Prologue
その男は、屋敷の窓辺に立っていた。
風の音が、魔女の息吹さながらに闇空を切り裂く。眼下の森は激しい風雨に曝されて俄に波立った。
男は窓から外を見詰める。目許には皺が浮き、頬はやや痩けていた。かつては女性も羨む容姿であっただろう彼も、畢竟老いには抗えない。
男は腰の後ろで手を組み、身じろぎもせず荒れ狂う森を俯瞰している。独特の紋様が刺繍された上着。頭の後ろで留めた金髪。そして、背中には。
──一対の翼。
がたがたと窓枠が鳴った。雨粒が硝子板に叩きつけられる。
首を擡げて、空を仰ぐ。途端に目が眩んだ。
稲光。そして、足許から轟く雷鳴。
男は顔を顰めた。
──何も、こんな時に。
「旦那様」
背後から声が掛かり、振り返る。
薄暗い廊下に執事が立っていた。齢七十はとうに超えているが、未だ衰える様子もなく矍鑠としている。
「様子はどうだ?」
男が尋ねた。
「お変わりは……御座いません」
老執事は丸い頭を下げて畏まる。
「奥方様は初産で御座いますから、辛う御座いましょう。しかし、こればかりは」
「どうしようもない──な。こういう時、男は無力なものだな」
窓に向き直ってから、肺に溜まった息を吐き出す。目の前の硝子が白く曇った。
昨晩に陣痛が始まり、夜が明け……今はもう日が暮れなんとしている。
出産に時間を要することは聞いていたし、覚悟もしていた。だが、それでもやはり。
──耐え難い。
妻は生来より丈夫な方ではなかった。半日も続く激痛に果たして耐えられるだろうか。心配はやがて良からぬ想像へと変わり……。
雷鳴。
我に返り、頭を振る。そして再び窓の外に目を遣る。
しきりに胸の内がざわめくのは。
不吉な予感が脳裏から離れないのは。
──この嵐の所為だろうか。
風雨に紛れて。
雷光に眩んだ隙に。
おぞましき悪魔は、這入り込み。
狙うのは──。
屋敷が激しく揺れた。
腸まで響くほどの轟音と衝撃に、男は頭を抱えて蹲る。執事も同様に身を屈めた。
地鳴りのような余韻を残して、振動は収まった。
「今のは……?」
執事が嗄れた声を出す。
男は立ち上がる。
「雷……で御座いましょうか」
「いや……」
雷の音とは思えなかった。
もっと重々しい何かが、屋敷に落ちてきたような。
それとも。
空からではなく──。
──地の底から。
はっとして、男は駆け出した。
階段を降り、一階の廊下を走り。
寝室の扉を、ひといきに開けた。
そこには、妻が──。
絶命していた。
ベッドに横たわった身体は弛緩して。
豊かな蜜色の髪は乱れ、枕に落ちて。
双眸は驚愕の色に、見開かれたまま。
自らの翼に埋もれるようにして──。
事切れていた。
ベッドの横では、産婆が腰を抜かしていた。
女中達は魂を抜かれたように立ちつくしていた。
悪魔の唸りの如き雷鳴の合間に。
彼は。
有翼種族の男は。
赤子の産声を、聞いた──。