Side L-5 "TRUE FIGURE"
「かつて、この地は魔の脅威に曝されておった」
蕩々と老婆は語り始める。
「太古より封印されし魔王アスモデウスが永き眠りから醒め、魔界よりこの地に侵攻を始めたのだ」
「魔王……アスモデウス」
レオンは呟く。
その名はクレスからも聞いていた。だが──。
「ただのおとぎ話だと思ってたけど……」
「事実だよ。確かに魔王も魔界も存在していた。つい二十年前までは、ね」
老婆イレーネは中央広場に設えられたベンチに腰掛け、杖の柄に両手を載せながら物語りをする。
レオンはその横に座って話を聞く。隣のベンチではクレスとアリシアが並んで座り、クレープを頬張っている。
「各国の精鋭によって一度は魔王の封印に成功したものの、それは充分ではなかった。僅か十数年後に封印は解かれ、魔王は再び地上に害を及ぼし始めた。先の大戦で疲弊した各国は策に窮した。もはやどの国にも魔界へ乗り込むほどの力はなかったのだ。そこで──時のヴァン国王は、触れを出して傭兵や冒険者を広く募り、これをもって魔王討伐を図ろうと試みた。そこに名乗りを上げたのが」
──後に、暁の勇士と呼ばれる者たちだった。
「勇士たちは各国の協力を得て魔界に乗り込み、見事に魔王アスモデウスを討ち取って帰還した。英雄として祭り上げられた彼らであったが、後に数人は忽然と姿を眩ましてしまったという。その者たちこそ──」
──時を遡りし者たち──。
「なんで、そんなこと知っているんだよ」
「神は総てを御存知なんだよ。私は神の言葉を聞いているだけ」
そう嘯く老婆に、レオンは憮然とした。
だが、もし仮に彼女の言うことが真実ならば。
これまでタイムゲートが使用されたのは、今回の事故を除いて二度。いずれも転送先は。
──三百年前の惑星ローク。
「……ここは、ロークなの?」
「おや、懐かしい言葉だね。確かにあの者たちも、この地をそう呼んでいたよ」
レオンは首を傾げる。
「あの者たちって……その、時間を遡ってきた人のこと?」
「いや、もっと昔の話だよ。魔王を倒した者たちとは会っていない。会うことは神に禁じられていてね」
「神、に……」
どうしても、その部分で引っかかってしまう。
レオンは神など信じていない。そんなものの言葉を聞いているというこの老婆のことも、果たして信用に値するのか計りかねている。
だが、彼女は初対面にも関わらずレオンの素性を言い当てた。時間を遡ってきたなどという到底知り得ない情報を、この老婆は知っていたのだ。
レオンの心中を察したのか、イレーネはこちらに流し目をくれて。
「神、という言葉が気に食わないのなら、こう言い換えてもいいよ。『上位存在』とね」
「なっ……!」
レオンは絶句した。
そういうことを考えたことは、確かにあった。だがそれは……。
「この世が誰かの創作物だとしたって、不思議ではないだろう」
「そ、そんなの、そうだとしたって、わかるわけないじゃないか」
「そうだね。判らない。だから判らなくていいんだよ」
全部が不思議、それでいいじゃないか──と、イレーネは顎を杓って空を眺める。
天から降り注ぐ光を浴びた老婆の顔は、平生よりも若々しく見えた。
──少しだけ、神々しくも。
「……とにかく、ここはロークなんだね」
納得はしていないが、今は話を進めるのが先だった。
「そうだよ」
イレーネは素っ気なく返す。
本当にロークであるなら、元の時間に帰る方法もこの地に残されていないだろうか。
少しだけ希望が見えてきた──かもしれない。
「その……神様だっけ? そいつはボクが帰る方法を知っていたりしないの?」
老婆はレオンを見て、それから吹き出すように笑った。
「神はあんたの保護者じゃないんだよ。そんなのは自分で何とかしな」
「何とかしろって言ったって……!」
顔を赤くして文句を言いかけたが、老婆の言葉に遮られた。
「いいかい。この世は総て偶然でできている。蓋然も必然も、畢竟は偶然から生じているのさ。裏を返せば、偶然と思っていたことが実はただの偶然ではなかった──なんてこともあり得るということだよ」
「どういう……意味だよ」
「さあてね」
困惑するレオンを煙に巻くように、イレーネは隣のベンチに目を向けた。レオンも追及を諦めて同じようにベンチを見る。
クレスとアリシアは、クレープの端を千切って足許の鳩にやっている。
偶然がただの偶然ではない、と老婆は言う。
ならば、この兄妹と出会ったことにも、何か意味が──?
──そうだ。この二人は。
「……狙われていた」
「なんだい?」
「昨日ここに来るとき、攫われそうになったんだ。黒いローブの二人組に」
レオンが説明すると、老婆の表情が険しくなった。
「黒いローブかい。そりゃまた古風な連中だね。大昔にはそんな恰好した馬鹿どもがいたもんだが」
とっくに滅んだはずなんだがねぇ、と彼女は口許を曲げた。
「あの子たちを狙って……か。何やら良くない感じだね。もし連中がシュドネイ教だとすれば、目的は……」
と、いきなりイレーネが立ち上がった。クレスとアリシアが気づいてこちらを向く。
「どうしたの、婆っちゃ?」
「長旅ですっかり草臥れてしまったよ。悪いけどそろそろ宿に戻らせてもらうよ」
アリシアの頭を撫でながら、老婆は言う。
「オレたち今からオタニムに帰るんだけど、婆っちゃは一緒に行かないの?」
「まだここに用事があってね。悪いけど遠慮させてもらうよ」
クレスにそう言ってから、レオンの方を振り返る。
「孫たちをよろしく頼むよ。守ってやってくれ」
「……わかってるよ」
わざと無愛想に返事すると、老婆はニヤリと笑った。
そして、こちらに歩み寄る。
「私がどうして『暁の勇士』に会えなかったかというとね」
「え?」
すれ違いざまに、彼女は小声で告げる。
「彼らの中に私の子孫がいたんだよ。血縁者との時を隔てた邂逅を、神は望まなかった」
レオンは息を呑んだ。
──時間遡行者が最も留意すべきこと。
それは、自らに関係が深い存在との接触。
安易に接触すれば重大なパラドックスを引き起こし、自身の存在すら否定されかねない──。
「なんで……そんなことまで知って……」
老婆は小さな背中をすぼめて去っていく。
時を遡ってきた少年の問いは、白昼の砂煙に紛れて消えていった。
オタニムまでの乗合馬車が出ていたので、それに乗った。
「なー、婆っちゃとなんの話してたんだよ」
車内でクレスが聞いてくる。
「別に……大した話じゃないよ」
上の空で返事をして、窓の外に目をやる。
流れる景色を見るともなく眺めながら、レオンは老婆の言葉を反芻する。
魔王を倒したという時間遡行者たち。彼らの中に、老婆の子孫が──。
レオンは視線を車内に戻す。
クレスは落ち着きなく他の客を見回している。アリシアはレオンの肩に寄りかかって船を漕いでいた。
──老婆の子孫ということは、この二人の子孫ということでもあるのだ。
それが、狙われている理由なのか?
だが、そんなことを知っている者が果たして他にいるのだろうか。
考えられるのは……レオンと同様に時間を遡ってきた者。あるいは──。
暁の勇士。
──いや。
その考えを、レオンは自ら打ち消す。
彼らに戦友の先祖を狙う理由などあるはずがない。
闘いを通じて培われる友情。それがどれほど強固で失いがたいものなのかは、レオンはよく知っていた。
ならば、やはり他の──。
「…………っ」
レオンは胸のあたりを押さえる。
じわり、と嫌な予感が心の底から滲み出てきた。
もしかしたら、これは。
──自分が思っている以上に大事なのではないか──。
身体が横に振られた。車が停止して、出入口が開けられる。
オタニムに着いたらしい。
「やっと外に出られたーっ」
クレスは車を降りるなり大きく伸びをした。まだ眠そうに目を擦っているアリシアの手を引きながら、レオンも馬車を降りた。
二人の家に向かっている間も、不吉な予感は頭から離れなかった。
──そして、それが。
「たっだいまー」
ただの杞憂でなかったことを、レオンは知る。
「……って、あれ?」
先に家へ入ったクレスの声が聞こえなくなった。
レオンもアリシアを連れて玄関を潜る。
部屋の入口で立ちつくすクレスの背中が見えた。
その向こうに──。
「お、か……っ!」
アリシアが悲鳴を上げた。
部屋の中央で、母親が椅子に座っていた。
いや。
椅子ごと縄で縛られていた。
背後には黒い人影が数人。そして、椅子の榻背に手を置いて悠然とこちらを見据えているのは──。
「お帰りなさい、ガキンチョども」
巫山戯たように言いながら、無雑作にフードを下ろす。
赤毛の髪が燃え立つように靡いた。ローブの内側からは豊かな胸が覗いている。
「昨日は楽しかったよ。だから今日は、そのお返し」
腰の短剣を抜き放って、その女は言った。