note 7. 栄光の夢 [出題編]
黒ずんだ石段に、冷たい雨が降りそそいでいる。粒の細かい、霧のような雨が。
邪魔くさいレインコートのフードを外して振り仰ぐと、遺跡は、鉛色の空を背景にして重々しくそこに鎮座していた。鈍く光る不可思議な材質の壁。奇妙に抉れた柱。ずっと以前にここを訪れたときから、何ひとつ変わっていない。
最果ての森の番人、ホフマン遺跡。
「いつ見ても大したものだよなぁ」
レオンの隣で、同じように遺跡を眺めながら、クロードが言った。
「でも、またここに来るなんて思ってもみなかったわ」
レナは、レオンが下ろしたフードを掛け直してやってから、感慨深げに言った。
彼らがこの遺跡に再びやってきたのは、調査のためだった。
遺跡には、かつてここに住んでいたものたちが残した多くの技術が眠っている。その中には、現代のエクスペルには存在しないほど高度なものも含まれている。そうした失われた技術を発掘し調査するために、ラクールの研究所では定期的に調査団をここに派遣しているのだ。
「レオンは毎年、ここに来てるの?」
同行した二人の研究員と調査箇所の確認をしていたレオンは、首を少し横に向けて答えた。
「いや。ボクも二度目だよ。ここに来るのは」
指示を受けた研究員が先に遺跡の石段を登っていく。残ったレオンは手に持った調査用紙を眺めながら、続ける。
「ここの担当だったひとがこないだ研究所を辞めちゃってね。しょうがないからボクが後を引き継いだんだ」
「しょうがないから、ね」
クロードが含みのある言い方をしたので、レオンはむっとして振り向いた。
「なんだよ。なにか文句でもあるの?」
「なんでもないよ」
クロードは肩をすくめて、軽く受け流した。
「そろそろ中に入らないか? ここにいると骨まで凍えそうだよ」
そう言うのを聞きつけたように、霙まじりの北風が吹きつけてきた。レオンはぶるっと猫のように背中を震わせると、わかってるよと小声で呟きながら遺跡の入口へと向かっていった。
「博士のご機嫌を損ねてしまったかな」
そう言って笑いかけたクロードの脇腹を、レナは肘でつついて諫めた。
「クロードが茶化すからでしょ」
先に行った研究員たちは既に遺跡に入っていた。クロードとレナも、レオンの後について石段を上がっていった。
雨風を凌げると思って急ぎ入った遺跡だったが、金属質の壁に囲まれた通路はむしろ外よりも寒々しく感じられた。空気が滞り、息が詰まるような感じがして深く呼吸をした。気温はそれほど低くないけれども、湿気があるせいで、息を吐くと目の前は煙で真っ白になった。
コツコツ、コツと三人それぞれバラバラなテンポで靴音を鳴らして歩いていくと、通路の先から研究員たちが戻ってきた。
「どうしたの?」
「それが……」
研究員のひとりが無言のまま通路の先を指さした。左手の壁が途中で切れ、そこからほのかな灯りが洩れている。
「先客がいるのか」
クロードが声をひそめて言った。レオンは足音を忍ばせ、それでいて特に警戒するでもなく、灯りのほうに近づいていった。
調査用紙の内部図が正しければ、壁の途切れた部分は出入り口で、その先は小部屋になっているはずだ。壁に沿って歩き、すぐそばまで近づいたところで、向こうの気配が動いた。
「誰だ」
部屋の中から鋭い男の声がした。クロードたちは息を呑んでその場に固まったが、レオンだけは壁にもたれかかり、反対側の壁を見上げながら言い返した。
「それはこっちが聞きたいね。この遺跡はラクールの管轄なんだ。なんの目的かは知らないけど、無断で入ってくれちゃ困るよ」
「その声……」
今度は女の声だった。予想もしなかった言葉が返ってきたので、レオンは怪訝そうに眉を寄せた。
壁の向こうでは、男と女が何やら小声で話し合っていたようだが、それも終わると、男の方が先程とは打って変わって穏やかな声で言った。
「それは申し訳なかった。なんせ前回は調査の途中で酷い目に遭ってしまったからな。魔物にやられて研究が頓挫したなどと言われては、考古学者としての沽券に関わる」
「!」
レオンはすぐに身体を反転させて小部屋をのぞいた。案の定、そこには見覚えのある男女がふたり、立っていた。
「エルネストさん……それに、オペラさんも」
「久しぶりねぇ、クロード」
驚くクロードに、オペラは軽くウィンクしてみせた。
「わーっ。いつからこっちに来たんですか?」
レナは幾分はしゃいだ様子で訊いた。
「つい昨日だよ。この遺跡でやり残したことがあったのを思い出してね」
エルネストが答えた。
「……ったく。遺跡に来るたびにいつも出てくるんだから」
レオンがぼやくと、エルネストは笑った。
「人を亡霊みたいに言ってくれるな」
「まあ、似たようなものかもね」
こっちは真面目に言ってるのに、とレオンは思った。軽くあしらわれたことが、なんとなく癪だった。
「そういや、この遺跡で面白いものを見つけたんだ」
クロードと話をしていたエルネストが、急にそう言って部屋の奥へと歩いていった。他のものたちもそこに集まる。
部屋の片隅に、何かの装置らしき台が置かれている。エルネストが慣れた手つきで上部のパネルを操作すると、すぐ横の壁がフッと消失した。
「なに? どうなったの?」
「そこには元から壁なんてなかったんだよ。ホログラフでそう見せていただけだ」
照明灯を持ったオペラが先導して消えた壁の向こうへと入り、クロードたちが後に続いた。
「ずいぶん広い部屋ですね……」
薄暗くて向こう側の壁はよく見えなかったが、ざっと前の部屋の四、五倍はありそうだ。
「あたしたちも、まだこの部屋はあんまり調べてないの。何があるかわからないから気をつけてね」
オペラが注意を促した。一行は慎重に、奥へと歩を進めていく。
「オペラ、そこの壁を照らしてくれ」
最後に入ったエルネストが何かに気づいた。照らしだされた壁の前に立ち、鋭い眼差しを向ける。
「何か刻まれているな」
確かに、そこには文字のようなものが数行にわたって刻まれていた。金属質の壁を、鋭利なもので引っかいたような痕だ。
「見覚えのある文字ね」
「ああ。これなら解読できそうだ」
エルネストは懐からメモ帳のような形をした機械を取り出し、そこに表示された画面と壁面を交互に見ながら、ペンを走らせていった。察するに、どうやら翻訳の機械のようだ。
「天……から、悪魔、が、降り立ち……あまねく……いや、全ての……この文字は判らんな……を、奪い去った……」
「悪魔?」
たどたどしく訳すエルネストのその言葉に、オペラは思わず声を発した。
「嫌な感じの文章ね」
「ふむ。これはそのままの意味に受け取るべきか、それとも、何かの暗号になっているのか……」
考古学者たちの会話が続く中で、レオンはそっとため息をつき、その場を離れる。
「レオン、あんまりそっちに行くなよ」
「平気だよ」
クロードの忠言にも構わず、光のあまり届かない奥へとすたすた歩いていく。そもそも向こうの探索にこっちが付き合う義理などない。エルネストたちの登場ですっかりペースが狂ってしまったが、ボクにはボクのやることがある。
そう思ってひとり調査書を手に歩いていったが、不意に踏みだした足が地面をすり抜けて、前のめりになった。壁と同じように、そこの地面も幻だということに気づいたときには既に、身体半分が地面の下に落ちかかっていた。
「レオン!」
クロードの声が頭の上から聞こえたが、すぐに遠ざかった。目の前が真っ暗になり、頭の中は真っ白になった。落ちているはずなのに、その感覚はない。周囲の闇が濃くなり、レオンの内部にまで浸食してくるようで、ひどく不快だった。
薄れゆく意識の中で、誰かが必死に叫んでいるのが聞こえた。腕をつかまれる。それが誰なのかを確かめる間もなく、レオンの意識は深いところへと落ちていった。
「……ん……」
瞼の向こうがやけに眩しい。どうやら仰向けに寝ていたようだが、この明るさはなんだろう。確か自分は遺跡の落とし穴に填って……。
はっとしてレオンは目を開けた。途端に心臓がはね上がる。
「!?」
目の前に黒い肌をした魔物の顔があった。血のように赤い瞳でこちらを覗きこんでいる。
「なっ、なななな、なんだおまえは!」
「がる?」
上半身を起こして後退りするレオンに、魔物は目をぱちくりさせた。
「うる いらまが にえめど えらが」
「なんだよっ。何言ってるんだよ!」
狼狽えるレオン。そこへ別の声が飛び込んできた。
「おっ、気がついたのか。よかったよかった」
振り向くと、横からひとりの少年が歩いてきた。背丈はレオンと同じぐらいだろうか。日に焼けたような褐色の肌をしている。青色のローブめいた長衣をまとい、黒髪は眉の上できれいに切り揃えられていた。
「がる うるぐらいか めらうみ……」
「わかったわかった。いいからディア、おまえは下がってな」
言い寄る魔物を背後に押しやって、少年はレオンの前に立った。
「なんだよそいつはっ。いや、それよりも、ここはどこだよ」
やっと話のわかりそうな相手が出てきたので、レオンは口早にまくし立てた。
「なんだいあんた、自分がいる場所もわかんないんか?」
少年は首をひねって笑った。
「ここは『生きた家の村』のはずれだよ。おいらがこいつを連れて散歩してたら、ここであんたたちを見つけたんだ」
「『生きた家の村』……?」
レオンはそこでようやく周囲を見渡した。青空の下に延々と広がる平原。その一部を占拠するように佇んでいたのは、見覚えのある建物。
ホフマン遺跡……!
それじゃあ、自分はあの落とし穴から、遺跡の外まで放り出されたというのだろうか? けれど、遺跡の周囲は深い森に覆われていたはず。こんなに広い平原なんてあったっけ? それに、あの建物は自分が知っているホフマン遺跡とはどこか雰囲気が違う。そう……。
「……どーでもいいけどさ」
ひとりであれこれ考えこんでいると、少年がふと口を開いた。
「そっちのあんちゃんは大丈夫なんかい?」
「え?」
指で示されたほうを向くと、そこには見覚えのありすぎる青年がうつぶせになって倒れていた。
「お、にいちゃん?」
ようやくクロードの存在に気づいたレオンは、その背中を揺すって起こした。幸いなことに彼も気を失っているだけだったようで、すぐに目を覚まして起き上がった。
「……ああ。レオンか。大丈夫だったかい?」
「ボクは平気だけど……」
「ふたりともケガとかはないみたいだな」
そう言う少年を、クロードは不思議そうに見た。
「君は?」
「おいらはティッポ。んで、こいつがディアヴァレス。長ったらしいから、おいらはディアって呼んでる」
「うらいる」
ご丁寧にお辞儀をする魔物に、クロードは予想どおりの反応をみせた。
「なっ、モンスター?」
「違う違う。こいつは魔物じゃない。これでもれっきとした悪魔なんだ」
「悪魔って……」
当人はさばさばと言ってのけるが、魔物だろうと悪魔だろうとそんなに変わるものでもないんじゃないだろうか、とレオンは思った。むしろ悪魔のほうが質が悪い。
「キミはどうして悪魔なんかといっしょにいるの?」
レオンが訊くと、ティッポは言葉を濁した。
「んー。まあ、いろいろ深いジジョーってもんがあるんだよ」
「じじょー かる もうが」
何か隠そうとしているのは明白だったが、初対面だけに詮索するのはやめておいた。
「ま、とりあえず村に来なよ。歓迎するよ」
ティッポが親指を立てて示した先は、やはりあの大きな建物だった。
それは確かにホフマン遺跡に違いなかった。けれども、それは「遺跡」ではなかった。内部は活気に溢れ、多くの人々が住んでいた。
『生きた家』――それはつまり、この建物のことなのだろう。金属質の通路に人が行き交い、無数ある部屋のそれぞれは商店だったり、住居だったり、憩いの広場だったりした。扉は人が前に立てばすっと開くし、どこへ行っても明々と照明がともっている。
まるで、村……いや、街ひとつを建物の中にすっぽり収めてしまったようだ。人々はこの高度に自動化された建物の中で、なんの違和感もなく日々の暮らしを営んでいる。
「どういうことだよ、レオン」
通路を歩くティッポのあとをついていきながら、クロードが小声で言った。
「ボクだってわかんないよ。ただ、もしかしたら……」
「こいつに乗ってくれ」
ティッポがそう言ってきたので、レオンは途中で言葉を切って、小部屋の中へ入った。レオンたちとティッポ、それに悪魔のディアヴァレスが乗ると、部屋はいっぱいになった。悪魔は背丈こそレオンより少し高い程度だが、横幅があるので、彼(?)だけで二人分ぐらいのスペースを占拠している。全員が入ったところで扉は閉まり、小部屋は勝手に上へと昇っていった。
「手間をかけさせて悪いけど、よそ者は一度長老に会ってもらうのが決まりなんだ」
ティッポが言った。小部屋はひとりでに止まり、ひとりでに扉が開いた。
着いた先の通路を歩くと、突きあたりに大きな開き戸が見えた。扉の前に立っていた番兵らしき男に用件を告げると、番兵は扉を押し開けた。
大広間のような部屋の中央には、長テーブルがでんと置かれ、真ん中の席に若者と老人が向かい合うように座っていた。
「ティッポか」
若者のほうが振り向いて言うと、ティッポは気さくに応じた。
「兄ちゃん。どうだい、仕事は順調かい?」
「ここではそういう風に呼ぶなと言ってるだろう」
若者は立ち上がり、レオンたちを見た。背格好はクロードと似ているが、やや彼のほうが低い。年も二、三歳下といったところだろうか。
「旅の方ですね。ご足労煩わせて申し訳ない。私は長老の付き人をしているイット・L・オアゲートです」
「付き人になってまだ半年ちょっとだから、手際が悪くても見逃してやってな」
「うるさい」
けらけら笑うティッポに、付き人は亜麻色の髪を掻き上げて嘆息した。そしてレオンたちに言う。
「ちなみにそこのバカとは昔の遊び仲間だったが、今はもう縁を切っているので誤解なきよう」
「ちぇっ。ちゃっかり反撃してるじゃんかよ」
ティッポの言葉を無視して、付き人は横に退いて、向かいに座っている老人を紹介した。
「わが村の長老、オベリンスク様です」
長老は予想していたよりもずっと小柄な老人だった。椅子に座っていると、テーブルの上から頭だけが生首のようにちょこんと出ているのが滑稽で、緊張していなければ思わず吹きだしてしまっていたところだ。頭も眉も顎髭も灰をかぶったような白髪だったが、頭のそれはやや薄くなってきている。
そして、何よりも目についたのが、顔の両側についている耳。耳朶が細長くとがって、昆虫の触角のようにピンと立っている。
「『生きた家の村』に、ようこそおいでなすった」
長老は髭に隠れた唇をもぞもぞと動かすようにして喋り始めた。
「この地を訪れるのは、初めてかの?」
「え、ええ」
「それなら、さぞや驚いたことじゃろう」
長老は椅子から飛び降りるように立ち上がり、背後の壁を振り返った。そこには白銀色のレリーフが貼りつけてあった。
「この『生きた家』を造ったのは、ひとりの女性じゃった」
女性――そう、レリーフに刻まれているのは、女神のような女性の姿だ。
「百年ほど前になるかの。それまでこの村は、他の村と同じように集落を作り、それぞれに家を造って生活しておった。そんな折、我らは行き倒れの女性を助け、介抱してやった。旅人にも見えぬその女性は、自分は稀代の紋章術師だと言った。そして、助けてくれた礼がわりに、この力でそなたらの望みを叶えてやろう、と。我らは無理を覚悟で申し出た。この地は冬は雪と氷に閉ざされ、毎年多くの凍死者が出ている。寒い冬でも暖かく過ごせる場所がほしい、と。……そうして造られたのが、この建物じゃ」
「その女の人がひとりで造ったというんですか?」
「うむ。詳しいことは伝わっておらぬ。そもそもこの家の構造にしても、儂らはほとんど理解せずに使っておるのじゃよ。エネルギーは無尽蔵に供給されておるから、何もせずとも家は『生き』続けてくれる」
「エネルギーの源は?」
レオンが訊いた。それは研究者としての探求心からの質問だったのだろう。
「……『全てを動かす心臓』と呼ばれるものが、建物の中心部に設置されておる。すまぬがこれ以上のことは言えぬ」
長老はそこで言葉を句切って、こちらを向いた。
「まあ、そんな経緯もあって、儂らは旅人が訪れれば丁重にもてなすようにしておる。大したことはできないが、ゆるりとくつろいでくれ。そうだな。誰か案内役をつけさせるか」
「はーい。長老、おいらがやるよっ」
ティッポが勢いよく手を挙げた。
「そうじゃな。お前に任せるとしよう」
「んじゃ、改めてよろしくな、えーと……」
「レオンだよ。そっちはクロード」
「そっか。よろしくな、レオン、クロード」
そう言って扉へと歩きだそうとしたとき。
「ティッポよ」
長老が呼び止めた。
「なんですか?」
「お前は、いつまでその悪魔を連れているつもりなんじゃ?」
その言葉で、ティッポの表情が急に大人しくなった。隣の悪魔も同じように下を向く。
「それは……」
「そろそろ戻すことを考えた方がいいな。今はもう、戻せないということでもないのだろう?」
扉の前に立っていた付き人が、長老の代弁をした。ティッポはきっと彼を睨む。
「なんだよ、なんでみんなしてディアを戻したがるんだよ! なにも悪さはしてないだろ!」
「悪さはしておらん」
長老は言った。
「その悪魔が我らに危害を及ぼすようなものでないことはわかっておる。だが、悪魔というのは生来、忌まわしき存在なのじゃよ。長い間そやつを留めておけば、この地にどんな災いをもたらすやもしれぬ」
ティッポはしばらく押し黙っていたが、不意にさっと長老に顔を背けると、早足で部屋を出ていってしまった。悪魔も慌てて後からついていく。
「あんちゃんたちも、行くよ」
通路の途中で、こちらを振り向かずにティッポが言った。それを聞いてレオンたちも、そそくさと部屋を後にした。
「……へっ。まーた怒られちまったな」
昇降機の中で、ティッポは苦笑した。
「がる めうら……」
弱々しい声を上げる悪魔に、ティッポは心配すんなと頭を撫でてやった。そして、ふたりのほうを向く。
「……グレムリンレアーっていう呪紋を知ってるか?」
「え?」
グレムリンレアー……異世界の悪魔を召喚する呪紋だ。レオン自身も使うことができる。
「それがどうかしたの?」
ティッポは少しためらいながらも、意を決したように話し始めた。
「こいつはさ、おいらが唱えた呪紋で出てきた悪魔なんだ」
「キミは紋章術師なの?」
「いや、この村の連中はみんな呪紋を使えるよ。ただ、おいらはあんまし得意じゃなくて……こいつを呼びだしたところで精神力使い切って倒れちまったんだ。そんで、異世界につながる通路も閉じられちまって、こいつは戻るに戻れなくなった。無理したせいで、精神力が回復するにはけっこう時間がかかっちまって、しばらく呪紋も使えない状態だった。……おっと着いた」
昇降機が止まって扉が開いたので、四人は降りて通路をまっすぐ歩いた。
「最初はおいらだって、精神力が回復したらすぐに戻してやるつもりだったさ。でも、一緒に暮らしていて、わかったんだ。こいつは戻りたくないって言ってる。向こうの世界より、こっちにいたいって言ってるって」
「こいつの言葉がわかるのか?」
「ちょっとだけな。それに、わからなくても表情を見れば、こいつがどんな気持ちなのかは察しがつくよ」
レオンが悪魔を見ると、彼(?)は悲しい声で鳴いた。なるほど、表情を読むのは簡単そうだ。
少し歩いたところでティッポは横の部屋の中へ入っていった。
「ここが旅人のための部屋だよ。先客がいるけど、部屋はひとつしかないから悪いけど一緒に使ってくれ」
「先客?」
「おーっ。あんさんらも旅のモンかいな?」
部屋の奥から声があがった。そこには妙ちきりんな恰好をした男がいた。
「はあ……まあ、そんなようなものですけど」
「そりゃ奇遇やなー。わいも昨日こっちに来たとこなんや。いやはや、この村には驚きましたなー」
「はあ……」
「そうそう、わいはこういうモンや。以後よろしく頼んまっさ」
男は胸ポケットから名刺を取り出して、クロードに渡した。
「『キラリ輝く逸品を 真珠屋 パール』……真珠屋?」
「それは屋号や。まあ、各地で名産品やら交易品を取り引きして売りさばいてる行商みたいなモンやな。お入り用の際はぜひともご贔屓に」
そう言うと筒型の帽子を脱いで挨拶した。短く刈り揃えられた金髪や大柄な体格のせいで若々しく見えるが、実際はそれほどでもないのだろう。背中のリュックははちきれんばかりに膨れ上がっている。
「んじゃ、わいはそろそろ商売に行かせてもらいますわ。この村は珍しいモンが多いさかい、いい取引ができそうや」
そう言いながら、真珠屋は部屋を出ていった。
「……変わった人やなぁ」
「うつってるよ、お兄ちゃん」
レオンに言われてクロードは、ん?と眉を寄せた。
「いすからいか!」
「わっ!」
すぐ後ろからいきなり大声で叫ばれたので、レオンの心臓は大きくはね上がった。
「おどかすなよっ」
「みら いすからいか えらが」
さしものレオンも強面(?)の悪魔ににじり寄られて、腰が引けていた。
「うる てあまか そる いすからいか」
「だからなんだよっ。わかるように言えっ!」
「いや、それは無理だろ……」
ティッポはひとり、けらけらと笑っている。
「どうやら『いすからいか』ってのが、レオンの名前みたいだぜ」
「え?」
レオンが聞き返した。ティッポは悪魔の背中をポンポンと叩きながら。
「こいつは自分で他の人間に名前をつけてるらしいんだ。おいらは『うるぐらいか』って呼ばれてる」
「う、うるぐ?」
レオンは首をひねった。
「ホントにそんなのが名前なの?」
「うーん。確証はないけど、おいらはそうだと思ってる。話をしてると何度もその言葉が出てくるから。……そらディア、そっちのあんちゃんはなんて言うんだ?」
ティッポがクロードを指して訊くと、悪魔は赤い瞳でじっと彼を見つめて、それから。
「みがうわいり」
と言った。
「それがあんちゃんの名前らしいよ」
「本当かなぁ……」
クロードはまだ半信半疑のようだ。
「そもそも、君たちはお互いが言ってることをちゃんとわかってるのかい?」
「ディアの方はなんとなくわかってるみたい。おいらも最初ちんぷんかんぷんだったけど、今は少しだけわかるようになったよ」
ティッポは服のポケットから折り畳まれた紙を取り出すと、広げて二人に見せた。
「忘れないように、覚えた言葉をメモっておいたんだ」
紙には悪魔の言葉の対訳が記してあった。
うる | 自分(私) | がる | 何・どこ・どれ | えむう | 歩く |
---|---|---|---|---|---|
がはる | 笑う | わいり | 上 | らいか | 下 |
さなぐ | 雨 | いうど | 風 | いすか | 空 |
ううが | 木 | にんみ | 昼 | うるぐ | 夜 |
ろんと | 寒い・冷たい | あたぎ | 熱い |
「ふーん……あれ? これって……」
レオンがなにかに気づいたとき、また悪魔が背後で叫んだ。
「いすからいか!」
「わっ!」
さっきと同じパターンである。
「あーもう、椅子か机か知らないけど、ボクはそんな名前じゃないっての!」
「……がる?」
「ボクはレオンって言うの。それぐらいちゃんと覚えろっ」
「……り、お、う?」
「れ、お、ん」
「……れ、おん?」
「そう。ボクはレオン」
「れおん……いすからいか・れおん」
レオンは脱力した。
「違う……それをくっつけちゃダメだっての……」
二人のやりとりに、ティッポは腹を抱えて爆笑した。悪魔は手で頭を掻いて不思議そうにしていたが、そのうち一緒になって笑っていた。
レオンは笑われて不貞腐れていたが、ティッポがどうしてこの悪魔とずっと一緒にいるのか、なんとなくわかったような気がした。
外ではもう日が暮れた頃だろうか。この『生きた家』の中も徐々に人の通りが少なくなり、それに応じて照明も少し落とされた。
「……さて、落ち着いたところで、今の状況を考えてみようか」
ティッポも自分の家へと帰り、二人だけになった旅人の部屋で、クロードが切りだした。
「ここはやっぱり、ホフマン遺跡なのか?」
「それは間違いないだろうね。内部の部屋の構造もだいたい一致してる。けど、ここは『遺跡』じゃないよ。実際に人が住んで、生活してる」
「どういうことだ? まさか時間を遡ってしまったとでも」
「そういうことは可能なの?」
レオンが訊くと、クロードは少し考えてから答える。
「理論としては可能だろう。実際、レナも偶然とはいえ、七億年の時間を飛び超えてこっちに来たわけだからね」
「それじゃあ、あの落とし穴は時間転移の装置だったってことかな」
「うーん……あの落とし穴はタイムゲートとかそういう感じじゃなかったと思うけどなぁ。それに、そんな技術が過去のエクスペルにあったってのも考えにくい」
「そもそもこの建物だって、エクスペルにあるのが不思議なぐらいだよ。あのちっこいお爺さんの話だと、一人の女のひとが造ったらしいけど」
「そうそう。その女性のことなんだけどさ」
「なに?」
「あれって、もしかして……」
クロードが言いかけたとき、ぐらりと建物が大きく揺れ、それから照明が激しく明滅しだした。
「なんだ?」
「レオン!」
そこへ、ティッポが血相を変えて飛び込んできた。
「ディアを見なかったか!」
「いや、見てないけど……」
「くそっ。どこ行っちまったんだ……なんだか家の様子もおかしいし」
建物はまだ小刻みに揺れている。
「どうなったんだ、これは?」
「おいらだってわかんないよ。とにかくディアを探して……!」
ぐわおっ!
通路の先から猛獣のような咆吼が聞こえてきた。途端にティッポは駆け出した。レオンとクロードもその後を追う。
曲がり角をいくつか折れ、緩やかに下る通路を走っていくと、突きあたりに大きな部屋が見えた。
「ここは『全てを動かす心臓』の部屋……まさか」
三人は部屋に駆け込んだ。そこには既に数人の人影があった。
「ディア!」
そのうちの一人はディアヴァレスだった。背後から番兵二人に取り押さえられ、必死に何かを訴えている。
「ティッポ」
長老が厳しい顔つきでこちらを見た。傍らには付き人の姿もある。
「長老、どういうことだよ。どうしてディアが……」
「それは儂が聞きたいところじゃ」
吹雪の声で、長老が言った。
「こやつはあろうことか、『全てを動かす心臓』を盗み出しよった!」
「えっ……」
ティッポは部屋の中央に目を向けた。そこには円筒を積み重ねたような形をした台座が置いてあり、皿の上には何か球形のものを填め込むための窪みがあった。その台座の周囲の床には無数の細いパイプが走っていたが、それらも照明と同じように明滅を繰り返していた。
「我々が駆けつけたときには既に『全てを動かす心臓』はなく、すぐ側にこいつが立っていました」
悪魔を捕らえている番兵が証言した。その腕の中で悪魔はしきりに叫んでいるが、興奮しているためにほとんど言葉として聞き取ることができなかった。
「待てよ。『全てを動かす心臓』はどこにもないんだろ? なんでディアを疑うんだよ」
「無くなった心臓の近くにこいつがいたなら、疑うのは当然だろう」
長老の付き人が言った。
「持ってなくてもどこかに隠したか、呑み込んだのかも知れまへんな」
なぜかこの場に真珠屋もいた。
「そやけど、心臓を外したまんまで大丈夫なんか? 建物が完全に止まってもうたら大変やろ」
「そうじゃ。一刻も早く心臓を台座に戻さねば……さあ、白状するんじゃ!」
「やめろよっ! 放してやれよ!」
番兵が暴れる悪魔を羽交い締めにして詰問する。ティッポは番兵の腕をつかんでやめるよう訴えるが、まるで相手にされない。
レオンはその様子を茫然と眺めていたが、ふとあることに気づいた。
「……?」
悪魔は一見無分別に暴れているように見えるが、その目はどうも一点を見据えたまま固定されているようだ。
視線の先は……長老と付き人、それに真珠屋。三人固まって立っていたので、そのうちの誰を睨んでいるのかは特定できなかった。
まさか……この中に?
レオンは悪魔を見た。向こうもそれに気づいてこちらを見た。そして。
「りあなわいり」
と言った。
レオンは了解したとばかりにひとつ頷き、それから叫んだ。
「待った!」
部屋がしんと静まり、全員がレオンを見た。
「その前に、ちょっとだけ確かめたいことがあるんだ」
「どういうことじゃ?」
長老が訊いた。
「なに。どうやらこいつが、キミたちの誰かが犯人だって言ってるみたいだからね」
「なんやて?」
「それじゃあ君は、僕ばかりでなく長老までも疑っているのか?」
真珠屋と付き人も不満を露わにする。
「まあ、そう言わないで、すぐに済むからちょっとだけつき合ってよ。……お兄ちゃん」
「な、何?」
いきなり呼ばれたので、クロードは情けない返事をしてしまった。
「今から言うひとの持ち物を調べてほしいんだ。……おっと、その前に」
レオンが言った。
「事件解決だいっ」
「今回のポイントは、ディアが最後に言った言葉だね」
「『りあなわいり』ってやつだな」
「そ。察しはついてると思うけど、これは犯人の名前を言ってるんだ」
「でも、名前だってわかっても誰のことかは……」
「そうかな?」
「え?」
「ティッポに対訳表を見せてもらったときに気がついたんだけど、ディアの名前のつけかたにはちゃんと理由があったんだ」
「理由?」
「うん。ディアは相手の『二つの特徴』を見て、名前を決めていたんだ」
「あの表から、そんなことがわかるかなぁ……」
「三人の『特徴』を、もう一度おさらいしてみるといいかもね。それじゃ」