■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第四章 彷徨のみち

1 そら ~ヒルトン~

 港町ヒルトンは、雑然たる街並みを呈していた。
 かつてのクリクのような、ひとつの芸術作品のごとき美しさもなく、ハーリーのように広大な敷地に建ち並んだ屋敷や豪邸のごとき雄渾ゆうこんさもない。住居の隣はまた住居。店の隣もまた店。飲んだくれの集まる酒場のすぐ横で、八百屋の親父が買い物客相手に威勢よく声を張り上げるといった具合である。港の強い日差しにさらされて黄ばんだ白い壁。ところどころ瓦が欠けたりひびの入っている赤茶色の屋根。それらの建物は息苦しいほど密集しており、果てなく広がる海とは対照的に、こぢんまりとしていた。
 一隻の船が、港の桟橋の前に停泊した。桟橋から渡し板がかけられ、乗客が次々と降りていく。
 全員が降りきったと思いこみ、船乗りが渡し板を外しかけたそのとき、ようやく船室から出てきた一組の旅人が、慌てて声をあげて船乗りに合図した。ぐったりとしている風変わりな衣装の女。それを両側で抱え込むようにして、それぞれ少年と少女が支えている。
「うう……不覚ですわ……」
 真ん中でふたりに支えられている女が呻いた。顔色は悪く、心なしか少しやつれて見える。
「このわたくしが船酔いなんて……」
「ほら、しっかりしてくださいよ、セリーヌさん」
 青い髪の少女はセリーヌと呼んだ女の左腕を肩にまわして、ゆっくりと渡し板を降りていった。セリーヌを挟んだ反対側では、金髪の少年が同じように右腕を抱えて慎重に歩を進めている。
「まだ早いけど、とりあえず今日は宿をとって休もう。セリーヌさんがこんな状態じゃどうしようもない」
「そうね……っと、セリーヌさん、あんまり動かないでください」
「うう……情けない……マーズの紋章術師の恥ですわ!」
「それは関係ないですって。誰でも船酔いはするんだから。……そろそろひとりで立てませんか?」
「ああ、ピンクの豚が気持ちよさそうに空を飛んでますわ……」
「……だめだ、こりゃ」
 ふたりは諦めて、セリーヌを引きずるようにして街へと歩き出していく。その上空にピンクの豚は……むろん飛んではいなかった。

 結局、その日はろくに街を見て回ることなく、近くの宿に泊まることとなった。
 食事を済ませ、部屋に戻って早めに床についたレナだったが、なかなか寝つけない。横のセリーヌが寝言なのか呻き声なのか、うう、とたまに唸るのが気になっていたこともあるのだが。
(ラクール……武具大会)
 宿に向かう道すがら、通りがかる人々の話が耳に入ってきた。話題はもっぱらこのイベントに関して。
(そういや、ディアスも出るって言ってたっけ)
 見計らったわけではない。だが偶然にも彼女たちがこの大陸を訪れた今の時期に、ちょうどラクール武具大会が開催されようとしていたのだ。
(もしかしたら会えるかもしれないな。会ったら、いろいろ言ってやらなきゃ)
 マーズのときには言いたいことがほとんど言えなかった。クロードとのことで頭がいっぱいだったから。
 ……けれど、実際に何を言おうかと考えると、これといって思いつかない。
(私は、ディアスに何が言いたかったんだろう……?)
 そのとき、ぱたんと扉の閉まる音が聞こえた。隣の部屋だ。それからコツ、コツ、コツと、足音が近づき、すぐに遠ざかっていく。
(クロード……?)
 レナはむくりと起きあがり、音を立てぬように扉まで歩いて慎重に扉を開ける。そうして隙間から廊下を覗いてみた。金色の髪が揺れながら廊下を抜け、誰もいないロビーに達すると、カウンターに背を向けて──つまり、外に出ていく方向へ進み、視界から消えていった。
 レナも部屋を出て、小走りで彼の後をつけていく。ロビーを左に曲がり、建物の入り口の手前まで踏み込むと、立ちつくすクロードの姿が思ったよりも手前にあって、慌てて開け放たれた扉の陰に身を隠す。
 クロードは空を見上げていた。レナが見つめる位置からはその横顔がはっきりと映っていた。澄みきった青空のごとき瞳は星の明かりを受けて微かな光をたたえ、えもいわれぬ美しさと、そして言いようのない淋しさで満たされていた。
 不意にクロードは視線を落として、懐から直方体の、小さな箱らしきものを取り出した。アーリアの夜に見たのと同じものだ、とレナは思った。
 クロードはそれを耳に当て、しばらく何かに聴き入る。それから箱を耳から離すと、諦めたように小さくかぶりを振る。
「やっぱり、駄目か……」
 彼の呟く声が聞こえた。呟くというよりもはや囁きに近いものだったが、夜の静寂の中では溜息すらも離れた場所に立っている彼女に聞こえてしまう。
 直方体の箱を懐にしまうと、ふうっと重々しく息をつく。そして、再び空を見上げた。
「太陽系はどっちなんだろうな。どこかにはあると思うけど……。地球も……見えるわけないか」
 言葉の意味はよく理解できなかった。ただ、それに込められた強い哀愁を感じて、彼女の胸のうちは大きく揺さぶられた。
「父さんや母さん、どうしているかな……。なんか昔から心配かけてばかりだな……」
 星々が瞬く夜空を眺める彼の表情は、はぐれた親を捜し回って疲れ果てた迷い子のそれに似ていた。不安と焦燥と倦怠が入り交じったような、触れればすぐに壊れてしまうほど繊細な瞳が、そこにあった。
 レナはしばらくそれを眺め、それから息を呑んだ。
 彼の瞳から──ひとすじの涙がこぼれ落ちた。
 彼自身もそれに驚いたらしく、すぐに腕で目許を拭う。そして地面に視線を落とすと、恥ずかしさを紛らわすように苦笑した。
 きびすを返して、クロードは宿の入り口へと向かう。扉を潜り、ロビーを抜けて自分の部屋へ戻っていく姿を、レナは陰からじっと見つめていた。
 あの涙を見たときから、発作が起きたように胸が苦しい。クロードが見えなくなると、すぐ横の壁に片手をつき、項垂れて大きく息をついた。
 あれは、クロードではなかった。彼女が今まで知っていたクロードではなかった。彼が人前で決して見せることのなかった、こころの奥底に押し込めていた深い哀しみ──それが、ひとすじの涙というかたちになって表れたのかもしれない。
 途方もなく深く、重い哀しみに、レナの胸は押し潰されそうになった。ずっとそばにいながら、これほど深い愁いを抱えていたことに気づかなかった自分にも、苛立いらだちを覚えながら。


「へ? 買い物?」
「そ」
 レナが言うと、クロードは困ったように眉根を寄せた。
「セリーヌさん、まだ起きあがれないみたいなの。だから、代わりにつきあってよ」
「うーん……でもなぁ」
 彼は気が進まないように頭を掻き、そっぽを向いて黙り込んでしまった。こうなれば強行策しかない。
「ほら、男なら女の子のいうことは素直に聞きなさいっ」
「なんだよ、それ……。わ、っと、ちょっと」
 いきなり腕をつかんで引っ張りだすレナ。クロードは不意をつかれて足許をふらつかせる。
「わかった、わかったよ! ……ったく」
 いつになく強引な誘いに、気の弱い青年は折れるしかなかった。
「それじゃ、まずは道具屋へ行きましょ。れっつごー」
 こぶしを振り上げて歩いていくレナの後ろ姿を見て、まんまと彼女のペースに乗せられたクロードは、情けなさそうに溜息をついた。

「えっと、ブルーベリィにブラックベリィ、アクアベリィもちょっといるかな……。ねぇ、おじさん、リザレクトボトル、もうちょっと安くならない?」
「そうだな……もうひとつ買ってくれるなら、ふたつで五千八百フォルにするよ」
「じゃ、そうする。全部で……あれ?」
 レナはふと、そばにクロードがいないことに気づいた。背後を振り返ると、彼は店から少し離れた街灯の柱に寄りかかり、じっと空を見上げていた。綿雲は青空の中を風に乗ってゆっくり流れてゆく。
 レナはクロードの許に駆け寄ると、いきなり買ったばかりの道具を入れた紙袋を彼の胸に押しつけた。
「な、なに?」
 綿雲に目を奪われていたクロードは、面食らいながら紙袋を受け取る。
「持ってて」
 それだけ言うと、彼女はすぐに背を向けて歩き出した。クロードも仕方なくついていく。
「……もしかして、荷物持ちのために僕を連れだしたのかい?」
「あら、今頃気づいたの?」
 予想はしていたことだけど、とクロードは内心だけで思う。こうもはっきり言い切られてしまうと、もはや返す言葉すらない。
「ねぇ、クロード」
 観念したように大人しくつき従う彼に、レナは訊ねてみた。
「クロードって、ひとりでいると、よく空を見てるよね」
「え? ああ……好きなんだ」
「空が?」
「うん、見ていて飽きないからね。晴れたり曇ったり……雨や雷の日はちょっと気が滅入るけど、雨あがりに虹がかかったりするとすごく綺麗なんだ。あと、夜空も好きだったな」
「『だった』?」
 レナが訊き返す。
「今は好きじゃないの?」
「え? あ……今も、好きだよ」
 そう言うクロードの表情は少しかげりがみえる。レナは心配そうにそれを見つめていたが。
「私も、空は好きよ」
 思いたって、口を開いた。言葉の上では普段通りに。
「でもねクロード……」
 パッパラパッパッパラッパーーーーーン!
 突然、通りかかった店の前から盛大なファンファーレが鳴り響いた。多くの観衆が取り巻く中、トランペットをはじめ、様々な楽器を持った者たちが仮設の舞台に立っている。
 司会らしき男が舞台に上がって前に進み出た。
「本日は多くの方にお集まりいただいて、感謝感激雨あられ! 海野楽器主催、ラクール武具大会開催記念コンサート、いよいよ始まりますぅっ!」
 あまりのタイミングの悪さにレナはがくりと首を落として片手で顔を覆った。そんな彼女を嘲笑あざわらうかのようにいっせいに演奏が始まり、やけに軽い調子の曲が流れだす。
「どうしたの、レナ?」
「……なんでもない。ほら、とっとと次の店に行くわよ!」
 早足で歩き出すレナ。なんだかよくわからないが機嫌が悪いらしい。また海に突き落とされてはかなわないから、とクロードはそれ以上追及せず、黙って彼女について行くことにした。

 店の中は、薄暗くも落ち着いた雰囲気だった。テーブルの中央に置かれたランプが、ほのかに瞬く。壁には色彩豊かなタペストリーや動物の剥製などが飾られている。夜は酒場も兼ねているらしく、カウンター席には既に泥酔して机によだれをたらしながら高鼾をあげている男もいた。
 買い物を終えたレナとクロードは、この店で少し遅い昼食をとっていた。数種の茸と山菜をふんだんに盛り込んだパスタはあっさりとして味も良く、心地よく腹を満たしてくれた。
「……レナ」
「なあに?」
 飲み物に手をつけながらレナが返事すると、クロードは少し真面目な表情になって。
「この街に着いてから、あちこちで耳にするんだけど……」
「ラクール武具大会のこと?」
「うん……それでさ」
 やや躊躇して、クロードが言った。
「僕も、出場してみようと思うんだ」
「クロードが?」
 声を張り上げて、レナ。
「どうして?」
「自分の実力が、知りたいんだ」
 飲み物で口を湿らせてから、クロードが続ける。
「最初は剣の扱い方なんて全然わからなかった。それでもなんとかここまでやってきたけど……やっぱり、自信はないんだ。僕の剣がどこまで通用するのか、それが知りたい。……それに、僕はこの大会で会ってみたい人がいる」
「……ディアスのこと?」
 レナが言うと、クロードは微かに顔を傾けて目線を逸らした。
「ディアスと戦うつもりなの?」
「わからない……けど、もし対戦することになれば、戦って……勝って、みせる、さ……」
「どうしたの?」
 気がつくとクロードは机に肘をつき、掌で額を覆って頭を支えるような仕種をしていた。
「……なんか気分悪い」
 けだるそうに言う彼の顔色は真っ赤だった。もしやと思い、レナは近くを通りかかったウェイトレスに訊ねてみた。
「あの……もしかしてこの飲み物って、お酒入っているんですか?」
「ええ。でも、ほんの少しですよ。一杯で酔ってしまうほどは入っていないはずですが」
「はあ……」
 レナは再度クロードを見る。これはどう考えても「一杯で酔って」しまったとしか思えない。
「クロード、お酒弱いの?」
「……前に士官学校の新歓コンパで乾杯直後に救急車……」
「え?」
「うっ。だ、だめだ、ちょっと……」
 口許を押さえて席を立ち、一目散にトイレへと駆け込むクロード。レナはそれを見送ってから、深々と吐息を洩らした。
(どうして、こう……うまくいかないのかな)
 レナが両手で頬杖をつきながら、誰もいない向かいの席を眺める。
 そのとき、店内に長い影が落ちた。入口に誰かが立っているのだ。逆光で顔はよくわからなかったが、体型からすると女のようだ。背中のあたりまでのブロンドの髪を振り乱し、褐色と濃緑色の奇妙な上着の下は黒いドレスめいた衣装で、溢れんばかりの胸をわざと強調するかのように、前がVの字に大きく開いていた。右手には自分の背丈とほぼ同じぐらいの、いくつもの突起物がついた奇妙な金属の筒を持っている。
 女は入り口で誰かを捜すように店内を見渡していたが、やがて店内に入るとカウンターの席に腰かけた。
「マスター、そこのブランデー、お願い」
「はいよ」
 マスターが氷の浮いたグラスを差し出すと、女は一気にそれを飲み干した。
「どこか遠くから来なすったんですか? ここいらじゃ見かけない格好ですけど」
「まあ、そんなところね」
「おデコのそれは飾り物ですかい?」
「残念だけど、これは本物よ。そういう種族なのよ」
「はぁ……そうなんですか」
 女はしばらく頬杖をついて物思いにふけっていたふうだったが、しばらくして向こう側のマスターに訊ねてみる。
「ねぇマスター、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「よぉ姉ちゃん」
 先程まで反対側の席で居眠りをしていた男が近づいてきた。
「真っ昼間から酒たぁ、呑気なこったな」
「お互いさまでしょ」
「んだとぉ」
 男は火照った顔をさらに赤くして言う。
「女ってのはな、年頃になりゃあとっとと嫁にいって、淑やか~に家でダンナのいうことを聞いてりゃいいんだよ。それがなんだ、昼間っから酒を飲むたぁ、どういう了簡りょうけんだ! まったく嘆かわしい……」
「ほらほら、他のお客さんに迷惑かけないでくださいよ」
 マスターが困ったように諫めると、男はすっかりべらんめえ調になって。
「にゃにおぅ! 常連客は大切にしねぇと店つぶれるぞ!」
「……あなたがツケを払ってくれれば、もっと店も楽になるんですよ」
 呆れたようにそのやりとりを見ていた女だったが、ふとあることを思いついて、男に提案した。
「ねぇ、勝負しない?」
「勝負ぅ?」
 怪訝そうに眉間に皺をつくる男に構わず、女は続ける。
「飲み比べよ。あたしとあなたで、どれだけたくさん飲めるか。あたしが勝ったら、後で言う質問に答えてもらうわ。負けたときは、あなたのツケを全額払ってあげる」
「ツケを、全部!?」
「そうよ。いい話でしょ」
「……面白ぇ、やってやろう」
「マスター、酒樽ふたつもってきて。なるべく強いやつね」
「で、ですが……」
「大丈夫よ。お金はあたしが払うから」
 かくして、カウンターに酒樽ふたつがでんと並べられた。マスターが特大のゴブレットに中の酒をなみなみと注いで、ふたりの前に置く。
「それでは……始めっ!」
 マスターの合図とともに、ふたりはゴブレットを持ち上げて、勢いよく口に流しこみ始めた──。

 ──そして、十分後。
「ぐぇ……も……飲め……ねぇ……」
 男がゴブレットを置いてカウンターに突っ伏す。眼は血走り、顔は茹で蛸のように真っ赤になっていた。
「あらぁ、もう駄目なの? 情けないわねぇ」
 女は八杯目を飲み干すと、余裕の笑顔を作って言った。
「それじゃ、あたしの勝ちね。質問に答えてもらうわよ。……ちょっと、聞いてる?」
「揺する、な……吐く……」
 男の顔はやや紫を帯びてきた。
「どこかでつ目の男を見なかった? あたしみたいな長い金髪の」
「知らねぇよ……三つ目の男なんて、見たこともねえって……」
「……そう」
 女は口をすぼめて、正面に向き直った。
「マスターも知らない? ココにもうひとつ目をつけた男」
「さあ……この店には来ていないと思いますがねぇ」
「そっか……ありがと」
 女は肩をすくめて立ち上がり、代金を払うと入口へと歩いていった。
「あのっ!」
 それまで見ていただけのレナが突如声をあげて、女を呼び止めた。
「なに?」
 こちらを向いて立ち止まる女の前に歩み寄って、レナが言う。
「私、見ました。三つ目の男のひと」
「本当? いつ、どこで!?」
 興奮気味に詰め寄る女にたじろぎながら、レナは続けて。
「ひと月ぐらい前でしたけど……クロス城の前ですれ違いました」
「クロスね!」
 女はすぐに入口へ駆け出したが、思い出したように止まって振り返り。
「ごめんなさい、まだ礼も言ってなかったわね。あたしはオペラ・ベクトラっていうの」
「あ、レナ……レナ・ランフォードです」
「レナね。ありがとう。また会えるといいわね」
 そう言い置くと、女は店を出ていってしまった。
 店内の騒ぎもようやく収拾がつき、レナも席に戻った頃、入れ違いのようにクロードがトイレから出てきた。
「はぁ……ひどい目にあった」
 椅子に腰かけながら、クロードは酒樽ふたつと突っ伏して呻く男が転がっているカウンターに目をやる。
「ん? 何かあったの?」
「……大したことじゃないわ。それより、そろそろ宿に戻りましょ」
 レナは席を立った。

 水平線の近くに落ちかけた夕日を背に、ふたりは人のまばらになった大通りを歩いていた。地面に長く伸びた自分の影法師を追いかけるようにして。
 不意に、レナの影法師が止まった。やや遅れて、クロードも。
「レナ?」
 クロードが見ると、レナは橙色に輝く夕日を、それによって赤く染まった空を眺めていた。
「クロードは、夕焼けも好きなの?」
「うん……まあね。落ち込んだときなんかに、真っ赤に燃え上がるような空を見てると、勇気づけられるというか……ちっぽけなことで悩んでいた自分がバカみたいに思えてくるんだ」
 レナは瞳を細めて夕日を眺めている。彼の話を聞きながら何かを考え、そして意を決する。
「私ね……空を見てると、ときどき怖くなることがあるの」
 鷹揚おうようと語りかけるように、レナ。
「怖い?」
 クロードが意外そうにレナの方を向く。
「どうして」
「こうやってじっと空を見てるとね……なんだか、自分があの空に吸い込まれそうな気がしてくるの」
 言いながら、真上の空を仰ぐ。
「天地が逆さまになって、私は空に落ちていくの。なにもない空にどんどん落ちて、それでもまだ何もなくて、もっともっと落ちて……そうして私は、ひとりきりになっちゃうの。何もない空にひとりぼっちで、淋しくて、不安で、胸がいっぱいになるの。そんなときはね……」
 上空に向けていた顔をぱっと正面に向ける。目の前には少し驚いた表情のクロードがいた。
「こうやって前を向くの。そうすれば、まわりに建物があって、木や草があって、人がいて、今だってクロードがいる。ああ、私はここにいるんだな、って実感できる。それでいつも、安心するの」
 無表情にこちらを見据えるクロードに、微かに笑みを返しながら。
「空を見ているクロードも、それとおんなじ感じがするの。ひとりぼっちで、淋しくて、今にも消えてしまいそう、空に吸い込まれていってしまいそうな……そんな気がするの。だから……その……」
 途中で恥ずかしくなり、下を向いて言いよどんでしまったが、思い切って再び向き直ると。
「前を向こうよ。空だけじゃなくて、この世界ももっと見つめて、好きになって。そうすれば、淋しくなんてないんだから」
 横から照りつける陽の光は彼のかおに陰影を成している。クロードは呆然と立ちつくしたまま、ピクリとも動かない。
「……ごめんなさい」
 それを見たレナは視線を落として、呟くように。
「変なこと言っちゃって」
「いや、いいんだ……」
 顔を背けるように踵を返して、クロード。
「行こうか」
「うん……」
 歩き出すクロードの背後で、レナは腿の横にあてた拳に力を込めて、ギュッと握りしめた。

2 己が信ずるもののため(前編) ~ラクール~

 仄暗い闇の中、ディアスは両手で剣を握って構えた。服の袖から突きだしたしなやかな腕が固く強張る。父愛用の大剣は背丈ほどもあり、彼の華奢な身体には釣り合っていない。それでも彼は、呼吸を整え、じりじりとり足で間合いを計ると、素早く前方の敵──に見立てた丸太に斬りかかる。多少よろめきながら振り上げ、振り下ろした剣は丸太の芯にも届かずに止まった。あとから腕がじんと痺れる。なおもディアスはこの動かぬ敵を相手に猛攻を仕掛けた。斬り、払い、ときには切っ先を突き立てもしたが、丸太は細かい傷痕を増やしながらも、なお彼を小馬鹿にするように泰然と立っている。
 ディアスは攻撃の手を休めた。無雑作に剣を地面に落とすと両手を膝に突き、こうべを垂れて苦しそうに息をついた。
「お兄ちゃん」
 家の入口の方から馴染みのある声がした。扉を閉めて出てきたのは、寝間着用のゆったりした服に身を包んだ少女。眠そうに目を擦る妹の顔は、いつもよりあどけなく見えた。
「セシル、何時だと思っているんだ」
「怖い夢、見ちゃったの」
 セシルが言うとディアスは軽く嘆息して、剣を拾って家の外壁沿いに置いてある岩に腰かけた。セシルも歩み寄り、寄り添うようにして彼の横に座る。
 ふたりは空を見上げた。満ちかけの月が皓々こうこうと闇の中に浮かんでいる。そのためか星は普段よりも少なく見えたが、それでもなお、女神が戯れに跳ね上げた水飛沫のように、またこの世ならぬ蝶が舞い散らした鱗粉のように、ちかちかと瞬き、煌めいていた。
 ディアスは視線を下ろして妹の横顔を覗く。肩までの髪は月明かりに照らされて、もはや白銀とも言い得る輝きを放っている。あぎとから肩口、さらに胸から腰にかけての躰の線は緩やかな曲線で、まだ幼さを見せているが、その瞳だけは、まれに驚くほど大人びた色を映すことがある。
 セシルは月に目を遣ったまま、舌足らずに夢の内容を話し始める。
「緑色のもじゃもじゃしたお化けがね、いっぱいやってきて、セシルを追っかけまわすの。セシルもいっぱい走って、逃げたんだけど、そのうち追いつかれちゃって、囲まれて……それで、目が覚めちゃったの」
「……そうか」
 ディアスはしばらく黙するのみだったが、不意にゆっくりと立ち上がった。だらりと降ろした手には剣を提げて。
「夢ならばいい。夢なら、目覚めてしまえばすべて消える」
「でも、セシル怖くて眠れないよ。夢の中にまたお化けが出てきたら」
 瞳を潤ませてそう言う妹を、ディアスはひどく愛おしく感じた。彼女の頭を軽く撫でるとまなじりを緩めて微笑し、それから剣を前に掲げて、言った。
「そのときは、俺が助けに行くさ。お化けなんて、この剣で蹴散らしてやる」
「ほんと?」
「ああ、約束する。だから、もう寝るんだ。明日起きられなくなるぞ」
「じゃ、一緒に寝よ」
 セシルは無邪気に、眉根を寄せてこちらを向く兄の顔を覗き込んで言った。
「だって、お兄ちゃんも寝ないと、夢の中のセシルを助けらんないでしょ。早く家に入ろ」
「……ちょっと待て」
 ディアスはその言葉の真意を理解して、呆れ半分に言う。
「一緒に……って、言っておくが、添い寝はしないからな。赤ん坊じゃあるまいし」
「えーっ」
 セシルは不平そうに口を尖らせる。
「そばにいないとセシル助けらんないでしょ」
「夢の中ならどこからだって助けに行けるさ。妙な理屈をこねるな」
「いーもん、だったらあたしがお兄ちゃんの部屋に行くもん」
「おい」
 恐い顔を作るディアスに、セシルは悪戯っぽく笑って。
「そんな顔したって、ぜーったい行くからね。まさかかわいい妹に床で寝ろ、なんて言わないよね?」
「……勝手にしろ」
 満面に笑みを浮かべるセシルの横を、仏頂面ですり抜けるディアス。
 家の入口まで歩きながら、ディアスは誰にも知れず溜息を洩らした。
 こんなことがレナに知れたら、また冷やかされてしまうな。……いや、きっと知れるだろう。セシルが一言ももらさず話してしまう。
 そうは思ったものの、やはりセシルは彼にとってかけがえのない存在だった。血を分けた、たったひとりの妹というだけでない。むしろそれ以上に、彼女の無垢なひとつひとつの表情が、彼に無限の安らぎを与えずにはいられなかった。
 しかし、純真無垢なだけに、彼女は傷つきやすく、壊れやすいものにも思えた。
(だからこそ、俺はこの子を守らなくてはならない)
 それは自分のかけがえのない妹を、俗なもの、汚れ多きものに近づけたくないという個人的な感傷も含まれていたのかもしれない。だが、それも彼の、一途にセシルを守りたいという想いには違いない。
(俺はこの子を守る盾となろう。そのために俺は強くなる。これが、俺の信じる道だ)

 ──そう、固く誓っていた。
 ……なのに。

 ふと、背後にセシルの気配が感じられないことに気づいた。振り返ると、そこに妹の姿はない。
「セシル……?」
 訝しげにそう呟いた刹那、あたりの景色も闇に呑み込まれた。月も星も家も先刻まで座っていた岩も、すべてが闇黒あんこくに閉ざされてしまった。あるのは自分自身と、彼が手に持っていた剣のみ。
(……けて、お……にい……ちゃ)
 どこからか妹の声が聞こえる。ひどく弱々しい、か細い声だ。
「セシル、何処だ! 何処にいる!」
 周囲を見渡して叫ぶ。あるのはただひたすら闇のみ。そこから抜け出そうとがむしゃらに駆け出したが、彼を嘲笑うかのように闇は延々と続いている。
(た、す……け……て)
 その声は彼の脳裡のうりを直に射抜いているように感じられた。焦燥と不安にかられた瞳が必死に妹の姿を追って、闇の中を彷徨さまよう。
「セシル、返事をしろ! 何処にいるんだ!」
(お……に……い……ちゃ……)
 もはや正気を逸したように走りながら、滅茶苦茶に剣を振り回す。ディアスは藻掻いていた。執拗にまとわりつく闇を振り払い、妹の姿を見つけるために。しかし、それは畢竟ひっきょう適わぬことであった。
 足がもつれて、ディアスはその場に倒れた。妹の声は、もはや届いてこない。それが何を意味しているのか、彼は解っていた。
「……守れないじゃないか」
 両膝と手を地面に突いて身を起こすと、その黒き地面を奇妙に凝視したまま彼は呟いた。額から流れた汗が鼻先を伝って、ぽとりと眼前に落ちていく。
 ディアスは自らの無力さを呪った。守るべきものさえ守れない自分を責めた。やり場のない怒りが奔流となって彼のからだを駆けめぐる。
 それらをすべて吐き出すように、ディアスは吼えた。喉も潰れんばかりに、吼えて、吼えて……最後には嗚咽ともつかぬ呻きだけが残った。

(……もう………い、で……)
(ほら……を、……て)

 誰かが、彼の前に立っていた。
 憔悴しきった顔を上げると、そこには青い髪の少女がいた。
 慈しむように優しく微笑しながら、細く白い手がゆっくりと差し伸べられる──。


 小鳥のさえずりで、彼は目を覚ました。
 森は濃いもやに包まれ、まだ薄暗かったが、木の葉の隙間から臨める空は藍晶石キアナイトのごとき澄んだ青色をしていた。日が昇ってからさほど刻も過ぎていないようだ。視線を落とすと眼前には燃え尽きた薪が燠火おきびとなってちりちりとくすぶっている。
 ディアスは木の幹にもたれたまま、しばらく額に手を宛てて物思いに耽っていた。その表情には知らずと倦怠感が滲んでいる。
(目覚めてしまえばすべて消える……か)
 夢の中の、いや、遠い過去に自らが吐いた台詞を思い出して、彼は自嘲気味に笑った。
 傍らの荷袋から水筒を取り出すと軽くくちすすいで、それから残りの水を燠火にふりかける。ジュッと小気味いい音を立てて火は消えた。
(目覚めても消えぬものは、現実という名の悪夢)
 立ち上がって荷袋を担ぐと、朽ち木や枯れ葉を踏みしだきながら黙々と歩き出した。
(……あの頃には、思いもしなかったな)


 ラクール・オブ・ラクール。かの王国が武具と戦士の国としてこう称せられるのには、由縁がある。
 現在のラクール十四世の父親、つまりラクール十三世はすこぶる野心家であった。健在だったはずの先代が急逝し(これも彼が毒殺したとの噂がある)、自らが王位に就くやいなや、友好関係にあったクロス・エル両国をも掌中に収めるため、急速に軍備を拡大させていった。しかし、当時のラクールはさほど大きな国ではなかった。兵士にしても武具にしても、国内のみで賄うには限界がある。
 そこで王は、城内に巨大なコロシアムを建設させ、年に一回、武具店と戦士による剣術大会を行うことにした。目的は言うまでもなく、優秀な武具と兵士を自国にかき集めることである。これが、のちの『ラクール武具大会』の原型となった。当時は優勝者には将軍の地位と称号が与えられ、また武具店には国軍御用達の店として、莫大な利益が約束された。
 さらにラクール十三世は、一部の術師のものでしかなかった紋章術を兵器として利用できないものかと考え、秘密裏に研究所を創設し、学者たちに研究をさせていた。もっとも、その成果が顕著に表れるのは、彼の没後幾年か後のことだったのだが。
 そう、ラクール十三世はその野望を胸に秘めたまま、この世を去った。表向きには飼っていた毒蛇に咬まれて急死したということになっているが、それも先代同様、確かではない。
 だが、奇しくも彼の暴戻ぼうれいなる野望は、結果としてのちのラクール繁栄に多分に貢献した。武具大会は武具店と戦士の実力を純粋に競い合うイベントと化し、それによる利益は国を大いに潤した。世界中から屈強の戦士たちが、優秀な鍛冶師や職人がそれぞれの名誉と誇りをかけてこの地に集い、いつしか『ラクール・オブ・ラクール』の名を冠するまでに至った。戦乱を企てた先代の野心が、ラクールに繁栄と平和を──皮肉にも──もたらしたのだった。ラクール十三世は繁栄の基礎を築いた名君として国民から賞賛され、その業績を称えてコロシアムの正面の屋根には彼の彫像まで建てられた。コロシアムを見下ろす石膏像のラクール十三世は、今もそこに、居心地の悪そうに佇んでいる。

 武具大会を前にして、ラクールの城下町は活気に満ち溢れていた。ことに東部の武具店が揃って軒を並べる通りでは、大会の参加者を募る店主の威勢のいい呼び声と、展示されている武具に鋭い視線を送っては店主と談論する戦士たちとで、異様な熱気に包まれていた。
 通りの一角、隅にある店の前で、長身の剣士が剣を手にとって丹念に眺めている。滝のごとく背中に下ろした水色の長髪は、雑然とした群衆の中でもひときわ目立つ。
「へへっ、いかがでやしょうか、そいつはウチの剣の中でも傑作中の傑作でさぁ」
 揉み手をしながらそう言う店主をよそに、剣士──ディアスは一心不乱に剣の刃を見つめる。
 成る程、確かに外観は良い。剣としてのバランス、刃と切っ先の形、角度ともに申し分ない。だが、いささか刀身につやがありすぎる。見る角度を変えてみれば案の定、刃の至る所に細かい刃零はこぼれが生じている。これは外観にこだわるあまり、剣としての実用価値を忘れてしまった証だ。
「……装飾品のごとき剣は要らん」
 ディアスは剣を棚に置くと、唖然とする店主には見向きもせずにその場を立ち去った。
 早足で武具店街を抜ける。元来、彼は人混みを好まないのだ。一通り店を廻ってきてしまえば、こんなむさ苦しい場所に用はない。
 陽は既に西の地平線に落ちかけている。中央広場の大通りから正面のラクール城を振り仰ぐと、重厚な建物は夕日に染められて脈動するかのように赤々と輝いていた。
 ディアスの表情は自然と険しくなっていた。今日一日かけて、名のある武具店をすべて訪ね歩いたにもかかわらず、彼を唸らせるような剣を扱っている店はひとつもなかったのだ。街に来たのが大会の開催三日前ということで、優秀な武器はあらかた他の参加者に取られてしまったのかもしれない。しかし、それにしてもこの惨状には目を覆うものがある。名工たちがその匠の技を存分に魅せつけてくれた、往年の武具店街の姿はそこにはなく、あるのはやたらと媚びを売る商人まがいの連中や、実力もないくせに態度だけは職人気取りの頑固親父ばかり。立派な店構えや派手派手しい看板とは裏腹に、武具の質は堕落としかいいようがない。いや、むしろその店構えに相応しい武器と言えるのかもしれない。どちらも外見だけを取り繕い、じつがない。
「……ラクールも、堕ちたものだな」
 苛立ちを吐き捨てるように、ディアスはひとりごちた。
 そんな経緯が、彼の足を酒場へと向かわせたのだろう。
 ディアスは特に店を選ぶこともなく、通りに面していた酒場の扉を潜る。すると珍妙な光景が彼の目に映った。
 息が詰まるほどの酒気が立ちこめる店内で、あまりにも場違いな少女と子供が、赤ら顔の戦士たちに何やら話しかけている。子供の方は緑色のおかっぱ頭で、しきりに甲高い声を張り上げては戦士たちの顰蹙ひんしゅくを買っている。そして少女の青い髪と三日月の髪飾り、さらに丈の短い衣装と赤いケープにははっきりと見覚えがあった。
 少女の方もこちらに気づき、はっと驚いたような顔をすると、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。
「レナ、か」
「ディアス、どうしてここに……」
「それなら驚くことではないだろう。武具大会に出場すると言ったはずだが」
「うん……そうだったよね」
 うつむくレナに、ディアスは続けて。
「驚いたのは俺の方だ。また例の彼と喧嘩でもしたのか? 女の子がひとりで飲みに来る場所じゃないぞ」
「違うわよっ……!」
 レナは声を荒げると、紅潮しかけた頬を隠そうと背後の子供を向く。
「スフィアのおじいさんが打った剣を使ってくれる戦士を捜しているの」
「剣だと?」
 ディアスが眉を寄せて訊き返したとき、その子供がひときわ大きな声を揚げた。
「いやあっ!」
「スフィア!」
 レナは慌てて駆け寄り、スフィアの背後に屈んで抱き留めた。
「おいこらァ、いい加減にしないとたたっ斬るぞ、こんガキゃあ」
 戦士風の男たちが三人、凄い剣幕でスフィアに詰め寄る。
「俺たちの剣がナマクラたぁ、ふざけたことぬかしやがって」
「おじいちゃんの剣をバカにするからだいっ!」
 レナの腕の中でスフィアも強気に言い返した。
「そんな耄碌もうろくジジイの作った剣なんざ、ろくすっぽ斬れやしねぇんだよ」
「それは試してみないことには分からないだろう」
 ディアスが口を挟むと、男たちがいっせいにこちらを向いた。
「なんだ、貴様」
 それには答えずに、スフィアとそのすぐ前に立っていた壮年の戦士との間に割って入ると。
「確かにラクールの武具は名品揃いだった。優れた逸品をラクールオブラクールと呼ぶだけのことはある」
「へっ、あんたもそう思っているんじゃねぇか」
 男は口許をつり上げて言うが、ディアスは無視するかのように続ける。
「だが、長い間その名声に浸りすぎたな。最近の武器の質は悪く、刃の輝きは曇るばかりだ」
「なんだと」
 一転して苦々しげに表情を歪ませる男に、彼は背を向けた。
「俺はすべての武具店を見て回ったが、目を留めた武器はひとつもなかった」
「ディアスはまだ武具店の登録をしてなかったの?」
 意外そうにレナがディアスに訊いた。
「そりゃ、あんたに剣を見る目がないだけじゃねぇか」
 男が莫迦にしたような口調で言うと、ディアスは自分の肩越しに相手を睨めつけて。
「戦ってみればわかるさ。あんたの剣では、髪の毛一本切れやしない」
「へっ、そういうことなら決着は大会でつけてやろうじゃねぇか」
「楽しみにしていよう」
 そう言い置くと、入口に向かって歩き出す。
「お前たちも行くぞ」
 途中、立ちつくすレナとスフィアにもそう呼びかけながら。

「まったく、酔っぱらっている連中に喧嘩をふっかけるバカがどこにいるか」
 酒場の前で、ディアスは嘆息混じりに言った。
「バカじゃないもん!」
 スフィアは相変わらず脳天に響くような声で言い返した。
「まあいい……それより、先程、剣がどうとか言っていたが、剣があるのか?」
「うん、ギャムジーおじいちゃんの剣は誰にも負けない名剣だよ」
「ギャムジー……」
 その名を聞いたディアスは、しばらく手を口に宛てて神妙な表情をしていた。
「どうしたの、ディアス?」
 レナが訊くと、おもむろに手を降ろして彼女の方を向く。
「レナ、お前は部屋に戻るんだ。ひとりでフラフラしていないで、仲間のところへ帰れ」
「なによ、いきなり」
「俺はこの子と一緒に、その爺さんの店へ行ってみる。お前までついてくる必要はないだろう」
「そうだけど……でも」
「また例の彼に怒り狂われるのは嫌なんでな」
 ディアスが言うと、レナは顔を真っ赤にして絶句した。
「大会に、あいつは出場するのか?」
「……クロード? ええ、出場するわよ」
 なんとか体裁を取り戻してレナが答えた。
「伝言だ」
 外套マントを翻してきびすを返すと、去り際に彼は言った。
「必ず決勝まで勝ち残れ、とな」
 早足で街の西へと歩いていく。スフィアも慌てて後からついていった。
「なによっ。いつもそうやって、ひとりで勝手に進めていっちゃうんだから!」
 レナが叫ぶ声を背に受けても、ディアスは仮面のごとき表情を微塵も崩さなかった。
 日は沈み、濃紺の空には星がいくつか瞬いていた。

 ギャムジーの店は、街の西の外れ、人もほとんど通らない裏通りのさらに奥まったところにあった。
 店、とは言ったものの、そこにあるのはいわゆる商いをするような店とは程遠い、むしろ『小屋』と呼んだほうが相応しい建物だった。
 そもそも、建っている場所からしても卦体けたいである。一体全体この辺りはどんな地形をしているのやら、裏通りを抜けた先は切り立った崖か突堤のような場所に出た。その突端に、半球状をした作業小屋らしき煉瓦造りの建物と、それに寄りかかるようにして隣接している木造の小屋がふたつきり、まるでその場所だけ街から隔離されたように建っている。
 煉瓦造りの建物の前に立ち、きいぃと悲鳴のように軋む鉄製の扉を開けると、中にはこちらに背を向けて立ちつくす老人の姿があった。頭を被う毛織の帽子と上着チュニックは、どちらも元の色がわからないくらいすすにまみれている。
「おじいちゃん!」
 スフィアが駆け寄ると、老人はようやくこちらに向き直った。深い皺が刻まれたその顔は、長年炎と熱にさらされてきたせいか、やはり黒味を帯びていた。
「おや、スフィア、そちらの方は?」
「大会に出場する剣士さん。ディアスっていうんだって。おじいちゃんの剣が見たいって言うから連れてきたの」
「おうおう、それは有り難いことじゃ、て」
 老人の声はたまに、すうと息が抜けるような音だけがして発音されないことがあり、ひどく聴きづらかった。
「工匠ギャムジー」
 ディアスが一歩前に進み出て言うと、ギャムジーは一瞬、眼をカッと見開き、それからすぐに穏やかな表情に戻った。
「ほうほう……そう呼ばれるのは久方ぶりじゃ。その肩書きは、かつては儂だけの専売特許だったんじゃがのう」
「やはり……そうか」
 ディアスは軽く目を伏せて、それからまたギャムジーを見た。
「ラクール十三世の時代に、右に並ぶ者がないと言われた名匠。圧倒的な実力で武具大会には優勝したものの、国軍に協力するのを拒否して国外追放を受けた鍛冶師がいたというのを聞いたことがある。……この街に戻っていたのか」
「ああ、じゃがもう剣は打たん。打っても売りには出さんかった。のんびりと遁世とんせい生活を送らせてもらったよ」
 ギャムジーはそこまで言うと、傍らにいたスフィアを抱き上げて。
「じゃが、このスフィアがどうしても武具大会に出てくれとせがむのでな。儂ゃ、もう表舞台には立ちとうないのだが、可愛い孫の頼みとあっては話は別じゃ。老いた身ひとつながら、頑張ってみようということになってな」
「おじいちゃんの剣は、ぜったい強いんだから!」
 ギャムジーの腕の中で、スフィアが得意満面の笑顔を浮かべて言い放つ。
「……剣を見せてもらおうか」
 ディアスが言うと、ギャムジーはスフィアを降ろして。
「おうおう、そうじゃな。……これじゃ」
 壁に立て掛けてあった一本の剣を手にすると、ディアスに手渡した。
 剣の鞘を抜くと、すらっとした刀身が目の前に現れた。それは、剣というよりほとんど細剣レイピアに近いものだった。長さは柄も含めて、ディアスの腰から足許にかけてほど。力を加えればポキリと折れてしまいそうなほど刀身は細かったが、いかなる妙技をもってしてか、よほど変な力を加えない限り折れない形状になっている。そして刃は、親指で軽く触れただけで指先に薄く線が刻まれていた。これまで見て廻ってきた武具店にはなかった、正真正銘の刃の輝きがそこにあった。
 ディアスはこの剣を手に取った瞬間、背筋に電撃が走った。その理由は、こうして刀身を眺めているうちにわかった。柄を握っているはずの右手が何も持っていないようにも感ぜられる。まるで、剣そのものが右手の一部となってしまったかのような感覚。この剣はまさしく、ディアスの剣だったのだ。自らの半身に出逢えた悦びに、剣は輝きを一層増す。
「いやはや、正直、儂の剣を使って参加してくれる者がいなくて困っておったのじゃよ。……いかがなものかね。無理を承知でお願いするのじゃが……」
「……いいだろう」
 魅入るように剣を眺めていた視線をギャムジーに移すと、ディアスは言った。
「この剣で、俺は戦おう」

3 己が信ずるもののため(後編) ~ラクール(2)~

 澄み渡った空に花火が爆ぜる。ポン、ポン、ポンと小気味いい音を立てて、白煙の筋がいくつも尾を引いた。尖塔の屋根に掲げられた獅子の紋章旗が、穏やかな風を受け悠然と翻る。
 歴史の重みともいうべき荘厳さを備えるラクール城。年に一度の祭典をこの目で見ようと、城門前には溢れんばかりの人々が立ち並んでいた。
「ちゃんと二列に並んでくださーい。えー、チケットはひとり一枚ずつ持つように。武器やそれに該当するものは持ち込みできません。入口にて荷物検査をいたしますので、ご協力をお願いします。大会参加武具店・出場者は隣のゲートよりご入場ください」
 係官がしきりに大声を張り上げて客に指示する。門の前では別の係官数人が次々とチケットを切り、荷物の中を覗いている。
「ついにこの日が……ああっ、試合が待ち遠しい!」
「お願いだから、去年みたいに興奮しすぎて失神しないでよ」
「もうさー、チケット取るのぉ、すっごい苦労したんだからぁ」
「あたしのために取ってくれたのぉ。もう、すっごいうれしぃ」
「さあさ、優勝と準優勝を予想して、あなたも一攫千金! 出場者の一覧とオッズはこの通り。賭け札は一枚三百フォルだよ」
「ママぁ、アイス買ってよ、アイス」
「だぁめ、後にしなさい」
「今年は誰が優勝するんだろうな」
「やっぱりディアス・フラックじゃねぇか? ムチャクチャ強ぇって話だぜ」
「余り券ないかい、余り券ないかい。余った券あったら買うよ~」
 人々の流れは門を抜けて城内に入り、やはり係官の指示のもと、左側のコロシアムへ続く通路へと進んでいく。
 薄暗い通路を抜けると、眩さとともに視界が開ける。そして怒濤のような熱気が遅れてやってきた。
 戦いの舞台となる円形のフィールドを囲んで、白色の煉瓦を積み上げた観客席が同心円状に広がっている。外壁沿いの外周は通路になっていて、同様に石造りのアーチがかけられていた。正面から見て向かい側の屋根の上には、かの先代王の彫像が建っている。長年風雨にさらされてきたせいか、石膏像はあかと埃にまみれて薄汚れ、その姿は少々みすぼらしくも見えた。
 試合開始を前にして、スタンドは観客で埋め尽くされ、すでに異様な盛り上がりをみせている。男も女も老人も小さな子供も、期待に胸を膨らませ、目を輝かせて開幕を待ちわびていた。
「おらぁ、まだ試合始まらないのかよ。待ちくたびれちまったぜ」
「なっ、なによその大きな板。恥ずかしいわねぇ」
「友人の晴れ舞台なんだ。これ持って応援するんだよ」
「ウーロン茶にサンドイッチ、肉まんあんまんはいかがっすか~」
「うう……なんでこんなに後ろの席なんだよぉ。これじゃ豆ツブが戦っているようにしか見えないよ」
「ねぇ先生、こんなところまで来ちゃって、研究の続きはいいんですか?」
「ビールにおつまみ、地鶏串焼きはいかがっすか~」
「うるせぇ! 嫌なこと思いださすんじゃねぇよ! ……あ、ビールひとつ」
「ほら、もう一度かけ声の練習するわよ。せーの『グロリアス様がんばって~!』」
 やがて、司会進行と実況を務める男が中央のフィールドに立つと、いっせいに拍手と歓声が沸き起こる。丸眼鏡に赤と黒のタキシードを着込んだ男の声は、拡声器を通してコロシアム内に響きわたる。
「さぁ、ついにこの日がやって参りました。腕に覚えのある強者たちが、誇りプライドと名誉をかけて挑むは肉体、精神、はたまた気力の限界か。勝つもドラマ、負けるもドラマ。一対一の真剣勝負の中で、男たちはどんなドラマを我々に魅せてくれるのでしょうか。第二十一回ラクール武具大会、いよいよ開幕です!」


「……クロード・C・ケニー様ですね。では、いったんこちらですべての武具と所持品をお預かりします」
 クロード、レナ、セリーヌの三人は、コロシアムの控え室前のカウンターで参加のための最終手続きをしていた。
「確かにお預かりしました。それでは、登録武具店からの武具とアイテムをお渡しします」
「はい」
 係員に向かって返事をしたそのとき、視線の端に水色の髪が靡いた。
「……っ!」
 ディアスであった。振り返るとレナも既に気づいていたようで、その姿に向けられたまなこは大きく見開いていた。
 ディアスは平然とクロードの横に立ち、係員を呼んだ。
「すまないが、俺の武器はまだ届いていないのか?」
「ディアス・フラック様ですね。申し訳ありません。今のところ武具店からは何の連絡も……」
「まだ間に合うのか?」
「ディアス様の場合は特例ということで、受付を試合直前まで延ばしてあります。よろしければ、武具店の方へご確認に行かれてはいかがでしょう」
「わかった」
 すぐにその場を立ち去ろうとする彼を、レナが呼び止めた。
「ディアス!」
「……レナか。何の用だ」
 ディアスが立ち止まると、レナは背後に駆け寄って。
「おじいさんの……ギャムジーさんの剣が届いてないの?」
「今のお前には関係のないことだ」
「関係なくはないわ!」
 直立したまま微動だにしないその背中に、レナは思わず叫んだ。
「あなたにおじいさんの武器を紹介したのは、私なんだから」
 その言葉にクロードの身体がビクッと揺れた。そしてカウンターに乗せた手を固く握りしめて。
「レナ、ディアスに武器を紹介したって、いったい……」
 口を挟むとレナは急に黙り込んで、下を向いてしまった。代わりにディアスが。
「大したことじゃない。偶然紹介する形になっただけだ。かど違いなヤキモチは妬くな」
「なっ……!」
 絶句するクロードには構いもせずに、続けてレナに言う。
「これは俺の問題だ。お前が気にする必要はない」
 そうして、城の通路へと消えていった。
 レナは左手を胸にあてがって俯いているばかりだったが、不意にきっと前を向くと。
「……私、ディアスのところへ行ってくるわ」
「レナ?」
 訊き返したのはセリーヌ。クロードは表情ひとつ変えずに押し黙っている。だがその視線は、明らかに彼女に対する非難そのものだった。
「だって、このままじゃ、ディアスは大会に出られなくなるのよ。クロードとだって戦えなくなるじゃない!」
 レナは懸命に訴えた。しかし、ふたりの視線は交わらず。
「……ディアスの方が大事なら、行っちゃえばいいさ」
 カウンターの上に置かれた自分の拳を見つめて、クロードは口を尖らせた。
「なによ、その言い方」
「だってそうだろ。ディアスには武器まで紹介したりして。優勝してほしいのはどっちなんだよ」
 厳しい口調で言うと、レナは口許を歪め、瞳を潤ませる。
「クロード……どうして、そんなこと、言うの?」
「悪いのはどっちだよ」
 頬を膨らませて、そっぽを向くクロード。
 レナはしばらく肩を震わせて地面を見つめていたが、急に駆け出して、ディアスと同じく城の通路へと向かっていった。彼女の通った後の道に、光の粒が舞い上がり、煌めいたように見えた。それは彼女が零した涙か、それとも──。
「ちょっとクロード」
 カウンターの前で立ちつくすクロードの背中に、セリーヌが非難めいた口調で言う。
「それはあんまり……っ」
 その言葉を遮って、クロードは力任せにカウンターを殴りつけた。

 色褪いろあせ、硬くなった赤い絨毯の上を、ディアスは足早に、それでいて──彼の習性だろうか──音も立てず吹き抜ける風のように、歩いていた。急いでいるにも関わらず走り出さなかったのは、予感があったから。
「待って、ディアス!」
 自分を呼び止める声。そしてこちらへ駆け寄る足音。そう、このはいつも俺の後を追いかけてくる。
 背中を向けたまま立ち止まるディアス。レナもディアスの背後に立つと、苦しそうに息をつくばかりで何も切り出さない。
 ディアスは軽く嘆息すると、ようやく口を開いた。
「まったく、お前は仲間に誤解されるようなことばかり起こしているな」
「だって……」
 言いよどんで下を向くレナ。ディアスは振り返り、彼女の前に立つと、片手で青い髪をくしゃくしゃと撫でた。そして俯いた頭を上げさせる。彼女は恥ずかしいように視線を横にそらし、下唇を突きだした。まつげの先は露で濡れており、目許もわずかに湿っている。
(ちっとも変わっていないな、この顔は)
 ディアスは目を細めて微笑し、親指で軽く目許を拭ってやる。そうして、再び背後を向いた。
「俺も時間がないんだ。早いところ爺さんを捜し出してくれ」
 そう言うと、曇っていたレナの表情が輝きだした。
「うん。……でも、どうすればいいの」
「まずは爺さんの店へ行く。急ぐぞ」
 言うが早いか、ディアスは外套マントを翻して駆け出していった。レナも慌てて走り出す。
 遠くから、第一試合開始を告げる声が聞こえてきた。

 重々しい鉄の扉を勢いよく開け放つと、中にいた緑色の髪の幼女は、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔をこちらに向けた。
「スフィア!」
 期せずしてレナとディアスが同時に叫んだ。
 スフィアはふたりの姿を認めるとすぐさま駆け寄って、レナの腰を抱えるようにして飛びついてきた。
「答えろスフィア、何があった!」
 ディアスが語気を強くして追及するが、動転しているスフィアは呂律の回らない口調でしどろもどろに言葉を発するばかりで、内容は全くつかめない。
「駄目よディアス、そんな乱暴な聞き方じゃ」
 この状況に既視感デジャビュを覚えながら、レナは抱きついたままのスフィアをしっかりと立たせ、自分は両手を膝につけて前屈まえかがみになる。
「スフィア、私たちはギャムジーさんを助けに来たの。なにがあったのか、落ち着いて話してくれないかな」
 目の高さを同じくして言うと、スフィアはこくりと大きく頷いて、ゆっくりと話し始めた。
「おじいちゃんと一緒に、お城へ行こうとしたの……そしたら、男のひとたちがおじいちゃんの剣を取り上げて……」
「まさか爺さん、その男どもに突っ込んでいったんじゃないだろうな」
 スフィアが首を縦に振ると、ディアスは呆れたように片手で顔を覆った。
「まったく、世話をやかせる爺さんだ」
「スフィア、おじいさんたちがどっちへ行ったか、わからない?」
 今度は首を横に振った。
「そう……困ったわね」
「おおよそ見当はついている」
 ディアスはそう言うと小屋を出て、ひとりで駆け出していった。
「ちょっと、待ってよ! ……スフィア、ここで待ってて。すぐにギャムジーさんを連れてくるから」
 スフィアにそう言い置いて、レナも急ぎ彼の後を追った。

 けたたましい笑い声をあげながら、頑強そうな剣士風の男三人が酒場から出てきた。
「へっへっ、棚からボタ餅ってのはまさにこのことだな」
「そんじょそこらじゃ手に入らねぇ代物だぜ、こりゃ」
「これで俺たちの名が上がるのは間違いないな」
 男たちは軽い足どりで、話を交わしながら意気揚々と歩きだす。
「剣を返してもらおうか」
 そのとき、背後から鋭く声がかかった。男たちが振り返る。酒場の入口のすぐ横、そこに彼の姿があった。壁にもたれかかり、腕組みをして眠るように瞑目している。水色の長髪が紺の外套とともに、微風を受けてふわりと揺れた。
「てめぇは……!」
 三人の中でもとりわけ風格の漂う壮年の戦士は、ディアスの姿を認めると眼を剥いた。
「いつからそこにいやがった」
 ディアスはそれには応えず、顔を上げて男たちを一瞥する。
「やはり貴様らか」
 ゆっくりと三人の前に歩み寄った。
「酒場で何をしていた。爺さんから剣を奪って祝杯でもあげていたのか?」
「な、なんのことだぁ?」
 覚束おぼつかない口調でしらを切ると、ディアスは視線を壮年の戦士の腰に移して。
「その腰に下げている剣はなんだ?」
「……ちッ」
 壮年の男が身構える。背後の剣士ふたりも素早く左右に散ってディアスを取り囲む。
「バレているんじゃ仕方ねぇ。早速この剣の斬れ味を試させてもらうぜ」
「よせ。剣に振り回されるのがオチだぞ」
 ディアスの忠告を無視して、男は柄に手をかけ抜きはなった。細長い片刃の刀身は陽の光をそのまま映したかのごとく輝いている。紛うことなきギャムジーの剣だ。
「ディアス!」
 ちょうどそのとき、レナが裏通りから駆けつけてきた。剣を構えた男たちに囲まれるディアスを見つけると、息を呑んで立ち止まる。
 ディアスは正面の壮年男を見据えたまま、彼女に言った。
「そこで待っていろ。すぐに片づく」
「ぬかせッ」
 不意を突いたつもりなのか、男が高々と剣を振りかざしてディアスに斬りかかった。しかしディアスは、それを避けようとも剣を抜いて打ち返そうともせず、静かに左腕を前に突きだして、猛然と迫り来る刃を受け止めようとした。両手を口にあて双眸を見開くレナ。
 刃は、彼の左腕に深々と刺さって、止まった。
「……にっ?」
 振り下ろした体勢のまま戦慄する男をよそに、ディアスはじぶんの左手を握りしめてみた。溢れ出る血が刀身をつたい、つばに流れ落ちる。手が動くということは、刃も骨までは達していないのだろう。
 右手で柄との付け根あたりの刃をつかむと、男の顔に顔を近づけて凄んだ。
「言ったはずだ。貴様にこの剣は使いこなせん」
 そうして、鳩尾みぞおちに思いきり膝蹴りを喰らわした。剣を手放して足許に蹲る男。
 自らの血に染まった剣を右手で握り直すと、ディアスは他のふたりを冷たい眼光で睨めつけた。目が合った剣士たちは恐怖に震え上がり、相争うようにして逃げ出していった。
 残った足許の男は額に脂汗を浮かべながら、尻餅をついてディアスを見上げる。
「ま、待て!」
「剣とはこう使うんだ」
 ディアスは剣を横一文字に薙いだ。刃は男のすぐ頭上を掠め、短く切り揃えられた黒髪をばっさりと剃り落とした。
「ひ……ひいッ」
 舞い上がる自分の髪をその身に浴びて、男は素早く身を起こして逃げ出そうとしたが、ディアスに後ろから襟をつかまれてしまう。
「鞘を置いていけ」
「はいぃッ!」
 慌てて腰から鞘を取り外して地面に投げ出すと、見事に円形に剃り落とされた頭のてっぺんを両手で押さえながら、広場の方へと消え去っていった。
 ディアスは外套の裾で刃についた血を拭うと、鞘を拾ってそこに納める。そこで初めて左腕の痛みに気がついて、傷口を見てみた。衣服の袖は切り裂かれた部分を中心にして赤黒く染まり、なおも肘の先から紅の滴がしたたり落ちている。
「ディアス!」
 レナは駆け寄ると、いきなりディアスの胸倉をつかんで引っ張りだした。
「ちゃんと避けなさいよ! くっだらない意地張っちゃって、馬鹿みたい。腕がちょん切れていたらどうするつもりだったのよ! ほんとにもう……」
 かの剣豪も圧倒されるほどの剣幕でひとしきり怒鳴りつけると、急に力が抜けたように手を放し、その場に項垂れた。
「……心配したんだから」
 ぽつりと呟いたあと、すぐに彼の左腕に手を翳して回復呪紋ヒールを唱える。
 ディアスはその姿を無表情に見つめていたが。
「大きなお世話だ」
 不意にそう言った。唖然とするレナに、彼はニヤリと笑う。
「この前の彼との喧嘩も、こんな具合に始まったのかな。やはり意地を張るのは良くないな」
 言われて思いだした。あれはマーズへ向かう途中でのこと。魔物との戦いで無謀な行動をとった彼女を咎めて、クロードが放った言葉──「なんで立ち向かったりしたんだよ」──あのときの彼と今の自分が重なっていたことを、ディアスは指摘して茶化したのだ。
「……意地悪」
 上目遣いでディアスを睨んで、拗ねるように言った。
 治療が終わると、レナは改めてディアスの前に立った。
「剣は大丈夫なの?」
「ああ。これしきで壊れるような駄剣じゃない」
「でも、どうしてあの人たち……」
 レナが広場の方を向いたが、そこには無論、男どもの姿はない。
「覚えてないか? 三日前に酒場で絡んできた連中だ」
「あっ……」
 スフィアのそしりに腹を立てて詰め寄ってきた三人組。その姿を思いだしながら。
「でも、決着は大会でつけようって……」
「どこかで俺の名を知ったか、爺さんの昔の名声を聞きつけたんだろうな。まともに勝負しては勝てないと踏んだんだ」
「そんなの、正しいやり方じゃないじゃない……」
 憮然としたように、レナが言う。ディアスはそれを見て肩をすくめると。
「そうかと思えば、真正面からぶつかっていこうとする馬鹿もいる」
「それって誰のこと?」
「さあな」
 横を向いて言葉を濁したとき、酒場の扉が開いた。出てきたのは薄汚れた帽子と上着チュニックを着込んだ小柄な老人ひとり。
「ギャムジーさん! 酒場にいたの?」
「おやおや、レナ嬢ちゃんにディアスか」
 ギャムジーは申し訳なさそうに頭を掻いて。
「すまんのう、剣をバカな奴らに取られてしもうた」
「それなら心配無用だ。既に取り返してある」
 ディアスが剣を持った手を前に突きだすと、ギャムジーは目を丸くし、次いで細めて安堵の笑みを浮かべる。
「おお、それはよかった、よかった……」
「何かあったら俺がカタをつける。爺さんにはスフィアがいるんだ。孫を泣かせるような真似はするな」
「ほんに、すまなんだ……承知したよ」
「ディアス」
 レナが横から彼を見上げる。
「それじゃあ、あなたには誰も泣いてくれるひとがいないみたいだわ」
「俺のために泣いてくれる奴なんているのか?」
 素っ気なくディアスが言う。レナは何も言葉を返さず、ただ彼の顔を厳しい眼差しで見つめた。
「俺はもう行くぞ」
 ディアスは視線を彼女から引き剥がし、背後を振り返った。
「爺さんはひとまず店へ戻れ。スフィアが心配している。……レナもいい加減に彼のところに戻るんだ」
「なによ」
「あいつはお前のために戦っているんだ。こんな時にいてやらなくてどうする」
「え?」
 レナはどきっとして、焦れるように訊き返した。ディアスは背中を向けたまま沈黙を保っている。
「……レナ」
 幾許いくばくかの刻を経て、ディアスは言った。
「ありがとう。助かった」
 そうして、城門へと走り去っていった。
 左手を胸にあてて、その姿を見送るレナ。乾いた風を受けた赤いケープが、ゆらゆらと揺れていた。


 ラクール武具大会は、一対一のトーナメント方式で行われる。参加者は十六名。戦士たちはそれぞれ、自らの属する武具店が用意した武具を身につけて戦うことになる。いわばこの大会は、戦士たちだけでなく武具店にとっても大きな意味を持つイベントなのだ。
 受付にどうにか間に合ったディアスは、大方の予想通り圧倒的な実力で勝ち進んでいった。何しろほとんどの相手はろくに剣を交えることもなく、彼の一撃にて敗れ去っていくのである。盛り上がる隙すら与えられない観客はただ茫然と、彼の一分の隙もない剣さばきに感嘆するしかなかった。名うての職人たちが持てる力と技のすべてを結集させて作り上げた、いかに強固な防具であろうとも、ディアスとギャムジーの剣の前には薄紙も同然だった。
 そして、クロードは。
 気合いを発して相手が斬りかかってくる。動きを見切ったクロードは、剣で相手の剣を軽く受け流すとすかさず背後に跳び退いた。剣士は詰め寄ってさらに攻撃を仕掛けるが、クロードもまた受け流して今度は横に跳ぶ。間合いを詰めて執拗に攻撃する相手に対し、クロードは打ち払っては退くばかりでまともに剣を交えようとしない。そのうちに相手も苛立ちを露わにして動きが緩慢になってくる。それが彼の狙いであるとも知らずに。
 彼の剣もろとも打ち砕かんばかりに振り下ろされた刃をクロードは身体を仰け反らせて躱し、素早く相手の懐に潜り込んだ。左拳に闘気が集中する。
「流星掌ッ!」
 白熱したように鈍く光を放つ拳を相手の胸板に繰り出すと、剣士は一気にフィールドの隅まで吹き飛ばされ、壁に激突して昏倒した。
「勝負あり! クロード・C・ケニー選手、決勝進出決定!」
 アナウンスと共に盛大な歓声が沸き起こる。観客席のどこかしこで鳴り物をうち鳴らし、紙吹雪や賭け札を撒き散らしては彼の名を大呼する光景が見られた。スタンドからの賞賛を一身に浴びて、異国の少年は闘技場の中央で静かに立ちつくしていた。
 レナとセリーヌはコロシアムの向こう正面、最前列の席で観戦していた。
「きゃーっ! きゃーっ! 次は決勝戦ですわよ! どうなってしまいますの!?」
 他の観衆と同じように騒ぎたてるセリーヌの隣で、レナは席に座して黙ったまま、一心にクロードを見つめている。
 と、クロードがこちらを向いた。不安げな視線を送る彼女を見つけると綏撫すいぶするように微笑し、軽く頷いてみせる。先程、レナはディアスの件の事情を説明し、誤解は解かれた。今はどちらにもわだかまりはない。
 心配ないよ。こころからこころへと、紡ぎだされた言葉が彼女に伝わってくる。
 クロードは再び前を向いて入り口へと歩き出し、控え室の方へ消えていった。
 堪えきれずに、レナは下を向いた。胸の鼓動が、喉から飛び出しそうなほど大きくなっていた。深呼吸をしてなんとか落ち着かせようとするが、それでも鎮まらない。どくんどくんと一定の間隔で鳴り続ける音が、からだの中から耳をつんざく。
(クロード……ディアス……どちらが勝つことを、私は望んでいるのだろう……)
 募る不安に、レナは瞳を伏せた。凍えるように背中を震わせながら。

「……先代ラクール十三世は、かつて臣下に次のような言葉を残しました。曰く『負け戦に得るものは無し』と。ひとたび戦争を始めるのならば、勝たなくては意味がない。軍備を整え、よりよい人材を集め、いかなる状況においても勝てると判断したときにのみ、戦を仕掛けるべきである。そんな先代の慎重さこそが、この大会を生み出したと言っても過言ではないでしょう。かの方が見下ろすこのコロシアムで、いよいよ最後の勝者が決定いたします」
 丸眼鏡の司会がフィールドの中央に立って、流暢な口振りで話していた。
「それでは、両者の入場です」
 ディアスが、そしてクロードが入口から出てきて、闘技場の中央に向かい合うように立った。観客席から歓声と、どよめきが走る。これまでの試合ではしっかりと防具を身につけていたクロードだったが、今はすべて外している。ディアスと同様に剣のみを腰に差して。
「いいのか? 身を守るものがなければ、怪我では済まされないかもしれんぞ」
 ディアスが言うと、クロードはニッと口許をつり上げて。
「こうでもしないと、お前のスピードにはついていけそうにないからな」
「ふん、賢明な判断だな」
 クロードが剣を抜いて構える。ディアスはいつものように剣は抜かず、だらりと両手を垂らしたまま。
 場内の喧騒が一気に静まり返った。その場にいたすべてのものが、息を呑んでふたりを見守る。
 そのとき、観客のひとりが無言のままに席を立った。つられるように周囲でひとり、またひとりと立ち上がる。それを見た者たちが次々と席を立ち、その輪は瞬く間に場内に広まった。恋人たちは手を繋ぎ合い、老人は杖に寄りすがるようにして立った。セリーヌも立ち上がる。だがレナは放心したように前を向くばかりで、立とうとはしなかった。
「第二十一回ラクール武具大会、決勝戦。……試合開始ぃっ!」
 合図と共にクロードが斬りかかった。ディアスは彼が目前まで迫ると素早く剣を抜いて下から突き上げるように攻撃を弾き返し、返し刀でクロードの肩口を狙った。クロードは上に跳躍して避け、落下する勢いに任せて剣を振り上げ叩きつけた。ディアスもすぐに反応して峰で受け止める。
 ふたりがそれぞれ同時に後方に跳躍して間合いを取ると、やはり同じように反動をつけて相手に向かっていく。乾いた金属音が場内にこだました。ディアスが切り返して横に薙げば、クロードも剣で弾き返して無防備になった胸の中心めがけて突きを繰り出す。身を翻して躱したところをさらに回し蹴りを放つが、ディアスは既に跳躍してクロードの背後に降り立つところだった。慌てて間合いを取るクロード。
 ディアスが剣を納めた。クロードは油断なくディアスを睨んで構えている。
(強い……小手調べとはいえ、この俺が劣勢に立たされるとは)
 心の中で、ディアスは唸った。
(ならば、こちらとしても、手加減するわけにはいかないな)
 ディアスの目つきが変わった。クロードもそれを感じ取ったのか、剣を握る手に力を込める。
「空破斬!」
 黒き衝撃波が地面を走り、クロードを襲った。虚を突かれたクロードは体勢を崩しながらもなんとか躱しきる。そこへディアスが詰め寄り、瘴気の込められた剣を振り上げて。
「ケイオスソード!」
 振り下ろされるより一瞬早くクロードは横に跳んで避けた。瘴気の塊が地面を砕き、土くれやら石の破片やらがあたりに飛び散る。
 追い討ちをかけるようにディアスはクロードの真上に跳躍して、剣に全神経を集中させると。
「クロスウェイブ!」
 空中から放たれた十文字の衝撃波は辛うじて躱したものの、それが地面にぶつかる際の余波を喰らって宙に放り出され、クロードはフィールドの壁際まで吹き飛んで倒れた。闘技場を四等分するかのように地面が鋭く抉られ、中心にできた大きな窪みはその威力の凄まじさを物語っている。
 地面に降り立ったディアスが剣を納める頃には、クロードは立ち上がろうとしていた。服は砂と埃にまみれ、顔にはいくつもの細かい傷が赤く浮かび上がっている。
「降参してもいいのだぞ」
「バカ言え。まだまだこれからだ」
 再び剣を構え直し、相手を睨みつけるクロード。一瞬、ディアスはわずかに口許を緩ませたが、すぐにきっと切り結ぶ。
 クロードがじりじりと間合いを詰めていく。だがディアスは動かない。彼は間合いを取る必要はないのだ。相手が動いたところを反撃するだけでいいのだから。彼に隙を作らせるには。
 その場で剣を振り上げ、クロードは気合いを込めて振り下ろした。剣先から放たれた衝撃波が地面を走って相手へと向かっていく。
 ディアスは目を見張った。それは自分の技だった。白と黒の違いはあれど、それは先程この身自ら放った空破斬だった。一度見ただけで真似ができたというのか。
 しかし、衝撃波の速さまでは真似できなかったらしい。疾風迅雷の勢いで相手に向かっていくディアスの空破斬に比べて、クロードのものはやけにのろのろと進んでいく。避けてくれと言わんばかりに。
 ディアスがその道筋から身を外そうとした刹那、上空から影が落ちた。既にクロードが彼の頭上で剣を振りかざしていたのだ! ディアスは柄に手を滑らせてさっと抜き放つと、断ち切るように振り下ろされる刃を受け止める。目前に衝撃波が迫る。そのまま剣でクロードを押し返すと間一髪、地面を転がるようにしてどうにか躱した。左手と右膝を地につけたまま身を起こしてクロードの方を向く。
「気功掌ッ!」
 すぐにクロードは間合いを置いた場所から闘気の塊を放った。体勢の崩れたディアスに躱す余裕はない。右手一本の無理なかたちからケイオスソードを繰り出し、闘気を弾き飛ばした。
 間髪容れずにクロードが斬りかかる。ディアスが背後に跳び退くと、彼も地面を蹴って追いすがる。ふたりの中心で剣と剣がぶつかり合った。
「……見事だ」
 剣を交えたまま、ディアスが言った。クロードは小刻みに息をつきながら相手を睨んでいる。
「お前がここまでやってくれるとは、思いもよらなかった。……だが」
 ひゅっ、と、クロードの腹のあたりを風が吹き抜けた。クロードも反応して後方に退いたが間に合わず、片膝をついて腹を手で押さえる。大量の血がせきをきったように溢れ出て、指の間から流れ落ちる。
「残念だが、速さでは俺には勝てん」
 ディアスは剣を鞘に納めて言い放った。彼はあの瞬間に切り返してクロードの腹を薙ぎ払ったのだが、場内でその動作を見極められた者は、おそらくいなかっただろう。
 クロードが血を吐いた。観客席から悲鳴が上がる。それでも彼は前を向いてディアスを睨めつけ、よろめきながらゆっくりと立ち上がった。腹を押さえる腕は紅に染まり、口の端からも血がひとすじ零れ落ちる。
 その姿に、ディアスは思う。
 ──この男は、何のためにここまで戦う?
 何が彼をこの場に駆り立てているのか。賞金や名誉といった物欲ではない。それは明らかだ。彼の背後には、もっと大きな理由が、存在が見え隠れしているように感じる。
 彼が戦う理由、それはつまり。
(……己が信ずるもののため)
 それゆえに、こいつはここまで強くなったというのか。それゆえに、こいつは立ち上がろうとするのか。傷つき、砕かれ、果てようとも、この男は信ずるもののために突き進んでいくのだろうか。
 とうの昔に信ずるものを失った彼は、目の前の少年に追懐の情を抱かずにはいられなかった。瞳の奥に宿る孤独は、かつての自分と同じではなかったか?
 ふと、ディアスは横に目を遣って観客席を見た。そこには席に座ったまま俯くレナの姿があった。からだを震わせ、膝の上に置いた手を握りしめて。
 ディアスはかすかに顔を曇らせ、眉間に皺を寄せた。
「レナ!」
 突如として彼が叫ぶとレナはビクッと全身を揺すり、怯えたような表情でゆっくりとディアスに視線を向けた。
「前を見るんだ。こいつの姿を、その目にしっかりと焼きつけておけ」
 闘技場に彼の澄んだ声が響く。そして再びクロードに向き直り。
「このまま下手に長引いて、くたばってもらっても困る。次で最後だ」
「ああ」
 クロードは歯を喰いしばり、汗と血にべっとりと濡れた両手で剣を握って構えると、視点の定まらない目でディアスを睨みつけた。傷口から流れ出た血が腿からこむらを伝って足許に落ちる。
 ディアスはおもむろに柄に手をかけ、剣を抜きはなった。この大会にして初めて、彼は抜き身の剣を構えた。
 場内が再び静寂に包まれた。その場のすべての視線が中央のふたりに注がれる。唾を呑み込み、汗の浮いた掌を腿の横に擦りつける若者。祈るように両手を前で合わせる女性。レナもついに立ち上がり、目を背けたくなる心を必死に励まして前を向いた。闘技場全体がひとつになり、誰しもが次の瞬間を待った。
 気合いを発して先に攻撃を仕掛けたのはクロードだった。腕に必殺の闘気を込めて斬りかかる。ディアスが受け止めようと身構えたそのとき、クロードは真上に高々と跳躍した。そして空中で反転すると同時に、右手の剣を思いきり投げつけた!
 ディアスの双眸が驚愕の色に開かれる。素早く剣を振るって、車輪のごとく回転しながら向かってきた剣を寸前で打ち飛ばした。主なき刃は砕かれ、その破片と共に宙に舞い上がる。──そして、頭上に影が。
 はっとして見上げると、クロードの顔がすぐ目の前にあった! 右の拳は凄まじい闘気を帯びて燃え上がるように黄金色に輝く。
「バーストナックル!!」
 灼熱する拳をディアスの胸の中心めがけて叩きつける。だがその刹那、相手の身体が横に動いた。必殺の一撃は肩口の外套を掠めて空をきる。
 ディアスはすかさず切っ先を地面に向けて構えると、足許から弧を画くようにして剣を突き上げる。
「朧」
 剣先の筋から蒼白い衝撃波が巻き上がり、クロードの身体をいとも容易く突き飛ばした。自身の剣と同じように彼は宙に投げ出され、そして地面に落ちた。無雑作にうち捨てられた人形のように、うつ伏せに倒れたまま、動こうとはしなかった。
「し……勝負あり! ディアス・フラック選手、優勝ですっ!!」
 その言葉に、沈黙に包まれていた場内が一気に沸き返った。もはや怒号のようになった歓声はディアスの勝利を讃するものでもクロードの健闘を称えるものでもなかった。両者がぶつかり、繰り広げた激闘は、勝負を超えて観客を圧倒し、魅了したのである。ラクール・オブ・ラクールを決する試合に相応しい、それ以上の戦いを見せてくれたふたりに、彼らは手を打ち鳴らし、口々に賞賛の言葉を浴びせた。
 フィールドでは、入場口から慌ただしく担架が運ばれてきた。四人がかりでクロードを乗せると、また小走りに入口へと戻っていく。
 ディアスはレナを見た。彼女は瞠然どうぜんと、担架に乗って運ばれていくクロードの姿を目で追っていたが、ふとディアスの視線に気づいてこちらを向いた。
 ディアスが顎で控え室の方を指し示す。行け、というふうに。
 それを見たレナは大きく頷くとすぐに駆け出し、階段を上って通路を走っていった。慌ててセリーヌも後を追う。
 その姿を見送った後、ディアスは自分の左肩に視線を移した。クロードの最後の一撃によって、その部分だけ外套と上着の生地が焼け焦げ、肌が剥きだしになっている。さらに肌も高熱に曝されて赤く腫れていた。衣服も肌も彼の拳に直接は触れていないはずである。立ちこめる闘気だけでこの威力ならば、まともに喰らっていたらどうなっていただろう。
(これほどの技を、あの状態で繰り出せたのか)
 もはや収拾のつかない歓声の中、ディアスは粛として歩き去っていく。かつてない好敵手に敬意と、そして微かな嫉妬を抱きながら。

 控え室の方へ足を運ぶと、案の定、レナたち三人がいた。扉を潜るとクロードが、そしてレナが順にこちらを向いた。彼女の呪紋により、傷はすっかり癒えているようだ。
「ディアス」
 クロードが言うと、ディアスは彼の前に立って肩を竦める。
「お前に名を呼び捨てにされる覚えはないが、まあいいだろう」
「なんの用だよ」
「一応、礼を言っておこうと思ってな」
「礼?」
 怪訝そうにクロードが訊いた。気にも留めずにディアスは続けて。
「お前は想像以上だった。本気を出したのは久しぶりだ」
「…………」
 神妙に見つめるクロードに対し、振り返って背中を向けると。
「だからといって図に乗るな。褒めたわけではない」
「なっ……!」
 またも言葉を失ったクロードを後目に、今度はレナの方を向いて。
「レナもあまり甘やかすな。こいつは突き放すくらいで丁度いいんだ」
「なによ、それ」
 レナは口を尖らせた。
「じゃあな。話はそれだけだ」
 振り返って扉へ歩き出そうとした、そのとき。
「ディアス!」
 クロードが呼び止めた。立ち止まるディアス。
「……何だ?」
「また、会えるか?」
 片方の眉を上げて、ディアスが振り向いた。クロードは相変わらず睨むような眼差しでこちらを見据えている。
「時が来れば、な」
 それだけ言い残して、彼はその場を去っていった。


 ギャムジーとスフィアが連れたって店に戻ると、そこには既にディアスがいた。作業小屋の外壁に寄りかかり、腕を組んで瞑目している。
「なんじゃディアス。待っておったのか」
 ギャムジーが声をかけると、ディアスは目を開いて顔を上げた。
 作業小屋の鍵を開けて、ギャムジー、スフィア、そしてディアスが中に入る。
「剣を返しに来た」
 ディアスは腰の剣を外すと、前に差し出して言った。
「いやいや、それには及ばんよ。その剣はお前さんが持っていてくれればいい」
「ディアスお兄ちゃん、すっごいカッコよかったよ~」
 横でスフィアがはしゃぐのをよそに、ディアスは意外そうにギャムジーを見た。
「いいのか?」
「ああ。どうせ売る気はないんじゃ。その剣も、お前さんに使うてもらいたいと言うておる。ほっほっ」
「剣がおしゃべりするの? 変なの~」
「おやおや、スフィアは聞いたことないのかね。儂の作った剣はみんな、おしゃべりするんじゃぞ」
「ほんと?」
「ああ、ほんとじゃ。その剣はこう言っておる。『ディアスさん、こんなボクでも使ってくれてありがとう。これからもあなたの役に立ちたいから、連れていってください』とな」
 ギャムジーはそこまで言うと、ディアスに向き直り。
「……まぁ、そんなわけじゃ。お前さんはこんな老いぼれにも夢を与えてくれた。礼だと思って受け取ってくれ」
「……この剣の名は?」
「シャープネス、じゃ」
「シャープネス……」
 ディアスは舌の先でその名を転がしてみた。呼応するように、柄の先端の部分が微かな光を零す。
 剣を腰につけ直し、改めて前を向いたとき、ギャムジーの後方の壁に彼の剣シャープネスと同じような剣が立てかけてあったのが目についた。
「それは?」
 ディアスが訊くと、ギャムジーはああ、と剣を手にとって。
「大会用に作っておったもう一本の剣じゃよ。こちらの方が若干、刀身が太くて重いが、斬れ味はそう変わるものでもないじゃろう」
「……見せてくれ」
 請われて、ギャムジーは剣をディアスに渡す。
 鞘から抜いてみると、やはり刀身はシャープネスよりもいくらか太いようだ。しかし、それでも通常の剣に比べれば細く、片手でも楽に振り回せる重さだった。刃の輝きはディアスのものと寸分違わない。
 もし、クロードがこの剣で出場していたら、とディアスは不意に思った。俺は負けていたかもしれない。負けずとも、苦戦は必至だったろう。
 同時に、彼は見てみたくもなった。クロードがこの剣を使って戦う姿を。
「……頼みがある」
 剣に視線を落としたまま、ディアスが言った。
「クロード・C・ケニーは知っているか?」
「ああ。決勝で戦った相手じゃろう。あちらもなかなか強かったのう」
「もし、あいつがここを訪ねてきたら……いや、きっと訪ねてくるだろう。そのときには、この剣を渡してもらいたい」
「なんじゃ、知り合いなのか」
「まあな。……会えばわかる。奴ならこの剣を充分に使いこなせるはずだ。無理は承知しているが……」
「あいや、わかったよ。ほかならぬお前さんの頼みならな」
「礼を言う」
 剣を鞘に戻してギャムジーに渡すと、踵を返して扉へと歩いていく。
「なんじゃ、もう行くのか? せっかくだからもう少しのんびりしていっても」
「どうやら俺には、外の空気の方が性に合っているみたいでな」
「そういえば、夕方に授賞式があると聞いておるぞ。そっちはどうするんじゃ?」
「爺さんが代わりに行ってくれ」
「儂が!?」
 返答を待つ間もなく、ディアスは扉を開けて外へ出ていった。
「やれやれ……相変わらず無愛想な奴じゃ」
 がたんと閉まる鉄の扉を見ながら、ギャムジーはかぶりを振った。
 老人の手の中で、剣はちりちりと微かな光をたたえていた。


 城下町の門を抜け、下り坂の道を降りきったところで、彼は振り返った。
 夕闇の中に、重厚な石造りの城が浮かんでいる。風にはためく獅子の紋章は、西陽を受けてなおも毅然と佇む。
 しばしの間、彼は眩しそうに旗を眺めた。そして思う。
 見限ったはずの、この世界。
 だが、この胸の高揚は何だろう。
 ──もし、もしも。
 まだ、世界が俺に何かを示してくれるのだとしたら。

 外套を翻し、城に背を向けて、彼は歩き出す。

 ──もうしばらくは、この世界につき合ってみるのも悪くない──。

4 つ目の疑惑 ~クロス(4)~

 北からの冷たい突風を受けて、セリーヌは乱れた藤色の髪を鬱陶うっとうしいように掻きあげた。風は一心不乱に草原を疾駆する。緑と枯色の波が、うねるように靡いては地平の彼方へと消えていった。
 厳しい冬が間近に迫るクロス大陸。空一面には灰色の雲が垂れ込めている。遠方に見渡せる山の頂から稜線にかけては、うっすらと雪化粧も施されていた。
 曲がりくねりながら東西に伸びる道の途中で、セリーヌは泰然自若と腕を組んで立ちつくしていた。そこへクロードが、木製の水筒を手に駆け寄ってくる。
「レナは?」
 クロードが訊くと、セリーヌは視線で彼女の方を示した。
 道の脇に生えるクスノキの幹を背にして、レナが座っていた。両膝を抱え込んで、気怠けだるそうに顎をその上に載せている。その表情は、平生の明るく活発な彼女のものではなかった。
「どうだい、具合は?」
 クロードが歩み寄って水筒を差しだす。レナは伏せていた目を漸くもたげて。
「うん……ありがと」
 消え入りそうほど弱々しい声で応えると、水筒を受け取った。
「ここのところずっと歩きづめだったからね。疲れが出たんだと思うよ」
 クロードにしてみれば、彼女を気遣っての言葉だったのだろう。だが背後のセリーヌは、その見当違いな発言に片手で顔を覆って項垂うなだれた。そして無雑作に彼の腕を掴むと、少し離れた場所まで引きずっていった。
「な、なんですか、セリーヌさん」
 慌てふためくクロードを前に立たせると、なにやら耳打ちを始めだした。みるみるうちに顔が真っ赤になっていくクロード。
 ふたりのやりとりをよそに、レナは手に持っていた水筒の蓋を開けて、縁に口をつけ筒を傾ける。冷たい水が喉を通ると、胸のあたりの不快感も少し和らいだような気がした。
 ふと、その手が止まった。耳を澄まして聞こえるのは、風の音と。
「どうしたの?」
 戻ってきたクロードが訊ねたが、彼女は応じない。水筒を地面に置くと、立ち上がって道とは反対側の──草原の中へと足を踏み入れていく。
「ち、ちょっと、レナ?」
「どこへ行くんですの?」
 彼女の行動をいぶかしく思いながらもクロードが、そしてセリーヌが彼女の後をついていった。レナは覚束おぼつかない足取りで、なにかに導かれるように奥へと突き進む。
 そこは草原というよりは、むしろくさむらだった。始めは腰丈ほどだった草が歩を進めるごとに深くなり、しまいにはクロードの背丈にまで達した。草葉の陰に消えては現れる青い髪と赤いケープを見失うまいと、必死に草をかき分け追っていく。
 やがて、ふたりにも彼女が何を思ってこんな叢に入ったのか諒解できた。
 動物の鳴き声だろうか。きぃ、きぃとごく小さく、振り絞るような音が断続的に聞こえてきた。歩を進めるにつれてそれは大きくなり……にわかに止んだ。
 立ち止まったレナの前に、毛むくじゃらの白い塊が横たわっていた。頭も胴体もほとんど区別のない楕円形の躯に、つぶらな赤い眼と口と、やけに短い腕が中心にまとまってついていた。頭と思しき部分には一対の細長い耳朶じだが、途中で二股に分かれて躯をなぞるように垂れ下がっている。その巨体を支えるためか、足は随分と大きかった。
「バーニィですわ」
「ばぁにぃ?」
 思わず素っ頓狂な声をあげてしまったクロード。セリーヌの視線に慌てて顔を背ける。
「怪我してる」
 見ると確かに、窮屈に折りたたまれた膝から足首にかけて、鋭利なもので突き刺されたような赤い斑点がいくつも浮いていた。魔物にでも襲われて逃げてきたのだろうか、全身も砂埃や枯草の切れ端などで薄汚れ、眸は雨上がりの川のように濁っていた。
「かなり弱ってますわね」
 レナは白い巨体の脚の部分に屈み込むと、傷口に手をかざし始めた。
「レナ、調子が悪いんだから、あまり無理しない方が……」
「平気よ。それに、この子の方がもっと苦しんでる」
 淡い光がバーニィの脚から躯全体を包み込んだ。赤い斑点が徐々に薄くなり、消え去っていく。
「苦しんでいる子を助けるのが、私の役目だもの。私にできること、私にしかできないこと……」
「…………」
 クロードは口を閉ざし、じっと彼女を見つめる。
 傷の癒えたバーニィはしばらく不思議そうにレナたちを見回していたが、すぐにぴょんと跳ねるように起きあがり、その巨体で草を押し倒して逃げていこうとする。草陰にその姿が消えようかというとき、思い出したようにぴたりと立ち止まって振り返り、再びレナの方を見た。
 レナはこちらを向いたまま微笑んでいる。が、不意に身震いした。
「寒いのかい?」
 クロードが訊くと、自分で自分を抱きしめるように胸許で腕を重ね合わせて、表情を曇らせた。
「ん……ちょっと」
 体力の衰えた状態で呪紋を使用して体温が低下したのだろうか。クロードはジャケットを脱ぐと、そっと彼女の背中にかぶせた。
「クロード……でもこれ」
「いいよ。僕はそんなに寒くないし」
「あら、ずいぶんと気が利くようになりましたわね」
 セリーヌに茶化されて明後日の方を向くクロード。寒さのためか頬は赤く染まっていた。
 バーニィは首(?)を傾げてその様子を眺めていた。そしてのそのそと歩き出して、レナの前に立つ。
「ど、どうしたの?」
 巨体を目の前にしてさしものレナも少し怯んだ。顔(?)は彼女の頭よりも高い位置にある。
 不意に、バーニィの白い手が伸びてレナを手前に引き寄せると、強く抱きしめ始めた。突然のことにレナは抵抗もできずに、されるがままになる。少女の細い身体が、ふかふかの白い毛の中にすっかり埋まる。
「なんですの?」
「……もしかして、寒そうにしてるのを見たから、暖めてくれているんじゃないか?」
「もしくは、ただのスケベか、ですわね」
「オスなんですか、こいつ?」
「さあ。でも、どっちでも関係ありませんわよ」
 バーニィはまだレナを腕の中に収めている。その表情は無垢といえばそうかもしれないが、妙な満足感に満ちているようにも見受けられたので、セリーヌの見解もあながち間違いとは言い切れない。
「ありがとう……でも、ち、ちょっと苦しいから、放して」
 レナが腕の中で藻掻くと、バーニィはようやく彼女を放した。
「大丈夫かい?」
「あのまま連れ去られてしまうかと思いましたわよ」
 レナは乱れた髪を手櫛で直して、それから首を横に振った。
「ううん、違うの。この子はほんとうに私のことを心配してくれたの。ちょっと不器用みたいだけど……でも、優しい子なのよ」
 一同がバーニィを見た。『優しい子』はもう呑気に毛繕いを始めている。
「なんか気が抜けてしまいましたけど……」
 と、セリーヌ。
「これからどうするんですの? 今日のところはひとまずマーズへ戻って、休んだ方がいいかもしれませんわね」
「うん、そうしようか」
「ごめんなさい……」
「気にすることないよ。体調が悪いのは仕方がないし」
「うん、それもあるんだけど……クロード」
「え?」
「ジャケット、毛だらけになっちゃった……」
「あ……」
 言葉を交わしながら、来た道を引き返していく三人。それに気づくと、バーニィも遅れて後をつけて歩き出す。
 三人が立ち止まり、振り返った。するとバーニィも立ち止まる。彼らが再び歩き出すと、バーニィもまた後をつけてくる。立ち止まり、歩き出す。そんな動作を幾度か繰り返して。
「……なんだよ、こいつ、僕らについてくる気なのか?」
「レナになついてしまったんじゃありませんの」
 セリーヌが言うと、レナは困ったような表情をして、バーニィの前へ立って語りかける。
「よく聞いて。私たちはクロスへ行かなくちゃならないの。ずっと遠いところだから、連れていけないの」
 そう言ったものの、やはりバーニィには理解しがたいらしく、愛くるしい眼でこちらを見つめるばかり。なんとかわかってもらおうとレナはクロスのある南西を指さして、続けた。
「私たちはね、ここからうんと歩いて、向こうへ行くの。あなたはここにいたいでしょ? だから、寂しいけど、ここでお別れしなくちゃ……」
 ところが何をどう勘違いしたのか、バーニィはいきなりレナを片腕で軽く抱え込むと、彼女が示した方角へと歩き始めた。
「あ、あの、ちょっと……」
「どこへ連れていく気ですの!?」
 セリーヌがちょうど手前に垂れ下がっていた耳朶をつかんで引っ張ると、バーニィはこちらを振り返った。その迫力にセリーヌは思わず手を離してたじろいだ。
 バーニィはセリーヌを見、クロードを見て、それから腕の中のレナを見た。そうして首(?)をひねってしばらく考え込んでいた(?)が、突然セリーヌをもう片方の腕でつかみ上げると、真上へ高々と放り投げてしまった。それからクロードも同様に抱え込んで、落下してきたセリーヌを背中で受け止めると、猛然と草原を突っ切って走り出した。
「きゃーーーっ! どうしてわたくしだけ……きゃーーーーーッ!!」
 片手で吹き飛ばされそうな帽子を押さえ、片手でバーニィの後頭部にしがみつきながら、セリーヌが絶叫している。腕の中ではクロードが双眸を見開いたまま前を向き、レナは白い体毛に額を埋めてギュッと目を瞑った。
 草原を抜け、街道に達してしまえば、もはやバーニィの暴走を阻むものは何もない。両脇にレナとクロード、そして背中にセリーヌを乗せて、白き巨体が一陣の疾風となって南西へと駆け抜けていった──。


 さて、彼らはなぜ今になって、クロスを目指しているのか。
 話は一週間前にさかのぼる。

 ラクール武具大会が幕を閉じたその日の夕刻、ホテルに戻って休んでいた三人の許へ、兵士が飛び込んできた。
「至急、ラクール城までご来謁らいえつ願いたい」
 表彰を受けるのは優勝者だけと聞いていたので、思いがけない呼び出しに半信半疑のまま、クロードたちは謁見の間に通された。
 待つこと暫くして、玉座の横の扉から入ってきたのはラクール王ではなく。
「ろ……ロザリア姫、さま!?」
 そう、それはクロス王子の元婚約者、盛大な結婚式まで挙げておきながら結局はセリーヌに主役を奪われてしまった、あのロザリアだった。この場で身につけているのはもちろん純白のウェディングドレスではなく、典礼用の落ち着いた色彩のドレスであったが。
「お久しぶりですね。クロードさん、でしたっけ」
「は、はは……その節はどうも」
 引きつった笑いを浮かべるクロードを、レナはむっとした表情で睨む。
「セリーヌさんも前へ出てきてくださいな。なにも捕って食べようというわけではないのですから」
 彼女はレナの背後で窮屈に身体を縮めて隠れていたが、いかんせん体格が違いすぎるのでかなり無理があった。ロザリアに言われて仕方なく、気まずいように下を向きながら前に立った。
「王は緊急公務のため城を出ております故、私が代行を務めさせていただきます」
 ロザリアは流麗な口調で話を切りだす。
「急にお呼びだてした無礼を詫びます。実は、あなた方にお願いしたいことがあるのです」
 ロザリアの横に立っていた係官が、クロードの前に歩み寄って銀盤の上の細長い筒を差しだした。
「これは?」
 筒を受け取ったクロードが訊いた。筒の表面は黒い毛皮が貼りつけてあり、蓋の上面部には獅子彫刻の飾りつけがついていた。
「クロス国王に宛てた親書です」
「親書?」
「ええ。あなた方にこれを、クロス王の許へ届けていただきたいのです」
 三人は顔を見合わせた。ロザリアは続けて。
「その書簡にはソーサリーグローブとその対策についての重大な報告が記されてあります。もしかすると、これにより魔物との戦いにも終止符が打たれるかもしれません」
「そんなに重要な手紙なら、どうして僕たちに……」
「皆さんだからこそ、お願いしているのです。この書簡は何があってもクロス王の許へ届けなくてはなりません。遣いの者や城の兵士では、道中いつ魔物に襲われて奪われるやもわからない。その点、あなた方なら安心して託せます。クロードさんの実力はすでに大会で実証されていますからね」
「はあ……でも」
「もちろん報酬は払います。それに、あなた方は確かエルに渡りたいのでしたよね。頼まれていただけるなら、そのことについても考慮しますよ」
「う……」
 報酬はともかく、エル行きの船の話を持ちだされては弱い。三人は再び顔を見合わせると、そろって嘆息をついた。
「よろしくお願いします」
 念を押すように、ロザリアが言った。その微笑に妙な威圧感を覚えたのは、やはり彼女に対して引け目があったからだろうか。


 暴走バーニィの活躍により、一行は日没までにクロスへ到着することができた。
 その日はそのままレイチェルのホテルで一泊し、翌日、城へと赴いた。
「おお、レナか。とうにラクールへ渡ってしまったと思ったが。今日は何用じゃ」
 謁見の間にて、クロス王は三人に視線を向けると相変わらず快活な声で言った。セリーヌはやはり体裁が悪いようで、今度はクロードの背後に隠れている。それを目ざとく見つけたクロス王が。
「ほう、セリーヌ嬢もご一緒か。クロウザーが逢いたがっておったぞ。後で顔を見せてやるといい」
 などと言い出すものだから、セリーヌは火を噴きそうなほど真っ赤になって、足許を睨んだまま固まってしまった。
「ラクール王から、親書を預かってきました」
「なんじゃと?」
 クロードが懐から黒い筒を取り出して、王の手前に控えていた兵士に手渡した。兵士は蓋を取って中を確かめると、恭しく王に差しだした。
 クロス王は筒から羊皮紙ベラムに記された手紙を取り出して読み始めた。途端に表情が厳しくなる。
「ソーサリーグローブについての書簡だと聞いています」
 読み終わるのを待ちきれずに、レナが切り出した。
「新しい情報でもあったのですか?」
「……いや、情報は何も書いておらぬ……だが」
 レナたちが固唾を呑んで見守る中、クロス王は大きく息をつくと。
「すまないが、これ以上は口外できぬ。国の機密に関わる事柄なのでな」
 そう言って、羊皮紙を筒に仕舞うと立ち上がった。
「しばし待っていてくれ。返書をしたためる」
 豪奢なマントを引きずって退出していくクロス王。その姿が見えなくなると、レナたち三人は気を抜いて直立姿勢を緩めた。
「はぁ……あのまま倒れてしまうかと思いましたわよ」
 セリーヌが心底、安堵したように声を洩らした。
「でも、ソーサリーグローブの手紙だって聞いたのに、国の機密だなんて……嘘ついたのかしら、ロザリア様」
 レナが言うと、クロードは首を傾けて難しい顔をして。
「いや、嘘でもないと思うよ。ロザリア様は対策だって言ってた。たぶん、ラクールはクロスにそのための協力を要請したんじゃないかな」
「協力?」
「あくまで僕の推測、だけどね」
 クロードはそう言ったが、レナにはどうも腑に落ちない。『対策』という言葉がどういう意味を含んでいるのか、彼女にはわからなかったのだ。
 あれこれ考えを巡らせているうちに、ふと部屋の入り口で雑談をしていた兵士たちの声が耳に入ってきた。
「……けど最近、ホントに変わった奴らが王様に会いに来るよなぁ」
「そうそう、こないだつ目の男が来たかと思えば、昨日は三つ目の女だぜ」
 はっとして兵士たちの方を向くレナ。
「なかなか色っぽい姉ちゃんだったよな」
「そうそう、服の裾からチラッと見える太ももがエロちぃ……」
「すみません」
 盛り上がってきた兵士たちの会話に、レナが割り込んだ。
「今の話、詳しく聞かせてくれませんか」
「どうしたんだい?」
 クロードも話に入ってきた。
「うーん、昨日の昼過ぎだったかな」
 兵士のひとりが話し始める。
「三つ目の女が謁見に来たんだ。ずっと前にやっぱり謁見に来た三つ目の男について、いろいろと聞いていたな」
「んで、男が山岳宮殿へ行く許可を取りに来たって聞いたら、自分も許可を取って、慌てて退出していっちまった」
「山岳宮殿?」
「知らないのかい。コル湖のほとりにある、古の一族の遺跡だよ」
「なんでも中にはモンスターがうじゃうじゃ棲みついてるって話じゃねぇか。どういう事情かは知らんが、物好きなこった」
「その姉ちゃんだけど、すんげぇ綺麗な金髪でよぉ、脚とか胸なんかもう……(と、さりげなくレナの方に視線を向けて)比べもんにならない(きつく睨み返される)」
「その割に、ごっつい武器を持ってたよなぁ。あと着てるものも変わってた……そうそう、君の着ているそれ。それと似たようなのをつけていたよ」
 兵士がクロードのジャケットを指さした。クロードは呆気にとられたように立ちつくしている。
「間違いない……あの人だわ」
 レナの脳裡には、ヒルトンの酒場で会ったあの女性の光景が映し出されていた。
「やっぱりクロスに来ていたんだ」
「そういえば、王様が女にその三つ目について聞いたら、女はそういう種族なんだって答えていたな。なんつったっけな……セトラじゃなくて……確か、テト……テト」
「テトラジェネス」
 クロードが呟くように言うと、兵士はポンと手を打って。
「そう、それだ! ……って、なんで君が知ってんの?」
「クロード?」
 レナが呼びかけても、クロードは反応しない。茫然と俯き加減に床のどこかを見つめるばかり。
「まぁ、世の中にはフェルプールの例もあるからな。三つ目の種族がいてもおかしなことじゃないのかもしれないが……おっと」
 王が部屋に入ってきた。兵士たちは慌てて所定の位置へ散っていく。レナたちも再び玉座の前に立った。
「待たせたな。これをラクールへ届けてくれ」
 兵士から手渡されたのはラクールのものと同じような筒。ただし獅子の彫刻はなく、筒の側面に南十字星座をあしらった刺繍が施されている。
 レナが礼を言って退出しようとしたそのとき、突然クロードが前に進み出た。
「陛下」
 しっかり前を向き、決然と彼は言った。
「山岳宮殿へ入る許可をいただきたいのですが」

5 追う女 ~山岳宮殿~

 壁の窪みに点々と置かれた燭台の炎に照らされ、梔子くちなし色の煉瓦は輪郭を揺らめかせながらも、くっきりとその形を映す。床も壁も天井も同色の砂岩で積まれていたが、年月を経て岩石が風化したのか、足許はざらつき、壁も手で触れるといくらか砂がこぼれ落ちた。
 建物の内部は、山頂近くの山肌をいて建造しただけに、ひどく寒かった。反面、湿気は意外なほど少なく、むしろ岩石から舞い上がる砂埃と歴史の重みとやらが織りなす堆積物とでせ返るほど埃っぽい。この宮殿も、クロス洞穴と同様に決して良い環境とは言えない場所にある。いったい『古の一族』は何を思ってこんなものを造ったのか。思いは遙か彼方の時間ときの果てへと馳せては消える。
「明かりがついてる……」
 入口の門を潜って通路に足を踏み入れたレナが、開口一番に。
「ということは、中にまだ誰かがいるってことよね」
「さぁ、ちゃっちゃと行きますわよ」
 セリーヌは思いがけないトレジャーハントにすこぶる機嫌がいい。靴音高く、ひとりで先へと進んでいく。少し遅れて、レナとクロードが並んで歩き出した。
「ねぇ、クロード」
 いくらか躊躇しながら、レナが訊いた。
「どうして、急にここへ来たいなんて言い出したの?」
 クロードは依然として口を真一文字に結んだきり、何も語ろうとしない。揺らめく黄金色の炎のせいか、前方に向けられた瞳の奥が、微かに震えているようにも感じた。
「オペラさん……あのひとを、知ってるの?」
 レナが質問の矛先を変えると、ようやくこちらを向いて、首を振った。
「いや、たぶん知らないよ。でも……確かめたいことが、あるんだ。……ごめん」
 こんなふうに曖昧に言葉を濁すクロードを、彼女はよく覚えていた。
(アーリアで初めて会ったときに戻っちゃったみたい)
 歯痒い想いに、唇を噛んだ。
 レナにしてみても、あのオペラという女性に少しは興味があった。だからクロードが山岳宮殿へ行くと言い出したときにも、さして反対はしなかった。しかしその一方で、彼とあの女性を会わせたくない、会わせてはいけないと焦心する自分が、こころのどこかに混在していたのだ。確たる理由もなく、漠然としたものではあったけれども。
 こころの中のわだかまりは天井に張りつく緋色の塊となって、彼女の前にぼとりと落ちた。
「きゃっ!」
 それは心象ではなく、現実のものだった。ゲル状の塊は中央を隆起させて嘲笑するように左右に揺れた。スライムの亜種、フッドである。レナの悲鳴を聞きつけてか、前方からも蛞蝓なめくじのような躯に大きな口と牙を持つペトロゲレルやら、鋭い牙と逆立つ青毛の尾をもったハウンドドッグやら、媚茶こびちゃ色の液体がそのまま動き出したようなスライムプールやらが、大挙してこちらへ向かってくるのが見えた。
「くそっ!」
 クロードはレナを庇うようにフッドとの間に立って、ギャムジーから譲り受けたシャープエッジを抜くと真っぷたつに叩き斬った。緋色の塊は形をなくし、溶けるように床に広がっていく。
 さらにクロードは跳躍して一気に魔物の群の前まで行こうとしたが。
 ゴンッ。
 頭上のことには意識がいかなかったのか、天井に脳天をぶつけてセリーヌの目前に不時着した。
「何やってるんですの?」
 呆れ返るセリーヌに弁明もできず、頭を抱えて蹲るクロード。
 そうこうしているうちにハウンドドッグがふたりに襲いかかってくる。飛びかかられる寸前でクロードは急におもてを上げ、右手を地面につけて獣の腹を蹴り上げた。真上へ突き飛ばされたハウンドドッグは落ちてきたところであえなくクロードの刃の餌食となった。
 息つく間もなく、接近してきたペトロゲレルの集団が大きな口をこちらに向けて、いっせいに牙を吐き出した。避ければ背後のセリーヌに当たってしまう。クロードはすかさず剣を前方に薙ぎ衝裂破を繰り出して迫り来る無数の牙を弾き飛ばした。
 ところが遅れて飛んできた牙が一本だけ、彼の右腕に突き刺さった。剣がからんと音を立てて地面に落ちる。
 腕を見ると、牙の刺さった部分から徐々に肌の色が失われ、硬直していく。みるみるうちに指先から肩までが鼠色に変色し、既に首筋をも蝕み始めていた。
「くっ……」
 クロードは両膝をつき、顔を苦痛の表情に歪めた。その頬も硬直しかけている。観念したように目を伏せたそのとき、左の耳に彼女の声が届いた。
「ディスペル!」
 柔らかな光が降り注ぎ、彼の身体に吸い込まれていく。からだが中から熱くなっていくのを感じた。肌に色が戻り、大量の血液が右半身に遡源さくげんし、駆けめぐった。
 クロードは初めてそうするように肘を動かし、それを面妖に眺めている。と、視線に気づいてレナの方を向いた。彼女は心から安堵したように顔をほころばせていた。クロードは力強く見つめ返して、大きく頷いた。
 ペトロゲレルがその大口の周囲に再び牙を出現させて、吐き出そうとする。それを見たクロードはすぐに剣を拾ってかれらの前へ駆け出す。そして少しく距離を空けたところで立ち止まり、振り翳した。
「砕け散れッ!」
 気合いとともに剣を振り下ろして足許の床石に叩きつける。すると地面から爆音を発して無数の岩塊が突き出し、魔物の群を襲った。槍のような岩塊に貫かれたペトロゲレルは大部分が息絶えたが、中には躯に穴が空いてもなお動き出すものや運良くまったく無傷のものもあった。さらに、もともと動きの鈍いスライムプールも岩塊を免れて泥水のような躯でにじり寄ってくる。興奮すると液体の温度が上昇するのだろうか、表面は煮え立ち、さかんに泡を噴出させていた。
「クロード!」
 セリーヌが叫んで合図をした。それに応じてクロードはその場を退く。見るとレナもセリーヌの横で同じように詠唱をしていた。
「スターライト!」
「ライトクロス!」
 ふたりが同時に唱えた。魔物の上で白熱する光が迸り、滝のように流れ落ちる。光に触れた魔物は瞬時にして蒸発し、黒い煙となって空気中に飛散した。気がつくとそこにはもう、なにものも存在していなかった。
「タイミングばっちりでしたね」
 レナが言うと、セリーヌも片目を瞑って笑顔を返した。

 山岳宮殿の内部は大小数多の部屋があり、通路も入り組んでいたので、闇雲に歩いていては確実に迷っていたことだろう。先に入り込んでいるオペラが点けていったと思われる通路の燭台が、唯一にして絶対の道標だった。
 いくつか部屋を抜けていった先の通路を進んでいくと、はたして前の方から女の声が響いてきた。
「あーもう、どうしてこんなに埃っぽいのかしら」
 苛立たしげに振り乱した金髪が通路の奥で艶やかに耀かがやいた。
「こんなところに長居してたら肌が荒れちゃうわ……体にも悪そうだし」
 そこまで言うと背後の気配に気づいたのか、急に押し黙って立ち止まった。レナたち三人も立ち止まる。
「あのー……」
 レナがおずおずと呼びかけてみる。女は背を向けたまま。
「……あたしになんか用?」
「オペラさん、ですよね」
 言うと、女が怪訝そうに振り返った。額の中心には紛れもなく第三の目が、こちらを見据えて開かれている。
「あら、あなたは確か、ヒルトンで……」
「レナです」
「どうしたの? こんなところまで来て」
 会話を遮るように、突然クロードがオペラの前に進み出る。
「ちょっと、いいですか?」
 そうして、押し遣るようにしてふたりだけで通路の奥の、壁沿いに積み上がった瓦礫の陰に隠れて、何やら小声で話を始めた。
「なんですの?」
 セリーヌが眉根を寄せる。レナも表情には出さなかったが、内心は穏やかではなかった。
「あのふたり、知り合いなんですの?」
 セリーヌが訊いてもレナはまったく応ぜず、静かに瓦礫の方へと歩いていく。肩をすくめてセリーヌもついていった。
 近づくにつれ、話し声が聞き慣れない言葉を含んだ会話となってレナの耳に入ってきた。
「……動くんですか?」
「うーん、エンジンは復旧したんだけどね。不時着したときの衝撃でメインコンピュータがイカレちゃったみたいなのよ。メカにはそこそこ自信があるけど、さすがに船はね……手に負えないわ」
「そうですか……」
 クロードは深々と溜息を洩らし、そしてレナとセリーヌがすぐ傍まで近づいてきたことに気づく。
「ふたりだけで何を話しているんですの?」
 セリーヌが言うと、クロードは困ったように頭を掻いて言葉を詰まらせる。その表情に、レナは頬を膨らませてむくれた。
「あ、えっと……」
「あら、誤解されちゃった?」
 けたけたと揶揄やゆするように笑いながら、オペラ。
「残念だけど、あたしたちはそんな関係じゃないわ。だいいち、あたしには心に決めた人がいるんだから」
 そう言って、彼女は話し始めた。
「あたしの彼……エルネストは考古学者なんだけど、研究のためだって、勝手に辺境へ飛び出して行っちゃったのよ。で、あたしはそれを追いかけてきたってわけ」
「追いかけてきた? こんな所まで?」
「まぁね。それが恋ってモンでしょ」
 オペラがウインクすると、レナとセリーヌは目を丸くして顔を見合わせた。
「で、そのエルネストさんは、ここにいるんですか?」
 クロードが訊ねる。
「多分ね。ほら、これ」
 そう言って、オペラは瓦礫の山を指さした。それは壁や天井と同じ材質の砂岩らしかったが、ほとんどが黒ずんで炭と化している。
「ここは壁だったのよ。向こうに下へ降りる階段があるから、隠し通路だったのね。焦げ具合からみて、壊されたのはつい最近のことだと思うわ」
「なるほど」
「でも、ここってひとりで進むにはちょっとキツいのよね。もう疲れちゃった。……どっこいしょ」
 大儀そうに瓦礫の焦げていない箇所に腰掛けて脚を組むと、黒いドレスのスリットが大きく開けてすべらかな太股が剥き出しになり、クロードの視線を誘った。隣でレナが恐い顔をして睨んできたので、すぐにあらぬ方角を向いたけれども。
「そうだ」
 と、オペラが再び口を開いた。
「もしよかったら、最後までつきあってくれない? 途中で見つけた宝とかは全部あげるからさ」
「え……僕は構いませんけど……」
 クロードは他のふたりを見た。レナはやはり膨れっ面のまま冷ややかな眼差しをこちらに向けて、セリーヌは意地悪く天井のどこかを見つめて考え事をしているような素振りをしている。
「なんだよ……ふたりともなんでそんなに怒ってるんだよ」
「別に怒ってなんかいませんけどぉ」
 そっぽを向いたまま、セリーヌが。
「けど、そうやってふたりでコソコソやっているのを見れば誰だって、素直に『はいそうですか』とは言えないんじゃなくて?」
「…………」
 クロードは下を向いて黙ってしまった。
「不快に思われちゃったみたいね。ま、いいわ。あたしはひとりで行くから」
 オペラは立ち上がってさっさと通路の奥へと歩いていく。
 クロードは彼女の後ろ姿を見て、それからふたりに向き直り。
「僕は行くよ。女の人をひとりでなんて行かせられない」
 きっぱり言い放つと、背を向けて彼女の後をついて行ってしまった。憮然としたようにその姿を見送るレナとセリーヌ。
「あーあ、もう……マーズのときとまったく逆になってしまいましたわね」
 セリーヌが言うと、レナは腿の横にあてた拳を握りしめて、軽く項垂れた。
「どうしますの? このまま帰っても……」
「帰れるわけ、ないじゃない」
 強気に呟いて、レナは通路の奥へと進んでいく。セリーヌもまた、その仕種が癖になってしまったかのように肩をすくめて、後に続いた。
 燭台の炎がひときわ大きく揺らめいている。風もないのに。

 階段を下りて、さらに続く通路を進んでいくと、やがて大きな広間のような部屋に出た。
「あれは?」
 部屋の中央に横たわる淡黄色の巨体に、用心しいしい近づくクロードとオペラ。
 それは巨大な蜥蜴とかげのようだった。両の眼を閉じ、僅かに開かれた口から鋸の歯のような牙を覗かせて倒れている。躯の表面はぬめぬめと光る鱗に覆われ、引き締まった筋肉が横腹や四肢のつけ根のあたりに浮き出ている。脚は太く、とりわけ後脚が不釣り合いなほど発達していた。茶褐色の尻尾は胴体と同じくらいの長さだろうか、弓状に曲がって地面に投げ出されている。
 目の前まで来ても魔物はまったく動く気配がない。どうやら既に事切れているらしい。
「エルネストがやったみたいね」
 オペラは反対側に回り込んで念入りに眺めている。
「傷も焦げ痕もほとんど見あたらない。さしあたってプラズマランチャー……彼愛用のAP‐3型『ファイアフライ』の一撃ってところかしら」
「はあ……すごいもの持ってますね。完璧に違法じゃないですか……」
 クロードが呆れ半分に言う。
「ま、とりあえず奥に進んでみましょうか。エルがいるかもしれないし」
「そうですね」
 ふたりは大蜥蜴の横を通り抜けて先の通路へと消えていった。入れ替わるようにレナとセリーヌが部屋に入ってくる。
 ふたりが驚いたのはもちろん中央に横たわる魔物のこと。
「なんですの?」
「死んでるんですか?」
 セリーヌは大蜥蜴の前に立って杖で足の裏をつついてみた。
「そうみたいですわね。前のふたりがやったというわけでもないようですけど」
「じゃあ、早く先に進みましょうよ。もたもたしてたらクロードたちを見失っちゃう」
「はいはい」
 レナに急かされるようにセリーヌも通路へ向かおうと大蜥蜴に背を向けた。
 そのとき、魔物の躯がピクリと動き、尾が蛇のようにのろのろと地面を這った。それからまなこを開いてゆっくりと立ち上がる。巨体の影がセリーヌの前に落ちた。
 セリーヌが気づいて振り返ったときには既に、大蜥蜴──フレアリザードは目前にいた。
「レナ!」
 呼びかけると同時に前脚で突き飛ばされ、床に倒れ込んだ。
「セリーヌさん!」
 レナはセリーヌの許へ駆け寄ろうとするが、次の標的を彼女に絞ったフレアリザードが重々しい足取りで向かってきた。やむなくレナは腰の剣を抜いて立ち向かう。
 大蜥蜴はセリーヌのときと同じように前脚を繰り出した。レナは跳んでかわすと、反動をつけて魔物の横腹に剣を突き立てた。しかし刃の切っ先は表面の鱗を数枚飛ばしただけで、身体の内部にはまるで届かなかった。
 その場を離れる間もなく、レナはその強靱な後脚で蹴り上げられた。宙に投げ出され、床に叩きつけられる。爪で裂かれた腹が疼いたが、それでもまだ意識のある自分が不思議だった。
(だめ……私ひとりじゃ、勝てない)
 両手両膝を地面につけ身体を起こして項垂れる。
 前を向くとフレアリザードがこちらへ向かってくるのが見えた。膝を起こして立ち上がろうとするが、足がすくんで上手くいかない。膝から下が鉛のように重い。ままならない足をそれでも必死に動かして、どうにか起きあがろうと試みるも、気ばかり焦って身体は一向についてこない。気がつくと瞳に涙が溢れ、こぼれ落ちた。自分のあまりの不甲斐なさがどうしようもなく悔しかった。
 突如、心臓をつんざくような爆音が部屋に轟き、フレアリザードの巨体は豪快に吹き飛んだ。反対側の通路の入口で、オペラが白い煙を上げる筒の先端を敵に向けたまま立っている。金属の筒はどうやら銃らしい。彼女の横にはクロードの金髪もあった。
 フレアリザードが何事もなかったかのようにのそりと起きあがる。下肢のつけ根から尾のあたりまでが黒く焦げていたが、それも強固な鱗に阻まれ大してダメージは負っていないようだ。
「手強いわね」
 オペラが唸った。クロードがその横に立って。
「なんとか奴の動きを止められませんか?」
「できるけど、どうするの?」
「仕留めますよ。一撃で」
 クロードの視線は壁際の床で座り込んでいるレナに向けられていた。彼女は怯えきった目でこちらを見つめている。言いようのない憤懣ふんまんが全身を駆けめぐる。
「オッケーイ、いくわよ」
 オペラが再び銃を敵に向ける。銃口から青白い光が洩れるように輝きだした。
「フォトンプリズン!」
 乾いた音とともに放たれた光の銃弾は、フレアリザードの頭に命中すると弾け飛んだ。光が無数の粒となって飛散し、さらにそれは筋をえがいて幾多の糸となった。光の糸は大蜥蜴の躯を覆いつくし締めつける。あたかも蜘蛛の巣にかかった虫のように、フレアリザードは糸に絡まり身動きがとれなくなる。
 それを視認すると、身構えていたクロードが駆け出した。一気に敵の懐に潜りこみ、灼熱する闘気をその右拳に込める。
「バーストナックル!」
 硬い鱗に包まれた背中ではなく、柔らかな腹部を狙って拳を繰り出した。下から突き上げられた拳はいともあっさりと腹を貫き、そして爆発した。鱗が、肉片が、タールのようにどす黒い血が周囲に飛び散る。腹部はごっそりえぐり取られ、胸から上の部分と後脚、それに尻尾だけが塊のまま、潰れるような音を立てて梔子色の床に落ちた。
 魔物の肉片と血を一身に浴びた姿でクロードは立ちつくしていた。そうしてふとレナの方を向いて、歩み寄る。
 レナは脱力して座り込んだまま、下を向いていた。クロードの姿を見ることはできなかった。見るのが辛かった。
「レナ……」
 クロードが彼女の前で立ち止まった。続けて何か言おうとしていたのを遮るように、レナが。
「ごめんなさい……」
「いや、レナのせいじゃないよ。僕が……」
「ごめんなさい……」
 繰り返し謝るレナの瞳に、再び涙が溢れてくる。
「ごめんなさい……」
「…………」
 叱られた幼子おさなごが母親にするように、レナは何度も謝り続けた。クロードは目を細め、震える青い髪を見つめていたが。
「……ほら、もう顔を上げて。大丈夫だから」
 そっと頭を撫でられて、レナは彼を見た。優しい笑顔が、こちらを見ている。
「一緒に行こう」
「ん……」
 差し出された手を取って、少女は立ち上がった。そして頬の赤さを悟られまいと背中を向けて。
「クロードが、悪いんだからね」
 そう言うと、倒れているセリーヌの許へ駆けていく。クロードは頭を掻きながら、その後ろ姿を眺めていた。

 その先もいくつか部屋と通路が続いたが、ほぼ一本道だったので迷うことはなかった。クロード、オペラ、それにレナと、レナの呪紋によってどうにか意識を取り戻したセリーヌの四人は慎重に歩を進めて、ついに宮殿の最深部まで辿り着いた。
「ここは……」
「なにかの研究施設みたいね」
 小さな部屋に、木製の棚と机と実験台のようなものが雑然と置かれていた。棚は壁沿いにふたつあり、ひとつは本が、もうひとつは奇妙な色の液体を詰め込んだ瓶がぎっしりと並んでいる。ただし本棚は下の段の板が壊れていて、そこに収められていたはずの本が地面に落ちて山積みになっていた。机の上には硝子の曇ったランプと古びた本が置かれ、実験台は基礎の部分が朽ち果て半ば崩れかけていた。
「宮殿の奥にこんな部屋があるなんて……」
「それも隠し通路の奥、ですわよ」
 セリーヌがさっそく本棚をあさり始めた。
「何かいかがわしい研究でもしていたんじゃないかしら」
「でも、肝心のエルネストさんはすでに立ち去ったあとみたいですね」
「そのようね……あーあ、せっかくここまで来たのに……」
 オペラは実験台の隅に腰掛けると、嘆息混じりに大きく息をついた。
「どこ行っちゃったのよ……エル……」
 膝の上に両腕を置き、さらにその上に頭を載せて呟くオペラ。レナはそれをじっと見つめていたが。
「あの、オペラさん」
「なに?」
「よかったら私たちといっしょに来ませんか?」
 オペラが顔を上げた。レナは続けて。
「私たちはソーサリーグローブを調査するために旅をしているんです。もしかしたら行く先にエルネストさんがいるかもしれませんし」
「どうしたんですの、レナ? さっきまであんなに嫌っていたのに」
 本棚の前でセリーヌが言うと、レナは慌てて首を横に振って。
「嫌ってなんかいません! ……ただ、あてがないなら私たちと行くのもいいかなって……」
「ふふっ、ありがとう」
 オペラはうち笑んで、背中の髪を両手で束ねるようにしながら。
「そうね、ちょうど手がかりも途切れてしまったことだし……それもいいかもね」
「私たちもエルネストさん捜しを手伝いますよ」
「ありがとう」
 オペラは立ち上がると右手を差しだした。
「改めてよろしく。オペラ・ベクトラよ」
「レナ・ランフォードです」
 レナも右手を前に出して、握手を交わした。彼女の手の温もりが伝わってくると、知らずと笑みがこぼれた。
 一方その頃、セリーヌは本棚を相手に格闘していた。
 どうやら最上段の分厚い本を取り出そうとしているらしいが、古びた表紙の本が隙間なく並ぶその棚は入りきらない本を無理に押し込んだらしく、どれだけ指に力を込めて引っ張ってもビクともしない。
「強情ですわね……。マーズの、紋章術師をっ、なめるんじゃ……きゃあっ!」
 渾身の力を込めて引っ張ると、その段の本が全部すっぽり抜けてセリーヌに降りかかってきた。驚いて尻餅をつくセリーヌの上にばさばさと本が積み重なる。
「セリーヌさん……なにやってるんですか?」
 彼女の前に屈み込んで、クロード。彼女は一冊の本を頭にかぶったまま、ふて腐れている。埃とかびの匂いがつんと鼻をつく。
「……それは、さっきの仕返しと考えてよろしいですわね」
 そう言うと、もうもうと舞い上がる埃に噎せた。
 そのとき、頭の本が目の前に落ちて、彼女の視界にとあるページの項目が通り過ぎていった。
「ルナ……ライト?」
 セリーヌは飛びつくように落ちた本を手にとって頁をめくった。途端に顔色が変わる。
「何か書いてあるんですか、その本?」
 クロードが訊くと、セリーヌは驚嘆と歓喜の入り混じったような表情を浮かべて。
「これは……呪紋書ですわよ。それもとびきり高等の。……すごいわ。こんなのマーズにも伝わっていませんわよ!」
 はしゃぐあまり、いきなりクロードの首に抱きついてしまった。
「大発見ですわよ、クロード。これをマスターすれば世界一の術師も夢ではありませんわ!」
「わっ、せ、セリーヌさん。おっ、落ち着いて……」
 藤色の髪の香りに頬を紅潮させつつも、じたばた藻掻くクロード。一番落ち着くべきは彼かもしれない。
「あーっ! ちょっとそこ、なにやってるのよ!」
「あらぁ、モテモテね、クロード君。ずっとこの星にいた方が幸せなんじゃない?」
 レナとオペラに見つかってしまい、もはや収拾がつかない。セリーヌを胸に抱いたまま、クロードはひどく疲れきった表情で壁のどこかを見上げて、つくづく思った。
 女三人よれば、かしましい。