■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Prologue 2 英雄の妹

 まずは、床にきちっと正座する。背筋は伸ばしたまま姿勢を崩さないことが肝心、と。
「このたびは――」
 膝の前に両手をついて、腰から身体を前に倒していく。それから……えっと。
「まことに申しわき……わけ、ござらなかったでした」
 う、しまった、いきなり噛んだ。しかもヘンな敬語になってるし。ふだん使わない言葉だと、やっぱりすぐボロが出ちゃうなぁ。
 で、でも、まだ大丈夫だよね。誠意があればなんでも許されるって、近所に住んでる顔の長いおっちゃんも言ってたし。
「遅刻したのは、ひとえにわたしが悪いです。それはもう明らかにダメでした。ごめんなさい。すみません。でも、決して寝坊とか道草食ってたとかお花畑でちょうちょを追いかけてたとか、そんな理由じゃないんです」
 自分の非を認めつつも、正当な理由があることを主張する……のがポイントらしい。いまいちよくわかってないけど、とにかく言い訳すればいいんだよね。ここが勝負どころだ。
「テレポートジェムっていう魔法アイテムがあるんです。これを使えばあっという間に行きたいところに移動できる、すごく便利なアイテムなんですけど……その、わたしはどうもこのアイテムが苦手で、ときどきヘンなところに飛ばされちゃったりして……あ、いえ、いつもはそんなに失敗しないんですよ。でも今回は緊張したりお日柄が悪かったりして、たまたま連続して失敗しちゃって……でも、結果的にはこうして無事に来られたわけですから、終わりよければ万事休すということで……」
「あの」
 声がかかって、わたしは顔を上げた。
「……あれ?」
 目の前にいたのは、そこそこ歳のいったおじさんだった。身なりもごく普通だし、茶色の髪には白髪も混じっている。
 たしか美形の若いお貴族さまって話のはずだけど……美形かどうかは置いとくとしても、若くないし、貴族にはとても見えない。
 ……ていうか。
 ここ、どこ?
 大きな部屋ではあったものの、どちらかというと素朴な、山小屋っぽい感じの屋敷だった。わたしは部屋のど真ん中に座っていたのだけど……そこは床じゃなくてテーブルの上だった。どうりで視線が高いと思った。
 で、わたしの周りには、十人くらいの男のひとたちがテーブルを囲んで座っているわけでして……。
「えっと……ここって、ヴァレリアさん家じゃ、ないです……よね」
 周りの人たちが、こくりとうなずいた。
「あ、あうぅ……」
 またテレポート失敗か……。
 おまけに。
「その……お嬢ちゃん」
 呼ばれて振り返ると、わたしの真後ろにいたお爺さんがばつの悪そうに顔をそむけていた。
「そろそろ降りて、くれないですかのう……年寄りには目の毒じゃて……」
「え……あッ」
 ようやく気づいて、ワンピースの裾を押さえる。
「あうぅぅぅ……」
 ……お爺さんにパンツまで披露してしまった。

「はい、あったかいものどうぞ」
「はあ、あったかいものどうも」
 大きなマグカップを受け取って、中の紅茶をふうふうと冷ます。湯気に混じってハーブのいい香りがした。
「どう、少しは落ち着いたかしら」
 エプロンを着けた若いお母さんが言う。わたしはひとくち飲んでから、なるべく明るい声で返事した。
「その、いろいろお騒がせしてごめんなさい。突然のことでパニクっちゃって……」
「いきなり魔法みたいに現れたんだよねッ。すごいなー。見たかったなー」
 わたしの向かいに座っている男の子がはしゃいだように言う。
 ここは、ファシオさん――わたしの目の前にいたおじさん――の家。テレポート失敗で動転していたわたしを見かねて、家に招いてくれた。
 で、男の子はもちろん彼の息子さん。セルジという名前だとさっき教えてもらった。
「魔法みたい、っていうか、魔法なんだよ」
 失敗したけど、ね。
「お姉ちゃん魔法使いなんだー。すごいなー」
 セルジが目をキラキラさせてわたしを見てくる。
 すごい……か。
「そんなこと、ないよ」
「え?」
「ううん、なんでもない」
 不思議な顔をするセルジに、笑顔を作って返す。
「お名前は、リルカさんでいいのかしら?」
 横からセルジのお母さんが聞いてくる。
「えッ? どうしてわたしの名前を」
 まだ名乗っていなかったのに。
 お母さんはくすくす笑いながら、テーブルに立てかけてあったパラソルを指さした。
 ……ああ。
 パラソルのには、これ見よがしに「リルカ・エレニアック」と名札が貼ってありまして……。
「あ、あの、わたしってしょっちゅう物をなくしたり置き忘れたりしていて、それでお姉ちゃんがなくさないようにって無理やり……」
「しっかりしたお姉さんなのね」
「いえ、わたしがだらしないだけです……」
 十四にもなって名札はさすがに恥ずかしい。はがそうとするとお姉ちゃん怒るし。
 ……けれど。
 今は、もう――。
「でもどうして傘なんて持ってるの? 出かけるとき雨でも降ってたの?」
 セルジが質問してくる。わたしは少し考えてから答えた。
「これはね、魔法のための道具なんだよ」
「魔法の? 傘なのに?」
「うん。ここからぎゅーんと魔法を出すの。普通は杖とかだけど、わたしはパラソルのほうが相性よかったんだ」
 身近にある道具のほうが魔法の発動体として適している場合は、わりとあるらしい。それでも傘っていうケースは珍しいみたいだけど。
「へえぇ。すごいなー。魔法見たいなー」
「うーん。それじゃ、お茶飲んだら少しだけ……」
 セルジの期待のまなざしに負けてそう言ったとき、玄関のドアが開いた。
「あ、お父さん、おかえりー」
 入ってきたファシオさんは、駆け寄るセルジの頭を大きな手でなで回す。
「ただいま。お嬢さんも、もう大丈夫かい」
「はい。ご迷惑かけてます。すみません」
「構わないよ。急ぎの用がないなら今夜は泊まっていけばいい」
「えっと……それじゃ、お世話になります」
 いちおう急いではいるのだけど、今日はもう遅いからお言葉に甘えることにした。疲れている中で無理にテレポートしてもロクな結果にならない気がするし。
 ことわざにもあるよね、「急いてはコトコトお味噌汁」って。……なんか違ったっけ。まぁいいや。
「それで、話し合いはどうなったんですか?」
 お母さんが聞くと、ファシオさんはセルジを抱えたまま向かいの椅子に腰かけて、大きくため息をついた。
「近いうちに渡り鳥に頼むことになりそうだ。村の者ではとてもじゃないが手に負えないからな」
「そうですねぇ。村には武器もないし、若い人たちは出稼ぎで年の瀬まで戻ってこないし」
 コーヒーを入れたカップをファシオさんの前に置いて、お母さんが言う。
「けれど頼むにしたって、渡り鳥のあてなんてあるんですか?」
「そこが問題なんだな」
 カップを手にしながら、ファシオさんが言う。
「こんな辺鄙へんぴな農村に都合よく渡り鳥がやってくることもないだろうからな。出稼ぎに行っている連中に手紙を送って向こうで探してもらうことになりそうだが、一体いつになることやら」
「困りましたねぇ」
「ああ。渡り鳥が来る前に今年の収穫分は食い尽くされてしまうかもしれん。厳しい冬になりそうだ」
「だったらさ」
 と、ファシオさんの膝の上でセルジが言った。
「お姉ちゃんにやっつけてもらおうよ! 魔法使いなんだよ、お姉ちゃん」
「ほえぇッ?」
 ぼうっとしていたところでいきなり指名されて、思わずマヌケな声を上げてしまった。
「村にモンスターが現れるんだ」
 セルジが説明する。
「目当ては貯蔵庫のパレス麦みたいで、人を襲ったりはしないんだけど、このままだと全部食べられちゃうかもしれなくて」
 パレス麦というのは、たしか小麦の有名ブランドだったかな。学校近くのパン屋で名前を見た気がする。
「見た目は間の抜けた奴なのだが、身体は頑丈で力も強い。追い払おうにもすきくわではまるで歯が立たない。武器ARMでもあれば退治できるかもしれないが、いかんせん村にはそんなものはないし、そもそも扱える者などいないからな……」
 ファシオさんはそう言ってから、わたしをしげしげと眺める。
「お嬢さんが魔法使いというのは、本当なのかい?」
「あ、はい。シエルジェの魔法学校に通ってますんで、それなりには使えますけど……」
「学生さんか……。モンスターとの戦闘経験は?」
「実習で何度かはあります。けど、そんな強いのとは戦ったことないです」
「そうか……それじゃあ、無理に頼むわけにもいかないな」
 ファシオさんは渋い顔をしてため息をついた。わたしは下を向く。
 それでも、やります。任せてください。
 喉元まで出かかった言葉。でも、けっきょく出せなかった。
 恐い、というのももちろんあった。けど……それ以上に。
 ――自信がない。
 わたしの魔法なんて……きっと、役に立たない。
 大事なひとも助けられない魔法なんて――。
「お役に立てなくて……すみません」
 自分でもびっくりするくらい小さな声で、そう言った。
「いいのよ。これは村の問題なんだから、あなたは気にしないで」
 お母さんが優しく言ってくれたけど、それが余計に辛かった。
「お姉ちゃん……」
 セルジの視線から逃げるようにして、わたしは下を向き続けた。

 ――リルカ。
 ――ねえ、リルカ。

 お姉ちゃんの声がした。

 これは夢? それとも魔法?
 少し考えて、それから、どっちでもいいかと思い直した。

 ――リルカ。
 なあに、お姉ちゃん。
 ――どうしてモンスターの退治を引き受けなかったの?
 だって……自信ないよ。
 ――あなたなら、できるわ。
 できないよ。
 ――自信を持って。
 できないってば!

 頭に響いてくる言葉を振りはらうようにして、わたしは首をぶんぶんと振った。

 わたしは、お姉ちゃんじゃない。
 お姉ちゃんみたいに優秀じゃない。
 グズでサボり魔で憶えの悪い、ただの落ちこぼれの学生なんだ。
 そんなんだから。
 そんなわたしだったから。

 わたしは、お姉ちゃんを――。

 ――ねえ、リルカ。

 優しい声が、また響いてくる。

 ――人は誰でも魔法が使えるって、前に話したわね。
 ……うん。
 ――人に個性があるように、その人が使う「魔法」にも性格があるの。
 性格?
 ――力強い魔法。優しい魔法。子供のように無邪気な魔法もあれば、お母さんの懐のように温かい魔法もある。同じ魔法を使っても、人によって全然違ったりするの。
 おんなじ魔法なのに?
 ――ええ。だから本当は「同じ魔法」なんてひとつも存在しないものなの。千人が使えば千通りの魔法ができる。
 ――だからね、リルカ。
 ――あなたはあなただけの魔法を育んでいけばいいの。
 わたしだけの……魔法?
 ――あなたにしか使えない魔法。私にも、誰にも真似のできない魔法。あなたならきっと素敵な魔法が使えるわ。
 でも、わたしなんて……。
 ――ダメだ、なんて思わないで。あなたはあなたが思っている以上に素晴らしい魔法使いなのよ。
 ――今はわからなくてもいい。いつか理解できる日が来るわ。だからそれまで、私の言葉を憶えておいて。
 わたしに……できるかな。
 ――できるわ。
 わたしの魔法でみんなを幸せにしたい。
 ――できるわ。
 ――だから勇気を出して。自分を信じて。
 ――どんなときでも、心に笑顔を。
 ――私は、そんなあなたが大好きなのだから――。

 おねえ……ちゃん……。

 ――リルカ、あなたに幸運を。
 ――ホクスポクスフィジポス。

「お姉ちゃんッ」
 セルジの声で目を覚ました。
 掛け布をめくって起きると、あたりはまだ暗かった。窓から青白い月明かりが枕元に射しこんでいる。
 昨日の夜はご飯をいただいてから、二階のセルジの部屋で簡単な魔法を見せてあげた。その流れで部屋に寝かせてもらったのだけど……。
「どうしたの、セルジ?」
 あくびをかみ殺しながら聞くと、セルジは窓の外を指さして。
「モンスターが来てるんだ」
「えッ」
 立ち上がって窓をのぞき込んだ。
 向かいの屋根の合間に点々と炎の明かりが見えた。たぶん、村の人たちが持っている松明たいまつだ。
 そのすぐ近くに四角い建物がある。あれが収穫したパレス麦を置いておく貯蔵庫……かな。
 そして、その建物の前で動いている大きな影が……。
「あれがモンスター?」
 セルジがうなずいた。
 暗くて姿はわからなかったけど、とにかく大きいのはよくわかった。貯蔵庫と同じくらいの背丈はある。
「ああしていつもパレス麦を食べていくんだ。鍵をかけても扉ごと壊しちゃうし。もう半分以上は食われちゃったって」
 セルジがわたしのワンピースの裾を引っ張る。
「お姉ちゃん、あいつ、魔法でやっつけてよ」
「セルジ……でも」
 まだ自信がない。
 うつむくわたしの顔を、セルジはけんめいに見つめ返してくる。
「ゆうべ、お姉ちゃん言ったよね」
「え?」
「『魔法は誰でも使えて、なんでもできるんだ』って。なんでもできるならモンスターだって倒せるはずだよ!」
 セルジに魔法を見せたときに、教えた言葉。
 それは、お姉ちゃんから教わった言葉。
 ……お姉ちゃん。
「お姉ちゃんがやらないなら、ボクがやる」
 そう言うとセルジは、壁に立てかけてあったわたしのパラソルを取る。
「セルジ? なにして……」
 驚いて立ちつくすわたしの前で、パラソルを抱えたセルジが叫んだ。
「ボクが魔法でやっつける! それで村のみんなを助けるんだッ」
 ――みんなを、助ける――。

 そう。そうだった。
 わたしがいつも願っていたこと。忘れちゃいけなかったこと。

 わたしは、魔法でみんなを幸せにしたいんだ――。

 部屋を出ていこうとするセルジを、後ろから抱きとめた。
「セルジ……ありがと」
「お姉ちゃん?」
 腕の中できょとんとするセルジに、にっこりと笑ってみせた。
「パラソル、貸して」
「う、うん」
 パラソルを受け取ってから、枕元のポーチも取って斜めにかける。
 そして、魔力増幅器アンプのついたマントを肩に装着して――準備完了。
「セルジはここで見てて。外に出ちゃダメだよ」
 素直にうなずくセルジにピースサインを返してから、わたしは部屋を飛びだした。

 お姉ちゃん。わたし、やるよ。
 だから、ちゃんと見ててね。

 もう誰にも「エレニアックのダメな方」なんて言わせないんだから――!

 モンスターは、想像以上にヘンな奴だった。
 頭と胴体がでかくて、そのぶん手足が短い。肌は青色で、ところどころカビのような緑のシミが浮いている。つるつるの頭には細長いツノが三本生えているんだけど、それもなんだか「アホ毛」のように見えてしまって、ちっとも恐さがない。
 巨大な赤ん坊というか、中年太りのおっちゃんというか……とにかくマヌケで、それでいて気味の悪いモンスターだった。
「みなさんは避難してくださーい」
 松明を持って集まっていた村の人たちに退避してもらってから、わたしは貯蔵庫の前に立った。
 モンスターは貯蔵庫に頭を突っこみ、足元に積まれた麦をつかんでは口に運んでむさぼり食っている。こちらを見向きもしないのは、どうせなにもできないと見くびっているからだろう。
 よーし、一気に決めちゃおう。
 ポーチからクレストグラフ――紋章の描かれたカードを出す。持っているのは『フレイム』と『フリーズ』だけど……とりあえず『フレイム』にするか。
 カードをつまみ上げて口元にかざした。そして呪文を唱える。
始原と終末の炎よ灯れフラーム・ラ・フラーモ・デ・コメンツォ・カイ・フィーノ
 カードに魔力が宿ってほのかに光りだす。それから右手のパラソルの柄の部分に、マッチを擦る要領でカードを接触させる。これで発動体パラソルに魔力が転移した。
 カードをしまって両手でパラソルを構える。そして、モンスターの背中めがけて――。
「いっけぇーッ!」
 力いっぱいスイングした。
 パラソルの先端から炎の球が飛びだして、
 ずどーん!
 と、モンスターの腐った桃みたいな尻に命中した。
 手応えはじゅうぶん。やっつけた……と思ったのだけど。
「……れれ?」
 モンスターはびくともしていなかった。ちょっぴり焦げた尻を左手でぼりぼり掻いている。
 ウソ……こんなに頑丈なんて聞いてないッ。
 うろたえているうちに、モンスターがこっちを向いた。顔から半分くらい飛び出ている目玉で、ぎろりとわたしを見下ろす。
 やば……目が合った。えっと、こういうときは視線を離さずに鈴を鳴らしながら死んだフリを……。
「ブフォォォォッ!」
 怒りのおたけび……と思ったら、それは鼻息だった。びっくりしたのと鼻息で巻き起こった突風とで、わたしは地面に尻もちをついた。
 そして、モンスターが襲いかかってきた。
「ウガァッ!」
「うひゃあッ」
 慌ててわたしは逃げだした。村の広場に出てから振り返ると、まだ追ってくる。
「こ、来ないでよッ。食事のジャマしたんなら謝るから~!」
「ガアァァッ!」
 しばらく村の中を逃げ回った。幸いモンスターの足はそんなに速くなかったから、どうにか振り切って建物の裏手に隠れることができた。
 陰からそっと広場のほうを覗くと、モンスターはまだわたしを探してウロウロしていた。このまま隠れて諦めてくれるのを待つしかなさそうだ。
 ……それにしても。
 わたしは地面に座り込んで、ため息をついた。
 まさか魔法が通じないなんて。わたしにしては上手くできた方だったのになぁ。
 やっぱりわたしの魔法なんかじゃダメなのかな。お姉ちゃんじゃないと……。
 ……いや、ちょっと待った。
 そういえば、学校で習ったような。えっと、あれは……。
 そうそう、たしか。

「モンスターには、属性攻撃に耐性を持っている種類もあります」
 その日はやたらと眠くて、机につっぷしながら睡眠学習みたいな感じで先生の話を聞いていたっけ。それで逆に憶えていたんだ。……いや、逆にっていうのもヘンだけど。
「そういう場合は耐性のある属性とは反対の属性が弱点であることが多いのです。たとえば火属性に耐性を持っているなら、反対の氷属性が有効です。これは属性攻撃を行う際の基本ですので、よく憶えておきましょう」

 憶えていたよ。ありがとう先生ッ。廊下に立たされた恨みは水に流してあげる。
 わたしはポーチから再びクレストグラフを出した。今度は『フリーズ』だ。
 ……ところが。
「げ……呪文、なんだっけ……」
 マズい、完全に忘れた。だって、あんな普段使わない言葉なんていちいち憶えてられないって! わたしの貧弱な脳みそじゃ、ひとつ暗記するのが精一杯なんだよッ。
 あ、そうそう。たしか持ってきたノートに呪文も書いておいたっけ。えっと……。
 ポーチをまさぐってノートを出すと、地面に置いて広げる。たしかこのへんのページに……。
「こ、これは……」
 かんじんの呪文のところが読めない。強調させるために色つきのペンで書いたのだけど、それが月明かりの中では逆に見づらくなってしまっている。
 鼻先までノートを近づけてみたけど、どうしても読み取れない。あうぅ……カラフルにノートを取ったのがこんなところで裏目に出るなんて。
 明るい場所に行けば読めるんだけど……でも、ファシオさんの家に戻るにはあの広場を通らないといけない。
 広場を見ると、相変わらずモンスターがうろついていた。ちっとも諦める様子はない。
「ああ、もう……どうしてこう、うまくいかないかなぁ……」
 わたしは頭を抱えた。少しだけ鼻の奥もツンとしてきたけど、泣いている場合じゃない。
 考えろ、考えろ。足りない脳みそでもフル稼働させれば人並みくらいには使えるはず。
 とにかく明かりさえあればいいんだ。村の人から松明を借りて……でも、みんな避難しちゃったからなぁ。
 ……松明、か。
 わたしはあたりを見回す。
 村を囲っている石壁の手前に、扉のついてない小屋があった。中には薪が山のように積まれている。
 これだッ。
 わたしは広場を気にしつつ、小屋まで一気にダッシュした。薪の山から細いのを一本だけ拝借すると、大急ぎで元の場所に戻る。
 そうしてポーチから取りだしたのは……短い木製の杖。火の術式が刻み込まれているフレアロッドだ。大した威力はないけど簡単に魔法が出せるから、魔法使いの練習道具としてよく使われている。
 薪を地面に置いて、ロッドを構えた。モンスターに気づかれるかもしれないけど、やるしかない。
「……ホクスポクスフィジポス」
 幸せを呼ぶおまじないの言葉を、呪文の代わりにつぶやいた。これもお姉ちゃんから教わったんだっけ。
 ――だいじょうぶ。わたしは、できる。
 わたしだって『エレニアックの魔女っ子』なんだから――。
 自分に言い聞かせて覚悟を決めてから、ロッドを振った。杖の先から小さな火が出て薪に当たる。ぼっと音を立てて火がついた。
 すぐにノートに目を落とした。呪文は……読めたッ。
一滴はやがて大河に至り、極北の礎を為すラ・アクヴォ・イーリ・リヴェレーゴ・カイ・フォーミ・ラ・アークタ
 カードに光が宿る。それをパラソルに転移させたところで……やけに大粒の雨が落ちてきた。
 いや、雨じゃない。この粘っこい液体は……。
「うひゃッ」
 見上げると、目の前にモンスターの顔があった。牛も丸呑みできそうなくらい大きな口を半開きにして、よだれを垂らしている。
 逃げだそうとしたけど一歩遅かった。片手で腰のあたりをがっしりつかまれて、顔の前まで持ち上げられる。
 た、食べる気だ。頭からパックリいく気だッ。
「こんちくしょう、食われてたまるかッ」
 女の子にあるまじき悪態をついてから、わたしは持っていたパラソルを振りあげた。
 発動体パラソルには『フリーズ』の魔力が宿ったままだ。あとはこれを……。
「でぇいやぁッ!」
 モンスターの眉間あたりに直接、叩きこんだ。
 傘の先端から放たれた冷気がモンスターの頭を覆いつくした。青い肌がたちまち凍りついて、霜で真っ白になる。
 冷気はさらに身体にまで伝わって、胴体から足の先まで一気に凍らせた。つかまれていた腕が肘のあたりからポキリと折れて、わたしはお尻から地面に着地する。
 気持ち悪い手首からどうにか抜けだしてモンスターを見ると、すっかりカチコチになっていた。やっぱり氷属性が弱点だったみたいだ。
 ……まぁ、とにかく、なんにせよ。
「倒したぁー」
 その場に大の字に寝そべって、脱力した。白い月と星がとてもきれいだった。
「お嬢さん、無事か?」
 遠くからファシオさんの声がした。起きあがると、広場から数人が松明を掲げてこっちに来ている。
「はーい。わたしは元気……ッ、うわっと」
 手を振って返事をしたとき、モンスターの頭が重みで首からもげた。ごろりと地面を転がる不気味な頭を避けつつ、小走りでみんなのところに行く。
「おお……本当に、倒したのか」
 ファシオさんは首なしのまま立っているモンスターを眺めて言う。
「助かったよ。お嬢さんは村の恩人だ」
「いえいえ。これくらいお茶の子がヘソで沸きますッ」
 得意げにそう言ったけど、微妙な顔をされてしまった。う……また少し間違えたか。
「お姉ちゃん、すごい、すっごいよッ!」
 ファシオさんの横からセルジが駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、やっぱりすごい魔法使いだよッ」
「ありがと。でも、倒せたのはセルジの魔法のおかげだよ」
「え? ボクの魔法?」
 首をかしげるセルジに、わたしは笑顔で言った。
「わたしに勇気と元気をくれた魔法。とっても効いたよッ」
 セルジははっとして、それから弾けるように笑顔になった。

「えっと、この村は……このへんでしたっけ」
「ええ、そうね。その島の……このあたりね」
 テーブルに広げた地図の右上の島を、セルジのお母さんが指さした。
「ということは、ヴァレリアさん家はこのへんだから……ちょうど南で、距離は……ふむふむ」
 コンパスと定規で方角と距離を測る。今度こそ失敗しないために、きちんと下準備しないとね。
「よしッ、準備完了!」
 地図を畳んで、コンパスや定規とまとめてポーチに放りこんだ。そして椅子から立ちあがる。
「そろそろ行きます。みなさん、お世話になりました」
 玄関の手前で振り返って、ぺこりとお辞儀した。
「礼を言うのはこちらの方だよ。しかし、本当に礼金はいらないのかい?」
 ファシオさんが少し困ったように聞く。
「いいんです。それに、お礼はちゃんともらいました」
 わたしは持っていた包みを前に出してみせた。中にはお母さんが作ってくれたお弁当が入っている。
「お姉ちゃん、また遊びに来てよ。約束だよッ」
「うん、約束ッ」
 セルジの突きだした小指に小指を絡ませて、指きりする。そしてドアを開けた。
「うわッ」
 家の外では村のひとたちが人垣を作って待ち構えていた。
「あ、あの、これって」
「皆が見送りしたいと言うのでな」
 ドアの横にいたお爺さんが言う。昨日パンツを見られた人だ。
「見送りって、わたしの?」
 きょとんとしていると、周りのひとたちが口々に言う。
「お嬢ちゃんは村の救世主だからな。どこ行くかは知らんが、気をつけてな」
「あんたならきっと立派な魔法使いになれるよ。頑張ってね」
「そしたら村に銅像でも建てるか。偉大な魔法使いが初めてモンスターを退治した地、ってな」
 みんな、笑顔だった。
 昨日まで困っていたひとたち。それをわたしが――笑顔にしたんだ。
 鼻をすすって出かかった涙をごまかしながら、わたしはみんなの輪の中に入った。
「ありがとう。わたし、がんばります! すんごい魔法使いになって帰ってきますッ」
 手を上げて宣言すると、やんやと拍手がわき起こった。わたしも知らずと笑顔になる。
 ――どんなときでも、心に笑顔を。
 その言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
「それじゃ、魔法使うから離れてくださーい」
 そう言ってからポーチを開ける。琥珀色の玉――テレポートジェムをひとつ取りだすと、胸の前で握りしめた。
「また来ます。みなさん、ごきげんよう」
 ジェムに魔力を込める。周りの景色が少しずつ、かすんでいく。
 ありがとう。ほんとうに、みんなありがとう。
 小さなセルジが、村のひとたちが、わたしに勇気をくれた。
 わたしに自信を取り戻させてくれた。
 お姉ちゃんはいないけど、でも、きっとだいじょうぶ。
 へいき、へっちゃらッ。
 それがわたし。リルカ・エレニアックなんだから――。

「……ここ……どこ……」
 どこまでも続く、砂の海のど真ん中。
 貴族のお屋敷どころか、生き物の影すら見あたらなかった。
 なんで、いつも……こうなるんだろ……。
「……へいき、へっちゃら……じゃないっての……」

 ――お姉ちゃんへ。
 あなたの妹は今日も頑張ってます。
 だから、お願い。ちょっとだけ助けて。