■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [レナ編]


第八章 至高天エンピレオの神々

 ついに、我が至願が達せられるときが来たのだ。
 時空間の狭間を彷徨さまよい、絶望の淵に瀕するともなお涓埃けんあいたる期待に大望を託した。
 そして、時は動き、時は満ちた。
 この宇宙において唯一絶対なる存在、それが私だ。
 神などというものが実在するならば、それは私のことだ。
 我が掌上に握らんとする銀河宇宙の、何と矮小わいしょうなことか。
 普遍にして不変たる万物のことわりとやらも、まるで幼稚な機械仕掛けではないか。
 我が理論は完璧、我が肉体は完全。我が蹂躙じゅうりんこそが万物において自然であり、本儀なのだ。
「ようやく戻ってこられましたな。我らのネーデに」
 高揚した気分を害したのは、傍らにいた我が同胞がひとり。剛悍ごうかんな気性と強靱な肉体だけが取り柄の能なしだ。
「だが、あの虫けらどもも一緒に来ちまったようだが」
 ぼんくら兄弟の片割れがしゃあしゃあと口を挟む。配下を遣って姑息に嗅ぎ回る鮟鱇あんこう武者が。
「それは仕方がない。あの場所にいたのだ。死んでいない限りそうなっていたはずだ」
 応じたのは甲冑をまとった朴念仁。そんなに我が身が大事なら貝のように一生殻に閉じこもっておればよかろう。
「どうする、殺るか? かなり遠くに飛ばされちまったようだが」
 兄弟のもう片方が言った。野卑な言動と下劣な風貌はもはや直視に堪えがたい。
「捨て置け……どうせ何もできはしない」
 草色のローブのものが呟く。頭巾フードの奥に潜むふたつの眼光がいかにも陰気だ。
「気になるのはネーデ人の少女ですね。なぜあの場にいたのでしょう?」
 小賢しい口を叩くは年端もいかぬ子供。言葉と態度だけは一人前のつもりか。
「わからぬ。今のネーデから抜け出すことは不可能なはずじゃが」
 くたばり損ないが老獪な面構えをして言う。愚かな老いぼれはとっとと隠居して遁世したらどうだ。
〈恩寵の子よ〉
 奴が、おもむろに口を開いた。が、私は無視する。
〈その目を地の底ばかりに注ぐならば、ここの法悦は汝にはそれが知覚せしめることはあるまい。王国が服従し崇敬する元后の坐し給うのを見るまでは、諸々の環の最も遠きものまで眺めるがよい〉
「ガブリエル様?」
「ただの欠陥品バグの戯言だ。放っておけ」
 そう……奴はなんと醜穢しゅうわいなことか、欠陥品バグなのだ。しかし、奴の欠陥バグは我らの欠陥でもある。完全であるべき私にとって、堪えがたい汚点だ。
「未だ芽も出ぬ種をおそれて待つよりも」
 私は言った。
「まずは、我らの計画を進めることが先決だ」
「スベテハ、コレカラハジマルノデスカラ」
 木偶でく人形に言われずともわかっている。
「ああ」
 累々と積み重なった愚昧なる人間どもの骸──その上に、ルシフェルは立っていた。


 フィーナル、陥落。

1 創られた楽園 ~セントラルシティ~

 誰かに呼ばれたような気がして、レナはそっと目を開けてみた。柔らかな日射しが目の前いっぱいに広がり、すぐに目を細める。
「レナ?」
 日射しと金髪が半ば重なってすぐにはわからなかったが、横たわるレナの傍でクロードがこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫?」
 クロードは安堵をにじませた微笑を浮かべて言った。だがレナは身体を起こしながら、その声に違和感を覚えていた。
「さっき、私を呼んだのは……あなたなの、クロード?」
「え? そうだけど……」
 ──違う。クロードじゃない。
 声そのものをとうに忘れているのに、奇妙な確信があった。
「よう、お姫様のお目覚めか」
 クロードの背後に歩み寄ってきたのはボーマン。
「他の連中も見つけてきたぜ。みんなこのへん一帯に転がっていたみたいだ」
 周囲に目を向けるとなるほど、他の仲間も続々と集まってきている。
 レナは立ち上がった。
 森を切り拓いた道のような場所に、彼女たちはいた。脇には腰丈ほどの草花が咲き乱れ、道沿いにずっと続いている。道の両側は鬱蒼とした森。見上げるとそのさらに奥には崖がそばだち、花崗岩の壁がちらちらと陽光を反射している。道の先は緩い下り坂になっているらしく、遙か遠方に霞がかった山並みを臨めるばかり。
 心なし頭をもたげて、レナは瞼を閉じた──それは何という理由もなく、ただ彼女の自然からきた動作であった。小鳥のさえずり、木立のざわめき、そこらを飛び交う蝶の落とす鱗粉までもが、きらびやかな旋律となって感じられそうな気がする。日射しは暖かく、彼女の青い髪をくすぐるように揺さぶる風も穏やかだ。
 世界に溶けこみ、一体となっていく自分を、少女はそこに見出した。自身で自分というものを自覚できたことは一種不思議な感覚であったが、それがこの場の一部であると考えると、それほど抵抗もなかった。
 ああ、そうか。ここが私の場所だったんだ。
「ここは……どこですの?」
 セリーヌが怪訝そうに辺りを見回している。
「まさか天国……じゃ、ないよな」
 ボーマンが呟くと、隣にいたオペラが彼の頬を思いきりつねった。痛がるボーマンを確認するとすぐに手を放して。
「そういうわけでもないみたいね」
「てめぇで試せ、てめぇでッ」
 赤くなった頬をさすりながら、ボーマンは涙目に言った。
「ここは……外壁楽園。ネーデの南西に位置する人類起源の地」
 全員が驚いてレナを振り返った。レナ自身は何の反応も示さず、薄青い空を眺めるばかり。意志とは関係なく、発するべき言葉を彼女の口が紡ぎだした、という感じだった。
「レナ?」
 そのとき、レナの中をなにかが奔流となって駆け巡った。頭を強い力で締めつけられているようで、両手でこめかみを押さえてその場に蹲った。
「くうっ……いやぁ」
 目が眩んだかのように視界が真っ白になる。指先は戦慄わななき、動悸が今にも喉の奥から飛び出してきそうだ。なにかが流れ込んでくるのを、彼女の中のなにかが拒んでいる。閉ざされたこころと開かれた真実。氷は炎によって融解せられ、やがてあるべき水へと還る。
「レナ!」
「……だいじょうぶ。心配しないで」
 クロードが背中をさすってくれた頃には、不快な発作は治まっていた。彼に軽く笑いかけてから、レナは再び立ち上がった。
「こっちよ」
 そうして、緩やかな下り坂の道を歩き出す。その動作は、あまりにも自然だった。まるで既に大昔から、そうするように約束されていたように。
「レナ、一体どうしたんだ?」
 ようやくクロードが声をかけるとレナは立ち止まって、振り向いた。赤いケープが翻り、しなやかな青い髪が揺れるその姿は、風の中を舞う妖精のようで、はっとするほど美しかった。
「自分でもわからない……けど、こっちに行けばいいってことだけは、なんとなくわかるの」
「それは、レナがネーデ人だからわかるのかもしれんな」
 エルネストが言うと、レナは肯定も否定もせずわずかに首を傾げて。
「こうしていると、いろんなことが感じられるの。木や花や草や動物たち、大地の息吹、風の匂い、日のあたたかさ、すべてが懐かしいの。だから……ここは、ネーデなんだと思う」
「そういえば、クロードたちも他の星の人間だって言われてましたわね」
 セリーヌが話を振っても、クロードはぼうっとレナに見蕩れるばかりで気づかない。
「あたしとエルは自分の意志で来たまでよ。テトラジェネスっていう星から、艦に乗ってね。まさかこんなことになるとは思ってもみなかったけど」
 先にオペラが説明すると、ようやくクロードも話の流れに気づいた。
「僕は……突発的な事故に遭って、偶然エクスペルに飛ばされたんだ。……そして、神護の森で、レナと出会った」
「そうだったの……」
 すべての始まりはあの森から。なんだかひどく遠い日の出来事のように思えてならない。
「どこから来た人間だろうと関係ないさ。お前であることに変わりはない」
 ぶしつけにディアスが言った。セリーヌも、ボーマンも笑顔で頷く。
「……ありがとう」
 クロードは目を伏せ、何かを堪えるように礼を言った。

「エクスペルのみんなは、今頃どうしているでしょうね?」
 日溜まりの道を歩いていたとき、不意にセリーヌが訊ねてきた。
「きっとみんな、元気にしているわ。私たちの帰りを待っているはずよ」
 レナも少し気にかかっていたが、あえて楽観的に振る舞うことにした。
「ね、クロード」
 だが、隣を歩いていたクロードの表情は思わしくない。いくぶんか青ざめているようにも見える。レナに見つめられていることに気がつくと慌てて笑顔を作って。
「ああ、そうだね」
 と、簡単に応じただけだった。
「おい、なんか妙なものが建ってるぜ」
 道の先は花畑になっていた。左手は岩壁、右手から正面にかけては険しい谷に囲まれている。ここから先へは進めないようだ。
 ボーマンが示したものは花畑の中心に鎮座している。茶褐色の石を敷き詰めた円形の台上に、やはり茶褐色の石柱が三本、上から見るとちょうど正三角の頂点を成すように立っている。支えるべき天井はなく、柱の先は梁のようなものが渡されているだけだった。台の埋もれ具合から推測しても、それは随分と昔からそこにあるようだが、風化した様子もまるでなかった。
 彼らがこの奇妙な建造物の前で立ちつくしていると、突然、頭上から声が聞こえた。
「中にお入りください」
 レナは声の主を探して空を仰いだ……が、当然ながらそこには何者もなかった。仲間たちも不審そうに目配せしている。
「誰だ!」
「怪しいものではございません。とにかく、そこの建物……トランスポートにお入りください。話はその先でいたします」
 クロードの問いかけに応えたということは、少なくとも向こうにはこちらの声が聞こえているのだ。だが、相変わらず姿は見えない。
「ふん……声だけしか聞こえないような奴を、おいそれと信用できるか」
 ディアスの意見にセリーヌも同意のようだ。杖を持つ手に知らずと力がこもる。ところが。
「行きましょう」
 だしぬけにレナが言い放った。その言葉も、彼女の意志とは異なるところから発せられている感じだった。
「だいじょうぶ……この声は、信じてもいい」
 憑き物にでも憑かれたかのような彼女の言動に仲間たちは困惑しきりだった。だが、ここで手をこまぬいているわけにはいかないことも事実。
「ま、ここはひとつ話に乗ってみるのも一興じゃないか」
 エルネストが言うと、他の者たちも慎重に頷いた。
「獅子の穴に入らずんばウサギを得ずとも言うしな」
「混ざってるわよ、それ」
「……よし、行こう」
 クロードが決断して、彼らは正三角の中心に立った。たちまち光の帯が周囲を取り巻き、景色が七色に歪む。エルリアのときのような不快感はなかった。
 視界が戻るまではわずか数秒程度だったろうか。目の前に広がるのは、無機的な金属光沢をもつ壁。薄暗い部屋の中に、彼らは立っていた。

 不可思議な光を放つ道が、足許からずっと続いていた。それに導かれるように彼らは進み、隣の部屋へと入った。
 ひとりの男が、彼らを出迎えていた。
「ようこそお越しくださいました」
 声色で、彼らをここに招き入れたのはその男であるとわかった。
 部屋は男を含め八人が入ってもまだ充分な広さがあった。天井一面に白い板が張りつけてあり、それが輝いて──いや、板の内部に光源があるのか──部屋を明々と照らしている。堅そうな材木の机には山と積まれた書類と、なにか箱のような装置が置いてあった。床はつるつるに磨かれており、男が立っている部屋の中央より壁際には革張りの長椅子が、背の低い机を挟んで対になって配置されている。
「私はこのセントラルシティの市長を務めます、ナールという者です」
 男は丁寧な口振りで紹介した。齢は既に五十を越えているだろうか。禿げ上がった額に肩まで伸ばした白髪まじりの後ろ髪。目尻や口許には細かい皺も見られる。耳朶の薄い、先の尖った耳はレナのそれとまったく同じだ。市長などという激務には頼りないと思えるほど、人の好さそうな顔立ちをしている。赤に黄色の筋が入った上着は裾が踝のあたりまであり、ウエストの部分で絞ってある。体格はずいぶんと細身のようだ。
「ここはネー……デじゃ、ないんですか?」
 レナが自信なげに訊ねると、ナールは優しく笑いかけて応える。
「ネーデですよ。セントラルシティはネーデにある都市のひとつです」
 やはり、というふうにクロードたちは顔を見合わせた。
「あなた方がどうしてネーデと呼ばれる場所に来てしまったのか、おわかりですか?」
「僕たちは……エルリアの塔で怪しい男たちと戦って……」
 クロードが懸命に記憶の糸を手繰りよせて話すが、それ以上はどうしても思い出せなかった。
「そうして、気がついたら、あの場所にいたんです」
「おそらく、あなた方は彼らがネーデに飛ぶ際に、巻き込まれる形でここに辿り着いたのでしょう」
「いったい、奴らは何者なんですか!」
 息巻くクロードに、ナールは背中を向けて。
「……彼らは『神の十賢者』と呼ばれている者たちです。彼らについて語るには、ネーデが犯した過ちの歴史を語らなくてはなりません」
 そう言うとナールは机上の箱のような装置の前に立って、なにやら操作を始めた。
「私の口から話すよりも、こちらの方がわかりやすいでしょう。小学生の教材用ですが……」
「小学生?」
「もしかして俺たち、ナメられてない?」
「いえいえ、内容はちゃんとしたものですから」
 ナールはそう取り繕ってから、装置のスイッチを入れた。
 途端にまわりの景色が一変した。床も天井も長椅子もなくなり、あるのは広大な宇宙に輝く星の煌めきばかり。
「なんだぁ、空の上に立っているぜ!」
「きっ、気味悪いですわ」
「ホログラフですか?」
「いえ、そんな面倒なことはしていません」
 クロードの問いかけにナールはきっぱりと応える。
「この部屋にいる全員の脳波を制御コントロールして、視覚野と聴覚野に直接、情報を送り込んでいます。ですから、今あなたたちが見えている映像は外部のものではなく内部の、いわゆる脳裏に浮かんだ映像ということになります」
 彼らが唖然としているうちに耳鳴りのような音楽が流れだして、若い女性の声でナレーションが始まる。この声も自分の中だけで感じているものとは、とてもではないが信じられなかった。

〈ネーデは約三十七億年前、ひとつの惑星でした。
 当時のネーデは宇宙全体でも比べるものがないほどの科学力を持っていました。そのため、多くの星がネーデに従うことを選んだのです。それは決して強制的なものではなく、おたがいが共存し合うという理想的なかたちでした。
 しかし、そのような時代でも、よからぬ野望を抱くものがいるのです……。
 それが『神の十賢者』でした。彼らは共存ではなく、銀河全体の支配を望みました。そうして、まずはネーデを我がものにするため、戦争をしかけたのです。十人の狂信者たちの力は強大で、さすがのネーデ防衛軍も苦戦しました。それでもネーデ軍はやっとのことで十賢者を追いつめて、時の流れない特殊な空間、エタニティスペースに封じ込めることに成功しました。数年間続いた戦いはネーデ軍の勝利で終わったのです。
 しかし、この戦いを通じて、ネーデ人はひとつのことに気づきました。私たちはたとえ自らが望まなくても、宇宙全体を支配するほどの力を身につけてしまったということに……。いつまた、第二、第三の十賢者が現れて、全宇宙に危険を及ぼすかもわかりません。そうして長い会議のすえ、ネーデの中でも指折りの科学者、ランティス博士の提案したある結論に達しました。
 それは、ネーデと自らの力の封印です。
 惑星ネーデはネーデ人自らの手によって破壊されました。そしてネーデ人たちは人工的につくられた居住区『エナジーネーデ』に移住することになりました。居住区の周囲は高エネルギー体で覆われ、これにより外界との行き来はできなくなったのです。
 こうしてネーデは外の世界と隔離されました。三十七億年もの間、ネーデ人たちは他の星と関わりをもつことなく暮らしてきたのです〉

「あとは皆さんのご覧になった通りです」
 ナールがスイッチを切ると、部屋はすっかり元通りになっていた。いや、自分の頭の中が、というべきか。
「エタニティスペースに封じ込め、銀河に放逐したはずの彼らがどのようにして抜け出し、エクスペルに辿り着いたのかはわかりません。しかし現実に、彼らはこのネーデに帰ってきました。再び銀河の支配者として君臨するために」
「それが……神の十賢者」
「はい。リーダーであるガブリエルの力は計りしれず、参謀のルシフェルは血も涙もない残忍な男です。戦術を司るミカエル、情報を統括するハニエル。ふたりの配下に位置するラファエル、カマエル、サディケル、それにザフィケル、ジョフィエル、メタトロン……恐るべき狂信者たちです」
「それで、僕たちはどうしてあなたに呼ばれたんですか」
 クロードが訊くと、ナールは真摯に彼を見つめた。
「あなた方に、可能性があるからです」
 その言葉にディアスがおもてを上げる。
「俺たちでそのふざけた連中を倒せということか」
「その通りです」
「わたくしたちで勝ち目はあるのかしら? ……いえ、別に怖じ気づいたわけではございませんけど」
「それに、さっきの装置みたいなすげぇ力があるんだろ。そんな三十七億年も前に出てきた奴らくらい、なんとかならねぇのか」
 セリーヌとボーマンがそれぞれに意見した。
「残念ながら、我々の力は三十七億年前のものとなんら変わるところがないのです」
「どういうことだ?」
 エルネストが眉根を寄せて問い返すと、ナールは微かに口の端に力を込めて。
「エナジーネーデに移住したとき、我々の祖先は生物としての進化すらも封印してしまったのです。三十七億年もの間、我々は進化も退化もなく、発展も衰退もない日々を送り続けてきました。ですから、我々の科学力、それに紋章力は十賢者が出現した頃とほとんど変わりがないのです。いや、永きにわたる平穏な生活によって、むしろ退化しているかもしれません。……それに、我々と十賢者の力は同質です。結局は力の強い方が勝ちます。必要なのは、異質な力なのです」
「異質な力……か、どうする?」
 クロードが仲間の方を振り返った。
「聞くまでもないと思うが、なぁ?」
「どのみちそいつらをなんとかしないと、帰れそうにないしね」
「特に異論はない」
「同じく、ですわ」
「前回の屈辱を晴らさねば気が収まらんからな」
 クロードは最後にレナを見た。彼女もしっかりと頷き返した。
「ありがとうございます」
 全員が同意したのを見届けると、ナールは敬虔けいけんそうに項垂れた。
「さて、見知らぬ地に突然飛ばされてお疲れのことでしょう。宿をとってありますので、今日のところはごゆっくり休まれるとよろしい。ホテルまでの案内は秘書にさせますので、外に出たところの受付の前でお待ちください」
 指示を受けて部屋の外へと足を向けたとき、つけ加えるようにナールが少女の名を呼ぶ。
「レナさん」
 足を止め、目をみはって振り返る。
「どうして、私の名前を……」
「あなただけにお話があります。少しの間、残っていてもらえないでしょうか」
 その言葉に微妙な響きを察知したレナは、すぐに承諾した。
 最後に出たオペラがそっと扉を閉めると、あたりは息苦しいほどに静まり返った。
「……もう、すべてを聞くだけの覚悟はできているつもりです」
 顎を落とし、押し殺した声で、レナが切り出す。
「私は、ネーデ人なんですね」
「ええ、間違いないと思います」
 ナールにそう告げられて、意外にもすっと肩の力が抜けていくような感じがした。長い間、追い求めてきたひとつの答えが見出せたからだろうか。それがどれほど信じがたい事実であろうとも?
 けれども、もうひとつ。
「ナールさん、あなたは私の名前を知っていました。それなら、私の両親のことも知っているんじゃないですか?」
 ナールは口を閉ざしたまま、表情ひとつ変えない。
「私はエクスペルでずっとほんとうのお母さんを捜してきました。けれども、全然手がかりがなくて……私がネーデ人なら、当たり前だったんですけど……知りたいんです、お母さんのことを。教えてください」
 感情に任せてまくし立ててしまい、言い終わってから少し後悔した。間の悪い沈黙の中、ふたりの睨み合いがひとしきり続いた。
「いえ、私は知りません」
 ナールから出されたのは、あまりにも拍子抜けな返答だった。
「ただ、これから旅先のどこかで、あなたのご両親のことを知ることができるかもしれません。真実は必ず、このネーデの中にあるのですから。……あなた自身の手で、お探しなさい。自らに秘められた大いなる真実と、意志を」
「……はい」
 返事をしながら、レナは奇妙な感覚に見舞われている自分に気づいた。以前にどこかで似たようなことを言われたような気がするのだが、それがどこで、誰から言われたのかは、記憶がその部分だけすっぽり抜け落ちたように忘れていた。


「ここがセントラルシティの中心部、大通りメインストリートです」
 市庁舎シティホールを出てしばらく歩いたところで、一行を先導していた秘書が説明し始めた。
「ここセントラルシティはネーデ唯一の行政機関であるシティホールをはじめ、官庁や新聞社、出版社など主要施設が集中しております」
「ネーデの実質的な中心地ってわけか……なるほどね」
 オペラが通り行く人々を眺めやりながら首肯する。
 違う星だといっても、そこで暮らしている人たちの生活はエクスペルとあまり変わりがないのだ、とレナは思った。こうして街を歩いてみても不思議な感じはほとんどない。軒先に並ぶアクセサリを品定めする女性、手に提げた買い物袋にはちきれんばかりの食料を詰め込んでいる婦人たち、威勢のいい声で手に持った剣を売り込む武器屋の親父、『レザード・ヴァレス愛用のフラスコ有りマス』と貼り紙がしてある怪しげな店、玩具屋の窓越しに店内の人形を物欲しげに眺める女の子を見つけたときなどは、幼い頃の自分をそこに重ね合わせて、懐かしさに思わず胸が締めつけられた。
「でも、比類なき文明を誇っていたにしちゃ、なんだかアンティークな雰囲気よね」
「これが、私たちの結論なのです」
 オペラの疑問に、秘書が説明した。
「究極ともいうべき文明を持った私たちが物質的にも精神的にも満たされた生活を追求した結果、この姿になったのです。古代への帰結とでも言いましょうか。ただしそれは外見上だけで、実際の生活レベルは最上テクノロジを用いた超文化です」
「乗り物らしきものの姿が見あたらんが、移動手段は足だけなのか?」
「都市間の移動はトランスポートを用います。都市の内部にも連絡用のトランスポートが数箇所設置されています」
「きゃあ、可愛いっ」
 レナが見つけたのは道の脇に置いてあった巨大なバーニィ人形。「バーニィレースはファンシティで連日開催! ぼくらの走りを見に来てほしいにゃ♪」と書かれた板を首(頭?)から提げている。
「ファンシティ、って?」
「各種娯楽施設を取りそろえたネーデの一都市です。ネーデの都市は他にも、ここからすぐ北のノースシティ、大学のあるギヴァウェイ、唯一武器の製作が許可されているアームロックなどが各地に点在しています」
 大通りの中途で右に折れて、人気のまばらになった道を歩いていくと、やがて焦茶の大きな建物が目前に見えてきた。
「あちらが、ホテル『ブランディワイン』となります」

 ネーデの夜空にはちゃんと星も輝いている。話に聞けばこれもつくりものだという。聞かなければもっと楽しめたろうにな。そう思うとなんだか白けてきてしまった。
 レナはホテルの廊下で夜景を眺めていた。窓を大きく開け放ち、ふちに身を乗り出して頭上の月を見る。
「前にそうしていて、二階の窓から落ちたことがあったな」
 振り返ると、背後にディアスがいた。さすがに外套と剣は外してあるが、それほどくつろいだ様子でもない。
「あのときは木がクッションになって助かったが、今度は硬い地面にそのままぶち当たるな」
「おあいにくさま。落ちたりなんかしませんよっ」
 身体を縁から降ろして、取り澄ましたふうに言った。ディアスは無言で彼女の横に立つ。
「……今日一日だけで、いろんなことがあったね」
 レナがしきりにディアスに話しかける。
「ディアスは今日起こったこと、ぜんぶ覚えてる?」
「さあな」
「十賢者がどうだとか、なんとかスペースだとか、ちゃんと理解できた?」
「さあな」
「私、なんだかこんがらがっちゃって、よく覚えていないんだ。だって、ナールさんのお話長かったし……」
 ディアスは口をつぐんだまま大通りを照らす街灯から目を離そうとしない。それに業を煮やしたレナが。
「ねえ、なにか言ったらどうなの」
 ディアスは視線を流してレナの顔を見た。
「それはお前の方だろう」
「え?」
「もっと他に言いたいことがあるんじゃないのか」
 レナは下を向いた。気を紛らわそうと余計なことばかり喋っていたのが、裏目に出たらしい。
「……私、やっぱりネーデ人なんだって」
 窓に背を向けて、縁にもたれかかる。
「どうして治癒の力をもっているのか、紋章を刻んでないのに呪紋が使えるのか、ずっと不思議だった。みんなと同じでないことが、怖かった。ううん、怖かったのは……みんなから変な目で見られること、ばけものみたいに思われること……。治癒の力で喜ばれても、私はみんなには受け入れられない。感謝されているのは私じゃなくて、私の中にある治癒の力だから……」
 途切れがちにそこまで言うと、そっと自分の耳に触れる。
「こんな耳のことなんか、気にしたこともなかったのに……」
 口許を緩めて、レナは笑った。こんなときにどうして笑いがこみ上げてくるのかは、わからなかったが。
「やっぱり私はみんなと違うのね……生まれた場所も、もっている力も……」
 ディアスは表情ひとつ変えずに彼女を見つめていたが、不意に横を通って向こう側の階段へと歩いていく。
「他の連中がどう思っているかは知らんがな」
 廊下の途中で立ち止まって、ディアスは言った。
「どこの星で生まれていようが、お前は俺の『妹』だ。昔も今も、これからも、な」
 そうして、足音も立てずに階段を降りていった。
「『妹』……?」
 窓縁に寄りかかったまま、レナは呟いた。
「……うん、そうだね。私はディアスの妹だよ。これからも、ずっと……」
 嬉しいはずなのに、涙がぽろぽろ零れて頬を流れる。涙の粒は、葡萄酒色ワインレッドの絨毯にぽたりと落ちる。夜空に煌めく星々が、震える少女の背中を静かに見つめていた。

2 友 ~ノースシティ~

 ──ノエル、今していることが、君の理想だったのか?
 ──意志を貫く、という言葉はすでに僕自身を切り刻んでいるんだ。
 ──それでは君が見下してきた学者たちと変わりないではないか。
 ──そうかもしれない。けれど、それでもやり遂げなければならないことが、僕には、ある。
 ──いつまでも不器用な男だな。
 ──君とは違うよ、アーティス。


「館長ぉ?」
 研究員の男が、机に身を乗りだして顔を覗き込む。向かいに座っていたアーティスは、ようやくそれに気づいて顔を上げた。
「あ、ああ、どうしたのかね」
「ナール市長から連絡があった件の、彼らが到着しましたが」
「そうか。すぐに通しなさい」
「わかりました」
 研究員はすぐに部屋を出ていった。
 アーティスはゆっくり閉まる扉を見送ると、机に肘をついて手を組み、その両手を口許に当てる。視線は机上に置かれた一枚の紙に向けられていた。
 長辺形の白い紙には、なにか表のような枠線の中に文字がぎっしりと埋められている。いくつかの項目には×印もついている。上の隅には丁寧な文字で、
『稀少動物保護地域 定期報告 ノエル・チャンドラー』
 と記されていた。
「やり遂げなければならないこと、か」
 口許から手を離して、自嘲的に呟いた。
「……不器用なのは、私の方なのかもしれないな」
 再び扉が開く。アーティスは机上の書類をまとめて引き出しに仕舞うと、立ち上がった。


 ノースシティは緑に溢れた街──いや、もはや村と称した方がいいだろうか。駘蕩たいとうとした初夏の風に吹かれて木々がいっせいにざわざわと騒ぎ立ち、その樹木の間を縫うようにして瀟洒しょうしゃな木造の家並みが道沿いに続いている。のどかな田舎じみた外見とは裏腹に、ここでも人々の生活はレナたちの想像にも及ばない技術を駆使して営まれている。しかし、吹く風にほんの少しだけ自然とは異なる匂いを感じた以外は、ここが創られた田舎であることを実感させる要素は何ひとつなかった。
 つづら折りの道の先に臨める小高い丘には塔のような細長い建物がそびえていた。五、六階ほどはあろうか、帽子をかぶったような屋根の赤が目に染みいる。ネーデのありとあらゆる叡智が収められた図書館『エンサイクロペディア』だ。
 サイナード飼育場『ホーム』の大きな建物はその隣に位置していた。内部は質朴とした造りながら天井も高く、研究施設らしい装置も充実しているようだ。レナたちはロビーの受付の前で呼び出されるのを待っていた。板張りの壁には明かり取りの窓と、黒に碧の稲妻を重ねたような図柄の描かれたタペストリが下がっている。受付の女性が暇そうに爪の手入れをしているカウンターの横は館長室の扉、そのさらに横は昇り階段と吹き抜けの通路が奥の部屋へと続く。何もないはずの天井の一角には、丸顔の男が紙を手に喋っている映像が映し出されていた。
 彼らはトランスポートでノースシティに出向き、この施設を訪ねていた。ネーデにおいて唯一、人工的にサイナードを飼育している、この施設へと。

 ──それは、今から数刻前のことだった。
「サイナード?」
 セントラルシティで一夜を明かした彼らは、再びナールのところを訪ねた。
「ええ。サイナードは飛行も可能な紋章生物です。体内に特殊な紋章を刻むことによって主の意のままに操ることができます。トランスポートのない場所への移動はこれを使うしかありません」
「で、そいつはどこにいるんだ?」
「乗用に飼育された種がノースシティにあります。あなた方にはまず、そちらに出向いてサイナードを入手していただきたい。移動手段がなければ十賢者との戦いもままなりませんからね。ノースシティの飼育場『ホーム』にはすでに連絡を入れておきました。準備が整い次第、すぐにでも出発してください」

 ナールの施政者らしい手回しのよさに半ば乗せられた気がしないでもなかったが、ともかくクロード、レナ、セリーヌ、ディアス、ボーマンの五人は武器や道具の買い出しもそこそこに、ノースシティへと向かった。オペラは新たに材料を集めて自分のランチャーを作るため、エルネストは例によってその手伝いのため、セントラルシティに残った。
「ここにあるものを使えば、すんごいランチャーができると思うわ。期待しててよ」
 見送る際にオペラは興奮気味にそう話したが、それよりも横で複雑な笑顔をみせるエルネストの表情の方が印象的だった。あの様子では二、三日は眠らせてもらえないだろう。

 研究員の男に呼ばれて、彼らは館長室の扉を潜った。意外なほどに狭いその部屋は、入口の手前に応接用のソファと卓、奥に事務の机が置いてあるのみだった。正面の壁にはやはりロビーと同じ模様をしたタペストリが下がっている。この施設の徽章なのだろうか。
「ようこそ、『ホーム』へ。私が館長のアーティスです」
 この巨大な施設を治める長は驚くほどに若かった。項で切り揃えた青い髪、前のボタンまできちっと留めている白衣。誠実そうな面構えは、老い先見えて今の地位にすがりつこうとする年寄りの長には決してない気概でみなぎっていた。
「話は市長から伺っています。早速ですがあなた方のサイナードを作成しますので、そこの階段を上がって奥のフロアへお進みください」
「作成?」
 思いもよらない言葉に、レナが聞き返す。
「作成って、どういうことですか? サイナードって生き物なんですよね」
「ええ」
 何でもないように、アーティスは説明する。
「サイナードは確かに生物です。ですが、主人に従順にするために、あらかじめその主人のデータを刻み込んでおくのです」
「生き物に、データを?」
 クロードは眉を顰める。
「それって、なんだかかわいそうじゃないかな」
「まあ、我々が飼育しているのは既に人間によって支配された種ですからね。目的自体は間違っていないんですよ」
 支配だって! あっけらかんとそう言ってみせるアーティスに、レナは不快感すら覚えた。
「さあ、どうぞ奥のフロアに。研究員が待っています」
 まるでとりつく島がないアーティスに促されて、彼らは納得のいかぬまま部屋をあとにした。
 扉がゆっくりと閉まり、ひとりになったアーティスはその場で項垂れ、こみ上げてくる笑いに肩を揺すらせた。
「私もつくづく悪役だな」
 自分を哄笑するように、アーティスは声も立てず笑い続けた。

 吹き抜けの通路は次の部屋では中央を突っ切るような橋廊となっており、左右には大きな筒のようなものが整然と連なって鈍い光を放っている。半透明の筒のいくつかには紅の胴体に青い頭をつけた生き物が逆さ吊りになって浮かんでいた。
「もしかして、これがサイナード?」
 それは鳥とも蜥蜴とも似つかない奇妙な姿をしていた。背中はなだらかな勾配で広く、なるほどこれなら数人は乗せて飛ぶこともできるだろう。お世辞にも愛嬌があるとは言いがたい両の眸には光彩がない。これで育てているというのだろうか。
「飼育場っつーから、屋外に牧場や牧舎でもあるのかと思えば……これじゃ、悪趣味な動物実験じゃねぇか」
 うんざりしたようにボーマンが吐き捨てる。
「支配された動物たち……」
 筒の中でなにも語らぬその眸を見つめながら、レナは呟く。
「エクスペルの動物たちも、こんなふうにして、おかしくなっちゃったのかな……」
 返す言葉もなく、クロードは唇を噛んで憮然と立ちつくしていた。
「準備ができました。どうぞこちらへ」
 橋廊の先で研究員が彼らに呼びかけた。クロードが返事をして、彼らはさらに奥の部屋へと進んでいく。
「なあ、ネーデ人以外の紋章を刻むんだろ。うまくいくのか?」
「さあ? でもやるだけやらないとまずいだろ。上からの命令なんだから」
「はぁ、下っ端はつらいねぇ」
 研究員の間で交わされた会話も、レナの耳には入っていた。

 パーソナルデータの取得作業は狭苦しい研究室で行われた。人ひとり分ほどの透明な箱の中に数秒間入るだけで、あっさりと終わってしまった。
 研究員たちが取得したデータをサイナードに入力する間、五人はロビーに戻ってまた待つこととなった。
「なんだか今日のわたくしたち、待たされてばかりのような気がしますわ」
 セリーヌがぼやくのも無理はない。
 待っている時間というのは普段にもまして長く感じられるもので、このときも随分と待たされたように思えたが、実際のところどのくらい経ったのかは判然としない。
 ひとつだけはっきりしているのは、しばらくして誰かの悲鳴と硬いものが砕ける音、それに建物全体を揺るがす振動が怒濤のごとく襲ってきたこと。
「なんだなんだ!?」
 ボーマンが叫ぶと同時に、館長室の扉が開いてアーティスが飛び出してきた。彼はクロードたちには見向きもせず真っ先に隣の部屋へと駆け込む。五人も後を追ってサイナードが保管されている部屋へと急いだ。
 半透明の筒を破って、一匹のサイナードが外に出ていた。研究員たちは遠巻きにそれを見守っている。
「どうした、何があったんだ!?」
 アーティスが近くにいたひとりをつかまえて問いただす。
「ぱ、パーソナルデータを入力したら、突然暴れ出して」
「なんだと?」
 サイナードが絹を裂くような咆哮をあげて、頑強な前脚を振り回す。橋廊が崩れ、あたりの筒が叩き割られる。
「いかん、このままだと他のサイナードも巻き込んでしまう。おい、なんとか制御はできないのか!?」
「無理です。ポッドから出てしまった後では……」
「僕らに任せてください」
 クロードはそう言って、ディアスとともに前に進み出た。ところが。
「だめよ、その子を傷つけちゃだめ!」
 身構えるふたりに背後からレナが叫んだ。
「レナ、だけど……」
「その子はなんにも悪くないのよ。悪いのはこんなところに閉じこめて、無理やりいうことを聞かせようとした私たちじゃない!」
 困ったようにディアスと顔を見合わせるクロードに、アーティスは冷たくぴしゃりと言い放つ。
「構わん、私が許可する。早くそいつを始末しなさい」
「アーティスさん!」
 息巻いて詰め寄るレナ。だがアーティスは彼女の顔を見ようともしない。
「放っておけば被害はさらに拡大する。君は他のサイナードが殺されていくのを黙って見ていろというのか」
「私が止めます、止めてみせます」
 制止しようとしたボーマンの手を振りきって、レナは猛り狂うサイナードの前へ駆けだした。
「レナ、無茶だ! 戻ってくるんだ!」
 クロードの声も空しく、レナはサイナードの鼻先まで近づいて話しかける。
「お願い、私のいうことを聞いて、おとなしくして……」
 サイナードは喉を鳴らして眼前のちっぽけな少女を威嚇する。眸は燃えるような紅に輝いていた。
「おとなしくしないと、あなた、殺されちゃうのよ。まわりにいるのもあなたの仲間でしょう? だから……」
 返答は口から吐き出された炎だった。青白い火焔が襲いかかるより早く、殺気を察知したディアスがレナを抱きかかえて跳躍したので大事には至らなかった。
 ディアスはレナを片腕に抱えたまま空中で剣を抜き、衝撃波を眼下の獣にぶつける。翼が折れ、透明なはねが破れて吹き飛ぶ。
「ディアス!」
「もう手遅れだ」
 悲痛な視線を送るレナにディアスはきっぱりと言った。地面に降り立つと、駆けつけたボーマンにレナを預ける。
「奴を止めるには、倒すしかない」
 そう言い残して、ディアスはサイナードと対峙しているクロードの許に走っていった。
「やめて、ディアス! クロードも……」
「落ち着け、レナ。仕方ないんだよ」
 後を追いかけようとするレナを、ボーマンが今度はしっかり両脇を抱えて諫める。その横でセリーヌがエナジーアローを唱えた。光の矢が幾重にも巨大な獣の躯を貫く。天井高く呻きをあげるサイナードの姿にレナは貌を背けた。
 ディアスが滅茶苦茶に振り回す前肢をかいくぐり、腹の下に滑り込んで剣を突き立てた。怯んだ隙をついてクロードが正面から斬りかかる。無防備な首を狙って剣を振り上げ、力を込めて振り下ろす。
「だめぇぇぇっ!」
 喉を振り絞って叫ぶレナ。その声にクロードはギュッと目を瞑り、歯を食いしばって──剣を、止めた。その刃が相手の首筋に届く、一歩手前で。
 時が凍りついたような一刹那ののち、先に動いたのはサイナードの方だった。大口を開け、青白い炎の息をクロードに浴びせる。クロードは咄嗟に反応して跳躍したものの熱風に巻き上げられ、地面に背中から落ちた。腹の下に潜り込んでいたディアスも後肢で蹴り飛ばされ、何も入っていない筒を巻き込んで壁に叩きつけられる。
 そうして、天に向かってサイナードは吼えた。それは勝利を確信したときの声か、それとも自らの存在を恨み呪い哀しむ嘆きの声か。
「やばい、やばいぞ、おい。セリーヌ、レナを頼んだ。ちょっくらディアスをみてくる」
「待って!」
 セリーヌが息を呑んだ。視線の先、サイナードの目の前で倒れていたクロードがゆっくりと起きあがろうとしている。火傷の痣の浮き出る腕を伸ばして剣を拾い上げ、その剣を地面に突き立て支えにして、ふらつきながらも両足を踏ん張って立ち上がった。頭はがくりと項垂れたままなので表情はわからない。
 サイナードがそれに気づいた。そして狂ったような雄叫びとともに襲いかかる。
「クロード、逃げろ!」
 ボーマンが呼びかけてもクロードは応ぜず、肩を落とし下を向いたまま。
「クロード!」
 サイナードの前肢がクロードの頭上で振り上げられる。次の瞬間にはその足が彼の身体を無惨に踏み潰すことだろう。
 そのとき、クロードが眸を見開いて顔を上げた。同時に剣を高々と掲げ、渾身の力で振り下ろす。
「砕け散れッ!」
 刃の切っ先が地面に突き刺さり、そこからほとばしった衝撃波が地中から床石を砕きつつサイナードの足許へ潜り込む。そして、いきなり地面から大木の幹ほどの鋭い岩塊が突きだしてサイナードの躯を貫いた。それはすべて、ほんの一瞬の間に起こったことだった。
 クロードの頭上で振り上がったままの前肢が弱々しく空をきり、猛々しき獣は膝から折れて地面に頽れた。きゅう、とか細い鳴き声を残して。
 クロードは肩で荒く息をついていた。そして地面に半ば埋もれた剣を手放すと、膝をついて座り込んだ。レナもボーマンの腕をすり抜けて、同じように座り込む。
 その眸に紅の輝きが完全に消え失せるのを確認すると、アーティスと研究者たちはサイナードに近づいていった。ディアスも起きあがって、床に散らばる円筒の破片を踏みしだきながら出てきた。
「まさかこんな事態になろうとは……」
 串刺しのサイナードを見上げてアーティスが呟くのを、研究員のひとりが聞き咎めて。
「……まさか? まさかですって?」
 今にもつかみかからんとする剣幕でアーティスを詰問する。
「ネーデ人以外の紋章を刻むという時点で予測できたはずじゃないですか。未知のデータをサイナードに入力すればどういうことになるのか、あなただってわかっていたはずでしょう?」
「き、君……」
「これで貴重なサイナードが一匹おじゃんになった。どうしてくれるんです! 館長、ここの修理代と研究費のアップ、お願いしますよ」
 研究員は大股で部屋を出ていった。アーティスは大きく溜息をつく。
「まいったね、まったく」
 中途で崩れた橋廊と壊された円筒を見渡してから、大袈裟にかぶりを振った。
「……今の話、ほんとうですか」
 床に座り俯いたまま、レナが感情を押し殺してアーティスに言う。
「最初からわかっていたのに、無理にデータを入れたんですか」
「君まで私を非難するのか」
 もはや諦めにも近い苦笑を浮かべて、アーティス。その表情には明らかに倦怠感が滲んでいる。
「まあ、なんと思われようが構わないさ。これも仕事だ」
 皮肉を込めて言うと、自分の部屋へと立ち去っていく。その背中に、初対面の時に感じた気概はまるでなかった。


「昨日はすまなかったね。私も突然のことでいささか感情的になっていたようだ」
 翌日、彼らが再び『ホーム』を訪れたとき、アーティスは開口一番に昨日のことを釈明した。今さら咎め立てする気もないクロードたちも快く諒解した。ただ、レナだけは彼の姿を見ることなく、最後まで黙って下を向いていた。
「しかし、こういう結果が出てしまったからには、これ以上君たちのデータを入力することは不可能だね」
「それじゃあ、僕らはどうやって移動手段を見出したらいいんです?」
 クロードが言うと、アーティスは腕を組んで何やら考える素振りをみせて。
「……手は、ないわけでもない」
 そう言うと、館長室の壁に据え付けられているなにかの装置を操作し始めた。程なくして横の壁の一部がすっと消失して、人ひとりが通れるくらいの穴ができた。
「この先にトランスポートがある。そこへ行ってみれば、おそらく別の方法が見つかるだろう」
「どこに通じているんですか?」
 クロードの質問を無視するように、アーティスは背を向けて自分の机へと歩き出す。
「話は向こうで聞いてくれ。市長もおそらく文句は言うまい」
「僕たちのやろうとしていることは、まずいことなんですか?」
 焦れるように訊くクロードに、アーティスは歩をやめて振り返る。
「世界を救うのだろう? 多少の犠牲はやむを得まい」
 懐疑的な視線にもまるで気づかないように、悠然と椅子に腰掛けて、彼は言った。
「行きなさい、サイナードを手に入れたいのならば」
「……わかりました」
 不承不承ながら、クロードたちは穴の中へと入っていく。最後のディアスが入ると壁はひとりでに元通りになった。
 アーティスは椅子に座ったまま腕を組み、足を組んで天井の隅を眺める。瞳の奥に映じているものは。
「ノエルよ、君ならどのような答えを導き出すのか」
 気心しれた友に語りかけるように、彼は呟く。
「私を敗者だと嘲笑うか、無意味に殺戮したと怒りに震えるか、それとも……」
 途中で下を向き、口許をつり上げて笑った。
「……いや、君はひとの道に干渉するような男ではなかったな」

3 滅びゆくもの ~紅水晶の洞窟~

「まったく、なんなんですの、あの男は。ちょっと若くて身持ちがいいからって、偉そうに」
 背後の壁が閉じたのをいいことに、セリーヌが声を荒げて憤慨している。こういうときの彼女に下手に口出ししようものならたちまち飛び火しかねないので、他の面々は大人しく金属質な通路を歩いていった。
 すぐに筒状のガラスで囲まれたトランスポートがあった。用心しいしい中へと入る。七色の光に包まれ、一瞬の浮き上がるような感覚のあと──彼らは元のトランスポートの中にいた。
「あ、あれ?」
「同じ場所じゃねぇか」
「いえ、違いますわ」
 周囲をよく見てみると、先程とは部屋のかたちが異なる。トランスポートの形状が同じであった上に部屋の雰囲気が似ていたため、すぐに違う場所とはわからなかったのだ。筒の出口から延びた通路は右に折れて、その先の壁にできた細長い隙間から明かりが洩れている。どうやらそこに扉があるらしい。
「なんだよ、おどかしやがって……壊れたのかと思ったぜ」
 彼らはトランスポートを出て、通路の先の扉を開ける。途端に日射しが飛び込んできて目をしたたか眩ませた。
 額に手を当てて日を遮りながら見渡すと、そこは丸木小屋のような家の中だった。部屋の中央の床には鷹の絵が織り込まれた絨毯が、壁際には朴訥ぼくとつとした椅子と机が一揃い置いてあったが、いずれも褪色したり黒ずんでいたりしている。しきりに彼らを照らしつける陽の光は向かい側の天井近くの明かり取りから射し込んでいた。
 少し進んで絨毯の上に立ち、背後を振り返ってみる。壁を仕切ってこしらえた書棚には分厚い本がぎっしりと詰まっている。書棚と彼らの出てきた扉の間に梯子がかかっているのは、棚の上を寝床にでもしているからだろうか。素朴ながら調度品もよく使い込まれており、住みにくさはあまり感じられなかった。
「ここは……?」
「どう見ても、人ン家、だよな」
 どうしたものかと戸惑っているうちに、明かり取りの下の扉が開いた。彼らはぎくっとしてそちらを向く。
 入ってきたのは、痩せぎすなひとりの男。
「あれぇ、どうして君たちは僕の家にいるんだい?」
 立ちつくす五人を見ても別段驚いた様子もなく、彼は首を傾げて調子っぱずれな声で言った。
「あの、すみません、僕たちはアーティスさんに言われてここに来たんですが……」
「アーティスぅ?」
 男はさらに首を捻り、それから奥の扉を見てああ、と得心がいったように。
「そういえば、そこのトランスポートは『ホーム』に通じていたのだったね」
 革の手袋を外して、彼はクロードに右手を差し出した。
「初めまして。僕は動物学者のノエル・チャンドラー」
「あ、はあ、クロード・C・ケニーです」
 請われるままに握手をするクロード。おっとりとした物腰になんだか調子が狂ってしまった。
 ノエル・チャンドラーは手を離して、それから猫のような切れ長の目を他の者たちに向ける。
「ところで、君たちはなんの用でここに来たんだい?」
「は!?」
 クロードは唖然と彼を見た。
「ご存知じゃないんですか?」
「知らないよ。というか、君たち何者なんですか?」
 あまりに落ち着き払った所作だったので、てっきり事情を把握していると思っていたのに。彼らはすっかり調子が狂ってしまった。
「僕たちは、サイナードを求めてアーティスさんのところへ行ったんです」
 ようやくクロードが説明を始める。
「そうしたら、データを入れたサイナードが暴走してしまって……それで、ここに来ればサイナードが手に入ると」
「ああ、なるほど。君たちがネーデの外から来たという人間か」
「知っているんですか?」
「うん。十賢者潜入と同レベルで報道されていたからね」
 ノエルは外した手袋を椅子の上に置いてから、言った。
「アーティスのことだ、どうせ君たちに何も話さないままここに送り込んだのだろう」
「ここはいったい、何処なんですの?」
 セリーヌが訊くと、ノエルは彼らを見渡した。金茶色の短い髪がふわりと揺れる。
「ここは僕が管理している稀少動物保護地域。君たちが求めているのは野生のサイナードだね」
「野生?」
「サイナードに野生種がいるんですか?」
「絶滅寸前だけどね。最後の一匹が最重要保護区域にいる」
 ノエルは言いながら書棚の前まで歩いていき、棚の上に腕を伸ばしてなにかを取り出した。
 戻ってきて机の上いっぱいに広げたのは一枚の地図。この近辺のものらしい。クロードたちを手招きして机のまわりに集まらせると、ノエルは北東の隅に広がる平原の一点を指で示して。
「これが現在地。ここからずっと南西へ進むと……」
 地図上の指を滑らせていき、ほぼ中央の山で止まった。
「この山にある紅水晶の洞窟の奥に、サイナードは棲んでいる」
「そいつを捕まえてくればいいんですね」
「いや、捕まえたところでいうことは聞いてくれないよ。『ホーム』の支配種とはわけが違うのだから」
「じゃあ、どうするんですか」
 クロードが訊くと、ノエルは一呼吸置いてから、言った。
「戦うんだ」
「戦う?」
 今朝から黙ったきりのレナがここで初めて顔を上げた。
「かれらの習性なんだ。サイナードは自分よりも力が上だと認めたとき、はじめて主人を命がけで守る立場につく」
「そいつに戦いを挑んで、勝てばいいということか」
 ディアスが言うと、ノエルは軽く首を横に振る。
「ただ打ちのめせばいいというものでもないよ。肉体だけでなく、精神も優れていないと認めてくれない。君たちはそれだけの自信があるかい?」
「…………」
 五人は、めいめい思うところに黙した。
 ノエルはさっさと地図を丸めて持ち出し、部屋の隅に置いてあった大きな背負い袋のポケットに突っ込む。
「あの……ノエルさん?」
 袋を開けて中を覗き込んでいるノエルに、不審を抱いたクロードが呼びかける。
「サイナードの住処まではどんなに急いでも丸一日はかかる。それなりの準備はしておかないと……はて、食料は足りるかな」
 ノエルはそう応えてから、足許の床についていた金具を引っ張り出す。それを握って手前に引き寄せると、床の一部が外れて四角い穴が開いた。床下は貯蔵庫になっているようで、彼はうつぶせになって穴に頭を突き入れたまま、野菜やら薫製の肉やらを取り出しては床に置いている。
「もしかして、ノエルさんも行くんですか?」
「紅水晶の洞窟は内部が複雑に入り組んでいる。不案内な人ばかりじゃ途中で迷ってのたれ死んで、サイナードのご馳走になるのがオチだよ」
 平然とそんなことを言い放つノエルの声は、穴の中でこもって聞こえた。
「ノエルさん」
 と、レナが穴の手前に歩み寄った。ノエルは頭を起こして床に座り直す。
「どうしても、戦わないとだめなんですか」
「サイナードを従わせたいのならね」
「ノエルさんは、平気なんですか。たった一匹しかいないサイナードが傷つけられようとしているのに。もしかしたら死んでしまうかもしれないのに」
「たとえそれで滅ぶようなことがあっても、それは彼らの運命だ」
 そこまで言ったとき、ノエルはレナの厳しいような視線に気づいた。澄んだ双眸の奥に宿る純然たる輝きに吸いつけられるように、細い目尻をいっそう細くして見つめる。
「君、名前は?」
 突然そんなことを訊かれて、レナは少し困惑したが。
「え……レナ、レナ・ランフォードです」
「そうか……」
 食い入るようにレナを見つめていた視線をもぎ離して、ノエルはかぶりを振る。彼女の瞳の輝きに、ひとつの可能性を見出して。
「君が納得できない気持ちはよくわかる。僕もかつてはそうだった」
 床板を元通り填め直して、そこらに置いた食料をかき集めながら、ノエルが言う。
「でもね、それは結局、サイナード自身の問題なんだ。僕らがとやかくいうものでもない。ここにいるサイナードは完全な野生種だ。『ホーム』の支配種とは違って、自由に生きる権利が与えられている。だから……当人に聞いてみようよ。僕らは僕らで譲れない言い分がある。それをサイナードがどう思い、どう判断するのか見守ろう。きっとそれが、ほんとうの答えなのだから」
 食料をすべて背負い袋に詰め込み終わると、ノエルは彼女に優しく笑いかけた。レナはその笑顔を刮目したまま、立ちつくしている。
「さあ、出発しよう」
 袋を背負い、椅子に置いた革手袋を再び填めてから、彼は言った。


 ラヴァーはできたばかりの通路を、横柄そうにのさばり歩いた。
 壁に描かれた奇怪な紋様が色とりどりの輝きを放ち、悩ましげな肢体を妖艶に照らしあげる。身につけているのは下着のような薄い布きれ一枚のみ。香り立つ金髪を靡かせ恍惚こうこつとした視線をあたりに振りまくその様子は、まさしく愛人ラヴァーのそれであった。
「それにしても趣味の悪い建物ねぇ。陰気くさいったらありゃしない」
 歩きながら左手を伸ばして壁に触れながら、ラヴァーが悪態をついた。
「もう少し明るくならないものかしら……いや、それ以前にこの装飾ね。なんの意味があるんだかわかったもんじゃないけど。せめてこのへんに花を置くとかさぁ、ファンシーグッズを……」
 あれこれ文句をつけながら通路を渡っていく。
 彼女はすこぶる不機嫌だった。十賢者たちの本拠となるフィーナルの塔が完成したとの報せを受け、せっかく愛するルシフェル様の晴れ姿が拝めると思って飛んできたのに、彼は不在であった。肩透かしを食った彼女は、そこらにいた警護用のタキコドゥスとかいう機械仕掛けの魔物を数体ぶち壊したところでようやく腹の虫が治まり、塔を後にすることにした。
 塔の内部はどの階も天井といえるものがない。上を仰げばただ茫漠とした闇が広がっているのみ。それぞれの階の部屋はあくまで『断片』であり、空間を歪曲させてそれらを階層構造に積み上げているに過ぎない。言うなれば塔の外観は断片化した部屋を格納する『箱』でしかなく、その内部は混沌とした空間で充たされているのだ。
 通路を抜けて出口へと繋がる部屋に入る。そこの中央に誰かが背を向けて立っていた。ラヴァーに気づくと、その者はゆっくりとこちらを振り返る。
「ガ、ブリエル、様?」
 彼女がガブリエルと呼んだ赤髪の男は、血走ったまなこでこちらを睨みつけた。その周囲は燃え上がるような霊気オーラに覆われている。
「……フィリアは何処だ」
「はぁ?」
 ガブリエルはつかつかと歩み寄り、ラヴァーの前に立った。
「フィリアは何処だと聞いておろう」
「そっ、そんなこと……!」
 言い終わらぬうちにラヴァーは首を掴まれ、吊し上げられてしまう。
「言え、フィリアを何処にやった。隠しても無駄だ」
 喉を握り潰さんほどの力で締めつけられて、返答ができるはずもない。ううと唸るような声を洩らすばかりのラヴァーに愛想をつかしたのか、ガブリエルは腕を振って彼女を放り投げた。壁に叩きつけられ、喉を押さえて噎せ返るラヴァー。
 ガブリエルの纏う霊気オーラがいちだんと激しくなった。
「フィリアは何処だ! 何処に隠した!」
 塔全体を揺るがすほどの怒号にラヴァーは戦慄を感じずにはいられなかった。赤い髪がたてがみのように逆立ち、眸は狂気じみた金色にぎらぎら明滅する。
「なんだ、どうしたんだ!」
 扉が開いて、駆け込んできたのは筋肉質な上半身を剥き出しにした男。ガブリエルの姿を認めると慌ててその場に立ち止まる。
「ザフィケル様、助けてッ」
 ラヴァーはすかさずその男の腕にすがりついて訴えた。
「いつからあんな状態なのだ?」
 ザフィケルがラヴァーに訊く。
「知らないわよ。あたしが部屋に入ったときから、なんだか様子が変だったもの」
「フィリアよ! 我が愛するフィリアよ!」
 ガブリエルはなおも常軌を逸したように叫び狂う。そのたびに霊気オーラが爆発し、強烈な波動が部屋を突き抜ける。
「お前はいったい何処にいるのだ!? 銀河の果てか、地の底か! この私の嘆きが聞こえぬというのか、フィリアよ!」
「ガブリエル様、お鎮まりをっ!」
 片腕を前に出して波動を防ぎながらザフィケルが叫ぶ。ラヴァーはとっくに彼の背後に避難している。
「お前のいない日々に何の意味がある!? お前の笑顔を見られないこの世界に、どれほどの価値があるというのか!」
 ガブリエルを中心に暴風が吹き荒れ、電撃が迸る。背後の両開きの扉にひびが入り、次の波動で粉々に砕かれて吹き飛んだ。
「何事だ!」
 部屋の上空から突如として現れたのは銀髪の男。不意の暴風に吹き上げられるが、真紅の翼を翻してすぐに体勢を立て直す。
「ルシフェル様ぁっ!」
 ラヴァーが待ちかねたというふうに、嬉々とした声色で叫んだ。
「ルシフェル様、ガブリエル様をお鎮めください!」
 ザフィケルも必死に呼びかけた。ガブリエルを核とする暴風はいよいよ激しさを増す。
「ちいっ、欠陥品バグが」
 ルシフェルは舌打ちしたが、彼とて迂闊に嵐の中に飛び込むわけにもいかない。
〈我が望みは復讐という名の破滅、混沌という名の終焉。貴様らが私からすべてを奪ったように、私は貴様らのすべてを奪い尽くそう〉
 ガブリエルの声ならぬ声が部屋を震撼させる。紋様の浮いた壁に亀裂が奔り、空間制御が乱れて壁そのものが布きれのように波打っている。
「ルシフェル様、このままでは塔が……」
「黙れ! わかっている!」
 ルシフェルは一喝してから二本の指を突きだして、なにかを描くように素早く動かした。指先の軌跡が紫に輝く光の筋となって、ひとつの紋章が浮かび上がる。
次元転換ディメンジョン・スリップ
 最後に腕を横に振るうと紋章は急激に膨れあがり、光の筋が壁や床に張りつく。するとたちまち部屋が消失し、ルシフェルとザフィケル、ラヴァー、それにガブリエルだけが闇黒の空間の中にただ、浮遊していた。その瞬間に嵐も治まり、ガブリエルはまだ何事か叫んでいるがその声も届かない。霊気オーラさえも消滅していた。実空間におけるすべての現象は、この空間内ではことごとく否定されるのだ。
 やがて、ぷつりと糸が切れたようにガブリエルが静穏になった。頃合いをみてルシフェルが空間を戻しても、彼は頭をだらりと垂らし、廃人のようにそこに佇んでいる。ザフィケルが胸を撫で下ろし、ラヴァーは半べそをかいて座り込んだ。
 ルシフェルは元通りそこに出現させた床に降り立つと、小刻みに息をきらす。ガブリエルに干渉するのが不可能だと判断した彼は、空間をねじ曲げて造った塔全体を一時的に別次元に退避させるという強行手段をとったのだが、これが思いのほか労力を要した。彼でなければ到底できる芸当ではなかっただろう。
「ああん、ルシフェル様ぁ」
 ラヴァーがまっしぐらに彼の胸倉に飛び込んできて、頸の後ろに腕を回す。
「どうしてもっと早く来てくださらなかったの、あたしすっごく怖かったんだから」
「少し雑用を片づけていたのでな。悪かったよ」
 詫びのしるしとばかりにルシフェルは彼女を抱き寄せて口づけを交わす。そして耳許にそっと囁く。
「もうしばらくの辛抱だ。ネーデを統べ、あの欠陥品バグを始末すれば、もはや我らを脅かすものはなにもない」
「ええ……わかっているわ」
 ラヴァーもうち笑んで囁き返した。
「そちらの首尾はどうだ?」
「ばっちりよ。あいつらは今、移動手段を求めて近くに来ている。そこらの動物に悪戯しておいたから、ただでは済まないわ」
 ルシフェルは満足そうに頷くと、今一度唇を交わす。ふたりの横を、ガブリエルが下を向いたまま、足を引きずるようにしてゆっくりと通り過ぎていった。


 夜の森は、不気味なほどに深閑としていた。風は夕暮れにとうに絶え、梟や夜鷹の愁いを含んだ鳴き声すら聞こえてこない。樹木や茂みの草も昼間にはあれだけ陽の光を浴びて活き活きとしていたものが、この闇の中ではひっそりと息を潜めて、まるで夜が明けるのを忍んでいるようだ。
 彼らは森の中で、焚火を囲んで野営を張っていた。火の粉を飛ばしながら盛んに燃える焚火の上で、真鍮の鍋がぐつぐつと煮えている。ノエルは杓子でスープの表面に浮いた灰汁を取り除き、それからほんの少し掬って味見をする。ちょうどいい塩梅だというふうにひとつ頷くと、用意してあった金属の器に盛って、ひとりずつ手渡していく。
 レナは器を受け取ると、両手で抱えるように持って顔に近づけてみた。真っ白な湯気が目の前いっぱいに広がり、食欲をそそるようないい匂いが鼻孔をくすぐる。
「熱いから気をつけてくださいね」
 ノエルが言ったそばから、ボーマンがあつあつの芋を丸ごと口に入れてしまってもがいている。
 レナは肉や野菜の浮いたスープをスプーンで掬って、ふうふうやってから口に入れた。味つけらしい味つけはほとんどしていなかったのに、薫製肉の塩分と野菜のエキスがうまい具合に溶けだしていて、口当たりもよく、とても美味しかった。
「学生の頃はよく、こうしてアーティスとふたりで鍋を囲んでいたものだけどね」
 自分の分を器に盛ってから地面に腰を下ろすと、ノエルは懐かしむように言った。
「アーティスさんと?」
 クロードが肉を頬張りながら訊く。ノエルは焚火のおきに眼をやりながら。
「うん。僕らは動物の生態調査のために、野原やこんな森の中で一晩過ごすことなんてざらにあったからね。そのたびに僕がこのスープを作ると、あいつはこの料理は飽きたとかもっとレパートリーを増やせとかぶつくさ文句を言いながら、結局ぜんぶ平らげてしまうんだ」
 意外そうに話を聞く面々に、ノエルは寂しそうに微笑する。
「……そうだね、君たちは今の彼しか知らないから信じられないかもしれないけど、昔のあいつは陽気で少しふざけた奴でね、それにも増して動物が好きだった。本当に、かれらの幸せを第一に考えていたんだよ。けれど、教授との意見の食い違いで大学を出ていってから、あいつは変わってしまったよ。あんなに動物のことを想っていたやつが、今や動物サイナードを支配する施設の館長なのだからね」
 炎に照らされたノエルの貌は脈々と輝いている。
「でもね、最近思うんだ。僕が思っているほど、あいつはそんなに変わっていないんじゃないかって。ただ、動物に対するいっさいの感情を無理に押し込めているだけなんじゃないかって。『ホーム』の館長としての仕事を全うするために、ね」
「どうして」
 と、レナが突然、ノエルの方を向いて言った。
「どうしてアーティスさんはそんなに仕事にこだわるんですか」
「それは僕にもわからないよ。ただ……これは僕の勝手な憶測でしかないのだけど……彼は、サイナードを守ろうとしているんじゃないかな」
「守る?」
「うん。たとえ支配種反対の立場をとって、この先何年かあとに支配種の飼育が禁止されたとしても、それまでの期間、サイナードがああいう扱いを受けてきたという事実に変わりはない。それならば、あえて権力の下に立って、今生きているサイナードをできる限り庇護する立場をとった方がいいと考えたんじゃないかな。いつ果たされるかわからない最良の策よりも、今果たすことのできる最善の行動をあいつは選択したんだ。実際、彼が館長になってからサイナードに対する扱いは少しずつ改善されている」
 そこまで言うと、ノエルはレナを見て、優しい口調で続けた。
「だからね、どうか彼を誤解しないでほしいんだ。あいつが君たちにどんなことを言ったのかは知らないけど、誰よりサイナードを死なせてしまって悲しんでいるのは彼なのだから」
「……はい」
 レナは小さく返事をしてから視線を手に持った器に落とす。縁に口をつけて残りのスープを飲み干すと、身体がぽかぽか暖まってきた。
「長話につき合わせてしまってすまなかったね。明日は早めに出発したいから、そろそろ食事を済ませて休もうか」
 ノエルがそう言って立ち上がりかけたとき、ディアスが素早く背後を振り返り、腰から外して傍らに置いていた剣を握る。
「どうしたの?」
「なにかの気配がした」
 ディアスが声を押し殺して応えた。彼の視線の先の茂みで、確かに物音が聞こえる。彼らが息を呑んで見守っていると、やがて茂みが大きく揺れて、そこから獣の頭が突き出た。
「魔物か?」
「いえ、その子は大丈夫です。そっとしておけば危害は加えません」
 獣は茂みから完全に抜け出して、焚火を怖がるふうでもなく彼らの方へ近づいてくる。躯のかたちや大きさは山犬とほとんど変わりなく、毛並みは目の覚めるような青色をしていた。先が二股にわかれた尻尾をしきりに振って、レナの前へと歩み寄る。
「あら、もしかして、おなか空いてるの?」
 食べ終えて地面に置いた器に鼻をよせて匂いを嗅いでいる様子を見て、レナは鍋に残っていた肉を杓子で掬って手に載せ、獣の前に差し出した。獣はやはり鼻を鳴らして匂いを嗅いでいたが、しまいにはぱくりと一口で食べてしまった。名残惜しそうにレナの手を舐める獣の頭を、彼女はもう片方の手で撫でてやる。クロードが剣を下ろし、ボーマンが安心したように息をついて座り込む。
「この犬も稀少動物なんですの?」
「ええ。今のところ絶滅の心配はありませんが、それでも二百頭ほど……」
 獣の眼の色がみるみるうちに濁っていくのを、誰ひとりとして気づくものはなかった。
 大きく咆哮をあげて、いきなり獣がレナに襲いかかった。逃げ出す間もなく前肢で押し倒され、仰向けになった彼女の肩口を、先程まで巧妙に隠していた鋭い犬歯で噛みついた。
「くそっ!」
 剣を抜くのが遅れたクロードは足で獣の腹を蹴り上げた。レナから離れたところですかさずディアスが斬り捨てる。ぎゃいんと甲高い悲鳴をひとつあげて、獣はそれきり動かなくなった。
「ひっ!」
 セリーヌが引き攣ったような声を洩らした。周囲に視線を巡らすと、同種の獣が幹の陰から、茂みの向こうから次々とやってきて彼らを取り囲んでいる。最初の獣とは違い、すでに牙を剥き低く唸って威嚇している。
「ノエルさん、どういうことですか」
 クロードが剣を抜き身構えて、焚き火を挟んだ向こうのノエルに言った。
「これが危害を加えない動物なんですか」
「おかしい……かれらは集団で行動することなんてないはずだ」
 ノエルは訝しげに眉を寄せる。
「来たぞ!」
 獣は見計らったかのようにいっせいに襲いかかってきた。クロードとディアスは倒れたままのレナを、ボーマンはセリーヌを庇うようにして応戦する。
 首筋に食いつこうと飛びかかってきた一頭の顎を、ボーマンは籠手のついた拳で殴りつけて昏倒させる。すぐに別の二頭が向かってくるのを見ると、彼は背後のセリーヌに横に退くように命じてから、自分は跳躍した。そうして空中で懐から毒気弾の丸薬をふたつ取り出すと、両手にひとつずつ持って地面の獣どもに投げつける。炸裂する丸薬に二頭の獣はあえなく吹き飛んだ。
 レナの肩口から流れる血の匂いを嗅ぎつけているのか、執拗に迫り来る獣を追い払いながらクロードがふと背後に目をやると、一頭の獣がノエルに飛びかかろうとしていた。
「ノエルさん、危ない!」
 だがノエルは身構える様子もなく、飛びかかる獣を屈んで避けると、地面に着地したところを逆に捕まえて顔を覗き込んだ。
「お前たち、いったいどうしたんだ」
 歯茎まで剥き出し物凄い形相をして彼の手の中で暴れる獣に、ノエルは平然と問いかけ、顔を覗き込む。
 そこで彼が見たものは、闇が煙のように渦巻く瞳孔。
「なんだ……この目は」
 愕然としたノエルが力を緩めた隙に獣は彼の手を抜け出して、すぐさま襲いかかってきた。ノエルは歯を食いしばり、苦渋の表情を浮かべながら腕を前に突きだして唱える。
「テタナスウインド!」
 周囲にいくつもの毒の刃が生じ、一息に獣の躯を貫いた。噴き上がった血飛沫が焚火の熾に降りかかり、音を立てて蒸発する。ひくひくと全身を痙攣させながら地面に横たわる血まみれの獣を、ノエルは無言で見つめていた。
 しつこくレナを狙っていた獣どももクロードとディアスによって余すところなく片づけられ、その場に再び静寂が戻った。痛々しい肩を押さえて上半身を起こすレナを見ると、ノエルは彼女のところへ歩み寄る。
「大丈夫かい」
 ノエルは肩を押さえる手をそっと下ろさせて、傷口に手を翳してヒールと唱えた。淡い光の粒が触れると出血は止まり、牙で抉られた傷口も完全に塞がった。
「回復呪紋……! そうか、やっぱりそれはネーデ人の力だったのか」
 クロードが言うと、ノエルは首を横に振って否定した。
「いや、すべてのネーデ人が使えるわけではないよ」
「え?」
 ノエルはクロードの方を向いて説明する。
「遺伝子操作によってネーデ人が紋章を刻まずとも呪紋が使えるようになったのは遠い昔のこと。エナジーネーデに移住して以降は遺伝子操作は禁止され、また呪紋の必要性そのものが損なわれた今となっては、呪紋を使えるのはほんの一握りのネーデ人だけなんだ」
 そこまで言ってから、彼は地面に座り直すレナの方を向いて。
「すまなかった。火を怖がらなかった時点で僕も気づくべきだったんだ。かれらは別の大きな意志によって突き動かされていたようだった。おそらくは……」
「十賢者か」
 ボーマンの言葉に、ノエルは神妙に頷く。
「今夜は交代で見張りを立てた方がいいな」
 そう提案したクロードが剣を収め、何気なく隣のノエルを見て……凍りついた。
 彼は口を閉ざし、相変わらず無表情に獣の死骸を眺めていた。だが、彼の周囲を取り巻く気配が、凄まじいほどの瞋怒しんどで燃え盛っているように感じたのは、決して焚火の炎に照らされているせいではなかっただろう。


 紅水晶の洞窟は、多くのガスを含んだ深成岩のマグマが冷えて固結したためにできた、巨大な空洞だった。内部はペグマタイトと呼ばれる数種の結晶を含んだ花崗岩で覆われており、壁や地面のいたるところに紅に染まった水晶の柱が突き出ている。地面の割れた部分や半透明の結晶になっている部分から下を覗くと、そこでは今も赤黒いマグマがどろどろと流れていた。水晶が紅く輝いているのもこのマグマの光を受けているからのようだ。
「はぁ……なんだかとんでもないところに棲んでるんだな、サイナードって奴ぁ」
 ボーマンはそう言って、白衣の袖で額の汗を拭う。足許をマグマが流れているだけあって、内部はかなり暑い。
「……殺気がみなぎっているな」
 洞内を隅々まで見渡してから、ディアス。
「ええ、僕も感じました。普段なら他の動物はサイナードの匂いを嗅ぎとって入ってくるはずはないのに」
 ノエルも冷静な口振りで言った。
「サイナードは大丈夫なんですか?」
「そこらの動物にやられるほどサイナードは弱い生き物じゃないよ。だけど」
「それでも急ぐに越したことはありませんわね」
 セリーヌの言葉に全員が同意して、彼らは一気に駆け出した。
 出発前にノエルが言っていたように、洞窟の中は結晶のこびりついた岩壁で道筋を仕切られていて、複雑な迷路のようだった。彼の先導なくして辿り着くことは到底無理だったろう。
 水晶の張り出した狭い通路のような道を進んでいくと、今度は一転してだだっ広い大空洞に出た。天井ぎりぎりの上空では魚を縦に割いて開いたような生物が群をなして飛び回っている。
「なんだ、あのヒラメみたいな鳥は?」
「レイスティンガーだ。かれらもこんな洞窟の中に入り込むことなんてなかったのに」
「どうする? こんな広い場所でまとまって襲われたら……ただじゃすみそうにないけど」
「なんならわたくしが呪紋で撃ち落としますわ」
「いや、それはやめてくれ」
 杖を突きだしたセリーヌをノエルが止める。
「かれらはただ、操られているだけなんだ。できるなら殺さないでほしい」
 五人は困ったように顔を見合わせる。そして。
「……突っきるしかないか」
 クロードの判断により、彼らは再び全力で走り出した。案の定、それに気づいた何匹かが降りてきて襲いかかる。
「ちっ」
 レイスティンガーは嘲るように頭上すれすれを滑空する。彼らは首を低くし頭を抱え、実際に襲いかかってきたものには天命とばかりに一撃のもとに葬り去った。
「こっちだ!」
 空洞を抜けて、どうにか横穴のようなところに入り込む。背後からしつこく追ってくるレイスティンガーを撃退しつつそこを駆け抜けると、また開けた場所に出た。彼らが立っている場所から二ひろほどの道が壁づたいに続き、最後には大きく折れ曲がって下っている。道の下は半透明の結晶でできた床が一面に広がる。飛び降りて無事にすむとも思えない高さだったので、仕方なしにそのまま道をひた走っていった。
 すると、道の下から突如として数羽の鳥が飛び上がってきた。全身を覆う羽毛は鈍色で、鷲のような鉤形の嘴をもっている。
「ペリュトンだ。羽根に気をつけて! 石化させられるよ」
 注意を促すノエルの言葉を解したように、ペリュトンは翼を広げ大きく羽撃いて羽根を飛ばしてきた。ディアスが衝撃波で弾き、レナが防御呪紋プロテクションで防いでやり過ごしながら、彼らは迫り来る怪鳥を突き放しにかかった。緩やかな下り道を力の限り駆けて、下の地面とさほど高低差がなくなったところでひと思いに飛び降りた。そうして底を流れるマグマの色で紅く染まった床をさらに走り出したところで、ついにペリュトンは諦めたとみえて、急に上昇して反対の方角へと飛び去っていった。
 追っ手をどうにか振りきった彼らは走るのをやめ、その場で一息つくことにした。レナは膝に両手をついて前屈みになり、苦しそうに咳きこんでいる。セリーヌは尻餅をついて天を仰ぎ、ボーマンに至っては仰向けに寝転がってぜえはあとやっている。さすがにクロードとディアスはさほど疲れた様子でもないが、それでも顎から汗を滴らせて息をついている。
「サイナードのところまでは、まだ遠いんですか?」
 紅潮した顔を手で仰ぎながらクロードが訊くと、ノエルは手巾ハンカチで首を拭っていた手を止める。
「いや、もうすぐそこだよ。ここをずっと行って左に曲がった先だから」
「ったく、年寄りを働かすんじゃねーよ」
 片膝を立てて身体を起こしたボーマンが誰に言うともなく愚痴っている。
「あら、中年太りの予防のためには、丁度よかったんじゃございませんの?」
 セリーヌが揶揄するように口を出すと、ボーマンも躍起になって。
「そういうお前さんだってダイエットにゃ最適だろ? ほれ、心なしかウエストのあたりがスリムになった気がするぞ」
「言いましたわね、この中年色魔が」
「お肌の曲がり角に怒ると小ジワが増えるぜ。もう若くないんだからよ」
 ふたりの間で火花が散りかけたそのとき、洞内に聞き覚えのある咆哮がこだました。
「今のは……」
「サイナードだ!」
 四人はすぐに声のした方へと駆け出した。ボーマンとセリーヌを残して。
「おいおい、なんであいつら、あんなに元気なんだよ……」
 不平たらたらのふたりも立ち上がり、おぼつかない足取りで後を追った。

 サイナードは二匹の魔物と睨み合っていた。魔物はいずれも大蜘蛛の下半身と人間の女の上半身を合わせもっている。肌は死人のような土気色で、こめかみまでつり上がった目は青黒い隈で縁取られていた。
 彼らが目を見張ったのは、片方の魔物の手に握られていた小さな獣。両手に一匹ずつ、首根っこを押さえるようにして握られているそれは、紛れもなくサイナードの子供だった。
「ノエルさん、あいつらは……」
 クロードが魔物を示して訊くと、ノエルは困惑したように。
「……見たこともない。ここの動物じゃないよ」
「エルリアの塔であれと似たような魔物と戦った覚えがあるな」
 ディアスが言うと、クロードも頷く。
「ああ。たぶん、十賢者直々の刺客ってとこじゃないか」
 親サイナードは低く呻りながら魔物を睨みつける。躯のいたるところに切り傷や痣が見られ、透明の美しい翅も引き裂かれて大きく破られている。そして、双眸は危険な赤色で充ちていた。ノースシティのときと同じように。
 一方の手ぶらの魔物が腕を前に突きだす。すると掌から白い糸の束が飛び出し、網のように広がってサイナードに降りかかった。蜘蛛の糸は藻掻くサイナードの全身にまとわりつき、動きを完全に封じてしまう。恨めしそうに我が子を見つめるサイナードを後目に、魔物は鎌鼬を飛ばして弄ぶように傷つけていく。
「ひでぇな。あれじゃ、なぶり殺しじゃねぇか」
 遅れてやってきたボーマンが顔をしかめる。
「助けよう。僕とボーマンさんで子供を取り返すから、ディアスはもう片方を」
「わかった」
 言うが早いかディアスは空破斬を放つ。迫り来る衝撃波に気づいた魔物は地面に沈むように消え失せ、すぐに別の場所に出現した。そうしてディアスに鎌鼬を飛ばすが、ディアスも跳躍して軽く躱すと魔物の許へ駆けていく。相手の腹を横に薙ぐように振るったが、またしても地中に逃げられてしまう。背後に現れた魔物は鋭い爪でディアスの背中を引っ掻いた。外套が斜めに裂かれる。咄嗟に横っ跳びに退いて間合いをとったが、いくらか傷は負ったらしく背中がひりひりと痛む。
 魔物は休む間も与えず鎌鼬を飛ばしてくる。先程の全力疾走が動きを鈍くしているのは否めない。それでも疲れた身体を叱咤しったして鎌鼬を避け、反動をつけて蜘蛛女に斬りかかった。魔物はやはり地中に逃げたが今度はディアスもそれを予期して神経を研ぎ澄ませ、気配で次の出現場所を察知するとすかさずその場へ走った。予想通り浮上してきた魔物。まだいくらか距離が隔たっているにもかかわらず、彼は剣を抜いて逆手に持ち替え、猛然と突進していった。
「疾風突!」
 魔物に体当たりすると同時に繰り出した剣の切っ先が相手の腹を突いた。突き飛ばされて地面を滑る魔物にディアスは止めを刺すため追いかけようとして……立ち止まる。レナがその魔物に向かって詠唱しているのが視界に入ったのだ。
「トラクタービーム!」
 彼女が唱えると、起きあがりかけた魔物の周囲を円筒状の光が覆う。光の内部の重力が逆転し、魔物の躯は宙に浮かび上がると加速をつけてぐんぐん上昇して、最後には空洞の天井に激突した。光が消えて重力が元通りになると今度はぐんぐん下降して、硬い岩盤に叩きつけられる。魔物は踏みにじった蛙のように無惨な姿で潰れていた。
 クロードとボーマンも同様に、いやそれ以上に攻めあぐんでいた。救うべきサイナードの子供を盾に取られていては迂闊に手を出すわけにもいかない。らちが明かない小競り合いのあと、魔物との睨み合いがひとしきり続いた。
「おい、どうするんだよ」
 ボーマンが苛立ち、クロードを急き立てる。
「なんとか隙をみて子供を奪わないと……」
 言いながらクロードはひとつの作戦を閃いた。
「攻撃をしかけた瞬間だけはあいつも無防備になる。僕が正面から向かっていくから、あいつが鎌鼬を飛ばした隙に、ボーマンさんは横からサイナードを奪ってください」
「それはいいが、二匹まとめて奪うってのはちと無理があるぜ」
「一匹でいいです。もう一匹は後から僕が奪いますから」
「よし、わかった」
 かくしてボーマンは魔物の視線からはずれて横へと移動していく。クロードはしっかり剣を握って構え、高鳴る胸を抑えるように深呼吸した。
 ふっと腹に力を込めて息を吐くと、クロードは床を蹴って魔物に斬りかかった。魔物は二匹の子供を片腕に抱え、もう片方の腕を振って鎌鼬を放った。今だ。
「くらえいっ!」
 ボーマンは懐から丸薬を取り出して相手の足許に投げつけた。地面に当たって破裂するとそこからもうもうと煙が舞い上がる。視界を阻まれ動揺している隙をついてボーマンが横から駆け出し、魔物の腕から一匹のサイナードを引ったくり、そのまま反対側へ駆け抜けて地面に転がった。
 続けて鎌鼬を躱したクロードが剣を捨てて魔物に向かって走った。煙幕が薄れ、相手がそれに気づいた。逃げられる。クロードが一気に飛びついた。腕の中の子供にその手が届く前に、無情にも蜘蛛女の躯は地面に沈み込む。つかまえようと突きだした手が空をきり、直前まで魔物がいた地面に腹這いに着地した。
「しまった!」
 クロードはすぐに膝をついて起きあがり、振り返った。そこには子供の片割れを奪われて逆上した蜘蛛女がいた。怒りのあまり我を忘れた魔物は鬼のような形相で腕に抱えたもう一匹のサイナードの頭をつかむ。
「やめろッ!」
 それを見たクロードが慌てて駆け出すが時すでに遅し、魔物は小さな頭を握る手に力を込め、一息にそれをひねった。鈍い音が洞内に響き、レナがそちらを振り向いた。
「あ……」
 魔物が子供を放す。サイナードの子は地面にどさりと落ちたきり、動かなかった。首があらぬ方向に折れ曲がり、眸からは光彩が失われている。
 ぐわぁおっ! 突然サイナードが暴れ出し、蜘蛛の糸を引きちぎって魔物に襲いかかった。魔物はすぐに地中に潜り、サイナードの繰り出した前肢は紅色の岩盤を砕いた。
 別の場所に現れた蜘蛛女に今度はクロードが狙いをつけて駆け寄る。相手と、そして自分自身に対する怒りのすべてを込めて、クロードは右手を掲げて振りかぶった。
「吼竜破ッ!」
 頭上に生じた闘気の竜はクロードが投げつけると空中を滑るように飛んでいき、目指す魔物を捕捉すると大口を開いて胴体に咬みついた。さらに余勢でそのまま突き飛ばして岩壁にぶち当たり、蜘蛛女は壁から突き出た水晶の塊に貫かれた。大小さまざまな水晶が突き刺さったその姿は、磔にされた標本のようでもあった。紅の水晶が魔物の体液でどす黒く変色していく。
 ──まただ。
 その一部始終を見ていたディアスは思った。吼竜破を放った瞬間、彼の背後にとてつもない影が見えたのだ。エルリアのときはただの気のせいかとも思ったが、これだけはっきりと映ってしまってはもはや見間違いでは済まされない。影は何かのかたちを成しているようにも見えたが、彼の鋭敏な感覚をもってしてもそれ以上を感じ取ることはできなかった。
 魔物が片づいてもサイナードの怒りは治まらなかった。前肢を壁に叩きつけ、傷ついた翅を無理に動かして烈風を巻き起こし、天に向かって炎を吐き散らす。すでに正気を失っていた。
「こいつはどうすりゃいいんだよ……」
 その暴れっぷりに怖くなったボーマンが、抱えていたサイナードの子を地面に降ろして、そろそろと後退りを始める。と、そこへレナが歩み寄って、子供を両手で抱き上げると親サイナードの許へ向かっていった。
「おい、ちょっと待て、レナ、危ない!」
 レナは構わずにサイナードの前に立った。それに気づいたサイナードが怒号のような咆哮で脅しても、彼女は怯まない。やがて少し落ち着きを取り戻すと、首を降ろしてレナの前に鼻面を突きだした。
「ほら、あなたの子供は無事よ」
 レナは腕に抱えた子供をサイナードに見せて、それから地面に降ろした。
「さあ、お母さんのところへ行きなさい」
 サイナードの子はゆっくりと親の前肢をのぼって、胸のあたりに潜り込んで見えなくなった。そこにどうやら子供を育てるための袋があるようだ。
「あなたもひとりでよくがんばったわね」
 レナはサイナードの鼻を撫でてやりながら呪紋を唱える。暖かな光に包まれて、全身の傷が、痣が、翅の破れたのが癒えていく。だが、サイナードはまだ彼女を威嚇するように低く呻りを洩らしていた。
「……まだ怒ってるの? ……そうよね、あなたの大事ないのちが、ひとつなくなってしまったものね」
 サイナードの視線が目の前のレナではなく、ずっと先にある子供の骸に向けられていることに、彼女は気づいた。激しい怒りが、やりきれなさが、深い哀しみが、この巨きなからだから伝わってくる。鼻の付け根に額を当てて、レナは震える声で言った。
「ごめんね……救ってあげられなくて、ごめんね……」
 鼻面を抱いて、涙を流すちいさな少女に、サイナードは呻りを止めた。眸の赤が薄れていき、澄み渡る空のような青に変わった。それは少女の優しさを受け止めた証でもあった。
 クロードは地面に転がっていた剣を拾い上げて、鞘に収める。
「クロードさん、いいんですか?」
 その彼にノエルが訊ねた。
「サイナードを従わせるなら、かれと戦わないと……」
「この状況で?」
 クロードは力なく笑って反問した。
「ナールさんに別の方法でも考えてもらいますよ。その方が、レナに嫌われるよりずっとマシだ」
 わざと明るい口調でそう言う彼に、ノエルは項垂れる。
「……ありがとう」
 クロードはなにも応えずに、仲間が集まる方へと歩いていった。
 レナはようやくサイナードから離れて、目の前で向き合う。
「じゃあね」
 手の甲で頬の涙を拭いながら別れを告げて振り返ったそのとき──サイナードが天井を向いて遠吠えを始めた。喉を振り絞り、あらん限りの声を出して吠え続ける。
「まさか」
 ノエルが信じられないというふうに目を──見開いているのだろうが実際にはあまり変わっていない。
「どうしたんですか?」
 クロードが訊くと、ノエルは食い入るようにサイナードを見つめながら。
「これは戦いのあとに、敗れたサイナードが相手に服従を誓うときの鳴き声だ」
「それじゃあ、まさかレナを主人だと認めたっていうんですの?」
 レナは振り返って、再びサイナードの前に立った。サイナードは遠吠えをやめ、従順そうに彼女を見つめている。
「力を、貸してくれるの?」
 レナの言葉に、サイナードはきゅうと鳴いて応えた。