■ 小説 STAR OCEAN THE SECOND STORY [クロード編]


第十二章 愛と勇気とすべての想いを

「起きて。起きて、クロード」
 優しい声がする。
「クロードったら……。ねぇ、起きてよ」
 華奢な手がクロードの体を揺する。まだ、少し眠い。寝返りを打ちながら、柔らかな布団に身を埋める。
「もぅ……。しょうがないわね。早く起きないと、……キスしちゃうぞ」
 ちゃんと聞いているのに、クロードは起きようとしない。こんなことを言われてわざわざ起きるやつが、どこにいるだろう。彼女の柔らかい唇の感触を待ち望む。そう。いつもの、あの温もり。
 ほどなくクロードの前髪がかきあげられ、そこに熱い口付けが……。いや、冷たい。なぜか、それは氷のように冷たかった。そして、硬かった。不審に思って目を開けると、そこに見えたのは銀髪の男の顔だった。紅い唇が白い顔に映える。
 ──ルシフェル!?
 がばっと起き上がると、自分が汗だくになっているのが分かった。息も、荒い。
「夢、か……」
 無意識に額に手を当てる。冷や汗がついて、それを布団で拭った。
 まったく、おかしな夢を見たものだ。普段なら、レナが起こしにくれば一発で目が覚めただろうに。いつか、あんな余裕を持てる日が来るだろうか。来るといい。そのためにも、今日は……。
「おはよう、クロード」
「えっ!?」
 真横から聞こえた声に、クロードは思わずひっくり返りそうになる。まさか、現実でもレナが……? だが、そこにいたのは青黝あおぐろい髪の少女ではなかった。
「朝ご飯、できてるよ。僕が、腕によりをかけて作ったんだ。みんな食堂で待ってるよ」
 と笑顔で言うエプロン姿の青年の背中には、双頭の龍が憑いていた。
「ア……アシュトン?」
 まだ夢の続きを見ているのだろうか? ご機嫌で退室するアシュトンを見ながら、クロードは頬をつねった。……痛い。

 身支度を整え、研究者たちが忙しなく行き交う廊下を抜けて食堂へと入る。元々は水族館来館者用のレストランで、ここだけは唯一洒落た雰囲気を残していた。木目調のテーブルと椅子が、ずらっと並んでいる。それぞれのテーブルには、橙色の幾何模様が入ったテーブルクロスが敷かれ、鮮やかな赤色の花を数輪生けた花瓶が置かれていた。海を見渡せる窓から流れ込む風が涼しい。
 食事を摂る暇もないのか、研究者たちの姿は見当たらず、数十はあるテーブルのほとんどは空席だった。奥の長いテーブルだけが賑やかになっている。
「クロード、おっそーい!」
 笑いながら手を振るのはプリシス。夜通し無人君の改造をしていたはずなのだが、それを感じさせない元気さだ。だが、横に座るレオンは何故か今にも倒れそうな顔でキャロットジュースを啜っている。
「はは……。おはよう、みんな」
「おはようございます」
 ナール市長とノエルが同時に頭を下げる。
「しっかりしなさいよー。『光の勇者、決戦の日に寝坊』なんて記事、たとえ真実でも書きたくないわ」
 チサトは大きな皿に並べられたサンドイッチを次々と手にとる。誰がいつの間に光の勇者の話をしたのだろう?
「まったく、肝心なところでなにか抜けてるんですものね。クロードは」
 何の変哲もなさそうなアシュトンのベーコンエッグを、セリーヌは丹念に味わっていた。
「あっはっは。あんたも酷い言われようだね、クロード。こんなパーティをよくもまとめてきたもんだ」
 ミラージュの豪快な笑いが、仲間たちの笑声を誘う。決戦を前にしてこの笑顔が見られるのなら、きっと何もかも上手くいくだろう。
「さぁ、クロード。席についてよ」
 焼きたてパンのバスケットを抱えたアシュトンが厨房から出てきた。香ばしい臭いを漂わせながらテーブルにバスケットを置き、エプロンを外して席につく。死んだようだった彼が、一晩のうちでとても生き生きしていた。こんな奇跡が起こるのは、そう、あの宝珠の力に違いなかった。クロード自身も助けられた、四つの宝珠。
 一つだけ空いた席に目を向ける。アシュトンの隣、そして、レナの隣。自分を見つめるその瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。昨日までとは違う微笑みに、クロードは胸が一杯になる。その瞳に誘われるようにして席につき、顔を上げると、仲間たちが自分に注目していることに気が付いた。自信、期待、希望、夢、力、勇気、そして、愛。それぞれの想いに満ちた視線を、クロードは静かな興奮のもとで受け止めた。これが、自分の仲間。一つの目的のために、力を合わせ、助け合い、慰めあい、励ましあって共に戦ってきた仲間だ。
 これからどんな運命が待ち受けていようとも、その絆だけは誰にも失わせない。

 アシュトンの復活もさることながら、クロードたちに大きな期待を抱かせたのは、新生無人君二号だった。ミラージュの協力によって総レアメタル製になったボディは滑らかな青色に輝き、ヴォイドマターと同じ紋章を刻むことによって強力な反物質フィールドで包まれている。また、右腕のドリルはセイクリッドティア並みの鋭利さを持ち、左腕のパンチにはレオンが強力な紋章を刻み込んだという。まさに究極の破壊兵器と言ってもよかったが、全て手動操作なのでどの程度役に立つかはプリシスの操縦の腕にかかっていた。もっとも、彼女自身は自信満々だが。
 ただし、困ったことに無人君二号の巨体はヘラッシュに入ることができなかった。入ったとしても、その重量でヘラッシュが沈んでしまうだろう。無人君の運搬方法について、クロードたちは散々頭を悩ませたのだが、なんのことはない。ギヴァウェイと力の場を往復したように、無人君には潜水機能がついていたのである。そこで、一人が無人君に乗り込み、ヘラッシュの尾とロープで結ぶことにした。
 問題は人選だった。
「なんで僕がやるのさっ!?」
 宿主の不幸に、二匹の龍は笑い声を上げる。
「だって~、あたしとレオンは徹夜だから寝たいし。クロードはリーダーなんだからトーゼン、ヘラッシュの中でしょ。ノエルもへラッシュの中にいてあげたほうがいいし。そーしたらアシュトンしかいないじゃん。それとも、このキケンな役をオンナノコにやらせるつもり?」
 そう言われてしまえば、アシュトンとしては対抗する術がなかった。もっとも、彼はプリシスという少女に対して、根本的に反抗することができないのだが。
 海中で起こるであろう万が一の事故を想像して青くなる青年を見かねたノエルが「代わりましょうか」と申し出ようとするのを、チサトが『緊急取材! ヘラッシュの謎に迫る』という内容のインタビューで阻止し、事は一件落着した。
「間もなくヘラッシュが到着します」
 水族館付き飼育係の声が、ヘラッシュ専用ドック内に緊張を呼んだ。会話が中断し、指揮官のいないネーデ防衛軍の面々が整列する。珍しくネーデ新聞社などの報道陣が押しかけ、見送りの人数としてはそれなりになったものの、全宇宙の命運を賭けた戦いにしては少なすぎるともいえた。
 プールの中からヘラッシュが水しぶきを上げながら巨体を現すと、背中にある搭乗用の口が開き、別のネーデ防衛軍メンバーが現れた。二名の女性隊員はアイスブルーの制式ローブをひらつかせながらヘラッシュの上を早足で歩き、市長の前で揃って敬礼した。そのきびきびとした動作には同じく女性であったマリアナを彷彿とさせるものがあった。カメラマンたちの視線がファインダー越しに集中し、携帯用録音機が向けられる。さすがにこの時ばかりは、チサトも取材される側だった。
「海底航路調査、完了しました。結果はオールグリーン。普段よりも落ち着いた旅が楽しめるでしょう」
 最後ににこっと笑った隊員の顔にフラッシュが注がれた。ナール市長は頷いて労いの言葉をかけ、クロードの前に進み出る。
「全ての戦いを、あなたがた自身の故郷のために。我々も、結界紋章の完成を急ぎます」
 差し出された手を笑顔で握り締め、クロードは気負いなく言った。
「必ず帰ります」
 そう。必ず帰ってこよう。この場所に。必ず帰ろう。エクスペルに。
 フラッシュの嵐の中で手を握り返す市長の手が、何故か少しだけ震えているのをクロードは感じた。その理由を考える間もなく市長は握った手を高く掲げ、報道陣に向かって手を振った。歓声と拍手が起こり、少し照れくさかった。

「エクスペルたちはラクアを出港しました。フィーナルへの到着は六時間十四分後です」
『そうか……。いよいよだな』
 通信窓越しにルシフェルの口元が歪むのを、ラファエルは見ていた。
『迎撃にはお前たち三人が当たれ』
「我々……ですか?」
 ラファエルは驚きと同時に不吉な予感を感じずにはいられなかった。ルシフェルの顔に、まるで真剣味がなかったからである。それは、先日ザフィケルやメタトロンに出撃を命じたのと同じ表情だったのだ。
『不都合でもあるのか?』
 問いただす声も、どこか遊んでいるようであった。
「いえ……。しかし、我々は戦闘には不向きです。より力のある者を投入するほうがよろしいかと存じますが」
『ガブリエルは使えぬ。それに、たかが人間如きにミカエルやハニエルまで出したとあっては我らの沽券に関わる』
 彼は、名誉だとか沽券だとか、そんな言葉を口にするような人物ではないはずだった。ラファエルが記憶しているあらゆる状況において、それは確かなことであった。
 ──もっともらしい言葉で丸め込もうとしている。
 それが、情報分析用素体ラファエルの結論だった。そしてその分析結果に、ラファエルは胸の詰まる思いがした。自分も、この男に切り捨てられるのか。
『他の二人にも伝えておけ』
 ルシフェルは、一方的に通信を絶った。
 もともと、メタトロンたちが敗北したときから予測はしていた。しかしそれは単なる予測であって、しかもラファエルの中では生起する確率の低いはずのものだった。だが、その判断には多分に事実以外の要素が絡んでいた。あの方は決して自分を見殺しにはしないだろうという、思い上がり。あの方には見捨てられたくないという、不安。どちらも、今のルシフェルには全く関係のないことなのに。
 自分の中に焦りと恐怖があるのを感じて、ラファエルははっとする。自分はいつの間に、感情を持つようになったのだろう。あの時一度捨てたはずのものを。

 レイリーとルシアスは、首都郊外の田舎町にあって評判の兄妹であった。兄妹と言っても血は繋がっておらず、幼い頃レイリーの両親が事故死し、それを友人であったルシアスの両親が引き取ったのである。しかし何年と絶たないうちにルシアスの両親も亡くなり、それ以来二人だけで、本当の兄妹のように暮らしてきた。
 この二人が評判である理由には、不幸な運命にありながらも明るく生きようとしていること、誰もが認める美男美女であること、ネーデ中央紋章大学で常に成績がトップクラスであること、とても仲がよいことなどが挙げられた。
 地元の小さな学校に通っていた頃、レイリーは幾度となく想像したことがあった。大学を卒業したら、ルシアス兄様と──。
 ルシアスは繊細な銀髪と、女性と見間違うほどに美しく整った面立ちをしており、そこに浮かべられる優しい笑顔は同級生のみならず多くの女子生徒に人気があった。いつもいつも女の子に言い寄られているルシアスを、はじめ男子生徒たちは忌み嫌っていたが、彼が本質的に持つ優しさや境遇に触れると、次第に対抗意識も萎えてしまっていた。それはレイリーについてもほぼ同様の現象だったが、彼女は男女共に人気のある義兄を心から誇りに思っていた。その想いが持続したのは、ルシアスが一度も他の女性に近づかなかったからであろう。
 しかし、大学に入ってそれは一転する。ルシアスが二年、レイリーが一年のとき、彼女には入学してほどなく同性の友人ができた。濡れたように輝く青色の髪をしたその少女は、高名な学者の一人娘だった。
「えっ……。ランティス博士って、あの?」
 驚きのあまり大声を出そうとするのを、彼女は慌てて止めようとした。人差し指を口元に当て、いたずらっぽい顔で笑う。
「しーっ。貴方にだけの秘密よ」
 その日から、レイリーとフィリアは親友になった。いつどこに行くのも一緒で、フィリアのほうも明るく裏表のない性格だったから、二人はいつも男子学生の注目の的だった。異性から誘われたりすることに、レイリーは慣れてはいたが、断るのはあまり得意ではなかった。地元にいた頃は誰もがルシアスのことを知っていたから、相手のほうもしつこくつきまうことはなかった。なにしろ、ルシアスはけんかも強かったから。大学でもルシアスは有名人ではあったが、レイリーとの関係はあまり知られていなかったので、自然と男子学生の接し方も異なった。
 ある日フィリアと二人で四人の学生にかなりしつこく誘われたとき、レイリーは思わずルシアスの姿を捜し求めたが、広い構内では見つかるはずもなかった。いよいよ一人が強引にレイリーの腕を引っ張ろうとしたとき、素早くフィリアの手が飛んで、気付くと男は地面にひっくり返っていた。フィリアはレイリーの腕を掴むと、仰天して声も出ない他の男たちに体当たりを食らわせながら全力で逃走した。
 人気の多い食堂まで走ってきて、まだ状況をつかめず息を切らしているレイリーに、フィリアは笑顔で言った。
「ちょっとだけ、体術を習っていたことがあるの。お父様が心配して習わせたんだけど」
 そのときはお互いに笑ってすんだのだが、後日、四人の男子学生は別の男たちを多数引き連れてレイリーたちの前に現れた。二十人くらいはいただろうか。フィリアもさすがに分が悪いと思ったのか相当に緊張した面持ちだったが、男たちが御託を並べているうちに別の声が上がった。
「なにをしているんだ!」
 その声の主を見つけて、レイリーは喜んだ。
「ルシアスじゃねぇか。俺たちになにか用か?」
「お前たちに用なんかない。ただ、お前たちが取り囲んでいる僕の妹に用があるのさ」
「てめぇの妹だって?」
 ボス格の男は多少驚いた様子だったが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「こいつは面白れぇや。おいっ! 奴をふんじばれ! その後で自分の妹がどんな目に合わされるのか教えてやる!」
 十人ほどの男たちが一斉に襲いかかったが、瞬きする間もなく倒れていった。ルシアスは一瞬の出来事に呆然と立ちつくす他の男たちを尻目に、悠々とレイリーたちに近づき、声をかけた。
「大丈夫か?」
「ええ、お兄様」
「君は?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ならよかった」
 ルシアスは二人をかばうようにして立ち去ろうとしたが、男たちは許さなかった。先程とはまるで体格も違う屈強そうな十人が、襲い掛かってきた。ルシアスは最初の三人を倒したが、背後を突かれて一瞬体勢を崩した。その隙を別の男が狙ったが、これはフィリアをフィリアが阻んだ。そして、残りの男たちを二人でのしてしまったのだ。
 これが、ルシアスとフィリアの出会いだった。その日から二人が自分の気持ちをレイリーに相談するようになるまで、日数はかからなかった。
 慕っていた義兄と無二の親友の気持ちに、レイリーは動揺し悩んだ。二人の想いは純粋で、しかしレイリー自身をすり抜けていく。
 苦しかった。
 二人を失いたくなかった。
 怖かった。
 自分の気持ちは打ち明けられなかった。
 辛かった。
 二人を苦しませたくはなかった。
 だから、余計な感情を捨てた。

 それは、第一次十賢者防衛計画が政府高官の間で決議された日だった。

 空は青く、薄い雲が流れるような筋をつくっている。太陽は空高く輝き、草木が風に揺れて心地のよい音を立てる。その中に、不気味な様相をした塔が立っていた。周りが明るいのにそこだけが夜のようで、不規則に並ぶ窓のような穴からは様々な暗い色の明かりが漏れ出ていた。その外観は異様でこそあれ奇怪ではなかった。直線や円弧を多用した建材を幾重にも張り合わせたようで、色彩も一応は統一され、常人とはその感覚が多少ずれているにしても、明らかに何らかの整った思想の下につくられているようだった。
 フィーナル。多くの人々を踏み潰し、街を破壊して作られたこの塔の中に、十賢者たちはいる。
 湖に架かる重厚な橋を渡り唯一の扉の前に立つと、分厚いそれは音もなく自動的に開いた。一週間前と同じ塔の内部が、クロードたちの目に晒される。壁一面に明滅する無数の紋章。
 若干の意気込みと若干の緊張を交えながら、クロードは一歩を踏み入れた。
「やぁ、いらっしゃい」
 響いたのは、緊張感にも威厳にも欠ける、若々しい声だった。その主を求めるように一斉に天井を見上げると、四色に分かれた同じ人間の影が数組舞い降りて来、床の上で三つの実体と化した。そろって紅い縁取りに緑のローブを着た、三人の賢者たち。
 左手には老人然とした白髪の男性。それがただの人間でないことは、禿げ上がった頭にうごめく大小の瞳が示していた。とくに額の一つは大きく、本来あるべき両の目の部分には銀色の帯状の装置に覆われていた。三人の中で最も気味が悪い。
 右手の男……だと思われる者は大きなフードを被っており、その中は夜を棲まわせているかのように暗く、表情というものを読み取ることはできなかった。ただ、目の部分が二つ黄色く光っている。唯一肌が見えるのは両の腕で、異様に青白く、美しいほどに細かった。
 そして中央には先刻の声の主であろう、鮮やかな藍色の髪をした少年の姿があった。朱に塗られた巨大な音叉状の武器は、若干低めな彼の背丈よりも大きかった。他の二人に比べると際立った特徴はなかったが、一つ挙げるとすればそれは耳の部分についた棒状の装置であったろう。その本体部分は白く、先端が半透明の緑になっている。それが、耳の代わりなのか耳についているものなのかは判然としなかった。
「お主らが来ることは、すでに見えておったよ」
 頭の目をぎょろぎょろさせながら、余裕の笑顔で老人は言う。まるで、これから繰り広げられる戦いの結末までも見通しているかのように。
「いくら君たちでも、名前も知らない相手に殺されるのは可哀想だからね。最後に自己紹介くらいはしてあげるよ。ボクの名前はサディケルっていうんだ。そしてこいつがウィンディング・フォーク。君たちを屠るボクの分身さ」
 サディケルと名乗った十賢者は何故かずっと目を閉じたまま不敵な顔で音叉状の武器を持ち上げ、クロードたちの方に向けて見せた。
「私は……ラファエル」
 フードの奥から響く声は、まるで人間らしさを感じさせなかった。腹の底から響くようでもあり、甲高いようでもあり、性別すら分からない。
「そして、儂がカマエルじゃよ」
 もしこの老人に長い顎鬚が生えていたら、それをゆっくりと撫でながら言ったに違いない。そんな口調だった。
 個性豊かな三賢者だったが、共通するのは余裕綽々といった感じの態度だった。サディケルなどはウィンディング・フォークを器用に振り回しながらステップを踏んで準備運動めいたことまでしている。しかも、自分たちから攻撃してこようとしない。なんと馬鹿にされたことだろうか。
 しかし、それ故に恐怖を感じてしまう。過去の資料によれば、カマエル、サディケル、ラファエルの三名は共に諜報活動を担当する素体である。ザフィケルやメタトロンのような戦闘用素体ではない。彼らよりも弱いから三人で襲ってくるのか、初めから一気に殲滅しようという作戦なのか、だとしたらなぜ他の賢者たちが出てこないのか? そして何よりも不可解なのは、すでに仲間のうち三名を失いながらも全く気にしている様子がないことだった。その余裕は、どこから生まれるのか。
 クロードの右手に立つアシュトンも、見えない何かに不安を抱いているようだった。
 ──いけない。とクロードは首を振る。不安に心を翻弄されていては戦えるものも戦えなくなってしまう。たとえ相手が三人でも、自分たちは八人。戦えるはずだ。手の平にかいた汗を、握り締めた。
「あれあれ? 君たちには自己紹介をするつもりはないみたいだね。ま、なにもかも知ってるけど、礼儀を知らないな」
 サディケルはウィンディング・フォークを肩に乗せ、小悪魔のように笑って見せた。
 その仕草が、クロードをぞっとさせる。
「さて、そろそろ逝ってもらおうか」
 その声を合図とするかのように、十賢者もクロードたちも、武器を構えた。セイクリッド・ティアの刀身に緊張した自分の顔が映る。剣の先には、全てを知り尽くしたかのような顔の十賢者たち。クロードたちは強力な武器と人数を揃えながらも心理的に圧倒された状況から開戦しなければならなかった。
 クロードは前面から押し寄せる圧迫感を打ち破るようにして床を蹴った。それに半瞬遅れてアシュトンとプリシスが飛び出し、セリーヌたちが呪紋を詠唱し始めた。
 サディケルは目を閉じたままの顔で笑みを浮かべながら、クロードの一撃を右手のウィンディング・フォークで受け止め、そのまま弾き返した。クロードは宙を舞いながら体勢を整え、着地と同時に再度斬りかかった。刃がサディケルに届くか届かないかのところで、剣はシールドに跳ね返された。メタトロンらの時とは違い、簡単に傷つけられない。しかし相手は十賢者だ。ちょっとやそっとのことで驚いてはいられない。
 自分よりも大きな武器を片手で振るう小柄なサディケルに、クロードは両手で握った剣を振り下ろした。音叉状のフォークは剣が触れる度に高く伸びる音を立て、クロードの耳に響いた。
 ノエルは逆三角形に結んだ指の間に標的を捉え、得意の呪紋を放った。
「マグナムトルネード!」
 クロードの攻撃を跳ね返したサディケルの足元に風の渦ができあがり、それは急激に成長してサディケルを飲み込もうとした。
 サディケルは軽く床を蹴ると身長の三倍ほどの高さまで飛び上がり、上昇する竜巻にウィンディング・フォークを振り下ろした。フォークの根元からマグナムトルネードを上回る勢いの風が轟音を立てて吹き出し、呪紋をかき消すと同時にクロードまでをも吹き飛ばした。
 床の上を転がるクロードに代わって、チサトが、着地したサディケルを迎撃する。左の拳をフォークに受け止めさせ、素早く懐に入り込んで腹に連撃を加える。油断していたのか、このとき初めてサディケルは顔を歪ませてフォークの柄の力任せにチサトの腹に叩きつけた。
 チサトは自分を抱きかかえるようにして床に崩れ、サディケルはそれを何かの球技のように思い切り蹴飛ばした。レナは駆け寄ってヒールをかけ、再びクロードが剣を振るう。しかし既にサディケルの顔には余裕の表情が戻っていた。幾度漸撃を繰り出してもそれはことごとく躱されてしまう。しかもクロードは自分の腕が、何故か徐々に重くなっていくような気がしていた。疲れるのにはまだ早すぎる。耳にこびりつくようなフォークと剣の衝突音が、だんだんと不快になってきた。

 アシュトンは背の曲がった老人を相手にただの一撃も当てることができずにいた。二本の剣を駆使した高速な攻撃の全ては、頭部にある無数の目によって捉えられており、カマエルは両腕を腰の後ろに回したまま滑るようにして剣を躱していく。ギョロが炎を吐いてみても、吐き出した頃にはカマエルは別のところにいて、にたにたと笑っているだけだった。
 それならば、とセリーヌは広範囲に及ぶ火炎の海を作り出した。
「イラプション!」
 カマエルは炎に包まれかけたかに見えたが、自らも火炎呪紋を放って相殺してしまった。
 呪紋発動直後の隙を狙おうとアシュトンが近寄った瞬間、カマエルは右手を開いて彼の眼前に突き出した。手の平にはアシュトンをぎょっとさせるほどに大きな瞳があって、それはじっと強く彼を見つめた。
 セリーヌは、突然コロリと倒れたアシュトンの姿を見た。

 プリシスは、繰り出した攻撃の全てをラファエルに命中させていた。無人君二号の巨大なパンチが腹を抉り、ドリルの先がローブを引き裂く。レオンの漆黒の炎がラファエルの身を焦がし、異界の魔物が巨大な鎌で首を刈る。しかし、どの攻撃も全くと言っていいほど効果がなかった。ラファエルにパンチが当たってもそれは当たるだけのことであって、まるでそこに鋼の壁があるかのようにびくともしない。ローブは裂けてもすぐに元に戻ってしまうし、紋章術は細く青白い手で弾き返されてしまった。
 積極的に躱しているのではない。むしろ、躱す必要がないように見受けられた。加えてラファエル自身は何の攻撃もしようとせず、その容姿と相まって存在自体が不気味だった。
「くっそ~、まるでユーレイみたいだよぉ」
 傷の一つも与えられないことに段々と焦るようになり、プリシスはがむしゃらに操縦桿を動かした。そのうちに無人君二号はラファエルを鷲掴みにし、握りつぶそうと力を込めた。
「いけ、いけ、行っちゃえ~っ!」
 斬っても叩いてもダメなら潰す。これでダメならもう何をしたってダメかもしれない。プリシスは無我夢中でマジックハンドに圧力を加えていった。巨大なレアメタルブルーの手の中で、ラファエルの胴体は確かに潰れているように見えた。紙切れのようにくちゃくちゃに。それでも悲鳴一つあげることもなく、フードを被った黒い顔に輝く目だけをじっとプリシスの方に向けている姿は異様だった。これ以上握れないというところまできても、ラファエルは身動き一つしなかった。プリシスは背筋が凍る思いを味わうと同時に、拳の中からするすると抜け出ていくラファエルを目にして息が詰まった。そして、目の前は急に真っ暗になってしまった。
 レオンが見たのは、拳から抜け出たラファエルが急に被っていたローブの前を開いたことだった。ローブの中はその顔と同じようにどこまでも真っ暗で、何もないのか何かがあるのかすら分からなかった。そして、プリシスはその闇に無人君ごと吸い込まれてしまったのである。全高三メートルの物体を飲み込んでも、ラファエルの体積は全く変わらなかった。ラファエルはローブを閉じ、次の瞬間にはレオンの目の前でローブを広げていた。

「はぁっ……。はぁっ……」
 クロードは肩で息をしていた。全身汗だくで、もう剣を持ち上げることができない。チサトも、自らの拳すら重たいかのように腕をだらんとぶら下げていた。
 戦おうという意思があるのに、体がついていかなくなっていた。これまでのどんな戦闘でもこんなに短時間で肉体が疲労したことなどなかったのに。
 絶対に、何かタネがあるに違いない。しかしこれまでにサディケルが何か怪しげな術を使ったようにも思えず、クロードは結論を導けなかった。だが、タネ明かしはサディケルのほうから行われた。下等な生物を嘲るように笑い、サディケルは口を開く。
「そろそろ、君たちも不思議に思っているだろう? どうして自分はこんなに疲れているのかってね」
 にやりと口を歪ませながら、ウィンディング・フォークを拳で叩いて見せる。少し低めの音がじわじわと耳に響き、クロードは同時に一種の違和感を抱いた。
「君たちの死ぬ理由も冥土の土産として教えてあげよう。秘密はこのウィンディング・フォークさ。こいつの音を聞くと、だんだんと体が言うことを聞かなくなるんだ。つまり、君たちは自分で自分の首を絞めてたってことさ。面白いよね」
 サディケルは無邪気に言った。
「じゃあ、そいつを壊せば……?」
「その通り。君たちは解放されるよ。もしもその場から動けるのなら、だけどね」
「なにっ!」
 解決手段が分かっているのなら、それだけに力を集中することもできるはず。そう思ってクロードは一歩踏み出そうとした。が、足が全く動こうとしなかったのだ。蒼白になるクロードの顔を、サディケルは楽しそうに見つめる。
「もうちょっと頭を働かせようよ。相手にチャンスがあるうちに自分の手の内を明かすわけないだろう?」
 声に出して笑いながらサディケルはクロードに近づき、セイクリッドティアの刀身を握った。
「いい剣だね。こっちのシールドも調整したけど、さすがに少しだけウィンディング・フォークにヒビが入っちゃったよ。あとでちゃんと直さなきゃ」
 なんとか束縛から逃れようと必死の形相になっているクロードの手から、サディケルはセイクリッドティアを引き離した。
「残念なことにね、ボクのウィンディング・フォークには殺傷能力ってやつがないんだ。だから、ちょっと借りるよ」
 そう言うや否や、サディケルは左手のセイクリッドティアを危なげに振るった。クロードの頬に赤い筋が入り、ゆっくりと流れる血の川ができた。
「やっぱり利き手じゃないとやりにくいなぁ。ちょっと待っててね。すぐに終わるから」
 サディケルは『分身』に優しく語りかけると、右手に持っていたそれを天井に向かって投げ上げた。そして、持ち替えたセイクリッドティアをクロードの心臓目掛けて勢いよく突き出す。
 それを阻止すべく、ノエルは全力で体ごと覆い被さろうとした。
 サディケルは急に剣の向きを変えて飛びかかってくるノエルを斬りつけた。腹部から鮮血を撒き散らしながらノエルは床に転がり、サディケルは侮蔑するような目でノエルを見下ろした。
「まったく。ボクの耳は君たちの目よりずっと役に立つんだよ。奇襲をかけようとしたって足音だけで……」
 サディケルは急に床に倒れこんだ。もう一人が、彼に襲い掛かったからである。
「どんなにいい目があっても、油断していれば見えないものよね」
 レナはサディケルを床に押さえつけた。それと同時に、宙を舞っていたウィンディング・フォークが床に突き刺さる。それに、ノエルが脇腹を押さえながら近づいた。
「わぁっ!! やめろ! やめろぉっ!!!」
 サディケルは見た目よりも遥かに子供っぽい調子で喚いた。そしてどんなに手足をじたばたさせても、レナ一人の力には叶わなかったのである。
 ノエルは突き刺さったウィンディング・フォークを引き抜き、床に寝かせた。あちこちに微細なヒビが入っているのが分かる。これが何でできているのかは分からないが、シールドを強化したらしいとはいえセイクリッドティアの攻撃にここまで耐えたのだから大したものだ。ノエルはフォークの最も先端の部分に、サディケルが制止するのを聞きながら、思い切り拳を叩きつけた。するとそれは金属とは思えぬ何とも不愉快で気色の悪い、まるで動物の肉が引き裂かれるような音を立てて壊れた。
 クロードは自分の体が戻り、ほとんど疲れていないことを確認すると、レナに押さえつけられている少年を見下ろした。が、そこに倒れているのは少年ではなかった。顔から血の気が引き口から血を流している、少年の死体だった。
「まさか……こんなことが?」
 クロードはぎょっとした。この少年の本体があの武器だったのか、それとも……。
「それよりも、今は他の二人を倒しましょう」
 そんな気持ちを抱く必要などないんだと思いながらも、レナは自分の体の下で死んだ少年に対する罪悪感が湧き上がってくるのを抑えられなかった。

「ふん。所詮子供は子供だったか。調子に乗りおって」
 気を失ったアシュトンの胸倉を掴み上げながら、カマエルは鼻で笑った。その皺だらけの顔に、セリーヌは杖の先を叩き込む。
「放しなさいっ!」
 カマエルはアシュトンごと消えるようにいなくなり、セリーヌの背後に現れた。はっとして彼女が振り向いたとき、カマエルは引きずるように持っていたアシュトンを老人とは思えぬほどの怪力でセリーヌに向かって投げつけた。それをセリーヌが受け止めている間に火炎呪紋を加える。しかしその火球はクロードによって断ち切られ、レナの光の呪紋がカマエルの目を塞がせた。
「ライトクロス!」
 無数の光点がフロア中に発生して、破裂するごとに太陽のような輝きを放つ。
「ぐあぁっ!?」
 眩い光にカマエルの感度のよすぎる目は眩んだ。
「セリーヌさん、アシュトンは!?」
「だ、大丈夫。気を失っているだけですわ」
 のしかかるように投げ飛ばされてきたアシュトンを、セリーヌはゆっくりと床に寝かせ、杖を構えた。
「レナ、頼む」
「うん」
 クロードは剣を振りかざして視力の回復しないカマエルに襲い掛かった。カマエルは幾つかの目をまだ閉じたまま、怯えるようにして片手をクロードの前にかざした。だがその手の平に収められた瞳がクロードを惑わすよりも早く、セイクリッドティアの刃は老人の細い腕を易々と切断していた。
「ああっ!? 儂の、儂の腕が!」
 噴出する血を慌てて押しとどめようとする様子は、先刻までの強気な態度とは正反対だった。ダメージを与えたクロードのほうが逆に驚いてしまうほどに。
 我を忘れるかのように喚くカマエルの腹に、セリーヌの放った小さな火球が触れていた。断ち切られた腕の部分から、カマエルのシールドは徐々に崩壊し始める。
「エクスプロード!」
 呪紋の発動と同時に小火球は瞬く間にカマエル全体を包み、一気に内側に向かって破裂した。めくるめく炎の渦が老体を翻弄し焼き尽くす。カマエルは声をあげることもできないままにただの炭くずと化した。

「プリシスとレオンをどうしたの!?」
 空中にふわふわと浮かぶラファエルを見上げ、チサトは叫んだ。しかしラファエルは無いはずの風に無言で揺られているだけだった。
ラファエルはたしか、高度な情報分析をするために体内に異空間を持っているとか。だとすれば」
 ノエルの推測にチサトは頷く。二人ともその異空間とやらに飲み込まれてしまったのだ。
「とにかく、力ずくででも返してもらいますからね」
 チサトは飛び上がってラファエルの青白い手を掴み、体を捻って床に叩き落した。だがその体は床につく前にふわりと浮いて、ラファエルはゆっくりと床に降り立った。着地した勢いのままチサトが飛び掛ろうとするとラファエルの青白い腕が急に何メートルにも伸びてチサトの首を掴み、両足に巻きついた。ラファエルの最初の攻撃だった。
「ぐっ……」
 自分よりもか細いはずのラファエルの手を、チサトは両手をもってしても解くことができなかった。そして解こうとするほどに締め付けは強くなっていく。チサトの顔はみるみる赤く、そして青くなっていき、視界が段々とぼやけていった。
 ノエルは風の刃を放ってラファエルの腕を断ち切ろうとしたが、ソニックセイバー程度の呪紋ではラファエルを守るシールドは突き破れなかった。そうなれば肉弾戦を挑むしかない。ノエルは、自ら砕いたウィンディング・フォークを拾ってラファエルに殴りかかった。その一撃は確かにラファエルの脳天を直撃したが、まるで頭が石でできているかのように固く、何の衝撃も与えられない。しかしノエルは繰り返し繰り返し同じ場所を叩きつづけた。小さな水滴でも、打ち続ければ岩に穴をあけることもできるはず。だが幾度も打たないうちにラファエルのもう片方の手が伸びて、ノエルの足を掴み上げた。
「空波斬!」
 チサトが意識を失いかけているときに、カマエルを制したクロードたちが駆けつけた。クロードの放った衝撃は勢いよくラファエルの長い腕を襲ったが、ラファエルはタイミングよく腕を縮めてそれを躱し、同時に捕らえていた二人を離した。チサトは喉と胸を抑えながら激しく咳込む。
「さあ、もうお前一人だけだ!」
 クロードはセイクリッドティアの剣先をラファエルに向けた。
「私は……一人ではない」
 突然言葉を発したラファエルに、クロードは眉を上げる。最初に名乗ったときの声とはどこか違うように思われたからだ。だが、その声は依然として人間らしくない、捉えどころのないものだった。
「私は一人ではない!」
 ラファエルは右手を伸ばしてクロードを襲った。飛び退いてそれを躱し、クロードはラファエルに近づく。そこへもう一本の腕が伸び、クロードはそれも躱して一気にラファエルの本体に斬りかかった。ラファエルは体を捻ったがローブの肩の部分が裂けた。
 アシュトンは伸びた腕の先をギョロとウルルンに噛み付かせた。そうして固定させたところを叩き斬ろうとしたが、急に腕がちぢんでいき、アシュトンは勢いよく引きずられた。
 クロードはラファエルの背後に回りこんで脇腹を突いた。剣はいとも簡単にローブを突き抜けてラファエルの体を貫いたが、空気のように何の感触もなかった。ぞっとしながらもクロードは力を込めてラファエルの体を引き裂いた。ローブのうちに秘められた黒い空間が姿を現したが、どうやら斬ったのはローブだけのようにしか思えなかった。中から血が吹きだしたりすることが全くない。
「うわあぁぁぁっ!?」
 アシュトンは猛スピードで引きずられながら、しかし攻撃のタイミングを見計らっていた。腕が元の長さに戻ったと同時に、引き戻される勢いで二本の剣をラファエルの黒い顔に向かって突き出す。一本は外れたがもう一本は耳と思しき辺りを貫き、ローブを切り裂いた。すると、切り裂いた部分から数本の髪が舞った。透き通った空色の、それは紛れもなくネーデ人の髪。
 ラファエルは慌ててその部分を隠すと同時に、狂ったようにアシュトンを攻撃し始めた。伸びる腕を鞭のようにしてアシュトンの体を打つ。細い腕も鞭としては太すぎる。その腕はまるで関節というものがないかのようにしなやかに波打った。
 レナの治療を受けたチサトはラファエルの首に抱きつくように飛びかかった。ラファエルはそれをもう一歩の鞭で弾き返す。その隙にクロードがラファエルの首を切断した。
 フードを被った黒い顔が宙を舞い、床に落ちた。落ちたとき、すでにフードの中には何もなかった。そして、胴体も空気の抜けた風船のようにしぼみ、同時にプリシスとレオンが空中から現れた。クロードとノエルが二人を抱きとめた。
「どうなってるの……?」
 レナは、空になったフードを拾い上げた。
「空っぽ……?」
 チサトはローブを調べたが、中には何もなかった。唯一肉体らしかった青白い腕もない。ただ一つだけ、青い宝石をはめ込んだペンダントだけが見つかった。
 不可解で、敵が強かったのか弱かったのか、まるで分からない戦闘だった。

 クロードたちがラクアを出発してから数時間後、ナール市長は報道陣に対して『重大発表』を行うと宣言した。具体的な内容を知らされないまま、記者やカメラマンが多数会議室に集合し、市長の登場を待っていた。指定された時刻が近づくにつれ、記者たちの間ではいろいろな憶測が飛び交った。いわく、『クロード一行全滅説』、『結界紋章完成説』および『同断念説』、『外宇宙避難説』などなどである。これらの中には事実にほぼ合致するものも含まれていたが、誰も想像もしないことが一つだけあった。
「全エナジーネーデ市民のみなさん。私ナール・クロニックは、セントラルシティ市長として、今回の対十賢者作戦にあたり、一つ、大切なお話をしなければなりません」

 惑星ネーデの『ネーデ生命科学研究所』で生を受けたときのことを、ルシフェルは鮮明に覚えていた。目を開けると見事な白髪を纏った人の良さそうな顔の男がにこりと笑っていて、その隣に見覚えのある少女の姿があった。実際には少女という年齢ではなかったが。
 ともかく、その少女は瞳に涙を湛えながらルシフェルに抱きつき、泣きながらある言葉を連呼した。
──ルシアス。
 自分の名ではないのに、何故かその言葉に吸い寄せられるようにして彼は少女を抱き止めた。そして、この上ない充足感を味わったのだった。
 それからしばらくの間、彼女と時を過ごすうちに、ルシフェルはだんだんと自分の身に起きたことを思い出せるようになった。自分はルシアスという名で、彼女、フィリアは恋人だったのだ。目覚めたときに彼女と一緒にいた男性は、ネーデ一の科学者と名高いランティス博士。フィリアの父親で、一人娘の恋人に対して好意的だったのを覚えている。ただし、フィリアに対するほどには親近感は湧かなかった。
「それは、お父様が記憶を消去しようとなさったからだわ」
 とフィリアは言った。事故で重傷を負ったルシアスは生還が絶望視されていたが、報せを聞いた博士が十賢者として新たに蘇らせたのである。それは、フィリア自身の願いでもあった。たとえ自分のことを忘れてしまっても、生きていてくれるのなら。
 他の十賢者たちも、優秀なネーデ人を遺伝子工学などを駆使して改造されたものだという。それはフィリアにとっても気持ちのよいことではなかったが、しかし父の研究が星のためになるのだということは純粋に嬉しかった。それに、そのおかげでルシアスは蘇ったのだから。
「でも、あなたが私のことを思い出したのはお父様には言わないでね」
 もし言ってしまったら、博士は再びルシフェルの記憶消去にかかるだろう。そうすれば、二度と彼女のことを思い出さないかもしれない。ルシフェルは同意し、表向きは単にフィリアの思い出に付き合っているように見せていた。自分たちの力によってネーデに安寧が戻れば、そのときは二人だけで暮らせるときも来るだろう。
 他の十賢者の行動テストなどを行いながらも、毎日が小さな幸せの連続だった。
 ……しかし、そんな暮らしの中で、ルシフェルは自分にはもう一つ何か別の幸せがあったような気がしていた。フィリアとは違う、似ているようでそうでない、別の誰か。

 目の前の空間にラファエルの首が斬り飛ばされる様子をが映し出されたとき、ルシフェルは首を傾げた。この、胸の奥底から湧き上がってくる不快な感情は、一体何なのか。

 クロードは怪鳥の足をぶった斬った。人間の胴体よりも太いそれは鈍い音を立てて床の上を転がり、切断面から赤黒い液体が噴き出してクロードの金髪を染める。ほとんど床から天井まで、通路を埋め尽くさんとする巨大な鳥の化け物は絶叫を上げて翼を大きく振った。紋章術に勝るとも劣らない強風が狭い通路に吹き荒れる。クロードは腰を落としてそれに耐え、風が止んだところで闘気の龍を撃ち出した。怪鳥の半分欠けた嘴から毒々しい色の息が龍を迎え撃ったが力及ばず、怪鳥は嘴を完全に失い顔面に熱傷を負った。羽毛が焼き尽くされて肌がただれ、のけぞるように空を舞う鳥を、クロードは一息に斬り刻んだ。
「鏡面刹っ!」
 セイクリッドティアは無防備になった腹の上を縦横無尽に走った。一瞬にして無数の赤い筋が浮き上がる。皮膚が裂け内臓をぶちまけながら、怪鳥は断末魔の咆哮とともに床の上に倒れた。衝撃で舞う血の飛沫を気にも留めずに、クロードは背を振り向いた。大蜥蜴とかげの鋭い爪とアシュトンの双剣が交わり、三色の息が激しく衝突して渦を巻いている。
 アシュトンは巨体の重圧に耐えながら、さらにそれを勢いよく押し返した。数センチだけ浮き上がった僅かの間に剣を引き、両腕を大きく開いて右腕を振りかぶる。
「ソードダンス!」
続いて左の剣も振り下ろされ、その後は誰の目にも見えない速さで漸撃が繰り出された。次々と切り出される肉片を、ギョロが灰にし、ウルルンが氷の結晶と化す。数秒と経たないうちに大蜥蜴は灰と雪になった。
「こっちも片付きましたわよ」
 杖を握るセリーヌの純白の手袋も、何色とも言い難い色に染まってきている。温厚なノエルでさえ興奮し上気した顔を見せ、レオンは額から血を流しながら、恐怖と痛みに耐えるかのように口を固く結んでクロードを見上げる。
「みんな、また来たよっ!」
 プリシスが無人君二号の上から叫ぶ。全員が通路の奥に魔物の姿を認めたとき、すでにチサトは駆け出していた。口にも顔にも出さないが、彼女には彼女なりの戦う理由がある。それは他の誰よりも個人的な理由だったが、それが故に彼女を強くしていた。
「フェアリーライト!」
 チサトに続く仲間たちの背に向けて、レナは両手をかざす。彼らの頭上に舞い降りる守護天使が傷を癒し、体力を回復した。この力があるからこそ、レナは誰よりも自分自身を守らねばならない。それが仲間たちのためにもなるのだから。
 それは、激しく傷ついたセリーヌの代わりに前線に立とうとしたとき、這いずりながらも自分を引きとめた彼女に教えられたことだった。

 フィーナルの各層はトランスポートで繋がれていた。窓というものが無いために、正確にどの辺りにいるのかは判別しかねたが、次第に増えていく魔物の数から考えて、まず間違いなく上に登りつつあるはずだった。無数の骸を生み出し、無数の扉を潜り抜けながら、クロードたちは駆けた。
 そしてチサトの記録によるところの五十四番目の扉を開けた先に、新たな関門が待ち構えていた。紅く縁取られた深海色のローブを着た、二人の十賢者。一人は強面の偉丈夫で、紫がかった白髪の男。第一次フィーナル侵攻のときに、カルナスを破壊した男だ。クロードの手に、自然と力がこもる。もう一人は、赤く焼けた顔で薄気味悪い笑いを浮かべていた。左目の周囲に機械が移植されているらしく、瞳は赤く光った。
「お客様が見えたぜ、ハニエル」
 気味の悪い顔が喋った。ハニエルと呼ばれた十賢者は、目を細めて全員の顔に一瞥をくれる。
「ふん。我等の計画を邪魔するゴミ共が……」
「それにしても、下の奴らは全員やられちまったようだな。情けねぇ話だぜ」
 仲間の死をまるで意に介さない風で、男は下品に笑いたてた。
 その異常な精神に違和感を感じながら、クロードは一歩踏み出して剣先を向けた。
「覚悟しろ。次はおまえたちの番だ」
 一旦笑うのをやめてクロードの顔を凝視した後、男はさらに大きな声で笑った。
「この俺様たちを殺すだと? 本当に笑わせてくれる奴らだぜっ!」
「なにがおかしい!」
 クロードは剣で空を斬った。
「こいつが笑わずにいられるかってんだ。あんまり調子に乗るんじゃねえぞ、身の程知らずが。このミカエル様を殺そうなんざ、百億年早いってんだよ」
「貴様らがやっているのは、所詮無駄なあがきにすぎん。クズは、どうあがいてもクズでしかないことを、この私が証明してやろう」
 ミカエルは少しだけ顔を引き締め、それでもまだ見下すような表情で拳を構えた。それに合わせるように、クロードたちも武器を構える。
「まあ……ここまで来たことに敬意を表して、この俺さま自らが、貴様らを殴り殺してやるよ。……こんな風になっ!」
 そう言ってミカエルが床を蹴った瞬間、クロードはその拳が自分の腹に食い込んでいるのを知った。眼前で半分機械化された顔がニヤリと笑い、クロードは腹が燃えるような感覚とともに後方へ吹き飛んだ。セイクリッドティアが手を離れ、宙を舞う。
「クロード!」
 レナが駆け寄り、アシュトンたちは一瞬にして自分よりも後ろへと移動したミカエルに刃を向けた。ミカエルの拳には、炎が宿っていた。ミカエルは自分の拳とアシュトンたちを見比べながら、口を開いた。
「おめーら、寒くねぇか?」
「なにっ!?」
 意味の分からないことを言われて当惑したアシュトンたちを見て、ミカエルは白い歯を見せて笑いながら拳を床に叩きつけた。
「フレアウォール!」
 たちまちミカエルの前に炎の障壁が生まれ、それは轟音とともに猛スピードで前進してきた。
「ノアっ!」
 レオンの呪文が大洪水を招来し、炎を打ち消そうとする。しかし、水が蒸発していくばかりで一向に鎮火する気配がなかった。レオンは、立て続けにノアを連発する。
「こんなことぐらいでくたばるんじゃねーぞっ」
 笑いを交えた声は、真上から聞こえてきた。全身を炎に包まれたミカエルが、急速に落下する。
「スピキュールっ!」
「避けろっ」
 密集していたアシュトンたちは一斉に散らばったが、落下点からはフレアウォールとは比較にならない威力を持った炎の海が広間一杯に拡がった。火事の中に放り込まれたかのように辺りが何も見えなくなり、体が焼かれる。
 しかしアシュトンだけはウルルンの力で炎から守られ、火炎地獄の中を駆け抜けた。炎の向こうに、人影が見える。
「ハリケーンスラッシュ!」
 剣の先から生み出された風が炎を払い除け、その姿を露にする。ミカエルの背中だ。アシュトンはそのまま剣を振り下ろした。半瞬遅れて気付いたミカエルの肩に傷を作り、もう片方の剣は手の甲で受け止められた。
驚きを隠せない様子のミカエルに、アシュトンは続けざまに攻撃をを加えた。防戦一方となったミカエルは隙を見つけてアシュトンを払い飛ばし、体制を整えた。スピキュールの炎が退いていく中で、アシュトンは負けじと起き上がってミカエルに対抗した。

 クロードとレナは炎の中でほとんど無傷だった。セイクリッドティアとファルンホープの強力なシールドもさることながら、回復したクロードが放った衝裂破が炎を防いだのだ。だが、災厄はそれだけでは終わらない。
「ふん。やはりな。どんな話でもそれほど甘くはないものだ」
 ハニエルが炎の中から悠然と現れ、身構えた。クロードは剣を拾いレナを庇うようにして前に出、仲間たちのいる方向を指差す。
「早くみんなを」
 レナは半瞬だけ迷って、薄れゆく炎の中へ駆けていった。ハニエルは、それを目で追いながらも攻撃しようとはしない。そんな余裕すら見せるハニエルに、クロードは斬りかかった。ハニエルの金属製の腕はそれを容易く受け止めて弾き返し、よろめくクロードに鉄拳を見舞う。クロードは姿勢を低くしてそれを躱し、剣を突き出した。刀身がシールドをかすめて火花が散った。
「奥義、昇竜のぼりりゅう!」
 クロードの隙を捉えようとしたハニエルの背後から、チサトが勢いに乗った連撃を繰り出した。腰を落として左右の肘鉄を食らわせ体当たりし、飛び上がって回転しつつ肩から落下する。ハニエルは瞬く間にねじ伏せられた。しかしすぐにも跳ねるようにして起き上がり、チサトはひっくり返った。
「クズどもが小賢しいわ!」
 ハニエルは初めて怒りを露にし、両手を縦に大きく開いた。
「マインドブラスト!」
 腕の間から螺旋状に渦巻く光子の流れが発せられ、チサトは正面からまともに食らった。回転しながら吹き飛ばされ、床と壁に激しく打ち付けられる。直撃を避けたクロードはハニエルの右後ろに回りこみ、エネルギーを放ちつづけるその腕に剣を振り下ろした。機械製の肩が弾けるような音を立てて割れ、右の腕が落ちた。ハニエルは悲鳴も上げずに直ちに左の裏拳を見舞った。鉄の拳が頬に食い込み、奥歯が折れて飛び出す。クロードは踏ん張って斬り返した。それを唯一の腕で払い除け、ハニエルは足払いをかけた。尻餅をついたクロードの目の前には、片腕でマインドブラストを放とうとするハニエルの姿があった。
「大人しく死ねっ!」
 思わず目を瞑ったのと同時に、クロードのすぐ左で爆発が起きた。
 目を開けると、チサトがハニエルの腕を背後から掴んでいた。掴まれた手首を後ろに回され顎を引き上げられてハニエルは自由を奪われ、必死にチサトを振り払おうともがいた。クロードは、セイクリッドティアが突き立てた。
「ぐおぉぉぉぉっ!」
 ドロドロした体液を噴き出しながらハニエルは渾身の力を込めてチサトの束縛から逃れ、自らの腹に刺さった剣を引き抜こうとした。クロードは更に深く斬り込み、加えて体重をかけて下に向かって力を込める。
「おのれ、小僧がっ!」
 ハニエルは血みどろの拳でクロードを殴り飛ばし、セイクリッドティアを抜いて投げ捨てた。そして口から血を吐きながら、起き上がろうとするクロードに襲い掛かった。クロードは、自身の拳に意識を集中した。
「バーストナックル!」
 怒りの形相で駆けてくるハニエルの腹に、炎を帯びたクロードの拳が無数に打ち込まれた。ハニエルは目と口を大きく開いたまま後ろに倒れ、二度と起き上がらなかった。

「ディープフリーズ!」
 セリーヌを襲う火炎はレオンの氷の壁で防がれ、セリーヌは間髪を入れず稲妻の呪紋を唱えた。
「サンダークラウド!」
 どこからともなく立ち込めた黒雲からミカエル目掛けて電撃が迸る。だがミカエルは痛くも痒くもないという風でプリシスの攻撃を薙ぎ払い、セリーヌを守る氷壁を一撃で粉砕した。飛び散る破片とともに突進するミカエルを、セリーヌは気丈にも杖で迎え撃とうとした。
 しかし間にアシュトンが割って入った。ウルルンが吹雪を吹きつけ、敵の視界を奪いながら、アシュトンは斬りつけた。身を守ろうとするミカエルの腕に幾つかの切り傷を創ったが、セイクリッドティアのように深くは斬り込めなかった。防御もそこそこに、ミカエルは反撃に出る。アシュトンは右のパンチを躱して脇腹に蹴りを入れつつ、後ろに回りこんだ。ノエルがミカエルの足元にグレイブを放って体勢を崩し、アシュトンは肩口に斬りかかった。寸分の差でミカエルが飛び退いたところに、無人君二号が突進して体当たりを食らわせた。ミカエルはごろごろと床の上を転がる。
「調子に乗ってんじゃねぇぞっ!」
 初めと同じセリフを吐いて、拳を床に打ちつけた。燃え盛る炎の壁が再びアシュトンたちを襲う。だが問題は目の前の炎壁ではないことを、アシュトンたちは承知していた。壁の向こうのミカエルが飛び上がるのを目で追う。
「マグナムトルネード!」
 ノエルは頭上に向かって呪紋を放った。炎の塊となって落下するミカエルは竜巻に巻き込まれながらも空中で体勢を整えた。終息する風の渦に乗りながら、下に向けて呪紋を放つ。
「エクスプロード!!」
 紅い光点が床に突き刺さり、一気に膨張してアシュトンたちを飲み込んだ。熱の乱流が体を蝕み、体を焼いていく。しかもミカエルの攻撃はそれだけでは収まらなかった。呪紋を放った後に空中で元の体勢に戻す。拳を突き出して、真っ逆さまに急降下した。
「骨まで焦がしてやるぜぇっ! スピキュール!」
 二重の火炎にはウルルンの力も歯が立たなかった。無人君も動きを鈍らせる。レオンとノエルは呪紋でなんとか緩和していたが自分を守るのが精一杯だった。火炎を防ぐ術を持たないセリーヌは、仰向けになって床に転がっていた。レナの下敷きになって。
「フェアリーライト!」
 レナはセリーヌを庇いながら必死に回復呪紋をかけ続けていた。
「レナ、なにを……」
 セリーヌは熱さで朦朧としながら、言った。
「みんなを守るのが、私の役目だから。でしょ?」
 回復しては焼かれる苦しみに耐え、汗で髪を濡らしながら、レナは笑って見せた。
「はっはっはっはっ! 燃え尽きろ!」
 ミカエルはさらにフレアウォールを放って、勝利を完全にしようとした。
「だからと言って!」
 セリーヌは叱咤しようとしてやめた。それよりも今自分がすべきことは。
「後でたっぷりお説教して差し上げますからね!」
 レナは笑って、回復の守護天使を声を上げて呼ぶ。セリーヌは、目を閉じて両手を合わせた。
 マーズ村にはもはや伝説と化した呪紋がある。それは大きな災いをもたらすとして恐れられ、高度な修錬を積んだ術士のみが習得できたという。長い平和の内に失われていった呪紋。ソーサリーグローブの話を聞いたときにはついに使い手が現れたかと騒がれた、その理由は。
 ──お父様、お願い。
 生まれて間もなく、父が最初に刻んでくれたのがこの紋章だった。偉大な使い手になるように。
「メテオスォーム!」
 瞬間、突如空間を切り裂いて巨大な隕石がミカエルを襲った。それは、ミカエルの背丈の十倍以上の大きさだった。至近距離からの出現に、ミカエルは声を上げる間もなく押しつぶされた。爆風で炎がかき消えた。
「フェアリーライト!」
 自分の上で夢中になって唱えるレナに、セリーヌは笑い返す。起き上がって落下地点を見やると、すでに隕石の姿はなかった。床が大きく抉られて、その中央にミカエルの上半身と下半身が別々に転がっていた。
「セリーヌさんっ!」
 ハニエルを倒したクロードたちが駆けてくる。セリーヌは呪紋の連発で疲れきっているレナをクロードに任せると、自分は穴の底を確かめに行った。穴の淵から中を見下ろす。穴の反対側では、ノエルがアシュトンたちを治療していた。二つに割れたミカエルの体は、セリーヌに奇妙な違和感を与えた。もしや、まだ生きて……。そう考えて、セリーヌは首を振った。きっと、初めて使った呪紋だから不安に思うのだろう。本当に自分が放ったのかさえ、まだ実感が沸かなかった。無我夢中で、神に祈るような気持ちだった。
「セリーヌさん、次に行きましょう」
 気付くと、クロードたちは広間の出口へ向かって歩いていた。レオンはノエルに治療されながら、レナはブラックベリィを口に含みながら、アシュトンは落とした剣を拾って。もう一度だけミカエルの死体に目をくれてから、セリーヌは背を向けた。
 その瞬間。
「てめーだけは先に行かせねぇぜ」
 セリーヌは首を掴まれた。
「ぐっ……!?」
 クロードが見たとき、ミカエルの上半身だけが宙に浮き上がってセリーヌの首を絞めていた。その顔はひしゃげ、焼けただれていた。病的にぎらついた目でセリーヌを見ながら、空いた方の手に炎を宿した。
「セリーヌさん!」
「喰らえっ!!」
 勢いよく振られたミカエルの拳は、セリーヌの、まさに目と鼻の先で前進を停止した。その体は二本の剣によって跡形もなく斬り刻まれた。
 その半瞬前、目にも留まらぬ速さで自分の前を駆け抜けていったアシュトンの背中を、セリーヌは見た。

『我々は、過去三十七億年に渡り、平和を謳歌してきました。このエナジーネーデにおいて』
 ラクアの会議室に集まった記者団の前で、ナール市長は切り出した。
『エナジーネーデ、この閉ざされた空間の中にいることが、ひいては銀河の安全のためでもあるのだと信じて。なんの疑いも持たずに』
 市長の声と顔は、セントラルシティにも届く。エナジーネーデ創設時からの主都であったこの街は、いわばエナジーネーデの歴史そのものでもあった。
『しかし、真実はどうだったか。我々の祖先たちは他の惑星を力で支配し、苦しめていました。平和に共存していた、などというのは虚構だったのです。しかも、挙句の果てに叛乱が起き、それを鎮圧するために、我々の祖先は、自ら、十賢者を生み出しました。十賢者たちは、悪意に満ちた暴徒でも狂信者でもない。我々自身の手で作り出された殺戮兵器だったのです』
 セントラルシティの北に位置するノースシティは、セントラルシティの付属都市と見られることが多かった。事実、その緑を優先した街並みはセントラルシティとは対照的なものであり、徒歩で気軽に行き来できる関係にある街はこの二都市をおいて他になかった。
『我々は、その問題を避けてきた。いや、避けさせられてきました。事実は隠蔽され、架空の物語が作られた。しかし、真実が明らかになった今、我々はどうすべきなのか?』
 記者たちの耳が一斉にそばだてられ、カメラのフラッシュが無数に瞬く。
『私の出した結論は一つです。全ネーデの歴史は、ここで幕を閉じます』
 ギヴァウェイ大学の一室で、レイファス教授は神妙な顔で頷いた。真実を引き出した者の一人として、歴史学者として、一人のネーデ人として、彼はごく自然に賛同したのである。
『落ち着いて、どうか話を聴いてください』
 ラクアでは、レイファスのように素直に受け入れた者は少数だった。ナールは、記者たちを鎮める。
『エナジーネーデの歴史は三十七億年です。その間、外の世界になにが起きていたか? ご存知の通り、我々と同じ太陽系にエクスペルという惑星が誕生し、命が生まれ、長い年月をかけて進化し、そして文明を築き上げ、それは今も成長の過程にある。対して我々はどうでしょう。確かに幾つかの技術的発明はありましたが、生物種としてのネーデ人は全く進化を止めてしまったのです。星の外ではアミノ酸の塊が人間へと進化を遂げていたのに、我々は無変化の中で己の過ちにも気付くこともなく、ただ閉じられた殻の中で生きてきた。そんな種族になんの存在価値があるというのでしょうか』
『確かに、我々自身には家族もいる。子孫を残したいという気持ちがある。ですが、それは結局この閉ざされた空間の中でのこと。宇宙全体にとってはなんの意味もありません。そして、我々が今から外の世界に出ることは許されないのです。何故なら、ネーデ人は三十七億年前に宇宙から姿を消した存在なのですから。現在、この銀河で最大の勢力を誇る地球連邦の文明も、我々に比べればまだ幼い。そんな彼らにとって、我々は対等な友人ではなく巨大な脅威となります。そう、まさに十賢者のような』
 記者たちはざわめく。どこかに共存の道があるはずだ。外に出ずとも自分たちだけで暮らしていけばそれでいいじゃないか。場合によっては罵倒ともとれる言葉が飛び交った。
『十賢者たちが崩壊紋章を持っていることは既にお話しました。それに対して、我々は結界紋章を完成させつつあります。しかし、結界紋章をもってしても、崩壊紋章の破壊力を完全に封じることはできないのです。そして、結界紋章の効果とは崩壊紋章を無効化することではなく、その力の矛先を変えることなのです。すなわち、このエナジーネーデへと』
「どうしてそんな馬鹿なことを!?」
 一人の記者が叫び、他の記者たちもそれに続いた。
『事実、それしか手がないのです。どんな手段をもってしても、一度発動した崩壊紋章を食い止めることはできません。できるのは力の方向を変えてやることだけ。と言っても、外の世界のやたらな所へ向けるわけにもいきません。それこそ、過去のネーデが犯した過ちよりも酷いことになる。唯一安全なのは、この強力なエネルギーフィールドに包まれたエナジーネーデだけです。我々の罪は我々自身が償わなければなりません。たとえ祖先の罪であっても、それはネーデという種全体の、いわば原罪なのですから。そして今我々が滅びることは、先にお話したとおり、進化を止めた種としていつかは訪れるはずの当然のことなのです』

 既にクロードたちの去ったフィーナル一階で、それは起きていた。
『Primary system is offline. Activate the secondary system.』
『Data-Transmitting......』
『データ移行完了。二次システムは正常に稼動』
 彼女は起き上がり、自分の両手を眺めた。暖かく赤い血の通った白い手。何年ぶりだろう。
 微かに血の匂いが残る部屋の中を見渡した。カマエルの額にあった目玉はことごとく潰れ、血を流している。サディケルの肉体は灰と化し、本体たるウィンディング・ホークはやはり血を流して倒れていた。こうなることを彼が望んでいたのなら、いや、たとえそうだとしても、今更自分の心が変わるものではなかった。彼が何をしようとも、彼は彼だから。
 彼女は天井を見上げた。そのずっと先に、彼はいる。色のよい、整った形の唇から決意を込めた言葉が発せられた。
「これより、任務を遂行します」
 フロアにあったはずのラファエルのローブは、サファイアブルーの宝石とともに消えた。切り捨てられたフードを残して。

「ようこそ、諸君」
 背を向けたままで、銀髪の十賢者、ルシフェルはクロードたちを出迎えた。
「それにしても、お前たちがここまで来たということは、残る十賢者は私とガブリエルだけということなのだな」
「そうだ! 残りはお前を含めても二人だけだ。おとなしく観念しろ!」
 クロードは剣を振りかざした。
「そうか、死んだか……。戦闘馬鹿のザフィケルも、殺しに狂ったジョフィエルも、堅物のメタトロンも、ガキ臭いサディケルも、小言がうるさいカマエルも、面白味のないラファエルも、忠実なだけのハニエルも、やかましいミカエルも、みんな死んだか」
 その語調に、本来あるべきではない感情を見出して、クロードはぞっとした。
「ククク……クックックックッ……ハーッハッハッハッハッハッ」
「なにがおかしい!」
 ルシフェルは振り返って、口の端を吊り上げた。
「まさに計算通りだ。それでこそわざわざ戦力を分散し、各個撃破させた甲斐があるというもの!」
「な、なに……?」
 予想外のルシフェルの言葉に、クロードはおよび腰になる。
「分からんか? お前たちは自分たちの力で奴らを倒してきたと思っているかもしれんが、そうではない。お前たちが倒せるように私が戦力を分散して仕向けただけのこと」
「馬鹿な! 仲間を駒のように使ったというのか!?」
「その通りだよ」
 ルシフェルはできのいい子供でも見るかのように言った。
「ザフィケルとジョフィエルはただの戦闘屋だ。力はあるが、それだけのこと。メタトロンは防御にも優れたが、多勢に無勢。ザフィケル、カマエル、ラファエルはもともと戦闘タイプではない。三人まとめてようやく一人前というところだろう。ミカエルとハニエルは、本来ザフィケルやラファエルたちを指揮する立場にある。部下がいれば話は別だったが、たかが指揮官二人、大したことはなかっただろう?」
「あなた自身はどうなんですの!?」
 ルシフェルは首を傾げながら、視線を移動させた。
「あなただってボスの下で動いてるんじゃないんですの!?」
 ルシフェルは目を伏せ、肩は小刻みに上下する。
「クククっ……。まだそんなことを言っているのか。我々の過去について調べたのだから当然承知していると思っていたが……。どうやら全てを知るわけではないようだな」
「どういうことだ!」
「一つお前たちの思い違いを正してやろう。十賢者の長はガブリエルではない。あれは、単なる最終破壊兵器だ。すなわち、ザフィケルやジョフィエルと同じ戦闘用の駒に過ぎん。もっとも、使用する情況は制限されるがな。ある意味では十賢者中最強とも言える。それ故に人間どもは奴を首班と考えたのだろう。あるいは、あのランティスの思考が組み込まれているからかな」
 緊迫するクロードたちとは対照的な態度で、ルシフェルは分析してみせた。その顔は美しくも冷たく、笑声は何かを嘲るようだった。
「じゃあ、本当のボスは……」
「そう、この私だ。もっとも、数時間後には私が唯一の十賢者となるがな……」
「なんだって?」
 混乱を極めるクロードたちに、ルシフェルは鼻で笑った。
「せっかくだ。私の計画の一端を披露してやろう。まず、お前たちを殺す!」
 突然、ルシフェルの背中に六本の赤い枝のようなものが生えた。
「そしてお前たちの持つ四つの宝珠を使い、ガブリエルを破壊する!」
 枝から鮮やかな紅い羽根が生え揃う。
「そうすれば私を越える力は存在しなくなる。全銀河系は、私の物になるのだ!」
 ぐっと握り締めた拳を高く突き上げた。銀色の髪と赤い羽根が揺れ、野望の炎が瞳の奥底に燃え上がる。
「あなたたちの目的は、銀河征服なの!?」
 レナの問い詰めるような声が広間に響いて、ルシフェルは手を下ろした。
「それは少し違うな。我々の、ではない。私の目的だ。ミカエルたちはそのために、私の目的のために動いていた」
「じゃあ、どうして崩壊紋章を使うの!?」
 そこで初めて、ルシフェルの顔から余裕の色が消え去った。射抜くようにレナを見つめ返す。
「あれは、ガブリエルがしたことだ。後で奴と一緒に葬り去らねばなるまいな」
「なぜだ? なぜお前はガブリエルと対立するんだ!? お前が十賢者のボスなら、ガブリエルだってお前の配下じゃないのか?」
「確かにな。ガブリエルは私の配下だ。だが、ランティスは違う。奴はガブリエルの意思を乗っ取り、肉体を操り、私の指示を受け付けない。いかに私であろうとも、設計上強く作られているガブリエルに力で勝つことは出来ないのだ。だからこそ、お前たちの持つ宝珠が必要となる。無限の力を秘めたそれが、な」
「あの珠が……?」
 クロードは目を見開いた。確かにこれまでに命を救われたことはあったが、ネーデの力を得られるというのも実感が湧かなかったし、宝珠本来の姿は謎のままだったのだ。
「まったく無知というのも恐ろしいものよ。お前たちに宝珠の力を使われていたら今ごろどうなっていたことか」
 ルシフェルは腕を組んで笑い、髪と羽根を揺らした。そして少し考えてから真面目な顔になり、首を傾げた。
「ふむ。そうだな。素直に宝珠を渡せばお前たちのことは見逃してやってもいいが、どうする?」
「そんなこと、誰が信じるか!」
「興奮するな。私が宝珠の力を手に入れれば、お前たちなどとるに足らん。大人しくしていれば私の支配する世界で天寿をまっとうできるのだ。ここで死ぬよりも、そのほうがいいとは思わないか」
「僕たちは死なない!」
 クロードはセイクリッドティアを振り上げた。
「そうか。やはり死を望むのか……。ならば、かかってくるがいい!」
 ルシフェルは両手両足と翼を大きく広げた。クロードは剣を片手に猪突する。微動だにせず自分の目をじっと見つめるルシフェルの直前で両手に持ち替え、勢いよく振り下ろした。
 次の瞬間、レナたちが目にしたのはクロードが床に打ちつけられる姿だった。ゴム球のように跳ね上がり、床の上を転がって壁にぶち当たる。ルシフェルを見れば、片腕しか動いていなかった。白い顔に紅い唇で笑みを浮かべる。
「次に死ぬのは、誰だ?」

 レイリーにとって、兄と親友の恋は何の喜びももたらさなかった。自分といる時間よりもフィリアと一緒にいる時間が圧倒的に増えた兄ルシアス。毎日毎日、彼のどこが好きなのかを楽しげに話すフィリア。
 それまで、ルシアスは彼女だけのものであるはずだった。その声も、笑顔も、全て彼女のもの。誰かが奪おうとしても、ルシアス自身がなびかなかった。それなのに、ある日を境にルシアスは自ら顔を向ける先を変えた。彼を奪ったフィリアは、十分憎むに値した。だが、レイリーにルシアスを憎むことはついにできなかった。二人とも憎んでしまえばそのほうが楽なのに。いくらフィリアを憎もうとしても、彼女を愛するルシアスのことを想うと、憎みきることは出来なかったのだ。憎しみが沸き起こるたび、自分がその二人から愛されているという思いが、負の感情の発現を押し留めた。
 久しぶりに兄妹二人だけで旅行に出発した日、フィリアの見送りに応えながら、レイリーは心に決めていた。自分の想いを兄に伝えようと。そしてきれいさっぱり忘れて、普通の妹に戻ろうと。だが、それは叶えられなかった。二人の乗っていた地上車が、本来あるはずのない衝突事故に巻き込まれたからである。
 生命科学研究所で目覚めたときから、彼女は様々な情報を注ぎ込まれ続けていた。そして数時間もしないうちに、自分とフィリア、ルシアスの関係を分析し終える。そのとき、消されていたはずのレイリーだった頃の記憶が蘇ったのだった。その直後にフィリアと再会したが、彼女はわざと視線を逸らして通り過ぎていった。そのとき、レイリーは確信した。フィリアは、自分の気持ちに気付いていたのだ、と。レイリーは呆然とした。いつもいつもルシアスのことを話していたのは、自分に対する当てつけだったのか。だとしたら、自分が悩んできたのは一体なんだったのか。
 そしてレイリーは、フィリアと『ルシフェル』の再会を目撃した。目が開いた瞬間に抱きつき、涙ぐみながら本当の名を呼び続ける姿は、自分のときとは全く正反対だった。フィリアはきっと、もうこれでルシアスは自分だけのものと思ったに違いないとレイリーは推察した。自分は姿も声も変えられ、きっと呼んでも思い出してはくれないだろう。事実、ルシフェルの自分に対する態度は他の十賢者と変わらないものだった。
 毎日毎日、目の前で二人が言葉を交わすのを見せ付けられる。これなら、生まれ変わらずに死んでいたほうがましだった。
 レイリーは、フィリアを憎むことに決めた。

 アシュトン、プリシスは肉弾で突撃して紙切れのように敗れ去り、床の上に転がっていた。レオンとセリーヌは弾き返された呪紋を喰らって重傷だ。レナ、チサト、ノエルだけが自分の足で立っていた。
「面白味がないな。もう少しくらい楽しませてもらいたいものだが……」
 そう言い放つルシフェルは、まだ両の腕しか使っていなかった。初めの位置から、一歩たりとも動いていない。これが、十賢者の真のボスの力なのか。チサトは、自分の足が震えるのを止めることができなかった。まるで歯が立たないのだ。一ミリの傷もつけられず、全てが片腕で捌かれてしまう。攻撃を加える隙すら見出せなかった。
「まだ……楽しめるさ」
 壁際で、クロードが剣を支えにして起き上がった。額から血を流しながら、剣を構える。
「クロード!」
「ほう。死んではいなかったか」
「ちょっと頭がクラクラしただけさ。行くぞっ!」
 クロードは床を蹴った。ルシフェルはそれを片手で弾き返そうとする。
「無駄だ」
 踏ん張ってルシフェルの力に耐え、クロードは剣を足元に叩きつけた。
「爆裂破!」
 床が割け、岩塊が突出する。ルシフェルは中に跳んでそれを避けようとしたが、上から無人君の巨体が彼を押し潰した。岩の海に、ルシフェルは叩きつけられる。
「くっ、雑魚がっ!」
 ルシフェルは紋章力の塊を投げつけたが割って入ったアシュトンが左の剣で迎撃し、右の剣をルシフェルに振り下ろした。ルシフェルは翼を羽ばたかせて天井へと舞い上がった。倒れていた二人の紋章術師も起き上がってくる。
「……少し甘く見ていたようだな。まだまだ楽しませてくれそうだ」
 高くかざした右手には紋章力の弾が無数に生まれ、ルシフェルはそれを眼下に打ち放った。クロードたちは跳んで、あるいは転がって、または相殺して躱した。標的を外した紋章弾は床との間で小ささに似合わぬ大爆発を起こして近くの者を翻弄した。
「フッハッハッハッハッ! 踊れ踊れ!」
 ルシフェルは両手に次々と紋章弾を生み出し、絶え間なく繰り出した。空からの猛撃にクロードたちはなす術がない。が、何もせずにいられるわけもなかった。クロードはセイクリッドティアを握り締め、跳んだ。
 ルシフェルは一際大きい紋章弾を放って迎撃した。クロードはダメージを受け落下しながらも闘気竜を撃った。ルシフェルに一瞬の隙ができ、アシュトンとプリシスが同時に跳び上がった。ハリケーンスラッシュの渦風が新たな紋章弾の軌道を逸らし、無人君の怪力がルシフェルを引きずり降ろした。激しく打ち付けられたところへ呪紋が殺到する。
「サンダークラウド!」
「シャドウフレア!」
「アースグレイブ!」
 立ち込める爆煙はしかし一瞬にして吹き払われた。ルシフェルの位置から、爆発するような音ともに空気が押し出される。高速で圧縮された空気の塊に、クロードたちは突き飛ばされた。ルシフェルは悠然とした態度で空中に浮かび上がる。その身体には、一筋の傷もなかった。ルシフェルは傷付きながら起き上がってくるクロードたちを見下ろし、口を開く。
「どうやら、私も少々本気を出してやらねば、お前たちには理解できぬようだな。いくらやっても無駄だということが」
「無駄かどうかなんて、最後までやってみなきゃ分からないよ!」
 声を張り上げるレオンに、ルシフェルは微笑する。
「これを受けても、そんなことが言えるかな?」
 ルシフェルが右手を翳すと、そこに二股に分かれた光り輝く槍が現れた。それを、ルシフェルは無造作に投げ下ろす。
「風よ! 全てを切り裂く刃となりて其を滅ぼせ!」
 床に突き刺さる槍を追うようにして渦巻く風の乱流が舞い降り、瞬く間にクロードたちを巻き込んだ。身体が浮き上がって風に乗り、壁や床、天井に容赦なく叩きつけられながら、鎌鼬かまいたちが身体を切り刻む。迸る鮮血すらすぐに吹き飛んで、たちまち深紅の竜巻と化した。武器も主の手を離れて宙を舞う。セイクリッドティアは、ルシフェルの手に引き寄せられるようにして飛び込んだ。刀身を舐めるように見ながら、紅い唇から笑いをこぼす。
「反物質の剣か。よく斬れそうな名だが、全宇宙を手中にする私の前にはなんの意味もない……」
 ルシフェルはセイクリッドティアの先に手を添えると、それをいとも簡単に折り曲げてしまった。クロードは風の刃に翻弄されながら目を見開く。
「そんな、ばか……な」
 役立たずになった剣をルシフェルは紙くずのように丸め、握りつぶした。
「ハッハッハッハッ! これで分かったか? 貴様らなどがこの私に敵うはずのないことが!」
 ルシフェルがくいっと手首を引くと、風の槍はまるで糸がついているかのように引き抜けて消えた。同時に、風も止む。クロードたちは音を立てながら床の上に落ちた。全身を激しく打ち、痛みが走る。立ち上がる気力もない。クロードは何とか起き上がろうとして、失敗した。
「まだ動けるか……。だが、これで終わりだ。我が従僕よ、現れるがいい!」
 広間の中央に光とともに眩い現れたのは、ローブを纏った女性だった。濃い草色の髪に、整った目鼻立ちの顔。人に強い印象を与えるその瞳の奥には、敵意だけがあった。ベージュのローブの中はサファイアブルーの甲冑。手には、宇宙を思わせる青黒い両刃の剣を持っていた。
「な……、あの人は……!」
 這いずるようにしながら、クロードは顔を上げ、その女性の横顔を見た。ルシフェルがゆっくりと降りて来、女性の隣に立つ。
「さあ、その剣で奴等の息の根を止めるんだ」
 女性は頷いてクロードのほうを向き、剣を構えた。間違いない。あの顔は。
 醒めるように青い甲冑が駆け出したのと同時に、飛び出した者がいた。鮮烈な赤毛の、戦う新聞記者。
「マリアナ、止めてっ!」
 クロードに剣を振り下ろそうとするところを、チサトは満身創痍の身体で阻止した。だが、それを意に介することなく、甲冑の女性、マリアナ・クロニックは再度剣を振るう。クロードは転がってそれを躱し、近くで気を失っていたレナを起こした。その間にも、チサトとマリアナの格闘は続く。
「ク……クロード?」
 目覚めたレナは、目の前の状況を見て愕然とする。
「あ……あれは?」
「ああ、マリアナさん……みたいだ。たぶんルシフェルに操られてる。でも、とにかく今はみんなを回復……」
 会話の内容を推察したルシフェルが紋章弾を放ち、クロードはなけなしの力を振り絞った吼竜破で相殺する。両者が衝突した爆発の影で、レナは呪紋を唱えた。
「フェアリーライト!」
 守護天使の降臨にルシフェルは舌打ちする。だが、新たな攻撃を加えようとはしなかった。
「目を覚ますのよ、マリアナ!」
 チサトはマリアナの手首を掴み、剣を無効化する。
「無駄だ。その女からは意識を完全に奪ってある。私を倒せば元に戻るだろう。だが、それが無理なことは分かっているだろう? お前たちの選ぶ道は二つに一つ。その女を殺して私に殺されるか、その女一人を救おうとしてその女自身に殺されるか、だ」
「道はもう一つある」
 クロードは右の拳を左手に打ちつけた。
「お前を倒し、彼女を助ける!」
 ルシフェルは、その美しい顔に失望の色を浮かべた。
「思ったより頭が悪いようだな。どちらが強いのかさえ分からず、性懲りもなく我を通そうとするとは。好きにするがいい」
 ルシフェルは赤い翼を閉じ、目を伏せた。棒立ちである。クロードが構わず殴りかかろうとしたそのとき、チサトの手を逃れたマリアナが背後から襲いかかった。
「だめっ!」
 庇ったのはレナだった。振り下ろされる剣を目にして、反射的に両手で頭を覆う。そのとき、鈍い音が響いた。
「レナっ!?」
 クロードは振り返ったがレナは無事だった。チサトがすぐさまマリアナをねじ伏せる。レナの腕、ではなく腕にはめられたファルンホープに浅からぬ傷が入っていた。
「そんなっ! ミラージュさんの武器が!?」
「その女の剣は私が魔力を込めて作った最強の剣だ。斬れぬ物はない。加えて今、その女は自制や疲れというものを知らぬ。本来の力全開で襲ってくるぞ」
 ルシフェルは目を閉じたままの顔で笑った。クロードは拳に怒りを込めた。
「くそっ。チサトさん、とにかくマリアナさんを頼みます」
 クロードはルシフェルの方へ駆けた。マリアナはそれを追いかけようとして、チサトは押さえつけた。
「流星掌っ!」
 繰り出された拳は、ルシフェルよりも手前の空間で弾き返された。通常よりも強力なシールドがルシフェルを包んでいる。セリーヌの呪紋も、アシュトンの剣も、これまで以上に歯が立たなかった。だが、諦められはしない。レオンが異形の徒を召喚し、無人くんのドリルがいくら唸ろうとも、まるで効果がなかった。かすり傷をつけるどころか触れることすら適わない。セイクリッドティアが失われた今、このシールドを打ち破るのは不可能に近かった。
 クロードは、一瞬ひらめく。頑強なエネルギーフィールドに対抗するには強力なエネルギーをぶち当てればいい。呪紋や紋章力の応用である闘気などではなく、もっと別のエネルギーを。
 ジャケットの内ポケットに手を入れ、クロードはそれを素早く打ち放った。父から渡されたフェイズガン。エネルギー残量が少ないからと使用を諦めていたそれを、クロードは出力を最大にして放ったのである。眼前で青い閃光が破裂し、雷鳴にも似た音が爆発する。しかし、効果はなかった。
「フハハハハハハッ! 面白いものを持っているな。だが、貴様の仲間の艦が放った陽電子砲、あれが我らに効かなかったのを忘れたか?」
 きらめくシールドの中でルシフェルは大いに笑った。そして、視線の先に剣を振り上げながら近づいてくるマリアナを見る。
「良かったな! 大した絶望も味わわぬまま死ねるようだぞ!」
 クロードは慌てて振り返り、マリアナの姿を認めた。しかし、振り下ろされようとする剣の先が微妙にずれていることを察知する。
「……な!?」
 斬り裂かれたのは、ルシフェルのシールドだった。そして、彼の左肩も。マリアナはしっかりと床の上に立ち、深く斬り込んだ剣を引き抜いた。鮮血が高く吹き上げる。
「確かになんでも斬れる剣だな、ルシフェルさんよ」
 マリアナは鼻で笑って見せた。その目には、彼女本来の強い意志が戻っている。クロードは目も耳も全てを疑った。
「バカな。お前の意識は私が……」
 傷口を押さえながらルシフェルはよろめく。
「そうだ。貴様は私の意識を奪おうとした。それが分かったから、私は先に自我を心の奥に退避させていたのだ。神宮流武術の秘奥義でな」
「まさか……そんな、ことが」
 ルシフェルは明らかに動揺していた。圧倒的優位に立っていた自分が正反対の立場に立たされたのだ。アシュトンも、セリーヌも、完全には信じられない様子だった。
「練習生だったときに一度使ったきりだが、上手くいった。なにしろ、このエナジーネーデで唯一この技を使えるチサトまで騙されたんだからな」
 マリアナはちらっとチサトのほうを見、チサトは怒っているような喜んでいるような顔で見つめ返した。
 クロードは半分混乱しながら尋ねた。
「じゃあ、今までの攻撃は……?」
「全部手抜きだ。もし本気だったら、レナは今ごろ生きていないさ。もっとも、それはクロード、君もだが」
 にやりと笑って、マリアナは顔を引き締めた。
「さあ、形勢逆転だ、ルシフェル!」
 その言葉に、クロードたちも身構える。ルシフェルは瞳に怒りの炎をたたえ、マリアナを睨んだ。クロードが拳を振り上げたのを合図に全員が一斉に襲い掛かる。破られたシールドは不安定で、拳も剣も呪紋も容易く突き抜けた。
「バーストナックル!」
「ソードダンス!」
「無人君スーパービーム!」
昇竜のぼりりゅう!」
 炎の拳に斬撃の連発が続き、高エネルギービームが浴びせられて体術で身体がボロボロになる。その様子を見ながら、レナは不思議に思った。最強の剣を持ちながら、マリアナが加勢しようとしないのである。しかし同時にレナはマリアナの額から冷や汗が流れ落ちるのを見ていた。
「グレムリンレアー!」
「ブラッドスキュラ!」
「エクスプロード!」
 渦巻く炎に翻弄されるルシフェルを見ながら、クロードたちは勝利を確信した。これほど見事な逆転があっていいのかと思うほどに。だが、ルシフェルは業火の中で最後の力を振り絞った。
「あと少し……。あと少しなのだあぁぁぁぁぁっ!」
 焼け爛れ骨までが露出した姿で、銀髪の堕天使は炎の中から飛び出した。そして剣を握ったまま立ち尽くすマリアナに襲いかかる。マリアナは、まるでそれを予期していたかのように剣を突き出した。狙いは正確にルシフェルの心臓。誰もが、ルシフェルの身体が貫かれる様子を想像した。

10

 想像は現実のものとなった。だが、完全に一致した者はいなかっただろう。最強の剣に串刺しになったのは、ルシフェルだけではなかったから。マリアナとルシフェルの間に、もう一人両手を大きく広げた若い女性が挟まっていたのだ。緑色のローブを着た、ルシフェルと同じ銀色の髪の女性。
「……レ……イリー?」
 驚いた声で言いながら、ルシフェルは床の上に倒れた。救援が入ったせいで狙いは外れたが、剣が貫通した彼の胸からは激しく血が噴き出していた。女性のほうは目を閉じたまま笑顔を浮かべ、ルシフェルに重なるようにして倒れた。
 クロードたちが駆け寄ると、ルシフェルは仰向けになって涙を流していた。
「レイリー……レイリーが私を……」
「クロード、このローブは……」
 うわ言のような声をあげるルシフェルを、ほとんど誰もが無視していた。
「ラファエルのものだ」
 一同は頷く。だがしかし、あの正体不明だったラファエルの中身が、こんなルシフェルに瓜二つの女性だったとは。セリーヌが脈を診たが、死亡しているようだった。
「でも、レイリーって……?」
 レナが疑問を投げかけると同時に、どこからともなく声が響いた。
『ルシアス……』
 クロードとレナ、セリーヌには聞き覚えのある声だった。うまく思い出せないが、はっきりと記憶にある声。声の主は、天井を見上げて倒れるルシフェルの傍らに、姿を現した。濡れたように輝く青色の髪の女性。年の頃はセリーヌやチサトと同じくらい。純白のブラウスとフレアのスカートを着て、ルシフェルとはまた違った意味で美しい顔立ちをしていた。清潔さと気品を併せ持つ姿に、クロードたちは武器を構えるべきか迷った。
 女性はルシフェルを抱き起こす。
「ああ、ルシアス。ごめんなさい」
 涙ぐむ女性の顔に、ルシフェルは血だらけで震える手を添えた。
「気に……しなくていい。私たちは、いつも……」
 ルシフェルの手が落ち、瞼が閉じられる。女性は、ルシフェルの胸の上に伏せって嗚咽を漏らした。クロードたちは、なす術を知らなかった。突然新たな、敵とも味方ともつかぬ女性が現れ、敵の死に泣き出す。こんな状況に誰が正常に対処できよう。だが、誰もが対応の仕方を心得ているできごとが起こった。マリアナが、突然支えを失ったかのように倒れたのだ。
「マリアナさんっ!?」
 一同の関心は一気にマリアナに集中した。マリアナは、上半身を起こし、苦しそうに息を吐いた。
「ちょっと無理をしてしまったな……。自我を退避させていたとはいえ、奴の思念に対抗して自分を操るのにかなり精神力を消耗したようだ。奴が死んで、少し気が抜けてしまったかな」
 マリアナの笑みがクロードたちの安心感を誘った。だが、チサトだけが穏やかでなかった。勢いよくマリアナに飛びつく。
「バカっ! 人を心配させといて、もう、ホントに、ホントに死んじゃったと思ったんだから……」
 このときセリーヌを除く全員が、初めて、人にすがって涙を流すチサトの姿を見たのだった。泣きじゃくるチサトの頭を、マリアナの手が優しく撫でる。
「ああ、すまなかった。悪かったよ……」
 謝りながら、マリアナは顔を上げた。そこに涙はなく、毅然とした眼差しがクロードの目に眩しかった。
「残念だが、私は立てそうにない。後は君たちだけで行ってくれ。本当はもっと力になりたかったが……」
「いいえ、あなたが生きていてくださったことだけでも、僕たちには励みになりました。今はここで休んでください」
 マリアナは頷き、握っていた剣を差し出した。青黒い刀身が妖しげな光を放つ。
「こいつを使うといい。どういう仕組みかは知らないが、確かになんでも斬れる。ルシフェルの死とともに失われるかと思ったが、魔力を込めたとはいえ一本の剣として独立しているようだ」
「分かりました。必ずガブリエルを倒してきます」
 クロードは剣を振り上げた。セイクリッドティアより若干重いが、吸い付くように手に馴染む。武器というよりは自分の身体の一部のように感じられた。仲間たちの視線が新しい剣に注がれる。プリシスは羨ましそうな目で、セリーヌは品定めをするように。
「期待しているよ。ちなみに、剣の名はエターナルスフィアというらしい。どういう意味かは聞く機会がなかったので分からないがな……」
 一同の目は、エターナルスフィアからルシフェルに移った。先刻より激しくはないものの、突然現れた女性が、まだ胸の上で泣いていた。クロードは、剣を片手に一歩近づく。
「あなたは、一体……?」
 女性は、ゆっくりと顔を上げた。目元は赤く、頬には無数の筋が見られる。女性は厳かに立ち上がり、一礼した。
「私は、フィリアと申します。この先に行かれる前に、みなさんに聞いていただきたいことがあるのです」
 その名に衝撃を覚えない者は、いなかった。

11

「フィリア……さん?」
「それって、もしかして……」
 青く輝く髪の女性は、軽く点頭した。
「そうです。みなさんがご存知の通り、私は十賢者たちの生みの親、ランティスの娘です」
 唇をぎゅっと引き締め、フィリアは平静を保とうとしているようだ。
「そんな、だって、あなたは死んだはずじゃあ……?」
 広間の中は、異様な情景だった。緑色のローブの女性が胸から血を流して倒れ、銀髪の青年が傷だらけの体で横たわっている。クロードたちは警戒心と疑心にとらわれ、動くことが出来ない。そして生者と死者の間には、先刻まで繰り広げられていた死闘とは縁もゆかりもなさそうな、気品に溢れた美しい女性が佇んでいるのである。
 クロードは、このフィリアと名乗った女性のことを出来る限り思い出した。本人が認めた通り、ランティス博士の一人娘であり、テロに巻き込まれて死亡した。そう、生きたまま封印された十賢者たちとは異なり、この世には存在するはずのない人間なのだ。
「確かに私は死にました。しかし、父は私の思考回路と記憶を、コンピュータメモリに保存していたのです。当時、私は父の研究に協力するため、毎日のように自分の記憶をコンピュータにコピーしていました」
「研究って……十賢者の?」
 レオンが訊いた。
「そうです。当時のネーデ人にとって、十賢者とは叛乱分子を鎮めるための兵器であり、戦士たちでした。そして多くのネーデ人にとって、十賢者に選ばれることは名誉なことでした」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 クロードは疑問を投げかけた。
「十賢者たちは、ネーデ人だったんですか?」
 だとすれば、十賢者とは単なる兵器ではなく改造人間だということになる。驚くべき疑問に、フィリアは戸惑わず点頭した。
「紋章術に長けた者、武術に優れた者が全ネーデ中から集められました」
 フィリアの話は続いた。

 惑星ネーデの民が宇宙に出始めて間もなく、彼らは他の惑星にも知的生命体がいることを知った。そのとき、宇宙はネーデよりも進んだ文明で満ちていた。異星人たちは星から星へ一瞬にして移動し、天体をも操り、豊かな暮らしを築いていた。彼らは、辺境の幼い文明であるネーデを、彼らの社会、銀河共栄体に快く迎え入れた。
 しかし、それから百年のうちにネーデと異星人たちの立場は逆転する。唯一ネーデ人だけが発達させた学問であった紋章科学は、共栄体の技術を貪欲に取り入れ、その効果を高め、装置を小型化し、より高度な技術へと進化させたのである。はじめ、ネーデ人たちは紋章科学によって造られた製品と交換に新しい技術を分けてもらう立場にいた。しかし新たな技術を吸収し終えると、ネーデは新たな資源や居住地を求めて、異星人の管轄下にあった小惑星や無人の惑星を交換条件にするようになった。ネーデが見返りとして求めるものはやがて有人惑星にも及び、ついには恒星系にまで至る。そのころには共栄体の人々の周りは紋章科学なしには生活できないほどにネーデの製品で満ち溢れており、ネーデの提示する条件を拒否することはできなかったのだ。紋章科学を模倣しようとした研究は数千を数えたが、ついに一つも成功しなかった。そしてネーデは、紋章科学による製品を提供し続ける一方で、その詳細について微塵も明かすことはなかった。
 そして宇宙進出から百五十年後、惑星ネーデは銀河共栄体の永久首班の座を手にし、以後五百年に渡って三百の惑星をその支配下に置いたのである。
 他の誰もが手にしえない力。ネーデ人はそれを権力の掌握に使用した。共栄体最高評議会をはじめとするあらゆる行政施設、宇宙軍の艦船にはことごとく紋章力でしか開閉できないドアが設置され、重要な事柄は全てその部屋の中で決定された。通信の暗号解読にも紋章力が必要になり、要人の転送には古典的な紋章だけを使って多種族の妨害を防いだ。政治や軍事に関する全ての大事がネーデ人だけにしか操れないようになり、ネーデはその影響力をますます強めていった。
 やがて、共栄体の中から不満の声があがる。最初の蜂起はネーデの支配が始まってから三十年後だった。ケラという古参の惑星で、ネーデが共栄体に加盟したときには最も有力な惑星だった。それが、みるみるうちに領土を半減させられ、技術を持っていかれてしまい、三分の一を占めていた評議会の議席も失った。ケラは、伝統的産業である軍艦を二千隻用意して周辺国に蜂起を呼びかけた。しかし、当時の最高評議会議長アバドンは即日、これをたった二十隻の紋章戦艦で虫を踏み潰すかのように粉砕し、ネーデ紋章科学力の恐ろしさを見せつけたのである。加えて武力を失った惑星ケラとケラが治めていた周辺の星域をネーデ領に併合した。これ以後、四百五十年間、ネーデの一極支配に異を唱えるものは現れなかった。

「しかし、ついに滅びの時が訪れたのです」
 フィリアの口調は淡々としていた。話し始めた頃に滲んでいた涙も消え、落ち着いた透き通る声を発し続ける。クロードはその話の内容よりも、声に惹かれて聴き入っていた。

 新参者である惑星テスカトルが動き出したのは、ネーデの支配開始から四百八十年後のことだった。新参とはいえ、長い歴史と独自の文化を持った種族で、共栄体に加盟したのは一重に武力をもって脅されたからであった。当初ネーデはテスカトルの力を軽視しており、ほとんど無視していた。辺境で十を超える惑星が反旗を翻したのを知っても、涼しい顔をしていた。だが、やがて重要な事実が明らかになる。永年に渡って門外不出だったはずの紋章科学の詳細が、叛乱軍に漏れていたのである。紋章術を操ることさえ不可能ではあるが、紋章によって守られてきた機密情報や通信内容が全て知られてしまうのだ。これがいかに重大なことであるかは、叛乱軍による最初の攻撃で明らかになった。最強無比を誇ったネーデ紋章戦艦の一部隊が、多勢に無勢とはいえ木っ端微塵に破壊されたのである。
 この勝利を契機として、叛乱軍への参加国は急増する。だが、古くからの加盟国は惑星ケラの叛乱を思い起こしてなかなか動こうとはしなかった。古参国の慎重さに胸の内でほっとしながら、ネーデは自分たちの歴史と誇りにかけて、叛乱軍を早急に排除しようと試みた。最初に派遣された艦隊は三時間で敗退し、応援に駆けつけた部隊も間に合わず、これも惨敗する。一連の戦闘結果に多くの国々が衝撃を受け、次々と叛旗を翻した。古参国の間にも動揺が広がったのを受けて、ネーデは新たな鎮圧手段を考案する。ランティス博士の理論に基づく十賢者防衛作戦である。
 当時のネーデ人にとって、自分たちが絶対的な支配者であるという認識はごく自然なものだった。なにしろ、自分たちに対抗できる力を誰も持っていなかったのだから。そして自分たちは他の種族の生活を豊かにできる唯一の存在であると自負していた。だからこそ、神にも等しい恩恵を与えている自分たちに牙を剥くことは、全くゆるされることではなかった。辺境惑星の動向にネーデ人は憤り、政府から十賢者候補が募集された時は多くの人々が募集所に殺到したのである。選ばれた人々は、羨望と嫉妬の眼差しを同時に浴びることになった。

「十人の英雄たち……ですか」
「そうです。私も応募しましたが、選ばれませんでした。でも、父の研究を手伝えたことは名誉に思っていたのです」
 レナには理解しかねる心理だった。大量殺戮を行う機械人間に改造されることが、なぜ名誉なのだろうか。
「でも、後になって分かったのです。私たちが、ネーデ人たちがなにを行おうとしていたかを」
 フィリアは自分を落ち着けるように深呼吸して、唇を開いた。
「エタニティスペースから開放され、エクスペルに着いて、私はエクスペルの様子を探りました。紋章力で自分の身体を再現し、街の中を歩きました。そこには、紋章力を操る人たちとそうでない人たちが一緒に暮らしていたのです。外見の異なる人までもが何の偏見もなく」
 レオンは自分に注がれた視線を感じた。
「それまで、私はネーデ人でない人間が自分たちと同じ空間にいるということなど考えられませんでした。でも、エクスペルでは種や力の異なる人々がの互いに助け合って暮らしていた。それを目の当たりにしたとき、私は自分たちがしてきたことを恥じたのです。なぜ自分たちは、他の種族と共存できなかったのかと。そして、そこで初めて私たちの計画のためにエクスペルを巻き込んではいけないと思ったのです。それまでは、ネーデ人の優越性を、信じていましたから」
「じゃあ、どうしてそれを止めてくださらなかったんですの?」
 セリーヌは、得体の知れない相手を容易に信用しない。信じ込みやすいクロードやレナにとって、彼女は常によいブレーキ役であった。フィリアは目を伏せる。
「私の発言に力はありませんでした。私の意識が存在しているガブリエルは未完成なもの。そこに私と父の意識が入ったことで、ガブリエルの思考ルーチンは正常な機能を失いました。一日のほとんどの時間を父の意識が支配し、私はほんの数時間しか自分の意識をもつことができませんでした。そして、父と話すこともできなかったのです」
「でも、十賢者のボスはルシフェルなんでしょ?」
 フィリアの顔に、一気に緊張が走った。半身を横たわるルシフェルのほうに向け、声を低くする。
「彼は……、私の恋人だったんです」

12

「こ……、恋人?」
 フィリアは頷き、唇をかみ締めた。両手を胸の前で合わせて、身を縮める。
「彼は、言ったんです。ネーデに帰ろう、と。私は、……抗えませんでした」
 セリーヌは吐息を漏らした。そんなことで自分たちの家族が犠牲になったのかと糾弾してやりたかった。だが同時に、自分が同じ立場だったとき、同じ選択をしないと言い切る自信はなかった。愛する人と故郷に帰るためなら、きっと何でもするだろう。たとえ理性が拒否しても。
「それで多くの人が傷付くことになってもですか!?」
 叫んだのはレナだった。握った拳を震わせ、今にも飛びかかりそうな勢いである。
「ネーデに帰ったらその次は世界の支配だってこと、知らなかったんですかっ!?」
 クロードは、レナの肩を押さえた。振り向いた顔に涙が流れる。
「ごめんなさい……」
 激しくむせこんだのはフィリアのほうだった。口に手を当て、朝露のように輝く雫が堰を切ったように流れ出す。くぐもった嗚咽の中に、幾度となく謝罪の言葉が繰り返された。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
 フィリアは膝を折り、泣き崩れた。レナは、それでも厳しい目で彼女を凝視していた。

 フィリアがルシアスを愛したその瞬間から、彼女はレイリーの中にも同質の気持ちが存在することを知ってしまった。衝撃で胸が押し潰されそうだった。二人が兄妹の間柄であるということはどうでもよかった。しかし、その関係のために、生まれたときから一緒に暮らしてきた、その長い時間が、フィリアにはなかったのである。レイリーには人間としても女性としても、取り立てて欠点はなかった。それはフィリアも同様だった。ただ、レイリーのほうがより淑やかで、フィリアのほうが少し勝気なだけのことだったが、それは問題ではなかった。時間が、なかったのである。
 フィリアは、ルシアスを独占しようとした。常に彼の側に居て、休日には外出に誘い、夜遅くまで二人だけの時間を作った。そして、彼と何をしたのか、彼と居ることがどんなに楽しいのか、毎日のようにレイリーに話して聞かせた。レイリーはその都度「よかったわね」と祝福していたが、その瞳の奥にある暗い感情を、フィリアは知っていた。それを見て勝ったつもりになっていたのである。
 だが、フィリアを二度目の衝撃が襲う。フィリアとルシアス、レイリーは揃って十賢者候補者に応募した。そしてフィリアだけが選ばれなかった。候補者発表を見に行ったときの、レイリーの顔は忘れられない。心底嬉しそうな顔だった。フィリアとルシアスが付き合い始めてから、初めて見せた表情だった。そしてその中には、フィリアに対する驕りが全くなかったのである。純粋に、愛する人と並べることを喜ぶ顔だった。フィリアは、自分とレイリーの想いの歴然たる差を知って心を締め付けられる思いだった。彼女がどんなにルシアスを強く愛そうとも、想いの深さにおいてレイリーには適わないと悟ったのだ。

 それは、今日も示された。緑色のローブを纏ったレイリーは、ルシフェルとなったルシアスを守ろうとして自ら剣の先に現れた。あるいは、共に死ぬつもりだったかもしれない。
「じゃあ、やっぱりこの女性がラファエルの正体……?」
 満足そうな顔で横たわるレイリーの頭を、フィリアは自分の膝の上に乗せた。ルシアスと同じ銀色の髪が、フィリアの白い手に梳かれる。それを潤んだ目で見つめながら、フィリアは何度も銀色の髪を撫でた。
「この子をラファエルにしたのは私なんです……」

 情報分析用素体ラファエルは、膨大な量の情報を記憶し高速に処理できるよう、ほとんどコンピュータに近い設計だった。その本体はローブに覆われた別の時空に置かれ、光速を越えるスピードで演算ができるようになっていた。したがって、その顔が見えることは無く、声も装置によって合成されたものになる。フィリアは、そこに目をつけた。顔と声を隠せば、ルシフェルが妹の記憶を思い出すこともないだろうと考えたのだ。そうして、十賢者計画の責任者たる父に、ラファエルにはレイリーの体を使うよう懇願したのである。むろん、本当の理由は言わなかった。
 結局のところフィリアの目論みは成功したが、今日こうして彼女自身を深い哀しみに貶めたのだった。

「これまで、私のせいで多くの人々が犠牲になってきました」
 フィリアは顔を上げ、レイリーの体をそっと床に置いて立ち上がった。心もち開かれた目に、涙が光る。
「ネーデは、私が死んだせいで父が混乱したために壊滅に追い込まれました。レイリーは、私の浅はかな心のせいで傷ついてきました。ルシアスは、ルシフェルとして、長い間自分の妹のことを知らずに生きる羽目になりました。その罪を、今こそ償わなければなりません」
 クロードは混乱していた。クロードだけでなく、レナも、セリーヌも、チサトも、話の突拍子の無さと複雑さに現実味というものを上手く感じられずにいたのだ。
「どういう……ことですか?」
 やっとのことで、クロードは尋ねた。話の不明な部分について詳細な説明を求める気は起きず、その必要もないように思われた。重要なのは、この女性が全ての鍵を握っているということだった。
 フィリアは純白のスカートをなびかせながら、ゆっくりとクロードに近づき、右手を差し出した。クロードは不思議に思いながらも剣を持ち替えてその手を握ろうとした。しかし、クロードの指はフィリアの手をすり抜けて、触れることができなかった。ぞっとして見上げたクロードにフィリアは優しく微笑み、今度はレナの前に手を出した。レナは深呼吸をしながら、恐る恐るそれを握った。瞬間、乾いた柔らかい肌の感触が伝わってきた。温かい、手。
「私のこの姿は、幻影です。意識はガブリエルの頭脳の中にあり、その中から紋章力を使って映し出しています。本来ならなににも触れることはできませんが、場合によっては調整によって、こんな風に握手を交わすこともできます」
 フィリアは握った手にもう一つの手を重ね、そっとレナの手を離した。
「そして、いま私を傷つければ、ガブリエルの頭脳は大きなダメージを受けることになるでしょう。その中に含まれる父の思考回路も」
 クロードはぎょっとした。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「これしか方法はありません」
 フィリアはきっぱりと言った。
「間もなく父の思考回路が起動します。父が操るガブリエルの前には、いかなる力も通用しません。ルシアス……いえ、ルシフェルでさえ恐れたほどなのですから」
 そう言われて快く頷けるほど物分かりのいい人間はここにはいなかった。ましてや、フィリアは無防備に腕を広げ、平然とした顔でクロードたちを見つめているのだ。死すら恐れないその姿が、神々しくさえ見えた。
「早く。これが私の償いです。ガブリエルの中で死を待つのではなく、自ら命を捧げることが」
「でも……」
 クロードは息を呑んだ。心臓が強く鼓動し、喉が渇いて手に汗が滲む。頭では目の前の女性を斬れと命令しているのに、体が全く動かなかった。誰もが同じ状態で、無言の時間が続いた。フィリアは、ただじっと、超然とした態度で待っていた。
『……フィリア』
 どこからともなく低い声が響いた。今までに聞いたことのない声だった。クロードたちは辺りを警戒する。フィリアの顔がみるみるうちに青ざめていった。
『フィリア、そこでなにをしている?』
「フィリアさん?」
 レナの呼びかけにはっと顔を上げ、フィリアは首を振った。急激に力が抜けていくのが分かる。フィリアは歯を食いしばる。
「早く。もうすぐ父の回路が起動します。そうしたら私は……」
 フィリアの体はどんどん透き通っていった。苦痛に耐えるような表情が、クロードを動かした。
「うわあぁぁぁぁっ!」
 クロードは床を蹴り、剣を振り下ろした。
「クロード!」
 反射的に目を覆ったレナが怖々視線を戻すと、そこに清楚な女性の姿は無かった。剣を振り切ったクロードの姿だけがあった。クロードが彼女を斬ったのだろうか。
『さあ、来い。人間よ。共に宇宙が滅ぶ様を見届けようではないか』
 ランティス博士と思しき声は、まだ聞こえてきた。もしクロードがフィリアを斬っていたのなら、ありえないはずのことだった。クロードが拳で床を殴りつけ、砕けた破片が飛び散った。
「間に合いませんでしたわね……」
 セリーヌは残念とも、よかったとも言わなかった。
 レナは、喜んでいいのか落胆すればいいのか分からなかった。ただ、クロードが自分自身に対して怒っているように見えた。もっと早く行動していれば……。でも、レナはフィリアを斬るクロードの姿を見たくはなかった。だからきっとこれでいいんだろうと思った。
 理解の範囲を越えるできごとの連続で道を見失った一行に、アシュトンは目的を与えようとした。
「とにかく、最上階に行こう。目覚めたばかりなら、まだ勝てるかもしれない」
「いや……、必ず勝つんだ」
 クロードは振り返って拳を握りしめた。一同が一斉に頷き、気を取り直す。しかし、全員ではなかった。
「残念だけど、私は行けないわ」
「……チサトさん?」
 クロードは驚いたが、彼女の膝にマリアナが横たわっているのを見て得心する。しかし、当のマリアナはつまらなそうに首を振った。
「バカなことを言うな。お前だって、ネーデの力の根源を身に付けた者。十賢者と対抗できる数少ない人間なんだぞ。行かなくてどうする」
「でも、せっかく敵を倒しても親友が死んじゃってたら意味ないわよ」
 マリアナは一笑に伏そうとしたが、チサトの目が真剣だったのでとりやめた。
「今度は、私があんたを守る番よ。もう、あんな思いは御免だもの」
 マリアナは好きにしろと言い残して眠りについた。よほど、体力を消耗したらしかった。
「じゃあ、僕も残ります。彼女の体力を回復しなければいけないし、多少は戦闘の役にも立ちますから」
 ノエルは宣言し、いきなりマリアナにヒールをかけはじめた。有無を言わせない態度である。クロードは考えた。二人も抜けてしまうのは戦力的に辛い。だがマリアナのことは放っておけないし、チサトにしろノエルにしろ、自分たちが残留することで戦力が落ちるのは承知だろう。その上で残ると言うのなら、そうするのがいいんだろうと思った。彼らは、クロードたちだけでもガブリエル、ランティス博士をを倒せると信じている。それならば、その信頼に応えなければならない。
「よし、行くぞ!」

13

 長い階段を駆け上り、外に出ると、いきなり強風が吹きつけた。あまりにも強かったので、いきなりの攻撃かと思ったほどだ。見上げると、空には星が出ていた。月が眩しいほどに輝く。
 そこには壁というものがなかった。細やかな装飾を施した柱が円形に立ち並び、その中央に巨大な球形の物体が浮遊している。エルリアタワーで見たものと同じ、ソーサリーグローブ。緑色の光球の周りを埋め尽くすかのように、赤茶色の石版が表面をうごめいている。それをじっと見ている、白いローブの男。クロードは、マリアナから譲り受けたエターナルスフィアを構えた。
「そこまでだ、ガブリエル! いや、ランティス博士!」
 男は、ゆっくりとした動作で振り返った。揺れる赤い長髪に指を通し、冷酷な瞳でクロードたちを眺める。もう片方の手には、古めいた厚い本が開かれていた。男は、たっぷり三十秒ほど経過してから口を開いた。そこから漏れ出た声は、下の階で聞いたものとはまた異なる趣をもっていた。ランティス博士の狂信的な声ではなく、もっと落ち着いた、他者を蔑むような声。しかしその声は彫りの深い細面に妙に合っていた。
「ランティス……か。残念だが、奴はもういない。他に用がなければ帰れ。こう見えて忙しいのでな」
 つまらなそうに言うと、男はソーサリーグローブ──崩壊紋章に向き直った。クロードは半瞬だけ呆気にとられる。
「ちょ、ちょっと待て。もういないってどういうことだ? お前は誰だ!」
 我ながら馬鹿げた質問だとクロードは思った。フィリアでもなくランティス博士でもないとすれば、残るは一人しかいないはずだ。十賢者が一人ガブリエルの、本来の意識。
 男は気だるそうな態度で振り返り、溜息をついた。
「私は、最終破壊兵器ガブリエル。宇宙崩壊の任に当たっているところだ。分かったら帰れ」
「ランティス博士はどうしたんだ!?」
 ルシフェルの間でフィリアが消えた直後にクロードたちを呼んだ声は、ランティス博士のものだったはずだ。それなのに、なぜ今はガブリエルの意識がはたらいているのか。
「……奴は自分を裏切った娘の思考回路を破壊した。それによって、同じ頭脳内に存在していた三つの思考回路は立て続けに機能を失ったのだ」
「それなら、なぜお前だけが生きている!?」
 信じられないことに、そのときガブリエルは微笑んだ。見ている側に不気味さと不快感を与える、おぞましい笑み。
「私はガブリエル本来の意識だ。非常時にはバックアップシステムが稼動して任務を継続する。だが、ランティスたちの意識はもともと土壇場で組み込まれたもの。メインシステムが崩壊すればそれまでだ。しかし……」
 ガブリエルは本を閉じて、両腕を組んだ。話すことに興味を持ったようである。
「お前たちには感謝すべきかもしれんな」
「なんですって?」
 レナは驚いた。
「お前たちがフィリアを裏切りに走らせ、それによってランティスもフィリアも消えた。未完成だった私にとっては、初めての経験だよ。自分の体が自分一人だけのものであるというのはな。惜しむらくはその時間があまりにも短いことだ。まもなく私もお前たちも、全宇宙のあらゆるものが消滅するのだからな」
 ガブリエルは鼻で笑う。自分が死ぬということに、何の感慨も持っていない風だった。
「だったら、崩壊紋章を止めればいいじゃありませんの!」
 セリーヌは憤然として言った。まったくもって馬鹿馬鹿しい話だ。消えるのがいやなのに無理に世界を崩壊させる理由が、どこにあるだろう。
 ガブリエルは眉をぴくりと動かして、興味深そうな顔を作った。
「たしかにな。しかし、それでは私の存在意義がなくなってしまうのだ」
「存在意義だって?」
「そうだ。私はなんのために存在している? 自分の体を自由に操ることを楽しむためか? そうではない。私はなにかを破壊するために存在しているのだ」
 最終破壊兵器は語った。
「だからって、宇宙を崩壊させなくたって……!」
「私の任務は宇宙を崩壊させることだ。その命令を打ち込んだのが誰であろうとも、それに従う。それが、私の存在意義なのだ!」
 説得の余地はないとクロードは感じた。ランティス博士の命令によって宇宙を破壊しようとしているということを考えれば、博士亡き今はその命令を遂行する意味はない。しかし、ガブリエルは命令を忠実に実行する機械人間だ。ルシフェルなどと違い未完成であることを思えば尚のことだった。自らの目的を持たず、ただ与えられた命令を実行する。
 柱と柱の間をすり抜ける風が、低い囁き声のように鳴った。
「……分かった。お前が宇宙を破壊する前に、僕がお前を破壊する」
「なに?」
 ガブリエルは少しだけ片眉を吊り上げた。
「僕たちには僕たちの存在意義がある。生きる希望がある。夢がある。それを守るために、叶えるために、僕はお前を破壊する!」
 クロードの言葉に同調するかのように、アシュトンは剣を構え、セリーヌは杖を握り締めた。仲間たちの心が一つになるのを、クロードは感じた。
「面白い理論だ。お前たちを殺せという命令は受けていないが、任務の邪魔をしようとするなら話は別だ。一息に葬ってやろう」
「僕たちは死なない!」
 クロードたちは一斉に飛び出した。

 モニターに映る外の様子を見ながら、ミラージュは言った。
「しかしまあ、あんたもよっぽど信頼されているのかね」
「さあな。あの場はなにも無かったが、ひょっとすると今ごろは暴動でも起きているかもしれん」
 ナールは別のモニターを覗き込んだ。深海探査紋章生物ヘラッシュは、現在海底五百メートルの地点を航行している。深海ではないが、とりあえず十賢者たちのシールドを躱すには充分すぎる深度だ。
 ライトに照らし出された海の生き物たちが自由気ままに泳いでいるのを見て、ナールは少しばかり罪悪感を抱いた。ネーデ人はともかく、他の動物たちには何の罪もない。それでもやはり破壊せざるを得ないことが、彼の心を苦しめる。
「クロードたちはうまくやってるかねぇ……」
 ミラージュの言葉に、ネーデ防衛隊員の声が重なった。
「間もなくフィーナルに到着します」
 ナールはモニターから目を逸らし、深い溜息をついた。心もち姿勢を正して、傍らに置かれた箱に手をかける。一辺が五十センチ程度のその箱の中には、全宇宙にとって、極めて重要なものがしまわれているのだった。
「いよいよだな」
 わずかな乗組員たちと視線を交わしながら、ナールは心の中で祈った。どうか間に合ってくれ、と。

14

「天に輝く十字星座よ」
 ガブリエルの声に呼応するかのようにして五つの星が強く輝いて十字を成し、掲げられた片手の上で静止した。
「サザンクロス」
 それを、投げつける。星々は連結を解いてクロードたちの間を縫うように飛び回った。
「気をつけろ!」
 星々はやがて光を増すと、床──そう、そこには見えない床が存在していたのだ──にぶつかった。激しい爆風が起きてクロードたちは吹き飛ばされた。
「スターフレア」
 最初の攻撃の効果が終わらないうちにガブリエルは次の呪紋を唱えた。天頂に太陽のように大きな星が輝いて、そこから光の塊が降り注ぐ。それは高熱をもって体を焼いた。
「フェアリーライト!」
 レナがすかさず回復呪紋を唱える。
 クロードは起きあがって剣を握り締めた。考えている余裕はない。クロードは駆けた。
 ガブリエルは呟くように唱えた。
「ノア」
 突然横から大波が押し寄せてクロードを飲み込んだ。レオンが氷の呪紋で流れを堰き止めた。
 アシュトンが踊り出た。
「リーフスラッシュ!」
 アシュトンは吹き上がる風とともに姿を消して、ガブリエルの背後に現れた。だがその瞬間、アシュトンは体の中で何かが爆発するような衝撃を受けた。光が、体の内から漏れ出す。
「我に歯向かう者は消え去るがいい」
 ガブリエルは振り返り、倒れこむアシュトンの背中に火を放った。その火はたちまち巨大な火球となってアシュトンを包む。
「うわあぁぁぁっ!」
「ノア!!」
 レオンの起こした洪水はガブリエルの炎の前に、次々と蒸発していった。火の勢いは衰えず、激しさを増す。
「そんな……」
 及び腰になったレオンを、ガブリエルはいきなり殴りつけた。十メートルは離れていたのにもかかわらず一瞬のできごとだった。レオンの体は宙を舞い、さらに十メートル後方へ飛ばされて動かなくなった。チサトとプリシスは、目前に現れた敵を捉えようとした。
「愚かな」
 ガブリエルの体を取り巻くようにして臙脂色の光の輪が生じ、それは拡大して鋭い刃のようにチサトたちを襲った。チサトは脇腹に深い傷を負い、無人君二号の足が一本もげた。
 ガブリエルの攻撃は止まない。
「サザンクロス」
 再び五つの星が十字となって降り注いだ。直撃を喰らい、爆風に翻弄されて、クロードたちは見えない床の上を転がった。
「聴くがいい、終末の音色を」
 一人だけ立ち尽くすガブリエルが片手を上げると、そこを中心にして大気が回転し始めた。ガブリエル自身に流れ込むかのようにして渦が出来上がり、空気が圧縮される。摩擦熱が起きて随所で爆発が生じ、光が瞬き、轟音が響き渡る。
 ガブリエルは手を振り下ろした。集めていた空気が逆流して噴出する。急激に温度が低下して氷解が生まれ、倒れている者たちの体に突き刺さった。
 誰も、立ち上がらなかった。
「終焉の時……」
 ガブリエルは崩壊紋章に向かって両手を掲げた。緑色に輝く球体と、それを取り囲む無数の石版。ガブリエルは、それに紋章力を注入した。球体が心臓の鼓動のように明滅し、石版がその表面を激しく動き回る。
「いま、全てが終わる……」

15

 レナは、見知らぬ場所に立っていた。いや、全く知らないというわけではなかった。以前に来たことがある。だが、その時はほとんど廃墟同然で雑草だらけだった。……紋章兵器研究所。
 とにかく移動してみようと思って、レナはその場を動こうとした。だが、どうも思うように体が動かなかった。不思議に思って自分の手足を見ると、本来あるべきものよりもはるかに短くて小さかった。おまけに、着ているものまで違う。どうやら自分はベッドの上にいるらしかった。
『じゃあ、また後で連絡してちょうだい』
『分かりました』
 声がするのとドアが開くのが同時だった。赤い髪を後ろでまとめた女性が、入ってくる。その顔には見覚えがあった。信じられない気がして、レナはどうしていいのか分からなくなった。
『いい子にしてた?』
 女性は優しくレナを抱き上げた。少しひんやりした手と温かい胸。その奥から聞こえてくる鼓動にレナはひどく懐かしい感じを覚えて、不思議と安心した。
『ごめんね、いつも一緒にいてあげられなくて』
 ほっそりとした手が髪を撫でた。
『本当は一日中一緒にいてあげたいけれど……。でも、この研究が終わったら、少しお休みが取れるの。だからもう少しだけ、我慢していてね……。レナ』
 何か言おうとして顔を上げたとき、けたたましい音が部屋中に鳴り響いた。レナを抱く手に力が籠り、彼女は女性の胸に押し付けられた。何か硬い物が頬に当たって痛い。見ると、きれいな緑色に輝くペンダントだった。
 再びドアが開いて男性が駆け込んでくる。
『博士、大変です! 装置が……!』
 レナはベッドに寝かせられ、女性は出ていった。レナは、息を呑んだ。もしかして、これは、あの日の記憶なんだろうか。だとしたらやっぱりあの人は。
 しばらくと経たないうちに先刻の男性がやってきて、切羽詰った表情でレナを抱き上げた。その手つきは慣れたもので、しかもレナはそれが不快ではなかった。ひょっとすると、ものすごく親しい人だったのかもしれない。レナは、急に悲しくなった。
 どこかの部屋の前で下ろされると同時に、ドアが開く。中は白い煙でいっぱいだった。無意識に体が動いて部屋の中に入る。
「ママ、ママ……」
 口が勝手に動いた。
『どうしたの、レナ? 大丈夫よ、ママが助けてあげるからね』
 優しい口調で話し掛け、女性はレナの髪を撫でた。
『ですが、所長。現在研究中のものは生物を入れるようには作られていません』
『でも、このままではこの子は確実に死んでしまうわ。だったら可能性に賭けてみたいの。大人は入れないし』
『分かりました』
 男性は部屋の奥へと消えていった。レナは女性に、いや自分の母親に向かって必死に声を出そうとした。しかしどうしても口を動かすことができない。母親は、ゆっくりとレナを抱きしめた。
『ごめんね、もっと一緒にいてあげたかったのに、ごめんね……』
 その声は震えていた。強く抱きしめて鼻をすすってからレナを離し、彼女は自分のペンダントを外してレナの首にかけた。
『ママからの少し早い誕生日プレゼントよ。本当ならもっときれいな宝石をあげたかったわ、もっと大きくなってから……』
 研究所の振動はますます激しくなり、配管から漏れ出す煙が視界を悪くしていった。
『レナ、レナ……』
 レナはもう一度母親の腕に抱かれた。温かくて、懐かしくて、それでも、どういうわけか悲しくなかった。首から下がるペンダントが、強く輝いた。
 瞬間、全ての音と光が消え去った。ただ、ペンダントの光だけがレナに語り掛けるようにして輝いていた。レナは、それをしっかりと抱きしめた。

 ──「フェアリーライト」。

 ガブリエルは、何かの力を感じてゆっくりと振り返った。回復の守護天使が、八人の人間の上に降臨していた。

16

 セリーヌが見たのは、父の姿だった。村人全員が総出で広場に集まっている。みんな、かなり深刻そうな顔つきだった。
父が、村人たちに叫んだ。
『長老様のお話の通り、この星を守るには最後の手段をとるしかない。我々の命を賭してでも、紋章術帥の村の誇りにかけて、この星を悪の力から守ろう』
『さあ、皆の衆、エグラスに力を送るのじゃ!』
 長老の声に従い、村人たちは精神を集中して父エグラスへと紋章力を送り始めた。こんな光景はセリーヌの記憶にはなかった。夢を見ているのだろうか?
「お父様、これはどういうことなんですの!?」
 返答は後ろから返ってきた。
「これは、マーズの最期の瞬間だ」
 振り返ると、そこには父がいた。セリーヌは、二人の父を見比べる。一方は何かの呪紋を必死の形相で詠唱し、もう一方は優しく語りかけている。
「お前が見ているのは、死の間際に私が残した思念。我々は、古来より伝わる最強の守護呪紋を発動させようとしていた。結局完成する前に星は崩壊してしまったが」
「守護呪紋……?」
『もっとじゃ! もっと紋章力を!』
 背後では長老が大声で叫んでいた。
「そうだ。この呪紋は莫大な紋章力を必要とするため、使い手がいなかった。だが、今のお前にならできるかもしれん。やってみろ。我々のためでなく、お前と、仲間たちのために」
 エグラスはセリーヌの手を握り締めた。それをぎゅっと握り返し、セリーヌは頷いた。次の瞬間、セリーヌは呪紋を唱えるエグラスの位置にいた。村人たちの力が、彼女に注がれる。
「さあ、いけ!」

 ──「リフレンション・レインフォース」。

 ガブリエルがレナに手をかけようとした瞬間、レナを包むように眩い光が生じた。構わず掴み上げようとすると、腕に電撃が走って手の平が黒くこげた。そしてむっくりと起き上がったレナに、目を見開く。

17

 プリシスは、ちょっと悲しかった。機械をいじっているのはとても楽しいのに、親父以外は誰も理解してくれなかったから。近所のオバさんたちが何を言っても気にしなかったけど、同じ年頃の子たちにまでバカにされるのは悲しかった。でも、いつも強がっていた。いつかきっと機械の時代がきて、その時にはきっと見返してやるんだと思っていた。でも、「今」は寂しかった。
 母親は、随分前に出ていった……らしい。何も記憶がないので詳しいことは知らない。親父も、いちいち話して聞かせようとはしなかった。小さい頃は、母親がいないということに劣等感を抱いていた。周りのみんなにはいるのに、どうして自分だけいないんだろう? それがすごく悔しかった。
 どこかのオバさんが言っていた。親父が機械に夢中になりすぎて、母親は嫌になって出て行ったんだと。それである日、プリシスは親父を責めた。
「あんたも機械も大っ嫌い!」
 油にまみれた顔で、親父は、「そうか」とだけ答えた。プリシスはなんだか自分がすごく無様に思えて、泣きながら部屋に駆け戻った。布団の中で泣いて泣いて、気がついたら朝になっていた。部屋の外に出ると、盆に乗った食事が二つ用意してあった。一つは冷めていて、もう一つは湯気が出ていた。そして、食事のほかに一枚の写真と手紙が添えられていた。
 手紙には大きく下手な字で「すまん」と書いてあった。それから、下のほうに地図が描いてあった。写真のほうには親父と一緒にきれいな女の人が写っていて、その腕の中に赤ちゃんが抱かれていた。女の人と同じ紅茶色の髪。
 プリシスは手紙と写真を持って家を飛び出した。真っ直ぐに、地図の場所へ向かった。リンガの聖地の近くにある森の中。そこに何があるのかは書かれていなかった。夢中で走った。
 森の奥の少し開けたところに、小高い丘があった。必死に駆け上ると、そこには石碑のような物が立っていた。
『我が最愛の妻プリマドーラ、ここに眠る。彼女を天に召した鉄塊を、私は生涯を賭けて研究しよう』
 父親にとって機械がどんなものであるのか、プリシスは知ったのである。空から降って来た鉄の塊をわざわざ調べようとしたその理由も。機械は、家族の一部だったのだ。そして、母親はいつでもどこでも、彼女のそばにいるのだ。

 ──「だよね、親父」。

 レナはガブリエルを殴りつけた。ファルンホープと守護呪紋の威力でガブリエルはダメージを受けて一歩退いた。その体を、片足になった無人君が後ろから羽交い絞めにした。

18

『おい、起きろ』
『寝てる場合か、バカ』
 アシュトンは極めて乱暴に起こされた。だが、目を開けても真っ暗で、誰もいなかった。
「誰?」
『おいおい、誰だ、ときやがった』
『まったくこんなに報われないものだとは思いも寄らなかったな。やっぱりあの姉ちゃんのほうに取り憑いとくんだった』
「……ギョロ? ウルルン?」
 初めて聞く彼らの声に、アシュトンは驚いた。これまでも、鳴き声から意味を汲み取ったり、体の中から感情が伝わったりすることはあったが、生の声を聞くのはこれが初めてだったのだ。
『やっと気付いたぞ』
『とにかく目を覚ませ。早くしないと宇宙が壊されちまう』
「……無理だよ」
 無愛想に答えた。
「あんなやつに勝てるわけないよ。全然攻撃する暇がないんだから」
『あのなあ、そう簡単に諦めるなよ』
『お前はこれで死んでもいいかもしれないが、俺たちはもう少しくらい踏ん張りたいんだ』
「じゃあ、そうすればいいだろ。前に僕を乗っ取ったみたいに」
『そうしたいのはやまやまだがな、生憎とお前がぶっ倒れてる状態じゃあどうしようもないんだよ』
『死にかけの奴を乗っ取ったって、体は死にかけたままだからな』
「そんなこと言って僕を動かそうとしたって無駄だよ。僕は結局ここまでの奴なんだ。ほっといてよ」
『なんだかなぁ。こいつ、ここまで弱気な奴だっけ?』
『さあな、やっぱ、あれだ。さっき火だるまになったのが効いてんじゃないのか』
「僕はもともと弱気だよ。臆病で、ドジで、失敗ばかりで……」
『はぁ~、あの姉ちゃんはこんな男に惚れたのか?』
『今からでも諦めさせたほうがいいかもしれないな』
「なんの話だよ」
『お前に惚れてる女の話だよ』
『それが誰か知りたければ、起きろ』
「ちぇっ、どうせそういう作戦なんじゃないか」
 アシュトンはいじけた。
『分かった分かった。もういいよ』
『あ~あ、みんな続々と起きあがってるのに、お前だけ死んじまったら、姉ちゃんは悲しむだろうなぁ』
『取り憑いている者としては責任を感じるな』
『でも仕方ない。本人が死にたいって言うんだから尊重してやろうや』
『でもなあ、こいつが死んだら俺たちも死ぬんだぜ? こいつに惚れてるのは一人だけだが、俺たちのファンは世界中にいるからな』
『訃報! ギョロとウルルン生還せず! アイドルの悲しい定めだな』
「分かったよ!」
 アシュトンは怒鳴った。これ以上くだらない話を聞かされては落ち着いて眠ることもできない。
「起きればいいんだろ! でも次に倒れたらその時は知らないからね!」
『大丈夫さ。お前は死なない』
『俺たちの言うとおりにしろ。そうすれば絶対に勝てる』
 ギョロとウルルンは、アシュトンの耳元で、ある言葉を囁いた。

 ──「……トライア?」。

「メテオスウォーム!!」
 セリーヌの叫びと共に、遥か星雲の彼方から巨大な隕石が飛来した。ミカエルのときよりもさらに大きな岩の塊だ。プリシスは、捉えたガブリエルを思い切り投げつけてやった。圧倒的な重量とスピードで、ガブリエルは衝突して隕石の中にめり込んだ。

19

 ラクール城の大書庫は、レオンにとって恰好の遊び場だった。もちろん、いろいろな書物を読み漁ることが彼にとっての遊びなのだ。
 その日、レオンは一番上の棚にある本を読んでいた。もっとも目を引いたのは、『失伝魔法ロストマジック』という本だった。なんだか妙に古くて背表紙が取れてしまいそうにボロボロだった。そこには、その名の通り、現在では使われなくなった呪紋が数多く載っていた。しかし、ほとんどはあまり役に立ちそうになかった。火の精霊を呼ぶ呪紋、眠くなる呪紋、楽しい気分になる呪紋。失われた、というよりは単に見捨てられただけのような気もした。それでもパラパラとめくっていくと、一つだけ面白そうな呪紋があった。レオンは繰り返しそのページを読み、原理と効果と使い方を暗記した。その晩、人里離れた海岸で試してみたが、全く使うことが出来なかった。体に紋章を覚えこませたという感覚はあった。ふっと、その紋章の力が自分の中に入ってくるような感覚だ。それなのに、いくら唱えてみても何も起こらなかったのだ。レオンは、それから毎晩のようにその呪紋を試した。
 何日かすると、レオンは両親に呼び出された。失伝魔法を試していることがバレてしまったのである。
『いい? レオン。あの呪紋はね、とても危険なのよ』
『だからこそ使われなくなったんだ』
 レオンは泣いていた。何故かはよく分からない。自分は、力を試してみたくてやっただけなのに、どうして二人とも悲しそうな顔をするんだろう。
『呪紋の力に負けて押しつぶされてしまった人や、町を一つ破壊してしまった人だっているの。だから、あの呪紋は禁止されているのよ』
『使っていることが分かれば、重い罰を受けることになる。私たちは、お前にはそんな目にあって欲しくないんだ』
 そのころはまだ捻くれてなかったから、ただただ両親の言うことを信じて、泣いて、謝った。二人があんな顔をするのを、二度と見たくないと思った。

  ──「でも、いまはそれどころじゃないんだよ、ママ」。

 ガブリエルは立ち上がってきた。肩の関節が外れて、足を引きずりながらも、隕石の落下地点から這い上がってきた。そして、呪紋を唱える。
「スターフレア」
 光と熱の雨も、今度は何の効果もなかった。セリーヌの守護呪紋が光り輝いて身を守る。ガブリエルは、初めて怒りを露にした。拳を握りしめて唸る。
「人間を……、たかが人間を破壊できぬとは……!」
 そして新たな人間が立ちはだかった。二本の剣を片手で掲げ、天に向かって叫ぶ。
「大いなる創造神トライアよ、僕に力を!」
 アシュトンの足元に緻密な紋章が現れ、輝きが彼を包んだ。そして、ギョロとウルルンが体を離れて二本の剣に吸い込まれた。二本の剣が一本の剣になり、青白く輝く。アシュトンは剣を振るった。
「トライエース!!!」
 激しい光とともに刀身から何千もの光の針が飛んで、ガブリエルに突き刺さった。いくつもの小爆発が起きてその度にガブリエルは傷つき体勢を崩した。

20

「なんだ? ここはどこだ!!」
 叫んではみたものの、クロードには覚えがあった。四つの場やフィーナルから撤退した直後の幻と同じだったのだ。
「くそっ! 早く僕を戻してくれ! 早くしないと……」
『早くしないと、なんなの?』
 暗闇の中から淡い光が現れた。幾度も幾度もクロードに語りかけてきた声だ。なぜか懐かしい。
「早くしないと宇宙が壊されてしまう!」
『それは、いけないことなの?』
「当たり前だ!」
『どうして?』
「どうしてって……」
 クロードは即答できなかった。
『宇宙を壊すことが悪いことだから、あなたは戦ってきたの?』
「……違う」
 そうだ。それが本当の理由ではなかった。
『十賢者が憎いから?』
「憎い? ……そうかもしれない」
 確かに、十賢者たちはカルナスを破壊し、ロニキスやカーツマンたちの命を奪った。そのときは、何があっても殺してやろうと思った。その理由を問うならば、憎かったからということになるだろう。
『……でも?』
「でも、それだけじゃない。それだけじゃないんだ……」
 クロードはわけも分からず悩んだ。別の理由があって、口に出して言えないことではないはずなのに、なぜか言うのがためらわれた。言ってしまうと、自分の中の何かが崩れてしまうような気がしたからだ。
 宇宙が壊されれば多くの人が死ぬ。だから、十賢者を倒す。
 父親が殺された。だから、十賢者を倒して仇を討つ。
 それでいいじゃないか。他人はそれ以上の理由を求めようとはしない。それなのに、なぜこの声は最後の理由を言わせようとするのか。
『やっぱり言えないのね』
「……やっぱり?」
『そうよ。あなたは結局外面だけの人間なのよ。本当はもっと大切な理由があるのに、他人を気にして言うことが出きないんだわ』
「そんなことはない!」
『じゃあ、言ってみなさいよ』
 クロードは、深呼吸した。それから目を閉じて、呼吸を整えて、唇を湿らせて、たっぷり一分は経っただろう。口を開いた。
「僕は、……大切な人を守りたいんだ。その人が笑って暮らせるような世界が欲しい」
『大切な人って?』
「……レナだよ。レナを守りたいんだ。レナと一緒にエクスペルに帰りたい!」
 瞬間、淡かった光が眩く輝いて、中から人影が現れた。繊細な金髪の、優しい表情の女性。
『やっと言えたわね、クロード』
「か、母さん!?」
 クロードはたちまち赤面した。
『いいのよ、恥ずかしがらなくたって。本物の私には聞こえていないんだから』
「本物の……?」
『そう。この私は、四つの宝珠が作り出した幻影。でもね、本物の私の願っていることや心配してることが反映されているのよ』
「心配って……、じゃあ、さっきの質問はなんだったんだよ?」
『あなたは、いつも他人の目を気にしてきた。アカデミーでも、カルナスでも。他人の期待を背負って頑張ってきたわ。そして、エクスペルでも』
「エクスペルでも?」
『ええ。あなたは自分の正体をずっと隠していた。言わなきゃいけないと思ってはいたけど、周りからどう思われるかが気になって言えなかったでしょう? そんなふうに、他人の気を悪くしたりそれによって自分が傷つくことを恐れてきたのよ。そして、そのせいで自分を押し込めてきた』
「……そうかも知れない」
 溜め息をつくクロードを、母の幻影は抱き寄せた。
『いい? クロード。これからは自分に正直に生きなさい。人は互いに少しずつ傷付けあって成長していくものよ。そして、そのほうが深い関係を築けるようになるわ。恐れないで』
 クロードは、頷いた。

 ──「うん、分かったよ」。

「なぜだ……。こんな人間のどこにこれだけの力がある?」
 ガブリエルは、ただれた顔で辺りを見渡した。自信に満ちた顔が並んでいる。首が動かないので、ガブリエルは体ごと回していた。そして、一人だけ横たわっている人間を見つけた。金髪の地球人の頭上で、紅い宝珠がくるくると回転している。
「あれか!」
 ガブリエルは全力で飛び出した。立ちはだかるプリシスやアシュトンの攻撃を躱して、四つの宝珠へと手を伸ばす。誰もが間に合わないと感じたとき、空気が震えた。
「エクスティンクション!」
 レオンの声は、ほとんど大気の鳴動にかき消されてしまっていたが、呪紋は確かに発動した。ガブリエルの足元が突然盛り上がって空中に突き上げ、そこに空から隕石群が降り注ぐ。下半身が氷漬けになり上半身は燃え盛り、風の刃が全身を切り刻んだ。ガブリエルは情けないうめき声を上げながら床に落ち、最後に収束された星々の光を浴びた。ばったりとその場に倒れこむ。だが、それで終わりではなかった。
「我は最終破壊兵器……。全てを、破壊する……」
 宝珠まであと一歩と思って手を伸ばしたとき、目の前には地球人が立っていた。
「僕が、お前を破壊する」
 エターナルスフィアがガブリエルの頭をかち割った。体がびくんと跳ね上がり、それきり動かなくなった。

21

「クロード君!!」
 数分して、チサトが駆け上がってきた。背中にはなんとマリアナを背負っている。ガブリエルの遺体を発見すると、すかさずカメラを取り出した。
「やりましたね、みなさん」
 ノエルと一緒に遅れて上がってきた面々を見て、クロードは驚いた。
「ナールさん!?」
「ミラージュさんも! どうしてここに?」
 ナールはにっこりと笑った。ミラージュが答える。
「どうしてもなにも、崩壊紋章を止めるためだよ。決まってるだろう?」
「じゃあ、結界紋章が完成したんですのね」
「ええ、そうです」
 ナールは言いながら、手にしていた金属製の箱を床の上に下ろした。ロックを外して、ゆっくりと蓋を開ける。クロードたちは集まってそれを覗き込んだ。
「あの……、なんだかこれ、崩壊紋章に似てるんですけど」
 大きさを除けば瓜二つといってもよかった。緑色の光球の周りに、紋章が刻まれた小さな石版が回っている。
「まあ、対になる紋章だからな。当然だろう」
 ミラージュが言った。ナールは箱から紋章を取り出した。手に触れてはいない。ナールがさも紋章を掴んむかのような仕草をすると、紋章がナールの手の動きに合わせて箱から出てきたのだ。
「ではレナさん、早速ですがこれを崩壊紋章に重ねてください」
「……重ねるって、どうやるんですか?」
 レナは首を傾げた。
「崩壊紋章の中に入れてやればいいのです。今はこんな大きさしかありませんが、崩壊紋章の力を吸収して同じ大きさにまで拡大します。つまり、重なるというわけです」
「そうなんですか……」
 レナはナールから紋章を受け取った。ふわふわとしていて、危なっかしい。両手で持って、慎重に崩壊紋章の前に歩み出る。そして、そっと押し出すようにして結界紋章を放した。
 結界紋章は崩壊紋章の石版をすり抜けて中に入っていった。途端に、地面が揺れ出す。
「わぁ!?」
「なんだ!?」
「もしかして間に合わなかったとか!?」
 慌てふためく一同を、ナールは鎮めた。
「大丈夫です。これでいいのです」
「あの十賢者たちを倒したっていうのに、情けない連中だね」
 ミラージュの皮肉にクロードは赤面した。
「しかし……」
 ナールの改まった声がクロードの顔を上げさせた。
「これで皆さんとはお別れです。崩壊紋章の力を利用して崩壊前のエクスペルが復活するよう、結界紋章を組んでおきました。ついでに、みなさんをエクスペルへ送るように」
「……そう、ですか。ありがとうございます」
 クロードは握手を求め、ナールはそれに応じた。ナールの手は適度に温かかった。
「それじゃ、記念写真でも撮りましょうか。おじさま、シャッター押してくれる?」
 カメラをナールに手渡し、チサトはマリアナとともにクロードたちと一緒に並んだ。だが、ナールは深刻な顔でカメラに視線を落としたまま動かなかった。
「どうしたのよ。カメラの使い方も知らないの?」
「……そうではない。チサト、お前も一緒に行くんだ」
「はぁ?」
 チサトはナールがからかっているのかと思ったが、その表情は真剣だった。
「ちょっと待ってよ。それって、私を追い出すってこと?」
「いいや。お前を助けるんだ」
「馬鹿なこと言わないで!」
 チサトは叫んだ。マリアナを背負っていなかったら、そのままナールに飛びかかりそうな剣幕だった。
「落ち着きなさいったら」
 セリーヌがチサトを抑えた。チサトは、ゆっくりとマリアナを降ろして息を整えた。
 変わってセリーヌが問うた。
「どういうことなんですの?」
 全員の視線がナールに集まった。
「実は、今までみなさんには黙っていたのですが……、結界紋章をもってしても、崩壊紋章を止めることはできないのです」
「どういうことですか」
 クロードは努めて冷静に尋ねた。
「結界紋章にできるのは、力の矛先を変えること。つまり、Aを破壊せよという命令をBを破壊せよという命令に変えることなのです」
「変えるといっても、なんでもいいわけじゃない。今回もともと破壊する予定なのは宇宙だ。十賢者たちもそれなりの力を持つ紋章を完成させているはず。その力を全て吸収し、他の星々に影響のない場所に力を向けてやる必要がある」
「まさか……」
 チサトの声に、ナールは頷いた。
「そう。このエナジーネーデこそが全宇宙唯一の場所なのです。我々ネーデ人も、星とともに滅びます」
「そんな!」
「ネーデの人たちだって、僕らと同じようにエクスペルでもどこでも転送すればいいんじゃないんですか!?」
 ナールは、落ち着いた態度で微笑んだ。
「残念ですが、それをやるにはちょっとだけエネルギーが足りないのです。それに、もともとは我々ネーデ人の起こしたことですから。我々は長く生き過ぎました。進化を止め、殻に閉じこもり、挙句の果てに今回の惨事。それを阻止するのもあなた方の力に頼ってしまった。そんな種族は滅ぶのがいいのです。もう三十七億年前に滅んでいるはずの種なのですから」
 ナールの声からは、虚偽や誇張を言っているようには感じられなかった。このまま黙って好きなようにさせて欲しいと言っているようにも聞こえた。死に際してこんなに冷静な人を、クロードは見たことがなかった。
「じゃあ、私も残るわ。私だってネーデ人だもの」
 チサトは主張した。ミラージュは腕を組んでにやりと笑った。
「悪いが、あんたを転送することはもう結界紋章に刻まれているんだよ。ノエル先生も含めてね。今さら変えることはできない」
「だが、二人は新しいネーデ人になる可能性を秘めている。四つの場を攻略し、十賢者とも戦った。これまでのネーデ人とは違うなにかを持っていると思うのだ」
「そんな適当な理由で私を置いていかないでよっ!」
 すがりつくチサトの頭を、ナールは優しく撫でてやった。
「すまん……。だが、お前たちが我々の最後の希望であることを忘れないでくれ。我々は過去に大きな過ちを犯したが、それはネーデ人の本質ではないのだということを、外の世界で証明して欲しい」
 鼻をすすり、震えながら、チサトはナールを強く抱きしめた。そして、床に座り込むマリアナにもむせびながら抱きついた。
「どうも色気のない場所だが、あまり時間もなさそうだしな。これをやる」
 彼女の冷静さは父親譲りだろうか。マリアナは自分の指輪を外してチサトに握らせた。それは、ネーデ防衛隊長に代々伝わるものだった。チサトは急いでそれをはめて、マリアナに見せようとした。だが、慌てていたのではめる指を間違えた。
「それは結婚指輪をはめる指だろうが」
 チサトは額を小突かれ、周囲から控えめな笑いが起こった。
「さあ、いよいよ時間です。みなさん、本当にありがとうございました」
 ノエルと握手を交わし、ナールは頭を垂れた。揺れが激しくなって、声が聞き取りづらくなる。
「どうかお元気で。私たちはいつでもみなさんを見守っています」
 目の前が、段々と白くなっていった。クロードは、レナの手を探し求めた。