大地に広がる神秘の樹海。その上を──風が撫でるように吹き抜ける。
神の息吹をその身に受けて、鮮やかな翡翠の波が靡いてはうねり──また靡く。
葉擦れの漣はどこまでも雄々しく、ときには繊細に音色を奏でる。
陽の光を一身に浴びた森は脈々と──まるでひとつの生きもののように──輝いていた。
それは悠久の時が生みだした恩恵。無為にして偉大なる自然の賜物。
森の傍ら、川の畔の一角に、花の咲き乱れる草原があった。
菖蒲の細長い葉をかいくぐって飛び出したのは、二匹の蝶。黄色い翅を弾かせて、誘い合うように森へと入っていく。木々がつくった天然のアーチを通り、薄闇に立ちこめる靄を乱してさらに奥へと進む。
先には、明るい日溜まりがあった。
大きな樹が一本、光の中心に聳えている。周囲に太い根を張りだして、他の木を寄せつけない。遙か頭上に広がる緑の天蓋から、木洩れ日が光のカーテンのように射している。苔むした幹は露を湛え、光を受けてちらちらと瞬く。ひとが侵すことのできない、自然の生み出す神秘が、そこにはあった。
二匹の蝶はしばらく大樹の周囲を飛び回っていたが、ふと、森にはない色を見つけて、そちらへ近づいていった。大樹の根元で風にゆらゆら揺れる、青。
ひとりの子供が、からだを丸めて横たわっていた。
目を閉じ、親指を咥えながら静かに眠っている。その横顔は見るからにあどけない。穢れを知らず、今はまだ無垢の世界に生きる──幼き少女。青い髪は風に吹かれ、しなやかな草のように靡いている。首許から白銀の鎖がこぼれ、その先についた飾り石が、陽の光を受けて鮮やかな翠に輝いた。
蝶たちは戸惑うように子供の上を飛んでいたが、不意に思いきった一匹が、その華奢な肩に降りてきた。それにつられて、もう一匹も細く尖った耳の上に留まる。幼い少女は穏やかに寝息を立てている。微かに上下する肩の上で、蝶もゆったりと翅を休める。
不意に、大樹の近くで気配が動いた。
子供が身じろぎ、蝶たちはいっせいに飛び立った。
二匹の蝶が、縺れ合うようにして大樹をするすると登ってゆく。
ゆたかに生い繁る枝葉を潜り抜けると、広く明るい空に出た。
そこは輝く翠の海原──神秘の樹海。
蝶たちは黄金色の翅を弾かせて、翠の海を悠然と駆けていった。
序章 妖精の仔
山間に佇む小さな村。その名を、アーリアと言った。
険しい山の中腹に位置するその集落は、冬の間は深い雪に閉ざされる。村人たちは長い冬を、家の中でひっそりと、静かに過ごす。春になれば暖かな陽射しが戻り、雪も溶け、肥沃な大地から新たないのちが一斉に吹きだす。その日を待ち望みながら、彼らは厳しい冬をじっと耐え抜くのである。
しかし、それはおとなたちだけの話。元気を持て余したこどもたちには、厳しい寒さもお構いなし。頬を赤くし、白い息を吐きながら、重く垂れこめた空の下を小犬のように駆け回る。腰丈ほどに積もった雪も、彼らにとっては格好の遊び道具だ。雪だるまを作り、雪玉を投げ合い、そして遊ぶのに疲れたら、雪室の中で休む。
村を流れる川に架かる小さな橋。そこへ通じる小径の脇に、こぢんまりとした雪室が作られていた。入口は、こどもが腰をかがめて通るのがやっと。中のスペースも狭く、お世辞にも立派な室とはいえない。そこに、少女がふたり、身を寄せ合うようにして入っていた。
「暗く深い洞窟の奥で竜を退治した勇者は、ついに牢屋に閉じ込められているお姫さまを見つけました」
年かさの少女が、幼い少女に物語りをしている。どちらも厚手のコートに身を包み、幼い少女の方だけ毛糸の帽子を被っていた。年上の少女の青い髪には、三日月の形をした髪飾りが見え隠れしている。
ふたりは切株の椅子に向かい合って座っている。どちらも頬を紅潮させ、瞳を爛々とさせながら。
「勇者はお姫さまに言いました。
『迎えに来たよ』
けれどお姫さまは、ずっと暗い部屋に閉じ込められていたせいで、ひどく怯えています。
『だいじょうぶ、僕はきみを助けに来たんだ。恐がらないで、勇気を出して』
勇者はそっと手を伸ばしました。その手に、ゆっくりと手が重ねられます。勇者のぬくもりを感じて、お姫さまはにっこり笑いました。
『さあ、ここから抜け出そう。暗く悲しい闇の檻から、光あふれる素晴らしい地上へと』
勇者はお姫さまと一緒に城へ帰りました。王様も人びともたいそう喜んで、ふたりを祝福しました。祝いの宴は三日三晩続き、それが終わると、勇者は誰に告げることもなく、ひとり静かに城を去りました。また、新たな冒険の旅に出るために。……おしまい」
話を締めくくると、幼い少女は小さな手で拍手をした。
「勇者さま、かっくいー」
「かっくいーねぇ」
狭い雪室の中、しばらくふたりでうっとりと遠くを眺めた。
「ね、レナお姉ちゃん」
「なあに?」
レナと呼ばれた少女は、幼い少女を見た。
「勇者さま、この村にも来てくれるかな」
「そうねぇ……うん、来てくれるよ、きっと」
優しい笑みを浮かべて、レナが言った。少女も嬉しそうに笑顔を返した。
「セシルね、勇者さまに会ったら、お嫁さんにしてって言うんだ」
「へぇ~。それじゃ、セシルは私のライバルってことね」
わざと意地の悪そうに言うと、セシルの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「じゃあ、まずはおねしょとニンジン嫌いを直さないとね。でないとお嫁さんどころか、勇者さまに嫌われちゃうよ」
「……っ! セシルしてないもん!」
レナの手を振り払うように、ぶるぶる首を横に振る。
「おねしょしてないもん! ニンジンだって食べれるもん! レナお姉ちゃんになんか負けないんだから!」
「なにをー、生意気なっ」
拳を振り回して主張するセシルを無理やり抱きしめて、狭い雪室の中を転げまわる。腕の中でむきになって暴れる幼い少女に、レナは声を上げて笑った。
「ほら、そんなむっつりしてると、せっかくの可愛い顔が台無しでしょ」
「にゃっ、……やめっ……くすぐったいっ」
脇をくすぐると、ふてくされていたセシルの顔も綻んでくる。そうやって、しばらくふたりでじゃれ合っていたら。
「楽しそうだなぁ、お前ら」
突然、外から声がした。とっさに入口を見たが、そこには誰もいない。
「こっちだよ、バーカ」
「きゃっ!」
上からいきなり雪の塊が降りかかってきた。雪室の天井が崩れて、ぽっかり空いたその穴から、数人の少年が覗き込んでいる。
「なにするのよ! せっかく作ったのに!」
外に出て、レナは少年たちに怒鳴った。
「あぁん? これ、お前が作ったのか?」
いちばん体格のいい少年が、崩れかかった雪室を見て、げらげら笑った。
「あんまりちっこいから、ウサギが掘った穴かと思ったぜ。ちょっと蹴ったらすぐ壊れちまったし」
「セシルもいっしょに作ったんだぞ! あやまれ!」
レナの陰から身を乗り出して、セシルが叫ぶ。髪にはまだ雪がこびりついていた。
「うっせえ。しょんべんたらしのガキは家に帰ってママのおっぱいでも飲んでな」
目に溢れた涙を懸命にこらえるセシルを、レナは抱き寄せた。
「パヴェル、あなた最低ね。こどもになんてこと言うの」
レナは非難の視線を少年たちに向けた。
「ヤンもマレクも、どうしてこんなひとと一緒にいるの? いつもいつも、村のみんなに迷惑かけて」
パヴェルの背後にいる太っちょと痩せぎすの少年は、困ったように顔を見合わせた。
「へっ、なんだお前、俺が羨ましいのか」
「え?」
目を丸くするレナに、パヴェルはニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべる。
「そーだよなぁ、お前友達いねぇもんな。だからこんなしょんべんたらしと遊んでるんだよな」
「そ、そうだそうだ、みんなお前のこと、気味悪がってんだぞ」
「おとなたちも噂してた。ばけものの子なんじゃないかって」
パヴェルの言葉に、ヤンとマレクも勢いづいてまくし立てる。
「うそよ!」
レナは腿の横の拳を握りしめて、少年たちを睨みつけた。
「なら、その耳はなんだ?」
突き刺すように人差し指をレナに向けて、パヴェルが言った。彼女の耳は、天に向かって細く尖った形状をしている。
「ウチのおっかあが言ってたぞ。その耳は、お話の中に出てくる妖精の耳だって。お前、本当は人間じゃないんだろ?」
「ばけものだ、ばけものだー」
「怖ぇ~、近寄るなよ、ばけもの」
囃したてる少年たちに、レナは言葉を返すことができなかった。代わりにセシルが。
「お姉ちゃんは、ばけものじゃないっ!」
「うっせえ、ガキのくせして、ばけものの味方すんのかよ」
「実はお前もばけものなんじゃねぇの。妖怪しょんべんたらし」
「ははっ、そりゃあいい。ばけものと妖怪のコンビか。お似合いだな」
少年たちの残酷な言葉に晒されて、セシルはついに涙をこぼした。
「ふん、しょんべんたらしでもいっちょまえに泣くんだな」
パヴェルは高圧的な笑みを浮かべたまま、レナの前に立った。
「おい、さっきからなに黙りこくってんだよ。……ん? もしかして仲間に入れてほしいのか?」
無表情にうつむく彼女の顔を、挑発的に下から覗きこんだ。レナは堪えた。何か言い返せば余計につけ上がるだけだというのが、わかっていたから。表情に仮面をかぶせて、必死に平静を装った。けれど。
「ま、もしお前らがどうしてもってんなら、入れてやってもいいぜ。ほら、俺さまって優しいし」
「…………!」
レナの身体が、ピクッと震えた。頭に血が上っていくのが自分でもわかった。
「ただし、これからは俺のこと呼び捨てにすんじゃねぇぞ。かわいそうなお前らを思って仕方なーく入れてやるんだから、それぐらいの礼儀は……っ」
言い終わる前に、レナの右手がパヴェルの頬を叩いた。ぱぁんと乾いた音が、雪空に余韻を残す。ヤンもマレクも息を呑んだ。
パヴェルは突然のことに、しばらく頬を押さえてぼうっとしていたが。
「……ぁにすんだっ、この野郎!」
「あっ……!」
力任せに突き飛ばされたレナは、地面に尻餅をついた。雪を除けたばかりの小径はぬかるんでいて、着ていたコートにも泥がべっとり付いてしまった。
鈍い痛みに歯を食いしばって前を見ると、いつの間にかセシルがパヴェルの脚にしがみついていた。
「くそっ、なんだこのガキ、放せ……っ、あいたた、噛むんじゃねぇ!」
「セシル、やめなさい!」
「やら!」
レナが叫んでもセシルは放そうとしない。ヤンとマレクがふたりがかりでどうにか引きはがすと、今度は両手両足を振り回してじたばた暴れだした。手に負えなくなったふたりはセシルを抱え、勢いをつけて放り投げる。
「セシル!」
軽いセシルの身体は宙に投げ出され、レナの手前に腹から落ちた。レナはセシルを抱き起こし、仰向かせた。
「セシル、だいじょうぶ? どこか痛くない?」
泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔を覗きこむと、セシルは腕を上げて、掌を見せた。着地したとき地面に手をついたのか、ひどく擦りむいて出血している。だが、そのおかげで他の部分に怪我はないようだ。
「じっとしてて。いま治すから」
「……え?」
セシルが不思議な顔をした。パヴェルたちも怪訝そうに様子を見ている。
レナは傷ついた掌に手を重ねて、目を閉じた。ひとつ深呼吸して、こころを落ち着かせて念じると、暗闇の中に一粒の光が生じる。それを少しずつ転がしていき、大きな光にする。小さな雪の塊を雪の上で転がして、大きな雪玉にするように。
いつしか彼女の手の内側から、ほんのりと光が生じていた。春の陽射しのような暖かな光を受けて、掌の傷はみるみる癒えてゆく。
「わぁ……」
光が消えてレナが手を離すと、セシルは自分の手を見た。そこに傷はなく、泥と血の流れた跡だけが名残として付着していた。
セシルは嬉しくなって、礼を言おうと顔を上げた。だがレナはすっと立ち上がって、厳しい表情で少年たちの方を向いた。
「お、お前、今……」
真っすぐ視線を向けられたパヴェルは完全に射竦められ、わななく口をもごもごと動かした。
「や、やっぱりこいつ、ばけもんだっ!」
「ひっ、こっち見るなっ。来るなっ!」
ヤンとマレクは顔を引きつらせ、後退りする。それでもレナが無言で見つめていると、堪えきれなくなったふたりは一目散に逃げ出した。
「お、おいお前ら! 待てって!」
そのふたりを追いかけるようにして、パヴェルも橋の向こうへと走っていった。後に残ったのは、小径に立ちつくしたままのレナとセシル、それに崩れてオブジェのようになった雪室ばかり。
「おねえ、ちゃん……」
セシルは泥のついた顔をレナに向けた。レナはこちらを向いてくれなかった。唇を噛んで、地面の一点を凝視したまま、少しも動かない。
「……帰ろっか」
「……ん……」
ぬかるんだ小径を、レナがゆっくりと歩きだす。セシルが後からついてくる。家に着くまでの間、どちらも一言も発さなかった。
家に帰ったレナは、部屋に閉じこもって、ひとりで泣いた。ベッドの枕に顔を埋め、声を殺し、嗚咽を上げることもなく、ただひたすら涙を流した。どうしてこんなに泣いているのか、自分でもよくわからなかった。
そのうち涙も出なくなり、ベッドの上で膝を抱えて座って、ぼうっと物思いに耽った。陽はとうに沈み、部屋の中も闇と静寂に包まれた。
泣き疲れてうとうとしていたとき、扉をノックして誰かが入ってきた。すらっとした長身に、短めの茶色の髪。レナの父親、ダレンだ。
「レナ、どうしたんだ? ご飯も食べないで……。何かあったのか?」
彼女は答えなかった。こちらを向きもしなかった。
ダレンはそれ以上訊くのをやめて、代わりにひとつ嘆息した。そして、ベッドの横を通って窓の手前に立つ。
「おや、いつの間にか星が出てるじゃないか。明日は晴れそうだ」
ガラス越しに空を見上げて、あえて明るい声で言った。
それからしばらく、沈黙が続いた。自分の唾を呑みこむ音が、やけにはっきりと聞こえた。
「……生きていれば、いろいろある」
ダレンが静寂を破った。低く、落ち着きのある声で。
「時にはひどく傷ついたり、落ち込んだりすることもある。でも、それは人間なら当たり前のことなんだ。誰だってそういうことを経験して、少しずつ、大人になっていく。一度も落ち込んだことがない人間なんていない。いるとしたら、それは赤ん坊か、もしくは人間の皮をかぶった悪魔だ」
レナはそっと顔を上げて、父を見た。ダレンは窓の外に目を向けたまま、続ける。
「だから、そんなに不安がることはない。君はいま、人としてあるべき道を歩んでいるだけなんだ。……親としてはいささか寂しいがね」
「寂しい?」
レナが訊き返すと、ダレンはこちらを向いて、優しく微笑みかけた。
「もうそんな年頃になっちゃったのか、ってね。でも、僕にとって君は、まだまだ可愛い子どもなんだ。頼りない親かもしれないけど、たまには話してほしいな。もしかしたら何か相談に乗れるかもしれないし。それに、あんまり話をしてくれないと、僕の方が落ち込んでしまいそうだ」
レナはくすくす笑った。おかげで、気持ちも少し解れてきた。
「……ね、お父さん」
「ん?」
「私って、なんなのかな」
ダレンはじっとレナを見た。レナはベッドの端に座り直して、うつむいた。
「小さい頃から、なんとなくは感じてた。私はみんなとはちょっと違うって。でも、そのことはなるべく考えないようにしてた。考えると、なんだか自分が恐くなってくるから」
ぽつりぽつりと、言葉を紡ぎだすように、レナは話した。
「パヴェルたちに『ばけものだ』って言われたとき、すごくドキッとしたの。そんなんじゃないってどんなに強く思っても、心のどこかにはそういう気持ちが残ってた。……悔しかったの、私。いっしょうけんめい隠そうとしていたものを見られたような気がして、悔しくなって、それで、気がついたら……」
膝に置いた拳を握りしめる。その手には、パヴェルを叩いたときの感触がまだ残っている。
じっと話を聞いていたダレンは、ふいに表情を崩すと、レナの隣に腰かけた。
「レナ、ペンダントは持ってる?」
「え……あ、うん」
レナは首元から鎖を引っぱって、翡翠色の飾り石を取りだした。彼女が物心ついたときから身につけていたペンダント。決して手放してはいけないと、ダレンにいつも言われていた。
「覚えておいて。それは特別な『お守り』なんだ。嫌なことや辛いことがあったら、この石を握って念じるといい。……ほら、こうして」
「あ……」
飾り石をレナに握らせ、その手をダレンの大きな手が包み込んだ。
「心配しないで。たとえ何があっても、僕とウェスタは君の味方だ。いつもちゃんと、見守っているから」
「……うん……」
手から伝わってくる優しいぬくもりを感じて、レナははにかむように笑った。ダレンも笑顔で返した。
──お姫さまは勇者の手を握って、暗闇から抜け出す──。
「さあ、こっちに来て」
「え……?」
ダレンはレナを誘って、窓の前に立った。そうしてふたりで、空を見上げる。
「わあ……」
空気の澄んだ冬の夜空は、いつもよりもずっと綺麗に見えた。大きさも色も様々な星の粒が、空一面に鏤められている。
「星ってこんなにたくさんあったんだ。宝石のかけらを敷きつめたみたい」
「宝石のかけら、か。なるほどね」
ダレンはレナの肩に手を置いて、言った。
「お父さんはどう思った?」
「そうだなぁ……。さしずめ『海』かな」
「海?」
「そう。どこまでも続く星の海ってね」
向かいの家の屋根に積もった雪が、音もなく滑り落ちた。軒に並んだ不揃いのつららからは、しきりに滴が落ちている。やがては地面の雪もすっかり溶け、色鮮やかな緑が芽吹くことだろう。
山間のアーリア村にも、遅い春が訪れようとしていた。
──時は流れ、そして物語は始まる。