■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Episode 17 Last IGNITION

 奇蹟だと、そのとき彼は思った。
 小さな奇蹟が凍てついた心を融かし、そして。
 彼の物語が――始まったのだ。

 天井の染みを、ずっと眺めていた。
 古い館である。染みなど珍しくもない。だが彼は目を覚ましてから眠るまで、日がな一日それを見つめ、とりとめのない思索にふけっていた。
 この染みはいつからできたのだろうか。何が原因で生じたのか。この大きさになるまでどれほどの歳月を要したのか――。
 下らない。何の意味もない。だが、今はそうした無駄で無為むいな――かつての自分が嫌悪していた――時間によくしていたかった。
 現実を見たくなかった。考えたくなかった。過去むかしの自分を思えば虚しくなり、現在いまの自分を思えば惨めになる。
 何が英雄だ。ヴァレリアの宿命だ。
 自惚うぬぼれ熱に浮かされ躍起になって、驕慢きょうまん傲慢ごうまんの果てに――罰を受けた。
 抜けるものだと思っていた。抜かなければならないとも思っていた。確信と使命感。そんなものに突き動かされて祭壇に立ち。
 ――なぜ抜けないッ。
 ――私こそが、ヴァレリアの。
 英雄なるぞッ――。
 醜態しゅうたいさらした。そしてその代償を払うことになった。最も愚かなる者は自身であったのだと、彼はその身をもって思い知ることになった。
 今の時代に英雄は誕生しない。英雄がいなければ世界は救えない。ファルガイアはこのまま滅ぶ運命さだめなのだろう。それなら。
 ――知るものか。大河の中に小石を投じたところで流れは変わるまい。英雄でもない自分ごときが独りであらがったところで――。
 部屋の扉が開いた。いつものように妹がワゴンを押して入ってくる。
「今日はいい天気ですわ、兄様」
 外の風も心地良いですと、机に皿を並べて食事の支度をしながら妹は朗々ろうろうと話しかけてくる。
「先ほど洗濯物を干していたら渡り鳥の群れを見かけましたわ。西風に乗ってぐんぐん高く昇っていって、思わずしばらく見蕩みとれてしまいました」
 黙って聞き流す。天気も鳥も今は興味が湧かなかった。
「あら」
 支度を済ませてから、何かに気づいてこちらに近づく。怪訝けげんな顔を返しても構わずに左腕のあたりを覗き込んで。
「包帯を取り換えなくてはいけませんわね。お食事の後に持って参ります」
 深手ふかでを負った利き腕の左手。傷は神経にまで及び、未だ痺れが取れない。手首から指先まで丁寧に巻かれた包帯には薄く血がにじんでいた。
「今朝巻いてもらったばかりだ」
 拒否の意を込めて、小声で言った。
「傷口が膿んではいけませんから」
 妹はやんわりと諭した。少し苛立いらだった。
「アルテイシア、私のことはもう――」
 放っておいてくれ。
 言葉を濁す。唯一の肉親である、双子の妹。傷つけてしまうのは本意ではない。
「君にもしたいことはあるだろう。私に構わず……君のことを優先してくれ」
「これがわたくしのしたいことです」
 珍しく明瞭に、彼女は言った。
「わたくしの望みは兄様のお世話をすること。わたくしの願いは兄様に元気になっていただくこと。ですから、わたくしは」
 したいことをしているだけですわ――。
「……どうしてだ」
 額に手をやり、声を漏らす。
「なぜ君は私にそこまでしてくれる。私は君に」
 何もしてこなかった。それどころか病がちだった彼女をうとんじ、遠ざけ、いつしかその存在すら――忘れかけていたというのに。
 こんな薄情な兄のことなど、恨んでいてもいいはずなのに。
 どうして――。
「兄様は博識で、何でも知っていらっしゃいますけれど」
 頭に爪を立てていた右手に、細くしなやかな指が絡む。そうして強張こわばった心を解きほぐすように、彼女は一本ずつ指を頭からがしていく。
「そんな兄様でも、ひとの気持ちは難しいものなのですね」
「……ひとの、気持ち」
 自分が理解できない、唯一のもの。
 そして、今の自分に、欠けたもの。
「どうか、これだけはお忘れなさいませんよう」
 想いを伝えるように、彼女は右手を両手で包み込むように握った。
「わたくしは常に兄様と共にあります。これからも、何があろうと」
 一緒に、歩んでいきます――。
 そう告げると妹は手を離し、会釈えしゃくしてから部屋を出ていった。
「どうして……君は」
 疑問は少しも氷解していない。けれども。
 その右手は確かに、彼女の感触を記憶していた。

 傷は癒えても、身体は元通りにはならなかった。
 砕かれた右脚は骨が変形し、松葉杖なしでは歩けなくなった。左手も一部の神経は深く断絶していたため、未だ親指と薬指が動かせない。
 これでは剣は握れないだろう。リハビリを続ければ復調する可能性もあるらしいが――果たしてそれは三年後か、五年後か。
 間に合わない。左手が使えるようになるより前に、世界が先に滅んでしまう。
 何もかも諦めたつもりだった。それでも床に就けば不安になり、悪夢にうなされた。彼の中でファルガイアは幾度も滅亡し、その度に彼は無力感と絶望にさいなまれた。
 どうして知ってしまったのだろう。どうせ何もできないのならば知らない方が良かったのだ。なまじ異変を察知してしまったばかりに、全てが狂ってしまった。
 眠れぬ夜が続き、心はみるみる磨り減って、遂に。
 限界が訪れた。
 夜更けに目を覚ますと、剣を手にして館を飛び出した。
 ――世界など。
 足を引きずり、右手で剣を無茶苦茶に振り回す。思うように動かない。何もかも。
 ――世界など滅んでしまえばいい――。
 闇に向かって、彼は吠えた。
 滅べ。さあ滅べ。今すぐ滅んでしまえ。
 滅ばぬのなら。
 ――自分が。
 剣のつか逆手さかてに持ち替え、切っ先を。
 自分の、くびに。
「兄様ッ」
 背後から抱えられた。生白い腕が右手に絡み、柄を離させようとする。
 乾いた地面に剣が落ちた。激情が一気にしぼみ、彼は力なく項垂うなだれる。
 妹が背中で滔々とうとうと涙を流している。その気配を感じながら、彼は思考すら放棄して木偶でくのように立ちつくした。
「兄様、こちらへ」
 しばらく寄り添っていた彼女が、不意に彼の手を引いてどこかへ連れていこうとする。館の中に戻るのかと思ったが。
 誘われたのは、館の裏手だった。何もない。いや。
 何だか地面が――ざわざわしていた。
「もうじき夜が明けますわ。ほら――」
 東の空が白んでいく。闇のとばりが徐々に上がり、気配の正体が見えてくる。
 ざわざわしていたのは、葉擦はずれの音。膝丈ひざたけほどの草が足許に。いや。
 足許だけではなかった。
 山の稜線から一条の光が射し込んだ。そして。
 目の前に。
 つぼみが。
 蕾でいっぱいの――世界が。
 一面に、広がっていた。
「これは……」
 あり得ない光景だった。
 館のあるメリアブール中部は不毛の地である。土は痩せ、雨も一年を通じて滅多に降らない。植物など自然に育つはずがない。
「君が、育てたのか」
 振り向くと、妹は目を細めてうなずいた。
「兄様に見て頂きたくて」
「アルテイシア……」
 この、体の弱い妹が。土など触ったこともなかっただろう、貴族の娘が。
 大地を耕し、種をき、水をやり、毎日おこたることなく世話をして。
 これだけの花畑を――作ったというのか。
「兄様、ほら」
 花が咲きます、と妹はかがんで足許の株に視線を下ろす。
 朝露をつけた蕾が緩んでいた。見守っていると、がくがゆっくり開かれ、花弁がほどけていき。
 露が弾けて、白い、小さな花が――咲いた。
 風が吹き、花畑が揺れた。それで気づいて顔を上げた。
 同じ花が、咲き乱れていた。
 蕾が次々と花開き、西風にそよぐ。不毛の荒野の一角に、緑と白の絨毯がしなやかに揺れている。
 ――奇蹟だ。
 偶然、そしてささやかな行為の積み重ね。それらが絡み合い、繋がり合って。
 ひとつの奇蹟として――結実したのだ。
 彼女の起こした小さな奇蹟。それは今まで見たどんなものよりも美しく、凍えきった心にみ渡り。
 生まれて初めて彼は――自分以外のぬくもりを知った。
「ありがとう、アルテイシア」
 傷を負った左手で、妹の手を握る。こみ上げた涙が頬を伝っていた。
 妹は優しく握り返した。ヴァレリアの若き兄妹は手を繋いだまま、朝陽に輝く花畑を見つめ続けた。
 護らなくては。この美しい世界をうしないたくないと、彼は強く思った。
 たとえ英雄でなくてもできることはある。いや。
 英雄でないからこそ、できることだってあるのだ。
 あらゆる手段を講じて。定法じょうほうそむくことがあろうとも。
「私が――」
 この、愛するファルガイアを。
まもってみせる」
 小さな花が、西風に吹かれて揺れていた。

 その事実が表沙汰おもてざたになると、館の中はたちまち騒然となった。
 カイバーベルトとの戦いから三日が経過していた。その間にも侵食は進行し、遂にファルガイアの全空域から青空が消えた。名実ともに世界は闇に覆いつくされたのだ。
 絶望的な状況だった。それでも指揮官は対策を講ずると宣言し、実働隊に待機を命じた。数日のうちに結論は出るだろう――と。
 だが、その言葉を最後にして。
 ARMS指揮官、アーヴィング・フォルド・ヴァレリアは。
 忽然こつぜんと姿をくらましたのだった――。
 妹のアルテイシアの姿もなかった。一報を受けてアシュレーは激しく困惑し、ろくな対処もできないまま右往左往した挙句あげくに。
「――どういうことだ」
 彼の部屋の真ん中で、茫然ぼうぜんと立ちつくしていた。
「みんなで手分けして捜しました。でも、二人とも」
 どこにもいませんとティムが言う。捜索に協力してくれたというコレットも隣で不安そうにしている。
「館の中は隅々まで捜したぜ」
 書棚の前で腕を組んだトニーが言った。横には当然のようにスコットの姿もある。
「客室も機関室も全部見た。こんだけ捜していないのなら、少なくともここにはいないんだろ」
「あるいは隠し部屋のようなものがあるのかもしれませんが」
「隠し部屋ぁ?」
「古い館ですし、そういうものがある可能性も」
「そんなモノはないッ」
 即座に否定したのはマリアベル。椅子にどっかり座り込み、部屋の主に成り代わってふんぞり返っている。
「飛空機械化の際に館の図面は見ておる。そのような部屋などなかった」
 繰り返し否定してから立ち上がり、ところでと辺りを見回す。
「他の実働隊の連中はおらぬのか」
「あ、ああ、はい」
 ブラッドとリルカ、それにカノンの三人は今朝からシエルジェに行っている。アーヴィングたちの失踪が伝わったのはその後だったため、捜索には参加していない。
「珍しい組み合わせじゃの。何しに行ったんじゃ」
「いえ……そこまでは聞いていませんが」
 言われてみれば、確かに少し気になった。リルカはともかく、ブラッドやカノンがシエルジェに用事があるとは思えない。
「ふむ」
 マリアベルは微妙な表情のまま、書き物机の上をあさり始めた。
「アーヴィングさん、どこに行ってしまったんでしょうか」
 ティムがうつむく。
「もしかして……もう諦めてしまって」
「そんなことは――」
 ない、と言い切りたかったが、アシュレーもその可能性を考えたことは事実だ。これだけ騒ぎになったのも、多くの者が同じことを考えたからだろう。
 万策ばんさく尽きたと悟った指揮官が、妹を連れて――。
「あの人は、そんな人じゃねぇよ」
 オレが言っても説得力ないかもだけど、とトニーは鼻を掻きながら呟く。それでも代わりに否定してくれたことにアシュレーは内心で感謝をした。
「ほう」
 マリアベルが声を上げた。
「何じゃ、ちゃんと書き置きがあるではないか」
「書き置き?」
 アシュレーも机の上はあらためていたが、それらしきものは見つけられなかった。
 ほれ、と彼女は小ぶりの手帳を取って裏表紙を見せる。革の表紙には果たして手書きの文字らしきものが記してあった。
「これは……」
 読めない。どこの言葉なのだろうか。
「古代語じゃ。エルゥが栄えていた時代のな。魔法の呪文もこの言語がベースになっておる」
 マリアベルはそれを訳して読み上げてみせたが。

『ファルガイア中心核域、泥の海を決戦の地とす
 妹と待つ――』

「どういう……ことだ」
 アシュレーの困惑は一層深まった。
 決戦? 誰と戦えというのか。カイバーベルトか、それとも。
「泥の海って何だぁ?」
 トニーが眉根を寄せる。何かのたとえでしょうかとスコットも首をひねる。
「もしかして、泥のガーディアンのことかな」
 ティムが言い、コレットがそれをけて続ける。
「泥のガーディアン『グラブ・ル・ガブル』――ファルガイアに息づく全ての生命における始源の存在。一切の意識を持たない、蒼く輝く泥の海であると伝えられています」
「それがファルガイアの内側にいるというのか。けど、そんなところでアーヴィングは」
 何をしようというのだろう。しかも、妹まで連れて。
「――わからない」
 わからないことだらけだ。アシュレーは机を叩き、それから頭を掻きむしった。
「アーヴィング、貴方は一体」
 何をしようとしている。このまま信じて――いいのか。
「アシュレーさん……」
 心配そうなティムやトニーたちの視線に気づいて、平静を取り戻す。乱れている場合ではない。
「とにかく、今は」
 彼の意図が知りたい。机上を再び見回し、それから引き出しを順繰りに確認する。何か手がかりは――。
 あった。空の引き出しに、小さな鍵だけが入っていた。
「どこの鍵でしょうか」
 凝った意匠デザインですねとスコットが横から眺めて感心する。同じようにティムも近づいて覗き込んだが。
「あ、アシュレーさんッ」
 突然声を上げた。彼にしては大きな声だったので少し面食らった。
「これ、あ、あの鍵じゃないですかッ」
「あの鍵?」
「ほら、カイーナが持っていた……」
 ハッとして、アシュレーもその鍵を刮目かつもくする。
 同じだ。形も飾り細工も一致している。これは。
 ――魔鍵ランドルフ。
 だが。
「大きさが……全然違う」
 これは普通の鍵のサイズだ。ただの複製品レプリカなのではないか。
 その言葉をティムは首を振って否定する。
「前に見たときと同じ、嫌な感じがします。だいぶ弱くなってはいるけど」
 魔法の力を感じますと、守護獣使いの少年は目をらした。魔力を持つ者には見つめ続けることすらえられないらしい。
 本物なのか。これが、あの降魔儀式を引き起こした――。
「確かに本物じゃな」
 マリアベルが指先で何度かつついてから、拾い上げて間近で眺める。
「魔力はほとんど残っておらぬ。出涸でがらしじゃ。質量を維持できずにこのサイズまで縮んだか」
 あれだけ酷使すれば当然じゃろうな、と鍵を机上に置いて早々に見切りをつける。やはり、あまり関わりたくないらしい。
「どうして」
 ここにこの鍵があるのだろう。
 不可解なことばかりで、言葉を続ける気力すら失いかけていた。
「魔法の道具は持ち主のところに帰ると言います。持ち主が死んでしまったら」
「その前の持ち主のところに戻る――ということですか」
 つまり。
「アーヴィングが」
 カイーナよりも前の、所有者だった――?
 その事実に目眩めまいを起こした。椅子に座り込み、ぐったりと背凭せもたれに寄りかかる。
「――なるほどのう」
 そういう仕組みかとマリアベルは口惜くちおしそうに口許を曲げる。
 解ったのなら勿体もったいぶらずに教えてほしい。もう限界だ。
「そう恨めしい顔で睨むな」
 視線で察したマリアベルは嘆息して、それから書き置きが記されていた手帳を指で示した。
「それに書いてある。恐らくな」
 これは彼奴あやつの物語なのだ――。
 そう言ってノーブルレッドの娘は退いた。
 アシュレーは机上の手帳を見た。小口の側に留め具がついている。その留め具には――。
 鍵穴が。
「アシュレーさん」
 ティムが恐々こわごわと近づいて言う。
「この手帳にも、魔法の力を感じます。たぶん封印が……施されています」
「……ああ」
 そのための――鍵ということか。
 全ては彼の、思惑通りに。 
 アシュレーは鍵を取って。
 留め具の穴に、差し込んだ。
 ぱち、と留め具が外れ、鍵は霧散するように消滅した。
 胸の高鳴りを感じながら、表紙を開く。細かな文字で書かれていたのは。
「これは――」
 彼の物語であり。
 彼らの物語であった。
 呼び出し音が部屋に響く。腰の通信機からだ。
 相手はブラッドだった。
〈そうか――〉
 こちらの状況を伝えると、彼は驚くこともなく呑み込んだ。
「ブラッド?」
 不審に思って聞き返す。ああと応答があってからしばらく沈黙が続いたが。
〈あーもうッ、貸して〉
 声が変わった。近くにリルカもいたようだ。
〈そんなんだとまた誤解されちゃうよ。えっと、口下手な英雄さんに代わって説明するね。わたしたち〉
 アーヴィングさんのこと、ずっと調べてたんだ――。
「何だって?」
〈なんか気になることがあるって、ブラッドから相談されて。それでカノンさんにも協力してもらって、思い当たるフシをあれこれ調べて回ってたんだ〉
「カノンにも?」
 彼女、オデッサのことに詳しいから、とリルカは言った。意味がわからず返答にきゅうしていると。
〈とにかく、その手帳を持ってこっちに来てよ。こっちのネタとその手帳とで、たぶん……全部繋がると思う〉
「来て……って、シエルジェにか?」
〈違うよ。シエルジェはマクレガー先生を迎えに立ち寄っただけ。今わたしたちがいるのは〉
 旧スレイハイム領南部の砂漠地帯。その地下にある――。
「なッ」
 どうして。今更、そんな場所に――。
〈電源が入っていた端末があったでしょ。ほら〉
 ――百眼の守り人は何を見る――。
 奇妙なメッセージ。あの端末か。
〈あれはね、アンテノーラが遺した〉
 最後の仕掛けだったんだ――。
 声の調子を落として、リルカが言う。
 最後の仕掛け。それは何だ。アンテノーラは何を仕組んだ。何を知った。
 オデッサ。ヴィンスフェルト。ARMS。カイバーベルト。
 からみ合い、もつれ合った糸。それらを手繰たぐり、引き合わせたのは。
「――アーヴィング――」
 あらゆる感情を込めて、アシュレーは彼の名を呟いた。

『アーヴィング・フォルド・ヴァレリア』

 メリアブール領ヴァレリア家現当主。先代の没後、十八歳で当主の座に就く。現在二十二歳。
 シエルジェ魔法学校に留学し、優秀な成績を収めるも卒業前に自主退学。以降は独学で剣術・魔術の研鑽けんさんを積む。理由及び目的は不明。
 二十歳の誕生日に、剣の大聖堂に安置されていたアガートラームを抜こうと試み重傷を負う。一年間の療養を経て復帰。その後メリアブールよりARMSの譲渡を受け、当部隊の指揮官となる。

『ヴァレリア家』

 メリアブールの貴族。辺境の集落を治める領主だったが、焔の災厄をしずめたアナスタシア・ルン・ヴァレリアの功績を受けて異例の公爵待遇となる。ベルナデット家など分家も含めたヴァレリア一族は一時隆盛を誇ったものの、その後の内紛により衰退。現在は本家のみが残る。
 一族には魔術の才に秀でた者が多く、著名な魔法使いも輩出している。その名残なごりから、シエルジェによる魔法体系の確立がされる以前の秘術・魔具を独自に管理している。
 ヴァレリア家による管理がされていた主な魔法は、以下のものである――

 降魔儀式。
 魔鍵ランドルフ。
 トラペゾヘドロン。

 当家が保有するこれらの秘法を駆使すれば、かの脅威を退けることは可能である。
 だが、これらは禍々まがまがしき禁術の類。使えば災いをもたらすは必定ひつじょう。故に。
 災いを引き受けてくれる生け贄スケープゴートを――用意する。

 あつらえ向きな者を見つけた。スレイハイム戦役の首謀者。あの男なら。
 居場所を突き止め話を交わした。迫り来る脅威のことも明かし、焚きつけた。
 ――世界を統率するしかない。
 脅威に立ち向かうためには、人類を大いなる意思によって束ねなくては――。
 嘘偽りは言っていない。勝手に誤解し、勝手にその気になっただけである。
 組織の立ち上げには先立つものも必要だろう。いくらか資金を拠出し、駒を集める助けもした。屈折した魔法使い、全てを奪われた王族の娘、元解放軍のはみ出し者、ゆがんだ嗜好しこうの渡り鳥――。
 彼らとて、こちらから選んで働きかけた訳ではない。全方位に配置した仕掛けにたまさか掛かり、偶々あの男と交わっただけのこと。全ては偶然なのだ。
 生け贄の支度は整った。仕上げに秘法を二つばかり授けた。どのような使い方をするのかは、彼らが決めることである。
 だが、この時機タイミングとこの状況。それにあの男の性向を考えれば、標的は絞られる。例えば。
 国王肝煎きもいりの新設部隊――。
 次の支度を急がねばなるまい。

『ヴィンスフェルト・ラダマンテュス』

 本名ヴィンスフェルト・グロスクロイツ。元スレイハイム解放軍指導者。現オデッサ首魁しゅかい
 スレイハイム王の圧政に抗するレジスタンス活動を経て、スレイハイム解放軍を結成。王家に対し宣戦布告を行い内戦を勃発させる。その後、戦況不利を察して単身で解放軍を離脱。王家と取引を交わし国外に逃れる。
 スレイハイム滅亡後は戦犯として指名手配される。失意のまま各地を放浪した後、その道中で会った貴族の言葉を契機として、世界の統率を目的とした革命集団『オデッサ』を結成する。
 以下は本人の言である。

「あの男とは、ふらりと立ち寄った酒場で知り合った。互いに素性は明かさなかったが、少し話をして同じ種類の人間だとすぐに悟った。彼も世界の現状を憂い、変革が必要だと言った。まさに正鵠せいこくを得た思いであった」

 貴族から提供された禁術を用いて、ヴィンスフェルトが最初の標的としたのは――

 睨んだ通り、彼らはARMSに狙いを定め、壊滅させた。
 メリアブール国王直属の特殊遊撃部隊。その噂は国内のみならず世界中に漏れ伝わっていた。話題性も規模も申し分ない。餌食えじきになるために結成されたようなものである。
 こちらとしても好都合だった。このARMSをベースにすれば様々な手間が省ける。すぐに権限の買収を進言し、了承された。
 思わぬ副産物も得られた。聖剣と魔神を宿した青年。或いは彼が打開の一手となるか。スレイハイムの英雄。エレニアックの魔女っ子。こちらの支度も整いつつある。
 後は、動かしながら仕上げていこう。彼らが敵役として立ち回ってくれるだけの材料を――用意する。
 恣意しい的に動かしてはならない。必然を装い、偶然の殻を被せて。
 全ては来たるべき脅威の為に。

『オデッサ』

 ヴィンスフェルト・ラダマンテュスによって結成された革命集団。三大国家の打倒及び世界統一国家の樹立を目的として、武力行為も含めた工作活動を行う。
 組織構成は首魁ヴィンスフェルトを頂点として直下に四名の幹部(通称『コキュートス』)がおり、それぞれ実務を担当する。構成員の総数は約二百名(現在)。
 主な資金源は支援者スポンサーからの寄付。中でもヴィンスフェルトがオデッサを結成する契機となった某貴族からの寄付が総額の大半を占める。同人からは資金以外にも様々な情報が提供されている。
 確認できた某貴族経由の情報は、以下の四点である。

・イルズベイル監獄のセキュリティ情報
・バスカーの『柱』の所在
・魔界柱の設計資料
・ヘイムダル・ガッツォーに関する情報

 その他にも同人の関与が疑われる事例を複数確認している。オデッサの活動において同人が多大なる影響を及ぼしていることは明白である。
 その目的は――

 世界を束ねなければならない。
 脅威が訪れてからでは遅いのだ。速やかに意思決定を行い、ファルガイアの資源リソースをフルに利用できる状況を構築しなければならない。
 現状はそのような状況からは程遠ほどとおい。反目し、牽制し合う三大国家。これらをまとめ上げることは容易ではない。
 それを打破する鍵こそが、即ちオデッサである。脅威に備える為の模擬的脅威。共通の敵の存在こそが総意を醸成する。
 だが、これは極めて危険な賭けでもあった。さじ加減を誤ればこちらが潰されかねない。張り巡らせた仕掛けは偶然性を多分にはらんでいる。制御できるとは限らないのだ。
 激しい衝突が幾度も起きた。想定通りのものもあり、想定外もあった。少なくない犠牲も払った。この贖罪しょくざいはいつか果たすつもりである。
 成果はほぼ期待通りに得られた。彼らは見事に敵役を全うし、目に見える危機を経験したことで世界は統率された。加えてトラペゾヘドロン――かの脅威に対抗しる唯一の手段である――の下拵したごしらえもできた。魔界柱をオデッサに造らせたのも、ライブリフレクターの組織ネットワーク化による兵器をギルドグラードに提案したのも、いてはこの禁術の為。
 仕損じる訳にはいかない。ファルガイアを蝕まんとする脅威――カイバーベルトをこの手で確実に葬り去る。それだけが、聖剣に拒まれ道を見失った私の生きるよすがであるのだから。
 例え英雄でなくとも。
 英雄などいなくとも世界は救えるのだと、証明してみせる。

 そう。
 何もかもが、あの男の術中だったのだ。
 気づくのが遅すぎた。疑念を抱く機会はいくらでもあったというのに。規模の大きさゆえに全体が見通せず、あり得ないと無意識に判断を下してしまった。常識こそを疑うべきという原則を見失っていた。
 彼の仕掛けは、大部分は偶然にゆだねられている。偶然を引き起こす因子ファクターあらかじめ抽出し、それに矢印を書き足してベクトルに変化を与えることで、動いた際に意図する方向に進むよう仕向ける。最小限の作為で最大限の効果をもたらす。それが彼のやり方だ。
 例えば、バスカーの『柱』を巡る争いのとき。
 彼がしたことは『柱』がタウンメリアにいるという情報を流しただけである。ヴィンスフェルトがそれに目をつけて動くかどうかは完全に偶然である。利がないと判断して無視していたかもしれない。
 だが、恐らく彼は同じ情報をバスカーの民――『柱』を捜していた者たちにも流していたのだろう。実際に『柱』を確保したのが彼らであることからも、そのことは推察できる。
 彼にしてみれば、物事が動きさえすれば誘拐するのは誰であろうと良かったのだ。さらに言えば、誘拐が成功しなくたって構わない。出来事イベントが起きてそこにARMSが関わる――その流れこそが、彼の意図するところであったのだ。
 イルズベイル、魔界柱、そしてヘイムダル・ガッツォー。いずれも仕組みはバスカーの件と同様である。核兵器については関与を確認できなかったが――果たしてカイーナはどういう経緯でギルドグラードの動きを察知したのか。そもそもギルドグラードマスターはどのようにして核の在処ありかを知ったのか――。
 彼の知識は全方位に及ぶという。ドラゴンの伝承を解読して場所を特定することも可能なのかもしれない。ここにもあの男の影が見え隠れしている。
 畢竟ひっきょう、この戦いは彼によってくわだてられたもの。彼によって作られ、彼によって動かされていたオデッサが勝てる訳がない。とんだ道化である。
 彼の言う『脅威』が何なのか。このような大仕掛けまでして備えなくてはならない敵とはどのようなものか――その正体を見ずに退場してしまうことは心残りではあるが。
 せめて、このファイルが誰かの目に留まり、何かをもたらすことがあることを願うばかりである。
 我を憐れむことなかれ。最期のときまで我は我として――誇り高く生きてみせよう。

     テレーゼ〝アンテノーラ〟・ヴィクトリア

 全てに目を通しても、しばらく余韻よいんは消えなかった。
 アーヴィングの手帳。そしてこの端末に残された、アンテノーラの報告書。両者を照合することで点は線として繋がり、全貌ぜんぼうが浮かび上がった。まるでそれさえも彼の目論見もくろみ通りであったかのように。
 アーヴィングはオデッサと通じていた。いや。
 アーヴィングがオデッサを作ったのだ。ヴィンスフェルトを傀儡かいらいとして――彼にその自覚は最後までなかっただろう――ARMSが戦うべき敵を自ら用意したのだ。
 目に見える脅威として世間を擾乱じょうらんすることで、三大国家の危機を煽り協調を促した。そして大儀を得たARMSが鉄槌てっついを下す。彼らの登場こそが世界を束ね、人類は一致団結して脅威に対抗するすべを心得たのだ。
 全ては真の『脅威』のため。彼が三年前にいち早く察知した異世界――カイバーベルトとの戦いに備えるためだった。
 手帳には彼がアガートラームを抜こうとするまでの経緯も記されていた。異世界の存在を知った若きアーヴィングは、それを天命だと思い込み英雄にならんとして……挫折した。落胆し、一度は諦め、それでも世界を救う手段を模索して。
 このやり方を――選んだのだ。
「わかんないよ」
 端末の前で、リルカが言う。
「これは正しいの? みんなをだまして戦わせて、それで世界をまとめるって……そんなのが正しいやり方なの?」
「騙してはいない」
 暗がりからブラッドが言う。
「アーヴィングはただ単に事実を――情報を提供していただけだ。ヴィンスフェルトもコキュートスの奴らも、それを都合よく解釈して、勝手に行動したに過ぎない。結局は自らの意思だ」
「だからって!」
 声を張るリルカを横にいたカノンが制した。
「情報は、闇雲やみくもに拡散しただけでは正しく伝わらない」
 悔しげに口を真一文字に結ぶ少女を後目しりめに、凶祓まがばらいが言う。
「いつ伝えるか。どこで伝えるか。誰にどういう順序で伝えるか。時間、場所、機会タイミング状況シチュエーション――それによって、同じ情報でも相手の受け止め方、伝わり方は大きく変わるものだ。あの男はそれをわきまえていた。だからこそ」
 彼は、自身が蓄えた無尽蔵の情報を操ることによって、世界を自分の思う通りに動かしたのだ。時に隠し、時に小出しにして、相手に与える影響を常に計算して情報を与えていた。
「そうじゃのう」
 実に巧妙じゃと、端末の画面に目を落としながらマリアベルが言う。
「イルズベイル、バスカーの『柱』、魔界柱にヘイムダル・ガッツォー――アンテノーラが突き止めたこれらの情報源も、恐らくアーヴィングから直接提供された訳ではないのじゃろう。別口に流したものが回り回ってヴィンスフェルトの耳に入ったのではないか。人は与えられた情報には疑り深くなるが、自分で仕入れた情報に対しては鵜呑みにしがちだからじゃの。この場合は仕入れたと思い込まされた訳だが」
「それに、頻繁に情報提供をして接触を図れば、それだけ正体を悟られる危険が増す。支援者がARMSの指揮官だったなどと知れたら水の泡だからな」
 間接的に干渉を行ったのは、そのリスクを避ける意味合いもあった――ということか。
 カノンの言葉に、そうだなとブラッドが同意する。
「愚かなヴィンスフェルトはつゆほども疑わなかっただろうな。アンテノーラにしても、気がついたときは手遅れだったか。それでもこの段階で見抜いたのは大したものだが」
 端末を解析したマクレガー教授によると、このファイルが作られたのは、アシュレーたちがこのアジトを特定して乗り込んだ日の一週間前だという。恐らくはヘイムダル・ガッツォー起動の直前あたりか。
「あの娘はシャトーに乗り込んできたこともあったな。その際に何か手掛かりを掴んだのか」
「でも、あのときは何も言ってなかったよ。アーヴィングさんとも普通に戦ってたし」
 そのときはまだ気づいてなかったのかな、とリルカが小首を傾げる。
「じゃろうな。だからこそアーヴィングはあの娘を逃がしたのじゃ」
「え?」
 アーヴィングが、アンテノーラを――意図的に逃がした?
「わらわは見ておらぬが、やたら勿体ぶって登場したのじゃろう」
「それは……足が悪いから遅れてきただけで」
「彼奴ほどの魔法の使い手が転送魔法テレポートを使えぬ訳がないじゃろう」
「あ」
 それでは。
「俺たちがブリッジで対峙たいじしていたとき、アーヴィングも既に館に戻っていたのか。アンテノーラに何を探られたのかを……確かめていたか」
 ブラッドが言う。ティムの杖から放たれた光源から外れたところに立っていたので表情はうかがえない。
「秘密がバレていないことを確認したから、追い払うだけに留めたのじゃ。もしバレていたなら、生かして帰してはおらなかっただろう」
 彼のあの剣さばき。それに魔法も超一流だという。本気を出せばアンテノーラと言えども始末するのは難しくなかったに違いない。
 彼女を欠けばオデッサの戦力は大幅に落ちる。ARMSとの戦力バランスが崩れるのを避けるためにも敢えて手心てごころを加えた――ということか。
「アーヴィング――」
 本当に、何もかもあの男に踊らされていた。悔しさがこみ上げ、ももの横の拳を握りしめる。
「ブラッドさんは、いつ気づいたんですか? アーヴィングさんのこと……」
 杖を抱え直してから、ティムが尋ねる。光源が動いてちらりと精悍せいかんな横顔が見えた。
「確証はなかった。対カイバーベルトの作戦があまりに都合よく出来ていたのがどうも気になってな。それ以前からも疑念は抱いていたのだが――」
「疑念?」
 いつから、と聞くとブラッドは少し逡巡しゅんじゅんしてから答えた。
「イルズベイルで――あの、お前たちが来る前日の夜に」
 見知らぬ巨漢が、空いていた牢に爆弾を仕掛けていたという。
「あのときは誰だか判らなかったが、その後オデッサと接触して正体が知れた。あれは、トロメアだった」
「トロメアが、イルズベイルに?」
 それは、つまり。
「爆発で混乱させたのは別働隊だとアーヴィングは言った。それがあの男……トロメアの仕業だというなら」
「オデッサと繋がっていたわけかぁ……あのときから」
 心底落胆したように、リルカが言った。
「で、ブラッドさんはそのコトも黙っていたわけだ、ずっと」
「事実に思い至ったのは随分後だったからな。それに、俺の見間違いの可能性もあった」
「それも含めて相談しなさいという話だよ」
「……そうだな。すまなかった」
 首をすくめてブラッドが謝る。リルカはホントにもう、とひとしきり憤慨して。
「どいつもこいつも隠し事多すぎッ。いい加減にしてよ。ねえティム、あんたは許せるの? アーヴィングさんがしたこと」
「ぼ、ボクは、その……アーヴィングさんにも理由というか、抱え込んでいたものがあっただろうから……」
「ふん、優等生が」
 リルカは少年の答えを一蹴いっしゅうして、それからこちらを向いた。
「アシュレーはどうなの」
「僕は……わからないな、正直」
 正しいことだとは思えない。でも、結果を見れば間違いだったと断ずることもできないだろう。
 いがみ合っていた三大国家を取り纏め、一丸となって異世界に対抗できたのは、紛れもなくアーヴィングの功績である。彼がいなければこの未曾有みぞうの変異に世界は混乱し、ろくに対策も打ち出せないまま滅んでいたことだろう。
 だが。
「本当に、このやり方しかなかったのか――」
 多くの犠牲が出た。降魔儀式の標的となった旧ARMSの……マルコや隊長たち。敵として対峙したオデッサにしても、アーヴィングの仕掛けがなければ敵ではなかったかもしれない。命を落とすこともなかったかもしれない。
 誰かの犠牲の上に成り立つ勝利など――。
「……わからないな」
 結局、迷っている。どれだけ歳を重ね経験を積んでも、この性分は直らない。
「ま、アシュレーはいいよ、それで」
「いいのか」
 幻滅されると思ったので、意外だった。贔屓ひいきじゃないですかとティムが小声でねている。
「わからない、っていうのも正直な気持ちだろうから。わたしはね、気持ちをごまかされたり、隠し事されたり、卑怯なマネされたりするのが一番嫌いなのッ」
 だから、とリルカは端末の操作盤を掌で叩いた。
「わたしは今、メチャクチャ怒ってる。トサカに来てる。合ってるよねこの言葉」
「合ってる」
「正しかろうがこの手しかなかろうが、関係ない。隠れてコソコソ卑怯なコトやってて、それであんな澄ました顔で仕切ってたと思うと、本ッ当に腹立つ。許せない。だから」
 文句言いに行ってやる、と怒りの魔法少女は宣言した。
「中心核だかガブガブ倶楽部だか知らないけど、乗り込んでって一言……じゃ済まないな。十言も二十言も言ってやる。じゃないとヘソのゴマが治まらない」
「腹の虫、な。まあ――」
 それについてはアシュレーも同意だった。彼に会って、彼の口から直接真意を聞きたい。そうでなければこのわだかまりは……治まらないだろう。
「ファルガイア中心核域、か。アーヴィングはなぜそんな場所に?」
 そういえば、結局それについてはわからずじまいだ。
「彼奴はトラペゾヘドロンで全てカタをつけるつもりじゃった。それが破られた今、次に何を企んでいるのやら」
 嫌な予感しかしないの、とマリアベルは顔をしかめる。
「そもそも、そんな場所行けるんですか? 中心核って地面のずっと下ですよね」
「難しいが不可能ではない。背塔螺旋を経由すれば侵入は可能じゃろう」
「ハイトウラセン?」
 聞き返すと、ほうと輪の外から声が上がった。
「それは、かのエルゥが打ち込んだ『くさび』のことかね」
 端末の解析を依頼したというマクレガー教授が、暗がりから姿を現す。
「地上から地下へと下る逆様さかさまの塔――即ち背塔螺旋。場所はシルヴァラント北東から突き出た半島の突端あたりだったかな。最深部には中心核へ通じる転送用魔導器が設置されていて、我が研究室でも一度調査に訪れたことがあったが」
「調査? まさか、それにアーヴィングも参加していたりは」
「ん? そういえば……いたかもしれんな。ああ、確かに参加していた」
 はっきり思い出したらしく、教授は目を細めて何度も頷く。
「それなら間違いないな。アーヴィングは」
 その塔から中心核に向かったのだろう。
「どうする」
 アシュレーは全員を見渡して、言った。
「書き置きでは、僕たちにもここに行くよう求めているようだ。けど」
 彼の目的は未だ不明である。何が起きるのか、どのような危険があるのかも未知数だ。自分はともかく仲間にそんなリスクを強いるわけにはいかない。
「妹と待つ、ねぇ……。ん?」
 端末の上に置かれた手帳を眺めていたリルカが、不意に声を上げた。
「これって……。ねぇ、マクレガー先生」
 手帳を取り、裏表紙の書き置きを教授に見せる。
「何かね。うん? ああ、これは……アナグラムか。妙な仕掛けがしてあるな」
 めつすがめつしながら、ぶつぶつと呪文めいた言葉を呟く。そして。
再生レプロダクトゥ
 そう唱えると文字が輝き出し、手帳の上に光の像を結んだ。
 その姿は――。
『我々は全人類の名代みょうだいとして、世界の命運をした戦いに臨む――』
 長い銀髪に端正な顔立ち。左眼の下の泣き黒子。
 松葉杖を突いて語る彼の立体映像が、頭上に投影された。
『諸君らは、この大地を護る――まさしくファルガイアの守護者ガーディアンとなるのである』
 台詞せりふには聞き憶えがあった。対オデッサ最終作戦――その直前のブリッジ。これはあのときの録画映像か。
『我々人間が個人で為せることは、高が知れている。その力は彼の守護獣に遠く及ばないかもしれない。だが、人類が力を結集し、意志を束ねることができれば――』
 必ず世界を護ることができる。
 その言葉に偽りはなかった。このときも、そして今も――彼は世界を護るためにあらゆる手を尽くしてきたのだ。
 映像の指揮官はそこで沈黙し、瞑目した。
 アシュレーは目をみはる。その所作は、まるで。
 ――すまなかった――。
 今ここで見ている自分たちに向けて、謝罪しているようにも見えた。
 全ては、彼の書いた筋書きのままに。
『諸君らの働きに期待している。これより』
 映像はそこで途切れ、後には完全な静寂が訪れた。

「それで」
 どうなったのですかと、ノエル王子は続きを尋ねてきた。
「どうもこうもないですよ」
 自分の髪の毛先をもてあそびながら、リルカが答える。
「アシュレーがどうにか仕切ってその場は解散。また明日集合してそれぞれ聞くんだって」
「聞く?」
「アーヴィングさんのところに行くかどうか。今回は任務じゃないから、みんなの意思を確かめて、行きたい人だけ参加ってコトにするそうです」
 リルカにはそれが不満だった。こんなときぐらい「俺についてこい」ってリーダーシップを取ってもよさそうなものなのに。
「ま、そうしないところがアシュレーらしいのかもしれないけど」
 何気なしにそうぼやいてみせたのだけど。
「なるほど」
 王子は納得したように笑って言った。
「リルカさんは、アシュレーさんのそういうところにかれた訳ですね」
「はあぁ? なんでそういう話になるの……って、なりますか」
 離れた場所から目を光らせている護衛に睨まれて、慌てて語尾を正す。
 護衛つきのデート。特別な感じはするけれど、やっぱり何かと窮屈ではある。
 やや背筋を伸ばしながら、視線を戻す。二人はホールの中央、眺望ちょうぼうのいい踊り場に設えられたベンチに並んで座っている。
 目の前には見上げるほど巨大なドラゴンの化石。ここに展示するために一頭丸ごとをわざわざ掘り出したのだという。
 ギルドグラードの中枢施設がある建物は、巨大な上に複雑な造りになっている。リルカも任務で何度も訪れているが、未だに道が覚えられず高確率で迷子になる。それ自体は困ったことではあるけれど、逆に考えればいつ来ても飽きることがないわけで、ここに来ること自体は割と楽しくもあった。
 ノエル王子とこうしてデートなんだか探検なんだかわからない街歩きをするのも、すっかりお馴染みとなっていた。最初は戸惑ったり緊張したりしていたリルカも、王子の気さくな振る舞いにつられて今ではすっかり肩の力も抜け、相手がこの国で二番目に偉い人であることすら時折忘れそうになる。
 そして、『あの夜』の返事も――まだ一度も催促さいそくされていない。本当にこちらが切り出すまで待つつもりなのだ。保留したまま会うことに心苦しさを感じるところはあったけれど。
 それでも。
 やっぱり、まだ返事はできない。わたしの気持ちは、まだ――。
「リルカさんの気持ちは、既に決まっているのですよね」
「へッ!? な、なにがですか?」
 心の中を読まれたのかと取り乱したが。
「ヴァレリア公のところに行くのでしょう。文句を言わないと気が済まない、と」
「ああ、そっちですか」
「そっち?」
 何でもないです、と火照ほてった顔を取り繕いながら、続ける。
「もちろん行きます。やっぱり文句は言いたいし、それに……聞きたいこともあるから」
「聞きたいこと、ですか」
 ノエル王子は神妙にこちらを向いたまま、言葉を切った。このあたりの間合いの取り方が絶妙だ。こうして待てば、相手が話したいときは続きが聞けるし、話したくないときには別の話題に切り替えることができる。
 寄り添いながらも突っ込みすぎない。この歳でこんな気遣いができることに、つくづく感心する。周りにいる男どもが揃いも揃って甲斐性かいしょうなしだから、ことさらその差を感じてしまう。
「別に、大したことじゃないですけど」
 リルカは話すことにした。
「あの人――アーヴィングさんは、ずっと辛くなかったのかな、って」
 みんな、彼を信頼していたのだ。指揮官として。仲間として。同じ志を持ち、同じ想いを抱いていると信じて、一緒に戦ってきた。
 なのに。
「あの人は、みんなを騙してたんです。結果的にみんなのためになることだったのかもしれないけど、それでも」
 隠して。嘘をついて。裏で手を回して。
「騙してたことには変わりない。それなのに」
「良心の呵責かしゃくはなかったのか――それを聞きたいのですね」
 聞き上手の王子はつたない言葉でも察してくれたらしい。リルカは俯き、唇を噛む。
「わたし、こう見えて嘘を見抜くの上手いんです。やましいことがあると、それを隠そうとしてみんな演技するから。演技かそうでないかを見抜くのは――」
 お手のものだ。なぜなら。
 自分がそうだったから。リルカはずっと『いつものリルカ』を演じていた。ドジで能天気で何もうまくできないけど、それでもへこたれず前向きで。
 転んでも「へいき、へっちゃら」で笑って済ます――そんな自分を演じ続けていた。
 あのままいたら潰れていたかもしれない。それを彼が、救ってくれた。「そのままでいい」って言ってくれたから、リルカは『いつものリルカ』をやめることができたのだ。
「演技には人一倍、敏感なんです。だけど」
 アーヴィングの演技だけは、見抜けなかった。
 彼の演技には、やましさを隠すという意図が全く含まれていなかったのだ。だから判らなかった。
「信じられないですよ。あんなとんでもない隠し事をしておいて、全然そんな素振りを見せないなんて。オデッサを倒せとか人類の敵だとか、平気で言ってるんですよ。自分が作ったようなものなのに」
「リルカさん――」
 王子の視線に気づいて、冷静になる。言いながら頭に血が上っていたようだ。
「アーヴィングさん、優しい人だと思ってたんです。とっつきにくい雰囲気だし、いつも眉間にシワ寄せて恐い顔してるけど、アルテイシアさんと話してるときは結構デレデレで、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい仲よしで」
 指揮官という肩書きを外したときの彼は、ごく普通の――妹想いの優しい青年だったのだ。
「そういうの、見ちゃってたから、余計に」
 信じられない。自分の中で整理がつけられない。
 下を向く。膝に置いた拳が涙でにじむ。
「リルカさんは」
 きっと悔しいのですね――と王子はその拳に手を重ねる。
「そう……なのかな」
 目頭から、涙のかけらがこぼれ落ちる。
「リルカさんの中にある、ヴァレリア公の想い出。それが全部偽りだったのではないかと疑ってしまったのですね。否定しようと思ってもできなくて、そんな自分が悔しくて」
 哀しくて――仕方ないのですね――。
 想い出の数だけ涙がこぼれ、リルカの拳に、王子の手の甲に落ちて弾ける。
「ぜんぶ、嘘だったなんて」
 思いたくない。だから、せめて。
 優しいあの人は、ずっと辛かったんだって――思いたいのだ。
「嘘ではありませんよ」
 王子が耳許でささやく。恋人というより、母親が子供に言い聞かせているみたいで少し気恥ずかしい。
「リルカさんの中にある想い出は、全部本当のこと。偽りなどではありません」
「でも、あの人は」
「ヴァレリア公は確かに多くの嘘をついて、たばかってきたのでしょう。けれども、それと同時に」
 本当に、本気で戦っていた。ARMSの指揮官として、世界を救うために、仲間たちと一緒に。
「だからあの方には、微塵のやましさもなかったのでしょう。気持ちは常に皆さんと共にあったから。皆さんと同じだと信じていたから。わたくしは、そう思います」
「……わたしは、そんなふうには」
 思えない。でも。
 人の気持ちなんて所詮わかるはずがないのかもしれない。わかり合うなんて、言葉の上だけの幻想なのかもしれない。
 それでも。
 リルカは顔を上げた。
 今は前を向こう。後ろを振り返るのは、終わってからいくらでもできる。この辛さは――明日本人にぶつけてやる。
 王子が横からハンカチを差し出す。どこまでも気遣いの紳士だ。
「いいです。鼻水ついちゃうから」
 断ってから、自分の袖で顔を拭う。
「ありがとうございます。おかげでちょっと、すっきりしました」
「どういたしまして。わたくしとしても、リルカさんの新たな表情を見られて眼福でした」
「うわ。泣き顔見て眼福とか、王子さまそういう趣味だったんですか」
「リルカさんの全てを観察するのがわたくしの趣味です」
「う……」
 爽やかにストーカー一歩手前な発言をされて、リアクションに困ってしまった。
「それでも、やはりリルカさんには笑顔が一番似合いますね。あれは格別です。笑って頂けた日にはもう、何も手につかなくなります」
「また、そういうことを――」
 あきれてため息をついたとき、何かが頭の片隅に引っかかった。
 ――わたしは――の笑顔、が――。
 あれは、小さいとき。いや。
「思い……出した」
 そうだ。あのとき、彼女も――。
「リルカさん?」
 不思議そうに覗き込む王子に何でもないですと返してから。
「そっかぁ……そういうことか」
 苦笑いを浮かべながら、頭を抱えた。
「何か大事なことを、思い出されたのですか」
 遠慮がちに王子に尋ねられて、ようやく心配されていることに気づく。
「ごめんなさい。そうですね……身内のつまんない話ですけど」
「聞きましょう」
「お姉ちゃんのこと、話しましたよね。参加した実験で事故が起きて」
 異空間に閉じ込められた姉。たぶん今も、あの扉の向こう側に。
「助けようとしたわたしに、お姉ちゃんが最後に何か言っていて――そのときは泣きじゃくっていて聞こえなかったのだけど」
「それを……思い出したのですか? 聞こえなかった言葉を?」
「聞こえてはいたんです。耳には入っていたけど、聞き取れなかっただけ」
 ぼうっとしていたり他事を考えていたりして、話が上の空だったりすることがある。あれだって相手の声そのものは耳に入っているのだ。受け取る側が認識して理解しなければ、言葉は単なる音のカタマリに過ぎない。
「その、音のカタマリが」
 リルカは自分の蟀谷こめかみを人差し指で突く。
「この中に残っていたんです。言葉になる前のお姉ちゃんの声が、ただの音としてずっと、頭の中の引き出しにしまわれていた。それが、さっき」
 王子の言葉をきっかけにして、引き出しが――開いた。
 二年前の姉の声が脳内で蘇り、リルカは彼女の言葉をようやく認識できたのだ。
「おかげで久しぶりに、お姉ちゃんの声が聞けました。ありがとうございます」
「リルカさん……」
 どんな言葉だったのですかと、ノエル王子は優しい声で尋ねた。
「うん。お姉ちゃんは」

 ――リルカ。もう泣かないで。笑って。
 私はあなたの笑顔が好きだから。あなたが笑っているだけで、私はとても幸せな気持ちになれた。
 それが、あなたにしか使えない魔法。誰の真似でもない、誰にも真似できない――あなただけの魔法。
 だから、どんなときでも笑顔を忘れないで。あなたの魔法で、みんなも笑顔にしてあげて。
 約束だよ――。

「笑顔の魔法――ですか」
 確かにリルカさんにしか使えませんねと、王子は微笑んだ。
「わたくしもいつの間にか魔法にかけられていたわけですね。どうりでずっとリルカさんのことしか考えられない訳だ」
「うへぇ。もうホント勘弁してください。お腹いっぱいです」
 うわついた言葉に身悶みもだえする。悪い気はしないが、全身がこそばゆくてたまらない。
「けどまぁ、魔法ならそのうち解けるかもしれないですよね。王子さまも」
「そんなことはありませんッ」
 突然詰め寄られ、手首を掴まれた。
「魔法が解けたとしても、わたくしの気持ちは変わりません。ですから」
「お、王子さま……」
 リルカは当惑する。しまった、変なスイッチを入れてしまったらしい。
 顔が近い。こちらを真っ直ぐ見つめる目は本気だ。逃げられない。
「どうか、あの夜の返事を――今ここで」
「おい」
 外野から声がかかった。これ幸いと王子から離れて、振り向くと。
「え」
 意外すぎる奴が立っていた。
「テリィ? あんたなんで」
 こんなところにいるんだ。魔法学校の制服が、鉄と機械だらけの背景に全く合っていない。
「ヴァレリアさんの館に行ったんだよ。そしたらギルドグラードにいるって聞いたから」
「わざわざ……来たの? わたしに会いに?」
「そ、ういうわけじゃ、ねぇけど……」
 鼻を掻いて目をらす。だったらどういうわけなんだと思ったが、あえて突っ込まなかった。
「その、教授せんせいから色々と話を聞いたから、それで」
「わたしのこと心配してくれたんだ。ありがと」
「だから、そうじゃねぇってッ」
 相変わらず素直じゃない。この級友はいつまで経ってもお子様だ。
「それより、何だよこいつはッ」
 テリィは、こともあろうに王子を指さして絡み出した。
「ARMSの人じゃないだろ。見たところギルドグラードの人間みたいだけど」
 つかつかと歩み寄り、張り合うように背筋を伸ばして睨みつける。何も知らないって怖いなあとリルカは思う。
「リルカさん、この方は」
「腐れ縁のクラスメイトです。不快なら今すぐ帰らせますけど」
「なるほど」
 それには及びませんと王子はリルカに断り、駆けつけようとしていた護衛も視線で止める。
「お前、何かリルカに馴れ馴れしいな」
「当然です。交際を申し込んでいますから」
「こッ……!?」
 テリィが目を白黒させる。なんだか面白そうな展開になってきたので、リルカはしばらく見守ることにした。
「まだ返事は頂けていませんが」
「フラれてんじゃねぇか」
「返事を頂けるよう努力しております。貴方はどうなのですか」
「ど、どうって」
 切り返されてうろたえるテリィ。察しのいい王子のことだから、こいつの気持ちなんてお見通しなんだろう。
 対するテリィは背後で睨みを利かせる強面こわもての護衛にすら気づいていない。バカでお子様で鈍感なのだ。
「何がだよッ」
「その様子では、自分の気持ちすら伝えられていないようですが」
「なッ!」
 どう見てもこっちのが旗色が悪い。ついでに背丈も頭ひとつ分低い。
「そんな体たらくでは、勝負にすらなりませんねぇ。困ったものです」
 にこりと余裕の笑みを浮かべるノエル王子。勝ち誇った、というよりはいつもの親しげな笑顔だったけど、その裏にしっかり相手への牽制けんせいも潜ませている。さすがは次期頭領だ。貫禄が違う。
「お、オレはなッ、その」
「はいはい。もういいって」
 さすがに見ていられなくなって、間に割って入った。
「王子さま、そのへんにしてやってください。これ以上やると弱い者イジメです」
「そうですね」
 大人気ありませんでしたと王子は会釈する。その言葉もなかなかの切れ味だ。
「へ? 王子って」
 ようやく何かに気づいた間抜けづらを軽く小突こづいてから、リルカは王子にお辞儀をした。
「それじゃ、帰ります。頭領マスターにもよろしくお願いします」
「ええ。父上のことはお任せください」
 お気をつけて、と名残惜しそうに言うと、ノエル王子は護衛の方に歩いていった。
「な、なあ、あの人ってまさか」
「行くよ」
 青ざめる鈍感チビの手を取り、リルカはテレポートジェムを掲げて呪文を唱えた。

 ――お姉ちゃん。
 約束するよ。もう泣かない。みんなを笑顔にするために頑張ってみる。
 だから。どうか。
 最後まで、わたしのこと見守っていてね――。

「そうか」
 あの旦那がなぁと、ボフールは煙草を吹かしながら呟いた。
「そんな風には見えなかったがなぁ。俺の目も耄碌もうろくしたか」
 髭まみれの渋面じゅうめんを、カノンは横から眺める。向かい側ではブラッドも同じように木箱に腰かけ、この工房の主を見ている。
「無理もない」
 ブラッドが重い声で言う。
「お前だけではない。今に至るまで誰一人、気づかなかったのだからな」
「でも、そのオデッサの女は気がついてたンだろ? ええと」
 オデッサ幹部――アンテノーラ。元スレイハイム王族の娘。
「どうして上司なり同僚なりに言わなかったンだろうな。そうすりゃまだ対抗する手立てがあったかもしれねぇのに」
「さあな。伝えたところで信じてもらえないと思ったのかもしれん。何しろ、奴らの頭――ヴィンスフェルトは」
「馬鹿なのか」
「馬鹿ではないが、度量は狭い。自分の支援者と敵対組織の指揮官が同一人物などという話は、到底許容できないだろうな」
 愚かなのだとブラッドが言う。そんな愚かモンが上司じゃ部下は不幸だなとボフールは苦笑した。
「アンテノーラは――」
 カノンは口を開く。
「嘘つきになりたくないと言っていた。その意味は」
 今でもわからない。だが。
「あの『事実』を遺すことで、自分の中にあった何かを清算しようとしていたのかも――しれないな」
 戦乱の渦に巻き込まれ、翻弄され続けた、哀れな娘。
 彼女は今も、あの森で――眠り続けているだろうか。
「お前は魔界柱で、アンテノーラと戦ったのだったな」
 心中を察したブラッドが言う。
「俺はトロメアと戦った。あいつは……ヴィンスフェルトに従いながらも自らの理想のために戦っていた。敵ではあったが、その志には感ずるところがあった」
 アンテノーラ。トロメア。オデッサの中枢にいた者たち。だが、それも。
 彼らも犠牲者だ、とブラッドは言う。
「アーヴィングの仕掛けに掛かっていなければ、彼らがこの戦いに巻き込まれることもなかっただろう。もしかすれば」
 敵ではなく、味方として出会っていた可能性だって――あったのだ。
 カノンは妄想する。
 シャトー最上階のブリッジ。指令台に立つアーヴィング。その下に並ぶ隊員の中には、隻眼せきがんの巨漢と赤髪をなびかせた女が――。
 だが、その可能性は。
「逆にお前さんたちがあちら側だった可能性も、あったンじゃねぇのか」
 そう。
 特に自分は、一時はオデッサにくみしていたのだ。あのままARMSの敵となっていてもおかしくない。むしろその方が自然な流れであったとさえ思える。
「いや、お前は最初から、こちら側に来るようになっていたと――思う」
「何故だ」
 根拠を問うと、ブラッドは背中を丸め、言葉を選びながら答えた。
「アーヴィングはお前を隊員候補としてリストアップしていたと言っていたな。それはつまり」
 存在を把握しながらもARMSに入れることを保留していた――ということか。
「オデッサ側につくことも想定内だ。お前がオデッサとARMSの間で動き、戦況をかき乱すことで両者の均衡は保たれていた。そして頃合いを見て、ここぞというタイミングで引き入れる――あの男は最初からそういう流れを見越していたのだ。言わばこの戦いのバランサーとしての役割を、お前は担っていた」
 事実、カノンがARMSに加わったことで均衡は崩れ、こちらの有利に傾いた。そして一気にオデッサ壊滅へと突き進んでいくのだが――。
「そこまで計算ずくかよ。恐ぇなぁ」
「少なくとも大枠の図面は引かれていたのだろうな。偶然による軌道修正の余地も残した、凄まじい規模の図面だ。こんなもの」
 気づける訳がない、とブラッドは頭を横に振った。
 その様子を見て、カノンは思い出す。
「いつかお前は、自分の意思で動いているか確証が持てないと……言っていたな」
「ああ。いささか意味合いは違うのだが――その感覚は正しかったようだ」
 自分の意思だと思っていたことが、ことごとく彼の意思によるものだった。
「私がこうして生きているのも――」
 彼の計略のうちか。そう考えると――。
「いいじゃねぇか」
 おもてを上げると、目の前の木箱に白磁のカップが置かれた。
 人数分の茶を置き終えると、ボフールはカノンの肩を叩いてから自分の席に戻る。
「お前さんは自分で考えて、自分で動いて、自分でこの居場所を掴み取ったンだ。そのことには変わりねぇ。それがあの旦那の敷いたレールの上だったとしても」
 関係ねぇ、と老技師は髭に隠れた口許を曲げて笑った。
「人は結局、誰かによって生かされ、誰かによって死に往く――」
 湯気を上げるカップを眺めながら、ブラッドが言う。
「誰しも一人で生きている訳ではないからな。程度の差はあれ必ず他者の干渉を受けながら、俺たちは生きている。そう考えれば、この状況も」
 そんなに――悪くはないか。
 カノンはカップを取り、口をつけた。この火薬臭い茶もすっかり慣れてしまった。
「――アーヴィングは」
 どう決着をつけるつもりなのか。この戦いに。そして――自分自身に。
「見届けるしかないのだろうな。奴の敷いた、このレールの先に」
 果たして、何が待っているのか。
 彼のつむいだ物語。その結末を予感して、カノンは静かに背中を震わせた。

「そんな」
 いつの間に、とトニーはへなへなと崩れ落ちた。
「やっぱり顔か。世の中みんな顔で決まっちまうのか。ちくしょう、オレだって十年後にはッ」
「トニー君、落ち着いて。よく見てください」
 後ろからスコットが声をかける。
「わたくしなりの結論といたしましては、これはトニー君が想像したような場面ではなく、いわゆるひとつのカツアゲかと」
「それも違うわッ」
 マリアベルは二人にそう叫んでから、向き直る。目の前には。
 守護獣ガーディアン使いの少年――ティム。捕食される前の小動物のように怯えている。マリアベルが胸倉を掴んで引き寄せているのだ。部屋に入るなりこれを見たトニーは接吻せっぷんでもしていると勘違いしたか。
「な、なんだ、ティムをいじめてんのか。よかった」
「厳密には良くありませんが。それで」
 どのような経緯でこんなことに、とスコットは冷静に尋ねた。
「別に大したことではない。ガイアと話がしたいだけじゃ」
「ガイア……というと、ティム君に宿ったとかいうガーディアンの集合体――でしたか」
「そうじゃ。よく知っておったの」
方々ほうぼうを聞き回って調査済みです。皆さんの動向は一通り把握しておきたいので」
 この子供は歳の割になかなかさとい。冷静さも持ち合わせているし、長じれば組織を率いる指導者になれる器かもしれない。
「出せと言うても出し方がわからぬと言うのでな、それで」
「強硬手段、ですか。出てこないと血を吸うぞ――と」
 脅し方まで合っている。中々やりおるとマリアベルは少し感心する。
「全く、野蛮極まりない」
 不意にティムの表情が変わった。うつろな半目はんめでこちらを見返す。
「お、出てきたの」
「ノーブルレッドはもう少し知的な種族だと思っていたが」
 手を放すと、取り澄ました顔で距離を置き、横を向く。明らかにあの内気な少年ではない。ガイアの意識が出ている。
「悠長に待っている時間はないのじゃ。大目に見ろ。して、ガイアよ――」
 やはり弱っているな、とマリアベルはその姿を眺めて言った。
 ティムを包み込む光が、祭壇で見たときよりも明らかに薄れている。意識レベルも低く、表に出るだけでやっとといった具合だ。
「しょうがないじゃん、あれだけマナが出ていったら貧血にもなるっての」
 ガイアが幼い子供の口調になって言った。後ろでトニーが目を丸くしている。
「貧血、のう。それでは当面はうぬらの力は頼れぬか」
「まあね。ていうか、これ以上僕らの力を使ったら、この子死んじゃうよ」
 グラウスヴァイン戦でティムは吐血して倒れている。やはり人間の肉体には分不相応な力ということか。
「ガーディアンにとって、マナは血液のようなものなのですか」
 スコットが尋ねる。興味が湧いたらしい。
「マナは大地の血脈。ファルガイアを支えし私たちにとっても欠かせない力の源です」
「ふむ。ならば血液というよりエネルギー源……食料と言った方が適当かもしれませんな」
 納得したのか大きく首肯しゅこうする。ガイアの口調の変化については別段驚く様子はなかった。
「私たちとファルガイアは別の個体でありながら、総体としては同一。故に互いに影響が及んでしまうのです」
「だが、ルシエドは手を貸してくれたぞ」
 欲望のガーディアン――ルシエド。聖女と共に災厄と戦った伝説の魔狼は、トラペゾヘドロンでも再び姿を現し、その力を人間たちに貸した。
「あれはガーディアンの中でも異端の存在。ファルガイアの加護より外れているが故に、大地の影響も受けぬのだ」
「例外もあるということじゃな。ならば他にも、ファルガイアの影響を受けぬガーディアンがおるのではないか?」
 マリアベルはなおも問い質す。ガイアは今更何をという視線を向けながらも、気怠けだるげに答えた。
「ガーディアンロード――」
 愛、勇気、希望のガーディアン。彼らもルシエドとは異なる意味において、伝説の存在である。
「そして――グラブ・ル・ガブル」
「それじゃ」
 泥のガーディアン、グラブ・ル・ガブル。アーヴィングが向かったという中心核域に棲む、生命の始源――。
「わらわはそのガーディアンの委細いさいを知らぬ。何やらエルゥが企んでいたという話は耳にしておったが」
 くだんの背塔螺旋は、エルゥがグラブ・ル・ガブルとの接触アクセスを図るために造ったというが、その目的まではマリアベルも知らなかった。
「そのようなこと、知って何とする」
「わらわたちは明日そこへ行く。できる限り情報を得ておきたいのじゃ」
 泥のガーディアンとはいかなる存在なのか。エルゥは何をしようとしていたのか。それらを知ることで、あるいはアーヴィングの目的も掴めるかもしれない。
「良かろう。だが――」
 ふ、とティムの身体が脱力し、輝きが失せた。そして再び顔を上げた少年は。
「あ……しゃべれる」
 元のティムに戻っていた。
「な、何故ガイアを引っ込めたッ。まだ話が残っておるというに」
 また胸倉を掴もうとしたが、今度はティムの方が逃げて空振りに終わった。
「げ、限界だそうです」
「限界ぃ? 表に出るのがか」
 まだ十分も経っていないというのに。予想以上に弱体化が著しいようだ。
「あ、ガイアが『伝えてほしい』って言ってます」
 どうやらティムにだけはガイアの声が聞こえるらしい。下を向き幾度か頷いてから、たどたどしく彼らの言葉を伝える。
「『グラブ・ル・ガブルとは生命の源。あらゆる生命を無尽蔵に生み出す世界の子宮……である』――子宮って、女の人のお腹にある……アレのことですよね」
「いちいち反応せずとも良い」
 続きを催促すると、思春期の少年は頬を染めながら再び口を開く。
「『惑星という器に宿りしグラブ・ル・ガブルはファルガイアとの婚姻を経て、の世界と交わり種を……受けることによって、生命を』」
 ニヤニヤしないでよトニー君ッ、とティムは途中で同じく思春期の友人に叫んだ。
「はあ――」
 ちっとも話が進まない。マリアベルはアカとアオを飛ばしてトニーを黙らせてから、ティムに凄んでみせた。
「ご、ごめんなさいッ。『意識を持たぬグラブ・ル・ガブルは無秩序に生命を産み落とし、ファルガイアがそれを育み進化を促す。斯様かようにしてファルガイアは生命あふるる世界となったのである』」
「生きとし生けるものの母たるガーディアンですか。壮大な話ですなぁ。まるで神話のようです」
 一方スコットは顔色ひとつ変えない。同じ年頃でこうも違うものか。
「世界の子宮……のう。アーヴィングはガーディアンを臓器になぞらえておったが」
 まさしく当を得ていたということか。あの貴族の慧眼けいがんにつくづく感服する。
「ならばアーヴィングがグラブ・ル・ガブルの許に向かったのも、その機能を利用して異世界の『器』を――いや」
 産まれたばかりの生命が世界の器たり得るとは思えない。カイバーベルトを宿すには惑星クラスの器でなければ収まらないはずだ。
 それに、グラブ・ル・ガブルは無秩序に生命を産んでいるという。アーヴィングといえども介入するのは不可能だろう。
 そう、恐らくエルゥも――。
「失敗したのだな。生命を産み出すガーディアンなどと知れれば、あの連中が放っておくはずがない」
 機械に特化したノーブルレッドに対し、エルゥは生命の領域にまで踏み込もうとしていた。グラブ・ル・ガブルを制御して自分たちのほしいままに産まれる生命を操作する――あの逆様の塔は、そのための『楔』だったのだ。
「『おそれを知らぬ彼の種族は、大地に穴を穿うがち禁忌を犯した。そう――あの悲劇も彼等の愚行なればこそ』」
「悲劇?」
 それは何じゃとマリアベルは問い質した。
 ガイアは躊躇ちゅうちょするように間を置きつつも、少ししてからティムの口を借りて答えた。
「『暴挙に憤りし火のガーディアンが、彼の者共といさかいを起こしたのだ。泥の海にて両者は縺れ合い、傷を負い――』」
「火のガーディアン?」
 まさか、それは。
「『千切れた一翼が泥の海に落ち――』」
〝あれ〟が産まれた。
「焔の災厄――ロードブレイザー――」
 負の感情に冒された翼。それが産まれゆく生命に触れたことで。
 魔神は――誕生したのだ。
「それでは」
 世界が絶望の渦に呑まれたのも。
 同胞が命を落としたのも。
 彼女が犠牲になったのも――。
「全部、エルゥ共の所為せいではないかッ!」
 マリアベルは叫んだ。
 闇の中に突き立った、剣の墓標。どれだけ時を重ねようともあの光景は脳裏に焼きついて消えない。
「アニーは、わらわの友は、そんなことの為に……ッ!」
 言いようのない感情がはらうちでのたうち回る。酷く不快だ。吐き気がする。
「マリアベル……」
 ふと横を見ると、トニーが心配そうな顔をしていた。
「……ふん」
 こんな人間の子供に気を遣われてはノーブルレッドの名折れである。体裁を繕い、どうにか立ち直る。
「『彼の許は全ての始まりの地であり、災厄が生まれた地である。故に我らは――危惧きぐしている』」
「危惧?」
「『魔神を宿した人間が、彼の地に赴くことに。原初の光景である泥の海を目にすることで』」
 それが最後の引金トリガーになり得る――ということか。
 グラウスヴァイン戦ではマリナが文字通り命を懸けて引き戻してくれたが、同じような奇蹟はもはや望めないだろう。
「まあ、用心するしかないじゃろうな」
 このに及んでは、彼を待機させるという選択肢はない。本人も納得しないに違いない。伝えるだけは伝えておいた方がいいかもしれないが。
「よう判った。後はわらわたちに任せておけ」
「『期待はしておらぬ』」
 ガイアは言った。
「『滅びもまた定めなりしもの。だが、もし再び』」
 奇蹟を起こせるものならば――。
 最後まで言い切ることなく、ガーディアンの『意思』はティムの意識に沈んでいった。
「再び奇蹟を、か。だが既に、再び起こしてしまったからのう」
 奇蹟もそう安売りはしてくれないだろう。
「ボク、最近ちょっと思うんです」
 ティムが久しぶりに自分の言葉を発する。
「奇蹟って、強い気持ちとか、願いが起こすものなんじゃないかなって」
「気合があれば何でも乗り切れる、みたいな? ティムって意外に体育会系なのな」
「違うよッ。なんていうか、マリナさんがアシュレーさんを戻したときみたいな」
 迷い、悩み、苦しんだ。それを乗り越えた彼女の想いは一層強くなり。
 愛するが故に。
 勇気を奮い立たせ。
 希望を胸に宿して――。
「ガーディアンロード、か」
 あのとき見た金色こんじき裳裾もすそは、もしかしたら――。
 奇蹟の片鱗を感じて、マリアベルは人知れず紅玉ルビーの瞳を細めた。

「そうだな」
 これからのことを考えるのもいいかもしれないと、アシュレーは穏やかに言った。
「遠くない未来のこと。元のファルガイアに戻った後、僕らもみんなも何をしているのか――」
 そう話す彼を、マリナは横から見ている。厚くなった胸板。一回り大きくなった首回り。成長を実感して嬉しさと寂しさが混じったようなうずきを覚えた。
「未来、か」
 頭を動かし、彼と同じ天井を眺めながら、マリナは思う。
 未来とは結局のところ空想に過ぎない。過去から導き出された可能性に願望を上乗せした――絵空事えそらごとのようなものだろう。そればかり考えていては、ただの現実逃避にしかならない。
 でも。
 未来に想いを馳せることができるから、人は現在いまを懸命に生きようと思えるのだろう。絶望とはすなわち望み――未来が絶たれること。希望とはすなわち、未来をねがうこと。
 だから、今のアシュレーにはそれが必要なんだと、マリナは思った。
「みんな有名になっちゃったから、大変だろうね。リルカちゃんなんて銅像ができるんだったっけ?」
「あれは、結局本人とは似ても似つかない像になりそうだからなぁ。すらっとした長身の美人で」
 本人も嫌がっていたから、ある意味良かったんじゃないかとアシュレーは言う。マリナは笑った。
「リルカちゃん、いい子だよね。幸せに……なってほしいな」
 マリナにとっては命の恩人でもある。そのことは決して忘れてはいけないことだと思う。
「僕も何度も助けられたよ。頼りないリーダーでもどうにかやってこられたのは、リルカがいてくれたおかげだ」
 彼女は元々は姉の代理でARMSに入ったという。それが今や隊の中心で仲間を支えている。その芯の強さと実直な物言いを、マリナはいつも羨ましく思いながら見ていた。
「戦いが終わったら――」
 恐らくARMSは解散となる。指揮官アーヴィングの企みは三大国家にも伝えられたという。彼に依存してきた国の元首たちもようやく目が醒め、一組織に過ぎない特殊部隊に頼り切ることの危うさに気がついたことだろう。
「みんなともお別れなんだね。寂しいな。カノンさんなんて最近仲良くなったばかりなのに」
「仲良くなってたのか?」
「うん。色んなこと知ってるからとても面白いんだよ、カノンさんの話」
「そ、そうか」
 どうやらアシュレーの方はそこまで彼女と親しくなれていなかったようだ。先を越されたという顔をしている。
「また渡り鳥に戻るのかな、カノンさん。時々は顔を出してくれるように言っておかないと。他のみんなにも」
「来てくれるよ」
 アシュレーはこちらを向いた。
「『港』はみんなが集う場所だから。どれだけ遠くの海に出ても――いつか戻る」
「うん」
 リルカ。ブラッド。ティム。カノン。マリアベル。トニーにスコット。シャトーの人たち。
 そして――。
「アーヴィングさんと……アルテイシアさんも」
「連れ戻してみせるよ。約束する」
 衣擦きぬずれの音。肌が触れ合い、目の前に。
 愛しいひとの――顔。
「アシュレーは、ずっといてくれるよね」
「ずっといるよ。僕の帰る港は」
 いつも、ここだから――。

 未来を希いながら、マリナは静かに目を閉じた。

 渦を巻く青黒い空。枯れ果てた大地と、闇を孕んだ海。
 艦橋ブリッジの指令台。かつての指揮官の定位置だった場所に立って、アシュレーは絶望に覆われた世界を眺めていた。
 ファルガイアはこのまま異形いぎょうに呑まれるしかないのか。もはや希望は――ないのだろうか。
 いや。
「新指揮官さま、かぁっくいー」
 背後の扉が開き、リルカが入ってきた。
「まだちょっと違和感あるけど、似合ってるよ」
「からかうなよ。僕は」
 リーダーの器じゃない――と言おうとしたが、今更それもないかと思い直してやめた。
「何じゃ、もう来ておったのか」
 次に入ってきたのはマリアベル。例によってトニーとスコットを従えている。
「あんたたち、すっかり下僕が板についてるねぇ」
「下僕じゃねぇよ。オレはな、その」
「『マリアベルをひとりぼっちにさせたくないから、できる限り一緒にいたい』と以前トニー君は申しておりました」
 言うなよッとトニーが飛びかかり、ひらりとスコットが躱す。この掛け合いもすっかりお約束だ。
「ふん。小童こわっぱごときにわらわの孤独が癒せるか」
 まあ小間使いには丁度いいからの、とわざとらしく不機嫌な顔をする。
「そうか」
「何じゃ。文句あるのか」
「いや、何でもないです」
 アナスタシアには仲良くしてくれと頼まれていたが――親友を喪い孤高を貫いていた彼女も、今はもう寂しくはなさそうだ。
「みんな早いですッ」
 また扉が開き、ティムが慌てて入ってくる。
「九時集合でしたよね。間違ってないですよね?」
「合ってるよ。僕はただ、ここで少し考えたくて」
「わたしはもう、普段から早寝早起き早出勤だし」
 リルカは胸を張るが、実際は寝坊の常連である。
「嘘なのダ。緊張で寝られなかっただけなのダ」
 目にクマが浮いてるのダ、とティムの鞄からプーカが頭を出して余計な指摘をする。
「あぁ? もっかい消してやろうか、この腹黒亜精霊」
「望むところなのダ」
 険悪な両者の間でおろおろするティム。これもまた見慣れた光景だ。
 変わったこともあり、変わらないこともある。当たり前ではあるのだが――それがアシュレーには何だか嬉しく思えた。
「あ、ブラッド。カノンさんも」
 定刻通りに二人が入ってきて、これで全員が揃った。
「さて――」
 指令台から降りて、アシュレーは仲間たちを見渡した。
「僕はこれからアーヴィングのところへ行く。みんなは――」
「聞くまでもないと思うけど、ねぇ?」
 リルカが他の皆に確かめる。否定する者はいない。
「アシュレーは気を遣いすぎだよ。指揮官なら、誰かさんみたいに嘘ついてても平然としてるくらい図太くなくちゃ」
「だったら指揮官は辞退するよ。僕は」
 自分のやり方で。
 扉が開いた。入ってきたのは。
「あたしたちもいるよッ」
 エイミー、ケイトのテレパスメイジ二人組に、操縦士エルウィン、機関長のガバチョとエベチョチョ――ARMSを支えてくれた隊員たち。
「そしてッ」
 この子も、とエイミーが正面の窓の前に立って両手を広げた。背後の窓外に、ぬっと大きな影が差す。
「ああ……ロンバルディアもありがとう」
〈良い暇潰しになっておるよ。たまにはこういうのも悪くない〉
 未開の僻地へきちにある背塔螺旋へ行くには彼の翼が必要だ。よろしく頼むとアシュレーは妙に気安いドラゴンに言った。
「みんなも、今までありがとう。アーヴィングに代わって礼を言うよ」
「そんな、今生こんじょうの別れみたいに言わないでください」
 ケイトが言う。見ると涙ぐんでいるようだ。よしよしと戻ってきたエイミーが頭を撫でる。
「帰ってきてください。指揮官サーとアルテイシア様も一緒に」
「ああ、必ず」
 帰ってくる。絶望の世界を、希望に満ちた世界にするために。
「これが、たぶん僕らの」
 振り返る。無人の指令台。その向こうには。
「最後の――任務だ」
 荒野に咲く、小さな花が――見えた気がした。