■ 小説 WILD ARMS 2nd IGNITION


Mission 14 すれ違う希望

 マリナは半日ぶりに自分の手を前に出して、ひとしきり眺めた。
 後ろ手にきつく縛られていた――と思っていたが、手首にはあとひとつ残っていない。実際の縄ではなく、魔法による拘束だったようだ。
「ここにいろ。大人しくしているんだな」
 顔を上げる。片目を長い前髪で隠した男が冷たく見下ろしている。
 歳は自分やアシュレーと同じくらいだろうか。細面ほそおもては頬がけ、くまが浮き、さながら幽霊のようだが――かつては美形だった面影も垣間かいま見えた。裾の長い軍服は決起表明で見たオデッサのリーダーのものとよく似ている。
 オデッサの生き残り。軍服の感じからすると幹部クラスか。あのリーダーの直属の部下かもしれない。
「明日には全てカタがつく。それまでの――」
 辛抱――いや、命――か。
 続く言葉を想像して、血の気が引く。
 この男の目的は、アシュレーをおびき出すこと。それを果たせば自分は用済みだ。生かしておく意味もない。
 それなら、いっそのこと。
「変な気を起こすな」
 先に制された。表情に出ていたのだろう。
「あいつが来るまで殺しはしないが、逆に言えば生きてさえいればいいんだ。痛い目を見たくは――」
 不意を突いて飛びかかろうとしたがかわされ、頬を叩かれた。
「ふん。野蛮な女ばかりだ。どいつもこいつも」
 嫌いだッ、とさらに鳩尾みぞおちを蹴られる。床に倒れ込むとほこりが舞い上がり、激しくせた。
「女は嫌いだ。同じ空気を吸っているだけで気分が悪くなる」
 ひとしきり悪態をつくと、男はきびすを返して扉へと向かう。
「待って」
 嘔吐えずきをこらえつつ、マリナは呼び止めた。男の足が止まる。
「どうして……アシュレーを狙うの」
 この男は、ARMSの隊員に過ぎない彼だけをあえて狙い打ちしている。オデッサを壊滅させた復讐というにはどうにも違和感がある。
「アシュレーに恨みでもあるの? もしかして」
 その腕を――。
「ん? ああ、勘違いするな」
 視線に気づいた男が、右肩をそびやかす。
 その肩に続いているはずの腕は――なかった。ローブめいた上着の袖だけがぶらぶらと垂れ下がっている。
「これをやったのは、別の奴だ。半分は自滅だがな」
 憎々しげに頬をらせたが、すぐに直る。
「こんなものはどうでもいい。それ以上に大切なものを、あいつは」
 アシュレー・ウインチェスターは。
「奪ったんだ」
 マリナは戦慄する。
 そう言う男の眼が、あまりにもくらくて。
 まるで世界中の闇をり固めて、その二穴ふたあなに埋め込んだみたいで――。
「僕を照らしてくれた光は、もうない。だから」
 おなじめにあわせてやる。
 分別ふんべつない子供のように呟いて、隻腕せきわんの魔法使いは部屋を出ていった。
 扉が閉められ一人きりになっても、マリナはしばらく震えが止まらなかった。

『アシュレー・ウインチェスターに告ぐ
 二十時 内海のはて 失われし庭にて待つ
 一切の加勢を禁ず 破りし際は相応の報いあるべし
           ――氷結地獄 第一界円』

 作戦本部の机に置かれた一枚の呪符。まだ目を覚まさないティムを除いた実働部隊とアーヴィングが、それを囲んで沈黙している。
 マリナの部屋に落ちていたものだという。アシュレーは無感動に、自分に宛てられた文面を眺める。
「ひょうけつじごく、だいいちかいえん……?」
 重苦しい空気の中、リルカがおずおずと発言する。
「なんでこれでカイーナってわかるの?」
 氷結地獄コキュートス第一界円カイーナ――。
 彼らの名前が冥界のプリズンの名に由来することを知らなければ、理解はできないだろう。
「じゃあ、あの四人の名前ってみんなアダ名だったんだ」
 ブラッドに説明されて、リルカはようやく納得する。
「解放軍時代から、奴は大仰おおぎょうなコードネームが好きでな。自分の呼称――ラダマンテュスというのも地獄の審判ジャッジの名から取っている」
「はあ、地獄づくしだねぇ。悪趣味」
 率直に言い切られて、元解放軍の英雄は苦笑した。
「失われし庭、とは?」
「内海の孤島にロストガーデンと呼ばれる遺跡がある。恐らくそこを指しているのだろう」
 カノンの問いにはアーヴィングが答えた。未だ立ち直ることができないアシュレーは、半ば自失したまま仲間たちの会話を聞く。
「あれは元々ノーブルレッドが機械研究に使っていた施設じゃな」
 マリアベルが補足する。
「機材もそのまま残っておったかのう。あの場所を知っておるということは、オデッサも研究に利用していたのかもしれぬな。わらわに無断で使いおって」
 けしからん連中じゃ、とノーブルレッドの少女は鼻息荒く憤慨した。
 いにしえの研究施設。そこに――マリナが。
「それにしても、生きていたとはねぇ」
 キザイヤミ、とリルカは呟く。彼女は一貫してあの魔法使いをそう呼んでいる。
「とっちめたのはわたしなんだから、わたしを狙えばいいのに。なんでアシュレーなんだろ」
「それは恐らく――主君の仇だからだろうね」
 カイーナの主君。ヴィンスフェルト・ラダマンテュス。
 あの男をアシュレーが倒したから。
 彼女が――さらわれた。
 背筋に冷たいものが走る。
「あの魔導士は、他の幹部以上に主君への忠誠があつかったようだ」
「そうだね。キモいくらいだった」
 リルカが渋い顔をする。個人的に思うところがあるようだ。
「で、どうするのじゃ。ここに書いてある通りにうぬだけで」
「行くよ」
 ようやく言葉が出た。その声も自分のものではないように感じた。
「僕だけで充分だ。マリナは僕が」
 必ず、救い出す。
「リルカ、テレポートを頼む。この場所の近くまで送ってくれ」
「え、今から?」
 リルカが慌てる。
「脅迫状には二十時ってあるけど……」
 指定の時刻まではまだ六時間以上ある。だが。
「待ってなんていられるかッ」
 声を荒らげたアシュレーに、リルカが驚いて身をすくめる。
「ご、ごめん」
「……いや」
 怯えられ、気まずいまま項垂うなだれた。
 ――抑えなければ。
 奥歯を軋ませて、激情をどうにか押し込める。
「焦る気持ちは解るが」
 アーヴィングがたしなめる。
「ここは先方の指示に従うべきだろう。最優先は人質の命だ。不用意な判断はいたずらに相手を刺激しかねない」
「……わかった」
 指揮官の淡々とした振る舞いが、今は有難かった。のぼせていた頭も冷え、全員に向けて取り乱したことを詫びる。
「我々も、相手に悟られない範囲でサポートする――と言いたいところだが」
 それも難しいかもしれないと、珍しくアーヴィングは腰の引けた発言をした。
「相手は禁術に通じている屈指の魔法使いだ。隙を見せるとは思えない。監視の網は張り巡らせているだろう」
 一切の加勢を禁ず。
 その文言は、他者の干渉をことさら忌避きひしているようにも受け取れる。もし下手に動いて、それを察知されたりしたら。
 相応の報いあるべし――人質の身の保証も、その限りではなくなる。
 やはり、危ない橋は渡れない。しゃくだが相手に従うしかない。
「僕一人で何とかするよ。場合によっては」
 奥の手――ナイトブレイザーの力を使ってでも。
「へいき……なの? 変身して」
 不安そうなリルカに頷き返そうとしたが。
「ひとつ確認したい」
 不意にカノンが口を挟んだ。
「その娘は、お前が変身できることを知っているのか?」
「え?」
 虚を突かれて、アシュレーはしばらく言葉を失った。
 マリナは――何も。
「知らない……と思う。僕は」
 彼女に、何も話していない。
 自分が魔神と聖剣を宿していることも。
 両者の力によって異形いぎょうに変化し、超人的な能力を発揮できるようになったことも。
 大事なことなのに。いや。
 大事なことだからこそ、話すことができなかった。
 反応が怖かったのだ。マリナは普段から危険な任務を憂い、アシュレーの身の心配をしていた。そんな彼女が果たしてその事実を受け容れてくれるだろうか。
 拒絶されるかもしれない。そんな漠然とした予感が――告白を思い止まらせていたのだ。
 でも。
「それ……よくないよ」
 リルカが眉をひそめる。
「知らないのにいきなりあの姿を見たら、ショック受けると思う」
「そうじゃのう。あの娘はあれで繊細そうだしの」
 女性たちの指摘に、アシュレーはうつむいて唇を噛む。
 ――言うべきだったか。
 たとえ拒絶されても、きちんと向き合って理解してくれるまで話し合うべきだった。こんな事態になることがわかっていれば――。
「後の祭りじゃな。やはり変身は控えた方が良さそうじゃ」
「だけど……」
 あの魔導士相手に、変身抜きでは明らかにが悪い。
 それに、そもそもマリナを人質に取られている状態で対峙たいじしたとき、自分は果たして平常心を保てるだろうか。
 正直……自信はない。
 怒りに任せて、彼女の前であの異形の姿をさらしたとき。
 ――どう思うだろう。
 驚くか。怖がるか。それとも悲しむか。
 それでもマリナなら、最後はきっと理解してくれる。どんな姿でもアシュレーはアシュレーだよって――。
 楽観的に過ぎるかもしれない。でも、今はその希望にすがるしかない。
「僕は、マリナを信じてる。だから」
 助けに行く。
 必ず二人で無事に帰ってくる。そうしたら。
 ちゃんと話そう。自分のことを。これからのことを。
 それできっと、上手く行く。丸く収まる。

 そのときは、そう――思っていた。

 体の芯からこごえていくようだった。
 寒い。恐怖と緊張が緩むと、それまで忘れていた寒気さむけを覚え始めた。膝を抱え、なるだけ自分の体温を逃がさないように身体を丸める。
 頭上の小窓からは強い風がしきりに吹き込んでくる。時折ときおり潮の香りも感じた。海が近いのかもしれない。
 ここは、どこなのだろう。転移魔法テレポートで連れてこられたマリナには、タウンメリアから遠いのか近いのか、それすらもわからなかった。
 少しだけ顔を上げて、辺りをうかがう。雑然とした、物置のような部屋。石造りの壁や天井はいかにも堅牢だが、いずれも古びて埃っぽい。おまけに床には何に使うか想像すらつかない奇妙な装置やがらくたが散乱している。
 人の気配はない。とうの昔に遺棄された建物……あるいは遺跡か。窓から助けを求めたところで誰かに届くような場所でないことは確かだろう。
 待つしかない。彼が――アシュレーが来てくれるのを。
 でも。
 うずくまったまま、自分の肩を抱く。
 どんな顔をすればいい。私はどうやって出迎えたらいいのだろう。
 もう、今までのようには振る舞えない。まともに顔も見られないかもしれない。
 昨日、セレナから聞いたあの話が――今のファルガイアの空みたいに彼女の心を黒く蝕んでいる。
 どのくらい反芻はんすうし、悩んだことだろう。受け止めきれない事実に思考が空回りし、堂々巡りを繰り返した。
 自分たちに直接関係しているわけではない。所詮は顔も憶えていない――親たちの話。割り切ろうと思えばできたはずだ。
 けれど彼女には、それがどうしてもできなかった。
 だって。
 その出来事がなければ、自分たちは出会うことすらなかったのだ。ずっと他人のままで、別々の道を歩んでいたはずだ。その因果を思うと……やっぱり無関係と切り捨てることはできない。
 物心ついた頃からずっと、彼は自分のそばにいた。同じ家で一緒に暮らして。それが当たり前だと思っていて。
 いつしかその存在が大きくなり、大切な人になって。
 近すぎるゆえの遠回りを何度もして、ようやく――辿り着いた。
 それなのに。
 何もかも。全部。
 私たちの十数年の物語が、あんな忌まわしい因縁の上で紡がれていたなんて――。
 両手で顔を覆う。泣きたかったが涙は出なかった。
 どうして知ってしまったのだろう。知りたいなんて口走ってしまったのだろう。セレナだって釘を刺していた。辛い話だって、わざわざ事前に知らせてくれたのに。
 自惚うぬぼれていた。今ならアシュレーのことは何でも受け止められると過信していた。
 想像が及ばなかったのだ。彼だけの話ではないことに。
 そこに自分の出自しゅつじも関わっているということに――。
 扉が開いた。
「随分としおらしくなったじゃないか」
 部屋の隅で丸くなっている彼女を見つけて、男が言う。マリナが上目遣いで睨み返すと、ふんと鼻を鳴らす。
「安心しろ。奴が来た」
 顔を上げる。
「近くの空間に転送の歪みを感知した。あの半人前の魔法使いのテレポートだろう。奴を送って半人前だけすぐに帰った」
 もうすぐ会えるぞ、と男はやつれた頬を吊らせて笑った。
 アシュレーが――もうすぐ、ここに。
「どうする……つもり」
 こいつは何を企んでいる。
 人質じぶんを盾にして、アシュレーをなぶり殺しにでもするつもりか。
 そんなのは――嫌だ。自分にそんな価値はない。
 彼に迷惑をかけるくらいなら――。
 だが。
「あいつに世界を滅ぼしてもらうのさ」
 男の答えは、全く予想していないものだった。
「閣下亡きこの世界など、もはや一片の価値もない。だから」
 あの、おぞましい魔神の力で。
 この世界ファルガイアを――壊してもらう。
「魔神の……力?」
 言っていることが理解できない。正気でないのかと一瞬疑ったが。
「何だ、知らないのか」
 底意地の悪い笑みを張りつかせて、男が言う。
「あいつには悪魔が宿っている。それも、かつて世界に大いなる災厄をもたらした、とびきり凶悪な――魔神だ」
 ――悪魔が、宿っている?
 そんなこと、信じられるはずが――。
「あいつはッ」
 茫然とするマリナをよそに、男は突如激昂げきこうした。
「アシュレー・ウインチェスターは、そいつから強大な力を引き出し、その力でヴィンスフェルト様を亡き者にした。忌まわしき力によって、崇高なる理想が打ち砕かれたのだッ」
 残っている腕を振り回して、隻腕の魔導士はわめき散らす。
「あの御方おかたは、滅びゆくこの世界の唯一の希望だった。それを奪ったあいつを、僕は」
 ぜったいにゆるさない。
 昏い目に復讐の炎を灯しながら、また子供じみた口調で最後に呟いた。
 やはり正気じゃない。壊れている。
 この男は支えにしていた存在を失ったことで、自分自身も見失ってしまったのだろう。
 私も、アシュレーを失ったら。
 こんなふうに壊れてしまうのだろうか――。
 不意にそんなことを思い、怖くなった。
「来たか」
 男が言う。扉の先に目を馳せている。
「建物に侵入した。ここに向かっている」
 アシュレーが――来た。
 マリナは俯く。良い知らせのはずなのに、ちっとも嬉しくない。不安と戸惑いばかりが募って、はらの底が重くなる。
 会いたくない。
 私は、アシュレーに助けられる資格なんて――ない。
 だから。
 いきなり立ち上がって、男に飛びかかった。伸ばした手が相手の肩に届いたがすぐに振り払われ、結局打ちえられる。
「何なんだお前は」
 背中を踏まれ、頭上から呆れたように見下された。
「大人しくなったと思ったら、また暴れ出して。狂ったのか」
 狂ったのか――。
 狂っているのはそっちの方だ。いや。
 もしかしたら、自分も既に――狂ってしまったのだろうか。
 ――それなら。
「始末に負えんな。仕方ない」
 別にいいか。
 いっそ狂ってしまえば、楽になれる。
 アシュレーも、きっと見捨ててくれる。
 こんな、私のこと――なんて――。

 冷たい床に涙をこぼしながら、マリナは緩々ゆるゆると意識を失った。

 およそ研究施設には見えない建物だった。
 外観はいかにも孤島にそびえ立つ古の塔――といった趣である。石造りの外壁はあちこちがれ落ち、色褪いろあせて風化は否めないが、それでもここまで原型を留めている遺跡は珍しいだろう。
 この遺構を手がけたのはノーブルレッド族であるという。ごく普通の古臭い建物にしか見えないが――エルゥ族に引けを取らない技術力を誇る彼らのことだから、中身は人間には及びもつかない技術が凝らしてあるのだろう。
 思えばマリアベル自身も、高度な知識と技術を持ちながら言動や出で立ちはやはり古めかしい。ノーブルレッドというのはそうした古風な趣向を好む傾向があるのかもしれない。
 塔の入口は開いていた。両開きの扉が奥に押し込まれ、ちょうど人ひとりくぐることのできる隙間が生じている。
 アシュレーは迷わずその隙間から中に侵入した。今さら罠も何もないだろう。あったとしても――切り抜けるのみ。
 内部は単純な構造だった。中心に円形の部屋が筒状に積み重なって階層を成し、その部屋を行き来するための回廊が、円筒の外周と外壁の間に螺旋らせんを描いている。支柱らしきものが見当たらないのは、部屋そのものが塔を維持する柱の役割を果たしているためか。
 驚いたのは、自生したと思しき植物の多さだった。
 回廊から部屋の隅々に至るまで、そこら中に雑草が繁茂はんもしている。一部では灌木かんぼくまでが床板を突き破って枝葉を広げていた。雨の多い地域であることに加え、吹き抜けの回廊や窓の多い外壁など、塔全体が中まで陽射しを通す造りになっているためだろう。
 これこそが失われた庭ロストガーデンと呼称されるようになった所以ゆえんなのだと、アシュレーは納得した。確かにこれなら、研究所というより古代の庭園と言われた方がしっくり来る。かつて栄華を極めた者たちが遺したものが自然の成り行きのまま朽ちていく様は、儚くもどこか美しくもあった。
 マリアベルから借りた電気式の懐中灯を片手に、アシュレーは奥へと進む。一階は何もない空洞。中央に昇降機らしき小部屋があったが、やはり作動はしなかった。
 回廊に出て螺旋を上りつつ、二階三階と順番にあらためる。人が踏み入った形跡はない。植物が侵食していない部屋。当時のものと思しき装置がそのまま残っている部屋。扉が閉め切られ中が確認できない部屋もあった。
 そして、唐突に回廊が途切れる。塔のいただき――最上階だ。
 意を決して部屋に踏み込み、灯りを差し向けた。正面に十字の意匠が刻まれた石壁。そこに――人影が。
「遅かったな」
 影が揺れた。灯りをやや下に動かすと、青白い横顔が照らし出された。
「……カイーナ」
 アシュレーは息を呑む。オデッサの魔導士は別人かと見紛みまがうほどに変貌へんぼうしていた。白面はげっそり痩せこけ生気がなく、裾長すそながの軍服も薄汚れて豪奢ごうしゃ意匠いしょうは見る影もない。
 そして、最も目を引いたのは――右肩。その肩から下は、破れかけた上着の袖だけが垂れ下がっている。腕を失ったのか。
「マリナは……どこだ」
 凄絶せいぜつな姿に動揺しつつも、アシュレーは睨み返して訊ねた。
「ふん。貴様の目は節穴ふしあなか」
 そこにいる、とカイーナは左手を前に出して足許を示す。
 そして、ニヤリとわらった。
 どくり、と心臓が弾む。不吉な予感に震える手で床を照らす。
 見えたのは――白いすね。引き裂かれた下穿したばきの裾。大きくはだけて、乱れている。
 ――なぜだ。
 こちらはちゃんと指示を守った。それなのに。
「無事に帰すとでも思ったか。めでたい奴だ」
 乾いた笑い声。不快だ。胃の底がぐつぐつたぎるのを感じた。
 吐き気を催しながら、腰から上を照らしていく。羽織っていたケープは引き千切られ、上着も無残に暴かれていた。露わになった肌にはあざが浮いて、傷だらけで。
 どうして、こんなことに。
 息苦しい。全身を駆け巡る血流が熱くて、内側から火傷しそうだった。
「安心しろ、命までは取っていない。そら、声をかけてやれ」
 指の痕が浮いたくび。抜け落ちた赤髪の束。そして。
「アシュ、レー……」
 光を失った瞳をこちらに向けて。
 血に濡れた唇を動かして。
 彼女は――彼の名を呼んだ。

 脳髄で何かがはじけ、アシュレーの自我は残らず吹き飛んだ。

 地響きのような振動を頬に感じて、マリナは目を覚ました。
 隣の部屋だ。全身はきしむように痛むが、とりあえず身体は動く。歯を食いしばって起き上がり、開け放しの入口へと近づく。
「そうだ、その姿だッ」
 興奮した男の声。それに混じって不可解な雑音ノイズも聞こえる。
 何が起きている。扉の陰から覗く。
 魔物が暴れていた。黒々とした甲冑をまとった、人型の魔物。昆虫のあしのような腕を振り下ろして、男の前に生じた障壁を叩き割ろうとしている。
「その姿こそ貴様の本性。世界を破滅へと導く魔神だッ」
 巨大な鍵を掲げながら、隻腕の男はしきりに挑発する。壊されたそばから魔法で新たな障壁を繰り出し、襲いかかる魔物の行く手を阻む。
 ――魔神。
 まさか。
 信じられなかった。そんなことが、本当に――。
「さあ怒れ。全てを壊せッ」
 アシュレー・ウインチェスター――。
 本当に、アシュレーなのか。
 どう見ても魔物だ。全身真っ黒で、腕も脚も堅い殻に覆われて、長い指は刃物のように鋭くて。
 違う。絶対に。
 こんなのアシュレーなんかじゃない。きっと男が召喚した魔物だ。自分を騙そうと一芝居打っているに違いない。
 本物のアシュレーはどこだろう。まだ来ていないのだろうか。
 茶番から目を離し、視線を反対側に向けようとした――そのとき。
「ひ」
 ぞわり、と身の毛が立った。
 視界の中に――自分がいる。部屋の真ん中で横たわっている。幻じゃない。見間違いでもない。
 ――これは、なに。
 頭がくらくらした。許容しきれないことが目の前で起きている。
 魔物になったアシュレー。そして――もう一人の自分。服が破られ、乱暴された跡が見える。あの魔導士に犯されたのか。
 ああ。
 だからアシュレーは怒っているのか。怒って、あんな姿になって、私を傷つけた相手を殺そうとしている。
 辻褄つじつまは合っている。この視界の中では不思議はない。でも。
 それなら。
 今、ここで見ている自分は――誰だ。
 マリナ・アイリントンは向こうにいる。同じ人間が二人もいるはずがない。
 私は、マリナじゃない――?
 ――なんだ。そういうことか。
 やっぱり私は狂っていたんだ。錯乱して、自分をマリナだと思い込んでいたんだ。馬鹿だな、本当に。
 納得して、それから妙に安心した。よかった。マリナじゃないのなら何も関係ない。ぜんぶ、どうでもいい。
 悩みから解放され、一気にすっきりした。もう不安はない。ないはず――なのに。
 どうして涙が出ているのだろう。
 悲しくなんてない。彼と私は無関係なのだから。何も知らない。知らなくていい。
「ガアアアアァッ!」
 彼が牙を剥いて吠えた。彼女マリナを傷つけられて怒っている。哀れだなと冷めた頭で思う。
 その女の親がしたことを知らないから――そんなふうに怒れるんだ。
 そうだよね。
 本当のことを知ったら、きっとアシュレーは――。
 男が表情を歪めて脱力した。魔法が尽きたらしい。最後の障壁を破った魔物が詰め寄る。そして。
 長い腕を頭上から振り下ろした。鋭い爪が肩口から腰までを引き裂き、鮮血が噴き出る。
「ぐ……ぅ」
 男は後ろによろめく。鍵を落とし、背中を壁につけると、そのまま血溜まりの中に崩れた。
「その程度か。貴様の怒りなど、閣下を奪われた僕に、比べれば――」
 言い終わる前に、再び繰り出された腕が胸を貫いた。血のかたまりを吐いて男は白目を剥く。
 魔物は腕を抜いた。ずるりと内臓が引きずり出され、べしゃりべしゃりと床に落ちていく。
 ひどい光景。悪夢のようだ。こんなの現実なわけがない。
 それなら早く目が覚めてほしい。こんな夢はもうたくさんだ。日常に戻りたい。
 目が覚めたら、全部元通り。そうだといいな。
 空も侵されていない。
 大地も枯れていない。
 退屈だけれど平穏な世界。その中で、私はマリナでない誰かとして――。
「え」
 視界の中の変化に気づいて、引き戻された。全身の血の気が引く。
 彼女の姿がない。無残に犯され横たわっていたはずのマリナ・アイリントンは、忽然こつぜんと消えて。
 代わりに、黒い棒人形みたいなものが――転がっていた。
 マリナじゃなかった、あれは。それなら。
 マリナは。
 マリナ・アイリントンは。
 やっぱり――私。
「いや」
 頭を抱え、首を振ってその事実を否定する。
 私はマリナじゃない。マリナになんて戻りたくない。
 こんな、こんな重くて残酷な運命――抱えきれない。
 彼は。
 魔物は。
 アシュレーは。
 最後まで掴んでいた心臓を。
 血まみれの、ぬらぬらとした肉の塊を。
 マリナの目の前で――ぐしゃりと握り潰した。

 絶叫が、部屋を引き裂いた。

 突然の悲鳴が脳髄をつんざいて、アシュレーは我に返った。
 目の前ではカイーナが絶命している。えぐられた腹からは臓物が垂れ下がり、床には血溜まりが広がっている。むご有様ありさまだ。
 これを……自分が。
 右手を前にかざす。堅い殻が張りついた手は血に塗れ、肉片が付着していた。
 間違いない。自覚はないが――この手で彼を殺したのだ。
 視線を感じ、横を向く。
 腰を抜かしたマリナが、青ざめた顔でこちらを見ていた。
 ――なぜ。
 彼女は向こうで倒れていたはず。それに服も裂かれていない。痣も傷もない。
 首をさらに回して背後を見る。
 真っ黒い木偶でく人形が横たわっていた。
 ――ドッペルゲンガー――。
 また、騙されてしまった。同じ失態を演じてしまった。
 不覚ではあったが――前回のような激しい後悔はなく、むしろ安堵あんどした。
 あの無残な彼女は偽者だった。本人は無事だったのだ。誰も傷ついていない。その事実に心底ほっとした。
 変身も程なく自然に解けた。ちゃんと元の姿アシュレーに戻っている。まだ完全な覚醒には至っていなかったようだ。
 これで全部、元通り。後は彼女を連れて帰れば――。
「マリナ」
 だが。
「来ないで」
 手を差し伸べたアシュレーを、彼女は拒んだ。
「私は、あなたなんて知らない」
 下を向いたまま、今まで聞いたことのない冷たい声で突き放す。垂れ下がった赤毛に隠れて表情は見えない。
「助けてもらって感謝はしてる。でも、そんな怖い姿のあなたは――」
 知らないから。
 明確な拒絶の態度に、アシュレーは愕然がくぜんと立ちつくす。
 どうして。いや――当然か。やはり考えが甘かったのだ。
 異形の姿を目の当たりにして。敵とはいえ人間を惨殺して。
 そして、何より。
 こんな大事なことを――自分は隠していた。知らせていなかった。
「マリナ、僕は」
 裏切ってしまったのか。取り返しのつかない傷をつけてしまったのか。
「僕は、君に」
 言葉はもう、届かない。
「一人で歩けるから。……行きましょう」
 想いはもう、通じていない。
 手遅れなのか。全部、壊れてしまったのか。
 一縷いちるの望みを託した手を、遠ざかる背中に伸ばして。
「マリ……ッ!」
 抱き留めようとした、刹那せつな
 背後から高笑いが響いた。肝を潰し、振り返る。
 あり得ないものが立っていた。
 いかめしい紅の軍服。背中に流した銀髪。いびつな刃を持つ大剣を杖のように地面に突き立て、鋭い双眸そうぼうに野望をみなぎらせて睥睨へいげいするその姿は、紛れもなく。
「ヴィンス、フェルト……」
 化けて――出たか。カイーナの妄執もうしゅうが引き寄せたか。
 威丈夫いじょうぶの傍らで魔導士は確かに息絶えている。だが、その頭上では――持ち主を失ったはずの魔鍵が、不穏な波動を放ちながら浮遊している。
 ――幻影か。
 どうやら魔法が生み出した幻のようだ。所有者の死によって発動する仕掛けになっていたのかもしれない。
〈我が理想を甘受かんじゅできぬ愚か者どもよ〉
 幻像の首魁しゅかいは、高らかにうたい告げる。
〈これは天誅である。蒙昧もうまいたる貴様らに未来など与えぬ。『核』の業火に焼かれて――滅ぶがいい〉
「な」
 何て言った。
『核』の業火――それは、まさか。
 戦慄するアシュレーの前で幻影は再び哄笑こうしょうし、それから霧散するようにかき消えた。幻を生み出していた魔鍵も、気がつけば姿がなく。
 後には耳障りな高笑いばかりが、頭の中で残響していた。

 その報せを彼が聞いたのは、アシュレーが人質を取り戻して帰還した直後だったという。
 自室の椅子に腰を下ろし、書き物机に組んだ両手を載せたまま、若き指揮官は凶相で正面を見据えている。
 視線の先には、半透明の学者然とした男。向こう側の扉が透けたその顔は、彼に負けず劣らずの仏頂面ぶっちょうづらだった。
「観測に誤りは」
 そう念を入れると、男はないときっぱり答えた。
「天文台の観測精度に関しては、君が一番よく知っているだろう」
「そう――でしたね」
 目を伏せ、しばし黙考する。立体映像の男は構わず続けた。
「こちらは天地が返ったかのような騒ぎだ。上の連中も浮き足立ってまるで機能しておらん。それでひとまず私が代わりに事態の収拾に当たっているのだが」
 一介の研究者の仕事ではないなとぼやくと、今に始まったことではないでしょうと指揮官は返す。
「オデッサの擾乱じょうらん以来、シエルジェの意思決定を貴方が担っていることは周知の事実です。マクレガー通さずしてシエルジェは動かぬと――私も他国の首脳も承知しています」
「持ち上げるな。それとも嫌味か」
 そう言って図らずも学術都市の長となった男は苦い顔をする。
「そんな軽口を叩く余裕があるということは、何か方策でもあるのだろうな」
「残念ながら現時点では有効な手立てはありません。いずれ対処しなければと思って進めていたプランもあったのですが――」
「準備不足か」
「ええ。ですが、そうも言ってられませんからね。それに――物理的に存在してくれる分だけまだマシとも言える」
 概念世界などという、人智の埒外らちがいにある存在モノに比べれば。
 あらがすべは――ある。
精々せいぜい足掻あがいてみせますよ」
「そうか。願わくば」
 足掻いた先に奇蹟があらんことを――。
 学者らしからぬ言葉を残して、マクレガー教授は映像通信を切った。
 ――そう。
 奇蹟は座して待つだけでは起きない。足掻いて藻掻もがいて、万策ばんさくを尽くした先に起こり得るものなのだ。
 ならば、自分が今すべきことは。
 机上のスイッチを入れ、再び回線を開く。
「メリアブール、シルヴァラント、ギルドグラードの各首脳に繋いでくれ。緊急通信会談を開催する」
〈き、緊急会談ですか? 今から?〉
「そうだ。大至急協議したき儀あり――と伝えてほしい」
〈は、はいッ。今すぐにッ〉
 裏返った声でケイトは応じ、慌ただしく回線が切られた。
 唐突に訪れた静寂の中、指揮官はわずかに弛緩しかんし、椅子に腰を沈める。
 今や全世界の命運が、この双肩そうけんに乗っている。おごりでも自惚れでもなく――事実である。
 それは自身が望んだことではあった。今の状況を作るためにこの二年間周到に準備し、支度を整えてきたのだ。
 だが。
 何ひとつ――上手く行っていない。近頃はそんな焦燥に駆られ、眠れぬ日も少なくない。
 果たして自分は、本当に世界を動かしているのだろうか。
 結局は蓋然がいぜんと偶然が折り重なり、不可抗力的にこの状況が生み出されたに過ぎないのではないか。自分ごときが関与しなくても、似たような状況にはなっていたのかも――しれない。
 ならば自分は、何のために。
「英雄……か」
 今や虚しさすら覚えるその言葉を呟いてから、世界の指揮官となった男は身体を起こす。
 まだ、終わるわけにはいかない。
 たとえ偶然と蓋然だらけの無秩序な舞台だとしても、これは自分が開けた幕なのだ。自分にしか幕を引くことはできない。
 蒔いた種は着実に萌芽ほうがし、花開き実を結ぼうとしている。案ずることはない。上手く行っている。
 そう固く信じ、思い込んで。
 英雄の宿命を負い続けた男は松葉杖を取って立ち上がり、静かに自室を後にした。