Side L-8 "CREVICE"
広間、と呼べるほどには広くない部屋だった。
奥の方は一段高くなっている。祭壇だろうか。
燃え盛る炎を宿した巨大な甕が部屋の中央を占め、その背後には祭壇へと続く階も垣間見えた。
壇上には石造りの台が設えてあった。絡み合う無数の蛇という、いかにも禍々しい意匠が側面に刻まれている。
その台の上に──誰かが横たわっていた。
「あれは……」
少女だった。揺らめく炎に照らされて、青い髪と薄手のワンピースの裾が見える。
「アリシア!」
走り出そうとするクレスを、レオンは腕で制した。
「なんで止めるん……っ!」
抗議するクレスを後目に、レオンは正面の大甕に視線を向けた。
裏側に──気配がある。
果たしてそこから二つの影が現れた。
「おやまぁ。ホントにしぶといガキンチョだこと」
ひとつは、あの赤毛の女。
「あの巨人を倒すとは、流石ですね」
ひとつは、翼を背負った優男。
「やっぱり──あんたか」
レオンが睨むと、彼は端整な顔立ちを緩めて微笑んだ。
「ハビエル・ジェランドと申します。闘技場ではとんだ失礼を」
「アリシアを返せっ!」
レオンの肩越しにクレスが叫ぶ。
女がけらけら笑った。
「威勢のいいこと。けどぉ、も少し空気を読むこと覚えた方がいいわね」
「なにをっ……!」
いきり立つクレスを再度押し止めてから、レオンは言う。
「あそこにいるのアリシアだよね。いったい何をしたんだ」
壇上の少女は──この騒ぎにも全く反応を見せない。拘束されている様子もないのに、こちらを向きもしない。
不吉な予感が頭を擡げた。だが。
「眠っているだけですよ。薬を嗅がせた以外は危害も加えていません」
ハビエルはそう否定した。
レオンは怪訝な視線を向ける。
目の前の男は、外見も仕種も人当たりの良さそうな好青年にしか見えない。
それなのに──これは何だ?
彼から感じる、この圧倒的な気配は──。
知らずとレオンは顎を引いて身構えた。
「何者だ、あんたは」
額に玉の汗を浮かせながら、レオンは問うた。
「その気配は人間のものじゃない。むしろそれは──」
──魔物──。
「人間ですよ、わたしは」
穏やかな口調で、彼は答える。
「人の子として、人の身体と魂を持ってこの世に生を受けた。しかし──」
その口許が──三日月の形に歪んだ。
「『意志』だけは、魔王のものです」
彼の声が瞬時に遠のいた。
意識を失いかけていると錯覚したが、すぐに違うと気づく。
物理的に突き飛ばされたのだ。
背後の石壁に叩きつけられて、床に転がる。
遅れて左腕に激痛が走った。激しく打ちつけてしまったらしく、痺れて動かない。
歯を食いしばりながら右手をついて身体を起こし、頭を上げる。
ハビエルは同じ場所に立っていた。
掌を前に翳した恰好で。
──何か術を使ったのか?
「二十一年前、魔王が斃れた直後にわたしは生まれました」
天井を舐める炎の袂で、ハビエルは語る。
「魔王の意識は肉体と共に四散し、その殆どは消滅しましたが──『意志』だけは地上へと伝わり、胎児であったわたしに宿ったのです」
レオンは右腕を伸ばして、白衣のポケットに入れていた呪紋書を取り出す。
左腕は当分使いものになりそうにない。
それでも、クレスは──守らなければ。
「クレス、こっちに……」
呼びかけた刹那、目の前に火の玉が飛び込んできた。咄嗟に床に伏して回避する。
火球を放ったのは──やはりハビエルだった。
しかし、彼は。
「詠唱……してない?」
困惑するレオンに構わず、彼は滔々と語り続ける。
「『意志』は魔王の肉体と魂を求めた。わたしはその意志に従い、文献を紐解いてあらゆる秘術や魔術を試みました。しかし……やはり上手くは行かなかった。この場所も文献によれば、かつて魔王復活の儀式に用いられたそうです」
ハビエルは背後を顧みる。
レオンもつられて顔を上げた。
炎と煙の向こうに、祭壇と石の台が佇んでいる。
その奥は──見えない。甕の炎は光源としては乏しく、部屋の隅々までは届かない。
周囲は薄闇に霞んでいた。
レオンは思う。
──この部屋は、境界が曖昧だ。
いや。もしかしたら──ここが境界なのだろうか。
世界と異界の狭間。この場所なら……確かにあちら側のものが出てきても不思議ではないのかもしれない。
「まあ、いずれにしても儀式で魔王は召喚できませんよ」
少年に生じた心の隙を、魔王に憑かれた男は突いてくる。
「それでも舞台装置としては申し分ない。だから、この度の計略にも使わせて頂くことにしたのです。かつて魔王に殉じた者たちに敬意を表して、ね」
「何が計略だ」
言い返しながら、レオンは呪紋書を白衣の左ポケットに入れた。そして痺れたままの左手を差し入れる。
指先に呪紋書が触れていさえすれば、呪紋は使える──はずだ。
「あんたがやろうとしてるのは、ただの歴史破壊だ。そんなことで魔王は復活しない。世界が滅茶苦茶になるだけだ」
「それならそれで良いのですよ」
ハビエルは平然と言い放つ。
「魔王の目的は世界を混沌に陥れること。それが実現するというなら望むところです。魔王が蘇るも良し、世界が混沌に落ちるも良し。どちらに転んでも魔王にとっては本願なのですよ」
そうして、傍らに控えていた女に命じる。
「あの子供を捕らえなさい。そのくらいはできるでしょう」
「はぁい」
気怠そうに返事をして、女はクレスの方へ歩いていく。
「く、来るなっ!」
クレスは木製の剣を構えたまま後退りする。
「クレス……!」
レオンは女に向けて詠唱を始めた。しかし。
再びハビエルが火球を放って詠唱を妨害した。
「貴方の相手はわたしですよ」
有翼の青年は薄笑いを浮かべている。
レオンは歯軋りした。
「くそっ……なんで詠唱なしに呪紋が……!」
「詠唱とは即ち、解を導き出すための記号」
ハビエルが言った。
「紋章術は式術です。人間の精神力を触媒として、紋章と言葉──詠唱という『式』を構築することで成立する。そこには厳然とした法則があり、故に理論に縛られる」
「そんなこと……!」
レオンは知っている。知らないはずがない。
紋章術の原理を解明したのは他ならぬレオン自身だ。かつて神秘であった紋章術は、その時点で科学の領域となったのだ。
「しかし、わたしの術には──式はない」
──式がない?
「魔王復活のために漁った文献の中に、紋章を用いず直接に現象を引き起こす術法があったのですよ。通常の人間には使用不可能のようですが──幸いわたしには『意志』が齎してくれた魔力があった」
「魔力……だって?」
そんなもの──あるはずがない。
けれど。
そもそも魔王の存在自体が「あり得ない」のだ。それが実在するなら……魔力だって、あるいは。
レオンの心が揺らいでいる。そのことに本人は気づいていない。
「だから詠唱も必要ない。魔力という鍵を用いて暗箱を開ける、それだけでいいのですよ。……このようにね」
ハビエルが手を翳す。
次の瞬間、視界が白く染まった。
世界が回って、顔の側面をしたたか打ちつける。地面に倒れたのだと後から気づいた。
「な……に」
全身に力が入らない。焦げた臭いが鼻をつく。電撃のようなものに打たれたのか。
「クレ……ス」
顔を上げると額に熱さを感じた。頭の上──耳の穴から血が零れ落ちている。身体もまだ痙攣していて思うように動かせない。それでも前を向いて、明滅する視界の中に少年を探した。
「こっ、このやろっ!」
クレスは壁際に追いつめられていた。破れかぶれで繰り出した剣は女の短剣に軽々と弾かれる。
「ほらぁ、いい加減に捕まっちゃいなさいよ。苦しまずに殺してあげるから。痛いのは最初だけよん」
女が巫山戯ながら詰め寄る。
レオンは倒れたまま右腕を前に出して、詠唱する。
間に合うか。
クレスが再び剣を振り上げた。
詠唱を終えて、レオンが唱えた。
「グロー……ス」
少年の細腕に力が宿る。
振り下ろした木製の剣が、迎え打った短剣を弾き飛ばした。
短剣は女の手からすっぽ抜けてクレスの足許に落ちる。
「う、うそっ……!」
クレスが剣を拾う。そして刃を女に突きつけた。
女は悲鳴を上げて逃げ出した。
「まったく。本当に役に立たないですね」
背後に逃げ込む女を、ハビエルは冷徹に一瞥する。
そして、人差し指をレオンに向けて突き出した。
指先から冷気の光線が放たれ、レオンの右手に命中する。
「く……あぁっ」
たちまち肘から上が氷漬けになる。痛みが脳天を突き抜けた。
「これでもう邪魔はできません」
ハビエルが向きを変える。短剣を構える少年の方へ。
「実を言うと、色々と趣向を凝らした儀式を用意していたのですが……まあ良いでしょう。この場で息の根を止めてあげます」
怯えるクレスに向けて、手を翳す。
レオンは動けない。指先ひとつ、動かせない。
守れないじゃないか。
約束したのに。
やっぱり、ひとりでは──!
「さあ、新しい世界の始まりです」
掌に闇が集約する。
それが放たれた瞬間。
世界の壊れる──音が──。
声が。
懐かしい声がした。
嫌いだけれど、好きな声が。
レオンは笑った。
嬉しくて、涙も少しだけ零れた。
どんなに離れていたって。
時を隔てていたって。
ボクたちは、いつも──。
遠くで光が炸裂した。