『distortion(仮)』

     1

 うさぎは、まさにうさぎの様だった。
 森の中心にある大樹の上で、どんぐりを齧っている。
 普通のうさぎは木に登らないしどんぐりも食べない。けれど、そのうさぎは栗鼠の血も混じっているから、木にも登れるしどんぐりも齧りたくなる。
 大樹は眩い陽射しを一身に受けている。風で葉がなびくと、翡翠を散りばめたみたいにきらきらと輝いた。
 澄んだ青空を、一羽のすずめが横切った。すずめは大樹の上のうさぎを見つけると、急停止をかけて大樹の懐へと入る。
「ねえ、ちょっと聞いてよ」
 うさぎの隣に留まったすずめは、うさぎに話かけた。
「やだ」
 うさぎは見向きもしないでどんぐりを齧っている。
「そんなこと言わないでよ。ね、あたしの友達のカケスに聞いたんだけどさ」
 すずめは勝手にぴいちく囀りだした。
「彼女の亭主のお父さんの義理の弟の又イトコがさ、森の外に出ていったきり行方不明なんだって」
「ふうん。かりかり、こりこり」
「それで、そのひと、どうも『歪み』にやられちゃったらしいのよ」
「かりこり」
「怖いわよねぇ。別に危ない所に行ったわけでもないのに、突然『歪み』に襲われるなんて。この森には、もう安全な場所なんてないのかしら」
「こりこり」
「噂だと、この森も少しずつ浸食されて小さくなってるって話よ。森はずれにあった熊賀さんの小屋も『歪み』に呑みこまれちゃったって」
「ぽりぽり」
「不安だわぁ。うちのハナタレが大きくなった頃には、この森はどうなってるのかしら。まさか、完全になくなったりは、しないわよね」
「もぐもぐ」
「……ううん。そんなことは絶対にないわ。だって、こっちには長老さまがいるんだもの。長老さまが、きっとなんとかしてくれる」
「もぐもぐ、ごっくん」
「あっ、いけない。そろそろあの子たちが騒ぎ出す頃だわ。じゃあね」
 すずめは慌ただしく飛び去っていった。
「ああ、おいしかった。で、話ってなに?」
 うさぎが振り向くと、そこには誰もいなかった。
 一陣の風が吹き抜けて、大樹はきらきら輝いた。


     2

 大樹のふもとの切株では、かぶと虫がうたた寝をしていた。
 ぽかぽか陽気に誘われて、樹液の混じったよだれを垂らしながら、うとうと微睡んでいる。
 黒く硬い表皮に艶はなく、まっすぐ伸びた角も先っちょが少し欠けている。昆虫なので皺こそないが、ずいぶん年寄りのようだ。
 と、そこへ、別のかぶと虫が三匹、ぶうんと羽音を立てながらやってきた。
「じいちゃん、また寝てんのかよ」
「ん……おお、お前たちか」
 爺かぶとはのっそりと象みたいに起き上がった。
「おお、おお、しばらく見ない間に大きくなったの。早いものじゃ、ついこないだまで、こんな小さな卵じゃったのに」
「じいちゃん、俺らおとついも会っただろ」
「おお、そうじゃ、ついおとついまで、こんな小さな卵じゃった」
「…………」
 孫かぶとたちは諦めて、話を進める。
「な、じいちゃん。この森にさ、ずうっと昔、妖精がいたってホント?」
「おお、妖精か。確かにいたぞ。懐かしいのう」
「会ったことある?」
「そりゃあもう、この木の周りを毎日のように飛び回っておったからの」
「へええ、すげぇや。ね、どんな姿だったの? 飛ぶってことは、やっぱり羽はついてたの?」
「うむ。あれは美しかった。まるで光のようじゃった。いや、まさに光そのものじゃった」
「よくわかんねぇよ、じいちゃん。どんな姿だったのか教えてくれよ」
「わからん。眩しくて姿までは見えんかったからの」
「なんだよー」
「おお、そういえば声は聞いたことあるぞ。長老さまとよくお話をされていたからの」
「えっ、長老さまも妖精を知ってるの?」
「もちろんじゃ。そもそも長老さまを森にお連れしてきたのは、その妖精なんじゃからな」
「へええ、すっげぇや」
「でも、長老さまってまだ若いじゃん。そんな昔からいたんだったら、じいちゃんみたいにもっと年取ってないと」
「馬鹿を言え。長老さまは人間じゃぞ。儂らとは時間の流れが違うんじゃ」
「あっ、そうか」
「ほれ、納得したら向こうに行って遊んでおれ。儂は眠いんじゃ」
「ちぇっ。わかったよ、ねぼすけじいさん」
 孫かぶとたちは、ぶうんと森の奥へと飛び去っていった。
「ふむ……やれやれ、どっこいせ」
 それを見送った爺かぶとは、再び切株の上に寝ころんだ。
「懐かしいのう……あの頃は、儂も元気じゃった、の、に……」
 そうして爺かぶとはまた、うたた寝を始めた。微睡みのうちに、長老さまの目の前で宿敵くわがたを放り投げたことを思い出しながら。


     3

 熊賀出多造の一日は、朝のサーモン狩りで始まる。
 背中に大きなかごを担いで、森の外れを流れる川にざぶざぶ腰まで浸かりながら入っていく。川の真ん中まで来ると、下流のほうを向いて仁王立ちになる。
 出多造はほんのちょっとも身じろぎしない。そのまん丸い目で、じっと、川の向こうを見つめている。
 やがて、下流の川面がにわかに騒がしくなる。獲物がやってきたのだ。
 じゃばじゃば、ばちゃばちゃと盛大にしぶきを上げるサーモンの群れ。その立派な尾びれが水面を叩いてはね上がる様子は、まるで何かのお祭りのよう。とっても楽しそうだ。
 けれど、出多造にとってそれは、ただのごはんに過ぎない。空きっ腹を叱咤しつつ、さっと身構える。
 出多造の目の前を一匹のサーモンが横切った。すかさず腕を突きだす。毛むくじゃらの手に弾かれたサーモンは空高く舞いあがり、弧を描いて背中のかごに収まった。まるまるとよく太ったサーモンだ。
 その後も出多造は、足もとを過ぎていくサーモンをすくい上げては、次々とかごの中へ放りこんでいった。
 十匹目のサーモンがかごに入ると、狩るのをやめて岸に上がった。川原でぶるっとからだを震わせて、水を飛ばす。そうして、のっしのっしと森の中へ入っていった。
 けもの道をまっすぐ進むと、丸太で組んだ小屋が見えてきた。それは彼の小屋ではなかった。彼がこの間まで住んでいた小屋は、『歪み』に呑まれて跡形なく消えてしまった。
 小屋の外では、ひとりの青年が薪を集めて火をおこしていた。
「やあ、今日もたくさん獲れたね」
 青年は顔を上げると、出多造に話しかける。金色の長い髪がふわりと揺れた。
「うん、これは旨そうだ。さっそく焼こう」
 出多造が下ろしたかごを覗きこんで、青年は言った。
 青年が二匹のサーモンを焼いている間に、出多造はかごの中から一匹のサーモンをつかんで、そのままかぶりついた。一匹は生で、もう一匹は焼いて食べるのが、彼の流儀なのだ。
 二匹をぺろりと平らげると、いい具合に腹がくちくなった。青年が残した半分のサーモンも、食後のデザートがわりに食べた。
「じゃあ、僕は見回りに行ってくるよ。留守番よろしく」
 そう言って、青年は出かけていった。出多造はそれを見送ると、のっそのっそと小屋の横の日だまりに移動して、そこに寝そべった。
 そうして、うとうとしながら腹を休ませているうちに、昼ごはんの時間になった。
 昼には二匹のサーモンを生のまま、むしゃむしゃと食べた。食べ終えると、また日だまりに移動して、うたた寝をする。おやつの時間には、かごからサーモンを一匹取りだして食べた。
 夕方になると、青年が戻ってきて、いっしょに晩ごはんの準備をする。残った四匹のサーモンのうち、二匹を焼いて、二匹はすみやかに出多造の腹に収まった。
 最後の二匹のサーモンを、青年といっしょに食べる。青年は優しげな声でいろいろ話しかけるが、出多造はただ黙々と、むしゃむしゃ食べた。
 日が落ちて、あたりが真っ暗になると、出多造は青年の小屋に入って、ふかふかの絨毯の上で眠った。からだを丸めてすうすう寝息をたてる彼を見つけると、青年は微笑んだ。
 ほんとうに、お前は幸せなやつだなぁ。


     4

『歪み』は、ある日突然、森を襲う。
 森の周囲には、長老の手によって幾重にも障壁が張りめぐらされている。これによって、外部の異なものは森に入ることはできない。
 ただし、長老が作った障壁には穴がある。ほんの小さな、針の先よりも小さなほころびだけれども、『歪み』はそこを確実に衝いて侵入してくる。
 侵入した『歪み』は、かたっぱしから森を消す。木を消し、大地を消し、風も、光さえも消しさる。そしてときには、いきものも巻きこまれる。
 決められた範囲を消し終えると、『歪み』も消滅する。痕跡を残さないためだ。あとには、ただ茫漠とした『無』ばかり。見ることも、感じることもできない、けれども明らかに「在る」という、奇妙な空間ができあがる。
 そうした空間を見つけるのは、空を飛ぶものの仕事だ。上から見下ろせば、ぽっかり何もない場所は一目でわかる。
 この日も、おしゃべりなすずめが『無』を見つけて、長老に報告していた。
「……そうか」
 青年は切株に腰かけたまま、瞳を細めて彼女の言葉を聞いていた。
「ホントに危ないところだったのよ。あのうさぎったら、ぽっかり穴の空いた地面のすぐ隣の木で、ぐーすか眠ってんの。信じられない」
「まあ、巻き込まれなくて良かったよ」
 そう言って、青年は立ち上がった。
「案内してくれるね?」
 すずめに先導させて、その場所まで行った。

 うさぎは、木の上で丸いからだをさらに丸めて眠っていた。
「なるほどね」
 青年はうさぎを見、それからすぐそばの『無』を見た。『歪み』の降り立つ場所があと一、二歩ぶんずれていたら、間違いなくうさぎは消滅していただろう。
「ほら、いい加減に起きなさい。長老さまが来てんのよ」
 すずめがうさぎの頭をつっついて起こす。うさぎはおもむろに目を開けて、木の下の長老を見た。
「やあ、元気にしてたかい?」
「……おいらは元気だよ。おやすみなさい」
 そう言って、また目を閉じる。
「こらぁっ! だから起きなさいっての、この寝ぼすけっ」
 すずめが耳もとで叫ぶと、ようやくからだを起こして、木から下りる。
「……おいら、なんか悪いことした?」
「いや、そうじゃないんだ。こちらこそ、起こして悪かったね」
 不安そうに丸い目をぱちぱちさせるうさぎに、青年は笑いかけた。
「ここが『歪み』に襲われたって聞いてね、様子を見に来たんだ」
「……ふうん」
 うさぎはようやく、そこにある『無』に気づいた。
「あんた、ホントに危ないところだったのよ。まったく、すぐそばでいろんなものが消えていたってのに、よく呑気に寝ていられたわね」
「そんなの知らないよ。おいら寝ていたし、音もなにもしなかったし」
「そうだね」
 青年はしゃがみこんで、うさぎの背を撫でた。
「『歪み』は音を立てないんだ。ただ無機的に、処理しているだけ。だから気づかないのも無理はない」
「むき……なに?」
 目をぱちくりさせて見つめるうさぎに、青年は小さく首を振った。
「なんでもないよ。ごめん」
 そう言って、立ち上がった。
「僕はこいつの後始末をしなきゃならないから、君たちは大樹のところに行ってて」
「うん、わかったわ。ほら、あんたも」
「んー」
 すずめとうさぎは、大樹に続く道を歩いていった。
 幹の向こうに消えてゆく動物たちを見送ると、青年は『無』の前に立った。
 そこは、ただひたすら虚ろな空間だった。けれども、彼はその中心あたりの部分に、何かを見つけた。
 目を凝らして見ると、それは文字だった。細かい文字が、ぼんやりと浮かび上がっている。
『Distortion does not exist.』
 歪みなど存在しない。そう、書かれていた。
 ――随分な皮肉だな。彼は口許を曲げた。
 その文字から、何か手がかりをつかめないか試みたが、駄目だった。文字以外の痕跡は、相変わらず完璧に消されていた。
 彼は諦めて、森の修復に取りかかることにした。掠れた声で、いきものの言葉ではない何かを紡ぎだすと、虚ろな空間はみるみるうちに縮んでゆく。光が戻り、空が戻り、大地が戻った。
 そうして修復は完了した。赤茶けた土の地面が、傷痕として残ってしまったけれども。
 彼には失った森を再び生みだす力はない。あるのは、穴の空いた布に継ぎをあてるように、森の別の部分からパーツを持ってきて繕う技術だけ。
 こんなことを続けていたら、森はぼろぼろになってしまう。
 青年は唇を噛んだ。自らの限界と、どうすることもできないもどかしさに、苛立っていた。
 そして、彼は静かにその場を去った。乾いた土の地面に風が吹きつけ、埃が舞った。


     5

 大樹の足もと、いつもの切株の上で、爺かぶとはうたた寝をしていた。
 そこへ、孫かぶとたちが賑やかに羽音を立ててやってくる。
「じいちゃん、また寝てら」
「ったく、一日何時間寝てんだよ」
「ねえ、起きてよじいちゃん」
「ん……?」
 爺かぶとはのそりと起きあがった。
「おお、お前たちか。久しぶりじゃのう」
「じいちゃん、だからおとついも会ってるってば」
「おお、そうじゃった。おとついは卵だったんじゃな」
「…………」
 孫かぶとたちは顔を見合わせて、ため息をついた。
「……なあ、じいちゃん。聞きたいことがあるんだけど」
「おお、何でも聞くがよい」
「あのさ、この場所って、昔むかし、病院だったってホント?」
「おお、そうじゃそうじゃ。そんな時期もあったの。懐かしいのう」
「えーっ、じゃあ本当なんだ。すげー」
「でもなんか怖くね? 昔はここに病人がたくさんいたんだぜ。もしかしたら死んじゃったひともいたりして……」
「ひえぇ、そしたらアレか、ユーレイなんてのも出ちゃったりするのかな?」
「ほっほっ。そんなものは出やせんよ」
 爺かぶとは、黒くまん丸な眼で、大樹を見上げた。
「病院といっても、集まってくるのは暇をもてあました動物たちばかりじゃった。大樹の下の『待合室』は、そんな連中でいつも賑わっておった」
「待合室?」
「この場所のことじゃよ。動物たちはここで診察の順番が来るのを待っていたんじゃ。『診察室』は、ほれ、そこに」
 と、爺かぶとは筋張った前肢で大樹の根元を指さした。太く張りだした根の下に、小さな穴があった。
「あのうろの中に、もぐらの医者がいたんじゃ。いいか、『り』ではなく『ら』じゃからな。『り』だったら大変なことになる」
「? なんのことだよ」
「いやいや、こっちの話」
 爺かぶとは、とぼけるようにそっぽを向いた。
「そこで動物たちはひとりずつ、もぐらと話をする。なに、大した話ではない。世間話に毛の生えたようなものじゃ。もぐらは適当に助言をして、満足した動物たちは帰ってゆく」
「ふうん。一種の『かうんせらー』みたいなものなんかな」
「なんだよ『かうんせらー』って。『わいんせらー』なら知ってるけど」
「俺はどっちも知らねぇよ……」
 孫かぶとたちは、互いの顔を見て、目をぱちくりさせた。
「まあ、それもこれも昔の話じゃ。ある日突然、もぐらの医者がいなくなり、動物たちも待合室に集まることはなくなった。おかげで今やここは、儂のひとりじめ状態じゃがな。ほっほっ」
「えー、どうしてもぐらは、いなくなっちゃったのさ?」
「わからん。長老さまならご存知かもしらんが、余計なことは詮索しない主義だものでな」
「なんだよー」
「ほれ、疑問が解けたなら、とっとと向こう行って遊んでおれ。儂は眠いんじゃ」
「ちぇっ、わかったよ」
 孫かぶとたちは羽を広げて、森の中へと飛んでいった。
「やれやれ、騒々しい奴らじゃ。……どっこいせ」
 爺かぶとは再び、切株の上に寝そべる。
「懐かしいのう。あの頃の儂は……強かった……の、に……」
 そう呟いて、昼寝の続きを始めた。微睡みの中、待合室のこの切株の上で、宿敵くわがたを突き落としたことを、思いだしながら。


     6

 小屋の隣のいつもの日だまりで、熊賀出多造はぼうっとしていた。
 周囲には色とりどりの花が咲き乱れ、その蜜につられた蝶や蜂たちが、ぶんぶん、ひらひらと飛び回っている。空には綿のような雲が、もったいぶるようにのんびりと流れてゆく。日射しはどこまでも明るく、黒ずんだ丸太で組んである小屋さえも、光を受けて眩しいくらいに映えていた。
 出多造はぼんやりと、木の上で戯れあっている二羽の小鳥を眺めていた。その鳥がすずめなのかカケスなのかそれとも他の鳥なのか、出多造には区別がつかない。そもそも彼にとって「鳥」は「鳥」でしかなく、そこから細かく種類があることなど、想像すら及ばないのだ。
 鳥たちは陽の光の下でさんざん遊び回ると、やがて森の上を滑るように飛び去っていく。その姿が空の向こうに消えるまで、出多造は眺めていた。
 ざっ。
 ふいに、足音が聞こえたような気がした。どこか遠くから。
 青年が帰ってきたのか。いや、まだ日は高い。帰ってくるはずがない。
 しばらく耳を澄ませていたけれど、それきり足音はしない。気のせいだったのかと安心して、再び空に目を向ける。
 ざっ、ざっ。
 今度は間違いなかった。すぐ近くまで来ている。出多造は足音のする方を、のっそりと振り返った。
 見知らぬ人間が、立っていた。

 男は、出多造と目が合うと、反射的に後退りした。
「えっ、と……こんにちは」
 見つめたまま身動ぎもしない大きな熊に、ぎこちない笑顔を作って話しかける。
「大丈夫。そんな恐い顔して睨まなくとも、私は危害は加えない」
 出多造は別に、恐い顔をしているつもりはなかったのだけど、彼の言うことにひとつ、頷いてみせた。
「エディ君はいるかな?」
 男が聞くと、今度は首を傾げた。
「わからないかな。えっと、ここじゃなんて呼ばれてるんだろう。……そう、人間だよ。金髪で、私と同じような感じの……」
 人間という言葉に、出多造は了解した。彼が知っている「人間」は、ひとりしかいない。目の前の男を含めれば二人になるが。
「え……ちょっと」
 出多造はのっそり立ち上がると、男の制止をよそに小屋へと向かう。中に入ってしばらく待つと、何かを抱えて出てきた。木でできた、背もたれのない椅子だ。
 出多造はそれを小屋の脇に置いた。そして、男を見る。
「何? ……あぁ」
 椅子に座って待っていろということだと理解すると、男は微笑を浮かべて、礼を言う。
「ありがとう」
 そして、椅子に腰かけた。出多造は、その男の顔をじっと見つめた。黒い髪に、黒い瞳。そして灰色の服。
 同じ人間でも、青年の髪は明るい金色で、瞳は澄みきった青空の色をしていた。それに慣れてしまっている出多造にとって、男は見るからに異様で、不吉に感じられた。
 それでも、出多造は男の横に座って、青年の帰りを待った。どちらも無言で、じりじりと時間は過ぎていった。
 陽がすっかり森に隠れたころ、青年が帰ってきた。
「君は……」
 出多造の隣にいる男を認めると、青年は立ちつくした。
「久しぶりだね、エディ」
 男は立ち上がると、張りついたような笑みを浮かべた。


     7

 夕食が終わり、眠くなった出多造はひとりで小屋へと入っていった。花畑の手前に設えられた焚き火が、燻るようにほのかな明かりを灯している。
 その残り火を見つめながら、青年と男は二人きりで向き合った。
「まさか、ワインまであるとはね」
 手に持ったグラスを回して、男は匂いを嗅いだ。
「自分で作ったのか?」
 青年は無言で頷くと、ワインを啜った。
「足りなければ、向こうの樽にいくらでもあるから、注いでくるといい」
「いや、結構だよ。酔うために来たのではないから」
 目を細めて笑うと、彼と同じようにグラスを傾けた。
「この森は、ちっとも変わらないな」
 夜の暗闇に黒ずんだ森を眺めて、男は言った。
「奇妙な感じだよ。昔の記憶にある場所というのは、普通もっと色褪せているはずだろう。なのに、ここは、この森だけは、私の中にあった『森』と寸分違わない。まるで昔に戻ってしまったみたいだ」
「森は変わったよ」
 青年は熾を見つめながら、呟いた。
「ぱっと見だけじゃ、わからないだろうけどね。ところどころ消されて、虫食いだらけだ。一応穴は塞いでいるけど、それで森が元通りになったわけじゃない。僕にはその力はない」
 下を向いたまま、視線だけを男に移して、言った。
「君が仕向けたんだろう?」
 その声色には、感情が伴っていなかった。怒りも非難もなく、ただ男に向けて言葉を発しただけ。
「『歪みなど存在しない』――あんな皮肉を僕に言えるのは、君しかいない」
 男は鼻でため息をついて、大儀そうに青年を見た。
「私だって、こんなことはしたくない。けれど、仕事なんだ。私は管理局からこの森の対処を一任されている。以前、この森に行き来していたからという理由だけでね。馬鹿げた話さ」
「『対処』とは、森を消すことなのか?」
「そうだ」
 ワインを一気に飲み干すと、グラスを地面に置いた。
「管理局にしてみれば、この森は邪魔以外のなにものでもない。けれど君が築き上げた障壁は強固だ。森のことを知っている私にしても、崩すことは容易でない。だからこそ、ほんの僅かな障壁の穴を見つけては、ちまちまと消去プログラムを送ったり、こうして直接潜りこんで君に交渉したりしている」
「交渉?」
 初めて、青年が面と向かって男を見た。グラスを持つ手は、微かに震えていた。
「管理局に来てほしい」
 男はしっかりと青年を見据えて、言った。どちらも、酔いは少しも回っていない。
「局長が君に会いたがっている。どんな用件なのかは聞いてないが、君にとっても悪い話じゃないはずだ」
「どうしてそんなことが言い切れる?」
「局長は、なかなか森の始末ができなくて、焦っている。上からの圧力なのかもしれないが、とにかく一刻も早くこの問題を解決したいらしい。だから、君に対しても大幅な譲歩をしてくることは充分に考えられる」
 森の奥で、梟が鳴いている。包み込むような静寂の中、ぱちんと薪がひとつ爆ぜた。
 不意に、青年が目を逸らした。
「僕は、ここを離れるわけにはいかない」
 男は腕を組んで、嘆息した。間の悪い沈黙が続いた。
「君は、いつまでこんなことを続けるつもりなんだ?」
 彼の問いに、青年は口を切り結んだまま、うつむいている。眉根には知らずと皺が寄っていた。
「なぜいつまでも、この森に閉じこもっている? 妖精に言われたから? 目を覚ませよ。妖精はもういない。森も既に過去のものだ。歪みなど存在しない。むしろ歪んでいるのは、この森と、今の君の方だ。ここは時の止まったネバーランドじゃない。時間は流れている。確実に、宿命的にね。君はいつまで、それに気づかないふりをしているつもりなんだ?」
 焚き火に照らされて、青年の瞳はちりちりと微かな光を湛えていた。その表情は、男の言葉を受け入れているようにも、拒絶しているようにも見えた。
「……酔いが回ってきたか」
 肩を竦めて、男は口許を緩めた。
「それで、君は局に来る気はないんだね。どうあっても」
「ああ」
 青年がおもむろに顔を上げると、男は立ち上がった。
「わかった。局長にはそう報告しておくよ。そこから先は局長の判断ひとつだ。どんな結果になっても、私を恨まないでくれよ」
 そう言い置いて歩きかけたが、ふと立ち止まって振り返ると。
「ワインとサーモンをごちそうさま。なかなか美味しかったよ」
「夢幻」
 再び歩き出そうとした男を、青年が呼び止めた。
「君は、ずいぶん変わったな」
「当たり前だろう。一体あれから、何十年経ったと思っているんだ」
 悄然とする彼にそう答えて、背を向ける。
「それと、私はもう『夢幻』ではない。中央管理局所属、極(ポラリス)の守り人、フェルカドだ」
 こちらを向かずにそう言い残すと、森のはずれへと歩いていった。
「……大層な名前になったものだな」
 赤く灼ける炭を見ながら、青年は呟いた。薪がぱちんと爆ぜて、火の粉が舞った。


     8

 鈍く光沢の帯びた灰色の廊下を、フェルカドは足早に歩いてゆく。正方形のパネルが敷き詰められた床は、彼の靴が触れた部分だけが白く輝き、足許を照らす。靴が離れると、元の灰色のパネルへと戻る。光に導かれる賢者のように、彼は無言で歩いた。
 いくつか扉を潜り、吹きさらしのスロープを抜けると、前方に浮遊する小さな建物が見えてきた。廊下は途中でぷつりと途切れており、目の前には扉も窓もない立方体の建物と、闇に輝く星空のような街の夜景が広がっている。
 フェルカドは、途切れた廊下の端に立つと、合言葉《パスワード》を呟いた。ほどなく建物に光の扉が生じ、そこに通じる光の道が彼のいる廊下へと延びてきた。彼は光の道を歩き、光の扉を開けた。
 建物の中には、二人の人間がいた。ひとりは亜麻色の髪を滝のように下ろした女性。そしてもうひとりは、銀髪の少年だった。フェルカドも含め、彼らは同じ灰色のスーツを着ていた。ただ、少年だけはその上にケープのような布を羽織っている。
 フェルカドは少年の前に立った。中央のデスクに座り書類に目を通している少年は、大人びた印象とあどけなさを併せ持った、ある種の危うさを感じさせた。
「ポラリス様、フェルカドです」
 傍らにいた女性が囁くと、少年は書類から目を離して、彼を見た。
「首尾は?」
「返答はノーです。彼には交渉をする意思はないようです」
「そうか」
 書類を机に放り投げて、それから女性を見た。
「コカブ、君はどう思う?」
「どう思う……とは?」
 女性が怪訝そうに聞き返す。
「『彼』のことだよ。何を考えて交渉を拒んでいるのか、僕にはいまいち理解できないんだ」
「ポラリス様に判らないことが、わたしに判るはずがありません」
 彼女の言葉に、ポラリスは軽く嘆息すると、頬杖をついた。
「僕はどうも、その手の思考が苦手でね」
 そして、フェルカドを見た。
「君はどう? 彼に会ってみて、何を感じた」
「……わかりません」
 フェルカドは表情を凍らせたまま、言った。
「ただ、彼には明確な意思があります。ひとつは森を今の状態で存続させること、もうひとつは何があっても森から出ないこと」
「森から出ない」
 ポラリスは口許を歪めた。
「それなら確かに、交渉など応じられるはずもないか。……しかし、何故彼はそこまであの森にこだわるんだろう?」
 フェルカドは口を切り結んだまま、押し黙った。ポラリスもしばらく返答を待ったが、やがて諦めて視線を逸らした。
「まあいい。それで、これからどうする? 前にも言ったが、あまり猶予はないんだ」
「手はあります。多少荒っぽい手段ですが……」
「構わん」
 ポラリスが言うと、彼は懐から何かを取り出した。褐色の小さな、鳥の羽。
「森で生体ルーチンを採取しました。これを使って、彼を交渉に引きずり出します」
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