■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第九章 追究

1 哀憐の覚知 ~知の場~

 銃身の上部にある挿入口スロットに方形のエネルギーパックを差し込むと、オペラは手の甲で汗を拭い、ふうと息をついてから天を振り仰いだ。
 雲間から臨める空はやや白んで、一面に水を張ったように透き通っていた。そこに鏤めたように広がるのは、風にたなびくちぎれ雲。
 この世界がことごとく作り物というのなら、見るから機能に乏しいこの雲は、ひとの情緒とか興趣に依拠してのみ存在を許されているのだろうか。超高度文明という割に(彼女から見て)無駄の多いこの星ではあり得る話だと、彼女は心の中で首肯した。
 ホテルが隣接する広場の芝生の上にオペラはどっかり座り込んで、銃の最終調整をしていた。エルネストの嫌々ながら献身的な手伝いの甲斐もあって、ほぼ満足のいく仕上がりになった。
「ねえ、エル……」
 オペラが振り向くと、そのエルネストはベンチで横になり、うたた寝をしていた。両手を重ねて頭に敷き、天に向かって口を開けながら太平楽に鼾をかいている。
 オペラは少しムッとして、それから立ち上がって彼の前に歩み寄る。両手を腰にあててどうしてやろうか思索していると、彼の頭の先に果物の入った籠の置いてあるのが目についた。オペラはその中から真っ赤に熟れたリンゴを無雑作につかみ取ると、エルネストの半開きになった口の上に置いた。それでも彼が起き出さないのを視認してから、彼女はそっと離れて銃を持ち出し、あろうことか彼に向かって構えた。口の上の赤い標的に狙いをすませて、なんの躊躇もなく引き金を引く。
 光の尾を曳きながら放たれた銃弾は手もなくリンゴを撃ち抜き、破裂するように粉々に砕け散った。
「────!?」
 降りかかるリンゴの破片を顔に浴びて、さしものエルネストもみっつの目を剥き青ざめている。
「どう、お目覚めは?」
 にこやかに微笑して、オペラが訊く。その笑顔が余計に恐い。
「……甘酸っぱいな」
 エルネストは渋い表情でそう応えると、口をもごもごさせる。リンゴの破片がいくらか口に入ったらしい。
「お前は俺を殺す気か」
 ようやく平静を取り戻したエルネストは、ベンチに座り直してひどく疲れたように項垂れる。
「なによ、あたしの腕が信用できないっていうの」
「そういう問題じゃなくてな……」
「呑気に寝ているあなたが悪いんでしょ」
 そう言ってそっぽを向くオペラに、エルネストも諦めて吐息を洩らした。
 と、空を眺めていたオペラがなにかを見つけたように目を瞬かせる。
「ねえ、あれ……」
 彼女が指さした先、何かが空のただ中に浮かんでいた。いや、左右に揺れながら、こちらに飛んできているのか。鳥にしてはかたちも大きさもまったく異なる。エルネストとふたりで突っ立ったまま刮目していると、それが青い頭の生物で透明な翅を持っていること、そしてその背に誰かが乗っていることがわかった。陽の光に照らされた黄金色の髪が風に揺れている。
「おい、もしかしてクロードたちじゃないのか」
「え? それじゃ、あれが」
 話している間にもそれは近づいてきている。右へ行ったり左へ行ったり、上昇したと思えば急下降したりと、優雅な空の旅というわけではなさそうだ。必死にしがみついているだろうその背中から数名こぼれ落ちはしないかと、見ているこちらがハラハラしたほどである。
 ホテルの焦茶の建物に影を投げかけて、ついに広場の上空まで来た。すると青い頭の生物はいきなり下降を始めて、芝生の上にほとんど垂直に降り立った。地面を揺るがすほどの乱暴な着地にも生物は澄まし顔で、めり込んだ前脚を持ち上げて抜いている。
「おかえり。ずいぶん遅かったのね」
 背中に乗っていたのはやはりクロードたちだった。オペラが歩み寄ると、クロードは背中の上で貌を上げる。
「ああ、オペラさん、エルネストさんも……」
 そう言うクロードは心なしか、やつれているようにも見える。さんざん振り回されたせいで金髪は大きく乱れていた。
「それがサイナードなのか?」
「ええ。手に入れるのに少し手間取りましたけど」
 クロードは生物の背中から飛び降りて、続いて降りようとするレナに手を貸している。反対側ではすでにディアスと、見知らぬ男が降り立っていた。ボーマンとセリーヌは背中の上で、仲良く並んで突っ伏したまま動こうともしない。
「なんだかみんな、お疲れのようね。そんなにハードな飛行だったの」
「それもあるんですけど、まあ、他にもいろいろあったので……」
 クロードはレナを伴ってサイナードの正面に回った。オペラたちやディアスもそこへ集まる。
「ところで、彼は?」
 ディアスの後についてやってきた男を示して、エルネストが訊ねる。
「あ、動物学者のノエルさん。サイナード入手に協力してもらったんです」
「どうも、ノエル・チャンドラーです」
 ノエルは丁寧にお辞儀をして挨拶する。
「学者の方でいらしたか。これは失敬、私も考古学まがいのことを生業なりわいとしております。機会があれば一度ゆっくりとお話したいですな」
「ええ、僕でよければ、ぜひ」
 学者同士の会話が続くなか、クロードはまだサイナードの背中でぐったりしているふたりに呼びかけていた。
「ボーマンさん、セリーヌさ~ん、今からナールさんのところに行きたいんですけど……」
 返事がない。ただのしかばね……ではなく、ほとんど屍のように両手両足を投げだして俯せになっている。応答する素振りさえ見せないふたりにクロードはため息をつくと、仕方なく。
「じゃあ、僕らだけで行ってきますから、先にホテルに戻っていてください」
 そう言うと、ようやくボーマンの手が持ち上がって、うるさそうに手を振った。了解、という合図なのだろう。
「そういえば、ノエルさんはどうするんですか?」
 サイナードの鼻を撫でていたレナが、背後のノエルを振り返って。
「僕も市長に用事があるから、ご一緒させていただくよ」
「用事?」
 ノエルはそれには応えずに、またエルネストとの会話に戻ってしまう。レナは首を傾げた。
「それじゃあ、行こうか」
 サイナードの背にふたりを残して、彼らはシティホールへと向かった。

「どうやら無事にサイナードを入手できたようですな」
 秘書の案内で市長室に通された一行は、ナールに出迎えられる。
「しかし、そうのんびりとしてもいられません。こうしている間にも十賢者は着々と計画を進行しているはずです。あなた方には一刻も早く、ネーデの力の根源を身につけていただかなければ」
「力の、根源?」
「そうです。ネーデの力の根源、すなわち紋章術の真理を悟っていただきたい。あなた方の異質な力に我々ネーデ人が持つ力を加えた、まったく新しい力。それをもってしてより他に十賢者を倒す術はないでしょう」
「で、具体的には何をすればいいのだ?」
 エルネストが訊くとナールは心得たように頷き、それから机の前に立って例の箱のような装置を操作し始めた。たちまち目の前に紺碧の海が、隆々とした山並みが、ひとところに密集した建物群が、遙か上空から見下ろしたように広がった。目を凝らすと海岸に打ち寄せる白波や山を覆う樹木の一本一本、さらには建物の内側で暮らす人々の息づかいまでもが感じられるような、そんな気すら覚えた。
「今、あなた方の脳裏に映っているのはネーデの世界地図です。南西の島の隅にあるのが私たちのいるセントラルシティです」
 そこに神経を集中させるとなるほど、林立する四角い建物の並びに見覚えのある焦茶のホテルがあった。そう感じているだけかもしれないが。
「ここエナジーネーデの各地には、『フィールド』と呼ばれる場所が存在します。そこにはかつてのネーデが犯した過ちを戒めるために、そのごうともいうべき力の根源が封印されているのです」
「力の、根源……」
「ええ。ネーデがネーデであるために必要な力。しかし、現在のネーデがうしなった力でもあります」
 まるで謎かけのような言い回しだった。何かを隠すために、わざとはぐらかした言葉を選んでいるようにも感じた。
「まあ、端的に『パワースポット』のようなものだと思っていただければ、わかりやすいでしょう。『場』は全部で四箇所。それぞれに厳しい試練が待ち構えており、それを乗り越えた者にのみ、場に封じられた力を手にすることができると伝えられています」
 にわかに地図上の四つの地点が輝きだした。それはまさしく『場』の位置を示しているものだった。
「場所はセントラルシティを中心として、北に知の場、北西に力の場、南東に勇気の場、そして北東の上空に愛の場があります」
 知の場は五角形の島の中心にある祠。
 力の場は雪深い山の頂。
 勇気の場は岩山の中腹をぱっくりと裂いたような洞穴。
 愛の場は雲間を漂う浮遊島。
 彼らはそれぞれの場の位置と外観を、頭ではなくその身でじかに把握することができた。まるで魂だけが抜け出てその場所を一通り巡回してから、再びからだに戻ってきたような、そんな感覚だった。
 不意に地図が消えて、目の前は元のように市長室の光景になった。ナールが装置を解除したらしい。
「要するに、あたしたちにそこへ行って、試練を受けてこいってことなのかしら」
「その通りです」
 オペラの言葉にナールはきっぱりと応えた。そうして机の引き出しからなにかを取り出すと、クロードに手渡した。
 それは掌ほどの大きさの、四角い鈍色にびいろの板だった。表面には緋色ひいろのインクで緻密な紋章が描かれている。
「これは?」
「四つの場は悪用されないために、通常はその機能を封印してあります。そのルーンコードはそれを解くのに必要なのです」
 ナールはそこまで言ってから、思い出したようにつけ加える。
「試練の後に証として宝珠オーブがもらえるはずですから、それも忘れずに取っておいてください」
「どんな試練なんですか?」
「試練は受ける人によって異なります。それ以上のことは私にも……」
「……そうですか」
 クロードは嘆息した。どうもこの人の腹の内は読みにくい。少なくとも自分たちに害をなす人間ではないとは、思うのだけれども……。
「ちょっといいかな?」
 横を向くと、それまで背後に控えていたノエルが前に出てきていた。
「お目にかかるのは初めてですね、市長」
 のんびりとした口調で挨拶するノエルに、ナールは目を丸くした。
「失礼だが、貴方は……」
「稀少動物保護地域を管理しているノエル・チャンドラーです。定期報告は毎月そちらにも送られていると思いますが」
「ああ、貴方がノエル博士ですか。貴重な報告はいつも拝見していますよ」
 ナールはそこまで笑顔で言うと、それから首を傾げる。
「して、今日はどのようなご用向きで?」
「はい。実はですね、僕も彼らに同行しようと思いまして。それで、いちおう市長にもそのことをお伝えしておこうかと」
「ノエルさん!?」
 クロードが彼の顔を見る。一行にとっても、それは初耳だった。
「迷惑はかけないつもりだよ」
「そういうことじゃなくて……どうしてですか?」
「サイナードだよ」
 唖然とするクロードに、彼は淡々と説明する。
「サイナードも生物なんだ。いったい誰が世話をするつもりなんだい? かれが何を食べるのか知ってるかい? 寝床も適当な場所を見つけてやらないと、すぐに弱って死んでしまうよ。ああ見えても繊細な動物だからね」
「それは……」
「自分で言うのもなんだけど、こういうのは専門家に任せるのが得策だと思うよ。危険は承知の上だ。僕だって呪紋はそれなりに扱える。戦力になるかはわからないけど、少なくとも自分の身くらいは守れる」
「でも……」
 彼らが口ごもっていると、それまで見守っていたナールがおもむろに口を開いた。
「……そうですな。確かに、その方が良いかもしれません。ノエル博士は野生動物の専門家です。これ以上の適任者はおりますまい」
「ナールさんまで……」
 クロードはもう一度ノエルの顔をじっと見て、それからふう、とため息をついた。
「……わかりました」
 一見するととぼけたようなノエルの表情ではあったが、そこにはきっぱりと、揺るぎない決意が張りついていた。
 たぶん、サイナードのことだけじゃないんだろう。クロードも漠然と感じてはいた。彼を突き動かしているのは、恐らく──。
 ──炎に照らされた横顔。
 昨夜のあの出来事が、彼にひとつの思いを喚起させたのかもしれない。そしてそれは、かつて彼の友人が歩んだ道と繋がる。……そう、彼も今、策ではなく行動を選択しようとしているのだと。
「サイナードのことはお任せします。……いや、それよりも」
 クロードは少し困ったように笑って。
「仲間として歓迎しますよ、ノエルさん」
「ありがとう」
 ノエルは細いまなこをさらに細める。
「では、これからもよろしく」
「ええ。よろしくお願いします。」
 ふたりは再度、握手を交わした。

 ホテル『ブランディワイン』での彼らの部屋は、ひとりでは持て余してしまうほど広かった。市長が気を利かせてスイートルームを用意してくれたらしく、個室ながらリビングと寝室の続き部屋となっている。リビングは硝子板の机と柔らかいソファが中央を占め、隅の棚の上にはガーベラの一輪挿しも活けてある。南側の壁は全面硝子張りだが、日が落ちて部屋の照明が点いている今の時分は臙脂えんじのカーテンがかかっている。隣の寝室には鏡台とベッドがひとつきり置いてあり、ランプの仄かな光を受けて淡黄色のシーツが暖かみのある色彩を醸していた。それでもレナなどは、あまりの部屋の広さに落ち着けずに、最初に泊まった夜はろくに眠れなかったりもした。
「……とまあ、そういうわけで、四つの『場』ってところへ行くことになったのだけど。明日はとりあえず、知の場へ行こうと思う」
 セリーヌの部屋には全員が集まっていた。ナールの話を聞いていないセリーヌとボーマンのために、クロードが話をかいつまんで説明している。もっとも、部屋の主はベッドで枕に頭を埋めるようにして横になったままなので、はたしてクロードの話を聞いているかどうかは定かでない。ボーマンもソファに座って話に応じてはいるが、背もたれに寄りかかって手で顔を覆い、指の隙間から天井を眺めている。かなり辛そうだ。
 レナとノエル、それにオペラはソファに腰かけ、エルネストはオペラの脇に立っている。ディアスはリビングを支える柱を背にして、カーテンの閉められた窓の方を向いている。クロードだけは、セリーヌに話が聞こえるよう寝室の入口の手前にいた。
 反応がないのが気になって、クロードはそっとベッドのセリーヌを覗き込んでみる。
「あの……聞いてますか、セリーヌさん?」
 途端に枕が飛んできた。クロードは顔面で受け止める。
 セリーヌは恨めしそうにこちらを睨んでいた。藤色の髪はぼさぼさで、腫れぼったい両眼には隈が浮いている。
「レディーの寝顔をのぞくなんて最ッ低ですわね」
 れ声で言うと、再びベッドに沈み込んで反対側に寝返りをうつ。
「明日は無理ですわ。貴方たちだけで行ってきてくださいな」
 背を向けたままそう言うので、クロードはそっと枕を返すと、忍び足で寝室から引き下がった。
「俺も明日はパスだ。一日休ませてくれ」
 ボーマンが寝言のようなおぼつかない声で言った。
「そうですか……ノエルさんは?」
 クロードはボーマンの隣にいるノエルに訊く。
「僕ですか? 僕は平気だけど、先に今の仕事の整理をしなければならないから、明日はギヴァウェイに行ってますよ」
「ギヴァウェイ?」
「ええ、僕の実家があるんです。……ああ、そうだ。ついでに君たちに会わせたい人がいるから、知の場での用事が終わったら、こちらへ寄ってもらえないかな」
「会わせたい人?」
「ええ。十賢者研究の第一人者で、君たちにぜひとも話を聞いてほしいそうだよ。確証はないけど、なにか重要な情報があるのかもしれない。ギヴァウェイは知の場からすぐ西の島だから、セントラルシティに戻るよりも近いよ」
「そうですか……わかりました」
 いささか疑問がないわけではなかったが、十賢者の情報と聞いては断るわけにもいかない。それに、セントラルシティよりも近いのなら、休息にはむしろ好都合だろう。
「じゃあ、もしセリーヌさんとボーマンさんが動けるようだったら、ふたりも連れて行ってくれませんか。僕たちも後から合流しますので」
「わかりました」
 ノエルの返事を聞いてから、クロードは向かい側の一人掛けのソファで船を漕いでいるレナに視線を移した。
「そういや、レナは大丈夫なのかい?」
「えっ?」
 微睡まどろみのうちに話を聞いていたレナは、急に名前を呼ばれて、はっとクロードを見る。
「疲れているなら明日は休んでも構わないんだよ」
「あ……だいじょうぶよ。このぐらいの疲れなんか、一晩寝ればふっ飛ぶから」
 そう言って立ち上がると、大きく伸びをしてみせる。
「それに、私がいないとサイナードに乗っていくこともできないでしょ?」
「あ……そうか」
 クロードは頭を掻いた。サイナードは主人であるレナの言うこと以外には耳を貸さないのだ。
「それなら仕方ないけど……もし辛かったらいつでも僕に言うようにね」
「だから大丈夫だって。変に心配してくれる方が気持ち悪いわ」
 レナはそう笑い飛ばした。少しわざとらしかったかもしれないな、と心の中では思った。
 実際のところ彼女も、ボーマンたちと同様にひどく疲れていた。身体は鉛のように重く、頭は今にも睡魔に支配されそうなのを必死で堪えている。それでも、この少女は健気にも、あえて元気に振る舞ってみせている。それはひとえに、彼のためだった。
(だって、クロードに迷惑をかけさせたくないもの)
 クロードには、自分のことを嫌いになってほしくない。我儘わがままだと思われたくない。──だから。
(……でも)
 でも、もしここで疲れていることを打ち明けたら、彼は気遣いの言葉をかけてくれるだろうか。ひょっとしたら、今よりもずっと優しく接してくれるかもしれない。そう思うと、決して甘えることのできない自分がもどかしく、歯がゆくもあった。


 知の場だと教えられた五角形島のほこらの内部は、小さな部屋がひとつあるのみだった。正面に一枚、その左右の壁に一枚ずつ、合わせて三枚の姿見すがたみが掛かっている。けれども。
「この部屋って、なんか変じゃないか?」
 隅々まで歩き回ってから、クロードが首を捻る。レナもなんとなく違和感はあった。部屋全体の中で、どこか調和のとれていない部分があるような。
「……俺たちの姿が映ってないな」
 エルネストが気づいた。全員が正面の姿見の前に集まる。
 違和感はこのせいだったのだろう、鏡には目前に立っている彼らの姿がなかった。そこに映じているのは彼らでも彼らのいる小部屋でもなく、通路のような床が断片的に浮かんでいる不可思議な空間だった。
「鏡じゃ、ないのか?」
 クロードが拳でコンコンと叩いてみたが、やはり鏡面には違いないようだ。
「そういえば、市長が封印がどうのって言っていたわね」
「ああ、そういえば」
 オペラに言われて、クロードはポケットから鈍色の板を取り出した。いつの間にか緋色の紋章が脈打つようにかがやいていた。
 掌に載せてしばらく眺めていると、表面から光の粒が浮き上がり、すぐに三つに分裂してそれぞれの鏡に向かっていく。光が鏡に到達すると、鏡面は軟らかいもののように大きく波打った。反応は一瞬で収束し、光は鏡に吸い込まれて消えた。鏡は以前と変わらぬ姿で目の前に鎮座している。
「どうなったんだ?」
 クロードがもう一度鏡に手を伸ばすと、指先が触れた一点から鏡面に波紋が広がる。そして、指はなんの抵抗もなく鏡をすり抜けた。
「! ……もしかして」
 クロードは顔を鏡に近づけてみた。鼻の先が鏡面に触れても、接触している感覚がない。そのまま頭をゆっくり突き出すと、するすると首まで鏡の向こうに潜り込んでしまった。
「ちょっ……クロード、大丈夫?」
 いったん頭を出して振り返ると、クロードは悪戯っぽく笑った。
「入れますよ、ここ」
「は?」
 呆気にとられる仲間たちを尻目に、クロードは勢いをつけて鏡の向こうに飛び込んだ。彼の身体はすっかり鏡の中に入り込み、鏡は波紋を残しつつも奇妙な空間に佇む金髪の少年の姿を映し出していた。
「うそ」
「ほう、面白い仕掛けだな」
 鏡のクロードはこちらを向いて何やら話しかけているが、声は届かない。
「どうやら音は遮断されているようだな」
「クロード、何も聞こえないわよ! ……って、あっちも聞こえないのか」
 向こうもそのことに気づいたらしく、口を動かすのをやめて手招きをしている。どうやらこっちへ来いと言いたかったようだ。
 そうして彼らもおっかなびっくり、鏡の向こうへと足を踏み入れる。オペラに促されて鏡を潜ると、レナはその不思議な世界を見回してみた。
 そこは鏡の外から見た通り、果てなき空間が延々と続いていた。彼らが立っているのはちょうど先程の小部屋くらいの床で、周囲の迷路のように曲がりくねった床板とは完全に切り離されている。こちらの床とまわりの床の間には仕切も柱もなく、床板自体もそれを支えるような土台は見あたらない。薄暗い空間のただ中に白い床だけが宙ぶらりんの状態で浮かんでいるという、非常に奇妙な、そして危なっかしい世界だった。
「これが知の場の本当の姿なのか」
「あれは何かしら?」
 空間を隔てた先の床には、円形の台に飾られるようにして透明な球が置いてあった。まわりを見回すと別の場所にも同じものがいくつかあり、彼らのいる床板を中心として計六つ、ぐるりと囲むように設置されていることがわかった。
「ちょっと見てこようか」
「どうやって? 床が続いてないのに」
「あのくらいの距離なら跳んでいけるよ」
 そう言ってクロードは助走をつけ、地面を蹴って跳躍した。ところが足が床を離れた瞬間に、彼の身体が何もない空間に呑み込まれるようにかき消えてしまった。レナの血の気が一瞬引いたが、程なくして背後からクロードが現れて床に着地した。
「あ、あれ?」
 いっせいにこちらを振り返る仲間を見ると、クロードは狼狽うろたえた。
「なんでみんな、ここにいるの?」
「……なんでって、あたしたちはずっとここにいるわよ。あなたが勝手に消えて出てきただけで」
 オペラが肩をすくめて言った。
「えぇ、おかしいな……確かに向こうに跳び移ったと思ったのに」
「どうやらここは空間に特殊な制御が加えられているようだな」
 エルネストはセリーヌから借り受けた道具袋からリンゴを取り出すと、床板のない空間に放り投げた。宙に投げ出されたリンゴは途中まで問題なく放物線を描いていたが、ある時点でやはりかき消えて、今度はエルネストの頭上から落ちてきた。
「一見すると吹きさらしのように見えるが、実は見えない壁で仕切られている。空間という壁でな」
 掌を差しだしてリンゴを受け取ると、再び道具袋に仕舞う。
「向こうに行くにはどうしたらいいのかしら?」
「試練というのだから、セオリー通りに進めば行けるようになっているのだろう。確か鏡は三つあったな。他のを試してみよう」
 そこで彼らはひとまず小部屋に戻って、次に左の鏡に入ってみることにした。
 そこは先程とはまた違った空間のようだった。根本的な構造はほとんど同じだが、まわりは白で床は黒と、色合いが全く反転している。彼らが乗っている床板は、道のように細長く延びた先ですぐに途切れていた。行き止まりかとも思われたが、そこに敷かれていた黄色の板が転送装置だとわかると、迷わずその板を踏んだ。転送された先にはどんぴしゃり、あの透明な球体が鎮座する台のひとつがあった。
「これをどうすればいいんだ……?」
 クロードが慎重に台に近づいて、球体に手を伸ばした。彼の指が球面に触れようとした刹那、ふたつの間に青白い電気がほとばしった。
「あちッ!」
 クロードは反射的に手を引っ込めた。そうして見ると、球体が青白い光を帯びながら回転している。
「なんだ……壊れたのか?」
「いや、これでいいんじゃないか」
 遠目で他の球体を見渡して、エルネスト。
「とりあえずここにある全部を動かしてみよう」
 そこの床には別の黄色い板があった。それを踏むとまた白い空間に戻った。床板の構成はさっきと違うようで、曲がりくねった通路に沿って歩いていくとやはり別の黄色い板が。転送先は回転させた球体のすぐ隣の台だった。
「さて……」
 クロードが台の前に立つ。が、そこでなぜか躊躇するように立ちつくしていた。
「なにやってるの、早く動かしてよ」
 オペラが急かすと、クロードは情けない顔をして振り返り。
「あの、動かすときに手が痛いんですけど……」
「男の子なんだから、我慢なさい」
 有無を言わさぬ笑顔で、オペラ。
「……はい」
 クロードは観念して、球体に向き直る。手を近づけると電気がはしり、球体は回転を始めた。
 そんな調子で彼らは黒と白の空間を行ったり来たりして、片っ端から球体を作動しにかかった。動かし役はすべてクロードが負わされていたが。
 最後の球体を動かすと、六つの球体すべてが明滅しだして、中心に向かって青白い光線が放たれた。六本の光線は中央の床の一点で交わると、そこで目が眩むほどに白熱する。すぐに光線は弱まり、完全に消滅すると球体の回転もぴたりと止まった。中心の床には新たな黄色の板が出現していた。そこは最初に、正面の鏡からこの空間に入り込んだ場所だった。
 そこからさらに黄色い板に乗って、先にあった鏡を潜ると、あつらえ向きに出発点の小部屋に戻ることができた。彼らは再び正面の鏡へ入る。
 床の中心には果たして黄色い板があった。それを踏んで転送されたのは、また今までとは異なる空間だった。円形の床板と中央を占める祭壇のような台、その上には拳大こぶしだいほどの緋色の珠が浮遊している。奥にはここに来て初めて、目に見える壁らしきものがそそり立ち、奇妙な形状をした金属が据えられていた。
「何かしら、これ」
 レナが金属に近づいていく。壁から骨格のような細長い棒が突きだして、稲穂のように首を垂れ下げている。先端は丸い金属の塊で、花のつぼみのようでもあった。
「これがナールさんの言っていた『証』なのか?」
 緋色の珠を間近で見ようと、クロードが祭壇に上がったそのとき、けたたましい音が鳴り響いた。
〈侵入者発見。侵入者発見。ガードシステム作動。強制排除開始〉
 硬い響きを持つ声がどこからともなく聞こえてくる。金属の前できょろきょろと辺りを見回すレナの背後で、床に穴が開いて何かがせり上がってくるのを、クロードは見た。
〈警告します。侵入者はただちに立ち退きなさい。さもなくば速やかに排除します〉
「レナ、そこから離れるんだ!」
 クロードに促されてレナもそれに気づき、慌ててその場から避難する。床の穴は金属塊の手前に三つ。そこから出現したのはいずれも、壁から突き出た金属の蕾を小さくしたような球体だった。
「来るぞ!」
 ディアスが身構える。球体は蕾を開いて、いっせいに光線を放ち始めた。ただ、攻撃はすれど侵入者の姿は認知できないのか、光線の大部分はてんで見当違いのところへ撃ちこんでいる。しかし、四方八方無差別に放たれる光線も時々は的中してくるので、彼らは警戒しつつ、ときには迫り来る光線を躱しながら、金属球との間合いを詰めていった。
 クロードは金属球のひとつの目前まで辿り着くと、剣を振り上げて叩き壊そうとした。ところが球体はすぐさま蕾を閉じて床の穴に引っ込んでしまい、振り下ろされた剣は空を切った。そこへ隣の金属球が的確にクロードを狙って光線を放つ。
「うわっ!」
 すんでのところで背後に退いて避けた。その間に引っ込んでいた金属球も再びせり上がってきた。隣の金属球を狙っていたディアスも同様の手口で躱され、別の球体から光線を浴びせられる。通常の攻撃は出鱈目のくせに、防衛機能だけはやたらと堅固なようだ。
「近づかなければいいんでしょ」
 オペラが距離を隔てた位置から銃弾を放ったが、やはり引っ込んで避けられる。エルネストの鞭も、ディアスの空破斬でさえ反応されてしまっては成す術もない。
「くそっ、これじゃあラチが明かない」
 光線を跳躍して躱すと、クロードは剣を握る手を震わせた。
「クロード、呪紋はどうかしら?」
 そこへ、オペラの治療を終えたレナが駆けつけた。
「呪紋なら、気づかれずに攻撃できるかもしれないわ」
「……そうだな。よし、僕らで時間を稼ぐから、頼んだよ」
 レナは頷いて、詠唱を始めた。
 クロードは金属球に攻撃を仕掛ける。無差別に放たれる光線は、詠唱中のレナに当たる危険性がある。たとえ空振りに終わっても、ともかく今はこちらに攻撃を集中させなければ。ディアスもその動きを理解して、しばらく二人で交互に囮になった。
 しかし、そのとき誰もが気づいていなかった。壁に据え付けられた大きい方の金属塊が、おもむろにその首を動かしてレナに照準を合わせたことを。
 不意に、三つの金属球がいっせいに引っ込んだ。そこで彼らは初めて金属塊を仰ぎ見た。長く伸びた骨格の先端で、大きな金属の蕾が開きかけている。クロードが息を呑む。レナは瞑目していて気づかない。
「レナ!!」
 クロードの尋常でない呼びかけに、彼女ははっとして目を開けた。金属の蕾が完全に開いている。クロードの金髪が、仲間たちの姿が視界の端に映る。そして次の瞬間、全てが光に包まれた。

 彼女は、光の直中ただなかに放り出された。
 あらゆる音が消失した、あらゆる感覚が欠落した、ただひたすら光の海の広がる場所だった。
 自分が何故ここにいるのか、どうしてここに来たのか、疑問は揺蕩たゆたう光の波の狭間に紛れて薄れゆく。
 その場を充たすは大いなる安らぎ。その場を包むは果てしない幸福。
 彼女はこころを解き放ち、安寧あんねいのゆりかごに身を任せる。母の胎内で悩みも苦しみも知らずに眠っていた、あの頃を思い出しながら。ああ、そういえば、こんな感じだったっけな。
 どのくらいの間、そこにいたのかは判らない。ただ、ふと何かを感じて横を見ると、彼女のそばにもうひとり、誰かが立っていた。
 少女と少年は、並んで手を繋いでいた。まるで初めからそうしていたかのように。手を握っている感触はなかったが、そのぬくもりだけは、不思議と感じられた。
 彼女は少年を見た。少年は幼さの残る顔で、にっこりと笑った。屈託のない、素直な笑顔だった。そして手を離す。
〈ばいばい〉
 声は聞こえなかったが、口の動きでそう言っているように感じた。水色の髪を揺らして、彼女に背を向ける。その姿が遠ざかり、光の中へと消えてゆく。彼女は、レナは手を伸ばした。呼び止めたかった。もう一度思いきり抱きしめてあげたかった。けれど、それは到底かなわないことも、わかっていた。瞳から涙がひとかけら零れ落ちる。溢れる感情を抑えきれず、彼女は少年の名を叫ぼうとした。
(レ…………)

「……ナ、レナ」
 目を覚ますと、クロードの顔があった。肩を揺すり、必死に呼びかけている。
「あ……れ、私……」
 身体を起こすと、きょとんとクロードを見る。
「レナ、大丈夫なのか?」
「え、ええ。何ともないわ」
「何ともない……」
 クロードは怪訝そうに呟いた。
「あれだけの光線を浴びたのに……どうなってるんだ」
「光線?」
 それでようやく思い出した。口を開く金属の蕾。そこから放たれた光。確かに自分は光線を浴びていた。まともに食らえばただでは済まなかったはずだ。なのに、どうして?
(あのとき私は、光に包まれて……そこで……)
 水色の髪。あどけない笑顔。繋いだ手のぬくもり。その姿が光の向こうに消えて……。
 ──まさか。
 レナはスカートの隠しに手を忍ばせる。中に入っていたのは、一握りの砂。取り出してそっと手を開くと、銀色の粒が星の瞬きのように煌めいていた。
「レナ、それは?」
 クロードの問いかけにも、レナは応えられずに肩を震わせる。そう、それはひとりの少年に貰ったお守りだった。銀の鎖と雫の飾り石。しかし、今は真砂まさごとなって指の間を流れ落ちる。何もなくなった掌に、涙の雫がぽとりと落ちた。
 そっか。あなたが守ってくれたんだね。ありがとう。
 レナは微笑んだ。けれど、なぜだか涙も溢れてくる。悲しんではいない。今でも無事でいると信じている。だけど、なのに、どうしてだろう。こんなに胸がいっぱいなのは──。
「クロード、また来るぞ!」
 遠くでエルネストが叫んだ。顔を上げると、金属の蕾が再び動き出していた。レナは袖で目許めもとを拭う。まだ戦いは続いている。泣いている場合ではない。
「させるか!」
 クロードはすぐさま金属塊に向かって駆け出し、途中でひと思いに跳躍した。蕾が開ききり、次には砲撃が放出されるという間際、彼は頭上から飛び込み剣を振り上げ、渾身の力で一撃を叩き込んだ。蕾は裂かれ、火花とともに金属の破片が辺りに飛散した。
 床に降り立ったクロードは、息を切らせながら三つの穴を見た。しばらくは無反応だったが、やがて思い出したように金属球がせり上がってくる。
「親玉を壊せば全部止まる、っていうわけじゃないんだな」
 クロードが大きく息を吐く。オペラやエルネストも無差別に光線を撒き散らす金属球に、ほとほと倦み疲れ、げんなりしていた。
「順番に叩くぞ」
 そのふたりに、横にいたディアスが指示を出した。オペラたちは最初は意味がわからず首を傾げるが。
「俺は右の奴を狙う。お前らも一人ずつ狙いを定めろ。タイミングを合わせて一気にいくぞ」
 その言葉で諒解できた。そうして三つの金属球の前に三人がそれぞれ配置する。目配せをして、攻撃を開始した。
 まずディアスが右端の金属球を叩く。右端は引っ込み、中央の球体がディアスに照準を合わせる。中央を引き受けたオペラはすでに跳び上がり、銃を構えていた。
「スプレッドレイ!」
 光弾は開きかけた中央の蕾に命中し、粉々に砕け散った。続けてオペラを狙っていた左端の金属球にもエルネストの鞭が降りかかる。
「サンダーウィップ!」
 電光の帯びた鞭を叩きつけると球体は感電して、ばちりと大きな音を立てて内部から爆発した。エルネストを狙うつもりでせり上がってきた右端の蕾も、その前で仁王立ちになっているディアスに呆気なく壊された。
「大成功ね」
 オペラが歩み寄って話しかけると、ディアスは顔を背ける。それにも構わずに、彼女が続ける。
「いつもクロードとしか手を組まないあなたが、どういう風の吹き回し?」
「手が空いていたから、お前らを使ったまでだ。ちょうど三人だったしな」
 素っ気なく言うと、完全に背を向けてしまった。オペラは微笑を洩らす。
「レナ、もう平気かい?」
「ええ、だいじょうぶよ。ごめんなさい」
 レナはしっかりと立って、頷いてみせた。
 ──そう、今は振り返るときじゃない。前を向いて歩くんだ。それがきっと、あの子の想いに報いることになるのだと、強く信じて。
「試練はこれで終わりみたいだけど……。宝珠オーブってのは?」
「あれじゃない?」
 レナが中央の台を指さした。ふたりは壇上に登り、そこに安置されている緋色の珠を囲んだ。
「これは……」
「あ……なに……?」
 珠の奥にくすぶる光を見つめていると、徐々に視界が変化していく。頭に霞がかかったようになり、周囲の景色が歪み始める。やがて全ては闇の底に沈み、ふたりの意識は自らのうちへと堕ちていった。


 ──私は、泣いていた。
 懐かしい森の薫り。木の葉のヴェールから射し込む明かりが地面近くでは光のカーテンみたいで、風に吹かれてはゆらゆら揺れている。木の根元にこびりついている苔は、朝露できらきら輝いていた。
 森でいちばん大きな木の下で、私は泣いていた。冷たく湿った落ち葉の地面にすねから膝までをべったりつけて、目の前に横たわっている小犬のからだを何度も揺すりながら。涙でぐしゃぐしゃになった顔でチビ、チビと名前を呼んで、揺すって、揺すって……揺すればそのつぶらな目を開けて、起きあがってくれるものだと信じて。森で遊ぶときはいつもそばにいてくれた、私の大事なおともだち。それが今は、露に濡れた落ち葉よりも冷たかった。
「どうしたの、レナ?」
 お母さんが私を見つけて、こっちに歩いてきた。私はすぐに走っていって、お母さんの腰に抱きつく。
「お母さん、お母さん」
 泣きじゃくる私の肩に手を置いて、お母さんはしゃがんで私の顔をのぞきこんだ。
「あらあら、せっかくの可愛い顔が台なしじゃない」
 赤く膨れた顔をハンカチで拭ってもらううちに、私も泣きやんだ。
「チビが、チビが動かなくなっちゃったの」
 しゃくり上げながら、私はお母さんに言った。
「チビ? チビって、あの犬のこと?」
 私はこくりとうなずいた。お母さんは立ち上がってチビの方へ行くと、横になったチビをじっと見つめていた。それから私のところに戻ってきて。
「レナ、よく聞いて。チビはね、ここからずっと遠いところに行かないといけなくなったんだ」
「どうして? きのうまでずっといっしょに、いっぱいいっぱい遊んだんだよ。わたしのこと、きらいになったの?」
 私は、舌足らずだけど一生けんめいそう言った。私はただ、チビがいなくなるということで胸がいっぱいだった。
「レナのことは今でも好きだよ。でも、チビもそろそろお父さんやお母さんのところに帰りたいんだ。レナも暗くなったらおうちに帰るでしょ。チビにもチビのおうちがあるのよ」
「おうちに帰るの?」
 私はきょとんとお母さんを見た。
「そう。おうちはうんと遠い場所だから、チビもたくさんお休みしないといけないんだ。だから、邪魔しないで、ゆっくり寝かせてあげよう、ね?」
 お母さんは優しい笑顔で言った。
「……お休みしてるの」
 私は小さな声で言った。お母さんがうなずくのを見ると、じっと下を向いて考えこむ。
「……お別れ、してきていい?」
「ええ。してきなさい」
 私はすぐに走って、チビの前に立った。
「ばいばい、チビ」
 チビは目を閉じたまま、眠り続けている。
「またいっしょに遊ぼうね。わたしのこと、きらいになっちゃ、やだよ」
 私は近くの落ち葉を両手で拾い集めて、チビに振りかけた。お母さんはそんな私を見て、ひどく驚いたふうだった。私はチビが寒くないようにと落ち葉をかけてあげたのだけれど、お母さんはたぶん、私がチビを埋めていると思ったのだろう。
「おやすみなさい、チビ」
 落ち葉のベッドに頭だけ出したチビは、森で一番大きな木の下で、ずっとずっと眠っていた。


「──あ」
 ぼんやりとした視界が鮮明になる。レナは壇上の変わらぬ場所でクロードと向き合っていた。彼も同じく喪心そうしんしたようにこちらを見ている。
「なんだったのかしら、今の……」
「レナには何が見えたんだい?」
 クロードが訊いてきた。
「ずっと昔よ。まだなにも知らなかった、子供のころの私……」
 レナは先程の光景を思い起こして、なぜか哀しくなる。
「そう……僕も同じだ」
 そう言ってクロードは下を向く。緋色の珠が地面に落ちていた。彼がそれを拾い上げると、宝珠オーブは灼熱する炎をその中に閉じこめたように、ぎらぎらとかがやいていた。

2 真空に降る雪 ~ギヴァウェイ~

 光は、ひとを魅了する。金や銀や宝石などのように、ときにはそれが狂気をもたらしたりもする。一方では、安らぎをあたえる光も存在する。
 この街に満ち溢れる光は清廉の白、純潔の白。古びて朽ちかけた木造の屋根も、いかめしい巨大な棺のような石造りの家も、大通りの地面、脇につらなるもみの並木、店先にかかげた色とりどりの看板、なにもかもが冷たい雪に覆われ、ほのかに、それでいて眩しいくらいに輝いている。
 鉛色の空から、大粒の雪がはらはらと落ちてくる。氷の精の息吹のような風に吹かれ、揺すられながら屋根や地面に音もなく降り積もる。家の窓から洩れる暖かなランプの灯り。その壁の近くで、頬を真っ赤にした子供が腰丈くらいの雪玉を、ふうふう白い息を吐きながら転がしている。つきだした屋根のひさしには、太いものや細いもの、長いものから途中で折れてしまったものまで、様々な形のつららが不恰好な櫛の歯のように一列に並んでいた。
 雪の降る街、ギヴァウェイ。街に溢れる白は、智を求めるものには真実を、傷を負ったものには癒しを、そしておごりたかぶるものには警告を与える。すべては虚無である、と。
 通りゆくひとに踏みしめられ、固くなった雪の道を、レナたちはノエルに教えられた通りに進んだ。途中の階段がやたらと滑りやすく何度も転びそうになったが、なんとかかんとか登りきって、目的の家へと辿り着く。
「どちらさまでしょうか」
 扉を開けて応対したのは、か細く消え入りそうな声をした女性。丸眼鏡をかけ、頭の左右には三つ編みにした髪を肩まで垂らしている。背はレナよりも低い。
「あの、ここは、ノエルさんの家ですよね?」
 本人が出るものだとばかり思っていたレナは、少し戸惑いがちに訊いた。
「ええ、そうですが。先生にご用事ですか?」
「あの、私はレナといって……」
 言い終わらぬうちに、女性のほうが声を上げる。
「あ、あなたがレナさんでしたか。失礼しました」
 さっとお辞儀をしてから、しばらくレナの顔を、不思議なものでも見るかのようにじっと眺める。
「……あの?」
 レナが呼びかけると、女性は我に返り、少し顔を赤くしながらまたお辞儀をした。
「すみませんでした。今、先生をお呼びしますから、どうぞ皆さん、あがってお待ちになってください」
 レナたち五人を玄関に招き入れると、彼女はぱたぱた足音を立てて二階へ上がっていった。
 家の中は暖かかった。奥の部屋を覗いてみると、立派な暖炉が柵の向こうで盛んに炎を上げている。家のつくりはどことなく、彼と初めて対面した山小屋に似ていた。玄関にも廊下にも部屋の中にも、飾り気のあるものは何ひとつなく、ともすると殺風景にすら思われる。
「動物学者の家なら、棚や壁に剥製はくせいとか飾ってあってもよさそうなのにね」
 オペラは冗談っぽく言ったつもりだったが。
「それは偏見ですねぇ」
 意外にも階段の上から応えるものがあった。
「僕が好きなのは、生きて、動いている動物ですから。剥製は動きませんからね、残念ながら」
 降りてきたのはもちろんノエル。背後には応対に出た女性の姿もあった。
「知の場の試練はどうでしたか」
「ええ。なんだかよくわからないうちに終わっちゃったんですけど、『証』は取ってきました」
「そうですか。何はともあれ無事でよかった」
「セリーヌさんとボーマンさんはどうしてます?」
 レナが訊くと、ノエルはああ、と階段を振り返る。
「二階で休んでますよ。もうかなり体調もよくなっているようだから、大学へも行けるかもしれませんね。……あの、ケルメさん?」
 ノエルは横の女性に呼びかけるが、彼女はぼうっと前を向いたきり、反応を示さない。
「ケルメさん?」
 ノエルが顔をのぞきこんだところで、ようやく気がついてノエルを見た。
「はっ、はい、ノエル先生」
「すみませんが、二階のふたりに、大学へ行くかどうか聞いてきてくれませんかねぇ」
「わかりました」
 ケルメと呼ばれた女性は、今度は静かに階段を上がっていった。
「今の女性は?」
 彼女の姿が見えなくなってから、エルネストがノエルに訊ねる。
「ああ、ケルメさんですか。僕が大学で講師をしていた頃の教え子ですよ。辞めてからもときどき家に来て、こうして身の回りの世話をしてもらっているんです。僕もこういう研究をしているから家にいないことが多くて、彼女のおかげでずいぶんと助かってますよ」
「あらら、それって、もしかして」
 オペラは含み笑いを浮かべた。
「やっぱりどこの星でも、先生を慕う教え子ってのはいるものなのねぇ、エル」
「どこかの教え子は世話なんぞ焼いてくれたこともないがな」
 エルネストが揶揄やゆすると、オペラはむくれた。
「でも、世話してもらっている身ながら言うのもなんですけど、そろそろあの子も身を固めることを考えないといけませんね」
 五人はきょとんとしてノエルを見た。彼は気にもとめず。
「この間、そのことを彼女に聞いたら、笑ってごまかされてしまいましたよ。いちおう真面目な話のつもりだったんですけど」
「ノエルさん、本当にそんなこと聞いたんですか?」
「ええ、そうですけど、どうして?」
 あっけらかんと聞き返すノエル。クロードは苦笑し、オペラはため息をついた。この男の鈍感さの前には、これ以上なにを言っても無駄のようだ。
「……で、僕らに会わせたい人というのは?」
 クロードが本題を切り出す。
「ああ。だから、これから彼に会うために大学へ行こうと思っているんです」
「大学?」
「ええ。ネーデ唯一の公的学術機関、ギヴァウェイ大学です。彼……レイファスはそこの研究室に在籍しているのでね」
「やれやれ……また学者か」
「なんだか妙に縁があるわよね」
 オペラがそう言ったとき、二階から豪快なくしゃみが聞こえた。

「ちょっとボーマン、くしゃみはやめてちょうだい。薬が吹き飛んだらどうしてくれますの」
「悪ぃ悪ぃ。ちっとばかし粉を吸いこんだみたいでな」
 セリーヌとボーマンは二階の一室で、小さな円卓に膝をつめて座っていた。卓の上には薬包紙に載った白やら黒やら茶色やらの粉末が所狭しと置かれている。
「それで、続きは?」
「おうよ。こいつがこの薬の重要ポイントなのよ。よく覚えておけよ。ボーマン様オリジナル『リンガウコギの根の粉末』これを十対二の割合で……」
 ドアがノックされて、三つ編みの女性、ケルメが入ってきた。セリーヌが振り返り、ボーマンは茶色の粉末が載った薬包紙を手にしたまま顔を向ける。
「お連れの方が今、到着されました。これから大学へおいでになるそうですが」
「お、そうか。俺たちも支度したらすぐ行くから、待つように伝えておいてくれ」
「わかりました」
 そう返事して出ていこうとしたケルメだったが、ふと卓の上に並んだ粉末を見つけると。
「なにをしてらしたのですか?」
「んにゃ、ちっと、こいつのために痩せ薬を処方……」
 ばしぃん。すかさずセリーヌの拳がボーマンの顔面に炸裂する。突き飛ばされたボーマンは椅子ごとひっくり返って、背中から床に倒れた。手に持っていた茶色の粉が散らばり、彼にふりかかる。
「患者のプライバシーも守れないなんて、最低の医者ですわね!」
 セリーヌは椅子を倒して立ち上がり、憤慨している。
「女がグーで殴るなよ……ぃえっくしょいっ!」
 粉末を顔に浴びたボーマンは、もう一度くしゃみをした。リンガウコギの粉末が埃のようにもうもうと舞いあがる。
「おふたりとも、仲がいいんですね」
 ケルメがくすくすと笑うと、セリーヌはふてくされた表情のまま彼女を向く。
「この状況で、どうしてそういう結論になるのかしら」
「そうですか? そうやって言いたいことも言えて、ぶつかりあえるって、羨ましいです。ほんとうに」
 ケルメは少し淋しいような笑顔をして言うと、お辞儀をして部屋を出ていった。
「……あの子、わたくしたちのことを誤解しているんじゃないかしら」
 セリーヌが呟く背後で、ボーマンが腰をさすりながら立ちあがる。
「ったく……あーあ、せっかくのリンガウコギが」
 頭を振って粉を落とすと、そのまま扉に向かって歩き出した。
「ちょっと、片づけはどうするんですの」
「どうせすぐ戻ってくるんだから、後でいいさ。お前さんも厚化粧は五分ですませろよ。みんな待ってるんだから」
「大きなお世話ですわ」
 バタンと閉まる扉に、セリーヌは舌をつきだした。それから部屋を振り返って、机の上に散らかった粉末を眺める。
 と、机の下の床に小さな紙きれが落ちているのが目についた。はじめは薬包紙かと思ったが、よく見ると表に細かい字で何かが書かれている。
「ボーマンが落としたのかしら」
 セリーヌはそれを拾い上げた。文字を目で追っていくうちに、セリーヌの表情が険しくなる。
「これは! ……あの男、どうしてこんなものを」
 そして、ひと思いに破り捨てようと手をかけたが。
「……でも、ちょっと面白そうですわね」
 考えを改めて、彼女はその紙をふたつに折ると、携帯用の小さなポーチに入れておいた。

 堅牢な石をいくつも積みあげて築かれた壁を、うっすらと雪化粧が覆う。白亜の城とも見紛うほどのギヴァウェイ大学は、ネーデの悠久の歴史の重みをそのままに表出したような建物だった。
 開け放たれた入口から中へと足を踏み入れると、王宮にでも迷い込んだような錯覚を覚えた。床一面に敷きつめられた赤絨毯、天井から吊り下がった巨大なシャンデリア。ロビーの正面の壁を飾るステンドグラスには、翼を広げた一対の天使が向き合って互いを祝福している宗教画が施されている。廊下を歩いても、緻密に細工された柱や壁に直接彫りこんである天使の彫刻など、荘厳な城内を思い起こさせるものばかりが目につく。教室からどやどやと長衣姿の学生が出てきたところで、ようやくここが大学なんだと確認することができた。
 レナも今は、学生たちと同じ長衣に身を包んでいた。外套がわりにと、ノエルが学生のときに着ていたものを貸してくれたのだ。通りすがる学生と同じ恰好をしている自分に、知らずとこころが弾み、レナは少し照れながらも胸を張って、誇らしげに歩いてみたりもした。憧れの大学、いつかほんとうに、この姿でここを歩くことができたらいいな。少女は思った。
 階段を登って、廊下をさらに進んだ突き当たりに、目的の研究室はあった。
 ノエルが扉を叩き、それから自分で開けて部屋の中へ入る。続いて彼らも入った。
 昼間なのに、研究室はやけに薄暗かった。見ると、窓のある壁面が背の高い書棚で塞がれていて、外からの光をすっかり遮ってしまっているのだ。部屋の隅の机には明かりの点った台も置かれていたが、雑然としているわりに広い部屋を照らすにはいささか乏しい。机は書棚と反対側の壁際を占有しており、そこの最も奥まったところの一角に、この研究室にいたただひとりの男が、椅子に腰かけ机上の箱を見つめていた。
「ノエル君か」
 ノエルが近づくと、男は箱から目を離さずに言った。
「はい」
 部屋の入口で立ちつくしていたレナたちを男の前に招いてから、ノエルは彼を紹介する。
「こちらが歴史学研究室の、レイファス室長です」
 男は手前の操作盤らしきものをポン、と叩いてから、回転椅子をこちらに向ける。机の明かりが彼を正面から照らす。それでようやく、彼の姿をきちんと見ることができた。
 レイファスは、あちこち汚れたり布地がほつれたりしている白衣を平気で纏っていた。額や目尻に刻まれた皺からすると、初老か、もしくはそれよりも上だろうか。やや短めの青い髪は額の中央で分けて、眉間にはつねに皺が寄っていた。ぎょろりといた眼球が鋭く彼らをめつける。髭はたくわえておらず、やつれて骨格の浮き出た輪郭ばかりが目立った。
「レイファスだ。ネーデの歴史を研究している。私に関する情報は、今はそれだけで充分だろう。さて、本題であるが……」
 彼の声は低く、その上早口なので非常に聞き取りづらい。後ろの方でクロードとオペラが、こういう教授は苦手だとか大学にひとりはいるのよねとか、囁きあっている。
「私が現在関わっているのが、旧ネーデの終末期、つまり惑星ネーデ崩壊からエナジーネーデの誕生までだな。そこでの最大の謎が、十賢者に関する記述についてである」
「謎?」
 セリーヌが口を挟む。
「十賢者のどこが謎だというんですの?」
「君たちは市長から十賢者事件の概略は聞いているのだね」
「は、はい。大体のことは」
「ここにこれだけの本がある。全てこの事件について書かれた文献だ」
 レイファスは箱の横に山と積まれた本を指さして言った。そしてその中から一冊を取り出してページめくる。
「例えばこの本にはこう記されている。『叛逆を企てし十賢者、軍によりようよう鎮圧したり。その罪業、斟酌しんしゃくすべき処なし。って永劫えいごうの時の封印を施し、空の果てに放逐せし』と。他にも、こちらの本にはこうある」
 彼は手に持っていた本を乱暴に机に放ると、また別の本を引っぱりだして広げる。
「『狂信者どもの残虐非道、筆舌に尽くしがたし。子を嬲り、女を淫し、仇為す者はことごとく殺戮し、忌まわしき邪教の贄として血と肉を捧げられたり。国軍により収束せられし後も、その被害甚大にして罪人への怒り消えることなく……』……この本も、この本も、どの文献も文体や表現の違いこそあれ、論点は不自然なほどの一致をみている」
 次から次へと本を手にしては机に積み重ねていくレイファス。全部の本を積み終わったときには語気も荒々しくなっていた。
「すなわち十賢者は『悪』であり、終身刑は正当であり、またエナジーネーデへの移住もネーデ人の自戒という形であり画期的であったと評価している。ここにある文献の全てが、だ。……これが何を意味しているか、わかるかね?」
 ほとんど怒鳴るような調子のレイファスに圧倒されて、彼らは何も答えることができなかった。そもそも、どうしてこんなことを自分たちに話すのだろうか。
「情報操作だよ」
 椅子に深々と座り直し、机に肘をつく。神経質そうに指で顎をいじりながら、レイファスは続けた。
「時の権力が情報に介入し、彼らに都合のいいように操作する。そうしたときは得てして情報が画一的になるものなのだ」
「つまり、現在知られている十賢者に関する伝承は、全てデタラメであると?」
 エルネストが訊ねる。
「そこまでは言っておらん。現に今、十賢者が現れてネーデを襲っているわけだからな。ネーデに対して敵意を抱いているのは間違いないだろう。だが……どうも引っかかるのだよ。特にこの『エナジーネーデ移住』に関連する記述。あまりにも不自然すぎる。綺麗事すぎる。何か重大な裏が隠されているように思えてならない」
「しかし、それを立証するのは至難の業でしょうな。情報操作以前の文献が一切残されていない上に、三十七億年も前の出来事とあっては」
「確かにな。しかし全く手がかりがないわけではないのだよ。まあ、雲をつかむような話ではあるが……」
 そう言ってレイファスは再び操作盤を叩く。箱に映し出されていた絵が切り替わった。何かの一覧表のようなものが、画面いっぱいを埋めつくしている。
「これは?」
 クロードが興味津々に箱を覗き込む。
「ノースシティの図書館に所蔵されているデータベースだ」
「なんでノースシティにあるものが、ここで見られるんですか?」
「なに、向こうのセキュリティは穴だらけなんでな。簡単なスプーフィングを実行して中から穴をこじ開けてやれば、こうして自由にアクセスすることができる」
「スプーン……なに?」
 レナがクロードの背中をつっついて小声で訊いてみたが、彼は困った顔をして、後で教えるよと応えたきり、また箱に向き直ってしまった。
「大学からハックしてるんですか……。バレたら大事になりませんか?」
「首が跳ぶのは覚悟の上だ。彼と同じように、私も大学には何の未練もないからな」
 レイファスは横目でノエルを見て、ニヤリと笑った。
「図書館の膨大なデータの中で、開かずの扉となっているのが、このファイルだ」
 両手の指を使って巧みに操作盤を叩くと、また箱の画面が切り替わった。真っ黒な画面に『シークレット情報』とあり、その下には『パスワード入力』と小さく表示されている。
「図書館が開設された当初から存在しているファイルらしいのだが、奇妙なことに一度も参照されたことがない。ファイルにもロックがかかっており、パスワードは誰も知らん。それで過去、様々な分野の人間がアクセスを試みたが、いずれも失敗に終わっている。しかし、私はこのデータこそが、十賢者事件の真相の鍵を握っていると考えているのだよ」
「根拠は?」
「過去の解析の結果、このファイルが旧ネーデ軍によって作成されたものであることが判明している。しかも作成されたのはエナジーネーデ移住から間もない時期、つまり十賢者事件の直後だ。軍による機密資料ということであれば、あの事件についての記述があってもおかしくはないだろう。……まあ、希薄な根拠であるのは認めるがね」
 そこまで言ってから、レイファスは嘆息する。
「しかし、流石さすがにいささか疲れたね。ファイルの分析だのパスワードの解析だの……いち歴史学者がやるには限界がある。そもそも、こうした作業を頼める専門家がいないのが問題なのだが。この図書館のシステムにしても、構造を理解している者が今のネーデに何人いるのやら」
「システムを理解している人がいないんですか? 管理者は?」
「管理者はマニュアルに従って管理しているに過ぎない。メンテナンスの必要ないシステムだからね。管理するだけなら誰でもできるのだよ。そんな状態だからこそ、こうしていとも容易たやすくハッキングできてしまうとも言えるのだが……」
「うーん……」
「どうしたの、クロード?」
 腕を組んで首を捻っているクロードに、オペラが訊ねた。
「いや、そんなに難しいことかなぁ、って……」
「できるのかね?」
 レイファスがぎょろりとした目を動かして、クロードを見る。
「ちょっと、代わってもらえますか?」
「あ、ああ」
 レイファスが席を立ち、そこにクロードか座った。そして箱の前の操作盤を叩き始める。驚いたことに、両手の動きはレイファスよりもはるかに速い。
「クロード、あんた軍の少尉のくせにハッカーだったの?」
 オペラが冗談まじりに訊くと、クロードは横目で軽く睨み返す。
「違いますよ。情報処理技術の講義のときに、ハッカーの手口もシミュレーションを交えて習ったんです。敵の侵入法を知らねば対策もできないってね。……ときには、講義にないようなことも勝手にやってましたけど」
「……なるほど。マニアね」
 クロードの手が操作盤の上で早業のように踊る。同時に箱の画面もめまぐるしく切り替わる。レナは画面の内容もクロードのしていることもちんぷんかんぷんだったので、ただひたすら、彼の横顔を見つめていた。瞳を爛々と輝かせ、表情は躍動感に充ちている。
「ワードリスト発見、と。これでたぶん、何とかなりますよ」
 そう言って、子供のように無邪気な笑顔を見せる。こんなふうに笑うクロードを、今まで見たことがなかった。
「暗号化ツールはありますか?」
「あ、ああ、それなら見つけてある。終末期のネーデ軍が使用していたというものだ」
 レイファスも面食らっているらしく、苦虫をかみつぶしたような顔を引きつらせながら、クロードの横から操作盤を叩く。
「どうも。で、こいつを暗号化して……パスワードと比較するプログラムは……まあいいや、自分で組むか」
 画面に文字と記号と数字とが怒濤の勢いで打ち込まれ、最後に操作盤の大きなキーを軽快に叩くと、クロードは席を立った。
「あとは、処理が完了するのを待つだけです」
「ううむ……見事なものだ。感服したよ」
 レイファスは唸った。相変わらず苦笑しているような表情だったが、喜んではいるようだ。
「これで十賢者の謎が解明されればいいのだが」
「でも、どうして、わざわざ僕たちにこんな話を?」
 クロードが訊ねると、彼は椅子に再び腰かけ、画面を眺めながら。
「うむ。しいて言えば、歴史家としての良心から、かな。……言葉にすると陳腐だな、我ながら」
 皮肉めいた笑みを浮かべるレイファス。そして続けた。初対面のときとは別人かと思えるほど、穏やかな口調だった。
「歴史家というものは、歴史をあらゆる角度から見たがるものなのだよ。ある出来事を誰かは『是』と言い、誰かは『否』と言う。それでいい。それが物事のあるべき姿だ。そこから様々な価値観を蒐集しゅうしゅうし、分析して評価を下すのが、歴史家としての仕事なわけだ。だが、こと十賢者に関しては、『否』の記述しか存在しない。これは非常に不自然な状態だ。もし本当に何者かによって別の側面が隠蔽され、それにより十賢者の歴史的評価が歪められたのだとすれば、それはネーデの歴史においての汚点となる。たとえ十賢者の所業が残虐なものであったとしても、意図的な情報操作により正当な評価がなされていないのならば、彼らはうずたかく積み上がった歴史に押し潰された犠牲者とも言えるのだよ」
「歴史の、犠牲者……」
「君たちは十賢者と戦うという。もちろん君たちも、彼らが『絶対悪』であった方が戦いやすいだろう。だが私は、できれば十賢者の全ての側面を知ってもらってから対峙してほしいと願っている。おそらく彼らにも、彼らなりの『正義』はあっただろう。君たちにはそれを理解し、偏見なきまなこで真実を見極め、その上で戦いに臨んでもらいたい。それがひとりの歴史家としての、陳腐だが真摯しんしなる願いだ」
 そう話し終えると、箱に目を向ける。画面の文字は止まっていた。
「おや、処理が完了したようだな」
 レイファスは処理の内容を確認してから、最初の『シークレット情報』の画面に戻した。クロードたちも固唾かたずをのんで見守る。レイファスは慎重に、文字を打ち込んでいく。
「これで……どうだ」
 締めくくりにキーを叩くと、画面が切り替わり、操作もしていないのに文字がどんどん流れていった。
「よし、成功だ!」
 文字は次々と表れては消え、ろくに読んでいる暇もない。模様のように表示された『警告』という単語の羅列。ネーデ軍、十賢者、機密、防衛……すぐに消えてしまう文章を断片的に拾い上げているうちに、突然画面が止まった。そして画面の中央に大きく表示されたのは。
「第一次……十賢者防衛計画?」
 と、途端に文字が消え、別の一文が、そこに流れた。
〈あなたの認証は該当ファイルの参照を許可していません。接続を切断します〉


 光は、ひとをさまざまに照らしあげる。陽気なひとは明るく、淋しいひとはほんのりと、優しいひとは暖かに、哀しいひとは皎々こうこうと。その場そのときそのひとのいろいろな光が、夜空にあまねく星のように、きらきらと輝いている。過去も未来も現在も、そのひとのすべてが凝縮されたような、そんな光を、誰もが持っている。きっと、あの十賢者たちさえも。
 ノエルの家では、夕食の準備が進められていた。レナたちとノエル、それにケルメも加えた九人での賑やかな食事だ。暖炉のある大広間に食卓と椅子が運ばれたが、全員が座れるほどの大きさはなかったので、急遽きゅうきょ、大皿に盛って各自取りわけるという立食形式をとることにした。
 食事の用意は主にケルメが行っていたが、途中からレナも手伝った。野菜を切り分け、下ごしらえをして、ケルメの手がふさがっているときは調理も任された。ちゃんとした台所で料理をするのは久しぶりで、いつにもまして、楽しかった。
「ああやって料理をする女の子っつーのも可愛いもんだよなぁ、クロード」
 ボーマンが横に立って冷やかしてきたので、クロードは広間と続きになっている台所に向けていた視線を、慌てて窓の外に逸らした。
「君たちは手伝わないの? 同じ女性として」
 広間の長椅子を二人で占有している良家の子女たちは、ボーマンの言葉にそっぽを向く。
「わたくしたちは客なんだから、余計なお節介を焼く必要なんてありませんわ」
「エルぅ、あたしの料理、食べてみたい?」
 オペラが呼びかけると、エルネストはとんでもない、というふうに慌てて首を振った。どうやら苦い経験があるようだ。
「ねぇディアス、こっちはどう?」
 不意に、台所のレナから意外な名前が飛びだした。
「なに?」
「ディアスが?」
「台所に?」
 ボーマンとセリーヌ、それにクロードが台所に忍び寄り、そっと覗き見る。
「……塩味が濃いな。蓋をしてもう少し煮込めば野菜の水分が出て、味も調ってくるだろう」
 ポトフの鍋の前には、三角巾を頭に巻き、花柄のエプロンを着込んだディアスが立っていた。小皿に移したスープの味見をし、事細かにアドバイスまでしている。
「……なんですの、この光景は」
「まさかあいつ、料理できるのか?」
「いや、味見専門ってとこじゃないか。けっこう味にはうるさそうだし」
 なんだか恐ろしいものでも見たような気分になりながら、三人は広間に戻っていった。
 窓の外は雪が降り続いていた。日はとっぷり暮れてしまったが、屋根や地面に積もった雪のおかげでわりと明るい。夜の街を舞うたくさんの白い、雪、雪、雪──静かに降り続け、積もっていく。
「さあ、できたわよ。みんな集まって」
 レナが大鍋を食卓の中央にでんと置いた。肉料理とサラダも大皿に盛りつけられ、焼きたてのパンはバスケットに山と積まれる。
 ノエルがワインとシャンパンの瓶を手にやって来た。栓が開けられ、なみなみとグラスに注がれる。
「みんな渡りましたね」
 ノエルが言うと、全員がグラスを掲げた。
「それじゃあ──」
「メリークリスマス!」
「違うわよっ」
 オペラに頭をどつかれ、項垂うなだれるボーマン。
「……ええと、今日は特別な日というわけではないですけど」
 ノエルが仕切り直す。
「せっかくの骨休めの機会ですから、今夜は我が家で気兼ねなくくつろいでください。それでは……乾杯」
 グラスが交わされ、賑やかな食事が始まった。

「このへんのお皿、向こうに持っていきますね」
「あ……はい。すみません、レナさん」
 レナは空になった大皿と机に散乱していた小皿を積み重ねて、台所に運んでいった。ケルメも手伝おうとしたが、途中でノエルに呼ばれてそちらへ行った。
 片づけを済ませて、レナは広間へ戻った。食事の終わった広間には、ゆったりとした時間が流れていた。
 ──ああ、なんかいいな。レナは今、この場所にいることを、この上なく幸せに感じた。暖かい部屋、ゆったりと流れる時間。アーリアにいた頃は、こういう時間がずっと続いていたっけ。ちいさな村での何気ない生活が、ひどく懐かしい。……でも、もう、戻ってこない。
 心臓がどくりと鳴る。戻ってこない? どうしてそんなことを思ってしまったのだろう。まとわりつく嫌な思いを振り払うように、レナは何度も頭を振った。
 そして、部屋を見渡す。もはや気心しれた仲間たちの飾り気のない姿が、そこにあった。大あくびをするセリーヌ、不敵な笑顔を浮かべるボーマン、上品にグラスを傾けるオペラ、うまそうに煙草をふかすエルネスト、窓の前に立って一心に空を眺めているディアス、空になったグラスをケルメに注ぎたしてもらっているノエル、微笑を洩らしながら話を聞くクロード……ああ、このひとたちとなら、安心できる。レナは瞳を細めた。
「けど、結局十賢者のことはわからずじまいだったわね」
 オペラは手に持っていたグラスの中身を飲み干してから、昼間のことを振り返る。
「まさかパスワード認証の後に抗生プログラムを仕込ませてあるとはね」
 クロードは苦々しく言ったが、どこか嬉しそうでもあった。
「まあ、守護者ガーディアンに関しては、博士がこれから対策を講じるらしいから、進展があるまで待つことにしましょう」
 ノエルはそう言って席を立ち、グラスを机の上に置いた。
「それじゃあ、僕はお先に休ませてもらいます。明日は力の場でしたよね?」
「ええ、ここから近いらしいですから……ノエルさんも行くんですか?」
「もちろん同行しますよ。雪山だから、みんなも防寒の用意だけは忘れずにね。……じゃあ、ケルメさん、あとはお願いします」
「はい先生。お休みなさい」
 盆を抱えたケルメが、三つ編みを揺らしてぴょこんとお辞儀をする。ノエルはお休み、と返事をして、それから広間を出ていった。
「……どうしてあのひとは、わたくしたちについてくるのかしら」
 彼が退室した後で、セリーヌが呟いた。
「どうしてって、サイナードのことがあるからでしょう」
「それだけなら、別にわざわざ危険な場所にまで一緒に行く必要はありませんわ。他に理由があるんじゃないかしら」
「先生は、レナさんのことを見届ける気でいるんです」
 突然、ケルメが会話に入ってきた。驚く彼らを後目しりめに、淡々と話を続ける。
「今朝、ここに戻られたとき、先生は私に言ったんです。動物と本当の意味でこころを通わせることのできる女の子がいる。彼女は優しさという力でサイナードの習性までも覆してしまった、って。そう話す先生の顔は、素晴らしい発見でもしたときのように輝いていました」
 言葉の奥に宿るかすかな皮肉を感じながら、彼らは無言で話を聞いた。卓に置かれた空のグラスを盆に載せていくケルメ。その顔には、笑みがこぼれていた。
「先生は、悔しかったんだと思います。でも、それ以上に嬉しかったんだと思います。レナさんを見て、知識に邪魔されて動物のことをちゃんと考えてなかった自分に気づけたから。自分には何が足りないのか、それを確かめるために、先生はレナさんについていくんです」
「ケルメさん、あの……」
 レナは思わず何か言おうと口を開いてしまったが、その先の言葉が見つからない。
「それでは、私は向こうで片づけしてますので。お休みのときは声をかけてください」
 ケルメは軽く会釈すると、グラスを載せた盆を抱えて台所に下がっていった。
「なんだか複雑ねぇ。色々と」
 長椅子の肘掛けに頬杖をつきながら、オペラが鼻でため息をつく。レナはケルメの姿を最後まで見ることができずに、唇を噛んで、下を向いた。

3 やさしい、ちから ~力の場~

 見渡す限りの荒涼とした大地。茶色のけた地面は、風が撫でるたびに砂埃を舞い上げる。からからに乾いて白っぽくなった大木の幹が、半ば砂に埋もれて横たわっている。
 彼方の地平線に目を向ければ、海の青々とした筋が、まるで地面と空とを分け隔てる境界線のように、横一直線に走っていた。空に垂れこめる濃い雲は、陽の光を洩らす間もなく連なって、物凄ものすさまじい速さで流れている。
 フィーナルとは、最果ての地を意味する。十賢者が元来より恵まれた風土ではないこの地を拠点に選んだのは、ネーデの民の反撃を最小限に留めるため。案の定、北東の辺境にある小都市は、彼らの攻撃の前に為すすべもなく陥落した。その後も、ネーデの各都市はフィーナル奪還に動くこともなく、反撃の気配すらない。唯一、ネーデの外から彼らと共にやってきた、あの人間たちが不穏な動きを見せているという以外には。もっとも、それすらも彼らにとっては、毛筋けすじほどの憂いの種にもならなかった。
 荒原のただ中にそびえ立つは、混沌とした空間を閉じこめた禍々まがまがしき塔。てらてらと黒光りする外壁は、瘴気しょうきそのものを塗り込めたよう。窓も階層の継ぎ目も存在せず、ただ地面の入口ばかりが不吉な口をぽっかり開けている。
 ガブリエルは、塔の上空に立っていた。足許には吹きさらしの屋上と、脈打つように翡翠色の輝きを放つ巨大な球体が見下ろせる。風が耳許でごうと唸りをあげて、彼の灼熱するような赤い髪をなびかせ、乱していく。それでも彼は、邪魔な髪を払いのけもせず、ひたすら、遙かな地平線を眺めやっていた。その瞳に、悲しみとも憐れみともとれる蕩々とうとうとした光を閉じ込めて。
 屋上に誰かが立っているのを、ガブリエルは気配で察知した。その場で振り返り、下を向く。女性がひとり、佇んでいた。彼にとって唯一無二の、心を許せる存在。
「フィリアか」
 押し殺した声は、風の音にかき消された。屋上の女性は、両手を前に組んだまま、瞳を閉じてうつむいている。背中まで下ろした薄桃色の髪は、強い風にもいっこうに靡かない。
「今までどこにいた。この星に着くなり抜け出しおって」
 女性からの返答はない。
 ガブリエルがおもむろに腕を持ち上げ、肩と同じ高さで止めた。女性の身体が宙に浮き、するすると彼のところへと上っていく。ガブリエルが引き寄せているのか、女性みずからの意志で近づいているのかは、わからなかった。
 女性は彼の目前まで来て、止まった。女性はゆっくりと頭をもたげ、初老の男の顔を見る。透き通るような白い肌といい、奥ゆきのある光を湛えた双眸そうぼうといい、ゆったりとした薄手の法衣のような身なりといい、女性の容姿はどこまでも透明感で溢れていた。強い日差しを浴びればたちまちかき消えてしまうような──そう、幽霊みたいに。
 そして、こうして向き合ってみると、ふたりはどことなく似ていた。顔立ち、とりわけ哀憐あいりんを含んだその瞳は、見つめるほどに生き写しであった。
 ガブリエルの手が伸び、女性の頬を撫でた。目を細めて愛おしい視線を注ぐ彼にも、女性はきっと口を固く結んだまま。
「フィリアよ、もう、どこへも行かないでくれ。私には、おまえが全てなのだ。おまえが傍にいない僅かな一時も、私には堪えがたい苦痛となって、五体をさいなむ」
 顔の輪郭をなぞるように、頬に触れていた指を下に動かす。指先が華奢な顎に触れる。女性は、まるで仮面が張りついたごとく、表情ひとつ変えない。
「綺麗だ……まさしくあいつの忘れ形見、ひとつぶ種。けっして幸福とはいえなかったあいつの分まで、幸せになってほしいと、私は心底願っていた……だのに」
 指先を顎から離すと、ガブリエルはそっと女性を抱き寄せた。薄桃色の髪を撫でながら、彼は耳許に囁く。
「まもなく、全てが終わる。我が復讐は成就せられる。そのときこそ、我らに真の安息が訪れるときだ。だから、それまで辛抱しておくれ」
「おとうさま」
 そのとき、初めて女性が口を開いた。
「わたしには、いまだにせません。あなたのお気持ちが。どうしてすべてを滅しようなどとお考えになるのかが。いつ、わたしがそのようなことを望んだというのでしょう? わたしのためだと言うならば、どうか、我が言葉に耳を傾けてくださいまし。どうかお考えを改めて、そのような恐ろしいことなどおやめになって」
 袖にすがって訴える女性に、ガブリエルもいたたまれなくなって、再度、その胸のうちに抱きとめる。
「フィリア、ああフィリア、愛しき娘よ。そうではない、そうではないのだ。私が最も憎むは我自身。滅したいのは私の存在なのだ。妻を亡くし、娘をも見殺しにした罪業は、死をもってしても決して償いきれるものではない。おまえを守ることができなかった惨めな父親を、肉の一片、血の一滴、存在の記録もろとも塵芥じんかいさえ残さず消却してやることが、私の望みなのだ」
 女性はガブリエルの胸に泣きつき、何度も首を振る。
「いけません、それはいけません、おとうさま。破壊は何かを生み出す源となります。けれども、消却、消去は何ものをも生み出さないのです。摂理の環は断ち切ろうともまた繋がります。けれども環そのものを消してしまえば、摂理は否定されてしまうのです。どうか、どうか悲しみに我をお忘れになって、取り返しのつかないことをしてくださいますな」
「もう止まらぬ、止まらぬのだよ……」
 父娘は強く抱き合って、悲嘆に暮れた。吹きつける風に赤い髪は大きく靡く。しかし薄桃色の髪だけは、やはり靡かなかった。


 踏みだした片足が、雪の地面に深々と沈む。もう片方の足も持ち上げて雪を踏むと、同じように沈み込む。持ち上げては沈み、持ち上げては沈みを繰り返しながら、雪深い山道を、一歩ずつ登っていく。まっしろな地面に、いくつもの足跡を残しながら。
 力の場は、極寒の地にある雪山であった。まだ雪の浅いふもとでサイナードを降りた八人は、次なる『根源』があると思われる、頂上の神殿のような建物を目指して、雪道をひた進んでいた。最初は靴底を湿らす程度だった雪が、登っていくうちにくるぶしを埋めるくらいになり、中腹までさしかかると膝がすっぽり埋まるほどになった。積雪のせいで歩きにくくはあったが、そのかわり雪は降っていない。到着したときは猛吹雪で、伸ばした手の指先も見えないほど視界が悪かったが、例のナールから譲り受けたルーンコードを掲げた途端に吹雪は止み、先に進めるようになった。つまり、吹雪こそがこの場の『封印』だったのだ。
 一行は無言で山を登っていく。雪は降っていないにせよ山の空気は刺すように冷たく、顔が強張り、耳がツンと痛くなる。彼らはそれぞれ寒さに備えて、いつもより多く着込んではいたが、これほどとは誰もが予想していなかったのだろう。口をきくのも億劫おっくうな状態で、彼らはただ、足のみを動かして、緩やかな傾斜を登っていった。
 しばらくすると、横手に、ちょっとした崖のような岩壁が剥きだしになっているところを見つけた。
「ねえ、あれ洞穴じゃない?」
 レナが指さした。岩壁の一部が削られ、ぽっかりと大穴が開いている。形からして、自然にできた穴とは思えない。誰かがり抜いたのだろうか。
「ちょっと、入ってみようか」
 雪道に半ばうんざりしていた仲間たちは、クロードの提案にすぐに賛成した。
 洞穴の入り口をくぐり、セリーヌが角灯ランタンに火を点けた。常日頃から露出の甚だしい彼女も、さすがに今は分厚い毛皮の外套をまとっている。おかげで寒くはなさそうだが、山道を歩くにはいささか具合が悪いようだ。灯りのともった角灯をボーマンに渡すと、裾についた雪の粒を払う。
「もっと動きやすい服はなかったのかよ」
「大きなお世話ですわ」
 レナも、いつもの服の上にチョッキを着込み、さらに羅紗地らしゃじのローブめいたコートを羽織っている。コートの裾はすねまでをすっぽり覆ってはいたが、その下は相変わらず膝丈のスカートのままなので、足がすっかり冷えてしまった。しゃがみ込んで、コートの上からごしごしと腿をさする。
 洞窟の内部は、外に比べればずっと暖かかった。その場でしばらく休息をとっていると、次第に言葉数も増えてきた。
「この先って、どこまで続いているんだろうな」
 クロードが壁に手をあてて、奥を眺めている。そこからでは角灯の光も届かず、穴の先は真っ暗闇だった。
「熊でも冬眠しているんじゃありませんの? あんまり奥に行くと危ないですわよ」
「でも、もしかしたら別の場所に通じているかもしれない。うまくすれば近道になるかも……」
 とクロードが言うと、仲間たちは考え込んでしまった。これからまた、雪深い山道を歩くことを思えば、洞窟の中を行ったほうが寒くないし楽かもしれない。口にはしなかったが、皆が皆、そう思い直していた。人間、楽するほうへは簡単に頭が回るものである。
「……まあ、行ってみるだけ行ってみるか」
 エルネストの言葉に、誰も異存はなかった。
 角灯を持ったクロードを先頭に、彼らは洞窟を奥へと進んでいった。明かりを受けた岩壁は鮮やかな群青色に輝いている。何が出てきてもいいように身構えながら、慎重に、歩いていく。
「あら?」
 中ほどを歩いていたオペラが、途中で立ち止まって声を上げた。
「ねえ、ちょっと、ここの壁を照らしてくれない?」
 言われたとおりに、クロードが角灯を掲げて横の壁を照らしてみる。すると、群青色の岩壁一面に、白い大猿の姿が浮かびあがった。
「きゃっ!」
 レナは思わず悲鳴を上げた。だが、よく見るとそれは壁に描かれた絵だった。身の丈も幅も、人間のひとまわり以上はある毛むくじゃらの猿が、手に棒きれを持って何かを追い回している。猿の視線の先へと明かりをずらすと、やはり白い牡鹿が地面を跳ねるように逃げ出している姿が描かれていた。
「壁画、か? でもなんで、こんなところに」
 最初はその大きさと迫力に圧倒されたものの、じっくり眺めてみれば、絵自体はそれほど精巧な出来ではなかった。猿も牡鹿も大まかな特徴のみが強調され、単純化されている。こんな場所に描かれてなければ、誰かが戯れに描いた落書きとしか思えなかっただろう。
「ほう、これは興味深いな」
 だがそこは、考古学者のエルネストである。さっそく大猿の前に立って、白く塗られた部分を指でこすってみる。
「似たような壁画は先史時代のものが頻繁に発見されている。だが、これはそれほど古いものではないな。せいぜいここ数年の間に描かれたものだ」
「どういうことですか?」
 クロードが訊くと、エルネストはこちらを向いた。
「つまり、先史の人類と同等の知能をもった何者かが、今でもこの辺りに住んでいる、ということだな。恐らくは、こいつがご本人なのだろう」
 そう言って手で示したのは、壁画の大猿。
「……雪男」
 レナが呟いた。こどもの頃、ウェスタに聞かされた話の中に、雪山に住む毛むくじゃらの人間の話があった。そのことを、思い出しながら。
「スノーマン?」
「それは雪ダルマ」
 オペラにすかさず突っこまれて、肩を落とすボーマン。
「イエティ、とも言うな。この洞窟も、そいつらが掘ったとすれば合点がいく。どうみても天然の風穴とは思えないからな」
「じゃあ、この先、進んでいくうちにこいつと出くわすかもしれないってことか」
 クロードは、壁画の猿の振り上げた腕の太さを見て、顔をしかめた。
「……用心しないとな」
「あら、大丈夫よ」
 レナがにっこりとして言う。
「雪男はとっても優しいのよ。遭難したミーナちゃんを助けて、ちゃんと村まで送り届けてくれたんだから」
 嬉しそうに話すレナに、クロードは怪訝な顔をする。
「……それ、何の話?」
「『ずんぐり雪男さんとミーナちゃんのぼうけん』」
「…………」
 彼らの間に微妙な空気が流れる。レナは首を傾げた。
「あれ、みんなどうしたの?」
「……じゃ、行こうかぁ」
 気の抜けたような声を上げるクロード。そして頭を掻きながら先へと歩きだす。他の者たちも続いた。
「ねえ、ちょっと待ってよ! 私、なんか変なこと言った?」
 レナばかりが訳もわからぬまま、慌てて彼らを追いかけていった。

 洞窟を抜けた先は、思いがけなく同じ山の裏手に出た。頂上の神殿が、入り口から見たときよりもずっと近づいている。
「どうやら、こっちで正解だったみたいだな」
 クロードがほくそ笑んだそのとき、目の前にいきなり三叉の槍が飛んできた!
「うわっ!」
 すんでのところでクロードは身をかがめて避ける。槍はずっと先の雪に突き刺さった。周囲を見渡すと、横から背後から淡黄色の甲冑かっちゅうに身を包み、三叉槍さんさやりを持った兵士のような恰好の魔物どもが、雪をかいてわらわらとこちらに向かってきていた。兜の目庇まびさしの奥の眼光は、まるでルビーを填めこんだように赤々と点灯している。友好的な態度にはとても思えない。
「敵か」
 待ちかねていたように、ディアスが柄に手をかける。
「けど、なんだか雪山に似つかわしくない恰好ですねぇ。土着の魔物ではないと思いますが」
 ノエルは手をかざしてのんびり魔物を眺めやっている。
「異世界の悪魔か亡霊か……どうせ十賢者が呼び寄せたのだろう。全く難儀なことだ」
 エルネストが腰から鞭を取りだし、景気づけに雪の地面を叩いた。白い粉が舞い上がり、それが合図であったかのように戦闘が始まった。
 だが、この雪の中である。敵も味方も降り積もった雪に足をとられ、ろくに移動することもままならない。それならばと、槍を投げつけ、空破斬や気功撃を放ち、跳躍して一気に間合いをつめる方法をとったりもした。けれども、やはり、いまいち盛り上がらない。
「あーもう、見ててイライラしますわね。みんなどいて! わたくしがカタをつけますわ」
 そう言って、セリーヌが詠唱を始めた。クロードがそのことに気づいて振り返ったときには、すでに唱える直前だった。血の気が引くクロード。
「セリーヌさん、待った!」
「イラプション!」
 彼の制止も一足遅く、セリーヌは杖を高々と掲げて唱えた。敵の一群の足許から突如として炎の柱が噴き出し、魔物を天高く吹き飛ばした。逆流する紅の滝の奔流ほんりゅうは凄まじく、離れた場所にいてもびりびりと足の裏に振動が伝わってくるほど。
 と、それとは別の、小刻みに震えるような振動を足許に感じた。嫌な予感にクロードは表情を強張らせ、山を見上げる。頂上より手前付近の傾斜一帯に、白い煙のようなものがもくもくと舞い上がっている。煙はみるみるうちに濃くなり、膨れあがって、やがて、ざ、ざざ、ざざざと音を立てて、表層の雪が傾斜を滑りはじめた。
「まずい、雪崩だ!」
 クロードが叫んで、仲間がそれに気づいたときには、すでに雪崩は勢いを増し、斜面をどんどん下って彼らに迫っていた。雪の粒を飛沫のごとく飛び散らせ、物々しい音をとどろかせて流れ落ちるさまは、まさに激流だった。
「洞窟に逃げ込め!」
 彼らは雪の中を必死にかき分け、出てきたところの洞穴へと戻っていった。どうにか穴に飛び込んで、ホッとしたのも束の間。外を振り返って、あっと息を呑む。
「レナ!」
 レナだけがまだ穴の外だった。雪深い場所にはまり込み、なかなか前に進めないでいたのだ。雪崩は既に目前まで近づいている。
「レナ、早く!」
 クロードの声も空しく、レナは足をもつれさせて前のめりに倒れてしまう。そこへ怒濤の雪が覆い被さる。彼女の姿は、白い激流に呑まれて完全に見えなくなってしまった。
「くそっ!」
 他の者が制止する間もなく、クロードは自ら激流の中に身を投じた。
「なっ、クロード!」
 彼の姿も一瞬にして雪の中に消え失せる。
「あんのバカ、雪崩の中に飛び込んでいく奴がどこにいる!」
 ボーマンは籠手こてをつけた拳を岩壁に叩きつける。未だ治まらない雪崩を、仲間たちは穴の中からただ茫然と眺めるばかりだった。


 視界の端に、ぽっと仄かな明かりが灯った。松明たいまつの炎だ。群青色ぐんじょういろの壁に掛かっている。
 目を覚ましたレナは、ゆっくりと上半身を起こす。そこは洞窟の中だった。彼女がいる場所は、小さな部屋のような袋小路になっている。隣に同じようにして横たわる金髪の少年を見つけると、背中を揺すって起こした。
「クロード、クロード」
「……ん?」
 クロードは目を何度も瞬き、額を押さえながら起き上がった。
「ここは……?」
「わからない……さっきとは別の洞窟だと思うけど」
 洞窟の先に目を向けると、ひときわ明るい隣の岩通路に、何かがもぞもぞと動いているのが見えた。白く大きな、かたまり。
「あ……」
 レナが声を洩らすと、気配に気づいたのか、そのものが振り返った。そして、のっそりと立ち上がり、ふたりのところへ歩み寄ってくる。腫れぼったいように膨らんだまぶた、腸詰めを二本、口の上下にくっつけたような唇。胴にくらべて不釣り合いなほど長い手足。そして、白い毛むくじゃらのからだ。まさしく彼女が話に聞いて思い描いていた、そのままの姿だった。
 大きなからだが目前に立ちはだかると、ふたりをすっぽり覆う影ができた。クロードはとっさに身構えて腰の剣を……と思ったが、そこに剣はなかった。慌てて辺りを見回すと、彼が横になっていたところの枕元に丁寧に置かれていた。すぐに飛びついて剣を抜こうとするも、途中でその手が止まる。ここに剣を置いたのが目の前のこいつであるなら、それを武器だと知りながら、あえて彼は取り上げなかったのだろうか。
「……敵じゃないのか?」
 クロードが刀身を半分だけ抜いたまま当惑する。一方レナはというと、警戒心のかけらも見せず、立ち上がって彼に話しかける。
「あなたが、私たちを助けてくれたの?」
 大猿はレナを見下ろして、わずかに首を傾げた。敵意がないと判断したクロードも、剣を収める。
 そうして、そいつは彼女の前に、手を差し出した。レナの顔の倍ほどもある掌の上には、木をり抜いた器が載っていた。
「なに?」
 レナは器を両手で受け取った。中には殻つきの木の実がたくさん入っている。食料の少ない雪山に暮らす彼にとっての、保存食のようなものなのかもしれない。雪男は腕を降ろすと、くるりときびすを返して、岩通路の方へ戻っていった。
 レナはクロードと向かい合って岩床に座り直し、前に器を置く。
「食べなさい、って、ことなのかな」
 木の実をひとつ取り出して、殻を割る。
「大丈夫か? そんなもん食べて」
 クロードはまだ不審がっている。
 殻から取り出した実を少しだけ、かじってみた。最初は苦かったが、口に含んでいるうちに甘くなってくる。
「あら、これって……生じゃないわ。炒ってある」
「火は扱えるみたいだから、調理も少しはできるのかもしれないな」
 クロードもようやく木の実に手をつけはじめた。そして、ここは自分が最初に毒味をしてみせた方がよかったかなと、殻をむきながら密かに後悔する。
 さて困ったことに、こういう木の実はあまり旨いものでなくても何故か手が止まらなくなる。しばらくふたりで、無言のまま、ぱりぱりぽりぽりと殻をむいてはひたすら食べた。次第に腹も満ちてくる。
「ありがとう、クロード」
 木の実を取る手を休めて、不意にレナが言った。
「え? 何のこと?」
 爪を立ててパキッと殻を割りながら、クロードが訊く。
「雪崩のとき、私を助けようとしてくれたんでしょ?」
「あ……いや、それは、その……まあ、アレだから」
 返答にならぬ返答をするクロード。そして照れ隠しなのか、むいた木の実を真上に放り投げて口で受け止めようとする。しかし空中で放物線を描いた木の実は、鼻の頭に当たって地面に落ちてしまう。ばつの悪そうに顔をしかめる少年に、レナはくすくすと笑った。
「いや、それよりもだな……早くみんなのところに戻らないと。きっと心配してる」
「ここはどこなのかな。雪男さんに聞けば、わかるかな」
「言葉が聞けたら、ね」
「言葉なんて関係ないよ」
 そう言ってレナは立ち上がると、岩通路のほうへと向かった。
「ちょっと、レナ……」
 クロードも腰を上げて後を追う。そのとき、レナが感嘆の声を上げた。
「わぁ、すごい」
 通路の壁には、隅から隅までぎっしりと、白一色の絵が描かれていた。白い山に白い森。その中を白いウサギが跳びはねて、白い鹿が真っ白な湖の水を飲んでいる。白い鳥は雲の合間を群をなして飛び、白い樹の枝にはちょっこり白いリスが木の実を持ってこちらを向いていた。
 雪男は、壁の隅のほうで新しい絵を描いていた。片手には、石灰石の粉を水で溶いた、どろどろの液の入った器を持っている。これが絵の具なのだろう。レナが近づいて覗き込んでも彼は気にも留めず、指を器に突き入れてたっぷり液をつけると、その指先を壁にこすりつける。
「あれ? これって……」
 レナはその絵を見た。腰より下はまだ描かれていなかったが、それは、人間の絵だった。両腕を前に出して、なにかを抱えているような。
「僕たちを見て、描き始めたのかな」
「そうみたいね……。でも、帰り道を案内してもらおうと思ったけど、邪魔になっちゃうかな」
 これを聞くと──いや、実際に言葉を理解したとは思えないが──雪男は器を床に置き、立ち上がって洞窟の出口へと向かっていく。
「まさか、案内してくれるのか?」
 唖然とするクロードに、レナはさも得意気に笑ってみせた。
「だから言ったでしょ。雪男さんはとっても優しくて、親切なんだから」

 雪男の先導のもと、尾根づたいにしばらく歩いていく。程なくして、雪崩の起きた斜面に戻ることができた。山頂附近から彼らのいる麓まで、巨人がスプーンでえぐったように斜面の雪が削られていた。
 仲間たちもこのあたりを捜索しているに違いない。そう思ってレナは雪男に、もういいよ、ありがとうと礼を言って帰ってもらおうとした。しかし彼は親切なのかお節介なのか、それとも単に自分がそちらに行きたいだけなのか、ひたすら山頂を目指して登っていく。ふたりは仕方なしに、その後をついていった。
 ところが、あるところで、ぴたりと彼が立ち止まった。追い越してしまったレナたちが不思議そうに振り返る。雪男は鼻をぴくぴく膨らませ、いつになく鋭い視線で周囲を見渡している。
 そうして、彼はいきなりクロードのえりをふんづかまえると、その怪力でもって軽々と持ち上げた。
「な……な!?」
 突然のことにクロードは抵抗する間もなく、彼の頭上で目を白黒させる。腕を大きく振りかぶる雪男。そして思いきり、クロードを雪山の上の方めがけて投げつけてしまった。続いてレナも。
「きゃっ!」
 同じようにして抱えられると、やはり上空に放り出される。何がなんだかわからないまま、ぎゅっと目をつぶって身を固くしていると、どこかに尻餅をついて着地した。どうやら無事に地面に落ちたみたいだが……何か変だ。尻の下が雪の感触とは違うような……。そっと目を開けて、下を見る。すると。
「きゃあっ、クロード大丈夫?」
 うつぶせになったクロードを尻に敷いていた。慌ててそこから降りるレナ。
「へ、平気、平気。軽いから……げふ」
 すっぽり雪にはまりこんでいたクロードは、顔を上げると雪の塊を吐いた。
「ったく、いきなり何なんだよ、あいつは……」
 片手で雪の粉を払い落とし、もう片手でレナの乗っかった背中を押さえて立ち上がる。やはり痛かったらしい。
「! クロード、あれ!」
 レナは斜面のずっと下のほうに、雪男の姿を見つけた。だが、彼だけではなかった。みるからに屈強そうな、青い肌の魔物どもが五、六匹。雪男を取り囲んで、近づいてきている。大きさは彼よりも一回り小さいが、盛り上がった筋肉と分厚い胸板、それに血と肉に飢えた凶悪な顔つきは、その魔物の恐ろしさを物語るのに充分だった。
 青い悪魔どもは、無抵抗の雪男に容赦なく襲いかかった。殴りつけて昏倒させ、蹴りとばし、踏みつけ、袋叩きにする。白いからだが雪にまみれて、見えなくなる。赤いものが飛び散ったような気もした。
「助けなきゃ」
 レナが斜面を降りようと足を踏み出す。しかし、クロードが腕をつかんでそれを引き止めた。
「行っちゃいけない」
「どうして? 雪男さんが……」
「今、僕らだけであれだけの数を相手にするのは無理だ。可哀相だけど……」
「そんな!」
 非難がましく見つめるレナに、彼は吹雪の声で言う。
「山を登ろう。奴らに見つからないうちに、ここを離れるんだ」
「いやよ! 見殺しにできない」
「どうしようもないんだ。さあ、早く」
「やっ……放して!」
 クロードは嫌がるレナの腕を掴んだまま、引きずるようにして斜面を登っていく。腕を振り回し、髪を振り乱して抗うレナ。だが男の力には到底かなわず、雪男と魔物の姿はみるみる遠ざかっていく。
 どれほどの間、登っていったのだろうか。悪魔の姿もとうに見えなくなったところで、クロードがレナの腕を放した。膝に手をついて息を切らすクロード。レナもそこに座りこんで、地面に手をついた。肘のあたりまで雪に沈み込む。
「ひどい、ひどいよ、クロード……。あんなに親切にしてもらったのに……こんなこと、どうして……」
 雪に埋まった手をギュッと握りしめる。冷たさが骨までみた。それ以上に、心の中も。
「助けてくれたのに、助けてくれたのに……」
 クロードは白い息を吐きながら、レナの背中を無言で見つめていた。冷気が頬を撫で、青い髪を微かに揺らす。
「……ごめん」
 不意に、彼が口を開いた。彼女の肩の震えも止まる。
「でも、あの場はああするしかなかったんだ。君をこれ以上、危険な目に遭わせるわけにはいかなかったから。僕は君を守る。何があっても、絶対に。そのためには、君に嫌われたって構わない」
「クロード……?」
 少女の視線に気づいて、顔を赤らめるクロード。そして下を向きながら、続ける。
「辛いのはわかる。悲しいのはわかる。あいつのことを忘れろとは言わない。ただ、今はこらえてほしい。僕らにしても、生き残れるかどうか、ぎりぎりの状況にいるんだ。一刻も早くみんなを捜して、合流しないといけない。……前に進もう、レナ」
「…………」
 レナは雪の上に座り込んだまま、うつむく。クロードの言葉は頭では理解できた。けれども、体は依然として動かない。素直に頷いて立ち上がることができるほどには、まだ吹っ切れていなかった。
 そんな彼女に、クロードはふと表情を崩した。そしていきなり目の前に片膝をつくと、仰々ぎょうぎょうしく頭を垂れる。
「姫、しばしの御無礼お許しを」
「え? あっ……やだ、ちょっと……」
 気障きざっぽい台詞に気をとられているうちに、すっかりクロードの背中に担がれてしまった。
「ちょっと、降ろしてよ。恥ずかしい」
 レナは背中で藻掻いた。
「誰も見ちゃいないさ。落ち着くまでそうしているといい。またどこかのお転婆さんに、戻るって駄々をこねられても困るしね」
 揶揄やゆするような彼の言葉に、レナはむっとした。言い返そうと口を開きかけるが、その前にクロードが歩き出してしまったので、代わりに頬を膨らませて肩にしがみつく。
「そういや、雪男だけどさ」
 少しして、クロードが言った。
「本当に優しい奴だったね。レナの言う通りだった」
 レナの瞳がじわりと潤む。それを誤魔化すように、たくましい彼の首筋に、そっと、頬を寄せた。

 山を登り始めて、二、三時間は経っただろうか。雪は落ちないがずっと曇っていた空も、いよいよ本格的に暗くなってきた。頂上の神殿が闇に紛れて見えにくくなる。完全に暗くなってしまえば、仲間と合流することも難しくなってしまう。クロードはレナを背負ったまま、歯を食い縛って登り続けた。レナも途中までは自分の足で歩いていたのだが、一時間ほど歩いたところで足が上がらなくなり、結局またクロードの背中を借りることになってしまった。
 クロードは焦っていた。レナも不安でいっぱいだった。山の空気は暗くなるにつれてどんどん冷え込んでいく。こんな風よけもない雪原の真ん中で一晩を過ごせば、次の朝には間違いなく凍え死んでいることだろう。せめて、あの雪崩が起きる前の地点に、洞窟に戻ることができれば。だが、行けども行けども見えてくるのは、雪崩によって削られた雪の斜面ばかり。おまけに暗くなってしまえば、崖に開いた横穴の入り口さえも見過ごしてしまいかねない。汗が全身から噴き出し、頭から湯気が立ちのぼっても、クロードは足を休めることはできなかった。日が落ちる前に。心の中で呪文のように繰り返し呟きながら、震えの止まらない足を、前に繰り出す。
「クロード、もういいよ。私も歩くから、降ろして」
 レナも背中で、彼の限界を感じていた。最初のうちはあれほど躍動感に溢れていた歩みが、今は一歩ごと引っかかるような、変な揺れ方をしているのだ。降りたところで満足に歩けるかどうか自信はなかったが、これ以上彼にすがっていることのほうが辛かった。何度も降ろしてくれるよう懇願するが、クロードは全く聞き入れない。返事をする気力すらなかった。
 もう駄目かもしれない。そう思いかけたそのとき、レナはまさしく神からの慈悲の光を見た。光というにはあまりにもみすぼらしい輝きだったが、今の彼女にとっては何ものにも代えがたい、尊いものに見えたのだ。
「クロード、あれ!」
「え……?」
 斜面の上の方に、ぼんやりとした明かりが灯っていた。それを中心にしてうごめく人影。金茶色の髪をしたもの、派手な毛皮の外套を着たもの、細長い金属の筒を携えたもの。他にも何人かが、こちらに向かって手を振っている。レナは瞳を輝かせて、クロードに言う。
「やったわ、クロード。私たち、助かったのよ!」
「……助かった……?」
 クロードの足が止まった。そして譫言うわごとのように呟くと、緊張の糸が切れたのか、レナを担いだまま、ばったりと前のめりに倒れてしまった。
「クロード、ねえ、しっかりして! ……あ、みんな、こっちよ!」


 その日は洞窟で一晩過ごし、あくる日、山登りを再開した。洞窟から頂上までの道のりには大した障害もなく、小一時間ほどで辿り着いた。
 神殿は、大きな広間がひとつあるだけの、ごく単純な建物だった。壁はなく、溝をいくつも彫った柱が床の周囲に整然と並んで、石造りの重そうな屋根を支えている。床と天井はつるつるに磨いた大理石で、濡れた靴で上がると滑りそうになる。
 入り口の門から中に入ると、さっそく大きな鉄の塊が立ちはだかっていた。頭に胴体に両手両足と、一応は人間のような形状を成しているものの、どの部位をとっても無駄に太く、あまり動きやすそうな体型とはいえない。顔の目の部分とおぼしきふたつ穴には黄色い光が点灯し、下顎はだらしなく開きっぱなしだ。鼻やら耳やら髪の毛やら、他の細かい部位はきっぱり、ない。
〈よくぞここまで辿り着いた。これが最後の試練である〉
 鉄の塊が両腕を動かし、声を発した。
〈この先の祭壇には『力の根源』が眠っている。我を倒し、見事手に入れてみるがよい〉
「のぞむところだ」
 剣をすらりと抜き放って、すっかり体調の戻ったクロードが言った。
 先陣をきってクロードとディアスが斬りかかった。だがどちらの刃も、金属の胴体に傷ひとつつけられずに弾かれてしまう。続いてボーマンが懐に潜り込んで顔面に拳を叩きこむ。やはり相手に手応えはなく、むしろ殴った方の腕がじぃんと痺れた。エルネストは鞭に電気を帯びさせて電撃を放ったが、敵は感電はするものの、それで動きが止まるわけでもないようだ。むしろしばらく電気を帯びたままだったので、剣で攻撃するとこちらが感電して、余計に攻撃しづらくなってしまった。それならばとオペラがランチャーを、セリーヌとノエルが同時にエナジーアローを繰り出す。しかしそいつは銃撃も呪紋も全てその身に受けながら、一歩も身動みじろぎせずに平然と突っ立っている。そうこうしているうちに腕で殴りつけられ、突き飛ばされて、こちらの怪我人は増える一方だ。
「くそっ、やたらと硬いぞ!」
 うろたえる八人を後目しりめに、鉄の塊は黄色の眼光を挑発的に点滅させる。
〈どうした、もう終わりか? この程度で我に挑むとは笑止千万! 力無きものよ、出直して来るがよい〉
「ふん。調子に乗るな、屑鉄が」
 ディアスが前に進み出る。そして相手から離れたところで剣を抜き、掲げるように振り上げた。
「鳳吼破!」
 闘気を込めて振り下ろした剣から真紅の炎が放たれ、天駆ける鳳凰さながらに敵に襲いかかった。腹の部分に食いつき、衝撃で金属の胴体が後ろに突き飛ばされる。けれども、それでもそいつは両足を踏ん張って、攻撃に耐えきった。まさか、と目を見開くディアス。
「おいおい、冗談じゃねぇよ」
 ボーマンがひきつった笑い顔をして言う。
「これだけやって無理なら、もうどうしようもないぜ。ここの試練は諦めるしかねぇのか?」
「いや」
 と、ディアスに代わって前に出たのは、クロード。
「僕が、乗り越えてみせる」
 剣を構え、そっと目を閉じた。息を大きく吸いこみ、吐きだす。もう一度吸いこみ、また吐きだす。仲間たちが見守る中、深呼吸を何度も繰り返して精神を研ぎ澄ませる。閉じたまぶたのずっと奥、そこに一条の光が宿る。その刹那、クロードは目をカッと見開いて猛然と駆け出した。
「でぇぇぇりゃあッ!」
 両手で握った剣にありったけの闘気を注ぎ込む。剣が白熱し、燃え立つようなオーラが噴き上がった。クロードは剣を脇に構え、相手の胴を横一文字にいだ。きぃん、と、何かが一瞬にして通り過ぎるような、奇妙な音が神殿に響いた。
 クロードが剣を振りきった格好のまま、相手を見る。鉄の塊は、まだ、そこに立っていた。しかし、黄色い目の輝きは、弱まっている。
〈試練は成し遂げられた。力を持つものよ、先に進むがよい〉
 クロードが斬った部分から、胴体の上半分が横にずれ、重々しい音を立てて滑り落ちた。床に転がる上半分と、まだそこに両足を踏ん張って立っている下半分。ものの見事に、まっぷたつになっていた。
「やった……」
 荒々しく息をつきながら、茫然とふたつの塊を見下ろす。それから、自分の剣を。
 剣は、まだ盛んに闘気を放出していた。今の技は一瞬の閃きが生み出した、その場限りの技のはずだった。だが、彼の中に眠る凄まじい力が一気に剣に注ぎ込まれた結果、剣は思いもよらぬ変化をみせた。
『魂』を宿らせることにより持ち主と同調し、内在する力を解放させる。それはまさしく霊剣──オーラブレード──であった。
 クロードがこころを落ち着かせると、剣の闘気も徐々に収束していった。そうか、この剣は自分そのものなんだ。そう思いながら、そっと鞘に収める。
 彼らは神殿の奥へと進み、祭壇に上がった。中心の台にははたして緋色の宝珠オーブがあった。
「あ……」
「これは……また……?」
 宝珠を前にして、クロードとレナの意識が遠ざかる。そうして再度、彼らは記憶の海の底へと沈んでいった。


 暗い部屋。ベッドに横たわるお母さん。そして、そばでその顔をじっと見つめてる、私。──この光景は?
 そうだ、これは十年前。お母さんが急に倒れてしまったときのこと。お父さんはクロスに出かけて一週間は帰らない。私はすぐに村長さまのところに行った。村長さまはお医者さんを呼んでくれた。
 お医者さんはとても優しかった。お母さんを診察すると、にっこり笑って私に言う。
「大丈夫。すぐに良くなる。このお薬を飲んでぐっすり休めば、きっと明日には元気になっているよ」
 私は、その言葉を信じた。すっかり安心して、明日のためにたくさんリンゴを買いに行った。お母さんが目を覚ましたら、これでジュースを作ってあげるんだ、って。
 けど、お医者さんは嘘つきだった。
「今夜が峠だな。念のため、教会に連絡を……」
 壁の向こうから、お医者さんが付き添いの女のひとと話しているのが聞こえた。抱えていた紙袋から、買ってきたリンゴがひとつ、こぼれ落ちる。胸がいっぱいになって、紙袋をその場に置いて家を飛び出した。そのまま夜まで帰らなかった。
 ──そして、この晩。
 お母さんは顔じゅうに玉のような汗を浮かべて、うなされていた。私は手拭いで、ていねいに顔を拭ってあげる。青く、やつれた顔を見つめるたび──今夜が峠だ──あの言葉が蘇る。
 私は悔しかった。あんなひとの言うことを信じて、リンゴなんて買いに行ったことが、とっても悔しかった。涙があふれて、ぼろぼろこぼれる。あんな嘘つきなひとたちに、お母さんを任せるしかないの? あんなひどいひとたちが、ほんとうに命を救うことができるの? いやだ、いやだ、お医者さんなんて嫌いだ。あんなひとに、私のお母さんをどうかされたくない。
「おかあさん……いなくなっちゃ、やだよ……」
 大事なだいじな、私のお母さん。救いたい、助けてあげたい。もういちど、あのとびきりの笑顔を私にみせてほしい。力がほしい。今ここで、お母さんを救う力があれば……。
 そのとき、部屋がぼんやりと光りだした。神様が、私のお願いを聞き届けてくれたんだと思った。そうじゃなかったけど……でも、奇蹟は、起きた。

 お母さんは元気になった。私が治癒の能力に気づいたのも、そのときだった。

4 偽りなき勇気 ~勇気の場~

「お食事は、もうよろしいのですか?」
「ええ、ごちそうさまでした」
 クロードの返事ににっこりと微笑んだのは、セリーヌの母親のラベ。亜麻色の髪を背中でまとめ、化粧もつけていない清楚な顔だちは、娘とはまるきり正反対の、しとやかな印象を受ける。湯気の立つカップを机に置き、かわりに食べ終わった食器を積み重ねて盆に載せると、台所へと下がっていった。彼女が通ったあとで、壁の燭台の炎が斜めになびく。
「結局、事件は君たちのおかげで解決したが、我々はそろって一杯食わされたわけか」
 セリーヌの父、エグラスは深々と溜息を洩らした。術師を装った山賊との戦いで深手を負ったが、その傷はレナの呪紋によってすっかり癒されていた。
「被害者に化けていては、なかなか見抜けないですからね。仕方ないですよ」
「そうですわ。お父様は、立派に戦ったんじゃありませんの」
 クロードの言葉にセリーヌが請け合う。しかしエグラスは、いやいや、と首を振った。
「もっと早く奴の邪悪な気配に気づくべきだった。術師の恰好だけに騙されて、はなから疑おうともしなかった。私もまだまだ、だな」
「でも、クロードもすごいよね。エグラスさんも気づかなかった山賊のボスを、倒しちゃったんだから」
 カップを手に、レナが言った。
「僕だけの力じゃないよ。セリーヌさんがいたから、勝てたんだ」
「その通りですわよ」
 と、セリーヌは鼻を高くする。
「わたくしのエナジーアローが遅れていたら、あなた今頃ここで呑気に茶なんて飲んでられませんでしたわよ」
「はいはい、感謝してますって」
 首をすくめながら茶をすするクロード。娘に屈する少年を見て、エグラスは思わず苦笑した。
「でも、ディアスは褒めていたわ」
 レナが言うと、クロードは机に置いたカップに視線を落として。
「あのひとの剣の腕は、きっと、凄いんだろうな」
 独り言のように、呟く。
「反抗するのは簡単だけど、認めるのは難しいんだ。僕の腕を認めたというのなら、あのひとの腕は、それ以上なんだろう」
「…………」
 一撃で鋼の甲冑ごと砕いた剣技。地面を大きくえぐった彼の技。確かに、遠く及ばないかもしれない。
 でも、そうじゃない。ディアスには決してないものを、あなたは持っているじゃない……!
 歯がゆい思いを、彼女は口にすることはできなかった。じっと、彼の自嘲的な表情を眺めるばかり。
「ところで」
 と、エグラスは席を立って、暖炉の前に歩み寄った。
「君たちはソーサリーグローブの調査のために、旅をしているそうだね」
「はい」
 返事をしてから、クロードはエグラスの背中に訊いてみる。
「エグラスさんは、ソーサリーグローブをどのように見ていますか?」
 暖炉は細かく爆ぜる音を立てながら、盛んに炎をあげている。冬というにはまだ早い季節ではあるが、夜になればこの地方は随分と冷え込む。エグラスは腕を組んで、じっと炎に見入っていたが。
「私は、一種のエネルギー体ではないかと、考えている」
 やがて、口を開いた。
「エネルギー体……ですか」
「うむ。紋章術にも、動物を凶暴化させたり、意のままに操ることのできる紋章は存在する。人間の精神からくるエネルギーとはまた異質なものかもしれないが……それでも、そう考えられなくもない」
「魔物化させる、エネルギー……」
 レナは声色を落として、呟いた。
「もちろん、一般的にはただの隕石と考えるのが妥当だろう。それだけでは説明のつかない事態も起きているが、すべてソーサリーグローブのせいだとするのは、いささか抵抗があるね」
 エグラスは、そこまで言ってから、彼らの方を振り返った。
「しかし、ラクールからいきなりエル大陸に渡るつもりかね? 私はあまり勧められないが……」
「どうしてですの?」
「あまりにも情報が不足している。だから先程の話のように、様々な見解が生じてしまう。ラクールに着いたらまずは情報を集め、充分に準備を整えた上でエルに渡った方がいいと、私は思う。……勇気と無謀とは、別物なのだよ」
 エグラスの最後の言葉に、レナは首を傾げた。どこかで似たようなことを言われた気がしたのだ。
 しばらく考えて、ふと横のセリーヌの顔を見たとき、ようやく思い出した。クロス洞穴で、エルへ行くのはやめておけとふたりに忠告した彼女。そのとき、確かに同じ台詞を言っていた。
(そっか、お父さんの受け売りだったんだ)
 そう思うと、なんだか可笑しくなってきてしまった。くすくすと笑っているうちに、セリーヌと目が合う。
「……なんですの、人の顔見て笑って」
「あ、いや、なんでもないんです。ごめんなさい」
 あわてて顔を背けるレナの態度が、セリーヌは気に食わなかったらしい。さらに突っかかってくる。
「わたくしの顔が、そんなにおかしいんですの? ちょっと、こっち見なさい。言ってごらんなさいよ」
「だから、違うんですってば……」
 鬼のような剣幕に泣きそうになるレナ。クロードは茶を飲みながら、それとなく壁にかかった絵を鑑賞している……と言うと聞こえはいいが、要するに知らんぷり、である。
「……顔はともかく、その恰好はなんとかしてほしいな。親として」
 うっかり失言して、とばっちりを食ったのはエグラス。ぼそりと呟いたところを耳ざといセリーヌに聞かれてしまった。
「お・と・う・さ・ま。今の言葉、聞き捨てなりませんわねぇ」
「いや違う、ちょっと待て、セリーヌ」
「それじゃあ、私はこのへんで……」
「あ、僕も……」
 これ幸いとばかりにレナが席を立ち、クロードもあとに続いた。
 翌朝、三人がマーズを発とうというとき、見送りに来たエグラスの顔が心なしやつれていたのは、山賊にやられた傷が完治していないせいでは、なかったのだろう。


 ──……。
 ……ナ、レナ……。

「レナ?」
「えっ?」
 レナは横を向く。心配そうにこちらを覗き込むクロードの顔があった。
「どうしたんだい? さっきから呼んでも全然答えてくれないし」
「あ……ううん、なんでもないの。ちょっと昔のことを思いだしていただけ」
 レナは微笑を返してから、綱を握り直す。サイナードが降下を始めたのだ。
 一行は次なる場へ向かうため、サイナードに乗り込んで移動をしていた。紋章生物の広い背中は八人が乗るには充分だったが、とっかかりに乏しいので、丈夫な綱をぐるぐるとサイナードの胴に巻きつけ、飛行中はそれを掴んで振り落とされないようにしている。
 どこまでも続く海原の上空を、サイナードは滑空するように駆け抜けていく。乗っているレナたちは、時折くる気まぐれな突風に煽られて、服が翻り、帽子をさらわれそうになりながらも、しっかり綱を握りしめて、身を固くする。最近はさすがにサイナードの方も慣れてきたらしく、初飛行のときの曲芸さながらな飛行は影をひそめたが、それでも離陸と着陸の際には肝を冷やす場面も、まれに起こった。
 クロードと並んで最前列を占めていたレナは、徐々に近づいてきた海面に視線を奪われながら、ふと、先程のことを考えてみた。
 どうして急に、あんな前のことを思い出したのだろう。ほとんど忘れかけていたような、ごくありふれた場面なのに。次の『場』のことを、勇気という言葉を頭の中で転がしているうちに、浮かんできたのが、なぜかあのマーズでの一夜のことだった。
(勇気と無謀、か)
 なんとなく、クロードに訊ねてみたくなった。しばらく躊躇ちゅうちょしたが、やっぱり思いきって声をかけてみる。
「ねえ、クロードは、勇気ってどんなものだと思う?」
「え?」
 クロードは首を傾げた。そして、少し考えてから、答える。
「うーん、ちょっと、ひとことで言うのは難しいかな。ただ、僕なりに考えてるのは、たぶん、人によっていろんな『勇気』があっていいんだと思う」
「いろんな、勇気?」
「うん。相手に立ち向かうばかりが勇気じゃない。逃げることも勇気になる場合もある。仲良くなる勇気、敵対する勇気、何もしないで立ちつくす勇気……その人がその人であるために起こした行動なら、それはみんな勇気になるんじゃないかな」
 レナには、彼の言わんしていることがよくわからなかった。どうして逃げることが勇気になるの? 立ちつくす勇気? そんなものがあるのだろうか? 疑問は募ったが、きっと前を見つめる彼の横顔を見ていると、それ以上問い詰めるのは何となくはばかられた。
 クロードの横顔。──そう、今はなんだかすごく、凛々しく見えた。無数の星の粒をちりばめたような青い瞳。形のよい鼻。真一文字にひきしまった口許。陽光に眩しい金髪が風にたなびき、炎のように激しく揺らめく。その姿は聡明な賢人のようでもあり、また勇猛な戦士のようでもあった。空ばかりを眺めていたあの頃の淋しさなど、今では微塵も感じられない。
 何度も助けられたとはいえ、旅を始めてしばらくのクロードはお世辞にも頼もしいとはいえなかった。セリーヌにも揶揄され、ときには叱責され、さんざんたしなめられてきた。それでも歯を食い縛って剣を振るい続け、懸命に立ち向かう彼の姿がいじらしくて、放っておけなくて、子に対する母親のような気持ちで、見守ってきた。
 けれど、ある時を境に彼は変わっていった。……そう、ディアスと戦った武具大会。あの出来事が彼に何かを芽生えさせたのかもしれない。遙か向こうの空ばかり見つめることはなくなり、しっかりと前を向き、現実と向き合いはじめた。まるで、こどもが一人前のおとなへと成長していくように。そして、母親は──。
「お、見えてきたよ」
 クロードが言った。レナは彼に向けていた視線を慌てて逸らし、進行方向に目を向けた。ごつごつした岩山の切り立つ島が、海に浮かんでいる。
「あれが、勇気の場だ」

 硬い岩板に穿うがたれた穴をくぐると、内部はひどく濃いもやが立ちこめていた。このままでは視界が悪すぎて先に進めそうもない。
「クロード、ルーンコードを」
「はい」
 クロードが鈍色の板を出して掲げると、板から光の粒が放出され、靄はしだいに薄れていった。洞内の様子も次第に明らかになる。
 彼らが立っている場所から、幅三歩ぶんほどの岩棚が、ずっと奥まで続いていた。足許からは水の流れる音がする。岩棚より一段低くなったところで、岩と岩の隙間を縫いながら、あるいはその下をくぐりながら、地下水脈が外に向けて流れ出ているらしい。天井は奥に進むにつれて高くなっていく。その先には巨大な鍾乳石も見られた。
「おい、ここになんか書いてあるぜ」
 ボーマンが横の大岩の前に立っている。セリーヌが角灯で照らした。岩の表面を削って石板とした面に、細かく文字が彫り込まれている。
の地は真の勇気を有するもののみを其の根源へと誘う。偽りの勇者は道に惑い、すべてを失うであろう。心あるものよ、願わくば畏るることなく、自らの勇気を包み隠さず進まんことを』
「……なんだろう、これは」
「真の勇気だの、偽りの勇者だの、何が言いたいのかさっぱりですわね」
「簡単に言ってしまえば、勇気を持って先に進めということですか。でもなんか、言い回しに含みがありますねぇ」
 結局、石板については後回しにして、彼らは先を急ぐことにした。
 岩棚は洞穴の中央を抜けて、だんだんと幅が広くなってきた。両側の壁の近くでは岩つららがいくつも連なっている。天井から吊り下がる円錐えんすいのつららの先から、ぴしゃん、ぴしゃんと断続的に水滴が床に落ち、その床にも石筍せきじゅんが突き出ている。あと少し(といっても数十年単位だろうが)で上のつららとと下の石筍がくっついてしまいそうなものや、既にくっついて石柱を成しているものもある。足許の、せせらぎにより近い岩床には、石灰岩の成分が溶けて流れて固まって、大きな皿か蓮の葉のような段差を形づくっている。ひとつひとつの皿には水が張り、無数の鏡を積み重ねたようでもあった。
 やがて、岩棚は二股に分かれた。ここから道が分岐しているようだ。八人は手前で立ち止まって、輪をつくる。
「さて、どうしようか」
 セリーヌが角灯ランタンを掲げてみても、道の先まで光は届かない。
「とりあえず、左に行ってみようか」
 道標みちしるべも手がかりもないこの状況では異議を唱える者もなく、クロードの言葉に他の者も無言で了承した。
 両脇に鍾乳石を臨みつつ、彼らは黙々と進んでいく。先はなかなか見えてこない。それどころか、周囲の景色が全く変わっていないような気もする。いや、実際に変わっていないのか? 左の壁際の、あの大きな鍾乳石の柱も、道のすぐ右側に並んだ三つ子の石筍も、足許を流れるせせらぎも、さっきから何度も見ているように思えてならない。
「なんか俺たち、ハマってねーか?」
 沈黙を破ったのは、最後尾を歩いていたボーマンだった。仲間たちが立ち止まって、振り返る。
「気のせいですよ。もう少し歩けば……」
「何があるってんだ?」
 ボーマンは苛立たしげに語気を荒げて、クロードに食ってかかる。
「絶対にハマってるぜ。やっぱりさっきのところを右に行くべきだったんだよ。このまま進んだって、くたびれるだけだ。戻ろうぜ」
「そんな、勝手なこと言わないでくださいよ。さっき僕が左へ行くって言ったときは、何も言わなかったじゃないですか」
「わたくしも、ボーマンに賛成ですわ」
 ふたりの間に割って入ったのはセリーヌ。
「みんなだって感じているでしょう? わたくしたち、ずうっと同じ場所を堂々巡りしていますわ。ここはそういう仕掛けなんですのよ。手遅れにならないうちに戻ったほうがいいわ」
「わかんないわよ」
 と、オペラ。
「入り口の石板には勇気をもって進め、ってあったわね。ここで心細くなって戻ったりしたら、それこそ『偽りの勇者』になっちゃうんじゃないの?」
「なるほど、そういう意味にとれなくもないですね」
 オペラの意見に、ノエルも首肯しゅこうする。
「るっせえ。んな石板がなんだってんだ。俺は戻るぜ。おまえらだけで勝手にのたれ死んでな」
 ボーマンはクロードたちに背を向け、右手を振ると来た道を引き返していく。そして、セリーヌも。
「わたくしも戻りますわ。みなさんお気をつけて」
 角灯を床に置き、予備の角灯に火を灯すと、それを片手にボーマンの後をついていった。
「ちょっと、セリーヌさん、ボーマンさんも!」
「放っておけ」
 ふたりに呼びかけたレナに、ディアスが言う。
「やつらの好きにさせればいい」
「なに言ってるのよ! 仲間でしょう!? みんないっしょに行動しないと……」
「言っても聞かないのだから、仕方ないさ」
「仕方ない、ですね」
 エルネストが、ノエルまでが口を揃える。レナは離れていくふたりと見送る仲間たちを交互に見て、狼狽うろたえた。
「みんな、どうしちゃったの? どうしてそんなに、冷たいの?」
「さあ、先に進もう」
 クロードは角灯を拾い上げて、レナの視線などまるで気にもとめずに歩き出す。ディアスが、オペラがエルネストが、ノエルが無言でつき従う。
 レナはしばらく、その場で茫然と立ちつくしていたが、ふたつの明かりが遠ざかり、自分の足許が暗くなると、やむを得ず、クロードたちの方へと駆けていった。

 道は、意外なほどあっけなく、唐突に途切れた。湿って鈍く光る岩壁が正面に現れ、そこにぽっかりと大きな空洞が開いていた。ようやくそれまでと違う景色に遭遇したことで、彼らはひとまず安堵した。ところが。
「待てクロード」
「え?」
 空洞に近づこうするクロードを、ディアスが制した。闇の奥に何かがうごめく気配と、鋭くこちらをめるふたつの眼光があった。彼らに再び緊張が走る。
 そいつは空洞の中で、洞窟を震撼させるほどにえた。それからのそり、のそりと這い出てきたのは、見上げるばかりの巨大な魔獣、フェンリルビーストだった。一歩踏み出すごとに大地を揺るがす太い足。岩のように頑強そうな胴体。そして、口の両側に突き出た、目の前の獲物たちを仕留めるには充分すぎるほど立派な牙。よだれをたらし、鼻息荒く地面を見下ろす。自分の巣を荒らされて苛立っているようにも見える。
 仲間たちはすぐに散開して、攻撃を開始した。手始めにクロードが懐に潜りこもうと駆け寄ったが、素早く反応した尻尾にはねつけられる。それならばとディアスは真正面から斬りかかる。魔獣は口をあんぐりと開けて吹雪を吐いた。かわしそこなったディアスは外套で顔を覆う。外套は一瞬で霜がこびりつき真っ白な天鵞絨ビロードのようになった。湿った地面も凍って、足が張りついてしまう。
「くそっ、動きが速いな。近寄れない」
「あたしが注意を引きつけるわ。みんなで一気にたたみかけてちょうだい」
 オペラの言葉に、クロードとエルネスト、それに、どうにか氷のかせから抜け出したディアスが霜を振り払いながら、頷いた。
 オペラがランチャーを構え、魔獣の手前の地面めがけて弾丸を放った。弾丸は岩床にぶつかると破裂し、敵の顎をかすめて火柱が噴き上がった。長い首をそらして怯む魔獣。と同時に、三人がいっせいに動いた。
 エルネストの鞭から迸った電撃が魔物の巨体を捉え、ディアスは鳳吼破で後肢を砕く。山のような躯ががくりと沈んだそのとき、クロードは高々と跳躍し、空中で剣を抜いた。魔物の姿を捕捉しながら、両手に持ちかえた剣に力を注ぐ。刃が闘気をまとった。切っ先を下に向け、その背中に降り立つと同時に盛り上がった脊椎の隙間に突きいれた。霊剣はつばと柄を残して深々と突き刺さる。しかし急所には届かなかった。叫び狂い、四肢を叩きつけて暴れる魔獣に、クロードは剣を握ったまま振り落とされる。
「だめですね。何にもまして相手が大きすぎる。ちっぽけな武器での攻撃じゃあ、致命傷すら与えられない」
 ノエルが言う。レナも為すすべなく立ちつくす。暴れ狂う魔獣に、苦戦する戦士たち。
 ああ、セリーヌさんがいれば。レナは思った。あの強力な呪紋で何とかしてくれたろうに。
 ──呪紋。
 レナははっとした。自分にだって、呪紋は使える。だが、彼女の扱える攻撃呪紋程度では、致命傷どころかいたずらに相手を刺激してしまうだけだ。もっと、もっと強い呪紋が、使えたら。
「……お願い。今だけ、このときだけでいいから……」
 レナは目を閉じた。暗闇の中に、針の先ほどの光がくすぶっている。右手を前に出して念じると、光は少しずつ、少しずつ膨張していく。
「光よ……宇宙そらに遍く星の光よ……力を貸して」
 ついに光が闇を制して、全てが光に包まれたそのとき、レナは瞳を見開いて、唱えた。
「スターフレア!」
 洞内が白熱し、激しい光が充満した。眩みかけた目を必死に開けて前を見ると、魔物の背中に白く輝く塊がいくつも降り注いでいた。魔獣は熱と焔の惨禍の中で悲痛な断末魔を上げる。
「あ、あ……っ!」
 目の前の光景にレナは恐くなって、腕を降ろしてしゃがみ込む。光の塊は唐突に止んだ。魔獣は既に動かない。それどころか、半ばけて、潰れていた。
「レナ……」
 クロードが、仲間たちが驚愕の表情でレナを見る。どろどろに熔けてなおも蒸気を上げている、もはやどこの部位であったかもわからない、かたまり。今のこの状況を、誰よりも信じられなかったのは、レナ自身だった。

 熔けた魔物の死骸は岩棚の幅いっぱいに広がって、道を塞いでしまった。異様な臭いも周囲に立ちこめてきた。六人はひとまずその場を離れて、すこし戻ったところの道の途中で、再び集まった。
「ここから、どうするんだ? 進むか戻るか。進むとしたら、あの魔物が出てきた洞穴しかないが」
 エルネストが言うと、クロードは。
「もちろん進みますよ。道が通れるようになったら、あの中に入ってみよう」
「ちょっと、冗談じゃないわよ。またあんなでかいのが出てきたらどうするのよ」
 オペラが難色を示した。
「俺は構わんぞ」
 と、ディアス。
「あんたたち正気?」
 オペラは怪訝そうにふたりを見てから、隣のエルネストの意見を仰ぐ。
「俺も興味はあるが、狭い洞穴の中で魔物に襲われたら、それこそ一巻の終わりだからな。悪いが遠慮しておくよ」
「僕も、魔物が出てきたような場所に入りこむのは、得策ではないと思いますがねぇ」
 エルネストとノエルが口々に言うと、クロードの表情が険しくなった。
 ……険悪な雰囲気。また、仲間が分裂しようとしている。レナはうつむき、膝の横にあてた拳を握りしめる。
「さっき戻っちゃいけないって言ったのはオペラさんでしょう。今戻ったら、何の意味もないじゃないですか」
「ああ、もう、こんな危なっかしい試練なんてやってらんないわ。悪いけどパス。探検ごっこはあんたたちだけでやってなさい」
「そうですか。じゃあ、僕らだけで行きますよ。角灯はこっちで持っていきますから、帰るときは足下に気をつけてくださいね」
 クロードが角灯を持ってさっさと立ち去ろうとした、そのとき。
「やめて!」
 レナが叫んだ。鋭い声が洞内に反響する。クロードたちは目を丸くして彼女を見た。
「もう……もうやめて! みんな、ほんとにどうしちゃったの!? 昨日まで、さっきまであんなに仲良くしてたのに、なんで急にこんなバラバラになっちゃうの? どうしてそんな勝手なことするの?」
 悲痛に訴えてから、レナは何度も首を振る。
「……違う、こんなんじゃない。こんなの私が知ってるみんなじゃない。洞窟に入ってから、みんなおかしくなった。優しさも思いやりも、ぜんぶ洞窟の外に置いてきてしまった。目を覚まして、お願い……」
 瞳が潤み、喉がゴツゴツ痛くなる。それでも精一杯に声を張り上げた。全員が、黙ってレナを見る。レナもそれ以上言葉が出なくなり、うつむいた。長い沈黙が続く。
「……そう、だな」
 クロードが口を開いた。
「僕も、どうかしていたかもしれない。むきになりすぎた」
「確かに、お互い意固地になってしまったかもしれませんね」
「こんな場所でいさかいを起こしたところで、得るものは何ひとつないな。レナの言う通りだ」
「なによ、急に和解ムードになっちゃって。あたしの言うことは聞けなくても、可愛い女の子の言うことは聞くわけね。なるほど」
 オペラは両手を腰に当ててむくれたが、すぐに口許を緩める。
「ま、いいわ。レナに免じて許してあげる」
 レナは、そっと顔を上げた。正面にいたクロードがこちらを向いて、優しい笑顔を返した。
「レナ、ありがとう」
 ああ、いつものクロードだ。レナもなんだか嬉しくなって、笑みがこぼれた。
「そういえば、ボーマンたちは無事だろうか」
「そうね。あのふたりだから、滅多なことはないだろうけど」
 エルネストとオペラの言葉にクロードも頷いて、角灯を反対方向の道にかざした。
「急いで戻ろう」

 急がずとも、ボーマンとセリーヌの姿はすぐに見つかった。ただし、あまりに大きな「おまけ」もついてきたが。
「あらら、こっちも大変そうねぇ」
 岩棚の下で、ボーマンたちはもう一匹のフェンリルビーストと対峙していた。周囲の鍾乳石はことごとく破壊され、水の張った地面もまだらに凍りついていた。
「みんなはそこにいて。僕とディアスで助けに行く」
 そう言い置いて、クロードはディアスを伴って岩棚の下へと降りていった。
 ボーマンが魔獣の頭に向かって跳躍した。待ちかまえていた魔獣は大口を開ける。吹雪を吐くつもりだ。次の瞬間に備えて腕で顔を覆うボーマン。しかし吹雪は来なかった。魔物は背中に走った衝撃に呻いている。ディアスが空中からクロスウェイブを放ったのだ。クロードは下からすれ違いざまに左側の後肢と前肢を斬りつけて、魔物の正面に立った。ふたりの出現に調子の狂ったボーマンは、空中で相手の鼻面を蹴って身をひるがえすと、クロードの横に着地した。
「おまえら、何しに戻ってきた」
 素っ気なくクロードに言うと、すぐに敵の懐へと駆け出していった。クロードは肩をすくめ、背後にいたセリーヌに何事か指示を送ってから、後を追う。
「僕としては、放っておいてもよかったんですけどね」
 ボーマンと併走しながら、クロードは言った。岩の塊のような前肢がふたりに襲いかかる。それぞれ左右に躱すと、クロードはもう片方の前肢の前に立った。剣を抜いて横に構え、一閃のもとに振り抜く。闘気が刀身の倍ほどまで噴き上がり、太い前肢をいとも容易く斬り落とした。ボーマンは跳躍して魔物の脳天に踵落かかとおとしを決める。
「でも、あなたたちがいないとレナが悲しむ。だから僕は助ける。……とりあえず、そういうことにしといてください」
 地面に降りたボーマンは、クロードを見てフッと笑った。
「レナのため、か。お前らしいな」
「それは褒め言葉と受け取っていいですか?」
「はっ、言ってろ。バカップルが」
 ふたりは後ろを振り返った。セリーヌが詠唱を終え、杖をかざしているところだった。
「サンダークラウド!」
 天井から稲妻が降り注いだ。魔獣は電撃に打たれ、腹の底まで響く咆哮ほうこうをあげた。しかし、両眼の輝きはまだ失われていない。それを見たクロードは、とどめを刺すために跳躍した。岩棚よりも、魔物の巨体よりも遙かに高く。右手に持った剣を振りかぶる。刃の霊気がいちだんと激しくなる。渾身の力をこめて、クロードは剣を振るった。
「ソードボンバー!」
 振り抜いた刃の切っ先から闘気が放たれ、灼熱の彗星となって地面に流れ落ちた。砕ける岩床。吹き飛ぶ鍾乳石。巨体が舞い上がり、壁に叩きつけられる。その衝撃で洞窟が大きく揺れた。天井に亀裂が走り、砂粒がぱらぱらと振ってきたが、程なくして振動は治まった。
 魔獣は壁際で、横腹を大きく抉られ絶命していた。クロードは岩棚に着地すると、亀裂の入った天井を見た。ボーマンにセリーヌ、仲間たちも集まってくる。
「ちょっと、やりすぎたかな……」
「やりすぎ、だな」
「やりすぎですわね」
 周囲の視線を一身に受けて、クロードは頭を掻いた。
「まあ、なんにせよ、助けてもらったのだから、礼は言わなきゃいけませんわね」
 セリーヌが微笑を浮かべて言った。そのとき、周囲が急にもやに包まれる。
「な、なんだ?」
 靄はどんどん濃くなり、天井も床も、八人の仲間たち以外には何も見えなくなってしまった。
「どうなったんだ?」
 狼狽ろうばいしているうちに、靄はすぐに晴れてきた。しかし、その向こうにぼんやりと見えてきたのは鍾乳石でも岩棚でもなく、全く見知らぬ景色だった。
 洞窟の中にこしらえた宮殿、といったところだろうか。天井に吊り下がったシャンデリア。壁際に明々と灯る燭台。床は色褪せた絨毯が敷かれ、何本もの石柱が整然と並んでいる。その中心に、彼らは立っていた。奥の一段高くなったところには、杯のような形状をした台座が設えてある。台座の両側には、双子の女神像が向かい合って座り、ふたりで何かを受け止めるように片手を差し出している。
〈心あるものよ、よくぞ試練を乗り越えました〉
 美しい女の声が聞こえた。どこから発せられているかわからなかったが、あるいは目の前の女神像が彼らに語りかけているのかもしれない。
〈この宮殿は、勇気の場の真の姿。偽りの勇気を克服し、真の勇気を得し者のみにその姿を現すのです〉
「真の勇気とは、なんだったんですか?」
 レナが、女神像に問いかける。
〈……内面にいて偽らざる行為、それが真の勇気です。偽りの心を内に秘める者は、たとえ行為が善きものに属していたとしても、真の勇気とは云えません。洞窟が表すもの、それはすなわち自らの内面です。その中での行為は、自らの内面に従って表出した、その人なりの勇気です。内面の勇気を自覚し、偽りの心を克服しようとするとき、真の勇者への道は拓かれるのです〉
「……全然、わかんない……」
 レナは困ってクロードを見、クロードは困ってエルネストを見た。
「つまり、こういうことだろう」
 エルネストは苦笑しつつ、説明する。
「さっきの洞窟は、俺たちをテストするための幻だったのだろう。その中では、我々が隠してきた内面……不審や欺瞞ぎまんねたそねみ……そんなものが、そのまま行動に表れてしまう」
「じゃあ、みんなバラバラになってしまったのも、僕らの内面のせい?」
「そうだな。普段はこうして統率がとれているように見えても、実はそれぞれ、些細な不満を抱いていたのかもしれんな。あの女神がいう『真の勇気』というのは、内面と合致した行為のことを指すのだろう。だから、少しでも不満を持っていたのに、それを隠していた俺たちの行為は『偽りの勇気』だったわけだ。内面と行為を合致させれば……あの通りだ」
「でも、レナは……」
「ああ。ところがレナは違った。レナだけは最初から『真の勇気』を持っていたんだ。おかげで俺たちは自分の内面を自覚する……内在する不満を知り、正すことができた。レナが、俺たちの内面までも変えてくれたんだ」
「そんな……」
 レナは頬を赤くした。そんな大それた話になるとは思ってもみなかった。
〈さあ、真の勇者よ、ネーデの根源を受け取るがよい〉
 双子の女神像の中心が紅に輝く。光が消えると、その掌には緋色の珠が出現していた。
「そうだ、宝珠を……」
 クロードとレナが台座に上がる。燃え盛るようにかがやく宝珠を眺めているうちに、また、意識が遠のいていった──。


 ……レナ、レナ……。

 あなたは、だれ?

 わたしは、あなたよ。

 あなたは、わたしなの?

 そう。でも、いまのあなたは、わたしじゃない。

 ……なんのこと?

 レナ、あなたは、すべてを捨てる勇気がある?

 捨てる、勇気?

 ネーデ人として、最後の時代の担い手として、すべてを捨てる勇気を、あなたは、もてるかしら?

 どういうこと? すべてを捨てるって、なんなの?

 いいわね、すべてを捨てたとき、あなたは、わたしになれるの。

 待って! わたしに教えて! 捨てる勇気って……。

 ……さようなら……。

 ……行ってしまった。消えてしまった。

 わたしはいつも、ひとりぼっち。

 ──なぜ?

 わたしはすべてが、みんなと違う。

 ──どうして?

 勇気なんて、わたしにはない。いつだって、わたしはなにかに怯えていた。自分自身にさえ。

 ──ひとによっていろんな勇気があっていいんだ。

 クロード、教えて。わたしの勇気って、なんなの?

 ──立ち向かう勇気。

 ちがう。

 ──逃げる勇気。

 そんなんじゃない。

 ──仲良くなる勇気、敵対する勇気、何もしない勇気、真の勇気、偽りの勇気、無謀と勇気は別物。勇気ゆうきユウキ勇──

 やめて! やっぱりわたしには、勇気なんてない!

 ──捨てる、勇気。

 それでも、捨てなくちゃいけないの?

 ……わかった。やってみる。

 わたしはいつも、ひとりぼっち。それなら、捨てることなんて、こわくない。

 さびしくなんて、ないんだから……。


「レナ……?」
 意識が戻ってからも、レナは緋色の宝珠から目を離さなかった。台座の上に、ひとつぶの雫がぽとりと落ちて、乾いた石に吸い込まれる。
「どうかしたの?」
「……ううん、なんでもない」
 少女は宝珠を手にする。その胸にひとつの決意を秘めながら。それが一体なにをもたらすのかを、彼女はまだ、知らない。
「さあ、次の場へ行きましょう」

5 愛のかたち ~愛の場~

 赤い布が張ってある四角い小箱に、色違いの口紅が所狭しと並んでいる。ラヴァーはその中から、ベージュがかった赤色をしたものをつまみ上げると、鏡の自分と向き合って唇に紅の先端を押し当てる。
 この日、珍しく機嫌のよかったラヴァーは、フィーナルの中に設けられた一室──もちろんこれも空間を歪めて作られたものだ──で、身支度をしていた。金と黒の縁取りが揺らめく炎を模したような鏡台の前に腰掛けて、鼻歌まじりに紅をさす。部屋には鏡台の他に、黄金色に輝くベッドも置いてあった。ぬらぬらと濡れたように光る絹のシーツの上には、等身大の熊のぬいぐるみが横たわっている。四方の壁は悪夢のようなピンク色の壁紙が張られ、壁掛けの一輪挿しには赤と白のバラの造花が挿してある。個別に見ると統制のとれているようでも、全体として見るとそうでもない、奇妙な部屋だった。
 メイクが一通り完了し、鏡台に顔を近づけてまつげの様子を確かめる。そのとき、背後に一陣の風が吹き抜け、白銀の髪の男がそこに現れた。
「んまっ、ルシフェル様!」
 ラヴァーは振り返ると、目を剥いて彼に抗議する。
「いきなり部屋に入ってこないでって、前にも言ったでしょう?」
「ドアがあればノックもできたのだがな」
 ルシフェルは口許をつり上げた。
「いよいよ、お前を遣わさなくてはならない展開になってきたようだ。奴らは四つの場のうち、既に三つを攻略している」
「あら。ということは、あの雪山に送ったクズどもはみんなダメだったのね。まったく、揃いも揃って能無しなんだから」
 ラヴァーは口紅の入った小箱の蓋をぱたんと閉めて、溜息をついた。
「あの『試練』が奴らに何をもたらすのかは知らんが、このまま野放しにしておくのも目障りだ。私の崇高すうこうなる計略を、下等生物ごときに邪魔されたくはない……だから」
「わかってるわ」
 ラヴァーは背伸びして、長身のルシフェルの首に手を回すと、瞳を細め、耳許に囁いた。
「あのときから始まったあなたの計画が、三十七億年もかけて、やっと実を結ぼうとしている。ガブリエルも、下の賢者たちも、生みの親さえも利用したあなたこそ、宇宙の支配者にふさわしい」
 ラヴァーはルシフェルから離れて、背を向ける。髪を束ねていた紐を無雑作に解くと、金色の髪が背中に落ちて広がった。
「最後の場は、どこ?」
「愛の場だ。ネーデの中心に漂う浮遊島」
「愛の、場……」
 その名を呟くと、彼女はしばらく何かをしきりに考えていた。しかしルシフェルの視線に気づいて、すぐに頭を振る。
「それじゃ、行ってくるわ」
「吉報を期待しているぞ」
 ルシフェルが言うと、彼女は薄く微笑を洩らし、そして部屋から消えた。

 ……愛の場。愛の場か。
 なんてあたしにふさわしい場所なんだろう!
 あたしは愛に生きる。あのひとの愛を求め、渇望し、あのひとを振り向かせるためにはどんなことだってしてきた。
 そう、三十七億年前のあのときも、あのひとの世界を覆さん一言にあたしは躊躇ちゅうちょなく従い、実行した。そして、計略通りにネーデは終わった。
 世界なんて、宇宙なんてどうでもいい。あたしは、ずっとあのひとのそばについていきたいだけ。どんどん遠くに行ってしまうあのひとを、必死に追いかけて、追いすがっていくだけ。
 あたしはラヴァー。愛に生きる女。あたしの心と体は、すべてあのひとのためにあるのだから。


 ネーデの中心に位置する浮遊島は、普段は雲に紛れつつ漂う、巨大な岩の塊でしかない。だが、今は岩の隆起から隆起へと、橋のような道がいくつも渡されている。道は岩の隅から隅までひたすら続き、その端には、神殿というには小さく、祠というには大きすぎる建物も臨めた。
「あら、もう封印が解かれてる」
 上空から浮遊島を見下ろしていたラヴァーは、岩の台地に蹲って休んでいる動物を見つけた。サイナードだ。その台地から始まっている道を視線でたどっていくと、すぐに人間たちの姿も見つかった。
「いたいた、呑気に歩いてるわ」
 岩の峡谷きょうこくに架けられた石の橋を渡っている彼らを眺めながら、ラヴァーは考えた。このまま上空から奴らを急襲するのも手だが、実力の知れない者たちをいきなり相手するのもどうか。もっと確実に、奴らを仕留めるには。
「じゃ、しばらく遊んでいてもらおうかしら」
 ラヴァーはひとさし指を前に向けて、くるくると回した。前方に拳大ほどの闇が生じ、膨れあがって姿見ほどの大きさになる。そこから勢いよく何かか飛び出し、彼女の周囲に集った。漆黒のローブにこぶのついた杖を持ち、死人のような紫色の肌をした老人。円盤の下部から触手のようなものが無数生えている奇妙な生物。巨大な盾を油断なく構えた鎧戦士。いずれ劣らぬ屈強の魔物たちだ。
「あんたたちの仕事は、わかってるわね。……行きなさい」
 ラヴァーが下の一行を指さす。魔物は自分たちの敵を認識して、降りていった。行く手を遮るように降ってきた魔物に人間たちは驚き、すぐに道いっぱいに広がって戦闘にかかる。ラヴァーはその様子には目もくれず、身を翻すと別の場所へと移動を始めた。
「あれで始末がつけば苦労はないけど……まあ、少なくとも時間稼ぎにはなるわね」
 彼女が向かった先は、道の終点にある建物。両側から分厚い煉瓦の壁に挟まれた門の前に降り立つと、逡巡しゅんじゅんすることなしにそこをくぐる。
 建物の内部は、奥からこんこんと湧き出る水で満ちていた。半透明な方形のブロックが、まるで子供が遊んで散らかしっぱなしにした積み木のように、雑然と積み重なり、柱や壁を形成している。淡い水色をした床一面には透き通った水が張ってある。水は全く濁りも澱みもなく、奥から手前への流れで水面が微かに揺れていなければ、硝子張りの床だと思って足を踏み入れてしまいそうなほど。周囲には静寂が立ち籠めており、奥から断続的に聞こえる、ぽこ、ぽこという水の湧き出る音さえ耳についた。やはり半透明をした天井からは、柔らかな光が差し込み、揺らめく水面に降り注いで脈をうつ。
 入り口から中央の一段高くなった円形の床までの細長い道を、ラヴァーは靴音を響かせ歩いていく。やがて円形の床の中心に辿り着くと、立ち止まり、つまらなさそうに辺りを見渡す。
「なによ、なんもないじゃないの。どうなってんのよ、試練とやらは」
〈愛の試練とは、すなわち貴女自身の『愛』と対峙することです〉
「だれ!?」
 ラヴァーは前方を刮目かつもくした。奥の、水の湧き出ているあたりから、ひとりの女性がゆっくりとせり上がってきた。
〈貴女の愛は、どこにありますか?〉
 女は問うた。水面に爪先が触れるか触れないか、ぎりぎりの位置に浮かびながら。そのかおは悠然とした美しさを孕みつつも、厳格な母の表情も同時に見え隠れしていた。水を具象化したような、薄いゆったりとした衣裳。陽光のごとく輝く金髪。そのどちらもが、風もないのになびいている。
「あたしの、愛だって?」
 ラヴァーは鼻で笑ったが、表情は強張こわばっていた。彼女は狼狽ろうばいしていた。そこに立っている女は、どことなく自分と似ているのだ。なのに、女は、自分とは何から何まで正反対だった。まるで光と闇、白と黒、コインの表と裏のように。
「ふん、上等な口きいてくれんじゃないの」
 挑発するような笑みを浮かべながら、ラヴァーが言った。
「あたしの愛? そんなもの、どこにもありゃしないよ。なぜなら、あたし自身が愛そのものだからさ。ルシフェル様と生き、ルシフェル様と滅ぶ。それがあたしのさだめ。このからだはあのひとの一部であり、あたしはあのひとの愛の全てを担っているんだよ」
 女は表情ひとつ変えずに、無言で彼女を見つめ返す。言うことを言い終えたラヴァーも、恨めしそうに女を睨みつける。
 ──畜生、嫌な静寂だ。
 彼女は歯を食い縛った。握りしめた拳の中はじんわりと汗ばんでいた。
 やがて、彼女を見つめる女の瞳が、わずかに憐憫れんびんの色に変化した。
〈貴女の愛には、迷いがあります〉
 そして、淡々と語る。
〈愛されることへの不安。愛されぬことへの苛立ち。不安定な天秤の中心で、貴女は藻掻いています。どちらに傾くこともできずに、立ちつくしています。いや、貴女はどちらにも傾くことができない。不安定な天秤の中心、それこそが自分の存在理由であることを、みずから承知しているからです〉
「なんだって……?」
 ラヴァーは目を丸くした。それから沸々と、怒りが湧いてくる。呼吸が荒くなり、顔が紅潮する。
「迷いだって? ふざけんじゃないわよ。身も心もルシフェル様に捧げたこのあたしのどこに、迷いなんか……」
〈自覚なき迷いが導く先は破滅以外に他なりません。それは闇夜に生きるものが見るうたかたの夢。夜が明け、現実に愕然がくぜんとする前に、目覚めるのです〉
「黙れぇっ!」
 ラヴァーは叫んで指を突き出した。たちまち女の頭上に雷が生じ、一瞬にして細身の身体を貫いた。光が炸裂し、水飛沫が舞った。大粒の水滴は無数の波紋を残して水面に吸いこまれ、ごく微細な水の粒は霧となって周囲を漂う。飛沫をいくらか浴びたラヴァーが霧の中を凝視すると、女の姿は、そこから消失していた。
「不安だと? 苛立ちだと? そんな、そんなことが……」
 濡れた掌を見つめて、彼女は肩を震わせた。
 そのとき、背後に気配を感じた。ハッとして素早く振り返る。入口の門のところに、人間たちの姿があった。まだこちらには気づいていない。ラヴァーは感情を押し込め、当たり障りのない笑顔をつくって彼らを出迎える。
「ようこそ。わたしがこの泉の精霊です」
 両手を広げて微笑む彼女に、人間たちはすっかり騙された。
「ここが、終点なんですか?」
 先頭に立っていた金髪の青年が訊いた。
「ええ。あなたがたには、これから試練を受けていただきます」
「試練?」
 三日月の髪飾りをつけた少女が、青年の背後から顔を出す。
「はい。といっても、いくつか質問に答えてもらうだけですが……」
 言いながら、ラヴァーは背中で左手をくるくると回す。彼らの頭上に生じた闇の塊には、誰も気づかなかった。
 闇の中から二体の牛頭の魔物が飛び出したところで、ラヴァーはことさら大げさに、アッと驚いて彼らの頭上を指さした。
「なに!?」
 降りてきた魔物に人間たちは素早く散開して敵を囲んだ。
「こんなところにも魔物が」
 牛頭の魔物は地面すれすれを浮遊している。金髪の青年が剣を抜いて斬りかかるが、敵はふわりと上昇してあっさりと躱してしまう。
 狭い建物の中での戦闘が始まった。刃がきらめき、呪紋がほとばしる。限られた足場での戦闘は、人間たちに不利に働いた。相手はふわふわと宙に浮き、床も水面もお構いなしに動き回る。それを追っているうちに、誤って泉に転落してしまう者もいた。
 つかみどころのない敵に苦戦する人間たち。当然、泉の精霊であるラヴァーには、気にもとめない。彼女はほくそ笑んだ。
 いちばん近くにいたのは、自分の背丈よりも大きな銃を構えているつ目の女。彼女に標的を絞ったラヴァーは、背後から忍び寄り、そしてひと思いに飛びついて羽交い締めにした。銃が、乾いた音を立てて地面に転がる。
「ああっ!」
「おっと、暴れんじゃないよ」
 ラヴァーは金髪の女のくびに腕を回し、力を込めた。呻きを洩らす女の顔が赤くなる。
 背後の不穏な動きに、人間たちはようやく気づいて振り返る。ラヴァーは邪悪な笑みを彼らに向けた。
「驚いたかい、ククク。そうさ、あたしは精霊なんかじゃない。本物の泉の精霊など、とうに消してやったよ」
「なんだって?」
 立ちつくす人間たちを後目しりめに、ラヴァーは三つ目の女を抱えたまま、ゆっくりと浮上していく。
「あたしはラヴァー。偉大なる十賢者様のしもべ。あんたたちに恨みはないが、これも命令だ。おとなしく往生しな」
 言いながら、腕の力をさらに込める。女の顔から血の気が引き、みるみる青ざめていく。
「やめろ! 彼女を放すんだ!」
「お黙り。あんたたちの相手は、あたしじゃないんだよ」
 青年の背後から牛頭の魔物が殴りかかる。咄嗟に反応した青年は身体を反転させて剣のしのぎで拳を受け止める。青年が気合いを発すると剣から青白い霊気が噴きあがった。魔物は慌てて拳をひっこめる。
 三つ目の女は、ラヴァーの腕の中で必死にもがいた。頸を絞めつける腕を掻きむしり、足をばたつかせる。
「おとなしくしなって言ってるだろうが!」
 執拗に抗う女が煩わしくなり、ラヴァーは思わず怒鳴りつけた。
「それとも、先に死にたいのかい?」
 そうして、人差し指の腹で彼女の頬を撫でる。鋭く伸びた赤い爪が鼻先を掠め、その爪の鋭さに、女は戦慄した。
「それにしても、あんた、いい女だねぇ」
 ラヴァーは陶然とうぜんとした口調で言いながら、爪の先で頬骨のあたりをなぞっていく。
「あたしはね、美人を見ると、どうしようもなく……しゃくに障るんだよ」
 悪魔の微笑。爪の先が形のよい唇に達し、口の中へと押し込まれる。指で口がこじ開けられ、爪が喉の奥まで入りこむ。女は激しくせた。
「苦しいかい? 苦しいだろう。いま楽にして……あん?」
 ひゅん。耳許で何かが空をきった。避ける間もなく彼女の腕に巻きついたのは、しなやかな黒い鞭。腕の肉に食い込んだきり、離れない。
 一体どこから。ラヴァーが視線を流して鞭をたどっていくと、背後の空間が円形に切り取られ、鞭はそこから伸びていた。ハッとして床を見下ろす。女と同じ第三の目を持った男が、鞭を振り下ろした恰好のまま、そこに立っていた。
(こいつ、空間を操る術を……ッ!)
 男は鞭を引いた。ラヴァーの腕に巻きついた鞭の先も引っ張られる。口から指が抜けて身動きがとれるようになった女は、ラヴァーの腹に肘鉄を食わせて束縛から逃れた。
 女が地面に降りたのを確認すると、男は腰を落とし、こんどは両手で容赦なく鞭を引いた。勢いよく引かれたラヴァーの腕が、鞭の巻きついた部分でぶつりと千切れた。凄まじい呻きが建物に響き渡る。
「畜生! この下等生物どもがぁッ!!」
 正気を失ったように叫び狂いながら、ラヴァーは無差別に稲妻を落とした。人間たちは跳び退いていずれも直撃は免れたが、稲妻が床にぶつかった際に巻き起こった衝撃波で、近くにいたものは吹き飛ばされ、泉に落ちた。
 三つ目の女は地面を転がって雷を避け、落ちていた銃を手にすると片膝をついて、起き上がりざまに弾を発射した。ラヴァーはすかさず無事な方の腕を突き出して防御壁をつくる。銃弾は見えない壁に弾かれ半透明の天井に突き刺さった。
 ラヴァーが気を緩めて防御壁を解く。ところが、その瞬間を見逃さぬ者がいた。気配に感づいて振り返ったときには、既にその男は真後ろで構えていた。
「醜いな、その姿。この世に生きる価値もない」
「なっ!」
 長身の男の剣が斜め下から上に突きあげられる。腰から背中をばっさり斬られたラヴァーはついに力尽き、盛大に飛沫をあげて泉へと落下した。
(畜生。こんなところであたしは死ぬのか)
 水中深くへ沈みながら、彼女は思った。冷たく暗い闇の足音が近づいてくる。そのとき、視界の端に誰かが立っているのが見えた。
 それは泉の精霊だった。相変わらず人を憐れむような、胸くそ悪い視線をこちらに向けている。
 生きてやがったのか。それとも、あたしを迎えにきた?
 ……畜生。何が迷いだ。不安だ苛立ちだ。あたしは、ぜったいに、みと、め、ない、から──。
 彼女が初めて流した涙は、水の中にて儚く消えた。闇が覆いつくさんとする視界の彼方で、泉の精霊は、白銀の髪をした想いびとの姿へと変わっていた。


 ──冷たい部屋。
 壁も床も机もまっしろで、ぎらぎら光っている。天井からの白い明かりに照らされて、そこは昼間よりも明るかった。
 まぶしいよ。もっと暗くしないと、眠れないよ。私は目をこすった。
 ──え?
 気がついたら、私は赤ん坊になっていた。だれかの腕に抱かれて。あったかい胸に顔を半分埋めて。
 あなたは誰? 私は顔を上げて、そのひとの顔を見たかった。けれど、顔を上げることはできない。私は赤ん坊なのだから。
 頭の上から、そのひとが囁きかけてくる。なにを言っているのかはわからない。でも、その声を聞いているうちに、なんだか心地よくなってきた。私は目を閉じる。
 柔らかな歌声が、耳元をくすぐる。優しく、そしてちょっとだけ哀しいメロディ。ああ、前にもこんなことがあったな。誰かの腕の中で揺られながら聴いたのは、確かにこの子守唄。やっぱり、あなたは。
 心地よい旋律が誘うのは、安らかな眠り。まどろみのうちに、赤ん坊わたしは静かに寝息をたてはじめた。
 ──おやすみ。


 意識が失われるのは、いつも数秒のことだった。けれど、そのわずか数秒の間に、レナは、そしてクロードは、自らの心のうちを透かされたような幻を見るのだった。
「大丈夫かい、レナ?」
 意識が戻ってからもしばらくぼうっとしていたレナに、クロードが呼びかけた。彼の手には、ほんものの泉の精霊から譲り受けた緋色の宝珠が握られていた。
「うん、平気よ。ごめんなさい」
 レナは微笑を返して、それから背後を振り返った。牛頭の魔物の死骸が、ふたつ。ひとつは床に横たわり、もうひとつは水面に浮かんでいた。主人をなくした手下の魔物を倒すのは、これまで厳しい戦いを潜り抜けてきた彼らにとっては、雑作もなかった。
「とにかく、これで四つの場すべての試練は終わったんだな」
 クロードが仲間たちの許に歩み寄って、言った。
「セントラルシティに戻ろう」