■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Prologue 3 最後の英雄

(俺は死んだ。
 あの白き光に呑まれて、ちりも残らず消滅した)

 俺は生きている。
 孤島の監獄で、泥水を啜って生き延びている。

(死にたくて死んだ訳ではない)
 生きたくて生きている訳ではない。

(それでも俺は生きられず)
 それでも俺は死にきれず。
 俺という存在だけが、
(空虚に世界を揺蕩たゆたっている)

 俺は何者だ。

(英雄などと――呼ばれたこともあった)

(世界の為に戦って)
 世界によって打ちひしがれた。
(人は俺を英雄と讃えた)
 或いは愚者とあざけった。

 その皮肉を、哀れな末路を。
(俺は世界に示し続ける)
 その為に生き続ける。

「最後の英雄」として、俺は生き延び、
(そして死ぬ)

(俺は誰だ)

 俺の、名は――

「ブラッド・エヴァンス」
 鉄格子の向こうから声が掛かった。
「食事、置いとくよ」
 犬の餌入れのような鉄皿が差し入れられる。俺は構わずに懸垂けんすいを続けた。
 壁の上方にある小窓のへりに指先を掛け、背筋はいきんを絞って身体を持ち上げる。頭が小窓と同じ高さになったところで、しばらくその体勢を維持する。
 窓から臨む海は荒れていた。空一面に分厚い雲が垂れ込め、水平線の辺りから遠雷もとどろいている。
 ――嵐、か。
 懸垂を止めて床に降りる。それから振り返って鉄格子を睨んだ。
「……何を見ている」
 食事を運んできた男が、まだ通路に突っ立っていた。
「あ、ああ。えっと」
 男は愛想笑いを浮かべて口籠もる。白い襯衣シャツに綿地のズボンという身形みなりは囚人と同じだが、あちら側にいるということは看守なのだろう。
 このイルズベイルは、監獄でありながらも自治領の体裁を取っている。とは言え民主的な統治が為されている訳ではなく、獄長と呼ばれる囚人の長が支配する――要するに独裁だ。囚人は獄長の裁量ひとつで看守になることもできる。故に獄長に媚びて取り入ろうとする輩も多い。
 大方この男もそうした手合いなのだろう。別段軽蔑けいべつするつもりはないが、同じ囚人なのだから従うわれもない。
「皿を回収したいなら後で来い。食ったら廊下に置いておく」
「いや、その、そうじゃないんだ」
 男は視線をらすように首を傾げて頭を掻いている。端正な容姿は生白く、妙に幼く見えた。こんな曰くつきの場所に放り込まれるようなツラには見えない。
 疑念が湧いた。
「……何者だ」
「ただの囚人だよ。一昨日ぶち込まれたばかり。ま、それなりにコネはあるんで配慮はしてもらったけど」
 親父が反省ついでに社会勉強してこいってさ――と言って、屈託くったくなく笑う。
「しっかし、ここって凄いねぇ。まさしく絶海の孤島じゃん。この建物も古いけど、歴史の重みってやつ? そういうのがバンバン感じられて風情があるし。いやぁ、来てよかった」
 まるで物見遊山ものみゆさんだ。監獄送りにされた囚人の台詞とは思えない。
 俺は辟易へきえきしつつ鉄皿を取ると、寝台に腰を下ろす。皿には石のように堅いパンと燻製肉が一切れ入っていた。
「なぜ俺を見ていた」
 燻製肉を噛み千切りながら、俺は再度問い質した。
「ああ、気を悪くしたなら謝るよ。単に興味があっただけなんだ」
「興味だと?」
「『英雄』ブラッドだろ、あんた」
 久しぶりに耳にした言葉に、まなじりがピクリと反応した。
「スレイハイム解放戦線の立役者。まぁ公式には内戦の戦犯なんだろうけど。たった一人で一個大隊を壊滅させて戦況をひっくり返したとかいう」
「一人じゃない。二人だ」
 それだけ返すと、パンを千切って口に入れる。
「あれ、そうなの? そういや相棒がいたって話もあったっけ……。じゃあ、その人は」
「死んだ。『天使』に呑まれてな」
「ああ……そうか。そうだよな。ごめん」
 男は真顔になって下を向く。まるきり叱られて悄気しょげる子供だ。
 俺は黙って食事を続けた。最後のパンの一切れを口に放り込むと、空になった皿を通路に差し出す。
「なあ。あんた、どうして捕まったんだ?」
 鉄皿を取ってから、再び男が尋ねてきた。
「あんたほどの男なら、追跡部隊から逃げ切ることくらい簡単だったんじゃないか。まるでわざと捕まったように、オレには思えるんだけど」
「見てきたような物言いだな」
「あ、ご、ごめん。怒った……かな」
 別に怒ってはいない。一々いちいち琴線きんせんに触れる言葉を投げかけてくるが、悪意がないためか、それほど腹は立たない。
 ……不思議な奴だ。
「オレ、あんたのこと尊敬してるんだ」
 弁解するように男は言う。
「仲間を売って逃げ延びたヴィンスフェルトなんかと違ってさ、最後まで意志を貫き通して、仲間を守るために戦って。だからさ、もしかしたらあんたが捕まったのは、他の仲間の身代わりとして……」
「買い被り過ぎだ」
 俺は男の言葉を遮った。
 別に仲間を逃がす為に捕まった訳じゃない。俺が捕まったのは。
 ――そう。
「……雨が降っていたからだ」
 小窓を振り仰ぐ。
 四角に切り取られた曇天どんてんから、雨が落ちている。
「雨?」
 男は目を丸くして、首を傾げた。仕草がどこまでも子供染みている。
 俺は口の端に笑みを洩らす。笑ったのは数ヶ月、いや、数年振りのことだった。
「知りたいなら聞かせてやる。時間はあるか?」
「あ、うん。あんたの話、聞かせてよ」
 何故か、話してみたくなった。
 単なる気紛れか。それとも。

「五年前、俺が捕まったのは――」

 雨の――所為せいか――。

 ――そう。
 やけに不快な雨が降っていた。
 細かい雨粒が皮膚にへばりつき、吸い込む空気も肺に水が溜まりそうなほど湿気を帯びていた。
 足許の泥土は柔らかく、歩くとくるぶしまで沈み込んだ。気温はさほど低くないが、湿度の所為で息を吐くたび視界が白く曇る。
 枯れた大木の幹の間を、俺は覚束おぼつかない足取りで彷徨さまよっていた。追跡部隊から逃れる為に森に入ったはいいが、奥に進むうちに方角を見失ってしまった。
 森ならば木陰に隠れて休むこともできると目算もくさんしたが――生憎あいにくこの森は酷く荒れていた。何が原因なのかは知らないが、木々は枯れ、土は痩せ、獣や鳥の姿も見当たらない。これでは休息の場所など望むべくもない。
 ――とにかく森を抜けなくては。
 そうは思ったものの、どちらが出口か見当もつかない。昼間にもかかわらず周囲は薄暗く、もやも掛かっているため視界はすこぶる悪い。見渡したところで目につくのは廃墟の柱めいた幹ばかり。
 真っ直ぐ進めばいつかは抜けられる。しかし自分が本当に真っ直ぐ歩いているかも自信がない。不安が足取りを重くし、更に疲労も蓄積する。
 ――まだだ。
 ――まだ死ぬ訳にはいかない。
 ――俺が持つ、この名には、まだ――。
「……なって……だッ……」
 不意に声が聞こえた。正面から……いや、上の方?
 刮目かつもくすると、靄の向こうに土肌が見えた。崖だ。声はこの上か。
 崖の麓の一角に窪みを見つけて、そこに身を隠す。ここなら会話も聞き取れる。
「ちぃーっとも見つからんではないかッ。本当にここに逃げ込んだのか? ええ?」
 金切り声で誰かをなじっている。察するに追跡部隊の隊長か。
「確かに目撃した者がおります。それに、森の中にこれが」
 部下らしき男が答える。それから少し間を置いて、隊長が声を上げた。
認識票ドッグタグか。ほお……やはりあの男はブラッド・エヴァンスだったか。くくく、これはいい。大手柄ではないかッ」
 ――認識票だと。
 俺は上着の隠しを探った。ない。落としたのか。
 何という――迂闊うかつなんだ。
 歯を食い縛り、髪をむしる。苛立いらだち紛れに額に巻いていた布も引き千切る。
「増援は既に来ているのだな?」
「はっ。近隣の村より男どもを動員して、捜索に当たらせています」
 激しく動揺する俺とは対照的に、頭上の追跡部隊は活気づく。
「よぉし、この森で必ず奴を捕らえよ! 草の根分けても探し出せッ」
 部下が歯切れ良く返事をして、会話は終わった。崖の上の気配も消えた。
 俺は乱れた息を整える。それでも動揺は収まらない。
 認識票。取り返さなければ。
 だが、それは間違いなく自殺行為だろう。追跡部隊は二十名余。更に増援も来ているという。
 今の俺にあるのは、この疲れ切った身体と、弾の切れた機械式手甲マイトグローブのみ。もはや奴らに対抗する術など持ち合わせていない。
 ――これまで、か。
 そう思った刹那、全身の力がみるみる抜けていった。泥混じりの水溜まりに尻をつけて、崖に寄りかかる。
 認識票を――その名を失った俺には、もう何も残っていない。
 生きている意味は、なくなった。
「ふ、は、はは、は……」
 何故だかやたらと可笑おかしかった。狂ったのかもしれないと、我ながら思った。
 そして急激に眠気が襲ってきた。とうの昔に疲労の限界は超えていたのだ。気力だけでここまで歩いてきたが、その気力も遂にえた。
 俺はまぶたを閉じた。雨音と、雨の匂い。そして微かな草木の青臭さ。
 なんだ、まだ森は生きているじゃないか。
 そんなことを考えながら、俺は緩々と意識を手放した。

 獣の息遣いを頬に感じて、目を覚ました。
 反射的に俺は後退あとずさったが……崖に寄りかかっていることを失念していた。土壁に後頭部をぶつけて同じ場所にうずくまる。
 眩々くらくらする頭を振りつつ前を見ると――犬がいた。馬のような栗色をした中型犬。舌を出して白い息を吐きながら、俺の様子を窺っている。
 魔物でなかったことに安堵して、再びその場に座り込む。犬は鞭のような細長い尾を振りながら近寄ってきた。
 人に慣れている。首輪はないが……どこかの飼い犬だろうか。
 顎の下を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細める。雨と泥に塗れていたものの毛並みには艶があった。成犬ではあるがまだ若い。
「……お前も迷子か」
 そう呟いて頬を緩めた、そのとき。
「そこ、誰かいるのか?」
 不意に声がした。崖の上ではない。同じ高さの――それも近くから。
 靄の向こうに人影が浮かんだ。影は二つ。確実にこちらに向かっている。
 逃げられない。
 そう悟って全てを諦めかけたとき――犬が駆け出した。
 人影に向かって走って、しきりに吠えた。
「な、なんだ犬っころかよ。紛らわしいなぁ」
「まぁ、そうだよな。森に入ってすぐ見つかるなんて都合よくは行かないよ」
 二つの影は犬の手前で立ち止まった。俺は息を潜める。二人は犬に気を取られて気づいていない。
「よしよし。あんまり騒がないでくれよ。野良犬にしては綺麗だなぁ。村から逃げてきたのか?」
「ああ、こいつはたぶんマーレイさんとこの犬だよ。メリルちゃんが可愛がってた」
「そりゃ、メリルちゃん心配してるだろうなぁ。捕まえて届けてあげた方がいいかな」
「そんな暇はないよ。ただでさえ遅れて来たってのに。放っておけば勝手に帰るだろ」
「まぁ、それもそうか。じゃあな、ちゃんと帰るんだぞ」
 人影は俺の左手から右手へと移動して――俺に気づくことなく消えた。
 助かった――らしい。いや。
「……助けられたのか」
 犬が戻ってきた。俺から少し離れたところで座って、物欲しげにこちらを見ている。
「ご褒美は持っていないぞ」
 俺は苦笑しつつ立ち上がった。そして影が消えた方を見遣る。
 ――先程の連中。
 会話から察するに、どうやら近くの村の者らしい。追跡部隊から要請を受けた増援か。
「……森に入ってすぐ、と言っていたな」
 つまり、出口が近いのだ。そして森を出れば、村がある。
 期せずして光明が見えた。これも――。
「お前のお陰だな」
 犬は待つのに飽きたのか、後肢で顎の下を掻いている。
 ――首輪のない飼い犬。
 ――そして、認識票ドッグタグを失った兵士。
 成る程。類は友を呼んだ訳だ。
 皮肉めいた笑みを浮かべたまま、俺はきびすを返した。
 村に行き、体勢を立て直してから……認識票を取り返す。
 そう決意して足を踏み出したとき、背後から悲鳴が上がった。
「うわあぁぁぁッ! な、なんだこいつッ」
「モンスターだッ。ぐぁ、しまっ……!」
 反射的に駆け出した。出口ではなく、悲鳴の方へと。
 ――何をしているんだ、俺は。
 ――あのまま逃げていれば助かったものを。
 頭で後悔しつつも、森の奥へと向かう足は止まらない。
 人影が見えた。恐らく先程の二人だろう。一人は膝を突いて頭を抱え、もう一人は倒れていた。
 そして。
「……ッ、これは」
 二人の周囲を数羽の鳥が飛び交っている。いや、あれは……蜂だ。つばめと見紛うほど大きな青い蜂が人間たちを襲っていた。
 蹲る男の頭上にいた蜂が急降下し、腹部の針で背中を刺した。引き攣るような悲鳴を洩らして、もう一人の男も地面に伏す。動かなくなった獲物の上を蜂たちは旋回していたが、程なくして飛び去った。
 俺は駆け寄り、倒れた連中の前に屈み込む。どちらも意識はなかったが、脈を取るとはっきり反応があった。まだ生きてはいるようだ。
 俺は顔を上げ、蜂が飛び去った方を向いた。
 奴らはどうしてこいつらを襲ったんだ?
 ただ単に縄張りを守ろうとしたのか。それとも。
「――ッ!」
 靄の向こうで、何かがうごめく気配がした。
 俺は身を固めて注視する。影が見えた。予想以上に大きい。泥の地面を緩慢に歩く足音と、荒い鼻息。確実に近づいてきている。
 影は徐々に輪郭をあらわにして――果たして姿を現した。
 青い肌。耳まで裂けた口。樽のような胴体に、鋭い爪を有した太い腕。短い二本足でのそのそ歩くと、鮫を思わせる眼でこちらを見下ろした。
 俺は倒れたままの二人から離れて、怪物と対峙する。
 と、その怪物の腹から何かが飛び出した。咄嗟とっさに身を屈めて躱してから、振り返る。
 飛んできたのは……あの燕のような蜂だった。
 改めて怪物の腹部を見る。六角形の穴が縦横に整然と並んでいる。まるで……蜂の巣のように。
 ――いや、蜂の巣なのだ。
「そういうことか」
 理解した。こいつらは共生関係なんだ。
 怪物は腹の内側にしつらえた巣に、あの巨大な蜂を棲まわせる。その見返りとして蜂に獲物を襲わせ、毒針で無抵抗になったところを――喰う。
 頭上に留まっていた蜂が再び襲いかかってきた。鋼の手甲てっこうで振り払うように弾き飛ばすと、潰れた蜂は足許の泥にべしゃりと落ちた。
 さて、どうするか。
 放っておけば背後の二人が喰われてしまう。俺を捕らえに来た連中ではあるが、その実は半強制的に駆り出されてきた民間人だ。やはり――見捨ててはおけない。
(英雄は辛いな。ブラッド・エヴァンス)
 ああ、全くな。
 俺はうつむいたまま頭を振り、それからおもてを上げて構え直した。
 追跡部隊に悟られる前に――片づける。
 気合いを発して正面から突っ込んだ。腹部の巣穴から次々と飛び出してくる蜂どもを掻い潜り、一気に怪物の懐まで詰め寄った。
 まずは蜂の巣を――潰すッ。
 振りかぶった右拳を思い切り叩き込む。鋼鉄の手甲が、まだ巣に潜んでいた蜂ごと巣穴を破壊した。
 本体の怪物も衝撃に目を白黒させて蹌踉よろめいている。反撃が来る前に間合いを取りたかったが、背後から蜂どもが逆襲してきた。針に用心しながら一匹ずつ確実に叩き落としていく。
 どうにか蜂を全滅させて一息つくと――横から怪物の腕が伸びてきた。
「くッ!」
 繰り出された左腕の一撃は想像以上に強力だった。今度は俺が蜂のように弾き飛ばされる。後方にあった枯れ木に激突して水溜まりに落ちた。
 背中の疼痛とうつうこらえながら、両手を突いて身体を起こす。濁った水面に紅い滴が落ちた。怪物の爪でも掠ったか、左頬から流血しているようだ。
 怪物は猛獣めいたうなりを洩らしてにじり寄ってくる。俺は顔をしかめながら立ち上がった。
 左頬の傷は熱いだけだが……背中の痛みの方は酷い。どこかの骨でも折れたか。
 ――まずい。
 これでは次の攻撃は躱せない。下手に避けようとすれば今度こそ叩き潰されてしまう。
 両腕をだらりと垂らし、肩を上下させて息をつきながら、俺は思考を巡らせた。
 弾は尽きた。手持ちの武器はない。
 ……ならば。
 首を曲げて横の木を見た。俺が衝突したところに亀裂が入っている。枯れてもろくなっていたのだろう、いくらか斜めに傾いてもいる。
 武器がないのなら――作るまで。
 枯れ木に向き直り、亀裂の少し上を手甲で突いた。幹はみしみしと軋んで大きく傾き、そして完全に折れて地面に横倒しになる。
 その倒れた幹を――十メートルはある大木を、俺は抱えて……持ち上げた。
 全身の筋肉が悲鳴を上げる。背中の激痛が脳髄を突き抜け、視界に火花が散る。
 それでも幹は放すことなく――そのまま怪物の脳天めがけて――。
「ぐっ……ぅおおおおおおおぉッ!!」
 ――振り下ろした。
 頭上から杭のように打ち込まれた怪物は、腰の辺りまで泥の地面にめり込んだ。
 俺はすぐさま幹を地面に置き、その上を走った。泥濘ぬかるんだ地面を行くよりこの方が速い。
 怪物が幹を横に払い除ける。同時に俺は跳躍し、空中で拳を固めた。
 そして、怪物の青い頭――額の中心に狙いを定めて――
 渾身の一撃を叩き込んだ。
 脳天が割れ、中からどす黒い体液が噴き上がる。怪物は絶叫し、頭を抱えて身悶えしながら――体液の混じった泥の中で、事切れた。
 倒した――か。
 それを見届けてから、横を向く。
 蜂に襲われた男の一人が、地面に肘を突いて起き上がろうとしていた。
「あ……あんた、は……」
 俺の姿を認めて声を発する。まだ立つことはできないが、どうやら命に別状はなさそうだ。
 ならば、俺は。
「ぐ……ぅッ」
 男に背を向け、今にも倒れてしまいそうな身体を叱咤しったして、足を踏み出す。
 今度こそ、森の出口へと。
 森を出たら――村へ行き――そして――。
「認識票……を……」

 その後、どうやって村まで辿り着いたのかは――ほとんど憶えていない。
 ただ、やけに眩しかったこと、視界に茶色い犬が何度も現れたこと、薄らぐ意識の遠くの方で何かが吠えていたことだけは、断片的に脳裡のうりに残っていた。
 そして、次に気がついたとき――俺は干し草の中に埋もれていた。
「う……」
 錆びついた機械のように軋む身体をどうにか動かして、藁の束から這い出し起き上がる。
 そこは丸太で組んだ小屋のような場所だった。干し草の倉庫だろうか。天井近くの小窓からは光が射し込んでいる。
 俺は……村に着いたのか。
 そう思ったものの、それ以上は何も考えられない。額に手を当てて深々と嘆息する。
 暫く脱力していると、小屋の外で物音がした。顔を上げて耳を澄ませる。土を踏む足音が近づき……扉が開かれた。
「あッ、起きたんだ。おはよう」
 まばゆい陽射しの下に小さな人影が立っている。子供――声からして少女か。
 そして少女の横から真っ先に駆け寄ってきたのは。
「……お前か」
 森の中で会った栗色の犬だった。尻尾を振りながら俺の手の匂いを嗅いでいる。
「ラッシュが知らせてくれたんだよ。おじさんが倒れてるって」
「ラッシュ?」
「うん。この子の名前」
 少女は扉をそっと閉めて、こちらに歩み寄った。白いブラウスに水色のワンピース。亜麻色の髪は両耳の横でそれぞれ三つ編みにしている。
 森の中で聞いた、犬の飼い主の娘か。名前は……。
「……メリル」
「えッ。どうしてわたしのこと知ってるの?」
 呟いてから後悔した。気恥ずかしさを紛らすように言い添える。
「森で話を聞いただけだ」
「あ、ナバスさんたちだね。まったくもう、どんな噂してたのかしら」
 腕を組んで大人びたしかめっ面をしてみせたが、すぐに相好そうごうを崩す。
「そうそう、ナバスさんたち助けてくれてありがとう」
「助けた? ……ああ」
 あの蜂にやられた連中のことだろう。
「ラッシュも連れてきてくれたし、おじさんは村の恩人だよ」
 恩人――。
 俺に似つかわしくない言葉だと、思った。
「ラッシュはね、ときどき逃げ出して森に遊びに行っちゃうんだ」
 少女は勝手に話し始める。
「危ないから行くなって注意してるのに、ちっとも聞かなくて。いつもはひとりで帰ってくるんだけど、昨日は雨が降っていたから迷子になっちゃったんだね」
 雨で鼻が利かなくなって帰り道が判らなくなった、ということか。
 ならば、俺が助かったのも。
「……雨のお陰だな」
「うんッ。雨は濡れるし外で遊べないからイヤだけど、いいこともあるよ」
 屈託なく笑う少女に、知らずと頬が緩んだ。
 ――だが。
「もう……行かなければ」
 俺は立ち上がった。背中は相変わらず疼いたが、動けない程ではない。
「え、どうして?」
「俺は追われている。留まれば……この村に危害が及ぶ」
「知ってるよ。ナバスさんから聞いた」
 メリルの言葉に俺は目を見開く。
「だからね、村のみんなで相談して、兵隊が出ていくまでおじさんをここに隠しておこうってことになったの」
「出ていくまで? ……まさか、もう奴らが」
「うん、来てるよ。いま村長さんと話し合ってる」
 何という――ことだ。
 四角に固められた干し草の上に座り込んで、俺は頭を抱えた。
 既に村を巻き込んでしまっていた。拙い。恐らく奴らは――。
「だいじょうぶ、もう少ししたら兵隊もあきらめて出ていくよ。だから、それまで隠れててね」
 メリルはそう言ってから扉に向かう。
「待て」
 俺は呼び止めた。地面を睨みながら。
「なぜ俺を助けようとする」
 軍に追われている男を匿う。そのことの意味が判らない訳ではあるまい。
 なのに、この村の者たちはどうして――。
「悪いひとじゃないから」
 少女の返答に、俺は顔を上げる。
「ナバスさんたち助けてくれたし、それにラッシュがこんなになついているんだもん。悪いひとのはずがないよ。悪くないのに捕まるなんて、そんなのヘンだよ」
 唖然とする俺に、メリルは笑顔で手を振って、犬と共に小屋を出て行った。
「……悪い人じゃない、か……」
 そう呟いてから、立ち上がった。扉の隙間から外の様子を窺う。
 まだ動きはなさそうだ。だが、連中がこのまま引き下がるとは思えない。
 何しろ、標的である俺は――。
「ん……?」
 隙間を覗きながら顎を撫でていた指先に、何かが触れた。
 左頬の……怪物との戦闘で傷を負った箇所。そこに綿のようなものが貼ってあった。誰かが処置をしてくれたのか。
 既に血は止まっていたので、指で抓んで綿を剥がした。指の腹で軽く触れると、頬骨の辺りに傷痕が残っている。
「この、傷は……」
 そこで、気づいた。
 ――同じだ。
(英雄らしくなったじゃないか)
 ああ。そうだな。
 下を向いて、微かに声を洩らしながら俺は笑った。
 それから暫くして、外に動きがあった。
「ま、待ってくだされ。儂らの話を……」
「じゃかぁしいッ!」
 老人の声と、憶えのある金切り声。後者は森の中で聞いた……追跡部隊の隊長だ。
「ここに逃げ込んだのはわかっているんだ。これ以上捜索の邪魔をするなら容赦はせんぞッ」
 銃声。そして悲鳴。
 ――やはり、こうなったか。
 俺は立ち尽くしたまま、瞑目した。
 ――英雄とは。
(英雄とは、何だ)
 それほど価値のあるモノなのか。
 命を奪ってまで探さねばならないモノなのか。
 誰も――誰一人として、その本質を見ていない癖に。
「……糞食らえだ」
 下らない。馬鹿らしい。もう――うんざりだ。
 そんなに「俺」が欲しいのならば――。

 扉に向き直り、片脚を上げて。

 ――くれてやる。

 靴裏で扉を蹴飛ばした。

 頭をもたげて、目を細める。
 ようやく――青空を拝むことができた。
「おじさんッ」
 メリルの声が聞こえた。
 正面にある大きな屋敷の前に人が集まっている。少女の姿もその中にあった。
「なんだ、そんなところにいたのか」
 両脇を兵士で固めた太鼓腹の男が振り向き、例の金切り声で言う。こいつが隊長か。腕も脚も短く、軍服を着た海豹あざらしのようだと思った。
 俺はその海豹を見据えながら歩く。全ての視線が俺に注がれていた。
「我らとやり合うつもりか。村に被害が及んでも知らんぞ」
 兵士が俺を取り囲み、銃を向ける。
 俺は立ち止まり、右手の手甲を外して地面に落とした。戦うつもりなど毛頭ない。
「俺はそこで勝手に休んでいただけだ。村は関係ない」
「おじさん、そんな」
 何か言いかけるメリルを視線で制した。そして隊長に向き直る。
「くくく……そうか。それなら村は不問にしてやる」
 隊長はたるんだ頬を引き攣らせて下卑げびた笑みを浮かべる。
娑婆しゃばとも当分お別れだ。思い残すことはないか?」
「特にない。……いや」
 俺は軽く息を洩らして、それから続けた。
「認識票を返してもらいたい」
「ん? ああ……これのことか」
 ズボンの隠しから取り出して、俺に向かって放り投げた。
 受け取って、掌を広げる。鎖のついた楕円形の金属板。刻まれた名前は――。
 ブラッド・エヴァンス。
「取り押さえろ」
 背後から兵士に両腕をつかまれる。俺は膝を地面に突き、項垂うなだれる。
 ――これでいい。
 俺は舞台から消える。「英雄」の名を、掌に握りしめて。
 平和な世に、この名はもはや必要ない。役目を終えた英雄は退場するべきなのだろう。
 もう二度と、こんな悲劇が生まれずに済むように――。

 これが最後だ。
 俺が――最後の英雄になるんだ。

 頭を上げて、青空をその目に焼き付ける。
 心なしか、いつもより澄んでいる気がした。
 これも、全て。

「雨の所為、か――」

「やっぱり『英雄』だったんだなぁ、あんたは」
 男が言った。
「村を巻き込みたくなくて、自分から出てったんだろ。さすがだなぁ。すげぇよ」
 まるで見当違いな感想に、俺は眉をひそめた。
「ちゃんと聞いていたのか? 俺は自棄やけになって捕まったと」
「そうだとしてもさ」
 珍しく男が俺の言葉を遮った。妙に興奮している。
「実際、村はあんたの行動で助かったんだろ。なら、それはあんたの功績だよ」
 ……どういう理屈だ。
 うんざりして言い返す気力もなくなった。立ち上がり、寝台に戻ろうと鉄格子に背を向ける。
「待った。これ、話を聞かせてくれたお礼」
 そう言って、男は鉄皿を再び差し入れる。
 首だけ曲げて見下ろすと、皿には林檎が載せられていた。
 要らん、と言って首を戻しかけたとき――気がついた。
 林檎の下に、紙が敷いてある。四つ折りにされた白い紙。目を凝らすと、内側に文字が書かれているのが透けて見えた。
 ――この男。
 俺は視線を動かして格子の向こう側を見る。
 男は口許に笑みをたたえながら見つめ返す。表情から幼さは消えていた。
 やはり単なる囚人ではない。俺は直感した。
「ひとつ聞いてもいいかな」
 男は言った。
「もし、ここから出ることができたら、何がしたい?」
「……俺は終身刑だ」
「知ってるよ。だから、仮に、の話」
 俺は首を戻して、目を閉じる。
 ここから出たとしても――俺には何も残されていない。故郷も家族も、友さえも――。
 ――いや。
「そうだな」
 背を向けたまま、俺は答えた。
「もう一度、あの村にでも行くかな」
 三つ編みの少女と、栗色の犬。
 大した縁でもないが……それでも、今の俺には唯一残された縁だ。
 英雄としてではなく、ただの馬鹿な男として、もう一度――。
「行けるよ」
 男が言う。
「まずは、その林檎を受け取ることだ。それが全ての鍵となる」
「いい加減に素性を明かしたらどうだ」
 壁に向かって言うと男は、こっちだって事情があるんだよ――とおどけたように返す。
「一つだけ言えるのは、世界はまだあんたを必要としているってこと。悪い話ではないと思うよ」
「……英雄はもう必要ない」
「ああ。必要なのは英雄じゃない。あんた自身だ」
 ――こいつ。
 まさか、先程の話で――。
「どうする? 『英雄』さん」
 俺はおもむろに小窓を見上げた。
 五年間見続けてきた、四角い空。灰色の雲に覆われ、雨が落ちている。
「……そうだな」
 久し振りに、四角くない空が見たくなった。
 あの日の澄んだ青空みたいな――。
 俺は振り返り、腕を伸ばして。
 林檎を――取った。

 これも、全て。

「……雨の、所為だ」