■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Mission 13 英雄たちの覚悟

 どうして人はこんなにも愚かなのかと、いつも思っていた。

 昔から聡明で、器用な子供だった。
 同じ年頃の誰よりも賢く、走れば誰よりも速く駆けてみせた。大人顔負けの魔法を操り、剣技でも非凡な才を発揮した。
 教えられれば、いとも容易たやすく何でもやってのけた。むしろ、できないということが判らなかった。苦心しても努力してもできない周りの──大半は自分よりも年上の──子供たちを見るにつけ、不思議で仕方なかった。
 やがて、自分の方が特別で、自分以外が普通なのだと思い至った。特別な自分と、凡庸ぼんようである他者。その違いを認識したことで──彼の視座はいくらか歪んだものになった。
 周りの人たちは、何だかとても愚劣に見えた。
 何一つろくにできないくせに、言動だけは一人前に尊大だ。些細ささいなことで感情を露わにし、下らないことで笑い、怒り、やかましくわめき立てる。一体何が楽しいのか、何に腹を立てているのか、何が悲しいのか、まるで理解できなかった。
 疎外感を覚えて、彼は孤立した。鼻持ちならないお坊ちゃんとしてねたそねみを一身に浴びせられ、そうした周囲の態度も含めて、何もかもがうとましくなった。
 常に不機嫌な顔をするようになったのも、この頃からだった。口数が減り、あからさまに人との関わりを避けた。
 息子の変節を見かねた両親は、彼をシエルジェの魔法学校に転入させた。十歳にも満たない少年の入学は極めて異例だったという。
 彼の歪んだものの見方は、そこでいくらか矯正された。
 世界中の叡智えいちが集いし学舎まなびやはとても刺激的で、汲めども尽きぬ知識の海は興趣きょうしゅをそそった。自分にも知らないことがある、できないことがあるのだと初めて知って衝撃を受け、嬉しくなった。
 旺盛おうせいな知識欲のおもむくまま、彼は手当たり次第に知識をむさぼった。魔術に禁術、ロストテクノロジー、さらには歴史や政治経済、言語に民俗に哲学社会学、果ては近年確立された科学サイエンスまで、ありとあらゆる学問を修め、自分のものとした。
 そうして最後に行きついたのが、天文学だった。
 宇宙はこの惑星ほしの周りに、無限に広がっている。のみならず、今も凄まじい速さで膨張し続けているのだという。
 人智の及ばぬ世界。未知の領域。それが彼にはたまらなく魅力的だった。
 日夜天文台に通い詰め、望遠鏡を覗いて、同じように宇宙のとりことなった学友と語り合った。それまでの彼の人生において最も穏やかで、充実した日々であった。
 だが、そんなある日。
 いつものように望遠鏡で観測していた彼は。
 宇宙の片隅に──それを見つけてしまった。
 前兆は彗星だった。ある一地点に集中して無数の帚星ほうきぼしが流れ、その不自然さにいぶかっていると。
 ぐにゃりと。
 その空間が──歪んだ。
 初めは見間違いを疑った。目の錯覚か、それとも長時間凝視していたことで眩暈めまいでも起こしたか。
 だが、何度見返してもその空間は歪んだままだった。色の反転した星雲のように、どす黒く濁った渦を巻いている。
 こんな現象は知らなかった。あらゆる研究書を当たってみても、それらしき記述は見つからない。教授たちにも報告して見解をうかがったが、彼らも首を捻るばかりだった。
 それどころか、空間が歪んだという目撃談自体を否定された。そんなものは錯覚だろう、その渦も珍しい星雲の一種に違いない──。
 教授も学友も、誰一人としてその現象を深刻に捉える者はいなかった。ただ彼のみが、妙な胸騒ぎを覚えたまま観測を続けた。
 同じ現象は、それから幾度となく確認された。彗星がいくつも流れ、その後にあの奇怪な星雲が発生する。わずか数ヶ月のうちに、その数は十数個に達していた。
 しかも。
 それは、確実に──近づいていた。
 彗星も、その後に現れる濁った星雲も、回数を重ねるごとに大きくなっている。明らかに発生源が近くなっている。
 そして、遂に。
 ファルガイアの空に、肉眼で観測できるほど大きな彗星が流れた。
 その直後、各地で野生動物の魔物化が報告された。両者に関連性を見出した者は、彼を除いて──誰もいなかった。
 魔物の発生はそれ以降も度々報告に上り、直前には決まって彗星が観測された。
 彼は確信した。
 彗星が、あの謎の歪みが──この惑星ほしに異変をもたらしている。
 傍証ぼうしょうもあった。かつて彼が興味を抱いて研究していた、バスカーの民。ガーディアンを通じて世界の行く末を見透すという夢見コンタクティーが先頃、奇妙な予言を告げていた。
 ──空が喰われる。
 ──世界は間もなく災禍さいかに覆われる。
 まさしく、このことを示していたのだ。濁った渦に蝕まれる宇宙そら。この世界の摂理から外れた、未知なる災禍。
 危機が迫っている。だが誰も──気づいていない。
 当然だ。世界の法理法則に通じ、その上で空に起きた異変を察知し、バスカーの予言さえも知り得る者が、どれほどいようか。あらゆる知識を網羅した彼だからこそ気づくことができたのだ。
 だが。
 彼は愕然がくぜんとした。
 気づいたところで──どうすればいいのだ。
 人々に、施政者しせいしゃたちに知らしめるか。このような常軌を逸した事態、どう説明すればいいのか。言葉を尽くしても信じてはもらえないだろう。
 そもそも、仮に信じてもらえたところで──結局どうにもならない。対策など皆無に等しい。いたずらに混乱を招くだけである。
 人智を超えた災い。そのようなもの、人ごときが対抗など──。
 ──いや。
 彼は思い出した。
 かつてこの世界に訪れた、やはり人智を超えた災厄を。それを退けた英雄の存在を。
 ああ。そうか。
 どうして自分は特別なのか。人とは違う才覚を持ち、人にできないことができるのか。
 全ては、このためだったのだ。
 彼は学校を去った。
 急がなければならない。一刻も早く、あの剣を抜いて。
 自分が英雄にならなければ──。
 一年。死に物狂いで修行し、研鑽けんさんを積んだ。
 そうして絶対的な自信を身につけた彼が、いよいよ剣の前に立ち。
 つかに、手をかけた。

 どうして人は愚かなのか──。
 自分も所詮はただの人なのだと、彼はそのとき初めて思い知った。

 ブリッジに入ると、拍手が湧き起こった。
 気恥ずかしさを愛想笑いで紛らせつつ、アシュレーは中へと進む。何となく銃士隊時代の初任務のことを思い出した。
「よく帰ってきた」
 扉の脇から出迎えたのは、英雄の末裔まつえいにしてARMS指揮官──アーヴィング・フォルド・ヴァレリア。握手を交わすとアシュレーを促し、共に指令台に立つ。
「本日は、我々にとってよろこばしき日となった」
 アーヴィングが隣で声を張る。ブリッジには馴染みの隊員たちが揃っていた。
 操縦席にエルウィン、通信席にはエイミーとケイト。トニーとスコットもちゃっかり窓の手前に陣取っている。
 そして、指令台のすぐ正面には。
 大切な仲間たちが──。
 その姿を見るや、アシュレーは指令台から飛び降りて彼らと合流する。見上げられるのはどうにも居心地が悪い。やはり仲間とは同じ目線でいたかった。
 振り仰ぐと、指令台に残された指揮官は仕方ないなと苦笑する。もうしばらく自分を高みに立たせて劇的な演出をしたかったようだ。
「見ての通り、アシュレー・ウインチェスターが半年の歳月を経て宇宙より帰還を果たした。この奇蹟は我らに勇気を与え、人々の心に希望の灯火を灯すことになるだろう。ゆえに──」
 用意してあったと思しき長広舌ちょうこうぜつが続く中、指令台の下では待ちきれない仲間たちの歓待が始まった。
「信じてました。きっと戻ってくるって」
 ティムが珍しく興奮ぎみに言う。ブラッドには肩を叩いてねぎらわれ、カノンも表情こそ変えないが力強く見つめ返してきた。
「リルカ?」
 ARMSの魔法使いはひとり輪から外れたところで、身体を背けていた。声をかけると顔を少しだけ向けて、控えめに笑みを作る。
「ん……まぁ、おかえり」
 よく見ると目が赤い。それを悟られたくなかったのか。
 視線に気づくと彼女はしかめっ面で誤魔化して、人差し指を口許に当てる。
「まだアーヴィングさん話してるよ。静かにしなさい」
 注意されて再度指令台を向く。指揮官は一旦言葉を止め、こちらを一瞥して。
「どうやら誰も聞いていないようなので、このあたりにしようか」
 ほらスネちゃった、とリルカが溜息をつく。
 やや緊張感に欠けるやり取りに、思わず頬が緩む。アシュレーに半年もの期間が過ぎた感覚はなかったが、それでも何だか懐かしい気がした。
 ──帰ってきたんだ。
 改めて、実感する。
「これにて対オデッサ最終作戦は完了とする。引き続き諸君らには、この異常事態の対処に当たってもらいたい」
 異常事態。
 そうだ。
「アーヴィング、これは……いったい」
 どうなってるんだ、とアシュレーは背後の窓に視線を投げた。
 ヴァレリアシャトーは現在、海上を移動している。本来ならば外には海原が広がっているはずだが。
 暗い。まだ昼の最中だというのに、辺りは濃い闇で覆われている。
 原因は──。
「この、空は……」
 まるで、悪夢だ。
 大陽も、雲も、星々や月も全て失われ。
 空一面が青と黒に混濁し、タールのようにどろどろと渦を巻いている。
 自分のいない半年の間に……何が起こったのか。
「これが、ファルガイアを蝕んでいた異変の正体だ」
 ファルガイアの異変──魔物の発生と異常増殖。オデッサの登場と機を同じくしていたので、彼らの仕業と思ったりもしていたが。
「オデッサが原因じゃなかった、ということか」
「ああ。こんな芸当は彼らにはできない」
 最初に異変が目撃されたのは、ギルドグラードだったという。
 五ヶ月ほど前に大きな彗星が天を横切り、その直後に黒い染みのようなものが上空に現れた。染みは日ごと広がり、一月ひとつきもしないうちに工業国の空は闇に覆われた。
 この不測の事態に対し、三大国家とARMSは緊急に協議を開き、速やかに調査が実施された。しかしシエルジェの学者もギルドグラードの技術者たちも、原因については見当すらつかなかったという。
 唯一の手がかりとなったのは、ガーディアンをたてまつる民──バスカーの夢見が告げた予言だった。彼らを『柱』の確保に駆り立てた、その予言こそが。
 空が喰われる──。
 たとえでも示唆しさでもなく、そのままの景色ビジョンをガーディアンは夢見に視せていたのだ。
 詳しい話を聞くためにバスカーの集落を訪ねたが、予言を行ったばばは既に亡き者となっていた。
 彼女に替わり、新たな夢見となっていたのは──。
「コレット……でした」
 後ろからティムが言う。彼と親しくしているというバスカーの少女。アシュレーとは出会い頭にすれ違っただけなので、顔すら憶えていないが。
 夢見の後継者となったコレットも、同じ予言を視ていた。だが、それ以上のことは結局何も判らなかった。
 夢見はあくまでガーディアンが伝えたい景色ビジョンを受信しているだけである。委細いさいについてはガーディアンに直接聞くしかない。
 それが可能なのは。
 守護獣たちの『柱』として生を受けた──。
「ボクが聞くしか……ないみたいです」
 強張こわばった顔で、少年が言う。
「長の話では、ギルドグラードの南にある聖域なら、ガーディアンとコンタクトを取ることもできるだろうって。でも」
「わたしは反対」
 リルカが鋭く口を挟む。
「だってその聖域、『柱』を生けにえとして捧げるための場所なんだよ」
 ──生け贄の祭壇。
 バスカーの民の間では、そう呼ばれているのだという。
「そんなトコにホイホイ行ったりしたら、勘違いしたガーディアンが『いただきます』って襲ってくるかもしれないじゃない。そうなったら、わたしたちなんかじゃ止められないよ」
「それは……ボクがちゃんと意思を示せば」
「ホントにちゃんと示せる? ファルガイアを動かしてるような、おっかないヒトたちを相手に」
 ティムは口籠くちごもる。リルカの当たりは相変わらずきついが、それも彼を本気で心配しているゆえなのだろう。
「……とまあ、こんな具合でこの件は未だ保留となっている。ティム君に無理強いはできないし、そんなことをしたら保護者が爆発してしまう」
 保護者じゃないし爆発もしない、とリルカが不服そうに言い返した。
「この異常現象──パラダイム汚染については、今もシエルジェの方で分析を進めてもらっている。少しでも何か判明すればいいのだが──」
 あまり、時間は残されていないかもしれない。
 そう言って銀髪の指揮官は再び上空に目を馳せた。
 どす黒い油膜に青い液体を垂れ流したような毒々しい空が、水平線まで続いている。
「この五ヶ月足らずの間に、七割以上の空が侵食されてしまった。今や普通の空が臨めるのはシエルジェとシルヴァラントの一部のみ。それもあと一ヶ月もすれば完全に」
 ファルガイアから──空が消失する。
「動物は次々と魔物に変貌し、陽の光が遮られて作物も育たなくなっている。このままでは人類滅亡は時間の問題だろう。取り返しがつかなくなる前に、何としてでも食い止めなくてはならない」
 そのためには。
 この現象をもたらしている敵の正体を──見定めなければ。
 アシュレーは再び仲間の方を向く。ブラッドが、カノンが同じように見つめる、その先で。
 世界の命運を握っている少年は、張り詰めた表情のままうつむいている。
 アシュレーは声をかけようと口を開きかけたが、何を言うべきか迷ってしまい、結局口を閉ざした。
 どちらにしても、決意し決断するのは彼自身だ。それまでは──待つしかないのかもしれない。
「状況はだいたい理解したよ」
 指令台に向き直り、言った。
「それで、僕らは今、どこに向かっているんだ?」
 パレス地方、と指揮官は答えた。
「パレス?」
「メリアブールの北にある小大陸だよ。君も魔界柱の破壊で行っているだろう」
「あ、ああ……あそこか」
 指摘されて思い出す。とは言え憶えているのは寒々しい断崖の道と、そこから臨める暗い海くらいのものだったが。
「パレス地方は東西で地勢が全く違っていてね。魔界柱のあった東部は険しい山岳地帯だが、西部は肥沃ひよくな土壌が広がる平地で、ファルガイアでも有数の穀倉地帯となっている。辺境ゆえに三大国家の自治からは外れているが、ブランド小麦の産地としては全国的に有名だ」
 パン屋なんだからもちろん知ってるよね、とリルカに言われたが、正直知らなかった。そもそも自分はパン屋じゃない。
「二日前にその産地である村から魔物退治の要請があった。ここ半月ほどの間に異常増殖して、村にも入り込んでくるようになったらしい。それで急遽きゅうきょ、手の空いていたアーミティッジ女史に対処を頼んだのだが」
 それきり、彼女から連絡はないという。
「いずれにせよ後から迎えに行くつもりだったから、様子を見に行ってみようということでね。彼女のことだから心配はないと思うが」
「心配ないって……連絡が途絶えてるんだろう。心配じゃないか」
 そう言ったが、周りの反応は薄かった。
「いやあ、心配ないよ。マリアベルさんだし」
「そう……ですね。マリアベルさんだから」
「え、ええ?」
 思わぬ温度差に、アシュレーは困惑した。
 確かにARMには精通しているし様々な武器も持っているようだが、それでも彼女はあくまで技術者だ。魔物退治に長けているとは思えないが──。
「陸が見えてきたっす」
 操縦席のエルウィンが声を上げた。疑念をひとまず押し込めて、アシュレーも前方を向く。
 依然として不明瞭な視界の中、陸地らしき輪郭がぼんやり浮かび上がっている。さらに近づくにつれほのかな光もうかがえた。人家の明かりだろうか。
「サーチライトを」
「了解。点灯します」
 指揮官の指示を受けたケイトが手元のパネルを操作する。ブリッジの下あたりから電灯らしき光源が点り、大地を照らし出した。半年前にはなかった機能だ。
「何かいます! 五時の方角、か、海岸に」
 ケイトが叫んだ。シャトーが旋回し、前方にその姿を捉える。
 それは。
 何とも形容しがたい姿をした──巨大な魔物だった。
 でっかーい、とエイミーが子供みたいに感嘆した。

 村からかなり離れた地点で彼女の姿を見つけた。付近にシャトーを着陸させ、そちらへと急行する。
「マリアベルさん」
 ノーブルレッドの少女は、枯れた小麦畑の中に佇んでいた。この空では作物など育つはずもなく、世界有数の穀倉地帯は見る影もない。
「なんじゃ、アシュレーか」
 声をかけると、こちらをかえりみる。
 青白い肌に金色巻毛こんじきまきげ。牙が覗く口許くちもと。そして紅玉ルビーの瞳──。
 記憶の遺跡で見た過去の彼女が一瞬、二重写しになって、アシュレーは目を瞬かせた。
「生きておったか。まあ当然じゃな」
「は、はい。それより」
 海から上陸した魔物が迫っていることを告げると、マリアベルは鼻を鳴らした。
「判っておる。だからこうして村を出て待っておるのではないか」
「待っている?」
 戦う──つもりか?
「む、無理ですよ。あんな大きなのと」
 止めようとすると、後ろからリルカがつついてきた。
「だから心配ないって。マリアベルさんに任せて」
 ていうか邪魔だから、と腕を掴まれ彼女から離させられた。アシュレーは納得いかないまま、年下の少女に脇を固められて仕方なく引き下がる。
 遠くから地鳴りが聞こえてきた。程なくして闇の向こうに、上空から目撃したあの怪物が姿を現す。背後のシャトーから再びライトが照射され、全貌が露わになる。
 やはり、大きい。オデッサが召喚した魔物どもとは明らかにスケールが違う。下半身は白熊のような毛むくじゃらだが、胴体は大きくくびれて無数のつのが突き出ている。
 そして、胸から上は──。
 奇怪、としか言いようがない。
 黒いこぶのような頭がいくつも枝分かれして生えていた。瘤の先端には眼らしきものもついているから、やはりこれが頭なのだろう。
 数えてみると、頭は七つあった。それぞれが独立して動いて四方八方を見回している。
「ふん、間抜けそうな奴じゃ」
 迫り来る七つ頭の怪獣を見据えて、マリアベルが見得を切った。その右手には紅に輝く球体が握られている。
 物質ではない。魔力の塊のようなものだろうか。
「よおッく見ておくが良い、アシュレー。これがファルガイアの支配者たる、わらわの」
 真の力じゃッ、と球体を両手で握り潰した。
 音もなく弾けた魔力の球が、液体のように彼女の周囲に飛散した。紅のインクが地面に円形の枠を敷き、一瞬にして複雑な模様をその内側に描き上げる。
 ──これは。
「魔法……陣?」
 アシュレーは目を丸くする。彼女が魔法を使うところなんて、今まで見たことがない。
 しかも、これは。
「わらわは求め訴えたり」
 かなり高度な魔法だ。門外漢のアシュレーですら、その片鱗へんりんを感じてたじろいだ。
 紅に明滅する魔法陣の中心で、小さな支配者は妖しく君臨する。見開いた双眸そうぼうは一段と輝きを増し、瞳の内側で赫々かくかくと燃えていた。
でよ我が下僕しもべ──アースガルズッ!」
 地面に手をつき、叫んだ。円陣から突風が起こり、砂塵が巻き上がる。
 その嵐の中で、彼女は。
 ゆっくりと──上昇を始めた。
 魔法陣の下から何かが現れ、せり上がっていく。
 頭だ。角のついた兜をつけた大きな頭と、鋼の鎧をまとった胴体。彼女はその肩の上に乗っている。
 鎧の内側は──機械だ。金属と機械で構成された人形。小柄なマリアベルの四、五倍はある。
「ガーディアン……?」
「違うよ。ちょっと似てるけどさ」
 思わず出た呟きに、リルカが答える。
「ゴーレム、って言うんだって。ノーブルレッドが作った機械仕掛けの人形。昔はたくさんあったらしいけど、ほとんどは『災厄』のときに壊されちゃって」
 今は数機のみが、彼女の作った異空間に保管されているという。
「ああしてどこからでも召喚できるらしいけど、あの魔法もすごい特殊だよね。魔導器も道具アイテムも使ってないし、呪文すら唱えてないんだから」
 反則だよあんなの、と魔法使いは口を尖らせる。ノーブルレッドだけが行使できる秘術──のようなものだろうか。
「さて、お手並み拝見と行くか」
 マリアベルは肩から飛び降りて、人形の足許で颯爽さっそうとマントを翻す。そして見上げるほどにまで迫っていた魔物に向けて指を突き出す。
「発進ッ」
 命令を受けた機械人形が動き出した。かかとの推進装置が火を噴いて、滑るように地面を駆る。
 怪物の頭の一つがそれに気づき、無機的な眼から光線が放たれた。ゴーレムは左右に蛇行して攻撃をかい潜りつつ、なお接近していく。
 そして、魔物の足許に到達すると。
 毛むくじゃらの脚をむんずと抱えて、持ち上げた。
 バランスを崩した巨体が尻餅をつく。その衝撃で地面が大きく揺れた。
「やはり図体ばかりの木偶でくの坊じゃ。口ほどにも……おっと」
 転ばされた腹いせとばかりに、魔物が七つの頭から無差別に光線をき散らした。ほとんどは出鱈目でたらめで当たりはしないが、いくつかはこちらに届いて頭上をぎ払った。
「あ、危ないって。マリアベルさん」
 さっさとやっつけて、とリルカが頭を抱えて催促した。
「ふむ、そうじゃな。では──」
 す、と右手を掲げる。
 ゴーレムが反応し、同じように腕を上げた。
「対消滅バリア起動」
 人形の右手、円形に膨らんでいる甲のあたりが輝き出した。目が痛くなるほどの激しい光だ。
異形いぎょうのモノよ、わらわのファルガイアからね──」
 バリア放出ッ、とマリアベルが叫んだ直後。
 強烈な光が、視界にほとばしった。
 人形の手が白熱している。恒星を思わせる、熱を帯びた光だ。遠く離れたここからでも熱さを感じた。
 その光と熱にさらされた魔物は。
 しゅう、と音を立てて。
 一瞬のうちに──蒸発した。
 光が消えると、先程まで存在していた巨大な怪物は、肉片すら残さず──跡形なく消滅していた。
「──す」
 凄い。
 次元の違う戦いを目の当たりにして、アシュレーはただただ圧倒された。
「ご苦労じゃった、アースガルズ」
 マリアベルが労うと、アースガルズと呼ばれた機械人形ゴーレムは再び地面に沈み込む。元の場所──異空間へと還るのだろう。
「どうじゃ、わらわの秘蔵っ子の力は」
 戻ってくるなり得意満面で感想を求められて、アシュレーはようやく我に返る。
「ど、どうって」
 あんなとんでもない兵器、どうして今まで隠していたのか。あの機械人形があれば、オデッサとの戦いもかなり楽になっていただろうに。
「別に隠していたわけではない」
 使えなかったのじゃ、とマリアベルは少し不機嫌になって答える。
「ゴーレムの召喚には大量の魔力を必要とする。わらわが本調子でなければ無理なのじゃ」
「本調子?」
 聞き返すと、ノーブルレッドの少女は指を突き立てて上の方を示した。
「太陽じゃ。あの光がある限り、わらわは本領を発揮できぬ。ゆえに召喚魔法を行使できるのは、ごく限られた時間──新月の晩のみだった」
「新月って……月の光も駄目なんですか?」
「当然じゃろう。アレとて陽光には変わらぬ」
 言われてみれば確かに、月光も間接的には陽の光に違いない。
 だが。
「……そうか。今は」
 アシュレーは歪んだ空を見上げる。
 太陽も月も失われた──この空だからこそ、彼女は。
「その通りッ」
 マリアベルは両腕を突き上げて、世界中の闇を享受するかのように天を仰いだ。
「あの忌々しい陽光が、今はないッ。おかげでわらわは毎日絶好調じゃ。不格好な被り物を着る必要もないしの」
 やはりあの分厚い着ぐるみは負担だったようだ。可愛かったのにとリルカが呟くと、ならばうぬが着るがよいとすかさず言い返した。
「魔力もどんどん湧き上がっておる。今なら二十四時間戦えるぞ。ふひひ」
 よほど嬉しいのか、普段聞かない笑い声まで洩れた。この異常現象を喜んでいるのは彼女くらいのものだろうとアシュレーは思う。
「──あ」
 そのはしゃぎっぷりを見て、また思い出した。
「マリアベルさん。その」
 どう説明すれば……いいのだろう。
 アガートラームに導かれ、剣の聖女──アナスタシアと、彼女の記憶のマリアベルに会って。
 そこで、自分は──。
「会ったのじゃな。昔のわらわと……アナスタシアに」
 困っていると彼女の方から水を向けてきた。察してくれたらしい。
「は、はい。その、正直よくわかってないんですが」
「案ずるな。わらわもよく判っておらぬ」
 真顔に戻って、横を向く。
「一年前、アーヴィングの手紙でわらわは汝のことを知った」
 降魔儀式によって、二つの存在を宿した者がいる──。
「それを読んだ瞬間、わらわは──思い出したのじゃ」
 アシュレーとの時を超えた邂逅かいこうを。そして。
 アナスタシアとの、約束を。
 ──二つの存在を宿した人に会ったら──。
「あれは果たして真の記憶か──否、違うな。あやつが勝手にわらわの記憶の引き出しに置いてったのじゃろう。まったく」
 概念存在になったからと言って好き放題しおって、とぼやいてから、続ける。
「それでも、あやつと約束したのは間違いないらしいからの。アーヴィングからの招聘しょうへいを口実にして、汝に会いに行くことにしたんじゃ」
「そう……だったんですね」
 親友がのこしていった、記憶のかけら。そこで交わした約束を果たすために、彼女は旅立ち。
 アシュレーと──再会を果たした。
 ただし、その約束の元となった出来事はつい最近のことで、しかもアシュレー自身の内側で形成された記憶だったりするのだが──。
 じれている。やはり正しく理解するのは困難だ。
「ねー、なんの話?」
 二人の会話にずっと首を傾げていたリルカが、痺れを切らして尋ねてきた。
「わらわが会う前からアシュレーと結びついていたという話じゃ」
 マリアベルが誤解を招きそうな一言で返した。案の定、リルカが眉間に皺を寄せる。
「アシュレー口説いてるんですか? 意外とロマンチストなんですね、マリアベルさん」
「違うわッ。そもそもこんなヒョロいのはわらわの好みでない。まだブラッドのがマシじゃ」
「ヒョロい、ですか……」
 これでも以前と比べれば、かなり鍛えた方なのだけれど。線の細いイメージを払拭ふっしょくできないのは、やはりブラッドのような特例が近くにいるせいか。
 そのブラッドは、カノンやティムと共に別の場所に発生していた魔物の対処に当たっている。あちらもそろそろ片づいた頃だろうか。
「どうでもいいけど、そろそろ戻らない? こんなトコで油売ってるとまた変な魔物に絡まれるよ」
 最近はホント物騒なんだから、とリルカが辺りを見回しながら言う。
「そうだな。ブラッドたちと合流しよう」
 マリアベルさんも、と彼女の方を見ると。
 ノーブルレッドの少女は、こちらに背を向けて。
 アニー、と小声で呟いた。
「困った奴じゃ、本当に──」
 闇の中にたたずむ支配者の背中は、やはり寂しげだった。

「カノンさん、お疲れー」
 街外れの荒野に凶祓まがばらいの姿を見つけて、リルカが駆け寄る。
「状況はどうだ?」
 アシュレーも声をかけると、カノンはいつものように冷めた目で見返し、握っていた短刀を収める。
大方おおかた片づいた。数は多いが大半は雑魚ざこだ」
 彼女の周囲には、倒したばかりと思しき魔物のむくろがいくつも転がっていた。
「雑魚には見えないけどねぇ。相変わらずお強いことで」
 絶命して横たわる凶暴そうな魔獣を眺めながら、リルカが言う。
「ブラッドは……って、あっちか」
 遠くの闇で爆音がとどろいた。大型ARMが発動したのだろう。
 そして、すぐ近くでは。
「プラズマバースト!」
 掲げた杖の先から前方に向けて、稲妻のような電撃がはしった。押し寄せていた無数の魔物が次々に煙を上げて倒れていく。
「ティムも相変わらず凄いな」
「まあねぇ。近頃はあんまりぶっ倒れなくなったし」
 敵を一掃して息をつく守護獣使いを、二人で見る。華奢きゃしゃな体つきは変わりないが、確かに一本芯が通ったようなたくましさを感じた。
「あれで結構頑張ってトレーニングしてたみたいだよ。もう足手まといになりたくないって」
 マジメだよねぇ、とリルカは肩を竦めてみせたが。
「人のことを言えた口ではないだろう」
 珍しくカノンが口を挟んできた。
「こっそり修行していたのは、どこの誰だったかな。高名な魔法使いに弟子入りして、三ヶ月も雲隠れして」
「か、カノンさんッ」
 リルカが急に慌て出した。そうなのかと聞くと、なぜか顔を真っ赤にして目を泳がせる。
「別に修行とかじゃ……なんて言うか、転職に向けたスキルアップをね、そ、そう、こんなご時勢だから」
 隠し事は、半年前と変わらず苦手なようだ。
「ティム、交代ッ。わたしがやるッ」
 押し寄せる新手の魔物を見つけたリルカは、これ幸いとそちらへ走っていった。
「何かヘマしたんでしょうか、ボク」
 入れ替わりに戻ってきたティムが、不安そうに聞いてきた。大丈夫だよと励ましてから、空元気に愛用のパラソルを振り回している少女を眺める。
 魔物の群れの中心で盛大に爆発が起きた。何の魔法か知らないが、確かに以前より格段に威力が上がっている。
「参ったな……」
 ブラッドやカノンは言わずもがな、リルカやティムまでこんなに強くなっているとは。
「戦力的には、僕が一番役立たずじゃないか……」
 半年間のブランクが、つくづく恨めしい。
「アシュレーさんには切り札があるじゃないですか」
 ティムが言う。
「切り札、か。でも」
 あの『力』は、もう──。
「アナスタシアから何か言われたか」
 ずっと黙っていたマリアベルが口を開いた。普段ならさっさとシャトーに戻っているのに、珍しく実働隊に同行している。
「ええ。それが──」
 これ以上の変身を止められたことを告げると、彼女はふむと少し考えてから。
「あやつが言うのであれば、確かなのじゃろうな。汝の内側の」
 魔神が、増長している──。
「やっぱり、もう変身しない方がいいんでしょうか」
 尋ねると、わらわに聞くなと嫌な顔をされた。
「汝が抱え込んだモノなのだから、自らの責任で判断せい。そもそも危機が生じれば勝手に発動してしまうのだろう? それなら」
 悩むだけ無駄じゃ、とすげなく言われてしまった。
「ここまで来たら腹を括るより他ないじゃろう。なに、万一暴走しそうになったら、そこで怖い顔をしている凶祓が止めてくれる」
 言われて、振り返った。
「カノン……」
 凶祓は、突き刺すような視線を向けていたが。
「止めて……くれるか、僕を」
「私は──」
 視線が揺らいだ。
「依頼通りに、遂行するまでだ」
 間を置いてからそう答え、顔を背ける。迷いが生じている。
 無理もないかと、アシュレーは思う。
 彼女は今やすっかりARMSに馴染んでいる。そのことが──幸か不幸か、その鋼のような意志に綻びをもたらしている。
 果たして仲間を殺せるのか──。
 彼女はこれから、その葛藤を抱えながらアシュレーの監視を続けなければならない。『災厄』が暴走したとき、本当にアシュレーもろとも祓うことができるのか──。
 だが、それでも。
「よろしく頼む」
 信頼するしかない。彼女が最後の歯止めなのだ。
「僕も、できる限り変身しないよう気をつけるよ。……でも」
 切り札が使えないとなると。
「やっぱり僕が最弱だなぁ。はぁ」
 リーダーなのに。情けない。
「お前は今でも最強だよ」
 ブラッドが戻ってきた。先程炸裂したと思しき大型ARMをかついでいる。ボフールの新作だろうか。
「お前の強さは何も戦闘力ばかりではない。人望によって人を集め、人を動かし、束ね率いて導いていく──それこそがお前の最大の強みだ」
「そんな、人望なんて……僕には」
「ありますよ」
 否定しようとしたが、その前にティムに肯定されてしまった。
「みんな、アシュレーさんがいるからついて来て、ここまで頑張れたんです。いなくなってからも、アシュレーさんが帰ってくるまで踏ん張ろうって」
「そうだな」
 担いでいたARMを下ろし、状態を確認しながらブラッドが請ける。
「この半年は、お前の不在の大きさをつくづく思い知ったよ。状況は悪化の一途いっとを辿り、一方で事態は膠着こうちゃくしてちっとも進展しない」
「それは……別に僕がいても同じだったんじゃ」
 アーヴィングや三大国家の王は健在だったのだ。彼ら首脳が策を練っても打開できなかったのであれば、その下で動く自分がいたところで、どうにもできなかっただろう。
「ちっとも判っておらぬな」
 呆れた顔でマリアベルが言う。
「汝は今や、人々にとって特別の存在なのじゃ。英雄視する者も少なくない。その証拠に」
 聖廟せいびょうを作る動きもあった、と彼女は思わぬことを言った。
「せ、聖廟? 誰の」
「汝のに決まっておろうが。剣の大聖堂の隣に同じようなのを建てようと、メリアブールの有志が募っておったらしいぞ。直後に空に異変が起きて、結局それどころではなくなったが」
「そ、そんな、僕は」
 危うくまつられるところだったのか。
「実績からすれば、文句のつけようのない英雄っぷりだからな」
 ニヤリと笑ったブラッドがはやす。冗談を受け流す余裕のないアシュレーは、ただ唖然とした。
 ARMS実働隊のリーダーとしてテロリストと戦い、打倒して。
 命を賭して『核』の脅威から世界を守った──。
 事実だけ並べれば、確かに英雄として充分な実績だ。自分のことでなければアシュレー自身も英雄視していたかもしれない。
 そう。
 思えばアシュレーも、剣の聖女やスレイハイムの英雄を雲の上の存在だと思っていた。だが実際の彼らは──自分たちと変わりのない、ただの人間だった。
 笑い、怒り、嘆き悲しみ、間違うことさえする──普通の人間だ。
 所詮、そんなものなのだ。たたえたい、あがめたいがゆえに人間性を排除し、綺麗な上澄うわずみだけを『伝説』として昇華させた──。英雄とはそんな希薄な、実体とかけ離れた存在なのだろう。
 それでも。
「アシュレーさんが帰ってきたことは、もう世界中に広まってます。英雄の帰還だってすごい騒ぎです」
 嬉しそうにティムが言う。
「そういうことじゃ。アシュレー・ウインチェスターの帰還が人々の数少ない希望となっておる。汝が音頭を取れば皆が従う。今の汝はそのくらいの存在なのじゃ」
「僕が、世界の希望……」
 たとえ、上澄みだけの希薄な存在であろうと。
 それが人々に希望をもたらすというのであれば──かりそめの『英雄』を演じてもいい──そんな気にもなった。
「この半年はアーヴィングが孤軍奮闘しておったが……どうにもな。あやつは壊したり作ったりするのは得手えてだが、推進力がない。汝がおらねばちっとも話が動かぬ」
 さあ、さっさと動かせ、とマリアベルが催促する。
「チンタラしている時間はないぞ。まずはどうする。どこへ行く」
「どこへ、行く……」
 ──そうか。
 今の自分に求められているのは、行動なのだ。膠着した状況を切り開く一手。それを打てるのは。
『英雄』を背負った者の役割──ということか。
 重い。だが。
 横目でブラッドを見る。彼もこの重みに耐えながら、役割を演じてきたに違いない。
 かつての英雄は、励ますように真っ直ぐこちらを見据え、頷いてみせた。
 これからは、自分が──。
「ティム」
 覚悟を決めて、アシュレーは少年を呼んだ。
「聖域に行こう。やっぱりまずはガーディアンに話を聞かないと」
「は、はい。でも」
「心配ない。君の身は必ず僕らが守ってみせる。ガーディアンだろうと好きにはさせない。みんなも」
 それでいいね、と仲間たちを見渡した。
 ブラッドが、カノンが応じる。そして。
「何じゃ、わらわもか」
「もちろん。というか来てくれないと困ります。ガーディアンと渡り合うためにはあなたの力が要る」
 彼女の召喚するゴーレム……守護獣にも匹敵するあの兵器を見たからこそ、アシュレーは決断に至ったのだ。
そそのかすか。このファルガイアの支配者を」
 汝も言うようになったの、とマリアベルは紅玉の目を細めて破顔した。
「良かろう。しばしの間、汝につき合ってやる。じゃが──」
 言いながら、横に退く。
「まずはこやつを説得せねばの」
 そこには仏頂面ぶっちょうづらの魔女っ子が、腰に手を当てて仁王立ちしていた。

 わかったよ、と意外にあっさりとリルカは折れた。
「いいのか? ずっと反対していたんだろ」
「別に。ティムがハッキリしないから、そんなんじゃ行かせられないって思っただけ」
 わたしの反対なんて突っぱねればよかったんだよ、と彼女は早々に席を立って、背を向ける。
「そしたらもう何も言わなかったのに。ヘタレるのが悪い」
「そんなぁ……」
 ティムは情けない顔をして肩を落とす。この子が人の反対を押し切れるような性格でないことくらい、わかっているだろうに。
 意地悪な少女は、今は壁に飾られている何かの獣の剥製はくせいを眺めている。
 パレス地方唯一の村、そこの寄合所よりあいじょとして使われている建物の中である。依頼の完了を村長に報告した後、この建物を借りて臨時のミーティングを開いているところだった。
 会議の主旨は言うまでもなくリルカの説得だったのだが……彼女もそこまでかたくなに反対していたわけではなかったらしい。開始からわずか数分で話がまとまってしまった。
「それじゃあ、これで決定ということでいいかな。明日──」
 ギルドグラード南部にあるという、ガーディアンの聖域へ向かう。
 長机の端に立っていたアシュレーが、全員を見渡してくくろうとしたが。
「まだ本人の返事を聞いていない」
 カノンに指摘され、ああと頭を掻く。リルカのことばかりで肝心のティムの意思を確認していなかった。
「ごめん。ティムは……大丈夫か」
「ボクは……」
 机のどこかを見ていた少年は、思い切って顔を上げ、発言した。
「アシュレーさんが守ってくれるなら、大丈夫です。頑張ります」
「そ、そうか」
 予想外の笑顔で答えられて、アシュレーは少し面食らい、それからなぜかどぎまぎした。
 何だか妙な色気を感じてしまった。成長して男らしくなるどころか、ますます性別が怪しくなっているような──。
「ほうほう、アシュレーさんはそちらの趣味もおありでしたかー」
 その反応を察したらしいリルカが、後ろから肩越しに顔を突き出してくる。
「どういう意味だよ」
「いいんですよー。誰が誰を好きになろうが自由ですから。ええ」
 とぼけた口調だが、どことなくとげを感じた。復帰してからというもの、どうも彼女の態度が冷ややかというか……怒っているような気がする。
 何か気分を損ねるようなことでもしただろうか。首を捻ってこれまでの行動を振り返ったが、思い当たる節はない。
 その彼女は言うだけ言ってさっさと離れ、今度は夕暮れの小麦畑を描いた絵画を眺めている。
 ──まあいいか。
 気紛きまぐれな少女はひとまず置いて、仕切り直そうと机に向き直ったとき、入口の扉がノックされた。
「お邪魔でしたかな」
 入ってきたのは、村人らしき年配の男。毛織のチョッキを羽織り、白髪交じりの茶色の髪を後ろに流している。
「いえ、もう終わるところだったので。ご用件は」
 アシュレーが尋ねると、男の背後から子供が飛び出してきた。
「やっぱり、お姉ちゃんだッ」
「セルジ」
 子供はまっしぐらにリルカに駆け寄る。男の息子だろうか。
「憶えててくれたんだ、わたしのこと」
「もちろんッ。忘れるもんか」
 リルカは子供の両手を握ってひとしきり喜び、それから男の方を向いた。
「ファシオさんも、お久しぶりです。そのせつはどうも」
「こちらこそ」
 世話になったね、と親しげにリルカの肩を叩く。
「リルカさん、この村に来たことあったんですか」
 ティムが聞くと、リルカは少しばつの悪そうにまあね、と答えた。
「その、諸国漫遊武者修行の途中でね」
「修行? テレポート失敗で飛ばされたんじゃ」
「ちょ、セルジ、バラさないでよッ」
 慌てて子供の口を塞ぐ。テレポート失敗ということは、シエルジェを飛び出してヴァレリアの館に向かおうとしていたときか。
「そういや、魔物退治をしたって言っていたけど」
 この村でのことだったのだろうか。
 案の定、リルカがファシオと呼んだ男は大きく頷いた。
「リルカさんはこの村の大恩人だ。彼女が飛ば……来てくれなかったら、我々は飢え死にしていたかもしれん」
「大げさですって、もう」
 困った顔のまま俯く。珍しい反応だ。
「ARMSでの活躍も聞いているよ。我々も鼻が高い。……そうそう、それで」
 と、ファシオは脇に抱えていた紙筒を机に広げる。人物のスケッチらしき絵が石墨で粗く描かれていたが。
「な」
 モデルは紛れもなく──そこで大口を開けて絶句している少女。魔法を使う様子を写したのか、四角い台の上でパラソルを突き出している。
「今度、村に造る予定の銅像の下絵だよ」
「ど、ど、銅像!?」
 裏返った声を上げて、本物も銅像よろしく固まった。
「伝説の魔法使いが初めてモンスターを倒した地、ということでね。まだ伝説というには早いかもしれないが、今後の活躍も見込んで造ろうということになってね。着工の前に本人に見てもらおうと思ったのだが」
 こんな感じで良かったかなと聞かれて、ようやく再起動する。
「い、いいワケないです。勘弁してください。こんなの作られたらおちおち外でトイレも行けないですッ」
 全力で断りにかかったが、ファシオ親子は違う意味に受け取ったようで。
「ほら、やっぱりもうちょっとカッコよく作らないと。こういうのはそのまんまじゃダメなんだって」
「ふうむ、そういうものか。ならばもっと背を高くして、スタイルも……」
「そうじゃないッ! ていうかなにげに失礼ですよ二人ともッ」
 どうせ実物はちんちくりんですよ、と半ば自爆しながらリルカは食ってかかる。それでも二人に彼女の意思が伝わる様子はなく、あれこれ改善策を提案してくる。
 ここにも英雄がいたな、とアシュレーは思った。

 冷厳れいげんたる祭壇を前にして、ティムは立ち止まった。
 こちらを不安そうに振り返り、それからまた正面を向く。アシュレーたちは黙って彼を見守る。
 足が震えている。抱えた杖の先端の飾りも、小刻みに揺れている。
 先に行って、導いてやることはできた。励ますこともできた。けれど。
 唇を噛み、そうしたい気持ちをぐっと押し込める。そして待つ。
 ここは、彼が自分の意思で、自分の力だけで歩まなくてはならない場所なのだ。アシュレーたちは単なる同行者であり、何かが起きたときのサポート役でしかない。
 ──ガーディアンの聖域──。
 焔の災厄に敗れ、精神存在となった守護獣たち。ここはその彼らと外界を結ぶ唯一の接点──アクセスポイントなのだという。
『柱』はこの地でガーディアンと接触アクセスし、その魂を彼らに捧げる。魂は意思を持たないガーディアンの核となり、彼らの絶大なる力を行使する──。
 そうやって、このファルガイアは幾度となく、危機をはらってきたのだという。
 だが、永きに渡って肉体から断絶した守護獣たちは、徐々にその力を弱め。
 今や大地の生命力を維持できなくなるほど──衰えてしまった。
 現在ファルガイアを襲っている異常現象。弱体化した彼らがこの未曽有の災厄を祓えるとは思えない。
 それでもなお、彼らは魂を……『柱』の命を欲するのだろうか。
 アーヴィングは以前、ガーディアンを臓器になぞらえていた。ファルガイアという巨大な生命体を維持するための装置システムに過ぎないと。そうであるなら、やはり現行のシステムにのっとって『柱』を取り込もうとするのかもしれない。
 生け贄にされる。
 ティムはこれから、その『柱』の運命に抗わなくてはならない。弱体化したとはいえ、人間と比べれば強大な存在であることには変わりない。そんな存在ものの要求を──拒まなくてはならないのだ。
 怖いだろう。それでも。
 彼がこの先も生きるためには──乗り越えなければならない。
「怖がることはないのダ」
 髭を生やした子犬のような亜精霊──プーカが言った。ティムの腰に提げた鞄の上に乗っている。
「ティムがここに来ることは、最初から決まっていたことなのダ。内なる『導き』を感じて、それに従うだけでいいのダ」
 アシュレーは眉をひそめる。
 まるで生け贄となることを促しているような言葉だ。この亜精霊は時々、どちらの味方なのか判らないようなことを言う。
 どちらでも──ないのか。
 亜精霊は、ガーディアンに遣わされた使者である。『柱』を彼らのシステムに取り込むためだけに存在する、一種のプログラムに過ぎないのだろう。
 ティムに寄り添い、力を発揮できるよう助けたのも、全てはシステム──ガーディアンに定められた命令コードによるもの。決して自分で考えて動いてはいないのだ。
 それでも。
 ティムはぎこちなく頷き、そして足を前へ踏み出した。
 一歩、また一歩と、石のきざはしを上っていく。アシュレーたちも少し間隔を空けて、後に続いた。
 唐突に階段が途切れ、彼らは祭壇の頂へと至った。
 平坦な石畳が広がり、その先にはやや崩れた壁がそそり立っている。ここが聖域の行き止まり──最奥さいおうなのだろう。
 壁の手前には、三体の石像が互いに向き合うように鎮座していた。
「この像は……」
 ガーディアンロード、とティムが言った。
「ガーディアン……ロード?」
 アシュレーが聞き返す。石像に見蕩みとれるティムの代わりに後ろのマリアベルが答える。
「ガーディアンの中でも特別な、上位存在とも言うべきガーディアンじゃ。すなわち──」

 勇気のガーディアン──獅子王ジャスティーン。
 愛のガーディアン──女神ラフティーナ。
 希望のガーディアン──竜神ゼファー。

「こやつらは最初から血肉けつにくを備えておらぬゆえ、わらわも実際に見たことはない。人々の心に宿り、奇蹟によって具現化するというが」
 どうなのじゃろうな、とノーブルレッドの少女は肩を竦める。存在自体を疑っているらしい。
 伝説のガーディアン──か。
 ティムは引き寄せられるような足取りで、石像たちの中心に立つ。
「ここに……何かいます」
 少し上の方を向きながら、言った。アシュレーには見えていないが。
 彼には……『柱』には見えているのか。
 おもむろに手を上げて、触れるような仕草をする。
 気をつけろ、とアシュレーが注意を促そうとした、次の瞬間。
 視界が──白くなった。

 ガイア、と誰かが遠くでその名を呼んだ。