い服が充ちてきた頃、少女が静かに語り始めた。
「立ち止まって話をする人も、横を通り過ぎていく人も、みんな木や風と同じように見ていた。みんな私と関わりのないもののように思っていた。お父さんやお母さんさえも。でも、あなたと話すうちにそれが間違いだってわかったの。ひとには木や風にない感情があって、ひとと人とは結びつきあい、互いに感じあって生きているんだってことが。……そう、あなたと私の間にだって結びつきがあるのね」
「結びつき?」
 リフが訝しげに訊くと、少女は手に持つ布を握りしめて、俯く。
「……私、変なの。あなたと会ってから、ひどく苦しくなるときがある。胸が熱くなって、息が詰まりそうになる。でも、なんだかそれが、心地いいような……。ときどき、自分がわからなくなるの」
 熱っぽい少女の語り口に気圧されて、リフはしばし無言を保っていたが、思わず知らず腕が伸び、少女のすべらかな前髪を指の間で梳いて。
「誰かを想って苦しくなるのは、それだけ人との結びつきが強いからだよ」
 前髪を撫でた手をそのまま下へ降ろして、左の頬にそっと触れた。赤みのさした頬は、ひどく懐かしいような暖かさと柔らかさを含んでいた。陶然として双眸を細めるリフ。
 彼の少女への興味は、もはや単なる好奇心ではなく、確実により深き処へと沈んでいっていた。しかし彼がそれに気づくことは、最後までなかった。
「だめ……だめなの」
 リフの手を振り払うように、少女は何度も首を横に振る。そうして今にも泣き出しそうに貌を歪めて、必死に訴えた。
「私と関わってはだめ。私だけは誰とも結びつきをもってはいけないの。お願い、今すぐ山を下りて。私のことは忘れて、村を出ていって」
 竿にいくつか衣を残したまま、少女は飛びつくほどの勢いで桶を抱えて、家へと駆け出していった。扉の奥に消えゆく後ろ影を、リフは憮然と眺め遣る。
 どうして彼女は、こうも頑なにひととの関わりを拒み続けるのだろう。そして彼は思った。
(白の烏とは、間違いなくあの子のことだ)
 祭壇、掟、そして白の烏。これら断片的な要素をひとつに繋げるものが何であるかはまだ解らない。だが少なくとも、その事実を彼が知ってしまえば間違いなく、聞かなければよかったと後悔するだろうことだけは――空に輝く星をその手で捉えんとするほど漠然としたものだが――感じ得ていた。同時に、それが彼にとって身の危険を及ぼすものであろうことも。
 竿に残された衣服が微風を受けてゆらゆらと翻る。近くで鶫が鳴きながら羽搏いて森の奥へと飛んでいく。その場で動かぬものは、ただ、青年のみであった。
 
(七)
 
 遠くの虫の音ばかりが耳を劈く静寂。吐息さえも音となって部屋中に響いてしまいそうで、呼吸を忍んでいるうちに胸が苦しくなってきた。眼前の机上には菜種の油が入った鉄皿が置いてある。その油を吸った灯心の先端には、黄金色の雫のような炎が灯っている。明かりは、机を挟んで向こう側に腰掛けるミシェルの貌と、その横に立つルシファの肩から下を仄かに照らしあげるのみ。奥の調度も、背後の壁も、真上の天井さえも空虚な闇が覆いつくし、灯心の儚い明かりが届くことはなかった。
 この場にいるのはリフとミシェル、ルシファの三人のみ。少女は隣の部屋で休んでいる。リフの心中を察したのか、その日に限って彼女はいつもより早めに部屋に引き籠ったのだ。
「話とは、何かね」
 ミシェルの口が動いた。寡黙な男の視線は、それ以上に何かを語りかけていた。リフは軽く唇を噛み、それからついに腹を据えて。
「白の烏」
 その言葉にミシェルは片方の眉をつり上げた。
「今朝、長老に云われました。『白の烏に近づくな』と」
 ルシファの前に組んだ手も戦慄きだした。明らかに動揺している。
「あの子のことなんですね」
 リフが念を押す。夫婦は何も応えなかったが、彼には奇妙なほどの確信があったので、否定さえしなければ問題はない。
「話してくれませんか。どうして彼女は村人から虐げられているのか。白の烏とは何なのか」
 灯心の炎が僅かに衰えた。ミシェルは首を横に向け顎をしゃくってルシファに油差しを取りに行かせる。
 それからリフに、低くくぐもった声で逆に訊き返した。
「そんなことを君が知って、どうしようというのだ」
「僕は彼女を救いたい」
 負けじと押しのきいた口調で、リフが。
「初めは……あの子の性格なのだと思っていました。けれど、ここでしばらく過ごしているうちにわかったんです。彼女が人と接することを避けるのは、あなたたちや村人が彼女を拒絶しているからだと。そして、彼女の中でなにか得体の知れないものが影を落としているせいだということが。あの子は今、自身に蠢くなにかに苦しんでいます。僕は彼女を苦しみから解放してやりたい。そのためには、事実を知る必要があるんです」
「知ったところで、君には何もできまい」
「なぜです」
「あの子が白の烏だからだ」
 押し問答のような応えにリフは苛立ったが、ここは堪えて次の言葉を待つことにした。
「私たちは山の精霊神に仕える一族。この山で暮らす限りは精霊の掟を守り、その教えに従うより仕方がないのだ」
 ミシェルは視線を背ける。話をはぐらかそうとしているのが解った。
「はっきり云ってください」
 リフはあくまで強気に押し通す。そうでもしないとこの男は容易に口を開いてくれない。
 ルシファが油差しを持って戻ってきた。鉄皿に少量の油を注いで、器を机に置く。灯心の先端で黄金色の輝きがひときわ増した。
「……私たちは見ての通り、すべてが黒髪だ。だが、ごくまれに色の抜け落ちたような白い髪をもつ子供が産まれてくることがある。精霊の掟はその子供のことをこう定めている」
 ミシェルは無表情だった。しかし、その声色は苦渋に充ちていた。
「『聖を髪に有するものを、十八の風霜を経し後に供物として我に捧げよ』と。それが白の烏の意味だ」
 リフの双眸に力がこもる。彼の口から発せられた言葉を、信じることができなかった。
「く、もつ……?」
「そうだ。あの子は精霊神への捧げものとして、生まれてきたのだ」
 捧げもの、それはつまり。
「生贄、ということですか」
「……そうだ」
「莫迦な!」
 気がつくとリフは机を叩き、椅子を倒して立ち上がっていた。机上の炎がミシェルの方へ大きく靡く。
「神が人間を贄とするなんて、それこそまさに邪神ではないのですか?」
「そうかも知れん。だが、どうして私たちに疑うことができようか」
 ミシェルは溜息のような深呼吸をした。剣幕を顕現させるリフに対し、自分を落ち着かせているのか。
「私たちはできるだけあの子との距離を隔てて育ててきた。だから名前もつけなかった。愛情を持ってしまえば、来るべき別れの時が辛くなるのはわかっていたからだ。この世に一切の未練を残させないことが、親としてしてやれる最善だったのだ」
 そう言うミシェルの隣で、ルシファが震えていた。精霊神に対する畏怖からか、それとも自分がしでかしたことへの悔恨からか。
「そんな掟など……」
 リフはどうしても納得できなかった。できるはずもなかった。これほどの理不尽があるだろうか。
 机上の拳を握りしめ、怨恨のごとき形相で睨むリフに対し、ミシェルは抑揚に乏しい声で諭す。
「よそ者の君にはわからないかも知れないが、私たちには掟がすべてなのだよ。我らが神に叛くことなど考えられない、考えてはいけないのだ。そう、たとえ邪神であろうとも……」
 
(八)
 
 長老の屋敷は、集落から山道を隔てた離れにあった。
 他の家に比べると材木の色も随分と黒味を帯びて、いくらか古い感じはしたが、決して見窄らしくはない。むしろ堅固たる造りと相俟って、どことなく荘厳な印象すら感じられる。三人の長老はこの中に住まい、生活を共にしているという。家族単位で家を構える村の中で唯一の例外が、この屋敷であった。
 リフは屋敷の扉の前に立った。白の烏の儀式が執り行われる『月満ちる日』まで残り三日。もはや一刻の猶予も許されないのだ。
 唾を呑み込み、それから扉を敲く。しばらく待っても応答がないので、もう一度敲こうと腕を上げかけたとき、ぎいぃと呻るような音を立てて扉が開かれ、中から骸骨のように痩せさらばえた老人が貌を出した。クラジー老だ。
「なんじゃ、なにか用かえ、こわっぱ」
 老人は先日に会ったときと変わらぬ、ふざけた口調で応対する。
「話があります」
 決然とした態度で臨むリフにクラジーは少し面食らったようだったが、すぐに扉を開け放って。
「まあ、とにかく入れ。案ずるな、取って喰やせんよ」
 リフは中へと入った。
 
 樫の大木を輪切りにした円卓に丸太を刳りぬいただけの椅子が三つ。それぞれシレント、クラジー、そしてリフが腰掛けた。
「リゴライ様はいらっしゃらないのですか」
 リフが訊くと、シレントはああ、と重たげな口を開いて。
「今は準備に出かけている。夕刻までは戻らないだろう」
 準備と聞いてリフは首肯した。あの竜胆の刈り取られた祭壇の場へ行っているのだろう、と。
「話とはなんだ」
 リゴライの不在に多少の不満は感じたが、話を向けられたので仕方なくリフは切り出した。
「白の烏の儀式を取りやめていただきたい」
 シレントは眉を顰め、クラジーはきょとんと目を丸くしていたが、やがて声高に嘲笑しだした。
「ひぇっひぇっひぇ、何を言い出すかと思いきや。ひゃっひゃっ」
 甚だ愉快という風に机を打つ老人に、リフは膝の上で拳を震わせた。今にもはじけそうな感情を必死に抑える。
「僕は真剣に言っているんです」
「だから余計におかしいんじゃよ。青二才めが」
「我らの掟のことは知っているはずだ」
 リフはそう云うシレントに向き合って。
「それについては何度も聞きました。精霊が定めた掟は絶対であることも」
「ならば、もはや話すことなどあるまい」
「あなた方は本当に精霊が掟を決めたと思っているのですか」
 感情の任せるままに口走ってしまい、後から後悔した。それは愚問であると気づいたのだ。
「あ……いや、白の烏についてです。山を守る精霊が本当に神であるなら、人間を贄とすることなどあるはずがない。そのようなことを望むのは、邪神のみです」
「邪神とな。儂らの精霊がか?」
 クラジー老は汚らしい薄笑いをやめない。
「まったくもっておかしなことを言い出す奴じゃ。山を守る神が正か邪かなどはこの際どうでもええ。ただ、掟に叛けば大いなる災厄が我らに降りかかる。大事なのはそれだけじゃて」
「災厄?」
 リフは驚いた。ミシェルからは、そんな話は聞いていなかった。
「悠久の昔、一度だけ掟に叛き、白の烏を捧げなかったことがあったという」
 シレントが語り始める。
「そのときの白の烏は長老の孫娘であったのだ。娘を捧げることを拒んだ長老は、代わりに牝鹿を供物とした。するとたちまち山が火を噴き、炎と岩の雨が村に降り注いだ。赤く煮えたぎる川が流れ、森は灼熱に包まれた。木々が、家が、多くの人間がその火に呑み込まれ、尽きていった。ついにはその長老と、白の烏であった娘が犠牲となったところで、山の怒りは鎮まったという」
 脅嚇めいた語り口に気圧され、黙って聞いてはいたが、リフには到底信じられる内容ではなかった。精霊神の存在とそれによる掟の正当性を主張するための作り話か、あるいは偶々たまたま火山の噴火と儀式が重なっただけのことか。この者らは何故に懐疑しようとせぬかと、リフは余計な苛立ちすら覚えた。閉鎖された空間の中では会得しうる知識は限られてくる。よってそこで暮らす人間も必然と一方の流れに与することを選択せざるを得ないのかも知れない。彼のように矛盾だらけの道理に悖逆はいぎゃくし、それに従うことがいかに愚かしいかを知る者は、ここでは皆無であった。
「……わかりました」
 そう云い切ってリフは立ち上がる。もはやこれ以上の話し合いは無駄だと判断したのだ。
「さっさと山を下りるがええ。所詮お前さんはよそ者じゃ。儂らとは相容れぬのじゃよ」
 立ち去るリフの背中にクラジー老が声を投げかけた。
「ええ、そうさせてもらいますよ」
 振り返り、怒ったように応えると、リフは早足で家を出ていった。
 
 西の空に日が落ちて、橙と紺のグラデーションを織りなす頃になっても、少女は洗い物から戻ってこなかった。リフは仄暗い森を抜けて、少女を捜しに川原へと行ってみることにした。
 山道を抜けると、少女は川岸に佇んでいた。洗い物の桶を足許に置いたまま、川向こうの森を、さらにその先を恍惚と見つめているようだ。夕の闇に映ずる黒衣は、まさしく烏の濡羽そのものであった。川面は夕日の残す光を惜しげにちらちらと燻らせている。
「こんなところで、どうしたんだい?」
 リフが背後に立って呼びかける。
「早く戻らないと、ルシファたちが心配しているよ」
 少女はこちらを振り向こうとはしない。ただ、おもむろに。
「お母さんたちが心配しているのは、私じゃないわ。……白の烏としての、私の体だけ」
 リフは眸を瞠って絶句した。慰みも、励ましも、どのような言葉も今の彼女を前にしては意味を為さないように思えた。彼はただ、低俗な彫刻のようにその場で立ちつくすことしかできなかった。
「当たり前よね。捧げものになるとわかっている子供を、可愛がることなんてできないもの」
 少女の声は穏やかではあったが、どこか微妙な陰翳を投げかけていた。彼女が見つめる先の森のような闇が、その内にも見え隠れしている気がしてならない。
「私も……わかっていた。必ずこの日は来るんだとあきらめていた。なのに……そう、あなたと会ってから、私はおかしくなった。前は、白の烏であることがこんなに苦しいだなんて思ったこともなかったのに」
 リフは不意に懐を弄り、真鍮の時計を取り出した。長針と短針は無表情にあるべき時を示し、秒針は冷たい軌跡を残しつつ小刻みに奔っている。
 そうして彼はつと思う。やはり、ひとはこの時計が指し示す時間の他に、自身に流れる『時間』をもっているのだ。しかし、少女にはそれが欠けていたのではないだろうか。白の烏として、この世に一切の執着を持たぬようにと、人との関わりを途絶されてきた彼女の『時間』は止まったままであった。ところが、彼との出逢いがそれを動かしてしまった。少女は自我の存在に悩み、苦しむようになる。それが『時間』の及ぼすおぞましき作用であるからだ。
 そう考えたとき、リフは強い自責の念に駆られた。彼がこの山に迷い込まなければ、少女は自らの存在を自覚し得ないまま、精霊の供物として捧げられていたことだろう。彼女の今の懊悩は、すべて彼に起因しているのだ。リフ自身も、都全体に流れる時間と自分に流れる『時間』の隔絶に倦み疲れ、それからの解放を求めて命を絶とうとした。故に、その懊悩がどれほどの辛苦を伴うものなのかはよく承知していたのだった。
 しかし、果たして本当に『時間』を止めたままの方がよかったのだろうか? 名前もつけられず、人の愛情も知らずに贄となることが彼女にとって幸福であったと言えるのか? 彼にとっては諸悪の根源にも劣らぬほど憎悪していた時間ではあるけれども、人がひととして生きるにはやはり必要なのかも知れないと、この少女を前にして思い始めていた。
 リフは少女の背後に歩み寄り、その背を包み込むようにしてそっと抱き留めた。そうして、右手に持った懐中時計を彼女の右手の中へ入れてしっかりと握らせる。
「これ……」
「君のものだ。持っていなさい」
 少女の耳許で、リフが囁く。彼女は他に何か言おうと口を開きかけたが、ふと噤み、首を下に傾けた。白銀の髪が揺れ、芳しい香りが広がる。リフは眸を細めた。
「……私、死ぬのが、怖いかもしれない……」
 川のせせらぎにすら掻き消されそうな声で、少女が云った。
「心配ない。僕が死なせやしない」
 リフは彼女の手首を握りしめて、敢然と云い放つ。
「ここから逃げ出そう」
 
(九)
 
 高く昇った月の光は木の葉の隙間から洩れ、落葉混じりの黒土に影を投じている。聞こえるのは寂々とした梟の鳴き声ばかり。風はなく、闇の森は奇妙に静まりかえっていた。
 その暗闇の中を、僅かな明かりを頼みにして、ふたつの影が駆けていく。木々の間を抜け、川原を越えて、静謐の森をかき乱しながらひた走る。家を抜け出し、最初のうちは慎重に歩いていたのが、気がつくとふたりとも走り出していた。軟らかい黒土の上に大小の足跡を点々と残し、胸が支えそうなほどに息を切らせて。一歩、また一歩と足を踏み出す度に村から遠ざかる。リフには後悔など微塵もなかった。山を下りることをあれだけ拒み続けてきた自分はもう忘れていた。ただ、少女を救いたい。その一心のみで彼は駆けた。
 少女も彼に曳かれるようにして走った。だが、次第にその足取りは覚束無くなる。そして唐突に走りを止めて、苦しそうに白い息を吐きながら歩き出し、リフがそれに気づいて振り返ると、ついに立ち止まって地面に膝を突いた。
「疲れたのかい?」
 リフが歩み寄り、心配そうに訊いた。少女は両手も黒土に埋めるように突いて項垂れ、肩で息をしている。
「ごめん、僕が焦って飛ばしすぎた。少し休もうか」
 屈んで少女の華奢な肩をつかむと、彼女は下に向けたままの首を思い切り横に振る。
「違う。違うのよ。疲れたんじゃない」
 激情にかられたように少女はそう云って、何度も首を振った。
「やっぱりだめ。私は逃げてはいけないの。白の烏として、精霊さまに捧げられなくてはいけないのよ」
「どうして」
 リフは肩をつかむ手に力を込め、彼女の身体を揺すった。少女はようやく貌を上げる。
「君はまだ精霊を信じているのか? 自分が喰い物にされようとしているというのに」
「違うのよ、リフ、そうじゃないの」
 髪を振り乱して訴える少女の眸は、月明かりに照らされ青白い光を湛えていた。
「私がいなくなったら、お父さんたちはきっと村人たちに責められるわ。もしかしたら、私の代わりに……捧げられてしまうかもしれない」
 リフは脱力して肩から手を放し、そこに座り込んだ。その間に少女も深々と息を吸って心を鎮め、黒土を握った手を解いた。片方の掌にはリフから貰った懐中時計が収まっている。
 リフは困惑していた。まさか彼女の口から親を気遣う言葉が出てこようとは。
「ミシェルとルシファは、君に一片の愛情も施すことはなかったのだろう? 十八年も育てながら、君を娘とは認めていなかったのだろう? それなのに……君はそれでも、ふたりを親と呼ぶのか」
 ミシェルたちの行為を咎めるつもりではなかった。この時のリフの想いは、たとえ彼らが、村人がどうなろうと、この眼前の少女だけは救いたいという純粋な――或いは憎むべきエゴイズムによる――ものに偏在していた。平生の推察と洞察に充ちた判断が全く機能しないほどにまで、彼の焦燥は膨らんでいたのだ。
「何を云ってるのよ」
 突然、少女が悲痛な声を張り上げた。
「私にこんな感情を植えつけたのは、あなたじゃないの」
 どくん、と胸の中で大きく心臓が跳ねた。リフは愕然と少女の貌を見つめる。少女は啜り泣きを始めていた。その嗚咽のひとつひとつが、彼の躯のうちに刻み込まれていくようだった。白の烏の事実を知って以来、うやむやとしていた脳裏の奥の何かが、嵐の後の青空のように払拭されたような気がした。だが、青空は時として眼に痛い。彼はそこで初めて、挫折を悟った。
 手で貌を覆って泣きしきる少女を前に、リフはどうすることもできなかった。もはや、どうすることも。
 少女を抱き寄せて、彼は空を振り仰いだ。枝葉の向こうからふたりを照らす月は真円に限りなく近い。あの青白い月が完全な円を描いたとき、この少女の魂は消え失せるのだ。……そう想ったとき、再びあの憎むべきエゴイズムが彼を支配した。どうせ死んでしまうのなら、と。それは人間のもつエゴイズムの中でも最も悍しく、最も凶暴なものであった。
 リフはそれに従い、命ぜられるままに躯を動かした。ふたりの身体が黒土の上に倒れ込む。固く握りしめた少女の手の中で、真鍮の時計は無碍なる時を刻み続けていた――。
 
(十)
 
 闇黒の中に黄金色の焔が次々と現れる。祭壇の周囲に巡らされた燭台すべてに明かりが灯された。
 細長い雲が切れ切れに流れる宵の空に浮かぶは真円の月。それに照らされて祭壇の下に集う村人たちの貌は、亡霊のごとき蒼白に染まっていた。
 リフはその会衆の最後尾にいた。非道の極みである儀式など見たくはなかったが、この時を迎えたからには見届けずにはいられなかった。少女と村へ戻ってからの三日間は、どこでどうしていたのか全く記憶になかった。廃人のように無為なる時を過ごし、そうしてこの日が来てしまった。けだしくもあの晩以来、彼の中に流れる『時間』は停止してしまったのかも知れない。
 この前まで鮮やかに竜胆が咲き誇っていた場所を、黒い頭が埋めつくしている。リフはその中にミシェルとルシファの姿を捜したが、見渡す限りでは解らなかった。祭壇の中央、直方形の石の手前には三人の長老の姿が見える。その傍らに控える男の手には、人の頭ほどもあろう木槌と、束になった六、七寸くらいの鉄の杭が握られていた。そこでリフはようやく、少女をいかにして捧げるかを理解して、眉を顰めた。
 やがて、リゴライ老が村人の前に進み出た。
「これより白の烏の儀式を始める」
 厳かに宣言すると、村人たちは頭を垂れる。と同時に、奥の階段から娘が一人、祭壇に上ってきた。月明かりに白銀の髪が氷のように輝く。少女だ。くだんの黒橡のローブではなく、純白の布を身体に巻いていた。
 少女は石台の前に立った。リフの位置からではその表情は見て取れない。ただ、一瞬だけ、その褐色の眸を擡げてこちらを向いたような気がした。
 少女が身につけていた布を自ら剥がし、床に落とした。露になった肢体を月の光は皎々と照らし上げる。それは哀しくも美しい、森の精だった。
 シレント老が布を拾い上げ、石台の上に広げて敷く。そうして、少女はそこに仰向けになった。木槌と杭を持った男がその前に立つ。
 リフの脚は痙攣を起こしたように震えていた。山の夜は吐く息が白い煙となるほど冷え込んでいたが、彼ひとりは額に玉のような汗を浮かせていた。儀式の中止を希う言葉が喉の奥から込み上げてくる。だが、彼ひとりが求めたところで何ができようか。少女の殊勝な決意に諦めていたはずなのに、この刹那にして再びどろどろした未練が湧き起こってくる。彼は堪えた。しかし、堪えきれなかった。壇上の男が少女の手首の上に杭を突き立てたとき、彼は腹の底から振り絞るように叫んだ。やめろ、と。
 そう、それはまさしくその声に呼応して起きたのだ。リフすらも、そのときばかりは精霊神の存在を信じざるを得なかった。
 無我夢中で叫んだ後、リフは眩暈がして蹌踉けた。だが、それは眩暈ではなかった。地面が、山が揺れているのだ。長老をはじめ、村人たちの間に動揺が奔る。
 程なくして北の森から紅に赫く火柱が噴き上がり、天を衝いた。そこから迸る焔の塊が驟雨となって祭壇と村人に降りかかる。たちまちそこは阿鼻叫喚の場と化した。悲鳴を上げて東西南の森へと逃げ惑う村人たち。逃げきれなかった者は紅蓮の雨に貫かれ、燃え盛る火炎に包まれて頽れる。先程までは人であったはずの、そこここに転がる焔の塊からは闇よりも濃い煙が立ち上り、肉の焦げる嫌な臭いが鼻をついた。茫然と立ちつくし有様を眺めていたリフは、その臭いで覚醒し、正気に返ったように眼を見開いた。
 そうして、無意識のうちに彼は駆けだしていた。ただ一念に、祭壇のもとへ。身体を沈め、跳躍し、時には地面に転がって空から迫り来る焔を躱していく。辺りに飛散する火の粉に服を焦がし、髪を燻らせ、肌を灼いても彼は構わず走り続けた。
 祭壇の手前まで辿り着くと壇上に跳び乗る。それから石台の前に立つと、そこに敷かれた白い布を怯える少女に羽織らせた。
「さあ、急いでここを離れよう」
 リフが身体を起こすと、少女は何も云わずに彼の胸に貌を埋めた。リフも腕を伸ばして彼女の頭を抱いた。北の森を焼き尽くす業火は、ふたつの躯を生命の脈動そのままに映し出した。
「我らが精霊よ、何故に、何故にお怒りなされるのか!」
 祭壇の隅では、三人の長老が北の森に向かってしきりに嘆訴していた。
「我らは掟に従い、白の烏を貴方に捧げ給うた。それなのに、何故……」
 そこまで云ったとき、リゴライはひとつの可能性に感づいた。
「まさか……」
 徐に、老人らはリフと少女を振り返る。貌を歪め、引き攣らせるその表情は瞋怒しんどか、もしくは恐怖のためか。
「まさか、お前たちが……」
 轟音が言葉を遮る。地面に亀裂が奔り、祭壇は長老の足許で真っ二つに引き裂かれた。そしてすぐに、地面の割れ目から焔の奔流が噴き上がった。咄嗟にリフは少女を抱えたまま祭壇の下へと滑り込む。木造の祭壇は砕かれ、炭と化して、石台は奔流に呑み込まれた。すぐ横で伏せて身を固めていたリフが恐々と振り返ると、いきなり彼の傍らに何かがどさりと落ちてきた。黒焦げの塊でしかないそれが長老の誰かであったのかは、もはや知る術もない。乱舞する赤に覆いつくす黒。哄笑する炎に嘲笑する闇。破壊と死とが絡み合い、縺れてそこら中に潰散したような、凄まじい光景だった。
 そこでリフの記憶は再び閉ざされた。ただ、少女を連れてがむしゃらに森を駆け抜けていったことだけは――三日前の晩の記憶と混同しているのかも知れないが――脳裏の隅の断片に残っていた。それが、彼におけるその晩の出来事の、全てであった。
 
 その後のリフと少女の行方は定かではない。風の噂で、山の麓の森にそれらしき男女が倒れているのを見たという旅人の話があったが、それも所詮は噂である。
 ちなみに、その旅人の話というのは次のような内容であった。
 長い間逗留していた都を離れ、山麓に広がる森に沿って歩いていたところ、森の奥にあらぬ影を見て、興味本位でそこへと近づいていった。すると、落ち葉の降り積もる地面に若い男と少女が折り重なるようにして倒れていた。男は金髪に汚れてはいるが身なりの良い服装で、少女は透き通るような白銀の髪で、驚いたことに縦横一尋ほどの白い布きれを纏っているのみであった。そして、ふたりとも身体の至る所にひどい火傷を負っていた。男の背中に触れたままの少女の手の中には、反り返るように拉げた懐中時計が握られていたという。

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