Side L-7 "FOR ACHIEVE"
重厚な鉄の扉が、半分ほど開かれていた。
シウスが持っていた松明を差し入れる。闇の中に石段のようなものが朦朧と浮かび上がった。人の気配はない。
「どうする」
松明を引っ込めてから、シウスが尋ねる。
「どうするって……」
レオンは空を仰いだ。
雲ひとつない星空だった。地平線の際まで煌めきが埋めつくし、そこから下は切り取られたように闇が広がっている。
地上に光が戻るまで、まだ数刻あるだろう。けれど悠長に構えてもいられない。
夜明けまでにアリシアを助けなければ──。
「行くしかないよ」
レオンが言う。隣のクレスも頷いた。
「クレスはここで待って──いや」
離れるのはむしろ危険か。
昼間もそれで失敗しているのだ。
「みんなで行こう」
シウスが身体を扉の隙間に滑り込ませる。
レオンとクレスも、慎重に入口を潜った。
広大な空間、ということだけは判った。
壁際に点々と明かりが灯っている。燭台でもあるのだろう。
天井は闇に呑まれて見えない。正面には石の階があり、その先はやはり暗闇に覆われていた。
光の中であれば、神殿の名に相応しい荘厳な空間であったのかもしれない。だが闇の裡では神聖さは失われ、代わりに蔓延るのは──。
禍々しさ。
息を潜めて、レオンたちは石畳の上を歩く。
少し進んだところで階段の上に人影が現れた。
「来たか」
影は低い声で言った。
シウスが松明を翳す。明かりに照らされた三白眼が、ぎろりとこちらを見下ろしている。
──あの男だ。
「贄を引き渡して貰おうか」
「ふざけるな」
シウスも凄んだ。大男二人は、しばらく無言で睨み合っていたが。
「やはり力ずく……ということになるのか」
男が蛮刀を抜いて頭上に掲げた。それを合図に人影がわらわらと出現する。
「ちっ」
シウスが背後を振り返って舌打ちした。入口の扉からも黒ローブの者どもが入ってきて、レオンたちを取り囲む。
やはり外にも潜んでいたのだ。クレスを一人きりにしなかったのは正しかった。
シウスは正面に向き直って、声を張り上げた。
「頭数だけ揃えても無駄だぜ」
「どうかな」
と、男の背後からひときわ大きな影が伸びた。
レオンは目を瞠った。
「あれは……」
人のふた回り以上はある巨体。岩のような禿頭。そして、手には丸太ほどもある鉄の棍棒。
薄闇の中で朧気にしか視認できないが──闘技場で見た、あの巨人のようだった。
──やっぱり。
レオンは顎に力を込める。
こいつらがここにいるということは、やはり黒幕は──。
「大ピンチだな、おい」
シウスが首を動かしてこちらを向く。言葉とは裏腹に、口許には笑みも零れていた。
「その割には余裕ありそうじゃない」
「お前もな」
剣士は肩を竦める。レオンも少しだけ口許を緩めた。
余裕がある訳ではなかった。これだけの人数とあの魔物が相手では、こちらも無事で済むとは思えない。
ただ、どこか──頭の片隅では──冷めていた。この状況を第三者的に俯瞰している自分がいる。
おそらくそれは、幾多の闘いを経験した者だけが達することのできる境地なのだろう。
レオンも、そしてこの男も──闘いを識っている。
そこに在る根源的な恐怖を、絶望を、そして奇蹟を──憶えている。
だからこそ、彼らはこうして平然と立っていられるのだ。
「お前、紋章術師だって言ってたな」
シウスが言う。
「あのデカブツは、さすがの俺でもちと骨が折れそうだ。雑魚どもは引き受けてやるから、あいつは任せた」
「簡単に言うなよ」
レオンはうんざりしたように言い返す。
「ボクだって、あんなバカでかいの相手にするのは大変だよ」
「けどよ、剣でちまちま削っていくよりは、呪紋で一気に片づけた方が楽そうだろ?」
「だから簡単に言うな」
だがシウスの言葉にも一理はあった。それに乱戦になるよりは的を絞った方が危険も少ない。
「わかったよ。大きいのはボクがやる。その代わりクレスを頼んだよ」
「おうよ。命に換えても守ってみせるさ」
レオンはクレスを見た。
クレスは木製の剣を握りしめ、顔を硬直させてレオンを見つめ返す。
「お、オレはだいじょうぶ、だからっ」
声は上擦っていた。その仕草に懐かしいものを感じながら、レオンは少年に言う。
「クレス。無理はしないで、何かあったら大声を出すんだ。こっちのおじさんが助けてくれるから」
「誰がおじさんだコラ」
「もう四十過ぎなんだろ。若作りしててもおじさんはおじさんだよ」
チッと舌打ちしてから、中年剣士は松明を床に置いた。
そして周囲に睨みをきかせながら、背中の剣をすらりと抜き放つ。
「死にたい奴からかかってきな。てめぇらには魔王より地獄の閻魔の方がお似合いだ」
啖呵を切ったシウスに、黒ローブの男どもが一斉に襲いかかる。シウスはそれをひと振りで弾き飛ばした。
レオンは自分にヘイストをかけてから駆け出した。黒ローブの間を掻い潜り、階段を一気に駆け上がる。
階段の上にも、下と同じくらいの空間が広がっていた。横の壁際に篝火が焚かれ、正面奥には通路へと続く入口も見えた。
それを塞ぐようにして、巨体の魔物が立っている。
その手前には、三白眼の男も。
レオンは顔を歪めた。
──ふたり相手は、さすがに厳しい。
男は蛮刀を突きつけ、一分の隙なく構えている。
そのとき背後に爆発音が轟いた。振り向いて階段の下を見る。
シウスが立っていた。クレスの姿もその脇にある。
二人の周囲には黒煙が上がっている。それが黒ローブどもの骸から出ているのだと、少ししてから気づいた。
「も、もう倒したの?」
あれだけの数を、一撃で──。
「手加減してる暇はねぇからな。さあ、次はてめぇの番だ」
階段の下から大剣を突きつけるシウス。
対して男はほくそ笑む。
「なるほど。流石は暁の勇士。衰えたとは言え、その技は未だ健在か」
「衰えただと?」
シウスが噛みついた。
「聞き捨てならねぇな」
「自覚がないとは不幸なことよ。その慢心が身を滅ぼすぞ」
そう言うと、男はレオンを跳び越えて階段の下に降り立った。
「上等じゃねぇか。滅ぼしてみやがれ」
階下でシウスと三白眼の男は対峙する。
そして──階段の上でも。
レオンは魔物に向き直った。
魔物はこちらを威嚇している。篝火に照らされたその姿は、やはり闘技場で剣士を半殺しにした、あの巨人に違いなかった。
──結局、闘うはめになったか。
軽く溜息をついてから、レオンは身構えた。
そして少年は戦士の貌になる。
棍棒を振り上げて巨人が襲いかかる。レオンは横っ飛びに躱す。振り下ろされた棍棒は石畳を容易く粉砕した。
再び巨人は少年めがけて棍棒を振るう。攻撃自体は単調で、回避はさほど難しくない。
だが、逃げてばかりいるわけにもいかなかった。反撃するには──ある程度の時間を稼がなくては。術師には詠唱する時間が必要なのだ。
殊にこれほどの大物を仕留めるだけの呪紋となれば──数秒程度の詠唱ではとても足りない。
次々と繰り出される攻撃を避けながら、レオンは周囲を見回した。
時間を稼げそうなものはないか。
隠れられる場所はないか。
だが、目についたのは石畳の破片くらい。これを投げつけたところで稼げる時間は微々たるものだろう。
──仕方がない。
何度目かの攻撃を躱してから、レオンは床の石塊を拾った。
それを手にしたまま巨人に向けて駆け出す。繰り出された棍棒を跳躍して避けると、巨人の顔面めがけて投げつけた。石礫は鼻梁のあたりに命中し、巨人は顔を押さえて身体を丸める。
レオンは巨人の肩を踏み台にして、離れた場所に着地する。そしてすぐに本を取り出して詠唱を始めた。
巨人が気づく。だが既に詠唱は終わっていた。
「ウーンズ!」
巨人の足許の影から闇の刃が突き出して、大木のような脚を切りつける。巨体が僅かに傾いた。
レオンは間髪容れずに呪紋を放つ。
「アイスニードル!」
指先から無数の氷の矢が放たれて、魔物の膝を襲う。再び巨体が揺らいだが、それでも倒れない。
「ブラックセイバー!」
矢継ぎ早にレオンは呪紋を繰り出す。
狙いは全て、敵の脚。
詠唱時間の短い呪紋は威力も弱い。けれども同じ場所に連続してぶつければ、それなりにダメージを与えられるはず。
とにかく、動きを封じるのだ。
そして止めを刺せるだけの呪紋を──。
何度目かのウーンズを唱えてから、レオンは少し長めの詠唱をした。
「ディープフリーズ!」
強烈な冷気の塊が巨人の足許を襲う。床が凍りつき、膝から下は霜で真っ白になった。
「ウグ……」
巨人が喉の奥から唸って、膝をつく。傷つき、何度も撲たれ、冷気に晒されたその脚が──遂に動きを止めたのだ。
この隙に──!
レオンは手許の本に目を落とす。だが。
「──っ、くそっ……!」
途端に激しい目眩に襲われ、前によろめく。
足止めのための呪紋だけでかなりの精神力を消耗してしまった。全身から血の気が引き、脚にも力が入らない。油断すると倒れてしまいそうだ。
けれど、この機を逃すわけにはいかない。
頭を振り、膝に力を込めてしっかりと立つ。そして腕を前に出して瞑目する。
詠唱を始めた。
冷気が薄らいで、巨人が緩慢な動作で立ち上がる。
そして詠唱する少年を見つけた。
巨人は牙を剥き、棍棒を握り直してそちらに向かう。歩を進める脚の動きは鈍いが、それでも一歩ずつ、レオンに近づいていく。
レオンの詠唱は続いている。
小さな少年の姿が、大きな影に覆われた。
間に合わない。
巨人は立ち止まり、足許の少年を見下ろした。そして棍棒を振り上げて──。
ひといきに振り下ろした。
「グァッ!」
棍棒が弾かれる。
少年の頭上に生じた光の盾が、衝撃を全て受け止めた。
レオンは予め防護呪紋を自分に掛けていたのだ。
そして──小さな術師が目を見開いた。
突き出した掌を、天に向けて掲げる。
「シャドウフレア!」
唱えると同時にその場を離れた。
壁際まで避難してから、天井を見上げる。
闇の中から。
闇の塊が──落ちてくる。
めらめらと、黒き焔を上げながら。
それは巨大な魔物の頭上に落ちて。
轟音と共に──焼き尽くした。
凄まじい断末魔が、漆黒の火柱から聞こえる。
地獄の業火に灼かれて、その魔物は。
魔物であったものは。
残らず溶けて、塵となり。
闇に紛れて消滅した──。
「……オン、レオン!」
「ん……」
クレスの声が聞こえた。背中を揺すられて、身体を起こす。
少しの間、気を失っていたようだ。
「大丈夫なのか?」
「う……ん。少し休めば大丈夫だから」
まだ気怠かったが、顔には出さずにしっかりと立ち上がってみせる。
クレスに弱いところは見せたくなかった。
「シウスのおじさんは?」
「まだ向こうで闘ってる。オレは離れてろって言われてこっちに来たんだけど……」
階段の手前まで歩み寄る。
階下では、先程と同じように両者が対峙していた。
だが。
シウスは──片膝をついていた。
三白眼の男は蛮刀を逆手に持ち、切っ先を自分の足に向けるような形で構えている。
「てめぇ……何者だ」
シウスが唸った。
「その構え、その太刀筋……見覚えがあるぞ。それは」
「アシュレイ・バーンベルト」
男が答えた。
「暁の勇士が一人。そして……我が師父でもある」
「けっ。アシュレイの爺さんも、とんだ弟子を取っちまったな」
シウスは立ち上がって、床に唾を吐いた。脇腹からは血が流れている。
「こんな悪党に成り下がるとは、爺さんも泣いてるぜ」
「死人に泣くことはできぬよ」
「……死んだのか」
「我が、殺めた」
「なん……だと」
シウスは絶句した。
「最強の名を恣にした剣豪とて、老いには抗えなかったな。何とも味気ない最期であったよ」
「てめぇ……!」
声を荒らげて、シウスは剣を構えた。
「貴様とて同じだ、シウス・ウォーレン。肉体は歳と共に衰え、太平の世に現を抜かして腕もすっかり鈍ってしまった。もはや貴様に残っているのは過去の栄光のみ。実に見苦しい」
言いながら、男はじりじりと背後に下がる。
「老いさらばえた英雄など、最早この世に不要。我が師父と同じように──引導を渡してやろう」
男が剣を持ち変えた。
片手で高々と掲げる。
気合を発すると、刃の先端に紅の珠のようなものが生じた。珠は卵のようにひび割れ、中から炎が噴き上がる。
「その技は……!」
シウスが一歩後退る。
紅の卵から孵化したのは──炎を纏った朱の鳥であった。
「朱雀……衝撃破ぁっ!」
耳障りな鳴き声を上げて、煉獄の鳥が襲いかかる。
焔の尾を引きながら、シウスの許へ。
「うおぉぉぉぉぉっ!!」
シウスは足を踏ん張り、両腕を胸の前で交差させた。
受け止める気か。
鳥の形が歪む。
焔の塊と化したそれが、仁王立ちになった剣士に衝突した。
たちまち熱風が巻き起こる。レオンはたまらず腕で顔を覆った。
風が抜けてから、そっと腕を下ろして再び階下を見遣る。
そこで見たのは──。
「なに……?」
三白眼を見開いて驚愕する男と。
「けっ……ヌルいぜ」
変わらずそこに立っている、褐色の肌の剣士。
レオンは目を瞬く。
シウスの周囲に煙が立ちこめていた。
いや、あれは──闘気──?
それはもうもうと舞い上がり、シウスの背後でひとつの形を成す。
白銀の毛に覆われた──虎の姿に。
「衰えた、ってのは否定しねぇがな」
シウスが足許の剣を拾って、構え直す。
「それでも、そんな小手先の奥義でくたばるほど、耄碌しちゃいねぇんだよ」
「何故だ!」
男が叫ぶ。
「我が師父をも屠った奥義。それが、何故貴様には……」
「教えてやるよ」
狼狽する男に、シウスは斜に構えて言い放った。
「てめぇと俺じゃアな──」
大剣を振り上げ、一歩前に踏み出した。
そして。
「踏んでる場数が違うんだよッ!!」
虎が吠えた。
背中に負った白虎も、呼応して猛々しい咆哮を上げた。
シウスが駆け出す。
白虎が疾る。
漲る闘気を、振り翳した大剣に乗せて。
牙を剥いた白虎が──放たれた──。
レオンは目撃する。
高々と舞い上がる闘気の渦を。
渦に巻かれて天井の闇へと消えていく男を。
渦が消え、暫しの静寂が訪れた。そして。
闇の中から男が落ちてくる。
数秒前まで彼が立っていた、その場所へ。
真っ逆さまに──墜落した。
「なるほど……これが英雄の力か……」
ごろりと仰向けになって、男は声を洩らす。
息は浅く、顔も血塗れだった。
「我が学び、得たものは……所詮真似事に過ぎなかったという事か……」
「真似事で終わらせときゃ、よかったんだよ」
シウスが歩み寄る。
「今の世の中に、こんな力は必要ねぇんだ」
そう言って、剣を収める。
「……納得、できぬ」
吐き出した血に噎せ返りながら、男は呟く。
「そのような素晴らしい力を……徒に腐らせる世界など……我は認めぬ」
「だから世界を壊す片棒を担いだってか」
シウスが言うと、男は紅に染まった口を歪める。
「人は結局……力を求め、力に縛られる生き物よ……。その心が潰えぬ限り、我のような者は、何度でも……現れる……」
そうして、男は息絶えた。
三白眼を虚空に向け、口許を歪めたまま。
シウスは目を細める。
「……三百年後のあいつと、同じこと言いやがる」
骸に向けて、ひとりごちた。
「おじさん!」
レオンは階段を駆け下りる。クレスも後からついて来た。
「おじさんはやめろっつってんだろが」
シウスはこちらを向いて苦笑する。
レオンは床に置いた松明を拾って、掲げた。
そして、息を呑む。
褐色の胸板にはくっきりと火傷の痕が残っていた。焔を受け止めた両腕も赤く腫れ上がり、爛れている。
「……まぁ、見ての通り、このザマだ」
手負いの虎は憔悴した笑みを浮かべたまま、階段に座り込む。
「認めたくねぇが、やっぱり歳だな」
「シウ、ス……」
立ちつくすレオンを、彼は見上げた。
「お前は大丈夫なのか?」
「うん……まだ、行けると思う」
消耗はしているが、まだ余力はある。
「そうか。もうあんまり時間もねぇ。悪いがお前らだけで先に行ってくれ」
すまねえな、とシウスは繰り返し謝った。
「……わかった」
レオンは神妙に頷いた。
「アリシアを取り返して、すぐに戻ってくる」
「ああ。頼む」
シウスは右手を差し出した。
無骨で大きなその手を、レオンは握り返す。
そして脇腹のあたりを盗み見る。
傷口からは、止めどなく血が流れていた。
──これが今生の別れになるかもしれない。
手を放して、その姿を目に焼きつけておいてから。
「クレス、行くよ」
「あ、ああ」
シウスの横を抜けて、レオンは階段を上る。
そして思う。
戦場も、時代も違ったけれども。
闘い抜いた者として、自分と彼は通じ合うものがあった。
だからこそ。
託された意志を、しっかりと胸に刻みつけて。
──前に進むんだ。
神殿の、奥へ。
薄暗い通路がしばらく続いた。
少年たちは言葉を交わすことなく歩みを進める。二組の靴音だけが悄然と闇に響いた。
途中にいくつか小部屋があった。アリシアが閉じ込められているかもしれないと思い、慎重に中を検めたが、いずれもがらんどうで人のいる気配はなかった。
同様に敵の姿も見当たらない。前の部屋で一気にカタをつけるつもりだったのだろうか。
何度目かの角を折れて、石段を上る。
先に仄かな明かりが見えた。
近づくと、神殿の入口と同じような鉄の扉があった。通路側に大きく開け放たれている。
扉の先には──炎の揺らめき。篝火だろう。
誰かがいるのだ。
レオンは振り返り、小声でクレスに言う。
「絶対に、ボクから離れないで」
「わかってるよ」
クレスは真顔でしっかりと頷き返した。
逞しくなっているじゃないか。
少しだけ笑みを零してから、レオンは入口に向き直る。
覚悟を決めて。
少年たちは扉を潜った。
そこは──。