■ 少年探偵レオン

note 1.出題編 / 解決編note 2.出題編 / 解決編note 3.出題編 / 解決編note 4.出題編 / 解決編
note 5.出題編 / 解決編note 6.出題編 / 解決編note 7.出題編 / 解決編note 8.出題編 / 解決編
note 9.出題編 / 解決編特別篇出題編 / 解決編

note 2. 潮風のトンバ [出題編]

 潮の香りを運ぶ風が路地裏までも吹き抜ける街、ハーリー。空には、ぽつんぽつんと真っ白な綿雲が浮かんで、のんびり流れている。その下に広がる青い海には、いくつもの船が帆を膨らませ、あるものは港を離れ、あるものは港に向かっていく。港という母の懐。それが、船という男たちの出発点であり、また還るべき場所なのだ。
 いつからか、この地に一匹の猫が住みついていた。猫、といっても、そのからだは普通のとは比べようもなく、大きい。丸まって寝ているときの大きさが、ちょうど親バーニィくらいか。柔らかくふかふかした毛並みで、黒と銀に近いグレーの縞をしていた。
 このときは、海が一望できる丘の一本木の下で、そよ風を受けながら芝に寝そべっていた。気持ちよく微睡まどろみたいのに、さっきから丈の長い草の先が風に揺られて鼻をくすぐる。ふんふんと鼻息をたてて草を吹き飛ばそうとするが、何度吹いてもしなやかな草はすぐに戻ってきて、鼻をむずがゆくする。ついには草が鼻の奥まで入りこんで、喉の奥からこみ上げるような豪快なくしゃみをした。同じ丘で遊んでいた子供たちが驚いてこちらを見る。
 それで目が覚めてしまった大猫は、のっそりと起きあがって伸びををする。それから、金色の瞳で見慣れた海を見下ろす。
 穏やかな、港の風景だった。

「この街も久しぶりね」
 深呼吸して、潮の香りを胸いっぱいに吸いこんでから、レナが言った。
「風の匂いも、街並みもぜんぜん変わってない。ぜんぶ昔のまま」
「港町ってのは、なんだかやけにのんびりしてていいね。ここだけ時間の流れが違うみたいに」
 店の軒の壁によりかかりながら、クロードが言った。
 その店の扉が開いて、中からプリシスとボーマンが出てきた。
「いや~。あっきまへんわ~」
 プリシスは変な言葉遣いをして、首を振った。
「今日出航の船は、あと四人しか乗れないんだとさ。乗船所の頑固ジジイが、ひとりぐらい負けてくれって言っても聞きゃしない」
 ボーマンは肩をすくめて、それから白衣のポケットから煙草を取りだして火をつけた。
「だれかさんをペットだって言い張って強引に乗るっていう手もあったんだけどね」
「誰がペットだ! 誰がっ!」
 チラチラとこちらを見るプリシスに、レオンは顔を真っ赤にして怒った。
 と、そのレオンの背後から、ぬっと大きな影が伸びた。急に日陰になったことが不思議で、振り返ってみると、目の前に、自分の背丈ぐらいもある大きな猫の顔があった。驚きのあまり、後ずさりしようとして尻餅をつく。
「なっ、なななな、なんだおまえ!」
 大猫は冷や汗を浮かべてわめくレオンにもお構いなく、鼻をすり寄せてからだの匂いをかいでいたが、やがてぷいと顔を背けると、そのまま何事もなかったように彼らの横を通りすぎていく。
「大丈夫か、レオン」
 クロードが手をさしのべるが、照れ隠しなのか、レオンはふてくされた表情のまま、自分で起きあがった。
「でっけー猫だなぁ……」
 ボーマンは唖然として、口にくわえていた煙草をこぼしてしまった。
「どうしてレオンにだけ近づいてきたのかしら」
 レナが首を傾げると、プリシスが自分の頭を指さして意地悪く笑いだす。
「仲間だと思ったんでしょ。ほら、耳が」
「だから、そういうふうにボクを見るなっ!」
 ますますむきになるレオン。完全にからかわれている。
 一方の大猫は、もはや彼らに目も向けることもなく、悠々と埠頭のあたりを歩いている。その横を通りがかった船員風の男が「よう、トンバ」と、まるで人間の友人にするような挨拶をしたので、それを見ていたクロードとレナはそろって目を丸くした。
「トンバっていうのか……」
「なんだかずいぶん慣れてるみたいね。ずっとこの街にいるのかしら」
 と、ふたりは猫から目を離して、背後を振り返る。猫のようにじゃれあってる子供が、ふたり。ボーマンはもはや呆れかえって、そっぽを向いている。
「へんっ、あんたみたいなリクツとかケーサンばっかやってる連中はね、頭ガッチガチでろくでもない奴しかいないんだから。相手にしてらんないね」
「ボクは頭ガッチガチなんかじゃないっ!」
「じゃ、もんだーい。これに答えれたらあんたのこと認めたげる」
 と、プリシスはリュックの中から一本の短い紐を取りだした。掌に載せて、レオンによく見せる。
「この紐の、先っちょから先っちょまで、何センチあると思う? ちゃあんと正確に答えてよ」
「そっ、そんなの、測るものがないとわからないじゃないか!」
「ほーら。そんなんだから頭固いっていうんさ。よく見てな」
 プリシスは両手で紐の両端をつまんで、それから互いの先端を繋いで輪をつくった。
「こうして先っちょをくっつけて、輪っかにしちゃえば0センチでしょ。だれも紐の長さを答えろとは言ってないんだから」
「そ、そんなの、ずるいぞ!」
「ずるくないもんね~。あんたの負け」
「はいはいはいはい。とんち合戦はそこまでにして」
 クロードが手を叩いてふたりの小競り合いを中断させる。そしてみんなに向かって。
「とにかく、今日の出発は諦めよう。宿に泊まって、明日また出直すことにする」
「そうね」
「じゃ、とりあえず、腹ごしらえといくか」
 ボーマンが親指で示した先には、木造の瀟洒な店があった。

 丸いテーブルの席に、クロード、レナ、プリシス、それにレオンが腰掛けた。椅子が足りなくて、ひとり机から外れたボーマンはカウンター席に座った。
「ご注文は」
「スパゲッティー! ソースはカルボナーラでっ」
「えーと、シーフードドリア、お願いします」
「チキンの香草包み焼き。あとパンもつけて」
「生ハムのサラダ。ドレッシングはバルサミコでいいよ」
 最後にレオンが言うと、他の三人が彼のほうを見た。
「レオン、それだけでいいの?」
「肉とか嫌いなんだよ。それにあんまりおなかも減ってないし」
「でも、それだけじゃ……」
「いーんだよ、レナ。そんなに心配しなくても。構ってほしくて意地張ってるだけなんだから、こいつ」
 プリシスが涼しい顔で言うと、レオンはむっとして。
「どういう意味だよ。意地張ってるって」
「そーやっていちいち、ひとにつっかかってくるところが意地っ張りって言ってるんさ。まったく。オコサマにはつきあってらんないね~」
 また始まった。と、クロードとレナは睨み合う二匹の猫をため息まじりに眺めた。
「おまえら、そのへんでやめとけや」
 そこへ、ジョッキ片手のボーマンが割りこんできた。
「おまえらの仲がいいのはじゅうぅぶんにわかったから、それ以上見せつけんなや。妬けちまう」
「『仲がいい』?」
 そのときに限ってふたりは口を揃え、そして顔を見合わせて、またぷいと背けた。
「だぁれがこんなガキと」
「ボクだってお断りだねっ」
「ま、たしかにね」
 と、クロードが笑いを堪えるように口許を緩ませながら言う。
「嫌いだったらプリシスも気にかけたりしないはずだし、レオンだって相手にしないだろう」
「そうね。それに、けっこうお似合いだと思うな」
「……レナ。それ、あたしに対する侮辱だよ」
「あら、そう?」
「ふん。なにさ。みんなしてあたしのこと子供扱いするんだから」
 ふてくされたまま、プリシスは席を立った。
「どこ行くんだよ」
「レディーは気分を損ねたから、そのへん散歩してくるのっ!」
 そう言って、すぐに二、三歩歩きかけたが、途中で思いだしたように振り返って。
「カルボナーラは残しといてよっ。あとで戻って食べるんだから」
 そして、大股で店を出ていってしまった。彼女の座っていた椅子には、愛用のリュックがそのまま置いてあった。
「悪いこと言っちゃったかしら」
 レナはそのリュックに目をやりながら、申し訳なさそうに言った。
「いや、あれでいいだろ。難しい年頃なんだよ。まだムネもケツも小せぇくせして、いっちょまえの女のフリしてやがんだから」
「ボーマンさん、それは下品です」
「下品ですね」
「下品だよ」
 レオンにまで言われてしまい、ほろ酔いのボーマンはその場から逃れるようにしてカウンターに戻っていった。
 そのとき、彼らの背後のテーブルで、誰かが席を立った。そして、プリシスの後を追うようにして店を出ていく影があったことを、その場の誰もが気にとめることはなかった。

 石畳の広場を、プリシスは早足で一気に抜けた。大きな屋敷が見下ろす丘のあたりでは、子供たちが木の下に集まって遊んでいた。が、なにか様子がおかしい。
 近づいてみると、子供たちはあの大猫を取り囲んでいた。それぞれに木の棒きれを持って、背中といわず頭といわずつついている。大猫はまるで相手にする素振りもなく、ただそこに寝そべって、丘から臨める海を眺めている。
「へっ。こいつ、全然動かねぇでやんの」
 さらに近づくと、子供たちの声も聞こえてきた。
「おい、なんとか言ってみろよ。のろまの腰抜け猫」
「臆病トンバ。臆猫トンバ」
「トンバじゃなくて、トンマだな」
 やかましくわめきたてる子供たちに、さすがに鬱陶しく思ったのか、大猫トンバは急に顔をこちらに向けて、んぎゃおと威嚇するように鳴いた。子供たちは飛び上がって、蜘蛛の子を散らすようにして逃げ回った。
「わっ、怒ったぞ!」
「凶暴猫だ! 凶暴トンバだ!」
 棒きれを投げ出して大猫から離れる子供たち。そこへ、入れ替わるようにしてプリシスが近づいていく。
「おい、なんだおまえ!」
「近づくな。そいつは凶暴だぞ!」
「凶暴?」
 プリシスは振り返って、冷たい視線で子供たちを見た。
「それはあんたたちのことでしょうが」
 呆気にとられる子供たちの視線を背に受けながら、プリシスは大猫の正面に立った。
「こにちは」
 プリシスがにこっと笑って挨拶する。大猫はまだ威嚇後の興奮がさめやらぬ様子で、じっとこちらを睨んで警戒している。
「おまえ、トンバっていうんだねぇ。誰が名づけたの?」
 あからさまに無防備な態度で話しかけるプリシスに、トンバは首を伸ばして、用心深く彼女の匂いを嗅いだ。その間、プリシスは両手を後ろに組んで、一歩も動かずにされるがままになっていた。やがて、敵意はないと感じたのか、トンバは首を引っ込め、またもとのように顎を草にうずめて、丘の向こうの海を眺めはじめる。
「ここがおまえのお気に入りなの? 素敵な場所だね。眺めもいいし、風も気持ちいいし。……どっこらしょっと」
 言いながら、プリシスもそばの草地に腰をおろす。トンバは横目で彼女をチラッと見たが、興味なさそうにすぐに視線を戻す。足を投げ出して、大猫と並んで海を眺めるプリシス。子供たちは、もうどこかへ行ってしまったらしい。
「おまえ、いつもこうやって海を見てるの? 海が好きなの?」
 プリシスが質問するたびに耳を敏感そうに動かしているからには、おそらく聞こえているのだろうが、トンバはまるで相手にしないで、ひたすら海を眺めている。それでもプリシスは、しつこく話し続けた。
「あたしも海、好きだよ。なんかこう、ダーッと広いのに、ドーッて迫力あるじゃない?」
 両手を大きく広げて「ダーッ」の広さを表現するプリシスに、トンバは少し面食らったようにプリシスを見た。
「なんていうのかな。こんだけでかくてさ、すっごいもの見ちゃうと、じぶんがアリンコみたく小さくなっちゃって、いまにも消えちゃうんじゃないかって、そんな気がするんだ。でも、あたしはずっとここにいる。ぜったいに消えたりなんかしない。こんなでっかいものを見てると、生きることって、すっごくちっぽけなことなんじゃないかって思えてくるわけよ。こんなちっぽけなあたしのちっぽけな悩みなんか、どーでもいいんじゃないかってね。そんで、いつもスカッとするんだ」
 そこまで元気にしゃべっていたが、ひととおり話し終わると急にその元気が空回りしたように、両手を膝の上に落とし、大きく息をついて、うつむいてしまう。
 トンバは何ともなしにプリシスを見つめていたが、しばらくして、んにゃおと、低い声で鳴いて返事をした。その声は、プリシスの胸のひどく奥までしみこんだ。握りしめた拳がぼやける。どうしてこんなときに涙があふれてくるんだろう。
 その大きな瞳から涙がこぼれ落ちる前に、プリシスは大猫のふさふさした毛並みに顔をうずめた。トンバは相変わらず海を眺めていた。ふたりとも、まったく動かなかった。その間、潮風ばかりが木を揺らし、草をなびかせ、黒い毛と茶色のポニーテールを翻していった。
 そのうちにプリシスは顔の向きを変え、顔の左半分だけを大猫の毛にうずめ、もう半分で海を眺めてみた。トンバが見ているのは、あの海なのだろうか。それとも、あの海の向こうなのだろうか。
「ねえ、トンバは、海の向こうに行ったことある?」
 にゃお、とトンバが答えた。
「あたし、何度も行ったことあるんだよ。海のずうっと向こうにはね、ここと同じようなおかがあって、いくつかの街があって、たくさんの人が暮らしてるんだ」
 その大きなからだに囁きかけるように、プリシスは海の向こうの大陸のことを、自分の住んでいる街のことを語った。大猫も、目を半ば閉じて、心地よさそうに話を聞いているようだった。
 初夏の日射しは丘の緑を明るく照らしだす。木陰のふたりは、あべこべのスポットライトの下で、まどろみのうちに濃い青の海を見やっていた。
「そうだ!」
 と、プリシスがいきなり声をあげて立ち上がった。驚いて、閉じかけていた目を丸くするトンバ。
「おまえ、船に乗りたくない? こんな遠くから眺めるよりも、ずっとずうっとでっかい海を見ることができるんだよ。……ほら、あの船。あれにこっそり乗ってさ……」
 プリシスは港の隅に打ち上げられて放置されたままになっている艀を指さしたが、途中でその提案が無理なことに気づいて、肩を落とす。
「……ダメか。おまえ、重そうだもんね。あんなちっこい船じゃ、沈んじゃうな」
 また、その場に座りこんで、空を仰ぐプリシス。
「あ~あ。どっかにお前を乗せてくれるような船があればなぁ……」
 そのとき、人の気配を感じて、プリシスは振り返った。膝丈まで伸びている草を踏み分けて、知らない男が近づいてきていた。
「こんにちは」
 男は快活そうな声で挨拶してきたが、どことなくわざとらしい。背は高くもなく低くもなく、ひょろひょろと日陰で育った低木のような体つきをしていた。頭には青いバンダナを巻いている。肌は小麦色に日焼けしており、顔立ちも見方によっては精悍にも見えるが、目許のあたりの筋肉を神経質そうにぴくぴくと動かしていて、いくらか挙動不審のようにも感じた。
「なんか用、おっさん?」
 プリシスはぶしつけに男に訊ねた。男はやや気味の悪いしなを作って、ぎこちなく笑いかける。
「君たち、船に乗りたいって言ってたよね?」
 怪訝な顔をするプリシスに、男は構わず続ける。
「もしよかったら、乗せてあげてもいいよ。もちろんその、大きなお友達もいっしょに」
「ほんとに?」
 プリシスは立ち上がった。
「ああ。こう見えても僕は客船の船長なんだ。今は明日の出航に向けて待機中だから、船はあいてる。そのへんの海を遊覧するぐらいなら問題ないさ」
「船長~?」
 彼女は疑わしげに、じろじろと船長の姿を見る。
「あんたどうみても、海の男ってガラじゃないよ。仕事にあぶれて、しょうがなくごろつきの仲間になった下っ端って感じだね」
「ぐ……」
 まだ若く、貫禄というものがまるでない「自称」船長は、反論できずに言葉を呑みこんだ。
「そ、そんなこと言わないでくれよ……。ほ、ほら、あの船。あれが僕の船さ」
 慌てて指さした先には、たくさんの船が停泊している港があった。だが、どの船を指して言っているのかはわからない。
「新手のナンパじゃないだろうね?」
「違うってば……」
 船長はもはや涙目になっている。本当に船長かどうかは別として、とりあえず悪いことをしでかすようなタイプではなさそうだ。
「じゃ、案内してよ」
「え?」
「あたしたちを乗せてくれるんでしょ。あんたの船に連れてってよ」
「も、もちろん!」
 船長は拳で自分の胸を叩いて、それから噎せた。そんな彼を無視して、プリシスはトンバに向かって言う。
「ね、船に乗せてくれるんだってさ。行こうよ」
 だがトンバは興味なさそうに、大あくびをして顔を横に背けてしまった。ムッとするプリシス。そうして次には、あろうことか彼の立派なヒゲをつかんで引っぱりだした。
「ほら、行こうってば! こんなチャンス、めったにないんだから!」
 さすがの大猫トンバも、これにはたまらず飛び上がった。なんとか彼女の手からヒゲを解き放ちたいが、無理に頭を振ると余計に痛い。仕方なく、ずるずるとプリシスの引っぱるほうへと歩いていく。
「じゃ、出発しんこー」
 ようやくヒゲを放したプリシスは、拳を振り上げて船長とともにはつらつと歩いていった。トンバも迷惑顔ながら後をついていく。
 カルボナーラのことは、すっかり忘れていた。

 二時間近く、店で待っていたが、プリシスは戻ってこなかった。四人は諦めて、彼女のぶんも含めて勘定を済ませ、店を出た。
「どうしたんだろうな、プリシス」
 クロードが首を捻った。腕には彼女のものであるリュックを抱えている。
「なにかあったんじゃないかしら……。この街って、あんまり安全とはいえないし……」
 心配そうなレナに、ボーマンは赤ら顔で呑気に笑っている。
「大丈夫だって。あいつに限って滅多なことはないさ。そこらのごろつきじゃ、あいつの相手にもならんだろう」
「武器があればね」
 レオンの視線はリュックに向けられている。そう、武器を含めた彼女の荷物は、すべてあの中に入っているのだ。
「とにかく、手分けして捜してみよう」
 クロードがそう言って、四人は街の方々へと散っていった。

「ちょっと、これはどーゆう冗談だよっ!」
 甲板の上で、プリシスは数人の男に囲まれていた。いずれも船員風の身なりのものたちで、そのうちふたりが彼女の背後から腕をつかんで羽交い締めにしていた。その輪から外れたところに立っているトンバは、厳しい目つきでこの状況を静観している。
 男たちの中から、あのひょろひょろした船長が進み出て、彼女の前に立った。
「お嬢さん、おとなしくしておいたほうがいいよ」
 船長は優しい微笑を浮かべて言った。だが、どこかしらその表情は冷たかった。
「ここはまだ沖ってほどじゃないが、それでも街からはほら(と、港のほうを指さして)、あんなに離れてる。ここから海に突き落とされれば、よほど体力に自信のある奴でなければ、助かる見込みはゼロに等しい。わかるかい?」
 船長が手ぶりで指示すると、プリシスを捕らえていた船員は、彼女を船縁まで連れていき、海面を覗かせるようにして、そこに押しつけた。腰から上が船縁を乗り越えて、足が床から離れる。目の前に波打って揺れる海面が広がり、プリシスの顔がさあっと青くなる。この場の誰も知らないことだったが、彼女は泳げないのだ。
 船員はすぐにプリシスを降ろし、ふたたび船長の前に連れてきた。船長は別の船員から渡された手紙を熱心に読んでいたが、しばらくしてそれを、懐から取り出した焦茶色の筒に収めた。そして、プリシスの顔を嘗め回すように眺めて、細い腕で彼女の頭をなでる。
「なあに、心配することはない。君は売り物だから、そう簡単に海に放り出したりはしない。ただし、生かすも殺すも僕の裁量ひとつだということを忘れないように」
 ウリモノ? その言葉で、青ざめていたプリシスの顔に血の気が戻り、そしてみるみる赤くなった。このまま、言いなりになってたまるか。
「……おっさん」
「ん?」
「ていっ!」
 不意に、プリシスは船長の股間を思いきり蹴り上げた。声ならぬ声をあげてうずくまる船長。手紙の入った筒が、乾いた音をたてて甲板に転がった。
「ぼ、ぼっちゃん! ……あっ!」
 動揺した船員が力を緩めた隙に、プリシスはその手を振りほどき、足元に転がってきた筒を拾うと、舳先に向かって駆けだした。
「ばっ、馬鹿野郎! とっとと捕まえんか!」
 甲板の上で悶えながら、船長が怒鳴りつけた。慌てて船員がプリシスを追いかける。すばしっこさには定評のある彼女だが、狭い船の甲板ではその唯一ともいえる武器もあまり意味を為さない。てもなく捕まえられ、前のめりに倒れこんだところをさらに数人の船員が押さえつける。
「あっ!」
 プリシスの悲鳴に呼応して、突如トンバが猛然と動き出した。うずくまる船長の背中を踏み台にして、高々と跳躍する。
「トンバ!」
 プリシスは力を振り絞って、抱えていた筒をトンバに向かって投げつけた。トンバは空中でそれをくわえて受け取り、猫回転をして船首楼に着地した。巨体が降りたったせいで、船は大波にぶつかったときのように大きく揺らいだ。
 トンバはプリシスを見た。プリシスは迷うことなく、港のほうを示して言った。
「あたしのことはいいから、はやく行って! みんなに知らせて!」
 了解したとばかりに、トンバのからだが躍り上がり、船縁を越えて海面へと飛びこんだ。盛大に飛沫が舞いあがる。トンバは筒をくわえたまま、慣れない水中を必死に掻いて前に進む。
「なにボサッとしてやがる! 逃がすな!」
 ようやく身体を起こした船長が近くにいた船員をどやしつけた。船員は腰からナイフを取りだし、船縁から泳いでいるトンバに向かって投げつけた。ナイフは大猫の背中に突き刺さったが、トンバはまったく動じることもなく泳ぎ続け、やがてナイフも届かないぐらい遠くへ行ってしまった。
「ちっ、逃がしたか。まあいい。書状などもう一度書けばすむことだ」
 船長はよろよろと立ち上がって、船縁にもたれかかる。
「しかし、あれが他の奴らに渡ったら、まずいんじゃないすか?」
 ナイフを投げた船員が訊くと、船長は白い歯をみせてニッと笑った。
「心配するな。あれを読まれたからと言って、この船が割れることはない。それに、化け猫ごときにそんな真似ができるものか」
 そこまで言うと、船長はまた顔をしかめて、背中の腰のあたりを船員に叩かせる。
「ぼっちゃん、その、おからだのほうは大丈夫なんですか?」
「……片方、潰れたかもしんねぇ」
 手で服の中を探って、それを確かめる船長。それから、押さえつけられたままのプリシスの前に立つ。
「まったく、可愛い顔して、とんでもないガキだ。この借りは後でじっくりと返してもらうからな」
 連れていけ、と船長が言うと、船員は腕を引っ張って彼女を起こし、船室の扉へ向かった。プリシスも激しく抵抗したが、男数人に力任せにねじ伏せられては、なすすべもない。最後には諦めて、船員たちに囲まれるようにして船室へと消えていった。トンバが無事に港に着くことを、願って。

 夕日も西の山に隠れようとしている頃、四人はふたたび港の埠頭に集まった。
「どう、そっちは?」
「だめ。どこにもいないわ」
「もうすぐ日も暮れるってのに、なにやってんだよ、まったく」
「ちょいとタダ事じゃなくなってきたかもな」
 埠頭に立ちつくし、途方に暮れていると、ふと、レナは海の一点になにかを見つけた。
「ねえ、あれ……」
 クロードたちもそれに気づいた。夕暮れの暗い海から、この港に向かってなにかが近づいてきている。黒い、大きななにかが。
「もしかして……」
 レナはなにかに感づいたように駆けだした。クロードたちも、波間に浮かぶ黒い「なにか」の中に、二つの金色の光を見つけて、それが昼間の大猫であることがわかった。
 トンバは足のつくところまで泳ぎきると、そこからは引きずるようにして歩いていった。四人が待つ砂浜までたどり着くと、力尽きたように倒れこむ。
「いったい、どうしたの?」
「なんだって、猫がぐでんぐでんになるまで泳いでたんだ?」
「おい、これ……」
 クロードは大猫の背中にナイフが突き刺さっているのを見つけた。傷口からは血が流れ、縞模様の毛並みに赤黒い筋が走っている。
「痛そう……」
「おまえ、いったいどこから泳いできたんだ?」
 クロードが訊いても、トンバは力なく、にゃう、と呻くように鳴くばかり。
 ナイフを抜いて、レナが治療をしているとき、レオンは猫の顎の下に細長い筒が落ちているのを見つけた。木に革を張りつけたその筒には、しっかりと歯形がついていた。どうやらこの猫が口にくわえて運んできたらしい。
 レオンは猫の正面にかがんで、筒を拾うとすぐに中を開けてみた。しっかりと蓋がしてあったおかげで海水は入りこんでおらず、中の手紙は無事だった。紙は全部で二枚。一枚は訳のわからない詩か格言のようなものがつらつらと書かれている。そして、もう一枚は。

     敬愛するザンド殿へ
  予定のノルマを達成しましたので、ここにご報告します。
  取引はいつもの場所、いつもの時刻で。
  なお、船の名前はくれぐれもお間違いなきよう、よくご確認ください。

     追伸
  予定とは別のしろものがありますが、それについては
  その場でご相談したいと思います。
  簡単に特徴だけ説明しておきますと、背は150前後、
  歳はわかりませんがおおよそ13,4ほどだと思います。
  茶色の髪をポニーテールにしており、なかなか愛嬌のある顔立ちです。

     GOLDKRAKEN 船長 リー・べ・キント

「なんだか、ややこしいことになってきたようだな」
 いつの間にか、ボーマンやクロードたちもレオンの背後に立って手紙を読んでいた。
「ここに書いてある女の子って、プリシスのことよね。でも、貨って……」
「人間をそんなふうに呼ぶような連中に、まともな奴はいないな」
「たぶん、人身売買組織だ。プリシスはそれに捕まって、船に乗せられたんだろう」
「のんびりしてる場合じゃないよ! はやく追わないと」
 レオンは手紙を握ったまま立ち上がった。
「けど、こっちも船がないと追えない……」
「どうしよう……」
「困ったな」
 また途方に暮れる四人。そこへ、願ってもない助け船がやってきた。
「なにしてんだべ、おめえら」
 救いの船は、ぼさぼさの髪ともしゃもしゃの髭をした、薄汚れた男の姿をしていた。それは、地元の漁師だった。

「ツイてない……どうして僕は、何から何までツキというものがないんだ」
 船室に向かう途中の廊下で、最後尾を歩いていた船長は、独り言のようにぶつぶつと愚痴をこぼしていた。
「ケチのつきはじめは五年前だ。親父はこのへんでは知らないものがないほどの富豪だった。一人息子の僕も何不自由なく育った。ところがある日、親父の会社は多額の負債を抱えて倒産した。それまでの貿易商から、造船分野まで事業を拡大して、失敗したんだ。親父はそれからすぐに、心労がたたって死んだ。僕に残したのはただただ莫大な借金ばかり。屋敷が、会社の利権が、できたばかりの造船所や船までが担保として引き取られていった。後に残ったのは、たった一艘の船だけだ。これだけで、僕はいったいどうやって借金を返せっていうんだ? 船なんか乗ったこともなかったこの僕が、どうして船長にならなきゃいけないんだ? ちくしょう。青い海なんか、大ッ嫌いだ」
「ぼ、ぼっちゃん……」
 船員のひとりがなだめようとするが、船長の愚痴はもはや止まらない。
「海の稼業は、いきなり何の経験もない素人が成功するほど甘い世界じゃない。そんなことは僕だってわかってた。だから、僕はあえて裏の世界で暗躍するほうを選んだのさ。わかるかい? 世の中には金は惜しいが人手は必要な連中がごまんといる。あるいは、ちょっとしたお慰みが欲しいような奴もいる。そういう奴らに、売ってやるのさ。必要な人間を必要なだけ、リーズナブルなお値段でね。どうだい、素敵な商売だろう」
「……最低」
 プリシスは誰にも聞かれないように注意して呟いたつもりだったが、耳ざとい船長には聞こえてしまったらしい。つかつかと彼女の前に歩みよる。
「なんとでも言うがいいさ。堕ちるところまで堕ちたこの僕に恐いものなんてない。そして君も、この最低な僕によってさばかれようとしているんだよ」
「触んないでよ!」
 頭を撫でる手を、腕は使えないので首を振って払いのける。ふんと鼻を鳴らす船長。
「まあいいさ。だが君は、僕の大事なからだの大事な部分を傷めつけた。売りさばく前に、それなりの報いは受けてもらうよ」
 一番奥の船室の扉が開けられ、プリシスはそこに放りこまれた。素早く扉が閉められ、鍵がかけられる。
 プリシスは扉の前に立って、力いっぱい扉を叩いてみた。蹴飛ばしてもみた。けれど、頑丈な扉はびくともしない。何度か蹴飛ばしたり、体当たりしているうちに、自分のからだから力という力が抜けていくのを感じた。ついには扉を叩く力も失われて、へなへなとそこに座りこむ。なんで?
 そのとき、ようやく彼女は、その部屋に奇妙な煙が充満していることに気づいた。煙のもとは、部屋の隅にある樽だった。その上に、丸い陶器の器のようなものが置いてあり、煙はそこから少しずつ出ていた。部屋に満ちている煙の匂いを嗅いだだけで、頭がぼうっとし、視界がかすむ。どうしようもなく眠たくなって、プリシスは床に横たわり、ゆっくりと目を閉じた。

 漁師の船で、彼らはプリシスが乗せられた船の後を追った。漁船はそれほど立派なものではなかったが、漁師が自慢するだけあって、いったん帆が風をつかまえるとぐいぐい進んだ。これなら追いつくことができるかもしれない。
 案内役はトンバが務めた。彼は驚くほど正確に、船の位置を把握していた。彼は舳先の手前に、前からそこにあった置物のように座りこんで、進むべき方角に向かって低い声で鳴く。トンバが南を向いて鳴けば、南に進路を変える。西に鳴けば、西に舵を向ける。ほんとうに彼が船の行方を知っているのか確証はなかったが、トンバの鳴き声には有無を言わさぬ強いものがあった。ろくに手がかりもない今となっては、彼の「導き」を信じるしかない。
 すでに夕日は陸の彼方に隠れてしまっていた。夜になってしまえば捜索は困難になる。陽が完全に落ちる前に、船を見つけださなくては。
 四人に焦りの色が見え始めたそのとき、ついに前方に帆船の影を発見できた。だが。
「おい、こっちにも船がいるぜ」
「こっちにも」
 船は、彼らの乗っている漁船を中心として、それぞれ南西、南、南東の方角に、ぜんぶで三艘もあった。夕闇の中では、船の細かなかたちをつかむことは難しい。
「くそっ、どれだ?」
「トンバ?」
 頼みのトンバは、まさしく置物のように座ったきり、どちらのほうにも向かないし、鳴かない。まるで、自分のやるべきことはここまでだ、とでも言わんばかりに。
「漁師さん、船の名前はわかります?」
「ちょっくら待ってくれ。えーと……」
 漁師は目を細めて、船の横に刻まれている名前を読みとろうとする。漁師なだけあって遠目はきくようだ。
「こっちのが、『REDLOBSTERレッドロブスター』、んで、こっちが『WHITEWHALEホワイトホエール』、こっちは『BLACKSHARKブラックシャーク』って書いてあるだ」
「なんだって?」
 レオンはもう一度、手紙に書いてある船名を確認してみた。そこには確かに『GOLDKRAKENゴールドクラーケン』とある。三艘とも違うのか? いや、そうじゃない。文面には「船の名前はくれぐれもお間違いなきよう」と、念を押してある。それは裏返せば、「この名前のままでは間違える」ということではないのか。
「……そうか」
 レオンは顔をあげた。クロードたちも彼のほうを見る。
「この手紙の名前は偽物フェイクだ。これは、本当の名前を知らせるためのヒントでしかないんだ」
「ヒント?」
「あるいは、暗号か……。それなら、どこかに解読の手がかりがあるはずだけど」
「おい。どーでもいいが、早くしないと船を見失っちまうぜ」
 ボーマンがしきりに船を示してせき立てる。
「いっそのこと、かたっぱしから船に乗りこんで調べ上げたほうが、手っ取り早くないか?」
「いや、それは無理だべ」
 異を唱えたのは、もしゃもしゃ髭の漁師。
「みっつの船はそれぞれ違う方角へと進んでいるだ。もうすぐ日も沈むし、ここからはどれかひとつに絞って追いかけないと、全部まとめて見逃しちまうべ」
「万事休す、か」
 ボーマンが、レナがクロードが、レオンを見た。少年は真剣な眼差しで手紙と睨み合っている。
 考えろ。考えるんだ、レオン。ボクがプリシスお姉ちゃんを助けなきゃ。
 ヒントにしても暗号にしても、それを解くための手がかりがなくては、この手紙を受け取る人間だって解けないだろう。文字の並び方か、文字そのものの意味か、あるいは文面全体か……。
「……そういえば」
 レオンはその手紙をめくって、もう一枚の紙を表に出した。そう、手紙は二枚あったのだ。最初にチラッと見たときに、そこに書かれていた意味がわからなかったので、それきり気にすることもなかったのだが。
 紙のいちばん上には、「人生の輪~26の歩みについて~」という題がつけられ、以下、奇妙な文が続いていた。

  21歩進み、3歩戻り、
  11歩戻れば、25歩進む。
  そこでひとまず立ち止まり、
  それから1歩進み、19歩戻り、
  10歩戻って、13歩進む。
  最後に3歩戻れば、
  汝は人生における答えを導くことができるだろう。

「なんだか、宝のありかでも教えてるような文だな」
 横から手紙をのぞいていたクロードが言う。
「だけど、ここで教えてるのは宝じゃない。GOLDKRAKENから導き出せる、ほんとうの船の名前だよ」
 レオンはそう呟いたきり、厳しい目をして黙りこんでしまう。
 進む? 戻る? 立ち止まる? いったい何のことを言っているんだ?
 人生の輪、26の歩み……26……人生……輪……。「輪っか」?
 レオンはそこで顔をあげた。なにかをひらめいたように。
「お兄ちゃん、なんか、かくもの持ってない?」
「え? どこかかゆいの?」
「そーじゃないっ! 『書く』もの! 筆記具だよ!」
「ああ、そっちのほうね……」
 クロードは持っていなかったので、ボーマンに聞いてみた。ボーマンは懐から年季ものの万年筆を取りだして、レオンに渡した。レオンはその場に屈んで、手紙を裏返して地面に置き、借りた万年筆で何やら書き始めた。
「……やっぱり」
 レオンはふたたび顔をあげた。その表情には、確信に満ちた笑顔があふれていた。
「わかったのか?」
 クロードが言うと、レオンはしっかりとうなずいた。
「事件解決だいっ」

----- ここからヒント -----

「この暗号を解く上で重要なのは、まず、ここでの『人生』がなんのことを言ってるのか、考えることだよ」
「『人生』が、なにか別のことを示しているってことか」
「そ。『人生』はぜんぶで26あるんだ。それが輪っかになることで、進んだり戻ったり、立ち止まったりできる」
「26あるもの……? なんか引っかかるな……26……」
「それから、この文の中で進んだり戻ったりしてる歩数は、順番にはなってるけど、けっして続きで考えちゃダメだよ。金庫のカギみたいに、右に3つ回してから、左に5つ、とか、そういうんじゃないから。もちろん全部の数字を足したり引いたりしてもダメ。最初に21歩進んだなら、その進んだ時点でもう、ひとつの『答え』は出ているんだ」
「26……うーん、なんだろうなぁ。ここまで出かかってるんだけど、思い出せない……」
「案外、キミのすぐ目の前にあったりしてね」
「え?」
「それじゃ、みんなもがんばってね」


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