■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


 世界が──歪み始めている。

 たとえなどではない。
 実際的に、この世界はあるべきかたちを崩し、変質を始めている。

 その変容をもたらしているものは。

 彗星。天体。
 否──。

 およそ人智には及ばぬ、得体なきモノ。
 ある種の概念とも云うべき存在である。

 こんな。
 このようなことが起こり得ようとは。
 よもや、概念に世界が、

「世界が喰われる──ですか」

 声が。
 何者か。

「貴女はそう予言したとか。中々に当を得た表現です」

 闇に光が差す。
 眩しい。
 光が輪郭を描き、人の像を結ぶ。

「その脅威に対し、我々人間は無力に等しい」

 そうだ。
 だからこそ、一刻も早く──

「『柱』を捧げるべし──」

 そう。
 もはや守護獣様にすがるしか、術はないのである。

「ガーディアンの衰退は貴女が一番よく知っているはず。なのに何故──そのような選択を」

 ならば。
 他にどのような選択があろうか。
 人間ごときが、一体どのようにして──

「人間は無力ではあるが──無能ではない」

 何を言う。

「力はないが知恵はある。古代種ほどの技術はないが、圧倒的な個体数を有する」

 何をうそぶく。

「人は弱く、そしてもろいもの。ですが、それ故に思索を巡らせ、団結し、時には上位種をも凌駕する力を発揮してみせるのです。そう──『英雄』は」

 英雄。
 それは。

「人の中からしか──生まれ得ないものなのです」

 凌駕し、超越し。
 そして──哀しい末路が待っている。

 視える。
 汝の中にも、それを。

 光の裏にこごる闇を──孕んでいる。

「私は」

 どうする。

「私のやり方で」

 何をする。

「奇蹟を起こして──みせます」

 もはや止まらぬか。
 ならば往くが良い。

 世界を愛するが故に。
 世界を敵に回し。

 この世界ファルガイアを──救ってみせるがいい。

 光が去る。
 像がぼやけ、薄らぎ、そして。

 完全なる闇が──訪れた。

 何も視えぬ。
 何も。

「目が──」

 ばばは光を失った。

Episode 13 奇蹟のかけら

 夢を見た。

 いや、本当に夢なのかは判らない。
 夢でしかあり得ない光景だったから、そう思っただけのこと。

 霧か靄のようなものが立ち籠めた、不思議な場所。
 空も地面も白んでいて、雲の中にでもいるみたいだった。

 そこに。
 女の人が立っている。
 古風な革鎧に身を包み、幅広の大剣を地面に突き立てて。
 美しくも凛々しい横顔で、物憂げに空を見上げている。

 どことなく、見憶えがある気がした。
 だが、それを考える間もなく、意識が落ちて。

 次に見た光景は。
 顔。
 こちらを覗いている。

 さっきの女の人だった。
 間近で見ると、やはりとても綺麗だ。
 宝石のような碧眼へきがんを細め、薄桃の花弁のごとき唇で微笑を湛え。
 左眼の下には──泣き黒子ぼくろが。

 黒子。
 見憶えが。

「あ」

 意識が。記憶が。
 凄まじい勢いで脳髄に流れ込む。

 アシュレーは覚醒した。
 そうだ。
 僕は──。
「思い出した? アシュレーくん」
 名前を呼ばれ、身体を起こして振り向く。
 夢の中の女性が、そのままの姿で座っていた。
「あなた……は」
 喉を絞って尋ねる。久しぶりに声を発した気がした。
「わたしは」
 アナスタシア、と女の人は答えた。
 ──その名は。
『焔の災厄』と戦い、命を賭して封じた。
「剣の……聖女」
 だが。
「違うよ」
 彼女は否定した。
「わたしは、ただのアナスタシア。聖女なんかじゃない。それは」
 わたしがいなくなった後で、勝手についただけ。
 どことなく寂しそうに、そう言った。
 ──いなくなって──。
 そう。彼女は大昔の──。
「こ、ここは」
 ようやくアシュレーは現実感を取り戻した。
「どこ……ですか。そ、それにあなたは、どうして」
「そうだねえ。何から話せばいいやら」
 取り乱すアシュレーの頭を子供にするように撫でてから、立ち上がる。それから手を差し出した。
 アシュレーがその手に手を載せると、勢いよく引き上げられた。女性らしからぬ力強さだ。
「ここはわたしの世界──と同時に、君の世界でもあるかな。何しろ作られたのは」
 ここ、と人差し指でアシュレーの胸の中心を突いた。
「君の中──いわゆる『内的宇宙』に作られた世界だから。君が取り込んだアガートラームによってね」
「アガートラームの……って、ちょっとッ」
 どさくさ紛れにシャツのボタンを外してまさぐり出したので、慌ててその手を振り払った。
「何するんですかッ」
「うんうん、思った通りいい身体してる。お姉さん好みの細マッチョ」
「は、はぁ?」
 なおも胸許に向けてくる好奇の視線を避けるように、アシュレーはそそくさとボタンを留め直す。
 ──この人が。
 僕の憧れていた──。
「幻滅しちゃった?」
 彼女は申し訳なさそうに笑ってから、また寂しげに顔を逸らす。
「でも仕方ないよ。これが正真正銘、本当のわたしの姿だから。下世話で卑近な──普通の人間。それが」
 アナスタシア・ルン・ヴァレリア。
 ──ヴァレリア。
 そうだ、この人は。
 アーヴィング……そしてアルテイシアの。
「アーヴィングか。あの子には」
 悪いことしちゃったわねと、アルテイシアに似た彼女は言った。
「わたしの末裔なんかに生まれたばっかりに、重いものを背負わせてしまった。あんな、大怪我までして」
 大怪我。
 彼はアガートラームを抜こうとして拒絶され、左手と右脚を負傷したという。
「あなたは……」
 どうして、そんなことまで知っているのか。
「そりゃ知ってるよ。わたしは」
 この世界ファルガイアに起きたこと、全部。
 大地に突き立ったアガートラームを通して。
 ずっと、視てきたのだから──。
「ずっと……」
「そう。あの『災厄』の後から──ずっと」
 此方こなたと彼方のあわいで。
「世界を──見守ってきたの」
 そんなこと、したくもなかったのに。
 最後にぽつりと呟いた。
 ──この女性ひとは。
 ロードブレイザーを封印し、その際に肉体を消失し。
 四散するはずだった意識のみが、アガートラームの力によって形を留め。
 見守ってきた。いや。
 視ることしか──できなかったのだ。
 気の遠くなるような時間を、この──世界の狭間で。
 たった、ひとりぼっちで。
 ──これが。
 世界を救った、英雄の末路──。
 想像だにできないその寂寥せきりょうを思うと──潰れそうなほど胸が締めつけられた。
 ところが。
「同情してくれるんだ」
 当人はさっさと切り替えて、気安く近づいてくる。
「やっぱり優しいなぁ、アシュレーくん。モテるわけだ」
「あ、あの、さっきから」
 思っていること全て、口に出す前に読まれている。
「だから言ったじゃない。ここは君の中に作られた、わたしの世界なの」
 アナスタシアの世界──この中にいる限り、創造主である彼女には筒抜けということか。
 それにしても。
「どうして、そんなことを……」
 人の内部に自分の世界を作るなんて。いくら意識のみの存在といっても──。
「アガートラームが君の中にあるからね。あの剣とわたしは常に同期してるの。大地に刺さったままだったときは、そこから世界中を視ていたわけだし」
「え、それじゃあ」
 自分の中に入ってからは。
 まさか。
「いやあ、この半年、たっぷり堪能たんのうさせていただきましたよ。年頃の男の子のプライベートを。うひひ」
「あ、あああ」
 見られていた。全部。女の人に。それも──剣の聖女に。
「ん? なに顔を赤くしてるのかな、アシュレーくん。もしかして夜な夜な一人で」
「言わなくていいですッ。胸の内にしまっておいてくださいッ」
 耳を塞いで全力で抗議すると、覗き魔の聖女は悪びれもせず笑った。
「……それより」
 放っておくと何を言われるかわかったものではないので、こちらから仕切り直した。
「僕はここから出られるんですか。そもそも……僕はどうなったんですか」
 ヘイムダル・ガッツォーに乗り込み、ヴィンスフェルトと戦って。
『核』との衝突を回避するため、自分のエネルギーを暴発させた──。
 憶えているのは、そこまでだった。
「君は今も宇宙を漂っているんだよ。──いや」
 今っていうのは正しくないかなぁ、ここは時間と連動してないし──と独り言を挟んでから、続けた。
「まあいいや。とにかく君の肉体はまだ、ヘイムダル・ガッツォーの残骸の中。アガートラームの力で凍結睡眠コールドスリープみたいな状態になってる」
「仮死状態……ということですか」
 どうすれば、ファルガイアに戻れるのだろう。
「そうだねえ。やっぱりアガートラームに頼るしかないかな」
 そう言うと、彼女は振り返る。
「アガートラームはね、強い感情に呼応する精神感応デバイスなの。だから」
 視線の先の、霧が晴れていく。
 そこには。
「記憶を辿れば──何とかなるかもしれない」
 果てしなく高い──巨大な塔が、建っていた。

 今日も、また。
 同じ時間、同じ場所で。
 彼女は一心に祈っている。

 膝を折り、両手を胸の前で組んで。
 やや下を向きながら、静かに目を閉じている。

 聖堂の、一番奥。そこに設けられた祭壇の前。
 だけど、彼女の祈る先には何もない。
 この聖廟せいびょうの神体は、今ここにはなく──。

 ああ。
 だから、この場所なんだ。
 リルカは一度そう納得しかけたが──すぐに間違いだと気づく。

 彼女は、そのことを知らない。
 ここにあった神体──聖剣アガートラームが。
 アシュレーによって抜かれ、彼の中にあることを──。

 だったら、何でだろう。
 どうしてこの場所なのだろう。
 祈るだけなら街の教会でもいいはずだ。わざわざこんな街から離れた、それも。
 あんな惨劇があった場所で。

 やっぱり、わからない。
 そのことがリルカには悔しかった。
 何か、二人にしかわからない繋がりがあるのかもしれない。そう思うと──。

 悔しい。

 物心つく前から、ずっとアシュレーと一緒にいた、彼女。
 対して自分は、たった半年。
 絶対に埋められない、その時間の差が──じりじりとリルカの胸を焦がした。

「……はぁ」
 何だかどんどん気が滅入ってくる。もうやめよう。
 リルカは祈り続ける彼女を残して、聖堂を後にした。入口に立っていた付き添いの兵士に挨拶してから、すっかり歩き慣れた街道に出る。
 彼女は毎日欠かさず、ああして聖堂で祈りを捧げているという。
 その健気さはリルカも感心するし、見てると胸を打つものはある。だけど。
 ──祈ったって。
 アシュレーが戻ってくるわけじゃない。
 口には決して出さないけれど、リルカは彼女に対して、そんな苛立いらだちも覚えていた。
 あの、オデッサとの最後の戦いから五ヶ月あまり。
 アシュレーはまだ……帰ってきていない。
 ヘイムダル・ガッツォーは宇宙空間で自爆し、『核』との衝突は目前で回避された。ひとり残ったアシュレーが、ナイトブレイザーの力で内側から崩壊させたのだろう。
 だけど、そのアシュレーは。
 死んだのか、それとも──生きているのか。
 常識で考えるなら、生存など望める状況ではない。だが彼は常識から外れた存在を──それも二つも──宿している。何らかの形で生き延びている可能性はある──と指揮官のアーヴィングは言った。
 彼の探索サーチは、今なお続けられている。地上に降り注いだ空中要塞の残骸も片っ端から当たったが、成果はなかった。
 ──どこにいるのよ。
 あの、シエルジェの博物館で。
 優しく笑い返してくれた、その顔を思い出して。
 リルカは歩きながら、唇を噛んだ。
 ──体さえ。
 体さえ、見つかれば。戻ってくれば。
 わたしが助けてみせるのに──。
 そのために、魔法を頑張って習得したのだ。その名も。
 蘇生魔法リヴァイブ──。
 禁術ではないが、体系化された呪符魔法クレストソーサーの中では極めて特殊な、扱いが難しい魔法。そもそも魔法学校では覚えること自体、奨励されていない。
 寿命を──削るのだという。
 詳しい理屈はわかっていないけれど、どうやら魔力とは別に使用者の『生命力』も消費するらしい。命を分け与える──まさしくそうした類の魔法なのだろう。
 構わない。
 アシュレーが生き返るのなら、わたしの十年や二十年──。
 そう決心して、習得する方法を聞くためシエルジェのマクレガーを訪ねた。案の定強く反対されたが、決意が固いことを知ると不承不承、知り合いの専門家を紹介してくれた。
 ジョン・ディーという名のその専門家は、長年呪符魔法を研究し、その体系化にも深く関わった人物であるという。彼が拠点としている研究小屋──通称『離島の出張所』に出向き、街のギルドでは絶対に無理であろう複雑怪奇な呪符を描いてもらい、ノート三ページ分にも渡る長い呪文を教わった。
 しかも、呪文はただ暗誦あんしょうすればいいものではない。発音やイントネーション、一語ごとの間隔やテンポなど、全ての要素が揃っていないと発動しない。これだけの長いセンテンスを完璧にこなすには、かなり骨が折れた。
 ディーのお墨付きが得られるまで、一ヶ月かかった。
 時間はかかったが、それでも何とか習得はできた。リルカとしてはそれで目的は達成されたはずだった。
 ところが。
 心置きなく帰ろうとしたリルカを、なぜかディーが引き止めた。曰く、その魔法だけ覚えているのは不自然だ、他の魔法も覚えていきなさい──。
 何が不自然なのかさっぱり理解できなかったけれど、痩せっぽちで弱そうな割にやたら押しの強いディーに押されまくり、仕方なしにリルカは他の魔法も教わることにした。
 これが失敗だった。
 実用的な魔法を教わっていたときは、まだ良かった。強力な攻撃魔法や補助魔法はARMSの活動でも役に立つだろうと思い、それなりに一生懸命覚えた。
 けれど、そこからだんだんと実用から遠ざかり──しまいには、どこで使うんだと突っ込みたくなるような魔法ばかり覚えさせられるようになった。「猫の集会に参加できる魔法」だの「薄味の料理にスパイスを利かせる魔法」だの、もはや魔法である意味がわからない。
 魔法は何でもできる。確かにその通りだ。でも、できりゃいいってもんじゃない。
 結局リルカは「投げたゴミが七割の確率でゴミ箱に入る魔法」の途中で投げ出して、研究小屋からテレポートで脱出した。気がつけばリヴァイブ習得からさらに二ヶ月も過ぎていた。色々な魔法を覚えることができたから無駄な時間とは言わないけれど──何だかえらい目に遭った気がする。
 まぁ、とにかく。
 たとえアシュレーの命が失われていても、肉体さえ残っていれば、今なら魔法で蘇生させることができるのだ。
 ただ、あまり時間が経ってしまうのは……まずい。肉体の傷みが大きいとそれだけ再生が難しくなってしまう。
 だから、一刻も早く。
 見つかってほしい。そうしたら。
 わたしがアシュレーを──。
「リルカさんッ」
 道の先から、声がした。ティムがこちらに走ってきている。
「よかった、いま呼びに行こうとしたところで……」
 守護獣使いガーディアンロアの少年は、リルカの前まで来ると膝に手をついて息を切った。ヴァレリアの館からここまで全力で走ってきたのか。
「何かあったの?」
「そ、それが、アシュレーさんが」
 ──アシュレーが。
「見つかったかも、しれないって……」
 リルカはすぐに駆け出した。

「わたしはね」
 ただのしがない下級貴族の娘だったの、と彼女は道すがら話し始めた。
「下級も下級、もうどん底すれすれの。領民からなけなしの施しを受けてどうにか食い繋いでいた、辺境の貧乏貴族だった」
 アシュレーは並んで歩きながら聞いている。
「でも、貧乏だから不幸というわけでもないんだよね。あの頃は……そう、今思えば、それなりに幸せだった」
 領民たちと力を合わせて。
 慎ましくも強く──生きていた。
「でも、そこに『あれ』が──やって来た」
「それは……」
 ──焔の災厄──。
「父様も母様も、領民も、将来を誓い合った恋人も──みんな目の前で殺された。わたしはなぜか最後まで生かされた。理由はすぐにわかったけど」
 災厄──ロードブレイザーの正体は、絶望のガーディアンだという。嘆かせ悲しませ絶望させ、その負の感情を糧とする──おぞましい魔神。
 そのために一定の人間はすぐに殺さず、追い詰めて。
『絶望』を生み出す家畜とした──。
 アシュレーは胸に手を当て、爪を立てる。
 それが、今は自分の中にいる。
「わたしも絶望したわ。だって、わたしは」
 何の力も持たない、ただの娘。
 圧倒的な力を前にして、抗うことなど考えられる訳もなかった。
「何もなければ、そのまま絶望を吸いつくされて……みんなと同じように死んでいたでしょうね。でも」
「何か……あったんですね」
「そう。これが──」
 彼女は一旦立ち止まり、右手を掲げた。
 すると。
 何の前触れもなく大剣が出現し、彼女の右手に収まった。
 聖剣アガートラーム──。
「今みたいに、突然わたしの前に現れたの。もちろん驚いたけど、それ以上に」
 その剣を見つめていると。触れてみると。
 絶望の淵に沈んでいた彼女の心に──希望が芽生えた。
 わずかな希望は剣によって増幅し、あらゆる感情を刺激し。
「ああ、生きているんだって……初めて実感したわ」
 剣を手に──彼女は立ち上がった。
「あのときどうしてこれが現れたのか、それは今でもわからない。そもそもわたしでさえ、この剣がいったい何なのか」
 どこから来たのか。
 なぜ、彼女の前に出現したのか。
「ほとんど知らないんだ」
 銀の腕を持つ者アガートラーム──。
 考えてみれば、不思議な名前だ。
「でも、これが感情に反応して力を発揮することは、何となくわかった。だから」
 感情をむき出しにして。
 自分から全てを奪った。
「あいつと──戦った」
 聖剣を提げたまま、彼女は歩みを再開した。アシュレーも従う。
「誰のためでもない。ただ、わたしの日常を壊した奴が憎かっただけ。それに、わたし自身も死にたくなかった。利己的な──浅ましい感情。だから」
 聖女なんて呼ばれるような人間じゃない。
 愁いを帯びた目を細めて、彼女はまた自嘲じちょうした。
 ──死にたくない。生き続けたい。
 それは、当然の感情だ。
 そうした感情──生への欲望こそが、人を突き動かす原動力になることもある。アシュレーはこれまでの戦いで、そのことを何度も思い知った。
「そうね」
 欲望は大事ね、と彼女は顏を上げ、笑みを含ませた。
「わたしも、戦いの中で一番大きな力になったのが欲望だったわ。そう──あいつと対等に戦うことができたのは、たぶん」
 わたしが処女だったから、と彼女は唐突に言った。
「『男を知らずにこのまま死ねるか』って」
「え、ええ!?」
 ──まさか。
 そんな欲望で──?
「ぶッ」
 彼女はこちらを見て吹き出した。珍妙な顔をしていたのだろう。
「やだもう、冗談だって。真に受けて可愛いなぁ、この」
 指で頬を突いて揶揄からかってくる聖女に、アシュレーは正直逃げ出したい気分になった。
「でも、そういう……なんて言うか、わかりやすい欲望の方が、案外生きる力になったりするものだと思うよ。美味しいものが食べたいとか、おっぱいが揉みたいとか」
 揉みたい?と胸を突き出してきたので、結構ですと断った。
 もはや場末ばすえの酒場の会話である。
「わたしも、そういう欲望が強かったんだと思う。だからだろうね。気がついたら──」
 そこで一瞬、背中に風を感じた。
 不思議に思い、振り返りかけて──驚く。
 彼女の横に、いつの間にか大きな獣が付き添っていた。
「この子が、そばにいたの」
 あぎとの両端から突き出た牙。黒き炎を思わせるたてがみ。鋭い爪を持った四肢を動かして、ずっとそこにいたかのように歩いている。
 ──欲望のガーディアン。
 聖女と共に災厄に立ち向かったという、伝説の魔狼まろう──。
 ルシエドよ、と彼女は鬣の中に手を入れて頭を撫でた。
「わたしも戦いに夢中だったから、いつからいたのかはわからない。本当に気がつけば──という感じだった」
 彼女の強い欲望に引かれて、自ら姿を現し味方した──ということか。他のガーディアンは既に現出する力を失っていたというから、やはり守護獣かれらとは一線を画す存在なのだろう。
 見つめていると、こちらに頭を向けた。その大きな双眸そうぼうには明らかに理性が伴っている。
 全てを見透かされているような視線にアシュレーはたじろぎ、目を逸らした。
「この子のお陰もあって、戦いは優位に進んだ。でも──」
 倒すことはできなかった。
 世界は、絶望に満ちていたのだ。
 人々にその心がある限り、『災厄』は何度でも恢復かいふくし、蘇る。
「だから、倒すのを諦めて」
 封印した──。
 仕方なかったの、と彼女はまなじりに力を込める。
「このままじゃ、どれだけ頑張っても倒せない。世界中の全ての人から絶望がなくならなければ、ロードブレイザーは死なない」
「世界中の……全ての人が」
 幸せになるには──。
 それは、アシュレーが追い求めていることでもあった。
 やはり……不可能なのだろうか。
「それに、わたし自身も疲れちゃったの。戦うことに。知らないうちに世界の命運なんて重いものを背負わされたことに。だって、わたしは」
 普通の人間。
 たまさか聖剣を手にして力を得ただけの──ただのアナスタシア
「わたしはアガートラームに願った」
 ──どうか、こいつを。
 遠くへ。
 どこにも届かない、誰にも手出しできないくらい、遠い場所に。
「それに応えたアガートラームは──『災厄』を、一番遠い場所──わたしの中に封印した」
 彼女の中──内的宇宙の質量を無尽蔵に増幅させ。
 それによって発生したブラックホールの、さらに向こう側。
『事象の地平』に──ロードブレイザーを封じ込めた。
 当然、そのような膨大な質量に人間の肉体が耐えられるはずもなく。
 彼女の体は消滅し、意識のみの存在となった──。
「でも封印は完璧じゃない。しょせんは疑似的な空間に過ぎないから」
 時の経過に従って綻びが生じ、僅かずつ『災厄』が漏れ出していた。
 それはまだ形を留めるほどには至っていなかったが──。
「あの……降魔儀式で」
 召喚された魔物が媒体となって、離散していた魔神の意識が集合し。
 アシュレーに憑依した──。
「そしてわたしも、アガートラームと一緒に君の中に入って」
 魔神を制御している──というわけか。
 今まで漠然としていた自分に起こったことが、ようやく明瞭になった気がした。
 聖剣と災厄。聖女と魔神。
 相反する両者を抱え込んだまま、自分はこれから──。
「着いたわ」
 彼女が止まった。魔狼の姿は既になく、聖剣もその手から消えていた。
「ここは……」
 巨大な塔の、入口。見上げてみたが、途中で白く霞んでどれほどの高さなのかは判らなかった。
「『記憶の遺跡』ってわたしは呼んでる。ここには、わたしとアガートラームが視てきた全ての記憶が収められている」
 そう言うと、彼女は再び歩き出した。アシュレーも遅れてついて行く。
 石のきざはしを上り、扉のついていない門を潜ると。
 そこには──。
「な……」
 目をみはった。
 一面に、花畑が広がっていた。
 夜だろうか。月の光に照らされて、白い花がよく映えている。
「わたしの記憶よ」
 彼女は花畑に踏み入って、横を向いた。
 その視線の先に。
 誰かがいた。蜜色の巻毛を背中に下ろした──少女。
 見憶えがあった。

 少女はこちらを振り返り。
 あどけない声で、アニー、と呼んだ。

 まさか、また。
 ここに来ることになるとは──思ってもみなかった。

 リルカにとっては、嫌な思い出しかない場所。
 でも、そんなことは言ってられない。

 リルカ・エレニアック、一世一代の大仕事。
 そう意気込んできたんだ。今さら思い出なんて気にしている場合じゃない。

 ただ、惜しむらくは。

「ああ、くそッ」
 テリィは半透明の床に胡坐あぐらをかき、広げた本を睨みながら頭をかき回している。

 こいつと一緒なのが──不本意だ。激しく残念だ。

 でも、仕方ない。
 表向きはこいつがメインで、わたしはおまけ。
 無理言って付き添いとしてねじ込んでもらったのだから。

 なりふりなんて構ってられない。
 何が何でも参加したかった。しなきゃならないんだ。
 この──

『アシュレー・ウインチェスター救出作戦』に──。

 宇宙空間の一点に、ごく微弱な反応があったという。
 普通ならノイズとしてスルーされてしまうくらいの、本当に微かな反応だったらしい。それを、あのテレパスメイジのエイミーが感知した。
 怪獣好きでサボり癖のある変わった人ではあるが、こうした重要な場面では毎回ファインプレーを見せてくれる。そういうタイプなのだろう。
 解析の結果、その反応は。
 アシュレーが持っていた通信機の信号と一致した──。
 それは、あくまで通信機の反応に過ぎない。同じ場所にアシュレーがいるという確証はない。
 ただ。
 シエルジェの天文台から反応のあった地点を観測したところ、やはりそこにはヘイムダル・ガッツォーの残骸が──それも、望遠鏡で拾えるくらいの大きな破片が──漂っていたという。
 もし、空中要塞の一部がそのまま残っているのだとすれば。
 通信機がその中にあるのだとすれば。
 アシュレーも残骸の内部に閉じ込められている可能性は──大いにある。
 生きているなら、もちろん助け出さなければならない。
 たとえ命を落としていたとしても。
 ──わたしなら。
 蘇生魔法リヴァイブを覚えたことは、まだ誰にも言っていない。
 それでも、まずは生存を前提として救出するべきという結論になり、その方法が模索された。
 現在の人間の技術力では、たとえロストテクノロジーを駆使したとしても宇宙まで飛ぶことはできない。テレポートもさすがに宇宙まで移動するのは無理だ。
 残された選択肢は。
 空間接続リンク魔法──。
 離れた二つの空間を、異空間を挟むことで接続するという、高度な魔法。理論は確立されているが、未だ研究段階で実証はされていない。その研究も二年前に凍結されている。
 事故が──起きたから。
 一人の優秀な生徒が、実験中に異空間に閉じ込められたのだ。
 そう。
 あの事故だ。
 リルカにとっては、たぶん一生忘れることのできない──。
 他に方法はなかった。アーヴィングはこの魔法を用いた救出作戦を立案し、シエルジェ側に協力を求めた。
 当然ながらシエルジェの関係者からは反対意見が出た。議論は紛糾したらしいが、最終的には安全への充分な配慮を条件にしてシエルジェ側が折れた。あの指揮官のことだから、また何か裏で手を回したのかもしれない。
 作戦のメインである空間接続魔法は、マクレガー研究室の主導で行うことになった。ただし、まだ研究中の魔法ということで、責任者のマクレガーはじめ教授陣は不測の事態に備えて外から空間を監視していなくてはならない。
 そうなると、異空間に入って空間を接続する『扉』を作る──二年前にリルカの姉がやった──役は人手が足りなくなる。失敗したときは真っ先に犠牲になりかねない危険な役どころだし、中の『パズル』を解く知識も要求されるので、誰でもいいというわけにはいかない。
 結局、その役は研究室の生徒で最も優秀(らしい)テリィが担うことになった。本人も拒否せず、むしろやる気満々に引き受けていた。
 なのに。
「どうなってんだ、こんなパターン聞いてないッ」
 優秀な研究生は、まだ本と睨めっこしている。
「何やってんの。さっさとパズル解除始めてよ。あんたがやるんでしょ」
「あのな」
 本から顔を上げて、テリィが言い返す。
「解除は始めたら途中で止められないんだよ。だからあらかじめ全部把握しておかないと。だけど」
 周囲をぐるりと見回す。
 魔法で構成した、異空間。そこに無数の四角いブロックが浮かんでいる。
 ざっと見ただけで百個近くはあるだろう。表面にはそれぞれ独特の模様が刻まれていて、それは魔法使いだけが理解できる文字のようなもので。
 これを、まさしくパズルのように組み合わせて、ひと続きの文章になるよう積み上げる。それで空間を繋げる『扉』は作れるはず──なのだけど。
 知らないブロックがある、とテリィは得心のいかない顔をして言う。
「覚えてきたんじゃなかったの。あんなにドヤ顔で自慢してたのに」
「覚えたよ。この本に載ってる全パターンを、ほぼ完璧に。でもッ」
 また頭をかき回す。よく見ると目の下には隈が浮いていた。徹夜続きだったのかもしれない。
 これで意外と努力の人だったりするのだ。リルカもそのことは知っていたので、ひとまず責めるのはやめておいた。
「全然、見たことないブロックなの?」
「微妙に違うんだ。模様の一部がズレていたり、線が足りなかったり。これを誤差として無視していいのか、それとも別の意味に捉え直さなきゃいけないのか」
 判断が──つかないのか。
 そういうときは、慎重を期すため──。
「やっぱり駄目だ。戻ろう」
 テリィは本を閉じ、溜息をついてから言った。
 当然の決断ではあった。
 マクレガーからも口酸っぱく注意されていた。問題が起きた場合はすぐに戻れ、絶対に無理をするな──。
 あの悲劇を──二度と繰り返さないためにも。
 だけど。
 二人が出ればこの異空間は消去リセットされる。研究室の魔法使いが総出で一週間かけて作り上げたというのに。何の成果もなしにみんなの苦労をふいにするのは、心苦しい気がした。
 それに。いや──それ以上に。
 このまま戻れば、今起きた問題の考察が始まり、方法も再検討されることになるだろう。また余計に時間がかかってしまう。
 もう、待ちたくない。
 ここで『扉』さえ作れば、彼が。
 アシュレーが戻ってくるんだ。
 それなら。
「ねえ、テリィ」
 やれるだけ──やってみたい。
「あんたはどう思うの? ただの誤差なのか、それとも別の意味なのか」
「誤差……だと思う。そうじゃなきゃ説明がつかないし」
「わかった」
 リルカはテリィの胸ポケットに差し込んであった杖を抜き取った。
 今回の解除のためにあつらえられた専用のロッド。握ると真鍮の重さと冷たさを感じた。
「わたしが解除する。指示をお願い」
「なッ」
 テリィは絶句して、それから食ってかかる。
「何言ってんだッ。そんな勝手なこと」
「そう、これはわたしの勝手。わたしの責任でやることだから」
 言いながら異空間の中央に立ち、杖を構える。
「何かあったら全部わたしに押しつけていいよ」
「ふ……っざけんなッ。そんなの俺が認めると」
「いいから!」
 お願い、とリルカはうつむき、肩を震わせた。
 焦っている。心が乱れている。
 良くないことだとわかっている。でも、仕方がない。
 だって。
 悲しかったんだ。
 いっぱい捜した。ずっと待っていた。なのに。
 帰ってこなかった。
 彼といた半年。彼のいない半年。
 裏返ってしまった世界は。
 もう──耐えられない。
 わたしの手で、あの半年を。
 わたしが初めて好きになった人を。
 取り戻すんだ──!
「……座標で指示するぞ」
 わかるな、とテリィは低い声で確認してきた。
 顔を見ると、まだ納得はしていないみたいだったけど。
「ありがと」
 リルカは素直に礼を言い、それから構え直した。
 杖の先端に、魔力を込める。
「最初は……55の138、それから23の150」
 72の45。29の112。
 指示された座標にあるブロックに、杖から飛ばした光球をぶつけて反応させる。
「41の10、82の98、39の64」
 反応したブロックはかき消え、リルカの前に移動ワープして次々に積み上がっていく。
 26の48。79の71。35の122。61の144──。
 そうして、浮かんでいるブロックを全て積み上げると。
転換コンベルタード!」
 組み上がった壁に向けて──呪文を発した。
 模様が消え、ブロックごとの継ぎ目もなくなり、一枚のそそり立つ板となって。
 その、半透明の板の中央に。
 縦に真っすぐ、割れ目が入った。
『扉』が──完成した。
「や」
 やった、と言いかけた、次の瞬間。
 割れ目が。
 扉が。
 ゆっくり──開き始めた。
 なんで。命令してないのに。
 ひとりでに開かれた扉の、向こう側は。
 何もない。
 どこにも繋がっていない。
 真っ暗で。真っ黒で。
 どこまでも果てしのない、闇の世界が。
 こちらに迫り。
 広がり。覆われ。どんどん沈み。
 暗い昏い水に浸された、その一番底で。
 待っていたのは──。

「お、ねえ、ちゃ」

「リルカッ!!」
 引き戻された。
 ふさふさした金髪が目の前をよぎる。
 テリィだ。リルカの手から杖を奪って掲げる。
取り消しニュイリーグ!」
 半開きの扉に亀裂が走り、砕け散り。
 無数の砂塵となって──異空間に舞った。
 リルカはへなへなと座り込んだ。
 ──危なかったんだ。
 もう少しで、わたしは。
 どくどくと心臓が早鐘を打つ。遅れてやって来た恐怖に息が詰まった。
 横では同じように脱力したテリィが、目を見開いて青ざめている。
「……もしかしたら」
 間違ってるのかもしれない、と呟いた。
「間違ってる……?」
 間違えた、ではなく。
 まだ震える唇で聞き返すと、テリィは扉の立っていた方を向いて。
「理論に基づいて構成した異空間に、致命的な誤差が……誤謬エラーが生じている。だとすれば──」
 そもそもの理論自体に、綻びがある。
 ──間違っている。
「そんな……」
 それなら。
 お姉ちゃんも、失敗したのではなく。
 最初から──。
「とにかく戻るぞ」
 テリィは放り出した杖を拾い直して立ち上がり、リルカに手を差し伸べた。
「『扉』は壊れた。この空間も長くは保たない」
 見ると、床が端の方から消えかかっていた。
 テリィの手を借りて立ち上がる。まだ足腰にうまく力が入らない。
「大丈夫か」
「ん……へいき、へっちゃら」
 ──うそつき。
 ほとほと自分に嫌気がさした。
 テリィはまだ心配そうに見てきたが、思いきって振り返り、帰還の呪文を唱える。
 世界が、白く霞む。空間が光に還元される。
 それを見ながら、リルカは。
 こぼれ落ちそうな涙を、懸命に堪えていた。

「アニー、どこ行ってたんじゃ。待ちくたびれたぞ」
 少女は駆け寄り、アニーと呼んだ彼女の腰に抱きついた。
「ごめんね。ちょっと遠くにお出かけしてて」
 彼女は蜜色の髪を梳くようにして、その小さな頭を撫でた。
 青白い肌に細長い耳朶じだ。水色の令嬢めいたドレス。そして。
 口の端から突き出た──牙。
 マントは着けていなかったものの、それは紛れもなくアシュレーのよく知る人物だった。
「マリアベルさん……?」
 名前を呼ばれ、少女はようやくこちらに気づく。
「なんじゃ。いつものヒョロヒョロした恋人かと思うたが、違うではないか」
 彼女から離れ、じろじろと不審の目を向ける。
うぬは誰じゃ。なぜアニーと一緒にいる」
「え、ええと」
「彼はアシュレーくんよ。わたしの二番目の恋人」
 答えに窮していると、彼女がしれっとそんな発言をする。
「ちょっと、何を……」
「だって、半年間ずっと一緒だったじゃない。もう恋人みたいなものよ」
 恥ずかしいところも見てるし、と要らないことまで暴露された。
「あのヒョロヒョロとは別れたのか? それとも二股か」
 相変わらず好きじゃのう、と少女は呆れたように肩を竦める。
 口調も仕草も、やはり同じだった。間違いない。
 それはARMSに協力していた、ノーブルレッドの技術者──。
 マリアベル・アーミティッジ。
 なぜ、ここにいるのだろう。
 自分わたしの記憶だと彼女は言った。ならばこの人も──。
「そうじゃッ、アニー」
 アシュレーの視線をよそに、少女──マリアベルは彼女の許に戻り、腰の鞄を探り出した。
「アニーがくれたアカとアオを、改造したのじゃッ」
 取り出したのは、二つの球体。それぞれ赤色と青色をして、目と口がついている。
「リモコンがなくても動かせるぞ。ほれッ」
 言いながら放り投げると、球体たちはぴたりとマリアベルの頭上で静止し、それから空中を自在に飛び回り始めた。
「脳波で操作できるようにしたのね。素敵」
 目を細める彼女にマリアベルは詰め寄り、紅玉ルビーの瞳を爛々と輝かせる。
「アニー、凄いか。わらわは凄いか」
「凄いわ。マリアベルはファルガイア一の技術者になるわね」
 彼女が褒めると子犬のようにはしゃいで、喜んでみせた。
 アシュレーは眉根を寄せる。
 それは確かにマリアベルだったのだが──どこか、違和感が。
 そう。
 言動がやけに幼い。とりわけ彼女の前ではまるで子供のようだった。
「この子はわたしの記憶のマリアベルだもの」
 心の声を読んだ彼女が言う。
「悠久を生きるノーブルレッドも歳は取っている。百年に一歳とか、人間に比べたら本当に緩慢な取り方らしいけどね」
 このマリアベルは、アシュレーの知る彼女マリアベルよりも数百年は若い。それ相応の幼さ──ということか。
 それにしても。
「知り合い……だったんですね」
「大切な友達よ。わたしにとっては可愛い妹みたいな」
 彼女が言うと、妹ではないわらわの方が年上じゃッと威張った。このあたりは変わっていない。
 なぜ、マリアベルは言ってくれなかったのだろう。
 聖女と友達だったなんて、そんな重要なことを──。
 彼女はそれには答えず、ただ寂しげな笑みを見せた。
 そして。
「ね、マリアベル」
 少女の後ろに回り込み、アシュレーの方を向かせた。
「このアシュレーくんのこと、どう思う?」
「どう?」
 マリアベルはこちらを見て、それから戸惑いの顔で彼女を見上げる。
「何か感じない? ほら、よく見て」
 促され、まだ怪訝そうにしながら再びこちらに視線を向ける。
「別に何も……いや」
 目つきが変わった。アシュレーの、腹のあたりを注視している。
いやな気配が……汝は」
 本当に人間か、と警戒を含ませて言った。
 見抜かれている。
 自分の中に宿る、魔神の気配を──。
「やっぱり、そうか」
 彼女は軽く溜息をついた。
「君の中の『災厄』が力を増しているのね。アガートラームで抑えても、外に気配が漏れ出るくらいに」
「力を、増して……」
 アシュレーは慄然とした。
「ノーブルレッドは人間とは違う感覚を持っているから。判るのよ、そういうのが」
 そのノーブルレッドの少女は、いつの間にか距離を取ってアシュレーを睨んでいる。
「アニーから離れろッ」
「大丈夫よ。まだ制御はされているから。──でも」
 そこで視線を泳がせた。迷っている。
 彼女はこちらを時々窺いながら、ひとしきり逡巡しゅんじゅんしたが。
「もう『変身』は……やめた方がいいかもね」
 諦めたように、アシュレーに告げた。
 変身──つまり。
「ナイトブレイザーになるな……ということですか」
 できればね、と彼女はうなずく。
「さすがに危ないかもしれない。このまま変身を繰り返すと」
 それが刺激となって、制御が外れ。
 ロードブレイザーが覚醒してしまう──。
「でも、戻ったらそういうわけにはいかないだろうからなぁ」
 困ったなぁ、と首を傾げる。何を困っているのかアシュレーには判じかねたが。
「とにかく、変身するなら充分に気をつけて。決して自分を見失わないように」
 信じているわ──。
 彼女はそう言ってから、マリアベルに向き直る。
「アニー、そいつは何者じゃッ」
 少女はなおもアシュレーを牽制していた。
「アシュレーくんは人間よ。けど事故があって魔神が憑依してしまったの」
「なんとッ」
 面食らうマリアベルに、心配ないわと彼女が続ける。
「同時に入った聖なるもので制御して、均衡を保っているの。その証拠に──ほら」
 変身して、といきなり催促された。
「は、はぁ?」
 ついさっき、同じ口から変身するなと言われたばかりなのに。
「ここならいいのよ。ある意味世界一安全な場所なんだから」
「だ、だからって」
「この子に見せてあげたいのよ。ほら、早く」
 聖女の無茶振りに、アシュレーはこれ以上ないくらいに当惑した。
 ──変身しろと言ったって。
 ある程度自分の意思でできるようになったとはいえ、戦いでも何でもない、こんな平時に……。
「気が乗らないのか。それじゃあ──うふふ」
 何やら怪しげに笑ってから、パチンと指を鳴らした。
 すると。
 急に肌寒くなった。
 不思議に思って身体を確認すると。
「な」
 シャツを着ていない。ズボンも履いていない。おまけに裸足だ。
 下着一枚を残して、服が跡形なく──消えていた。
「なぁッ!?」
 慌てて前を隠して、抗議する。
「何ですかこれはッ」
「だって、ピンチにならないと変身できないって言うから」
 ピンチって。
 確かにピンチだが──違う、そうじゃない。
「さあマリアベル、彼のパンツを脱がすのよッ」
 悪乗りした彼女は、さらにとんでもないことを言い出す。
「その布切れの向こうに『魔神』がいるわ。引っぺがして正体を暴いてやりなさいッ」
「う、うむッ」
 真に受けたマリアベルが、にじり寄る。
 ピンチだ。
 ピンチだけれど、やっぱり違う。
 こんなことで。
 変身、なんて──。
「アクセスッ!!」
 飛びかかられる寸前で、変身した。
 できてしまった。
「やればできるじゃない。かっくいー」
 涼しい顔で拍手する聖女を、黒騎士の姿で恨みがましく睨む。
 もう二度と憧れてやるものかと、心の底で誓った。
「なんとッ。これは、どういうことじゃ」
 変身したアシュレーを、マリアベルはまじまじと眺めた。
「聖なるものと邪なるもの。両者がせめぎ合ったまま同一化を果たしたのね。この姿──ナイトブレイザーは、それが表出した結果」
 その説明は──。
 どこかで聞いた気がした。それは。
「彼の中にある二つの存在は、コインの表裏のようなもの。本質は同じだから、こうして『感情』を引金として統合できたりもするのでしょうね」
 思い出した。
 それは、アシュレーが初めて変身した直後のミーティングで。
「ふうむ。そんなことがあるのじゃなぁ……」
 このノーブルレッドの少女から──聞いた言葉だ。
 変身が解け、茫然と見つめるアシュレーの前で、彼女は少女の前に屈み込む。
「ね、マリアベル」
 お願いがあるの、と同じ目線で話しかけた。
「もし遠い未来、彼と同じように二つの存在を宿した人に会うことがあったら」
 説明してあげてほしいの。
 今、わたしが言ったことを。
 たぶん、すごく困って、不安でいるだろうから──。
「う、うむ……わかった」
 マリアベルはこくりと頷いた。
 彼女はありがとうと少女を抱き寄せて、それから。
「これで繋がった」
 そう、呟いた。
 ──繋がった──?
 あ。
「ああ、そういう……え? でも」
 繋がったような、繋がっていないような。
 過去と現在、記憶と現実が頭の中で錯綜し──結局わからなくなった。
 混乱したアシュレーを彼女は悪戯いたずらっぽく笑って受け流した。これに関しては説明する気はないらしい。
「できないのよ」
 それだけ言うと彼女は立ち上がり、また少女の頭を撫でた。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「帰るのか?」
「うん」
 二人は離れ、互いに手を振る。
「またなッ。アニー」
 円い月の下で、無邪気に手を振る。
 その姿が。
 遠ざかり。
 そして。
 紅に──染まった。
 焔だ。
 紅蓮の炎が、視界を埋めつくす。
 それは刹那のうちに、あらゆるものを灼き払い。
 花畑を荒野へと──一変させた。

 薄闇の荒野に、少女がたたずんでいる。
 うつむいて、立ちつくしている。
 その前には。
 枯れた大地に刺さったままの、大剣が。
 墓標のように──突き立っていた。

「なぜじゃ」
 少女は口を開く。
「何故アニーが、死なねばならんのじゃッ!」
 上を向いて、叫ぶ。
「何が聖女じゃ。救世の英雄じゃ。そんなもの」
 わらわの知っているアニーではないッ──!
 慟哭は乾いた空に吸い込まれる。
「わらわの知らぬアニーを語るな。わらわの知らぬアニーを崇めるな。わらわの、わらわの知っているアニーは」
 暖かくて。
 優しくて。
 わらわの一番、大好きな。
 ただの人間の──

「友達だったんじゃッ!!」

 ごめんね、とアシュレーの横で彼女が呟く。
 少女を見守る横顔は、涙で濡れていた。
「悲しいのは、いつだって」
 残された方なのだから──。

 そんなことはない。
 あなただって、悲しんでいるじゃないか。

「……嫌じゃ」
 闇の中で打ちひしがれた少女は、地面に向けて言葉を吐き出す。
「こんなのは、もう沢山じゃ。こんな思いをするなら」
 友など要らぬ。
 ずっと独りで構わない。
「わらわはノーブルレッド。ファルガイアの高貴なる──支配種族」
 支配者は、孤独なのだという。
 ならばわらわは支配者になろう。
 孤独に君臨し、孤独に世界を監視して、孤独に悠久を生きてゆく。
 それが──わらわの使命である。
「わらわは独りじゃ。ずっと独りじゃ。それで良い。わらわは孤独な──ファルガイアの支配者じゃ」

 残された者も。
 残してきた者も。
 寂しさを瞳の奥に、しまい込んで。
 みんな世界に──ひとりぼっち。

「でも、だからこそ」
 君は戻ってあげなきゃいけないよ。
 声はしたが、姿はなかった。
 アシュレーは光に包まれていた。
「君の記憶が、ほら、こんなに」
 いくつもの泡が、明滅しながら周囲に浮かんでいる。
 泡の内側には。
 リルカが。ブラッドがティムがカノンが、マリアベルが。
 大切な、仲間たちが──
「君が帰ってくるのを、待っている」
 記憶の泡に導かれて、アシュレーは。
 ひときわ大きな光の塊へと飛び込む。
「おや」
 これは凄い、と彼女が光の外側で感嘆した。
「偶然? それとも必然? どちらにしても」
 ちょっとした奇蹟ね──。
 奇蹟は、巨大なまゆの姿をしていた。
「これなら行けるわ。さあアシュレーくん」
 願いを。
 欲望を。
 そして、希望を。
「君の望みは」

 もう誰も、悲しませない。
 不幸にさせない。
 だから、僕は。
 みんなのいる世界ファルガイアへと──

「帰りたい」

 繭からいくつも糸が紡がれ、織り込まれてするする伸びて。
 アシュレーの前に、道を作った。
 輝く道を踏みしめ、進む先には。
 ──ああ。
 聖女のステンドグラス。何もない祭壇。
 その前で祈る──愛しい人。

 帰ろう。
 君のところへ。


 ──ねえ、アシュレー君。
 ──お願いがあるの。君が帰ったら。
 ──わたしの血を引いた……アーヴィングのこと。
 ──心配なのよ。何だかとても。
 ──力になってあげて。ヴァレリアの呪縛を……解いてあげて。
 ──それから、カノン。あの子もわたしのせいで不幸を背負ってしまった。
 ──宿命なんて気にしないで、せめてこれからは好きに生きなさいって……伝えてあげて。
 ──それから、マリアベルのことも。
 ──本当に久しぶりなの。あんなに他人と関わっているのが。
 ──もう、ひとりぼっちにさせたくないの。仲良くしてあげてね。
 ──それから、えっと。
 ──え、お願いが多すぎる?
 ──そりゃ仕方ないわよ。だってわたしは。
 ──世界で一番、欲深い女だもの──。

 ファルガイアを、よろしくね。

 最初から、わかっていたのかもしれない。
 こうなるってことを。自分でも。

 彼のために、魔法を覚えて。
 彼のために、無理やり作戦に参加して。
 彼のために──。

 でも、それは結局、自分のため。
 わたしの方に、振り向いてほしかったから。
 下心つきの──大立ち回り。

 だって、仕方ない。
 元々こっちは大きく不利だったんだ。
 入り込む隙なんて、ほとんどない。だから。
 動いて、走って、とことんアピールして。
 笑ってくれたら。
「ありがとう」って、言ってくれたら──。

 けれど。
 今になって、やっと気がついた。
 そんなことで振り向いてくれたって。
 それは『好き』とは全く別のことなんだ──。

 まあ。とりあえず。
 わたしのことは置いといて。
 良かったんだと思う。
 わたしも安心した。安心して、嬉しくて。

 少しだけ、寂しい。

「負けた」
 膝を抱えて、座り込む。
 薄暗い廊下。わずかに開いた扉にもたれかかって。
 その向こうで動く気配を、背中に感じながら。
「完敗だ」
 リルカは呟き、膝の間に頭を埋めた。

 確かに、奇蹟だったのかもしれない。
 彼の内側に宿る、聖剣アガートラーム。それが長らく安置されていた地──剣の大聖堂。
 すなわちそれは、魔神に憑依された地でもある。忌まわしい記憶ではあるが、それも一つの繋がりには違いない。
 そして──後から聞いた話では。
 ちょうど一年だったのだという。
 旧ARMSの結成式典。オデッサによる降魔儀式。
 彼が聖剣を抜いた、その日から一年後。同じ場所、同じ時刻に──。

 彼女が、祈っていた。
 彼の身を案じて。彼の帰りを願って。
 その手に握った奇蹟のかけらに、念波おもいを乗せて──。

「やっと、届いた」
 現れた彼を見て、彼女は微笑んだ。
「届いたよ」
 彼は祭壇を降り、前に立つと。
 震える肩をそっと抱きしめた。

 ここから、また。
 始めよう。