一 森と妖精
 気がつくと、暗いトンネルの中を歩いていた。
 どこをどうやってここまで来たのか、まるで記憶にない。ここ二、三日ずっと三時間睡眠を続けていたせいで、寝惚けてしまったのだろうか。
 ふと気になって、時計を確かめた。二時十四分。まだ時間はある。しばらく立ち止まって考えたが、トンネルならば出口はあるだろうと踏んで、そのまま先に進むことにした。
 五分ほど歩き続けたが、なかなか出口は見えない。不必要に長いトンネル。周囲もろくに見えないし、誰かが通る様子もない。どうしてこんな意味のなさそうなものがひたすら続くのだろう。
 さらに五分ほど歩いて、ようやくトンネルを抜けた。薄闇の中、目の前に浮かび上がったのは、無雑作に連なった太い幹。森だった。トンネルの出口から、木々を縫うようにして細い路が続いている。路があるということは通ってもいいということだろう。用心しいしい、森の中へと足を踏み入れる。
 ――何か変だ。僕は漠然とそう感じた。トンネルを出たあたりから、胸の奥の方に微かな痼りのようなものが生じている。痛みとは違うし、嫌な感じではないのだが、少し気になった。
 やがて、少し開けた場所に出る。木々で囲まれた、ちょっとした広場みたいな所だ。中心には『もののけ姫』に出てくるような大樹が屹立していた。太い根が地面から張りだし、力強く幹を持ち上げている。
 しばらく所在なげに辺りをうろついていると、大樹のさらに向こうから、蛍のような光がこちらに向かってきているのが見えた。ゆらゆらと宙を舞いながら、橙色の光を放っている。
 光は数歩手前まで来ると瞬時にかき消えて、かわりに何かが姿を現した。
「じゃーん」
 それは小さな、昆虫のような羽のついた女の子だった。掌に載るほどの大きさで、眼前をふわふわと漂っている。
「ちわ」
「あ……どうも」
 面食らいつつも、とりあえず返事をした。すると彼女も笑顔を返して。
「森の病院にようこそ」
「森の、病院?」
「今日のご用はなんかな?」
 意味不明な言動に困惑しつつも、僕は説明する。
「僕はただ、迷ってここに来ただけなんだけど」
「へぇ〜」
 彼女は顔を覗きこむようにして、じろじろ見つめてくる。
「ま、いいや。あっちでいろいろ話しない?」
 そう言うと、こちらの了承を待たずに大樹の方へ飛んでいく。仕方ないのでついて行くことにした。
 案内されたのは、大樹の裏側。切株の椅子が十かそこら、雑然と置かれている。
「ここが待合室。適当に座ってよ」
「待合室?」
 訊いてから、彼女の言葉を思い出した。病院だというのだから、待合室くらいはあるだろう。
「それじゃあ、診察室は?」
 彼女は大樹の根元を指さした。そこには小さなうろがあった。二股に分かれた根がアーチのようになって、地面の下へと続いている。
「中はどうなってるの?」
「さあ? わたしも入ったことないから。入れるのは動物さんだけね」
 彼女の返答はいちいち釈然としないものだった。仕方ないので質問のベクトルを変えてみる。
「君はずっとここにいるの?」
「ん。たまには外に出るけど、たいていはここでまったりしてるね」
「ひとりで?」
「時々は知り合いが訪ねてくるんだよ。何日の何時に集まれー、みたいなこともやってるし」
「その人たちとパーティ組んでるの?」
「パーティ?」
 彼女は不思議そうに聞き返した。
「だって、これ一応ゲームなんだし。チャットだけじゃなくて、そういうこともしてるのかなって」
「あー、そうだっけね」
 今思い出したというふうに言うと。
「ゲームとかはしてないよ。話してるだけ」
 大儀そうに、そう答えた。
 ――チャットだけなら他のサイトでやればいいのに。そう思ったが、あえて言わないでおいた。
「よかったらキミも参加してみない? あさっての九時から空いてる?」
「別に暇だけど」
「だったらよかった。一度来てみてよ。これあげるから」
 そう言って渡されたのは、掌大ほどの青い玉。どこかで見たようなアイテムだが、名前が思い出せない。
「『テレポートなんたら』ってやつ。これがあればいつでもここに来られるから」
「でも、いきなり僕なんか来て、話が合うかな」
「へーきへーき。みんな歳も趣味もばらばらだから。好きなことだべってりゃいいだけ」
 言ってから、彼女は大きく欠伸をした。
「もう遅いね。そろそろ別れよっか」
「あ、本当だ」
 時計を見ると、既に四時近くになっていた。
「それじゃ、またね。向こうのトンネルを通れば出られるから」
 彼女は再び光へと姿を変え、森の奥へと飛び去っていった。
 来た道を引き返している途中で、ひとつ気づいた。
 ――そうえば、名前を聞いてなかったな。
 知らないグループのチャットに参加するのは正直遠慮したいけど、あの子のことはなんとなく気になった。
 どうしてこんな僻地にいるのか。ここで何をしているのか。
 それを聞くためなら――行ってもいいかも。
 トンネルを歩きつつそんなことを考えていると、前方に朝焼けの空が見えてきた。トンネルの出口だった。そんなに時間が経ったのかと思って確認したが、まだ五分しか経っていない。さっきはトンネルを抜けるだけでゆうに十分はかかったはずだ。
 もしかしてトンネルを間違えたのか? 訝しげに外に出ると、そこには見覚えのあるフィールドが広がっていた。寝惚ける前に歩いていた場所だ。
 ふと背後を振り返ると、そこは切り立った崖になっていた。通ったはずのトンネルは、どこにも見あたらない。
 ……これは一体何の冗談だ。それともただのバグなのか?
 アイテムを確認すると、そこにはちゃんと『テレポートなんたら』がストックされていた。
 
 
二 ネットウォッチングと不思議な話
 『Wolves Fang』というネットゲームがある。参加しているプレイヤー同士でコミュニケーションを取り、気が向いたらパーティを組んでイベントに挑み、クリアしていくという、よくあるタイプのRPGだ。現在稼働しているオンラインRPGの中でも、ひときわ人気は高い。
 このゲームの画期的なところは、キャラクターを細部まで操作できる点だろう。これまでのゲームみたいに無表情でバトル以外は棒立ち状態の木偶の坊というのではなく、普段の会話やコミュニケーションでも複雑な動作ができるようになっている。首を振ったり肩を竦めたりといった所作から、笑ったり怒ったりというような顔の表情まで自在に表現することができる。もちろんグラフィックの質は本物の人間とは隔たりがあるのだが、それを差し引いてもキャラ操作は完成度が高い。ともすると、画面上のキャラと自分が同調しているように錯覚することさえある。所詮はただの錯覚なのだけれども。
 ゲームとしては複雑ではなく、むしろオーソドックスな方だろう。装備を調え、敵と戦ってレベルを上げ、時には他のプレイヤーとパーティを組む。コミュニケーション関連の操作がずば抜けて優秀なので、単に相手とおしゃべりする「チャット」として使っているプレイヤーも多いようだ。
 僕はそこに「エディ」という名前で参加している。本名にちなんだハンドルだが、ここでは関係ないので省略する。種族は人間《ヒューマン》、職業は僧侶《プリースト》。パーティを組む際には回復魔法を使えるキャラがいた方が便利なので、プリーストは比較的重宝される。バトルの際に少し退屈な思いはするものの、パーティ編成時にどの職業よりも有利なのはおいしい。
 この話は全てこのゲームの中で起こる。だから今後、僕の操作する「エディ」のことも「僕」と表記することにする。ただし、これは「エディ」が「僕」であることを認めたわけではない。キャラはプレイヤーの分身などではなく、プレイヤーの代わりにゲーム上で動いているだけの傀儡に過ぎない。ましてやキャラそのものがプレイヤー自身になれるはずもない。「僕」と書くのは、あくまで便宜上の措置ということだけだ。
 
 二日後の八時五十分、僕はいつものようにゲームを立ち上げ、ログインした。拠点としている街を抜けて、フィールドに出る。
 さて。
 少し迷ったが、結局は例のアイテムを使うことにした。そもそもこれが、本当にあの場所に連れて行ってくれるのかも定かでない。一度は試してみる必要はあるだろう。使えなかったら捨てるまでだ。
 ……よし。
 僕は『テレポートなんたら』を取りだし、天に掲げた。玉から強い光が放たれ、ひといきに周囲へと拡散した。眩しさに目を細める。光は数秒で急に治まったが、周囲の光景は一変していた。
 森に囲まれた広場。その中心にある大樹の幹が、夜空に向かってどこまでも続いていた。
 とりあえず、彼女の言った通りここに来ることができた。この場所に関しては、相変わらず分からないことが多いが。
 大樹の裏手に回って「待合室」の方へと行くと、そこには既に数人の人影があった。
「お?」
 切株の椅子に座って話をしていた一人が、こちらに気づいた。その場にいる全員の視線が僕へと注がれる。
「珍しいね。新入りさんか」
「こんばんはー」
「君も、なゆりさんに誘われたの?」
 なゆり? 聞き覚えのない名前を頭の中で反芻して、はっと気づく。
「なゆりさんって、あの妖精《フェアリー》の子のこと?」
「そうだよ。あ、僕は『夢幻』ね。よろしく」
 騎士《ナイト》の男が言った。
「私はメグ。あなたは?」
 その隣にはエルフの女の子がいた。彼女に訊ねられて、慌てて答える。
「あ、エディです。よろしく」
「君、プリーストやってんの?」
 横から割り込んできたのは、盗賊《シーフ》の男。
「そうだけど?」
「いいねぇ。パーティ組みやすいっしょ。俺も次はプリーストにしようかな」
 馴れ馴れしい言葉遣いで話しかけてくる彼を、背後からホビットの少年が諫める。
「ディルさん、初対面なんだから、もっとかしこまったらどう?」
「うるさいな。チビは黙ってなさいw」
 ディルと呼ばれたシーフは、ホビットの頭をポンポンと叩いてふざける。
「まったくもう……あ、ボクはメリーといいます」
「メリー?」
「そう。ホビットのメリー。覚えやすいでしょ」
 覚えやすいも何も、あの映画そのままじゃないか。まあ、フロドやサムとしなかっただけ謙虚だと思うべきか。
「それで、その、なゆりさんは?」
「ぼちぼち来ると思うよ。あの子いつも遅いから」
「主催者なのにねぇ」
 そう言うと、夢幻とメグは笑った。妙に息の合っている二人だ。
「あ、ホラ、来たみたいですよ」
 メリーが指さす先に、蛍のような光があった。大樹の枝の間を縫って、こちらへと降りてくる。
「お待たせー」
 光は僕たちの前で妖精の姿になった。
「遅れてゴメンね。道が混んでてさ」
「どこの道だよw」
「妖精の通る道にも渋滞があるんだよ。きっと。たぶん」
「群れで飛んでたりするんですかね。でもそれってイナゴの大群……」
「誰がイナゴだ。こ の バ カ チ ン」
 常連同士で何やら会話が始まって、ひとりその輪から外れてしまった。こうなると新参者は肩身が狭い。
「あ、そうそう」
 と、妖精が僕の隣に移動して、夢幻たちに言った。
「みんなに紹介するね。えっと……」
「エディだよ。もう紹介は済んでるし」
「あ、そうなの?」
「うん。なゆりさんが来る前に」
 メグが言うと、彼女は拗ねたような顔をする。それから僕に向き直って。
「ま、それならいいか。わたしは『なゆり』ね。改めてよろしく」
「よろしく」
 顔の前でぺこりとお辞儀をされたので、こちらもぶつからない程度に一礼する。
「それじゃ、今夜もはりきって参りましょかー」
「お、もう始めるのか」
「何を?」
 僕が訊ねると、夢幻が答えた。
「なゆりさんの『ネットウォッチング・レポート』ね」
 ネットウォッチング? 首を傾げている僕に、彼女が説明する。
「ええと、このコーナーはわたしがネットで見てきた『出来事』を一方的に語っちゃったりします」
「これがなかなか面白いんだよ。なゆりさんのネットウォッチはかなり年季入ってるから」
「はぁ……」
 説明されてもいまいち要領を得ない。まあ、とりあえず話を聞いているだけでいいらしい。それなら問題はなさそうだ。むしろ常連たちの話に合わせる必要がないので、その方が楽かもしれない。
「で、今夜の話はなんですか?」
「ん。それでわ……」
 
「これは、とある女の子の不思議な話。
 彼女は日本のどこかの小さな村で生まれた。都会から隔絶された、山奥のさらに奥地にある本当に小さな村だった。村人たちはそこで畑を耕したり米を作ったりして、ひっそりと暮らしている。ある意味魅力的なスローライフだ。都会の人間にとっちゃ、ね。
 その村には独自の因習があった。いわゆる民間信仰ってやつね。長ったらしい名前の神様を祀って、昔からのしきたりなんかも未だに残っていたりした。
 その「しきたり」のひとつに、斎宮があった。「斎宮」ってのは要するに、神に仕える巫女さんだね。本来は違う意味なんだけど、村ではそう呼んでいた。その村は必ずひとり斎宮を立てて、祭祀を任せていた。
 女の子には、姉がいた。お姉さんは幼い頃から斎宮としての英才教育を受けていた。そのせいか、彼女はどことなく神秘的な雰囲気があった。「神がかり」めいたものの片鱗もときどき見せたりした。予言とか大がかりなことはさすがに無理だけど、「誰々と会う」と言ったらすぐにその人が訪ねてきたりするようなことは、当たり前のように起きていた。
 時は流れ、前の斎宮が亡くなると、お姉さんが新たな斎宮となった。
 彼女は妹にたびたびこう言ってきた「自由に生きなさい」と。それは自由に生きられない自分の分まで生きてほしいという、ささやかな姉の願いだったのかもしれない。妹はその言葉通り、自由に生きた。普通の女の子と同じように学校に通い、彼氏も作った。すべてはスムーズに、流れのままに事が進んでいた。
 ……ところが。
 ある日、お姉さんが事故で命を落とした。
 村はたちまち大騒ぎとなった。斎宮は神様とコンタクトの取れる唯一の存在だ。それが不在ということは、信ずるべき神様を見失ってしまったも同然。ただちに次の斎宮を立てなければどんな凶事が起きるかわかったもんじゃない。けれど、村に住んでるのは年寄りばかりで、斎宮になれそうな年頃の女の子などいるはずもなかった。ただひとりを除いては。
 そう、そこでお鉢が回ってきたのが、妹だった。でも彼女には問題があった。彼氏がいたこと――つまり、「穢れた」状態だった。斎宮にするためには、ただちにこれを浄め祓う必要があった。
 もちろん彼女は拒否した。斎宮になってしまえば一切の行動は制限される。これまで自由に生きてきた彼女にとって、一生をこの陰気な村で過ごすなんてことは考えられなかった。それに、穢れを祓うためにする儀式はとても恐ろしいものだと、人づてに聞いていたこともあった。
 けれど、村人にしてみれば、そんなのはただのワガママでしかなかった。一刻も早く斎宮を立てたい村人たちは、彼女の意見などろくに聞かずに、村から出られないよう家に閉じ込めた」
 
「なんか、どこかで聞いたような話だなw」
 ディルが言った。
「ちょっと、話の途中で茶々入れないでくださいよ」
 メリーの言葉にも、彼はへらへら笑ってるだけだった。
「まあ、確かに小説やドラマでありそうな話ではあるね」
「『トリック』とか? あるいは金田一か」
「金田一はじっちゃんの方? それとも孫?」
「両方でしょ」
「ま、ホントの話か作り話かは、わたしもわかんないけどね」
 雑談の輪に、彼女も加わってきた。
「んなこと、どーでもいいじゃない。ネットに書いてあることがホントかどうかなんて、詮索するだけ野暮ってもんよ」
「何気に問題発言じゃないか、それ?」
「そーお? そりゃ新聞とか会社のサイトだったら問題だけど、個人のサイトで作り話したって、基本的には人畜無害だし」
 しれっとした顔で、答える。
「だいいち真実かどうかなんて確かめようがないじゃない。ホントだろうが嘘だろうが、面白いものは面白い、つまらんものはつまらん。それだけのこと」
 姿は可愛い妖精なのに、その口調はやたらときつい。もちろん本当の話主は妖精の姿などではないと、わかってはいるが――。
「それで、話の続きは?」
「あ、ほいほい。えっと……」
 
「一度は村に軟禁された彼女だったけど、隙を見てうまく逃げ出すことができた。村を出て、知り合いに事情を話してしばらく泊めてもらうことになった。
 けど、すぐに村から追っ手がやってきた。そいつらは彼女の居場所を探り当てて、押しかけてきた。その場は間一髪で逃げることができたけど、いつまた見つかって、追いかけてくるかわかったもんじゃない。捕まれば間違いなく、村に戻って強引に儀式を受けさせられる。頼れるひともいない。寝る場所もない。彼女はもう、どうしたらいいかわからなかった。
 街の小さな喫茶店で、彼女は途方に暮れた。閉店になっても帰らない彼女を見て、喫茶店のおばちゃんが話しかけてきた。泣きながら帰るところがないと言うと、おばちゃんは詳しい事情も聞かずに泊めてくれた。
 それから数日は店の手伝いをしながら暮らした。けど、いつまでもおばちゃんの世話になっているわけにはいかない。再び知り合いに連絡を取って相談すると、他の第三者にアドバイスをもらってみたらどうかと提案してきた。
 けれど、そんなアドバイスをしてくれるひとがどこにいるだろう? 警察に話せば間違いなく親元に引き渡される。他の友達も、これ以上巻き込みたくなかった。周囲に迷惑をかけずに相談できる。そんな場所があればいいのだけど……。
 ――それが、ひとつだけ、あった。
 彼女はネットの掲示板に書き込むことにした。ここなら匿名でやりとりできるから、誰が誰なのか特定されることはない。場所や名前はできるだけ伏せつつ、詳しい事情を説明してアドバイスを求めた。
 すぐに反応が来た。親身に彼女を気遣うひと、ネタだろうと突き放すひと、民俗学的に分析をするひとなど、いろんなひとたちがいろんな見解を述べて、数時間もしないうちにたくさんのレスがついた。彼女もできる限り質問に答えた。いっそのこと村と縁を切ったらどうかと訊かれたけど、それは親との関係もあって無理だと返した。彼女としては、少なくとも両親と断絶することだけは、なんとしても避けたかった。
 それなら、やっぱり村側と冷静に話し合って解決していくしかないだろう。様々な意見が飛び交ったけど、結局はその線で落ち着いた。なんだかんだ言っても、議論して得られるのはいつも凡庸な結論なんだ。
 そんな折、両親が彼女にコンタクトを取ってきた。話し合いがしたいから村に戻って来てくれ、と。
 そのことが掲示板に書かれると、みんないっせいに反対した。いま村に戻ったりしたら、何されるかわかったもんじゃない。話し合いをするなら向こうから来てもらうか、どこか中立の場所で待ち合わせるべきだ。それに、ひとりで臨むのは危険だから、誰か頼れるひとにも同行してもらった方がいい。みんなの意見に、彼女も同意した。両親とは駅で待ち合わせ、近くのファミレスで話し合うことにして、さらに度々世話になっている知り合いにも協力してもらうことにした。
 駅には両親の他にも、村の代表として中年の男が来た。四人で店に入り、あらかじめ店に入っていた知り合いの隣のテーブルについた。何かあれば、合図ひとつで飛び出す算段になっている。
 話し合いは二時間ほど続いた。母親はその間ひたすら泣きっぱなしで、話はほとんど父親がした。斎宮のいない村は大変なことになっているという。作物が枯れ、地蔵の首がもげ、道に潰れた蛙の死骸が大量に横たわっていたこともあった。村人たちの意見も、無理にでも連れ戻して儀式を受けさせるべきだというひとと、別の斎宮を立てた方がいいというひとと、真っ二つに分かれている。別の斎宮の候補としては、今は村と離れたところに暮らしている遠縁の女の子がいる。――父親は村の状況をくぐもった声で語った。
 我々としては、無理に連れ戻す気はないとも言った。ただし、村にはまだ彼女にこだわっているグループがあって、不穏な動きを見せている。いつまた強行手段に出るかもわからないので気をつけた方がいい。両親に同行してきた男は、不気味にそう忠告した。
 彼女の方も自分の立場と意見を主張して、その日の話し合いは何事もなく終わった。なんだかんだあったけれど、とりあえず最悪の状況は脱したようだった」
 
「それで終わり?」
 メグが訊くと、妖精はこくりと頷いた。
「この話の情報源は、話にも出てきた掲示板だからね。書き込みが止まっちゃえば、それでおしまい」
「なんだか消化不良ですね。その女の子は無事に村人たちと仲直りできたんだろうか」
「まあ、書き込みがないってことは、相談するようなことも起きなくなったってことなんだろうね」
「便りがないのはなんとやら、か」
「でも、また村に閉じ込められて、連絡のできない状況になっていることも考えられるな。もしかしたら、とっくに斎宮に収まっていたりするかも……」
「そのオチ怖いよ。心配になってくるじゃない」
「村の場所とか全くわからないから、確かめようがないしね。そもそも作り話だっていう可能性だってあるし」
 僕らはどうにも腑に落ちない気分になった。結末のないストーリーなんて聞かせられれば、誰だって困惑する。どうせ真偽のはっきりしない話なら、いっそ自分で結末をでっち上げてくれたほうが、まだすっきりするのに。
「わははは。皆の衆、そう深刻になるでない」
 切株の端に座って見物していた彼女が言った。手にはいつの間にか木の葉が握られていて、女王様よろしく団扇がわりにぱたぱたと扇いでいる。
「あんたが中途半端な話をするからだろw」
「なにをー。この次世代ストーリーテラーに向かって。これからのお話はヤマ無し・オチ無し・意味なしの、『やおい』の時代なんだよ」
「『やおい』って……誤用もいいところだね。そもそも意味わからないし……」
 ため息をつく夢幻に、彼女は勝ち誇ったように高笑いした。
「それじゃ、わたしはこのへんで」
「あれ、もう落ちるの?」
「うん。長い話すると疲れちゃうんだよね」
 彼女はふわりと飛び上がって、僕らを見下ろした。
「それじゃまた。エディ君もまた暇なときに来てね。大抵はここにいるから」
「あ……うん」
 僕の返事を聞くが早いか、彼女は光になって森の中へと去っていった。
「いつもこんな感じなの?」
 彼女を見送ってから、皆に訊いてみた。
「まあ、大体そうだね」
 夢幻が答える。
「傍目には妙な集まりだと思うでしょ? 実際その通りなんだけど」
「ボクたちも不思議とここに足が向くんですよね。この森にしても彼女にしても、どこか風変わりで、気になってしまって」
「まぁ、暇つぶしにはなるし」
「ここにいると、なんだか落ち着くのよね。こういうのも一種の魅力なのかしら」
 彼らの言っていることは、僕にも漠然と実感できた。僕自身も、この場所と彼女に違和感のようなものを覚えていたからだ。そして同時に、奇妙な安心感も。
「キリがいいから、僕らもこの辺でお開きにしようか。もう十二時だし」
 時刻を確かめると、確かに十二時を回っていた。三時間もここでチャットしていたのか。
「では、お先に失礼します」
「俺も落ちー」
 メリーは西の小径を、ディルは東の森へと歩いていった。
「今度、都合のいい日にパーティ組もうよ。メッセ入れるから」
「あ、うん。わかった」
 返事をする僕に手を振ると、夢幻はメグと共に北の道を通って広場を去った。
 ――それぞれ帰り道が違うのは、どういうことなんだろう。
 僕は切株の椅子に腰掛けて、改めて広場を見渡してみた。
 人気のなくなった夜の広場は、静謐な空気に満ちていた。木々は風によって脈打つように揺さぶられ、小波のような音を立てる。それはまるで、中心に鎮座した大樹を讃える合唱団のようだった。
 大樹の根元に視線を移すと、そこには例のうろがあった。彼女はこれを「動物の診察室」だと言った。けれど、僕はここに来て一度も動物を見ていない。
 この森はいったい何なのか。彼女の言う通り「病院」なのかどうか。まずはそこから調べてみる必要がありそうだ。どうせゲーム自体には飽きかけていたところだ。この不思議な場所のことを探索するのも悪くない。
 とりあえず、次は昼間に来てみるか。僕は立ち上がり、そんなことを考えながら広場を後にした。
 
 
三 サイト管理者の矜持
 数日後、夢幻から誘いが来た。そうして一週間ほど彼らのパーティでイベントをこなすことになった。イベントは大して難しくなかったが、それなりには楽しめた。何より、彼らと親しくなって話をする機会が増えた。
 夢幻とメグは、ゲーム上ではいつも一緒に行動している。二人は夢幻の運営するサイトで知り合い、オフでは一度も会ったことがないという。
「住んでるのが近場なら良かったんだけどね。僕が福岡で彼女が仙台だから、そう簡単に会うこともできない」
 夢幻はネット上では「それなりに」有名な人物らしい。彼の運営するサイトには、アニメやゲームなどの情報が事細かに掲載されている。アクセスを記録するカウンタは二千万を軽く超えていた。その手の情報サイトとしては、かなり大きい方だろう。
「毎日情報を集めたりするのって、大変じゃない?」
 僕の疑問に、夢幻は肩を竦めた。
「まあ、大変じゃないことはないんだけど。さすがに六年以上もやってると、もうほとんど日課みたいなものだから。そんなに無理して続けている訳じゃない。結局は自分の趣味だし」
「にしたって、よくやるよね。私もちょっとだけホームページ作ったことあるんだけど、面倒になって一年でやめちゃった」
 メグが言う。
「それが普通の感覚だと思うよ。何かの調査で、サイトをやってる人の半数以上が『やめたい』と思ってるっていう記事があったな」
 確かに、サイトを立ち上げたはいいけどそのあと更新が続かなくなって自然消滅していくというパターンは、そこかしこで見かける。個人サイトなのだから、更新しないのも閉鎖するのも管理者の勝手ではあるのだけど、ろくに盛り上げようともしないでさっさと閉じてしまうようなサイトを見ると、何がしたかったんだと問いただしたい気にもなる。
「僕も長いことネットやってるけど、昔のサイト仲間はみんなやめてしまったからね」
「仲間?」
 僕は訊き返した。
「同じジャンルの管理者同士で、グループみたいなのがあったんだよ。今ももちろんあるけど、昔の方が結びつきは強かったような気がするね。毎日みんなのサイトを巡回して、掲示板に書き込んで、ときどきオフで会ったりもした。あの頃はネットでの活動が自分の全てだった」
 目を細めて、夢幻は語った。
「けど、そのうちサイトを閉じる人が出てきた。何の前触れもなく突然やめてしまったり、ずっと更新ないなと思っていたらいつの間にかページが消えていたりと、その『最期』は様々だったけど。遺書まがいの文章をトップページに残して閉鎖したサイトもあったな」
「えーっ。それでどうなったの、その人?」
「結局何にもなかったって、風の噂で聞いたよ」
「なんだ」
 夢幻の言葉に、メグはあからさまにつまらなさそうな顔をした。不謹慎ではあるけれど、彼女の気持ちもわかる。所詮は他人事なのだ。
「そうして周りの人たちは次々とやめていってしまって、気づけば僕一人になっていた。おかげでアクセスは独り占め状態だけど、これはこれで寂しいもんだよ。なんだか世界の果てにひとり取り残されたような気分になる」
「でも、今もグループみたいなのはあるんでしょ?」
「もちろんあるけど、昔ほど馴染めないのが本音かな。やっぱりネットにもジェネレーションギャップはあるよ。ウィンドウズ95でのお祭り騒ぎを知らない人たちにニフティのフォーラムの話をしても、通じるわけがない」
「僕だってわからないよ、それは」
「私も」
 夢幻は苦笑した。
「まあ、年寄りくさいのは承知の上とはいえ、あんまり昔に比べてどうこう言うのは良くないね。周囲にもウザがられるし」
「確かにウザいかも」
「うん、ウザい」
 再三僕らに責め立てられて、彼はあえなく項垂れた。
「そういや、エディさんはサイト持ってないの?」
 持ってない、と僕は答えた。
「そうか。別に無理してやることじゃないけど、一度は作ってみるのも面白いものだよ。サイト管理者ならではの楽しみとか苦労も経験できるし」
「苦労は大体想像つくけど、楽しみってのは何があるんだろう?」
 僕が訊くと、彼は少し考えて。
「やっぱり見てくれた人からの反応かな。『面白かった』とか『役に立った』とか、ちょっとしたことでもコメントをくれれば、それだけで嬉しいものだよ。ただ、サイトが大きくなって更新に忙しくなったりすると、それが逆に鬱陶しくなることもあるけど」
「それは大きなサイトを持ってるあなたの本音かな?」
 メグが言うと夢幻は目配せしながら、ノーコメント、と返す。
「それじゃ夢幻さんは、今はあんまり楽しくない?」
「うーん。そう言われれば、昔ほど楽しくなくなってる気はするね」
 大きなサイトを持っている人間が何を考えているのか、僕は少し興味があった。
「やめようと思ったことは?」
「今のところは、ないね」
「楽しくなくても続けられる理由ってのは何だろう。やっぱり日課だから?」
 彼は再び、じっと考え込む。
「それもあるけど……。まあ、一言で言えば『矜持』かな」
「矜持?」
「このジャンルの第一人者であるという自負。まだネットがオタクのものだった時期から、ネットを見続けてきたという自負。やっぱり積み重ねてきたものがあるのは強いよ。それはオフラインでもネット上でも変わらないんじゃないかな」
 飄々と言ってのける彼を見ながら、僕は唸った。侮れない人だ、と。
 特に変わった発言をするわけでもない。昔話になると必要以上に饒舌になったりもする。それでも、なぜだか不思議と惹きつけられてしまう。それが彼の生来の魅力なのか、それともサイトをここまで育て上げた自信からきているのかは、最後までわからなかったが。
 
 
四 森の病院、会話しない日
 その日は昼過ぎからログインした。街でいくつか所用を済ませてから、フィールドに出る。
 普段は夜にしかログインしない僕がわざわざ昼間に入ったのは、もちろん例の森に行くためだ。本当にあの場所が病院なのかどうか、一度確かめてみる必要があった。今日のところは夢幻との約束もないから、じっくり調べることができる。
 フィールドに立った僕は、『テレポートなんたら』を取り出して使った。周囲が光のもとにかき消え、やがて別の風景が生じた。全ての処理が完了したとき、僕は森の中に立っていた。
 僕は目を見張った。以前に訪れた同じ場所とは、とても思えなかった。薄闇に紛れる黒い影に過ぎなかった木々は、今や頭上に翡翠色の葉を枝いっぱいに湛え、暢達に生命力を漲らせている。広場には大樹の天蓋からこぼれ落ちた陽射しが、光と陰の斑模様を描いている。何もかもが瑞々しく、そしてほのかに輝いていた。
 広場を横切って、大樹の裏側へと回ってみる。そこには先客がいた。
 動物たちだった。切株にちょこんと腰掛けている小熊。その辺に生えている草を一心不乱に食んでいるウサギ。鹿の親子は仲睦まじく頬を寄せ合い、老フクロウは大樹の枝に留まってうたた寝をしている。
 病院というよりは、動物の集会所という感じだ。まるで童話の世界に迷い込んだような気がした。
 かれらを驚かせないよう、ゆっくりと近づいてみる。ほんの数歩先というところまで来て、そばにあった切株に腰を下ろしても、動物たちはこちらに見向きもしない。まるで僕の存在を認めていないかのように。
 僕はしばらくその場でかれらを観察することにした。動物たちはゆったりとした時間を、羨ましいほどに悠然と過ごしているようだった。悩みも患いも、この場所には無縁だった。
 やがて大樹のうろからリスがちょこんと顔を出して、誰かを呼ぶような仕種をした。すると大樹の枝から突然ムササビが急降下してきて、リスの目の前に着地すると、「診察室」へと入っていった。
 一応病院らしいことはしているのか。それにしても、こんな長閑な雰囲気の中でのことだ、どのみち大した話ではないだろう。あのリスはさしずめ看護婦といったところか。それなら診察をしているのは誰なんだろう。モグラ、ネズミ、イタチ……穴の中にいそうな動物だけでもたくさんいる。ネズミやイタチはあまり医者に向いていないような気がするから、有望なのはモグラかな。そもそも穴の中に住む動物と決めつけるのもおかしいか。もしかしたら世話好きの九官鳥が通いで診察しているのかもしれない。
 ふと気がついて時刻を確かめる。とりとめのない想像を膨らませているうちに、十五分以上も過ぎていた。この森に来てからも、一時間はゆうに経っている。それでも無駄な時間という気はあまりしなかった。たまにはこんなのんびりした過ごし方も悪くない。
 さらに十分ほど待ってみたが、彼女の現れる気配はなかった。ムササビは先程うろから出て大樹をよじ登っていった。今はそこらの草を貪っていたウサギが入っている。
 仕方ないので、僕は立ち上がって広場を後にした。大抵はここにいると言っていたのに、ちっとも姿を見せないのはどういうわけか。
 ――まあ、二十四時間ずっとログインしているなんてことはないだろうから、いない時間帯があるのは当然か。今度会ったら常駐している時間を教えてもらおう。
 木漏れ日の道を、出口に向かって歩いていく。そろそろ森を抜けるはずだ。
 そのとき、コツンとどこかで音がして、目の前を小さなものが上から下へと通り過ぎた。足元を見ると、枯れ葉の上に木の実が落ちている。
 僕はそれを拾い上げた。笠のついていない、丸々とよく肥えた木の実。
 上を見たけれど、どの木から落ちてきたものかは分からなかった。地面を探しても同じような実は落ちていない。そもそも、この森の木はどれも新緑の鮮やかな色をした葉を蓄えている。木の実がなるような季節ではないはずだ。
 リスか何かが、秋のうちに貯めておいた実を落としたのかな。とりあえずそう思うことにして、僕はその実をアイテムの中にストックしておいた。この森が存在する、ひとつの証拠だ。
 夢幻やメグと話をしていてわかったことなのだけど、どうやらこの森は他のユーザに全く知られていないらしい。夢幻たちも僕と同じように迷い込む形でここに来て、妖精の彼女に『テレポートなんたら』をもらったという。ここに任意で来るにはそのアイテムを使うしか方法がないので、実質的に自力でここを探し当てるのは不可能ということだ。だから、僕ら以外のユーザはそんな森が存在することなんて知らないし、話しても信じようともしない。
 今度誰かに話す際に、この実を見せれば少しは信じてもらえるかもしれない。どこかその辺の森から採ってきたんだろうと言われてしまえば、それまでだが。
 それにしても――薄暗いトンネルを歩きながら、僕は考えた。
 制作者《メーカー》は一体どうしてこんな森を作ったのだろう。いわゆる隠しイベントというやつなのだろうか。そうだとしても、イベントの発生が宝くじに当たるくらい確率の低い偶然で、存在もごく少数しか知らないというのは変な話だ。隠しイベントなんて噂が立ってなんぼのものなのだから。
 あるいは、単なるバグなのかもしれない。それならサポートに連絡しなければいけないが……せっかく妖精の彼女を中心としてコミュニティが形成されているのに、それをぶち壊すようなことをしていいものか。
 そもそも、彼女は何者なんだろう。最初はこの森を拠点にしている物好きなユーザかと思ったけど、夢幻たちの話を聞いていると、どうやら違うみたいだ。
 僕らは『テレポートなんたら』を使ってフィールドと森を行き来している。その唯一の通行手形であるアイテムは、彼女から受け取ったものだ。いわば、彼女がこの森に入る権利を僕らに与えているようなもの。そんな権限が一般のユーザに与えられているはずがない。
 もしかしたら、彼女は制作者側で用意された人間なのかもしれない。むしろそう考えるのが妥当だろう。もちろんこの森の存在理由など、説明のつかないことはまだまだあるけれども。
 ともかく、はっきりしたことがわかるまでは事を荒立てない方がよさそうだ。下手に突っついてあの場所がなくなってしまうのは、僕にとっても不本意だから。
 トンネルを抜けて、広大なフィールドへと出た。陽は地平線近くに傾きかけているものの、まだ空は明るい。
 予定より少し早いけれど、特にやることもないので、そのままログオフした。ゲームを閉じてから、ふと気づいた。
 ――そういや、今日は誰とも会話してなかったな。
 
 
五 『やおい』と知らなくていいこと・気になること
 一体何がきっかけだったか、さっぱり覚えてないけれど――夢幻の話を聞いた後だったから、多少はそれに影響されたのかもしれない――ふとホームページを作ってみようと思い立った。
 勢いに任せて、ひとまずトップページは半分ほど書いたが、そこから先が続かない。どんな趣旨のサイトにするのか全く決めていなかったのだ。どうせなら誰もやっていないことを……と意気込んで色々考えてみたものの、実際誰もやっていないことは僕にもできないし、僕にできそうなことは既に他の人がやっている。大したスキルも持ち合わせていない新参者が入り込む余地など、どこにも残されていなかった。
 すっかり意気消沈した僕は、早々にサイト作りを断念した。開始から終了まで、わずか三時間の出来事だった。
 
 閑話休題。
 
 同じ日の夜、僕は森に行って、いつもの面子と顔合わせした。もちろん妖精の彼女もいた。
「あ、エディ君」
「こんばんは」
 僕が来たときには、既にみんな揃っていた。
「ね、ね、エディ君は『やおい』の意味って知ってる?」
「は?」
 突然彼女に訊かれて、戸惑ってしまった。
「いきなり何?」
「みんなで話してたんだよ。知ってるよね?」
「そりゃ、まぁ、それくらいは……」
 いくらネット歴が浅くても、それくらいはわかる。
「ほら、やっぱりみんな知ってるんだよ」
「えーっ」
 不満そうに声を上げたのは、ホビットのメリー。腕を組んで首を捻っている。
「メリー君は知らなかったの?」
 彼はこくりと頷いて、経緯を説明した。
「こないだ、なゆりさんが『やおい』という言葉を使ったでしょう。それでどういう意味なのか聞いてみたんですよ。そしたら……」
 みんなにからかわれた、というわけか。
「まあ、あんまり面と向かって聞くような言葉じゃないからね。知らない方がある意味、幸せかも」
「そんなこと言われると余計気になるじゃないですか。教えてくださいよ」
 メリーは不満そうに頬を膨らませている。
「メグ、教えてやんなよ」
「なんで私が」
「この言葉に一番近そうだからw」
「近くない、全然近くない」
 ニヤニヤしているディルに、しかめっ面を返すメグ。
「ええと、つまり、あれだよ」
 きまりの悪そうに、夢幻が説明する。
「男同士の恋愛を描いたマンガとか小説とか、そういった創作物のことを『やおい』っていうんだよ」
「えーっ。そんなの誰が読むんですか?」
「大半は女性だろうね。まれに男も混じってたりするけど」
「本屋で見かけたことない? 文庫コーナー行けば色々並んでると思うよ。どれも線の細そうな男のカップルが抱き合ってるような表紙してるから、その辺だけちょっと浮いていたりするけど」
「うーん。文庫のところはあまり行かないからなぁ……」
 いつもマンガしか買わないから、とメリーは肩を竦めた。
「最近やたらと幅をきかせてるんだよな。ボーイズラブとか言って。ライトノベルを買う時、すぐ隣に平積みしてあったりして目障りなんだよ」
「ボーイズラブっていうのは?」
「同じような意味じゃなかったかな。どうだったっけ?」
「だから私に振らないでよ」
 夢幻にまで揶揄されて、ふて腐れるメグ。
「たしか『やおい』ってのは、昔は同人誌だけに使われた言葉だよ。今じゃ男の子同士でラブしてりゃ何でも『やおい』だけどね」
 代わりに彼女が答えた。妖精の口から「やおい」だの「同人誌」だのという言葉が出るのは、かなり違和感があった。
「そういえば商業ベースに乗った作品はみんな『ボーイズラブ』になっているか。『やおい』だと、何かうさんくさそうだものね」
「けど、女の人ってみんなそういう話が好きなんですかね。普通のラブストーリーじゃ駄目なのかな」
「だからみんなじゃないって」
 メグもむきになって否定してくる。
「まあ、好きな人はとことんハマるジャンルのようだから。あの方々の想像力には感服するよ。少年マンガのキャラから芸能人、果てはスポーツ選手まで、とにかく何でもかんでも『やおい化』してしまうのだから」
「前に、そのへんの物で『やおい』していた奴もいたな」
「どういうこと?」
 僕が訊くと、ディルは嬉々として話し始める。
「大喜利みたいなもんでね。例えば、ポットと急須を『やおい化』させてみて、そこからセリフを考えるんだよ」
「セリフ?」
「そ。『熱い、熱いよっ』『我慢しろ。そのうちいい具合になるから……』みたいにな。ほら、これだけで立派なやおいになるだろw」
「……………………」
 間の悪い空気があたりに漂う。そんなのは大喜利でも何でもないし、内容的にも最低だ。
「あの、意味がよくわからないんですけど……」
「知らない方が身のためだよ」
 困惑するメリーに、僕はそう告げた。知らなくてもいいことが、世の中にはたくさんある。
「ところで、こないだここに来てみたんだけど」
 会話が続かなくなっていたので、僕は話題を変えた。
「昼間は凄いね。このあたりに動物がたくさんいたりして」
「あ、昼に来てたんだ」
 彼女の言葉に、僕は頷いた。
「なゆりさんがいないから、一時間ちょっとで帰ったけど」
「ゴメンねー。昼はいないことがあるんだ。何日の何時に行くって言っておいてくれれば、待ってたのに」
「いや、ちょっと覗いてみたかっただけだから、いいよ。それにしても、あの動物たちはちっとも人を恐がらないね」
「そりゃそうだよ。だって、見えてないんだから」
「え?」
 僕は訊き返した。見えてない?
「あの子たちは、自分の活動と関係のないものは見えないんだ。見る必要がないからね」
「必要がないって……どうしてそんなことになってるの?」
「理由はよく知らない。元からそういうふうになってるだけだから。けど、見えないなら恐がって逃げられたりすることがないから、こっちのほうが合理的だと思わない?」
「それはまぁ、そうかもしれないけど……」
 どうにも納得がいかなかった。見えなくていいものだけが見えないなんて、そんな都合のいいことが通るのだろうか。
「けど、もし僕が危害を加えるような人間だったら、どうするんだろう」
「危害を加えるつもりだったの?」
「いや、別にそんなつもりはないけど」
「ほらね。そういうのは動物たちにもちゃんと伝わるんだ。このひとは大丈夫だって。そもそも動物を虐めたりするようなひとは、ここにご招待してないよ」
「俺は?」
 ディルが自分を指さして訊いてきた。
「うーん、微妙。ていうか昼間に来ないでしょ、キミ」
「その通りw」
 なるほど。その辺も織り込み済みなのか。
 ――ん? ということは……。
「んじゃ、ちょっと早いけど、今日はこれにてサイナラします」
「あれ、いつもの話はしないの?」
「毎回やってるわけじゃないんだよ。そんなにネタあるわけじゃないし」
 そう言うと、彼女は飛び上がった。
「それじゃ、またね」
 いつものように光の玉へと姿を変えて、森に消えていった。
 
 彼女がいなくなってから、僕はみんなに訊ねてみた。
 ――この森について、彼らはどう思っているのだろう。
「何か気になることでもあるの?」
 僕の顔を見ながら、夢幻が訊き返した。気になることは、山ほどある。
「この場所は、ゲームの世界観とちっとも合っていない」
 僕は思っていることをそのまま言った。
「イベントもクエストもここには存在しない。あるのはのんびりしたりボーッとできるスペースばかり。おかしいと思わない? 一体何の意図があって、メーカーはこんな場所を作ったんだろう」
「隠しなんだろ」
「それにしたって、こんなにごく少数しか知らないってのは変だよ。いくら隠しだと言っても、普通はもっと多くの人が入れるようにすると思うけど」
「確かに、ちょっとおかしなところはあるかもね。行き来の仕方とか」
「行きはともかく、帰り道がどうしてみんなバラバラなのかは不思議でしたね」
 メグとメリーがそれぞれ言い募る。
「それに、なゆりさんのことも」
 彼女はさっき、まるで自分がここに来る人を選んでいるかのような言い草をしていた。もしそれが本当なら、この森を司っているのは……。
「まあ、あんまり詮索しても仕様がないよ。僕らはあくまでここを利用しているユーザに過ぎないし、あの子もその中にいる一キャラには違いない。その辺は割りきって考えないと、楽しめるものも楽しめなくなってしまう」
 それは確かにその通りだろう。世の中には知らなくていいことがたくさんある。
 でも、僕は知りたかった。たとえさっきのメリーのように、幻滅する結果になるとしても。
 所詮ここは、誰かが作った無機的な世界なんだ。どれだけリアルになったとしても、本質までは変わらないはず。不思議の国のアリスも、千と千尋の神隠しも、ここでは決して有り得ない。このゲーム上において、謎を謎のままで終わらせておくのは、納得がいかなかった。
 どんな謎も人間が作ったのだから、人間に解けないはずがない。どこかの探偵が残した言葉だ。僕もその通りだと思う。
 
 
六 実験と同調
 それからしばらくはゲームに入らなかった。ネットにすら繋がなかった。僕にだって忙しい時期はある。年がら年中入り浸っていられるわけではない。
 ようやく現実世界でのことが一段落ついて、ゲームを再開したのは、半月ほど経ってからだった。
「おう、誰かと思えば」
 ログインして街でぶらついていたら、偶然にディルと会った。
「久しぶり」
 僕は当たり障りのない挨拶をした。
「しばらく見かけなかったな。森にも来なかったし。追放でもされたのかと思ったよw」
「色々と忙しかったんだよ」
 『森』のメンバーの中で、この人だけはどうにも苦手だった。常に人を小馬鹿にしたような言動をする。しかも当の本人には悪意がないらしいのだから、始末に負えない。
「ここで何してるの?」
 僕は適当に訊ねてみた。実のところ、彼がどこで何をしていようがどうでもよかった。
「別に。そのへん歩いて、知り合いを見かけたら声をかけたりしてただけだよ。ぼちぼち外に出てレベル上げでもしようかと思ってたけど」
「一人で?」
「ああ。集団でなんかするのは面倒なんでね。そりゃ、たまにはパーティ組むけど」
 彼の性格からすれば、さもありなんという感じか。
「そうそう。なゆりちゃんがお前のこと気にしてたみたいだから、後で顔見せに行ってやれよ」
「次の集まりの日に行くつもりだったけど……こんな昼間に彼女いるのかな?」
「いなかったらさっさと帰ればええやん。どうせ往復するにしても大して時間かからんし」
 ――それもそうか。
 どのみち予定があるわけでもないので、行ってみるのも悪くない。
 社交辞令もそこそこにしてディルと別れると、僕は街を出た。
 
 広場には相変わらずたくさんの動物がいた。周囲を見回してみたが、やはり彼女はいないようだ。
 僕は隅の切株に座って、かれらの様子をぼうっと眺めた。隣の切株ではカブトムシとクワガタが角をぶつけ合って決闘している。狐や山猫など、以前には見かけなかった動物の姿もあった。そして、どの生き物も僕には目もくれない。
 見えてないんだから。彼女はそう言った。確かに僕は、この森にとって部外者だ。僕の姿が見えていたら、かれらは蜘蛛の子を散らすように逃げ出すに違いない。僕にしても、こうして間近でのんびりと観察などできないだろう。見えないということは、お互いにとって合理的なのだ。そのことに異存はない。
 けれど……もし、その合理性が崩れたら?
 うろから出てきたリスが誰かを呼んでいる。隣ではカブトムシがクワガタにバックドロップをかまして切株の下へと叩き落とした。山猫が尻尾をピンと立てて、気取ったように歩いて『診察室』へと入っていく。風はなく、陽射しは緑のフィルタを通して程良い明るさで広場を照らしている。
 ――これは、あくまで実験だ。森の正体をつかむための。
 僕はおもむろに立ち上がった。
 ――見えないことが合理的なのは、あくまで互いが無関係でいられる場合のみ。もし、どちらか一方が関わりを持ってしまえば、合理性は崩壊する。
 地面の草を踏みしめるように、一歩ずつ歩を進める。
 ――恣意的に関わりを持たせる、一番簡単な方法。
 一心不乱に草を食んでいるウサギの背後に立った。そして――。
 ふっと、目の前のウサギがかき消えた。振り返ると、他の動物たちの姿もなかった。
「なにやってんの」
 大樹の幹の上から、白い光がすっと降りてくる。それは僕の目の前で、妖精の姿になった。
「さっきからいたの?」
 ばつの悪さを悟られまいと訊いてみたが、彼女はそれに答えようとしない。
「今、なにをしようとしたの?」
 あくまでそのことを詰ってくる。無表情なのが逆に恐かった。
「ちょっと触ってみたいと思っただけだよ」
「ふーん」
 上目遣いでじっと見つめられて、無意識に目を逸らしてしまう。心の裡まで見透かされたようで、気まずかった。
「本当に何もする気はなかったんだ。君が早とちりして消してしまうから」
「消した? わたしが?」
 彼女は目を丸くして、それから含み笑いを浮かべる。
「なるほどね。わたしをそんなふうに思ってたんだ」
 面白がっているような態度に、僕は弁解も忘れて言い返した。
「じゃあ、どうして動物が消えたりしたんだろう? しかも、あんなにタイミングよく」
 我ながら挑戦的だった。少し苛立っていたのかもしれない。
「こないだも言ったでしょ。わたしは知らないんだってば」
「でも君は、ここに来る人間を選別している。あのテレポートアイテムを使って」
 彼女は怪訝そうに首を傾げた。
「キミはどうも、わたしのことを買い被ってるみたいだね」
「それなら、この森を作ったのは、管理しているのは誰?」
 僕はきっと彼女を見据える。彼女はため息をついて、言った。
「どうしてそんなに、この場所にこだわるの? 別にいいじゃない。広いヴァーチャル世界の中にこんなスペースがあったって。なにがそんなに不満なの?」
「おかしいんだよ、ここは」
 勢いに任せて、腹の奥底に溜めていた蟠りを一気にぶちまける。
「初めて来たときから変な感じがしていた。ゲームの中にいるのに、そうじゃないような気がしてならない。もともと感覚や動作はリアルなゲームなのだけど、ここに来るとより鮮明になるというか……どうかすると、僕自身がゲームの中に入り込んでしまっているような錯覚さえするんだ」
「感情移入ぐらい、誰でもするでしょ」
「そんなんじゃない。もっと強く、深く入り込んでしまう。ゲームの中で動いているのが、エディなのか僕なのか分からなくなるくらいに。そんなことが――」
 あってたまるか。僕は僕であり、決してエディではない。仮想世界の中にいるキャラに同調《シンクロ》してしまうなんて、今時アニメやゲームのお話でも有り得ない。荒唐無稽だ。くだらない。
「別にいいんじゃない。そういうことがあっても」
 彼女はあっけらかんと言い放った。
「よくないよ」
 拗ねたように言うと、けらけらと笑われた。その顔を見ているうちに、こちらも張り合いがなくなってきた。自然と肩の力も抜けていく。
「モノゴトってのは大体においてそんなものなんだよ。キミの常識というか、ポリシーはよくわかるけど、もちっと頭を柔らかくしたほうがいいね」
 そんなこと言われても、と弁明しようとしたが、また笑われそうなのでやめた。苛立ちは既に消えていた。
「キミはこの森が嫌い?」
 不意に、彼女が訊いてきた。好きか嫌いかと言われれば――。
「いや、嫌いではないよ」
 奇妙な違和感は気になるが、それと好悪は別だ。この森の雰囲気そのものは満更でもない。
「ならいいじゃん。万事オッケー。問題なーし」
 彼女はふわりと飛び上がり、僕を見下ろして言った。
「ひとつだけ言うとね、わたしにとってキミは僧侶のエディ君であって、他の誰でもないんだよ。キミを動かしているひとがどこに住んでて歳はいくつで何型で好きな食べ物はなんなのかとか、そんなことはどーでもいいし、知りたくもない。ネットの上じゃ、そんなもの屁にもならない。引きこもりがでかい顔してのさばって、男が女のふりしてアイドルやってる。そんな世界なんだよ」
 別れ際に軽くウインクをすると、彼女は光の玉へと姿を変え、森へと去っていった。
 いつの間にか陽は西に傾き、広場を照らす明かりも弱まっている。薄暗い広場に立ちつくして、僕は彼女の最後の言葉を反芻していた。
 
 
七 昔話
 実を言うと、僕はもうあの森には行かないつもりでいた。好奇心からの行動とはいえ、僕が動物たちに危害を加えようとしたのは事実だ。彼女もそれを見抜いていた。そんな後でまた、しゃあしゃあと顔を出せるほど厚顔無恥ではない。まだ気になることはあるけれども、関わりを断ってしまえばじきに忘れるだろう。
 
 僕はいつものようにログインして、街を歩いた。夜の大通りは昼間よりも賑わっている。街灯が行き交う人を照らしだし、そこここで会話に花が咲いている。店から洩れる明かりはほのかに暖かく、街の中心にある噴水は七色にライトアップされ盛大に飛沫を上げている。全くもって見慣れた光景のはずだった。
 けれど、僕にはそう思えなかった。このキャラたちを動かしているのはどんな奴なんだろうと、そんなことばかり考えていた。あのとき彼女が残した言葉を、僕は未だに引きずっていた。
 いま横を通った女の弓使いは、実は男なのかもしれない。橋の上で魔導士と話をしている聖騎士は、会話の内容からするとかなりのアニメオタクのようだ。今までパーティを組んできて、やたらと強い連中を何人も見てきたけど、あの中に毎日ゲームしかすることのない引きこもりはどのくらいいたのだろうか。
 もちろんここにいる大半は一般のユーザだろう。けれど、中には特異なユーザも間違いなく紛れている。そして、彼らヘビーユーザの存在こそが、ゲームを下支えしているのだ。現実との乖離、歪み。そんなものを感じずにはいられなかった。
 仮想世界の中でのみ生き甲斐を見出している人々。僕はそんな連中を軽蔑していた。他の多くの人たちと同じように。だからこそ、僕は繰り返し自分に言い聞かせてきた。ネットの中のキャラは、決して自分ではないと。敵を倒し、レベルが上がって強くなっていくのはキャラの方であって、自分はちっとも強くはないんだと。
 ――そう、思ってきたけれども。
 それは畢竟、価値観の相違に過ぎないんじゃないだろうか。彼らはゲームの仮想世界に価値を見出し、現実を捨ててそちらを選択した。決して褒められたことではないが、その選択を果たして僕らは非難する権利があるのだろうか。彼らは逃げているわけでなく、主観的に「選んで」いる。そしてその世界の中では確実に成功を収めている。もし現実と仮想が逆転したなら、たちまち彼らは勝ち組となる。要は視点の問題だ。僕らは現実の側から仮想世界を眺めている。キャラに深く入れ込み、同調している彼らは総じて、仮想世界から物事を見つめているのだ。
 ――もしかしたら彼女も、そうした中の一人なのかもしれない。だとしたら、僕は――。
「エディ君」
 誰かに声をかけられて、思考は中断した。振り向くと、のっぽの騎士とエルフの女性がこちらを見ている。
「どうしたの? 橋の上でずっと突っ立っていたりして」
 夢幻に言われて、初めて自分が橋の上にいるのだと気づいた。
「何でもないよ。ちょっと考え事をしていただけ」
 笑顔を作って、そう言った。
「ねえ、もうすぐ例の集まりだけど、行かないの?」
「え……あ」
 すっかり忘れていたが、今日は森に集まる日だった。時間を確認すると、所定の時間まではあと十分というところ。
「二人はこれから行くの?」
「もちろん。それじゃ、森で待ってるよ」
 こちらの返事を待たずに、二人は歩いていってしまった。
 行くつもりはなかった。けれど、こんな直前に目撃されているのに行かなかったら、二人に後で何を言われるやら。一応彼らとは今後もパーティを組みたいと思っているので、心証を損ねるのだけは避けたかった。
 ――仕方ない。気は進まなかったが、結局行くことにした。
 
 僕が来て全員揃うと、早速雑談が始まった。
「こないだPCが壊れちゃってさ。サブマシンだからそんなに支障はなかったけど」
「サブって……夢幻君、PC何台持ってるの?」
「メインのノートが一台、サイト更新用のデスクトップが一台で、壊れたのはジュークボックス代わりにしていた98だね。電源系統がいかれちゃったみたいで」
「お、98ユーザだったのか。懐かしいなー」
「なゆりさんも?」
「なにを隠そう、7年前までは9801がバリバリ現役でした。えへん」
「そんなことで威張るなよw」
「僕も壊れたのは9821だけど、01も倉庫に眠ってるはず。もっと昔のもあったと思うよ。5インチフロッピー時代のマシンとか」
「5インチフロッピーって、あの薄っぺらいやつでしょ。見たことはあるけど、ちょっと世代が違うなぁ……」
「俺も秋葉で見かけたことある。今となっちゃ、使い勝手の悪い鍋敷きにしかならんな」
「あんなの鍋敷きにしたら、プラスチックが溶けて鍋にくっついちゃうでしょ」
「例え話だってw」
「まあ、今はフロッピー自体廃れつつあるからね」
「淋しい話やねぇ。そういや昔、大容量フロッピーなんてのもなかったっけ」
「見事に消えたね。もはや時代は磁気ディスクに何も期待してないんだろうなぁ」
「あの、まるで話についていけないんですが……」
「私も」
「いいんだよ。女子供はすっこんでろw」
「なにを。わたしだって女だぞ」
「7年前まで98を使ってた奴が女のわけがないだろw」
「ひどい偏見だなー。そういやエディ君は大丈夫? 話についていってる?」
「え、ああ、なんとなくは分かるよ」
 急に振られたので、少し動揺してしまった。
「君はPC歴どのくらい?」
「初めてパソコンを買ったのが九十八年だったかな。OSが98だったから」
「あ、そっちの98ならわかります」
「わかったわかったw」
 嬉しそうに言うメリーをディルが一蹴する。
「じゃあ、ネットを始めたのもそのくらいから?」
「そうだね。ほとんど同時期」
「ということは、第三次ネット世代か」
「なに、その『ネット世代』ってのは?」
 彼女が訊ねる。僕も初耳だった。
「僕が勝手に提唱してるんだけどね。ネット上における世代ってのは、ウィンドウズのバージョンアップを基準に考えると、わりと上手く区切れるんだ」
「ウィンドウズを基準にって、そんなこと言っていいのかなー」
「マック原理主義者に銃撃されるぞw」
「仕方ないでしょうが。現に九十年代の半ば以降は、ウィンドウズを中心にして動いているのだから。僕のサイトのアクセスログを見ても、マックユーザは一割に満たないくらいだよ」
「あー……そうなんだ。昔はもうちょっと多かったと思ったけどなぁ」
「で、具体的にどういう区切り方なの?」
「九十年代初頭のネット草創期からウィンドウズ3.1あたりまでにネットを始めた人たちが、第一次ネット世代。僕も一応ここに入ってる」
「キーワードはニフティ、モザイク、インターネットマガジンってトコかな。この言葉にピンときたら音響カプラーで一一〇番〜。無理か」
 なぜか彼女が補足している。やけに楽しそうだ。
「ウィンドウズ95が発売されると、インターネットという言葉もメディアにちらほらと出るようになる。この時期に始めた人たちは、第二次ネット世代だね」
「今じゃすっかり主流になったインターネットエクスプローラも、この時期に誕生してるんだよ。バージョン2.0まではフレームすら表示できない、へっぽこブラウザだったけど」
「そして98から2000・MEあたりが、第三次ネット世代。98はOSとしては95とそんなに変わるものではなかったのだけど、ちょうど発売の時期がネットブームと重なっていたからね。今いるネットユーザは、この辺から始めた人が多いんじゃないかな」
「私もこの時期だね、そういえば」
「俺も」
「そんなみなさんはネット界のマジョリティ。おめでとー」
 夢幻も昔話になると口数が多くなるが、どうやら彼女も同じタイプのようだ。
「第四次ネット世代はXPから現在まで。ここまで来るとダイヤルアップを知らない人もいるのだから、恐いね」
「ボクがそうなんですが……」
「そうか。キミはテレホーダイのありがたみを知らんのだな。よし、そこへ直れ。わたしが教えてしんぜよう」
「うえ……遠慮しときます……」
 メリーは心底嫌そうな顔をした。
「まあ、世代を分けたからって、それが何の役に立つかは微妙だけど。いろんな世代の人と話をする際の指針にはなるかなと思って」
 そういえば彼は以前にも言っていたな。ネットにもジェネレーションギャップはある、と。彼は彼なりにそれを分析して、対応しようと試みていたのだろう。
「いやー、なんだか熱く語っちゃったね」
 言いながら、額の汗を拭う仕種をする。
「二人ともテンション高すぎ」
 メグはつまらなさそうに肩を竦める。
「まー、いいじゃないの。昔話はわたしらのオアシスみたいなもんだから」
 そう言って、彼女は飛び上がった。
「んじゃ、今日はこのへんにするね。ホントはネットウォッチの話をするつもりだったけど、時間がなくなっちゃった」
「あ、無駄話しすぎたかな」
「いーのいーの。また今度やるから。じゃね」
 こちらの返事も待たずに、彼女は森の向こうへと消えていった。
「忙しい人ですねぇ……」
 その姿を最後まで見届けたメリーが、呟いた。
「いや、基本的に暇してるでしょ、あの子は。慌ただしいのはデフォルトで」
「確かにね」
 メグと夢幻は顔を見合わせて、笑った。
「それじゃ、俺も落ちるから。またな」
「あ、ボクも。さよならです」
 二人はそれぞれの帰り道へと散っていった。
「僕らもこの辺で。今度またイベントやろうよ。新しいのができたみたいだから」
「ああ。呼んでくれればいつでも行くよ」
 軽く挨拶を交わしてから、その場で別れた。一人で暗い森の路を歩く。
 何だかいつも以上に疲れてしまった。やっぱり彼女に対して負い目を感じて、多少なりとも気を遣っていたせいだろうか。そんな僕を尻目に、当人は話に夢中でちっとも気にしていないようだったが。
 ――やけに楽しそうだったな。まるで母親が若き日の思い出を子供に語っているみたいだった。ネットの初期といってもせいぜい十年くらい前の話なのだけど、彼女には何十年も前のように感じていたのかもしれない。
 夢幻も彼女も、まだ一部のオタクのものでしかなかった「インターネット」を見ている。僕はその時代を知らない。たかだか3,4年遅くネットを始めただけなのに、ちっとも彼らの話についていけなかった。ネット内に流れる時間は、現実世界のそれよりずっと速いようだ。夢幻が世代格差を感じるのも無理はない。
 音響カプラーがどういう代物なのかも知らない僕が、その時代のことを察することはできない。けれど、少なくとも彼らが夢中になって語るくらいに面白いものが存在したのだろう。
 トンネルを抜けて、フィールドに出る。すぐに街へ入ると、そのままログアウトした。
 
 
八 不穏
「それじゃあ、これでお開きということで」
「ばいばい」
 イベントを終えた僕たちは、街に着いたところで解散となった。
 昼間から始めて、終わったのは夕方だった。街並みは茜色に染まり、灼熱しているようにも見えた。人通りはピーク時に比べれば、さほど多くない。陽を呑み込もうとしている稜線を橋の上から臨んでいると、本当によくできたゲームだなと感心してしまう。ともすると夕刻に吹く冷たい風までも、その肌に感じている気がしてくる。
 自然を感じることのできるゲームは本物だと、僕は思う。昔でいえば、ゼルダがそうだった。平原にぼうっとしているだけで楽しいゲームなんて、そうそうあるものではない。
 さて。
 これから何をしようか考える。特に予定はない。終了してもよかったのだが、もう少しここにいたい気分ではあった。
 ――この時間に、動物たちはいるのだろうか。
 あの事件以来、僕はかれらを見ていない。永遠に消えてしまったわけではないと思うけれど、一度はこの目で確認しておかないと、気分的にすっきりしない。今は時間もあるし、様子を見に行ってみようか。
 思い立ったが何とやらということで、早速街を出て『テレポートなんたら』を使った。時間もかからず気軽に行けるということが、この森に依存してしまう原因の一端なのかもしれない。
 広場に降り立ち、待合室の方へ行ってみる。そこには動物たちがいた。いつものウサギと鹿の親子、それに初めて見るアライグマの四匹。かれらは僕のことなどお構いなしに、それぞれの時間を過ごしている。
 ひとまずホッとした。僕のせいで動物たちがいなくなっていたらどうしようかと心配したが、杞憂だったようだ。
 森の中は既に夜と変わらないほどに暗い。切株に腰掛けてしばらく様子を観察していると、うろからリスが出てきて、両手を振りながら他の動物に何か伝えている。それを見たウサギや鹿たちはぞろぞろと帰り始めて、森の奥へと消えていく。どうやら終了の合図だったらしい。最後にリスがうろへと入ってしまうと、その場は僕一人となった。
 見えていないと分かってはいるものの、こちらに見向きもしないで一方的に帰られるのは、少し寂しい気がした。僕は鼻でため息をついて、それから立ち上がった。
 そのとき、視界の端に動くものの影が映った。凝視してみると、北の道から人影が二つ、こちらに向かってきている。夢幻とメグかと思ったけど、違う。ディルとメリーだった。
 向こうはこちらに気づいていない。僕はすぐに大樹の陰に身を潜めた。挨拶するのが面倒だったのと、ここにいる理由を聞かれるのが面倒だったのと、こんな時間に二人が北の道からやって来たことを不審に思ったからだった。
 二人は話をしながらこちらに近づいてくる。文字でのコミュニケーションなので、当然ながら小声で話すことなどできない。
「そんなもの、どうするんですか?」
「決まってるだろ。証拠としてくっつけて、送るんだよ」
「ねえ……やっぱりやめませんか。そんなことあるはずないでしょう」
「念のためだよ。有り得ないって言い切るんなら、送っても問題ないだろ」
「それは、まあ、そうですけど……」
「お前だって変だと思ってるんだろ? 俺もそうだし、エディも言っていた。みんな思ってるんだよ。だから俺が代表して秘密を暴く。それだけだ」
「そんなことして何になるんですか。このままでいいじゃないですか」
「わかったよ。お前はみんなと仲良しクラブやってろ。今度の集まりは、俺行かないからな」
「ちょっ……ディルさん!」
 制止もきかずに、ひとり東の獣道へと去っていくディル。残されたメリーは茫然とその場に立ちつくしていたが、やがて西の小径をとぼとぼ歩いていった。
 ――なんだ?
 僕は大樹の幹にもたれ掛かり、腕を組む。そして、今の会話の内容を整理してみる。
 秘密を暴く、と彼は言った。それはつまり……。
 この場所のことなのか?
 もしそうだとしても、彼は一体何をしようというのだろう?
 僕も、この森のことは知りたかった。例の事件のとき彼女に質問をぶつけてみたものの、結局納得のいく返答は得られなかった。ゲームなのにゲームでないような、この感覚の正体を、誰でもいいから説明してほしかった。
 けれど、先程のディルの言動は明らかに危険な香りがする。具体的に何をしようとしているのかは分からないが、もし僕がメリーの立場だったとしても、同じように止めていただろう。
 既に動き始めているのかもしれない。得体の知れない何かが、確実に。
 
 
九 運命の支配、狭い了見
 案の定、次の集まりにディルは来なかった。
「なんか都合が悪くなったみたいです」
 メリーは笑顔を作ってそう説明した。
「そっか。じゃ、今日は長くなりそうだから、ちゃっちゃと始めるね」
 彼女はそのことについては何も訊かず、話を始めた。
「これは、ある青年の数奇な物語。彼は、自分の気持ちを整理して見つめ直すために、深い傷を負った過去のことを、とある掲示板に淡々と書き込むことにする」
 
「彼は子供時代に性虐待を受けた。ううん、そんな言葉じゃ表現できないぐらい酷いことを、おおぜいの大人にされた。彼は言った。それは『運命の支配』だったと。
 物心つくかつかないかというときに、母親は離婚した。そのうちに知らない男がたびたびやってくるようになる。再婚したのかどうかはわからないけど、のちのちにその男は『義父』ということになった。
 義父の来る日はいつも押し入れに閉じ込められた。襖を隔てた向こうでは母親の喘ぎ声と、なにかを叩く音がしていた。怒られるのが恐くて覗くことはできなかったけど、その音を聞いているだけで嫌な気分になった。
 ある日、母親が入院することになった。義父は母親に働かせるばかりで自分は遊び呆けていたので、たちまち生活が苦しくなった。それでも義父は毎日酒を飲み、女を買って、自分で稼ごうという気はまったくなかった。食事も自分のぶんだけ買ってきて、ひとりで食べた。彼がほしそうに見ていると、残り物を床に置いて、手を使わずに食べるよう命令した。恥ずかしかったけど空腹には勝てず、彼は犬のように食べた。命令は次第にエスカレートして、義父の性処理をしないと食べさせてもらえないようになった。食事以外でも、母親の代わりになれと服を脱がされ、鞭で叩かれた。押し入れで聞いていたのは鞭の音だったんだと、そのとき初めてわかった。
 母親は二ヶ月ほどで退院してきた。彼はもう絶対に入院しないでと、母親に泣きついた。義父の言うことをきちっと聞く子供の姿を見て、母親はしきりに感心していた。義父に叩かれるのが恐くてやっていただけだとは、言えなかった。
 母親が戻ってきてからも、家での食事はほとんど与えられなかった。小学校に入ったので昼には給食があったけど、義父は逆にそれを理由にして、食べることを許してくれなかった。母の快気祝いのごちそうも、義父が寝入ってから彼女が残してくれたものを隠れて食べた。
 それでも母親がいた時期は、楽しいこともあった。縁日には神社に連れて行ってくれたりもした。義父に肩車をしてもらって、露店を歩いた。あのとき食べたリンゴ飴と綿菓子の味は、今でもはっきり覚えているという。
 けれど、それも長くは続かなかった。母親は再び入院することになった。今度は症状も重くて、すぐに手術することになった。莫大な費用がかかったけれども、義父は相変わらず働く気はなかった。その代わり、どこからか男を連れてきて、幼い彼に相手をさせた。男たちは満足すると、義父にいくらか払って帰っていく。そんなことが何日も、何週間も続いた。
 ある日、学校から帰ると義父と知らない男が待っていた。また相手をするのかと思ったら、その日は違った。風呂に入り、小綺麗な服に着替えると、車に乗せられてどこかへ連れて行かれた。
 薄暗い店のような場所に入ると、別の男がやってきて、彼をじろじろと嘗めるように眺めた。義父はやけに腰が低くて、よろしくお願いしますと彼を預けたまま帰ってしまった。
 彼は白い布切れのような服に着替えて、別の部屋に入れられた。そこには同い年から五、六歳年上の子供たちが数人いた。部屋の一辺は全面鏡張りになっていて、店の人にその前で一列に並ぶよう言われた。しばらくして彼が呼ばれて、中年の男と一緒に個室へと行かされる。
 そこは、子供に相手をさせるSMクラブだった。鏡はマジックミラーで、客が向こうから品定めできるようになっていたんだ。個室にはその手の責め具が揃っていて、彼は客に何時間も弄ばれた。痛みと苦しみと恐怖で、彼はどれだけ泣いたかもわからない。泣いて、叫んで、懇願すればするほど、客は欲求を増幅させていく。彼はただひたすら終わってくれることを願った。
 それからというもの、彼は学校から帰るとその店に通い、客の相手をさせられた。初めのうちは嫌で嫌で仕方がなかったけれども、少し慣れてくると、家で義父といるよりはマシだと思うようになってきた。客の相手以外の時間は、暖かい部屋にいられたし、食事もちゃんと出た。
 あるとき、ひとりの客が彼に目をつけた。その客は紳士風の整ったなりをした男で、たびたび彼を自分のマンションに連れて行った。紳士は今までのどの客よりも優しくて、彼もそこへ行くときは少し安心していた。
 ところが、いつものように豪奢な黒塗りの車に乗せられてマンションに行くと、その日は様子が違った。
 今日からずっとここにいるんだ、と紳士は言った。リビングには犬用の檻が置いてあって、彼の服を脱がすとそこに入れられた。紳士は檻に鍵をかけて、出かけてしまった。不安と恐怖でいっぱいになった彼は、敷いてあった毛布にくるまって泣き続けた。夜になると紳士は帰ってきて、いつものように、いや、それ以上に彼を嬲った。
 そうして彼と紳士の生活が始まった。生活なんていうレベルのものじゃなかったかもしれない。そこにあるのは紳士から彼への一方的な、歪んだ、おぞましい愛情だった。彼に抗う意思が芽生えることはなかった。まだ小学校に入って間もない時分だったし、なにより、彼は幼い頃から従うことに慣れすぎていた。
 紳士は飴と鞭の使い分けに長けていた。上手くできないときは容赦ないお仕置きが待っているけど、できたときは優しい声色で褒めて、お菓子を与えてくれた。彼はいつも、紳士に怒られないようにすることだけを考えて、痛いことも苦しいこともできるだけ我慢するようにした。そうして紳士に抱かれて頭を撫でられると、幸せな気分になった。それもまた、歪んだかたちでの愛情だった。飼われているということがどういうことなのか、彼はだんだんと理解しはじめていた。
 秋の終わりごろ、彼は紳士に連れられて車に乗った。よそいきの服に着替え、メイクもさせられた。車の中でも首輪はつけたままで、どこへ行くのかわからないように目隠しもされた。
 着いた先は、ものすごく広い部屋だった。そこには身なりのいい男や女たちが、それぞれの『ペット』を連れて歩いていた。『ペット』は少年だったり女の子だったりして、年齢も背格好もいろいろだった。
 高校生ぐらいの少年を連れた男が紳士のところに来て、なにやら話を始めた。少年は首輪の他にはなにもつけていなくて、背中や尻には痛々しい痣がくっきりと残っていた。男は、少年が逃げだそうとしたからお仕置き代わりに参加させるんだと言った。参加とはなんのことなのか、そのときにはまだわからなかった。
 やがて部屋の中央に設えてあるステージにマイクを持った小太りの男が立って、にわかに盛り上がりだした。小太りの進行のもと、道具が用意され、呼ばれた『ペット』たちがステージに上がる。
 それは、ペット同士で様々なゲームをさせて楽しむというパーティだった。ステージの上で恥ずかしい姿を晒しながら『競技』をする彼らの姿を、主人たちはさも面白そうに眺めている。勝負に負けたほうにはお仕置きが待っていた。これを自分もやるのかと怯えていたら、紳士に今日は見るだけで参加はさせないと告げられて、少しほっとした。でも、いつかはあのステージに自分も立たされるんだろうか。その日のことを思ったら、震えて涙が出てきた。そして実際に数年後、その通りになった。
 紳士が彼に与えたのは、痛みと苦しみと、どうしようもない絶望感。けれど、彼は決して紳士を憎むことはできなかった。それは、楽しい思い出も紳士とともにあったからだった。機嫌のいいときはお菓子やぬいぐるみをプレゼントしてくれたし、ときどきは外に出て遊んだりすることもできた。
 ある昼下がり、彼が鳩のたくさんいる公園でポップコーンをばらまいたら、鳩がいっせいに飛んできて、バサバサと忙しなくポップコーンをついばみだした。それが楽しくて、袋に入っていたポップコーンをぜんぶ鳩にあげてしまうと、紳士はまた新しいのを買ってきてくれた。それが嬉しくて駆け寄ると、紳士も笑って彼を抱き上げた。周りのひとには、仲のいい親子にしか見えなかっただろう。
 鳩と遊んだ公園から帰る道の途中、風船を持って歩いている男の子とすれ違った。じっとそれを見ていると、紳士は風船がほしいのか聞いてきた。彼が頷くと、すぐにそれも買ってきてくれた。彼は絶対に放すまいとしっかり紐を握って、家まで持って帰った。彼は、義父と母と行った縁日に置いてあった風船を思い出していた。あのとき、ほしくても買ってもらえなかった風船を買ってもらえたということが、すごく嬉しかった。
 けれど、次の日風船はしぼんでしまった。床に落ちたゴムの残骸の前で、彼は泣いた。紳士に叱られても泣き続けた。しまいには熱まで出してしまった。紳士は怒るかと思ったけど、ことのほか優しくてふかふかのベッドに寝かせてくれた。そしてさらに次の日には、風船を膨らますボンベを持ったおじさんが来て、部屋いっぱいにたくさんの風船を浮かべてくれた。彼はこのとき、紳士のことを好きだと思った。
 一年、また一年と時が過ぎるにつれて、紳士が彼に要求することも激しくなっていった。彼はその度に叫び、呻いて、そのうち声も出なくなってただひたすら泣いた。時間も長くなり、我慢しきれるものではなくなってきていた。
 そんなとき、紳士は彼に大きな熊のぬいぐるみを与えた。彼はその熊が気に入って、名前までつけた。そればかりでなく、紳士に責められているとき、彼は熊のぬいぐるみを頭に思い浮かべるようにした。自分は今ぬいぐるみで、紳士に犯されているのはあの熊なんだと、強く言い聞かせた。すると本当に、ぬいぐるみと入れ替わることができた。彼はぬいぐるみの姿で、彼の姿をした熊が痛みに悶えているのをじっと見つめた。その光景は遠く霞んで、まるで別の世界の出来事のように感じた。
 やがて、抗いようのない劇的な変化が彼の身体に起こり始めた。痛みと苦しみしか催さなかった紳士との行為が、しだいに快楽も伴うようになってしまった。彼はそのことに嫌悪を抱いた。けれど、もはやどうしようもなかった。苦痛を避け、できるだけ快楽がもたらされるよう、紳士の命令にも素直に応じるようになり、ときには自分から求めることもあった。
 ところが、そんな彼とは逆に、紳士のほうは徐々に彼から離れていった。紳士は小児性愛者であって同性愛者ではなかったから、成長していく彼に対して興味が持てなくなっていたんだ。紳士はときどき別の子供を家に連れてきて、その子を相手にすることが多くなった。彼はその子に嫉妬を覚え、同時に不安になった。自分が必要なくなったら、またどこかに売りとばされるかもしれない。そう考えると気が気じゃなかった。彼は紳士の気を引くために自ら誘ったり、進んで行為に及んだりもした。
 終わりは突然に、あっけなく訪れた。紳士は病気を患い、ひと月ともたずに死んでしまった。彼は紳士から解放されたけれど、それは最後まで、自ら望んだものではなかった。
 施設に入れられた彼は、その後も紳士の呪縛からなかなか抜け出せなかった。自分を束縛し弄んだ存在であるにもかかわらず、決して憎むことはできず、むしろ半身を失ったようにさえ思った。
 紳士の存在は、自分にとってなんだった? 自分は一体なんなのだ?
 紳士に出会い、ともに過ごした日々を否定することはできなかった。それを否定するということは、自らを殺すことに他ならないから。自虐と自己嫌悪を繰り返し、十数年の歳月が流れて、ようやく彼は過去を見つめ直すことを始めた。
 彼は言った。『私は自分が何をされたのか、未だに理解していない』と」
 
「これってネタなんじゃ……っていうのはタブーだったけ」
 メグが言うと、彼女は大きく息をついた。
「ネタであってほしいと思うよ、わたしも」
 確かに、そう願わずにはいられないほど、やりきれない話だった。
「でも、女の子が九年間監禁されていたとかいう話を聞くと、百パーセント作り話だとも言い切れないんですよね」
「ペドフィリアは普通にあるからねぇ……困ったもんだ」
 それきり、誰も何も言わなくなってしまった。
「むう。なんだか湿っぽい雰囲気になってるぞ。ディル君がいれば、ここで一発なんかやらかしてくれるところなんだけど」
 なるほど。そういう意味においては、彼にも役割があるということか。
 ――そういえば。
 あまりにも重い話を聞いたせいで忘れかけていたが、先日のディルの動きに対しては、どうすべきだろうか。夢幻たちはともかく、彼女だけには伝えておいた方がいいかもしれない。
 その日の集まりはそれでお開きとなった。僕は彼女に残ってもらうよう頼んだ。
 
「で、なに?」
 三人が帰った後で、彼女は言った。
 僕は頭を掻いた。いざこうして二人きりになると、どう切り出していいのか分からなくなってしまった。もともと確証のない話ではあるのだ。ディルの名前を出して直に注意を促すのは、端から彼を疑っているように思われかねないので、なるべく避けたかった。
「君は、いつからこの森にいるの?」
 結局、当たり障りのない質問から入ることにした。
「いつからって、ずっとだよ。この森ができてから」
「森が、できてから?」
 僕は怪訝に思った。ゲームを始めてから、というなら分かるけど、森ができてからというのは、どういうことなんだろう?
 どう返していいのかわからず黙っていると、彼女は含み笑いを浮かべて。
「キミもディル君も、ずいぶんわたしたちにご執心のようだねぇ」
「ディルのことを知ってるの?」
 面食らいつつそう訊くと、彼女は不敵に笑った。
「森であったことなら、なんでもわかってるよ」
 ということは――。
「やっぱり君は、管理側の……」
「ブー。それもハズレ」
 僕の言葉を遮って、彼女が言った。
「だいたいね、ここがゲームの中だなんていう感覚でいるから、そんな狭い了見にとらわれちゃってんだよ」
「どういうことだよ」
 はぐらかされるのは、もう沢山だった。
「ここがゲームでないなら、何なんだ? はっきり言ってくれよ」
「はっきり言えないから困ってるんだけどねぇ」
 彼女は憮然とした表情で、腕を組んだ。
「この森のこと、本当に知りたい?」
「もちろん」
 その返事に彼女は苦笑して、仕方ないなと呟きながらひとつのURLを僕に教えた。
「森のことが知りたければ、そこにアクセスしてみるといいよ。ただし、信じる信じないはキミ次第だけど。ま、そのへんはネットウォッチの原則と同じやね」
 そう言って、彼女はふわりと浮き上がった。
「んじゃね。機会があったらまた会いましょ。……あ、そうそう」
 帰りがけに思い出したように、付け加えた。
「そのアドレスだけど、もしファイルが消えていたら図書館で探してね」
「え……?」
 こちらの反応など気にも留めずに、彼女は森の奥へと飛び去ってしまった。
 依然として疑問は尽きないが、とにかく彼女に教えられたアドレスに飛んでみることにした。
 森を抜け、ログオフしてゲームを閉じてから、ブラウザを立ち上げる。そしてコピーしておいたURLを貼りつけて、実行した。表示されたのは。
 404 not found――ページが存在しないことを告げるエラーメッセージだった。
 ……………………。
 彼女に一杯食わされたのだろうか。それとも、普通にアドレスを間違えた?
 ――そういえば、別れ際に彼女が言っていたな。ファイルが消えていたら……。
 図書館。それはどこにある? まさか実際の図書館のことではないだろう。ネット上の図書館といえば……。
 分かった。ネットでの図書館といったら、あそこしかない。ブックマークはしていなかったので、サーチエンジンで検索をかけてから、そこに飛んだ。
 Internet Archive――九十六年以降に存在した世界中のありとあらゆるウェブサイトを収集しているサイトだ。検索機能も備えており、過去に消えてしまったサイトなども、アドレスさえ分かれば調べて表示することができる。
 僕は再びアドレスを貼りつけて、検索を実行する。引っかかった。九十九年の七月に、一件だけ。クリックしてみると、ページが表示された。
 それは、とある日記だった。
 
 
十 bitの中の妖精
 
  六月二十一日
 
 今日はまるまる学校を休みましたです。はい。
 なんか全般的にダルくて。いや、体調はいたって健康そのものなんだけど、気分的に、ね。六月にひとつも祝日がないのは変じゃないかと言ったのは、のび太だったか久米宏だったか。とにかく、今のわたしには休養が必要なんだ。きっとそうだ。と、勝手に判断したのであります。
 休むのはとっても簡単。親が起こしに来るまでベッドから起きなけりゃいい。そして調子の悪そうなふりをする。このへんはもう何度もやっているので、まさに迫真の演技だ。病気がちな高校生を演じさせたら天下一品だと我ながら思ってる。その証拠に、これまで仮病をやって一度も失敗したことがない。
 だいたい、学校なんざ毎日通うような場所じゃないよ。個性もへったくれもない制服を着せられて、うんざりするぐらい見慣れてしまった通学路を歩いて、学校なんて偉そうな名前のついた、秩序と混沌が入り混じったようなワケのわからない箱に入れられる。六歳からずっとこんな所に放り込まれる子供の身にもなってみなさいっての。
 いったいアレは何様のつもりだかね。登校の時間、授業の時間、昼休みの時間、部活の時間、下校の時間。時間時間じかんじかん……まったくもって煩わしい。どうしてそんなに何もかも時間で区切ろうとするのか、さっぱり理解できない。時間で始まり時間で終わる社会。そう考えれば学校ってのは、社会の一部であると同時に、縮図でもあるのかもしれない。地球が太陽を中心にして回っているように、いまの社会も学校も、時間を中心に回ってるんだ。こりゃガリレオさんもコペルニクスさんもびっくりだ。
 ……えっと、なにが言いたかったんだっけ。まあいいや。
 いちど、校門の前に立ったまま学校には入らずに、建物をぼーっと眺めていたことがあった。チャイムが鳴っても、授業が始まっても、校門の柱に半分身を隠しながら、真新しい住宅地の家並みに囲まれてひときわ目立ってる、薄汚れたコンクリートの塊を観察していた。
 そうしてつくづく思う。校舎の真ん中、三階の高さの壁にかかっている、なんの変哲もない時計。実はあれこそが「学校」なるものの本体なんじゃないかって。時計の針が決められた刻限を指すと、中の生徒や先生たちがいっせいに動き出す。けれど、あのひとたちはただの「飾り」なんだ。ちょうど駅にあるからくり時計みたいな感じ。時計のまわりで人形が踊り出そうがトランペット吹こうがシンバル鳴らそうが、本体はあくまで時計なんだ。
 そう考えるようになってから、ちょっと鬱っぽくなってしまってね。それで、学校にもあまり行く気がしなくなった。だって校舎に入ってしまえば、わたしもからくり人形のひとつになってしまう。そんなのゴメンだね。わたしの貴重な一日の三分の一を、あの大きな半機械仕掛けの時計の中で過ごすなんて、考えるとそれこそ鬱になる。
 けれど、学校に行ったら行ったでみんな、休みがちのわたしを心配してくれる。人並みに。少なくとも気休めにはなる。でも、疎外感はぬぐいきれない。からくり人形のみんなはそれなりに楽しそうにみえる。それをずっと眺めてると、こんなコトばかり考えてるのはわたしだけじゃないかって思えてしまうから。
 長いことネットなんていう下世話な場所にどっぷり浸かってるとね、どうしてもものの見方が冷めてくるんですわ。そりゃ今じゃ老若男女、世界じゅうどこでもフツーにホームページを見たり、へんてこな生き物にメール運ばせたり、好きな音楽をタダで頂いちゃったりしてるけど、あの時代は中学生の女の子でネットやってるなんてのは、フツーじゃなかった。そもそもPC持ってるのだってまだまだ稀少なヤツだったんだから。パソコン=オタクのアイテム、という構図が厳然と成り立っていた時代ね。
 そんなだから、わたしは学校でパソコンの話を一切しなかった。それどころかPCを持ってることすら隠していた。今だって知ってるのはほんの二、三人の友だちだけ。うちひとりは自分のPCを持ってて、ネットも最近始めたらしい。URL教えてもらってHPにも行ったけど、なんだかすごく楽しそうだったね。公園ではしゃぐ子供をベンチから眺めてるご老人のような気分になっちゃって、思わず目が潤んでしまった。ちくしょう。ディスプレイが目にしみるぜ。こんどフィルタでも買いに行こうか。
 わたしだって昔はみんなに混じって「楽しそうな」HPを開いてたことがあった。こんなしけた日記ページじゃなく。そこそこ繁盛だってしてた。けど、しょせん商売でやってるのとは違うやね。たくさん人が訪れるにつれて、管理する負担も日増しに大きくなっていった。訪問者(ほとんどがわたしより年上だったと思う)はいろんな形でわたしにプレッシャーを与えていく。
「がんばってください」これ以上なにを頑張れっていうんですか。
「〜のページは作らないんですか?」どうしてそうヒトの仕事を増やそうとする。
「最近更新がないですね」忙しいんだってば。少しぐらい休ませてくださいよ。
「チャットが荒れてます。対策をお願いします」なんだってそこまで面倒をみなきゃならんのよ。
 で、結局HPは二年そこそこで閉じた。こういう要望に逐一応えるのが管理だってんなら、そんなのやってらんないね。いくら好きでやってるからって、周りにあーしろこーしろと意地悪な姑みたく言われれば、嫌気もさしてくるよ。わたしは管理するためにHPを開いたんじゃない。好きなことをみんなに広めたい。みんなと話をしたい。それだけのことだったのに。
 ネットってのは実社会以上に個人主義の世界なんだ、と思う。小学生だろうが大企業の社長だろうがネットの上では対等の立場だ。そこまで言うとちと大げさかもしれないけど、オフラインでの活動がオンラインのコミュニケーションではなんの意味がないというのはわかるでしょ? 男が女のフリをしたり、いろんな名前を使い分けたり、そんなことが当然のようになされてる「社会」なんだから。そのかわり、そこで起きたことの責任はすべて自分が負わなきゃならない。まだ子供だから親の責任、というわけにはいかないのね。
 だからこそ、自分で自分を守る術はちゃんと身につけておかないとダメなんだ。掲示板の書き込みも、チャットでの発言も、すべて自分の責任。なのにそこでの諍いをどーして管理人のせいにするわけよ。……いや、そもそも管理っていう言葉がいけないんやね。HP――少なくともプライベートに開いてるようなサイトでは、「管理人」というのは相応しくない。だいたい最初っから管理しようなんて意気込んでHPを作ったひとなんざほとんどいないでしょうに。好きなことを好きなだけやるのが目的なんだから、管理なんて面倒なものは二の次だ。それでいいんだって。そういうことは無責任にやるのがいちばんだ。管理なんてものに振り回されてたら「個」が潰されちまう。そりゃページの内容については作者の責任だろうけど、どうして他人同士のケンカの仲裁までせにゃならんのよ。
 わたしのHPは家でも店でも会社でもない。公園であることを望んだ。そして自分もその公園の愛好者のひとりだったんだ。暇なときにちょこちょこと木の手入れをしたり、遊具を取り替えたりして、のんびりとひとときを過ごしていた。けど、ひとが増えてくると、そこでは事故や小競り合いが多発するようになる。困った人々はわたしに対策を求めた。
「だってあんた、管理人でしょ」
「違うね」
 そして、公園は潰れた。それだけのことだ。
 個人って、一体なんなんだろうね。ひとはみんな、なにかに所属して、なにかに寄っかかって、なにかに縋りついて生きていこうとしたがる。それがフツーだってんなら、ネットというのは非人間的な世界なのかもね。まあ、所詮は文字だけのコミュニケーションだし。
 とりあえず、なんでも管理人に頼ろうとするのだけはやめてほしい。言いたいことがあるなら本人に言って。話の通じないような奴だったら無視すりゃいい。ルールをわかってないのならあんたのルールを教えてやって。それでケンカになったらメールでもメッセンジャーでもいいから一対一で納得いくまで話し合いなさい。どうせ殴り合いにはならないんだから。
 ネットなんてのは、それこそ個人がたくさん集まったような世界だ。どこにも「集団」なんてのはない。オフラインの社会が固体だとしたら、ネットはいわば液体のような世界やね。わたしたちは分子の一粒一粒だ。周囲とは緩やかにつながれているだけで、しじゅう不安定な状態にさらされてる。だからオフ以上に個人が試される。地位も職業も引っぺがされ、三途の川の渡し賃もなく、すっぱだかの状態で歩きまわらなきゃいけないんだ。あんたが残した足跡は、あんた自身が消していかなきゃならない。
 ところが、そのへんのことをわかってないバカチンどもが最近増えてきてる。最近じゃ、東芝の問題なんかがいい例だ。なんかどーでもいいようなひとたちまで、騒ぎ立ててるでしょ。集団(仮)でぎゃあぎゃあ喚いていればなんとかなると思っているんかね。別にそれは集団でもなんでもなく、ただの「個人の集まり」だということに気づいているんだろうか。気づいてないんだろうな。
 まったく、いつからネットはこんなに騒がしくなったんだ。どんな場所でも人がたくさん集まるとロクなことがないね。疲れるし、なにより面倒っちい。
 あの静かな森が、懐かしいよ。
 
 森。
 
 ねえ、妖精って信じる? ……いや、いきなりでゴメン。
 妖精。お伽話なんかに出てくるアレね。羽のついてるちっこいやつだったり、子供ぐらいの大きさだったりするけど、大抵は森に住んでいる。人間にちょっかいかけたり、逆にいじめられたりもする。
 その妖精が、昔はネットにもいたんだよ。
 ほんとうに。
 どうせ今日はずっと暇だから、その話をしようかね。
 
 確かにあの時代のネットには、妖精がいたんだ。
 
 
 なゆり。それが、わたしのもうひとつの名前だった。
 特に由来もなにもない。インスピやね。まだ中学に入って間もない頃だったし、名前ってのはもともとそういうもんでしょ。
 
 学校が終わると一目散に家へ帰る。みんなはほとんど部活に入っているので、下校はいつもひとりきり。家にも誰もいない。別に淋しくはないけど。
 部屋のPCをつけておいてから着替える。制服をハンガーにかけて振り向くと、灰色の背景に真っ白いウィンドウがわたしの操作を待ってる。そのまま椅子に座って接続開始。いつもの画面。寸分狂わぬ動作。パソコンってのはなにひとつ無駄がないし、操作すれば確実にその通りに動いてくれる。少なくとも、その時代は。
 フォーラムを一通り見て回る。ここではいろんなひとがいろんな話題を語り合ってる。いつもはここで面白そうな話題を見つけては読みあさったり、気が乗れば書き込んだりだってする。まあ、無趣味の中学生が参加できる話題なんてたかが知れてるけど。
 初めて書き込んだときは三時間も文章に悩んだ。画面とにらめっこして、ほんの数文字打っては消し、打ってはまた消しを延々と繰り返して、ようやく完成したのはわずか五行か六行の簡単な文章。推敲だなんて呼ぶのもおこがましいものだった。それでも、そのときのわたしにとっては、原稿用紙五枚ちょっきりの読書感想文よりもぜんぜん想いのこもった書き込みだったんだ。
 その日はあまりめぼしい話題はなく、行きつけのBBSも昨日見たときから話が進んでなかった。まあいいや。ひとまずフォーラムを後にして、パティオに行ってみることにする。
 パティオってのは、要するにチャットのこと。いくつか部屋があって、誰でも自由に入ってお喋りしたりできる。ロビーには待ち合わせ専用の掲示板もあって、そこで「○○が好きな人集まれ! 16日の7〜9時 白パティオにて」という感じに予定を書き込む。だから予約制というわけじゃないけど、半分そういうことになっていたりもする。そんなわけで常連以外には入りにくい場所なのね。わたしも今まで恐くて近寄ることもなかった。でも興味はあった。いちどチャットってのをやってみたかったから、待ち合わせ板をチェックして、この時間に予定のない緑色の部屋に初めて、おそるおそる入室してみたんだ。
 そこには先客がひとりいた。誰もいないと思っていたから、びびったよ。
 名前のところを見てみると『PIXY』とある。なんて読むんだろ? もしかして外人?
 戸惑っているうちに、向こうが話しかけてきた。
>こんにちは、なゆりさん。
 先手を打たれた。わたしは慌てて日本語入力をオンにして、返事をする。
>こんにちは。あの、わたしまだ初心者なんで、字打つの遅いです。
 こんな簡単な文だって、打つのに一分近くかかってしまった。
>気にしなくて結構ですよ。誰でも最初は慣れないものですから。
 向こうはわずか十秒足らずで返答。こりゃ常連かな。
>あの、PIXYって、どう読むんですか?
 さっそく気になったことを聞いてみた。
>「ピクシー」です。妖精って意味なんですよ。
 妖精?
>へえ。そうなんですか。
>サッカーでもそう呼ばれている選手がいるけど、知りませんか?
 あいにくわたしはスポーツはほとんど知らない。サッカーも球技大会で男子の応援はするけど、ルールなんてさっぱりわからない。要するに手を使わずに玉を蹴って、相手のゴールに入れりゃいいんでしょ。それだけ知っていれば声援を送るぐらいはできる。
>ごめんなさい。サッカーあんまり知らないので。
>そうですか。名前からすると女の子みたいですが、本名ですか?
>いえ。違いますけど……。
>由来とかは?
>特に意味はないんです。なんとなく、思いつきで。
 ホントに意味がないのだから、こう言うしかない。
>あ、でも、女ってのは本当です。
>ははは。
 そこ笑うとこと違う。くそう。ちょっと反撃したくなって、同じ質問を返してみる。
>PIXYさんは、なにか由来はあるんですか?
『PIXY』ってぜんぶ大文字だから打つのが面倒くさい。えーとCaps Lockをオンにするには……。
>由来、ですか。
 部屋の隅にある本棚からPCのマニュアルを持って戻ってきても、PIXYの言葉はそこで止まったままだった。
 あ、CapsLockはShiftを押しながら、か。これでOK。
 少しして、ようやく画面に文字が流れる。
>そういうのは、僕もないですね。
「ない」というのを、わたしは自分と同じくインスピなんだと理解した。
>じゃあ、わたしと同じなんですね。
>そうですね。
 そこでいったん会話が途切れてしまった。無意味な沈黙が続く。いや、沈黙といってもさっきから声は一言も発してないんだけど。「画面は黙った」そんな感じかな。
 わたしからなにか話を切り出してみようかと頭の中を一斉捜索したけど、なんせ初めてのチャットでのぼせていたから、話題なんて思いつくはずもない。そうしているうちに妙にそわそわしてきた。オフでも友だちと話をしているときに途中で会話がなくなってしまうことはあるけど、チャットでの沈黙はそれとは違う、それ以上にイヤな感じがする。なんだか画面に「入力せい」と脅迫されてるようだ。
 そんなこと言われたって、書くこと思いつかないんだからしょうがないじゃないか。向こうが慣れてるくせに黙っちゃうのが悪いんだ。焦りがだんだん苛立ちに変わった。
>PCは使ってどのくらいになるんですか?
 久々に画面が息を吹き返した。そしてその質問ではっと気づいた。もしかして、わたしが何か打ちこんでいるんだと思って、待っていてくれたんじゃないのか? そう思うと、少しでも向こうに腹を立てた自分が情けなかった。
>えと、まだ二ヶ月ちょっとです。中学入学といっしょに買ってもらったので。
>おや、中学生でしたか。
 向こうが意外そうに言う。そりゃびっくりするわな。昼間っからパソコンに向かってカタカタと文字を打っている女子中学生なんて滅多にいるもんじゃない。
>もうそんな時代になっているんですね。最近はPCも扱いやすくなっているから。良いことです。
 そんな時代になっている? その言葉のニュアンスに一瞬違和感を覚えたけど、大して気にはしなかった。
>それでも、まだまだ難しいですよ。さっきだってCapsLock点灯させるのにマニュアルまで持ちだしたし。
>ははは。
 まただ。この乾いた笑い。バカにされているようにも思えるけど、なんだか知らずと引き込まれてしまうような。
 その先は学校であったことをだらだらと話した。いま思えばたわいもない、つまらない話。向こうもよくもまあ、そんなのにつき合ってくれたなと妙な感心さえする。それでも話題を提供するのはもっぱらわたし。PIXYは自分のことをほとんど語ろうとはしなかった。
 そうして、一時間半ぐらい話しこんでから、わたしたちは別れた。PIXYとの出会いは、まるきり記憶の隅に追いやられて、掘り起こさないと発見されない遺跡みたいに埋もれていた。あるいは夜空の五等星か六等星みたいに、目を凝らしてもほとんど見えない程度のものだった。
 けれど、たとえ六等星でもそれがなければ星座はできあがらない。その出会いが話の始まりであることは、間違いないんだろう。
 
 PIXYはよく思想めいたことを口にする。わたしがクラスメートにむかつく奴がいるという話をしたときも、あれこれ小難しい理屈で窘められ、気がつけばワケのわからないまま丸め込まれてしまった。おかげで、明日あたり文句をつけに行ってやろうと思っていたわたしの気はすっかり削がれて、次の日も平穏な一日を過ごすこととなった。それが良かったのか悪かったのかは、そのときのわたしには判断できなかった。
 
 彼はコンピュータミュージック(DTMというらしい)をやっているみたいで、よくその手のフォーラムに顔を出していた。たまにわたしも覗いてみることがあったけど、内容は専門用語の羅列でさっぱり理解できなかった。それでも、彼がいろんなひとの質問に答えていて、みんなに一目置かれている存在なんだということはわかった。
 
 わたしたちは、少しずつ仲良くなっていった。年上のひとと話をするのは緊張するけど、彼はわからないことも丁寧に教えてくれた。ネットやPCのことはホントに詳しくて、知らないことはないんじゃないかと思えるぐらいだった。
 
 夏休みの終わりごろ、宿題に追われていたわたしは気分転換がてら、ネットにつないでいつもの場所に行った。そこにはいつものようにPIXYがいた。
>しばらく見かけませんでしたね。どうかされたんですか?
 宿題をやっていたんで、と返事すると、彼は。
>ああ、宿題ですか。大変ですね。
 ……ホントに大変だと思ってるのだろうか。
 わたしは中学生の夏休みの宿題を本気で大変だと思っている大人を見たことがない。宿題を出した張本人――先生のこと――は「これぐらい大した量じゃない」なんて平気でぬかしやがるし、親も上っ面は大変そうな言葉をかけるけど、内心ほとんどどーでもいいような感じだ。政治家がどっかから汚い金もらったとか、なんかの果物の輸入を自由化したとか、そういうことはしきりに騒ぎ立てるくせに、社会における中学生の宿題の重要性なんてろくすっぽ議論されやしないじゃない。ホントにこれが子供のためになると、みんな信じてるのか? 夏休み最後の日になって解答を丸写しすることが、なにかの役に立つとはとても思えない。この作業でわたしが学んだことといえば、いかに素早く、かつ手を疲れさせずに書き写すことができる技術と、全問正解だと写したんだとわかってしまうからアトランダムに「間違い」解答をしたり、数学なら薄く計算の痕跡を残しておいたりと、テキストに小細工をする技術だけ。ああ、でも、こういう技術はのちのち役に立つかもね。ほら、脱税とかで、ニセの書類を作ったりするでしょ。
 ……また脱線してしまった。わたしの悪い癖だ。
>でも、まだ終わってないんですけどね。
>わりと最後の日まで残ってしまうほうですか?
>そうですね。夏休みが始まる前に終わらせる人とかいるけど、わたしにしてみれば信じられないな。
>ははは。まあ、人それぞれですからね。最初にやってしまう人が偉いわけでもないし、最後まで残しておく人が偉くないというわけでもない。あくまで「夏休み」の宿題なんだから、その期間に終わらせることができればみんな同じですよ。
 わたしはちょっと驚いた。いつも「宿題は早めに済ませておくこと」と言われてきただけに、この言葉は新鮮に聞こえた。
 PIXYに好感を持ったのは、そのあたりからだった。他の大人たちとは違うなにかを、わたしは感じ取っていたのかもしれない。
 
>PIXYさんって、どんな曲を作ってるんですか?
 わたしは聞いた。
>あんまり特定のジャンルはないですね。どちらかというと、落ち着いた感じの曲調が得意ですが。
>へー。
 へー、としか言えなかった。なんせわたしは音楽のことはまったく知らなかったから。モーツァルトとモーニング娘。の区別さえつかない。
>一応これでも、いくつか曲を公開していたりするんですよ。下手の横好きですけどね。
>公開?
>ええ。HPのほうにアップしてあります。
>HPって、なんですか?
 今じゃ信じられないかもしれないけど、当時のわたしはWWWの存在を知らなかった。わたしはこの三ヶ月間、プロバイダのフォーラムの中だけをちまちまと動き回っていたんだ。それがインターネットなんだととんでもない思い違いをしていた。
>ホームページですよ。行ったことないですか?
 ホームページ。どこかでなんとなく聞いたことがある。わたしにしてみれば、その存在は幽霊とそんなに変わるものではなかった。幽霊はいると思いますか? たぶん、いるだろう。それでは、ホームページはあると思いますか? たぶん、あるだろう。
>とりあえず、ブラウザを落としてきてください。
 無知なわたしのために、ソフトライブラリの場所まで教えてくれた。
 行ってみると、意外にあっけなくブラウザは見つかった。ダウンロードして、インストールも問題なく終わった。PIXYにはチャットで待っててもらって、さっそく起動することにする。
 画面いっぱいにウィンドウが広がる。そこに表示されたのは、なにやらそのブラウザを制作した会社のホームページらしい。画像と文字。特に新鮮味はなかったけど、不思議な解放感と緊張感があった。初めて田舎の親戚の家にひとりで行ったときも、こんなふうに感じたっけな。
 画像はもったいぶるように上から下へのろのろと表示される。新着情報、最新版のダウンロード、サポートページ……そして、無味乾燥な、当たり障りのないテキスト。初めて見た外の世界《インターネット》は、どこかよそよそしく、冷たく、平面的だった。
 そう感じたのは、たぶん仕方のないことだったと思う。その時代のWWWは、まだまだ未熟だったから。そりゃ今じゃデザインもいろいろ工夫することができるけど、当時のHTMLでできることなんてたかが知れてたからね。フレーム表示すら特殊な部類だったんだから。うかつにやってしまうと客から「見られない」とクレームがつくぐらいで。せいぜい画像をたくさん使って外見上は煌びやかに(けど表示にえらく待たされる)装うのが関の山。普通に個人でやってるサイトは、蟻の行列みたいなテキストで埋めつくされているのが当たり前だった。テキスト形式で書いたものをそのままネット上に流しているのとほとんど大差ない。今ならメールでさえもっと洒落たものが送れるのに。
 まあ、そんなこと言ってても始まらない。栄えるものは、変わっていく。モノゴトは大体そういうものだ。
 PIXYから教えてもらったアドレスをブラウザに入力してみる。パッと画面が切り替わる。森を真上から見たような背景が読み込まれ、そこに『妖精の森』というタイトルが表示された。
「あなたは 08755 人目のお客様です。
 このサイトではオリジナルのMIDIデータを公開しています。拙い作品ですが、お楽しみいただければ幸いです。曲の感想等ございましたら、メールか掲示板にてお送りください。
 なお、データに関してはすべてフリーですので、ご自由にHPのBGMとして使用していただいて結構です。
 妖精との出会いが、あなたにささやかな幸を運ばんことを。」
 その文章の下にはいくつか項目があった。ライブラリ、DTM研究室、掲示板、チャット、リンク。あとは署名とメールアドレスが記されていて、ページは大きな波乱もなく終わっていた。とりたてて特徴のあるわけでもない、平凡な内容。
 けれど、わたしはこのHPを開いたときから、なにか変な感じがしていた。脳の奥のもっと奥の方にある何かが、わたしに奇妙な違和感を訴えていた。
 しばらくしたらその感覚も治まってきた。あんまり画面をじっと見つめすぎたものだから、首がこわばってしまった。頭を回してほぐしてから、ついでに伸びをする。
 けっきょく何だったのかよくわからなかったけど、さっきからずっとPIXYを待たせたままだったので、とりあえずブラウザはそのままにして、チャット室に入り直した。
>見れました。すごいですね。
>そんなに大したものでもないんですよ。基本的なHTMLさえ覚えれば、このくらいは誰でも作れます。
>わたしでも?
>ええ。プロバイダが提供してるサーバにファイルをアップするだけですから。
 その頃はHTML専用のエディタなんて存在しなかった。せいぜいよく使うタグを登録しておいて、テキストエディタに貼りつけていくタグ挿入式のものがごくわずかにあっただけ。
>音楽は聴いてくれましたか?
>あ、今から聴きます。
 ブラウザに表示されてる項目の中から「ライブラリ」を選ぶ。データを保管してある場所をライブラリと呼ぶのは、これまでのネット経験上知っている。
 曲の一覧が表示される。わたしはためしに上から三番目の曲をクリックしてみた。『Another humanity』というタイトルだった。
 モニタの両側についてるスピーカーから音楽が流れだした。わたしはネットで音楽が聴けるということを知って、最初のうちはいささか肝を潰しながら聴き入っていたけど、そのうちになんとなく物足りない気分になった。
 音楽が、ファミコンなのだ。……いや、つまり、いわゆる「ピコピコ音」と表現される部類の音色だった。パソコンで慣らせる音楽なんて、所詮こんなものなのか? これならスーファミのほうがまだいい音が出せる。
>聴けました。……けど、なんかファミコンみたいな音ですね。
>ああ。それは、正規の音源ではないからですね。
 正規の音源? なんのこっちゃと首をひねっていると、察してくれた彼はまた別のアドレスを教えてくれた。
>とりあえずこのサイトに行って、ソフトを落としてきてください。
 なんだか今日だけでかなりのデータを落としているような気がする。念のためハードディスクの空き容量をチェックしてみた。まだ多少の余裕はありそうだ。
 アドレスを選択、コピー、そしてペーストして実行する。そこはなんとかっていうソフト音源のサイトであるらしかった。
 言われたとおり、そこに置いてあるファイルを落としにかかる。サイズはかなり大きめだったので、なんだかんだで完了までに一時間もかかった。その間ずっとチャットで話をしてたせいもあったのだけど。14kbps程度の転送速度では、ちょっと他事をやろうとするとすぐに速度が落ちてしまう。ひとつひとつ作業をこなしていったほうが効率的なんだ。
 落とし終わったところで、すぐに実行して彼の曲データを聴いてみる。すると音色が見違えるほど良くなっていた。
 不思議なもんやね。さっきまでファミコンだった曲が、ちょっとソフトを動かしただけでたちまちスーファミに格が上がってしてしまった。ずっとファミコンとスーファミはまったく別のもの、キリンと象ぐらい違うものだと思っていたけど、このとき初めてどっちも同じコンピュータなんだと実感した。キリンも象もサバンナの生き物だと知ったときのように。
 音楽は明るくもなく、暗くもなく、テンポもせわしくなく、かといってのんびりしてるわけでもない。なんというか、すごくナチュラルな曲調だった。わたしは音楽のことは人並み以下の知識しかないけど、これが名曲というべきものでないことはわかった。空気のように、聴いたことすら実感できないような希薄な曲だった。
 小さな病院の待合室にこんなのが流れているな、と思った。聴き取れない一歩手前までボリュームを下げて流すんだ。みんなはそれで落ち着く。でもわたしはあれを聴いてると、ひどくそわそわしたものだった。どうもわたしは音楽で安らぐという感性を持ち合わせてないらしい。たとえ無害な音楽を流したところで、病院がイヤな雰囲気の場所であることに変わりはない。
 でも、少なくともその曲を聴いてそわそわすることはなかった。むしろ落ち着いた。待合室にこれが流れていそうな病院を想像してみる。普通の病院ではないな。もっと、こう、メルヘンチックな……。
 森の病院。
 ふと、そんなフレーズが頭をよぎった。いったいどこから森なんて出てきたのか、自分でもわからなかった――今思えば、HPの背景になってた森の画像をずっと見てたせいだったのかもしれない――けど、音楽を聴いているうちに、自然と森のイメージか浮かんできたんだ。
 森の中にある病院。そんなのがあれば、わたしは毎日でも通っただろうな。大して調子が悪いわけでもないのに寂しさをまぎらすため通い詰めるお年寄りみたいに。きっと待合室の椅子は切り株だ。医者は間の抜けてそうなタヌキで、看護婦はリスだ。木の実の薬にハッカの軟膏。なんて素敵な病院だろう。
 ここでわたしがマズったのは、うっかりイメージをそのままPIXYに言ってしまったことだ。
>まるで、森の病院みたいですね。
 と。
 彼はたぶん、面食らったんじゃなかろうか。珍しく返答に時間がかかった。待ってる間、わたしはひたすら後悔した。しょうもないことを言ってしまった。
>森の病院、ですか。面白い表現です。誰も僕の曲をそんなふうには言わなかった。
 当たり前だ。いったいどこの誰が曲を聴いてタヌキの医者を思い浮かべるだろうか。
>ごめんなさい。でも、冗談じゃなかったんです。
>わかってますよ。それはあなたの正直な感想なのでしょうね。そのことは僕にも伝わってきました。
>伝わってきた?
>なんとなくね。ずっと感想みたいなものをもらっていると、ちゃんと聴いてくれている人とそうでない人の区別はつくようになるものですから。
 そんなものなんだろうか。
>そんなものなんですか。
>そんなものなんです。
 感想もなにも「森の病院みたい」と訳のわからん発言をしただけなのに、そこまでわかるとはちょっと思えなかった。
>それに、森というのも、あながち間違いじゃないんですよ。
 彼は言った。
>タイトルをつけるとき、最初は森に関連した名前を考えてましたから。
>ホントに?
>どうなんでしょう。
 ……もしかして、からかわれてる?
>どっちなんですか。
>まあ、それはご想像にお任せしますよ。
 適当にはぐらかして、彼はその話題を打ち切った。
>夜も遅いから、そろそろ失礼しますね。
>あ、はい。
 まだ納得してなかったけど、しぶしぶ返事した。
>よかったら掲示板にも顔を出してもらえると嬉しいです。
>ぜんぶ曲聴いて、感想書きますよ。
>楽しみにしています。それでは。
 
 PIXYのサイトを初めて訪れたときの感覚。それがなんだったのか、そのときのわたしはほとんど気にしていなかった。けれども、間違いなくそこにはなにかが潜んでいたんだ。不思議なもの、得体の知れないもの。人間はそういった存在を、こう名づけた。
 妖精、と。
 
 
 わたしのネット漬け生活は日に日に加速していった。テレホーダイというのを知らなかったものだから、電話代がとんでもないことになっていて、親に説教も食らった。それでも、やめられなかった。
 
 PIXYのサイトには掲示板があった。見てみると、数人の「常連」たちが占拠していた。まあ、よくある話だ。新参者は入りづらい雰囲気だったけど、彼とも約束していたので、思いきって書き込むことにした。
「みなさん初めまして。なゆりといいます。
 PIXYさんには以前からいろいろお世話になってます。
 こないだ言った通り、曲をぜんぶ聴ききました。すごいです。感動しました。
 音楽のことは全然わからないんですけど、なんというか、PIXYさんの想いがこもっているような気がしました。
 これからちょくちょく遊びに来ますんで、これからもよろしくお願いします。
 新曲がんばってください。」
 今になって読み返すと、こっぱずかしい文章だ。けれど、そのときにわたしには、これがベストだったんだ。誰にだってこういう時期はある。と、言い訳をしてみる。
 その日は夜中の三時ぐらいまでネットをふらついていたのだけど、自分の書き込みに誰かがレスしてないか気になってちょくちょく掲示板をのぞきに行った。けど、誰もわたしのあとに書き込んだ人間はいなかった。結局三時になったところで諦めて寝た。
 次の日になって再び掲示板をのぞいてみると、常連はわたしのカキコをまったく無視して、別の話題で盛り上がっていた。反応してくれたのはPIXYだけだった。音楽の知識のない素人の書き込みなんざ、どーでもいいわけだ。ま、文章自体がPIXYへの私信みたいな感じだったから、レスしづらかったというのはあるんだろうけど。
 それ以降もめげずに、というか懲りずに掲示板への書き込みは続けていった。相変わらずグループの輪には入れず、応対してくれたのはPIXYだけだったけど、半ば無理やりそのHPの常連となってしまった。
 常連グループにとってみれば、わたしはいないも同然の存在だった。言うなれば家具と壁の隙間に落ちたまま忘れ去られた可哀相な十円玉みたいなもの。ゴキブリのエサにもなりゃしない。構ってくれないどころか、わたしの存在は目障りにすらならないみたいだった。
 それならそれで結構。わたしは開き直った。どのみちあんたたちと馴れ合うつもりはないんだからね。
 
>まあ、あまり良いことではありませんよね。
 常連の存在について、彼は言った。
>別に楽しんでいるならそれでいいじゃないかという考え方もあるのだけど、僕はそう思わない。特にこういうオープンな場所で、内輪話のような話をされるのは、ね。
>なんか注意したりはしないんですか?
>ありませんね。良かれ悪しかれ、流れに抗わないのが僕の流儀ですから。それが今の流れだというのなら、あくまで見守るまでです。
 弱腰のような気もしたけど、管理人がそう言っているのだから、しょうがない。
>けど、なんか不思議ですよね。遠く離れた別々のひとたちなのに、ネットの中では「常連」だなんて。
>そうですね。果たしてそれが仮想上のコミュニティだと気づいている人は、どれだけいることやら。
 おや。PIXYの話し方が、少し変化したように感じた。
>現実と同じようなコミュニケーションをネットに求めること自体、どだい無理な話なんですけどね。
>どうしてですか?
>ネットというのは元来、流動的なものですからね。固定されたものを築こうとする現実とは、根源から異なっているんです。
 言ってることが、うまく呑み込めなかった。返答に困っていると、彼は続けた。
>そういう意味では、ネットは場所というより、時間の概念に近いのかもしれないですね。僕らは、時の流れを介して言葉を交わしている。
 時間? ますますわけがわからなくなった。
>なんか、うまくイメージできません……。
>みんなそうだと思いますよ。だからこそ、ネットを場所に置き換える考え方が一般的になったんでしょう。時間だなんて言っても、ほとんどの人は理解できませんからね。でも、そのおかげで歪みも生じてしまった。
>歪み?
>ええ、歪みです。性質の違うもので置き換えてしまったために、ズレていっているんですよ。少しずつ、確実に。
 変な人だと思った。ネットが時間だなんて、他に誰がそんな説を唱えるだろう。でも、そんなふうに考える彼は、嫌いじゃなかった。
 歪んでいるんだ。なにかが、決定的に。――たぶん。
 
 
 秋が静かに終わろうとしていた。でもやっぱりわたしには関係ない。ディスプレイの向こうの窓から見える景色が遷移していくだけのことだ。もちろん、学校を中心とした現実の生活に季節は直結している。文化祭が終わり、体育大会が終わり、そろそろコートを出す時期にさしかかっていた。けれども、ネットの中でそれはまるで意味のないことだった。ネットに冬支度は必要ない。
 現実との乖離――非現実が、わたしの生活の主流となっていた。
 
 わたしは相変わらずPIXYのHPに入り浸っていた。他のサイトにも足を運ぶことはあるけど、基本はやっぱり彼のサイトなんだ。一体どうしてそんなにPIXYを慕っていたのか、自分でもよくわからない。もしかしたらそれはある種の恋だったのかもしれない。とにかくわたしは夢中だった。ネットという不確定な場所に、そして、PIXYという存在に。
 PIXYは自分のことをいっさい話さなかった。それはわたしに対してだけではなく、常連グループに対しても同じことだったようだ。掲示板をチェックしている限りでは、彼らがPIXYのプライベートについて触れたことは一度もなかった。彼は誰に対しても潔癖でいるようだった。
 
 わたしがこのHPに留まっている間、PIXYは新しいデータを何曲か公開した。わたしはそれを欠かさず聴いた。
 知識のない人間が言うのもおこがましいけど、どの曲も月並みで平凡な印象を受けた。音楽だけを聴くんじゃなくて、なにか別の映像と一緒に流してみるといいかもしれない、と思った。要するに、BGM向きなんだ。わたしに森の病院を思わせた『Another humanity』なんかもそう。単独では弱いけど、組み合わせればすごくいい感じにシンクロしそうな気がする。
 DTMの知識も多少は身についてきた。わたしがPIXYに言われて落としたソフトシンセも厳密には「正規の音源」ではないこと。ちゃんと意図した通りに演奏させるには外部音源を買う必要があること。それは中学生が小遣いで買えるような金額ではないこと、などなど。別にデータを作るつもりはないから、細かいことまで知る必要はないけど。
 
 掲示板にも相変わらず、まめに出入りしていた。チャットでも心おきなくPIXYとお喋りした。彼はわたしにいろんな話をしてくれた。常連グループには絶対に話せないようなことも。わたしはそれが嬉しかった。
>技術に拘泥していれば、やがて技術に溺れます。
 こうでい。中学生が相手なんだから、もう少しわかりやすい言葉を使ってくれたっていいだろうに。
>MIDIの技術についてああだこうだと議論しているのは、あまり良い状態だとは言えませんね。音色がどうとかエフェクトがこうとかいったことはあくまで副次的なものに過ぎません。伝えたいことがしっかりと表現できているなら、それこそ音源が違っていたって伝えられるんです。なゆりさんが感じ取ってくれたように。
 掲示板で常連が技術の話ばかりしていることに大して、彼はそう言った。わたしの気持ちを代弁してくれたようで、胸が空いた。
>なゆりさんは『ドラゴンクエスト』はやったことありますか?
>ええ。あります。
 わたしはどちらかというとFF派だけど、DQも欠かさずプレイしている。
>あのゲームで流れている序曲、あれは本当にいいものです。オーケストラにしたCDも出ていますが、やはりゲームで流れているそのままの方がいいですね。たかがゲームの音源です。音も音楽を構成できるギリギリの数しか鳴らせません。でも、そのことが逆に音楽にかつてない緊張感を生み出している。発音数が限られているからこそ、不要な音はばっさり切り捨てられ、純粋にメロディとして洗練されていくのです。音楽として成立するギリギリの演奏がもっとも音楽らしいというのも、なんだか皮肉な話ですがね。
 感覚としては、なんとなく理解できた。DQをやったことのある、いや、やったことはなくてもその話題に触れたことのある人間なら、あの序曲を聴いただけで誰もがそれはDQだとわかるだろう。つまりあの音楽は、ゲームとわたしたちの橋渡しをしているんだ。橋渡しができるだけの魅力を『序曲』は備えている。それはほんとうに貴重なことだった。少なくともFFのプレリュードではこうはいかない。
>そういえば、掲示板でゲーム音楽の話が出てましたね。
 内容はよく覚えてなかったけど、そんなようなやりとりがあった気がする。
>あれは最近ネットに多くなってきている、コピー曲に対する話ですね。
 DTMをやっているひとたちの中には、歌やゲームのBGMを耳で聴き取って、それをそのままデータに打ち込んでいくという器用なことをしている連中がいる。一般にその行為を「耳コピー」あるいは「耳コピ」と言ったりする。常連たちはオリジナルの曲を作っていたから、そういう輩をあんまりよく思ってなかったのかもしれない。
>PIXYさんはどう思います? そういうひとたちのこと。
>別に構わないと思いますよ。作りたいと思うということは、それだけ楽曲が魅力的だということだし、公開することで曲も遍く知られるようになるわけですから。ただしそれは、著作権のことを抜きにした場合での話ですがね。
>著作権ですか。
 その言葉でわたしが思い浮かべたのは、マンガやTVでなにかの曲が出てきたときに隅っこのほうにちっこく記載してあるやつ。なんだったかな。確か『日本音楽著作権協会』だ。ちょびっと曲を使うだけでも許可がいるなんて大変だなとつくづく思ってた。
>そのことを持ちだしてしまえば、コピー曲はことごとく法に反しています。それは間違いありません。しかし事はそう単純でもない。事態を複雑にしているのは、それがネット特有の贈答の文化に結びついていることです。おそらくこの問題は表面化すればこじれるのは確実でしょう。ただ、僕はそれ以前に、現実での法律をそのままネットで適用すること自体が正しいことなのかどうか、判断できない。
>判断できない?
>法は固定された存在です。前にも言ったでしょう。本質として流動的なネットに、固定されたものは築けない。ところが今、あらゆる方面でそれを行う動きがある。半ば無理やり固定されたものを築こうとしています。その影響で、ネットが徐々に鈍化して、濁っていくのを、僕は感じています。まるで流れを堰き止め、コンクリートで固めてしまった川のように。もちろんダムを造るには理由があります。だからこそ、判断できないのです。ただ、少なくとも僕の居場所はなくなる。
>居場所?
 聞いても、彼からの返答はなかった。沈黙が続く。
>ネットに人が増えるのは大歓迎ですが。
 ふたたび彼が話し始めた。
>彼らは現実世界で行ってきた「歴史」までも、そのままネット上で繰り返すつもりなんでしょうか。森を切り開き、大地を開拓し、自分たちの論理で先住民を追いやった、歴史を。
 そのときのPIXYの言葉は、寂しそうでもあり、怒りを押し殺しているようでもあった。まるで自分が、追いやられた「先住民」であるかのように。
 
 
 事件は突然、勃発した。
 いつものように常連たちが掲示板でくだらない会話に興じているところへ、外から来たひとが乱入してきた。
「何だここは? 耳コピの中傷掲示板か?
 仲間内だけしか見てないと思っていい気になりやがって。
 ミュージシャン崩れが自己満足だけで作ってるような曲よか、よっぽとマシだと思うがな。
 著作権? んなもん知るか。無償で曲を広めてやってんだから、誰も文句言わねぇよ。
 少なくともお前らにゴチャゴチャ言われる筋合いはないな。
 お前らはちまちまとオナニーみたいな曲を作ってりゃいいんだよ」
 耳コピをやってるひとからの書き込みだった。これに対して、常連たちがいっせいに反発した。相手も続けざまに書き込んで、さらにどこから聞きつけたのか、外部から数人やってきて、耳コピの側についた。もしかしたら同じひとがハンドルを変えて投稿していただけかもしれないけど、ともかく、そこから常連と耳コピ派の喧嘩が始まった。
 最初のうちはちょっとした小競り合いという感じだったけど、だんだんヒートアップしてくると、お互い感情的になってきて、中傷合戦という雰囲気になってきた。わたしもさすがに黙って見ていられなくなって、なんとか諫めようと書き込んでみた。
「みなさん、お願いだからこれ以上掲示板を乱さないでください。
 議論も中傷もこれで終わりにしましょう。
 このままじゃPIXYさんも困ってしまいます」
 でも、やっぱり無視された。所詮わたしは家具の隙間の十円玉だ。誰の目にもつきやしない。
 喧嘩はさらに過熱していって、数日するともうほとんど、マトモな議論ではなくなっていた。馬鹿だの死ねだのどっか行けだの消えろだの、そんな言葉が飛び交い、書くのもはばかられるような差別的な表現まで出てきた。ヤジ馬も雪だるま式に増えて、無意味な文字の羅列を立て続けに書き込んで嫌がらせをするやつもいた。
 まさに荒れ放題だ。見ているだけで胸が苦しくなった。
 常連はPIXYにここ数日間の書き込みの削除を要請した。けれど、PIXYからの返事はなかった。この喧嘩の間、彼は一度も顔を出していなかった。その対応に愛想を尽かした常連は、ほどなく掲示板から去っていった。後に残ったのは、更新の止まったサイトと、馬鹿どもの書き込みの残骸が散らばる掲示板ばかり。
 わたしはいつものチャット室でPIXYを待った。けど、そこにも彼は現れなかった。わたしは不安になった。もう彼は姿を見せないつもりなんだろうか。サイトを見捨て、ネットそのものに失望して、去ってしまったんだろうか。
 できることは、他に残されていなかった。わたしは彼が帰ってくるのを、ひたすら待ち続けた。ぽっかりと穴の開いた心を、胸の底に抱えたまま。
 
 歪んでいる。なにもかも。
 
 
 雪のちらつく二月の初め、一通のメールが届いた。差出人はPIXYだった。
「明け方の五時に、フォーラムのチャットで待ってます」
 本文にはそれだけ書いてあった。
 しばらくぶりに彼と連絡が取れて、ひとまずはホッとした。けど会うにしたって、どうして今さらフォーラムのチャットなんだろう? それに、明け方の五時という時間も奇妙だった。わたしはこれまでそんな時間までチャットをやっていたことはない。なにかその時間じゃないといけない理由でもあるのだろうか。
 でも、それ以上のことはなにも考えられなかった。突然のことにわたしは少し焦っていた。
 とにかく、五時だ。五時のチャットだ。それまで起きていられるだろうか。いや、起きている必要はない。早起きすればいいんだ。
 わたしは夜の十時に電気を消して、ベッドに入った。目覚ましはちゃんと五時五分前にセットして。
 ネットを初めてずっと夜更かしが続いていたから、そんな時間に寝るのは久しぶりだった。そのせいもあったかもしれないけど、わたしはしばらく寝つけなくて、数えきれないぐらい寝返りをうった。早く眠らないと五時に起きられない。そう思えば思うほど、目はギンギンに冴えてくる。
 PIXYはわたしに一体なにを話すつもりなんだろう。
(いや、そんなことはいい。眠らなきゃ)
 わたしは彼に、どんな言葉をかけるべきなんだろう。
(だから、早く眠るんだっての。五時に起きられないよ)
 不思議なPIXY。謎だらけのPIXY。わたしは彼のことをよく知っているようで、実はなにひとつ知らないのかもしれない。
(眠れ)
 でも、それはお互いさまだ。PIXYにしたって、わたしのことをほとんど知らないじゃないか。ネットなんて大体そういうもんだ。みんながみんな、相手を知っているようで、ほんとうはなにも知らない。
(眠るんだ)
 漠然としてるんだ。曖昧なんだ。現実とは違う、歪められた場所。そんな場所でのやりとりが、いったい何になる?
(お願いだから――)
 会いたい。こんな歪んだネットではなく、現実で。手に触れられる世界で、PIXYに会いたい。
(早く――)
 眠れ!!
 
 
 目が覚めると、わたしは森の病院にいた。
 冷たい壁も眩しい天井もない待合室。見上げれば、ずっと高いところで生い繁る木の葉が、陽の光に透かされて明るい緑色に輝いている。幹の間を縫うようにして流れる緩やかな風は、ひんやりと土の匂いがした。
 ちょっとした広場みたいになっているその場所には、切り株の椅子がいくつも並べてあり、たくさんの動物たちがそこに腰かけていた。野ウサギは切り株の上できょろきょろと神経質そうに辺りを見回し、熊の子はぼーっとどこかを見つめたままぴくりとも動かない。老フクロウは居心地の悪そうにほうと鳴き、鹿の親子は仲の良さそうに並んで頬を寄せ合っている。隅っこのほうの切り株でカブトムシとクワガタが角をかち合わせて宿命の対決をやっているのを見ると、わたしは思わず吹きだしてしまった。
 この森には病気も怪我も存在しないんだろう。みんなは悩みを打ち明けたり、そうでなければ単に暇つぶしのためにこの病院を訪れるんだ。それじゃ病院というより、ただの集会所じゃないか。わたしは笑った。
 わたしも切り株に座って、その穏やかな光景をのんびりとした気持ちで眺めた。そこはひどく懐かしいように感じた。ずっと昔からこの場所を知っているような気がした。そんなはずはないのに。
 なゆりさん、と誰かがわたしの名前を呼んだ。受付にちょこんと座ってるリスの看護婦が、わたしを呼んでいた。わたしは立ち上がって『Another humanity』が流れる待合室を横切り、看護婦の前に立った。
 大木の根元にあった受付の小さな穴には、リスの看護婦が一匹だけいた。彼女は自分の頬袋から木の実を取り出すと、お大事に、と言ってわたしにそれを手渡した。不思議な形をした木の実だった。
 わたしはそれを握ったまま、のどかな病院を後にする。森の小径は踝が埋まるぐらい落ち葉が降り積もっていて、踏みしめるたびにざっ、ざっ、と小気味いい音がした。『Another humanity』のほのかなメロディがだんだんと遠ざかり、いつしか消えた。
 わたしはどこへ行こうとしてるのだろうか。それはわからない。けど、不安はこれっぽっちもなかった。この場所はわたしになにひとつ危害をもたらすことはない。むしろ現実よりも安全な場所であることを、頭のどこかで感じ取っていた。
 道はどこまでも続いていた。まるで終わりなどないように。辺りは不自然なほどの静寂に包まれ、落ち葉の踏みしだく音に混じって、自分の息づかいや鼓動までが聞こえてきそうだった。そして実際その通りだった。自分の体の中の音がこうもはっきり聞こえるというのは、奇妙な感じだった。
「なゆりさん」
 道の脇から声がかかった。わたしははっとして振り向く。
「そちらに行ってはいけません」
 幹の陰から、声の主がすっと姿を現した。
 それは、ひと目には人間のようだった。背丈はわたしよりもちょっと低いぐらい。春に芽吹く若葉のような翠の髪と、とんがった耳がわたしの目を惹いた。一枚の布をかぶって両脇を縫いつけただけの簡単な服をまとい、やけにぶかぶかした革靴を履いている。体つきはやっぱり子供っぽいけど、その顔立ちだけは不釣り合いなほど凛々しく見えた。最初は男か女かまったくわからなかったのだけど、その力強い輝きを閉じこめた瞳を見た途端、男の子なんだと確信した。
「あなたは?」
 わたしは無意識にそう聞いた。自分でもこっぱずかしくなるぐらい、芝居がかったセリフだ。
「PIXYですよ」
 彼は言った。
「僕が、PIXYです」
 わたしが言葉を返せずに黙っていると、彼は道の向こうを指さした。
「あちらに行ってしまえば、あなたはもう二度とここには戻ってこられなくなる。今はまだそのときではありません」
「向こうにはなにがあるんですか?」
 わたしはやっと口を開くことができた。
「混沌。あるいは歪んだ世界」
 PIXYは謳うように告げた。
「そして、それはネットの未来でもある」
「未来?」
 彼はそれには答えなかった。わたしはひとつ息をついて、別のことを聞いてみた。
「HPが荒らされていたのは、知ってたんですよね?」
「ええ。一部始終見ていました」
「なら、どうして対策をしなかったんですか?」
「対策?」
 と、PIXYは聞き返した。
「どんな対策をすればよかったんです?」
「たとえば、悪質な書き込みを削除したり……」
 わたしがそう言うと、彼は寂しそうに視線を逸らして。
「たとえどれほど悪質な書き込みだとしても、それがその人の意見であることには変わりありません。書き込みを消して意見を抹殺したところで、根本的な解決にはならないのですよ」
「でも、そうしないと荒れる一方じゃないですか」
「そうですね。だから、ああなってしまった。僕としても残念な限りです」
 それ以上、なにも言うことができなかった。深い愁いをたたえた瞳が、わたしの口をつぐませたのだ。
「美しいでしょう、この森は」
 PIXYは空を振り仰ぎ、瞳を細めて言った。
「以前はあの道の向こうも含めて、全てが森だったのですよ。けれど、徐々に『現実』が蝕み始め、ついに流れはせき止められてしまった。この森もじきに腐って、『現実』に覆いつくされてしまうでしょう。澱みが決定的となった今となっては、もはやどうすることもできない。ただ、死を待つのみです」
「そんな……」
 わたしは大きく首を振った。この穏やかな森が消えてしまうなんて、信じられなかった。
「僕はここを去ります。もうこの森に僕の住める場所はないのです。あなたをここに呼んだのは、そのことを知らせたかったのです」
「どこに行くんですか?」
「別の森ですよ。妖精が住まうことのできる、流れに満ちた森。妖精たちは皆、人間に追いやられてはそうやって生きながらえてきたのです」
「わたしも連れてってください」
 思いきって言った。
「置いていかないでください。わたしは、ずっとあなたと一緒にいたい」
 PIXYはわたしの顔を見つめ、それからかぶりを振った。
「それはできません。あなたにはこの森を守ってもらいたいのです」
「守る? ここはもうすぐなくなるんでしょう? そんなものをどうやって守れって言うんですか?」
 わたしは早口にまくし立てた。握りしめた拳にじんわり汗がにじむ。
「いいですか」
 PIXYは落ち着いた口調で話す。
「森はこの世界では死にます。しかし、あなたの中で森は生き続けるのです。あなたにはこの森を受け継いでもらいたいのです」
「受け継ぐ?」
「そうです。あなたはこの森のことを誰よりも理解している。いや、それ以上に影響すら与えている。森の病院は見ましたね?」
「はい」
「あれは、あなたが創ったものなんですよ。あなたは森に新たな息吹を吹きこんでくれた。だからこそ病院の周辺だけは『現実』の浸食が妨げられ、ここまで生き長らえることができたのです。この森を受け継げるのは、創造主であるあなた以外にいません。……ただし、そこには少なからず弊害も生じますが」
「弊害」
 わたしは繰り返した。
「ネットはやがて完全に『現実』に呑み込まれ、歪んだ世界として成立するでしょう。そうなればあなたはネットにいることが辛くなるかもしれません。あなたの中の森が、歪んだ世界を拒むからです。完全にネットにいられないわけではない。けれど、馴染めなくなるのは間違いないでしょう。あなたにはその覚悟がありますか?」
 歪んだ世界。バカみたいな仲間意識があり、みっともない中傷があり、現実と同じ法律が通用する世界。それはつまり、現実社会の縮図でしかないじゃないか。つまらない。くだらない。
「構いません」
 わたしははっきりと、言った。
 PIXYは微笑むと、わたしの背中に腕を回してそっと抱きとめた。しなやかな草のような髪が頬に触れる。そして彼は、耳許に囁いた。
「あなたに幸あらんことを。森を、大切にしてください」
 わたしは首を動かして彼の顔を見た。鼻先がぶつかりそうなほど近くで、彼は悪戯っぽくはにかんでいた。
「さようなら」
 突然、ものすごい風が吹き荒れた。落ち葉が根こそぎ舞い上がり、木々は根元から揺さぶられた。わたしはなにが起こったのか考えるひまもなく、吹き飛ばされないよう身を屈め、腕で顔を覆った。耳許で空気の渦がごうごう唸っている。
「PIXYさん!」
 わたしは怖くなって彼の名を呼んだ。彼からの返事はなかった。そっと腕を降ろして前を見ると、そこに彼の姿はなかった。見回しても、彼はどこにもいなかった。吹き飛ばされてしまったのだろうか?
(怖れることはありません。森に流れが戻ったのです。さあ――受け取りなさい)
 どこか遠いところから声が聞こえた。頭を上げた途端、突風が足下をすくって、わたしは吹き飛ばされた。
 いや、吸いこまれているのかもしれない。
 どこへ?
 ――わたしの中へ。
 
 
 やかましく鳴り響く目覚ましを止めて、わたしは腫れぼったい目をこすって起き上がった。カーテンの隙間からは朝日が細長い光を投げかけている。
 朝日?
 わたしはもう一度時計を見た。七時十分。確かゆうべは、五時五分前にセットしたはずなのに。
 すぐにPCの電源をつけて、ネットに接続する。フォーラムの指定されたチャットに行ってみたが、そこには誰もいなかった。
 唖然とした気持ちのまま、ひとまずネットを落ちた。頭の中を整理する必要がある。椅子に座って画面を見つめながら、なにが起こったのか順番に思い返してみた。
 まず、PIXYからメールが来た。朝の五時にチャットで待つとだけあった。そしてわたしは目覚ましを五時五分前にセットして寝た。それから……夢を見たんだ。
 夢?
 あれは夢だったの? それとも……。
 ふと、起きてからずっと左手になにかを握りしめていたことに気づく。広げてみると、掌の上には木の実がひとつ、ちょこんと載っていた。リスの看護婦がくれた、不思議な形の木の実。
 ――これは、現実なの?
 
 その日、PIXYのサイトは閉鎖された。
 トップページには簡単に閉鎖を告げる文章が載った。それも、数日したらすべて消えた。
 
 
 一週間後、わたし宛に一通の小包が届いた。
 特に変わったところもない、ゲーム機ぐらいの大きさの箱で、差出人の名前は書いてなかった。予感めいたものを感じて、わたしはすぐにそいつを開けた。
 中には、直方体の黒い機械が入っていた。MIDI音源だった。本体と接続ケーブル、それに手垢で少し変色した説明書。差出人からの手紙はなかったけど、かわりに箱の隅っこに、木の実が一個、転がっていた。
 わたしは机の上に置いてあった木の実を左手に持ち、箱の木の実を右手に持って、互いを見比べてみた。それはまったく同じものだった。
 
 音源をPCに接続して、わたしはハードディスクに落としてあった『Another humanity』を聴いてみた。
 スピーカーから蕩々と音楽が流れる。これがほんとうの「正規の音源」での演奏なんだ。PIXYが作ったそのままの音楽。わたしが今まで聴いてたものとずいぶん違ったけれど、森の病院であることには変わりなかった。わたしの中に息づいてる森の病院が、音楽に同調しているのを感じる。そして、理解した。
 音源があれば、この音楽があれば、わたしはいつでも自分の森に行くことができる。だからPIXYはわたしにこいつを贈ったんだ。
 妖精からの贈り物。
 曲を聴きながら、わたしは泣いた。悲しかったわけでもない。嬉しかったわけでもない。ただ涙だけが、ぼろぼろと目許から頬を伝って流れ落ちていく。それはわたしの意志じゃなかった。森が、わたしのどこかを刺激して涙を流させているんだ。
 曲は、五分二十三秒で終わった。わたしの涙もそこでピタリと止まった。
 
 PIXYが忠告したように、わたしは森のせいでネットに馴染むことはできなくなった。作ったHPはいよいよ賑わいをみせたかと思ったとたんに潰れた。オフ会で会うような友達もできなかった。仲間が集まってなにかやろうとすると、わたしは無意識的にそれを敬遠した。群れるのがイヤだからとかそういうキザな理由じゃない。ただ単に、ネットで集団を形成することそのものに嫌悪を感じるんだ。歪んだネット世界の住人と、流れである森の住人。相容れるはずもない。家具の隙間の十円玉は、今ではもう何の価値もないようだった。チロルチョコすら買えない。
 それでも構わなかった。これがわたしが自分で選んだ道だ。澱んだ世界の中で、わたしはひとり流れを守り続ける。理由? そんなの簡単だ。
 わたしは、この森が好きだから。
 そして、PIXYがいつかこの森に帰ってくることを、信じてるからだ。
 
 
 ……と。なんだか胸のうちに仕舞っていたものをぜんぶ吐き出したら、スッキリした。こういう長話も悪くないかもね。
 それじゃ、明日はマジメに学校行きますかね。鬱陶しくなるぐらい規則的な、からくり時計へと。
 別に人形になりに行くんじゃない。からくり時計の中を探検しに行くだけ。そう考えればちっとは気も楽になるでしょ。
 じゃ、おやすみ。
 
 
十一 インターネット・フェアリーテイル
 ログインをして、真っ先に森に向かおうとした。が、無理だった。
 アイテム欄から『テレポートなんたら』が消えていた。念を入れて何度も確認したが、やっぱりなくなっていた。
 ――一体何が起きたんだ。
 茫然としていると、画面の端のアイコンが明滅しているのに気づいた。夢幻からのメッセージだった。
〈噴水の前に来てください。みんな集まっています〉
 僕は急いで噴水に向かった。
 
 既に森のメンバーは全員集まっていた。もちろん、彼女は除いて。
「さて」
 どういうことだ、と夢幻はディルに詰め寄った。
「サポートに聞いてみたんだよ」
 ディルは無表情のまま、言った。
「森の画面をキャプチャして、メールに添付して送ったんだ。『この森はそちらで用意された場所なのか』って」
「どうしてそんなことを」
「怪しいと思ったからだよ。あんたらだって思ってたんだろ? 俺はあくまで代表として問い合わせただけだ」
「誰もそんなこと頼んでない」
 僕は彼を睨みつけた。
「なんだよ。エディが一番こだわってただろ。だから俺も調べる気になって、それで不正も発覚した」
「不正だって?」
 夢幻が訊いた。
「ああ、そうだよ。サポートから返事があったんだ。『ユーザによって不正が行われた可能性があるから調査します、当該の森とそれに関連するアイテムはすみやかに消去します』ってね」
 ネットゲームの間でも、不正によって自分に有利なよう仕向けるユーザは存在する。ツールを用いてキャラを自動操縦させたり、データを改竄したりする、いわゆる「チート行為」はサポートの目を盗んで普通に横行しているのだ。
 サポートは、あの森が不正に構築されたものだと判断したのか。だとすると――。
「なゆりさんが、不正ユーザだっていうの?」
「あるいはBOT(自動操作)によって動いていたのかもな。ともかく、サポートがそう結論づけたんだから間違いないだろ。これがあの森の種明かしだ。俺たちは詐欺師の掌の上で仲良しクラブをやってたんだよ。茶番はもう終わりだ」
「違う」
 僕は言った。
「終わりなんかじゃない」
「なんだよエディ。今日はやけに突っかかってくるな」
 彼の言葉に、唇を噛んだ。
 ――あの日記を見せれば――いや、おそらく何も変わらないだろう。僕だって、まだ信じきっているわけではないのだ。もしかしたら本当に不正ユーザだったのかもしれないと、頭の片隅では思っている自分がいる。そんなはずはないと何度言い聞かせても、疑念は拭い去ることができなかった。
「とにかく、不正があったのは事実だ」
 ディルが言った。
「俺はもう、あれに関わるのは御免だからな。これ以上面倒に巻き込まれたくないし、あらぬ疑いをかけられないとも限らない」
「あ……ディルさん!」
 メリーの制止もきかずに、彼は雑踏の中へと消えていった。
 僕らは無言のまま、立ちつくした。何を信じればいいのか分からない。全員そんな気持ちだったろう。
「まあ、仕方ないね。起こってしまったことは」
 かぶりを振って、夢幻は言った。
「森がなくなった以上、この集まりも続けるのは無理だろう。寂しいけど、解散かな」
「そんな大げさに言わないでよ。個人的にはいつでも会えるんだから」
「そうですね」
 僕も頷いて了承した。
 最後に少し話をして、それから僕らは別れた。
 
 僕は橋の上に立って、遠くの山並みに目をやった。考え事をするときには、ここに来るのが癖になっていた。
 冷静でいるつもりだったが、頭の中は混乱していた。これまでに起こったことを整理する必要がある。まずは、断片化している事実を繋げてみよう。ジグソーパズルのピースを、ひとつずつ填めていくように。
 少なくとも、彼女がツールによって操作されたキャラだということはない。彼女には間違いなく「意思」が存在した。どれだけ優秀なプログラムだとしても、あれだけスムーズに僕らと会話ができたはずがない。
 次に、彼女が不正ユーザだという可能性。これは完全に否定できない。現にサポートはそのように判断して、森を、彼女をゲームから消してしまった。……けれど、だとしたら、彼女は何のためにそんなことを? ゲームの片隅に小さな森を作ったところで、彼女には何のメリットもない。自己顕示のため? それも違う。森はゲームから隔離されていて、僕を含めごく一部の人間しか存在を知らなかった。自分の技術を誇示したいなら、もっと派手にやるはずだ。
 あれこれ理由を模索してみたが、決定的なものは結局見つからなかった。理由がないとすれば、もう一つの可能性も考えなければならない。
 つまり――あの日記が、真実である可能性。
 確かに突飛な話ではあった。けれど、実際にあの森に入って感じたことと、日記の記述は恐ろしいほどに一致していた。常に僕を煩わせていたあの違和感も、ゲームとは違う世界だったとすれば一応の説明はつく。
 ただし、どちらの可能性も確信は持てなかった。行き詰まりだ。このままどっちつかずで終わってしまうのか。……いや、それでは納得できない。
 せめてもう一度、森に行くことができれば。僕は諦めきれなかった。何か、何か見落としてはいないか。思い出せ。とても重要なこと。この袋小路を打破できる、大事なものを。
 ――そうだ。
 僕は再びアイテムリストを開く。『テレポートなんたら』は消えた。けれども――。
 それはリストの他のアイテムに埋もれるようにして、あった。僕自身も存在をすっかり忘れていた。
 『森の木の実』……そう、いつか森の中で拾ったものだった。これだけは消えずに残っていた。
 木の実を掌に載せて、祈るように願った。どんな形でもいい、彼女に会わせてほしい。かつて彼女が森の中でPIXYに会ったように。
 僕は強く念じた。すると木の実に何かが起きた。殻を破ってどす黒いものが飛び出して、タールのように僕の身体にへばりついた。視界は遮られ、完全な闇となった。
 事態に思考が追いつかない。そこへ追い打ちをかけるように、突然ブラウザが立ち上がり、見たことのないサイトが表示された。頭が真っ白になり、指が小刻みに震えた。
「このサイトの持ち主は三年前に死んだ。ヤクザの女に手を出したばっかりに、八つ裂きにされて廃材置き場に捨てられた」
 闇の中に文字だけが淡々と流れていく。
「けど、サイトは未だに生きている。日記のスクリプトはなにも知らずに、今日も空白の日記をせっせと作っている」
 ページが切り替わった。また別のサイトのようだ。
「ネットゲーム好きだったここの管理人は、毎日サイトにキャラの成長具合を記録していた。事故で亡くなって以来、キャラはずっと主人の帰りを待ち続けている」
 文字はあくまで無頓着に、サイトの説明をする。じわじわと追い詰められていくような感覚に、僕は恐怖した。また違うサイトが表示される。
「白血病にかかった女の子は、その闘病記録をサイトに残した。死の前日まで彼女は更新を続けた。病魔と闘いながらも決して明るさを失わず、健気に生きてきた彼女の記録は、これからもずっとネットの中に残され、伝えられていく」
 ――もういい。
 ――もう、やめてくれ!
 堪えきれなくなった僕は、頭を抱えて心の中で叫んだ。どこかでぷつりと何かが途切れ、別の何かが繋がった。デジタル信号が、0から1へと切り替わったように。
 
 僕は、闇の中にいた。エディではなく、僕自身が。
 辺りには何も存在しない。おもむろに伸ばした手は虚空をつかんだ。足元も地面の感覚がまるでない。自分が止まっているのか動いているのか、あるいは浮いているのか落ちているのかすらも分からなかった。
「ここまで来ちゃったね」
 目の前に光が生じた。それはいつもように、妖精の姿へと変化した。
「どういうつもりなんだ」
 僕は彼女を睨みつけた。ようやく会えたというのに、最初に出たのは非難の言葉だった。
「そんな恐い顔しないでよ。おどかすつもりはなかったんだって」
 ごめんね、と彼女は舌を出して悪戯っぽく笑った。
「どう? ゲームと完全に同調してみた気分は」
 同調? ――そうか。僕は同調しているのか。
「……あんまり実感がないな」
「そっか。ま、なんせ周りがこれだからね。しょうがないか」
 暗闇を見回して、肩を竦める。
「森はどうなったの?」
「ちゃんとあるよ。ゲームの中には存在できなくなっちゃったけど。だからここも真っ暗なんだ」
 答えてから、彼女は笑顔を見せた。
「わたしの日記、信じてくれたんだね」
「まだ、信じきっているわけじゃない」
 僕は言った。
「けど、君のことは信じてみたい気がした」
「ありがと」
 微笑みで返すと、彼女は僕の顔を横切って、肩に座った。重さはなかったが、頬のあたりに風を感じた。
「わたしね、ここでずっと、あのひとが帰ってくるのを待ってたんだ」
 彼女は話し始めた。
「約束した通り森を守っていれば、必ず戻ってきてくれると思ってた。けど、どれだけ待ってもPIXYは帰ってこない。その間に森の外はどんどん変わっていってしまった。ネットは歪んだまま進化して、もはや歪んでいることすらどうでもいいぐらいに、ぐじゃぐじゃの滅茶苦茶になっている。これからネットがどうなっていくかなんて、考えたくもない」
 彼女は辛そうに目を伏せた。
「だから、わたしも行くことにした」
「どこへ?」
「あのひとのところへ」
 肩から降りて、また僕の目の前に浮かんだ。
「森を出て、PIXYを追っかけるんだ。でも、わたしが出てくと森を守るひとがいなくなる。そうしたら森はたちまち『歪み』に呑み込まれてしまう。わたしがここを出るには、代わりに守ってくれるひとが必要だった。だから、そのために……森に相応しいひとを捜すために、ゲームの中へ入り込んだ」
「それじゃあ」
 僕は言った。
「僕らを森に呼んだのは、それをテストするため?」
「最初に来たのは、夢幻君とメグさんだった」
 僕の問いかけには答えずに、話を続ける。
「ターゲットは夢幻君だけだったけど、彼はいつもメグさんと行動してたから、二人まとめて呼ぶことにした。思ったとおり夢幻君とは話が合った。でも、それだけだった。彼は歪んだネットを受け容れて、その中で成功してきた。そんなひとは、森には住めない。
 次に選んだのは、メリー君。ネット歴の浅いひとなら歪みに染まってないから、森にも親しんでくれると思った。けど、あの子はあまりにも無垢すぎて、ネットの歪みにまるで気づかなかった。歪みを知らないひとに森は守れない。
 ディル君は上の二人にはないものがあったから呼んでみた。あまり期待はしてなかったけど。いつも斜に構えてモノを見てる彼なら、もしかすると歪みに気づいてくれるかも……って、思ってね。けど、やっぱりダメだった。彼は逆に、歪みの中でないと生きていけないタイプの人間だったんだ。
 そして、最後に呼んだのは」
 ――僕。
「もうほとんど諦めていたんだ。だからわたしも、こちらから働きかけはしなかった。みんなで集まってワイワイやっていればいいかなって思い始めていたし。でも、キミは『歪み』に気づいてくれた。……やっと見つけたんだ」
 彼女はにこっと笑った。子供のように純粋な笑顔だった。
「森に同調して、ここまで来てくれたキミなら、わたしも安心して任せられる。なにより、森が選んだんだから」
「選んだ?」
 訊くと、彼女は僕の腰のあたりを指さした。ズボンのポケットに覚えのない膨らみが生じている。中を探って取り出してみると、僕をここに導いた、あの木の実が入っていた。
「木の実は、森がキミを認めた証。いわば契約書みたいなものなんだ。わたしのところにも来たんだよ。……あ、日記読んでるから知ってるか」
「契約書って……」
 僕は眉を顰めた。
「ちょっと待ってよ。いきなり森を守れなんて言われても、どうしたらいいのかさっぱり分からない。それに歪みとか何とか、そんなもの僕は感じたこともない」
「ホントに?」
 顔を覗きこまれて、思わず目を逸らした。
「ま、契約書といってもそんな堅苦しいものじゃないから、あんまり難しく考えないでよ。一生、森の中に閉じこもって暮らせって言ってるわけじゃないんだし。時々どうなっているか様子を見に来てくれるだけでいいから」
「でも……」
 僕は呟くように、言った。
「まだ納得いかない。ネットの中でどうしてこんなことが起きるのか。それが理解できなければ、受け容れることなんてできない」
「そりゃ、無理な話だ」
 彼女は笑って言った。
「だって、わたしも理解してないんだから」
 僕は唖然と彼女を見た。
「お伽話なんだよ、これは」
「お伽話?」
「あり得ないことをまことしやかに語って、いろんなひとがそれを語り継く。面白ければ真偽なんてどうでもいい。そういうのが『お伽話』だっていうなら、ネットで起きることはみんなお伽話やね。わたしがやってた『ネットウォッチ』だってそう。斎宮の女の子がホントにいたのかどうか、子供時代を壮絶に生き抜いてきたひとの話はネタなのか、そんなことは問題じゃないんだ。大事なのは、ネットにそういう話があったという事実だけをきちっと受け容れて、伝えていくこと。ネットで不思議なことが起きるのがおかしいんじゃない。むしろ、ネットに真実が存在すると考えるほうがおかしいんだ。ネットの本質なんて、けっきょくは『お伽の森』なんだから」
 お伽の森――それが、ネットの本質。僕は静かに瞑目して、思った。
 人間たちは、そんな曖昧で覚束ない場所を有難がって、ビルを造り、法を適用し、社会を丸ごと持ってこようとしている。つまり、それが彼女の言う『歪み』なのだろう。ネットに住まう多くの者達は本質を忘れ、知らずして、『歪み』こそがネットの正しい姿だと思っている。
 それは避けられない流れなのかもしれない。いつだって人は曖昧なもの、訳のわからないものを忌み嫌うものだ。あるときは妖精だの幽霊だのと自分たちと違う存在に仕立て上げて区別し、あるときは科学的に検証して曖昧さを解消しようとする。それがネットの中においても行われているだけだ。
 ――だけど。
 せめて僕だけは、すべてを受け容れていこうと思う。このネットのどこかで、常に存在しているお伽話《フェアリーテイル》。これもまた、そのうちの一つに過ぎない。
「そろそろ行かなきゃ」
 彼女はそう言って、ゆっくりと頭上に昇っていく。
「最後にひとつ聞かせて」
 僕は言った。
「なに?」
「森にいる間、君はずっと楽しかった?」
 んー、としばらく考えてから、彼女は答えた。
「楽しいこともあったし、嫌なこともあった。どっちかっていうと嫌なことのほうが多かったかな。でも、それはどこにいても同じなんだから」
「確かに」
 僕らは笑った。
「じゃあね。森をよろしく。またいつか会いましょう」
 言葉を返す間もなく、彼女は光となって飛び去った。その光がすっかり闇に呑み込まれるまで、僕はずっと見つめていた。
「さようなら」
 そう呟くと、周囲の闇が硝子のように砕け散った。切り替わっていたものが元通りになった瞬間だった。僕はPCの前に座ってゲームの画面を見つめ、エディは変わらず橋の上で物思いに耽っている。
 キーボードの上には、木の実がひとつ転がっていた。僕はそれを拾うと、ポケットに入れた。
 
 
 歪みきったネットにも、まだお伽話は存在する。問題は、それを受け容れる器があるかどうか。少なくとも僕は受け容れることができた。
 僕は今でも森の見回りをしている。わずかに残ったネットの本質。それを少しでも長く存続させ、後に伝えていくのが僕の役目だと思っている。
 彼女がそうであったように、僕も歪んだネットには馴染めなくなった。夢幻とはその後何度か会ったけど、数ヶ月でそれも切れた。メリーやディルに至っては一度も会っていない。
 一年もすると、ネットゲーム自体に飽きてしまった。『Wolves Fang』もPCからアンインストールした。その代わり、方々のサイトを歩き回って様々な『お伽話』を集めるのに凝りだした。これも、彼女の影響だった。
 彼女がPIXYに会えたかどうかは、定かではない。そもそも彼女はどこへどういう手段で行ったのか、見当もつかない。PIXYのいる場所とは、ネットの中なのか、それとも……。
 ――やめよう。考えたところで結論なんて出ない。世の中には知らなくていいこともある。
 歪んだままのネットは、日ごとに混沌としてきているような気がする。権力が生じ、まがい物の真実が蔓延り、飽くなき欲望が渦巻いている。もはや、どう頑張っても以前のような森に戻すことは不可能だろう。
 それだけに、彼女たちが残していった森だけは、何があっても守っていかねばならない。森は忘れ去られたネットの本質であり、妖精が存在した唯一の証拠でもある。不思議の国のアリスも、千と千尋の神隠しも、ここでは普通にあり得るのだ。
 インターネット・フェアリーテイル。それはネットの本質が生んだお伽話。妖精の手によって紡ぎ出され、人の手によって伝えられしもの。
 これからも僕は伝えていく。かつてのネットには妖精がいた。そして、今でもきっと、どこかに存在していると。

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