■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Mission 16 希望の灯火

 暖炉の熱を背中に感じながら、ブラッドは正面に座る男の顔をつぶさに眺めた。
 火傷のあざの浮いた頬。老人のように落ち窪んだ眼窩がんか。頭に巻かれた包帯の間からは枯草のように白髪しらがが出ている。
 変わり果てた戦友の姿は、おのが罪の重さを否応いやおうなしに思い知る。だが。
 目をらしてはいけない。あの監獄を出ることを決意したときから、この罪を背負って生きていくと覚悟したのだ。
 男はブラッドの視線など意に介さず、のろのろと食事を進めている。左手に握ったさじかゆすくい、半ば開いたままの口へと運ぶ。
「あれッ」
 台所から戻ってきた三つ編みの娘――メリルが横から覗き込んで言った。
「ビリーさん、今日は機嫌がいいみたい。ほとんど食べてる」
 やっぱりおじさんが来てくれたからかな、とメリルはこちらを向いて笑った。
 ここに来てから、彼はまだ一度もブラッドの方を見ていない。存在に気づいているとは思えないが。
「ちゃんとわかってるよ、ビリーさんは」
 粥で汚れた口許を拭ってやりながら、メリルは言う。
「だって、おじさんがいると、違うもの」
「違う?」
「うん。ちょっとした動きとか仕草とか、いつもと何となく」
 違うんだよ、と匙を置いたビリーを抱えて、車椅子に座り直させた。
 手慣れている。普段から世話を焼いているのだろう。だからこそ些細ささいな変化に気づくこともできる――ということか。
「すまないな」
 本当ならば、それは自分の役目だ。縁もない彼をずっと看病させていることにブラッドは心苦しさを感じた。
 だが、メリルは。
「縁はあるよ」
 車椅子を押して暖炉の前に移動させてから、屈託くったくない表情で言った。
「おじさんは村の恩人だし、ビリーさんはおじさんの大事な友達。これもちゃんとした縁だよ」
 それに、と再びこちらを見て、続ける。
「縁なんてなくたって、困ってる人がいたら、動けない人を見たら――助けるのは当たり前のことだと思うよ。少なくともわたしはほっとけない。だからおじさんとも会えたしね」
 あの冷たい雨の日。自分を救ってくれたのは、この少女だった。
 救われてばかりだな、とブラッドは目を細める。
「この戦いが終わったら――」
 必ず、ここに帰ろうと思う。
 縁の繋がったこの村で、友と共に穏やかに暮らそう。もう血も流れない。硝煙しょうえんの臭いもいつしか忘れて――。
「うん。待ってる」
 少女は笑顔で返したが、家の外で犬の鳴き声がしてあッと声を上げる。
「いけない。ラッシュにもごはんあげないと」
 メリルが慌ただしく出ていくと、部屋はしんと静まり返った。薪の爆ぜる音ばかりが鼓膜を震わせる。
「ブラッ、ド……」
 車椅子の戦友が、譫言うわごとでその名を漏らす。
 ――ブラッド、か。
 ズボンの隠しから取り出して、おもむろに机に置く。
 鎖のついた楕円形の金属板。認識票ドッグタグ
 それは友との絆であり、同時に重石でも――呪縛でもあった。
 だが、今は。
「なあ、ビリー。聞いてくれ」
 それは独り言だった。誰に向けてでもない。ただ口にしたかっただけの……独白。
「俺は、迷っている。疑念というべきか――」
 以前から、引っかかりは感じていた。ほんの些細な不自然さ――あるいは違和感。それが、今回の作戦である種の確信を伴うまでに彼の中で膨れ上がっていた。
 そんな訳はない、と一方では思う。思いたいだけなのかもしれないが。
 俺は――。
「どうすれば……いいのだろう」
 このわだかまりを抱えたまま、次の決戦に臨まなければならないのか。世界の命運をした戦いが目前だというのに――。
 ふと思う。アシュレーも……こんな心境だったのだろうか。
 オデッサとの戦いの最中、彼は自分ブラッドに疑念を抱き、その結果アンテノーラの罠にはまってしまった。全ては奸計かんけいによるものではあったのだが。
 自分にも責任の一端はあった。余計な隠し事などせず正面から彼と向き合っていれば、あんなことには――。
「ビリー……」
 その声に引き戻され、暖炉の前に佇む戦友を見る。
「チャールズ、ジョン、マーティン……みん、な……」
 それは解放軍時代の仲間の名だった。同じ志を抱き、死線を共にし、そして天使の光に呑まれていった――。
「そう――だな」
 忘れてはいけない。俺たちは独りで戦ってきた訳ではないのだ。あのときも、そして今も、周りを見れば仲間が――いる。
 ならば、自分がすべきことは。必要なことは。
 瞑目めいもくする。まぶたの内側に浮かんだのは、守護獣の祭壇で見た獅子の石像。それが象徴とするのは。
 勇気、か。
 目を開ける。そして机上の認識票を取ると立ち上がり。
「返すときが――来たようだ」
 戦友の掌に鎖を握らせて。
 代わりに車椅子の背凭せもたれに掛かっていた鎖を取った。
「もうしばらく待っていてくれ。全部終わったら、必ず――帰る」
 そう告げてブラッドは友に背を向け、浅黒い巨躯きょくを揺らして扉へと向かう。
「俺の名は――」
 その手からこぼれた楕円の金属板が、暖炉のを受けちらちらときらめいていた。

「こちら実働隊、所定の地点に到達。準備を――完了した」
 通信機にそう告げて、アシュレーは応答を待つ。
〈了解した。これより疑似世界の展開に入る〉
 十秒ほどのタイムラグの後に、指揮官から応答があった。アシュレーは返事を入れてから通信を切り、顔を上げる。
 白銀の壁に囲まれた空間。飛空機械と変形したロンバルディアの内部である。正面に張られた窓の外には、枯れた大地も歪んだ空もなく。
「はえぇ~……すっごい」
 窓に張りついたリルカが見蕩みとれている。
 彼女の目の前に広がるのは、輝く大気をまとった宝石のごとき球体。
「これがファルガイアなのかぁ……はえ~」
 ティムも隣で釘づけになったまま、言葉を失っている。
 アシュレーも最初に見たときは同じように見蕩れていたことを思い出した。大気圏外に抜けたヘイムダル・ガッツォーから見たファルガイアは、迫る危機のことを瞬間忘れるほど美しくて。
 この惑星ほしを護らなければと――強く思った。
 その気持ちは今でも変わらない。
 光景に変化があった。大地から光の柱が立ち上り、衛星軌道を漂う装置に吸い込まれる。
「始まったようじゃな」
 双眼鏡で眺めていたマリアベルが言った。
 彼女から双眼鏡を借りて、アシュレーも装置の様子を確認する。
「あれが……」
 ライブリフレクターの――本体。筒状の構造物からいくつも脚が突き出て、鏡のようなパネルに繋がっている。
 その名が示す通り、あの装置の本来の機能は、人間の生命力の受け渡しを行うことで瞬間移動――転送を可能とするものである。エルゥが遺したロストテクノロジーにおいても数少ない、現在も稼働している装置なのだが。
 今、受け渡しを行っているのは人間ではなく……大地の生命力。いわゆるマナと呼ばれるライブエネルギーである。
 吸い出されている。こんなに遠くからでも見えるくらい、大量に。
「う……」
 ティムがうめいた。双眼鏡を外して見ると、胸を押さえて苦しそうにしている。彼の内側にあるガーディアンの意思――ガイアが、大地の衰耗すいもうを察知して騒いでいるのかもしれない。
「数十年……いや、数百年分のマナが消費されておる」
 苦々しげにマリアベルが言う。
「やはり、最初で最後じゃな。これ以上は――ファルガイアが死んでしまう」
 今回で決めなければ――世界は滅ぶ。
 生唾なまつばを呑み込む。否応にも緊張が高まる。
 光の柱が消えた。受信が完了したか。
 装置は緩々ゆるゆると回転し、パネルの角度を定めて。
 蓄積したマナを放出した。
 輝く光の筋はファルガイア上空の一点で放射状に拡散し、幾重いくえにも折り重なり、織り込まれ。
 星々をちりばめた羽衣はごろもとなって――惑星をふわりと包み込んだ。
 羽衣が大気に吸収されて消えると、マリアベルが言う。
「完了じゃ。これで」
 目の前にあるファルガイアは、偽物ダミーとなった。
「え、こ、これで?」
 リルカが首を傾げる。アシュレーも全く実感がなかった。
「何も変わってないけど……この一瞬ですり替わったのか?」
「すり替わったわけではない。本物のファルガイアもそこにある」
 また言葉が難しいの、とマリアベルは腕を組む。
「そうじゃのう。画層レイヤーを被せた――と言えば、そのすじの者にはイメージしやすいか」
「その筋ってどの筋よ」
 まだ不満そうなリルカの肩を叩いてなだめる。こういうのは深堀りしない方がいい。
〈アシュレー〉
 通信が入った。
〈疑似世界の構築は成功した。今のところカイバーベルトに動きは見られない。気づかれては――いないようだ〉
 まずは第一関門突破、といったところか。作戦を察知され回避されてしまっては元も子もない。
〈こちらは引き続きトラペゾヘドロンの発動にかかる。君たちは〉
 ドラゴンの能力によって、疑似世界へ侵入する――。
〈侵入している間は通信は一切不能となる。ゆえにこれより、実働隊の指揮における全権限をアシュレー、君に移譲する。カイバーベルトを殲滅せんめつするまでは――君が指揮官だ〉
「……了解した」
 部隊の、そして世界の命運が……この肩に。
 いや。
 通信機を手にしたまま、振り返る。
 仲間たちがいる。共に戦い、危機を乗り越えてきた。今回もみんなで乗り越えてみせる。
 どんなときも、ひとりじゃない。マリナがくれた言葉を――心の中で繰り返して。
「これより侵入を開始する」
 通信を切り、正面を向く。そして。
「ロンバルディア。頼む」
〈承知した〉
 ドラゴンは転回し、地上に向けて降下を始めた。衝撃に備えて身構えていると。
〈次元転換〉
 視界にノイズが走った。同時に周囲がぐにゃりと歪む。
「うひゃぁ――」
 誰かの声が間延びして遅くなり、反響しながら消えていく。激しさを増したノイズが滝のように流れ落ち、それが左右に割れて前方にトンネルを作った。
 吸い込まれるようにトンネルを潜り、抜けた先には。
「――ぁあ」
 地面が見えた。枯れた荒野、険しい山脈。見慣れたファルガイアの大地。だが。
 何だか……色褪いろあせている。くすんだ色合いのフィルターを通して見ているような。
 これこそが疑似世界なのだと、少ししてようやく理解が追いついた。自分たちは世界を――遷移したのだ。
「あくまで紛い物ダミーじゃからな。再現性はこの際二の次じゃ」
 時間軸も止めておる、とマリアベルは言う。確かに動いているものが一つもない。
 紛い物のファルガイア――。
 もっとよく見ようと窓に近づいたが。
「な――」
 唐突に暗転した。荒野も山も何もかもが闇に呑まれ、見えなくなる。
「トラペゾヘドロンが発動したか」
 禁術トラペゾヘドロン――マナの牢獄に封じることによって形なき存在を物質として具現化させる――超高度魔法。
 事前のシミュレーション通りならば、異世界は圧縮され、どこかで物質化マテリアライズを始めているはずだが。
〈生体反応を感知した〉
 当該域に向かう、とロンバルディアが移動を開始した。
 遂に尻尾を掴んだ。ファルガイアを蝕む、異形の世界。その姿は。
「ようやくの――対面じゃな」
 見えた。
 闇の中に漂う、闇よりもなお黒いもや。それがみるみる凝結し、形を成していく。
「こいつが――」
 侵食異世界カイバーベルト――。
 それはマグマのようにかがやく皮膚を持ち、あの青黒い空と同じ色をした甲殻に覆われた、まさしく異形の怪物だった。
「こいつをはらえば――」
 全て終わる、とカノンが言った。
「行こう」
 ここで決める。いや、決めなければ。
 背後の床がすっと消え、降下口が開く。
〈残念だが我は助太刀すけだちできぬ。帰還に必要なエネルギーを確保しておかねばならぬからな〉
「ああ、ありがとう。大丈夫だ、こいつは――」
 僕らの敵だ。この世界の者の手で倒すべきなのだろう。
 タラップを降りて、外に出た。一面の闇で足許が覚束おぼつかない。
「待ってて。いま床を作る」
 リルカが皆から少し離れたところでかがみ込む。どこかで見覚えのある展開だと思ったが、すぐに思い出した。
パズル展開イクスパンシゥ・ラ・エニグモン
 あれはノエル王子の護衛任務の途中だったか。列車に仕掛けられたカイーナの罠を解除するため奮闘していたあの頃の彼女が、今の姿に重なる。
 光が放射状に広がり、空間に彩りを与える。半透明のブロックが敷き詰められて広大な地面となり、彼方に見える怪物までするすると道が延びていった。
 魔法は同じだったが、その規模は以前と比較にならないほど大きかった。床の広さは使用者の魔力に比例するという。才能なしの落ちこぼれと自嘲し、カイーナにも半人前とあなどられていた彼女がここまで成長したのかと思うと、見守ってきたアシュレーにも感慨深いものがあった。
「どうよこの出来栄え。天才じゃんッ」
 ARMSの魔法少女は胸を張って自画自賛したが、マリアベルに六十点と辛口採点をつけられて頬を膨らませる。精神的な成長はもう少し先のようだ。
 リルカが作ってくれた道。それを辿たどって慎重に接近する。
 近づくほどにその大きさが把握できた。やはり巨大ではあるものの、グラウスヴァインのような圧倒的なスケールは感じない。もちろんそれだけで強さを測ることはできないのだろうが、ちっぽけな人間たちでも倒せるかもしれないという希望は――少なくとも持つことができた。
「動きが……ないですね」
 杖を不安そうに抱えながら、ティムが言う。腰に下げた鞄には亜精霊プーカが載っている。詳しい経緯は聞いていないが、先日ふいに戻ってきたらしい。
「実体化したばかりで、まだ眠っているのでしょうか」
「それか、ビックリしてるんじゃないの。突然変な姿にされちゃって」
「どうだろうな……」
 概念存在というだけで判然としないのに、その実体化となっては……もはや理解不能である。思考だの推察だのが及ぶ範囲ですらない。
 とにかく、今起きていることに対応し、目的を果たすことに注力する。自分たちにできるのはそれだけだ。
「このあたりで、届きそうか?」
 立ち止まり、ブラッドに確認する。
「――問題ない」
 ブラッドは目視で怪物との距離を測ってから、答えた。
「よし。じゃあ、ここから」
 先制攻撃を行う。
 アシュレーの指示を受けてめいめいが準備を始めた。ブラッドが背負っていた大型ARMを下ろし、リルカは呪符に魔法を込める。ティムはシトゥルダークの能力で防護膜を張った。
 基本的にはグラウスヴァインのときと同じ戦法である。一通り攻撃をぶつけてその効果を見極める。できることなら最初の攻撃で仕留めたいところではあるのだが――。
「準備できたよ」
「こちらも完了した」
 先制攻撃を担う二人が言った。アシュレーは頷き、そして。
「攻撃開始ッ」
 ブラッドのARM――携行式ミサイルランチャーが口火を切った。ボフールが半年かけて作り上げた最高傑作だという。
「どっせぇーいッ!」
 続けてリルカが全力でパラソルを振り抜いて魔法を飛ばした。ARMの射程に合わせたため、気合いを込めてフルスイングしないと届かないらしい。
 ミサイルと魔法が炸裂し、大爆発を起こす。とりあえず命中はしたようだが。
「被弾を確認。対象は――」
 カノンの義眼が、遠方の敵の姿を捉える。
胴体ボディと右肩を損壊。攻撃は――効いているようだ」
 意外にもろい奴じゃのうとマリアベルも双眼鏡を覗きながら言った。
「そうか」
 このまま攻め続ければ、倒せる。
 希望が見え、すぐに再攻撃の指示を出そうとしたが。
「待て」
 カノンが言った。
「何か……動きが。口を開けて」
 その言葉が途切れ、表情が強張こわばった。
「あ、あああ」
「カノン?」
 どうした、と聞く間もなく。
 頭に凄まじい衝撃が走った。
「ぐ、あああぁぁ」
 痛い。脳の中を直接かき回されているようだ。
 きんきんと耳障りな音もする。これは音波か。奴の口から出ているのか。
「みん……な……ッ!」
 振り向くと、仲間たちも苦痛に悶えていた。ブラッドは膝をついて耳を塞ぎ、リルカは座り込んだまま怯えたように首を振っている。
「ち、違うよッ、そんなんじゃないッ」
 わめきながら、見えないものと戦うようにぶんぶんとパラソルを振り回す。その両眼の焦点は合っていない。
 ――幻覚。この音波は精神汚染をもたらす攻撃か。
「も……やだよ……こんなの……」
「リルカ、しっかりしろッ」
 傘を投げ出して泣き出した彼女の肩をアシュレーは揺さぶる。横では胎児のように身体を丸めたティムが死にたくないと譫言で連呼している。
「……いたい」
 カノンは少し離れたところで、自分の左手を見つめていた。
「これは義手だ。機械の腕。なのに、なぜ……痛みを感じる」
 痛い。いたい痛いイタイ。
「腕が痛い。機械が痛い。あたしはッ、もう、心まで機械に、なって……」
「カノンッ。くそッ」
 これでは戦うどころではない。何とかしなければ、と顔を上げたとき。
 目の前に紅の飛沫しぶきが舞った。怪しく輝く飛沫は周囲の床に落ちるとひとりでに拡散し、複雑な紋様を描き出す。
 これは。
「魔法……陣」
 アシュレーは振り返る。こんなことができるのは――。
「ふん。世話のかかる人間どもじゃ」
 案の定、ノーブルレッドの少女は陣の中央で両手を突き出し、何かの印を結んでいた。
「もう大丈夫じゃ。正気に返った」
 確かにリルカもティムも脱力はしていたが、その瞳には光が戻っていた。ステータスロック――精神攻撃を防御する魔法だとマリアベルは説明した。
「マリアベルさんは平気だったんですか?」
ノーブルレッドわらわは人間とは精神構造が異なるからな。大方おおかた
 チャンネルが合わなかったのじゃろう、とまた独特の言い回しをした。意味を聞いてもどうせ答えてはくれまい。
「そういううぬも効いていないではないか」
「え? ああ……そういえば」
 酷い頭痛はしたが、錯乱までには至らなかった。どうしてだろう。
「まあ、汝は存在自体が意味不明であるからな。魔神だの聖剣だの宿しておる時点で異常なのだから、それより異常になりようがないのじゃろう」
「マリアベルさん……」
 意味不明とか異常とか、あまりの言われようである。さすがに少し傷ついた。
「ちっくしょう……吹っ切ったつもりだったのに」
 リルカがそでで顔を拭いながら立ち上がる。その隣ではまだ震えているティムがプーカに慰められていた。
「ティム、大丈夫なのダ。プーカがついているのダ」
「……プーカ」
 リルカもティムも、懸命に立ち直ろうとしている。だが。
「二人はここで待機していてくれ」
「え? でも」
「魔法を使うときの大原則」
 心乱れし時魔法使うべからず――。
 以前彼女から教えてもらった文言を、そのまま返した。
「ちぇっ」
 わかったよ、と不承不承ふしょうぶしょうリルカは引き下がった。
 アシュレーはむくれる彼女の頭を撫でてやってから、一人で魔法陣の縁まで歩いていく。
 カイバーベルトは依然として同じ姿で沈黙している。損壊させたはずの部分はいつの間にか元通りになっていた。
 ――自己修復か。そうなると飛び道具で削っていく方法ではらちが明かない。
 ならば。
 拳を握り締める。高めた感情を一気にたぎらせて。
「アクセスッ!!」
 爆発させた。
 一瞬の暗転。そして。
 黄金の闘気を纏った騎士へと――変身した。
「カノン」
 呼ぶと、少し離れたところにいた彼女が目を見開いた。
「話せる……のか」
「ああ。どうやらこの姿に心が……馴染なじんできたらしい」
 それはむしろ悪いきざしではある。けれど、今は。
 目の前の脅威を倒すために――利用するまで。
「戦えるなら、僕のサポートを頼みたい」
 ナイトブレイザーの速さスピードについて行けるのは彼女だけだ。それに――孤独は絶望を生む。先の戦いでそのことは痛いほど思い知った。
 仲間の力を借り、仲間と一緒に戦う。そのことが今の自分ナイトブレイザーには必要なのだ。
「……わかった」
 カノンは横に立ち、短刀を抜いた。彼女も想像を絶する修羅場を潜り抜けてきた一人である。この程度の揺さぶりでくじけるほど弱くはない。
 そして、もう一人。修羅場を潜ってきた男が――。
「ブラッド。もし不測の事態が起きたときは」
「判っている。後ろは――任せろ」
 仲間を信じて、仲間と共に。
 アシュレーは魔法陣を出て、駆け出した。
 カイバーベルトに動きはない。アシュレーはそのまま拳を繰り出して。
 触手めいた片腕を、打ち砕いた。
 続けてカノンがすれ違いざまに頭部を斬りつける。いずれも手応えはあったが、破壊された腕も裂かれた頭も数秒後には肉付けされ、傷が塞がれ、みるみるうちに修復されていった。
 二人はなおも攻撃を続けた。だが、やはり打撃を与えたそばから修復が始まり、すぐに元通りになってしまう。回復力が尋常ではない。
「くそッ」
 どうすればいい。修復不能なくらい粉々にするしか倒せないのか。いくらナイトブレイザーといえども、この巨体をそこまで粉砕できる能力は持ち合わせていない。
 そうするうちに再び反撃――精神攻撃が来た。脳をつんざく痛みに頭を抱える。
「カノンッ」
 痛みをこらえつつ見ると、カノンは両膝を地面につけて呻いていた。アシュレーは駆け寄ろうとしたが。
「大丈夫、だッ……!」
 鬼気迫る形相ぎょうそうで制され、足を止める。
「そうだッ。あたしは」
 力を得るために、肉体をてた――。
 カノンは義手の手で顔を覆い、床に吐き捨てるように叫んだ。
 戦っている。幻覚と――いや、自分自身と。
「もはや人でないのかもしれない。聖女の末裔まつえいでも、ベルナデットの娘でもない。でも」
 それでも、あたしは。
「あたしは――ここにいるッ!」
 全てを振り切るように、彼女は勢いよく立ち上がった。
 そして、徐にこちらを向く。
きたなく泥にまみれていても、ここにいていいんだと――こいつらは示してくれた。無様なこの姿を肯定してくれた」
「――カノン」
 穏やかに細めた義眼に、幻覚は映っていない。凶祓まがばらいは自力で内なる攻撃をも――祓ったのだ。
なんじに問おう〉
 どこからか声が聞こえた。聞き憶えはないが、なぜか懐かしい感じがした。
〈汝は何の為に戦う。聖女の宿命か。或いは宿命への復讐か〉
「そんな妄念ものは――」
 とうに失せた、とカノンは即答する。
「私はただ……ここにいたい。それだけだ」
 単純だけれど、強い。強くて純粋な――欲望。
 だから。
 短刀を再び手にして、跳躍する。
「私の居場所である、この世界を」
 護る。
 頭上から、カイバーベルトの脳天に刃を突き立てた。
 どろりと粘性のある液体が噴き上がる。それと同時に。
〈生への欲望。存在への欲望。確かに――受け取った〉
 旋風が巻き起こった。激しい空気の渦に怪物の腕ががれ、脚がじ切られる。
「なッ」
 驚くアシュレーの目の前で旋風は急激に収まり、そして。
 炎のごときたてがみなびかせた魔狼まろうが――そこに現れた。
「ルシ……エド」
 アナスタシアと共に災厄と戦った、欲望のガーディアン。カノンの激しい欲望に呼応して具現化したというのか。
 カイバーベルトは両脚を失い一度は横倒しになったが、程なく再生が始まりのろのろと起き上がる。四肢ししを失い、頭を割られても……息の根は止められないのか。
コアを探せ〉
 ルシエドが言った。
〈世界には必ず核がある。それが急所だ〉
「そう……か」
 世界の核。それを壊せば世界の機能は停止する。再生もできなくなる。
 意を決して、アシュレーは突撃した。生えかけた腕を再び千切り、はらわたに手を突っ込んで掻き回す。
 核はどこだ。それさえ探り当てれば――。
 硬いものが、指に当たった。
 ――あった。
 すぐに掴んだ。人の頭ほどの球体。だが。
「ぐああぁッ!」
 灼熱を感じて思わず腕を抜いてしまった。まさしく世界の中心……マグマの熱さだ。
「アシュレー!」
 カノンが駆けてくる。
「カノン、下腹だ。右脚の付け根の上にあるッ」
 核の場所を示してからアシュレーは離脱する。
「うおおおおおおおおッ!!」
 カノンは高々と跳び上がり、頭上から義手を打ち放った。短刀を握った義手は怪物の胸部に突き刺さり、深々と食い込む。
 義手に繋がる鎖が猛烈な勢いで巻き取られる。それに任せてカノンは急降下して。
 怪物の下腹部を蹴りつけた。義足がめり込み、次の瞬間衝撃波が生じた。溶岩めいた腹が裂け、めくれ上がって核が露わになる。
 それは大気が渦を巻く惑星のような球だった。どす黒い大気。白濁した海。血の色の大地。
 ――裏返しのファルガイア――。
 カノンはすぐさま反転して、躊躇ちゅうちょなくそれを抱え込んだ。
「カノンッ」
「アシュレー、今だ」
 こいつを壊せ――。
「この球は胎内で動いている。放せばまた見失ってしまう」
「だ、だけど」
 カノンはほとんど覆い被さるようにして核を抱えている。ナイトブレイザーの力で攻撃すれば巻き添えは必至だ。
「うッ……あぁあ!」
 彼女の周囲に煙が立ち込める。修復を始めた腸に義手が呑まれ、熱に冒される。
「私のことは構うな。早く……しろッ」
「カノン、君は」
 犠牲になるつもりか。
 世界の生け贄――聖女の宿命。君はそんなものからは抜け出したはずではなかったのか。
「勘違いするな」
 愕然がくぜんと見つめるアシュレーに、カノンは言った。
「宿命にじゅんずるつもりなどない。私はまだ生きたい。だが――それ以上に」
 護りたい。
 私が「ここにいたい」と思わせてくれた、この世界を。
「護りたいんだ」
「カノン……」
 彼女の想いを受け止め、噛みしめる。
 だけど。それでも。
「誰かの犠牲の上に成り立つ勝利など――」
 間違っている。絶対に、認められない。認めたくない。
 だから。
「ルシエド、力を貸してくれッ」
 佇む魔狼に、アシュレーは叫んだ。
〈汝の望みは〉
「僕の望みは。願いは」
 全ての人が幸せになること――。
 誰も犠牲にならず、誰も傷つかず、誰も悲しまず苦しまず、誰ひとり不幸にならない世界を――作りたい。
 夢物語なのかもしれない。傲慢ごうまんな望みなのかもしれない。でも、それでも。
 この願いは、何があろうと譲れない。絶対に――絶対。
「みんなも世界も、全部丸ごと――救いたいッ!」
 アシュレーは手を伸ばす。その手の先で魔狼が消えた。
〈良かろう。汲めども尽きぬその欲望――受け取った〉
 頭上に旋風が舞い降りる。空気が凝縮され、形を成して、鋭い切っ先を持つ細剣レイピアとなった。
 ――魔剣ルシエド――。
 それを掴み、アシュレーは怪物の許に駆けた。
「……アシュレー」
 近づくと、カノンは顔を上げた。義手も義足も半ば取り込まれ熔けかけていたが、生身の肉体までには辛うじて及んでいない。
「ありがとう、カノン。おかげで世界は護られた」
 抱えていた核を、アシュレーは受け取る。そして細剣を振り上げて。
「君が護ったこの世界。君にもちゃんと」
 生きて――見届けてもらうよ。
 突き刺した。
 球にひびが入り、さらに力を込めて貫くと。
 裏返しのファルガイアは二つに割れて――崩れ落ちた。
「ああ――」
 倒れ込むカノンをアシュレーは受け止めた。
 き切れた眼帯が外れる。その内側の瞳は涙をたたえながらも――微笑んでいた。

「アシュレー、カノンさんッ」
 振り返ると、リルカが手を振って駆けてきていた。その後ろには他の仲間も続いている。
「ああ……みんな」
 仲間の姿を見てようやく心から安堵して、アシュレーは抱えていたカノンを横たえさせる。変身は少し前に解けていた。
「か、カノンさん……」
 手足を失った彼女の姿を見て、リルカが手を当てて青ざめる。
「大丈夫……なの?」
「ああ。身体は無事のはずだ。マリアベルさん」
 彼女の整備を担当しているマリアベルに確認する。遅れてやって来たノーブルレッドの少女はカノンの前に立ち、大儀そうにしばらく見下ろして。
「問題ない。部品パーツの総取っ換えと整備メンテナンスで全治三日と言ったところじゃな」
 その看立てに、そっかぁとリルカが溜息をつく。
「カイバーベルトは……どうなったんですか」
 ティムが二つに割れた球を恐々こわごわと覗き込みながら尋ねる。
「急所の核を破壊した。肉体の方は――」
 核が砕かれた瞬間に停止して、色が失われ。
 アシュレーは天を仰ぐ。
 灰と化して――昇華していった。
「よくやったな」
 ブラッドが肩を叩く。さすがですアシュレーさんとティムにも言われ、照れくさくなって鼻を掻く。
「僕だけの力じゃないよ。カノンと――」
 視線を下ろして彼女を見る。そして。
「ルシエドも――ありがとう」
 再び見上げる。またアナスタシアのところに戻ったのだろうか。
「これで任務は終わった。さあ」
 帰ろう。
 そう言おうとしたとき。
「アシュレーさんッ」
 ティムが悲鳴のような声で呼んだ。
「これ……まだ……!」
 尻餅をついて後退あとずさりする少年の前で。
 核の片割れが半ば熔け出し、蛞蝓なめくじのように床を這っていた。
「ま」
 まさか。
 黒い蛞蝓はうごめきながらみるみる熔解し、周囲の地面を侵食していく。
まずいッ」
 マリアベルが叫んだ。
「ここにいては取り込まれる。ドラゴンの中に避難するんじゃッ」
 アシュレーはカノンを背負い、仲間たちを促しながら駆け出した。走りながら顧みると、通ったそばから足場が変色し、朽ちて崩壊していくのが見えた。
 ロンバルディアは既にタラップを下ろして待機していてくれた。間一髪で乗り込み、中の部屋に転がり込む。
「何が……起きたんだ」
 カノンを安置してから窓に近づき、外をうかがう。
 一面の闇だった。ここに来た時と同じ。だが。
 闇に亀裂が走った。卵の殻のようにぼろぼろと剥がれ落ち、その向こうに広がるのは――。
 青黒く濁った空の、ファルガイア。色褪せていない。動いている。疑似世界では……ない。
「戻って……きたのか。でも」
〈次元転換はしておらぬ〉
 ロンバルディアが言う。異世界に遷移した彼らが戻るには、ドラゴンの能力で次元転換を行う必要があるはずだ。
 なのに――なぜ。
 通信機が鳴った。通信が回復している。やはりここは本物のファルガイアだ。
「アーヴィング、これはどういうことだッ」
 思わず声を荒らげてしまった。指揮官はこちらが落ち着くのを待つように間を置いてから、答えた。
〈作戦は失敗だ。この通り、カイバーベルトは〉
 未だファルガイアを侵食している――。
「どうしてだッ。僕らは確かに奴を倒した。それなのに」
〈君たちはよく遂行してくれた。君たちの落ち度ではない。問題は〉
 トラペゾヘドロン――マナの牢獄が。
〈カイバーベルトを捕らえきれていなかった〉
「それじゃあ、僕らが倒したのは」
〈奴の一部に過ぎなかった――ということだ〉
 アシュレーは愕然とする。仲間たちも言葉を失っている。
〈どうやらトラペゾヘドロン発動に使用したマナの一部が、既にカイバーベルトに汚染されていたようだ。それがほころびとなって〉
 封印に穴が生じ、異世界の本体はそこから――抜け出していた。
「まさかマナにまで侵食が及んでいようとはな」
 大誤算じゃ、とマリアベルは鋭い牙を見せて歯軋りする。
〈トラペゾヘドロンも疑似世界ごと奴に喰われた。それで君たちもこの世界に戻ってきた訳だが――〉
 どうする。
 もう同じ手は使えない。ファルガイアのマナは枯渇こかつ寸前だ。いや、それ以前にマナが侵食されていては、いくら敢行しても今回の二の舞になるだけだ。
「アーヴィング……」
 一縷いちるの望みにすがるように、アシュレーは指揮官の名を呼んだ。だが。
〈すまない、アシュレー〉
 指揮官は絞り出すように詫びの言葉を吐き、続けた。
〈繰り返しになるが、君たちは確実に任務を果たしてくれた。今回の失敗は君たちの所為せいではない。胸を張って――帰還してほしい〉
 ご苦労だった、と最後にねぎらってから、アーヴィングは通信を切った。
「悔しい」
 リルカが言った。
「悔しいよ、こんなの。ここまでやったのに。うまく行ったと、思ったのに」
 背を向けて肩を震わせる彼女に、アシュレーはかける言葉が見つからなかった。
「まだ……大丈夫ですよね?」
 ティムが不安そうに尋ねる。
「希望は、ありますよね。まだ――」
 答える者は、誰もいなかった。

 アルテイシアは、夜更けの薄暗い廊下を静々しずしずと歩いていた。
 夜具やぐに着替えて一度は横になったが、寝つけなかった。兄のことが気になって仕方がない。寝床で散々迷った挙句あげく、結局様子を見に行くことにしたのだった。
 館の中は静まり返っている。深夜なのだから当然ではあるのだけれど――静寂はいつもより深く、闇はいつもより濃く感じた。
 そう思うのは、気のせいばかりではないだろう。館の誰もかもが意気消沈している。空気が重くなるのも無理はない。
 昨夜の夕食も辛いものだった。本来ならそれは祝勝会となるはずだった。けれど作戦は失敗し、失意の中帰還した隊員たちは誰一人口を利かず、打ち沈んだまま黙々と食事を済ませ、それぞれの部屋に戻っていった。
 兄――アーヴィングは遂に顔を出すことはなかった。自室にこもったきりの彼に食事を持っていくよう使用人に頼んでから、アルテイシアは虚しい晩餐の片づけをして、自身もそそくさと部屋に戻ったのだったが。
 やはり、寝られるわけがなかった。兄は今回の失敗に誰よりも責任を感じている。失望する彼を支えるのは自分の役目だ。
 そう。あの頃のように――。
「兄様」
 ノックをして、部屋に入る。正面の書き物机に主の姿はなかった。半分ほど手をつけた食事の皿が机上に無雑作に置かれてある。
 もう眠ったのだろうか。音を立てぬよう気をつけながら隣の寝室に近づくと。
「希望の灯火は――まだ灯っている」
 奥から兄の声がした。
「方法は間違ってはいなかった。『器』に概念を封じる――これ以外に奴をほふる手段はない」
 起きているのだろうか。さらに近づき、半開きの扉に手をかける。
「トラペゾヘドロンはもう使えない。あれに相当する『器』があるとすれば」
 それは人間に他ならない――。
 ――人間?
「聖女は自身の内的宇宙に魔神を封じた。そして彼も……聖剣と魔神を宿すという離れ業を見事に成した。人間という『器』の潜在力ポテンシャルは驚嘆に値する」
 指が震える。息が上がる。その言葉の不穏さを、彼女の何かが感じ取っている。
最早もはやこの可能性に――賭けるしかないのだ。そう――」
 早鐘を打つ胸を抑えながら、中を覗く。
 誰もいなかった。
「アルテイシア」
「ひ」
 背後の声に思わず悲鳴を上げた。
「に、兄様」
 どうして後ろに。声は確かに寝室の奥から聞こえて――。
「アルテイシア」
 やつれた顔が近づく。アルテイシアは寝室の中に後退りした。
「君は」
 ファルガイアを愛しているか――。
 それはいつもの問いかけ。答えなければ。けれど。
 手首を掴まれた。強く締めつけるように握られる。こんなのは兄ではない。
「にいさ……あ、ッ」
 さらに後退りしたが、寝台の端に足がぶつかり背中から倒れ込む。
「私は愛している。この世界の誰よりも」
 兄の重みを感じた。しかかられている。あんな痩せてるのにこんなに重いのかと、動転しながらも頭ではどうでもいいことを思う。
「私は」
 銀髪が流れ落ちて景色をさえぎる。自分と兄、二人だけの世界。
「ファルガイアを」
 兄が見ている。こんなにも近くから。目を逸らせない。離せない。
 永遠にも似た時間の中で、彼はくまの浮いた目許を細め、けた頬を緩めて。
「愛しているんだ」
 とても哀しそうに――にこりとわらった。
 ああ。
 にいさま。あなたは。

 とうとう――行き着いてしまわれたのですね――。

「アルテイシア」
「にいさま」
 アルテイシアは手を伸ばし、兄の頬を撫でた。潮が引いていくように恐怖は遠のいていた。
「私はこれから、人のみちを外す。人間として許されざる大罪を――犯すことになるだろう」
「もう、止められぬのですね」
 すまない、と目を伏せてから、兄は耳許に顔を近づけてささやいた。
「でも、君が悪いのだよ」
 君が私に。
 あんなに美しい世界を見せるから――。
「――ああ」
 それなら、私も。
「わたくしも、愛しておりますわ」
 一緒に、きましょう。
 ひとりでは英雄に届かなかった。でも、ふたりなら。
「英雄の道を――共に歩みましょう」
「――アルテイシア」
 唇が重なる。愛おしいぬくもり。息遣い。
 涙はちっとも止まらなかったけれども。
 アルテイシアの心は、この上なく満ちあふれていた。